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先日、頂妙寺・大光寺・信行寺という仁王門通に面したお寺の紅葉(黄葉)をご紹介した。併せて冒頭の新洞学区の寺院案内図も掲載しています。遅ればせながら、今春(2021.3.24)に探訪していたお寺で記事にまとめていなかったものをここでご紹介したいと思います。まずは、頂妙寺と大光寺の間に位置する2つのお寺です。 最初の頂妙寺からだと東に三筋目「新間之町通」から少し先に「霊照山清光寺」があります。浄土宗のお寺です。(資料1) 山門の屋根の鬼瓦 降棟の鬼瓦 口は阿形、吽形の対に。 この清光寺は、山門を入るとすぐ正面に本堂があり、正面は格子の障子戸で、左右に花頭窓が設けてあります。屋根は、私にとってはあまり見かけたことのない二段構えになった興味深い形です。 左の鬼瓦の右縁には、寄進者の住所氏名が彫ってあり、私には「長兵衛」という名を何とか判読できる程度です。 右の鬼瓦は、鬼ではなく龍が彫り込まれていて、左縁には「元文元年丙辰十一月」と読めそうな日付が刻されています。元文元年は江戸時代で1736年です。多分右縁には寄進者名が彫られていることでしょう。 こちらも同様に寄進者名が見えます。 花頭窓の手前に宝篋印塔が建立されていて、塔身には「萬霊供養塔」と刻されています。衝立の左に安置されているのは賓頭盧(びんずる)尊者像だと思います。このお寺、冒頭の案内図では29番の位置です。案内図と地図をみると、本堂の背後に寺地があり南北に奥行の深いお寺のようです。 更に東に歩むと、仁王門通の南側に同様に定規筋の入った築地塀のお寺が見えます。手前に「碁道名人 第一世本因坊算砂𦾔跡」の石標が立っています。山門の右柱に「顕本法華宗本山 寂光寺」の寺号札が掲げてあり、左の柱には「碁道 本因坊 元祖之道場」と記された木札が掛けてあります。 山門屋根の棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦 山門の蟇股には獅子が丸彫りされています。 蟇股の背面を見ると、まったく異なる植物文様が彫刻されています。 梁の上の板蟇股はシンプルな彫刻が施されてえいます。この位置でよく見かけるのは飾り彫刻が一切無い分厚い板蟇股ですが。 本堂は西に向いています。山門を入ると、参道は南北方向ですので、直角に左折することになります。 本堂の正面に「寂光寺」と緑字で記された扁額が掲げてあります。 参道の角に立つ駒札 こちらは通りに面した石標と門柱の寺号札の間に建てられている案内駒札です。 本堂の右側の高欄傍の駒札に、「寂光寺だより」のページが掲示されていました。算砂上人の肖像画が特集の一環として載っています。文字が小さくて見づらいでしょうが、ご紹介しておきたいと思います。上掲の諸資料と手許の本とを併せ総合して以下ご紹介します。寂光寺は「妙見山」と号し、顕本法華宗の寺院で、京都日蓮聖人門下十六本山の一つ。顕本法華宗の総本山は、洛北に位置する妙満寺です。天正6年(1578)に室町出水(京都御所の西、上京区)にて日淵上人により創建され、当初は「空中山久遠院」と号したそうです。日淵上人は総本山妙満寺第二十六世です。その後、寺町二条(中京区)に移ります。この移転は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が聚楽第を建てるために町割を行い、半町ごとに南北に道路を付け、町中の寺々を「寺の内」と「京極」付近に集めました。この影響を受けたことが原因だそうです。(資料2)現在の寺町二条から少し北、寺町通の西側に「久遠院前町」という町名が残っていますこの頃には、東西59間、南北37間という広い敷地で、その境内には本因坊を含め7塔頭が建っていたそうです。(資料2)天正の頃、日淵上人の法弟で、二世となる日海が寺内塔頭「本因坊」に住んでいて囲碁に優れた僧だったとか。本因坊算砂と号しました。日海は囲碁の基技を仙也に学び敵手がいなかったと言います。算砂は信長・秀吉・家康に碁を教え、信長からは「名人」の名を贈られました。「秀吉からは四石を賜り、棋士の俸禄制に先例を残した。また家康からは幕府の碁所に補せられ、将軍家の指南や全国棋士の昇進査定を行なった。毎年3月頃には、旗本格の行列をつらねて江戸に上り、江戸城に於いてお城碁を行ない、金銀を賜って帰洛したという。」(資料3)「本因坊の名称は、碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することになった」(駒札)そうです。「算砂の没後、本因坊は碁道の家元の姓となり、その門弟によって代々襲名された。二代目以降は住職ではなかったが、算砂の遺徳を偲び、得度し袈裟を纏って碁を打ったという」(資料3)とのこと。「二世算悦、三世道悦を経て四世道策の時、本因坊は当寺から江戸に移った」(駒札)とか。「昭和14年(1939)二十一世秀哉に至り、かかる世襲制を廃し、日本棋院に於ける試合に勝った実力者が本因坊を襲名することにあらためた」(資料3)そうです。二世日海(本因坊一世)は元和9年(1623)5月、64歳で没します。「それよりのちは、天性囲碁に通ずるものが、当寺の住職となった」(資料3)とか。徳川五代将軍綱吉の時代、宝永5年(1708)3月8日に、油小路姉小路下ルの民家より出火したことで「宝永の大火」が発生しました。寂光寺もこの大火で焼失。そしてこの宝永5年(1708)寂光寺は現在地に移りました。第七世住職・日證上人の時代です。本堂・客殿・庫裡・鐘楼堂・山門などが再建されました。現在の本堂は安永5年(1776)建立の建物。上掲の山門は享保6年(1721)のものとか。 降棟の鬼瓦 向拝の蟇股 向拝の頭貫両端の木鼻 本堂前の右側に、「仏足石」があります。傍に「仏足石の由来」説明が掲示されています。「釈尊ご入滅後、仏陀礼拝の形式として、人々はその御足に対して接足作礼を行い、哀心慕情の誠を示しました。 <ご参詣の皆さま、お釈迦さまの御足に対して、合掌礼拝をいたしましょう.>」(説明文転記) 本堂の北西側に鐘楼堂があります。 鐘楼堂屋根の棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦とその右手前に飾り瓦 山門から真っ直ぐに南に向かうと、「本因坊歴代墓所」と大きな木札を掛けた門扉があります。境内墓地への入口です。引き戸が閉められていましたので、墓所を拝見していません。本因坊算砂をはじめ、二世算悦・三世道悦・四世道策・五世道知の墓がここにあるそうです。(資料3) また、山門を入って東側で、近くにこの石碑が建立されています。「第一世本因坊報恩塔」と刻されています。本因坊算砂つまり日海上をの顕彰する報恩碑です。序でに調べて見ますと、本因坊歴代墓所は、東京都豊島区の本妙寺にあります。(資料5) 3月下旬の探訪でした。山門傍で、異なる色の花を咲かせる一本の木を眺めて、寂光寺を辞しました。最後に、余談ですが調べていて得た事項を孫引きでご紹介します。(資料6)第一世本因坊算砂は、 碁なりせば劫(こう)など打ちて生くべきに 死ぬるばかりは手もなかりけり という辞世を残したそうです。また、以下の狂歌を残しているとか。狂歌の形で訓戒を詠んだ感じですね。 1 石立(いしだて)は相手により打(うち)かへよ さて劫(こう)つもりの時の見合(みあわせ) 2 作り物ありとをり入り案ずれば 心にそまぬ手をや打つらん 3 上手(じょうず)とてあまりの気過(けすぎ)恐るなよ 又おそれぬも悪しきなりけり 4 囲碁はただ下手(へた)と打つとも大事なり 少事と思う道のあしさよ 5 わが芸を見かえることは打忘れ 人のくもりをいふぞをかしき 6 身の上のまけになるをばしらずして むかふばかりを見るぞ下手(へた)なり 7 番数を勝(かつ)ほど後をしめてうて すこしも心ゆるしはしすな 8 かりそめも諸道の非難無益なり 手前の義理を詮さくはよし 9 嗜(たしなみ)はかげにて絶(たえ)ずつとむれば 面白き手を見分けうつなり 10 智案先早きは悪ししこまやかに 始末目算手うちだてすな 11 他度法度(はっと)かたくまもらば其外(そのほか)も 堪忍するは道の道なり囲碁の世界の訓戒に、人生での訓戒に通じる示唆が含まれているように感じます。つづく参照資料1) 清光寺 :「浄土宗寺院紹介Navi」(浄土宗)2)「寂光寺だより」第46号 <あの日・あの時 寂光寺のあゆみ>3)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p2174)「寂光寺だより」第33号 乾坤窟<本因坊をたずねて>のページ5) 本因坊歴代墓所(本妙寺) :「東京豊島区の歴史」6) 碁の名手(本因坊算砂)ゆかりの寂光寺(京都)、寺宝の唐桑の碁盤、碁石、碁笥、算砂の囲碁狂歌、とは(2010.8.6) :「歴史散歩とサイエンスの話題」補遺囲碁ブーム再燃を巻き起こした棋士らプロも参拝する聖地[寂光寺] :「からふね屋」本因坊算砂 :ウィキペディア本因坊 :ウィキペディア徳栄山惣持院本妙寺 ホームページ顕本法華宗総本山 妙満寺 ホームページ日本棋院 ホームページ日本棋院 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.11.30
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玄関先の踏み石脇に 小菊たちが群れ咲いて淡いピンク、白、ピンクの群がりできて 通せんぼうするのもちらほらと咲く花切ることできませぬ雨ふりゃしばらく通行注意 群れ咲く花に目をやれば我ら仲間と顔向けあって 中にゃ、ちょっと離れて集まる花も 同行二人あり 孤高の一輪あり花の世も、人の世と相い似たり 白い花、ちょっと声高、我ここに・・・・・そんな雰囲気、感じさせ 次世代、既に控えてる 紅い色、葉のグラデーションがおもしろいハツユキカズラというそうな デュランタの花がわずかに咲き残る夏の日射しを遮って緑のカーテンさまさまの、お役目果たした オーシャンブルー 咲く花数は減ったれど今も健在 今しばし、花色変化をみせながら 目を楽しませてくれているご覧いただきありがとうございます補遺小ギク(小菊) :「みんなの趣味の園芸」★キク(菊)の花の画像 小菊、夏ギクの育て方 :「育て方.jp」日本小菊 混合 :「サカタのタネ」デュランタ :「みんなの趣味の園芸」デュランタ :「ヤサシイエンゲイ」ハツユキカズラ :「みんなの趣味の園芸」ハツユキカズラ(初雪カズラ)の育て方|剪定時期や増やし方は? :「Green Snap」ノアサガオ :「みんなの趣味の園芸」琉球朝顔(オーシャンブルー)の育て方と花言葉 :「HORTI」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.11.27
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頂妙寺を出て仁王門通に戻ると、築地塀の傍にこの「新洞学区寺院案内図 新洞仏教会」の掲示板が設置されています。北から二条通、仁王門通、三条通と大きな通りがあります。左上の大きな寺域が頂妙寺です。本山と8つの塔頭の番号が帰されています。新車屋町通を隔てて東側が新洞小学校です。この辺りには、寺院がこのように密集しています。仁王門通を東に進みます。今回も春(2021.3.24)に撮った写真を併せて載せたいと思います。☆印を追記します。 ☆ 通りの北側にある「大光寺」の山門からチラリと紅葉が見えました。 山門から眺めた境内 常緑樹の間に紅葉した木が一本。それだけで晩秋を感じさせるのもこれまた風情があります。心象としての秋を広げ深める端緒になるからでしょうか。大光寺は「古徳山偏照教院」と号する浄土宗のお寺です。(資料1) ☆ 大光寺の東隣りは「信行寺」です。 ☆ 降棟の鬼瓦 鬼瓦の傍に獅子の飾り瓦 ☆ 山門屋根の棟の鬼瓦 新行寺は、東大路通に面していて、仁王門通との交差点の北西角に位置します。東面するこちらが表門になるのでしょう。門の右側に「開運出世 毘沙門天」の石標が立っています。 表門から境内を眺めると、ここも紅葉している木々がいくつか見られました。春にこの寺の境内を訪れることができましたので、少しご紹介します。(両門とも普段は柵が設けてあると記憶します。) ☆表門を入ったすぐ右側(北側)に唐破風屋根のお堂があります。 ☆「身代(みがわり)毘沙門天」の扁額が掲げてあります。毘沙門天堂です。毘沙門天は梵語の音写で、四天王の内の多聞天のことであり、独尊として祀られて毘沙門天信仰が広がっています。 ☆正面の拝所の唐破風屋根には獅子口が使われていて、丸軒瓦の正面と同一の藤文様の内側に信行寺の文字が陽刻されています。 ☆お堂の切妻屋根の棟の正面に鬼瓦が見えます。 ☆石敷参道の先に本堂が見えます。境内のあちこちに大きな岩が配されています。 本堂の正面には、「信行寺」と記された扁額が掲げてあります。「道源山」と号する浄土宗のお寺です。洛陽四十八願巡りの一寺院でもあるそうです。当初は摂津国西宮にあり、天正16年(1588)願誉順公の開山により建立された寺だそうです。その後移転を重ねて現在地に。左京区仁王門通新高倉東入北門前町にあります。(資料2,3)本尊は阿弥陀如来です。 ☆本堂の屋根に特徴があります。屋根が二段構えになっています。専門的にはどういう名称か存じませんが、裳階が付いた屋根というのでもなさそう。ご存知の方、ご教示ください。もう一つ、鬼瓦にも特徴があります。 ☆ ☆本堂の屋根の大棟には鬼瓦が見えます。しかし、 ☆ ☆この屋根ではたぶん降棟と称することと思います。後部は鬼の頭部ですが、先端部は鬼ではなくて龍が彫刻されています。 ☆ ☆ これは下側の大きな屋根でも、後部は鬼の頭部、先端部は龍です。 しかし異なる姿が彫刻されています。 これらの鬼瓦を間近に眺められればもっと興味深いと思うのですが・・・・残念。調べていて、この本堂の格子天井に、伊藤若冲最晩年の花卉図が見られるということを知りました。元は若冲と所縁のある伏見・石峰寺の観音堂に描かれていたものだそうです。江戸末期に人の手に渡り、この信行寺に寄進されたと言います。(資料4)特別公開される機会がもしあれば、拝見したいものです。東大路通の交差点を横断し、更に東へ。 仁王門通沿いの北側を琵琶湖疎水が東から西に流れ、ここで北に流路を転じます。東の方向を眺めた景色ですが、紅葉した葉はかなり散ってしまったようで、今年は少し寂しげな景色を眺めることになりました。 とはいえ、紅葉した木々をズームアップして撮ると、それなりに紅葉の印象が少しましになります。全景と部分景の関係っておもしろいですね。朱色の橋は神宮道の慶流橋です。その先には、京都市京セラ美術館と京都市動物園の間の岡崎通で、広道橋が架かっています。 左(北側)に見えるのは「京都国立近代美術館」です。この景色をはずれた左側(西隣り)には、「みやこめっせ(市勧業館)」があります。 北に方向を転じた琵琶湖疏水の景色 疎水に架かるのは二条橋です。その先には冷泉橋があり、冷泉橋を過ぎた少し先で疎水は再び西に流路を転じます。 仁王門通の南側歩道を歩みながら、京都観世会館の少し手前で撮った景色です。やはりかなり落葉した姿が、ちょっとわびしい・・・・。これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 大光寺 :「浄土宗 浄土宗寺院紹介Navi」2) 信行寺 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」3) 信行寺 :「浄土宗 浄土宗寺院紹介Navi」4) 天才絵師 伊藤若冲の”最晩年の傑作”を貸し切りで鑑賞! 2018.2.25:「そうだ 京都、行こう。」補遺仁王門通 :ウィキペディア仁王門通 :「京都岡崎コンシェルジェ」信行寺 花卉天井画 牡丹 :「伊藤若冲」(伊藤若冲の作品の紹介)京都国立近代美術館 ホームページみやこめっせ ホームページ京都市京セラ美術館 ホームページ京都市動物園 ホームページ京都観世会館 公式Webサイト琵琶湖疏水記念館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -1 檀王法林寺、大きな銀杏が見頃 へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -2 川端通の紅葉、頂妙寺(1)銀杏とともに へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -3 頂妙寺(2)境内巡りのつづき へ
2021.11.26
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ここからは晩秋から時を春に溯り、3/24に初めてこの頂妙寺の境内を訪れた時の探訪で境内散策を補い、ご紹介します。冒頭の石塔は基壇に「経塔」と刻されています。塔身の軸部に独特の書体で「南無妙法蓮華経」と刻されています。背後は本堂です。本堂の東南方向に建立されています。本堂の南西方向、前回ご紹介した妙雲院・菊井稲荷社の北方向にこのお堂が位置します。今回の再訪では、シートで覆屋を設け建物の修復工事が行われていました。 「鬼子母神堂」です。この写真はいずれ修復工事前の状態を示すということになります。鬼子母神堂の南側に見えるお堂は、手許の本に所載の境内俯瞰図を参照すると「妙見宮」です。こちらは未訪。(資料1)正面左の柱に「鬼子母尊神祭」の案内が掲示されています。「鬼子母尊神は法華経信者の守護神であるとともに、子供の守護神です」と記されています。 掲示文に載せてあるのがこの姿です。この鬼子母神像がお堂に安置されているのでしょう。 入母屋造り本瓦葺の屋根の棟には鬼瓦が見えます。古風なスタイルの鬼瓦です。 隅棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦同じスタイルの鬼瓦ですが、並べてみると微妙に違う感じ。手作りということでしょう。 鬼子母神堂の北、本堂の西側に、「鐘楼」があります。本堂の背後には書院があり、その西側に庫裡があります。こちらの方には足を向けていません。 本堂前のこの銀杏からは 鐘楼が銀杏越しにこんな感じになります。近くに駐車されていなければ、鐘楼全景を撮りたいところですが、屋根だけを撮りました。(2021.11.21) 鐘楼・切妻屋根の棟の鬼瓦。屋根は葺き替えられたようです。 鬼瓦は古鬼瓦を写したものなのでしょうか・・・・。関心が向きます。 降棟の鬼瓦 梵鐘自体は下帯に唐草文様のレリーフが施されているだけのシンプルなものです。巨大というものではありません。そこで梵鐘を吊す竜頭の箇所が比較的見やすかったので、 こんな風に撮ってみました。 鐘楼の西側、境内の西辺には、塔頭が並んでいます。こちらは「本立院」です。その北側に、善立院、真浄院が連なっています。(資料1,2)本堂の東側を巡ってみました。 手許の本の図での位置関係でみれば、これは本堂の東に位置する「納骨堂」です。納骨堂の北に見える朱塗りの鳥居と瑞垣の場所に進んでみました。 小社には「威徳善神」の扁額が掲げられています。威徳善神堂です。2020年末からこの威徳善神堂の修繕がおこなわれ、「その際に棟札が見つかり、寛政6年(1794)の建立と判明」(資料3)したそうです。 威徳善神堂の西側の垣の傍に、この墓石がぽつんとあります。「有鄰軒輔信」と刻されているのが判読できます。調べてみますと、鷹司輔信という江戸時代前期~中期の公家で茶人。関白鷹司房輔の3男で、号が有鄰軒。晩年には剃髪して、この頂妙寺境内の蓮乗院に住したと言います。(資料4,5)蓮乗院は今はありません。少し離れた西側にこの一画が設けてあります。 一番左の石碑は文字が刻まれているようですが風化が進み判読できません。その右の石仏は如来形の坐像のようです。石仏の後には小さな五輪塔が置かれています。その右には五輪塔を象った板碑が置かれていて地輪の部分に仏がレリーフされています。右端の石碑には蓮華座がレリーフされています。その上に文字が載るのか仏像なのか・・・・・・写真からは識別できません。次の機会にまた眺めてみたいと思います。 威徳善神堂の少し手前、納骨堂に近いところに、2人の名を併記した塚があります。少し調べてみた範囲では不詳。どのような所縁がある2人なのでしょうか・・・・。 その東側にあるのがこの一画。墓所ですが詳細不詳。背後は境内地の東辺で、こちら側にも塔頭があります。すぐ後に見えるのが「善性院」で、その南側に大乗院・法輪院・真如院が連なっています。 墓所の南に生垣で囲まれたもう一つの一画があります。 近づいて拝見すると、「妙蓮」と刻された下に、天文19年6月22日の日付と蓮池平右衛門尉秀明が旧敷地を寄進した旨が記されています。蓮池英明は当寺、扇座と機織座の代表で豪商だった人だとか。今まであまり考えていなかったのですが、俵屋宗達で有名な俵屋は扇の生産を扱う店の屋号です。その名乗りは蓮池あるいは喜多川であり、俵屋一門の元祖が蓮池秀明だそうです。(資料6)この石碑は顕彰碑の位置づけなのでしょうか。頂妙寺は土佐守護代細川勝益から洛中の地を寄進され、日祝上人により創建されたことは前回触れました。その後移転を重ね、大永3年(1523)には高倉中御門(高倉椹木町、御苑内)に移っています。「天文5年(1536)、法華の乱で京都を追われ、同11年に許されて高倉中御門に戻る。天正元年(1573)4月4日、織田信長による上京焼き打ちに遭い、鷹司(下長者町)新町に移る。天正15年(1587)に豊臣秀吉の命で三度、高倉中御門へ移った。かくして寬文13年に川東の現在地に移る」(資料2)という変遷ですので、この石碑に記載の旧敷地とは、たぶん高倉中御門の敷地を指しているのでしょう。妙蓮の石碑と祖師堂との間に、大黒天堂が位置します。前回載せた二天門を南西側から撮った景色には遠景としてこの建物が写ってはいますが建物を単独で撮るのは忘れています。 最後にこの紋について補足します。まとめている時、補遺に掲げた動画を拝見して、獅子口に見える紋は「月星紋(がっせいもん)」と称されることがわかりました。日祝上人は下総国の千葉氏の出身で、この紋が千葉氏の家紋であるとともに、この頂妙寺の寺紋だそうです。この辺りで、探訪の補足を終えて、仁王門通に戻ります。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p218-2222)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p191-1923) 威徳善神堂の修善 寺ブログ :「聞法山頂妙寺」(日蓮宗ポータルサイト)4) 鷹司輔信 :「コトバンク」5) 鷹司輔信 :ウィキペディア6) 動画「頂妙寺と蓮池家、俵屋家」-chapter20- 制作:日本文化芸術の礎補遺日蓮宗 「日本文化芸術の礎」を設立 :「文化時報プレミアム」京都町衆の歴史と文化を歩く video :「日本文化芸術の礎」 このページに頂妙寺についての次の動画を閲覧できます。 「田中日淳猊下のお話し 日蓮宗本山頂妙寺とは」 -chapter17- 「二天門について」 -chapter18- 「頂妙寺の宝物」 -chapter19- 「頂妙寺と蓮池家、俵屋家」-chapter20-細川勝益 :ウィキペディア細川勝益 :「コトバンク」史料にみる扇屋 :「京扇堂」俵屋宗達 :「コトバンク」づしづくし 32 高倉辻子 :「洛中洛外 虫の眼 探訪」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -1 檀王法林寺、大きな銀杏が見頃 へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -2 川端通の紅葉、頂妙寺(1)銀杏とともに へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -4 大光寺、信行寺、岡崎・琵琶湖疏水の紅葉 へ
2021.11.25
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檀王法林寺西門(川端門)脇から出て、川端通の歩道を北に向かいます。午後1時すぎだからか、17日の夕刻に散策路を歩きながら眺めていたときよりも、この辺りの紅葉が少し良くみえました。御池大橋の少し北にある仁王門通に右折します。一筋北は二条通です。 仁王門通に南面した「頂妙寺」の総門から銀杏の大木が目に飛び込んできます。 ☆「聞法山(もんぽうざん)」と号する日蓮宗一致派の本山です。(資料1)仁王門通は岡崎の美術館に行く時のルートとして久しく歩いてきたのですが、頂妙寺境内を訪れたのは今年の3月下旬が初めてでした。そのまとめができていませんでしたので、春に撮った写真も併せて使いながら、ご紹介したいと思います。(2021.3.24に撮った写真には適宜☆マークを付記します。空の色でも見分けがつきますが。) 総門を入ると、左斜め前方に銀杏の木が見えます。手前には妙雲院と菊神稲荷社が並んでいます。 春に訪れた時には、この辺りの桜がきれいでした。春は桜、秋は銀杏の境内です。 妙雲院は頂妙寺の塔頭の一つです。 銀杏を眺め、移動しつつ右方向に目を移すと「二天門(仁王門)」が見えます。 ☆総門から石敷の参道の正面に二天門が見えます。参道の両側に生垣が設けてあります。手許の本ではこの辺りにかつての拝堂址だそうです。(資料1) ☆二天門は、三間一戸、切妻造り、本瓦葺で、中央の一間を通路とし、右に持国天像、左に多聞天像を安置するそうです。 江戸時代に出版された『花洛名勝図会』東山之部三には、「頂妙寺二天門」が手前の拝殿とともに挿画として載っています。また、同書には、「東 持国天 長七尺許 運慶 西 多聞天 安阿弥の両作」と記しています。(資料2)もと和泉国にあったものを日珖が移したと伝えられているそうです。(資料3)往時はこの二天像に対する信仰があつく、老若男女の諸人が参詣し、徒はだしで門を巡るお千度をおこなったと言います、仁王門通という名はこの二天門に由来するようです。(資料1,2) 二天門の正面に掲げられた扁額 ☆屋根の棟と降棟先端の獅子口には、小円と三日月様の陽刻が見えます。軒丸瓦の先端面には「頂」の字が陽刻されています。 二天門の北東側から西を眺めた景色 二天門の西側から本堂をあらためて眺め、本堂に向かいます。 銀杏の大樹を背景に日蓮聖人立像が建立されています。 ☆ ☆ 本堂 文明年間(1469~1487)に下総国千葉郡中山法華経寺から上洛した僧・日祝が明応5年(1496)に洛中の四条柳馬場に頂妙寺を創建しました。細川勝益が日祝上人に帰依し、明応4年にその地にあった自邸を喜捨したことによります。足利将軍も日祝上人に帰依し、大いに庇護したと言います。頂妙寺はその後、各所に移転を繰り返します。そして、江戸初期の寬文13年(1673)に加茂川東のこの地に移ります。天明8年(1788)の天明大火で類焼し堂宇は灰燼に帰します。その後天保8年(1837)に再建が果たされたようです。(資料1,3,4) 本堂正面、向拝の蟇股の丸彫りの彫像がいい。 正面頭貫の木鼻 手挟み本堂の屋根には、棟も降棟も獅子口が使われています。 本堂前から南東方向に見えるお堂 正面に近づくと、「祖師堂」の扁額が掲げてあります。 ☆正面6間、側面5間の入母屋造り、瓦葺の建物です。本堂が獅子口を使っているのに対し、祖師堂では鬼瓦と飾り瓦が使われています。 ☆ ☆ 祖師堂の南に見える土蔵造りの建物は「宝蔵」です。この日は、境内の銀杏を中心に境内を散策して、頂妙寺を出ました。次回は「紅葉」からは外れますが、春に訪れた時に境内を巡った他の箇所を補遺として、ご紹介します。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p218-2222) 花洛名勝図会 東山之部 三 p22 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)3)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p191-1924) 洛東本山 聞法山頂妙寺 :「日蓮宗ポータルサイト」補遺三祖 佛心院日珖上人 其の一 :「聞法山頂妙寺」(日蓮宗ポータルサイト)日蓮宗の本山 京都の本山 :「広済寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -1 檀王法林寺、大きな銀杏が見頃 へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -3 頂妙寺(2)境内巡りのつづき へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -4 大光寺、信行寺、岡崎・琵琶湖疏水の紅葉 へ
2021.11.24
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日曜日(11/22)、岡崎の京都観世会館に行く時、少し早めに出かけました。道すがらの紅葉具合を眺めるためでした。17日にあまり冴えない鴨川沿いの紅葉を眺めてはいたのですが・・・・。三条大橋東詰めから川端通をはさむ北東角に京阪三条北ビルがあります。ここから三条通をほんの少し東に進むと、冒頭の大きな石標の立つ表門(三条門)があります。三条通に南面する建物群は東山区の北端で、その北側は左京区になります。檀王法林寺の表門と参道の途中までは東山区で、その先の境内地は左京区です。寺号標の傍に駒札が建ててありますが、後でご紹介します。三条通はけっこう往来する人々がいましたが、この寺の表門の前を大半の人々は通り過ぎるだけ。三条門から入る人を数名はみかけただけです。 表門は高麗門の形式です。 表門を入り参道を少し北方向に歩むと、西側にこのおもしろい石像が置かれています。ちょっと異質な石造物。一見猫のようで猫でない。なぜって二本の角が立っています。何なのでしょう。後で調べてみますと、この寺には、「日本最古の招き猫伝説」があるそうですが、関係があるのかないのか・・・。(資料1) 三条門を振り返った景色 参道の正面に「楼門」が見えます。右側に「派祖望西楼」と刻した石標が見えます。手許の本には、挿画に「四天王楼門」と記されています。明治21年(1888)に建立されたそうです。三間一戸、入母屋造り、本瓦葺きで、中央の一間が通路になっています。(資料2)正面の軒唐破風の下に山号の扁額が掲げてあります。北側にも軒唐破風です。 石標の東側に銀杏の木が見えます。 楼門から少し下がって東寄りに見上げるとこんな感じです。楼門には両側前後に四天王立像が安置されています。当檀王法林寺のホームページに掲載されている四天王像の写真で像の配置を確認してみました。(資料1) 南から楼門の網状の囲い越しに眺めた右側(南東側)に「増長天」 こちらは向かって左側(南西側)で「持国天」 虹梁や蟇股などが楼門をがっしりと支えています。楼門の北側を眺めてみましょう。 本堂に面した北西側には「多聞天」木札が掲示されているのに気づいたのはここだけでした。残り三躯は意識していませんでした。仏教的世界観で須弥山をめぐる四大州のうち、北俱盧州を守護するのが多聞天とされています。北を守護する多聞天は、単独で毘沙門天としても信仰されています。(資料2)多聞天は梵名ヴァイシュラヴァナの漢訳です。普聞とも訳されるとか。毘沙羅門と音写され、それが訛って毘沙門と称されるようになったとか。(資料3) 北東側には広目天」網目に一箇所ほころびがあり、広目天だけ網目なしで撮れました。「境内楼門内に安置される四天王像は、二十二世譲誉玄亮(じょうよげんりょう)上人が明治21年(1888)の楼門新築に伴い購入したもので、大阪和泉の興善寺旧蔵ものと伝えられている。」(資料1)広目天が平安時代後期の作で、増長天・持国天・多聞天の三躯は鎌倉~南北朝の作だそうです。四天王は各方位を守護する役割を担っています。持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)です。これを方位に配置します。東大寺戒壇院及び東寺立体曼荼羅の四天王は 広目天(西) 多聞天(北) 増長天(南) 持国天(東)という形で配置されています。時計回りに方位の軸を回転させた形になっています。戒壇院・東寺の配置と比較すると、こちらの楼門では、左右を逆転させて、 多聞天(北) 広目天(西) 持国天(東) 増長天(南)南側から眺めると、こういう配置になっています。本堂側から楼門に向かって眺めれば、北側の二躯は 広目天・多聞天 という並び方になります。意図的にこのように配置されているのでしょうか。楼門の配置の方向に回転させると、北側に多聞天と持国天、南側に広目天と増長天の配置になると思っていたのですが。ちょっと不思議・・・・。四天王の配置について課題が残りました。 楼門の北側には、「望西楼」の扁額が掲げてあります。 楼門を通り抜けると、南面する本堂があり、本堂の南東側に大きな「南無阿弥陀仏」と刻された名号碑が立っています。これは、袋中上人が4mを超える料紙に書かれた大名号を、入手できた大石に、昭和11年(1936)に実物大で刻印して建立されたそうです。両側に支持柱が設けられたのは近年のようです。ホームページに掲載の写真には支持柱はありませんので。(資料1) 本堂の正面には、山号「朝陽山(ちょうようざん)」の扁額が掲げてあります。 現在は浄土宗鎮西派で金戒光明寺に属するお寺です。正式には朝陽山栴檀王院無上法林寺と号し、略して「檀王」「だん王」と称するそうです。(資料1,4,5)寺伝によれば、初めは丸太町通鴨川東、現在の聖護院蓮華蔵町にあり、天台宗蓮華蔵院(または華蔵寺)と称したとか。鎌倉時代の文永5年(1268)に亀山院が、望西楼了恵上人道光に勅して現在地に移転し、浄土宗悟真寺と改称されました。応仁の乱及び鴨川の洪水により寺は荒廃し、一時期三条東洞院に移りましたが、再び現在地に戻ります。慶長16年(1611)袋中(たいちゅう)上人により再興され、栴檀王院と号し、現在の名称となったそうです。駒札には「本堂は、元文3年(1738)から寛延3年(1750)頃にかけて再建された」と記されています。手許の両書によれば、宝暦12年(1762)に修復されているようです。その後、天明の大火に罹災することもなく、現在に至るとか。(駒札、資料1,4,5)本尊は阿弥陀如来立像で、恵心僧都作と伝わり、二世團王の時代に本尊として祀られるようになったと言います。併せて本堂の西側に阿弥陀如来坐像(京都指定重要文化財)が祀られていて、こちらは旧蓮華蔵院の遺仏と伝わるそうです。(資料1) 本堂の木鼻 本堂正面の階段の左右に、異なるスタイルの石灯籠が配されています。かつて当寺には、主夜神(しゅやじん)堂があったようです。(資料5)現在そのお堂があるかどうかは調べた範囲では不詳です。左の屋形型の笠の石灯籠の竿の正面に「主夜神寶前」と刻されているのはこの主夜神堂前に建立された石灯籠だったことに由来するのでしょう。また、右の石灯籠の竿の正面にも「主夜神」という文字が判読できます。左側面には「長夜燈」と刻されています。一方で、檀王法林寺には主夜神が祀られていると言います。ホームページには「主夜神信仰の歴史」のページがあり、主夜神は、もとの名を婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)といい、華厳経入法界品に説かれる神様だとか。この主夜神のお使いが黒猫だそうです。「檀王法林寺では、主夜神祭礼そのものが、長い間途絶えていましたが、1998年に約50年ぶりに復活を果たしました。現在では毎年12月の第1土曜日に招福猫・主夜神大祭が行われています。」(資料1) それでは、一旦楼門の前に戻ります。これは東側の銀杏の傍から楼門を眺めた景色です。銀杏の黄葉が見頃でした。銀杏の傍に雲梯や滑り台が置かれています。境内案内図を見ると、東辺に児童館や乳児室が運営されていますので、その関連施設なのでしょう。また本堂の背後(北側)には、保育園もあります。 楼門の南東方向に見える景色です。南端に宝篋印塔が立ち、 その北隣りに「鳥之供養塔」と刻された碑が建立されています。その北隣りの碑は建立記念の銘文だろうと思います。未確認ですが・・・。 さらに北側には、3mほどの大きな石造地蔵菩薩立像が立ち、その傍に石仏群があります。江戸時代に造像された地蔵菩薩で、「昔この像に安産の祈願をする婦人が多かったという」(資料1)。地蔵菩薩の光背に掘られた地蔵菩薩の頭の上の梵字はキリークで阿弥陀如来の種子かと推測します。(資料2) 石仏群を眺めますと、様々な石仏が集合しています。 右奥の阿弥陀仏坐像は、花崗岩製、室町中期の作で、「阿弥陀の両脇に梵字で観音、勢至の両菩薩、上部には阿弥陀をあらわす梵字が刻まれた珍しいもので、背面の銘から徳山盛長なる人物が親族の往生の願いをこめて寄進したことがうかがえる。 」(資料1)とのこと。 かなり風化摩滅している石仏がいくつかあります。左奥の石仏は一見冠あるいは頭巾を被っているようにも見えます。右のような双体仏も複数あります。 一番奥の北端はまだ新しいお地蔵さまです。台座の正面には碑銘が「供養地蔵尊」と刻され、「平成24年4月12日 縄手通交通事故犠牲者 一周忌追善建立」と併記されています。2013年4月の建立です。 本堂前から西を眺めると、こちらにも銀杏の木があります。「大銀杏」の場所に次世代の若木が生長してきているようです。樹齢300年を超える大銀杏は戦前に台風の被害で倒木したそうです。その切り株残っていて、さらにそれを残す補強が施されているようです。 若木が、補強された切り株に寄り添うように枝を伸ばし、葉を茂らせている感じです。 この銀杏の西側傍から、本堂の方向を眺めた景色本堂の西側に保育園への門が見えます。ホームページの境内案内図を参照すると、本堂の西側に観音堂があります。この御堂を見過ごしてしまいました。三条に出る機会はありますので再訪してみたいと思っています。平安時代後期の作で、半丈六の大きな十一面観音菩薩が祀られているそうです。 その西側にあるのがこの「龍神堂」です。 お堂の前に、正面に「加茂川龍神」と刻し、龍神像が彫刻された石造の台が設けられ、供花と香炉の祭壇になっています。ここに安置されていた「加茂川龍神立像」は現在本堂に移されているそうです。(資料1)お堂に向かって右側手前に「加茂川龍神 縁起」の碑が建立されています。「檀王法林寺に祠られる龍神は、加茂川龍神または八大龍王とよばれる神様であり、『一滴の水をもって普く四天下に渡って日照りを抑え、萬頂の水をもって水難を治める自在な神通力を持ち、信心帰依するものに如意宝珠の所願円満を授ける。』という霊験を持ち、晴雨を司る神様として、仏法を守護し、民衆を日照りや水難から守ってくれる大きな役割を古来より担ってきた。 当寺の龍神信仰の歴史は古く、当寺創建以前の大昔、加茂川が大氾濫を起こした際、糺(下鴨神社)の社がこの地に流れ着き、その縁により、この三条の地に加茂大神宮を鎮座させ給い、お祠りしたことに始まる。 また、干ばつや水害が重なったある年、その天変地異を引き起こすのは、諸々の悪事を働いている加茂川東岸に住む大蛇と考え、この悪蛇を成敗し、その霊を祠るお堂を新たに建立したことも龍神信仰の寺伝となっている。 そして、寬文6年(1666年)6月、度重なる加茂川の氾濫を治めるために、霊元天皇の勅令によって現在の龍神尊像が勧請され、正式に加茂川龍神として大銀杏の下にお祠りして以来、多くの信仰を集めるようになった。 加茂川龍神の御霊験益々顕れ、諸々の厄難悉く消滅させ、またこの御威光が遠く末代まで伝わりますことを願い、ここに龍神尊の石碑を建立する。 合掌 2000年6月1日 龍神法要厳修記念 朝陽山 檀王法林寺 第27世 道誉雅文」(碑文転記) 龍神堂の前には東西方向にこの参道が設けてあります。勿論本堂への参道でもあります。西側から撮った景色です。 川端通の歩道に面して、この西門(川端門)があります。この西門が京都市指定有形文化財になっています。西門の南側が駐車場になっていてオープンですので、川端通の歩道からここを通って檀王法林寺境内に入ることもできます。さて、川端通を北上し、仁王門通に右折して岡崎を目指します。つづく参照資料1) 壇王法林寺 ホームページ2)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p204、p338-3393)『仏尊の事典』 関根俊一編 学研 p150-1534)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p219,2225)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 p135補遺四天王 :ウィキペディア四天王 :「コトバンク」東大寺戒壇院の四天王像の配置は? 広目天は多宝塔の北西に安置:「まったりと和風」東大寺戒壇堂四天王 :「はなこの仏像大好きブログ」立体曼荼羅の空間配置と階層構造 :「発想法 -情報処理と問題解決-」四天王寺の四天王の配置は、1300年間変則だった。 :「note」現場に車止め、法要も 京都・祇園暴走事故4年 :「産経ニュース」鳥之供養塔 檀王法林寺 :「asahi net」 ⇒ 追記 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -2 川端通の紅葉、頂妙寺(1)銀杏とともに へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -3 頂妙寺(2)境内巡りのつづき へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -4 大光寺、信行寺、岡崎・琵琶湖疏水の紅葉 へ
2021.11.23
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17日の午後、新京極通にあるジムに7ヵ月余ぶりに足を向けました。その後、歩いたことのない御幸町通を二条通まで上り、二条大橋から鴨川を渡ることにしました。二条大橋もほとんど渡ることのない橋です。冒頭の景色は二条大橋南西詰めで東方向の眺めです。元治元年の京都古地図を見ますと、二条橋の北西詰には川沿いに二条通と一筋北の夷川通までの間に「角クラヤシキ」があり、南西詰の少し西に川原丁通(河原町通)までが「角倉与一」と記されています。角倉家の邸宅があったところです。その南側が一之船入で、一之船入の南側には高瀬川沿いに、河原町通に面する長州、加州等の藩邸が隣り合っていました。(資料1)現在の地図を見ますと、「角クラヤシキ」のところに「ザ・リッツ・カールトン京都」があり、「角倉与一」の邸宅跡は、東から「がんこ高瀬川二条苑・島津製作所創業記念資料館・銀行会館・日本銀行」が連なっています。一之船入は史跡として保存されていて、そこには高瀬舟がもやっています。序でに一之船入付近を今年の3月末に撮った景色をご紹介します。 木屋町通に面して石標が建てられています。 2021.3.29撮影小橋詰に角倉氏邸址の石標があります。北から高瀬川を眺めた景色。この景色の右側(西)が日本銀行の敷地です。 二条大橋南西詰めから鴨川下流側の東岸を眺めた景色(16時頃)です。東岸の並木の紅葉はスッキリしない色合いです。冴えない感じ・・・・。 鴨川の西側の幅の狭い流れは「みそそぎ川」です。 川の途中に分岐が設けてあります。この分岐を見るのは初めてです。右(西)側が一之船入を起点とする高瀬川への取水口になるのでしょう。現在は「がんこ高瀬川」の庭園部分を経由して、一之船入りに繋がっているようです。つまり、かつては、この二条通付近で鴨川に樋が設けられて水流がここにあった角倉家の庭園に流れ入り、高瀬川の一之船入につながっていたということになります。(資料2)このみそそぎ川は、鴨川の一部で、賀茂大橋の下流取水口が起点となる水路です。この起点から鴨川東岸の園路沿いに、府立医科大学・荒神橋・丸太町橋の傍を通過して二条大橋傍に至ります。ここまでの途中は一部暗渠になっているようですが、現地の確認はしていません。(資料3) 鴨川の上流側。東岸の紅葉もくすんでいます。夕方に近くなってきたせいもあるかも・・・・。 下流側、西岸の紅葉もわすか。がんこ高瀬川二条苑の庭園とその背後に銀行会館のビルが見えています。 二条大橋東南詰めから下流を眺めた景色 東岸の散策路を通り、三条に下ります。鴨川と併行して東側を流れる琵琶湖疏水にかかる木の枝を間近で眺めると秋の紅葉らしさを感じます。琵琶湖疏水は第1疎水の鴨川合流点から伏見区堀詰町までは「鴨川運河」とも呼ばれています。(資料4) 鴨川の水鳥をあちこちに眺めつつ散策路を進みます。並木の秋の風情はちょっと乏しい・・・・。御池大橋西詰方向の景色も、紅葉具合はあまり感じられません。 琵琶湖疏水の水門をズームアップで。紅葉がくすんで見えるのは、暮れなずみ行くせいでしょうか。 下ってくる琵琶湖疏水の流れと間近の枝の紅葉で、街中での晩秋を感じることにいたしましょう。嵐山や高雄の紅葉は冴えているのでしょうか・・・・・。余談です。参照資料にこんな記述があります。ご紹介しておきましょう。「鴨川では、江戸時代より川の中に床几をならべて夕涼みをするようになったとされています。大正時代に入り治水工事により中洲が取り除かれ流れが速くなったことから、床几の床が禁止になりましたが、 その後の河川改修などで高水敷に人工水路の「みそそぎ川」が開削され、納涼床は現代のようにみそそぎ川の上に出される高床形式になりました。」(資料3) これは、江戸時代に出版された『都名所図会』に掲載された「四条河原夕涼之図」です。これができなくなって、納涼床に変化したということになるようです。(資料5)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 京都古地図 元治元年(1864) 所蔵地図データベース:「国際日本文化研究センター」2) 高瀬川源流庭苑 高瀬川とみそそぎ川 :「親水紀行 ~水とのふれあい~」3) 鴨川真発見記<37から42> ⇒ 38号参照 :「京都府」4) 鴨川運河 :「日本遺産 琵琶湖疏水」5) 都名所図会 6巻 2巻 12コマめ :「国立国会図書館デジタルコレクション」補遺みそそぎ川 :「AGUA」四条河原夕涼図 :「文化遺産オンライン」琵琶湖疏水のご紹介 :「京都市上下水道局」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.11.19
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藤代小学校の東隣りが「伏見北堀公園」のメイン・ゲートです。レンガ塀に「伏見北堀公園案内図」が設置されています。 正面から案内図を撮りましたが、鏡面反射してうまく撮れません。図を切り出して拡大し追記しました。図の右下(北西隅)の黒丸が現在位置、メイン・ゲートです。冒頭の景色に案内標識が設置されていますが、図の赤色の箇所が「京都市伏見北堀公園地域体育館」です。この建物の区域は、深草大亀谷五郎太町になります。そこから東の区域、つまり「伏見北堀公園」は「桃山町大蔵」です。「伏見城周辺」のご紹介をした折に、「大蔵丸」という郭名でご紹介しました。「長束大蔵大輔正家」に由来します。「伏見城図」(資料1)には、郭の位置に「少輔」とあり、現在の地名との対比の注釈には「大輔」と記しています。昇位したのでしょう。案内図には、「公園の沿革」が次の通りに記されています。「この公園は伏見城築城の当初からの北側の外堀の遺構を利用したもので、一時水道局浄水場の貯水池となっていました。 昔は梅の名所で、浄水場の時代は桜やツツジの花が市民の目を楽しませてきました。 公園は健康運動公園として、昭和63年度から整備を行い、平成5年度に完成しました。」 体育館の南側には、テニスコートとふれあいひろばが設置されています。先に触れておきます。それでは、整備された北堀公園をめぐりながら、北堀遺構を感じていただきましょう。 体育館へのアプローチ通路を進み、少し先で左方向への道に入ります。この辺りが「風致地区」に指定されている旨の掲示板がまず見えます。上記の部分拡大図では、黄色のドットを付けた散策路を東に歩くことになります。 北堀の南北両側(黄色のドット追記)の道が公園化にあたり「武者走り園路」として整備されました。この景色の左側石垣は公園整備によるものです。武者走りとは、「城壁や城のまわりの土手の内側に設けた通路」(資料2)です。堀の土居部分の傾斜地に設けられた通路ということになります。実際の伏見城北堀にこのような武者走りがあったかどうかは不詳です。多分公園化の整備で散策路として設けられたのかもしれません。また、左側(北側)はかなりの高さの斜面になっていて、その上は上板橋通です。 武者走り園路から北堀の底を眺めた景色 堀底には一部に池が設けてあります。堀の深さ感をイメージしてみてください。北堀底はこの後、東から西に歩いてみます。 北側の武者走り園路を東端まで歩み、右折して南側の園路と合流する空間に至ります。南側園路寄りの景色です。中央の木の斜め左奥に京都一周トレイルの道標が設置されています。この道標とその場所は「伏見城周辺」の最後あたりでご紹介しています。 それでは、北堀の底を歩きましょう。左は南側の武者走り園路を東端にでてくるあたりです。これから進むのは右側です。坂道を下って北堀の底を歩き始めるあたりのカーブです。 堀底に「流れ」が造られています。 流れを渡るコンクリートの板橋が掛けてあります。上端左には、堀の南側に整備された堀底内の通路で少し高くなっています。南側の武者走り園路はさらに高い位置になります。 「流れ」の傍に点在する石。伏見城の石垣に使用されていた石材でしょうか・・・・。 「芝生の広場」が広がっています。 手前は「しょうぶ池」です。斜めのコンクリート舗装路から右折すると、北側の武者走り園路に出る階段が設けてあります。舗装路の西側の池の先に四阿(休憩所)が見えます。 休憩所の西側の「ジャブジャブ池」です。 少し西側で、「池」沿いの通路と、少し高い位置で西に向かう通路があり、北側の高い位置の通路を歩きます。池を見下ろす形になります。 前方には、メイン・ゲート、つまり体育館の方向に上って行く幅の広い坂道が見えます。この坂道を上れば、最初に触れた、ふれあい広場やテニス・コートの見える景色になります。 北堀の底側に下り、南側の武者走り園路に向かいます。 南側の武者走り園路の西端、北堀の遺構で言えば南西端から「ふれあいひろば」方向を眺めた景色です。 今度は、北堀南側の武者走り園路を東方向に歩みます。こちらは本丸や諸郭のある城内側になります。 園路の左側に北堀の底を眺めつつ進むことになり、ここから先は、既に「伏見城周辺」の終わりあたりでご紹介した景色になります。 そして、北堀公園の東端部に至ります。前回はここから、南東隅の公園入口から外に出ました。(上掲案内図の南東隅の黒丸の位置)今回は、この景色にみえる北方向への坂道を上ります。 坂道は途中でカーブしています。振り返った通路の景色です。 伏見北堀公園の北東隅の入口です。上掲案内図の北東隅の黒丸の位置になります。公園名を表示する碑の右に京都一周トレイルの道標が設置されています。その右側は上板橋通が東西方向に通っています。左手前の道標には、柱に「深草トレイル」と表示され、上板橋通を西に向かい「京阪電車・近鉄電車 丹波橋駅」まで2000mと表示されています。反対に東へ回り込んで行けば、大岩山展望所まで1500mと記されています。 この入口を出て、上板橋通を東に進みます。 突き当たりがT字路です。突き当たりにこの石標があります。「伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地」と刻されています。「伏見城図」には、ほぼこの位置に「黒田甲斐守」の屋敷名が記されています。その北隣りが「小西摂津守」、南隣りが「中川修理太夫」の屋敷が連なっていたようです。(資料1)右折して南進します。 少し先で道が分岐しています。右の坂道を下るのですが、右側の民家に目を止めましょう。 立派な民家の入口一対の獅子石像が置かれ石段の先に門構えが見えます。南東側から撮りました。 門より北側にこの道標が設置されています。「八科峠 右京みち 左六ぢぞう」と刻されています。俗に「八科(やしな)峠道」「大亀谷街道」と称される南北方向の道で、藤森より山科六地蔵に通じる道です。大亀谷とは、深草山と伏見山(桃山)とが接するところにできた一渓谷で、その名のいわれは諸説あるそうです。(資料3)「伏見城図」を見ると、この街道沿いに大名屋敷が連続して並んでいたようです。「豊臣秀吉が伏見城築城の際、旧道を廃して新たに付けた道といわれ、京都より木幡・宇治をむすぶ近道として利用された」(資料3)とのこと。 道標の左側には、逢坂山の「車石」が置かれています。また、ここの石垣にもその車石が使われています。 さらにその左側には2つの石碑が建てられています。正面から撮っても両石碑に記された文字の半ばは繁茂する植物で見づらくなっています。右側は銘碑で左側は歌碑のようです。ネット掲載情報を検索すると右側の碑の内容がわかりました。感謝です。孫引きします。(資料4) 歌の作者名が冒頭に記され、略歴が刻されています。 浜田陽子 1919年 神戸市出生/ 1936年 植田敏郎に師事作歌/ 1992年 伏見桃山正宗にて永眠 「秋冬記」の歌集5册あり 八科峠から六地蔵を目指して坂道沿いに下りました。これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)2) 武者走り :「コトバンク」3)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p93-944) 道標伏0079 八科峠 歌碑 車石 京都一周トレイユF13 蔵:「アートプラス京めぐり」補遺犬山城天守・武者走り(むしゃばしり):「犬山城を楽しむためのウエブサイト」全国的にも珍しい武者走りが通行可能な府内城 外川淳 :「BEST T!MES」八科峠【道標】 やしなとうげ HU168 :「フィールド・ミュージアム京都」狼神話 八科峠 :「来福@参道」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -1 津知橋筋と栄春寺 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -2 海宝寺(伊達正宗屋敷址)へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -3 伊達街道・上板橋筋・清涼院 へ
2021.11.09
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海宝寺前の南北の通り(伊達街道)を南に進みます。桃山最上町側に地蔵堂があります。格子扉から内部がうまく見えません。お地蔵さまに化粧はなさそうです。 南進すると、上板橋筋(現上板橋通)との交差点です。ここで左折して上板橋通を東に坂道を上っていきます。 目の前に、JR奈良線の踏切が見えます。これは踏切から北方向の景色。現在、奈良線は複線化の工事が進行中です。 通り沿いの南側は「国立研究開発法人 森林研究・監督機構 森林総合研究所関西支局」の広い敷地が、桓武天皇陵の北西側に隣接しています。この森林総合研究所の辺りは現在の地図を確認すると、桃山長岡越中東町とその東隣りの桃山町永井久太郎という地名です。「伏見城図」(資料1)を参照しますと、上記の交差点の南西角に「長岡越中守」と記され、その西隣りは「伊達陸奥守」の屋敷地となっています。南東角は「山内土佐守」、その東隣りが「松平伊豆守」で、松平伊豆守」の屋敷の南隣りが「堀久太郎」の屋敷。この屋敷は丹波橋筋(現丹波橋通)に面しています。松平伊豆守の屋敷の西側には南北の通りを挟んで「永井右近太夫」の屋敷となっています。つまり、桃山長岡越中東町は長岡(細川)越中守忠興、桃山町永井久太郎は永井右近太夫直勝と堀久太郎秀治の名前に由来するそうです。(資料1)坂道をさらに上ると、 「農林水産局近畿農政局 淀川水系土地改良調査管理所」があり、桓武天皇陵墓域がつづきます。 その続きに「京都市立藤代小学校」があります。つまり、天皇陵の北側一帯は、公共機関の敷地・建物が立地しています。 小学校のグラウンドあたりで、道路(上板橋通)の北側はひろい空地が設けられていてその先に、周囲に生垣を巡らせた一画が見えます。 生垣だけで山門はありません。入口手前に「車止」と刻した石標が建てられています。近くに、駒札が建っています。ここは「清涼院」です。 生垣の入口を入ると、丸い小島の趣きの所に「清涼院」と刻した碑が立っています。その北側に本堂が見えます。 右側の石畳を進むと庫裡があります。 庫裡の入口の上部に「清涼菴」と記された扁額が架けられていて、入口の左右の柱には偈を記した木札が掛けてあります。私には判読できないのが残念です。 右側の踏石を辿っていくと、 木の傍に、「福寿かんぜおん」と刻された石標と、「袖形」と称される石灯籠が立っています。このスタイルの石灯籠もあまり見かけたことがありません。手許の本を参照してこの名称を知りました。(資料2) 観音堂の東側面です。福寿観音がこの御堂に祀られていて、大和長谷寺の本尊の模刻と伝えられているそうです。 寄棟造の屋根の棟に「福」の字を陽刻した鬼板が使われています。降棟の先に鬼瓦が見えます。 本堂です。本尊は阿弥陀如来坐像が祀られているそうです。現在は、至心山と号する浄土宗知恩院派の尼寺です。清涼院は福寿庵とも呼ばれるとか。寺伝によれば、徳川家康は、石清水八幡宮の神職志水加賀守宗清の娘・お亀を愛し、伏見城内の御花畑山荘に一宇の草庵を建てて住まわせたのが起こりと伝えているとか。その草庵で一人の男児を生みます。名は五郎太丸。家康の第九子にあたり、長じて徳川義直と改めます。御三家の筆頭62万石、尾張大納言義直です。清涼院は深草大亀谷五郎太町に所在します。五郎太町は徳川義直の幼少年期の名前に由来します。(資料3,4)尚、五郎太丸は大坂城の西の丸で生まれたという説もあります。(資料5)草庵は「その後八幡町の正法寺に払い下げられて”福寿菴”といわれたが、寬文2年(1662)に黄檗宗万福寺の清涼了観の隠居所となり、清涼庵と改称された。そして安永7年(1778)には知恩院派に属する尼寺となり今に至っている」(資料4)清涼院では、五郎太丸像とお亀の方の像を所蔵されているそうです。また、上記の福寿観音はお亀の方が生前ふかく信仰されたものと伝わるとか。(資料3) それでは一旦入口に戻ります。入口からすぐ右折する方向に進みます。 通り過ぎて、南東側から撮った御堂の景色です。 「秋葉山大権現」の扁額が掲げてあります。秋葉権現は、火防の霊験で知られた神です。静岡県浜松市にある秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神だそうです。(資料6) 秋葉権現の祀られた建物を通り過ぎて、突き当たったところに、石仏群が祀ってあります。 かなり風化が進んでいます。どこからここに集まってこられた石仏なのでしょう・・・。 石塔も木々の間に見えます。諸石塔の残闕を集めて五重石塔に組み立てた印象を受けます。五輪塔とその大小の笠、宝篋印塔の一部が五重石塔としてバランス良く建てられた感じ・・・・という印象です。だけど良い感じの層塔になっていますね。 近くにこの案内板が設置されています。保存樹そのものを撮り忘れました。 最後に目に止まったのがこの石碑です。これもまた私には判読できませんでした。こんなところで、清涼院を後にして、いよいよ北堀を再び違う角度から眺めることにしました。つづく参照資料1)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)2)『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社3)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p95-974)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 水野克比古撮影 山川出版社 p1435) 徳川義直 :「コトバンク」6)秋葉権現 :ウィキペディア補遺袖形石灯籠 :「茶道百字辞典」お亀の方 :ウィキペディア相応寺 (名古屋市) :ウィキペディア秋葉山 (静岡県) :ウィキペディア秋葉山本宮 秋葉神社 ホームページ三尺坊 :「コトバンク」徳迎山 正法寺 ホームページサルスベリ :ウィキペディア百日紅 (さるすべり) :「季節の花 300」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -1 津知橋筋と栄春寺 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -2 海宝寺(伊達正宗屋敷址)へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -4 北堀公園(北側の外堀遺構)・八科峠 へ
2021.11.08
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津知橋通は津知橋を東に渡ると坂道となります。これは東の突き当たりの景色です。自動車で乗り入れができる開口部があり、駐車場は北側(左方向)にあるようです。開口部の正面奧は石垣が積まれ、一段高くなり白い築地塀が見えます。 石積みの斜面に、お地蔵さまを安置した祠が組み込まれています。 右折して少し南に歩むと、「海宝寺」の山門があります。石段の右側手前に、駒札が立っています。 山門右側の門柱には、「普茶 大本山 開祖道場」の木札が掲げてあります。福聚山と号する黄檗宗のお寺で、黄檗宗萬福寺開祖・隠元禅師が中国から伝えた精進料理「普茶料理」を供するお寺として知られ、「普茶開祖道場」と呼ばれています。 山門の板蟇股、鬼瓦と獅子を彫刻した飾り瓦 山門を入ると正面方向、境内の中央に西面する「本堂(仏殿)」が見えます。 「海寶禅寺」と刻した扁額が掲げてあります。享保年間(1716~1736)に、萬福寺12代・杲堂禅師により創建され、萬福寺13代・竺庵淨印禅師の隠居所となったそうです。京都伏見に店を開き、当初は大文字屋福助と号した下村彦右衛門正啓は竺庵禅師に帰依し、浄財を投じ伽藍を築いたと言います。(駒札、資料1,2)竺庵禅師が「中国から来日したさい持ち込んだ多くの織物や器物を商わせ、大もうけさせたのが下村彦右衛門」(資料1)だったとか。下村彦右衛門は古着屋から身を起こし、現在の百貨店・大丸の基礎を築いた人です。(駒札、資料1,2) 正面から本堂(仏殿)内を拝見しました。 色鮮やかな幕には、火焔宝珠の両側に黒龍が向かい合う姿で刺繍されています。 本尊は聖観音座像です。 本堂から北西方向に白壁の宝形造の御堂が見えます。 本堂と上記の御堂との間にこの「伊達正宗の伏見屋敷」と題した案内板が設置されています。「この海宝寺境内を含む『桃山町政宗』は独眼竜の異名をとった仙台藩の藩祖・伊達正宗の伏見上屋敷があったところである。 政宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの伏見に屋敷地を与えられ多くの重臣やその妻子などを住まわせた。その数は常時千人以上にも及び、屋敷一帯は『伊達町』とも称されたという。政宗自身は慶長4年(1599)ころまでここに住み、慶長6年に上洛した際にも約1年間を過ごしている。 政宗の伏見屋敷は、この地のほか、上屋敷の南西にほど近い場所と深草の地に下屋敷があり、□□箇所であったとされる。深草の下屋敷付近には現在も、『深草東伊達町』『深草西伊達町』の地名があり、その名残を留めている。 仙台市」(転記、二文字不明。「計三」か)伊達正宗は「この地に屋敷を構え、伏見城濠の樋門の守備役をつとめた関係上、寺の背後には今なお樋の址というのが残っている。またその傍には開山杲堂と竺庵禅師の石塔がある」(資料2)そうです。手許の「伏見城図」(資料3)を見ると、「仙台中納言政宗」の屋敷地に添ってその北側と東側は堀が描かれています。屋敷地の南は上板橋筋に至るまでの広さです。また、現在の地図を見ますと、この海宝寺から南は上板橋通まで、そして東に広がる区域が「桃山町政宗」です。かつて堀があった場所は、全て埋め立てられて住宅地化しています。 木斛(もっこく)の木は伊達正宗遺愛の木とか。(資料1)「区民の誇りの木 モッコク」と記された木札が傍に立っています。 右隣りには「次世代樹 政宗の木斛」が育ってきています。 本堂の北側には奥(東)に導く通路があります。 多分、客殿の玄関でしょう。その背後に方丈があるようです。伊藤若冲が寛政2年(1970)に方丈の襖絵「郡鶏図」を描きました。「この画は若冲が、かつて竺庵禅師に画を描きたいと申し出てことわられ、次代の僧を待って描いたといわれる若冲晩年の作品である。またそれよりのちは画を描かなかったというので、この部屋を『若冲筆投げの間』とも呼ばれる」(資料2)とか。この「群鶏図障壁画」は現在、京都国立博物館所蔵となっています。手許の特別展覧会図録「若冲 没後200年」を確認しますと、この時展示されています。若冲は、方丈に水墨で群鶏図を描きました。「右回りに襖四面、壁貼り付、襖二面、床壁貼付からなっており、床壁貼付の中央部60cmほどが何ゆえあってか喪われているが、ほぼ往時の状態のまま残存したものといえよう」(資料4)と説明されています。一方、同年に若冲は大阪府・西福寺の「仙人掌(さぼてん)群鶏図」を金地着色という濃密さで襖六面、そして水墨で「蓮池図」(旧襖六面、現在は掛幅六幅)を描いています。晩年といえども、若冲は旺盛な制作意欲に溢れていたようです。尚、図録に併載の若冲の略年譜を読みますと、それ以降も群鶏図をいくつか描いていますが、襖絵としての群鶏図は描いていないことがわかります。(資料4) 玄関屋根の鬼瓦 振り返った景色。 境内に井戸が設けてあります。屋敷があった頃からのものでしょうか。そんな想像をしたくなります。左側が本堂の屋根。右側がこの後拝見する御堂です。 ブルーのシートで覆われている箇所を傍で見ると、大きな「魚鼓(魚板)」が吊り下げてあります。「魚鼓は食堂・庫裡の軒先などに吊して、木槌で打ちならして告知に用いた。魚は日夜眼をひらいているので、寝をわすれて努力するいましめとした。」(資料5)という禅宗の法具です。軒先ではなく、独立して設けてありますので、この北側に庫裡が位置するのでしょう。冒頭の景色でいえば、開口部から左(北)に回り込んで行った先にあたります。 魚鼓の西側に建つのがこの御堂です。宝形造の屋根に漆喰壁の土蔵造りのようです。正面に唐破風の屋根があり、両側に同様に宝形造の小屋根の覆屋が付いています。 扉の上にこの扁額が掲げてあります。残念ながら私には判読できません。 宝形造の屋根の鬼瓦。 唐破風屋根の正面の鬼板。中央の開花した花の立体的な彫刻が印象的です。軒丸瓦には「丸に並びの鷹の羽」の家紋がレリーフされています。寺紋? 不詳です。この紋は武人に好まれ、「浅野家や肥後の菊池一族の紋であったことでも有名」(資料6)なようですが・・・・。 御堂の西側に設けられた小祠。素朴ですが頭貫の上に龍が彫刻されています。 その西隣りには、拝所が設けられた稲荷社があり、 覆屋のあるもう一つの小祠も祀られています。何を祀るのか詳細は不詳です。自由に拝観できる範囲を巡ってみました。 それでは、伏見城周辺めぐりを続けましょう。 海宝寺の前は、南方向への道路が真っ直ぐにのびています。この道は「伊達街道」と称されたそうです。(資料1)海宝寺から道路を挟んだ西側は上板橋通(上板橋筋)まで桃山最上町の区域です。つづく参照資料1)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 水野克比古撮影 山川出版社 p142-1432)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p97-983)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)4) 文化財保護法50年記念事業『特別展覧会 没後200年 若冲』 京都国立博物館 2000年5)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p3786) 【家紋名】 丸に並び鷹の羽 :「家紋ドットネット」補遺海宝寺 :ウィキペディア竺庵浄印 :「コトバンク」西湖図 山本若麟筆、竺庵浄印題 :「文化遺産オンライン」普茶料理について :「萬福寺」海宝寺 :「一休.com」下村彦右衛門 :「コトバンク」下村彦右衛門 :「企業家ミュージアム」大丸の歴史 :「大丸松坂屋百貨店」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -1 津知橋筋と栄春寺 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -3 伊達街道・上板橋筋・清涼院 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -4 北堀公園(北側の外堀遺構)・八科峠 へ
2021.11.07
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11月3日、伏見に所用があり出かけた序でに、伏見城址周辺の続きとして北辺部を歩いてみました。伏見城の外堀の北辺にあたる位置に近いのは、京阪電車墨染駅または近鉄京都線伏見駅です。手許の「豊公伏見城ノ圖」(以下、伏見城図と略す)によれば、伏見城外堀の北辺部で堀の内側に添う道路の南に「津知橋筋」があり、外堀に「津知橋」が架けてあります。現在の伏見区の地図では「津知橋通」と表記されています。(資料1)「津知橋」を西詰から撮った景色です。この辺りでは近鉄京都線が高架として斜めに横切っています。この橋を東に渡れば伏見城の城郭内に踏み入ったことになります。当時は武家屋敷の間に一部町家の地域が並存していたようです。 津知橋西詰からの眺め、左は北東寄り、右は南西寄りの方向の流れになっています。この川がかつての外堀に相当します。北側は近鉄京都線架橋の先で東方向に川筋(堀)が曲折します。現在は、京阪電車墨染駅の南、桃山町丹下で琵琶湖疏水伏見運河と繋がっています。ここにかつては琵琶湖疏水伏見インクラインがあったそうです。関西電力墨染発電所が稼働しています。かつての外堀は疎水の延長線としての川になり、「濠川」と称されています。マピオンの地図をこちらからご覧ください。 伏見城下を南北に通る両替町通、京町通を横断し、東に延びる坂道を上って行きます。 津知橋通の南側の民家敷地内に、東向きに地蔵堂が祀ってあります。 さらに東進すると、京阪電車本線の踏切傍の民家敷地にも小祠が南向きに祀ってあります。カーポートの先が玄関です。その手前にあるので、ちょっ失礼して正面から拝見すると、 地蔵堂ではなくて稲荷社でした。こういう形で稲荷社を見るのは初めてです。 踏切を横断し更に進むと、国道24号線との交差点です。桃山最上町の交差点。国道の左側の少し下がる道路沿いにカーブして北に向かえば、直違橋通・本町通と名前が変わって行く、旧伏見街道になります。国道を横断して、津知橋通を東進する前に、国道の東側を少し北に入ります。 石標の南面に「栄春寺」と刻されています。道路に面した西面には「長沼澹斎先生墓所 従是東三丁 栄春寺墓地」とあります。 石標傍に立つ駒札手許で常用する数冊の京都案内書にはこの寺についての記載がありません。この駒札とネットで得られた情報から要点を箇条書きにします。(駒札、資料2)*栄春寺は、泰澄山と号し、永禄11年(1568)に傳養和尚が開創された。*道元禅師が越後に赴かれた後、320年後に京・伏見に建てられた最初の曹洞宗寺院*現本堂は天保10年(1839)の改築、*本尊は釈迦如来坐像、脇侍 文珠・普賢坐禅坐像。三尊とも泰澄大師の作 徳川家康家臣・酒井重勝が本尊と脇侍を寄進*元禄時代には赤穂藩との繋がりがあり、忠臣蔵関係寺院 浅野内匠頭長矩四十七士、並びに吉良方の供養位牌をまつる栄春寺の所在地は桃山町丹下です。伏見城図をみますと、このあたりに本多丹下成重の屋敷があったそうです。(資料1)丹下はここに由来するのでしょう。 石畳の参道の先に二本の竹で入口を封じた「総門」があります。駒札には、この門を伏見城の遺構と記してあります。総門の手前、左(北)側の築地塀にオープンな出入口があります。そこで、境内を拝見することにしました。境内に入ると、砂利敷きの広場になっていて、北方向にお堂が見えます。 東方向に門があります。 門を入ると参道の傍に置かれた手水鉢 本堂 本堂の鬼瓦 本堂の左斜め手前に小祠があり、石造の薬師如来坐像が祀ってあります。一旦、参道を引き返し、広場に戻ります。 広場の西側に、待合所のような休憩所が寄贈されています。 これが「観音堂」のようです。文化11年(1814)の建立で、西国三十三所観音と聖観音が祀られています。また、この観音堂の天井には、1600年(慶長5年)に東軍・徳川家の家臣・鳥居元忠らが西軍・石田三成に破れ、自刃した伏見城の遺構が使われていて、血天井と言われています。余談ですが、東山七条にある養源院にも、血天井として遺構が残されているそうです。(資料2,3) 観音堂屋根の鬼瓦観音堂の西側を北に向かいます。 「慈母観音立像」が建立されています。その手前に石標が建てられています。「昭和46年2月管長岩本勝俊禅師に随行して印度の釈尊佛跡巡拝の折、誕生の地ルンビニ、成道の地ブダガヤ、初転法輪の地サルナート、入滅の地クシナガラの四大佛跡の石を頂き、釈尊の分骨として、ここに納めた観音様である。お釈迦様の大きなお慈悲のもとに安らかに眠るように水子の霊を祭り且檀信徒の納骨所と定める。 入竺沙門 当山十七世守塔 竺雲昭延 謹書」(転記) その北側には、無縁仏を集めたと思われる一画があり、境内墓地への階段があります。この階段のある高まりが、「伏見城城下町の惣構えの唯一原形をとどめる土塁の遺跡」の端にあたる感じです。階段を上ると、東の方向に墓地が広がっています。駒札によれば、「中央に江戸時代の代表的兵学者、長沼澹斎の墓と文化3年(1806)会津藩主建立の碑誌がある」と言いますが、今回は墓地の入口から墓地全景を眺めるだけにとどめました。 階段を上がったすぐ近くに石塔と南面する大きな墓碑が見えます。私には判読不可。詳細不詳です。 そのすぐ近くに、もう1基、西面する形で同規模の墓碑があります。こちらは家名を記した先祖累代墓でした、墓域前の石灯籠の形に関心を抱いた次第です。この辺りで、栄春寺を辞し、 津知橋通を更に東に上っていきます。通りの突き当たりに「海宝寺」があります。突き当たりまでの通りの両側は桃山最上町です。 地蔵堂が一箇所目に止まりました。ここのお地蔵さまには化粧がみられませんでした。伏見城図を見ますと、このあたり比較的小さな屋敷の地割りと町家が記入されています。その中で一番大きな屋敷が最上駿河守義光です。最上はここに由来するようです。つづく参照資料1) 「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)2) 泰春山栄春寺 ホームページ3) 栄春寺 ;「京都 kyoto」補遺豊臣秀吉が築いた「伏見城」と伏見の街 :「三井住友トラスト不動産」伏見城と城下町 :「月桂冠」長沼澹斎 :ウィキペディア長沼宗敬 :「コトバンク」兵要録. 巻之1-22 / 長沼宗敬 著 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -2 海宝寺(伊達正宗屋敷址)へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -3 伊達街道・上板橋筋・清涼院 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -4 北堀公園(北側の外堀遺構)・八科峠 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -1 川傍の道標・お地蔵さま・大善寺(六地蔵)・御陵へ 5回のシリーズでご紹介しています。
2021.11.06
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最初に慶沢園マップ(追記版)で場所をご紹介します。左下に慶沢園の入口があり、茶室「長生庵(ちょうせいあん)」は池の北側、北端にある出口に近い、東側で少し小高くなった場所にあります。以前に慶沢園を訪れたときには、垣根越しに眺めただけでした。この長生庵は別途料金にて茶室や句会に利用できるそうです。再び訪れた日は、たまたまですが建物内を展示会場にした企画で使用されていたようです。お陰で建物近くを巡り外観を撮る事ができました。ラッキーでした。 長生庵へのゆるやかな坂道を上ります。 道なりに進むと、「お茶室 長生庵」と記した駒札が立っています。 そして、垣根の門が開いていましたので、意識せずに門をくぐりました。 建物の玄関口。玄関の間には屏風が立ててあり、関係者の人の姿が見えました。特に声をかけられることもなかったので、玄関口を拝見して建物の外周を拝見することに・・・。 玄関に向かい左斜め前から撮った全景です。 建物の左方向に回り込むと、茶室の躙口のある側面が見えました。 玄関口を眺めた建物の側面です。こちらが母屋になるのでしょう。茶室「長生庵」は武者小路千家様式の茶室だそうです。母屋の障子が開放されていますので、室内を縁側から拝見。 八畳間の広さのようです。炉が切られていますので、書院式茶室として使われるのでしょう。 この時は、様々な作品展示の企画で使用されているのだと推測しました。 草庵式茶室の方に近づいていきましょう。 茶室の床の間にはオブジェ風の作品が展示されていました。茶室を左側に回り込み、向こう側まで歩みます。 戸が開けてあったので、茶道口側から茶室内を眺めることができました。 茶室近くの露地には、「濡鷺形(ぬれさぎがた)」の一種と思える石灯籠が置かれています。(資料1)茶室の建物周辺と室内の一部を露地から拝見し、咎められることなく茶室傍から立ち去ることができました。 北門(出口)を出てから振り返って撮った景色。旧藤田家正門がこちらに移築されたそうです。 北門は白い築地塀が周囲を囲み。美術館側敷地の北側の境界の築地塀と一帯になっています。 北門の外、北側も公園風の緑地があり、その外側の境界がこの築地塀です。こちらはあくまで出口側ですので、入園はできません。 北東方向の景色外に出ると、一段高いところに居ることがわかります。前方眼下には「河底池」があり、朱塗りの橋「和気橋」が見えます。平安時代に、和気清麻呂(わけのきよまろ 733-799 )が大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地を横断する開削工事として堀川を掘ったのですが失敗したとか。その名残りがこの池だと言います。諸説あるとも・・・・。(資料2,3)地図を確認しますと、朱塗りの橋の先、彼岸の北東方向には「堀越神社」があり、朱塗りの橋の此岸の近くに「統国寺」があります。 目の前にあるのが茶臼山古墳です。 美術館の前に戻って来ました。慶沢園を散策する形で、美術館の周囲を反時計回りに歩いてきたことになります。 美術館の正面を通り、天王寺の駅にもどります。このとき、作家・林芙美子のモニュメントに気づきました。「めし」という作品に出てくる通天閣についての一節が刻されています。冒頭の文の書き出しが過去形になっている訳は、以前にご紹介した記事でふれています。 慶沢園の南側の築地塀沿いの道路を歩いて天王寺駅に向かいます。白い築地塀に知ってほぼ真っ直ぐな道路を歩く途中で、立ち止まり、歩いてきた道を撮り(左)、これから歩む先を眺めて撮ってみました(右)。あらためて敷地の広さを実感しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*入園時にいただいたリーフレット*『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社1)『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社 p122) 河底池 :「Deep Experience」3) 茶臼山古墳 :ウィキペディア補遺長生庵(茶室) :「大阪市」濡鷺型灯籠濡鷺型灯籠 :「広島ぶらり散歩」天王寺公園 河底池と水生花園 :「レトロな建物を訪ねて」堀越神社 ホームページ統国寺 ホームページ林 芙美子 :ウィキペディア通天閣 公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -1 へスポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -2 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 大阪・天王寺公園内 慶沢園 睡蓮の咲いている時季に訪れたまとめです。
2021.11.04
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飛石を伝い小島に移って、東岸を眺めます。 東岸に、小石が敷かれた州浜が見えて、その先に大きな石が見えます。州浜は、「本来は、土砂の堆積により出入りの多い海岸線の持つ浜辺を指すが、庭園では池の水辺にゆるい勾配をつけて小石を敷き詰めた護岸手法をいい、これは庭の景観の重要な構成要素ともなる。」(資料1)州浜の手法は、奈良時代の平城京の発掘で発見された庭園で使われてることが確認されています。類似の手法は、中国・唐時代の庭園遺構でも発掘されているそうです。しかし、その手法が発展した形跡はみられないらしく、「州浜の定着・発展は日本独自のものとみなすことができる」(資料1)そうです。 ズームアップしてみますと、「龍頭石」です。 州浜の南端に石灯籠が置かれています。雪見灯籠です。 小島と岸に架かる切石橋 岸に降り立ち、四阿から右方向に目を転じていきます。 橋のそばから石段を上りと園路は石敷です。切石橋を振り返った景色です。ゆるやかな石敷道を上りきり、 四阿側を眺めた景色。石敷道は小島へ導き、真っ直ぐに進めば四阿に導く園路です。 東岸の方へ園路を歩みます。 マップで位置関係をイメージしてください。 龍尾石がどこかが解りづらいのですが、岸辺のこの岩辺りがそれかも・・・・。 園路は石段道で少し上りになります。西岸の広場の西に現在は大阪市立美術館が建っています。住友家があった頃は、本邸がその辺りに位置したそうです。つまり、西岸からみれば、ほぼ反対側の東岸に築山が位置したことになり。石段の園路である理由が頷けます。 池側を眺めると、樹木の間に、龍頭石が垣間見えます。慶沢園マップよれば、この東岸は躑躅(つつじ)が咲くエリアのようです。 木々の間から中島を眺めると、島に石灯籠が見えます。 少し歩み位置を変えて眺めると、石燈籠の姿が一層分かりやすくなります。石灯籠は池中の礎石と中島の地面を跨ぐような形で立っています。「琴柱形(ことじがた)」の石灯籠です。(資料1) 「舟形石」が岸辺に見えます。 園路は、一部、飛石の道になります。右奥を眺めると、樹木が繁茂し薄暗くてみづらいですが、滝が設えてあります。池に水が流れ入る淵源となる滝です。滝は池の北東側にあります。 北東側の岸から、中島と西岸を眺めた景色 美術館の建物が西岸の広場の先に見えます。 北岸に設けられた休憩所 北岸から眺めた龍頭石と州浜 舟形石が見える 滝近くの飛石の園路 池中の石と薄 円を刳り抜いた石が立っています。蝋燭を立てて燈籠代わりに使われるのでしょうか。 池辺が小さな入江状になった箇所に橋が架かっています。池の岸辺に変化を生み出しています。 この辺りには花菖蒲が咲くそうです。 中島の先にアベノハルカスの高層ビルが見え、池面にその姿を映じています。 園路を進み振り返った景色中央奧の樹木の枝の下、生垣との間に、上掲の円を刳り抜いた石が見えます。 池の北西隅はゴツゴツとした岩山風の景色が造られています。 西岸の北端側から眺めると、池はほとんど写らず広場の先の樹林の中に四阿があり、背後には間近にアベノハルカスが迫っている感じの景色が現出します。西岸の州浜の傍まで行かなかったのが少し心残りです。この後、北にある茶室を経由して出口(北門)に進みます。つづく参照資料*入園時にいただいたリーフレット1)『岩波 日本庭園辞典』 小野健吉著 岩波書店2)『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社 p14-15補遺雪見灯籠 :「コトバンク」雪見灯篭のサイズの違い2.0尺2.5尺を比較 :「杉田石材店」琴柱灯篭(国産) :「株式会社杉田石材店」兼六園の徽軫灯籠(ことじとうろう)の由来は?実は何度も倒されている!? :「おくりびより。」脚付型石燈籠 :「京都の庭園資材」(京都府造園協同組合)石灯籠類 :「京都の庭園資材」(京都府造園協同組合) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -1 へスポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -3 へ
2021.11.03
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庭園入口 2018.6.1に慶沢園をご紹介しています。異なる時季の慶沢園を再訪し、あらためてその景観を楽しんでみました。 この慶沢園入口手前、右側に受付所があります。入園チケット代わりにいただいたのがこのリーフレットです。これを参照しつつ、ご紹介します。 入口手前の左側にこの案内板が設けてあります。ここはもと住友家茶臼山本邸内の庭園です。住友家第15代吉左衛門により、この慶沢園が造営されました。木津聿斉(きづいっさい)が設計し、第7代小川治兵衛(植治)が施工したそうです。植治は平安神宮神苑、円山公園などの庭園を手掛けている有名な庭師です。明治41年に着工し、大正7年(1918)に完成しました。ところが、大正10年に住友家が転宅することになったそうです。その後、昭和元年(1925)に、住友家がこの慶沢園を含む茶臼山一帯の土地を大阪市に寄付されたと言います。慶沢園の名の由来は、案内文の末尾に記されています。 庭園に入り、入口の門を眺めた景色 入口から少し北側にこの庭園マップが掲示されています。「現在地」のところです。そのマップに、上掲リーフレットに掲載のマップを参照し各箇所の名称を追記しました。この庭園は大名庭園風の林泉回遊式庭園で、白い石の州浜が東西の両岸辺に設けられています。池泉回遊式庭園という用語があります。池泉は「庭園の池」のこと。「大規模な池庭を中心に、露地・枯山水の様式を総合した江戸時代の庭園様式」が回遊式庭園と称され、池泉回遊式庭園とも呼ばれます。「広い敷地に大きな池を中心として、築山・平場などをしつらえ、御殿や茶室・四阿などの建物を随所に配する構成を持つ。それらの建物を結ぶ園路は、飛石や階段を交えながら池岸や築山をめぐる。」という庭園です。(資料1)一方、林泉は「中国に起源を持つ池庭の雅称」で飛鳥時代には既にこの言葉が用いられていたそうです。「江戸時代には庭園の雅語として比較的よく用いられ、『都林泉名勝図会』(1799年)の所載庭園からもうかがえるように、池庭に限らず枯山水をも含む庭園一般を指す語として用いられた。」(資料1)と言います。つまり、池泉回遊式庭園と林泉回遊式庭園は意味合いは同じということになりますね。 入口の近くから北方向を眺めると、砂利敷の広々とした広場が広がっています。池の周りの園路を反時計回りに散策していきます。 まず目に止まるのが、この長い「切石橋」です。切石は「整形に加工された石材の総称。・・・・形状としては直方体の角石と板状の板石との分類できる。」(資料1)つまり平面が長方形の板石を使っている石橋です。画像上端の中央に小さく見えるのが、庭園の出口(北門)です。これは旧藤田家の正門を、慶沢園が再整備されて1958年4月に再開されるにあたりここに移築したとか。(資料2) 切石橋西側の池部分 切石橋近くから東側に広がる池を眺めた景色色 池の南辺沿いの園路を進みます。 四阿(あずまや)の手前の景色。左に四阿(休憩所)が見えて来ます。 「あずまや」は、「庭園内で、小休憩を兼ねて眺望や談話、時には飲食などを楽しむための小建築物」(資料1)です。ここでは四阿と記されています。東屋と書いて「あずまや」と読みます。「『四阿』(『阿』は、ひさし、のき、の意)は本来、四方に屋根を葺き下ろした建物一般をさし、日本での用例は、『続日本紀』天平14年(742)正月1日条までさかのぼる。」(資料1)そうです。「東屋(あずまや)」は、「東国(関東地方など)の田舎屋の意味で発生したと考えられる語である」(資料1)とか。「庭園内の『あずまや』に『四阿』の文字をあてるようになったのは、四方葺き下ろし屋根のものが多くを占めることによるものであろう」(資料1)とのことです。 四阿の正面に立つと、右手前に蹲踞(つくばい)が設けてあります。 石臼が利用されています。 リーフレットから切り出してみました。四阿に入って、ガラス窓越しに北方向に広がる景色を撮った全景です。当日、先客が中央窓際に座っていたので、写真が撮れませんでした。その代用です。天井は矢羽根の網代、土間は那智黒が敷き詰められています。 西寄りの窓辺から北西寄りの池面の眺め。大きな鯉がたくさん遊泳しています。水面には睡蓮が。窓辺から北方向には、池の中央に中島が見えます。訪れた時は中島に脚立を置き、数名の庭師さんたちが黒松などの剪定作業を行われていました。作業中の景色になるので、写真は撮りませんでした。 東寄りの窓から、中島の東辺部を含む北方向の景色です。 東寄りの窓辺から北東寄りに眺めた景色 東側の窓から東南側を眺めると、園路から四阿の東側にある小島に渡る飛石が設けてあります。 小島の一部四阿を出ます。 四阿前から東への園路 四阿の先に、大阪市立美術館のベージュ色の建物が見えます。 四阿の東側面です。四阿は池中に張り出して建てられていることがわかります。池中に置かれた大きな礎石の上に柱が立っています。 飛石を踏み渡り、小島に入ってみます。その途中、東方向に小島と園路を繋ぐ切石橋が見えます。 小島の切石橋を撮った景色です。 園路に戻ります。つづく参照資料*入園の折にいただいた案内リーフレット1) 『岩波 日本庭園辞典』 小野健吉著 岩波書店2) 慶沢園 :「Tenyu Sunjo.jp」補遺慶沢園・茶臼山 :「大阪市」慶沢園 :「大阪市」数寄者・住友春翠と茶 ― 住友コレクションの茶道具と香道具 ― :「泉屋博古館東京」藤田邸跡公園 :ウィキペディア旧藤田邸庭園 :「大阪市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -2 へスポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -3 へ以前にご紹介した記事です。時季が違うこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 大阪・天王寺公園内 慶沢園 睡蓮の咲いている時季に訪れたまとめです。
2021.11.02
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