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白虎楼の北側の歩廊にある門が国指定名勝「平安神宮神苑」への入口になっています。ここからは有料(大人600円)。これが拝観券の半券です。明治時代の代表的な庭園として外国にも広く知られています。明治の造園家7代目小川治兵衛らにより作庭された池泉回遊式庭園です。昭和50年12月に国の名勝に指定されています。神苑の広さは約33,000㎡(約1万坪)だと言います。(資料1)7代目小川治兵衛は「植治(ウエジ)」という通称で知られ、京都の円山公園、南禅寺にほど近いところにあり山県有朋が営んだ別荘「無隣庵」の庭なども作庭しています。(資料1,2) 神苑入口の近くにもありますが、これは神苑内に設置されている案内図です。掲示されている現在地は、西回廊の外側で神苑内ということになります。現在の神苑は南・西・中・東と、時計回りに庭園内を回遊していくことになります。1895(明治28)年に平安神宮が創建された際には、西神苑は白虎池を、中神苑は蒼龍池を中心として庭園がつくられたと言います。東神苑はそれより遅く大正年間に栖鳳池を中心に、平安時代の庭園の様式を採り入れて地泉舟遊式の庭園としてつくられたそうです。この案内図からも一番広々とした池畔になっていることがおわかりいただけるでしょう。東山の山並みが借景になっています。(資料2) 南神苑に入ると、眼前に「八重紅枝垂桜」が咲いています。傍に駒札が立っています。「この桜は、平安神宮が創建された明治28年、仙台市長遠藤康治より寄贈されたものである。そのもとは、近衛家に伝来した『糸桜』を津軽藩主が持ち帰り育て、それが再び京都に帰ったことから『里帰り桜』ともいわれている。 文豪谷崎潤一郎の小説『細雪』にも登場し、京都の春を象徴する桜として、神苑の数ある桜の中でも特に人気がある。」(駒札説明文転記)余談ですが、京都御苑の今出川御門を入るとすぐ西側が「近衛邸跡」です。近衛池の西側は「近衛の枝垂れ桜」が咲くと見事です。自由に散策できる場所ですので、ここもお薦めです。幾度も訪れ観桜を楽しんでいる場所の一つです。 南神苑の散策を始める起点です。進む方向に上掲の案合図が設置されています。 振り返り、歩廊に設けられた門を眺めた景色。回廊の屋根は切妻造り碧瓦の本葺きで、回廊の両側の様子がこれでおわかりいただけるでしょう。歩廊の中央が連子窓と漆喰塗り腰壁の仕切りで内外に区分けされ、要所要所に門が設置されています。平安京の大内裏を想像すると、この朝堂院を模した回廊の西側には、少し離れた位置に同様に回廊を巡らせた「豊楽院」の建物が存在したことになります。また、朝堂院の東側には、北から中務省、太政官、民部省の建物群が並んでいたのです。(資料3)元に戻ります。 南神苑の駒札南神苑が一番最後、昭和の末期に造園されたことがわかります。神苑内は散策路がいくつもに分岐しています。一応の順路標識は設置されていますが。 ゆるやかな坂道を降って行きます。まずは南神苑の南端あたりまで下ります。 日本最古の電車がここにひっそりと保存されています。 電車マニアには必見でしょうね。 この案内板をゆっくりお読みください。 散策路沿いの小川の水が池に流れ込みます。小鳥が水面にゆったりとたゆたっています。 池面に映じた姿は抽象画を形づくっています。 何気ないところに石造物が置かれています。再び小川の流れが続きます。 小さな池の畔に雪見灯籠があり、対岸には簡素な東屋が見えます。 (2011.5.7撮影) 井戸があり、その傍に揺るやかに上る円石の飛石伝いの通路の先には、 「澄心亭」と名付けられた茶室が木々の間に建てられています。 (2011.5.7撮影)茶室の屋根を木々の間から眺めつつ、散策路を先に歩むと、 西神苑の白虎池畔に至ります。この池の周囲を回遊できる池畔の道が見えます。 池の西側を北に回り込む形で歩みます。 (2011.5.7撮影)少し位置が異なりますが、2011年5月初旬に訪れたときはこんな感じでした。 北方向の小さな滝から白虎池に水が流れてきます。 白虎池沿いに北辺を回り込み、池の対岸を眺めて、 池畔から少し離れた北側の散策路を歩みます。つづく参照資料1) 平安神宮神苑拝観について :「平安神宮」2) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p1743) 京都歴史散策マップNo.1「平安京跡周辺を訪ねて」 発行所 京都創文社補遺京都御苑 マップ:「一般財団法人国民公園協会」 京都御苑マップのダウンロードもできます。小川治兵衛 :ウィキペディア七代目小川治兵衛の庭園 :「おにわさん」小川治兵衛により作庭された庭園 :「庭園ガイド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東 平安神宮 -1 疏水縁、大鳥居、応天門、額殿、神楽殿ほか へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -2 神楽殿(続)、蒼龍殿、大極殿、白虎殿ほか へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -3 大極殿前広場での行事 ある年の節分祭 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -5 西神苑(続)・中神苑 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -6 東神苑 へ
2021.03.31
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三条大橋から下流側の左岸(東側)の桜を撮った状況です。3ヶ月ぶりに三条にあるボルダリングのジムに昨日(3/29)出かけました。 三条小橋の手前、高瀬川沿いの桜は満開です。木屋町通りを二筋ほど桜を見ながら下ってみました。 高瀬川の傍にある地蔵堂では、桜がお地蔵さまに花笠を被せるかのように屋根上を飾っています。此岸の桜と彼岸の柳が色のコラボを生み出しています。 上流側 下流側ここまでで、一旦ジムへ。 これは三条小橋の上から高瀬川の上流側の桜を撮った景色です。折角なので、帰りには高瀬川に架かる三条小橋から木屋町通りを北に上り、御池通り経由で川端通り沿い歩き、京阪三条駅に戻ることにしました。木屋町通りを少し北に上がると、 対岸に遭難碑が2つ並べて建立されています。向かって左が大村益次郎、右が佐久間象山の遭難碑です。時期は5年の隔たりがありますが、二人は木屋町通りで刺客に襲われて絶命したのです。 この駒札が木屋町通り側に設置されています。 さらに北に歩みます。復元された高瀬舟が石垣の傍に係留してあります。 ここは「高瀬川一之舩入」です。左の景色に赤い鉄柵が見えます。その先が舟入りです。 高瀬川を綱で引かれて遡行してきた高瀬舟は各所の船入りに入ります。史蹟碑の背後に高瀬川に続く船入が見えています。けっこう広いエリアです。 ここが高瀬川の起点にあたる場所です。現在はこの西側が日本銀行京都支店の敷地になっています。この辺りに、高瀬川を開鑿した角倉了以の邸があったそうです。「角倉氏邸址」の碑が設置されています。 北側から眺めた高瀬舟高瀬舟の南側に橋が見えます。この橋を渡って西へ進む道は、押小路通りです。鴨川の東側では、少し南にズレますが東に向かう道は仁王門通りです。位置関係がおわかりいただけることでしょう。 上掲の橋上から川下(南)の景色を撮ってみました。 御池大橋の上から下流側を撮った景色 御池大橋を東に渡り、川端通りの鴨川沿いの歩道を下ります。その桜並木です。 桜の木越しに御池大橋西詰を眺めた景色 こちらは、桜咲く枝越しに三条大橋西詰を垣間見た景色です。今週末まで高瀬川沿い、鴨川沿いの桜の花は満開の姿を保って咲き続けるでしょうか・・・・・。桜だよりです。ご覧いただきありがとうございます。補遺高瀬川 (京都府) :ウィキペディア高瀬川 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」高瀬舟 :ウィキペディア高瀬舟 森鴎外 :「青空文庫」高瀬川開削400年-角倉了以と素庵 :「京の風物詩 鴨川納涼床への誘い」角倉了以 :「歴史倶楽部」高瀬川今昔 :「木屋町会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.03.30
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これは奉納狂言の一部を鑑賞した時のスナップ写真です。過去の探訪記録写真をチェックしてみてみると、2012年2月に平安神宮の節分祭を見聞していました。平安神宮の年間行事の一つ「節分祭」はコロナ禍の影響で今年(2021)は中止でした。そこで、大極殿前の広場の利用事例として、2012年のこの行事風景を記録写真から抽出してご紹介します。「京都観光Navi」というウエブサイトに「節分祭[平安神宮]」のページがあります。現時点で2021年は「コロナウイルスの影響によりお火焚き神事のみ執り行う」と記し、この行事が終了した旨を開示しています。当初の行事スケジュールは、基本情報として載せてあります。通例なら 節分祭9:30~、奉納狂言11:30~、大儺之儀14:00~、豆撒き・大火焚神事15:00~ です。2012年当時もたぶん同様の進行だったと思います。「節分」は季節の分かれ目、つまり立春・立夏・立秋・立冬の節日の前日を意味します。しかし、狭義では、立春の前日をさします。古来節分に年があらたまると考えられ、あらたな春を平安に迎えることを神前に祈念する「節分祭」が斎行されてきました。平安神宮では「大儺(だいな)の儀」と称し、平安時代当時に宮中の年中行事として行われていた追儺(ついな)式の古式を1974(昭和49)年に復元されたそうです。(資料1)「追儺」という言葉を辞典で引くと、「節分の夜行う、豆まきの行事」(『新明解国語辞典』三省堂)と説明されています。宮中の年中行事としての「追儺式」について、調べてみますと、その起源は中国の俗習に基づくもののようです。12月の晦日(みそか)に行われていた行事です。「十二月晦日の夜、儺(な)、即ち疫鬼(えきき)を駆逐する儀式で『儺やらい』また『鬼やらい』ともいう。」(資料2)節分祭の行事が各地の有名な神社や寺院で昼間に行われているのはたぶん時代の変化なのでしょう。京都の寺社仏閣ではそれぞれに様々な特徴をもつ節分祭が行われているようです。京都に生まれて京都で育ったのですが、未だそのほんの一部しか拝見していません。「大儺之儀」ではこんなシーンを眺めていました。 右手に三叉の戈(ほこ)、左手に盾を持ち、四つ目の仮面を被った方相氏の役を担う大舎人が童(わらべ)たちとともに、龍尾壇(上段の広場)に登場します。この方相氏が鬼を追い払うという次第です。「方相氏は、大舎人中の身体長大なもの一人を選んでこれに当たらしめ、黄金四目の仮面を被り、」特別な装束(詳細略す)を「着、右手に戈、左手に楯を執りこれを大儺という」(資料2)と説明があります。方相氏とは陰陽道の神です。 応天門の前で、殿上人が弓で矢を放ちます。追儺式の行事では、「殿上人ども、清涼殿長橋の上に立って、桃の弓、葦の矢をもって鬼を射る」(資料2)と説明されています。 続いて、殿上人が桃の杖で打つ行動をとります。 方相氏が登場します。方相氏は「儺声を作(な)し、戈をもって楯を叩くこと三度」(資料2)という行動をとって鬼を追いはらうのです。 放たれた矢序でに、京都の吉田神社の節分祭で行われる「追儺式」の描写を引用しご紹介します。「節分前日の七時から始まる追儺式は、古い宮中の儀式を今に再現するものだ。儀式は短いもので、陰陽師が祭文を読み終わると、黄金四つ目の仮面をかぶり、黒衣に朱の裳をつけた方相氏(陰陽道の神)が、大声をあげ、戈で盾を三度打つ。鉄棒を持った青鬼、赤鬼は逃げまわるが、やがて桃の木の弓につがえた葦の矢で射られて退散する。このようにして無事追儺式は終わる。」(資料3) 下段の広場には、既に「大火焚神事」の場が結界を形づくって調えられています。 応天門から鬼たちが入ってきます。鬼の再登場! 鬼たちが広場で我が物顔で乱舞します。 大極殿にも暴れ込み、舞います。 動き回りますが、 豆を蒔かれてほうほうの体で応天門から逃げ去って行きます。 その後、大極殿前の龍尾壇広場で、福豆撒きが始まります。 こちらがその時、キャッチできた福豆です。右上に「桃の弓」と記されています。 その後で、粛々と「大火焚神事」が行われます。奉納狂言、大儺之儀、豆撒きまでは観覧者がかなり多かったのですが、この最後の神事あたりになるとかなり参加者が減っていました。観光客的気分の人々は一大イベントを見たことで去り、この行事は信仰心を抱くあるいは祈願をする人々が相対的に多くなり、その進行を見守るということになるのかも知れません。私は知的好奇心でこの行事の進展を観察し記録写真を撮っていたという感じです。 神職の人々が粛々と列をなして現れ、いよいよ儀式が始まります。 事前に祈願された火焚串(密教でいう護摩木と同種のもの)がうずたかく積み上がれて調えられている2つの火焚の壇に火が点じられます。 祭文が読み上がられています。これは大祓詞と称するそうです。 燃えさかる火焚の壇に次々と火焚串が投げ入れられていきます。 そして、火焚串が燃え尽きれば、滞りなく大火焚神事が終了します。火の荘厳さ、罪障消滅・祈願成就を助ける火の威力を感じさせます。ダイナミックな炎の動きに魅了されるところがあります。手元の本によれば、「豆を蒔き、鬼は外、福は内という唱え声も、はや室町時代ごろから行われて、今に至っているものである」(資料2)と古い文献を引用して説明しています。平安時代には、立春前日には寒気を送り出す儀式として、「土牛童子の像といって、牛を惹いた童子の像を作って、夜半に大内裏の宮城門に立てた」と言います。そして、「室町時代ごろに至りて、節分にいり豆を蒔いて、鬼を攘(はら)う式を行うことになったのは、恐らく、上述の追儺の式と、この寒を送る式の混同したものであろう。」(資料2)と考察しています。いずれにしても、節分祭は長い歴史と伝統をもっている行事ですね。それでは、神苑を訪れましょう。つづく参照資料1) 「鬼やろー!」と平安神宮の節分会 :「Club Fame」2) 『有職故実 上』 石村貞吉著 嵐義人校訂 講談社学術文庫 p345-3503) 『京都千年 八 くらしと年中行事-古都の歳時記-』 森谷尅久編 講談社 p144-148補遺平安神宮 公式サイト平安神宮・節分祭 「鬼の舞」 YouTube京都・平安神宮「節分行事」の大火焚神事 | Fire Festival at Heian-Jingu Shrine in Kyoto JAPAN YouTube平安神宮 節分祭 大火焚神事 YouTube火焚祭と護摩供養の違いは・・・・ :「京都あっちこっち」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東 平安神宮 -1 疏水縁、大鳥居、応天門、額殿、神楽殿ほか へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -2 神楽殿(続)、蒼龍殿、大極殿、白虎殿ほか へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -4 南神苑・西神苑 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -5 西神苑(続)・中神苑 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -6 東神苑 へ
2021.03.29
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それでは境内の東側から反時計回りに巡って行きましょう。神楽殿は結婚式場として使われています。「平安神宮境内図」に括弧書きで付記されています。 碧瓦の屋根を見上げると棟の両端には鴟尾が載り、降棟の先端は「額殿」と同様に山形に外周の連珠が造形されているだけの鬼板です。 稚児棟の一の鬼(先端部)の上に突き出た鳥衾(とりぶすま)の瓦当のデザインはその下正面に見える軒丸瓦の瓦当の蓮華紋とは異なります。桜の花の意匠のように思われます。 神楽殿の正面に近づくと、「満開成就 結びの木」と記した駒札が立っています。この前に植えられた木は、お神籤の札を結わえるのに使われるようです。 回廊の南東隅を眺めた景色 こちらは振り返って神楽殿の北方向の吊り灯籠を眺めた景色です。神楽殿の西面(正面)から北面に回り込みます。正面に東側の回廊が見えます。門が開いていますが、ここは現在「神苑」の出口として使われています。 神楽殿の西面の外廊部分 建物本体には半蔀が備えてあります。 神楽殿の東側面を北から眺めた景色です。東側の回廊と神楽殿を繋ぐ歩廊が左(東側)に見えます。 神楽殿の北側面です。ぐるりと半周してきてわかることは、外観は入母屋造り碧瓦葺きで正面8間奥行4間ですが、建物に外縁が巡らされていますので、建物本体は正面6間奥行4間の規模となっています。 神苑出口に使われている門の傍から、左は東側回廊の北方向の歩廊、右は南方向の歩廊を眺めた景色です。 この北方向への歩廊の突き当たりで左折して進むと「蒼龍楼」に至ります。 神楽殿の北西あたりから眺めた大極殿の全景。左端に少しみえるのが「白虎楼」です。 広場の左右に石段があります。こちらは東側の石段。上段の広場が「龍尾壇」です。龍尾壇、蒼龍楼、白虎楼という名称は、「朝堂院復元図」に使われていますので、往時からの名称なのでしょう。(資料1) 丹塗りの欄は飾り金具で輝いています。 龍尾壇の東側には「蒼龍楼」が聳えています。 上層の一つの楼閣屋根の鴟尾と降棟の鬼瓦 蒼龍楼の西面を眺めた景色この形と構造から想像しますと、3つの楼閣を備えた蒼龍楼・白虎楼は朝堂院の荘厳さを演出するための装飾的な建物としてこの位置に建てられているだけのように感じます。 1階の屋根 一の鬼「左近の桜」側から眺めた「大極殿」 大極殿の大棟両端には金色の鴟尾が据えられています。降棟と稚児棟の先端部に見えるのは鬼瓦です。同じ意匠の鬼神と思います。鳥衾の瓦当を見ると、ここには蓮華紋がレリーフされています。鬼神の口部分に見える瓦の瓦当も同じ蓮華紋です。 「左近の桜」を囲む埒の北西側に絵馬所が設けてあるのが目に止まりました。 「大極殿」の正面中央部正面には3箇所石段が設けてありますが、中央は使用できません。大極殿は上掲の全景写真でおわかりいただけると思いますが、一重の入母屋造りで碧瓦を用いた本葺きです。駒札によれば、桁行(正面)110尺(約33.3m)、梁行(奥行)40尺(約12.1m)の大きさです。正面11間奥行4間です。大棟の両端に金色の鴟尾が載っています。この大極殿は、平安神宮の外拝殿として使われています。大極殿内部には自由に入り、参拝できますが建物内部での撮影は禁止です。大極殿の北に内拝殿があり、その北側に本殿が二棟並んでいるという社殿配置です。そのため、本殿はほとんど見えません。祭神は桓武天皇と孝明天皇。桓武天皇は平安京への遷都を決断した天皇。孝明天皇は江戸時代最後の天皇で明治天皇の父ということです。そこでこの二天皇を祭神に祀るということでしょう。 大極殿の正面中央の龍尾壇で振り返ると下段の広場の南端に応天門が見えます。 「右近の橘」はご覧のとおり、覆屋の中に 「右近の橘」の駒札 儀式のときに右近衛府の官人がこの辺りに列したことから名付けられたそうですから、桜の木の辺りには左近衛府の官人が同様に列したということなのでしょうね。駒札の末尾に、古今集に収録の一首が紹介されています。この歌、調べて見ますと『伊勢物語』の60段「五月まつ」に出てくる歌です。「昔、男ありけり」の一文から始まります。宇佐神宮へ勅使として派遣される男が、途中のある国で己のもとを去った元妻が勅使接待役人の妻になっていることを知ります。そこで「女あるじにかわらけとらせよ」と意って、元妻に素焼の杯を捧げさせなさいと強要し、この歌を詠んだのだとか。この女あるじはその後出家してしまったのです。(資料2)物語に出てくる歌だからでしょうか、『古今集』には巻三・夏歌に「よみ人しらず」(139)として収録されています。花橘は橘の花を愛でていう語だそうです。(資料3) 大極殿正面を西側から眺めた景色 大極殿の西側には西の回廊が対象的に廻っています。 「白虎楼」 白虎楼の側に「神苑」への入口があります。西側から入園し、西神苑を廻り、本殿の背後を通り過ぎて、中神苑・東神苑と廻っていき上掲の通り、蒼龍楼の傍から出ることになります。 白虎楼の南面に近づきます。 鬼神がまさに至るところからこの境内地と周辺に目を光らせて護っているという感じ・・・。 白虎楼の傍で、この石灯籠が目に止まりました。角柱の竿に刻された三文字目、見たことがない文字です。私には解せませんでした。漢和辞典を引くと、ちゃんと載っています。「丕」は「ヒ」と読むそうです。その意味は、「①おおきい(おほいなり)、盛大。②はじめ。③受けつぐ」(『角川 新字源』角川書店)だとか。何となく語句の文意が理解できる気がします。平安神宮の応天門を入り、回廊で囲まれたエリアをこれで大凡巡ってみました。この二段になった広々とした境内地がどのように使われているか、その事例を過去に探訪した記録写真からご紹介します。つづく[2021.3.28 追記]2012.2.3に撮った記録写真の中に、吊り灯籠の意匠に着目して撮ったものがありました。こちらに追記掲載します。 玄武、青龍、朱雀がそれぞれ切り出されているようです。 もう一つは、白虎の代わりに橘なのかなと推測します。参照資料1) 『文化財・遺跡ウォーク 平安宮ガイド』 発行 京都市考古資料館 p12) 『伊勢物語(上)全訳注』 阿部俊子 講談社学術文庫 p212-2163) 『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫 p47補遺平安神宮境内図 :「平安神宮会館」平安神宮 公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東 平安神宮 -1 疏水縁、大鳥居、応天門、額殿、神楽殿ほか へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -3 大極殿前広場での行事 ある年の節分祭 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -4 南神苑・西神苑 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -5 西神苑(続)・中神苑 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -6 東神苑 へ
2021.03.28
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京阪電車の三条駅から川端通の歩道に出て北に進み、仁王門通に右折して東に向かいます。東大路通を横断して東進すれば、岡崎公園の西辺と南辺を囲む形で流れる琵琶湖疏水縁に至ります。3月24日に平安神宮に行きました。前回ご紹介した平安神宮の鴟尾を眺めたかったのです。併せて、久々に平安神宮を探訪してきました。このブログではまだ平安神宮をご紹介していないことに気づきましたので、まとめてみたいと思います。冒頭の写真は。疏水縁に建つ京都国立近代美術館です。疏水縁の桜はまだこれからという感じです。木々により桜の開花がばらついています。 (2018.4.1撮影)仁王門通を左折して疏水に架かる慶流橋を渡り神宮道を北に進みます。この景色は慶流橋南詰の東側から2018年4月に撮った景色です。 下流(西)側 上流(東)側 慶流橋上から撮った景色(2019.4.7)です。桜が満開の状態がおわかりいただけるでしょう。 (2018.4.1撮影)京都国立近代美術館の北東側、神宮道に平安神宮の大鳥居が建っています。右端に見えるのは、現在の名称で言えば「京都市京セラ美術館」です。この大鳥居は後でご紹介する応天門の南約350mのところに立っています。高さ約24mで、1929(昭和4)年に竣工しています。(資料1) 神宮道を北に上がると、二条通との交差点を横断した先に、この大きな社号碑が東側に見えます。社号碑の上部には「桜に橘紋」の神紋が輝いています。二条通の一筋北は「冷泉通」です。冷泉通を横断すれば、平安神宮の境内に入ります。 通りから少し北に奥まった位置に「応天門」が見えます。重層、五間三戸で入母屋造りの楼門です。 冷泉通に面して、東側にこの大きな石灯籠が立っています。竿が八角錐形の屋形石灯籠です。 応天門の南西側に手水舎が設けてあります。 前回ご紹介していますが、手水舎の屋根の棟の両端に鴟尾が載っています。降棟の先端に鬼瓦が見えます。意匠は異なりますが、平城宮跡からの出土鬼瓦と類似の鬼神が造形されています。軒丸瓦は瓦当に複弁の蓮華紋が見えます。屋根瓦は碧(あお)瓦で統一されています。 「応天門」の扁額が楼上に掲げてあります。宮小路康文が古様をもって揮毫したものと言います。(資料2) 応天門に向かって左側前にこの駒札が立っています。平安神宮は1895(明治28)年に平安遷都1100年を記念して創建されました。前回の繰り返しになりますが、平安京大内裏の朝堂院の形式を模して主要部が築造されました。その規模は8分の5に縮小されています。(資料1)応天門は駒札に記されるように、正庁朝堂院の南面正門になります。駒札によれば、平城京ではこの応天門の左右両廊が栖鳳・翔鸞の二楼に繋がっていたそうです。余談です。平安宮の朝堂院跡発掘調査から朝堂院の復元図が作成されています。(資料3) 復元図を引用し、説明のための色丸を追記しました。赤丸が大極殿です。黄緑色の2つの丸は次回ご紹介します。青色の丸が応天門。空色の2つの丸が上記の栖鳳(東)・翔鸞(西)の二楼でそれらが応天門と歩廊でつながっていたそうです。楼は門の南東・南西に位置したそうです。周囲が歩廊で繋がっていた朝堂院には黄色の丸を付けた会昌門が設けてあったそうです。応天門に比し、会昌門は簡素な門だったのでしょう。つまり、建物の建造にあたっては、あくまで主要部を模しているというわけです。元に戻ります。応天門が平安神宮の「神門」として建造されたことになります。棟高は18.43mと駒札に記されています。 屋根の棟には鴟尾が載り、降棟と稚児棟には鬼瓦が先端を飾っています。鬼瓦は同じ鬼神です。 門は正面5間で奥行2間ですから、18本の柱が使われていることになります。両側に、菊紋の描かれた提灯が設置してあります。見上げると格子天井です。 中央の開かれた扉の内側に広々とした白砂の広場があり、正面に大極殿が見えます。 今までに幾度かこの応天門を通り抜けているのですが、今まで気づかなかったのは門を通り抜けた内側の東西に楼上への昇降階段が設置されていることです。 途中で曲折する形の階段になっています。東福寺や知恩院の三門では門の左右に楼上への山廊が設けてあります。それとは違う方式があるのを実例として再認識しました。 広々とした広場(境内)には正面に基壇と朱塗りの欄が見えます。上下二段に仕切られています。左右に石階が設けてあります。上段は「竜尾壇」と称されています。竜尾壇の北側に大極殿があります。 下段の広場には応天門寄りの東西に白虎(西)と蒼龍(東)の2つの石像が奉納されています。これは、古代中国で、天の四方をつかさどると考えられた四神(ししん)のうちの二神です。四神とは東の青竜、西の白虎、南の朱雀、北の玄武です。平城京もそうですが、平安京の大内裏の南の正門は朱雀門と称され、朝堂院の応天門の南に朱雀門がありました。平安京は「四神相応」の地として選ばれたと言います。「東方(左)は青竜にふさわしい水流、西方(右)は白虎の大道、南方(前)は朱雀の湿地、北方(後)は玄武の丘陵に臨む、という四条件を備えた勝地」(『新明解国語辞典』三省堂)を意味します。平城京の東には鴨川が南下し、西には京の七口の一つである丹波口、つまり山陰街道があり、北は船岡山があります。南には巨椋池が広がっていました。四神相応の地と判断されたのです。元に戻ります。 下段の広場の西側には「額殿」があります。 屋根棟の鴟尾は同様ですので省略します。降棟の先端は簡略な鬼板が使われています。 下段の広場の東側には「神楽殿」があります。額殿と神楽殿は入母屋造り平屋で同じ形式です。但し正面を見ると額殿より神楽殿の方が1間分大きいようです。 神楽殿の背後にある東側の回廊には、神楽殿より少し南に門があり、回廊の外側に立地する斎館・社務所と連接しています。応天門寄りの南東側に絵馬所などが設けてあります。次回は神楽殿を近くから眺めることから始めます。つづく参照資料1) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p132) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p171-1743) 『文化財・遺跡ウォーク 平安京ガイド』 発行 京都市考古資料館 p1補遺平安神宮境内図 :「平安神宮会館」平安神宮 公式サイト京都国立近代美術館 ホームページ京都市京セラ美術館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東 平安神宮 -2 神楽殿(続)、蒼龍殿、大極殿、白虎殿ほか へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -3 大極殿前広場での行事 ある年の節分祭 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -4 南神苑・西神苑 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -5 西神苑(続)・中神苑 へ探訪 京都・洛東 平安神宮 -6 東神苑 へ
2021.03.27
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(2021.3.14)これは先日ご紹介した平城宮跡の朱雀門です。写真に付記した年月日は探訪し写真を撮った日付です(以下同様)。この朱雀門は平成5年(1993)に本体の復原工事が開始され1998年に竣工しています。(資料1) (2021.3.14) その屋根に燦然と輝いているのがこの鴟尾です。 朱雀門を入り、第一次大極殿へ。 (2021.3.14) その大棟に載る鴟尾は朱雀門の鴟尾とは少し異なり、唐草紋が加わっています。 この鴟尾には背の部分に蓮華紋が陽刻されています。この第一次大極殿の鴟尾については、発掘調査で平城宮跡から鴟尾は発見されていないことから、奈良文化財研究所が同時代である唐招提寺金堂(8世紀後半)の鴟尾と大阪府柏原市の鳥坂寺跡(高井田廃寺、7世紀後半)の鴟尾を参考にして、初唐様式の影響の強い形のデザインで復原されたということを、ご紹介しています。(資料2)奈良時代の平城宮では鋳銅製で鍍金された鴟尾が使用されたそうです。そこで、唐招提寺を探訪した時の記録写真をチェックしてみました。 唐招提寺の金堂です。 (2017.12.4)唐招提寺には瓦製の鴟尾が載っています。西端には7世紀後半の奈良時代に作られた鴟尾、東端には鎌倉時代に作られた鴟尾が現存しています。(資料3,4) この金堂に向かって左側の鴟尾を撮っていた写真から部分拡大しました。(2014.12.4)高井田廃寺については、東京国立博物館のデータベースを検索すると、 この画像資料が得られました。引用します。大阪府柏原市高井田廃寺の鴟尾です。(資料5) 同じものですが、ウィキペディアで開示されているものがこちらです。(資料6)鴟尾はもともと建物の大棟を両端にいくにしたがってしだいに高くし、強く反り上がらせるという考え、「反羽(はんう)」から始まると考えられていて、鴟尾の起源は中国の漢代の溯るそうです。その格好は鳥の羽とか魚から出ているとも言われています。当時の貴族の履く「くつ」に類似する形なので、古文書には「沓形」という記録されている例があるそうです。(資料3,4)飛鳥・白鳳時代の鴟尾はほとんど瓦製で、奈良時代になると瓦製が少なくなるそうです。(資料4)飛鳥時代と言えば、法隆寺の金堂を連想します。当初の金堂の大棟には鴟尾が使われていたと考えられていますが、現状は鴟尾ではなく鬼瓦が使われています。金堂の昭和大修理の時、昭和28年5月21日に鴟尾の調査が開始され、鴟尾復原の前提で工事が進んでいたそうです。しかし、同年8月17日、法隆寺国宝保存委員会で鴟尾復原への反対意見が出されたことにより鴟尾復原はなされず、鬼瓦のままでの修理となったと言います。(資料7)この時の瓦製の鴟尾の復原を鬼瓦師小林平一氏が手がけておられます。(資料3)奈良時代となれば、平城京の東、外京に建立された東大寺と興福寺があります。 東大寺と言えば勿論、大仏殿です。 (2016.11.2) (2018.10.31) (2014.11.4) 大棟の両端に鴟尾が輝いています。 (2016.11.2) (2015.11.4) 大仏殿の鴟尾を部分拡大してみました。唐招提寺の鴟尾が瓦製であるのに対して、こちらは鋳銅製で鍍金という違いがありますがスタイルとしては近似しています。差異点は、唐招提寺の瓦製鴟尾はその表面がつるりと滑らかです。一方、東大寺の鴟尾は長方形の鱗形に鍍金されています。東大寺からの連想で、西大寺を調べてみますと、西大寺の本堂は大棟の両端には獅子口が使われています。補遺をご覧ください。 (2019.10.31) (2018.10.31)興福寺の中金堂です。中金堂は興福寺伽藍の中心になる最重要な建物です。創建より6回の焼失・再建を繰り返し、江戸時代の享保2年(1717)に焼失後再建されないまま仮金堂の状態が続きました。そして、平成30年(2018)に念願の中金堂が再建落慶したという歴史を経ています。(資料8) (2018.10.31) 興福寺の鴟尾は、青銅製で鍍金され、高さは2.03m、1基につき1.1tの重さがあるそうです。正面に向かって左(西)の鴟尾の背面には再建を祝い安寧を祈願する銘文が刻まれているとか。(資料9)第一次大極殿の復原鴟尾とは意匠が異なりますが、唐草紋が使われています。「大極殿とは古代の宮都における中心施設で、元日朝賀や天皇の即位など、国家儀式の際に天皇が出御する場所です。」(資料2)都が奈良から京都に遷都され、平安京ができました。平安京においても大内裏ができ、大極殿が設けられたわけですが、現在ではその跡地に大きな碑が建てられているだけです。その大極殿の機能を担い、現存するのは京都御所の紫宸殿です。紫宸殿の大棟の両端には獅子口が使われています。それで思い浮かぶのが「平安神宮」の境内地の正面に見える「大極殿」です。この建物は現在平安神宮の「外拝殿」としての役割を担っています。「大極殿」には鴟尾が使われています。平安神宮には過去幾度か訪れていますが、改めて「鴟尾」という視点を第一目的に昨日(2021.3.24)再訪してみました。境内の建物にはほぼ鴟尾が屋根の棟に使われていることを再認識しました。 神宮道に建つ朱塗りの大鳥居傍の歩道を進むと、「応天門」が見えます。応天門を初め、平安神宮の建物の屋根には緑釉が施された碧(あお)瓦が使われています。 応天門の屋根の棟には鴟尾が載っています。鴟尾の形は唐招提寺の鴟尾に近似のスタイルと言えます。「平安神宮境内図」は「平安神宮会館」のウエブサイトに掲載の境内図をご覧いただくとわかりやすいと思います。こちらからご覧ください。この平安神宮は、明治28年(1895)に平安遷都1100年記念として創建されました。そして平安京の大内裏の朝堂院の形式を模して主要部が築造されたそうです。大内裏の正門は朱雀門。その内側に入ると正庁である朝堂院のエリアがあり、その表門が応天門です。回廊に囲まれた朝堂院の主要部分の建物を本来の8分の5の規模で築造してあります。(資料10,11)朝堂院は「八省の官人たちが政務をとり、即位・大嘗会・朝賀などの国家の儀式を行った」(『日本語大辞典』講談社)エリア。その朝堂院の正殿が大極殿です。 応天門にむかって手前、南西側に手水舎があります。ここの屋根にまず鴟尾が見えます。応天門の棟の鴟尾と同じ形です。 応天門を通り抜けると、北東側に「神楽殿」が見えます。大棟の両端に同形式の鴟尾が載っています。北西側には、神楽殿に対応する位置に「額殿」があり、建物等は同じスタイルです。境内の正面には大極殿が見えます。その境内地は一段高っくなっています。数段の石段を上がった左右には大極殿の左右の歩廊とつながる楼閣が建てられています。 東側には「蒼龍楼」が建ち、西側には「白虎楼」が配されています。ご覧の通りで、平安宮になぞらえて、碧瓦、緑青の連子窓、丹塗りの建物です。 楼閣の屋根にも同じスタイルの鴟尾が載っています。 蒼龍楼の北面の屋根は大極殿への歩廊の屋根の端が軒下に入り込み重なる形になっていますがこの歩廊屋根の端にも鴟尾が使われています。 大極殿。大極殿前には「右近の橘」「左近の桜」が配されています。桜は満開に近い状態でした。橘は覆屋の中に入っています。たぶん越冬のための保護なのでしょう。もうそろそろ覆屋は撤去されるのかもしれません。 大極殿大棟の両端には金色の鴟尾が載っています。 経年変化のせいかかなり汚れが付着しているようです。 東側の鴟尾を違った角度から撮ってみました。ご覧いただいた通り、鴟尾の形式はすべて統一されています。大極殿の鴟尾の背の部分には装飾レリーフはないようです。鴟尾を楽しむという観点での平安神宮ご紹介はこの辺りにとどめておきましょう。大阪の四天王寺は過去2回は訪れていますが、その際、建物の屋根の鴟尾は意識していませんでした。機会を作って、四天王寺の瓦という視点で訪れて、この続編をまとめたいと思います。鴟尾を知るという観点で、ネット検索で得たいくつかの鴟尾をご紹介し一旦終わりにします。大阪府の羽曳野市にある「陵南の森公民館」の歴史資料室には、沓形の「西琳寺出土鴟尾」が展示されています。こちらからご覧ください。また、大阪府泉南市のホームページには、出土した鴟尾の断片の写真とともに、海会寺跡出土の鴟尾の復元イラスト図が見られます。こちらからご覧ください。福岡県築上町では、「国史跡船迫窯跡」から出土した鴟尾を復原し、「船迫窯跡公園体験学習館」で展示されています。こちらからご覧ください。ネット検索中に、現代の鴟尾据え付けの事例について「宮大工(株)飛鳥工務店」さんのブログ記事で出会いました。曹洞宗窓泉寺の鴟尾の据え付けの紹介記事です。最後にご紹介しておきましょう。こちらからご覧ください。ブログを書き始めて以降に、平安神宮についての探訪記をまとめていないことにきづきました。この機会に結果的に平安神宮の探訪も兼ねましたので、別稿として平安神宮をまとめてみたいと思っています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 案内リーフレット「特別史跡 平城宮跡 朱雀門」(文化庁文化財第二課) 2) 案内リーフレット「特別史跡 平城宮跡 第一次大極殿」(文化庁文化財第二課)3) 『瓦に生きる 鬼瓦師・小林平一の世界』 小林平一・駒澤琛道[聞き手] 春秋社4)『東大寺の瓦工』 森郁夫著 臨川書店5) 鴟尾 大阪府柏原市高井田廃寺 :「東京国立博物館 画像検索」6) 鴟尾 :ウィキペディア7) 「アーカイブ調査でみえてきた法隆寺金堂壁画と昭和大修理」青柳憲昌(立命館大学) 法隆寺シンポジウム「法隆寺金堂の謎に迫る 2021.2.20、大阪中之島会館 8) 境内案内 中金堂 :「興福寺」9) 興福寺中金堂篇 中金堂のここがすごい! :「JR東海」10) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p1311) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p171-174補遺国宝 唐招提寺金堂 平成大修理現場見学会【西大寺本堂】独特の近世建築で鎌倉時代の仏教美術をじっくり味わう :「ならまちあるき風景紀行」平安神宮境内図 :「平安神宮会館」平安京条坊復元図 :「平安京を歩こう」(平安京探偵団)平安宮大内裏復元図 :「平安京を歩こう」(平安京探偵団)四天王寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.03.25
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先日(3/14)平城宮跡を探訪した後大宮通りに戻り、奈良国立博物館の特別陳列を見るために、この大宮通りを東に進みました。近鉄奈良駅を通り過ぎると、「大宮通り」は「登大路」に改称されます。奈良国立博物館に行く際には、主にJR奈良線奈良駅経由で出かけることが多く、近鉄奈良駅近くにまで来ることが久しぶりでした。登大路の南側歩道を歩み始め、春日ホテル、登大路ホテルの前を通りすぎて、目に止まったのが冒頭のこのモニュメントです。この道を利用していた頃にはなかったものです。少し離れた距離で目に止めた第一印象は歩道の両側に建てられた瓦製の門柱という印象でした。何コレ? 興福寺の境内への入口をイメージさせるモニュメントかな・・・・と思いました。 基礎に相当する部分を外して拡大してみました。 その裏面も撮ってみました。逆光です。ハンディなデジカメのオートでは暗い写真しか撮れません。画像処理してみました。こんな感じです。このモニュメント、「奈良瓦幡」と称され、左は「いづる月」、右は「さくらうらら」と題がついています。図柄をみて、奈良の寺々の甍と若草山の上に月が出ている風景と、奈良の春を彩る桜の美しさ並びに春の心地よさの雰囲気は奈良を象徴している印象を抱きました。「幡(ばん)」というのは、ネット検索してみますと、「デジタル大辞泉」(小学館)の説明が手軽に出て来ました。それに付いている写真を引用します。(資料1) 「幡」は梵語(サンスクリット語)の訳で、「仏・菩薩(ぼさつ)の威徳を示すための仏具で、法要や説法のとき、寺院の境内や堂内に立てる飾り布。三角形の首部の下に方形の身をつけ、その下に数本の脚を垂らしたもの。はた。」と説明されています。 平城宮跡いざない館で入手した「第一次大極殿」のリーフレット(資料2)にも、イラスト図で大極殿の内庭に幡が建つ姿が描かれています。 リーフレットのイラスト図を引用しますとこんな感じです。第二次大極殿遺構の場所には南門との間に幡を建てる設備が復原されています。少し検索リサーチをしてみて、当時の報道資料を入手できました。(資料3)それによれば、「古都奈良」に来訪者を迎える瓦幡(モニュメント)という趣旨だとか。この奈良瓦幡の裏面に刻されていますが、「国際ソロプチミスト奈良ー平城」が創立20周年を記念してこのモニュメントを2007年に寄贈されたそうです。意匠のデザインは岩井珠恵さんで、瓦の製作は山本瓦工業の山本清一さん。「奈良時代からの瓦製作技法をいろいろ用いて表現する」(資料3)という意図が託されたそうです。「作者がデザインを考えながら興福寺の境内を歩いている時、南円堂の前から三笠山を振り返ると三笠山の上に白い月(昼間)が出ていた」(資料3)とか。そこからデザインのイメージがふくらんだそうです。「いずる月」は「静(心)のイメージ」、「さくらうらら」は「動(活動)のイメージ」とのこと。国際ソロプチミストという組織を私は知りませんでした。これを機会に調べてみました。「国際ソロプチミストは、国際親善と理解活動及び友情を通じて ・女性の地位向上 ・高い倫理基準 ・万人の人権 ・平等、開発、平和 を求めて努力することを目的としています。」という組織体だそうです。(資料4) ごく最近、こんなタイトルの本を読みました。森郁夫著『東大寺の瓦工』東大寺が建立されるときには、「造東大寺司」という組織が創設され、その組織下に「造瓦所」ができたと言います。また興福寺も当時は独自に瓦づくりの窯を設け瓦工が所属していたそうです。東大寺建立の際には、造瓦所が設けられて製瓦するとともに、興福寺の瓦所からも瓦を調達していたという記録が残っていると言います。奈良時代からの伝統的な製瓦技術が、現在も営々と奈良瓦として継承されているのでしょうね。さて、明日3月21日で展覧の会期が終了するのですが、奈良国立博物館で特別陳列されていたのが、一つは恒例の「お水取り」の特別陳列です。 チラシの表面上部に「二月堂縁起(断簡)」の部分が紹介されていますが、製作が室町時代・天文14年(1545)と明かな「二月堂縁起 上巻」も展示されていました。 こちらは裏面です。今回、私は久々に「二月堂修中過去帳」を再見しました。ふと思い出し「青衣の女人」が記されている箇所を過去帳の展示部分の中に見つけることができました。源頼朝も記されていました。過去帳「青衣の女人」については、東大寺の公式サイト内の「年中行事」のページでもその伝承が説明されています。裏面の中央に「二月堂声明」の部分図が紹介されています。能の謡本と同様に、声明の節回しが様々な折れ線の添え書きで示されています。結構複雑です。微妙な節回しや抑揚が折れ線の形状で示されているのでしょう。今回興味深いと思ったのは、かなり懇切丁寧な練行衆のためのマニュアル文書が記録されているという点です。「新入心精進之事」という題名の文書がわかりやすい事例として展示されています。「二月堂和上日記」「大導師覚悟記」「大導師加供祈句」が併せて「練行衆の姿」というセクションに展示してあります。これらもマニャル文書の類いだと思いました。また、「二月堂内の指図」というセクションに展示の○○日記、○○執行記という4点の文書も同種の覚書のようです。如何に伝統を継承するかの工夫の一つなのでしょう。一方、おもしろいと感じ、関心を抱いたのは杉本健吉筆「修二会画帖」です。洋画家が画帖に修二会の行事と練行衆の姿を墨絵で描いている作品だったことです。(資料5)もう一つが、「帝国奈良博物館の誕生」の特別陳列です。 副題が「設計図と工事録にみる建設の経緯」です。設計図などが展示されているという程度しか事前知識がなく、このチラシも当日館内で入手しました。会場で初めて、設計を担当したのが片山東熊博士だったことを再認識しました。現在は「明治古都館]という名称になっている建物の設計者が片山東熊博士だということは以前に京博でその建築の経緯展示があった時から知っていました。しかし「帝国京都博物館」の設計の前に「帝国奈良博物館」を設計していたということは記憶になかったのです。チラシの裏面に載っていますが、建築部材の実物大図面の展示などは見てわかりやすいしおもしろいものの一つです。木製の「帝国奈良博物館表昇降口雛形」は実に精巧なものでした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 幡 デジタル大辞泉 :「weblio辞書」2)案内リーフレット「特別史跡 平城宮跡 第一次大極殿」(文化庁文化財第二課)3) 報道資料「瓦幡(モニュメント)の寄贈に伴う除幕式の開催について」平成21年12月16日 平城遷都1300年祭 奈良県文化観光局ならの魅力創造課4) 国際ソロプチミストとは :「国際ソロブチミストアメリカ 日本中央リジョン」5) 「令和3年 特別陳列『お水取り』(2月6日~3月21日)出品目録」補遺飛鳥時代の瓦がいまなお屋根に!? 奈良市の世界遺産・元興寺 :「LINEトラベル」奈良山瓦窯跡 :「木津川市観光ガイド」過去帳「青衣の女人」 年中行事 :「東大寺」杉本健吉 :ウィキペディア杉本美術館 ホームページ日本の精神風土に根付いた美の世界 :「白鳥正夫の関西ぶんか考」 杉本健吉、色紙・墨《二月堂お水取り 「松明上堂」》(1945年) の掲載あり片山東熊 :ウィキペディア奈良国立博物館 ホームページ奈良国立博物館 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.03.20
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第一次大極殿を出て、東側の道を南に向かいます。マップの部分図をまず引用します。「みやと通り」を南に歩みました。 道路傍にこの案内陶板が目に止まりました。小さな赤三角が現在位置です。 第二次大極殿の遺構 第二次大極殿の南に見える基壇は南門なのでしょう。南門の手前に幡を立てるための設備が7つ並んでいます。これは「第一次大極殿」のリーフレットに復元図が載っていて、そこにも幡を立てた状態のイラスト図が描かれています。 南進し、東区朝堂院のエリアから北を眺めた景色です。右手前方に南門の基壇が見え、左端に第一次大極殿の屋根を遠望できます。 朝堂院跡を横断して東の道路に出て南に歩むと、東院庭園への案内標識が設置されています。 建部門(東院南門)と築地塀(大垣)が復原されています。 建部門を内側(北)から眺めた景色です。切妻造本瓦葺きの五間三戸門です。 鬼瓦と単弁蓮華紋の軒丸瓦 東方向に「西建物」があります。 「東院庭園」のリーフレットが作成されています。これを参照しながらご紹介します。平城宮は東側に張り出したエリアがあり、その南半分が「東院」、「東宮」と呼ばれていたのです。『続日本紀』には、称徳天皇の神護景雲元年4月14日の条に「東院の玉殿があらたに完成した。群臣がすべて集まって祝った。その殿舎は釉(うわぐすり)をかけた瓦で屋根を葺き、彩色した模様を描いてある。時の人はこれを玉宮と呼んだ。」(資料1)と記録されています。東院の南東隅にこの「東院庭園」があります。敷地は東西80m、南北100mという広さです。上掲「西建物」は、「建部門(東院南門)と東院玉殿を結ぶ道路の脇に設けられた『控の間』のような建物」だそうです。東院庭園とは無関係なのですが、復原事業で「活用上の復原建物」として「庭園内に入るエントランスを兼ねたガイダンス施設として」ここに設けられたそうです。(リーフレットより」この西建物の背後には数mの幅を置いて二重の板塀があります。まずはこの建物を通り抜け、板塀の入口を潜って、東院庭園に入ります。 ゆるやかな勾配で小石が敷き詰められた州浜が出入りし汀線を形づくっています。池には中島があります。 庭園には池に少し張り出す形で中央に建物が見え、池の東辺と建物をつなぐ平橋が架けられています。 池の南辺沿いに東に歩みます。 振り返ると、西建物の屋根が見え、板塀が境界となっています。 大垣の東南隅に「隅楼」が設けてあります。上層は反りのある宝形造りの屋根です。 露盤の上に鳳が羽ばたいています。右は北側から見た鳳です。正面の切妻造りの屋根には、鬼瓦と軒丸瓦が見えます。建部門の鬼瓦・軒丸瓦と見比べてみてください。鬼瓦は少し見づらいですが、姿の違いがわかります。軒丸瓦の瓦当の蓮華紋もこちらは複弁の蓮華紋が使われています。 隅楼には正八角形の柱が使われています。 上階に上がれる急角度の階段が設置されています。 中央の建物は桁行5間、梁行2間で、東側に露台が設けてあります。 池の東辺を北に歩むと北辺側に反橋が架けてあります。上掲の平橋とこの反橋には擬宝珠が設けてあります。この「擬宝珠は1966年に平城宮南東隅で出土した瓦製擬宝珠にならっています。」(後掲説明パネルより転記)とのこと。正面に「北東建物」が見えます。南北が吹き放しの開放的な建物です。池の北に建つ「亭」と推定されているようです。こちらは切妻造り本瓦葺きで桁行3間梁間2間の建物です。背後は板塀で仕切られています。 屋根の軒丸瓦の瓦当は複弁蓮華紋ですが、よく見ると隅楼の軒丸瓦とは少し違いがあります。見比べてみてください。軒平瓦の瓦当は唐草紋です。 池の北辺から南を眺めた景色です。建物が池に張り出している状態がよくわかります。 池の北側を巡っていくと、反橋が池に映じてなかなかいい感じです。 「中央建物」の西側には「曲水」が流れています。発掘調査では平城宮の前期の遺構と考えられているそうです。「庭園の特徴的な要素であるため、復原の対象としました。」(リーフレットより)とのこと。 池の西辺からの眺め東院庭園の庭を巡遊した後、板塀の出口から西建物に戻ります。ここにはガイダンス機能を持たせてあるということを最初にご紹介しています。 まず、発掘状況を再現した模型が展示されています。光りが反射して見づらい写真ですが、イメージはおわかりいただけるでしょう。また、発掘された鬼瓦や緑釉の瓦断片が展示されています。こちらの写真は省略します。建物内部の壁面には、発掘調査の状況と復原に関わる説明パネルが掲示してあります。以下のパネルがずらりとならんでいます。パネル・プレゼンテーションです。 東院庭園の発掘調査 右に「平城宮東院庭園発掘調査一覧表」 東院庭園の池 庭園内の建物跡 平城宮・京の庭園遺跡 古代庭園の意匠・工法の系譜 平城左京三条二坊六坪宮跡庭園 復原整備の基本方針 植栽の復原 池の水 庭園地形の復原整備 「建物復原の考え方」もパネルに提示されています。「まず建物跡によって平面が確定し、雨落溝があれば軒の出もわかります。軒の出がわかれば、軒先の組物もおよそ想像できます。このほか、井戸の枠板や溝の堰板に転用された建築部材、柱穴にのこる柱根、10分の1縮尺の建築模型部材などの出土資料が、復原にあたっての第一の情報源となります。加えて、奈良県内には飛鳥・奈良時代の古建築が30棟ほど現存しているので、それらの構造・意匠・部材寸法などを参照したり、文献資料や平安時代の絵図をも視野にいれながら、建物の復原を進めてゆきます。」(説明文転記) 中央建物の復原 西建物の復原と活用 北東建物の復原 平橋と反橋 東院南門の復原説明パネルの内容の詳細、発掘時の写真はぜひ現地でご覧ください。東院庭園の鑑賞の興味が深まることでしょう。 上掲のリーフレット裏面からの引用です。 建部門(東院南門)を外側から眺めてみました。右側に見えるのは「穴門」で上記の二重の板塀の中間に通じています。 道に戻り、さらに南下して、振り返った北方向の景色です。この南に、平城宮跡を横切る近鉄奈良線に設けられた一番東側の踏切を渡ります。 路傍にお地蔵さまが祀ってあるのが目にとまりました。 平城宮跡と二条大路の境界となる「南面大垣」が一部分復原されています。その延長線上に朱雀門が遠望できます。 この大垣の近くに平城宮跡の案内地図が設置されています。こちらの方から来られた人にも便利なように配慮されています。2545これで一旦、今回の平城宮跡の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*案内リーフレット「特別名勝 平城宮 東院庭園」 文化庁文化財第二課 作成1) 『続日本紀(中) 全現代語訳』 宇治谷 孟 講談社学術文庫 p401補遺平城宮跡資料館 トップページ 東院庭園 遺構展示館平城宮跡 Nara Palace Site YouTube【宇奈多理坐高御魂神社】 :「奈良まち歩き風景紀行」 平城宮跡「東院庭園」のすぐそばにある式内大社 奈良文化財研究所 ホームページ朝堂院 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 平城宮跡歴史公園 -1 大宮通・長屋王邸跡・朱雀大路・平成宮いざない館 へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -2 平城宮いざない館 館内へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -3 二条大路・朱雀門・南門(復原工事中)・第一次大極殿 へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -4 第一次大極殿(内部)へ
2021.03.19
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大極殿の北側に設置された観覧者用通路を上り、基壇を西に回り込む形で大極殿の西面にある入口から内部に入ります。大極殿内部は大きな一つの空間です。ここで展示のハイライトは中央部に設けられた「高御座(たかみくら)」です。 東側に回り込んで撮ったのがこちらです。参観者が数名程度でしたので、人を入れずに全体の姿を撮ることができました。 高御座を正面から撮りました。天皇が鎮座する玉座です。前回ご紹介したリーフレットでは、「各種文献資料等を参照して製作した実物大のイメージ模型です」(リーフレットより)と説明が加えてあります。八角形の大きな厨子と言えるでしょう。内部は一段高い床面となりその中央に玉座、背後には几帳が置かれています。大極殿の正面は開放されていたそうなので、この玉座に座れば、大極殿院の南門が正面に見える形になります。この前の広場(内庭)に貴族たちが立ち並べば壮観な景色だったことでしょう。 (2018.11.11撮影)この2枚の写真は、2018年11月に京都御所の拝観に行った時、紫宸殿を囲む回廊の外側に展示されていた現在ある高御座の説明パネルです。普段は紫宸殿内部に置かれている高御座です。今上天皇が即位された時には、東京までこの高御座が搬送されました。幾度か京都御所を訪れていますが、紫宸殿内部に置かれた高御座を前にはからはほとんど見えません。この時初めてこの写真で高御座の全体像を知りました。高御座の基本コンセプトは同じですね。時の隔たりをイメージしつつここのイメージ模型と現存実物写真とを対比的に見ると興味深いかもしれません。 高御座の八角屋根の中央部に大鳳、陵部に小鳳が飾ってあります。 大鳳 小鳳説明パネルには、鳳に対し Phoenix(フェニックス)と翻訳してあります。「鳳」は「①おおとり。中国で、想像上の霊鳥。おすのおおとり。②天子のことについていうのに用いる」(『日本語大辞典』講談社)「鳳凰」と対で使いますが、対義の「凰」は「おおとり。中国で、想像上の霊鳥。めすのおおとり」(同上)を意味します。「Phoenix」は「フェニックス。不死鳥(アラビア砂漠に住み、500-600年ごとに自ら焼死し、その灰の中から生き返るという霊鳥)」(『ジーニアス英和辞典』大修館書店)と説明されています。 高御座の御帳台には東西と北の三方に階段が設けてあります。現存の高御座は北側だけに階段があるようです。大極殿の床面は石敷です。石板が敷き詰められていたようです。仏教寺院の講堂・金堂・法堂などの床面は大抵、甎(せん)と呼ばれる平板瓦が敷き詰められているのはたぶんご存知のことでしょう。さて、一旦入口まで戻りますと、まず目に止まる高御座の北東側に、実物大の鴟尾が一つ展示されています。 写真を撮るのを失念しました。屋根上の鴟尾を再掲します。目に前に金色に輝く鴟尾を見るとその大きさにまず圧倒されます。高さ約2m、底面の長さ約1.5m。青銅製で表面に5層の金箔がはられているそうです。重さ約1トン。朱雀門の鴟尾より約0.7m高いとか。発掘調査では平城宮跡から鴟尾は発見されていないと言います。奈良文化財研究所が、同時代である唐招提寺金堂(8世紀後半)の鴟尾と大阪府柏原市の鳥坂寺跡(高井田廃寺、7世紀後半)の鴟尾を参考にして、初唐様式の影響の強い形のデザインで復原したものだそうです。(リーフレット、資料1)南門の復原整備工事は2022年3月の竣工を目標に進められています。前回の記事をまとめた後で、リサーチしていて2020年秋に南門に鴟尾が設置されたことを知りました。前回記事の補遺に情報を追加しました。この鴟尾は大極殿鴟尾の縮小版が使用されたということも知りました。(資料2)この第一次大極殿は、聖武天皇が恭仁京に遷都をするまで約30年ほど存在した建物です。(資料1)高御座と入口の間には、方位と四神の関係をパネル説明している箇所があります。それは、この大極殿の小壁彩色とも関係してくるからのようです。そこで、まず平城宮いざない館でご紹介した展示室3の構造模型(1/5)を再掲します。 これは大極殿の中央断面を西側から眺めた初層屋根とそれを支える組物部分並びに上層部分です。 こちらは初層内部の構造です。天井をご覧いただくと、「天井桁の間に太い木材を格子状に組んで上に板を載せた組入天井という形式」(リーフレットより転記)が採り入れられています。 大極殿の柱は建物本体を支える内側の柱列と初層の屋根を支える柱列との二重になっています。右側が大極殿の正面側(南面)です。この建物構造模型と対比させながら、以下この大極殿の建物内部をご覧ください。 入口に近い位置です。高御座の北西角側で、内側の柱列が手前に見えます。最初に目にとまったのが、柱に垂直方向に亀裂が見えることです。全部確認したわけではありませんが、少なくとも数本で長い亀裂が目に止まりました。経年変化によるものか、当初から意図されたものなのか、素人の私にはわかりませんが・・・・。 北西隅を見上げた天井です。柱で支えられた桁と格子天井の間に漆喰壁の小壁があります。ここには動物たちが描かれています。四周に巡るこの障壁は、上村淳之画伯により四神・十二支の彩色画が描かれています。(リーフレットより) 入口側には向かい合う「白虎」(西)が描かれ、雲形図の小壁一面を夾み、北側には「酉(鶏)」「雲形」「戌(犬)」「雲形」「亥(猪)」と巡っています。 そして「玄武」(北)が続きます。 東側の中央部には「青竜」(東)が描かれています。 格子に組まれた天井部分には、一区画ごとに蓮の花が描き込まれています。 上部の格子天井から流れるように曲線を描き小壁上の桁に連なる天井面は蓮華を側面から見た意匠の図が連綿と描きこまれています。 高御座の正面前の小壁には「朱雀」(南)が見えます。 「雲形」を夾んで「午(馬)」が続きます。 東側で見上げた頭貫・柱・組物・桁・天井の姿です。大極殿内部の四周を眺めていただいて、お気づきですね。上層階に上がる階段はありません。外観は二階建ての重層です。大極殿では二重の内部は屋根裏のようなものです。「二重は格式の高い外観を造るために設けられたと考えられています。」(リーフレットより転記) 高御座の北東側に「大棟中央飾り」が展示されています。その続きの北東角エリアの北壁面には、 軒丸(軒丸瓦) 金具類大極殿復原に使われた様々な飾金具や釘が展示されています。そして、 復原工事に用いた主要木材の入手から建築部材の組み立て工程 飾り金具の製作工程と取り付け 建物の主要部材塗装と天井の彩色の作業 瓦の整形から瓦葺きまで。瓦の種類復原工事関連の説明パネルが掲示されています。詳しくは、大極殿でご覧になってください。 入口に近い側(西)には、内裏解説としてこんなパネルも設置してあります。南の広場側から大極殿を見た儀式の景色です。「大極殿の前面、塼(古代のレンガ)を積んだ高さ約2.4mの擁壁の下の広場が内庭です。大極殿で行われる国家儀式の際には、ここに貴族が立ち並びました。内庭は築地回廊で囲まれていましたが、その南辺中央に門が開き、饗宴などをおこなう中央区朝堂院へとつながっていました。」(説明文転記)大極殿正面の外にでてみましょう。 正面には階段があります。東側の高欄の束には色玉の宝珠付き金具が打たれています。 五行色に対応する五種の色玉が配されています。五行というのは、「古代中国の思想で、万物を生成するとされる五つの元素、木・火・土・金・水をいう」(『日本語大辞典』講談社)。陰陽五行説という語句を思い浮かべられるかもしれません。その説でいう五行です。 東には、若草山の麓に位置する大仏殿の鴟尾と屋根が遠望できます。 この辺で大極殿内部の拝見を終え、東の出口から出て、北側に回り込み大極殿を後にすることに・・・・。 南東側から眺めた大極殿この後、今回の探訪でめざしたのは「東院庭園」です。つづく参照資料*案内リーフレット「特別史跡 平城宮跡 第一次大極殿」(文化庁文化財第二課)1) 巨大鴟尾(平城宮跡大極殿)が完成 奈良新聞 :「平城宮跡の散歩道」2) 「大極殿院鴟尾の検討 -第一次大極殿院の復原研究16-」 今井晃樹・中川二英著 奈文研紀要 2015 p4 奈良文化財研究所補遺第一次大極殿 :「平城宮跡資料館」世界遺産-平城宮跡- YouTube平城宮第一次大極殿院の発掘調査(平城第520次調査)現地説明会 資料:「奈良文化財研究所」第1次平城宮 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ :「岐阜女子大学」第一次大極殿復原整備 特別公開(最終回) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 平城宮跡歴史公園 -1 大宮通・長屋王邸跡・朱雀大路・平成宮いざない館 へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -2 平城宮いざない館 館内へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -3 二条大路・朱雀門・南門(復原工事中)・第一次大極殿 へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -5 第二次大極殿遺構から東院庭園へ
2021.03.18
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平城宮いざない館で入手した「平城宮跡歴史公園マップ」から切り出しだ部分図から始めます。 これは前回、最後に載せた景色です。冒頭の部分図と合わせていただくと、写真の左端に見える柳の並木が朱雀門前の二条大路南側の並木になります。そして、朱雀門前のこの一帯が「朱雀門ひろば」です。”平城宮跡歴史公園の見どころ、出土品や資料公開を通じて奈良時代を今へ伝える「平城宮いざない館」。奈良の観光拠点となるインフォメーションセンターや奈良の特産品が購入できる「天平みつき館」。公園の景色を眺めながら洗練された食を楽しめる「天平うまし館」。サイクルステーション、展望デッキ、VRシアターなどアクティビティの拠点となる「天平みはらし館」。団体旅行客の待ち合わせ場所・休憩所としても利用できる「天平つどい館」という、5つの館と芝生広場、復原遣唐使船などの屋外スペースを合わせた広大な公園”(資料1)と説明されています。 二条大路の南側、平城宮いざない館の北西角辺りから眺めた朱雀門です。朱雀大路については既にふれています。この二条大路についてですが、発掘調査で南北両側溝が確認されていて、「南側溝は幅約6.0m、深さ0.7mで、南北両側溝間の心心間距離は約36.8m」(資料2)だそうです。つまり側溝部分を除くと、二条大路はおよそ30mの幅だったようです。そして平城京の都市計画では、大路と大路の中軸線の間隔は1500大尺(約531.9m)だったそうです。(資料3)イメージとしては、JR奈良駅の北側に東西方向に三条通りが通っていますので、ここから真っ直ぐ500m北に歩けば二条大路に至るということになりますね。朱雀門に向かいます。 正面から眺めた朱雀門。正面5間、奥行2間です。入母屋造り本瓦葺き五間三戸の二重門という形です。 こちらは入手したこの朱雀門のリーフレットです(文化庁文化財第二課作成)。この表紙から朱雀門が閉じられた状態をイメージできます。当時は衛士たちがこの朱雀門を護っていました。この朱雀門の位置と規模は昭和39年度(1964)の発掘調査で初めて確認できたそうです。そして、平成元年度(1989)に全面の再発掘調査が実施されました。柱と柱の間の中心距離はいずれも17尺(約5m)、正面約25m、奥行約10mの大きさです。出土した屋根瓦から、藤原京に葺かれた瓦を再利用していたことがわかったそうです。朱雀門の復原にあたっては、様式は薬師寺東塔、部材の大きさは東大寺転害門を参考にしたそうです。国産檜を使い、4万2000枚の瓦が葺かれているとのこと。(リーフレットより) 上層の中央に「朱雀門」の扁額が掲げてあります。 鉄柵の手前に、朱雀門前での「歌垣」の様子が描かれた案内碑が設置されています。「歌垣」とは、「古代日本の習俗の一つ。農村で春や秋に男女が集まって、歌のかけ合いや歌舞飲食を楽しみ、性的解放も伴う行楽行事」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。その続きに「のち貴族社会では芸能化した。」とあります。この状況は芸能化の要素が強まった歌垣を表しているのでしょうね。朱雀門前は、元旦の儀式の場としても使われたといいます。朱雀門は平城宮の南面中央に位置する正門です。門の左右には高さ6mの築地塀が築かれ、約1km四方の広さの平城宮を取り囲んでいたそうです。(リーフレット・案内碑より) 屋根の四隅にはそれぞれ風鐸が吊され、大棟の両端には鴟尾が置かれ、それぞれが燦然ときらめいています。風鐸の復原には四天王寺講堂出土品を、鴟尾の復原には唐招提寺金堂などを、それぞれ参考にしているそうです。(リーフレットより) 降棟の先端には前回ご紹介している平城宮出土の鬼瓦、瓦当が蓮華紋の軒丸瓦、唐草紋の軒瓦の復原品が使われています。 リーフレットの裏面にのる「朱雀門関連年表」です。それでは、朱雀門から平城宮跡に入りましょう。 平城宮跡の全体の様子は入手したこの「平城宮跡歴史公園マップ」が参考になります。位置関係をご理解いただくのに便利でしょう。 部分拡大図にしてみました。 朱雀門を入ると、近鉄奈良線の線路が平城宮跡を斜めに横断しています。 線路の踏切を渡る前に南東方向を眺めて撮った朱雀門です。 中央区朝堂院沿いの西側通路を進みます。北西方向の景色です。 朝堂院跡地の西端を北に進みます。第一次大極殿院のエリアの南辺中央で「南門」の復原整備工事が行われています。覆屋の前面に復原想定図が描かれています。 中央区朝堂院跡の景色です。右は東方向の景色。 覆屋の左に見える平屋の建物は、復原整備工事の関連施設で、復原部材の保管所という意味の表示が出ていました。正確な名称は記憶していません。写真も撮らず。 こちらは前回ご紹介した特別展「鬼神乱舞 護る・祓う・鬼瓦の世界」の図録の裏表紙の写真の引用です。現在進行中の復原整備工事において「南門の屋根に据えた復原鬼瓦」です。稚児棟の鬼瓦が正面から撮られています。工事関連施設の側を回り込むと、第一次大極殿の全体が見えてきます。 こちらは同様に入手した第一次大極殿のリーフレットです。参照しながら少しご紹介します。昭和40年(1965)から第一次大極殿地区の発掘調査が開始されました。ところが、第二次大極殿が東の方に建てられたとき、この場所に「西宮」が造営されました。そのため、第一次大極殿に関する地中の痕跡はほとんどない状態だったそうです。「そうしたなか、大極殿の基壇及び階段の地覆石(じふくいし)の痕跡と見なしうる溝状遺構が部分的に検出されました。それをもとにした調査・研究の成果により基壇や階段の規模を確定したのです。」(リーフレットより転記)とのこと。第一次大極殿は、正面9間、奥行4間で入母屋造り二重屋根本瓦葺きです。東西の長さは約44.0m、南北の長さは約19.5mで、基壇の高さ約3.4mを含めて、高さ(棟高)は約27.1mです。国内産の檜と欅(けやき)が使用され、屋根瓦は約10万枚が葺かれたとか。 「大極殿」の扁額をよく見ると、「極」の文字が当用漢字とは違います。「年代の近い『長屋王願経』奥書から集字しました」(リーフレットより)と説明されています。 鴟尾と中央飾り「法隆寺の宝珠を参考に、鴟尾は、初唐様式の影響の強い形に復原しました」(リーフレットより転記)と説明されています。 風鐸 西側面大極殿拝見の入口は建物の北側(背面)にあります。基壇上を回ってこの入口から内部に入ります。上層を眺めると奥行は2間です。 鴟尾の背面には蓮華紋のレリーフが2つ見えます。屋根の側面を見ると破風の合掌部に取り付けられた飾り金具が、後世の寺院などで一般的に見られる形と異なります。破風に沿う形で飾り金具が付けられ、その下に懸漁を付けるというのが一般的だと思います。ここは、縦長の飾り板金具が懸魚も兼ねている感じのようです。興味深いところです。 大極殿出土瓦に特有の「しっとりした黒色」を忠実に復原したといいます。(リーフレットより)序でに、関連として特別展で見た出土鬼瓦をご紹介します。平城宮跡からの出土鬼瓦はどの地点からの出土であるか見方も説明されていました。(資料4) (平城宮ⅠA)これは第一次大極殿院が出土地点の鬼瓦で、朱雀門辺りでの出土鬼瓦と一緒だそうです。 (平城宮ⅣA)こちらは第二次大極殿、東区朝堂院の両地点から出土した鬼瓦鬼神の雰囲気がかなり変わりますね。おもしろい! 朱雀門と同様に、「第一次大極殿関連年表」を引用しておきます。第一次大極殿院は南北約320m、東西約180mという広さの区画です。周囲を築地回廊で囲み、南面の中央に南門を設置、その両側(東西)に楼閣を構えていたといいます。北側を一段高くして、大極殿と後殿を配置し、大極殿の前(南側)は、儀式の際に貴族たちが整列する広場になっていたそうです。それでは、大極殿の内部に入りましょう。大極殿も無料で拝見できます。つづく参照資料1) 朱雀門ひろば :「平城宮跡歴史公園」2) 平城京朱雀大路・二条大路(右京三条一坊一・ハ坪) 現地説明会 :「奈良文化財研究所」3) 「平城京の条坊設定方式について」 井上和人 奈良文化財研究所4) 特別展図録『鬼神乱舞 護る・祓う・鬼瓦の世界』 編集発行 奈良文化財研究所補遺平城宮跡 :「奈良文化財研究所」平城宮跡歴史公園 公式サイト平城京 :「ジャパンナレッジ」朱雀門 :「平城宮跡資料舘」大極殿 :ウィキペディア 平城宮第一次大極殿院復元模型(平城宮跡資料館)の写真が載っています。平城宮跡の「第一次大極殿院南門」復元で儀式=奈良 YouTube平城宮跡歴史公園 第一次大極殿院南門の「鴟尾」が設置 YouTube平城宮跡 【東儀秀樹 Natural Moment 】 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 平城宮跡歴史公園 -1 大宮通・長屋王邸跡・朱雀大路・平成宮いざない館スポット探訪 平城宮跡歴史公園 -2 平城宮いざない館 館内へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -4 第一次大極殿(内部)へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -5 第二次大極殿遺構から東院庭園へ
2021.03.17
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入手したリーフレットに掲載の館内案内図(番号とカラー丸印を追記)をまずご紹介します。左端(西)の赤丸が入口です。真っ直ぐに幅の広いロビーが右端(東)まで延びています。館内には常設の展示室が4室(番号1~4)と企画展示室(番号5)があります。館内図の左下(南西角)には多目的室が設置されています。このロビーの幅についてです。「坪内道路(奈良時代の道路)と位置・道幅をそろえるなど、”平城京のかたち(都市計画)”が感じられる”遺構表示”となっています。」(リーフレットより)事後学習で再認識したのですが、いろんな工夫が盛り込まれているようです。 今回、まず第一目的の特別展を鑑賞するために、番号5の場所をめざしました。この館内では企画展示室で定期的に企画展が開催されるようです。私が見たかったのはコレ!「鬼神乱舞」と題された鬼瓦の特別展です。今回展示されている鬼瓦は法隆寺の鬼瓦と平城宮京から出土した鬼瓦でした。展示品の詳細は別テーマでまとめてみたいと思っています。うれしかったのは展示室内での展示品撮影がOKだったことです。今回はこのバナーの鬼瓦のご紹介にとどめます。左下が平城宮から出土した鬼瓦、左上は法隆寺の五重塔(室町時代中期)、つづいて右上は妻室(江戸時代前期)、右下が五重塔(江戸時代前期)の鬼瓦です。 これは案内図にマゼンタ色の丸を付けたところにあるショップで購入したこの特別展の図録です。表紙に使われているのは、法隆寺金堂大棟の鬼瓦で室町時代中期のものです。高さ75.6cm、幅55.5cmという大きさです。それでは、館内の常設展示を簡略にご案内しましょう。 入口を入ると左側(北側)に展示室1(番号1)があります。「平城宮跡のいま」というテーマでこの平城宮跡歴史公園の見どころガイドを目的とした導入箇所です。床面にはこの歴史公園のマップが広がっています。正面の左に、第一次大極殿の扁額のレプリカが見えます。この公園を楽しむための最新情報等が提供されています。 展示室1から展示室2(番号2)はこの東方向の通路で繋がっています。展示室2のテーマは「平城宮のようす」です。1300年前の平城宮にタイムスリップして、往時の姿をイメージしてみようという時空間です。 突き当たりには、羅生門の一部とそこを守る衛士が象られています。羅生門は平城京に入る南端の門です。左折すると、一段低くなったフロアーの中央に、 1/200の縮尺で「平城宮模型」が展示されています。ガラスケースの間、手前の説明パネルを詠みますと、「この模型は、奈良文化財研究所の50年を超える研究成果を反映したもので、奈良時代の前期と後期の復原を一体化した複合模型となっています。床面はこれまでの研究から想定されるイメージです。」(説明文転記)説明パネルの右側の独立したガラスケースは「東院庭園」の模型です。 観覧者は南側からまず平城宮の全体を俯瞰することができます。 模型を俯瞰する位置にこの横長のパネルが設置されています。タイトルは「平城京の謎」。現在この歴史公園に建物が復元されているのは「第一次大極殿」です。「第二次大極殿」の基壇も復原されています。なぜ大極殿が前期、後期と2つになったのか?その謎に迫ります。現地でこの説明パネルをお読みください。 後の壁面には2つの大きな説明パネルが掲示されています。「どのように国づくりをしたか?」 遣唐使粟田真人が登場しています。「どのように造営が行われたか?」 資材調達・土木工事・建築工事 期間は2年!! 北東のコーナーの展示 馬寮で馬の世話をする役人たち/朝堂院で催された騎射/役人たちの食事を作る大膳職 南東のコーナーの展示 酒造りの役所で働く役人たち/木簡で政務をとる役人がいる宮内省/内裏での天皇の生活展示室を出て、幅の広い通路を南に横断すると展示室3(番号3)です。テーマは「往時のいとなみ」。ここでは、平城宮を築いた匠の技や役人の仕事の一端をビジュアルに知ることができます。 まず入口で目に飛び込んでくるのが、この第一次大極殿の復原のために製作されたという構造模型(1/5)です。 間近に組物(斗栱ときょう)の構造を観察できます。二ツ斗、平三ツ斗の組物が使われ、三手先(みてさき)の構造になっています。この三手先は奈良時代に出現したそうです。隅柱の上の複雑な組物の様子、尾棰の出方などもよく見えます。(資料1) 側面から断面として建物構造を観察できるのものうれしいですね。 めったにこんな風に見ることができませんから。 「古代の巨大建築 大極殿のここがすごい!という説明パネルが設置してあります。 展示室の中央に構造模型が置かれていて、その周囲に「いとなみ」の場面がビジュアル化されています。反時計回りに眺めて行きます。南西側では、平城京に物資が運搬されてくる様子や物資梱包形態がわかります。 奈良時代の地図があります。平城京にどこの国からどんな食材が集められたかをパズルで学べるコーナーです。ジグソーパズルの感じでピースを使って考えながら楽しめるようです。残念ながら、コロナ禍の影響でピースは撤去されていました。 当時の貴族たちの食生活の一端を展示してあります。 併せて、一般庶民の食事のサンプルも展示してあります。 金釘の製作、鍛冶場風景です。手操作のふいごが使われていたようですね。QRコードをスキャンすると翻訳してくれる音声ガイドシステムも使われています。イラストとともに、QR Transrator と記されています。南側には、大極殿の前の広場に並ぶ官吏たちの姿が簡略形式で再現されています。 東壁面には、「古代建築 工人たちの仕事」が、イラスト図と文で「1 設計する」から「13 飾り金具を取り付ける」まで工程順に説明されています。わかりやすい提示です。その前に平城宮で見られるいろいろな瓦が展示され、屋根の葺き方の展示もあります。 左から軒平瓦、鬼瓦、軒丸瓦 左上に正規の丸瓦が展示され、降棟の葺き方と屋根の平瓦と丸瓦を使った本瓦葺きの模型が置かれています。その左側には様々な形の瓦が展示されています。(資料2) その隣りに、組物が部分的に組まれて展示されています。大斗、肘木、方斗、巻斗が柱の上に組まれている形がよくわかります。(資料1)省略した箇所がありますが、展示室3の大凡です。再び通路に出て、東に向かいます。 通路の一隅に、この展示があります。金具で補強して展示されています。「井戸枠」(青色の丸を付けた場所)です。平城宮から出土したものの展示なのでしょう。 渡り廊下のガラス壁面から何気なく南側の外を眺め築地壁(坊垣)を見て写真を撮ったのです。後でリーフレットを読みながら再確認していて、屋外の地面の等間隔の敷石表示が「坊間小路」を表しているそうです。これも「遺構表示」の一環なのでしょう。確認はしていませんが「条間小路」の表示もあるそうです。最後は渡り廊下の先のロビー北側にある展示室4(番号4)です。ここのテーマは「時をこえて」出土品と資料から奈良時代を読み解こうという試みです。 展示室に一歩足を踏み込むなり目にするのかこの横たわる長い木の幹です。「木樋」と説明されています。奈良時代の配水管だそうです。木の幹の内部が刳り抜かれて見事なパイプ状になっています。整形するのに相当な労力がかかったでしょうね。圧巻です。 いくつかの平城京に位置する有名寺院の軒丸瓦と軒平瓦が展示されています。個別には撮影OKとNOが並存していました。ここではこれだけ撮った次第。 左の写真の縮尺模型中の左は前回ご紹介ずみの長屋王邸跡の模型です。右の写真は、右側の方で、「下級役人の住居の模型(S=1/100)」とプレート表示されています。 長屋王邸跡から出土した木簡のほんの一部を展示したコーナーがあります。これらを克明に読み込んで行けば、当時の「長屋王邸のくらし」がわかる!ここだけでも読み込んで行けばかなり時間がかかりそうです。今回はさらりと拝見して先を急ぐ結果に。次の機会の実行課題が残りました。 ちょっと不気味(?)な感じ! 「大祓(おおはらい)」というコーナーがあります。出土したヒトガタ(木製人形)です。朱雀門と壬生門の間で「大祓」という祭祀が行われたそうです。平城宮壬生門前の二条大路北側側溝から、何と207点出土したと言います。大小様々な木製人形とともに、少数の鳥形、舟形、刀形、斎串なども出土したとか。「人形には、天皇・皇族が使用したとされる珍しい銅製のものも含まれています。このことからも、大祓が最上位の人々も参加する国家的な祭祀だったことがわかります」(説明文一部転記)「祓いとは、人形、舟形、鳥形などの形代(かたしろ)に穢(けが)れなどを移し、流水に投じることで、身についた罪、穢れ、災いなどを祓う祭祀です。」(説明文転記)大祓は、6月と12月の晦日(みそか)に朝廷と諸国で大規模に行われたと言います。都や国土、天下万民の穢れを祓うという祭祀です。 「平城京の祈りとまじない」についての説明パネルがあります。また、胞衣壺と地鎮具を地面に埋める風習、並びに井戸の祭祀についてもパネルに写真・イラスト付きの説明が行われています。 様々な出土品の展示 第一次大極殿院から出土した「磚(せん)」も展示されています。この展示室の最後に、次の2つの図に触れておきましょう。このコーナーの説明パネルの一部です。 一つは、役人の位階に応じた居住地の広さと年収が図で表された説明です。イメージが湧きやすいですね。まさにピンからキリです。 それは勿論、平城京のどこに住んでいたか? 住むことが出来たか?に関係して行きます。こういうのは、文字だけで読むより、イラスト図や図式化したビジュアルなアプローチを助けとするほうがわかりやすい!上記の役人の居住地の広さと年収の説明図の下に、平城京の役人の人数と平城京の人口が人頭図で描いてあります。役人は約7,000人、当時の人口は約5~10万人だったそうです。さて、それでは平城宮いざない館を出て、朱雀門に生きましょう。 平城宮いざない館の北側から東を眺めた景色です。真っ直ぐ先に若草山が見えます。つづく参照資料1) 『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社2) 『瓦に生きる 鬼瓦師・小林平一の世界』 小林平一 駒澤琛道[聞き手] 春秋社補遺平城宮跡 :「奈良文化財研究所」平城宮跡歴史公園 公式サイト 平城宮いざない館平城宮 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 平城宮跡歴史公園 -1 大宮通・長屋王邸跡・朱雀大路・平成宮いざない館 へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -3 二条大路・朱雀門・南門(復原工事中)・第一次大極殿 へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -4 第一次大極殿(内部)へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -5 第二次大極殿遺構から東院庭園へ
2021.03.16
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この地図は位置関係をご理解いただきやすいように、PRチラシに掲載のものを引用しています。コロナ禍のステイ・ホームで1ヵ月余ぶりにJR奈良線に乗りました。直接の目的は、平城宮いざない館と奈良国立博物館を訪れることでした。それと併せて、平城宮跡歴史公園の一部を探訪してきました。今回はこの探訪部分を中心に探訪記をまとめてご紹介します。年初に今年の干支であるウシに絡めて、過去に探訪した寺社の記録からウシ巡りをしてみました。その後、ふと関心事項の一つとして探訪の折りに併せて撮っていた鬼瓦や獅子口の写真を過去十有余年の探訪記録写真から抽出してみようと思いつきました。その整理がまだできないのですが、その途中で、年初に京博に行ったのが今年のJR奈良線の初乗りでした。 その時、京都国立博物館の平成知新館でこのPRチラシを入手したのです。平城宮いざない館で、「鬼神乱舞」と題して、「護る・祓う・鬼瓦の世界」という副題で鬼瓦の展示を「入館料無料」で鑑賞できるという案内です。 冒頭の地図は、このチラシの裏面に掲載されているものです。JR奈良線の奈良駅は赤丸を追記した位置です。ここを出発点にして、まずは平城宮いざない館を目指します。平城京の地理を体感することとステイ・ホームでの運動不足を兼ねてウォーキングで現地をめざします。かつて、第一次大極殿が復原され一般公開された時は、近鉄奈良線西大寺駅から平城宮跡に行きました。奈良駅から行くのは初めてですので、一番わかりやすい行路として、まずは奈良駅前の県道754号線を県道の北端「油阪」交差点に北行し、この地点で大宮通りに左折し、西に向かうことにしました。 大宮通り、西方向の眺め大宮通りは現在では奈良市の東西のメインストリートになっています。冒頭の略地図をみただけで当日この通りを歩いて現地に向かい、何となく平城京時代の二条大路にあたるのかなと思っていました。後で地図を確認したり少し調べてみると、違っていました。「油阪」を奈良博に行く際に東進したのですが、冒頭の地図にあるとおり大宮通りは近鉄奈良駅に至ります。近鉄奈良線は1969年(昭和44)に日本万国博覧会開催を控えた一環で地下化が実施され、線路は油阪西交差点の北あたりから大宮通りの地下に潜っています。大宮通りは近鉄奈良駅以東は「登大路」と改称されて、県庁前の通りとなります。一方、大宮通りの西側は奈良市宝来町に至ります。現在の大宮通りは幅の広い道路ですが、平城京時代には三条大路と二条大路との間に位置する小さな坊条通りの一つだったそうです。今では、大宮通りがメインになりました。かつての二条大路は幅36mもある主要路の一つだったそうですが、現在の二条通りは幅の狭い生活道路に変化し、各所で分断され、通りとしては部分化しているようです。(資料1)元に戻ります。西に進んで行くと、 「一級河川 さほがわ」の表示が目に入ります。「大宮橋」がかかっています。 橋上から上流側を眺めると、河川工事中です。 奈良国立博物館に向かうために、大宮通りを東進する際には南側歩道を歩きました。 こちらの佐保川両岸は改修工事が完了し、スッキリしていました。佐保川は、「奈良市春日野町・生琉里町(ふるさとちょう)境の花山と芳山の間の谷(一帯は春日原生林)」を源とし、一級河川の起点は「奈良市中ノ川町石出・クレ橋」と言います(資料2)。その佐保川が人造の堤によって法華寺の南あたりから真南に直流し、五条大路近くで南西に方向を転じ平城京を南に流れ下って大和郡山市・川西町・安堵町の境界付近で大和川に合流します。(資料2,3,4)一方、平城宮の西側には秋篠川が南流し、八条大路の先で佐保川に合流します。東の佐保川と西の秋篠川が平城宮の東西を守護する役割を果たしていると言います。(資料3)また、平城京に遷都された際には、藤原京からいろいろな建築資材を運ぶために初瀬川を下り佐保川を舟でさかのぼって運んという記録が残されているそうです。(資料4)佐保川は、『万葉集』に収録されている歌にも多く詠まれています。(資料5,6)大伴坂上女郎はこんな歌を詠んでいます。 佐保河の小石ふみ渡りぬばたまの黒馬の来る夜は年にもあらぬか 巻4、525 千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ波止む時も無し我が恋ふらくは 巻4、526この二首は京職藤原大夫から贈られた歌に対する返歌4首のうちの2首です。また、 うち上る佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも 巻8、1433大伴坂上女郎はこんな歌も詠んでいます。 千鳥鳴く佐保の河門の清き瀬を馬うち渡しいつか通はむ 大伴宿禰家持 巻4、715 佐保河の清き河原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも 詠み人知らず 巻7、1123 佐保川に凍り渡れる薄氷(うすらひ)のうすき心をわがおもはなくに 大原櫻井眞人 巻12、4478尼が頭句を詠み、大伴宿禰家持が末句をついだ次の歌も載っています。 佐保河の水を塞(せ)き上げて植ゑし田を 尼の作 刈れる早飯(わさいひ)はひとりなるべし 家持續ぐ後の時代に、西行法師は、 見渡せば佐保の河原にくりかけて風によらるゝ青柳の糸 山家集、54と詠んでいます。(資料7)大宮橋を渡ると、北側歩道は「奈良市役所」前を通過します。 その先に「大宮小橋」が見えます。佐保川より幅の狭い菰川に架かる橋です。この川側に「ミ・ナーラ」という大きなビルが建っています。イトーヨーカドーと奈良市美術館が入っているそうです。道路傍に設置された案内地図によると、この辺りの現住所表示は二条大路南一丁目で、大宮通りの南側は三条大路一丁目になります。 このビルの手前、歩道よりで目に止まったのがこの案内碑「長屋王邸跡」です。 案内板の説明によりますと、1986(昭和61)年から発掘調査が行われ、1988年に大量の木簡が出土したことによりここが長屋王の邸宅であることがわかったそうです。「長屋王の父は天武天皇の長男高市皇子、母は天智天皇の娘舞名部皇女で、王の妻は元明天皇の娘吉備内親王でした。右大臣藤原不比等の死後、国政の中心人物となりましたが、神亀6年(729)に謀反の疑いにより自尽に追い込まれました。」(説明文転記) 長屋王の邸宅は平城宮の東南に隣接していて、「平城京左京三条二坊一・二・七・八坪の4坪分を占め、約6万㎡もの広さがあり」、「長屋王の住居は面積360㎡の掘立柱建物で、天皇の住居である平城宮内裏正殿に準ずる広さ」があったと言います。邸宅内の井戸やごみ捨て穴から、約4万点の木簡が出土したのです。 序でに、先取りして「推定復原 長屋王邸」の縮尺模型(1/100)をご紹介しておきます。 この模型は、「平城宮いざない館」の「展示室4 時をこえて」の一隅の壁面に取り付けてあります。「築地塀で約250m四方の宅地を囲み、北門を二条大路に開きます。大路に面した門を設けられるのは貴族だけでした。大きな建物が並ぶ南半を長屋王とその家族の生活や儀式の場、井戸や中小の建物が多く、ものづくりを示す遺物も出土した北半を、王家を支える家令や職人たちが働く場としました。未発掘の西、東北、南部は推定復元。」(説明文転記) さらに西に歩むと、この築地塀(坊垣)が見えます。 この築地塀は、「版築(はんちく)」という工法で塀が築かれています。版築とは「築地の造り方で、両板を以て夾み、土をその中において杵き固めること。」です。(資料8)厚みのある土の板が重ねられたような外観を見せています。 築地塀の屋根は瓦葺きです。丸瓦と平瓦を使った本瓦葺きです。軒丸瓦の瓦当(正面)は複弁の蓮華紋を珠紋が円形に囲む意匠です。棟は熨斗瓦のうえに丸瓦が載っています。その先端は土で固めてあるだけです。 築地塀の西側。道路の両側には街路樹として柳が植えられ、側溝が設けてあります。 南北の道路「朱雀大路」で、北の端に「朱雀門」が遠望できます。 「平城宮跡歴史公園 案内図」が設置されています。案内図から直接関係する部分図を切り出して拡大してみましょう。 案内板のある現在地から北東方向、朱雀門の南東側に今回の第一目的地「平城宮いざない館」が位置しています。 大宮通りから北のほぼ正面に朱雀門を眺めます。朱雀大路は平城京のメインストリートです。この朱雀大路を基準に碁盤目状に平城京が区画されていきました。朱雀大路の東側が左京、西側が右京です。北の内裏に居て南面される天皇が都を眺めたときの左、右です。朱雀大路の路面の幅は約70m。その両側に側溝などがありますので、両築地塀の間の幅は約90mだそうです。大内裏の南端部に位置する朱雀門から都の正面となり南端に位置する羅城門まで、まっすぐ南北に約3.7kmこの大路がのびていたのですから、壮観ですね。現在は、平城宮跡から大宮通りまでの南北約220m(幅約90m)の範囲が朱雀大路として国の史跡に指定されているそうです。(資料9)そして、朱雀門前のこの大路では、「元旦に儀式のために騎兵が整列し、また歌垣、雨乞いなどの行事も行われたことが記録に残っています。」(資料9) 朱雀門をズームアップしてみました。朱雀門の向こうに門が見えます。「第一次大極殿院南門復原工事」が現在実施されていてその覆屋に描かれている南門のイメージです。後に改めてご紹介します。 朱雀大路の西側の整備状況です。東側の坊垣の景観を重ねてイメージを描いてみてください。 この朱雀大路の西側には、「総合案内板」が設置されています。現在地と表示されている位置です。大宮通りに近い側に池を設け、そこに「復原遣唐使船」が浮かべてあります。その北側に、「天平みはらし館、天平つどい館、天平みつき館、天平うまし館」という建物群の区画があります。今回はこの区画には時間の関係があり立ち寄りませんでした。 朱雀大路を歩き、平城宮いざない館に向かう途中、上記の西側エリアを側面から眺めた景色です。復原遣唐使船の帆柱と舳先の一部が左端に見え、天平うまし館の平屋建てが見えます。 振り返ってみると、坊垣が見えます。版築工法の築地塀の雰囲気がお解りいただけることでしょう。 平城宮いざない館を南西側から眺めた景色です。 朱雀大路から平城宮いざない館の敷地側に入るときに南方向を眺めた景色平城宮跡の方に指さす銅像が建立されています。台座正面に名前の銘板が嵌め込まれています。棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)氏の銅像です。明治から大正にかけ、平城宮の保存活動を行った人。植木職人から転じ、私財をなげうち、文化財保護運動家として奔走したと言います。1906年に平城宮址保存会を設立、1910年に平城遷都1200年祭を成功に導きました。1913年に奈良大極殿址保存会を設立し宮跡の買収を進めますが、病に倒れ失明してしまいます。1921年、仲間の裏切りなどを苦に自刃してしまったと言います。(資料10) 正面入口へのアプローチです。それでは、平城宮いざない館に入りましょう。 これは入館後に入手したリーフレットの表紙です。この館自体入館料無料です。 あをによし ならのみやこは 咲く花の におうがごとく 今盛りなり 巻3、328『万葉集』に載る小野老が詠んだ歌。多くの人々がご存知でしょう。つづく参照資料1) 奈良きたまち二条通り :「一路一会 古い街並みと集落」2) 佐保川 :「AGUA」3) 『奈良県の歴史散歩 (上)』 奈良県歴史学会 山川出版社 p48,p55-584) 佐保川 :「よみがえれ!大和川清流復活大作戦」5)『新訂 新訓 万葉集』 上・下巻 佐佐木信綱編 岩波文庫6) 佐保(奈良市) 萬葉ゆかりの地 :「萬葉の世界」(南都銀行)7) 『山家集 金塊和歌集』 日本古典文学体系29 岩波書店 p298)『日本古建築細部語彙 社寺篇』 綜芸舎編集部編 綜芸舎9) 平城京朱雀大路跡 文化財 :「奈良市」10) 棚田嘉十郎 :ウィキペディア補遺平城京 :「ジャパンナレッジ」平城遷都1300年-Q&A【平城京100の疑問】 :「奈良県立橿原考古学研究所」佐保川 :「楽しい万葉集」奈良県景観資産―桜並木が眺望できる佐保川・奈良県図書情報館付近― :「奈良県」条坊制 都市史 :「フィールドミュージアム・京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 平城宮跡歴史公園 -2 平城宮いざない館 館内へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -3 二条大路・朱雀門・南門(復原工事中)・第一次大極殿 へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -4 第一次大極殿(内部)へスポット探訪 平城宮跡歴史公園 -5 第二次大極殿遺構から東院庭園へ
2021.03.15
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