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京都と奈良を結ぶ国道24号線が通る伏見区豊後橋町まで出かけてきました。 宇治川に架かる橋が「観月橋」です。北詰の欄干、東側には「観月橋」、西側には「うぢかは」の銘板が嵌め込まれています。かつて指月の森と呼ばれた桃山丘陵台地の南端に陵墓「大光明寺陵」(伏見区桃山泰老長)があります。昔、この近くに北朝の持明院統の御所(伏見殿)があったと言います。伏見殿は応永8年(1401)7月、失火によって焼失し、その後再建されたそうです。しかし、戦国時代には荒廃するに至ります。この伏見殿があった頃には桂橋と称する橋が架けられていたそうです。(資料1)手許の本によれば、文禄年間に豊臣秀吉は伏見城を築くとき、大友豊後守宗麟に命じて、ここに新たに橋を架けさせました。そこから豊後橋の名が由来するそうです。一説には、橋の北側に豊後守の屋敷があったからとも言われています。(資料1) 江戸時代に出版された『都名所図会』には「伏見 指月 豊後橋 大池」と記し、橋と周辺の景色を挿画にしています。(資料2)秀吉は豊後橋の先に、巨椋池を縦断する太閤堤(巨椋堤/小倉堤)を築き、その堤の上を新大和街道としました。豊後橋が新大和街道の起点になります。指月の南にかつて巨椋池の広がっていたこの地は、観月の景勝地として愛されてきました。それをゆかりとして、明治6年(1873)に「観月橋」と改称されました。(資料3)前回、近鉄京都線大久保駅の近くで目に止まった道標をご紹介しました。そのとき、調べていて、この観月橋の北詰に道標があることを知ったのです。寒いけれど天気が良かったので、午後(26日)に運動を兼ね自転車で探しに出かけてきました。 観月橋の北詰、東側に京阪電車宇治線「観月橋駅」があります。7163その北西角、歩道橋の傍に、ひっそりと道標が立っていました。今では意識しないと道標の存在に多分気づかないでしょう。北詰と知っておて出かけたので、どこだろうと周辺をキョロキョロ眺めていて見つけた次第です。 道標の上部に方向を示す指の形が彫り込まれています。道標の北面に「やまとかいどう」、西面に「きょうみち」と刻されています。観月橋は東側から歩道、自転車道、車道、歩道と区分されています。 これは橋を渡って南から北を眺めた景色。茶色の部分が自転車道です。 この橋は、昭和11年(1936)年に架橋された鉄筋コンクリート造りの橋です。長さは四条大橋の2倍以上、約179mですが、道幅はせまくて12mだそうです。交通量の増加に対応するため、昭和50年(1975)、東側に車両専用の高架式の新橋が建設されました。(資料1,2) 南を向くと、その高架下に 「向島道路通称名称案内図」と 「向島地域東西道標」が設置されています。 こちらは東西方向に位置する町名を並べて表記してあります。 高架下の東側の道路の反対側の角地に、駒札が設置されています。 駒札には、1594年(文禄3)に「豊臣秀吉が豊後国大名大友吉統(よしむね)に命じて架橋させた」と記されています。ネット検索で調べてみますと、大友宗麟の長男、義統(よしむね)は1576年(天正4)に父宗麟から家督を相続した(一説に79年)とのことですので、秀吉が直接命じたのは吉統(義統)という方が適切なのかもしれません。「江戸時代には幕府直轄で管理がなされた公儀橋であったが、幕末に鳥羽伏見の戦いで焼失した。」新橋の完成が明治6年ということで、上記の通りこの時点で橋名が改称されました。 駒札の傍にこの板碑が建てられいます。線刻がそれほど深くなく風化が進んでいるため何が彫られているか判断しずらくなっています。最初は文字かと思っていたのですが、全体を眺めていると、ぼんやりとですが地蔵菩薩像が線刻されているのかな・・・・という気がしてきました。ご存知の方がいらっしゃればご教示ください。再び観月橋の北詰に戻ります。上掲道標傍の陸橋への通路の脇から歩道を少し東に行き、京阪電車の高架下を潜り抜けて、宇治川の堤側に回り込みます。観月橋の下を潜って西の欄干側に行くためです。 宇治川の堤側に行く前に、歩道から回り込む角に地蔵堂があります。地蔵堂の右に見えているのは歩道橋(陸橋)への階段です。 堤防傍から西方向の眺め。一番手前に見えるのが、高架式の観月橋の新橋です。そして、観月橋があります。宇治川の北側堤防沿いに坂道を下り、観月橋下を通過して西側に出ます。観月橋の先には、「単純トラスト橋として、日本で最長の径間長(165m)を誇る近鉄澱川(よどがわ)橋梁(国登録、1928<昭和3>)が架かり、現在の宇治川の鉄道景観を代表している」のです。(資料3) 現在の観月橋北詰、西側の傍に欄干の遺構と思えるものが一部残っています。その右(西)側に、石標が立っています。北面に「明治天皇御駐輦所観月橋」、東面には「明治十年二月七日 御駐輦」と刻されています。明治6年に観月橋の新橋が完成した後、明治10年に天皇がこの橋に立ち寄られた記念碑ということでしょう。 その西側には、この石標が建てられています。北面に「淀川維持区域標」、西面に「淀川 縦是下至海」と刻されています。素直に解釈すれば、観月橋の東側までが宇治川として維持管理され、橋の西側から淀川としての維持管理区域になるということなのでしょう。現在も生きている区域標かどうかは不詳。 すぐ傍に、この河川名の表示板が設置されています。この位置は、「大阪湾から約44km」の地点になるようです。 これは宇治川の堤防上の東側から、西方向の宇治川と観月橋の全景を眺めた景色です。この後、宇治川の堤防上を利用し帰路につきました。自動車を気にせずに自転車で走れる点がメリットです。少し寒かったけれど・・・・。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p136-1372) 観月橋 :ウィキペディア3)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p2344) 大友義統 :「コトバンク」補遺大友義鎮 :ウィキペディア大友宗麟 :「コトバンク」指月 :ウィキペディア【橋梁の基礎知識 その1- 橋梁の構造と種類について】 :「株式会社長野技研」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.12.27
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先日、JR奈良線の新田駅で下車し、近鉄京都線の大久保駅近くまで用事があって出かけました。その時、新田郵便局の傍で目に止まったのがこの道標です。古風なスタイルなのにまだ真新しい感じの大きな道標、そのギャップに違和感と関心の双方をかき立てられました。そこで要件を済ませてから、この道標の傍まで出向き写真を撮って帰ることに・・・・・。そのご紹介です。 道標の南面には、上部に観音菩薩坐像がレリーフされていて、その下に「右 うぢみち」と刻されています。自宅でインターネットの地図「Mapion」でこの場所を確認してみました。「広野町東裏」交差点の北東角になります。手許にある『京の古道を歩く』を参照するとこの道標のある位置は、大和街道の一地点と分かりました。(資料1) 掲載地図(p200-201)から切り出した部分図を引用します。部分図に赤丸を追記したところがこの道標の位置です。つまり、この道標から右(東)方向に行けば、宇治に至ります。宇治街道です。地図を見れば、宇治街道は東裏の東端のT字路から先が府道15号となります。府道15号はこのT字路で左折して南進するルートになっています。 宇治街道を西に進んで来ると、この道標の位置で左折すれば、南に向かい「なら道」つまり大和街道を歩むことになります。 奈良から大和街道を歩み、この道標の分岐に至れば、右(東)は宇治へ、左(北)に進めば京都に至ることになります。「左 京」の下はかな文字での「みち」でしょうか? 豊臣秀吉が宇治川の流れを付け替え、伏見城を築いた時に、その宇治川に豊後橋を架けさせました。そして、南に広がる巨椋池の中に向島から小倉まで縦断する巨椋(小倉)堤を築きます。その堤の上を奈良への最短距離の新しい大和街道にしました。豊後橋があったところが、現在の伏見区の観月橋です。(資料1)江戸時代に出版された『都名所図会』には、「巨椋の入江」という項が載っています。「巨椋の入江は豊後橋の南、向島より渺々たる水面なり。(土人小倉のお池といふ)中に大和街道ありて五十町の堤なり。(夏は蓮花河骨生じて、炎暑を避くるの江なり。冬は水鳥多く集りければ漁猟をなす)」と記されています。昭和の時代に干拓されて巨椋池が消滅してしまった現在では想像することも難しくなっていますね。観月橋を経由する道路、つまり新大和街道は現在国道24号と称されています。国道24号は向島を南東方向に進み、槇島で南進して、現在の国道1号に至り、国道1号と併走する道になります。一方、国道1号との交差点を起点に、大和街道は府道69号に切り替わります。府道69号は槇島、小倉を縦断し、近鉄京都線とほぼ併行に南進していきます。近鉄京都線伊勢田駅の少し南で、道が分岐しています。その分岐点が東裏地区の北西角あたりになります。分岐した東側の道路が大和街道だったのです。大和街道を南下すると、上記した「広野町東裏」交差点で、この道標が立つところです。かつてこの地点は、交通の要となる場所の一つだったと言えます。 なぜ、この道標が真新しい感じなのか?道標の北面を見て、理解できました。平成9年(1997)11月に交通災害事故が起こり、道標が破損したそうです。そこで、広野三丁目町内会が、平成10年5月にこの道標を再建されたということが刻されています。オリジナルの道標がたぶんこのスタイルのものだったということでしょう。重要な役割を果たしてきた古道の歴史の記憶を維持しようとされる思いが伝わってきます。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『京の古道を歩く』 増田潔著 光村推古書院 p196-2082)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫補遺奈良街道(京都府) :ウィキペディア観月橋 :ウィキペディア豊後橋 :「コトバンク」京都府-巨椋池干拓事業- 国内初の国営干拓事業 :「水上の礎」幻の巨椋池(おぐらいけ) 昭和初期に干拓、大雨で現れた大池の面影 :「月桂冠」消えた巨椋池の謎 :「淀緑地周辺の散策手帳」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.12.17
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寄り道話から始めます。慶流橋を渡り神宮道を北に進めば、平安神宮の応天門前に至ります。交差点で左折すると冷泉通です。この通りを西に歩めば、冒頭の武家屋敷のような門構えが見えます。その東側の脇門傍に、句碑が建立されています。 風薫る左文右武の学舎跡 野風呂 傍にこの案内板「薫風句碑」が設置されています。西側の脇門を通り、敷地内に入ると中央部は広い空間となっていて、 正面前方に大きな建物「旧武徳殿」が見えます。途中左右に「武徳薫千載」「高専柔道之碑」と刻された石碑が建立されています。 武徳殿は明治28年(1895)年に、大日本武徳会の演武場として建設計画が持ち上がり、明治32年(1809)に武徳殿が竣工したそうです。後に武術教員養成所(後の武道専門学校)も開設され、西日本での武道の中心的存在になったと言います。第二次世界大戦後は、時代に翻弄され、この武徳殿は様々な利用が行われるという変遷を経ているとか。現在は、毎年5月に「全日本剣道演武大会」(旧京都大会)がここで開催されているそうです。(資料1)この旧武徳殿の北側に、丸太町通に面した「武道センター」があります。 千鳥破風の正面の鬼瓦。古風な意匠の鬼瓦です。 棟の鬼瓦と降棟の先端部の鬼瓦冷泉橋を渡り、琵琶湖疏水沿いに南に下り、二条通に右折して東山二条の交差点に出ます。 この交差点の南東角は、築地塀を角切りし鉄柵を設けて境内が見える形になっています。廟堂と日蓮聖人立像の全体がよく見えます。 今春(2021.3.24)の探訪を遅ればせながらですがまとめています。丁度桜が満開の時季でした。台座には、「立正安国」という日蓮著『立正安国論』に由来する語句の銘板が掲げてあります。日蓮聖人の眼差しは北西に向かっています。京都御所を見つめていらっしゃるということでしょうか。ここは、「新洞学区寺院案内図」で言えば、右上角の番号1の位置になります。その南の番号8が前回ご紹介した本妙寺です。ここも本妙寺と同じ北門前町に所在します。「法鏡山正法華院妙伝寺」という日蓮宗勝劣派の本山です。(資料2) 本堂当寺は文明9年(1477)日意上人が、現在の下京区西洞院通綾小路上ル西側、妙伝寺町に創建したそうです。甲州身延山が京都から遠隔地にあり参詣するには不便であることを思ったことによるとか。(資料2,3,4) 本堂正面にこの「写西身延」の扁額が掲げてあります。本尊は法華主題牌。身延七面大明神の同木同像を勧請し、かつては七面堂に安置されていたようですが、お堂が廃絶となり、今は本堂に遷座しているそうです。(資料2,3,4)この寺もまた、豊臣秀吉の命により京極二条の北に移り、その後、例の「宝永の大火」で類焼し、大火後に現在地に三転するという経緯を辿っています。現在の本堂は、明和元年(1764)の再建とのこと。(資料2,3,4) 正面中央部には蔀戸が設けられていて、両側の桟唐戸の連子に五七桐紋が取り付けてあります。 本堂の屋根には、棟・降棟・隅棟・稚児棟のすべてに獅子口が使われています。獅子口には一条藤の紋が象られていると判断します。(九条藤という説も・・・)。軒丸瓦の瓦当にも同紋が使われています。 向拝の木鼻 向拝の蟇股(獅子と龍) 二条通に面した築地塀に近いところに、もう一つのお堂があります。このお堂の正面には「高祖舎利」の扁額が掲げてあります。廟堂です。宗祖日蓮聖人の骨舎利を移したことに由来する扁額なのでしょう。そしてこれが「関西の身延山」と呼ばれる起りとなります。(資料2,3,4)本堂正面の扁額がそのことを意味するのでしょう。 降棟の獅子口獅子口には、井桁に橘の紋が象られています。 廟堂屋根の飾り瓦 2つのお堂の間にあるのがこの建物。何だろうと近づいて眺めると、 鐘楼でした。 鐘楼屋根の鬼瓦 自由に拝見できる範囲の境内で目に止まったのが、本堂の向かいにあるこの「片岡碑」です。碑の頭部に紋が載っていて、碑の左側面に「十一代目」という文字が見えます。石碑の手前には、燈籠を兼ねていると思われる一対の石柱が立てられ、右の石柱には「片岡」、左の石柱には「我童」と刻されています。これらの語句からは歌舞伎役者の十一代目片岡仁左衛門を思い浮かべます。後で調べてわかりました。この定紋は「七ツ割丸に二引」と称するそうです。(資料5)明治から昭和初期にかけて活躍した十一代目の松嶋屋・片岡仁左衛門を記念する碑でした。また、妙伝寺は片岡家の菩提寺だそうです。(資料6,7)その縁もあり、例年、十二月に京都の南座の正面に掲げられる吉例顔見世興行の「まねき」は、この妙伝寺の本堂の背後に位置する客殿で書き込みが行われるそうです。(資料6,7) 妙伝寺の南隣りは「聞名(もんみょう)寺」です。門前の右側には「洛陽第十七番 地蔵尊」の大きな石標が立ち、その石標の左側面に「大炊道場 聞名寺」と刻されています。その背後に「身代地蔵尊」の石標が並立します。一方、門前の左側には、「贈正五位香川景樹大人墳墓」と刻された石標が立っています。 山門屋根の棟の鬼瓦 本堂 光孝天皇の遺勅により宇多天皇は、光孝天皇の皇宮小松殿を小松寺(天台宗)とされたと言います。寺は後に荒廃し、弘安2年(1279)一遍上人によって再興され、時宗となり、地名にちなんで大炊道場と称したそうです。場所は室町大炊御門大路でした。だが、例の秀吉の命で移転、さらには宝永の大火で類焼し、現在地に再転するに至ったそうです。(資料2)この聞名寺は時宗の清浄光寺、つまり時宗総本山遊行寺に属します。本尊は阿弥陀如来像で、光孝天皇の位牌が安置されているそうです。(資料2) 本堂屋根の稚児棟の獅子口。菊紋がレリーフされています。本堂前に2つの石造層塔が並んでいます。正面に向かって左(北)側の七重塔が「光孝天皇塔」です。軸部(室町)だけが古く後は後補されているそうですが、花崗岩製で約3.5mの高さだとか。(資料2)十三重塔を挟み、右隣り(南)にある小社は台座に「金剛稲荷大明神」の木札が取り付けてあります。 稲荷社の左斜め背後、本堂の手前に、地蔵菩薩坐像が安置されています。近年に造立された感じです。 境内の南辺に宝形造りの「地蔵堂」があります。京都では、六地蔵巡りが有名です。併せて「洛陽四十八願地蔵霊場」と「洛陽二十四地蔵霊場」という2つの霊場巡りがあるそうです。この聞名寺は「洛陽二十四地蔵霊場」の第十七番となっています。補遺をご覧ください。 お堂の拝所のところに石造の地蔵菩薩立像が安置されています。 堂内には、「明眼地蔵大菩薩」と赤地に墨書された提灯が吊りさげてあります。「明眼地蔵」と称され、眼病平癒のご利益があると信仰されているそうです。門前に身代地蔵尊とあります。眼病平癒もまた身代わりの一部と言えますね。(資料8,9) 拝所の地蔵菩薩立像の左斜め背後に、石造の観音菩薩坐像も安置されています。一方、地蔵堂の右側傍には「大日如来」の扁額を掲げた小祠があり、格子扉から拝すると石仏が安置されています。 地蔵堂の西側、山門を入ってすぐ右側、境内の南西隅の景色です。地蔵菩薩立像の周囲に整然と小さなサイズの地蔵菩薩立像が安置されています。彫像にはいくつかのスタイルが見受けられます。地蔵信仰の供養仏でしょうか。中には光背に水子供養と刻されている地蔵菩薩像もあります。水子供養が主体かもしれません。門前に立つ石標の香川景樹は、「(1768~1843)江戸後期の歌人。号は桂園。鳥取の人。『万葉集』支持の賀茂真淵に抗して、和歌の本質を『調べ』とし、清新な歌風を特色とした。桂園派を樹立。その歌風は明治まで隆盛だった。歌集『桂園一枝』、歌論『古今和歌集正義』など。」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。墓所は未訪です。東大路通のこの辺りも、若い頃から幾度も通ってきましたが、今春初めて境内を訪れました。事後学習を含め、いくつも新たな発見がありました。境内の一部の拝観ですが自由に拝観できるのはありがたいです。これで探訪の整理と記録を兼ねてのご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 武徳殿について :「京都府剣道連盟」2)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p212-2133) 妙傳寺 (京都市左京区北門前町) :ウィキペディア4) 妙伝寺 :「神殿大観」5) 片岡 仁左衛門 (15代目) 歌舞伎俳優名鑑-現在の俳優編-:「Kabuki on the web」6)「まねき」の寺、妙傳寺へ :「遊民悠民」7) 京都・南座 吉例顔見世興行 まねき書き 2021.11.6 :「KBS京都」8) 聞名寺(明眼地蔵) :「京都に乾杯」9) 聞名寺 (京都市左京区) 明眼地蔵 :「お寺の風景と陶芸」補遺野風呂記念館 :「現代俳句協会」洛陽二十四地蔵霊場 :「ニッポンの霊場」洛陽四十八願地蔵 :「京の霊場」京の六地蔵巡り :「京都観光チャンネル」片岡仁左衛門 :ウィキペディア吉例顔見世興行 南座 :「歌舞伎美人」光孝天皇 :「コトバンク」光孝天皇 :ウィキペディア香川景樹 :「コトバンク」香川景樹 :ウィキペディア香川景樹 :「千人万首」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -1 仁王門通の清光寺と寂光寺 へ探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -2 本妙寺 へ
2021.12.03
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仁王門通と東大路通の交差点を横断し、東に進むと仁王門通の北側、水道会館の手前にお寺があります。北門前町です。山門前、西側に設置されたお寺の掲示板に「祥光山本妙寺」と記されています。日蓮宗妙覚寺派のお寺です。(資料1)向かって右側の柱に、「京都義士會」の木札が掛けてあります。岡崎の美術館に行く時はこのお寺の前を通過していくのですが、今春初めて境内を訪れました。 山門の右側、仁王門通の北側歩道近くに2つの石標が立っています。左側の角柱石標が、上記の木札と関係しています。「赤穂義士墓 當山ニアリ」と刻されています。義士ゆかりの寺であり、通称「赤穂義士の寺」と呼ばれています。境内墓地まで行けませんでしたので、墓は参拝していませんが、手許の本によれば、赤穂浪士吉田忠左衛門・吉田沢右衛門・貝賀弥左衛門の遺髪および弥左衛門の妻おさんの4人を合した墓(合祀石碑)があります。宝永元年(1704)綿屋善右衛門によって建立されたと言います。この綿屋善右衛門は「歌舞伎の『忠臣蔵』に登場する天野屋利兵衛のモデルといわれ、貝賀が江戸へ下るとき、その妻子を託されたという。彼が義士とのあいだに交した書翰文や古文書等が、今のなお寺宝として所蔵されている」(資料1)そうです。右側の石標には、「鬼子母善神」と刻されています。当寺の鎮守として鬼子母神像が祀られていて大覚上人の自作だとか。安産守護で広く知られています。(駒札) 本堂本堂は南面しています。天正2年(1574)に新烏丸丸太町付近に日典上人が創建したお寺ですが、前回触れた寂光寺と同様に、「宝永の大火」で罹災し、後に現在地に移ったそうです。(資料2)日典上人は妙覚寺18世です。(資料3,4)本堂の屋根はよく見ると前回ご紹介の清光寺と同様の二段構えの重層造りの屋根になっています。今まで境内の景色を意識せずに素通りしていて、気づきませんでした。この本堂は、享保13年(1728)に日正上人により再建されました。(資料3,4,駒札) 本堂屋根の棟の鬼瓦 降棟の先端傍にこの飾り瓦が置かれています。何を形象しているのでしょうか。不詳です。 稚児棟の鬼瓦は顔全体が分かりますが、隅棟の鬼瓦は額と角あたりが見えるだけです。 本堂の西側の奥に、「祥光山荘」と記した扁額を掲げた建物(玄関口)があります。 山門を入った右側(東側)で本堂の南側には、鐘楼があります。 撞座の上の縦帯部分に「南無妙法蓮華経」の題目が陽刻されています。縦帯左側の池ノ間には、発願の銘文が陽刻されています。梵鐘全体を撮りましたので、判読は出来ません。下帯には、唐草文が見えます。 鐘楼屋根の棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦 境内の東側に「義士堂」があります。宝物館です。昭和5年(1930)に建立されたとか。ここには目賀弥左衛門の手槍、義士たちの手紙など赤穂義士の遺品や四十七義士の木像が祀られているそうです。また、上記の合祀墓は平成5年(1993)に改修されていて、元の合祀墓石がこの義士堂に奉安されていると言います。(資料2,3,4) 義士堂玄関屋根の鬼板12月14日には元禄義挙記念祭が行われ、法要と併せて義士堂(宝物館)を特別公開する行事が行われています。(資料3) 境内にはこの大きな「矢ツ車留吉碑」が建立されています。明治時代に京都相撲に関わった人です。京都相撲の末期、1907年には取締2人のうちの一人だったと言います。相撲の興行組織の中枢に居たのでしょう。力士として活躍した人とは思いますが手軽にわかる資料がありません。(資料5)つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p2102) 本妙寺 :「京都観光Navi」3) 本妙寺 :「京都通百科事典」4) 本妙寺 赤穂義士の寺 :「photograph.pro」5) 京都相撲 :ウィキペディア補遺妙覚寺 :「本山を巡る」妙覚寺 :ウィキペディア鬼子母神 由来と歴史 :「鬼子母神へようこそ」鬼子母神 :ウィキペディア赤穂義士 貝賀弥左衛門友信の一部始終 :「忠臣蔵」(赤穂においでよ) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -1 仁王門通の清光寺と寂光寺 へ
2021.12.02
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