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午後、歴史資料館へいきました。書きたいことがありまして、足元を固めるためでした。いつものように司書さんに親切にしていただいて調べはすすみました。 或る寺社と関わりを持つ、かっての宮家の事を調べたのですが、およそ、お付き合いのない貴族の家系のこと、宮家のみでなく、公爵、子爵、男爵の方々の分厚いページをくりながら深い憂愁に沈み込みました。 関係して、思い出した本を帰宅後、引っ張り出してみました。『雨の夜明けの物語』です。その中の「流離、陋屋にいきるとも」の最後には「その人を送って部屋にもどると、さきほど無理に請うた近詠の一首が、テーブルの上にのっている。運命の流れのままにけなげに生きた貴族の女性の姿は、この苛酷な都に千年来見られた筈だし、今も一人、しぐれのくる師走の町を、どこかの路地に帰って行くのであった。」と。「姫」がテーブルの上に残されたという一首をここに記しておきましょう。「くれたけの一夜ばかりととし暮れぬ あすの春待つ心たのしさ」 今日の一首 「幻のかぎりをふぶき両肩の尖れるときぞ雪を語るな」 山中智恵子(『みずかありなむ』昭和五十年発行)
2008.01.30
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他県へ嫁いでいる娘と所用があって三条から花見小路を四条通へ、その北側を加茂川大橋まで、引き返して南側を石段下まで歩きました。一軒の店に用事があったのですが、引越しをしやはったようで、追いかけていったのでした。 見つけましたが、ちょっと悲しいでした。老舗さんは老舗さんで落ち着いていやはった方がよろしかったと思いました。京都でこのような異変をこの頃ちょいちょい見かけます。京都人といわれるかも知れませんが、権威と名誉が長い目で見たら、かならずええ商売になります。子孫々までの。 京都人が京都をころしたらあきまへんえと思いました。一日一首「迷ふため来たりし道を夜の更けて市営のバスに帰る日常」 今日の一首 「サドは夢、サドは悪魔と唱えつつ図書館までの道あおきかな」 江戸 雪(『Door』2005初版)
2008.01.28
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細田一憲さんとおっしゃるお方の「詩と写真展」を見せていただきに行ってきました。25日のことでした。寒い日でした。でもわたしにとって、或る懐かしい記憶の智恵光院という場所の地名も案内状に見えていましたので、行きました。それに「僕の見た景色~」という案内の言葉に惹かれたからでありました。 わたしは写真のことは意識的に何もわかりません、またわかろうとも思いません。でもブログのために、デジカメを持ち歩くようになってから、ああ、これが自分の見ている景色なのかと、変なことにあらためて思いいたっております。 細田さんのお写真を拝見しても何も考えず、ああこれが細田さんとおっしゃるお方の見られた景色なのかと素直に思って見ていました。しかし展示の壁面に沿って歩いているうちに、だんだん、ごめんなさい、自分がその景色を見ていることになってきました。 そうなる前から、かたわらに見えていました詩は、見ていることより辛く身体に刺さりました。ありがとうございました。ご在室の奥様には初めてお会いしたようなことではないような、なつかしいお別れをいたしました。一日一首「雪片のむごき夕べを帰り来ぬ出町柳のカフェの椅子に」 今日の一首 「秘めて来し私行(しこう)のひとつ明かさんと思うまで心狂おしき今」 岡井 隆(『二つの世界』1953~1955)
2008.01.27
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雪です。大寒の入り、やがて節分、この時季、こうであることは順調です。北白川から一乗寺、そして松ヶ崎と思いなしか雪の降り方が違います。比叡山はもう見えません。何だかこれでいいのだという気持です。午後5時ごろでした。 用件を済ませて先ほど午後9時、宝ヶ池から市バスに乗りました。バスを待っている間、北から来る車、若狭街道を花折峠、途中、大原経由で来る車は雪の積み具合で、どのへんからかわかります。わたしは南に向かって帰路についていましたが、ふっと北へ向きたい誘惑にかられました。 テレビは明日の朝の気温の低下を告げています。それでいいのです。京都はもっともっと冷えてもいいのです。凍てついた地面に小石を落とすとカーンと音立てるくらいにならなくては、美味しいお野菜を食べたいと思いますのなら、この冷えをしのがねばなりません。本物の葱、人参、畑菜をたべて、子供たちは金太郎さんのような真っ赤な頬にならなくては。 ゆうきや、こんこん、あられやこんこん♪ そんな歌をうたって、雪だるまをつくって、子供たちを外で遊ばせたい、そんな幸せを忘れたくない、今宵いみじくも雪にふれて思うことでありました。一日一首「身にかよふ思ひに耐えね子らの幸(さち)蝕まれゆく記事にまた触れ」 今日の一首 「天文学者も俸給にて暮し居るならむと何の聯想のうちにわれありしか」 竹尾忠吉(『南北』抄・昭和18年)
2008.01.24
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松の内そんな言葉もありました。ちょっと時間が経ちました。でもわたしたちの「きさらぎ」は今日が今年お初の歌会です。いろんなことがありましてもここへは、何故か帰ってきた、そんな気持ちになるのも不思議です。 ざわざわと尾花のゆれてわが犬と家路歩けば夕ぐれ早き 師走の富士頂き辺りはうす雪の影絵なる姿見るも急(せ)かれて この暮れは圧力釜で黒豆をピーと鳴ったら弱火で10分 おとしだま「さら」はかみよりコインがいいのいつぱいいつぱいおおよろこび 車窓より見ゆる湖面のしづけくて北小松といふアナウンス聞こゆ 去年(こぞ)逝きし人の形見となりにけりジンジャー白く香は庭に満ち 歳晩から年頭へのそれぞれの図絵となりました。短歌をしていなかったら見られない己が図会でもあります。100回まであと何回とか誰かが言いました。四首目は、ひらかな短歌「さら」は毎回、主役のお孫さんの名前です。一日一首「満月の夜とはいひける言の葉のバス待てる間の雲の暗さよ」 今日の一首 「妻不意に鮮(あたら)しく見ゆ、白昼の部屋ぬけてゆく風を抱きて」 岡井 隆(『暦表組曲』日曜日より)
2008.01.23
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小学校一年生のとき比叡山麓の一軒家で暮らしていたことは、このページにも幾度か書きました。その時代がわたしの人生の原点となっている気がするほどに、わたしには鮮明な、刺激的な時間であったのですが、今日、我が家の裏の疏水沿いのギャラリーで見た書作展で、たまたま声を上げたい程の、その時代の思い出に出会いました。 それは展示の書作のなかに出会った宮沢賢治の詩の一部分にありました。そこには「カルメラ」をつくる様子が書かれてあったのです。実は、「カルメラ」はその家、比叡山麓の一軒家にいるとき、お手伝いの人が、よくつくってくれたお菓子の一つでありました。 賢治は「カリメラ」と表現しています、詩の中に、賢治は「カリメラ」の作り方について、「赤砂糖をひとつまみ入れて、ザラメをひとつまみ入れる。水をたして、あとはぐつぐつぐつ煮るんだ。」とあります。 実は帰宅して、書棚から賢治の詩集を出して探したのですが、その詩を見つけることが出来ませんでした。今、全体を記すことが出来なくて残念ですが、わたしには、その作り方のところだけで、実は充分なのです。その「カリメラ」の作り方を、書作展にたたずみながら何度繰り返しつぶやいたでしょう。 匂ってきます、わたしには「カルメラ焼き」が、そしてその一軒家を取り巻く山の匂い、草の匂いが、肺門リンパ腺炎の転地療養の身であることなど、思いも見なかった幸福な小学校一年生の時代が。わたしには、帰れるものなら帰りたい場所なのであります。一日一首「あはあはといま湧いてくる感情の山家の日々の恋しかるべし」 今日の一首 「涙ぐまる我が少女等よ報いなき恋はするなと思ふばかりに」 白蓮(「几帳のかけ」大正八年発行)
2008.01.22
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今日は珍しい約束をしました。この春は、さる出版社主宰の講演会、シンポジュウム、後の懇親会に出席します。 若い頃の集会から、幾星霜を隔てています。懇親会まで出ますとお金も要りますし、それがわたしには一番応えますが、この春は出ます。大決心のようです。 歌は腕力でつくるものではないと、そう、教えてくれたひとりがありました。わたしもそう思います。でも、集会に出たからといって、わたしのこの細腕に腕力がつくはずもありません。そういうわけで今日は、一つの約束をしました。一日一首「真昼間のバスの窓より見し町の花屋の硝子に日があたりをる」 今日の一首 「患者の名あやまち呼びて寂しき時余熱を保つ滅菌器(シムメル)を抱く」 岡井 隆(「斉唱」1955)
2008.01.21
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何とはるばるとしたことでありましたでしょう、ふと一息ついて見た新聞に「枕屏風」という言葉を見つけました。それは新井白石の随筆「白石紳書」にあることで、加賀藩前田家に仕えていた青地四郎左衛門の夢の話にかかわります。四郎左衛門はあまりにも山や海の姿が鮮明な夢を見ましたので、その風景を絵にして枕屏風に貼り付けておいたといいます。それから10年あまりの後、秀吉の朝鮮出兵がはじまり、前田藩から四郎左衛門も出陣、朝鮮はめったに行けない所だから、ひょっとしたら、そこに夢に見た景色があるかもと、用意にために枕屏風からその絵を剥がして持って行ったところ、果たして、夢と同じ景色があったという話です。この道を行けば山がある、この道を行けば川があると全く夢のとおりでありましたとか。 その話はとにかく、わたしにとりましては、見ていた新聞に「枕屏風」という字を、言葉をみつけたことが一大事、その文字の懐かしさに、一瞬を囚われてしまったのでありました。枕屏風とは、枕元を囲っておく背の低い二つ折れの屏風です。一人っ子でありましたわたしは、とにかく過保護にされて育ちました。それが枕屏風にも現れております。わたしの枕元には、美しい日本画、牡丹の花に蝶が舞う絵の屏風を毎夜、立てまわしてもらって眠りました。肩に風があたると、風邪をひくからといわれていましたが、それだけでなく、そこには、また自分だけの夢を守って眠るというロマンをいつの間にか育んでいたものでした。一日一首「遠き夜の夢に聞きしか螺旋階段地下までくだるひとの靴音」 今日の一首 「昏れぐれの障子を開けてただひとり何事もなき庭眺めをり」 若山喜志子(「霜枯」抄・昭和十年)
2008.01.20
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自分の時代は遥かの過去となりました。子供の時代もその青春は過ぎました。わたしはいま、風のように時として触れるものたちに、何をいう言葉も持ちません。でもふと問われましたら、お応えしましょうという言葉はあります。それは わたしは人間を信じています。今、彼らの上に見えないものも、状態が変わればかならず見えてくるでしょうし、そう思うことがわたしの人間への信頼であり愛であります。またそうでなければ、生きものとして生きていけないはずですと。 今日はわたしの主宰する短歌の会の日でした。三十一文字は三十一文字かけて話すのではなく、歌うのではなく、そのなかの語らねばならない核の字数が少なければ少ないほど、言うべきことの成果は上がると思います。核となる言葉以外は、言葉とせぬ方がよろしいと気づきながら、そのことが成りませぬ。一日一首「藪ふかし俄かに風は騒ぎたりきのふ生れたるわが子とわたし」 今日の一首 「ごく小さきくらきレストオラン湖(うみ)に向き湖(うみ)昏るるとき窓閉ぢにける 斉藤 史
2008.01.19
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むかし、わたしは花の名をしきりに問う少女であったらしい。そしていま、ここに一冊の本「画文集・花の肖像」があります。送ってくださった人はもうこの世のひとではありません。むかし、わたしから、花の名をしきり問われたひとでありました。いいえ、そのひとはきっと、いつか、わたしが大きくなったら、そんなに花の名を知りたがらなくてもいいことを教えようと思っていたのでしょう。その機会もなくふたりは自然のへだたったままの人生でした。そんな或る時、おくられてきたのがこの本です。この本のことはいつかこの場所に書きました。もう書かなくていいからやめればいいのですが、いまポロリと本棚からこぼれました。はるか向こうの世から呼びかけたのかなと思って、ちょっとここに記します。 ありがとうございます。「この本は花の名を覚えるためのものではありません。花の名をおぼえるのでしたら、それにふさわしい本があります。」そんな前書きのある本です。その本とにらみっこしていればわかる本なのです。わたしには、おぼえるためにふさわしい本はいりません。花が心底から好きといえるひとになります。ありがとうございます。一日一首「なにのはなこんなののはなはなひらくひとのおはかにそなへましようか」 今日の一首「いづれをか花とは分かむふるさとの春日の原にまだ消えぬ雪」 凡河内躬恒(新古今春歌上)
2008.01.18
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「潮汁」これは「うしお汁」とよむのでありましょう。ただ、わたしは祖母から「うしお、うしお」とばかり、耳から聞かされていましたから、長くその字を知りませんでした。思えばそうだったのです、当たり前のことですね。ただ祖母の「うしお」は今から書くそんな上等と違って、何でもいいのです、祖母は凄い「もったいながり」でしたから、しつこくない魚でしたら大方、勿論焼き魚ですが、「うしお」にして、つまり、お番茶などをかけて、そのお汁をすすっていました。わたしはあまり好きではありませんでしたが。 本物は、材料は鯛です。水カップ5を鍋に入れ、お昆布を敷き、鯛を水から煮ていきます。絶対沸騰させてはいけないそうです。脂(ギラ)は和紙に吸わせます。そんなにして、わざわざ作るものが「潮汁」でありました。恥ずかしいことです。今頃そんなことを言っているなんて。 でもわたしは、「もったいながり」のおばあちゃんが自然につくる「うしお」をやはり「うしお」だと思っています。ところで、わざわざつくる、本物の「潮汁」は恵比寿さんの日(正月10日)、お下がりの鯛からつくるのであるとも、今頃に知りました。今一度ところで、「もったいない」という言葉はわたしは昔から、耳がたこになるほど聞かされていました。この頃に改めて聞くと、そんなことこそ、いまごろに、なんと、もったいないことだと思います。一日一首「アナウンサー、失礼しますとニュース終はるテレビに近き水仙は黄に」 今日の一首 「飛んで来ても一声も鳴かぬ冬の鳥雪地の上をただあさるのみ」 杉浦翠子(「生命の波動」抄・昭和27年刊)
2008.01.17
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カレンダーを見て、もはや、13日(日曜)がすんだのかと思っています。今日は一日家にいました。しなくてはならないことがありましたから。でも長女が来て、お茶を飲みに連れ出してくれました。近くまで。それから、花を買いに行こうと誘われて、何時もの好きな店までいきましたが、予想通りやすみ、そこから長女は市バスに乗り、わたしは歩いて帰りました。市バスに追い越されるとき思い切り派手に手をふりました。長女も派手に手を振っていました。長女は派手な身振りをするのは嫌いな人ですが。 道々雪の匂いがすると思っていましたら、北から少し降ってきました。それから何時もの家の犬とちょっと遊んで、帰りました。またひとりで坐っています。好きな一日でした。特別なことでなくて、こんなことを書いていることが、自分は好きだなと思っています。一日一首「わが声に金魚がたしかに反応をしめせることの確信をなす」 今日の一首 「夜更けの小駅に歩み入りしが売店に白き布は掩ひある」 葛原妙子(『原牛』)
2008.01.13
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「薄明り、夜、余所者の歳月、余所者の踏みゆく小径、これらのものすべてを、詩人トゥラークルは「心の」と呼んでいる。寂寥の境もまた「心の」領域である。この語は何を意味しているのであろうか。この語の意味も、この語の用い方も、いずれも古くからのものである。」 指に力のない夜です。書棚の本のページのいつかの朱線にたよって。一日一首「赤み帯し部屋の灯りを低くしてペンシルキャップ捜さんとせる」 今日の一首 「をととひ雪を交へて雨ふりし海は東に遥けくぞなりし」 竹尾忠吉(「南北」抄・昭和十八年九月)
2008.01.12
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98回目の綾部「じねんじょ」の会の日でした。新しい年の車窓に流れる見慣れた里山や由良川、農家のやさしい戸障子が、気のせいか明るく感じられました。詠草下記します。 田も畑もポカポカ陽気にさそわれて地温が上り雑草が茂る ひと角を曲れば木の間に夕日燃え君尾林道(きみのおりんどう)冬枯れのなか さぶ雨の落葉をにぶく光らせて訃報のつづく師走の日々や 築山の猫の額のほどの雪に元旦の日はきらきらと照る 子ら去りて今日は冬陽に夜具を干す一夜の家族の会話の聞こゆ 冬一月ゆっくりしたいこの時期に三月陽気が気ぜわしくする 造花かと問う人もあり土間隅のろうばい際立つ古屋の年明け あたらしき雪の上には赤き実や蹴爪持ちたる鹿らし足跡 地温があがって雑草ばかりが繁茂、肝心の作物、葱などに甘みが乏しいとか、ゆっくりしたい冬に三月の陽気がせわしなく迫るとか、農家の方々の直接の声が真剣でした。一日一首「美しき家また潰えこの道にむなしき色のマンションが建つ」 今日の一首 「たはやすく口にいださぬ頃となり戦(たたかひ)のさまはありありとしぬ」 福田栄一(「世紀」昭和13年)
2008.01.11
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わが家の近くの造形芸術大学高原キャンバス、その表庭に碑が立っています。その左手、前に光る黒い石、道行く人たちの姿も映る美しい黒い石には一篇の詩が記されています。わたしは近くの住人でもあり、その前はよくゆききします。自然に立ち止まって幾度か読みました。素直に美しい詩だと思います。こころさびしい日には、わざわざ読みに行くときがあります。 この世を去る日まで空を仰ぎ見て 一点の恥もなきことを 木の葉を揺らす風にも わたしの心は痛んだ 星をうたう心で すべての逝くものたちを愛さなくては そしてわたしに与えられた道を 歩まなければ 今宵も星が風に吹かれた 詩碑の位置の向かい側には小さな幼稚園が付属するキリスト教会があって、毎年、年末から年頭にかけて、樅の木に綺麗なクリスマス飾りの灯が点されます。先頃、年頭の頃ふとその灯が詩碑に映っているのを見ました。ああ美しいとわたしはうれしくなりました。 詩の作者は尹東柱(ユンドンジュ)、1945年に若くして亡くなったと知りました。 一日一首「とほどほにさかりてあはぬわれらなれ花屋にひかる菜種の莢が」 今日の一首 「夜ふけし月の光に樹の幹のつめたきことをなれはいひたり」 鹿児島寿蔵(「魚鱗」抄昭和27年)
2008.01.10
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109回を数える「ふくろう」の歌会の日でした。左京区の御影通りから何時ものように市バスに乗るのであるが、今日はなんとなくスムーズにバスも来て朝から機嫌がよい自分です。変な言葉使いかもしれませんが、一番怖いのは自分のような気がします。 市役所前で下車、「ふくろう」第百九回の歌会の場所へ。八名全員がそろいました。お着物の方が多くて美しいこと。やっぱりお正月。 枝はらわれ円柱となった大木は何かを孕みトーテムポールに のどかなる冬日にたらたら刻(とき)過ごし暮れはやき闇の風におびゆる また来なよ、爺の声残し山峡の鎮守の社はたちまちに闇 宇治川の朱色の橋を渡りたり まるい窓から阿弥陀如来が うす紅く染まるもみぢに朝日さし花背の里に神の背を見る かぎろいの立つはこれかと人麻呂の仰いだ月に問いかけてみる 千年の時空をこえて 橋立を望む峠に今我はあり おのずからに個性が現れている強い作品が、いつのまにか「ふくろう」の特徴となったようです。よいことだと、わたしは思っています。これからがその個性と己との勝負となりましょう。一日一首「見廻せばこの六畳のわが部屋にいのち生きんはやすからなくに」 今日の一首 「人間は世のひとかたに去りしごとひそけき昼を爬虫類出づ」 常見千香夫(「冬の喪」)
2008.01.09
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食事というのは大切な礼式といえます。節目に整えられ、自然にその風習の中に従うことが、どんなに大切であったか、昨今はあらためて思われます。元旦から三ヶ日はお雑煮とお煮しめ、七日は七草粥、十五日は小豆粥。お煮しめが三日続いた後のお粥さんはほんとうにおいしいです。昔の人は上手にしたものです。 幼い頃、七日の朝、目が覚めると、家中で一番寒い通り庭の台所から、「唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らん先に、七草なずな、七草なずな」と歌いながら、俎板の上に七種類の草をリズミカルにたたく音が聞こえました。幼くても「ああ今日は七日だ」と気がつくのでした。歌の意味は、唐土の国の鳥と日本の国の鳥が行きかわないうちに、さあ早く七草粥を頂いて、悪い流行病になりませぬよう~~と、いったものだったでしょうか。 春の七草は、芹(セリ)、薺(ナズナ)、御形(ゴギョウ)、繁縷(ハコベラ)、仏座(ホトケノザ)、菘(スズナ)、蘿蔔(スズシロ)です。子供でもなんとなしに覚えたものでした。何につけてもですが、俎板にものをきざむ音っていいですね。生まれてはじめての音楽も、わたしは、ひょっとしたらそんな音を聞いたのであったかもと思われてなりません。 おばあさんやお母さんのそのリズムは今、思い出しても素晴らしかったと思います。そうそう、アフリカに行ったとき、マサイの方々が色々の台所道具を叩いて、私たちを歓迎してくださいましたが、今思えば同じでしたよ。一日一首「鳥が食べまずくてならぬかわが庭の柿はまたして捨てられてある」 今日の一首 「大江山越えていく野の末とほみ道ある世にも逢ひにけるかな」 刑部卿範兼
2008.01.07
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ここに大正八年三月十三日発行、定価壱円五拾銭、著者伊藤白蓮(柳原白蓮)、発行所東京市芝公園玄文社の『几帳のかけ』があります。表紙は茶色の鞣し皮、上部半分の位置、緑地の枠の中に茶色の薔薇が一輪、金で縁取られて描かれています。 開いたところには、やや斜めから撮られた、美しい白蓮の写真が。内容は「香の札」と題する短歌が九十五首、詩篇が二十三篇、最後は詩劇が一篇、それには「阿難尊者と摩登伽女」と題されています。 こころに残るのは、最終ページ裏に英語で「1920年2月3日に読み終えた」と書かれていることです。わたしの手の中に入ったのは、1997年10月13日です。今宵までに幾度、開いては閉じしたことでしょう。わたしのためにと、いつもこころして、よき古書を届けてくださるお方のおかげです。昔、母が申しておりました。「お前はいつも自分より偉いお方とお知り合いになれて幸せである」と。母は喜んでいつもそういうお方に朱色に金縁のお湯のみを差し上げておりました。母がいなくなって長い年月が経ちますのに、いまだに母が在るごとくにありがたいことでございます。もう朱色に金縁のお湯のみの余分はありませんのに。一日一首「ありがたき母の言葉のおもほえててのひらあはす本の前にて」 今日の一首 「美しき真珠の玉はころばせど振れども鳴らぬ何故鳴らぬ」 伊藤白蓮
2008.01.06
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突然、思い出したようにですが、利休に関してコピーしておいた言葉、その一部を書きたくなりました。「ピタゴラスは宇宙の運行に大調和の音楽を聴いた。利休は四畳半裡煮えたぎる釜の松風に、一椀の茶に人生の大調和を味到したのである。~~~この点から云って彼をギリシャのそれとは違った意味の、全然東洋流である処の正しいエピキュリアンであったと考えることができるかもしれない。」 大まかに要約して、そのようなコピーでした。今日、茶道はそれに携わる人々以外には、あまりにも迂遠な世界として受けとられがちと思われますが、ここには、何と生々として茶のありようが示されていることでしょう。思えば、この文章を読みかえして、わたしの関わる短歌の世界とも深いところでつながっていることを思わないではいられません。 茶道は十七歳のとき、左京区岡崎の谷川師に入門の真似事をいたしました。戦争が終わったところで、お菓子とてなく、お芋さんの茶巾絞りを作って持参したものです。でも、お手前の後始末のとき、「こぼし」のお水は集めて、お庭の草花に撒くよう教わったことを、とても明るく楽しくに覚えております。お茶は栄養があるからと、そのとき谷川先生はおっしゃったものでした。まだお正月気分です。色々なことを思います。一日一首「このごろに鼠の走る音がしてわれが賤家のさはがしさかな」 今日の一首 「ねむれない冬の畳にしみじみと己の影を動かしてみる」 山崎方代
2008.01.05
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わたしの母はこまやかに日記をつけておりました。お正月もすんでほっとしたつれづに、「ちょっとお母さん」と呼びかけてページを開いてみました。母はまことに几帳面な人で、日々の天候、出費、出来事をこまごまと記しているのですが、そこにはわたしの名前がちょいちょいと出てきます。 1963年3月8日、「山澤様に別口花瓶、何かを願いに行って、帰り道、保子の友達、西元さんに出合って、赤金の湯のみ2個差し上げる。ちょうどよかった。」と。これだけではわかりませんが、山澤様とは母と昵懇だった陶芸のお方であったらしく、その方をお尋ねしての帰路、わたしの友人に出会って、気に入りの朱色、金縁の湯のみを差し上げたということであります。同じ湯のみをわたしも持っています。余程、母の気に入りであったのでしょう。いま、お仏壇の母に朝ごとに上げる湯のみとなっていますが。 その前日、3月7日には「夜、保子より電話、テルノさん、突然京都へ。娘さん二人連れて、昔話尽きず。宿屋へ帰られた、不思議なこと」と。テルノさんとはわたしの父の妹、久しぶりの突然のお出会いで驚いたのでしょう。わたしがお連れしたのでしたが。そのころ母は一人で暮らしておりました。 お正月とは不思議なとき、人生は計り知れないもの。わたしの娘たちがまたこの記事を読むときがあるかもしれません。一日一首「無風なるとき歩みきて鵯(ひよどり)の鳴く音を聞くも定めなりけり」 今日の一首 「牡丹雪ふり昏(くら)むとき人われや眉おもおもとかなしみ覚ゆ」 坪野哲久(「ひとりうたげ」)
2008.01.04
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ブログに書く材料は、その日になんでもいい、胸にきゅんと来たものが書きたくなります。今日は一人の異国にいる近親に手紙を書いたことがネタでした。封筒には当然のことに向こうの住所を書いて、続いて自分の住所を書かねばなりません。わたしは、順序にしたがってまず最初に「日本国」と書きます。そのとき何べん書いてもわたしは、胸がきゅんとなるのです。愛するわたしのお国、ここがわたしのお国なんですのと、世界に発信する気持ちになるからでしょうか。 ところで、そのとき、わたしは自然に日本国と書きながら、こころで日本のお国とお話しするように読んでいるのでしょうね。国(こく)と読んでしまいますと、だんだん堅苦しくなって来て困ります。自然に国家管理、国家権力、国家主義、挙句の果てに国家総動員そんな風に思ってしまったり。そんな時代に生まれたからかも知れません。そうするとわたしのきゅんも消えてしまいますので。お国はと問われて、にっぽん!、子供のようにそう大声で応えてもいいかも。一日一首「冬晴れの光の中をひとりゆかん流れの音をそに聴くゆえに」 今日の一首 「蒼空に翅かがやきてとび立ちし蝶は吾子にも見するまなかりき」 五島美代子(「朝やけ」)
2008.01.03
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先日久しぶりに深泥池(みぞろがいけ)にいきました。深泥池は京都市北区、上賀茂の東、鞍馬街道畔に開けている三方を山に囲まれた池です。周囲は約1,8km、美度呂池、美曾呂池、洫呂池、御菩薩池といろいろに書きますが、どれも読み方は同じです。しかしその字からそれぞれに何か考えさせられる名であり、そういう池でもあります。 深泥池は一万年以上前からの湿地帯、水深は1,8mほどに見られていますが、底は泥土の堆積が計りしれないらしく、池の名はそれから起こっています。泥炭層の底は約2万年前の谷です。 深泥池は怖いところと、子供の頃から印象づけられている京都の人間は、そうやすやすとは近づきません。そういう印象のあるところはそういうところとして残して置いて欲しいというのが、その土地に育った人間の思うことです。 先日久しぶりに深泥池のほとりに立ちました。懐かしさがこみ上げます。とともに時間の経過の結果を思うのでした。それは自分の上にだけでありましょうか。以前のこと短歌の仲間の他県の高校生が、京都市バスの行き先表示に書かれた「深泥池」の字を見つめながら、ため息をついていました。その高校生はいまは人妻になっています。そして時々の連絡に、その名が忘れられないといってくるのです。一日一首「人間を怖いと思ひたる帰路の靴底に沁む地面の硬さ」 今日の一首 「ひとり見る池の氷に澄む月のやがて袖にもうつりぬるかな」 皇太后宮大夫俊成(「新古今和歌集」冬歌)
2008.01.02
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元旦早々、家の鍵を失くしました。早朝、迎春の或る用具を買い忘れていたことを思い出し、仕方なく近所のコンビニで間に合わすべく、走りました、そのときは確かに手にしていた鍵でありました。 枚方に住む長女夫妻が、出町柳で午後一時に待ち合わせて、新春のお出かけをしましょうと電話して来てくれたのですが、さてそのときに鍵がないことに気づきました。大慌ての大探し、ふと思いついたのが、確か、鍵屋さんが三つ余分に置いていったはずということ、それでやれやれ間にはあったのでしたが、一箇所はつっかい棒をはめて。娘夫妻は呆れ顔。 夕刻まで落ち着かぬままに、しかし、いつもの調子で、まあいいや、失せものは出てくるときに出てくると思っていましたところ、ただいま出てまいりました。元旦のブログに「ねた」がないやなど、仕様ことなしに机に向かっていましたら、その目の前のもろもろ入れの引き出しから、お馴染みの鍵のリボンが覗いているではありませんか。ということで、そうだ、今日はこの「ねた」にいたしましょうと思い立ちましたわけでございます。ところで、「ねた」とは「たね」を逆に読んだ隠語だということを今日始めて知りました。あまり上品な言葉でないなと、ちょっと辞書ひきましたところの納得でございます。 思えばこれが今日の一利、本年もまた、あたふたながら、どうやら、自分のレールでまいりますようで、安心しております。一日一首「なにかしらあらん思いの文字の裏いつでも辞書はわが友にして」 今日の一首 「つくづくと思へば悲しいつまでか人の哀をよそにきくべき」 入道左大臣(「新古今」哀傷歌)
2008.01.01
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