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【北國新聞 時鐘】新横綱(しんよこづな)の鶴竜(かくりゅう)を育てた井筒親方(いづつおやかた)の言葉に引かれた。元関脇(せきわけ)の逆鉾(さかほこ)。横綱の夢を果たせなかった師匠(ししょう)は、弟子(でし)に「私のまねをするな」と諭(さと)してきたという。 オレについてこい、と高(たか)みに立って叱咤激励(しったげきれい)する指導者(しどうしゃ)は多いが、オレを反面教師(はんめんきょうし)にしろ、は極(きわ)めて珍(めずら)しかろう。生半可(なまはんか)な覚悟(かくご)では、できないはず。わが身を振り返れば、それが分かる。 サボってばかりだと誰(だれ)かみたいになる、と親に叱(しか)られ、やがて子に対して、そう叱った。アイツみたいになるな、と職場でも小言(こごと)を言ってきた。悪い見本は「誰か」や「アイツ」で、自分のことはちゃっかり棚(たな)に上げる。そうしないと、なめられる。大概(たいがい)、こうである。 良き手本になれるのは、ひと握(にぎ)りの優(すぐ)れた人だろう。角界(かくかい)に限(かぎ)った話ではない。トビがタカを生もうとするなら、「私のまねをするな」という腰(こし)を据(す)えた指導が大切なのに違いない。日本人力士の奮起(ふんき)を促(うなが)す声に、辛口解説(からくちかいせつ)の北(きた)の富士(ふじ)さんが注文(ちゅうもん)していた。「そう。もっと師匠がしっかりしないと」。 近ごろの若い者以上に、近ごろの「年寄(としより)」こそ、しっかりせい。耳が痛いが、思い当たるフシは多々(たた)ある。(3月28日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~指導する側(井筒親方)が人物ならば、それを受ける側(新横綱鶴竜)もまた人物なり。何よりそれを評する側(時鐘氏)が人物である。いぶし銀のコラム(コチラ)が今日は一段と際立った。読後の満足感はひとしおである。さて、井筒親方は私より一歳年下で誕生月が同じである。そんなこともあり氏には親近感を覚え「逆鉾」という四股でブイブイやっていたころから贔屓にしていた。甘いマスクから実弟の寺尾関に人気が集まりがちであったが、私は断然逆鉾であった。引退して親方になってからは、向正面に映る氏を認めては、何やら安堵を覚えていた。「私のまねをするな」語録や逸話(武勇伝)の多い氏ではあるが、これは知らなかった。いやはや立派である。一つ年下の氏ではあるが正直に、こいつにはかなわないなぁ、そう思う。このところ巷に人物を見受けることがなく、酒席での人物評もご無沙汰になっていた。しかし人物はここにいた。井筒好昭、大人物である!ちなみに、井筒部屋は現在、在籍力士が四人の小部屋だそうだ。しかしそのうちの一人が横綱というわけだ。なんという効率のよさ、群を抜く費用対効果なのである。こういうのをセンスという。さすがではないか。三人のモンゴル横綱には閉口もするが、井筒親方の人物ぶりを知り大相撲観戦の楽しみが増した。次の場所を指折り数えながら待つことにしよう。ところで時鐘氏はいみじくも喝破せり。近ごろの「年寄」こそ、しっかりせい。「年寄」はまた範を垂れるものとも言いかえられよう。「先ず生きている」だけの『先生』は落語の世界であったが、今、世で言われる先生を見渡す限りその手の輩が大半ではないか・・・先生ではないが、年長者として時折範を垂れることもある我が身である。「しっかりせい」という言葉を忘れることなくいたい、そう思った次第である。
2014.03.31

【インセプション】「私は誰かを待っていた気がする。あの頃は若かった。私はもう老いぼれだ」「後悔を抱えたまま・・・?」「孤独に死を待っている」「サイトー、あなたに会いに来た。あの頃のあなたを思い出してほしくて。ここは現実じゃない」2010年公開映画では傑出して評価の高い作品だったので、今さらだが鑑賞してみた。 大げさでも何でもなく、久しぶりに大作に出合ったような気がする。ちょっとハリウッドっぽくないなぁと思ってウィキペディアを検索してみると、監督がクリストファー・ノーランで、イギリス人だった!代表作に『バットマン』シリーズがある。ハリウッド・アクションにありがちな、飛んで、走って、カーチェイスという作風ではなく、全体的にシリアスで、それなのに決して娯楽性を忘れていないという冴え渡るSF作品なのだ。とくに驚いたのは、夢の中という設定なので、無重力状態での格闘シーンがあるのだが、そのリアルさたるやスゴイ!すっかり自分も映像の世界観に迷宮入り(?)なのだ。日本人俳優の渡辺謙が、大企業のトップ、サイトー役として堂々の出演。主役のレオナルド・ディカプリオと互角に渡り合っていて、視聴者サイドも清々しい気持ちになる。作中、我が国の誇る新幹線が颯爽と走り行くシーンが登場するのだが、嬉しいことに富士川の鉄橋あたりが撮影場所として選ばれたようだ。静岡県出身の私にとって見慣れた風景も、映画のワン・シーンとして鑑賞すると、また一段と愛しい気持ちになるから不思議だ。『インセプション』のストーリーはこうだ。主人公のコブは、人の夢の中に入り込んで様々なアイディアを埋め込み、依頼者を有利な立場にさせるのを仕事としている。今回の依頼は、日本の大企業のトップ、サイトーからで、ライバル会社を解体させるというものだった。コブが考えた筋書きは、ライバル会社の社長の御曹司であるロバートに、父親の会社を解体させるアイディアを(ロバートの潜在意識に入り込んで)植え付けるということ。それにはかなりのリスクが生じるため、悩むところだが、妻殺しの容疑をかけられているコブは、本国に帰ってこれまでの履歴の抹消を条件に、依頼を受けることにした。この仕事を完璧にやり遂げるためには仲間が必要だった。古くから仕事のパートナーであるアーサー、夢の設計士であるアリアドネ、なりすましを得意とする偽装師・イームス、夢を安定させる調合師・ユスフ、そしてこの仕事を最後まで見届ける者として、依頼者であるサイトーを加えた6人での決行だった。ノーラン監督の完成度の高い『インセプション』と出合い、私は『バットマン』シリーズも見てみたくなった!こういうSFは素晴らしい。余分な効果音やBGMに踊らされていないし、何より、人間の持つ繊細な深層心理に触れているところが、SFでありながら視聴者に共感を誘う強みである。いや、本当に良かった!まだ鑑賞されていない方、だまされたと思ってご覧いただきたい。何とも言えない心地良さを覚えるに違いない。私はこの作品で、完全にノーラン監督のファンになってしまった!2010年公開【監督】クリストファー・ノーラン【出演】レオナルド・ディカプリオ、渡辺謙
2014.03.30

【堀川アサコ/幻想郵便局】◆もっか就活中の方々につかの間の癒しを与える「オレがイメージしてたものとは全然違ったし!」と言って高校生の息子が貸してくれたのが、これだった。冬休みに息子が買って来た一冊である。息子としては、のんびりラクチンなはずの郵便局のバイトが、実は、過酷を極める陰惨な現場であるというルポルタージュ的な本だと思ったらしいのだ。「タイトルにだまされたー。“幻想郵便局”はないよなー」とボヤく始末。親の私から一言アドバイスしてやったのは、「ほら、背表紙のここに簡単なあらすじが書いてあるじゃん。これ読んでから買いなよ」である。そんなわけで手に取った『幻想郵便局』だが、うん、なかなかおもしろかった。カテゴリなら“ファンタジー小説”分類されるものだ。読者は、この春、新社会人となる若者や、もっか就活中の方々に向いているかもしれない。というのも、主人公の女性が短大を卒業後、就職浪人をすることになったという設定だからだ。いっしょに卒業した友だちは皆、どこかの企業に就職し、毎日忙しく暮らしているというのに、自分だけが世の中から取り残されたような気分になり、就職浪人という惨めなレッテルを貼られる。こういう経験は、今のご時世、決して少なくはないだろう。将来なりたいものが見つからず、本気で考える将来の夢が漠然としていて、具体的にこれと言う仕事が浮かばない。だったらそれを探すところから始めればいいじゃん、と他人は言うかもしれないが、当事者にとってはそれほど簡単なことではないのだ。『幻想郵便局』のあらすじは次のとおり。短大を卒業したにもかかわらず定職に就いていない安倍アズサは、もっか就職浪人中。 親は寛容にも「あせって決めなさんな」と励ましてくれるので、その言葉に甘えて、中古の自転車に赤いペンキを塗ったり、引越しの手伝いをしたり、本を読んだりしてすごしていた。ある時、学校の就職課から連絡が来た。それは、登天郵便局という山のてっぺんにある郵便局のアルバイトの紹介だった。アズサは、郵便局の仕事なら自分にもできるかもしれないと思い、引き受けることにした。バイト初日。狗山の山頂に建てられた登天郵便局には、赤井局長の他に、数人の職員が勤務していた。アズサが与えられる仕事は、切手類を売り、郵便物を受け付ける作業だと思っていた。 ところが意外にも“探しもの”をして欲しいとのこと。それは、木簡に書いた古い起請文で、それを何とかして探し出して欲しいというのが仕事だった。思い起こせばアズサは、履歴書の特技欄に“探しもの”と記入していた。どうやらアズサの採用理由は、それだったのだ。ストーリーの後半は、ややサスペンス仕立てで、犯人捜しの場面もあるにはある。だが概ね、ファンタジー小説と見なしてしまって構わないと思う。登場するのはほとんどが人知を超えた神や幽霊、妖怪のようなもの。著者・堀川アサコによって不気味さは軽減され、滑稽で、むしろもの悲しさが漂っている。登天郵便局という空間があの世とこの世のボーダーラインだとしたら、生と死の境目なんて、本当にわずかな階段の踊り場的なものにすぎないことが分かる。この作品は、様々な人々との出会いや触れ合いから、真摯に生きることの大切さを物語っている。さらには、どんな経験も無駄なものはないと表現しているのかもしれない。小説としては定石ながら、つかの間の癒しとして読むには最適な一冊だと思った。☆余談ながら、息子の感想をフォローするわけではないが、タイトルは“幻想郵便局”より、“登天郵便局”の方が、内容と合っているような気もする。『幻想郵便局』堀川アサコ・著☆次回(読書案内No.119)は吉川英治の「新書太閤記 一巻」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.03.29

【北國新聞 時鐘】横綱(よこづな)の締(し)める綱(つな)は「しめ縄(なわ)」である。仏教の結界(けっかい)という考えと似ていて縄一本・石一つ置(お)くだけでそこから先は別世界(べつせかい)、聖域(せいいき)となる。 関脇(せきわけ)、大関(おおぜき)と順調(じゅんちょう)に上がって横綱になる力士がいる。その一方、大関で停滞(ていたい)してそのまま終わると見られていたのに急に強くなり、過去を吹(ふ)っ切(き)るように綱をつかみ、聖域に入り込む力士もいる。鶴竜(かくりゅう)がその一人である。 大関昇進(しょうしん)以来パッとしなかった地味(じみ)な取り口が突然開花(とつぜんかいか)した。先輩(せんぱい)の日馬富士(はるまふじ)もそうだった。低迷(ていめい)の大関が2場所連続全勝優勝(ばしょれんぞくぜんしょうゆうしょう)して横綱になった。かつて70年代には琴桜(ことざくら)がいた。引退がささやかれていたのに2場所連続優勝して横綱に昇進した。 これを「化(ば)けましたねぇ」と言った解説者がいた。どの世界にも「大化(おおば)け」する若者がいる。人が変わったようになってなかなか超(こ)えられなかった壁(かべ)をひょいと超えてしまう。力士なら「しめ縄」を張った横綱という聖域に入る。生身の体に「しめ縄」を張るのだから神さま扱(あつか)いである。 聖域からの戻(もど)り道(みち)はない。「しめ縄」が退路(たいろ)を断(た)っている。覚悟(かくご)を問う一本の縄の恐(おそ)ろしさ。綱の重(おも)みというものだ。(3月27日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~残念ながらご当地には縁もゆかりもない身ではあるが、スマホのアプリ「たて書きコラム」のおかげで毎日「北國新聞」の「時鐘」は拝読している。私にとって、「たて書きコラム」はブラウザーとメールの次に頻度の高いアプリなのである、感謝。さて「時鐘」、今日は一だんと冴えわたていた。その燻し銀のペンに話題の鶴竜に通じる感を見て、何とも妙である。最近はほとんどテレビを見ない私も、相撲だけは幕の内後半から必ず見ている。巨人・大鵬・卵焼き世代のしっぽに属する我が身なのである。相撲の奥深さは半世紀を過ぎてやっとわかってきた。乱暴な比較だが落語と同じだ。どちらも受け手(観客)にそれ相当の人生観を求めるのだ。一朝一夕のものではないということだ。そしてまた「時鐘」。これも小手先のコラムではない。派手やけれんみからほど遠く、読後にしみじみと感じる文章は、これまた一朝一夕にかなうものでもない。コラム氏の豊富で卓越した経験に裏打ちされた人生観が感じられるというものだ。もちろん血のにじむような執筆修行も。全国紙をかさにきせ、不平不満を垂れ流すだけのコラム担当者は三歩下がって熟読玩味してほしいものだ。ところで鶴竜。「綱の重み」はすなわちいばらの道であろう。精進をつくしがんばってもらいたいと思う。「えらい荷物背負うたなあ」天台の叡南俊照師は千日回峯行を満行された後で座主猊下にそう言われたそうだ。本当の行はその満行のときから始まったということだ。これもまた奥の深い話しなのである。
2014.03.28

【正義のゆくえ~I.C.E.特別捜査官~】「大丈夫? ボーッとしてる。座るかい?」「平気よ。入国管理課でヒドい目に(あったの)」「(君は)ニュージーランド(から来たのかい)?」「(いいえ)オーストラリアよ」以前からアメリカへの入国は非常に厳しいことで有名だった。自由を求め、仕事を求め、藁をもすがる思いで様々な人種が集まって来るからだ。だが、9.11テロ以降、それは一段と強化されるものとなった。まず短期の観光と言えども、パスポート以外にエスタの申請が必要になったことが挙げられる。無論、手数料もかかる。面倒と手間を惜しむ者はアメリカには来るな、という意図さえ感じられる。逆に、外国から日本への入国というのは案外簡単なようだ。良いか悪いか別として、ウェルカムでフレンドリーな日本の玄関口は、外国人にとっては実に大衆的で敷居が低く設置されている。本作「正義のゆくえ」は、アメリカにおける永住権を獲得するまでの移民にスポットを当てたものである。また一方で、強制退去に至るまでの経緯も兼ねている。ストーリーは大まかに分けて4つの構成から成り立ち、オムニバス形式とは若干違ったストーリー展開となっている。ロサンゼルス市内I.C.E.捜査官マックスらは、不法就労者を一斉逮捕する。そんな中、メキシコからの不法就労者である20代の女性ミレヤもその対象者であった。 だがミレヤには幼い息子ホアンがいると言う。子どもと離れ離れになってしまうことを憂いたミレヤは、マックスに子どもの預け先を書いたメモを渡し、自らは強制退去させられてしまう。一方、オーストラリア出身で女優志望のクレアは、観光ビザで入国したものの、どうしてもグリーンカードの許可が欲しい。ビザの延長手続が取れず途方に暮れていると、移民判定官のコールと出会うのだった。 印象的だったのは、イスラム教徒の少女タズリマのくだりだ。タズリマはバングラデシュ出身の高校生なのだが、授業中、9.11テロに関する考察を発表し、内容がテロリストを擁護するものだったため、危険分子とされてしまうのだ。それによりタズリマは、母親といっしょに退去命令が下ってしまう。言論の自由が認められている中でのそのような措置が、果たして正義なのか、あるいは同胞たちの正義を信じたタズリマの信念が受け入れられるべきものなのか、限りなくグレーゾーンで判断に難しい。主人公マックス役に扮したのはハリソン・フォードである。年を経て、ますます魅力的な役者さんとなった。代表作に「スター・フォーズ」シリーズや「インディ・ジョーンズ」シリーズがあるが、どれも興行的に大成功を収めている。吟遊映人がとりわけ支持しているのは、「刑事ジョン・ブック目撃者」で、アーミッシュの文化に戸惑いながらも、母子家庭で力強く生きる未亡人に惹かれて行く刑事役が、実に男らしくドラマチックに仕上げられていた。本作「正義のゆくえ」は、ハリソン・フォードが渾身の演技で、正義感と人情味の狭間で揺れる人間の良心を描いたものなのだ。2009年公開【監督】ウェイン・クラマー【出演】ハリソン・フォード
2014.03.27

一つ長く一つ短しつくづくし 正岡子規
2014.03.26

【画家と庭師とカンパーニュ】「よく考えてみたが、鯉は死神と同じだよ。どこかにいる。姿は見えなくてもいると分かる。・・・死神もそうだ。無言で巨大な口を開けて待ってる。気づいた時には口の中。・・・あの世行き。おさらばだ」映画とは美しく、感覚的で、それでいて知性をもたらすものでなければいけない。我々が日々働くことに、どんな意味、意義があるのか考えたことがあるだろうか?そして、人間の働くことの真剣さを実感したことがあるだろうか?職業選択の自由があるとは言いつつも、選り好みしていては食べていけないし、あるいは熱望しても能力や体力の限界もあって制限されるかもしれない。そんな中、与えられた仕事を地道に全うし、家族を養い、残りの人生を大好きな仕事に思う存分打ち込むと言うライフスタイルは、実に素晴らしい生き様ではある。ウォルト・ディズニーの言葉に、「自分が本当に愛する事の出来る仕事をやりなさい」とあるが、我々は人生をかけてそれを見つけて行こうではないか。主人公の画家は片田舎のカンパーニュに帰郷。荒れ放題の庭を何とかしようと庭師を雇う。初めは気付かなかったが、庭師は小学校時代の幼なじみであった。パリで芸術家として成功した主人公とは違い、庭師は国鉄の職員として労働に勤しんで来た。退職後は念願の庭師となり、菜園を作る楽しみを生業としていたのだ。本作「画家と庭師とカンパーニュ」はフランス映画であるが、実に格調高く、風光明媚に溢れた作品である。そこには文学の香りが漂い、淡々とした人間ドラマの中にえもいわれぬ知性の泉が滾々と溢れている。幸せとは何か、仕事に対する姿勢、自分の存在意義、お金では到底手に入れることのできないものを余すことなく教えてくれる。この作品のエンディング・タイトルが流れ始めた時、吟遊映人は不覚にも涙が込み上げて来た。それは、哀しみと言うより、胸の奥が締め付けられるような切なさと、感動と、そして愛情を感じたからに他ならない。吟遊映人が映画をこよなく愛する理由。それがこの作品にはぎっしりと詰っている。まさに一押しの映画なのだ。フランス映画バンザイ!2006年(仏)、2008年(日)公開【監督】ジャン・ベッケル【出演】ダニエル・オートゥイユ、ジャン=ピエール・ダルッサン
2014.03.25

人声のちかづいてくる木の芽あかるく 山頭火囁きあへる木々の芽や振り返る 石川桂郎
2014.03.24

【オー・ブラザー!】「悪魔に魂を売った代償は何だい?」「ギターの名人になれました」「そのために不滅の魂を売っちまったのか」「魂なんて使わないから」ジョエル&イーサン・コーエン監督作品ということで、期待してご覧になった方々は多いはずだ。前作の『ファーゴ』では、新しい感覚のサスペンスに度肝を抜き、映画界に新たな天才の誕生を予感させた。それを裏付けるかのように、『ファーゴ』ではアカデミー賞主演女優賞を獲得しているし、『オー・ブラザー!』では主演のジョージ・クルーニーがゴールデン・グローブ賞を受賞している。映画というものは不思議なもので、どれほど玄人筋から絶賛され、評価されようとも、世間一般からはイマイチの感想を聞くことは少なくない。要するに、映画は大衆の娯楽でなければいけないのだ。その点、『オー・ブラザー!』は、賛否両論クッキリハッキリ分かれるところだろう。 カテゴリとしてはコメディに区分されるものの、おおよそ日本人の求めるお笑いからは逸れているような気がする。そんな中、やはりコーエン兄弟はスゴイと思われるのが、カントリー調の音楽、そしてノスタルジックな感覚を呼び覚ますセピア色の映像美だ。脚本に関しては、アメリカ南部を舞台にしているせいか、陽気でファンキーな土地柄と、アメリカン・カラーの濃い音楽に圧倒され、内容がすんなりと入って来なかった。残念。1930年代のアメリカ南部、ミシシッピ州の片田舎が舞台。服役中の3人の囚人、エヴェレットとピートとデルマーは、脱獄を図る。なぜなら、エヴェレットが窃盗で手に入れた120万ドルの隠し場所が、近いうちに人造湖建設のため水没する予定地だったのだ。3人は、なんとかその前に120万ドルを手に入れようと、必死で現金の隠し場所へと向かう。そんな中、3人は、悪魔に魂を売ったというギタリストの黒人青年トミーと出会う。その後、4人で一仕事当てようということで、ずぶ濡れボーイズというグループ名で歌をレコーディングすることになった。ところがそんなずぶ濡れボーイズの歌がラジオから流れることで、思わぬ人気を呼び、大ヒットするのだった。正直なところ、個人的には『ファーゴ』や『ノーカントリー』のような、乾いたサスペンス作品の方が好きだ。もともとミュージカルには抵抗があるので、歌って踊れるような内容は苦手かもしれない。笑いを求めて鑑賞するには少し難があり、コーエン兄弟監督作品を、あれこれ研究したい方に向いている。必見というほどではないにしても、そこそこ楽しめる作品といったところだ。2000年(米)、2001年(日)公開【監督】ジョエル・コーエン【出演】ジョージ・クルーニー
2014.03.23

【壺井栄/二十四の瞳】◆平和とは何ぞやを再認識する名著今や高校生となった息子だが、その息子が小学生のころは、学校の方針で“朝読書”という時間があった。その時間に読むための本が欲しいと言うので、買い与えた一冊に、『二十四の瞳』がある。恒例のポプラポケット文庫である。対象年齢は小学校上級向きとあるが、大人の私でも充分に楽しめる名作なのだ。著者の壺井栄の夫はプロレタリア作家(詩人)である壺井繁治で、栄自身も少なからず影響を受けたのか、貧富の差とか、薄幸な人々の生き様にスポットを当てているのが特徴的だ。とはいえ、そこにむやみやたらな思想を織り込んだものではなく、ほのぼのとしていて、どこか懐かしい庶民の体臭が感じられるのだ。解説によれば、今でこそ名作として語り継がれる小説だが、実際には木下恵介監督による『二十四の瞳』の映画化により、大ブームとなったとのこと。この映画化をきっかけに、小説の方が遅れてベストセラーになったというわけだ。『二十四の瞳』のあらすじはこうだ。昭和3年4月4日。舞台は瀬戸内海べりにある小さな村の分教場。それまで村の子どもたちを教えていた小林先生は結婚のため、学校を辞めることとなった。新任の先生は大石久子で、女学校の師範科を出た優秀な教員だった。大石先生の任されたクラスは全員で12名。やんちゃな男の子におませな女の子、無口で大人しい子から騒がしい子までが揃っている。大石先生はよその村の者だったせいで、何かと噂好きの村の者たちの好奇の目にさらされながら、どうにかこうにか頑張っていた。ある時、大石先生はクラスのみんなを率いて、浜辺で唱歌を歌うことにした。一通り歌い終わって、さて帰ろうとしたところ、大石先生は、子どもたちの掘った落とし穴に落ちてしまったのだ。子どもたちはゲラゲラ笑いながら落とし穴に近付いて来て、手を叩いて喜んでいたところ、立ち上がらずにくの字に寝たままの大石先生を見て、すぐに黙り込んでしまった。その様子にやんちゃな子どもたちも、異様なものを感じてしまったのだ。一読して思ったのは、私たちが平和を謳歌できるのは、先人の血と汗と涙によって掴み取った自由と人権尊重のおかげだということ。当時は、インテリが戦争に反対しただけで、反戦思想だと国家から国賊の落いんを押されてしまうのだから!警察の拷問によって殺された者たちが何人もいたのだ!同じ日本人が国家権力によって同胞を弾圧していたのである。貧しい農村、漁村の若者たちは、「兵隊に入れば腹いっぱいの飯が食える」と聞かされ、兵隊にとられていった。著者の壺井栄は、作中、子どもにも分かるような易しい言葉で、当時の様子を克明に、そして事実を伝えている。〈昭和8年日本が国際連盟を脱退して、世界の仲間はずれになったということにどんな意味があるか、近くの町の学校の先生がろうごくにつながれたことと、それがどんなつながりをもっているのか、それらのいっさいのことを知る自由をうばわれ、そのうばわれている事実さえ知らずに、いなかのすみずみまでゆきわたった好戦的な空気につつまれて、少年たちは英雄の夢をみていた。〉今後、日本はどのような方向へ進もうとしているのか?様々な情報が錯綜する中、私たちはあらん限りの知恵と知識を振り絞って、事実という本物を見抜いていかなくてはなるまい。満州事変からやがて中国と全面的な戦争となり、さらには太平洋戦争に突入していったプロセスを思い出して欲しい。当時、新聞というメディアを通し、「戦争は正義の戦い」であると宣伝されたのだ。国民は、政治のやり方について一切口を出してはならず、「政府の命令のままに、すべてを戦争のために」と強制したのである。世界の情勢、日本の置かれた立場を知らなかった、否、知らされる自由のなかった国民に、もはや為す術はなかったのである。あれから時代は変わった。もう“戦後”とは言わない。だが、『二十四の瞳』を読んで、戦争によって様々な苦難の道を強いられることになる12人の子どもたちのその後と、女性教員・大石久子の歩みを通して、平和とは何ぞやを再認識するのも平和教育の一つではないかと、つくづく感じたしだいである。(沖縄への修学旅行だけが平和教育ではないはず)この小説は、万人におすすめの名著である。『二十四の瞳』壺井栄・著☆次回(読書案内No.118)は堀川アサコの「幻想郵便局」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.03.22

【新少林寺】「人生とは縁だ。縁に従えば安らかになれる。これを持っていってくれ。ショウダン(のお骨)は君と一緒に・・・」「あなたはどうするの?」「ソウバンが来る。あいつを改心させるのは、私の務めだ」さすがは香港映画だと思うのは、単に優れたカンフーアクションを観たせいだけではない。中国という歴史の背景、宗教的、思想的な重みを、今さらのように感じたからだ。ハリウッドの作品と比べると、その相違点がハッキリして来るのだが、例えば、殺人や窃盗など様々な過ちを犯して来た男が悔い改めて、ラストでは大成功を収めて終わったりするハリウッド映画に対し、香港映画ではそうはいかない。この作品のラストを観ていただければ、因果応報、諸行無常の東洋思想がスクリーンいっぱいに映し出されている。どちらのパターンが良いかは、各人の好みにもよるが、同じ東洋人として“もののあわれ”を感じながら鑑賞できるのは、やはり後者の方であろう。さて、『新少林寺』では、ほんのチョイ役だがジャッキー・チェンが出演している。この役者さんはやっぱり大スターだ。風変わりな厨房係というキャラだが、ジャッキーが登場したとたん画面が明るくコミカルになるのだから不思議だ。ムードメイカーというのは、ジャッキーのような役者さんを指して言うのかもしれない。 舞台は辛亥革命時代の中国。国内は内乱状態にあり、西欧諸国につけ入る隙を与えていた。そんな中、登封市にある少林寺の僧侶たちは、食料の配給や負傷した人々の救助などに追われていた。一方、少林寺に逃げ込んだ敗軍の将を追って、敵対するコウケツ軍がなだれ込んで来た。 独裁的で血も涙もないコウケツは、許しを請う敵の将軍を背後から射殺すると、少林寺をあざ笑い去って行く。だが、そんなコウケツも腹心のソウバンに裏切られ、愛娘を失うことになる。※人命は、漢字ではなくカタカナ表記とする。この作品のテーマは、中華人民共和国としての国家的なプロパガンダが含まれている(?)。 それは、内々で揉めたり争ったりしていると、外国勢力に漁夫の利をさらわれてしまうぞ、大切なのは人民の一致団結だ、という明確な主義主張である。大衆の娯楽を通して発信する、この防衛意識の強さは、ある意味、見習わなくてはならない国防精神だと思う。それにつけても、徹頭徹尾、視聴者の感情を揺さぶり、琴線に触れ、涙なくしては観られない作品に仕上げられている。2011年公開【監督】ベニー・チャン【出演】アンディ・ラウ、ニコラス・ツェー、ジャッキー・チェン
2014.03.21

ほろにがさもふるさとの蕗のとう 山頭火
2014.03.20

毎年よ彼岸の入に寒いのは 正岡子規「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵 万智
2014.03.19

【藤巻幸夫氏、逝く】穏やかな陽光と一緒に訃報が届いた。藤巻幸夫氏、当年五十四歳、若すぎる死である。二十年も前の話だ。お互いが同業者で、展示会で名刺の交換をした。藤巻氏は当時「カリスマバイヤー」と呼ばれ、展示会場を颯爽と闊歩していた。接点はそれきりなのだが、同年ということもありそれ以来、私にとって藤巻さんは少なからず意中の人であった。「藤巻幸夫のポジティブ語録」は、その後の2005年に上梓された。少なからず氏を知る者にとって、藤巻氏の人柄があらわれた一冊であると思う。「それは本当に『できない』ことなのか?」氏はそう問いかける。以来は私は、困難に立ち向かうごとに自分の心に問いてきた。そしてこれからも、ずっとそう問いていくことであろう。「何でもできる!声を大きく、明るく、勢いがあれば。」ポジティブ語録より必ずできる、よね。藤巻さん。衷心より藤巻幸夫氏のご冥福をお祈り申し上げる。
2014.03.18

見上げれば茫茫として春の空 吟遊映人、おそまつ(汗)
2014.03.17

【フェイクシティ~ある男のルール~ 】「それでワシントンと俺を殺そうとしたのか!? 壁の(内側に隠した膨大な)金を増やすために?」「俺たちの金だ。チームの金だ。シルキーの弁護料もここから出た。お前の老後資金もだ。不備な制度を是正したのさ。お巡り同士が助け合って暮らしていける(中略)」「“悪者を捕まえる”って役目は?」「人間は皆、性悪さ」キアヌ・リーブスという役者さんは、自分がどんなキャラクターを演じれば視聴者が喜ぶのかを実によくわきまえている人物だと思う。作品を観る前から何となくキアヌの演じるキャラや設定が見えてしまうのも、おそらくその辺りの所以であろう。作品冒頭部、キアヌ演じるラドローがコンビニでウォッカのミニボトルを購入し、それをあおるように飲みながら運転するあたりからして、アウトローな刑事であることをムンムンに漂わせている。しかし、このあたりの演出はサスペンスモノやスリラーモノには欠かせない物語の導入部であるため、何か“ワケありの刑事”風情を出すにはまずまずの成功と言える。ロス市警のラドロー刑事は、正義のためなら手段を選ばないタフな男。強引なやり口で事件解決に導いていくため、多大な被害も避けられない。そんな時、上司のワンダー警部だけはラドローをかばい、尻拭いをして来た。ある日、かつてのパートナーであったワシントン刑事が、ラドローの行き過ぎた捜査を密告しているとワンダーらから聞く。ラドローは真相を知るためにワシントンを尾行するが、その途中、強盗事件に巻き込まれワシントンは撃ち殺されてしまうのだった。内容的には特に目新しさはないものの、出演俳優たちの顔ぶれには胸が躍った。ワンダー警部役のフォレスト・ウィテカーは、言わずと知れたオスカー俳優で、この役者さんがほほ笑みを浮かべただけで何か黒い影が見えてしまうのは何故だろう?(笑)唾を飛ばしながら自論を展開するシーンなど、あまりのパラノイアぶりに驚かされる。 それほどの存在感、そして演技力に脱帽なのだ。ここのところサスペンス映画から離れていたためか、久しぶりに引き込まれるような楽しさを覚えた作品であった。2009年公開【監督】デヴィッド・エアー【出演】キアヌ・リーブス、フォレスト・ウィテカー
2014.03.16

【芥川龍之介/秋】◆大人の恋はじれったいほどに密やかなもの何年か前に息子のために買い与えた『蜘蛛の糸』が、本棚でほこりをかぶっているのを目にした。ポプラ社から出版されている小・中学生向けのポプラポケット文庫にある、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』である。読むともなく読んでいると、すっかりハマってしまった。短編で、しかも字が大きくて読みやすい。表題作の『蜘蛛の糸』以外に、『地獄変』『魔術』『舞踏会』『秋』『杜子春』『トロッコ』『漱石山房の冬』『雛』がある。芥川作品は、初期の平安朝時代の古典をベースに創作された短編が有名だが、晩年の現代小説の方が個人的には好きだ。(特に私小説ふうのもの)王朝ものから少しずつ遠ざかって発表した『秋』、これは〈中央公論〉の大正9年4月号に掲載されたものだが、恋の切なさと、どうしようもない現状をしみじみと感じないではいられない。こんな大人の作品が小・中学生向けのポプラポケット文庫にちゃっかり収まっていることに、正直、驚いた。『秋』を読むと、行間から漂う如何ともしがたい人間の素の感情がほとばしり、正統派の短編小説たる存在価値を、今さらのように認識せずにはいられない。この洗練された感覚は芸術の域にまで達しており、いまや芥川を越える短編小説家がいるのだろうかと、漠とした疑問を感じてしまった。しかし、そんな芥川の繊細さは異常なほどで、「昭和に入ると、時代の流れと自我とを懐疑」するようになる。芥川の表現する「ぼんやりした不安」は有名なことばだが、この神経衰弱によって自ら命を絶ってしまった。こうして大正文学が、終焉を迎えることとなる。『秋』のあらすじは、次のとおり。女子大卒の信子は才媛だったが、妹・照子と母の3人家族ということもあり、縁談を余儀なくされた。俊吉という大学の文科に籍を置く従兄がいて、おそらくこの俊吉が信子の結婚相手であろうと周囲は暗黙のうちに予想していた。というのも、信子も俊吉も文学という共通の話題があり、インテリジェンスに恵まれていたからだ。2人のデートには必ず信子の妹である照子も同伴した。だが照子は、時々、2人のハイレベルな会話について行けず、圏外に置き去りにされることもあった。そんな中、信子は周囲の予想に反して、別の青年と突然結婚してしまった。そして夫の勤務先である大阪へと引っ越してしまう。周囲はあれやこれやと無用の憶測を立てたが、実際のところ、妹・照子の俊吉への想いに気付いた信子が、身を引いたというのが真相のようであった。現代ならこのような筋書きはごくありふれたものかもしれない。だが、芥川の描くギリギリの恋は、じれったいほどに密やかなものである。細かな心理描写などはないが、時間の経過に伴う人間のどうしようもない不安や後悔、それに切なさみたいなものが、ぬえのように襲い掛かって来るのだ。堅苦しい純文学から遠ざかっている方にも、このポプラポケット文庫の名作は無理なく手に取ることの出来る、ありがたい存在であろう。『秋』芥川龍之介・著☆次回(読書案内No.117)は壺井栄の「二十四の瞳」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.03.15

どこでも死ねるからだで春風山頭火
2014.03.14

【アポカリプト 】「あの連中を見てお前は何を感じた?」「分からない。」「恐怖だ。心をむしばむ恐怖。連中はそれに冒されていた。・・・感じたか? 恐怖は病(やまい)だ。魂の中に入り込む。お前の心の平安をすでにむしばみ始めている。」無名の俳優を起用し、英語ではなく全編マヤ語を使用しての本格的な演出。むせかえるようなジャングルの密林地帯を舞台に、未開の現地人がおそらくやっていたであろう狩猟や、部族間争い、人身売買、生贄の儀式。それらはあまりに残虐性が強いため、アメリカではR指定を受けた映画なのだ。しかし、そこまでして作り手がこだわったもの、提示しているものとは何なのかを考えてもらいたい。それをきちんと、真正面から見据えることでストーリーの裏側に隠された本当のテーマが、自ずと浮かび上がって来るのだ。時代はマヤ文明の後期。ジャングルの密林地帯の一角に居住するジャガーたちは、部族の仲間たちと平穏な日々を送っていた。ある日、ジャガーは狩りのためにバクを追っていた。見事仕留めて仲間たちと、肉と内臓を分け合っていると、突然、恐怖におののく他の部族がジャガーたちの前に現れる。見れば、皆傷を負い、無惨な姿をした者たちばかりだった。ジャガーは自分たちのテリトリーである森を通り抜けることを許可するものの、一体その部族に何が起こったのか胸騒ぎを覚える。その予兆通り、ある朝ジャガーが目を覚ますと村がマヤ帝国の傭兵に焼き討ちをされてしまう。そして、必死の抵抗も虚しく、ジャガーの父は彼の目の前で首を切られ、絶命する。マヤ帝国についての詳細はいまだ不明で、学者たちの間で研究の進んでいる史学なのだ。 だが一つの文明が滅びる時、それは様々な要因が重なってのことであると同時に、淘汰されるべくして淘汰されたのだとも考えられる。作中、ジャガーの妻が傭兵から身を隠していた窪みの中で、どしゃ降りの雨に浸かりながらの壮絶な出産シーンにはがく然とした。目を背けたくなるだけでなく、吐き気すらもよおした。さらに、ジャガーが必死で死体の山を踏みつけながら逃げ去るシーンは、目蓋の内側に焼きついて離れない。だが、それもこれも最後のワン・カットでストンと腑に落ちた。ジャガーがどうにか浜辺まで逃げ切った際、停泊していた西洋の船にキリスト教の宣教師たちが乗っているのだ。「なるほど」と思った。キリスト教国家の支配により、この野蛮な文明は幕を閉じたと言うことなのか。これをキリストの「救い」と捉えるのか「言い訳」と捉えるのか、いずれにしてもこの後マヤ文明が滅亡したことだけは事実だ。【アポカリプト】・・・ギリシャ語が語源で、「ものごとを新しくする」という動詞。 【アポカリプス】・・・同じくギリシャ語が語源でアポカリプトの名詞形。「啓示」の意。(聖書の黙示録をあらわす。)2006年(米)、2007年(日)公開【監督】メル・ギブソン【出演】ルディ・ヤングブラッド
2014.03.13

くれなゐの桃のつぼみを思ひつつ薬をのみぬ病める三月与謝野晶子
2014.03.12

311によせて『東北は単独ですでに偉大なのである。東京への交通機関的な距離で自己の価値をきめねばならないような土地ではない。』『むしろ関東のほうが東北の出店で、本店は東北だ、という見方である。すでに縄文時代を考える考古学の世界では、東北が中心というにおいが濃い。言語も東北語があって、その下流に関東語があったのではないか。千年、二千年前のことだが』(司馬遼太郎『街道をゆく 奥州白河・会津のみち』)
2014.03.11

啓蟄に引く虫偏の字のゐるはゐるは上田五千石詠みえて妙の一句である。漢和辞典を手にし虫偏の字の数多あるを驚いた次第。しかし台地では彼の輩も出遅れているようだ。この寒さが原因らしい。難儀するのは人ばかりにあらず、そういうことだ。虫ともども、一日千秋の思いで春を待つ今日この頃である。
2014.03.10

【産経新聞 極言御免】~朝日新聞の「特定秘密」~どうやら朝日新聞にとっては、慰安婦問題の真相は読者に知らせるべきでない「特定秘密」に当たるらしい。6日付の同紙の週刊新潮、週刊文春の広告は、それぞれ次のような伏せ字が施されていた。◆週刊誌広告に伏せ字 「●●記事を書いた『朝日新聞』記者の韓国人義母『詐欺裁判』」(新潮) 「『慰安婦問題』A級戦犯●●新聞を断罪する」(文春) もちろん、他紙の広告をみるとこの伏せ字部分は「捏造(ねつぞう)」「朝日」とはっきり記されている。朝日は、こんな子供だましの隠蔽(いんぺい)で一体何をごまかそうとしているのだろうか。 朝日は昨年10月30日付の社説では特定秘密保護法によって秘密が増えるとの懸念を表明し、「秘密保護法案 首相動静も■■■か?」と伏せ字を用いたタイトルでこう説いていた。 「政治家や官僚は、だれのために働いているのか。原点から考え直してもらいたい」◆誰のための記事か 政府には秘密はいけないと説教する一方、自身に都合の悪いことは堂々と隠すというわけだ。そんな朝日にこそ、誰のために記事を書いているのか、報道機関があるのか原点から考え直してもらいたい。 新潮が「捏造」と指摘しているのは、慰安婦問題に火が付くきっかけとなった平成3年8月11日付の朝日の記事「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」のことである。記事はこう書いている。 「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり…」 記事では実名は記されていなかったが、この女性は同年12月に日本政府を相手取り、慰安婦賠償請求訴訟を起こした金学順氏だ。 だが、25歳未満の女性を勤労挺身隊として動員し、工場などで働かせた「女子挺身勤労令」と慰安婦はそもそも何の関係もない。また、金氏は訴状では、17歳だった昭和14年に「金もうけができる」と説得され、養父に連れられて中国へ渡り、そこで慰安婦にされたと記しているが、女子挺身勤労令の公布は19年8月なのである。 朝日の記事は、女子挺身隊と慰安婦を意図的に混同し、しかも養父にだまされたと証言している女性が日本軍に「連行」されたように書いたのだから、捏造といわれても仕方がない。 ◆指摘から目をそむけ 金氏は別のインタビューでは「40円でキーセン(朝鮮半島の芸妓(げいぎ)、売春婦)に売られた」と明かしており、慰安婦募集の強制性を認めた河野談話の根拠となった聞き取り調査に応じた際には訴状とは異なるこんなストーリーを語っている。 「17歳だった16年春ごろ、少女供出の噂が広まり、養父と満州方面に逃げた。北京で将校風の軍人に連れていかれた」 言うことがころころ変わっているが、河野談話は無批判・無条件にこうした証言を受け入れて成立した。一方、朝日は平成4年1月12日付の社説「歴史から目をそむけない」でも、重ねてこう書いている。 「『挺身隊』の名で勧誘または強制連行され…」 慰安婦問題でデマをしつこく報じ、反論や誤りを正す指摘から目をそむけて見ないようにしてきたのは、ほかならぬ朝日自身ではないか。(3月7日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「以前から朝日は傲慢だったな。個人ではみないい人だったが、総じて朝日の看板を背負うと傲慢になった。朝日の企業風土かもしれないな。」齢八十七になる我が父は、かつて地方の新聞社で職務を全うした。月一の協会の会議を通し朝日には懇意の人もいたようだ。上記の伏字事件を、父は朝日の傲慢と見た。「語るに落ちる、といったところだね。」私の語り掛けに対し父は「さもありなん。」そうこたえるのであった。伊達に年を取っているわけではない、我が父ながら頼もしく思った。さて、拙宅は父の勤務した地方新聞を一紙購読しているだけだ。画像は拙宅の新聞広告である。全国すべての新聞の中で朝日だけが伏字にしたわけだ。実際のものは見てはいないが、考えただけでも愕然とする。そして何より、一番恐ろしく思ったのは、もし電子版の産経新聞を閲覧していなかったら、その事実を知らないでいたということだ。だがしかし、冷静になって思うと、それが実相であり実態なのだ。そして世間を象徴した事柄である。そもそも情報などあってもそれを知らなければ無いのと同じだ。それが実相。般若心経の説くところなのだ。そして情報は伝える側によって、それが意識的であるにしても無意識であるにしても、少なからず変わってくるということだ。それが情報の実態である。昨今、汲々としている「秘密保護法」の本質を象徴する一件なのである。少しずれるが朝日の「傲慢」について。かつて立正大学学長をされた中村瑞隆師は著書でこう指摘する。『わたしたちは、ともすると向上心と貪欲を混同したり、自信と驕慢、謙虚さと卑屈をとり違えていることがあります。』朝日の、特にお歴々には耳の痛いひと言であろう。瑞隆師はこう続ける。『向上心と貪欲、自信と驕慢、謙譲と卑屈、その違いは、わわしは、何を目的に生きるのかという人生目的の違いから起こるものだと思います。』さもありなん、老父がそう言った所以かもしれない。それにつけても、産経がウェブ上で解放している紙面には大感謝である。それはまさに社会事業的価値のある行為であり、合わせて産経には謹んで敬意を表したい。時間はかかるだろうが、マイノリティーが世論に変わる時が必ず来よう。非力な私目ではあるが、かげながら応援したいと思う。頑張れ産経!「産経の怒り心頭はそうとうなものだね。しかし品がない。」老父はそう閉めた。ちなみに「不思議と産経とは懇意を築けなかった」そうである。さもありなん。
2014.03.09

【寺山修司/書を捨てよ、町へ出よう】◆一点豪華主義にこだわり、反バランス主義を貫く男個性的なキャラという存在は、けむたがられることがままある。それは今に限ったことではなく、いつの時代にもあった。“出る杭は打たれる”ということわざにもあるように、何か突出した才能があったりすると、周囲に反感を買ったりするわけだ。いつのころからか、場の空気が読めない人のことを“KY”と言って非難めいた悪口をきくようになり、ヘタに会話もできなくなった。ましてやとんちんかんな返答などご法度なのだ。寺山修司の青春扇動エッセイである『書を捨てよ、町へ出よう』は、多くの既成概念から解放されるような、突き抜けた挑発書だ。だから、野球で盛り上がるオヤジ世代の中で、寺山はサッカーを高く評価し、トルコ風呂(現在のソープランド)を排泄の場ではなくエデンの園として扱おうと提案したりする。(昭和50年当時)何やら人生なんてヒマつぶしみたいなものだと言われているようで、人間関係ごときにくよくよと悩んでいるのがバカバカしくなる。興味深く読んだ箇所がいくつかあるので紹介しよう。一つは、サッカーの起源について書かれている章である。な、なんとサッカーは「はじめは、ボールではなくて、頭の骨でやった」とな?!「デンマークに支配されていた英国人たちが、裏通りにころがっていたデンマーク兵の頭蓋骨を靴で蹴ったのが始まり」とのこと。どおりでイギリスの国技として今日まで発展して来たわけだ。寺山いわく、「野球はピッチャーのナルシズムによる競技」であり、「まるで魅力のない」スポーツだと。一方、サッカーとは「憎しみから出発した競技」で、「蹴る、足蹴にする、という行為には、ほとばしるような情念が感じられる」というものだ。ううむ、なるほど。さらにもう一つ。それは一点豪華主義のススメである。「三畳半のアパート暮らしをしているくせに食事だけはレストランでヒレ肉のステーキを食う」とか「着るべきスーツはうす汚れた中古の背広一着なのに、スポーツカーはロータス・エランを持っている」などである。思うに寺山修司という人は、反バランス主義者であったに違いない。他にも自殺学入門の章も面白く読んだ。あれやこれやと寺山流自殺論を展開しながらも、その最後には「じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをもきずつけたり、ときには殺すことになる。そのため、たにんをまきこまずには自殺もできない時代になってしまった」と書いている。寺山修司の東北人気質と、演劇で培った表現力、それにカリスマ的魅力の溢れる作風は、時代を超えて楽しめる。風俗史として読んでもいっそうおもしろいと思った。どちらかと言えば若い世代の方が“クール”に感じるかもしれない。四十代以上の世代には、「若いっていいなぁ」という感傷に近い味わいを覚えるに違いない。『書を捨てよ、町へ出よう』寺山修司・著☆次回(読書案内No.116)は芥川龍之介の短編小説「秋」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.03.08

【アンダーカヴァー】「少しは眠れたか?」「・・・父さんは?」「(父さんの)遺体を確認した」「(号泣)親父が死ぬのを見たよ・・・」「大丈夫だ・・・大丈夫だから」80年代というと、日本でもバブルに沸いていた時代である。猫も杓子も浮かれ騒いでいた半狂乱の歴史が刻まれてしまった。一体あのころは何だったのだろう・・・?今はただ、古き良き時代として記憶の片隅に追いやるしかない。本作「アンダーカヴァー」も80年代後半が舞台となっており、ナイトクラブのむやみやたらな浮かれ騒ぎの一方で、陰鬱なコカイン製造過程やら、胡散臭いマフィアの連中が登場する。物事には全て表裏があり、光と影が存在するということの証しなのか。そんな中、優秀な兄を持ち、劣等意識に苛む主人公の心理描写はこの時代にピタリと当てはまり、暗く憂鬱なムードを効果的に反映させていた。この比較対照こそが作品の完成度を高いものにしたと言っても過言ではないだろう。1988年のN.Y.が舞台。警察の幹部である父と優秀な兄を持つボビーは、ナイトクラブの店長として働いていた。 裏社会で暮らすボビーに、兄のジョゼフがマフィアの麻薬取締の件で協力を求める。だがボビーは、ナイトクラブのオーナーである人物に恩義を感じていて、警察のイヌになるのはイヤだと断わる。そんな中、麻薬取締班の指揮官である兄が、マフィアから銃撃を受ける。さらにその後、父親までも危機が迫るのであった。主人公のボビー役に扮したホアキン・フェニックスは、今は亡きリバー・フェニックスの弟である。人相風体からはすぐに兄弟とは判断しづらいものの、両者とも実に味のある役者なのだ。 本作ボビーというキャラクターについても、内面に抱えるコンプレックスに苦悩しつつも、どこかで家族を愛してやまない優しい男として描かれている。この役どころをホアキン・フェニックスは実に見事に演じており、型通りのサスペンスモノに終わらせず、一段高いヒューマン・ドラマへと転向させている。80年代のニューヨークの香りをプンプンと漂わせる、質の高い作品なのだ。2007年(米)、2008年(日)公開【監督】ジェームズ・グレイ【出演】ホアキン・フェニックス、マーク・ウォールバーグ
2014.03.07

昭和七年三月、山頭火は嬉野温泉にあそぶ。そこは山頭火にとって結庵を望むほどの地であった。ここにおちつき草萌ゆる(改作)そう日記に記す山頭火だが、実際のところ結庵はかなわずじまいであった。その屈託と前途を胸に、山頭火は三月六日の日記にこう記し誓うのだ。おこるなしやべるなむさぼるなゆつくりあるけしつかりあるけなお前文には「座右銘として」と添えている。ところで三月六日はご母堂の祥月命日。後年となる昭和十五年の同日の日記には『仏前にかしこまつて、焼香諷経、母よ、不幸者をお赦しください。』と記している。山頭火にとって生きるとは、棘の道にほかならない、そういうことなのだろうか。ゆつくりあるけ しつかりあるけ
2014.03.06

菊池寛氏に献杯昭和二十三年三月六日、菊池寛が亡くなった。享年五十九歳。画はサザエさんで有名な長谷川町子さんによる。残された菊池寛の写真も楽しいが、この画は実に素晴らしい。なんだか菊池寛の内面まで見えてくる。後日談も多い御仁ではあるが、きっといい人だったことに間違いはない。生前は多くの友人知人のために涙を流した氏である。明日の祥月命日は、一人でも多くの人が氏を偲んでくれること願ってやまない。また願わくは、いまだ活躍中の芥川賞直木賞の受賞作家は、現在あるのは菊池寛のおかげと心得て、氏のために献杯を捧げてほしい。ちなみに氏の葬儀は三月十二日、音羽の護国寺で執り行われた。葬儀委員長に久米正雄、川端康成が弔辞を読み林芙美子が献詩を上げている。氏の人となりについては「天地人」をご参考されたい。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆~東奥日報「天地人」2013年3月6日付 小説家の菊池寛は親友の芥川龍之介が死んだ時、その枕元で泣いた。直木三十五(さんじゅうご)が死んだ時は東大病院で号泣したという。よほど無念だったのだろう。二人の名前にちなんで芥川賞と直木賞を創設した。「(二つとも)あの涙から生まれたような気がする」と、小説家の川口松太郎が書いている。小説家の織田作之助が発病して宿屋で寝ているのを菊池が見舞った時は、織田の方がおいおい泣いたという話もある。いま「競争だ」「合理化だ」と世間の風は世知辛い。そんな人間味のない風に当てられているせいか、菊池にまつわる話は心にしみる。旧制一高(東大教養学部の前身)時代、菊池は窃盗事件で友人の罪をかぶり退学した。「文教関係に勤める父が職にいられなくなる」。友人がそう言って泣くので、菊池は罪を認めさせようという気になれなかったのだ。新渡戸稲造校長が後で真相を知り、寛大に計らおうとした。が、菊池は「前言を翻すのは卑怯(ひきょう)」と、最後まで罪をかぶる。そんな男気もあった。とはいえ、金もなく行く当てもない。そこを金持ちの同級生に救われるのだから、世の中は面白い。同級生の親が経済的な面倒を見てくれたため、菊池は京大に進むことができた。文藝春秋の社長でいた頃、食えない作家がやってくると、ポケットから五円札、十円札を取り出し、無造作に与えたという。少年時代に受けた恩を忘れず、世間に返し続けていたのだ。まるで人情物語のような人生だ。菊池は65年前のきょう59歳で亡くなった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2014.03.05

【RAILWAYS】「なぁ、もの作りは誰のためだ?」「フフフ・・・何だよ突然に・・・そりゃあ消費者のためであり、ひいては会社のためになる」「会社は誰のためにある?」「はぐらかさないでくれ」都会の喧騒を離れ、のどかな田園風景に場面が一変すると、誰もが皆ホッとしたのではなかろうか。時間がのんびり、ゆっくりと過ぎていく。自分はこういう空間を待ち望んでいたのだと、本作に登場する田舎の街並みに釘付けになるのだ。本作は、東京の大手企業に勤務する男が、諸事情から田舎に帰って49歳で電車の運転士になるという話だ。映像を観てもらえば感じることだが、昭和の名残りがプンプンと漂う、ノスタルジーに溢れた作品である。「ALWAYS三丁目の夕日」にどことなく似ていると感じた視聴者もおられるだろう。無論、吟遊映人も同様のことを感じた。ムリもない。「ALWAYS三丁目の夕日」に携わった制作者が、本作でも総合プロデューサーとして君臨しているのだから。一流企業である京陽電器の経営企画室長・筒井肇は、上司から工場の閉鎖を速やかに勧めるリストラ担当を任される。工場長の川平は、筒井の同期でもあり、不本意ながらも工場閉鎖には協力的であった。 そんな折、島根に住む一人暮らしの母親が倒れたという知らせを受け、筒井は娘の倖をつれて帰郷する。精密検査の結果、母親に悪性の腫瘍が見つかる。時を同じくして、同期の川平が交通事故で亡くなったという連絡を受け、肇は初めて人生というものについて考えるようになった。鉄道ファンにとっては、こういうローカルな列車が表舞台に登場する映画を、長いこと待ち望んでいたのではなかろうか。本作でクローズアップされる一畑電車(通称バタデン)というのは、もともと出雲市内にある一畑寺へ参詣する人々の足となるために開通されたようだ。信心深いわけではないが、一畑寺の本尊が薬師如来ということもあり、物事を見極める視力、眼力に、何やらご利益がありそうな路線ではないか。ときに一畑寺は臨済宗妙心寺派、機会があればぜひともバタデンに乗って一畑寺を訪れてみたいと思う。「RAILWAYS」は、平和で牧歌的なムードの漂う、ほのぼのとした作品だ。出演している中井貴一も肩肘張らず、伸び伸びとした演技を披露している。病床の母親役に扮する奈良岡朋子も、この手の役柄はハマリ役で、さすがの貫禄を見せ付けてくれる。最後まで安心して鑑賞することのできる作品だった。2010年公開【監督】錦織良成【出演】中井貴一、高島礼子、奈良岡朋子
2014.03.04

昭和十五年は山頭火の最晩年の年になる。その年の三月は気候が行きつ戻りつしたようで、四国でも遅い雪があった。ルンペン然の山頭火にとって、天候不順は即食い扶持につながるのだ。そして輪をかけるように持病(痔病!)が悪化し、難儀極まりない山頭火なのである。しかし、己に鞭打ち山頭火はこう記す。「毎日の行事、松山散歩、は雲つて寒いので、今日は止めにした。外出する元気、散歩する余裕がないからである。衰へたるかな、山頭火、しつかりしなさい!」日記は「まことにつつましい一日であつた。」としめているから、門外不出で俳句の推敲をしたのかもしれない。句集「草木塔」は五月に発刊されている。おちついて死ぬさうな草萌ゆる山頭火、黄泉への旅立ちまであと半年である。
2014.03.03

【路上のソリスト 】「スティーヴ、今彼にあるのは友達だけだ。その友情を裏切るのは唯一のものを壊すことだろ」「(僕が)唯一(の友達)なんてゴメンだ」花見時期になると、妙に目につくのが公園や駅周辺の地下道に生活するホームレスの人々。 「同情するなら金をくれ!」(←少し古いか・汗)と言われそうなので、あまり多くは語らないが、ダンボールや新聞紙に身を包み日常を過ごすというのは、一体どんな心持ちなのだろうか・・・?本作「路上のソリスト」は、実際にあった話に基づいて製作された映画だが、これを観ると路上生活者についての見識が変わる。一般的にはホームレスと言うと、収入がなく、住む所もなく、惨めな生活・・・と思いがちであるが、どうやら十把一からげにそうとも言い切れないようだ。粗末な生活状況という側面だけを見て不幸だと決め付けるのは、早計なのかもしれない。 本当の幸せは他人によって判断されるものではなく、当事者がどう思うかなのであるから。ロサンゼルス・タイムズのコラムニストであるロペスは、ベートーヴェンの銅像のある公園でバイオリンを弾くホームレスの男に声をかけた。男はナサニエルと言い、ジュリアード音楽院の学生であったと言う。真偽を確かめるためにロペスはジュリアードに問い合わせをしたところ、確かにナサニエルは在学していた経歴があった。優秀なジュリアードの逸材が、志し半ばで退学し、なぜ路上生活者になったのか興味を抱き、ロペスは取材を続けるのだった。監督はイギリス人で、しかも吟遊映人と同世代のジョー・ライトである。代表作に「つぐない」があるが、本作「路上のソリスト」も叙情的で、ストーリーに誇大な脚色を混ぜることなく上品な仕上がりとなっている。また、出演者の顔ぶれも役柄と見事にマッチしており、申し分ない。ロペス役を演じたロバート・ダウニー・Jrは、売れっ子コラムニストでありながら、私生活では自分を持て余す男と言うキャラを見事に表現していた。2009年公開【監督】ジョー・ライト【出演】ジェイミー・フォックス、ロバート・ダウニー・Jr
2014.03.02

【江戸川乱歩/幽霊塔】◆黒岩涙香の翻案を乱歩が再創作もともと推理小説とか怪奇小説というジャンルは、通俗小説の筆頭にあげられるものである。そのため、作品としての評価が今一つ盛り上がらないのは致し方ない。言わずと知れた江戸川乱歩は、西洋と比べると立ち遅れていた日本の創作小説というものを確立した人物であると言っても過言ではない。かの大谷崎も、江戸川乱歩の描くおどろおどろしい世界観に早くから目をつけており、高く評価している。日本人が実は、根っからのエロ・グロ好みである気質を、鋭く見抜いていたという点では、江戸川乱歩は谷崎に勝るとも劣らない文士なのだ。江戸川乱歩といえば、『怪人二十面相』に始まる少年読み物が代表作であるのは疑う余地もないことだが、昨今でも一般読者の圧倒的な支持を集めるのは、この『幽霊塔』である。この作品はもともと黒岩涙香の翻案したものを、さらに乱歩が再創作した小説である。〈※ウィキペディア参照〉巻末にある乱歩本人による注釈だと、当時はこの黒岩涙香の翻訳した原作というものが分からなかったとのこと。だが最近になって原作が判明。アリス・マリエル・ウィリアムソンによる『灰色の女』がベースとなっているようだ。 『幽霊塔』のあらすじはこうだ。舞台は長崎の片田舎、K町。時代は大正初期。主人公・北川光雄の叔父が、時計塔のそびえる古風な西洋館を地所ごと買い取った。光雄は改築を命じられ、はるばる下見にやって来たのだ。ところがこの西洋館には、幽霊が出るといういわくつきの物件だった。というのも、もともとの持ち主は徳川末期の大富豪渡海屋市郎兵衛で、維新前の物情騒然たる時世ゆえに財宝の隠し場所としてからくり部屋を作ったところ、出入り口が分からなくなってしまい、そのからくり部屋で巨万の富とともに絶命した。その非業の死が悲痛な魂となって屋敷内をさまよっているという伝説が、まことしやかに囁かれていた。その後、時計屋敷はお鉄婆さんという老婆の持ち物となったのだが、いっしょに住んでいた養女に殺されるという悲運な最期を遂げた。このような因縁めいた屋敷に不安を覚えつつ見回っていたところ、光雄は突然、美しい女性と出くわす。それはそれは神秘的で、凛とした美しさを持つ、野末秋子という女性だった。秋子はなぜか時計屋敷について詳しく、大時計の巻き方なども知っており、持ち主である光雄の叔父にも挨拶がてらその旨、教えたいとのこと。こうして光雄は、秋子に対して深い詮索もせず、その魅力的な美貌から、徐々に気持ちが秋子の方へと傾いてゆくのだった。内容は古めかしく、時代性を感じさせるものだが、登場人物の善悪がハッキリ分かれているし、不透明感のない結末は、読後、清々しい。ラストでこれだけ後日談がきちんと語られていると、本当の意味でのハッピーエンドを味わえる。とかく社会派ミステリーなどにはつき物の、絶望的な後味の悪さは、乱歩の描くこの作品には皆無である。怪奇小説、スリラー小説は苦手だという人も、この『幽霊塔』なら、あるいは最後まで楽しめるかもしれない。『幽霊塔』江戸川乱歩・著(原作・アリス・マリエル・ウィリアムソン『灰色の女』より)☆次回(読書案内No.115)は寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.03.01
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