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【海音寺潮五郎/天と地と(下)】◆隣国の強は国の衰ふるなり人生とは闘いである。戦国を生きる武将なら、皆が領土拡張に心血を注いだ。なぜなら、敵が強大になることを防ぐためであるからだ。古い中国のことわざに、「隣国の強は国の衰ふるなり」というのがある。(※『天と地と(下)』より参照)つまり、敵が巨大化するのを指をくわえて見ていたら、自分の免疫が侵され弱体化するということだ。 例外なく景虎も戦うしかない。駿河に向かって野心を募らせる武田信玄、小田原北条氏の横暴、全てが景虎にとって因縁であり脅威であった。そんな中、景虎は関東管領に就任し、上杉の家督も譲られ、上杉政虎と改名する。だが宿命のライバル武田信玄との決戦は、避けられるものではなかった。 『天と地と(下)』では、何と言っても川中島の決戦が山場となっている。読者はこの一戦を楽しみたくて、一心にページをめくるのだが、その決戦に近づくとにわかに怖気づく。この名勝負の後に何が残るのか?死にもの狂いで雌雄を決するこの兵どもの夢のあとに、果たして希望はあるのか?一瞬にして歴史の残骸に打ちのめされ、現実に引き戻される自分がいる。 政虎はいつも神仏とともにあった。つまらない小細工などせず、正々堂々と戦うことを潔しとした。そこに卑怯な策は用いず、刻々と変化する戦況に身を委ねるのだった。一方、武田信玄は政虎と対極にある人だった。綿密な打ち合せのもとに事を運ばねば、落ち着かなかった。細部に渡って戦術を練り上げ、実行する。信玄の兵法は隙がなく、限りなく完璧を求めた。だから政虎が妻女山に陣を置いた時、信玄にはその作戦の意図が分からなかった。妻女山なんかに陣を張れば、袋の中のねずみに等しい。兵法者としては、あるまじき行為だったからだ。信玄は考えに考えた一体なぜ妻女山に?崖の上に立って、妻女山を望んだ。下界には霧がこめ、妻女山にも薄くかかっている。そこで信玄はハタと後悔する。 「おれとしたことが、何ということをしてしまったろう。やつを死地に追い込んだつもりでいたが、おれこそ死地に引きずりこまれる寸前に立っている。やつはおれをおびきだして、一か八かの勝負をいどみかけようとしているのだ!」 信玄は漸く政虎の真意を悟り、慌てて本陣を茶臼山に移した。相手にとって不足はなし、さすがは武田信玄である。 『霧は益々深くなって、今は空にある月の姿も見えない。漠として天地を閉ざす霧のこまかな粒子の一つ一つに月光がこもって真珠色の厚い幕となり、一間も離れればもう何も見えないほどであった。』 上杉勢は、ひたひたと武田勢に近づいていた。それは風の草原を過ぎる音とも、遠い川瀬の響きとも知れなかった。すべては霧に包まれ、異様な物音だけが聴こえて来たに過ぎない。こうして上杉・武田両軍の戦の火ぶたは切って落とされたのだ。 私たちは、事を起こす時、どうかすると計画通りに推し進めようとする。少しでも面倒を省き、合理的に済ませたいからだ。だが、上杉謙信の清々しさを目の当たりにした時、そのあふれる男性的気概に思わず圧倒される。すべてを天に委ね、何の駆け引きもなく、全力で敵にぶつかっていく姿は、上杉謙信以外の武将には見受けられない。海音寺潮五郎の描く上杉謙信は、清廉で、神仏と秩序を重んじた、無類の闘将である。私はこの謙信の生き様が大好きだ!できるなら一人でも多くの方に『天と地と』を読んで、謙信のあれやこれやを知って頂きたい。おすすめの逸作だ。 『天と地と(下)』海音寺潮五郎・著☆次回(読書案内No.145)は村松友視の「幸田文のマッチ箱」を予定しています。『海音寺潮五郎/天と地と(上巻)』はコチラ『海音寺潮五郎/天と地と(中巻)』はコチラ★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.09.27

【THE GREY 凍える太陽】「もう一度闘って 最強の敵を倒せたら その日に死んで 悔いはない。 その日に死んで 悔いはない」久しぶりに文学の香りが漂う作品に出合った気がする。一見、パニック・ホラーと見紛う内容だが、この作品は、生と死の狭間を表現したヒューマン・ドラマである。生きるということは、死に直面するその瞬間まで生をあきらめない、それこそが実は美しい死に際であると、作品は訴えている。というのも、吹雪のアラスカ山中に飛行機が墜落したところ、せっかく生き残った6人だったが、一人また一人と死んでゆく。そのシーンは、自然との闘いに敗れて無様な姿をさらすのが目的ではなく、燃え尽きる命の崇高な輝きを見せるのがテーマとなっているのだ。 私は、主演のリーアム・ニーソン以外の役者さんは全く知らない顔ぶれだったけれど、むしろこの作品に有名無名は関係ないと思った。タイトルは『THE GREY』だが、おそらく一面の灰色の雪山、灰色の極限状態(マイナス20℃の過酷な状況)などを意識し、総称したものかもしれない。 ストーリーはこうだ。石油採掘現場で働く作業員らが、休暇で現場を離れることになった。酒場で安酒をあおり、飛行機に乗り込んだ一人にオットウェイがいた。オットウェイは、最愛の妻を亡くしたあと惰性で暮らしていた。仕事といえば、この現場の作業員らがオオカミに襲われることがないように雇われたスナイパーだった。休暇と言ってもオットウェイには帰りを待つ家族もなく、常に死にたいと望んでいた。そんな中、オットウェイや荒くれの作業員らの乗る飛行機が、アラスカ山中に墜落してしまった。どうにか生き残ったオットウェイが見たものは、雪に覆われた山にバラバラとなってしまった機体、それに顔の判別すらつかない死体の数々だった。それでもオットウェイの他にも生存者がいて、とにかく暖を取るために火を起こした。激しい吹雪に見舞われた極寒の地には、獲物を狙うオオカミの群れがオットウェイたちを取り囲んでいた。救助の望みも薄く、このままではオオカミの餌食になってしまうと考えたオットウェイは、南を目指して森の方に移動することを提案。だが、皆の体力の消耗は著しく、一瞬の油断が死へと直結していた。一人また一人と息絶えてゆくのだった。 主人公を演じたリーアム・ニーソンが実に良かった!愛する妻を、おそらく病気で亡くしたであろうことが終盤で分かるのだが、リーアム・ニーソン演じるその男が日々を絶望的に暮らしていて常に自殺を考えていたところ、墜落した飛行機の乗客の生存者として生き残ってしまったのである。そこから主人公は再生する。天から与えられた生をまっとうするのだ。 私が感動したのはラストである。確実な死を目前にしながらも、あきらめないのだ。その鮮烈な生き様は、見事としか言いようがない。「一生懸命は美しい」のである。でき得る限りの努力を果たした後、自らの限界を知り、死を選択する。これは決して、決して闘うことを放棄しているのではない。燃え尽きる命の気高さ、崇高な生き様なのである。 『THE GREY』生と死の狭間を見つめさせてくれる、秀逸な映画なのだ。 2012年公開 【監督】ジョー・カーナハン 【出演】リーアム・ニーソン
2014.09.21

【海音寺潮五郎/天と地と(中)】◆血を分けた兄弟間の争いはいつの世も同じ私の知り合いの某さんは、男ばかりの三兄弟だった。実家は祖父の代から続く老舗の仕出し屋で、当然のことながら三兄弟のうち長男が跡を取ると思われていた。というのも、三兄弟の父親は、すでにこの世の人ではなかったからだ。経営者である祖父亡き後は、祖母が経営の全てを掌握していたのだが、直系の孫である三兄弟を見る眼差しは、優しい「おばあちゃん」ではなく「代表取締役社長」としてであった。 「長男は人の上に立つ器じゃない。二男を後継者とするわ」 という鶴の一声で、三兄弟のうち二男坊が経営者となった。跡取りの座を二男に譲らなくてはならない長男の心情はいかばかりかと、こちらが心配になるのもよそに、当の長男はサバサバとしたもので、代表という重圧から逃れられたことをむしろ喜んでいる様子さえ見られた。それにしてもこの時の祖母の決断は正しかった。長男は体が弱く、若くして夭逝してしまったからだ。他にも、長男では経営者として不向きな点はいくつかあったようだが、他人から見れば、何がどう二男より劣っているのかは分からない。長年、その気質・性格を見続けて来た者にだけ判断のできることだったのであろう。 前置きが長くなってしまったが、越後の長尾家でも、何やら兄弟間できな臭いものが漂っていた。私の知り合いの三兄弟とは違って、もっとドロドロとしている。 『天と地と(中)』において、とりあえず長男・晴景が長尾家の当主となり、新守護代となったものの、凡庸な器量ゆえか、合戦で武名を挙げるということが一切なかった。翻って異母弟である景虎には、利発さや勢いもあり、数々の合戦で味方を勝利に導いたのである。弟の活躍がおもしろくない晴景は、景虎を目の敵にし、いよいよ兄弟関係が悪化する。結果、兄弟間の熾烈な跡目争いの形を取るのだが、この戦いはあまりに晴景の分が悪すぎた。威勢が良かったのは最初だけで、勝ち目がないと分かるやいなや、命乞いの姿勢を取った。越後の守護代ともあろう長尾晴景は、不安と恐怖でおそれおののくばかりだった。もともと景虎に兄殺しの不義の弟となるつもりはなく、とにかく兄には政から一切手を引かせ、隠居の上、春日城から去ってもらえればそれで良かった。こうして兄に勝利した景虎は、若干二十歳で長尾家の当主となり、越後統一を実現させるのだった。 さて、私がこの本を読んでいて感じたのは、景虎は神経症を患っていたのではなかろうか、というものである。生涯独身でいたことと何か関係があるかどうかは分からないが、どうも度々鬱々とした心理に苛まれていたようだ。その虚無感に襲われた時は、その都度堂内の毘沙門天に礼拝し、救いを求めた。名僧と謳われた徹岫宗久からは、 「人間の生れながらの知恵才覚や善良な心などというものは、頼りないものじゃ。一にも打座、二にも打座、三にも打座。坐ること以外にはござらぬ。坐りなされ」 と助言を受けた。とはいえ、景虎の胸中を騒がせる様々な雑音・雑念は絶えることがなく、専一になれない。結局、景虎は高野山へと向かう。 “禅宗の信者でも、天台宗の信者でも、一向宗の信者でも、それはかわりはなかった。おかしな話ではあるが、日本人には神様にたいする信心と弘法大師にたいする信心は宗派信仰とは別なのである” そのとおり。景虎がそうであったように、古来日本人のほとんどが、高野山を救いの場としている。それは理屈などではなく、日本人としての魂が欲する清涼な空間が広がっているのだ。今を生きる私たちも、景虎の迷いは他人事ではない。鬱として晴れない時、心を正常に戻したい時、いつも心の中の高野山に手を併せたくなるのだ。 『天と地と(中)』海音寺潮五郎・著☆次回(読書案内No.144)は海音寺潮五郎の「天と地と(下巻)」を予定しています。『海音寺潮五郎/天と地と(上巻)』はコチラ★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.09.20

【シャッターアイランド】「ここにいると考えるんだ」「どんなことを?」「どっちがマシだと思う? モンスターのまま生きるか、それとも善人として死ぬか、、、」この作品が公開されたのは2010年のことなので、すでに4年も前の話である。それにしても当時は、テレビCMでもバンバン放送されていたし、心理的に煽るような触れ込みでかなり話題になった。私も気になって、一刻も早く見てみたかったのに、結局は今ごろとなってしまった。巨匠マーティン・スコセッシ監督がメガホンを取ったというだけでも、期待外れなわけはありえないし、タッグを組んだのがレオナルド・ディカプリオということで、これはもう傑作に決まっている。そしてその予想は、正に当たった。この完成度の高さと言ったらない!原作を読んでいないので、映画化に際して、どこが忠実でどこが脚色されているのか分からない。だがこの作品にこのシナリオは全く申し分のない出来映えだと思った。 『シャッターアイランド』は、カテゴリ的にはスリラーサスペンス映画であろう。とはいえ、視聴者は単なる犯人さがしやトリックを暴くのに躍起になってはいけない。スコセッシ監督作品の、これまでのテーマを覚えているだろうか? テーマはズバリ、“罪深き人々の魂の救済”である。 『シャッターアイランド』についても、同様のテーマを感じ取ることができる。 ストーリーはこうだ。1954年。連邦保安官のテディは、相棒のチャックとともにボストン沖の孤島にある、精神を病んだ犯罪者を収容する病院に捜査のためやって来た。この病院からレイチェル・ソランドという女性患者が、隔離された病室からこつ然と姿を消してしまったため、その行方を追うためであった。だがテディには、この収容施設に来た目的が他にもあった。テディの妻は、放火犯による火災で亡くなっていたのだが、その放火犯レディスが、この病院に収容されていたので、亡き妻の復讐を遂げたいと企んでいた。そんな中、失踪中のレイチェルが発見されたという知らせがあり、すぐに面会するものの、事件の真相にたどりつくことができず、テディは苛立ちを隠せないのだった。 ◇ここからは、テーマに関する私なりの感想を述べて行くため、ラストにも触れさせて頂きます。 主人公のテディは、テディであってテディではない。つまり、精神を錯乱させている状態であり、現実から逃避しているのだ。というのも、彼は過去に様々な罪を犯していた。そんな自分を赦すことができず、架空のもう一人の自分を作り上げ、まじめで立派なテディという人物になりきっている。彼こそ、このシャッターアイランドにおける患者で、二度とは島から出られることのない精神疾患者であった。 だが、ようやく狂気から目覚め、現実という壁に直面した時、改めて絶望の淵に追いやられてしまう。たとえ正常な精神に戻ったとしても、常に過去の罪に苛まれ、苦悩し続けていかなければならないという現実。そんなモンスターとして生き続けることに、どんな意味があるのだろう?それよりは、人が畏れて拒絶するロボトミー手術を受け入れることで、自分というものを完全に消し去ってしまいたい。これこそが名俳優レオナルド・ディカプリオが、タバコをふかしながらさりげなく言ったセリフ、 「モンスターのまま生きるか、それとも善人として死ぬか」 の意味につながっていくものだと確信する。映画のラストで、ロボトミー手術の行われるという灯台が映し出されてエンディングとなるのだが、これはおそらく、永遠から永遠に渡る人間の魂の救済を表現しているのかもしれない。『シャッターアイランド』は、マーティン・スコセッシ監督の最高傑作と言っても過言ではない、見事な作品である。 2010年公開【監督】マーティン・スコセッシ【出演】レオナルド・ディカプリオ、マーク・ラファロ
2014.09.14

【海音寺潮五郎/天と地と(上)】◆優秀な人材こそ人を育て、国を盛り立てる私が歴史上の人物で大好きなのは武田信玄で、その気持ちが揺らぐことはないと思っていた。それは、こちらのブログでも取り上げた新田次郎による『武田信玄』を読んだことで、何やら戦国武将の熱い血潮と漲る野性に強烈な魅力を感じたからであった。それがどうだ、人間の感情ほどあてにならぬものはない。あれだけ傾倒していた武田信玄から、いとも簡単に上杉謙信に対して並々ならぬ興味を抱くことになろうとは!もちろん、武田信玄に対する熱情が冷めたとか嫌いになったとかいう話ではなく、武田信玄も好きだが上杉謙信もまた好きだということなのだ。たとえるなら、大沢たかおも好きだが福山雅治も好きだというような感覚である。(←わざわざたとえるほどのものではないけれど、、、) 前置きが長くなってしまい恐縮だが、私が上杉謙信という人物に興味を抱くきっかけを作ってくれたのは、海音寺潮五郎の『天と地と』という著書である。海音寺潮五郎は国学院大学卒で、もともと中学校教員として勤務していた。先生として働きながらの執筆活動で、多忙を極めながらも、よくぞあきらめずに創作を続けられたものだと、今さらながら敬意を払わずにはいられない。(後に教員を辞め、作家業一本にする。)文体は緻密で、まるで戦場で傍観者として、事の一部始終を見て来たように描写している。登場人物のセリフには力があり、読者がページを追うごとに行間から感じられる味わいが、もう何とも言えない。見事な筆致である。 『天と地と』(上)では上杉謙信の出生と、父から愛されることのなかった幼少期、だが生まれ持った聡明さと頑なまでの意思の強さなど、性格や性質が丁寧に描かれている。あらすじはこうだ。 越後の守護代・長尾為景に男児が誕生した。為景はこの時すでに63歳で、妻はまだ20歳であった。年が孫ほどに離れていたが、美女として名高い姫君を妻妾としてもらい受けることに、何の申し分もなかった。ところが嫁いで早、三月目にみごもったことが分かり、にわかに妻への疑惑が生じた。みごもるには早すぎるのではないかと。そんなあらぬ疑いに駆られたこともあり、生まれて来た男児を為景は愛さず、目もくれなかった。この時の男児こそ後の上杉謙信である。産後の肥立ちの悪かった為景の妻は、この後まもなく死んだ。さらには、越中勢との戦で、猛将と呼ばれた為景も討死した。いよいよ越後は、お家騒動の危機に瀕した。しかし、知将・宇佐美定行の筋の通った意見が通り、長尾為景の嫡男である晴景が新守護代として決定した。この晴景は、景虎(後の謙信)にとって異母兄であったが、賢さに足りず、武勇にも長けてはいなかった。とはいえ、武将の器たる気質を持ち合わせていた景虎は、この時まだ13歳。いかんともしがたい立場にあった。 長尾景虎にとって幸いしたのは、人との出会いであろう。まず、守り役に就けられたのが忠臣・金津新兵衛である。また、兵法の師として仰いだのが宇佐美定行。さらには亡父の妻妾であった女傑・松江。それらの優秀な人材が、景虎を支え、盛り立てたのだ。不遇な幼少期を送った景虎が、世に出るまでの間に経験したであろうあれやこれやが、手に取るように分かる。不朽の名作というのは、正にこういう作品をして言うのではなかろうか。歴史ファン必読の書である。 『天と地と』(上) 海音寺潮五郎・著☆次回(読書案内No.143)は海音寺潮五郎の「天と地と(中巻)」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.09.13

【高知新聞 小社会】文士には志賀直哉型と谷崎潤一郎型がある。作家の山口瞳が長く続けた週刊誌のエッセーに書いている。全集の完結を機に55歳で廃業を宣言した志賀に対し、谷崎は70代半ばに「瘋癲(ふうてん)老人日記」を著すなど枯れることなく奮闘した、と。 書きたいことは書き尽くしたとしてスパッとやめるか。死ぬまで小説にこだわって書き続けるのか。どちらがより小説家らしいかと問われたなら、「谷崎の名をあげないわけにはいかない」と山口は書いている。 二つのタイプはスポーツ選手にも当てはまりそうだ。例えば、早くに引退したプロ野球巨人の元エース、江川卓さんを志賀型とするなら、49歳で今シーズン初勝利を挙げた中日の山本昌投手は谷崎型と言っていいだろう。 数々の球界の最年長記録を塗り替えた左腕。「オヤジの星」と言いたくなるが、日ごろの鍛錬が並のオヤジとは違う。自らの体を古いパソコンに例えるのは、一度休むと再び動き始めるのに時間がかかるから。だからオフの休みは元日のみ。「引退まで休みなし」が身上だ。 太くて長い野球人生の秘訣(ひけつ)は、基本を毎日、愚直に繰り返すことにあるとみた。〈六十年間生きてきて、知り得た真理が一つだけある。それは「此の世は積み重ねである」ということだ〉。山口瞳が作ったCMの名コピーを思い出す。 汗を飛ばし顔をゆがめて力投する山本投手の姿も、私たちに人生の真理を教えてくれる。(9月7日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~山本昌さんの偉業には喝采を送りたいが、話しのマクラに志賀直哉と谷崎潤一郎を引かれたのには面食らった。泉下の御両人も苦笑していることであろう。『書きたいことは書き尽くしたとしてスパッとやめるか。死ぬまで小説にこだわって書き続けるのか。』どちらを支持するかは、それはもう好みの問題だ。いずれにしても、定年をもってリタイアする(せざるを得ない)一般の人間にとっては羨ましい限りである。志賀のように『スパッ』とやめ、『死ぬまで』働く谷崎のような御仁を、最大級の敬意をもって眺めていられたらいいなぁ・・・ところで志賀も谷崎も素晴らしいが、近頃巷で見かける引退した老人(魑魅魍魎!)には辟易だ。やめたといって野に下り、またノコノコ舞台に上がってきたわけだ。その老醜をさらした姿は文字通り晩節を汚している。在任中は少なからず「人物」と言われた方々である。誠に興ざめの限りではないか。気を取り直して、さて、画像は『死ぬまで』指揮を執った朝比奈隆氏である。「一日でも長く生きて、一回でも多く舞台に立ちたいと思います。」朝比奈氏はそう言って、九十を過ぎても舞台に立っていた。長生きした朝比奈さんの達観はこうだ。「一人の作曲家の交響曲を全部やってみる。そして愚直なまでに楽譜通りに演奏してみることから、何かが見えてくる気がします。」『何か』、朝比奈氏はサラッと言うが『長く生きて』『死ぬまで』励んだ人にしか分からない達観である。「演奏者は譜面に書いてあることをすべてやってみるべきで、譜面通りにやれば、ベートーヴェンでもブルックナーでも、いい音がするようになっているんですよ。」まさに『長く生きて』『多く舞台』に立った朝比奈氏だからこその言葉ではないか。若いうちは自分の才能に溺れるものだ。だから長く生きられなかった音楽家には得られない達観であろう。「ベートーヴェンの音楽はバイブルに比べることができると思います。一生涯かかっても、およそ出来上がったという気がしない深さがあります。演奏後、いつも自分の力の足りなさを思います。」九十過ぎの朝比奈氏にこう言われたら、我々の悩みなど微塵に思えてくる。さすがと言うしかない。朝比奈氏といえばブルックナーである。だが私は氏のブラームスをおすすめしたい。それは氏の九十を過ぎてからの演奏で、交響曲の第一番から第四番までしっかり残っているのだ。美老の音を是非お聴きいただきたいと思う。文士から話がそれてしまった。それにしても「文士」はすでに死語だ。『私たちに人生の真理を教えてくれる』のは、もはや野球選手だけである・・・ だから山本昌さんには『一回でも多く』マウンドに立ってもらいたい、そう思う次第だ。
2014.09.09

【エデンの東】「『カインは立ってアベルを殺し、カインは去って、エデンの東ノドの地に住めり』・・・お前も去れ」「・・・そうだな。言うとおりだ。僕はよそへ行くべきなんだ」この作品は言わずと知れたジェームズ・ディーンの出世作でもあり、初主演の映画である。『エデンの東』におけるジェームズ・ディーンは、間違いなくスターとしての圧倒的な存在感をかもし出している。あの上目遣いの、物欲しげな視線と言ったらどうだ?! 愛情に飢え、それゆえに反抗的な態度を取り続ける若者の、歪んだ心理を臆面もなく表現しているではないか。青春の苦悩を、演技を超えた演技で、視聴者の心を鷲?みにするのだから、もう何も言えない。だが、その神がかりな演技にも理由があった。ジェームズ・ディーン自身に、不幸な生い立ちがあったことはご存知だろうか?なんと母親を9歳の時に病気で亡くしており、無償の愛を注いでくれたただ一人の存在を失ってしまったのだ。というのも、父親はジェームズ・ディーンの誕生を喜ばず、その存在をずっと黙殺して来たという経緯があった。だからジェームズ・ディーンは、母親の死とともに、自分の存在価値も見失っていたに違いないのだ。ウィキペディアなどによれば、苦学の末、カリフォルニア州立大学(UCLA)の演技科で学ぶものの、中退。収入がないことからバイトに精を出すが、そこで知り合いになるのが某人物。この人物は同性愛者と見られていて、ジェームズ・ディーンをことさら可愛がる。ジェームズ・ディーンにそういう趣味・嗜好があったかどうかは定かではないが、皮肉にも、この人物のおかげで住居をあてがわれ、CMや映画などの仕事を次々と紹介してもらうこととなるのだ。余談が長くなってしまったが、そういう複雑なプロセスを経て『エデンの東』に望んだジェームズ・ディーンなので、彼の演技に欠点など見つけられるはずがないではないか。ストーリーはこうだ。舞台は1917年のカリフォルニア州の小都市サリナス。広大な農場を経営するアダムは、双子の息子たちと暮らしていた。双子の兄・アーロンは、父親譲りの潔癖なまでの真面目な青年、弟・キャルの方はどこか斜に構えた、反抗的な性格だった。キャルは幼いころより、父親から愛されていないのではないかという悩みを持ち続けていた。というのも、父は兄のアーロンばかりを可愛がり、自分にばかり辛く当たることが多々あったからだ。そんな中、キャルはもっと自分のことを知りたいと思った。物心ついた時には母親は死んだと聞かされていたが、実はモンタリー郊外でいかがわしいバーのオーナーであることを知ってしまった。母は水商売の女だったのだ。こうしてキャルは、「自分が不良なのは母親譲りの血統なのだ」と信じ込むことになる。 一方、アダムはレタスを冷凍して東部へ輸送する計画に全力を尽くしていた。財産のほとんどを氷を買うことに投資し、その氷で冷やしたレタスを貨物列車に乗せ、東部へと輸送することにしたのだ。ところが東部の市場への輸送途中、トラブルに巻き込まれ、氷が全て溶けてしまい、レタスは売り物にできなくなってしまった。キャルは、財産のほとんどを失ってしまった父親をどうにかして助けてやりたいと、先物投資の目利きであるウィルと共同して豆に投資をすることにする。出資金は、自分を捨てて憎いはずの母親に頼み込み、用立てするのだった。ストーリーそのものは、青春期における若者の苦悩とか、親子の確執をテーマにしたものだが、ネタ元はやはり聖書である。「カインとアベル」の章を読めば、道徳的で倫理的にいろどられた内容をイヤでも納得することになるだろう。『エデンの東』を見てつくづく思ったのは、何事にもほどほどが良いということかもしれない。あれだけ真面目で平和主義者の兄・アーロンは、余りの潔癖さゆえに、実母が水商売女であることを受け入れられず、半狂乱に陥ってしまう。対する不良の弟・キャルは、愛情には飢えつつも、適度な要領の良さを発揮して、上手く人間関係に立ち回っている。結局、兄の恋人のアブラでさえ、キャルの烈しい性質を恐れながらも惹かれてゆくのだから。ジェームズ・ディーンの異彩を放っている『エデンの東』は、正に、若者たちにとっての青春の象徴なのだ。アメリカ映画史上、必見の逸作である。1955年公開【監督】エリア・カザン【出演】ジェームズ・ディーン、ジュリー・ハリス、レイモンド・マッセイ
2014.09.08

仏へと梨十ばかりもらひけり 正岡子規ふと、考えた。もしや畑から失敬してきたのでは・・・?頬被でコソコソ梨をもぐ子規の姿は容易に想像でき、思わず吹き出してしまう。しかし病床見舞いの梨を詠んだ句はかなしいのだ。「野老氏ニ酬ユ」石ノ巻ノ 長十郎ガ 見舞カナ吾ヲ見舞フ 長十郎ガ 誠カナ巷では店の果物棚も、地物の梨で賑わってきた。ひとつ求め子規を偲びながらシミジミ味わいたいと思う。もちろん仏(仏壇)に供えてからである。※ご参考:「獺祭忌(子規忌)」は9月19日。コチラからコチラから収穫の秋はまだまだ続く。こうご期待♪
2014.09.07

【勝海舟/第六巻・明治新政】◆激動に揺れる近代日本のあり方を考察する『勝海舟』は、昭和16年から6年に渡り中外商業系(現・日本経済新聞)の新聞に連載された小説とのこと。官能小説として名高い『失楽園』を連載していた新聞と同一と考えると、何とも不思議な気がする。硬派な『勝海舟』を、毎朝一読し、男一匹孤高に生きようと、勇気づけられ励まされた男性が、当時、数多くいたに違いない。敗戦の痛手も癒えぬ戦後の変革期に、『勝海舟』は江戸政府の終結と明治維新という、世の中がガラリと変容したその時期と概ねマッチしていたのかもしれない。 文庫本にして全6冊ともなる長編小説だが、最終巻である第六巻を読了後は、一抹の寂しさを感じる。たとえそれが再読であったとしても、この第六巻にさしかかると、まるで一つの歴史が閉じられてゆくのを傍らで見守る立会人のような感覚になってしまうのだ。そんな『勝海舟』の第六巻のラストは、正直なところ、尻切れトンボのようにプツリと終わっていて、何となく落ち着かない。もう少しこの後まで書いて欲しかったという気持ちは否めない。巻末の解説にもあるように、「この長編は勝海舟の一代記という面からいえば未完である」とのことなので、ラストに対する多少の不満は、だれもが抱く感想の一部なのであろう。とはいえ、波乱に富んだ勝麟太郎の半生を楽しむ分には、充分過ぎるほど魅力的で、子母澤文学の代表作として申し分のない大河小説に完成されている。 第六巻では、世の中の大変革事業に応じて、新しい分子が次々と登場する。その筆頭に、大村益次郎がいる。筆者は、勝海舟の口を通じて、このように大村を評している。 「国を治めるのも、万国と交際を結ぶも強い武力が無くてはいかんというところに、あ奴(大村益次郎)の大そうな間違いがあるんだ」 あるいはこうも言っている。 「永ぇ間、武家のおもちゃにされて来た日本国が、今度ぁ姿形は変っても、只々武力を奉ずる奴らにおもちゃにされるようになったんじゃあ、とんと、うだつが上がるめぇじゃあねぇか」 一方、江戸城を開け渡してしまった徳川幕府は、今やわずか70万石となって駿府(現・静岡)へ下って行く。時を同じくして、勝もまたそれに準ずる。他方で、旧海軍を率いて脱走した榎本武揚は蝦夷へと落ちてゆく。 作品はここへ来て、たたみかけるように激動に揺れる近代日本の考察に取り掛かっている。こんなことがあった、あんなことがあった、しかしあれはまずかった、こうするしかなかった等々、、、様々な思惑を登場人物のセリフを借りて語りかけて来る。現代を生きる我々にとって、幕末の動乱は大和民族の熱いロマンさえ感じるかもしれない。しかし、『勝海舟』を読了することで、そのような無責任極まりない感想は消え去るに違いない。もっと痛々しく残酷で、しかも陰惨なものである。(それを著者はサラリと書いているため、通常は見逃してしまいがちだ。)とはいえ、勝麟太郎とその父・小吉の、物質的には貧しいながらも、精神的には豊かだった時代などを噛んで味わうようにして熟読した時、いかに心の豊かさが大切であるか、伺い知れる。現代人の欠落した気力や感動の源も、この大河小説の中には溢れる清水のように湧き出している。なにぶん長編小説なので、短時間で読了できるものではないが、時間を作り出してでも読む価値のある全六巻なのだ。 『勝海舟』~第六巻・明治新政~ 子母澤寛・著☆次回(読書案内No.142)は海音寺潮五郎の「天と地と(上巻)」を予定しています。『勝海舟』~第一巻・黒船渡来~はコチラ『勝海舟』~第二巻・咸臨丸渡米~はコチラ『勝海舟』~第三巻・長州征伐~はコチラ『勝海舟』~第四巻・大政奉還~はコチラ『勝海舟』~第五巻・江戸開城~はコチラ★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.09.06

桃の実に目鼻かきたる如きかな 正岡子規明治35年の初秋、子規は写真を眺めながらこう詠んだ。鬼籍入りが同年9月19日なので、微笑ましくも物悲しい気分になる。そしてもう一句。桃の如く肥えて可愛や目口鼻死を前にして、子規の創作意欲は衰えることはない。というか断末魔の一句か。ふりしぼるような子規の気力が、ただただ切ない。それゆえに、明治35年の句は一言をもおろそかにすることあたわず。子規を偲びつつ声に出して読むのである。コチラから収穫の秋はまだまだ続く。こうご期待♪
2014.09.05

【ツリー・オブ・ライフ】「“主は与え、主は奪う”それが神よ。神は私たちを苦しめ、嘆かせ・・・そして癒す」 (中略)「あいつに謝る機会がなかった。ある晩、あいつは理由もなく自分の顔を殴った。“楽譜のめくり方が悪い”と僕が叱ったからなんだ。みじめな思いをさせた。自分が情けないよ」この作品の感想を書くのに、一体どんな言葉で綴ったら良いのか迷っている。いかなる賛辞の言葉も、お決まりの美辞麗句になってしまいそうで、私の語彙の少なさと表現力の貧しさを呪う。何がすばらしいかと言えば、創世記のプロセスがヒトの一生と見事にリンクしていて、生命の尊さや自我の目覚め、身近な人の死に直面し、その繰り返しによって我々が命を紡いでいくことを表現していることだ。神とは、唯一絶対的な存在であるがゆえ、我々は逆らえない。たとえどんな横暴で理不尽な行為を突きつけられたとしても、神の前には無力なのだ。 永遠から永遠に渡って存在し続ける神にとって、ヒトは点の集まりに過ぎず、宇宙空間を無数に浮遊する星くずにも等しい。子ども時代のジャックが、横暴な父親に押し付けの愛情を注がれ、毎日塞いだ気持ちを引き摺っていたり、無償の優しさを与える母には反抗的な態度を取ってみたり、窓ガラスを割り、女性用の下着を盗んだりと、生きていく上で必要な抑圧と解放を体験していく。こういう子ども時代のドラマは、きっと誰もが記憶の片隅に押し込めていて普段は忘れている体験だ。だから、作品からかもし出される切なくなるような青い風景や、降り注ぐ太陽の陽射し、芝生を潤す水まきの光景は、鮮やかな記憶となってよみがえる。映像からそよ風の香りさえ伝わって来るのだから不思議だ。1950年代半ば、テキサス州の田舎町が舞台。オブライエン夫妻と3人の息子たちが暮らしていた。父親は厳格で、金こそが全てだと考えていた。自分はしがないサラリーマンだが、3人の息子たちには実業家として社会的成功と富を手に入れてもらいたいと願っていた。だがある日、オブライエンは長年務めた会社を辞めなくてはならない状況に陥る。長男のジャックは、アメリカン・ドリームを果たせなかった父親の大いなる喪失と挫折を、目の当たりにするのだった。言うまでもなく、ミスター・オブライエン役のブラピの演技は冴え渡っていた。信じて疑わない仕事第一主義の男が、人生の挫折に打ちのめされるシーンなどすばらしかった。また、少年ジャック役のハンター・マクラケンも、多感な思春期をリアルに表現。お見事。物語は、大人になったジャックが少年時代を回想しつつ、孤独感と喪失感に苛まれているシーンが繰り返される。ラストでは、憎しみさえ抱いていた父親への感情も、やがて変化を遂げ、“慈悲”の境地に至る。そして、時間という止まることのない流れが、解決への糸口であることに気付き始める。 この作品を単なる家族の絆の物語だなどと言うつもりはない。だが、ヒトという無数の点がやがて一本の線となり、壮大な絆を紡いでいく叙事詩なのではと思った。『ツリー・オブ・ライフ』は、2011年にカンヌ国際映画祭においてパルム・ドール賞を受賞している。映画が芸術の域に達したことへの証でもある。当然の結果だろう。ブラボー!!『愛することだけが幸せへの道よ。愛がなければ、人生は瞬く間に過ぎる。』2011年公開【監督】テレンス・マリック【出演】ブラッド・ピット、ショーン・ペン
2014.09.04

小説を読む窓さきや葡萄棚 正岡子規似句あり。小説を 好むあるじや 葡萄棚散歩コースに葡萄棚を持つお宅があるのだが、脇を通ると甘酸っぱい匂いが鼻腔から五臓六腑に沁みこむのだ。馥郁たる葡萄の香で、なんとも食指を動かされる。ふと伸びる手を小さな理性で押し戻すのが精一杯だ。そこで思った。葡萄棚は「獺祭書屋(根岸の自宅)」ではない。おそらく隣家ではないか。秋の風に乗り、葡萄の馥郁たる香が届く。苦吟する子規は、もう居ても立っても居られない。隣家に忍び込んで一房失敬するのである。ときに隣家は代々の素封家で、主はつまらない小説を書いている。筆を手に子規は一句。「小説を 好むあるじや 葡萄棚」葡萄の礼は一句したためた短冊。子規も粋ではないか・・・きっとそうに違いない!収穫の秋、こうご期待♪
2014.09.03

【マチェーテ】「どこへ行ってたの?! メールくらい送ってよ!」「マチェーテ、メールしない(メールできない)。マチェーテ、証拠を渡す」「・・・戻ってくれてありがとう」この作品はいわゆるB級映画で、前半はスプラッターシーンの連続と来て陰惨さが際立っている。不思議なもので、後半は視聴者も慣らされてしまい、かえってドタバタ喜劇のようなおもしろさを感じてしまった。製作者の中に、クエンティン・タランティーノの名前を見つけ、なるほどと妙に納得してしまうものがある。というのも、この作品は『グラインドハウス』という映画で使われた偽予告編を、実際に映画化してしまったものらしい。(ウィキペディア参照)だから、グリコのおまけ的な作品として捉えた方がいいかもしれない。驚いたのは主役に扮するダニー・トレホで、この役者さんはメキシコ系アメリカ人。年齢的なことよりルックスについて言わせてもらえば、B級、C級でなければ主役には到底及ばない悪役顔をしている。とにかく厳つくて、コワイ。メキシコの連邦捜査官という役柄だが、どう見てもメキシコ系マフィアと言ったところだ(笑)元メキシコ連邦捜査官のマチェーテは、ワケあってアメリカテキサス州で不法移民の日雇い労働者として働いていた。マチェーテの凄腕に目をつけた殺し屋から、不法移民嫌いで知られる政治家マクラフリン議員の暗殺を依頼される。マチェーテは報酬にもらった金を、表向きはタコス売りの女性革命家であるルースに託す。一方、移民局職員のサルタナは、法の執行と正義との間で葛藤しつつも、最終的にはマチェーテといっしょに麻薬王に立ち向かうのだった。これほどコテコテのB級モノなのに、ロバート・デ・ニーロが出演しているではないか?!ニコラス・ケイジもそうだが、ハリウッドのオスカー俳優たるもの、出演作品を選ばないのだろうか?メキシコの麻薬王の役としてスティーヴン・セガールが登場するが、これには納得。この役者さんなら大いに結構だ(笑)ウィキペディアによれば、実生活の上でも刑務所を出たり入ったりしていたというワケありのダニー・トレホだが、この作品を見れば完全に生き方を改めたのがよく分かる。奇跡みたいに与えられた主役を、意気揚々と演じているのを見ると、こちらまで嬉しくなってしまうほどだ。年を経てこんな大役のチャンスに恵まれるのは、世界広しと言えどもアメリカぐらいだろう。さすがは自由の国アメリカだけのことはある。全体を通してお祭り騒ぎのB級モノだが、そうそうたる役者陣に支えられて一見コミカルではある。だがその実、アメリカの移民政策に対する抗議が込められていそうだ。それにしても、ラストのエンディング・タイトルにまたまた2本の予告編が出ていた。 ということで続編は只今iTunesで公開中(笑)2010年公開【監督】ロバート・ロドリゲス、イーサン・マニキス 【出演】ダニー・トレホ、ロバート・デ・ニーロ
2014.09.02

初秋や三人つれだちてそこらあたり 正岡子規前書きにこうあり。「碧梧桐虚子を伴ひて」河東碧梧桐と高浜虚子の高弟二人を従え、子規師の嚮導闊歩する姿を想像するに難くはないのだが、それにしても何とも豪華な三人連れではないか。実は昨晩の就寝前に先代小さん師の「三人旅」を聞いたのだが、子規碧梧桐虚子がそれに重なり、珍妙なる三人連れに思いを馳せる長月朔日であった。
2014.09.01
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