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【井上ひさし/新釈遠野物語】◆常識を打ち破ったシュールレアリズムの世界明治時代に書かれた柳田国男の『遠野物語』はあまりにも有名だが、実は、私は読んでいない。古典的な香りがプンプンするし、日本民俗学などというカテゴリに分類されているだけで、拒絶反応を起こしてしまう。それに引き換え、井上ひさしの『新釈遠野物語』なら、「現代の怪異譚」と紹介文にもあるので、わりに取っつき易いだろう、、、そう思って手に取ったしだいである。 『ひょっこりひょうたん島』を手掛けた放送作家として有名な井上ひさしは、上智大学文学部卒業。代表作に『吉里吉里人』『不忠臣蔵』などがある。山形県出身の井上だからこそ、東北には並々ならぬ思い入れがあり、「新釈」を書くに至ったのかもしれない。作品は、大学を休学してバイトをやっている「ぼく」が、山で出会った老人から聴いた話を書き留めたもの、という設定となっている。ところが巻末の解説によると、井上自身、「大学に失望して休学届けを出し、当時母親が住んでいた岩手県釜石市に帰省して、やがて国立釜石療養所の事務員となった」とあり、小説の冒頭部に描かれている「ぼく」の状況が酷似している。おそらく自分で自分をモデルにして「ぼく」というキャラクターを作り上げたに違いない。その「ぼく」が、遠野近くの山の中の穴ぐらに住む犬伏老人と出会い、あれこれとおもしろおかしい物語を聞かせてもらうのだ。 犬伏老人から聞かせてもらう話はいくつかあるが、その中でも私が好きなのは、『雉子娘』『冷し馬』そして『狐つきおよね』の3本だ。「雉子娘」は正統派の伝説で、「日本むかしばなし」でも放送されたことのある物語だ。涙なしでは読めない結末である。「冷し馬」は衝撃的だ。私がこれまでに読んだことのない、人間の女性と牡馬との禁じられた愛とエロスの物語なのだ。あってはならない行為が、この小説の中では平然となされていて、もはや想像を超えた領域に、読者はパニック寸前になること間違いなしだ。そしてさらに、「狐つきおよね」、これもまた民話とはいえ、あまりにも生々しく妖艶で、どこか滑稽だ。人間の娘が狐に憑かれている話なのだが、それだけではなく、狐と交合しているという場面が出て来るからヤバイ。 「およねの寝所の蚊帳の中には狐がいた。そいつは人間ほどの背丈のある大狐で、おまけに毛は白かった。そしてやつは、およねの開いた股の間に躰を入れて、腰を前に突き出しては引き、突き出しては引きしている。」 なんだかとんでもない新釈となっている(笑)だが、もともと私はシュールレアリズムが大好きなので、こういう話は大歓迎である。常識ばかりにこだわった、堅苦しい小説には肩も凝るが、井上ひさしの新釈は昔話なのに反って斬新で瑞々しい!サプライズの連続で、ページをめくるのさえもどかしい。『新釈遠野物語』は、R-18(?)と指定させて頂いた上で、一読をおすすめしたい。最後のどんでん返しで見事なオチをつけている。明日のことでくよくよ悩んでいるそこのあなた、この『新釈遠野物語』を読んで、新しい世界観を感じて下さい! 「新釈遠野物語」井上ひさし・著☆次回(読書案内No.128)は田中慎弥の「切れた鎖」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.05.31

温み来し仏の水を田に灌ける 石坂朋幸作者は私の大伯父である。若かりし頃は近衛兵を務め、やがて議員に転じ、晩年は山奥に隠棲し田夫となったという、一族の変わり種である。大伯父は高浜虚子の薫陶を受けた。酔うと「俺は虚子先生の門下だ」と言っていた。ただ、自費出版の句集は、川柳のような句で満たされている・・・
2014.05.30

さうび散る君恋ふる人やまひして密に知りぬ死の趣を 与謝野晶子晶子は、昭和十七年五月二十九日に亡くなりました。本日は祥月命日です。「艶にしてなやましくはるかにして遠く殆んど天の声」は高村光太郎評。晶子祥月命日の今日は薔薇を愛でながら、その天の声に酔いたいと思います。
2014.05.29

【アンストッパブル】「6チャンネルに合わせろ」「どうした?」「住民を避難させてる」「脱線させるつもりか?」「DREを使う」「脱線器か」本作は、2001年5月にオハイオ州で発生した貨物列車暴走事故をもとに制作された映画である。いわゆる“クレイジーエイツ事故”と呼ばれる実際に起きた事故を、トニー・スコット監督により、スリリングなパニック映画として完成されたものだ。トニー・スコット監督と言えば、「トップガン」や「マイ・ボディガード」「サブウェイ123激突」などの作品を手掛けた売れっ子監督である。監督お気に入りの役者であるデンゼル・ワシントンとタッグを組んでの作品が、不出来であろうはずがない。この二人のコラボによる作品は、どれも息がピッタリと合っており、安心して鑑賞できる作品が多い。ペンシルバニア州ウィルキンスのフラー操作場で事故は起こった。貨物列車の777号を操作していた運転士が、座席から離れたわずかな隙に、777号が無人で加速を始めてしまったのだ。連絡はすぐに指令室のコニーのもとに届いた。情報を収集したところ、なんと777号には極めて危険性の高い毒物と、ディーゼル燃料が大量につまれた39両もの長い列車であることが判明。一方、勤続28年のベテラン機関士フランクと、新米車掌のウィルが、旧式機関車1206号に乗り込んでおり、777号とすれ違おうとしていた。正面衝突を避けるために、待避線に入るよう指示されたのだった。この作品のおもしろさは、途中、777号をどうにか停車させようとあの手この手を試みるシーンだ。だがどうやっても成功しない。そこで視聴者は、手に汗を握る思いで事態の成り行きを見守るのが、この作品の醍醐味であろう。1206号の運転士フランクが、同僚の命懸けの作戦に失敗し、脱線、炎上する場面に思わずがく然とするシーンがある。ここの場面は、どれだけフランクとその殉職した同僚とが仲が良かったのかがスッポリと抜け落ちている感を抱いてしまう。この場面をもっと効果的に表現できれば、フランクが同僚の仇を討つようなつもりで、777号の阻止に向かう決意の現われにつながるのではなかろうか。さらに、ラストが若干の不完全燃焼ぎみを感じる。これだけの犠牲とエネルギーを注いだわりに、地味な結末だったのが不思議。そうは言っても全体を通して、ハラハラドキドキの痛快パニックであることに違いはない。まずまずの作品なのだ。2010年(米)、2011年(日)公開【監督】トニー・スコット【出演】デンゼル・ワシントン、クリス・パイン
2014.05.28

【山陽新聞 滴一滴】かつて歴史の教科書で学んだ「定説」が近年、塗り替えられているのに気づくことが多い。例えば大正時代に総理大臣を務めた山本権兵衛。覚えた名前の読みは「ごんのひょうえ」だった。 今で言う公務員改革に実績を挙げたが、日本史の教科書に、その名を残したのは、皮肉にも疑獄事件による。軍艦の購入をめぐる海軍高官の汚職疑惑・シーメンス事件で退陣した。ちょうど100年前の出来事だ。 独特の読みなので、妙に記憶に刻まれているが、今は「ごんべえ」が正しい読みとされる。遺族などからの聞き取りの結果という(「もういちど読む山川日本史」山川出版社)。 そもそも教科書に書かれていることは「通説」と指摘するのは東京大学史料編纂所の山本博文教授(津山市出身)だ。新説だったものが時間を経て有力となり、さらに通説となって教科書は書き換えられる。平成に入ってから、これまでの研究成果が反映されて書き換えが進んでいるという(「歴史をつかむ技法」新潮新書)。 「大和朝廷」は「ヤマト政権」、「仁徳陵古墳」は「大仙陵古墳」、「吉田兼好」は「卜部兼好」。山川日本史には従来、定説と思っていたことへの疑問や書き換えられた事例が多数掲載されていて興味は尽きない。 歴史に論争は付き物だ。「権兵衛」の一件からは、そんな教訓も学び取れる。(5月24日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『だからどうしろというの?』耳の奥で桂枝雀師匠がつぶやく。お馴染のマクラである。なるほど、山本権兵衛は「ごんのひょうえ」ではなく「ごんべえ」が正しい読み方なのだ。おそらく膨大な時間をかけてそういう結論に至ったわけだ。でも、だからどうしろというの?つまり、「興味は尽きない」という個人の話をしているのかしらん?それならそれでいいのだが・・・(余談ながら私は大の歴史好きです!)小林秀雄は、岡潔との対談(人間の建設)の中で、本居宣長を引き歴史についてこう語っている。『本居宣長さんという人は歴史家としてはペケですな。なんにも掘り返さないんです。掘り返しちゃいかんと言っている。「古事記」であろうと「日本書紀」であろうと事実である。「万葉集」と同じ種類の事実である、掘り返してはいかん。』そして小林は、『実に健康で簡明な思想です』と言いさらに続ける。『歴史家は文章の上で、実はこうであっただろう、ああだったろうということを言うのはいいが、しかし掘り返すということは、もっと丁寧にやってもらいたいですよ。』また、コラム氏が書く「興味は尽きない」という問題を、小林は、『掘る人の精神傾向』と確言する。一見学問を否定するような小林らしからぬ御説に感じるが、それこそ小林の「精神傾向」であり、小林の情緒の問題なのである。少し脱線するが、そういえば瀬戸内寂聴さんが尼僧として言っていた(伝教大師巡礼)。『えらい人のお話は、いろいろ奇跡がつくのでしょう。みんなが、その方をあがめている気持ちが、そんな話をつくるのだから、そう思った方が愉しい』たとえば、高僧が錫杖をついて井戸を得た、そういうところがあったとしたら、寂聴尼は『そう思った方が愉しい』というのである。『愉しい』は『精神傾向』であり『事実』というのだ。小林が書いた『万葉集と同じ種類の事実』ということだ。これも至極『健康で簡明な思想』であり、科学や医療の進歩に汲々として過ごす昨今では、とても心地良く感じるのである。とりとめもないことを書いた。結論である。つまり、一番愉しいのは桂枝雀師の落語、そういうことだ。おあとがよろしいようで(^o^)
2014.05.27

『五月の土壌』 高村光太郎五月の日輪はゆたかにかがやき五月の雨はみどりに降りそそいで野にまんまんたる気迫はこもる肉体のような土壌はあたたかに、ふくよかにまろく、うづたかく、ひろびろと無限の重量を泡だたせて盛り上り、もり上り遠く地平に波をうねらすあらゆる種子をつつみはぐくみ虫けらを呼びさまし悪きもの善きものの差別をたち天然の律にしたがって地中の本能にいきづき生くるものの為には滋味と塒(ねぐら)とを与へ朽ち去るものの為には再生の隠忍を教へ永劫に無窮(むきゅう)の沈黙を守ってがっしりと横はり且つ堅実の微笑を見する土壌よああ五月の土壌よ土壌は汚れたものを恐れず土壌はあらゆるものを浄め土壌は刹那の力をつくして進展する見よ八反の麦は白緑にそよぎ三反の大根はすでに分列式の儀容をなし其処此処に萌え出る無数の微物は青空を見はる嬰児(みどりご)の眼をしているああ、そして一面に沸き立つ生物の匂よ入り乱れて響く呼吸の音よ無邪気な生育の争闘よわが足に通って来る土壌の熱に我は烈しく人間の力を思う※ご参考 三省堂 新明解国語辞典より無窮(むきゅう):限りや終りが無いこと。永遠。嬰児(みどりご):〔「緑」の意味から〕生まれて間もない子供。赤ん坊。
2014.05.26

【わが母の記】「雨がやんだ。校庭には沢山の水たまりが出来ている。太平洋 地中海 日本海 喜望峰 遊動円木の陰。だけどぼくの一番好きなのは、地球のどこにもない小さな新しい海峡。おかあさんと渡る海峡。だけどぼくの一番好きなのは、地球のどこにもない小さな海峡。おかあさんと渡る海峡、、、」この映画を心行くまで堪能するには、やはり何と言っても井上靖の『しろばんば』を一読しておいた方が良さそうな気がする。『しろばんば』というのは、井上靖自身の幼少年時代を描いた自伝小説で、その中に登場する“おぬいばあちゃ”という存在が、映画『わが母の記』にも名前だけ度々登場する。この“おぬいばあちゃ”という存在が、井上靖にとって、あるいは井上靖の実母にとって、どのような位置関係にあり、どのような感情を注いで来た人物であるのかを読み解いておくと、『わが母の記』は一段と深みを増しておもしろく感じられる。(当ブログの【読書案内】にも『しろばんば』の感想と簡単なあらすじを寄せているので、興味のある方は参考にご覧下さい。※コチラから) 井上靖の実母が暮らした伊豆湯ヶ島は、自然美にあふれ、山の匂いと、川のせせらぎと、みなぎるお日様の陽射しの下、ゆっくりと時が刻まれている。清らかで混じりけがなく、誰かの不実の行為を詰るものではなく、淡々としていて、それなのに、押し寄せるような感情の波に視聴者は一気に呑み込まれていくに違いない。 作品のストーリーはこうだ。舞台は、静岡県伊豆湯ヶ島。作家の伊上洪作は、病床の父を見舞うため、東京から湯ヶ島の郷里へやって来た。1959年のことだ。父の病状が落ち着いているため、いったん東京の自宅へ帰ることにした洪作だが、帰り際、実母の奇妙な行動に唖然とする。東京の本宅では、家族総出で検印作業に精を出していた。その晩、湯ヶ島の実家から父の訃報が伝えられる。洪作は、妻と3人の娘をつれ帰郷。湯ヶ島で葬儀一切を済ませたものの、実家で母の面倒をみている妹の志賀子から、母のひどい物忘れや言動に手をやいているという愚痴を聞かされる。洪作は幼少年時代、自分は母から捨てられたのだという苦い記憶があるため、なかなか素直になれずにいるのだが、加齢による認知症の母を前に、少しずつ気持ちに変化が現れるのだった。 この作品の見どころは、改めて言うまでもないが、やはり何と言っても洪作の母・八重に扮した樹木希林の演技であろう。コメディ・ドラマでは度々老け役を演じて来た樹木なので、違和感はまるでなく、むしろハマリ役として圧倒的な存在感を誇っていた。2000年代に入ってからの出演作に、『東京タワー~オカンとボクと時々オトン~』があるが、この時も見事な母親役で恐れ入った。樹木希林は文学座出身で、その個性的なキャラは芸能界でも有名だ。常に偽善を憎み、見せかけの憐れみや優しさ、歯の浮くようなおべっかを軽蔑している。ウィキペディアによれば、樹木希林は熱心な法華経徒であり、希心会の信徒でもあるとのこと。年を経て、ますます演技に狂信的なリアリティーを増したように思えるのは、私だけだろうか?一方、ほんのチョイ役で三国連太郎が病床の父に扮して登場するのだが、これまたスゴイ。セリフはなく、ただ、主役の役所広司の手を握り、雰囲気で何かを感じさせるだけの役どころだが、さすがの貫録。残念ながら、三国はこれが正真正銘の遺作となってしまった。 邦画のあるべき姿が全て凝縮された『わが母の記』は、間違いなく2012年の大ヒット作品だ。 2012年公開 【監督】原田眞人 【出演】役所広司、樹木希林、宮崎あおい読書案内『しろばんば/井上靖』はコチラから
2014.05.25

【吉川英治/新書太閤記 八巻】◆裸一貫の平民から身を起こした秀吉の集大成長編小説として読み勧めて来た『新書太閤記』だが、この八巻が最終巻となっている。つくづく思うのは、秀吉という人物がいかに大衆的であるかという点である。「破壊のエネルギー」とオリジナリティーに溢れた信長のような英雄性には欠けるものの、平民の代表格とも言える大衆性に彩られていた。そんな秀吉の出世物語でもあるはずの『太閤記』なのだが、秀吉が卑賤の身でありながら、ついには関白となり太閤ともなったくだりになると、吉川英治の筆致に憂鬱さが感じられるのだ。不思議なことに、著者が躍動して筆を進めるのは、秀吉が明智光秀を討ち果たす辺りまでで、その後は何となく精彩を欠いてしまう。まるで、権力を握って絢爛豪華な桃山文化を築き上げた秀吉への熱情が、一気に冷めたかのような不自然さを感じてしまうのだ。そのため、物語は「秀吉が関白に就任する天正十三年の項で話が終わって」いる。もちろん、関ヶ原の合戦の場面もない。家康とは相変わらずの緊張感がみなぎっており、その不気味な存在に、秀吉も少なからず畏れを抱いているところまではきちんと記述されている。太閤記という小説を書くにあたって、どうしても描いておかねばならない人物が、この家康だからである。 「(家康は)第一線に近い岡崎を退き、わざと浜松に閑をめでて、大坂の事など耳から遠い顔をしていた。」 おそらく家康は、秀吉の関白就任の旨をただならぬ胸中で受け止めていたに違いない。静養という名目で浜松城に暮らす家康は、しかし、凡将ではなかった。鷹狩に出かけるついでに必ず近辺の田舎を見て回るのだ。 「従者七、八名と共にほっつき歩いている背のまろいずんぐりした四十六、七歳の武家があるなと、よく見かけるのを注意していると、それが家康であった。」 その家康こそが後に豊臣家を滅ぼし、天下人となるのだから、歴史というものは面白い。私は思うのだが、歴史は実に、偶然の積み重ねのような気がする。本来なら、中世の徹底的な破壊を成し遂げた信長こそが天下を取るはずだった。あるいは、その信長の目指した合理性に基づく治政を成した秀吉こそが、天下人として長く掌握するはずだった。それがどうだ、結果として、絶対的な封建社会を確立したのは家康だったのだ。粘着質な性格を発揮し、保守的で、人を信じず、ぬかりなく手をうちながら時節の到来を待ち続けた人のものになったわけだ。このような“棚ぼた”的な状況は、神様仏様のいたずらとしか言い様がないではないか。 「もし人の一生に、その多岐なる迷いと、多難なる戦いとがなく、坦々たる平地を歩くようなものであったら、何と退屈な、またすぐ生き飽いてしまうようなものだろう。畢竟するに、人世とは、苦難苦闘の連続であり、人生の快味といえば、ただその一波一波に打ち剋ったわずかな間の休息のみにあるといってよい。」 そのとおり。私たち日本人には、裸一貫の平民から身を起こした秀吉がいる。その秀吉は地を這うような努力と苦労とのわずかな合間に、一条の光を見たのだ。大衆のトップに立ったのは、誇るべき門地もなく、富もない、奇妙な猿顔をした小男だったのだ。これこそが能力主義と言わず、何と言おう。『新書太閤記』は、“激動の歴史の中に英雄の一代を描いた”最高の時代小説である。一人でも多くの方々に一読をお勧めしたい。 『新書太閤記(八)』吉川英治・著~ご参考~・新書太閤記 一巻はコチラ・新書太閤記 二巻はコチラ・新書太閤記 三巻はコチラ・新書太閤記 四巻はコチラ・新書太閤記 五巻はコチラ・新書太閤記 六巻はコチラ・新書太閤記 七巻はコチラ☆次回(読書案内No.127)は井上ひさしの「新釈遠野物語」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.05.24

【北國新聞 時鐘】※画像:日本相撲協会大相撲の懸賞(けんしょう)は力士(りきし)の人気を示(しめ)すバロメーターである。先日の遠藤(えんどう)・白鵬(はくほう)戦は24本。きょうは何本かかったか数えるのも勝負前(しょうぶまえ)の楽しみになった。 公演中止(こうえんちゅうし)でお騒(さわ)がせの元ビートルズのポール・マッカートニーさんが、昨年の秋場所(あきばしょ)を観戦(かんせん)して懸賞金に興味(きょうみ)を示した。「勝った方が全部(ぜんぶ)もらえるのか?」と聞いたそうだ。健闘(けんとう)すれば敗者(はいしゃ)にもいくらか行くと思ったのだろうか。日本人には思いつかない疑問(ぎもん)である。 プロスポーツは勝ち負けで収入(しゅうにゅう)が大きく変わる。しかし給料以外(きゅうりょういがい)に、勝った直後(ちょくご)に、ご祝儀(しゅうぎ)をその場でいただける大相撲は現金(げんきん)なスポーツである。「土俵(どひょう)にカネが埋(う)まっている」の名言(めいげん)そのままである。賞金も人気も独(ひと)り占(じ)めは気持ちがいいだろう。 だが、力士には勝負を分(わ)け合(あ)うライバルがいたほうがいい。栃錦(とちにしき)に若乃花(わかのはな)。大鵬(たいほう)に柏戸(かしわど)。輪島(わじま)に貴ノ花(たかのはな)。ビートルズ世代の相撲ファンだから古い例えになるが、角界(かくかい)で一時代(いちじだい)を築(きず)くのは一人の人気力士だけではできないのである。 遠藤にもそろそろ生涯(しょうがい)のライバルとなる力士が現れてほしい。好敵手(こうてきしゅ)はだれか。これを見極(みきわ)めるのも楽しみである。(5月22日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「巨人大鵬卵焼き」世代のしっぽに属する身としては、ここは黙っていられない。時鐘殿。御地の看板を背負って活躍する遠藤関には、勢(いきおい)関はいかがでしょうか。「名は体を表す」というが今場所は特に勢いを増した感のある関取である。因みに勝敗はというと、昨日は松鳳山に叩き込みで勝ち十勝二敗の二桁に乗せた。白鵬は一敗を守ったが、星一つの差なので、まだ優勝の望みも十分にある。勢関、四股名を「勢 翔太(いきおいしょうた)」という。昭和六十一年の生まれだから遠藤関より少し年上にはなるが、今場所の番付は前頭五枚目である。二桁の勝ちと相撲内容を鑑みると来場所は三役であろう。残念ながら昨日の負けで首の皮一枚となった遠藤関にとって、勢 翔太は好敵手として申し分はないはずだ。時鐘殿、いかがでしょうか。さらに加えて、以前、舞の海秀平氏が正面の解説に座った時に勢関の感想を言っていた。「まるで歌舞伎役者のような顔立ちだ。」イケメンの塩梅から見ても遠藤関のライバルとして遜色はない。こうなれば時鐘殿も、勢関を認めないわけにはまいりますまい。さていかが。しかしそうはいっても、まげを結った初場所は首の皮一枚の遠藤関である。今日の相手は西の関脇栃煌山だ。今場所は横綱鶴竜、さらには東の関脇豪栄道を破り気炎を上げている。よほど気合を入れてかからなければ勝てる相手ではない。場所は残り三日。遠藤関には獅子奮迅の覚悟で戦ってもらい、なんとしても勝ち越してもらいたいものだ。遠藤と勢、語り継がれるライバルになることは間違いない。さらに、大相撲ファンの積年の願いである日本人横綱を、二人で切磋琢磨しながら何としても成し遂げてもらいたい、そう熱望してやまない。それにしても、この頃の大相撲の人気は昭和三十年後半から四十年前半のそれを彷彿させる。長年の相撲ファンとしてはうれしい限りなのだ。願わくは、マスコミにおいては、『相撲は神事、芸能である。』『角界は実力社会であり徒弟社会である。』『相撲の基本はやっぱり反デモクラシーだと思います』(※コチラ)を心得て、『そういう世界』として扱ってほしい。
2014.05.23

【さらば、ベルリン】「なぜ彼は私を追わなかったのか? 恐れたのよ。本気で私が彼を撃つと思って・・・タリーと同じように殺されると思ったのよ。男は皆、自分の腕の中で泣く女が好き。でも私は泣かない冷酷な女になってしまった・・・」1945年という時代設定のためか、全編モノクロの撮影だ。そのせいか、登場人物の誰もが暗く、影を落としていて、謎めいている。監督はあのスティーヴン・ソダーバーグだが、この人は本当にチャレンジャーだなぁとつくづく思う。そもそもこの作品『さらば、ベルリン』は、『カサブランカ』へのオマージュだと思われるが、あれほどの名作を意識しての映画製作は、どれほどのプレッシャーだったか、想像を絶する。『カサブランカ』と言えば、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンというゴールデン・コンビネーションが、全米を涙・涙のナイアガラにさせた超一流の名作である。一方、『さらば、ベルリン』においても、ジョージ・クルーニーとケイト・ブランシェットという演技派を揃えたものの、存在感という点においてだけでも『カサブランカ』にはとうてい及ぶものではない。とはいえ、第二次世界大戦時の混沌とした世相と、規制と弾圧にもがいた時代背景を知らない我々には、充分雰囲気の伝わって来る出来映えとなっている。『カサブランカ』を意識せず、『さらば、ベルリン』単独に鑑賞するならば、私たちの心の琴線に触れずにはいられない哀愁を帯びた作品だ。舞台は1945年のベルリン。ジャーナリストのジェイク・ゲイスマーは、ポツダム会談の取材のためベルリンにやって来た。空港からジープに乗ってホテルへ行くことにするのだが、ジープの運転手は気立ての良さそうな青年タリー伍長だった。ところがこの人物はしたたかで、こっそりジェイクの身分証と財布を盗み、油断のならない男だった。また、金のためなら誰でも裏切り、寝返るという性根の腐り果てた人物だった。とはいえ、ジェイクはタリーが裏で何をやろうと無関心だったが、タリーの情婦が、なんとジェイクの昔の恋人であることが分かり、尋常ではいられなくなる。ジェイクの昔の恋人・レーナは、今や売春婦となり、その日のパンにも事欠くような荒れた生活に身を落としていた。ジェイクの記憶に残るレーナとは、とうてい同一人とは思えないほどの変わりようで、ジェイクは愕然とする。しかしそれは異常なことではない。敗戦国であるドイツのベルリンで、生き延びるためには金や権力のためにどんな裏切り行為でも、屈辱的なことでも甘んじなければならなかった。残虐極まりない戦争は、人間性すら容赦なく変えてしまうものだった。古風な美しさで魅了するケイト・ブランシェットは良かった。影のある売春婦というのはなかなか難しい役どころだと思うが、揺れる心情がモノクロの画面からひしひしと伝わって来た。また、タリー伍長役のトビー・マグワイアも、一見、好青年を装いながらも、影では見下げ果てた金の盲者というギャップを、上手に演じていたと思う。全体的には、可もなく不可もなくと言ったところだ。変り種が好きな人におすすめかも。 2006年(米)、2007年(日)公開【監督】スティーヴン・ソダーバーグ【出演】ジョージ・クルーニー、ケイト・ブランシェット
2014.05.22

【日本経済新聞 春秋】不祥事を起こす。幹部が並んで頭を下げ、謝罪し、組織の出直し・再生を誓う。おおかたの口をついて出るのは「一丸となって」である。ただし、常(じょう)套句(とうく)になればなるほど言葉の持つ重みはうせていく。そして、はた目には一丸となることの難しさばかりが見えてくる。 おととい急死した日本相撲協会の放駒前理事長(元大関魁傑)が任にあったのは4年前からの1年半ほどでしかない。その間、ことあれば「一丸となって」を繰り返した。やむを得まい。野球賭博に続いて八百長が発覚した大相撲は大揺れに揺れ、もはや国技の体をなしてはいないと思われて仕方のないありさまだったのだ。 大相撲がいまあるのはこの人がいたからだという感慨を、幾つもの追悼記事を読んで新たにした。まったく休場することがなかった現役時代のまっすぐな相撲も目に浮かんだ。しかし、力士に親方、行司や呼び出し、まげを結う床山らを合わせても千人ほどだという狭い社会が一丸になった結果の、大相撲再生だったのか。 抵抗もずいぶんあったという。そもそも、相撲はスポーツであり神事、芸能である。角界は実力社会であり徒弟社会である。「相撲の基本はやっぱり反デモクラシーだと思います」とは元横綱審議委員長の独文学者高橋義孝の言だ。すっぱり割り切れぬ世界だからこそ、「クリーン魁傑」を生き抜いた誠実さが貴重だった。(5月20日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~画像は産経ウェブから拝借した。昭和四十七年年五月、夏場所において三賞を受賞したお歴々である。左から輪島、魁傑、貴ノ花である。国技館はまだ蔵前にあった。大鵬は引退していたが相撲は絶大な人気を誇っていた・・・元大関魁傑(放駒前相撲協会理事長)の訃報が届いた。ゴルフの練習中に帰らぬ人となったという。なんともあっけない感は否めないが、しかし氏らしく感じるのだ。不謹慎な言い方をご容赦いただきたいが、とても清々しい死様であると思った。死して爽やかな感を抱かせるのは「クリーン魁傑」の面目躍如であろう。相撲協会を退いてからは未練の「み」の字も見られず、執着はまるでなかったという。さすがである。翻って政治や経済の引退後を見るに、未練たらたらの、執着のがんじがらめはいと興ざめの様相である。俗人なのだ。放駒前理事長の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいほどだ。それはそれとして、氏の訃報に接してしみじみと大相撲観戦するに、あらためて認識した。『相撲は神事、芸能である。』のだ。そして『角界は実力社会であり徒弟社会である。』のだ。『相撲の基本はやっぱり反デモクラシーだと思います』誠に正鵠を射たひとことである。小林秀雄が言っているところの『そういう世界』に通じる。つまり理屈ではなく情緒の中で、わかる人しかわからない、そういう世界なのである。野球やサッカーの比較対象ではないのだ。相撲の妙とでも言おうか・・・古今亭志ん生師ならさしずめ「まあ、そういうもんだからさ」と言うところか。放駒前理事長の奮闘努力もあり、このごろの夏場所を見るに、往時を偲ばせる相撲人気である。願わくは、末永く「そういう世界」として眺めてもらいたい、そう願う次第である。あとは天覧相撲を望むのみだ。ご参考まで、放駒前理事長のお人柄を「大自在」が書いていたのでご紹介する。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【静岡新聞 大自在】「黒いダイヤ」の呼び名通り、精悍[せいかん]な輝きを放っていたという。1975年6月、静岡商業高相撲部の屋内道場土俵開き。その年の春場所、大関に昇進した魁傑が部員に胸を出した。「招きに快く応じてくれた。明るく気さくな方だった」。静商相撲部OBで、県相撲連盟会長の下村勝彦さん(72)は懐かしむ。 元大関魁傑が18日、66歳で急逝した。放駒親方として日本相撲協会の理事長を務めた。現役時代は故障があっても一度も休まず、「休場は試合放棄だ」の名言を残す。75年は後半の成績不振で大関から陥落したが、77年春場所で返り咲いた。 理事長だった2010年8月からの1年半は、相撲史に残る激動が続いた。野球賭博問題による前任者の辞任で、急きょの起用。その半年後、八百長問題が発覚する。「天地がひっくり返るという表現があるが、まさにそういうこと」と眉間にしわを寄せた。 全容解明、処分、再発防止を優先させ、11年3月の春場所中止を決めた。一番嫌っていた「試合放棄」。苦渋の決断だっただろう。「長い相撲の歴史で最大の汚点」と謝罪した。 批判を浴びながらも関係者の大量処分を断行。「技量審査」という異例の方式で2場所連続の中止は避けられた。文部科学省との綿密なすりあわせがあったとされる。平幕まで落ちながら大関に復帰した粘り腰がきいた。 組織改革では憎まれ役を務めた。いったん地に落ちた大相撲は、このところ活気を取り戻し始めている。「アマ相撲にも、いい影響を与えてくれた」と下村さん。残した白星は大きい。(5月20日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~衷心より放駒前理事長のご冥福をお祈り申し上げる。
2014.05.21

燃ゆる如きつつじが中の白つつじ 正岡子規
2014.05.20

火の端の見ゆと躑躅の花摘みぬ抑へんとする思ひある頃 与謝野晶子
2014.05.19

【REDリターンズ】「話しているうちに自分が誰か、何を作ってたか思い出して来た。まったく驚きだ。実にMI6の連中はよくやったものだ。だがしょせん我々は使い捨てだ。役に立たなくなると、功績など忘れられる、、、ふざけとるよ。ひどい話だ」「ナイトシェードはどこにあるの?」「え? 何だい?」「どこに隠したのか覚えてる?」「ああ」前作『RED/レッド』が思いのほか面白く(コチラ)、その続編ということで予告を見たらますます見てみたくなり、iTunesでレンタルしてみた。この必要以上のワクワクした期待感が反ってあだとなったのか、見終わった後は、フツーのおもしろさを感じたに過ぎない。(決してつまらなかったわけではない。そこそこおもしろかったという意である。)結局、何でも最後のところは好みの問題だと片付けてしまいがちだけれど、なぜ自分は思ったほどではなかったのかを考えてみた。 一つは、ストーリーに斬新さがなかったこと。これだけの豪華キャストを揃えたら、もっと意外な方向に話を膨らませるとか、あるいは徹底したコメディ路線に視聴者を笑いの渦に巻き込むぐらいの展開があっても良かったのでは?もう一つは、“史上最強の殺し屋”という触れ込みのハン役イ・ビョンホンなのに、最後はちゃっかり“いいひと”になってしまったこと。(韓流ファン、しかもイ・ビョンホンには興行収益を見込む日本人ファンが多数いることもあり、当然の帰結かもしれない。) あらすじはこうだ。元CIAエージェントのフランクは、リタイア後、恋人のサラとスーパーで買い物を楽しんでいた。そこに突然現れたのは、かつての仲間、マーヴィン。マーヴィンは「おまえの力が必要だ」と、声をかけて来た。それに対し、きっぱりと断るフランクだが、マーヴィンの車が去っていったと思った瞬間、マーヴィンの車が大爆発。教会で葬儀の際には棺に横たわるマーヴィンを前に、フランクはその死を疑いながらも、悲しみに暮れる。そんなフランクは帰り際、いきなりFBIに連行されてしまう。FBIが知りたがっている情報は、冷戦時代の極秘プロジェクトである「ナイトシェード」計画についてであったが、フランクはあくまでシラを切る。と、その時、フランクのいる取調室を、特殊部隊が襲撃し、フランクは命を狙われる。そこへ助けに来たのは、死んだはずのマーヴィンで、フランクの恋人であるサラも一緒だった。こうしてフランクはナイトシェード計画に関わる巨大な陰謀に立ち向かうため、再び戦いに挑むのだった。 物理学者ベイリー博士に扮するアンソニー・ホプキンスは、『羊たちの沈黙』におけるレクター博士(コチラ)へのオマージュ。さらには、精神病院でのヘレン・ミレンの女王様的演技は、『エリザベス1世』のエリザベス女王(コチラ)へのオマージュ。それぞれ楽しませてくれる演出である。こういう豪華出演者たちのお笑いへの潔い演技が自然体なのは、さすがにプロ中のプロなだけはある。 この作品はオールスターに支えられて、一場の娯楽としてはなかなかおもしろく、それなりに楽しめるものだと思う。アメリカにおける興行成績はイマイチだったようだが、少なくともiTunesでは上位にランキングされているので、日本の市場は侮れないものがある。結論として私個人の感想としては、繰り返し見て楽しむというよりは、たまの息抜きには持って来いの作品だと言っておこう。 2013年公開【監督】ディーン・パリソット【出演】ブルース・ウィリス、ジョン・マルコヴィッチ、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ前作『RED/レッド』はコチラ
2014.05.18

【吉川英治/新書太閤記 七巻】◆敗軍の将をもてなす前田利家父子の情昨年の夏のことだ。もう20年以上もの付き合いになるK美さんが実家を離れ、関西に引っ越すこととなった。40歳を過ぎてからの女性の転職がどれほど過酷なものかは、おおよその想像がつく。だが、友人としてあたたかく見守ってやるぐらいしか、他に術はなかった。 「一泊させてもらっていい?」という連絡を受け、私もこれがしばしの別れになるだろうと、快く承諾した。(引っ越し前夜のことである。)久しぶりに会ったK美さんは、こざっぱりとしたチュニックに、色褪せたジーンズ、旅行カバンとギターケースを抱え、落ち着いた物腰だった。意外だったのは、耳にピアスを開け、指にファッションリングをつけていることだった。これまでのK美さんは、そういう外見的な装飾は皆無に等しく、心境の変化どころの騒ぎではなかった。「あたしは変わりたいの」言葉には出さずとも、そういう意思みたいなものを全身から発散させているのだった。新たな門出というよりは、まるで背水の陣にかける女の意気込みのようなものを感じた。「本当に申し訳ないけど、アパートの身元保証人になってもらえない?」私は小さく頷いて、書類に押印した。この先、どんな苦難が待ち受けているとも知れない未知の世界で、人知れず年を取っていこうとしているK美さんのために、せめてもの餞だと思ったからだ。彼女がなぜ安定した仕事を捨て、家族を捨て、たった一人関西に逃れるようにして引っ越すまでに至ったのかは、ここには書かない。ただ、地元を離れる際に、我が家に一泊し、私の用意したお粗末なそうめんとポテトサラダを、「ああ、おいしい」と言って残さず食べてくれたことが、友情の証のようにも思えた。 『新書太閤記(七)』では、賤ヶ岳において秀吉が柴田勢と決戦。結果、柴田勝家は自刃して果てる場面が山場となっている。こうして織田家旧臣筆頭である柴田勝家を滅ぼすことで、秀吉は天下人たらんとする。涙を誘うのは、“途上一別”のくだりである。賤ヶ岳の合戦で壊滅状態となった勝家は、北ノ庄まで落ちる途中、同陣の人である前田利家の居城に立ち寄ったのである。利家は息子の利長ともども、血にまみれた勝家をねんごろにもてなした。「湯漬を一椀、馳走して賜るまいか」という勝家の望みを快諾し、利家の給仕で、サラサラと湯漬を食べ終えるのだ。「生涯の馳走、きょうの湯漬に如くものはなかった。」鬼の柴田と恐れられた人も、今は凄愴の気にまみれていた。かかるときの人の温情が、これほどまで胸に沁みるものだとは知らなかった。勝家は、利家父子の誠意と真心により、誰をも恨むことなく、精神の安らぎを得たのである。 「城門を出る勝家の影を、夕陽の赤さは特に濃く浮かせてゆく。馬上の供八騎、歩卒十数名という微々たる残軍の列はこうして北ノ庄へ落ちて行った。」 人はそれぞれ事情を抱えて生きている。無責任な慰めや、むやみやたらな励ましは、反ってあだとなってしまう。傷ついた友が自分を頼ってやって来た時、一体どうすることがベストなのだろうか?さしあたり、前田利家は、相手のささやかな望みである一椀の湯漬をご馳走した。私もシンプルに、そういう優しさを持ちたいと思った。なかなか難しいことではあるが。 『新書太閤記(七)』吉川英治・著~ご参考~・新書太閤記 一巻はコチラ・新書太閤記 二巻はコチラ・新書太閤記 三巻はコチラ・新書太閤記 四巻はコチラ・新書太閤記 五巻はコチラ・新書太閤記 六巻はコチラ☆次回(読書案内No.126)は吉川英治の「新書太閤記 八巻(完結)」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.05.17

心よき青葉の風や旅姿 正岡子規
2014.05.16

いそがしや昼飯頃の親雀 正岡子規
2014.05.15

【ブリット】「あなたって人が分からなくなったわ。あなたには何か本当に心を動かす事があるの? もうすべてに麻痺したの? こんな酷い生活が毎日よくできるわね!」「生活の半分はそうだ。仕事だからな」「見ている私がたまらないわ! 酷さでいっぱい! あなたの生活と言ったら暴力と死よ。あなたはすべてに無感覚になったのよ・・・私とは遠い世界ね」何ぶん古い作品なので、名作なのは知っていたが、なかなか食指が動かなかった。そんな中、ストレス性の神経症に罹ってしまった友人から電話があり、「何か映画の話をして欲しい」と言うので、「いつものネタバレでいいの?」と訊くと、「それでいい」と言うので、『ダイ・ハード』につてい全てしゃべり尽くしてやった。DVDを見る手間が省けるとは言っても、所詮、私の「それからジョンが怒ってワーッとわめき散らしてテロリストがガンガン撃って来て・・・」というネタバレ解説じゃ面白さが半減してしまうので、いっそのことDVDを貸してあげるよと言ったところ、見るのが面倒とのこと。結局、私の解説で『ダイ・ハード』って面白い! と、友人が喜んでくれて(私のネタバレ解説で映画を見た気分になったようだ)、スティーブ・マックイーンの『ブリット』を思い出すと言い出した。前置きが長くなってしまったが、そこでやっと私も『ブリット』とやらを見てみようという気持ちになったわけだ。実際、見てみると『ブリット』のアクションは主にカーアクションで、それこそが見どころとなっている。おそらく友人は、私のネタバレ映画解説を耳で聴きながら、この格好良い『ブリット』のカー・アクションに置き換えて想像していたに違いない。舞台はサンフランシスコ。ある日、サンフランシスコ市警のブリット警部補は、チャルマース上院議員から呼び出される。それは、ジョニー・ロスというマフィアの一員で、200万ドルを横領し、暗殺者から命を狙われている者の保護を依頼するものだった。というのも、チャルマースがロスに、裁判所の証言台に立ってくれることを条件に、その身柄を保護するという取り引きをしてのことだった。ブリットは、自分が指名されたことを不審に思いながらも、ロスの宿泊するホテルに他の刑事らと共に交代で張り込みをする。ところが部下の刑事がほんのわずか目を離した隙に、ロスは自ら部屋のドアの鍵を開けてしまい、同時に二人組の暗殺者に射殺されてしまうのだった。重傷を負った部下のスタントン刑事からロスの不審な行動を知らされ、ブリットは疑問を抱く。病院で手を尽くしたものの、ロスは絶命する。だがブリットは、まだロスが生きていると見せかけ、背後にある巨大なからくりを暴くため、捜査し始めるのだった。スティーブ・マックイーンのムダのない演技に思わず惚れ惚れする。とにかくスタイリッシュでクールなのだ。しかも、カーチェイスではスタントマンを使わず、スティーブ・マックイーン本人があの危険なドライブ・テクニックを披露してくれる。途中、黄色のポルシェに乗ってブリットが登場。スティーブ・マックイーンが乗っていると、なんだか普段は縁のない黄色というカラーが、優雅で華麗に見えるから不思議だ。私もできることなら、こんなふうに近所のファミレスまで(作中では、ブリットが恋人の運転でファミレスに出かけるシーンがある)、ポルシェで出かけてみたいものだ(笑)監督はピーター・イェーツで、元レーサーという経歴の持ち主。当時、スティーブ・マックイーンのハイレベルの運転技術を引き出し、映画史上に残る名作に仕上げた監督でもある。一方、スティーブ・マックイーンは50歳という若さで病没しており、残念でならない。 これだけデジタルが普及した今見ても、このアナログの世界観は色褪せず、見事な出来映えだ。未見の方はぜひともご覧いただきたい。必見の逸品だ。1968年公開【監督】ピーター・イェーツ【出演】スティーブ・マックイーン
2014.05.14

さて、どちらへ行かう風がふく 山頭火
2014.05.13

彳(たたず)みて林檎の花の四方の中 富安風生『花林檎、ひとつ』はコチラから『花林檎、ふたつ』はコチラから
2014.05.12

【アイガー・サンクション】「部員一人がチューリヒで敵二人に殺された。犯人を“サンクション”しろ」「悪いが誰かほかの者に殺させるんだな」「“殺す”など下品な言葉はよせ」「“サンクション”でも“制裁”でも、要するに殺しは殺しだ」つくづくクリント・イーストウッドはスゴイ人物だと思う。役者としてのキャラは、ご本人もよくご存知のようで、ちょっとばかしクセのあるヒーロー役がお得意だ。そういうキャラクターを生かすも殺すも、全ては監督の演出に左右されるものなのだが、イーストウッド本人が監督でもあるので、その辺においても全く抜かりない。70年代の作品なのでもちろんCGなどは使用しておらず、全てが本物だ。このリアリティーはどうやったって作り物からは感じられない。アナログだからこそのド迫力というものだ。さらに、音楽を担当したのが、あのジョン・ウィリアムスだ。ジョン・ウィリアムスと言ったら『スターウォーズ』の音楽を手掛けたことでも有名な人物。この人のメロディーがバックで流れたら、それだけで作品は成功したようなものだろう。見どころはやっぱり、アイガーを制するために、垂直にそそり立つ岩壁を登るシーンだろう。この命懸けのシーンを見るだけでも『アイガー・サンクション』の存在価値はあるからだ。話はこうだ。今は大学で美術の講師として勤務するジョナサン・ヘムロックは、実は敏腕の殺し屋だった。ある日、ボスでもあるドラゴンから使者が来た。それは、再び殺し屋としてターゲットを始末せよという依頼だった。だが現在はすでに殺し屋稼業から足を洗ったジョナサンは、断るつもりでいた。が、それは不可能。なぜならドラゴンはジョナサンの弱みを握っていたのだ。仕方なく依頼に応じたジョナサンは、難なく一人を始末したのだが、ドラゴンはもう一人も“サンクション”せよ、という。ジョナサンは断るものの、ドラゴンの息のかかった美人のキャビン・アテンダントと一夜を過ごしてしまい、金庫に入れておいた3万ドルの小切手と政府発行の保証書を盗まれてしまう。こうしてジョナサンは、もう一人も“サンクション”しなければならなくなってしまった。ところがターゲットの名前は不明。分かっているのは、近々アイガーに挑む国際登山チームの一員で、どうやら片足が不自由な人物だという情報のみだった。ジョナサンは登山経験者で、しかもアイガーには2度挑戦して2度とも失敗していたのだ。作品を鑑賞して気づいたことなのだが、どうやらクリント・イーストウッドはスタントマンを使っていないようで、ご本人自らがリアルに登山に挑んでいる。隙のない真剣な顔つき、見事な登山技術は、どこから見てもスゴイの一言。スイス・アルプスの広大な自然美を眺めるだけでも癒されそうだ。圧倒的なリアリティーを感じさせる完成度の高い作品だ。1975年公開 【監督・出演】クリント・イーストウッド
2014.05.11

【吉川英治/新書太閤記 六巻】◆いよいよ秀吉が天下人を目指す!NHK大河ドラマで、黒田官兵衛を題材にした『軍師官兵衛』というドラマを放送している。しかも主役はV6の岡田准一だ。おかげで官兵衛というキャラが、人情厚く義理堅い、しかもイケメンというイメージが独り歩きしているようだ。もちろん昔のことなので、事実は分からない。今みたいに写真が残っているわけでもないので。ただ、官兵衛の身に起こった出来事や環境を考慮すると、おおよそ吉川英治の描く黒田官兵衛こそが事実と近いのではないだろうか? あくまで憶測だが。どんな風体かと言えば、まず片足を悪くしているため引き摺って歩き、きちんと座れないので君前でも特別に横座りを許されていた。さらに、伊丹城での獄中生活の際に患った皮膚病の名残りがあって、頭皮が荒れ、毛が薄く、根もとまで見えるほどだった。 「この体躯わいたんにして胆斗のごとき奇男児の風貌を、いやが上にも魁夷に見せ過ぎる嫌いがある。」 これが吉川英治の黒田官兵衛像である。さて、『太閤記(六)』では、中国の毛利攻めの指揮を執っていた秀吉の耳に、本能寺の変が告げられる。信長の最期を知った秀吉は慟哭するものの、事態は急を要した。そこで召集されたのが軍師・官兵衛である。結局、官兵衛他重臣らの策を用いて毛利と和睦し、秀吉らは急いで京都に上る。それはもう信長仕込みのスピーディーな撤退であった。そして、逆臣・明智光秀を成敗するに至る。こうして秀吉は名実ともにその存在を揺るぎないものにした。その後、信長亡き主家の継嗣について、また明智の旧領処分問題などを話し合うこととなる。これが世に言う“清州会議”である。 ここまでの流れを読んでいると、あまりの急展開に驚かされる。何より、秀吉の取ったスピーディーでぬかりのない戦略に、官兵衛の影を感じないではいられない。この見事な状況判断能力は、織田家の旧臣筆頭でもある柴田勝家の勢いさえ封じ込めるものがあった。明智討伐は、本来、織田家首脳部の首席にあたる柴田勝家が陣頭指揮を執るはずであった。ところが秀吉より一歩も二歩も出遅れてしまい、完全にイニシアチブを奪われてしまったのである。読者は、ここへ来て、迅速な行動と的確な状況判断能力の必要性を思い知るであろう。 「歳月は人間を対象として流れてはいない。が、人は往々、歳月をあてにして歩む。あだかもいつも歳月は味方のような片思いを抱いて。雲無心。歳月の光輪饗輪もまた、太虚の車に過ぎない。」 吉川英治の語る、時間(歳月)についての記述だが、いや、本当にそのとおりだと膝を打ってしまうところだ。これは私なりの解釈なのだが、天・時・人を味方につけ、この世の栄華を誇ったところで、それも一場の夢に過ぎない、という意味合いのような気がする。宇宙規模で考えたら、天地を揺るがす大事だと思ったことでも、実は取るに足らないことなのである。読者は、軍師・官兵衛を右腕とも頼む秀吉が、いよいよ天下をおさめる大人物として読み進んで行くに違いない。それはそうかもしれないが、長い目で見たら、秀吉も歴史上のわずか点に過ぎないことが分かる。私たちが尊ぶべきは、その点と点を結んで線にし、次世代へとつないでいくことなのかもしれない。 『新書太閤記(六)』吉川英治・著~ご参考~・新書太閤記 一巻はコチラ・新書太閤記 二巻はコチラ・新書太閤記 三巻はコチラ・新書太閤記 四巻はコチラ・新書太閤記 五巻はコチラ☆次回(読書案内No.125)は吉川英治の「新書太閤記 七巻」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.05.10

春惜しむおんすがたこそとこしなへ 水原秋櫻子※とこしなへ・・・永くかわらぬこと、いつまでも続くこと。(広辞苑)
2014.05.09

花林檎一と昔否大昔 星野立子『花林檎、ひとつ』はコチラから
2014.05.08

病みてこもる山の御堂に春くれぬ今日文ながき絵筆とる君 与謝野晶子
2014.05.07

白雲や林檎の花に日のぬくみ 大野林火
2014.05.06

土筆これからどうするひとりぽつんと 風天(フーテンの寅さん)土曜の夜、BSで『男はつらいよ』シリーズをやっている。都合があり、毎回最初の三十分しか見られないのだが、楽しみにしている。ただ、このごろは寅さんの「愚か」と「滑稽」の奥に、役を演じる俳優渥美清氏の苦悩と孤独が感じられ、見ていて切なくなるのだ。『それを言っちゃぁ、おしまいよ』俳優渥美清、弱音や愚痴は胸の奥に留めたことであろう。愚人への熱望は、万人の誰よりも渥美清氏が強かったはずだ。ぽつんとある土筆に己を見たのであろうか、発露の一句に熱いものがこみあげるのである。※過去記事『ああ、風天(ふうてん) その壱』はコチラから。『ああ、風天(ふうてん) その弐』はコチラから。『ああ、風天(ふうてん) その参』はコチラから。『ああ、風天(ふうてん) その四』はコチラから。映画 寅さんシリーズ『男はつらいよ』コチラ寅さんシリーズ『続・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ フーテンの寅』 コチラ寅さんシリーズ『新・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~望郷篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~純情篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~奮闘篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~寅次郎恋歌~』 コチラ
2014.05.05

【セントアンナの奇跡】「妙なんだ」「何が?」「ここではニガーじゃない。“俺”なんだ」「同感だな」「イタリア人は黒人差別を知らない。今、俺は自由だ。恥ずかしいよ、外国の方が自由だなんて。アメリカの未来に懸けてたのに」第二次世界大戦では、日本はドイツとイタリアとで三国軍事同盟を結んだ。そのイタリアのトスカーナを舞台に、ナチス・ドイツが殺戮を犯していたことは、皆さんご存じであろうか?吟遊映人は不勉強のため、まさか同盟国の間でそのような卑劣極まりない行為がくり広げられていたとは知らなかった。本作は史実に基づき、セントアンナ教会におけるナチス・ドイツの大虐殺をめぐるストーリー展開になっている。前線で生き残った4人の黒人兵士たちの中の、大柄だが気は優しいトレインが、イタリア人少年アンジェロを助けるところから様々なミラクルが巻き起こる。もちろん少年は神でもなければ天使でもないため、トレインが「かわいそうだ」と不憫に思う純粋な“情”から発せられた偶然の賜物であったに違いない。作中にもあるが、イタリアではアメリカのような黒人差別の意識が低く、トレインのことを“チョコレートの巨人”と言って懐く。つまり、白人少年にとってトレインは決して“ニガー”ではないのだ。そんなことからも分かるように、「セントアンナの奇跡」の根底には、戦争に対する反発や糾弾もさることながら、人種差別への痛烈な批判も込められていることも見逃せない。もうじき定年を控えたヘクターは、郵便局の窓口で細々と業務をこなしていた。ある日、一人のイタリア系白人の男が切手を買いに来たところ、ヘクターの顔色が変わる。ヘクターは躊躇することなく拳銃を取り出すと、その白人男性を射殺するのだった。捜査官は、ヘクターの前歴や精神状態を確認するが、特に異常はなく、ただ家宅捜査の際に見つかったのは、長年ゆくえ不明とされていたプリマヴェーラ像(石像の頭部)であった。印象的だったのは、トレインが肌身離さずプリマヴェーラ像を抱え、祈りを捧げるようにその顔を撫でていたこと。また、信心深いヘクターは、絶えず首から提げた十字架にキスをしていたことだ。人は窮地に立たされた時、すがるような思いで祈りを捧げる。我々が生きているのは、そうした祈りの連鎖が生み出した奇跡なのかもしれない。本作は、様々な視点から戦争という悲劇を描き出しているのだ。2008年(米)、2009年(日)公開【監督】スパイク・リー 【出演】ラズ・アロンソ、デレク・ルーク
2014.05.04

【吉川英治/新書太閤記 五巻】◆人の繊細な気持ちを甘くみてはならぬ!「男の嫉妬ってマジ怖っ!」息子が身の毛もよだつと言わんばかりに語ってくれたのは、O君とT君の話である。O君とT君はお好み焼き屋さんでアルバイトをしている。甘いマスク(イケメン)で長身、女子高生たちから人気のあるT君に対し、ニキビ面で風采のあがらないO君は、店長やパートのおばちゃんたちと仲良くしていた。調子の良いT君は、お店に女の子が来たりすると、気前よく「オレのおごりだから金はいいよ」と言って、ご馳走することが度々あったようだ。だが実際には店長の目を盗んでやっていたことで、後で自分の財布から代金を支払っておくことはなかったという。そんな光景を横目で見ていたO君は、最初の一度や二度は我慢していたところ、女の子たちからキャーキャー騒がれてイイ気になっているT君に対し、抑えようもない嫉妬心で友情が壊れていった。O君は意を決して、仲の良いパートのおばちゃんに相談したところ、「よく私に話してくれたわ。あんたは何も心配しなくていいから。店長には私からちゃんと話してあげる」と。こうしてパートのおばちゃん、そして店長をも味方につけたO君は、T君を解雇させることに成功したのである。寝耳に水だったのはT君である。「一度だってオレのこと注意したことなかったのに、いきなりチクるなんてふざけやがって!」息子は、T君から憤まんやるかたないと言った愚痴を聞かされたとのこと。T君の言い分を鵜呑みにした息子としては、O君の復讐がよっぽどショックだったらしい。二人と仲の良い息子としては、友達ならもっと他にやりようがあったのではないかと、ややT君寄りの意見だった。だが息子よ、と言いたい。人の気持ちはそれほどまで計り難い、デリケートなものなのである。 『太閤記(五)』では、信長から“きんか頭”とあだ名をつけられた明智光秀が、積りに積もった怨念を晴らすべく、信長を討つ場面が山場となっている。世に言う、“本能寺の変”というくだりである。“サル”とあだ名をつけられ信長から可愛がられた秀吉に対し、光秀の方は“きんか頭”などと呼ばれて笑い者にされることに我慢ならなかった。信長もおそらくはそういうプライドの高い光秀の性格を知っていたであろう。頭脳明晰で兵法に明るく、何事にも礼儀正しい光秀だからこそ信長も重宝した。しかし信長はあまりにも人の気持ちを見くびっていた。まさかと思うようなことが起きてしまったのだ。「敵は本能寺にあり!」この時の光秀にあるのは、ただただ昔年の恨みつらみ。戦国時代とはいえ、戦には必ずや大義名分というものがあるはずだったが、光秀にそんなものはなかったのだ。とにかく信長を討ちとることに全神経を傾けていた。この光秀の鬼ような憤りを前に、さすがの信長にも成す術はなかった。桶狭間の戦で、三軍を率いた今川義元の大軍を撃ち破った勢いは、ここにはない。とはいえ、信長の最期はドラマチックで、他のどの武将よりも格調高く、高潔である。 「事実は一瞬の呼吸のうちに過ぎない。死なんとする刹那、人の生理は異常な機能を働かせて自己の通って来た全生涯に、平常の追想に似た訣別をなすものらしい。『悔はない』信長は大声で言った。」 私たちがこの歴史的事実から学べるもの、それは他でもない、人の繊細な気持ちを甘くみてはならないということだ。まさか?!と思うようなことが起きてからでは遅い。先人曰く、「親しき仲にも礼儀あり」誰かの恨みを買わぬよう、日ごろから気をつけようではないか。 『新書太閤記(五)』吉川英治・著~ご参考~・新書太閤記 一巻はコチラ・新書太閤記 二巻はコチラ・新書太閤記 三巻はコチラ・新書太閤記 四巻はコチラ☆次回(読書案内No.124)は吉川英治の「新書太閤記 六巻」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.05.03

山しづかなれば笠をぬぐ 山頭火
2014.05.02

【山桜】「お母さま・・・房叔母さまは本当はおしあわせだったのかもしれませんね。きっと、その方のことをずっと慕っていらっしゃったのですね。私とは・・・違うのですね。」「いいえ、あなたはほんの少し回り道をしているだけなのですよ。」時代小説とは思えない純文学の世界観をかもし出す作品である。原作者の藤沢周平は、若かりしころ結核を患い、右肺の切除手術を受けサナトリウム生活を余儀なくされるという経験の持ち主だ。また、療養後にはめでたく結婚しているが、妻が長女を出産後まもなく急逝している。 そういったことが藤沢作品に暗く影を落としたのかどうか、とにかく初期のころは暗く、陰鬱な作風である。藤沢周平は山形県鶴岡市出身ということもあり、作品の舞台は専ら庄内藩をモチーフにした小説が多いことで有名だ。この「山桜」においても、海坂藩という東北地方の架空の藩を舞台にしたストーリー展開になっている。海坂藩の下級武士、磯村庄左衛門の妻・野枝は、叔母の墓参りのため久しぶりに嫁ぎ先から外出を許された。野枝が墓参りを済ませ実家に立ち寄る途中、見事な山桜が咲き誇っているのを目にする。 思わず背伸びをして山桜を一枝手折ろうとするが、もう少しのところで手が届かず断念。 そこへそっと近づき、山桜を手折る武士・手塚弥一郎。実は弥一郎は、野枝にとって磯村との縁談がある以前に申し込みのあった相手だった。 「山桜」は、とても静かで上品な作風であった。東北ののどかな田園風景と、風光明媚な山並みが実に美しく優雅に映し出されていた。 元少年隊の東山紀之も、舞台で鍛えた明朗な発声と演技力で好演。行間に味わいのある藤沢作品を、甘美で清貧な映画に仕上げていた。2008年公開【監督】篠原哲雄【原作】藤沢周平【出演】田中麗奈、東山紀之※名句『山櫻』はコチラから。
2014.05.01
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