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山へ空へ魔訶波羅蜜多心経 山頭火昭和七年七月三十一日、山頭火は旅の空にある。『歩くはうれしい、水はうまい、強烈な日光、濃緑の山々、人さまざまなのすがた。』日記からは山頭火の快活な姿を容易に想像でき、コチラも何とはなしにうれしくなってくるのだ。山頭火に続き心経を読誦、衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願智 仏道無上誓願成 仏説摩訶般若波羅蜜多心経。ひと時、心が清浄になれた気になるだけお経はありがたい、南無観世音菩薩。なお唐突ではあるが、上句の英訳があったので掲載する、ご参考まで。To the mountainsTo the skyThe Heart Sutra. 英訳:John Stevensさて、ご感想や如何に?
2014.07.31

【スカーフェイス】「どういうことだ? 子供を乗せたぞ」「いつもは別の車で学校へ行くんだ」「中止しよう。今日はやめだ。中止だ! あいつが一人の時に殺る。女房子供はお断りだ!」“映像の魔術師”と呼ばれたヒッチコック監督から多大なる影響を受けたデ・パルマ監督は、スリラー映画にこだわることなくバイオレンスのジャンルにも活動の域を広げて行った。本人も、実はホラー的要素の濃いバイオレンスを扱った作品を手掛けることを得意としているようで、世間の評価とは別に、生き生きとした作品に完成されているのが「スカーフェイス」である。ヒッチコック監督の得意とした目線アングルや、ワンカットワンカット隙のない凝った画作りは、驚くほど見事にデ・パルマ監督に継承されていると言っても良いだろう。「スカーフェイス」は、賛否両論分かれる作品だが、興行的には成功し、「殺しのドレス」同様にデ・パルマファンを一気に増やした作品の一つでもある。1980年、トニー・モンタナはキューバからフロリダ州マイアミへ、鮨詰め状態の船で渡って来た。カストロ主義に反対し、政治犯として追放されたのだった。トニーは、弟分であるマニーとともに、アメリカの裏社会で一仕事済ませることになった。それは、コロンビア人を相手にコカインの取引きを成立させることであった。トニーは、単なるチンピラに納まるつもりはなく、麻薬王として裏社会に君臨するのが目的だった。だが、殺人と麻薬と脱税の先にあるのは、使い切れないほどの大金と引き替えに、我が身の破滅でもあった。エルヴィラ役のミシェル・ファイファーは、この当時、本当に若くて美しい。気だるくもの憂げで、いつも何かに対して苛立ちを感じている、雌虎のようなキャラクターに扮するのだが、適役だ。暇さえあればドラッグに溺れているシーンも、妙に板についていて説得力があった。さらに、チョイ役ではあるが、F・マーリー・エイブラハムも出演している。代表作に「アマデウス」があり、サリエリ役として有名だ。本作においては、マフィアのナンバー2的存在だが、何やら腹に逸物ありそうでインパクトのある役柄だった。そして何より、主役に扮したアル・パチーノは、ここでも絶好調だ。声量も行き届いていて存在感があり、肩肘張って生きている男の辛さ、切なさみたいな感情が、ドッと溢れる演技力である。バイオレンスに彩られた裏社会の縮図を、見事に表現した作品なのだ。1983年(米)、1984年(日)公開【監督】ブライアン・デ・パルマ【出演】アル・パチーノ、ミシェル・ファイファー、F・マーリー・エイブラハム※予告 『ミッドナイト・ガイズ』は近日掲載予定です(^^)v
2014.07.30

写経して無の字の多き寒さかな 末吉ミヨ七月も残りわずか。夏はこれからが本番である。心頭を滅して写経三昧に耽るのもまた一興。願わくは、火もまた涼し、の域に達します事を。
2014.07.29

どうしようもないわたしが歩いてゐる 山頭火猛暑が普通になってしまった今日この頃ではあるが、昭和七年の夏も暑かったようだ。山頭火は日記に綴る。『暑い、暑い、貧乏は暑いものだと知つた。貧乏はとうとう切手を貼らないで手紙をだす非礼を敢てせしめた、それを郵便集配夫がわざわざ持つてきて見せた厚意には汗が流れずにはすまなかつた、それでなくても暑くてたまらないのに。』そうして出来た句である。炎天のポストへ無心状である手元不如意を「懐が寒い」と表現するが、極度になると「懐が暑い」ことになるらしい。まさに『どうしようもない』わけだ。懐が寒い我が身は、特に暑い夏には、幸せと思わなければならない。
2014.07.28

【ホワイトハウス・ダウン】「我々がホワイトハウスを占拠した。はっきり言おう。私は大統領警護隊隊長マーティン・ウォーカーだ。人質は61人」「一体どういうこと?」「せっかく君をここから外へ出してやったのに、まぁいい。プロらしく話そう」「プロって? あなたは部下を殺したくせに!」「テッドのことか? 彼を殺したのは、私の人生で2番目に辛かった」昨年公開された映画のタイトルに、“ホワイトハウス”と付く作品がもう一つあったような気がする。単なる偶然に過ぎないとは思うが、視聴者としてはいろんな思惑を推理せずにはいられない。幸いにも私はもう一つの“ホワイトハウス”の方は、まだ見ていないため、比較することもなく『ホワイトハウス・ダウン』を楽しむことができた。監督はローランド・エメリッヒで、代表作に『インデペンデンス・デイ』『デイ・アフター・トゥモロー』『2012』などがあり、SFパニックに定評のある人物だ。なのでCGを駆使した、ヘリコプターが吹っ飛んだりホワイトハウスが炎上したりなどの見せ場は、得意中の得意として披露してくれる。さらには、出演者の顔ぶれもなかなかのものだ。どこかで見た感のある役者さんばかりなのに、ちょっとすぐに過去の出演作品のタイトルが出て来ない。やっと思い出したのは、大統領役のジェイミー・フォックス。この人は『コラテラル』にも出演していて、圧倒的な存在感を示した黒人俳優である。 あらすじはこうだ。議会警察官であるジョン・ケイルは、離婚した妻のもとにいる娘のエミリーをつれて、ホワイトハウスの見学ツアーに参加することになった。というのも、エミリーはソイヤー大統領の大ファンであり、政治に関してオタク的なところがあるので、ツアーに連れて行くことでギクシャクした親子関係を改善したいと思ったのだ。ツアーガイドの説明を受けながらホワイトハウス内を見学していると、何やら修理業者のような身なりをした男たちとすれ違う。そして国会議事堂にさりげなくモップやらバケツなどの清掃用具を載せた荷台を放置し、それを警備員が注意するものの、男たちはどこへともなく立ち去ってしまった。結果、大爆発が起こる。ハモンド副大統領らは、大統領専用機に乗り避難。ラフェルソン下院議長らは地下司令室へ避難。その間、テロリストらは次々と警備員や警官を射殺し、ツアー客らを人質にしてしまった。元軍人であるジョンは、トイレに行ったきりはぐれてしまった娘のエミリーを探すため、またソイヤー大統領を守るため、単身、テロリストらに立ち向かうのだった。 この作品に限ったことではないけれど、アクション重視となるとどうしてもストーリーが粗っぽくなってしまうのが鼻に付く。もう少しキャラクターにしっかりとした背景を持たせても良かったような気がするのだが、、、とはいえ、11歳のエミリー役の女の子がとてもキュートで、涙を浮かべて訴えるシーンなどなかなか良かった。 『ホワイトハウス・ダウン』を見終わってから、ちょっとだけ他人様のレビューを読んだら、いやびっくり、酷評が多かった。そこまで悪しざまに言うことはないんじゃないかと、ちょっと気の毒にすらなった。おそらくもう一つの“ホワイトハウス”を扱った作品と比較しての感想だとは思うけれど、そんなにそちらの方が良かったのだろうか?ちょっと興味が湧く。いずれにしても『ホワイトハウス・ダウン』は、アクション・パニック映画として見たら、なかなかの出来映えだと思った。 2013年公開【監督】ローランド・エメリッヒ【出演】チャニング・テイタム、ジェイミー・フォックスコチラからコチラからコチラから
2014.07.27

【新田次郎/武田信玄 山の巻】◆三方ケ原の合戦に大勝するも、巨星墜つ疾如風徐如林侵掠如火不動如山 武田信玄が中国の古典に精通していたことは、周知のとおり。だからと言って、中国の兵書に陶酔していたわけではない。著者・新田次郎は、「むしろ彼は著書の文学的表現に敬意を払った」のだと述べている。そういうことから、孫子の兵法に出て来る“風林火山”の文言を、幟旗に書いたようだ。 ~火の巻~では、嫡子義信が離反したことで、武田家ではにわかにお家騒動が巻き起こった。しかし渦中の義信が病死してしまったことで、決着がついた。さらには、信玄の愛妾・湖衣姫との間に生まれた四郎勝頼が立派に成人し、正式に武田家の後継者と定めるに至った。~山の巻~に話が進むと、いよいよ信長のカリスマ性が、さりげなくクローズアップされる。著者は、武田信玄という人物を愛するがゆえに、二人を比較し、かなり冷静な視点を持って評価している。それは、信長の叡山焼討ちに関するくだりなのだが、信心深い信玄は叡山から焼き出された僧たちを身延山久遠寺に呼び、そっくり与えてやりたいと思ったのだ。そして延暦寺の再興を計りたいと願った。ところが寝耳に水だったのは日蓮宗総本山の久遠寺である。無論、信玄も代替えとして、久遠寺は信濃国中野へ今の3倍ほどの大伽藍を建立するという条件を出したのだが、久遠寺の僧たちは皆、小指を切って移転反対の嘆願書に血判を押し、一斉に抗議のための断食に入ってしまったのだ。信玄はここでも、イヤというほど信長の実行力を思い知らされたに違いない。 「信玄は誰にもどうすることもできなかった叡山を亡ぼした信長の力量と久遠寺一つ移転させることのできない自分の力とを比較して見た」 結果、延暦寺を身延山に再興する話は、中断してしまった。“戦いの神”とも呼ばれた信玄も、信長の大胆にして徹底的な叡山焼討ちには、驚愕を隠せず、言葉を失った。さすがの信玄すら手も足も出ない禁域に、信長はいとも簡単に刃を向けたのだから、その一点においても信玄は己の弱さを恥じ入るしかない。 ~山の巻~で最後の柱となるのが、徳川家康との合戦である。そう、三方ケ原合戦だ。浜松城で家康を囲む軍議は、白熱した空気に包まれていた。天下に並ぶ者のいない名将と称される信玄を相手に、どうやって迎え撃ったら良いものかと、出撃説やら籠城説で、軍議は割れていた。結局、家康は城を出て武田軍を迎え撃つのだが、精鋭の揃った武田騎馬軍団と見事な陣構えに、家康方の三河武士らは恐れおののいた。三方ケ原合戦は、徳川方の大敗北に終わった。 ※ちなみにこの時の陣構えは、徳川方は鶴翼の陣に対し、武田方は魚鱗の陣である。 私はこの三方ケ原(現・浜松市北区三方原)に度々出向き、その合戦場跡を見て来た。今は、戦国時代の片鱗を思わせるものなど何一つないが、四方を山に囲まれた甲斐育ちの信玄が、高台から遠州灘を望んだ時、どれほどこの浜松という恵まれた土地を渇望したことか知れない。西上の途中、53歳で逝った信玄の無念さを思うと、想像を絶する。“歴女”という呼称がない時、すでに“歴女”だった私は、もし、一番好きな戦国武将はと問われたら、迷わず武田信玄であると答える。最後に、その信玄の座右の銘を紹介し、『武田信玄』の感想を終うとしよう。 人は城、人は石垣、 人は堀、なさけは味方、あだは敵なり 『武田信玄』~山の巻~ 新田次郎・著 [吉川英治文学賞受賞作品]武田信玄「風の巻(第一巻)」はコチラ武田信玄「林の巻(第二巻)」はコチラ武田信玄「火の巻(第三巻)」はコチラ☆次回(読書案内No.136)は子母沢寛の「勝海舟」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.07.26

高原の向日葵の影われらの影 西東三鬼~ひまわりや 人それぞれの 夏の空~■橋本多佳子の向日葵はコチラから■ 北原白秋 の向日葵はコチラから■与謝野晶子の向日葵はコチラから
2014.07.25

【アジャストメント】「これは何かの試験か?」「ある意味誰にとっても試験といえる。調整局も含めてね。君は彼女のために全てを賭け、彼女も君のために全てを賭けて、あのドアをくぐった」ハリウッド映画には、必ず傾向みたいなものがあって、それはどうやらキリスト教的宗教観にどっぷりと浸かっているか、あるいは多少の影響下にある作品がほとんどである。だからこの作品の原作となったSF小説は、全米でベストセラーとなったようだが、キリスト教圏ではない日本人にとっては、少なからずイマイチに思えてしまうのではないだろうか。とりたてて難しいことを表現しているわけではないのだが、“神”や“天使”といった存在は、日本人にとっては神話的な物語の架空の人物として捉えがちで、身近なものに感じられないのも理由の一つであろう。この作品のテーマとなっているのは、世界を支配する神にはいろいろと計画(プラン)というものがあり、その計画を実行に移すために、秘書的な存在の天使があちこち動き回って操作する、というものだ。さらには、そういう計画に対して人間は無知だし、意志のある動物なので自由でありたい、だから計画にはない方へと進んでいく場合も多々あるんだぞ、といったところだろう。ゴシップ記事の影響で、選挙の敗戦が色濃くなった上院議員候補のデヴィッド・ノリスは、トイレで落ち込んでいた。誰もいるはずのない男性トイレで独り言を漏らすデヴィッドだが、なんとそこには運試しに身を潜めていたエリースがいた。二人は他愛ない会話を交わすが、たちまち惹かれ合う。エリースとの出会いにより、デヴィッドは敗戦会見を無事に乗り越え、しかも後日、一流企業の役員として迎えられることになった。そんな中、人間の運命を操作する運命調整局のエージェントたちが、デヴィッドとエリースが結びつかないように画策するのだった。アジャストメント・ビューローのエージェントたちは、特殊な能力を使い、人間たちの運命を司るのだった。アメリカらしいラブ・ロマンスを感じたのは、やはりラストだろう。デヴィッドとエリースが二人で時空を超えるドアを次々と開けて、追っ手から逃げるという山場なのだが、最後の扉を開けるとニューヨークが一望できる。これはおそらく人間が自分の意志で自由を勝ち取った歓びを表現しているに違いない。(ニューヨーク→自由の女神)そして、愛のためなら神の計画さえ変更させるという意味も含んでいるかもしれない。 ハリウッドらしい自由とラブを尊ぶ作品なのである。2011年公開【監督】ジョージ・ノルフィ【出演】マット・デイモン、エミリー・ブラント
2014.07.24

髪に挿せばかくやくと射る夏の日や王者の花のこがねひぐるま 与謝野晶子※ひぐるま=ひまわり~ひまわりや 人それぞれの 夏の空~■橋本多佳子の向日葵はコチラから■ 北原白秋 の向日葵はコチラから
2014.07.23

向日葵のゆさりともせぬ重たさよ 北原白秋~ひまわりや 人それぞれの 夏の空~■橋本多佳子の向日葵はコチラから
2014.07.22

【ワールド・ウォーZ】『まだ終わりではない。戦いは続く。多くの街を失った。ゾンビ化の原因はまだ不明だ。時間稼ぎはできる。チャンスはある。戦いに道を見つけた者もいる。戦えるなら戦うのだ。お互いに助け合おう。決して油断するな。戦いは始まったばかりだ』暑い夏には、やっぱりコレでしょ!日本に四谷怪談があるのと同様に、ハリウッドにはゾンビがある。公開時期も昨年の8月とのことで、正にこの猛暑を、ゾンビ映画でも見て乗り越えて欲しいという製作者サイドの、優しい思惑(?)が感じられる。その感覚は大当たりだったようで、興行的には成功し、製作費は十分回収できたらしい。ただ、内容の評価に関してはまちまちで、辛辣な批評を下すレビューも多々ある。とはいえ、どんな大作と呼ばれる映画にも、一人や二人難癖をつける評論家もおられるので、好みなんて十人十色。それぞれに意見があり、感想があって良いだろう。 ウィキペディアによれば、この作品を製作するにあたり、かなり現場が混乱したようだ。脚本が別のライターによって何回も手直しされたり、撮影場所をあちこち変更したり、何より、監督とブラピの不仲説なんかもあったようだ。そんな修羅場をくぐり抜けながらも、これだけのゾンビ映画を成功させたのだから、完成度としては合格ラインに決まっている。 ストーリーは、言わなくてもわかるかもしれない。だがあえて、ご紹介しておこう。フィラデルフィアはゾンビの大群に襲われていた。人間を狂暴化させる、謎のウィルスが世界中で流行し、ゾンビに噛まれると12秒後にゾンビ化する状態に陥ってしまった。元国連職員のジェリーは、国連事務次官ティエリーから連絡を受け、家族を安全な場所にかくまってもらうことを条件に、韓国の米軍基地へと出かけることになった。それは、最初にゾンビに関する情報を送って来たのが韓国だったため、ウィルス感染源を特定し、有効なワクチンを作ろうとしたのだ。結局、韓国の基地に着いたとたん、ゾンビに襲われてしまい、優秀な科学者が不慮の死を遂げ、振り出しに戻ってしまった。ジェリーはCIAの元諜報員から、イスラエルではユルゲン・ヴァルムブルンがエルサレムに高い防壁を築いてゾンビの侵入を防いでいるとの情報を得、さっそく韓国からイスラエルに飛び立つことを決意する。 ゾンビ映画の王道とも言える、スタンダードな作りになっている。フツーならB級扱いになってしまうところ、主役はブラピだし、ゾンビは手のこんだ特殊メイクでそれなりに怖いし、うじゃうじゃと山積みされていくゾンビの集団にはCGも施されているため、かなりの完成度を誇っているのだ。監督はマーク・フォースターで、代表作に『007 慰めの報酬』がある。私は個人的にホラーやサスペンスが大好きなので、身を乗り出すようにして楽しませてもらった。ところが、ラスト。この最後の最後に来て、「あれ?」と首を傾げてしまった。WHOの研究施設でジェリーが、保管されている危険性の低いウィルスに自ら感染し、ゾンビを寄せ付けないようにする作戦が見事成功するのだが、その後のゾンビの群れへの反撃がイマイチなのだ。いきなり場面はカナダの難民キャンプに避難していた家族のもとへと帰還を果たすシーンに移る。そこで、ジェリーの独白で終わってしまうというのは、ちょっと違うんじゃないかと思うわけだ。 視覚的なグロテスクさを避け、軽妙なテンポでくり広げられるゾンビたちとの戦いが、中盤までは大成功だったぶんだけ、ラストが萎んでしまった感は拭えない。残念。とはいえ、家族や友人たちと、キャーキャー言いながら楽しむなら充分過ぎるほどの内容だ。夏の定番映画としておすすめです。 2013年公開【監督】マーク・フォースター【出演】ブラッド・ピット
2014.07.21

【北國新聞 時鐘】先日亡(な)くなった富山出身の教育学者(きょういくがくしゃ)、森隆夫(もりたかお)さんが、7年前の本紙・北風抄(きたかぜしょう)に「未来日記(みらいにっき)」の話を書いている。 未来研究会(けんきゅうかい)に一人の老人(ろうじん)が入ってきた。「自分が死んだ後の社会がどうなるか知りたい。それが分からないと死にきれない」というのが入会(にゅうかい)の理由(りゆう)だった。未来は未知(みち)に満(み)ちている。受け身ではなく未来を創造(そうぞう)するため何かをしたい。それが「未来日記」の趣旨(しゅし)だった。 日本の未来はどうか。「死(し)に至(いた)る病(やまい)」との表現が飛び出した。人口減少(じんこうげんしょう)に危機感(ききかん)を持った全国知事会(ぜんこくちじかい)が非常事態宣言(ひじょうじたいせんげん)をまとめた際(さい)の会長の言葉である。もともとは聖書(せいしょ)にある言葉で「死に至る病とは、絶望(ぜつぼう)である」と続く。 人口が減って繁栄(はんえい)した社会はないといわれる。危機感を持つのは当然(とうぜん)であり、気持ちは分かるが「死に至る病」とは穏(おだ)やかではない。宣言は「国家(こっか)の基盤(きばん)を危(あや)うくする重大(じゅうだい)な岐路(きろ)」と言う。進む方向次第(ほうこうしだい)では救(すく)われるのである。 未来は希望(きぼう)に満ちていると無責任(むせきにん)なことは言わない。だが、絶望するほどの国ではない。各自(かくじ)が皆(みな)、未来のために何かできることをやっておこう。安心して次の世に行くためだ。(7月17日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『各自が皆、未来のために何かできることをやっておこう。』少し大げさかもしれないが感動で体が震えた。そして黙示的なものを感じた。まずは映画である。近来稀に見る感銘を受けた『クラウドアトラス』で、そのセリフはいまだ生き生きとして我が凡脳を刺激している。「命は自分のものではない 子宮から墓まで 人は他者とつながる 過去も現在も すべての罪があらゆる善意が 未来を作る」徳薄の身なれど、歴史を貫く思考や思惟、そして縁やらの、何かしらの力を感じないではいられないのだ。次に書物、養老先生の『自分の壁』である。「自分の命は自分のもの、という常識ができてしまった。それがいけない。」養老先生はそう語り「自分以外の存在を認識せよ」と諭している。それは形而下はもちろん、形而上の問題も含まれる。私はそれを「何かしらの力」であると思うのだ。時鐘氏のひとことは私には黙示であった。おそらく全国知事会のお歴々は、人口問題にキルケゴールをかけ、哲学的なオチをつけるほどにシャレてはいないはずだ。いたって真面目な議論の末の、悲愴感にあふれた発表である。だから、ペンは控え目だが、時鐘氏はほえたのだ。「未来は希望に満ちている!」と。時鐘氏は「何かしらの力」を感じているはずだ。そしてまた養老先生の未来も希望に満ちている。養老先生は、「日本人は状況依存なんです。」そう断じ、そして続ける。「それは西欧的な価値観でみると『いいかげん』とか『意見を持っていない』とかいわれるが、日本人って案外しっかりしているんですよ。」つまり、我が民族は状況に応じてしっかり対処するのである、だから我々の未来は希望に満ちている、養老先生はそういっておられるのだと思う。幸いなことに、『一人の老人』と『全国知事会』に養老先生は警句を与える。『自然をみるといい。』このごろ巷で跋扈する輩を象徴し、時鐘氏は『一人の老人』と『全国知事会』とひいたはずだ。方々は時間をたっぷりとお持ちである。さすればゆっくり自然を観察し、自然は自分の思うとおりにならない。(養老先生)と、この真理を学んでほしいと思うのだ。(それにしても「一人の老人」とは、まさにK元首相のためにある言葉ではないか!)最後に、『クラウドアトラス』では時鐘氏のいう「次の世」をこういっている。「死は扉に過ぎません 閉じたとき 次の扉が開く 私にとって天国とは 新しい扉が開くこと」「何かしらの力」を感じつつ、あくまでも謙虚に生きていきたい、そう思った次第である。とりとめもないままに。
2014.07.20

【新田次郎/武田信玄 林の巻】◆父と息子は最高にして最良のライバルか、あるいはその逆か父と息子の関係というものは、今も昔もそれほど大きく変わるものではないようだ。息子は父を、父は息子を、最高にして最良のライバルと見なすこともあれば、あるいはその逆もあり得るわけだ。父は息子に対して、男と生まれたからには自信を持って欲しいと望む。卑屈な人間にはしまいと、誇り高い意識を持つように、若き魂に絶えず語りかけているのかもしれない。戦国の世にあって、信玄とその嫡男である義信の関係も、現代と何ら変わるものではない。~火の巻~では、義信が父・信玄に逆心を抱く場面が重く描かれている。「親の心、子知らず」とは言ったもので、信玄が諄々と戦国の習いの何たるかを息子に説いて聞かせたものの、反って義信は己の考えに固執するのだった。結局、双方の意見が物別れに終わったことで、若き義信は憤まんやるかたなく、傳役を務める飯富兵部に、父・信玄に対する最後の手段を取る旨を伝える。 あとがきによれば、『甲陽軍鑑』には義信の逆心が明るみとなり、座敷牢に監禁され、ついには自害して果てる、という悲劇的な最後になっているとのこと。しかし、著者は別の説にある病死説を取り、義信は病を患って亡くなるという最後に落ち着かせた。 「私が自害説を取らずに病死説を取ったのは、私の史観であって、ここで自害説を取れば、私の中の信玄像は根底からひっくりかえってしまうことになる」 この一文は、新田次郎の信玄に対する並々ならぬ思い入れを感じる。あるいは、息子を持つ父親の苦悩を、著者自身の親子関係と信玄父子を重ね合わせ、何か共鳴するものがあったのかもしれない。 ~火の巻~でもう一つの柱となっているのは、織田信長の上洛のくだりである。桶狭間の戦で今川義元を破ったころは、信長なんて弱小尾張半国の一大名に過ぎなかった。信玄も桶狭間の件は、偶然の勝利ぐらいにしか思っていなかったはずである。ところが信長の躍進は凄まじいものがあった。わずか7年の間に、尾張全域と美濃二国を掌握したのだからスゴイ!一方、信玄はたかだか信濃一国を平定するのに20年も費やしたことを考えると、今さらながら信長の実力を認めざるを得なかった。結局、信長は足利義昭の警固のためという大義名分を掲げ、上洛を果たしてしまう。ここで信玄は、完全に出遅れた形となるのだ。 歴史の何が楽しいかと言えば、やはり思うようには物事が運ばないもどかしさ。実力だけではどうにもならない天の時、地の利、そして人材の有無。それらがいろんなところで作用し、歴史が動いていくのだ。誰かの描いたシナリオ通りにはいかないからこそ、緊張感と野望に時代が波打っているかのような錯覚さえ覚える。 私は『武田信玄』を何度となく読み返しているが、その度に思うのは、もしも信玄があと10年若かったら、信長に出し抜かれることはなかったに違いない、ということだ。また、信玄は万全の健康体ではなかったことが惜しまれる。胸の病を抱えていたせいで、度々陣中にて発熱し、体調を崩した。頃合いを見計らっては志磨の湯に湯治に出かけるのだが、完治には至らない。そう考えると、基本中の基本ではあるが、人は何か大事を成す時、健康でなければならない。ごくごく当たり前のことだけれど、今一度、肝に銘じようではないか。 『武田信玄』~火の巻~ 新田次郎・著武田信玄「風の巻(第一巻)」はコチラ武田信玄「林の巻(第二巻)」はコチラ☆次回(読書案内No.135)は新田次郎の「武田信玄 山の巻」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.07.19

向日葵に天よりあつき光来る 橋本多佳子
2014.07.18

【ワールド・オブ・ライズ】「人間は実に愚かだ。拷問は意味がない。痛みを逃れるためならどんなことでも言う。・・・君も経験があるはずだ。イスラム原理主義者から私は敵視されている。最悪の敵の1人、“ユダヤ人やキリスト教徒を仲間にするな”。」単なるアクション映画ではない、サスペンス・アクションというカテゴリに入るかもしれない。久しぶりに目を背けたくなるような、エグイ作品に向き合うことになってしまった。もちろん、テロの攻防を扱った内容なので、ある程度の非情さ、残忍さは致し方がない。 だが、後味が・・・。グローバリゼーションが叫ばれる昨今、こういう類の作品を観て痛感するのは、異文化を受け入れ、共存することの難しさだ。誰もが戦争を望んでいるわけではなかろう。平和で安全な社会を切望しているはずだ。だが現実には様々な利害が伴い、願望とは裏腹に異文化を攻撃し、淘汰しようとする。 それがどうしようもない人間に科された宿命なのだろうか。CIA工作員のフェリスは、地球規模で起こっているテロ攻撃を阻止するため、テロリストのリーダーを捕まえようと奔走する。一方、フェリスの上司は、現場で命を張って働くフェリスとは対照的に、安穏とした本国アメリカからケータイ一本で命令を下す。内戦の激化する中近東地域を舞台に、正体を明かさないテロリストのリーダーを罠にかけるため、一世一代の“嘘”を展開する。“熱い男”を演じるレオナルド・ディカプリオに対し、“冷めた男”を演じるラッセル・クロウとの対比が、絶妙な効果をかもし出していた。内容は、リドリー・スコット監督お得意の、比較文化の研究・異文化間の軋轢など、見事に表現されていたと思う。監督が『エイリアン』で見せた、気持ちワルイほどのリアリティさはこの作品でも健在で、充実した演出・美術・小道具に脱帽なのだ。世界情勢を大局的に見る必要性からも、向学のためにぜひともおすすめしたい作品だ。 2008年公開【監督】リドリー・スコット【出演】レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウ※リドリー・スコット監督の『エイリアン』はコチラから
2014.07.17

名所に住んでつたなき蛙哉 正岡子規~梅雨空や 人それぞれの 蛙かな~■ 山頭火 の蛙はコチラから■松尾芭蕉の蛙はコチラから■草野心平の蛙はコチラから■西東三鬼の蛙はコチラから
2014.07.16

【あるいは裏切りという名の犬】「なぜ“面会に来るな”と言ったの?」「怖かったんだ」「何が?」「お前の帰っていく後ろ姿を見るのが・・・」 フランス映画というのは、昔から主人公の破滅や、退廃的で暗い作品を得意とする傾向がある。そこには登場人物の支配欲であったり、裏切りが絡み合って、どことなく陰気な雰囲気を隠せない。例えばそういう傾向の強い、日本の代表格で言うと、北野武監督があげられる。仁侠映画とは違い、バイオレンスと欲得が複雑にリンクして、どうしようもない結末が用意されていることが多いのが特徴だ。他にはヒッチコックの一部の作品として、「めまい」などがあげられる。本作「あるいは裏切りという名の犬」は、正にフランス映画の面目躍如とも言える、犯罪映画かもしれない。舞台はフランス。オルフェーヴル河岸36番地のパリ警視庁では、BRIとBRBという二つのグループから組織されていた。そのため、ことあるごとに、BRIとBRBは事件の指揮権のことで対立していたのだ。パリ市内では、現金輸送車強奪事件が頻繁に起きていた。1年半で7件、9人が殺され、200万ユーロが奪われるという大事件になった。犯人逮捕のため、長官はBRIの警視であるレオ・ヴリンクスに指揮を命じる。そして、BRBの警視ドニ・クランは、ヴリンクスの指令の下、その補佐として務めるよう命じられる。だがクランは、ライバルでもあるヴリンクスの下で仕事することに納得がいかなかった。 この作品に登場する主役二人、ダニエル・オートゥイユもジェラール・ドパルデューも、フランスを代表する名俳優である。特に、この作品では悪役を演じたジェラール・ドパルデューは、「シラノ・ド・ベルジュラック」でも世界的に有名になった、一流俳優なのだ。そんな演技派が夢の共演を果たしているのだから、否が応でも絶賛され、フランスでは名誉ある賞を受賞している。ただ日本においてはどうだろう。日本人にとっては、少し感傷的に思える節もあるし、「権力のためならそこまでやるの!?」と、驚く場面も多々ある。勧善懲悪とは趣が違い、現実の世界をシニカルに捉え、フランス流の退廃的で憂鬱なムードを程好く中和させたような、犯罪映画であった。2004年(仏)、2006年(日)公開【監督】オリヴィエ・マルシャル【出演】ダニエル・オートゥイユ、ジェラール・ドパルデュー
2014.07.15

四弘誓願衆生無辺誓願度煩悩無量誓願断法門無尽誓願智仏道無上誓願成衆生は無辺なれども誓って度せんことを願う煩悩は無量なれども誓って断ぜんことを願う法門は無尽なれども誓って知らんことを願う仏道は無上なれども誓って成せんことを願う
2014.07.14

【東京新聞 筆洗】〈そもそも恋をするならば文の二百も三百も 千四五百も遣(や)ってみて それでも叶(かな)はぬものならば ひとりで寝るが ましぢゃもの〉。江戸時代前期の歌人、烏丸光広の小唄という。「千四五百」は大袈裟(おおげさ)だろうが、江戸の人はそれほどたくさんのラブレター、恋文を書いた。効果的な恋文を書くための指南書もかなりの数が出版されていたという。内容も凝っており、天保期に出た「文のはやし」は「最初の附文(つけぶみ)にて返事のおそき時 おいかけて遣(つかわ)す文」「別れし後遣す文」など、状況に応じた、模範文を載せている。『江戸の恋文』(綿抜豊昭著・平凡社新書)に教わった。江戸の人は恋文を頼りにしていた。現代事情は、とんと分からないが、恋文は携帯電話やメール、LINE(ライン)に取って代わられたか。恋文の消える時代にあって最近発見された川端康成が一時期、婚約していた女性にあてた恋文の内容が実に新鮮である。「恋しくつて恋しくつて」「何も手につかない」「夜も眠れない」。飾らぬ文面に若い人は照れるかもしれぬが、そこが恋文の身上。しかも、この一通は投函(とうかん)されていない。青年川端の苦しい胸の内を思うと切ない。研究者には貴重な資料で、この女性がなぜ川端を袖にしたかの謎も解けるかもしれない。お気の毒なのは川端さんの方で、手紙を読まれ、どこかで身もだえしているはずである。(7月10日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~それは違う、そう思った。産経Photoで恋文の大きな画像をダウンロードできたので、ひねもす眺めて暮らした。「青年川端の苦しい胸の内を思うと切ない。」文豪 川端康成はそんなに安っぽくはない。後に別れた恋人をモチーフとして、川端は作品を書き上げている。名作「伊豆の踊子」もそうだ。それが文豪の執念であり、今日、川端を小説家とではなく文豪と称する所以である。恋文を眺め何度も読み返して私は確信した。投函されなかった恋文は、川端は公開されることを前提にそれを綴ったのだ。もしくは、書き上げてからそう段取りを付けたか。いずれにしても、いまこうやって我々は川端の「掌」の中に落ちたわけだ。「恋文」は川端の作品のひとつに他ならないのだ。したがってコラム氏の心配は無用である。「お気の毒なのは川端さんの方で、手紙を読まれ、どこかで身もだえしているはずである。」きっと・・・「掌」の中で踊る後世の我々を見て、身もだえどころか薄ら笑いを浮かべていることであろう。川端は自己を冷徹なまでに客観的に分析し、それを作品に仕上げ自身の美を表現した。だがそれは川端の心の奥底の部分であり、意図して厚いひだで二重三重に覆われているのだ。常人が容易にうかがい知ることなどできるはずはないのだ。おそらくコラム氏は、青春時代を振り返り自身の失恋経験をもって、文豪の心の奥底を推察されたのであろうが、それは恐れ多いというものだ。ちなみに川端は恋愛の不結果について、それを語るくらいなら死んだ方がまし、と言っている。ということで、「研究者には貴重な資料で、この女性がなぜ川端を袖にしたかの謎も解けるかもしれない。」アレコレ詮索するのは野暮でしょう。冒頭の小唄同様に、読書も「百遍義自ずから見る」というではないか。まずは恋文に浸ってほしい。抗わずに、素直に受け入れてほしい、そう思う次第である。それにしても、川端にしろ谷崎にしろ、昭和には大文豪がいたわけだ。すでに「文豪」という言葉が死語となった昨今の文壇を思うと、隔世の感を禁じ得ないのである。恋しくつて 昭和は遠く なりにけり
2014.07.13

【新田次郎/武田信玄 林の巻】◆宿命のライバル、信玄と謙信が川中島にて決戦現代はとりわけ合理的なものの見方、考え方が尊重される。いかに無駄をなくすか。一分一秒の短縮が成功へのカギとなっている世の中である。何事にも優先されるのは、スピーディーであること。プロセスはショートカットされ、結果ありきの現実。しかし現代人は、そのおかげで多大なる恩恵に預かっているのだから文句は言えまい。戦国の世にあって、一国をおさめる主ともなれば、その感覚は過去も現在も変わりはない。その証拠に武田信玄も、時間には大変うるさかった。たとえ愛妾と同衾中であったも、使者衆が駆け付けた際には、必ず知らせねばならないことになっていたとのこと。『情報』というものに、いかに敏感であったかがよく分かる。著者は、信玄を次のように捉えている。 「晴信(信玄)は勝れた戦術家であったが、その根底に、時間に対する徹底的な尊重感があった。時間を失うことが国を失うことになるというのが彼の哲学であった」 さすがに名将・信玄である。時間だけは、人の力ではどうにもできないことを知っていたのだ。 さて「林の巻」では、甲斐の国主となった晴信の愛妾であり、諏訪頼重の息女でもある湖衣姫が、労咳のため亡くなる。さらには、同盟国である駿河の今川義元が上洛の軍を発すものの、桶狭間の戦にて信長に敗れてしまう。後半においては、いよいよ越軍の長尾景虎(後の上杉謙信)と川中島の決戦に臨む。一冊の中に山場となるくだりが、これでもかこれでもかと押し寄せて来るため、まるで飽きない。 「林の巻」のあらすじはこうだ。晴信の目下の気がかりは、越後の長尾景虎であった。山本勘助の情報によれば、佐渡の金山を握った以上、景虎の国力は今や日ノ本一ではないかとのこと。そして、必ずや信濃に侵略して来るという予想だった。晴信はそれを絶対阻止せねばならない。なぜなら、晴信の意志こそ、甲信の平定であり、京の都を望むことだったからだ。長尾景虎は、朝廷から関東管領職の内命を受けていた。鶴ケ岡八幡宮にて上杉家の家督を相続することを誓い、ここに上杉政虎が誕生する。そんな政虎が一万三千を率いて、いよいよ春日山城を進発した。一方、信玄も古府中を出発した。越軍の本隊は異常な速さで善光寺に集結していた。信玄は慌てた。向かうは川中島である。夜を日についで川中島へ急がねばならない。こうして合戦の火ぶたが切られようとしていた。 巻末に寄せられたあとがきに、面白いエピソードが載せられていた。新田次郎がこの『武田信玄』を連載し始めてまもなく、「早く川中島合戦を書いてくれ」という読者の要望があったそうな。じっくりと史実に基づき、ペンを進めている著者にとっては迷惑な話だったかもしれないが、一読者としてその気持ちはよく分かる。私も川中島の戦を早く読みたいクチだったからだ。川中島の、辺り一面に霧が立ち込める場面なんて、ワクワクする。霧の向こうから粛々と敵が迫って来るような緊張感が、なんともたまらないのだ。この霧を上手に利用することで勝負が決まるのだから、甲軍も越軍も気象の変化に関する情報には物凄い力の入れようだったと思われる。ちなみに著者・新田次郎は、元気象庁職員なので、この川中島の霧についてはずいぶんと心を砕いたのではなかろうか。 宿命のライバルでもある信玄と謙信が、川中島にて対峙するくだりは、誰が読んでも胸が躍るし臨場感に溢れていて申し分ない。勝敗は、前半・越軍優勢、後半・甲軍の巻き返しだ。さて、皆さんはどちらに軍配をあげるでしょうか? 『武田信玄』新田次郎・著 [吉川英治文学賞受賞作品]武田信玄「風の巻(第一巻)」はコチラ☆次回(読書案内No.134)は新田次郎の「武田信玄 火の巻(第三巻)」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.07.12

石段の一筋長き茂りかな 夏目漱石※漱石の未発表の俳句コチラ
2014.07.11

【クラウドアトラス】『あらゆる垣根は幻想だ。必ず超越できる。乗り越えようと思う者には越えられるはずだ。今、この瞬間、君の鼓動を間近に感じる。僕らの距離も幻想なんだ。僕の魂は、時空を遥かに超える』『クラウドアトラス』は、上映時間3時間という長大作である。6つの異なる時代に生きる人々を描いた作品で、テンポの良い場面切り替えのおかげか、だらけるということはなかった。近未来の描写の仕方や絵面みたいなものが、どうも『マトリックス』に似ているなぁと漠然とした感想を持ったのだが、監督の名前を見て納得した。ウォンシャウスキー姉弟だった。そして残るもう一人の監督は、『パフューム~ある人殺しの物語~』を手掛けた、トム・ティクヴァである。つまり、3人の監督が6つの物語をそれぞれ分担してメガホンを取ったようだ。 この作品は、東洋の輪廻をテーマに扱ったものだが、どういうわけか、東洋人の意図する輪廻転生とは少し違う解釈のようだった。だがそれはそれで充分納得のできる捉え方だと思った。6つの異なる時代が何かしらリンクしているのかと思いつつ見ていると、実はそうではなく、ちゃんと一つのストーリーとして完結している。次世代につながっていくものではないのだ。例えばトム・ハンクスが演じるキャラクターは、ある時代においては悪党であり、別の時代においては勇者である。その一人の人物が生まれ変わりではないのだとすれば合点もいくが、生きとし生けるものが常に輪を描くように循環している、という東洋思想とはちょっと違う感覚に、新鮮味さえ覚えた。 ストーリーは次のとおり。年老いたザックリーが、幼い子どもたちに昔話を聞かせるところから始まる。ザックリーは、異なる時代に生きた“自分”の物語を話して聞かせたのだ。1849年の太平洋諸島、弁護士のユーイングは奴隷売買の契約を終え、アメリカへの帰路についた。その際、船にはたくさんの金貨が積まれていて、その箱のカギをユーイングは大切に首からぶらさげていた。ところが金の盲者である医師のグースは、ユーイングの持ち物を片っ端から奪おうと、毒を盛って殺そうとする。1936年、ユーイングの航海日記を愛読する若き音楽家フロビシャーは、同性の恋人・シックススミスのもとを離れ、スコットランドの大作曲家であるエアズの家へ身を寄せる。そこでフロビシャーは、採譜者を務めるのだった。1973年、すでにこの世の人ではないフロビシャーを、人知れず胸に秘めるシックススミスは、物理学者となっていた。シックススミスはフロビシャーから届いた手紙を大事に持ち歩き、飽くことなく読んでいた。そんな中、エレベーターで偶然知り合ったジャーナリストのルイサ・レイに、原発事故を引き起こし、石油企業の利権を守ろうとするフックスを告発するための報告書を託そうとする。ところがその勇気と正義も虚しく、資料をルイサに手渡す直前に、ホテルの一室にてシックススミスは殺害されてしまうのだった。 私が注目したのは、E.M.フォースター原作『モーリス』を彷彿とさせるような、フロビシャーとシックススミスの禁断の恋だ。きっと世の女子たちは、フロビシャー役のベン・ウィショーとシックススミス役のジェームズ・ダーシーにキャーキャーと黄色い声をあげるのではなかろうか?2144年の近未来の物語は、ハリウッドの総力をあげての特殊メイクとCGで、視聴者に圧倒的な臨場感を堪能させてくれる。内容は教訓的なものながら、見終わった後の満足感はこの上もない。長時間作品なので、時間に拘束されることに抵抗のある人は、日を分けて鑑賞しても良いだろう。一見の価値ある作品だ。 2012年(米)、2013年(日)公開【監督】ウォシャウスキー(姉、弟)、トム・ティクヴァ【出演】トム・ハンクス、ハル・ベリー
2014.07.10

蛙蛙独りぼつちの子と我れと 山頭火~梅雨空や 人それぞれの 蛙かな~■松尾芭蕉の蛙はコチラから■草野心平の蛙はコチラから■西東三鬼の蛙はコチラから
2014.07.09

提灯にさはりて消ゆる春の雪 谷崎潤一郎戦時中、谷崎の「細雪」は中央公論の掲載禁止を余儀なくされた。戦況より何より「細雪」の行く先を気に病む谷崎であり、その心境を吐露した一句がこのほど見つかったという。谷崎が自費制作した私家版「細雪」の表紙の見返しに、そのハガキは貼られていた。なお、実物は今日から奈良で始まる展示『谷崎潤一郎・耽美の世界~肉筆と稀覯本を中心に~』で公開される。
2014.07.08

【北國新聞 時鐘】落語(らくご)の人間国宝(にんげんこくほう)、桂米朝(かつらべいちょう)さんのロボットを見たことがある。師匠(ししょう)そっくりの「しゃべる人形(にんぎょう)」といえば身(み)も蓋(ふた)もないが「米朝アンドロイド」は少々(しょうしょう)不気味(ぶきみ)だった。 アンドロイドとは人間型(にんげんがた)ロボットのこと。ロボットでも人形でも人に似(に)せると親(した)しみがわく。ところが、似すぎるとある時点(じてん)から怖(こわ)くなる。これを「不気味の谷(たに)」という。ロボットと人間の間には深(ふか)い谷があるということだろうか。 女の子と成人女性(せいじんじょせい)にそっくりなロボット「コドモロイド」と「オトナロイド」が話題(わだい)になっている。「米朝さん」と同じ研究者(けんきゅうしゃ)が開発(かいはつ)したロボットで、人工知能(じんこうちのう)で話もできる美人(びじん)だが、暗(くら)やみの中で対面(たいめん)したらかなり不気味だろう。 人間型ロボットより怖いのは「ロボット型人間」である。言(い)われた通(とお)りのことしかしない。自分で善悪(ぜんあく)の判断(はんだん)ができない。探(さが)せば周(まわ)りにいくらでもいる。「ロボット兵器(へいき)」も現実(げんじつ)になった。SFではコンピューターが土壇場(どたんば)で反乱(はんらん)を起(お)こす有名な映画(えいが)もある。 近い将来(しょうらい)、人間がコントロールできない人工知能が登場しないとはだれが断言(だんげん)できよう。ロボット開発の話は楽しいが「オチ」が怖い。(6月30日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~うまいなぁ~。流れるような文脈に身をゆだね、当意即妙の結びに思わず膝を打った。「座布団一枚!」とはいえ、よくよく考えるに『ロボット型人間』や『人間がコントロールできない人工知能』よりも、もっと怖いことがあるのな気がしてならない。そしてそれは既に我々の社会を蝕みつつあるのだが・・・この「時鐘」の起承転結を、特に結びの「オチ」を理解できた方(唸ったり膝を打ったりという程度)は、実はそう多くはないのではないか。そう思えてならないし、合わせてその割合は今後急速に増えると思うのだ。だがしかし、それが現実的に何か問題なのかと言われるとそうでもない。不要な感覚は「時代」のうねりに淘汰されていくわけだ。そういう類の問題であろう。まあ憂いたところで人の疝気を頭痛に病むといわれるのが関の山であろう。そうはいってもここはオチではない。ときに米朝師匠。噺のまくらで橘家圓喬(たちばなや えんきょう)の名演について語っている。演目は「鰍沢(かじかざわ)」、真冬の話である。かの圓喬はそれを真夏の高座にかけた。クーラーなどない時代、寄席はうだるような暑さの中で客は袖をまくり襟を開き、汗だくになりながら扇子や団扇をつかっていた。しかし噺の佳境で圓喬が鰍沢の急流を語ると、寒気を催した客は扇ぐ手を止め、袖と襟をもどしたという。おまけに顔の汗も消えていた。そういう名演であったという。蛇足までに、志ん生師も著書「びんぼう自慢」で同じようなことを語っている。蒸し暑くなるこれから、そんな経験をしてみたいものだが、圓喬のような名人はもういない。残念ながら我が志ん生師も「鰍沢」は残しているが、何度聞いても寒気は催さない。さて、噺の方。オチは『お材木(お題目)で助かった』である。何事も最後が肝心、そういうことか。ではこのへんで。
2014.07.07

あぢさゐやすだれのすそをぬらす雨 久保田万太郎なんともオツな一句である。こういう句を詠ませたら万太郎センセイの面目躍如だ。やくざな生き方も無駄ではない。演歌に歌う「芸のためなら女房も泣かす」といったところか。とはいえ幅が広いのも万太郎センセイの特徴なのだ。こんな紫陽花も詠んでおられる。あぢさゐやなぜか悲しきこの命縁側に寝ころびながら紫陽花を眺める万太郎センセイを想像するに難くはない。チビチビ飲みながら詠んだことであろう。センセイの紫陽花句は他にもあり。●あぢさゐの いろ濃きうすき 宿世かな●あぢさゐの 藍のやうやく 濃かりけり●あぢさゐの 咲きのこりたる 木の間かなひとしきり句を受け止め、思い立ったように出かける万太郎センセイである。もちろん行く先は「傾城」であろう。『紫陽花、其ノ壱』はコチラから『紫陽花、其ノ弐』はコチラから追記:『紫陽花、其ノ壱』では子規の俳句で紫陽花の妖艶なるを見た。後日、その句に「傾城賛」と前書きがあることを知った。「傾城」とは是、花の吉原である。紫陽花も妖艶になるというわけだ。おおいに合点。それにしても正岡子規という御仁はアチラの方でも大活躍である。曰く「英雄色を好む」なり。英雄子規の傾城武勇伝についてはコチラをご覧くだされたし。
2014.07.06

【新田次郎/武田信玄 風の巻】◆卑劣極まりない父の所業に、息子晴信が決断するNHK大河ドラマで『武田信玄』が放送されたのは、もう30年ぐらい昔のことである。信玄役として中井貴一が抜擢されたことで、世間の大河ファンから賛否両論が巻き起こったのだった。「中井貴一が信玄役を演じるには、ちょっと線が細すぎる」というような意見が多かったように思える。(亡き母が週刊誌を熟読していた関係で、そのような話題にはいつも事欠かなかった。)結局、今となってみれば、優秀な演出家による指導と、中井貴一ご本人による努力によって、気品のある武田信玄として何ら問題のない仕上がりだったように思えるが。 さてこの『武田信玄』は、新田次郎によるものである。新田次郎と言えば、『八甲田山』などの山岳小説を多々発表している作家として有名だ。そんな中、なぜ歴史上の人物を中心とした小説を書こうと思ったのであろうか?それはどうやら、著者の出生地が長野県諏訪であることに関係しているようだ。「先祖は代々諏訪家に仕えていた郷士である」とあとがきにあるが、その諏訪家というのは、なんと武田信玄によって亡ぼされている。おそらく、そういうことに因縁めいたものを感じ、信玄についてもっと詳細を知りたいと思うようになったのかもしれない。そして「調べ回るのはたいへん楽しかった」と語っていて、著者のこれまでにない有意義なライフワークとなったことがうかがえる。 そんな『武田信玄』~風の巻~のあらすじはこうだ。甲斐の国をおさめていた武田信虎は、長男の晴信(後の信玄)を憎み、次男の信繁を盲愛していた。最近の信虎の行為は、いよいよ常軌を逸しており、すでに元服して3年にもなる晴信を軍議にも参加させず、ことあるたびに「臆病者め」と口汚く罵った。ある時、晴信が家臣らとともに馬を走らせていると、土下座した郷民が死を覚悟して直訴して来た。内容は、父・信虎の所業についてだった。郷民が言うには、信虎はこともあろうに、村の妊婦を捕まえて腹を裂き、胎児をあらためたりするとのこと。初めて父の卑劣な行為を聞かされた晴信は、驚きのあまり返す言葉もなく、躑躅が崎の館に帰るのだった。その後、側近である板垣信方の画策により、晴信はいよいよ父を甲斐の国から追放することにする。信虎は駿河の今川義元の領地へ、引き渡されることとなった。 風の巻では、晴信の父・信虎を今川家へ追放する場面、そして諏訪家を亡ぼすくだりまでが山場となっている。後に織田信長が比叡山を焼き討ちする行為も革命的なことながら、この武田信玄が諏訪家を手にかけるというのもスゴイことなのだ。というのも、諏訪頼重を筆頭とする諏訪は、神氏の出と言われ、単なる武家とは一線を画し、格式の高い地位にあった。そこに攻め入るというのは、当時としてはよほどの自信と尊厳と執着がなければ、成し得なかったに違いない。 一方、『甲陽軍鑑』に登場する軍師・山本勘助は、著者が調べたところ、実在の人物ではあるものの、「軍師ではなかったことは確実と見てよいだろう」とのこと。しかし、だからと言って山本勘助の名を無視した史実中心にしてしまうと、何とも味気ない歴史小説になってしまう。そこで勘助を軍師ではなく軍使として、つまり平たく言ってしまうとCIAのようなスパイとして登場させている。これが見事に成功しており、作品を盛り上げるのに一役かっている。 私は思うのだが、新田次郎は、実はこういう小説を書きたかったのではなかろうか?嬉々としてペンを運ぶ著者の姿が、目に浮かぶような情熱と活気にあふれた一冊であった。 『武田信玄』~風の巻~ 新田次郎・著 [吉川英治文学賞受賞作品]☆次回(読書案内No.133)は新田次郎の「武田信玄 林の巻(第二巻)」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.07.05

古池や蛙飛びこむ水のおと 松尾芭蕉
2014.07.04

【長崎新聞 水や空】~閣議決定~諫(いさ)める声も反対の叫びも安倍晋三首相には届かなかった。この国が守り続けた非戦の憲法が、別物に読み変えられようとしている。だが、こんな日だからこそ「そうは問屋が・・・」と強がってみる。 集団的自衛権の行使容認を決めた1日の閣議決定を支えている「行政府による解釈改憲の正当性」も、その先の「憲法解釈上許容される自衛権の概念」も、出発点は"安倍流"の憲法観だ。多くの憲法学者が厳しく批判している。だから、国会議員の皆さん、気付いてほしい。これから始まる「関係法制の整備」は、違憲立法のオンパレードかもしれない、と。その片棒を担いではならない。 これを認めたら立憲主義は骨抜きだ、それでは憲法にならぬ、と首相の論法にあきれている裁判官の人数は10人や20人ではあるまい。ならば、心積もりを始めてほしい。もし、その時が来たら、一分のすきもない違憲判決を書いてみせるために。 安倍首相はわが道を思うままに走った。でも、暴挙は暴挙、暴走は暴走だ。それを許さないために、立法権と司法権は別の機関が握っている。 向こう数カ月か数年か。問われるのはこの国の「三権分立」の真価だ。どの教科書にも太字で載っている大切な語句。それほどやわな代物であるはずがない、と信じる。(智)(7月2日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~25.369人30.035人10.182人46.701人29.122人11.926人合計153.335人この人数は何であるか。もちろんデモの参加者ではない。上からマツダスタジアム、倉敷球場、金沢球場、東京ドーム、京セラドーム、西武ドームの同日のナイター入場者数である。そしてまた、京都の上七軒の歌舞練場では芸妓や舞妓が客をもてなす恒例のビアガーデンがオープンし、予約で満席になったという。加えて大阪では道頓堀川万灯祭があり、酔客でおおいに賑わったという。これが実態ではないだろうか。だから国民の声と言われてもピンとこないし、何より当方は『諫める声』を出す気などもうとうない。7月2日付の朝刊コラムは、長崎新聞に限らずそのほとんどが怒り心頭を激烈な文章で綴っていたが、なんとも不平不満の嵐に思え、アプリの「たてコラム」を閉じたときは胸が悪くなっていた。駒沢大学の西修先生が先日の「正論」でこう喝破された。特定の方向に傾きすぎた大仰な報道は、一般にプロパガンダと称される。私は身を持って感得した。胸を悪くした原因は「プロパガンダ」である。なお西先生は結びでこう『諫め』ている。新聞の矜恃として、少なくとも事実の報道だけは心がけてほしいものだ。蛇足まで、『諫める』を検索するとこうあった。1.主に目上の人に対して、その過ちや悪い点を指摘し、改めるように忠告する。諫言(かんげん)する。「主君の愚行を―・める」2.いましめる。禁止する。ところで「徳島新聞 鳴潮」にはこうあった。『最近の世論調査では行使容認に約58%が反対し、賛成は約30%にとどまっている。』数字の出し方を産経新聞の五嶋氏が解説した。『産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)の合同世論調査で、集団的自衛権行使を全面的に容認する回答が11.1%、必要最小限度の行使を認める回答が52.6%という結果が出ました。安倍政権は限定容認論の立場をとっているので、この2つの回答を合わせた63.7%が今回の与党の方針に賛成しているとみていいでしょう。一方、他紙をみると、単純に賛成か反対かの二者択一で問うている調査があり、「反対」が多いという結果が出ています。しかし、これでは集団的自衛権をあらゆる場面で行使することに反対なのか、きわめて限定的な行使にすら反対なのかあいまいです。本当の世論を浮き彫りにするためには、きめ細かな選択肢の提示が必要なのです。恣意(しい)的な調査結果を導き出さないよう選択肢づくりには工夫が欠かせません。』いやはや、てんこ盛りの大さじ加減ということだ。もうこうなると何が何だかわからない。ときに我が父(齢八十六)はかつて新聞人であった。テレビの報道で、デモを見てこうつぶやいた。「サッカーの応援した人たちが場所をかえたようなもんだ」我が父ながらうまいことをいうものよと感心していると、さらに続けた。「あの音は法華の太鼓か?それにしては題目が違うな。」感服した。老父、まだまだ認知症の心配はなさそうだ。そしてサッカーといえば、我が贔屓のコラム「北國新聞 時鐘」は、サッカーを引いた大人の文章が光った。以下、「時鐘」である。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~一年の半分が過(す)ぎた。サッカーの試合でいえば、後半戦(こうはんせん)突入(とつにゅう)である。 立ち上がりに気を緩(ゆる)めると、痛(いた)い目にあう。ガンガン攻(せ)め続(つづ)けると、スタミナ切れとなる。W杯のテレビ観戦(かんせん)で、いろんなことを知る。わが一年の後半戦も、まだまだいける、という心構(こころがま)えを強く持って折(お)り返(かえ)したい。 前後半の戦いで決着(けっちゃく)がつかなければ、疲(つか)れた体にムチ打つ延長戦(えんちょうせん)。それでもラチがあかなければ、心臓(しんぞう)がひっくり返りそうなPK戦。W杯は、過酷(かこく)な戦いに入っている。除夜(じょや)の鐘(かね)が鳴(な)れば、ともかく幕切(まくぎ)れとなる一年の歩みは、まだまだ気が楽なようにも思えてくる。 折り返し点で振り返ると、半年の速さをしみじみ思う。サッカーでも、白熱(はくねつ)した試合は時間の長さを感じさせない。あっという間に一年の半分が過ぎたのなら、まずまずの時間だったのか。そう都合(つごう)よく考えて、前半を締(し)めくくるのも悪くはない。 眠い目をこすってのテレビ観戦で、あらためて知った。後半戦には大概(たいがい)、「まさか」のドラマが潜(ひそ)んでいる。お楽しみはこれから。正念場(しょうねんば)もやってくる。そんな心掛(こころが)けを頼(たの)みの杖(つえ)として、歩み出すことにしますか。(7月2日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~新聞のコラムは一服の清涼剤である。その事をおおいに感じさせてくれた7月2日であった。「お楽しみはこれから」である。でも「正念場もやってくる」、その事を忘れずに私も「歩み出すことに」したいと思う。当方、諫言する気などもうとうないが、他紙には「時鐘」のような謙虚な気持ちをもってほしい。そしてできれば、コラム執筆者はそれなりの大人にお願いしたい、そう思う次第である。
2014.07.03

虻鳴いて南瓜の花落ちにけり 正岡子規花よりも実が気になりし南瓜なり 吟遊映人
2014.07.02

てふてふちらちら風に乗つた来た 山頭火
2014.07.01
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