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【どんな仕事にも意味があり価値がある】戦後間もない頃、上野動物園に就職したN少年のお話です。彼は、動物が大好きで動物の世話ができる仕事につきたいと願っていました。そして、夢が叶いとても嬉しく思っていました。ところが、N少年が指示された仕事は人間用のトイレ掃除でした。動物園は広く、10か所はあったそうです。毎日、毎日トイレ掃除の繰り返しが続きました。一日として動物の世話をすることなく、朝からずーっとトイレ掃除。さすがに彼は嫌になりはじめ、「飼育員になれないなら、辞めてしまおう」と思っていました。ある日、トイレ掃除を終えて次の場所に移動していたところ、一人の老人がこちらに向かってきていました。道は一つしかありません。彼は老人とすれ違うのが恥ずかしくて、バケツとモップをもったままトイレに戻って隠れました。しばらくして、用を足した老人が手を洗い手を拭いていた時、ポツリと言いました。「まあ、まあ、まあ、きれいに掃除してある。気持ちがいい」と、言って出て行きました。隠れていた、N少年は衝撃を受けました。いやだ、いやだ、とばかり思ってしていたトイレ掃除の仕事でも、あの人は喜んできれいで気持ちがいいと言ってくれた。彼はこの時、初めてトイレ掃除に誇りを持つことができたのです。以来、気持ちをこめてトイレ掃除に取り組んでいきました。こうして、飼育員としての道が開けていきました。後に、別の大きな動物園の園長となったNさん。「もしあの時、あの老人の一言がなければ、自分は動物園を辞めたかも しれない。そうすれば、今日の私はありませんでした。そう考えると 見ず知らずのあの日のあの老人は、私の終生の恩人です」Nさんは、この経験を、部下の職員にも話し、「仕事とは何か」ということを指導していったそうです。________________________________________●仕事が好きになる格言 すばらしい仕事をするには、 自分のやっていることを 好きにならなくてはいけない (スティーブ・ジョブズ) いかにいい仕事をしたかよりも どれだけ心を込めたかです (マザー・テレサ) 仕事には その人の向き不向きがあります でも、大切なのは与えられた仕事には 前向きに取り組むべきです (作者不詳)
2015年01月31日
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【夢を実現して、子供たちに夢を与えた人】ディズニーランドの生みの親、ウォルト・ディズニーのお話です。1901年、彼はシカゴの貧しい農家に生まれました。幼年の頃から絵が好きでした。少年時代、友達から「ゼリー工場にいい仕事があるぞ。金になるから行かないか?」と誘われますが、「工場で働くつもりはない。僕はアーティストになるんだから」とあっさり断っています。仕事をいくつも変わりながら、アートスクールで絵を勉強し22歳でアニメーション(アニメ)の制作会社を作ります。ハリウッドもまだ今とは違い、アニメには関心もない時代でした。ディズニー26才の時、「しあわせウサギのオズワルド」を制作し全米に配給されます。結果は大成功でした。ところが、この作品に著作権の設定をしていなかったため、親会社に著作権と社員のアニメーターを奪われてしまうことになるのです。彼は絶望の谷底に落とされてしまいました。しかし、ディズニーは夢をあきらめませんでした。考えに、考えて「ミッキー」を主人公としたアニメ「飛行機クレージー」と「蒸気船ウィリー号」を制作発表。なんとこの作品が当たりました。彼の「ミッキー」はすさまじい勢いで人気キャラクターとなりました。親会社から受けた仕打ちで、味わった悔しさと苦しみをバネにして、自分の夢を実現させたのでした。アニメーターという夢をめざして、その夢を実現させたディズニーは世界中の子どもたちに夢を与えています。●ウォルト・ディズニーの言葉 〇夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は実現できる。 いつだって忘れないでほしい。 すべて一匹のねずみから始まったということを。 〇逆境の中で咲く花は、どの花よりも貴重で美しい。 〇過去の出来事に傷つけられることもあるだろう。でも私が思うに そこから逃げ出すこともできるが、そこから学ぶこともできる。 〇われわれの一番の資源は、子どもの心である。
2015年01月30日
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【希望があれば困難もバネになる】ある女性演歌歌手のお話です。歌のうまい彼女は18歳でデビューしますが、この世界は厳しくなかなか売れません。何回かの挫折を味わい、22歳で再びデビューすることになりました。再起を願って「100日スナックキャンペーン」を行い、来る日も来る日も新曲のレコードと、サイン入りの色紙をもって、スナックを回り歌い続けます。歌う一曲、一曲に思いを込めて歌っていきました。あるスナックでの出来事です。「レコード買ってください!」とお願いすると、少し酔っている一人の男性客が「よし、一枚買ってやろう!」と言ってくれます。彼女は嬉しくて、「ありがとうございます!」と言いレコードと色紙を渡しました。ところが酔っていた客は、手にした色紙を「こんなものはいらない!」と破り捨てたのでした。彼女はちぎれた色紙を拾いながら、歌い続けました。歌が終わりトイレに駆け込みました。涙をおさえることができなかったのです。いくら客とはいえ、この侮辱に彼女は泣いて耐えたのでした。この時のことを後日こう語っています。「でもね、泣いたあとすぐに思い直したのです。色紙がほしい、と 言われるような歌手になってやるって。この経験があったから貧しい 生活にも耐え、今の私があります。今はその酔ったお客様に感謝して います」と。『侮辱も、失敗もいつか必ず成功のバネにしてみせる』と考えました。大ヒット曲「ふたり酒」の歌手、川中美幸さんです。________________________________________私たちは生きていく中で、順風満帆ではないときもあります。逆境があり、何をやっても失敗ばかりの時期もありますが、そんな時どういう考えを持つかによって、行く道が大きく左右されます。夢や希望、目標があると強くなれるのが人間なんだと、思わせてくれる話です。
2015年01月29日
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【カーネル・サンダースに学ぶこと】 ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)の創業者、カーネル・サンダースのお話です。「カーネルおじさん」とも呼ばれています。カーネルは6才の時に父親を亡くします。10才になると農場で働きに出ます。彼の学歴は6年生の終了証だけです。その後、独学で勉強しながら市電の車掌、機関士、保険外交員、タイヤのセールスマンなど40種の仕事を経験。30代の後半にガソリンスタンドを開業して独立します。40才の時、6席のレストラン「サンダース・カフェ」をスタンドの隅に作りました。この時に作った、フライドチキンが評判になり、繁盛しますが息子を亡くします。また火災で店を消失し経営を維持できなくなります。残ったのはフライドチキンの調理方法だけでした。所持金は0。この時65才です。フライドチキンをワゴン車に積んで売り歩くという日々が続きますが、だんだんと知名度が広がりはじめていきます。すると、フライドチキンのレシピを売ってもらえないか?という話が出てきました。カーネルはこの時、レシピを教える代わりに歩合をもらう、というアイデアを考えつきます。売れたチキン1羽に5セントを受けるというフランチャイズの事業が始まったのでした。ワゴン車で各地を回ります。寝るのは車の後部座席。飛び込み営業して「NO!」と断られた回数、1009回だそうです。70才を過ぎたころには、KFCのチェーン店は600となりアメリカで最大の規模に成長していました。今では、世界で80か国、1万店舗を越えています。6才で父親を亡くした時、母を助けるために料理をはじめますが、弟妹と母のために焼いたパンが、「とても美味しい!」みんなから喜んでもらえたことが大変嬉しかったそうです。その時のことが、カーネルは忘れられないと語っています。自分の作った料理で人が幸せになるのなら・・・という精神が今のKFCを作り上げたのです。◎カーネル・サンダースの言葉 『人生は自分でつくるもの 遅いということはない』 『できることはやれ やるなら最善を尽くせ』
2015年01月28日
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【僕が生きている意味】◎岩見次郎さんという方の詩です。 ぼくの名は岩見次郎17才 身長115cm 体重14キロ ぼくは話すことができない ぼくは歩けない 食べたい物を食べれない 言いたいことも言えない したい事もできない 行きたい所へもいけない ぼくは人の手をかりて生きている ぼくにはまったく自由がない ぼくは生まれるとき へその緒が首にまき付いて 仮死状態になった 脳性マヒの重度障害になった ぼくの弟も生まれてすぐに重度障害になった 母は3人で死ぬことを考えていた 生きていても迷惑ばかりかけているぼくは死んでもいいと思った 弟は8才で死んだ ぼくは何のために生まれてきたんだろう 生きていく意味があるのだろうか 9才になって交流という形で小学校へ行けるようになった にぎやかな声を聞くのが楽しかった 優しく声をかけてくれるのが嬉しかった マラソン キックベースボール等何でもした 身体が動かないぼくのために交代でバギーを押して走ったり キックベースボールは蹴った後10秒数えて ボールをとるルールを作ったり みんなでどうすれば ぼくが参加できるかを考えてくれた ぼくは以前よりたくさん笑顔を作れるようになった 多くの人にぼくを見てもらうことだ ぼくを見てください 自分の手を使って物を食べられないぼくを見てください 食べたい物 飲みたい物を自由に口に運べる喜びを感じてください しゃべれないぼくを見て 自分の気持ちを自由に伝えられる言葉を 持っていることに気付いてください 動けないぼくを見て 走り回れる足を持っていることを知ってください 骨と皮のぼく よだれをいつも流しているぼくを見て 普通の体を持っている喜びを感じてください ぼくの存在で みんなが普通に生きていられる 幸せを感じてくれれば ぼくは嬉しい (参考文献:2004年6月9日 西日本新聞 夕刊)________________________________________岩見さんは、たくさんの人たちに生きる喜びを与えてくれています。この詩(うた)から、私が学ぶことは何かを考えてみたいと思います。
2015年01月27日
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【定年退職はスタート地点】Yさんは今65歳。58歳の時、2年後の退職後のことを考えた。まだまだやれる、と思ってはいる・・・・・。学生時代に法学部に在籍はしていたが、学園紛争で思うように勉強ができなかったことを思い出し、「法科大学院でもう一度勉強したい」と思い腹を決めた。それから2年の間、休日には時間を惜しんで机にむかった。60歳で退職後、京都大法科大学院に合格者160人中28番で入学となった。教室は50名ほどの学生で埋まり、多くは20代の若者ばかり。きびしい環境だった。60代の学生Yさんに年下の教授の指導は厳しい。1時間半の授業には3~8時間の予習が必要。事前に出された問題には「予習で何を調べた」「どの判例をみたんだ」と追求された。午前3時。予習が終わらない。進まない予習に悔し涙がおちる。1学期で体重は7キロ減った。他の学生はなぜ、答えられるのだろう?女子学生に聞いてみた。答えは「ツイッター」にあった。『この問題、難しい』『どこを調べればいいの』という情報交換が盛んに行われていたのだ。Yさんは40歳下の友人を作っていった。若者の好きな情報にもあえてツイッターに書き込んでいく。1回目の司法試験を受けた。不合格。さらに厳しい受験生活が続く。食事以外は机を離れない。腰が痛みだして座れなくなっていた。2回目の司法試験では、痛み止めの注射をして臨み、合格をつかんだ。今は司法修習生として裁判の流れを学んでいる。次の試験に受かれば弁護士の資格が取得できるが、就職できるとは限らない。退職金を学費に投入しているから、将来の不安も拭いきれないが「いつか高齢者の問題に詳しい弁護士になる」ことを目指している。まわりは「何をいまさら」と心配するが、夢はあきらめない、と自分の道を進んでいる。________________________________________●人生に定年はありませんね。死ぬまで勉強し、死ぬまで成長する。 自分はどんな道を歩くのか、を考えさせられる話です。
2015年01月26日
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【本当の満足とは】一般的に「満足」という意味は足りないものが満たされること、というように解釈します。足りないことや物を欲しいという、欲求を満たすことです。しかし、人間とはすべてこの考え方が真理だとなると、本当の幸福をつかむことはできません。欲は誰にもありますが、際限のない欲望を求めるのが幸せではありません。例えば、大きい家に住めないことに不満を感じる人もいれば、小さな家でも家族と仲良く生活できれば満足という人もいます。持っていない(不足している)ものを、手に入れることはもちろんいいことです。しかし、「今、あるもの、持っているものに感謝して満足する」ことのほうが、価値ある満足です。________________________________________食欲を例にお話しましょう。美味しいものを食べるのは、人生の中でも楽しみの一つです。肉、魚、野菜などに美味しい味付けをして食べる楽しみです。江戸時代の健康(養生)学者に貝原益軒という方がいました。貝原先生は、こう述べています。「食べ物は、食材のもつ美味しさを味わうために、うす味がよい。 ご馳走は味が濃ゆく、こういうものばかり食すると、食材本来の味を 楽しむ感覚がマヒしてくる。結局食べ過ぎて不健康になる。目の前に ある食材に感謝して、じっくり味わうことが大切」とのことです。「食」に関すること以外にも言えるようです。ちなみに、貝原先生は100冊以上の著書を残します。有名な「養生訓」は84歳の時の著作です。当時としては大変な長寿で、85歳で亡くなりました。
2015年01月25日
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【どんなことにも感謝しよう】嬉しい事や、いい出来事が起きた時は誰もが感謝をします。ところが、転んで怪我をした時、車をぶつけられた時はそういうわけにはいかないものです。江戸の時代に生きた、良寛和尚のお話です。良寛さんは気さくな人で、村人たちからも好かれて人気者です。子供と遊んだり、頼まれごとがあってもお金を受け取らず、米や味噌などをいただいて、のんびりと暮らしていました。こんな良寛さんにやきもちをもつ、一人の船頭がいました。船頭は良寛さんを痛い目にあわせてやろう、とたくらみます。ある日、良寛さんが川を渡るため、その船頭の船に乗りました。船頭はチャンス到来とばかりに、川の真ん中付近で船をわざと大きく揺らしました。良寛さんはバランスを崩し、たまらず川に落ちてしまいます。泳げない良寛さんは水が口に入り、溺れそうになりますが、沈む寸前船頭は良寛さんを船に引き上げました。やっとの思いで水を吐き息も絶え絶えになりながら、良寛さんは船頭に言いました。「助けてくれてありがとう。あなたは命の恩人です。この恩は一生 忘れません」怒られると思い込んでいた船頭はびっくり。悪いことをした自分にお礼を言うなんて・・・。なぜこんないい人を妬んだりしたのか・・・。その日の夜、船頭は良寛さんの家に酒を持って訪ね、昼の自分の行動を心から詫びました。良寛さんは船頭を笑顔で迎え、酒を酌み交わします。その後、船頭は生まれ変わったそうです。________________________________________災難やいやな事にでも感謝できる人は、「その出来事に何か意味がある」と気づき、学べる人のようです。感謝という感情は、次元の高い心のエネルギーです。このエネルギーを、うまく生み出していくコツを覚えた人が送る人生を幸福な人生というのかもしれません。
2015年01月24日
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【今いる場所で精一杯生きる】ベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」の著者、渡辺和子さんのお話です。86歳の現在でもご活躍されています。渡辺さんは30歳の頃、修道院に入りアメリカで修練の後、日本に戻り36歳という若さで、岡山のノートルダム清心女子大学の学長に任命されました。東京育ちで岡山は初めての土地でした。 修道院は目上の人には従わなければならない、厳しいところだったそうで、しかも前任の学長は70代後半の方でした。新任の学長である渡辺さんは36歳で注目もされました。周囲の目を気にしながらも、学長としての責務を果たさなければという重圧を抱えたままの日々が続きます。当時のことを振り返ると、周りの人のことを渡辺さんは「あいさつしてくれない」「ねぎらってくれない」「わかってくれない」といつも思い、自分はいつの間にか『くれない族』になっていたそうです。そして、ついに自信を失って「修道院を出ようか」と苦しんでいる時に、一人の宣教師の方から、英語で書かれた短い詩を渡されます。そこには『置かれたところで咲きなさい』という言葉がありました。そして、詩には次のような一節がありました。『咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。 それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって 神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明 することなのです』この詩で渡辺さんは変わりました。今の場所に不平や不満を感じ、自分を不幸だと思うことは、環境の奴隷になっているのと同じではないか。これからは、環境の主人公になって、自分の花を咲かそうと決心し以後、渡辺さんから先に、挨拶し笑顔で語りかけていきました。その結果、教職員、学生も明るく優しくなったそうです。そして、渡辺さんは次のようにも述べています。「どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲け ない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を 下へ下へと降ろして、根を張るのです」________________________________________ 人生の主人公になるには、今、現在をどう生きるか・・・。これが大事なことのようです。
2015年01月23日
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【生を享けた理由】 弘法大師・空海さんがある時、弟子達を伴って山をおりていきました。ある村に入ると、疫病が流行っていて混乱状態のようでした。行くと、民衆が疫病にかかった親子の家に火をつけて燃やしています。空海は、弟子達とともに必死で止めその患者たちを別の場所に移します。そして、薬草を作って加持祈祷をしようとしました。すると、苦しむ一人の女性が空海に言いました。「お坊さま・・・・。どうか私を楽にさせてください! どうか・・・もう・・、死なせてください・・・」これを聞き空海は言いました。「死んでどうする?」女性は涙を流しながら訴えました。「生きていても・・・なにも、いいことなんてありません・・・・。 こんな体になってしまって・・・。ただただ辛いだけです! だから、もう・・・成仏させてください・・・」空海は言いました。「この世で成仏せずして、あの世でどうして成仏できよう・・。 父母からもらった大切な体のあるうちに幸せにならずして、 どうして救われよう・・・。 この世で生きて、この体のあるうちに幸せになるのだ。 さぁ・・・・。体をあたため、薬を飲むのだ、治すのだ・・・」こうして、空海と弟子達は必要な手当を行い、村人たちを救いました。________________________________________心理学博士の小林正観さんによると、私たちがこの世に生を享けた理由の一つは「義務」を果たすためだそうです。では、「何の義務」なのか。それは『この世に生きなければならない』ということだと言われます。さらに、『肉体を持ってこの世に生きていること自体に意味がある。何か特別な大きなことをするために、生きているわけではない。ただ生きているということ自体が意味を持っている』のだそうです。生きることに意味があると思うと、いいかげんでなくしっかり生きようと思いたくなります。
2015年01月22日
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【幸福のかけらを見つけよう】 エッセイストの中山庸子(なかやまようこ)さんの著書の中に、次のような一節があります。 幸せのかけらは、 川原にある白くて丸い石くらいたくさんあります。 ただし、それを探すのがうまい人とへたな人がいます。 でも、 どんなにうまくても、川原に行かなければ見つかりません。 探すのはへたでも川原に行った人が見つけられるのです。小さな幸せは探せば、身の回りにもいくつもあるのですよ、探し方は上手じゃなくても、探そう、見つけようと行動しなければ手に入れることはできないのですよ、という意味だと思います。________________________________________ 幸福とは、お金、地位や名誉、といった表面的なもので測れるものではありません。もちろん、お金、地位や名誉が否定できるものでもないことは事実です。 イギリス王室の華と呼ばれた・ダイアナ妃のことをご存知の方も多いことでしょう。稀にみる美貌をもち、世紀の結婚と呼ばれ誰よりも幸福であると思われているダイアナ妃も、自殺未遂は5回あったそうです。誰に言うこともなく、人知れず悩み苦しむ一人の女性でした。________________________________________ 人間の幸せは、その人がどう感じるかです。感じる対象は、たくさんあるのに気づかないだけのこと・・・・。気づける人になりましょう。
2015年01月21日
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【今、生きていることが大切です】「アンパンマン」の作者、やなせたかしさんは94歳で亡くなりますが、30代から50代の頃は漫画家としては有名ではありませんでした。ご本人によると「絶望のトンネルの中にいた」そうです。アンパンマンの人気が出てきたのは、やなせさんが70歳の頃でした。以来、注目を浴び多忙な毎日を送ります。いつも忙しくしているので、よく「先生、お元気ですねえ」と言われたそうですが、病名を数えれば10種近くあったそうです。まず、目を両方緑内障で手術。糖尿病、すい臓炎、心臓カテーテル手術腎臓がんで左の腎臓の摘出など入退院の繰り返しでしたが、病院生活も見方を変えれば面白いものと考えていました。自分のことを「大器晩成」ではなく「小器晩成」とも言い、「せっかく生まれてきたんだから、絶望するなんてもったいない。なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていくんだ。人生は捨てたものではない。やがて道は拓(ひら)けてくる」と語っていました。◎『絶望の隣は希望です!』という中の詩です。 生きていることが、理屈なしに大切なのです。 今日まで生きてこられたのなら、 すこしくらい辛くても 明日もまた生きられる。 そう思って、とにかく生きてみる。 そうやっているうちに、次が拓けてくるのです。________________________________________ 「手のひらを太陽に」という歌の作詞もされた、やなせたかしさん。この歌をはじめ、アンパンマンの歌詞やメロデイには、何か希望の香りが漂っているようです。
2015年01月20日
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【幸せを見つけたいなら】〇不幸病の患者さんが治療を受けに来ました。患者 「誰でも幸せになれる方法があるんですか?」医者 「ありますよ」患者 「どうしたら幸せになれますか?」医者 「『今が最高に幸せ』と思ってください」患者 「もっと具体的に教えて下さい」医者 「『今日も働くことができて幸せ』『今日はいろんな人に会えて 幸せ』『今日も酒が飲めて幸せ』『今日もごはんが食べられて 幸せ』・・・・、たくさんあります」続けて医者 「幸せは気づくものです。幸せになるコツは、『こうなれば 幸せ』というものではありません。今、現在を変えずに幸せと 思うことです」________________________________________〇幸福結婚願望症の患者さんが治療を受けに来ました。患者 「幸せな結婚がしたいのですが、できますか?」医者 「できますよ」患者 「もっと具体的に教えて下さい」医者 「『一人でも幸せだ』と思って下さい。必ず幸せな相手が出て きます」患者 「本当ですか?」医者 「『幸せにしてほしい』と思っていると、『幸せにしてほしい』と 思っている相手を呼び寄せます。この二人が一緒になるとお互 いが相手に幸せにしてほしいと願うから、最初はいいけど長く は続きません」続けて医者 「『一人でも幸せ』と思うと、一人でも幸せな人が出てきて 幸せどうしが一緒になって、さらに幸せになります。 幸せは『もの』ではありません。感じることです」________________________________________ 幸せの材料はたくさんありますね。幸せになりたいなら一度「感じ方」を修正してみるのも一つの方法です。「感じ方」が柔軟な人は、嬉しい、楽しいと小さなことにも感動できるそうです。
2015年01月19日
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【ハガキに託す親への思い】ある男性、Kさんのお話です。Kさんは48歳。関西の高校を卒業して東京に就職した。仕事は忙しく、朝8時に出社して朝3時に帰宅する激務。好きな仕事なので苦にはならない。故郷に残した両親に親孝行の一つもしなくてはと、心の中では思っていた。ある日のテレビ番組を見ていると、実家から離れて一人で暮らす娘さんが認知症のお母さんを心配して、毎日ハガキを書いて投函しているという話を紹介していた。娘さんが、ハガキを送り始めて1年が過ぎたころ、父親から嬉しい電話があったという。内容はこんなものだった。「お母さんが治ったぞ! お前のハガキのおかげだ!」お母さんも言った。「ハガキ、ありがとうね。毎日、読んでいるうちにお母さん、自分を 取り戻せたのよ」そのお母さんは元気になり、娘さんは今でも毎日、ハガキを投函しているという内容である。________________________________________Kさんはこの番組をきっかけに、自分も毎日ハガキを書いて投函することにした。ハガキを書いて出すぐらいなら時間もかからない。「僕です、Kです。元気です、お母さんも元気でね。」次の日は、「今日は、寝坊した。でも元気です。」その次の日は、「今日は雨です。風邪をひかないようにしてね。」短い文章だが、書くことにも慣れKさんの日課となった。しばらくして、お母さんから返事が来た。「びっくりしたわ。でもすごく嬉しい。ありがとう」Kさんは気恥ずかしかったが、喜んでもらえてよかったと思った。半年が経った頃、Kさんの携帯にお母さんから電話がかかってきた。一瞬、母からの電話なんて珍しいな、と思った。「特に、用事はないけど押入れを整理していたら、あなたの子供の 頃の写真が出てきたから、嬉しくなって電話してみたの」そんなやり取りだった。Kさんは胸騒ぎがして、2歳下で看護師をしている妹に連絡をとった。「口止めされている」という妹は、母にガンが見つかったと言うのだ。両親は忙しいKさんを気遣い、内緒にしていたらしい。医師の診断では、あと2~3か月という。Kさんはショックを受けた。次の日から、ハガキの内容が少し変わった。ガンを乗り越えた人の話や元気になれそうな言葉を書いて送った。何一つ、親孝行らしいこともしていないのに・・・・。奇跡が起きてほしい、何とか元気を取り戻してほしい・・・。そう願わずにはいられなかった。入院と手術を繰り返す母。見舞いに行けば気丈に振る舞うがベッドの母の体は細く、小さくなっていた。医師はK さんと妹さんだけにレント ゲン写真を見せながら、ガンがリンパを通り全身に移転している、そして「もう、あまりもたないと思います」と告げられた。________________________________________三日間、Kさんは仕事を休み母のそばに寄り添った。東京に戻る直前「時間作って、また来るから」というKさんに「無理しなくていいよ。体に気をつけてね。奥さん大事にしてね」これが、最後の母と息子の会話となった。東京に戻って約一ヶ月が経ったある日、その日はKさんの誕生日でもあった。お母さんの容体が急変したという連絡が入った。Kさんは今まで言えなかった感謝の言葉と、たくさんの気持ちや想いを母に何としても伝えなければ、と思った。Kさんは病院にいる妹さんに電話をかけた。「かあさんには悪いけど、起こしてほしい。そしてその携帯、かあさん の耳元にあててほしい」Kさんはゆっくりと、はっきりとした口調で「かあさん。生んでくれてありがとう。今まで言えなかったけど、 ほんとに感謝してます。僕の誕生日まで頑張ってくれて、ほんとに ありがとう」少しして妹さんの声がした。「かあさん、聞こえてたようよ。しゃべるのは無理だけど、お兄ちゃん の言葉にウンウンってうなずいていた」________________________________________三日後、Kさんのお母さんは旅立たれました。通夜の席で、落ち込んでいるKさんに伯母の方から言われたそうです。Kさんが毎日、送ってくれたハガキをお母さんが「嬉しい」と言って伯母さんに見せていたそうです。そして、「あのハガキが何よりの親孝行だったよ」とお母さんが思ってくれていたことを知り、Kさんは涙したそうです。一年後、Kさんが実家で資料の整理をしていると、一冊のノートが出てきました。お母さんに送った、ハガキのコピーがしっかりと貼り付けてあり、ページをめくっていくと母の字で次のように書いてありました。『Kは男なので、男同士、お父さんのことも気にしてあげてね』その後、Kさんお父さんにもハガキを毎日投函しているそうです。「Kです。お父さんどうしてますか? 僕は元気です! 今度そっちに帰ったら、一緒に銭湯にいきましょう。」また、小さくて大きな「親孝行」を始めたそうです。 (参考文献:谷口雅美著「99のありがとう」)
2015年01月18日
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【お母さんに報いたい】 ある養護学校の先生で、向野(こうの)幾世さんという人がいらっしゃいました。山田康文(やすふみ)くん、という生まれた時から全身が不自由、また口もきけないという、重度の脳性マヒの少年が向野先生を介して詩を書きました。康文くんは、言葉を話せないので向野先生が言う言葉が、康文くんの言いたい言葉なら、康文くんがウインクしたらイエスのサイン。ノーの時は、舌を出すというコミュニケーションをとりながら、書かれた詩です。 ごめんなさいね おかあさん ごめんなさいね おかあさん ぼくが生まれて ごめんなさい ぼくを背負う かあさんの 細いうなじに ぼくはいう ぼくさえ 生まれなかったら かあさんの しらがもなかったろうね 大きくなった このぼくを 背負って歩く 悲しさも 「かたわな子だね」とふりかえる つめたい視線に 泣くことも ぼくさえ 生まれなかったら ありがとう おかあさん ありがとう おかあさん おかあさんが いるかぎり ぼくは生きていくのです 脳性マヒを 生きていく やさしさこそが 大切で 悲しさこそが 美しい そんな 人の生き方を 教えてくれた おかあさん おかあさん あなたが そこにいるかぎり (参考文献:月刊誌「致知」2004年1月号)________________________________________この詩が完成して二か月後、康文くんは亡くなったそうです。短い、たった15年の人生で彼が残した、一篇の詩でした。康文くんは、どんな想いでこの詩を作ったのでしょうかおかあさんへの愛を伝えたかった、おかあさんの愛に報いたかったのだと思います。
2015年01月17日
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【限りある命を生きる】グラフィックデザイナー、鈴木章さんのお話です。鈴木さんは25歳で、急性白血病になり闘病のすえ、26歳で亡くなります。鈴木さんは徳島県生まれ。中学・高校と柔道をやっていて風邪ひとつひかないような健康体でした。25歳の時、急性白血病と診断されるのです。ご両親も驚きました。医師の話では、あと数日発見が遅れていたら命はなかったとのこと。助かる道は骨髄移植しかないとの診断でした。骨髄のドナーが見つかるまで、抗がん剤の投与を受ける必要があります。抗がん剤の副作用は辛く、高熱としびれ、口内炎で水を飲むこともできず、血のよだれが出るというすさまじいものでした。病室に持ちこんだパソコンで、好きな絵をCGで描くことが支えでした。その後、骨髄の適合するドナーが見つかり手術も成功し、一時的に快方に向かいますが、再入院となりました。京都で仕事をしていた妹さんは、会社を辞めて、兄のサポートに専念してくれることになりました。それでも鈴木さんは自分の作品で作った、ポストカードを個展で販売し収益金を骨髄バンクに寄付したいと、東京と徳島で個展を開きます。入場者は想像以上で、大きな反響があり新聞、NHK・BSでも紹介されました。その時、鈴木さんは「僕にとって、絵を描くことは生きることです」と語っています。亡くなる直前、鈴木さんはお母様に最後の力をふりしぼって言いました。「人間の幸せは目先のものじゃない。もっと深いんだ。本当の幸せは、 どんな境遇でも希望を持ち続けて乗り越えていける、心に中にあると 思う。母さん。そのことを、たくさんの人に教えてあげて!」横では、妹さんが声をあげて泣いていました。お母様は、震える手で鈴木さんの言葉を書き留めます。翌日、鈴木さんはご両親の胸の中で、静かに旅立ちました。________________________________________もっと、もっと生きたいと思っても叶わない人がいます。生きることの喜びを感じることはとても大事だと思います。
2015年01月16日
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【出会いとご縁を生かす】 ある先生と生徒のお話です。その先生が5年生の担任になった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は、少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。ある時、少年の1年生からの記録が目に留まった。「ほがらかで、友達が好きで、人にも親切。 勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。2年生になると「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。3年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」3年生の後半の記録では「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう」先生の胸に激しい痛みが走った。だめと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として、自分の前に立ち現われてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。放課後、先生は少年に声をかけた。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない? わからないところは教えてあげるから」それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手を上げた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。雑然とした部屋でひとり本を読んでいた。気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。「ああ、お母さんの匂い! 今日はすてきなクリスマスだ」6年生では先生は少年の担当ではなくなった。卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして、いままで出会ったなかで 一番すばらしい先生でした」それから六年。またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、 とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学する ことができます」十年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことへの感謝と、父親に叩かれた体験があるから、患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていた。「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままだめになって しまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人 になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生の時に担任 してくださった先生です」そして一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。 (藤尾秀昭著「心に響く小さな5つの物語」より)________________________________________人には出会いがあり、縁によって人生の方向が大きく左右されることがあります。私も、この話と出会っていろんな人とのご縁をかみしめています。
2015年01月15日
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【夢から生きる力をもらう】日本全国を歩き測量し、はじめて正確な日本地図を作成したのは江戸時代の伊能忠敬(いのうただたか)です。地図を作ったということから思うと、幕府でも地位があって元々そういう仕事に就いていた人と思いがちですが、全く違います。彼が、地図の作成を始めたのは50歳からで、隠居してからのことです。当時は人生50年といわれていた時代です。今では高齢者といわれてもおかしくないでしょう。彼は、18歳で酒造家である伊能家の婿養子となります。伊能家は元来、下総(現在の千葉県)でも名家でしたが彼が婿養子になった時は、いつ没落してもおかしくないほどの借金をかかえていました。忠敬は、婿養子でありながらも真面目に、一生懸命働き伊能家を再建します。そして、家業が安泰となり長男に家を譲ります。この時、50歳でした。それから江戸に出てきて天文学の勉強を始めるのです。先生は19歳年下の高橋至時(よしとき)という人でした。いくら地図が好きだからといって、住み慣れた故郷を離れしかも19歳も若い者を師と仰ぐことは、なかなかできることではありません。隠居したら日本の地図を作ろう、と当時は実現しそうもない夢をあきらめずに持ち続けていました。結局、彼は73歳まで自分の足で歩いて、測量を続けました。新幹線も飛行機もない時代に、大変な労働であったことは間違いないと思います。夢は行動を呼び、行動は夢を実現させます。歩かなければ前には進みませんが、一日、0.1歩でも進めばいつかは目標地点に到達できることを、伊能忠敬は示しているようです。
2015年01月14日
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【弱者から強者へ】プロ野球の世界で名選手といわれ、さらに名監督の一人と呼ばれた、野村克也さん。一度は戦力外となった選手を、数多く再生させた実績をお持ちです。野村さんは、最近のプロスポーツ選手がよく口にする「楽しみたい」という表現に首をかしげています。「楽しむ」という言葉の本当の意味が分かっているのか?・・・「楽しむ」とはとても深い言葉で、英語で「ENJOY エンジョイ」といい、「持てる力をすべて出し切る」という意味あいが強い。近頃の人は「ファン」の意味で使っているのではないか、と述べています。この考え方があるから、「自分はこれで精一杯だ」「自分の力はこれまでだ」と自己限定しているのではないか。こう感じていた野村さんは、戦力外と評価された選手を再生するための「意識改革」を実行していきます。有名な「考え方が変われば行動が変わる」という言葉です。これはヒンズー教の中にある教えで「心が変われば態度が変わる 態度が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば運命が変わる 運命が変われば人生が変わる」この言葉をもとに選手の心を変えていきました。弱いチームの特徴には「負け犬根性」が見られるそうです。「どうせ俺たちは勝てない」「いくらやったところでしれている」と、負けて当然という意識があると言います。これは野球の世界、スポーツの世界だけのことではなく、普通の社会生活にもいえそうなことです。まず、持てる力を出し切っているか(楽しんでいるか)、考えてみたいものです。
2015年01月13日
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【不安な心とのつきあい方】今日は成人の日です。若い人にとっては、大人としての責任を考えるきっかけになる日です。同じように、不安を感じる日でもあります。将来への不安もあれば、今日明日の仕事がうまくいくかどうかの不安。考えたら、キリがないほど・・・・・。人生とはそういうものだと、わかってはいても不安を感じ過ぎるのも問題です。世界のホームラン王、王貞治選手の大変興味深いエピソードがあります。ホームランを量産していた全盛期のころの話です。王選手が言いました。「いよいよ、ペナント・レースの開幕、という時期になると、僕は いつも、“今年はひょっとしたら、ホームランを一本も打てないん じゃないか?„と、チラと思うのです。毎年、そうです」と語っていたそうです。あの王選手でさえ、不安になることがあったんですね。同時に、王選手もやっぱり人間だったんだと、親近感を覚える話です。ちょっとした不安に負けないために、人よりも多く練習をした結果が偉大な記録になったのも当然のことです。人間には100%の自信を持つことはあり得ないと思います。人は不安をいだくもの。ただ、強者は不安よりも、努力で培った自信が心の表面にある人。弱者は、努力しないから、不安がいつも心の表面にある人。この違いだと思います。ある芸能人の言葉に次のようなものがあります。『70%の自信と30%の不安を持ちなさい。すると人は成長する。 その30%を、何とか埋めて自信に変えようと思うから、それが 努力というものにつながる』不安をバネにして自信に変える。年齢に関係なく、大事なことですね。
2015年01月12日
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【植物の生命力から学ぶこと】麦の中にライ麦というのがあります。昔、生物学者がある実験をしました。30センチ四方の箱に、深さが約60センチの砂の入った木の箱に一本のライ麦の苗を植えます。その後、4ヶ月ほど水をやって育てると、木の箱の上に育ちます。自然の中で育てるわけではないので、見た目は弱々しいですが麦として育ちます。次に木の箱を壊し、砂の中にどれくらい根が伸びているかを測ってみます。詳しく測るために砂をふるい落とし、さらに根の先の根毛まで詳しく計測したところ、総延長で11.200キロメートルに達していたそうです。ライ麦に与えられた、生きるための環境、条件は30センチ四方と深さ約60センチの砂と、水です。一本の麦のことですが、生きようとする力の強さには驚かされます。人生にとっての苦労や、困難というのもこの木箱と60センチの砂と同じようなものに思えます。ライ麦にとっては、とても厳しい過酷な、限られた環境、条件の中で、必死に戦っていたわけです。生きようとする意志もっている植物から、学ぶことがあるようです。
2015年01月11日
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【強運・幸運・不運】プロ野球の名球会の一人、山田久志さんをご存知の方も多いと思います。今の、オリックスの前身、阪急時代の名投手です。通算284勝をあげています。山田さんは変則投法でいわゆる、アンダースロー(下手投げ)でも有名でした。もともと、山田さんはピッチャーだったわけではなく、高校2年生までは三塁手でした。この時代からアンダースローが好きで、実際技術も大変優れていました。夏の甲子園大会の県予選の時でした。9回裏でサードゴロをとった山田野手がアンダースローで一塁に投げます。ところがこれが暴投となって、敵の走者がホームインしてサヨナラ負けとなるのです。山田さんは責任を痛感し、退部を願い出ます。しかし、監督は退部を認めず逆に「アンダースローのピッチャー」になれと言うのです。わざとミスをしたわけではないことは監督もわかっていました。監督は、山田さんの野手としての技術には一目置いていました。同時に、山田さんの責任感の強さと、潔さに監督は彼の人間性に惚れたのでした。よく「幸運」なことを、「運がいい」といいます。また「強運」、「運が強い」ともいいます。「幸運」は、たまたま偶然というケースもあるでしょうが、「強運」というのは、幸運をよぶ何かがあると思います。山田さんのプロ野球選手としての道のりは、けっして平たんなものではありませんでした。新婚当時の年俸は180万円だったそうです。今から40年ぐらい前ですが、遠征にかかる費用は自己負担で残ったのは月に10万円にもなりませんでした。奥さんはお金を節約するために一日分を、封筒に入れて管理して出費を抑えたそうです。家にはお茶碗が2つしかないため、お客さんが来た時、奥さんは皿でご飯を食べたというエピソードがあるほどです。284勝の1勝目をあげたのは、入団して2年目でした。7連敗した後に勝ち取った初めての勝利でした。変則投法のため体にかかる負担も大きく、故障の連続でした。入団7年目、さすがの山田さんも「やめてしまおうか」と悩んだそうです。この時奥さんが「死んだ気になってもう一年、頑張ってみましょう」と言ってくれました。次のシーズン、山田さんは26勝でMVPを獲得、次の年も、さらに次の年も、3年連続のMVPに輝いています。暴投が生み出した、幸運といえる環境が不運に変わり、不運の時も練習を忘れずにコツコツやってきたことが、強運につながっていたと思います。その人にとって、不運といえる状況でも、本気でやるべきことを続けていけば神様は、福運を授けてくださると信じます。
2015年01月10日
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【今の自分にできること】小児科医の熊谷晋一郎(くまがやしんいちろう)さんのお話です。現在、37歳です。電動の車いすを使いながら医療現場で活躍中です。熊谷さん、生まれた時仮死状態でした。この時の後遺症で脳性まひになります。1歳になった頃から、リハビリが始まります。筋力をつけるためのリハビリを、一日5回、幼稚園にいくまでの間続けました。とても辛いリハビリで、泣いてばかりいたそうです。厳しいお母さんでしたが、休みの日にはいろいろなところに連れていってもらいました。お父さんとは、毎朝近くの山に登るのが日課でした。お父さんは仕事に行く前の一時間、リハビリをかねての山登りを小学1,2年ぐらいまで続けてくれました。小学校から中学校になると、数学と美術が好きになりしだいに、数学者になりたいとも思ったそうです。高校を卒業し、東京大学理科一類に現役で合格します。熊谷さんは、大学ではひとり暮らしをしたいと両親に頼みますが、両親からは猛反対されます。車いすでの生活を支えてきたご両親にしてみれば、「一人の力でどうやって生きていくのか」という親ごころがあったからです。しかし、この機会に自立しなければどうするんだ! という思いがあり、ひとり暮らしの生活がスタートします。まず、大変なのがトイレです。床を這って、トイレまでたどり着くまでに2~3分。扉をあけ、便器のそばに寄って、ふちに手をかけ、はずみをつけて体を持ち上げて、正座の姿勢をとります。次に立ち上がって便器に腰かける。健常者にはできる普通の体の動きが思うようにできないのです。子供の頃も、何回やってもリハビリの効果が上がらないため、毎日が失敗と挫折の連続でした。しかし、ここで折れてはダメだと思いトイレの壁に手すりをつけるなどの工夫をしながら、自立の生活を積み上げていきます。大学2年になると、3年の進路希望を出さなければなりません。数学者になるか医者になるか、悩んだすえ医者の道を選びます。医学部に入り、いろんな人が自分や、家族の病気のことを話してくれるようになり、世の中には人には言えないような悩みを持っている人が数多くいらっしゃることを、身をもって感じたそうです。熊谷さんは「障がいを持つ人のために考えるという発想では、偽善や独断で終わることが多いんです。しかし日常で障がいが生じた時に自分だったらどうしよう?と考えれば、偽善や独断にはならないと思います」と述べています。また、熊谷さんが10代半ばに出会った「自立生活運動」というのがあるそうです。熊谷さんいわく、「これは『障がい』をもった人を医学の力で『矯正する』のではなく、今の身体をそのまま受け入れ、そのままで生きてゆけるようむしろ、社会のデザインを変えていくべきだという考え方です。これまでのリハビリ方針とは180度違うスタンスです。健常者になるためだけに努力する生き方ではなく、自分は自分のやりたいことをして、生きていきたいと思うようになりました」今の自分に何ができるか。そこから生きていく目的をたてていく。この熊谷さんの言葉は、すべての人に力を与えてくれるものだと思います。
2015年01月09日
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【思いやり】Mさん(女性)は看護師で、3人の子供(長男、長女、次女)がいます。お兄ちゃん(長男)が10歳になりました。10年前、お兄ちゃんは生まれてすぐ、産声はあげましたが直後に呼吸不全となりました。緊急の処置がうまくいき、命は助かりましたがしばらく保育器に入ることになり、抱くことはできませんでした。Mさんは赤ちゃんを抱きたい、という気持ちがつのり泣き明かすこともありました。ようやく、保育器から出ることが叶い、はじめて自分の胸に抱くことができた時、小さな長男の指が、Mさんの指を力強く握ってくれました。この瞬間、Mさんは自分がこの世に生をうけた意味を知りました。子供をとおして、命の尊さと生きる力を得ました。この時の思いは変わることなく、その後、長女、次女を授かります。Mさんは仕事上、勤務が不規則。そのためお兄ちゃんには2人の妹の面倒をみてもらい、甘えたい気持ちもたくさん我慢させました。ある時、Mさんが体調を崩して入院しますが、家では妹たちをなぐさめ面倒をみてくれました。この時期、お兄ちゃんも母がいない淋しい気持ちと戦っていました。学校のトイレで、声を殺して一人で泣いていたことを先生から聞かされMさんは、お兄ちゃんに申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちで胸がつまりました。あと10年たてば、成人式。今では母親と変わらないほどの背丈になった長男に、Mさんは今まで、尽せなかった愛情を精一杯注ぎたいと思っています。________________________________________本当の思いやりとは、相手が辛い時、苦しい時に、自分のことは後にして手伝い、助けてあげることだと思います。10歳になることを、ハーフ成人式というそうです。10年後、お兄ちゃんはどんな立派な若者になっているのか楽しみです。
2015年01月08日
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【性格と意欲】幼少期の性格は大人になっても、根本的なものは変わらないものと誰もが思っています。生まれながらに持つ性格、それに幼少期の家庭環境やどんな教育を受けたかなど、いろんな条件が影響を与えます。しかし、歴史に名を残す人はこのようなパターンにあてはまらないことが数多く見られます。なぜでしょうか?誰もが知る幕末の志士、坂本龍馬もその一人です。小さい頃の竜馬は、心も体も虚弱児だったそうです。家は、土佐藩では豪商で5人の子供の末っ子でした。11~2歳まで寝小便をしていました。このことを遊び友達からもからかわれ、いじめられます。いじめられても、それに抵抗するわけでもなく泣いて家に帰る、そんな少年でした。あだ名は「坂本の泣き虫」だったそうです。この竜馬が強くなるきっかけを作ったのが、姉の乙女です。乙女は、身長が180センチ近くの大柄で、性格も男まさりのところがありました。乙女は竜馬をとても可愛がり、一方竜馬の虚弱さを何とかしたいと教育します。結局これが、きっかけとなり江戸の千葉周作道場では最強の剣士となっていきます。こういうふうに見ていくと、もともと竜馬は天性として強かったのか? ここが人間の可能性だと思います。竜馬自身、自分の弱さに悔しい思いをしたはずです。強くなりたい!この意欲が人一倍強かったのだと思います。「意欲」は「欲望」と違って、本人の意志、心が生き方に直結しているため、すごいエネルギーを生み出します。変えたいと思う性格も、意欲の持つ力で可能です。
2015年01月07日
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【生きる価値】曹洞宗に「長寿院」というお寺があります。住職は篠原さんという方で、20年以上にわたって「死にたい」と思う人の駆け込み寺として、たくさんの人と対話を続けています。30代後半の男性は、会社を立ち上げますが3年で倒産。家庭崩壊、離婚。自分の運の悪さを嘆いて住職に相談。ある男子大学生は、父親の会社が倒産したため大学を中退せざるを得なくなり、将来に希望が持てない、消えたいと相談。住職は、いずれの相談にも対しても、誠実に対応され相談者も生きる力を取り戻していきます。________________________________________最近、「アドラー心理学」というのをよく耳にします。アドラーという人が唱える説で、「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」というものです。つまり、人間関係(対人関係)の悩みを乗り越えれば、幸福になれるという考えです。価値観が多様化している今の時代だからこそ注目されているのでしょう。しかし、人間関係だけがうまくいけばいいのか、という気もしないではありません。人は、性格に2面性(表と裏で一つのもの)があるように人間には、「自己」と「自我」の2つがあると思います。「自己」は日常生活での普通の自分「自我」は性格・考え方の芯となる自分悩みとは、一人の中にいる「自己」という人間と、同じ一人の中にいる「自我」という人間があるとすれば、この「自己」と「自我」の(人間関係(対人関係)がよくないために生じるものだと思います。________________________________________人生はいいことばかりではないし、かといって悪いことばかりでもない。それでも生きていく価値はある、と思いたいものです。●篠原住職さんの言葉です。 たじろぐことはない生命あるものは必ず滅びる会えば必ず離れるときがくるすべてのものはみな移りかわる悩んでも 迷っても苦しくても 不安でも落ちこんでも 死のうと思ってもそれは 一時のことそんな思いも すべて変化していってやがて 勇気や希望が あなたを包む幸福も不幸もプラスもマイナスもたじろぐことはない
2015年01月06日
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【生きるための知恵】女性落語家の「露の団姫」(つゆのまるこ)さんという人がいます。(以後、まるこさん、と呼びます)まるこさんは僧侶(尼僧)でもあります。まだ若いですが、大阪では知名度も高く特に、若者のファンも多いと聞きます。小学生の頃、劇団ひまわりというところでお芝居などを学びます。先日、まるこさんの書かれたエッセイを読んで心に残りました。「クヨクヨから抜け出すには、どうすればよいか?」についての考え方がとてもシンプルでした。具体的にいいますと、「物事をありのままにとらえること」がヒントで、「これはこういうものだ、あの人はああいう人だ」と現実をよくみると打開策が見つかり、どんな状況でもベストを尽くせる。これが「生きる知恵」と述べていました。例えば、まるこさんは足が太いそうです。このことが嫌だったのでいつも細いジーパンをはいていました。ある時、自分の足を鏡で見るとどこから、どう見ても足の太さを認ざるを得ません。それからは、足が太い人でも細く見えるミラクルパンツのようなもの見つけ、はいてみると自分の思っていたスタイルに近づいたそうです。「最初から自分の足の太い」ことをさっさと認めておけばよかった、と思ったそうです。僧侶だからこそ、気づいた「生きる知恵」なのでしょう。一般的に、クヨクヨするタイプは「内向的」な人に多いようです。原因のほこさきを自分に向け過ぎるため、ついつい自分を責めてしまいやすくなります。「さっさと自分を認める」ことも大事なようです。生きていくにはこのような、「知恵」が必要なのですね。
2015年01月05日
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【転職と適職】 知人から30歳になる息子のことで話を聞いてくれ、という連絡がありました。聞けば、帰省した息子さん今の仕事が自分に合わないので、他の仕事を考えている、という内容です。今は営業の仕事で、もともと苦手だったこともあり事務系の仕事に変わりたい。会社の体質が嫌とか、人間関係が嫌とかはないということです。そこで、ある本で読んだ転職にまつわるエピソードを思い出し、知人に話しました。内容は次のようなものです。________________________________________Aさん(男性)は就職5年目の営業マン。ある時、社内の人事異動で経理課に行くように辞令がおりた。「営業の俺が、なんで経理の仕事を?」と首をかしげた。とりあえず、会社の命令だからしばらく辛抱してみるか、と考え業務をこなす日々が続く。仕事の内容は、伝票の仕分け、仕入れから販売にいたる請求書のチェック、入力など。現金を扱う仕事ではないが、伝票とにらめっこする毎日の連続である。3か月を過ぎ、半年がたったがどうしても営業の仕事がしたくて仕方がない。Aさんは意を決して経理課長に談判。「今の、経理の仕事は自分に向いていません。前の部署に戻していただ けませんか」「どうしても嫌か?」「そうです」経理課長はしばらく考え、こう言った。「ふーん、わかった。営業の担当者に話してみよう。ただし条件がある。 君が嫌だという経理の仕事、具体的にどこがどういうふうに嫌なのか 論文を書いてこい。その論文をまず俺が見て、合格したら君の願いが 叶うように努力する」Aさんは、一応は自分の意見を聞き入れてくれた経理課長に感謝しつつも論文なんて大学で仕方なく書いたことはあるが、得意とする分野でもない。しかし、営業に戻れるなら、と気を取り直して準備にかかった。まず、書店に行き経理関係の本を何冊か購入。さっそく読み始めた。読んでいくと専門用語がどんどん出てきて、その意味を調べるということが生じる。かと思うと、具体的にどこが嫌かということを書くにしても、課長を説得できるだけの内容にしないといけない、という思いもあって、必死で書いていった。すると少しずつではあるが、「俺がやっていた、あの伝票作成はこんな意味があったのか」ということがどんどん解りだしてきた。Aさんは経理の仕事の面白さを発見することができた。出来上がった論文を手にAさんは経理課長のところに行った。「大変申し訳ありません。やっぱり今までどおり、このまま経理課で 仕事をさせて下さい」3年後、Aさんは経理課の課長代理に昇任した。今では課内では一番経理の知識が深いとのこと。________________________________________大体、こんな内容を知人に伝えました。仕事が適職かどうか、確かに向き不向きはあるでしょうが、そうとばかりもいえないことがあります。自分では向かないと思うことでも、やってみると自分では気づかない隠された能力があります。心理学の世界では、人は自分の力の15%しか使っていない、と言われています。可能性を現実化できれば、人生は広がり豊かになると思います。
2015年01月04日
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【笑顔の力】Yさんは父子家庭。娘が一人、はなちゃん。(11歳)6年前、奥さんを乳がんで亡くします。33歳でした。奥さんは25歳の時、乳がんと診断されます。この時はまだ、お二人は結婚していませんでした。左の乳房を全摘する手術の後、結婚。奥さんは、抗がん剤の治療をうけ症状が落ち着いたころ、はなちゃんを授かります。しかし、乳がんは再発し闘病生活が続きました。そういう中でも5歳の娘に、朝のみそ汁を任せます。5か月後、奥さんは亡くなりました。Yさんは、妻を亡くしたショックで眠れない日が続き、安定剤とお酒の力を借りるようになっていきます。娘の将来のこと、これから心の支えをどこに求めればいいのか・・・生きる気力をなくしかけていました。葬儀から1ヶ月が過ぎた頃、Yさんが台所にいると5歳のはなちゃんが包丁を取り出しました。Yさんの横で、慣れた手つきで出汁をつくり豆腐を入れて味噌を溶きます。亡くなった奥さんと同じ味でした。それ以後、夕食も作ってくれるようになりました。ご飯を炊いて野菜を炒めてくれます。美味しい!と褒めると、次の日もその次の日も、朝夕の食事を作ってくれました。「はながつくったよ。たべてね」 覚えたばかりの字で書かれた手紙が添えられていることもありました。ある時、Yさんの友人がはなちゃんに聞きました。「どうして毎朝、みそ汁をつくるの?」はなちゃんは答えました。「パパが笑ってくれるから」6年後、はなちゃんがYさんに言いました。「あのころのパパは大人のくせに、つまらんかった。いつも泣いてばっかりやったもん」Yさんとはなちゃん、今では当時のことを笑って話せるようになったそうです。パパの笑顔が見たい一心で作ったおみそ汁が、Yさんを強くしてくれました。やっぱり、笑顔には力があるようです。
2015年01月03日
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【幸福感をもつ】今年、104歳になられる医師の日野原重明先生のお話です。先生は医師をめざして、大学に入りすぐに結核になります。あの当時は、結核になると治らないといわれていました。38度を上回る高熱が続き、胸水がたまり言いようのない辛い日々の繰り返しでした。8ヶ月の間、自分の力でトイレに行くこともできませんでした。5年にわたる闘病生活を乗り越えられ、今も現役の医師として活躍されています。先生は人生について、苦難や試練をとおして学んだことは、その人の人生を力強くするために利用すべきで、生きることに臆病になるために利用してはいけない。試練を味わうたびに前向きになりなさい。そして、心を自分のことだけに占有させないで、生きていることの喜びに敏感になることが大切だといわれます。先生が書かれた詩に次のようなものがあります。 幸福とは幸福とは幸福感をもつこと幸福とは心が満たされて幸福だと感じる主観的な感覚同じ状況でも人によってその感覚をもてる人ともてない人とがある素朴な生活や貧しさや戦いのなかではまた災害時や戦いの中で身を守る厳しい環境にある人々のあいだでは人からのわずかな親切や思いやりがしばしの幸福感をもたらしてくれる黒雲になかに垣間見る一片の青空のように・・・しかし文明や平和の恩寵に長く浴している人々では自分が幸福だと感じるハードルが高くなり幸福感は鈍くなる幸福とはそうだ、上を向いて歩く人々がめいめいの胸にもつ幸福感のことなんだ________________________________________100年以上生きてこられた方の、言葉だけに重みがありますね。幸福の原点があるような気がします。
2015年01月02日
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【おめでとうございます!】新年あけましておめでとうございます。本日は、元日。希望の日です。初詣に行かれる方も多いことでしょう。お正月は、七福神めぐりをする方もよく見かけます。今日はこの、七福神の神様について簡単にお話したいと思います。日本、インド、中国の神様がいらっしゃいます。日本人独特の信仰が長い間にわたって、一つの形となり現代も生き続けています。●恵比寿天(日本の神様)・・・商売繁盛の神様。漁業・農業の神様。 左に鯛の魚、右手に釣竿をもち親しみやすい神様です。●大黒天(インドと日本の神仏習合の神様)・・・財宝・福徳の神様。 大地を掌握し、人々に福徳を授ける神様です。●毘沙門天(インドの神様)・・・戦いの神様、融通招福の神様。 武将の姿をしています。悪霊を絶ち財宝を授ける神様。●弁財天(インドの神様)・・・財宝、芸術の神様。唯一の女神です。 愛嬌縁結びの徳があるといわれる神様。●福禄寿(中国の神様)・・・福徳、人徳、招徳人望の神様。 南極星の化身といわれる神様です。●寿老人(中国の神様)・・・健康、幸福、富貴長寿の神様。 天南星(寿星)の化身といわれる神様です。●布袋尊(中国の神様)・・・夫婦円満、良縁、子宝、開運の神様。 弥勒菩薩の化身といわれる神様です。すべてが、幸福につながる神様で夢があっていいですね。心のよりどころにしたいものです。
2015年01月01日
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