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【人は微笑みで生かされる】 世の中は人間関係でできています。家庭では親子、兄弟姉妹家族、職場では部下、同僚、上司それぞれです。最近は、これらの人間関係を一つの原因として、精神の不調を訴える人が増加しています。あるカウンセラーのもとに一人の主婦が相談に来ました。「夫が全く笑わないんです。いつも辛そうな表情で生きていることに 疲れているようで・・・・」よく見ると、この主婦も表情がとても暗い。せめて、挨拶の時ぐらいは作り笑顔でもすれば美しいのに、とカウンセラーは思いました。「ご主人が笑顔になってくれない、というのが悩みなんですね」「そうです。まったく笑いません。笑うようになって欲しいんです」「だから、あなた自身も辛い毎日を送っているんですね」「そのとおりです」カウンセラーは解決方法をアドバイスしました。2つ言いました。1、夫に笑顔になって欲しいと思わないこと。(人を自分の思い通りにしたいと思うこと自体が、悩みを生んでいる)2、まず、自分が笑顔になること。(人を変えようと思わないで、まず自分を変えてみること)その、主婦は少しためらいましたが、ちょっぴり微笑みながら「やってみます!」と答えました。 (2か月後、その主婦とご主人がカウンセラーに挨拶に来ました。 二人ともニコニコの笑顔だったそうです。)________________________________________アニメの巨匠・宮崎駿監督が愛読する、フランスの作家でパイロットでもある、サン=デグジュベリ(愛称・サンテックス)の言葉です。 大事なのは、 重々しいことじゃない。 微笑むだけでいい。 人は微笑みで報われる。 人は微笑みで生かされる。 命を捨ててもいい、と思うほどの 微笑みさえあるのだ。
2015年03月31日
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【春夏秋冬の心】 人に接する時は、暖かい春の心 仕事をする時は、燃える夏の心 考える時は、澄んだ秋の心 自分に向かう時は、厳しい冬の心これは、経済人、鮫島輝明さんという人の言葉です。東海道新幹線のパーサーに徳永真利子さんという人がいました。徳永さんは、社内販売のアルバイトを始めてから1年で正社員になりました。そして、まもなく平均売り上げの3倍近くを記録しました。東京管轄の従業員400人中、ダントツ1番でした。時間帯によって、何が一番売れるのかをデータをとってメモし、客の小銭の音で何を買おうとしているのかがわかったそうです。アイコンタクトを欠かさず、細やかな気配りができたことも要因といえるのかもしれません。しかし、最も大きかったのは徳永さんの、「仕事への燃える心」ではなかったでしょうか。ナンバーワンになろうと思ったこともあるでしょうが、パーサーという『仕事』に対して、熱い気持ちを持っていたことがとても素晴らしいと思います。職種に関係なく、どんな仕事でも一生懸命になって結果をだすことは大切なことです。人の心も季節と同じように変化するもの。四季折々を通して自然のありがたさや、人が生きることの意味を時々は考えてみたいものです。
2015年03月30日
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【社員も家族です】 ホンダの創業者、本田宗一郎は、社長を引退した後、700か所ほどの全国にある工場と販売店の全てを訪ねたといわれています。中には小さな事業所で従業員が数人というところもありましたが、そこも含めて全て回りました。なぜこの訪問をしたのでしょうか? 本田宗一郎はホンダで働く全ての人にお礼が言いたかったからでした。何年もかかって全従業員に、「ありがとう」と声をかけ、ひとり一人と握手したのです。ある整備員が、油で汚れた手に気づいて思わず手を引っ込めた時も、「その、油まみれの手がいいんだ」と言って、両手で握手をしたそうです。また、松下幸之助の部下であった、Sさんという人がある地区の事業部長に就任しました。S部長の秘書は事業部長の最初の仕事はお得意様への挨拶まわりと考え、分刻みのスケジュールを組みました。ところが、このスケジュール表を見たS部長「これはあとにしよう」と一言。続けて「人事部長を呼んでください」と言うのです。呼ばれた人事部長に「この事業部に入院している社員はいますか?」いきなりの質問にとまどいましたが、人事部長は答えました。「はい、5人おりますが、それが何か?」「これからその社員たちを見舞いに行きます。車、用意して下さい」これを聞いたS部長の秘書は慌てました。「あの。お得意先の挨拶まわりを先に・・・・」これに対してS部長はこう言いました。「それはあとです。松下電器のために頑張って働いてくれている社員が 入院しているんです。新任の事業部長が最初に挨拶に行くのは入院中 の社員です」就任初日の新事業部長から訪問を受けた入院中の社員たちは、皆、とても感激したそうです。このS部長は、松下幸之助はお酒が飲めないため、取引先の接待の時に、「返杯係」を務めた人で、幸之助さんに代わって全部飲み干したそうです。経営の神様の横にいた人物。「会社にとって、最も大切なのは従業員である」という、松下幸之助の考え方を、きちんと守り抜きこの事業部の成績は大変よかったそうです。
2015年03月29日
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【好機は不運の中に隠れている】 人は生まれながらにして環境が与えられている。その環境もまた千差万別と言えます。さらに、生まれてくるところがどんなところか自分で選ぶこともできません。幼少期にどんな境遇で育ったかで、その人の性格、考え方、さらには人生が左右されるほどです。世の中で成功者と呼ばれる人たちはなぜか不遇な幼少期を送った人が多く見られます。シャープ創業者の早川徳次もその一人です。明治26年東京生まれです。2歳の頃、両親は過労で倒れ養子に出されますが、養子先は貧困な家庭で養母も2年後に亡くなりました。不幸なことに後妻の継養母からは、3度の食事もまともにとれないようなひどい扱いでした。小学2年になると、学校には行かせてもらえず夜遅くまでマッチ貼りの内職をさせられました。そんなけなげな早川少年を、近所に住む井上さんという盲目の女性が洋傘などの金属加工をする、かざり屋に丁稚奉公の紹介をしてくれたのでした。ここでの給金も継養母から取り上げられたそうです。しかし、早川少年は丁稚奉公しながら、技術と商売の道を学び19歳で独立するのです。その後水道自在器やシャープペンシルを発明考案し、社員数200名の会社にまで大きくします。ところが、関東大震災に遭い、二人の息子と工場を失い、その後、妻も震災で受けた負傷が原因で亡くなるのです。この状況にあっても大正12年、「早川金属工業研究所」を作り、ラジオ受信機を製品として売り出しました。ある時、行き倒れの人を助けて自宅で世話をしますが、お金を持ち逃げされたこともあるそうですが、人を疑ったりできない性格でした。事業も順調に軌道に乗ると、目の不自由な人たちが働ける工場を作りました。少年時代に丁稚奉公のお世話をしてくれた盲目の女性、井上さんへの恩返しでもあったのです。後日、早川さんは「私の苦労は宿命のようだったが、苦労していた頃が今では楽しい思い出となっている」と語っています。
2015年03月28日
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【虹に願いを込めて】 北海道にお住まいのNさんの手記をご紹介します。________________________________________ 夕立のあと、病室のガラス窓の向こうに、鮮やかな虹がかかった。「虹に祈ると願いが叶うかしら」と病床の妻がほほ笑む。その願いとは17歳になる末の息子の高校卒業をせめて見届けたい、というものだった。看護師でもある私の妻は、45歳で乳がんを発病。余命1年の宣告だった。妻は放射線治療などあらゆる治療を受け、気力で乗り越え6年が過ぎた。しかし乳がんは骨、肝臓に転移していた。「明日を思い患うより今日一日、精一杯生きていこう」という妻の前向きな姿勢が、折れそうな私の心を支えてくれた。病院から一時帰宅が許された。妻は頸部をコルセットで固定され歩行もままならかったが、風呂に入るのを何よりの楽しみにしていた。私は下着一枚になり、妻の髪を洗い背中を流した。「ああ、生き返った。最高の幸せ」と妻。乳房を喪った妻が、バスタオルで胸を覆う姿に心が痛んだ。やせ細った妻の背中を流しながらシャワーのしぶきが、私の涙を隠してくれた。妻が亡くなる三か月前のことだった。入院先の病院の院長先生から同じがん病棟の患者さんの心のケアを依頼された。それは、妻よりも若い36歳のお母さん、Yさんからのたっての願いだという。私は妻に言った。「免疫が下がるし、何よりも自分の治療に専念してほしい」と。しかし妻は、その役をあえて引き受けた。「これは自分のためなの。だって薬では治せない心の痛みを二人で半分 にするの」その日から、妻とYさんは二人部屋に移された。小学生の男の子二人を残しては死ねない、とYさんは泣きながら妻にすがりつく。妻は、ベッドのYさんに寄り添い、その手をしっかり握りしめ、辛い話にじっと耳を傾けている。Yさんの嗚咽がもれた。「いっぱい泣こう・・・・」と妻。そして妻はこの夏、病室から見たあの神々しい虹の話をした。「涙のあとには、きっと虹がかかるよ。ねえ、二人で祈ろう」妻はそう言いながらもきっと泣いていたのだろう。私はたまらず、目頭を押さえて病室を出た。それから三週間。妻と最後まで励まし合った若いお母さん、Yさんが亡くなった。妻の病状も日を追って厳しさを増していった。私は妻との別れを覚悟した。泣きはらした顔の子どもたちと妻と、ひとつの部屋で肩を寄せあうのは、これが最後だった。「パパ、ありがとう。長生きしてね」それが妻の最後の言葉だった。妻は51歳で旅立った。息子の高校卒業を見届けたいという妻の願いは神様に届かなかった。息をひきとった妻の目からは、ひと滴の涙がこぼれていた。 ああ、妻にはきっと虹が見えている・・・・。妻が亡くなって、もう14年。三人の子供たちもそれぞれ独立し、これからの長い人生、何度も悲しいことや辛いことに出会うだろう。その子供たちに、妻の遺した言葉を伝えようと思う。 これから、どんな困難にぶつかっても、「涙のあとには虹がかかるよ」・・・・と。________________________________________ (PHP2014年12月号より、引用抜粋)
2015年03月27日
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【正直と誠実で世の中に貢献した人の話】 大手菓子メーカー、江崎グリコの創業者、江崎利一さんを以前ご紹介しましたが、森永製菓の創業者である、森永太一郎も又、江崎さんと同じ佐賀県生まれです。1865年に佐賀県伊万里市の当時、地元では大きな陶器を扱う問屋に生まれました。しかし、6歳の時に父親が病死、母親とは生き別れととなり、親戚の家を転々とする不遇な少年時代を送ります。学校にも満足に行けず、12歳まで自分の名前さえ書けなかったといいます。13歳の時、同じ陶器問屋を営む伯父から商売の心得を学び、24歳でアメリカに渡りますが、焼き物は向こうでは売れず失敗に終わってしまうのでした。しかし、アメリカでは西洋菓子やキャンディを作る技術を身につけ35歳で帰国し、蓄えていたお金で東京赤坂にわずか2坪の菓子店を始めたのです。1年後、20坪の工場を借るまでになったものの梅雨になり、売れていた洋菓子がいたみ「カビ」が生えて大量の返品となってしまいました。太一郎は「不良品は無償で新しいものと交換します」と、対応しこのことがお客からの信用度が高まることになりました。当時、冷蔵庫がどこの家にもあるわけではなく、洋菓子がいたむこと自体、製造業者がすべて悪いという時代ではなかったのです。「森永ミルクキャラメル」はこうした背景のもとに生まれました。さらに、関東大震災の時、太一郎は被災者救済のためにビスケットやキャンディを無償で提供し、幼子をもつ母親にはドライミルクを配布しました。社員からは量が足りなくなるという心配の声もありましたが太一郎は被災者のために徹夜で奔走したのでした。関東大震災の直後、森永太一郎は次のように語りました。「この地震の被害は甚大になるはずです。私たちは全力を挙げて、 被災者を救わねばなりません」 ちなみに、安倍晋三首相の昭恵夫人は森永太一郎の曽孫にあたります。
2015年03月26日
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【単調な仕事でも、その奥には意味があります】 現代は大量生産、大量消費の時代です。生産工場では生産ライン(ベルトコンベヤー)の前で仕事をすることが多く見られます。松下幸之助さんが昔、自分の工場に出向き生産状況の視察に行った時のことです。一人の工員がつまらさそうな顔をして、電球を磨いているのが目に止まりました。松下さんが声をかけると工員は、「毎日、同じように電球を磨くのは退屈な仕事です」と、愚痴っぽく言ったのです。すると、松下さんは、「あんたの磨いているのは、電球やない。子供の夢を磨いてるんや。 本読んで勉強してる子供がおるやろ。そんな子供らが、夜になって 暗くなったら、字が読めなくなって、勉強したいのにできなくなる。 そこであんたの磨いた電球をつけるんや。 そうしたら夜でも明るくなって、子供らは夜でも読みたい本を読ん で勉強できるんやで」と、答えました。どんな仕事にも「意味」「目的」がある。仕事は行為ではない。このことを松下幸之助さんは言いたかったのです。自分の仕事に、どんな意味と目的があるかを考えてみると、新鮮な気持ちになれるかもしれません。
2015年03月25日
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【継続は力、諦めないことも力です】 ダイエットのために毎日ウォーキングしよう! と思って始めたもののいつの間にか、途中で止めてしまった経験のある方も多いと思います。初志貫徹は、言うことは簡単ですが実行は難しいものです。昔、ある村に、雨乞いの名人がいました。どんなに評判のいい、有名な祈祷師に頼んでも、雨を降らせることができませんでしたが、その名人に頼むと、必ず雨が降るのです。何故でしょう?有名な祈祷師はお祈りしても雨が降らなかったら、あきらめて帰ってしまいましたが、その名人はお祈りを途中で止めずに、雨が降るまでただひたすら祈り続けたからです。祈り方にもいろいろあるでしょうが、大事なのは「祈りを続けたこと」です。中国のことわざに 十年偉大なり 二十年畏るべし 三十年歴史になる と、いうのがあるそうです。ちょっとした小さなことでも本気でやり続けると、大きな力になります。大事なのは、今の立場で、今置かれている場所で、今自分ができる事を心を込めて取り組むことです。目の前に、「ヤルベキコト」があれば、ただひたすら取り組みましょう。諦めないで続けることは力です。
2015年03月24日
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【人はみんな褒められたいんです】 子ども教育では褒める教育が大切だと、よく言われます。これは、何も子供だけに限ったことではありません。人間は、欠点ばかりを指摘されても成長しないものです。母親はもちろん、父親や学校の先生が欠点より、長所を早く見抜いて、褒めて、きちんと評価してあげることで、褒められた本人は愛情を感じます。あの高倉健さんが、著書『あなたに褒められたくて』というエッセイ集の中で、次のように語っています。「お母さん。僕はあなたに褒められたくて、ただそれだけで、あなたが 嫌がっていた背中に刺青をいれて、返り血浴びて、さいはての『網走 番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』の夕張鉱、雪の『八甲田山』。 北極、南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年駆け続けてこれまし た」『褒められたい』という背景には、喜んでもらいたい、という気持ちがあるからこそで、さらにそこには「愛情」という絆が生まれるのです。何気ない日常の生活、平凡な日常の中に「小さな褒め言葉」をたくさん言える人はきっと、幸せを運ぶ人になれます。 (参考文献:「あなたに褒められたくて」高倉健著、集英社)
2015年03月23日
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【もっと自分に自信を持とう】 世界各国の中学生に、「あなたは価値のある人間だと思いますか?」「あなたには人並み以上の能力があると思いますか?」という、アンケート調査をしたそうです。その結果、アメリカ、中国では50%近くが「はい」、日本で「はい」と答えたのは10%足らずという結果でした。ひかえめで、謙虚な国民性であるからなのでしょうか。しかし、見方を変えれば自分に自信のない人が他国よりも多い、ということにもなります。自分に自信が持てない人ほど、傷つきやすいという傾向があります。 高畑 勲監督のテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」にクララという少女が出てきます。クララは足が不自由でいつも車いすに乗っての生活です。クララはそんな自分のことを「私は、いつもみんなに迷惑をかけている」と思っていました。ある日、クララは友人の家に住む、目の不自由なおばあちゃんのために本を読んであげます。一生懸命に気持ちを込めて読みました。読み終えると、おばあちゃんはクララに言いました。 「本当に心がこもっていて、内容がよくわかりました。ありがとう!」と心からのお礼でした。このおばあちゃんの言葉を聞いたクララは、急に泣き出しました。いつも周りに迷惑をかけている自分でも、こんなに喜んでくれる人がいると思うと、嬉しくてどうしようもなかったのです。どんな人でも、その人なりの力で誰かを幸せな気持ちにした時、その人もまた幸せな気持ちになれるのです。人は自分が必要とされていると思うことが大事です。マザーテレサは「世の中で一番不幸なことは、貧しさや病気ではなく誰からも自分は必要とされていないと感じることです」と言いました。もっと、自分に自信を持ちましょう。どんな境遇でも、誰かの役に立つことができると信じてみましょう。
2015年03月22日
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【人には欠点や弱みを上回る何かがある】 経営コンサルタントで有名な、船井幸雄さんという方は人には欠点もあれば長所もあるが、欠点ばかりを指摘しても成長しない。欠点よりも、その人にしかない良いところを徹底的に伸ばしていけば自然に、長所が欠点をカバーしてくれるものだ、といいました。この考えは多くの企業経営者に受け入れられ、人材教育のあり方に大きな革命を起こしました。これは、社会人だけに限らずすべての人にいえることです。漫画家で「ゲゲゲの鬼太郎」の作者、水木しげるさんもその一人です。数年前、NHKの朝の連続ドラマとして放映されましたが、水木さんの子供時代は勉強が大の苦手でした。両親は小学校入学を1年、遅らせたほどです。とにかく、スローペースの少年でした。朝が弱いため、朝寝坊ばかり。おまけに朝ごはんもゆっくりですから、学校にはいつも2時間目ぐらいから登校するという調子です。しかし、絵を描くのが大好きで、他の生徒よりも断然上手でした。水木少年は、後に漫画家という人生を選択するのです。欠点や弱み、苦手意識がある場合、支障がないほどにとどめて、得意なこと、長所を伸ばすことが大事です。長所を伸ばすことが自分の強みに変わるのです。自分の欠点を見ては、自分をダメな人間だと悲観的に思うより、長所や人より優れた能力を、前向きに思って生きることが大切です。自分自身を悲観的に考えやすい人は、自分に対する自己認識を変えてみることをおすすめします。 文化勲章受章者で彫金家の帖佐美行(ちょうさよしゆき)さんの言葉に次のようなものがあります。 物は見下ろすと欠点がよく見える。見上げると長所が見えてくる。 見下ろして生きるのは不平不満の生き方。 見上げて生きるのは感謝の生き方だと思う。________________________________________ *感謝の生き方をすると長所がよく見えるそうです。
2015年03月21日
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【やりたい仕事がその人の使命】 人には職業への憧れを大なり小なり持っています。子供の頃、「パイロットになりたい」「ケーキのお店を持ちたい」など、様々です。しかし、この憧れにもその時代にあった職種、職業があるのです。今の時代は、衣食住に困るということはほとんどありません。ただ、60~70年前までは厳しい時代でした。安藤百福(あんどうももふく)さんは、1910年生まれ。幼少期に両親と死別し、祖父母のもとで育てられました。その後、努力して事業を起こし、信用金庫の理事長にまでなりますが、倒産してすべての財産を失ってしまいます。戦後、焼け野原となり食べるものがなく、餓死する人の姿を目にしていた安藤さんはこの時、「人間にとって一番大切なのは食だ。食がなければ衣も住も成り 立たない」と痛切に感じたのでした。唯一、残された借家で安藤さんはインスタントラーメンの開発を始めます。日本の食文化である麺類をもっと普及させるべきだと考えていたからでした。失敗続きの研究を始めて1年が過ぎようとしていた頃、ある日夫人が天ぷらを揚げているのを見て、麺を油で揚げて乾燥させる方法を発明したのです。そして1958年「チキンラーメン」が誕生し、時を経て1971年「カップヌードル」が日本で発売されました。「食の安定」こそが、生活の基本と捉えこれを自分がやるべき仕事であるという考えがあったからこそ挑戦したのです。銀行マンが食品事業の創業者となることは、あまり例がないことですが、使命感があったから成し遂げられた仕事でした。●安藤百福さんの名言 〇事業を始める時、金儲けしようという気持ちはなかった。 何か世の中を明るくする仕事はないかとそればかり考えて いた。会社は良い仕事をしたから儲かるのである。 儲けとは答えであって、儲け主義とは違う。 樹齢二千年という立派なブナの木があるが、もとをただせば 鳥のフンからだ。創業とは一粒の種をまくことである。 〇私は事業に失敗して財産を失い、48歳から再出発した。 60、70歳からでも新たな挑戦はある。人生に遅すぎるという ことはない。 私の人生は波乱の連続だった。成功の喜びに浸る間もなく、 何度も失意の底に突き落とされた。 しかし、苦しい時の経験がいざというときに常識を超える力を 発揮させてくれた。
2015年03月20日
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【苦難、苦労から得るもの】 世の中で成功者といわれる人のほとんどが、挫折、逆境つまり、苦難や苦労の経験者です。何の苦労もなく、成功を勝ち得た人も中にはいるかもしれません。しかし、辛い経験をしたからこそ人の気持ちが分かり、理解でき相手の立場でものを考えることができるのです。この意味では、苦難、苦労こそが人を鍛えるための大きな要素であるといえそうです。2012年、iPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授も苦難、苦労を乗り越えてきた人です。山中教授は本来、整形外科医をめざしていましたが技術的に不器用なところもあったそうです。他の医者が20分で終わる手術に2時間ぐらいかかり、ミスも多く指導医からは「山中ではなく“ジャマナカ”」と言われたりしたこともありました。そこで、山中教授は「自分は整形外科医には向いていない」と痛感しました。そして重症のリュウマチ患者の全身の関節が変形している姿を見て衝撃をうけ、このような患者さんを救うため研究者としての新たな道を目ざしたのです。その後は、どうすれば人の3倍の研究ができるかを念頭において、寝食を惜しんで研究に没頭しました。以後、ノーベル生理学・医学賞を受賞するまでには、いろんなことがありました。研究が行き詰まり、半分うつ状態となって朝、起きれなくなり研究者としての道をあきらめかけたこともあったそうです。25年間の研究者としての道は厳しいものでしたが、この経験があったからノーベル賞にたどり着いたのだと思います。________________________________________ ●山中教授の名言 〇高く飛ぶためには思いっきり低くかがむ必要があるのです。
2015年03月19日
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【諦めない限り不可能はない】 自動車王、ヘンリー・フォードのお話です。12歳の時に、母親を亡くします。学校での成績はかんばしくなく、いたずら少年でした。しかし、算数では群を抜いていました。また機械が大好きで時計のような機械を分解してしまう困ったクセがあったため、家族はフォード少年の目につかないところに隠すことも度々でした。13歳のとき、蒸気で走るエンジン車を見て衝撃を受け、これが後に自動車開発への夢の始まりとなるのです。しかし、父の仕事が農業のため、農作業に従事しますが好きになれず家を出てしまいます。16歳で、車両工場の見習い工になりますが、修理の技術があまりにも優れていたので先輩工員からのいじめに遭い、辞めてしまいます。実家へ戻ると、同じ町にある製材所から声がかかり、蒸気エンジンの操作の仕事に就くことになりました。ある時、父親が使い捨てた草刈り機をトラクターに改良しようと考え、2年がかりで成し遂げるなど忍耐力も強い性格でもあったのでした。その後、会社を起こしてついにガソリン・エンジン車を開発し、順調なように見えましたが、大きな問題が起きてしまいます。それは、特許の問題でした。ある人物がガソリン・エンジン車を1台も作っていないのに、実験に成功しただけで既に特許を獲得していたのです。この人物からフォード社は訴えられたのでした。フォードは8年の歳月をかけ、この裁判に勝ちました。彼の自動車に賭ける情熱と忍耐が、勝利を手にしたのです。________________________________________ ●ヘンリー・フォードの名言 〇努力が効果をあらわすまでには、時間がかかるものです。 多くの人がそれを待てないのは、悲しいことです。 〇失敗が恐ろしく見えるのは、 目標から目を離している時なのです。
2015年03月18日
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【心が挫けそうになったら】 失敗したり、困難に出会った時は誰もが、挫けそうになります。こんな時は、どうすればいいのでしょうか?コピー機メーカー・リコーの創始者、市村 清さんは佐賀県生まれ。三愛グループの創始者でもあります。市村さんは恵まれない家庭で育ちました。中学と大学を中退し、満州(現在の中国)に渡り銀行に勤めますが、その銀行も倒産します。日本に戻りますが、就いた仕事は保険の営業マンでした。2か月の間、一日も休まずに勧誘のため歩き回りますが、一件の契約もとれません。生活費も底をつき、夜逃げしようかと奥さんに弱音を吐いたこともあったそうです。奥さんからの励ましもあって「今のままで、終わるわけにはいかない」ととにかく、やるべき今の保険の勧誘に全力で取り組み、年末最後の大晦日まで歩いたのです。夜10時、ある家の呼び鈴(当時はインターホーンなどない時代です)をそれこそ恐る恐る鳴らしました。出てきたのは家の主人でした。「あなたは、今日で9回来られたが、今度あなたが来たら保険に入ろう と家内と相談していたところです」こう言って、市村さんを迎え入れてくれました。不思議なことに、これ以降契約がいくつも成立して上京することになりリコーを創業することになるのです。困難や挫折にあい、挫けそうになったら、「人生を深めてくれる好機」と考え、あきらめないことが大事です。市村さんは後日、こう語っています。「保険のセールスをしていた時代、契約がとれず辞めようと思った直後に 初契約がとれ、その後大きな実績をあげることができた。 あきらめてはいけない。最後の一押しが成否を決めるのだと、紙一重の 差を私はそこで悟った」
2015年03月17日
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【願いが達成される為に必要なもの】 人にはそれぞれに夢や願望があります。例えばサッカーの好きな少年が、将来プロサッカー選手になろうと思ったら、すなわちそれが夢となります。その夢は、心または意識の中でイメージ(映像化)されていくものです。このイメージが強いほどその人は、他の人よりも達成する可能性が高いと言えます。アメリカの32代大統領、ルーズベルトは自分の願いを、人並み以上のイメージの力で実現した人でした。彼は政治家として活躍していた39歳の時、小児麻痺に罹りました。なんとかして、松葉杖を使わずにステッキだけで歩けるようになりたいと決意します。家族や周りの人も再び歩けるようにと、彼に杖をプレゼントしました。彼は大変喜び、その杖にもたれて自分に「お前はきっとまた歩ける!」と言っていたそうです。その後、ある医者がルーズベルト大統領に闘病生活の体験を聞くと、こう答えました。「静かに運動すること、マッサージと日光浴が大切である。しかし、 それよりもさらに大事なのは、患者自身がこの病気は結局治る、 と信じることである」信じること(病が治った姿を、繰り返しイメージすること)は夢や願いを実現するための必要な条件なのです。少年がプロサッカー選手になりたいなら、まず自分がプロの選手として走る姿を繰り返しイメージすることが大事なことです。
2015年03月16日
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【自分が得意とすることは何か】 落ち込みやすく、悩みやすいタイプの人は、「自分が苦手なこと」だけを考える傾向があります。「これができない」「あれができない」「今日もできなかった」と、失敗したことを責めてしまいます。こんな気持ちの時間が多い人ほど、表情もなんとなく暗いものです。だれにも得意・不得意なものがある、と割り切ってみましょう。「苦手なことがあって、当然」と思えばいいのです。そして、「苦手なこと、できないことはたくさんあるけど、得意なことも少しはある」と、自分ができることに目を向けていくと、心が軽くなりいつのまにか、生きる希望になることがあるのです。ピアニストとして活躍中の、フジ子・ヘミングさん。スゥエーデン人の父と日本人の母の間に生まれました。5歳で日本に移住し、10歳からピアノを始め才能を発揮して、多くの音楽賞を受賞するほどでした。しかし、中耳炎になり右耳の聴力を失い、その後左の耳も聴力を失ってしまいます。ピアニストとして生きるほかに道のない彼女は、治療を受けながら各地でコンサートを開きますが、キャンセルが続き次第に生活も苦しくなるのでした。食事も十分にとれないほど困窮した時期が続きました。ところが66歳になっていたフジ子さんのことが、NHKのドキュメント番組で放映されたあと、彼女の演奏を聞きたいという視聴者からの声が沸き起こったのです。フジ子・ヘミングさんの演奏には、人の心を打つものがあります。不遇な時代を、じっと耐えてピアノに自分の人生を託し、希望を捨てずに生きてきたからなのでしょう。彼女はこう語っています。『あのときの不幸は、より大きな幸福のために必要だった。 私たちにもそんな日がきっと来ます。人生は先が楽しみなのです』*フジ子・ヘミング著「希望の力 くじけない、あきらめない心」より現在82歳で、活躍されています。
2015年03月15日
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【自分を元気にする言葉の効用】 クヨクヨ考える人の特徴は「どうして自分はダメなんだろう」というように思いがちです。自分を否定的に考えてしまうクセ(思考習慣)がそう思わせるのです。言い方をかえれば、「自分で自分自身を傷つけている」わけです。私たちは、意外とここに気づかないものです。もし、自分に否定の言葉を使っていることに気づいたら、深呼吸してみましょう。これだけでも心にブレーキをかけることになります。深呼吸をすると、横隔膜が刺激を受けることで脳内ホルモンの快感物質が放出されます。小さなことのようですがよくない言葉が浮かんできた時、静かに深呼吸することを習慣化できたら、イライラの感情から支配されなくなります。中村天風という人が始めた「心身統一法」というのがありますが、有名な松下幸之さんや、稲盛和夫さんはこの心身統一法の影響を受けていて、独自の深呼吸を行います。また、中村天風さんは言葉には力があり、消極的(マイナス)な言葉より積極的(プラス)な言葉を発することが大事だといいます。否定の言葉はマイナスエネルギーに変わりやすいもの。プラスに転じるためにポジティブな考え(好転思考)に切り替えてみましょう。
2015年03月14日
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【不幸の原因がわかっても幸せにはなれません】 仕事で嫌なことがあったり、プライベートで辛いことがあった時「どうして自分はこんな苦しい思いをしなくてはいけないの?」と思いがちです。そして原因を探しはじめて「あの上司が悪いんだ」「彼は私のことなんてどうでもいいんだ」と自分以外の人の責任にすることで、なんとか、その時は気持ちも落ち着きます。しかし、これでは根本的に解決したことにはならないのです。逆に、相手に対する「良くない感情」(マイナスのエネルギー)が増えていくことになり、幸せから離れていきます。心の不思議なところは実は、こんな日常の出来事で大きく左右されるのです。ベストセラー小説『氷点』を執筆した三浦綾子さんは24歳の時に結核に罹り13年間、入院生活で苦しみます。そんな中幼馴染の前川さんと再会し、互いに惹かれあいますがその前川さんもまた、病気で亡くなります。三浦さんは次は、脊椎カリエスを患いギブスに固められる生活を送ることになります。しかし、そんな状況でも三浦さんは、「なぜ、私だけがこんな目に遭うのか」とは思いませんでした。「この病気が自分に何をもたらしてくれるのだろうか」、と考え病気によって成長し新しい発見があったといいます。不幸の原因を探すことより、その逆境や困難が自分に何を与えようとしているのか、この立場から考えることが幸せにつながる道です。________________________________________ 三浦綾子さんの名言 ●つまづくのは、恥ずかしいことじゃない。 立ち上がらないことが、恥ずかしい。 ●困難の中でこそ、人は豊かなのです。
2015年03月13日
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【子供の聴力障害を癒した父の信念】 成功哲学の祖といわれているナポレオン・ヒルは1883年、アメリカで生まれました。9歳の時に母親が亡くなります。雑誌記者になりたての頃、当時実業家で鉄鋼王と呼ばれていたアンドリュー・カーネギーとの出会いが彼の人生に大きな影響を与えることになります。20年間、500名の各界著名者がどういうプロセスで成功したのか、「成功の秘訣」を体系化、プログラム化のための研究を行いました。しかも報酬はありませんでした。彼のひたむきな姿勢は信頼を得ることになり、ルーズベルト大統領の顧問官まで務めることになりました。彼、ナポレオン・ヒルには障がいのある息子がいました。耳がないという障がい児で生まれたのでした。医師から、一生治らないと宣告された時ナポレオン・ヒルは医師の言葉を信じなかったそうです。「息子は聞いたり、話したりできる能力をもっている。耳がなくとも 音を脳に伝達する方法が絶対にあるはずだ。父親としての信念と願望 を息子の心に植えつけることが先決だ」彼は、こう考え自分に言い聞かせ、息子にもその教育を徹底しました。ある時、ナポレオン・ヒルが息子の頭蓋骨の斜め下の、少しとがった骨に唇を当ててしゃべると、聞こえるようになることを発見したのです。そして、息子が20歳の時、耳に相当する部分に補聴器を当てると音を聞くことが可能になりました。さらに、息子は補聴器の改良すべきところをメーカーに提案し収入を得ることになったのでした。常識的に考え、無理と思える病気でもナポレオン・ヒルは、信念と願望を持ち続けることで現実化したのです。著書「思考は現実化する」は世界で7.000万部以上発行され、今でもロングセラーとして読まれています。ナポレオン・ヒルの名言●失敗や逆境の中には、全てそれ相応かそれ以上の、大きな利益の種子 が含まれている●人間に挫折や失敗はつきものである。問題は、そこから教訓と成功の 糧を引き出せるか否かである
2015年03月12日
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【憎しみを乗り超えてつかんだもの】 Sさん(男性)はある金融機関に勤めていました。上司からのパワハラを受け、苦しんでいたのです。大声で怒鳴ったりというものではなく、陰湿なものでした。書類の1文字の間違いを指摘し、2時間も立たせたまま人の心や、プライドを傷つける言葉を発し続けるのでした。これがほぼ毎日です。Sさんは耐えますが、ストレスは限界に達し、吐くようになりました。2年我慢しましたが、ついに高熱と下痢に襲われ、大量の下血で倒れてしまいます。3か月の入院と治療が必要でした。こんなことになったのは、アイツのせいだと憎みました。しかし、医者から「なぜ、病気になったのか気づかないと再発しますよ」さらに「あなたは感謝が足りない。それが病気の原因です。その憎い上司にも 感謝しなさい。病気になったことにも感謝するのです」と言うのです。Sさんには、アイツに感謝するなんてできるはずがないし、する必要もない、という気持ちしかありません。しかし、入院は二度としたくない、という一心で考えを変えてみようと思ったのでした。次の日から、毎朝、朝日に向かって手を合わせ「〇〇さん、ありがとう」と上司の名を唱えるのです。初めは嫌々でしたが、1,2か月と続けていく内に心に変化が現れました。「あの上司は、私のことを思って厳しくしてくれたのではないか」と思うようになったのです。実は、Sさんは仕事はトップクラスでしたが傲慢な性格であることは自分でも解ってはいたのです。しかし「ありがとう」を繰り返す内に、少しずつ謙虚になっていく自分に気づきました。その後、Sさんは独立し自己啓発の講演会や本を出版する仕事を始めて人生が好転しました。Sさんは、「今の自分があるのは、あの上司との出会いがあったから」と思っているそうです。
2015年03月11日
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【家族の支えにありがとう】 スキージャンプ選手の葛西紀明さん。現在43歳で現役です。9歳でジャンプを始め、高校1年生の時に世界選手権に出場しました。これまで、怪我をしたり成績が悪かったりの時期もあれば、所属するスキー部がなくなるなど大変なこともありましたが、葛西さんは一度も苦しい、辛い、などと思ったことは一度もないそうです。理由は、「母さんや妹の苦しみに比べたら、好きなスキーをやらせても らっている自分の苦しみなんて」と思い直しているからです。お母さんは、48歳の時火災事故で亡くなります。また妹さんは再生不良性貧血という病気で今も闘っています。葛西さんが中学時代、お母さんは朝から夜までパートのかけもちで働き、お姉さんもスキーをする葛西さんのために、お給料の一部から援助してくれました。1998年の時の話です。長野オリンピックの前の年ですが成績不振で、ある大会に参加できず悔しい思いをしていた時、お母さんから手紙が届きました。手紙には母親としての思い、妹さんが頑張っていることが書かれてありました。そして「一生に一度、縁があって巡り会えた人を大切にしてください」と追伸に記されていました。まわりの人たちに感謝することの大事さを、この手紙で教えられたそうです。妹さん思いの人で、口癖は「妹のために」だそうです。 いまこの時をがんばれ。 絶対におまえは世界一になれる。 (「母からの手紙」より) (参考文献:「家族で獲った銀メダル」光文社。葛西紀明著)________________________________________ 1.冬季五輪出場7回 2.ワールドカップ最年長優勝 3.冬季オリンピック最年長メダリスト 上記の3つ、ギネス世界記録に認定されています。
2015年03月10日
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【悟りとはどんな時でも平気で生きること】 『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』 この俳句で有名な正岡子規。明治35年に34歳の若さで亡くなりました。愛媛県松山市生まれ。帝国大学(現在の東京大学)の国文科で学びます。俳句をはじめ、文学者としての才能をもっていました。27歳で結核になり、亡くなるまでの7年闘病生活を続けます。生涯で約24.000以上という、俳句を作りました。大変な創作意欲をもった人でもありました。また人間としての真の強さを備えた人でもあったようです。亡くなったのは明治35年9月ですが、その年の5月の随筆にこう書かれています。「病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病牀が余には 広過ぎるのである・・・・。余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ 事を誤解して居た。 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たの は間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居るこ とであった」 (※注:「病牀」とは「病床」のこと。「六尺」は約180センチの長さ)淡々と書かれていますが、結核菌で皮膚も侵されていて、お尻、背中には穴があき膿が流れ出るような状態でした。その、状況下でもこれほど「生きる」ことの意味を考える正岡子規の強さが尚一層、感じられます。________________________________________ 正岡子規の句の中から 『故郷やどちらを見ても山笑ふ』 『春の日や病牀にして絵の稽古』
2015年03月09日
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【努力は目に見えないが・・・】 かつて、女性マラソン選手にジョイス・スミスさんという人がいました。イギリス人でママさん選手として話題のアスリートでした。第二回の東京国際マラソンで優勝。スミス選手はこの時43歳。もともと陸上の中距離選手で、23歳の時にクロスカントリーのイギリス選手権で優勝しますが、その後結婚、出産。34歳で復帰します。40歳で初めてマラソンに挑み2時間41分37秒を記録します。そして、東京国際マラソン後、ロンドンマラソンでは2時間29分43秒の記録を樹立するのです。もともと、走ることが好きだったからできたことなのでしょうが、単にそれだけではありません。彼女はたえず、目標をたてそのために努力して自分の限界に挑戦し続けました。さらにさかのぼって、東京オリンピックでは8位でしたが、メキシコオリンピックで2位、ミュンヘンオリンピックで5位、生涯50回以上のマラソン・レースに出場し12回の優勝をした、君原健二さんもスミス夫人と同じように、努力の人でした。君原選手は走っていて苦しくなると、「まず、次の電柱まで走るんだ!」と思いながら走ったそうです。身近な目標を、一つ一つ成し遂げていく姿勢はすべての人に共通して大事なことです。________________________________________ ●目標に向かって努力している人へのメッセージ 「努力の成果なんて目には見えない しかし、紙一重の薄さも重なれば 本の厚さになる」 (君原健二)
2015年03月08日
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【努力は目に見えないが・・・】 かつて、女性マラソン選手にジョイス・スミスさんという人がいました。イギリス人でママさん選手として話題のアスリートでした。第二回の東京国際マラソンで優勝。スミス選手はこの時43歳。もともと陸上の中距離選手で、23歳の時にクロスカントリーのイギリス選手権で優勝しますが、その後結婚、出産。34歳で復帰します。40歳で初めてマラソンに挑み2時間41分37秒を記録します。そして、東京国際マラソン後、ロンドンマラソンでは2時間29分43秒の記録を樹立するのです。もともと、走ることが好きだったからできたことなのでしょうが、単にそれだけではありません。彼女はたえず、目標をたてそのために努力して自分の限界に挑戦し続けました。さらにさかのぼって、東京オリンピックでは8位でしたが、メキシコオリンピックで2位、ミュンヘンオリンピックで5位、生涯50回以上のマラソン・レースに出場し12回の優勝をした、君原健二さんもスミス夫人と同じように、努力の人でした。君原選手は走っていて苦しくなると、「まず、次の電柱まで走るんだ!」と思いながら走ったそうです。身近な目標を、一つ一つ成し遂げていく姿勢はすべての人に共通して大事なことです。________________________________________ ●目標に向かって努力している人へのメッセージ 「努力の成果なんて目には見えない しかし、紙一重の薄さも重なれば 本の厚さになる」 (君原健二)
2015年03月08日
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【死に別れた母親の本当の愛】 西村滋(にしむらしげる)さんという、作家のお話です。昭和の大スター、石原裕次郎さん主演の映画の原作となる作品も発表しました。西村さんが小さい頃、お母さんは結核で自宅療養していました。子供ですから、お母さんに甘えたいのは当然のこと。母のそばに行こうとすると、お母さんは西村さんを拒否しました。それはただ、会わないだけでなく、物を投げたりひどい言葉を子供の西村さんに浴びせるのです。西村さんは悲しくなり、母を憎むようになりました。実は、お母さんは滋少年が可愛くてしかたなかったのです。ただ、当時結核は不治の病といわれ、子供に感染しないようにと思ったこと。そして、自分が死んだ後に新しい母親が来た時、死んだ母が優しい人だったという記憶が残ると、新しい母親から愛してもらえないかもしれないと思ったからでした。当時の家には家政婦の人がいて幼稚園から帰ってくると、その家政婦の人が「今日はどんな歌を習ってきたの?」と言い、母親が寝ている離れの方に向かって歌わせるのです。お母さんは、西村少年の声を聞きながら涙を流していたのでした。この母親の本当の気持ちを知らされることなく、6歳の時お母さんは亡くなりました。そして9歳で父親も亡くなりました。西村さんは母親から受けた仕打ちが悲しみと憎しみの記憶として残っているだけでした。その後、西村さんは孤児院に入り非行に走り、また孤児院に入り非行に走るという生活の繰り返しでした。そして少年院で13歳を迎えた時、6歳の頃家政婦をしていたおばさんが、突然、面会に来てくれたのです。死んだお母さんから、子供が20歳になるまでは、「なぜ、自分が子供に冷たかったのかの理由を口止めされていた」そうです。しかし、そのおばさんも胃がんになって、生きている内にほんとのことを話しておかなくてはと、訪ねてきてくれたのでした。話を聞かされた、西村さんは涙が止まりませんでした。母の本心が解ったことはもちろんですが、自分はお母さんから愛されていたんだ、お母さんも辛かったんだと気づいたのでした。この時に西村さんは人間として立ち直ったそうです。その後、少年養護施設の職員となり、作家への道を進むことになります。
2015年03月07日
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【自分の道】 道 道はじぶんで つくる 道は自分で ひらく 人のつくったものは じぶんの道には ならない (相田みつを:「いちずに一本道 いちずに一ッ事」より)________________________________________ 重度の難聴児として生まれたMさんは、中学時代にひどいいじめに遭い、自殺寸前にまで追いつめられた。首にロープを巻き、その悲しみだらけの短い生に目を閉じたその時、ふっと彼の頭の中に聞き覚えのある音色が流れた。 死ぬな、死ぬな。生きろ、生きろ。 音色は幼稚園のころから習っていた和太鼓だった。和太鼓の音色がMさんを励まし、救ったのだ。「そうだ、ぼくにも友だちがいる」 それを機に、Mさんは和太鼓奏者の道に生きる決意を固めた。10年後、和太鼓集団の一員として、ニューヨークのカーネギーホールの舞台にMさんは立っていた。その後Mさんは独立、日本を代表する和太鼓奏者になった。 (相田みつを:『なやみはつきねんだなあ』佐々木正美著より)________________________________________ ●つらい道を逃げないこと 自分のめざす場所にたどり着くためには 進まなければ (キャサリン・アン・ポーターの言葉です)
2015年03月06日
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【人には運命の出会いがある】 今から15年前、「さとうきび畑」という歌でデビューした新垣 勉(あらがきつとむ)さん。新垣さんは1952年沖縄で生まれました。出生後すぐに不慮の事故にあいます。助産婦のミスで失明してしまいました。さらに、1歳の時両親が離婚。母親は再婚しますが、新垣さんは母親と一緒に暮らすことはできませんでした。母親は新垣さんを祖母に預けていなくなったのでした。子どもながらに自分の境遇に希望をなくし、自暴自棄となって自殺しようとしたこともありました。中学2年の時、母親代わりの祖母が亡くなり天涯孤独となってしまいます。「いつか、父親を探しだして殺してやる。自分を捨てた母親、自分の 目を失明させた助産婦にも復讐してやる・・・」新垣さんの心は荒んでいくばかりでした。高校1年のある日、ラジオから讃美歌が流れているのを耳にしました。歌が好きだったので、「教会に行けば讃美歌が歌えるかもしれない」と思い、教会に行くのでした。この時出会った城間牧師によって、新垣さんの心は大きく変わっていくことになるのです。新垣さんは自分の生い立ち、両親への恨み、助産婦への怒り、すべてを語りました。城間牧師は、ただ黙って新垣さんの話を聞いてくれました。話し終わると同時に、新垣さんは牧師が泣いていることに気づきました。「私のために涙を流してくれる人がいるなんて・・・・」城間牧師と奥さんは、新垣さんに家族のように接してくれました。その後、声楽家と牧師になりたいと思うようになりました。さらに、福岡県の西南学院大学の神学部に在学中に、イタリアの世界的なボイストレーナーのアンドレア・バランドー二さんと出会い、この時「君の声は素晴らしい。日本人にはない素晴らしい響きがある」と称賛されました。そして、自分が生まれた時のことを話すと、アンドレアさんは「辛い体験だったと思うが、素晴らしい声を授けてくれたお父さんに 感謝しなければなりません。またその声は神様からのプレゼントです。 その声で、多くの人を元気づける歌を歌いなさい」と、言いました。(※新垣さんの父親は、メキシコ系のアメリカ人です)この、アンドレアさんの言葉で新垣さんは両親を恨む気持ちが癒されたそうです。その後、歌手活動を始めますが「音楽大学も出ていないのに声楽家になろうとはおこがましい」と言う人もいました。彼は34歳で武蔵野音楽大学に入り、大学院まで進みます。そして、2001年『さとうきび畑』を発表し、その後コンサート活動を続けています。
2015年03月05日
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【娘の死を乗り越えて】 植木さんは中学校の先生でした。亜紀子(あっこちゃん)という娘がいました。3歳の時に白血病になり8年の闘病の末、亡くなりました。可愛い娘が病気で苦しんでいても、教師として生徒指導に取り組み続けたことが、父親として果たしてよかったのか、煩悶の中にいた植木さんは、娘が書き残した9冊の日記を読みました。日記には、病気からくる体の痛みに耐えながら、周りの人に気を使う心の優しさが綴られていました。________________________________________ 〇月〇日の日記 今度の入院からはいろいろなことを学んだ気がします。 今までやったことのない検査もいろいろありました。 でも、辛かったけど全部そのことを、乗り越えてやってきたこと、 やってこれたことに感謝いたします。 これはほんとうに、神様が私にくれた一生なんだな、と思いました。 きっとほんとうにそうだなと思います。 もし、そうだとしたら、私は幸せだと思います。 〇月〇日の日記 早く左手の血管が治りますようにお祈りいたします。 そして日記も長続きして、元気に食よくが出ますように。 また、いつも自分のことしか考えている子にしないでください________________________________________ 白血病は痛みとの戦いです。抗がん剤点滴の注射は何回もやっていくと血管が細くなりついには、針が通りにくくなってきます。そしてそのたびに痛さを我慢しなければならないのです。ある時、あっこちゃんが抗がん剤点滴で苦しかったとき、たまたま親が傍らにいなかった病気の赤ちゃんが泣き出しました。あっこちゃんは赤ちゃんをあやしにいきます。するとその赤ちゃんはすぐに泣き止んだそうです。11歳の少女、あっこちゃんは「ママ、ごめんね・・・・」の言葉を最後に残して、天国に旅立ちました。父親の植木さんは、娘さん(あっこちゃん)が残した日記を出版しました。 (引用:「ママ、ごめんね」=あっこちゃんの日記= 植木 誠著 教研学習社)
2015年03月04日
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【夢を追って頑張ろう!】 世界で8.000万部以上、売れている漫画「キャプテン翼」の作者高橋陽一さんのお話です。高橋さんが高校3年の時、1978年W杯のアルゼンチン大会をテレビで見ていました。この時にサッカーの面白さにのめり込んでしまいました。そして、サッカーの漫画を描いてコンクールに応募したら、入賞したのです。中学校では卓球、高校では軟式野球をやっていました。漫画好きなこともあって日本のサッカーが世界に通用するように強くなれば、という願いを込めて、「キャプテン翼」を書きはじめました。W杯の経験者、中田英寿や小野伸二などは、このキャプテン翼の影響を強く受けた選手で他にも数多くの人が、この漫画をきっかけにしてサッカーを始めています。なぜ、この漫画がヒットしたのか?確かに、サッカーは世界的なスポーツだったことも要因の一つですが、高橋さんが最も訴えたかったのは、「弱い者が頑張って強い者に勝つ、その夢を追うことの大切さ」でした。例えば、登場する「石崎了」。DFですが、もともと天才でなくても努力すればやれる、できるということを託しました。高橋さんはこの石崎了を、陰の主役として描いています。世界中の子どもたちに夢を与えることは、素晴らしいことです。本田圭佑は「日向小次郎」が好きだったそうです。夢を持ち、夢を追う。これは、子ども、大人に関係なくとても大事なことです。________________________________________ 「夢」の名言 ●本田圭佑 俺は、スーパーマンでもなんでもない。 ただ、みんなが嫌がることもやれるし、 夢のためにやりたいことも我慢できる。 それを本当に徹底していて、 あとは人よりも思いがちょっと強いだけ。 その差が結果に現われたりするんです。 ●イチロー 夢をつかむことというのは一気にできません。 小さなことを積み重ねることで いつの日か信じられない力を 出せるようになっていきます。
2015年03月03日
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【人として3つの大切なこと】 塩沼亮潤(しおぬまりょうじゅん)さん。1968年生まれで、仙台市の慈眼寺(じげんじ)の住職です。23歳の時から1000日間1日も休まず、往復48キロの山道を歩き続ける、という修行を成し遂げた人です。「大峯千日回峰行」(おおみねせんにちかいほうぎょう)というもので1日16時間かけて、高低差1300メートルの山道を歩く修行です。1300年の間、この修行を成し遂げた人は塩沼さんを含めて2人しかいないそうです。天気の良し悪し、体調の良し悪し関係なく、いったん修行を始めたら途中でやめるこことはできず、常時ロープと短刀を携帯して山に入ります。もし、途中でできない時はロープで首を吊るか、短刀で腹を切るか、命を捨てなければならないそうです。さらに、この修行を成し遂げた後は、「四無行」といって、9日間、飲まず、食べず、寝ず、横にならず、という修行をやります。この修行に入る前は、親族、友人が集まり「生き葬式」が行われます。塩沼さんは、この2つの修行を成し遂げたとき、一体何を思ったのでしょうか?まず、「自分が生かされている」ということを実感したそうです。次に、生かされていることに「感謝」の思いがあふれたそうです。そして、「人として3つの大切なこと」 〔感謝〕 〔反省〕 〔思いやり〕この、3つを悟りました。極限状態に置かれた人の言葉だけに重みがあります。________________________________________ 塩沼亮潤さんの名言 ●過去を追うな 未来を願うな 過去はすでに捨てられた そして未来はまだやってこない だから現在のことがらを それがあるところにおいて観察し 揺らぐことなく 動ずることなく よく見極めて実践せよ ただ今日なすべきことを 熱心になせ ●人は誰でも一人では 生きていけませんし それぞれに辛いこと苦しいこと、そしてさまざまな迷いを 抱えながら生きていかねばならない時もあります そんな時こそ、自分一人だけが苦しいと悲観的にならず、 世の中にはもっと苦しい思いや 悲しい思いをしながらも 頑張っている人たちがいるんだ と自分に言い聞かせ みんな共に生きているんだ という思いやりの心をもち 笑顔を心がけることです
2015年03月02日
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【親孝行について】 2月22日のブログでご紹介したEH(株)の創業者、深江さんが親孝行の実践について提唱していることがいくつかあります。一つは、親を大切にするということは具体的にどうすればよいか、思いつかないもの。そこで会社では社員全員に自分の誕生日に、親に感謝の祝電を打たせています。実際やるとなると、恥ずかしさが先にくるようですが、あえてやってもらうそうです。「25歳になりました。今、新潟で頑張っています。25年前に 生んでくれてありがとうございます。美味しいお菓子があった から送りますので食べてください」と、いった内容です。もらった親は嬉しいはずですね。(祝電でなくても、メールでも構わないと思います)________________________________________ もう一つは、親に相談することも親孝行だと深江さんはいいます。例えば、就職活動をしている時、「この会社がいいと思うけど、お父さんどう思う?」とパンフレットなどを見せて、相談する。結婚したい人が現われたとき「お父さん、結婚します」と、突然宣言するより、「親父、結婚したい人がいるんだけど、一度会ってもらえないかな?」と、親の顔を立ててあげる。________________________________________ もし、親との関係が良い状態にはないにしても、マナーとして親を大切にする心は持ちたいものです。以前、心理学者、小林正観さんが父親を憎んでいる女性から相談をうけた時のことを紹介しましたが、このとき、小林正観さんが「憎い親でも、尊敬できない親でも、感謝はできませんか?」と言いました。結局、その女性はやってみようという気持ちが湧いてきました。まず、心の中で小さな声でもいいから、「ありがとう」とつぶやいてみる。ここから、親孝行への大きな第一歩が始まると思います。
2015年03月01日
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