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【言葉以上のものを文字で伝える人】 斎藤里恵さん、1984年生まれ。1歳10か月で聴力を失います。仕事は、銀座のクラブのホステスです。お客さんとのやりとりは筆談で行います。 この日は、半導体メーカーの下請け会社社長、Cさんの60回目の誕生日。還暦祝いで部下の人と里恵さんのお店に来ました。「Cさん、本当にお疲れさまでした」「ありがとう里恵ちゃん。今日はおいしいお酒飲ませてね」こんな内容を筆談でやりとりしているとCさんが、さらにメモに書き込みました。「会社に入って42年、難題続きで心が安まる暇がなかったなあ」と。里恵さんは、Cさんの気持ちを感じ取り、次のように書き込みました。「難題の無い人生は、 “無難”な人生。 難題の有る人生は “有難い”人生」Cさんは、このメモをみてグッときたそうです。 さらに、ある日、デザイナーのFさんが来店。今の事務所から独立するべきかどうか迷っています。「自分を育ててもらった恩義もあるし、独立したとしてもやっていける かどうか不安・・・」 里恵さんは、メモに書きました。 活 出『発』達 動 「屋根の下なら、雨風はしのげますが、『廃』れます」*「発」の字は勢いのあるよい字ですが、屋根の下に入ると「廃」となり 廃れてしまうと、伝えたそうです。その後、Fさんは独立して自分の事務所を開きました。________________________________________ 斎藤里恵さんは、4月26日に行われた東京都北区の区議会選挙に立候補しトップ当選しました。得票数は6630票だったそうです。 障がいのある方、社会的弱者の方がもっと生活しやすくなるような社会を実現したいと、政治への道にあらたな挑戦です。投票日の翌日、早朝7時過ぎ、街頭に立ちました。手には筆談用の電子メモパッドを持っています。 「皆様のおかげで当選いたしました! 今後ともよろしくお願いいたします!」 通行人の人達の中から「おめでとう」「頑張ってね」の声が響いて いました。 (斎藤里恵さんとお客さんとのやりとりについては、光文社発行 「筆談ホステス 67の愛言葉」斎藤里恵著から引用させて もらいました)
2015年04月30日
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【心の健康、大丈夫ですか?】 今日は心の病気についてのお話です。5月病というのがあります。最近は6月病という呼び方も聞きます。ただし、これらは正式な病名ではないと言われています。身体が不調で、病気の時は痛みが出るのですぐにわかります。食べ過ぎてお腹が痛い。スポーツをし過ぎて、肩や腰などの筋肉痛になるなどです。ところが心の不調、病気の場合、原因がはっきりしない場合が多い為つい放置してしまします。5月は進学、就職などで環境が変わって約1ヶ月が過ぎた頃で、初めは頑張れた心も、限界がきてしまうのです。心の病気では、身体でいう痛みの代わりに「不安」や「緊張」などを感じます。身体の病気なら医師の診断を受ければいいのですが、心の病気は本人の取り組み方次第で変わるのです。心に不安・緊張を感じたら、次のように考えましょう。「身体は普通にしてても時々は、調子がおかしくなる。 心も同じで不安になることもあるものだ」と、いうふうに。精神的な疾患の大部分は、神経症とうつ病です。人間は一生の中で、何らかの心の病気になる人の割合は40%とも言われていますので、あまり気にしないほうがよいかもしれません。仕事がら、いろんな方の相談を受けますが、共通して感じることは精神的に健康な人と、病気の人との中間点の方、つまり半健康の状態のまま、生活している方が多いような気がします。単に気分の浮き沈みだろうと、気楽に考えられる人はストレスと上手に付き合い、いつのまにかスランプを越えていきます。気楽に考えることは、いい加減という意味ではなく、ゆったりとした気持ちになることだと考えましょう。________________________________________ ●自分の心に、雨や嵐が降ってきてもそっと静かに見守って あげましょう。 あなたの心は雨や嵐ぐらいでは倒れません。
2015年04月29日
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【偉大な業績も地道にコツコツから】 イチロー選手がまた一つ、記録を塗り変えました。王さんのもつ得点記録1968得点を越えました。イチロー選手が愛工大名電高に入学した時の体格は、身長170センチ、体重55キロだったそうです。当時の監督さんは、こんな体で厳しい練習についてこられるのか?と、思ったほどでした。3年間の寮生活は、とても厳しかったそうです。ある時、グランドの片隅に幽霊が出るという噂が出ました。監督が気になり、深夜見に行きます。ヒューッ、ヒューッと不気味な音がしていました。暗がりでよくわかりませんでしたが、そこには黙々と素振りをするイチローの姿があったそうです。3年生の時、彼は打率7割の打者になっていました。人間性も、人の気持ちに敏感な感受性をもっています。3年生の夏、最後の甲子園を目指しての県大会で決勝まで進みますが、惜敗。選手たちは号泣していました。この時、イチローはグランドで泣く他の選手達から離れ、応援団席に走っていきます。そして、出場できなかったたった一人の同級生に「ごめんな」と声をかけました。偉大な人は、やるべきことを毎日コツコツとやり続けます。偉大な人は、他人のことまでちゃんと考える、思いやりがあります。見た目はクールなイチロー選手ですが、誰よりも繊細で強い人です。これから試合に出る回数も多くはないでしょう。でも、少しでも前進して、みんなに希望を与えて欲しいですね。________________________________________ アメリカの詩人、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの言葉。 偉大な人々の業績は、 突然の飛躍によって、 成されたものではない。 彼らは仲間が眠っている間、 夜もコツコツと努力をしていたのである。
2015年04月28日
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【愛語と愛行は繁栄を呼ぶ】 東京のある飲食店のオーナーの話です。三十代の若い女性ですが、元社長の父親が急に亡くなり、跡を継ぐことになりました。経営にはまったく知識がなく、飲食店経営のセミナーに進んで参加し勉強しますが、売り上げも思うように伸びず悩んでいたそうです。体調も良くない状態が続きました。そこで、まず今までのやり方を変えようと考えていた時、自分が社長になってから社員の雰囲気が暗くなったという、あるお客様からの声を耳にしたのです。彼女は、一つのアイディアを思いつきました。毎月の給料と、ボーナスを社員一人ひとりに、直接手渡しその時に「本当によく仕事をしてくれました。ありがとうございました」と合掌して言葉をかけていくことにしました。翌日から、社員の何人かが笑顔で仕事をする光景が見えはじめ、翌月の売上が10%増えました。半年後、社内の雰囲気は以前とは違ってよくなり、売上もさらに30%アップしたそうです。 もう1社。九州の福岡市にM社という明太子(めんたいこ)の製造販売を手掛ける会社の話です。この会社の特徴は、顧客への手厚いフォローを実践している事です。毎月、約3万枚のダイレクトメールを送りますが、宛名書きは全て手書きで行っています。社長の話では周りから、パソコンで打つのが当たり前では?と言われることもあるそうですが、面倒でも、手間がかかっても手書きの方が確実に、お客様の心に響くからと続けています。この会社は売上、年間30億円だそうです。社員にねぎらいと感謝の言葉を伝える経営者、お客様に心をこめたダイレクトメールを届ける経営者。愛の言葉・愛の行為が会社と社員に繁栄をもたらします。
2015年04月27日
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【気配りは人の心を動かします】 知り合いから聞いた話です。ある会社に勤めているM子さんが、退社時刻6時になったので帰宅しようと、いつものエレベーターに乗ろうとしていました。すると、社長を訪ねてきたらしい取引先のお客さんとすれ違いました。何度か、会社に来られたことのあるお客さんだったので顔を覚えていました。M子さんは、すぐに会社に戻りこのお客さんにお茶を準備して応接室に持っていきます。お茶を出し終わると、「お先に失礼いたします」、とお辞儀をして退社しました。そのお客さんも、エレベーターでM子さんとすれ違ったことを覚えていて、彼女の気配りにとても感心したそうです。彼女は、自分が会社を出たら社長だけになり、お茶を出す人がいない。社長がお客さんにお茶を入れなければならなくなる、と思って戻ったのでした。このような気配りのできる人は、普段から相手が喜んでくれることはどんなものか考えているのでしょう。木下藤吉郎が主君、織田信長の草履を懐に入れて温めたという逸話も気配りからでた行動です。気配りは、「相手のために自分ができることをしよう」という欲求。この欲求は、より崇高な感情といえるのかもしれません。日常の暮らしの中の、「ちょっとした気配り」で笑顔になれそうです。
2015年04月26日
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【好意を抱かれる人になるには】 他人の評価をするとき、自分も相手も傷つかず、自分にとっても 相手にとっても結果オーライになる方法があります。 それは、絶対に悪口を言わないことです。 木下藤吉郎(後の、豊臣秀吉)が、織田信長の家来だった頃の話 です。 「信長様は先見の明に長じておられる。他の大名の一歩先どころか 二歩も三歩も先を見ておられる。大したお方だ」 「能ある鷹は爪を隠すと言うが、まさに信長様のことだ。あのお方の 学問は相当なものだ。公家衆よりも、はるかに教養がある」 と、話すのです。 そして、最後に 「こんな話、ワシがしたなどと申すなよ。ここだけの話だ」 と、こう言っていたのです。 やがて、この話は信長のところに伝わります。 信長は、笑いながらも「猿め、あいつならではのことだ」と上機嫌 だったそうです。 人は心理的に、第三者の口から褒め言葉を聞いたとき、ほとんど好意 を持ちます。 ビジネス社会においても同じで、悪口や陰口を言う代わりに、相手の 友人や知人に、その人への褒め言葉を話しましょう。 いつの間にか、その人のあなたに対する接し方が変わるはずです。
2015年04月25日
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【現状に満足できないのはなぜ?】 英語のテストで65点だった。 一人は「この点数をとれただけでもいいんじゃない」と考える。 もう一人は「80点とれなかった」と嘆く。 65点という結果は同じですが、考え方は全く違います。 理由は物事の基本に満足する人と、不満な人の違いです。 よく、たとえ話に使いますが「コップの水の話」です。 コップの中に水が半分入っています。 「水がまだ半分もあるじゃないか」(物事の基本に満足している) 「水があと半分しかない」(物事の基本に不満足) 「コップ半分の水」の事実は一つで、これが基本の状態です。 格言に 「持っているものを数えよ、持っていないものを数えるな」 というのがあります。 「失ったものにとらわれないで、今あるもの(恵まれているもの) に目を向けなさい」これが幸せへの道でもあります。________________________________________ 生まれつき両腕と両脚がなくても社会人として立派に活動を続けて いる乙武洋匡(おとたけひろただ)さん。 「障がいは不便です。しかし不幸ではありません」という信念があり ます。 スペインで神父をしている、ルイス・デ・モヤさん。37歳の時の 交通事故で首から下が動きませんが、パソコンを使って神父の仕事 をしています。 首を動かしてカーソルを移動させ、息の力でマウスをクリックし、 本も出版しています。 彼はこう言いました。 「ケガをして失ったものは、確かにあるよ。でもね、それは 億万長者が千円を落としたようなものだよ」 失ったものではなく、今持っているものを見つめましょう。 疲れた心が、元気をなくしかけた心が明るくなります。
2015年04月24日
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【幸せに基準はありません】 経営コンサルタントの、福島正伸さんという方が「幸せ」について次のように話しています。 ●収入が少なくても、幸せな人がいる 収入が多くても、不満ばかりの人がいる 幸せに基準はない 幸せは自分の思い込みにすぎない つまり 自分が幸せと思えば幸せになる 「いつか」幸せになるのではなく 幸せと思うことを見つければ 「いま」幸せになることもできる そもそも 生まれてきただけで、幸せなのだから________________________________________ お釈迦様の幸せにまつわる話です。お釈迦様が、1,000人以上の弟子たちと生活をしていた時です。お金がなくても幸せになる方法の一つとして「無財の七施」ということを行っていたというのです。 1、優しいまなざし(目) 2、思いやりに満ちた言葉(口) 3、温かな笑顔(顔) 4、他人の悲しさがわかる心(胸) 5、荷物などを持ってあげる(手足) 6、席を譲ってあげる(尻) 7、寝る場所を提供する(背)この七つの施しをして、幸せになりましょうという生活です。施しをすることは「他人のため」ではなく「自分の幸せのため」、という考え方です。ある時、目の不自由な弟子の一人が布きれを縫い合わせて衣を作ろうとしますが針に糸を通すことができません。そこで、その弟子は大きな声で「どなたか、私に施しをして、幸せになりたい方はいませんか」 と、周りの人に呼びかけました。 すると、通りかかった一人の人が 「私にやらせてほしい」と言いました。 「えっ、その声はお師匠様ではありませんか」 通りかかった人とはお釈迦様だったのです。 その弟子は、慌てて「大変、失礼なことを申しました、お師匠様にそんなお願いをするわけ には参りません」と言いました。 すると、お釈迦様はこう言われたそうです。 「なぜだ。なぜ私ではいけないのか。私だって幸せになりたいのだ。 私だって、もっと幸せになりたい」 人を幸せにすることで、自分も幸せになる、という教えを自ら実践され ていたのです。 お金や物に恵まれることは必要ですが、ないから不幸だとはいえない。 自分にとっての幸せの基準を考えてはいかがでしょう。
2015年04月23日
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【なでしこジャパンから学ぶこと】 プロスポーツの世界は、注目されると実力より人気が先行して本来するべき練習がおろそかになっていくことがあります。周りがどう評価しようが、やるべきことをきちんとやることはどの世界でも大事です。女子サッカーのなでしこジャパンの選手には感心させられます。人気があり、彼女たちのプライベートなことまで取り上げられることも多くあるはずです。しかし、テレビへの出演などいろんな取材があるときは、毎日の1時間以上の走る練習を欠かさず行ってからにしているそうです。理由の一つは、以前の女子サッカーは男子サッカーのように注目されることはなく、現在活躍している選手たちは「不遇の時代」を経験しているからです。注目され、もてはやされることは気持ちのよいこと。ただ少しでも油断することの怖さを、彼女たちはきちんと解っているのでしょう。勝っておごらず、地道な練習を積み重ねることが、いかに大事な事かを後輩たちにも伝えていこうとする姿勢に学ぶことがあります。
2015年04月22日
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【希望を信じた人の物語】 その少女は5歳で失明する。8歳の時、お母さんが亡くなった。お父さんはアルコール中毒だった。少女と弟は、面倒をみる人が誰もいなかった。そのため、国の救貧院に送られることに。その救貧院には、麻薬中毒の患者や精神病の患者がいて、幼い姉弟にとっては、地獄のような毎日の生活だった。弟は環境に適応できないまま亡くなってしまう。少女は天涯孤独な盲目の少女になった。この時の少女の心はどんな状態だったのだろう?想像できないほどの、暗闇の世界だったに違いない。彼女はついに限界を越えたのか、精神分裂病となり医者からも見放されてしまった。しかし、ある時、救貧院を視察に来た一人の福祉事業家の腕にしがみついた。「助けて下さい!」という、少女の心の叫びが事業家の気持ちを動かしたのだろう、彼女はこの救貧院から救い出される。そして、盲学校に入り学問を学ぶ機会を手にすることになった。その後、何度も目の手術を受け奇跡的に視力が回復し、盲学校を首席で卒業するまでに成長していた。名はアン・サリバン。20歳になった彼女は教師となって、一人の生徒と出会った。出会った生徒はヘレン・ケラー、目も口も耳も不自由な少女だった。以後、サリバン先生はヘレン・ケラーを50年に渡って教え、導くことになる。ヘレン・ケラーという「奇跡の人」はアン・サリバンという「希望の人」によって誕生した。
2015年04月21日
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【海に都市を作る夢】 太平洋上の赤道付近に、キリバス共和国という小さな国があります。広さは長崎県の対馬とほぼ同じぐらいです。人口は10万人。観光地として知られますが、地球温暖化の影響で海面が上昇しこのままでは2050年にはタワラという首都のある島の80%が水没し既に、島では家の壁が波をうけ削られているところもあるそうです。清水建設の竹内真幸(たけうちまさき)さん。ある日、社長から「未来につながるプロジェクトを考えなさい」との指示を受けました。竹内さんは考えた結果、このキリバス共和国の実情を憂いてある構想を考えました。その計画とはまず、海上に直径3,000メートルの浮き島を浮かべる、というものです。島の中心部には、高さ1,000メートルのタワーを建設し高層部は居住用中層部は植物工場、下層部はコメなどを耕作する農場として使用する。エネルギーは太陽光発電。名づけて「グリーンフロートプロジェクト」というそうです。この構想を提案した当初、「本当に実現できるのか?」という疑問の声も出ました。竹内さんは、アメリカで人類が初めて月にいくという「アポロ計画」も最初はできるはずがない! と相手にされなかったという話を思い出していました。この「グリーンフロートプロジェクト」はすでに進行していて、2030年の着工が予定されています。 竹内さんは真剣な表情で言ったそうです。 「この計画は『夢』ではありません。『目標』ですよ」。と。今の社会は昔の人が描いた夢を、現実にした社会ともいえます。将来も、みんなが幸せになれる夢を、現実にする社会になってほしいと思います。 (参考文献:「夢の扉、+(プラス)」NTT出版)
2015年04月20日
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【スポーツシューズ物語】 イチロー選手の靴を手掛ける、アシックスの創業者・鬼塚喜八郎さんのお話です。鬼塚さんは、日本の青少年のために一生を尽くすことを自分の使命とする企業家です。大正5年、鳥取県の農家、坂口家の5人目の子として生まれました。「鬼塚」に姓が変わるには理由がありました。太平洋戦争で陸軍にいた喜八郎さんの上官(上田中尉)に大変可愛がられ、上官が戦線に赴く時、あることを頼まれます。「神戸の鬼塚という老夫婦と養子縁組の約束をした。俺が帰るまで代わ りに面倒をみてくれ」と。ところが、戦争が終わるとその上官は戦死したことがわかり、やむなく喜八郎さんが鬼塚家の養子となるのです。戦後すぐの神戸は荒廃していて、特に青少年の環境は非行、売春など、目を覆うばかりの状況で鬼塚喜八郎さんは、心を痛めていました。そんな時、戦友の一人が兵庫県の保健体育課長をしていたこともあり、「青少年がスポーツに打ち込めるいい靴を作れ」との助言が転機となるのです。鬼塚さんは、靴の作り方など知りません。しかし神戸はゴム靴の生産地でもあり、まずゴム工場で働き靴作りの技術を学んだのです。鬼塚さんは情熱家でした。まず、バスケットボール用シューズを作る為高校のバスケ部の監督に聞き、練習場にも行き、選手の意見を参考にし進駐軍が使い捨てたシューズを分解して、試作を重ねていきます。ある時、夕食に出たタコの足を見て、タコの吸盤を靴に応用することを思いついたのです。このアイディアが「急ストップ、急スタート」を可能とする鬼塚式バスケットシューズを生み出しました。はだしのマラソン王・アベベもアシックスシューズで走りました。その後のオリンピックでも、鬼塚さんのシューズを着用した選手でメダル獲得する人も数多く輩出することになりました。スポーツを通して、青少年の育成に役立ちたいという鬼塚さんの情熱が日本のスポーツ界に大きく貢献しています。(参考文献:「心に火をつける名経営者の言葉」竹内一正著、PHP)
2015年04月19日
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【成功のために必要な4つのもの】 以前、紹介した『菜根譚』(さいこんたん)の中に成功するために必要なものは何か、について元プロ野球監督の野村克也さんが大変わかりやすく説明しています。●志は高く持たなければならないが、現実から離れすぎてはいけない。●思考は緻密であるべきだが、小さな事にこだわり過ぎてはいけない。●感情はあっさりのほうがよいが、冷たくなり過ぎてはいけない。●意思は岩のように固くあるべきだが、激しく頑なではいけない。 簡単にまとめると、「志は高く、思考は緻密に、感情はあっさりと、意思は固く持て。 ただし、度が過ぎると長所が、短所に変わる」ということになろうかと思います。 ポイントになるのは、4つです。 「志」 「思考」 「感情」 「意思」よく見ると、4つには全て『心』という文字があります。根底には、『こころ』というものをどうするか。どういう『こころ』を持つか、です。 中村天風という哲学者も 「人生の成功とは、こころの置きどころ一つで決まる」と言いました。 (参考文献:「野村克也の『菜根譚』」、野村克也著、宝島社)
2015年04月18日
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【夢を追って人生を変えた女性】 少女はイギリス南西部の田舎町に生まれた。1年後、妹が生まれた。母親は読書が好きで、少女と妹によく本を読み聞かせてくれたという。少女は5歳になり、教会の幼児学校、小学校に入学。しばらくして、引っ越しのため新しい学校に転校。しかし、規律の厳しい学校で、少女は対人恐怖症になってしまう。10歳になると、中等学校に進学。ある時クラスでスピーチをしようとするが対人恐怖症でみんなの前で吐いてしまう。状態は社会不安障害にすすみ、しばらく不登校となる。17歳で卒業。24歳の時、列車に乗っていると突然ファンタジーの物語のアイデアが生まれ、メモに書きとめる。その後、母親が病気で亡くなる。25歳。ポルトガルに行き英語の教師となる。まもなくある男性と知り合い結婚し翌年、娘が誕生。だが、まもなく離婚しイギリスに戻る。生活は厳しく、生活保護をうける。不安障害はうつ病となり、自殺を考えることもあった。しかし、幼い娘を抱えての生活は苦しかったが、うつ病を克服する。彼女は小説を書くことが、心の支えとなった。娘が眠っている僅かな間、夢中で原稿を書き続けていった。30歳となり、書き上げた原稿を出版社に送ったが断られる。他の出版社にも送るが全て断られた。1年後、ある出版社に送ったところ契約が成立し、出版となる。『ハリーポッターと賢者の石』が誕生したのです。彼女の名は、J・K・ローリング。シリーズ売上数、4億5千万冊。生活保護を受けながら病気を乗り越え、小説家としての夢を求め続けてきました。夢を追うことが、自分と娘の人生を支える力となり、その力が世界の読者の心を掴んだのです。
2015年04月17日
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【スランプを脱出する方法】 スランプとは不調という意味です。心の不調、体の不調も含みます。もっと広い意味で情緒不安定もこの中に含まれます。最近、メンタルケア関連の書籍に『菜根譚』(さいこんたん)という、名のついたものをよく見かけます。中国・明の時代の古典の一つで、洪 自誠(こうじせい)という人が書いた随筆集です。さて、この『菜根譚』の中にスランプを脱出する方法が記されていますので紹介します。 ●思いどおりにならない時は、自分より不遇な人のことを想像して みなさい。 ●怠けたい心が出てきた時は、自分より優れた人のことを想像して みなさい。(あなたより恵まれない、不遇な環境の中にいる人のことを思えば不平、 不満もなくなるでしょう。 また、あなたより優れている人のことを思えば、やる気が湧いてくる でしょう。) なかなか、味のある箴言(しんげん)です。あなたが悩んでいることは思いどおりにならないことか、それとも怠けたいからか、どちらかに分類してみると意外と悩みの本質が見えてくるかもしれません。 逆境の中にあっても努力し続ける人を見よ! 優れた人がいかに努力してきたかを見よ!現在、スランプ中の方、参考にしてください。________________________________________ *『菜根譚』は儒教、仏教、道教の三つの教えを融合したものと 言われています。菜根は食べると固くて筋が多い、しかしじっくり かみしめて食せば、本当の味わいがわかる、ということから由来し ているようです。
2015年04月16日
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【習慣が人をつくる】 人間は習慣によって自分というものをつくっていきます。最近よく言われる、「生活習慣病」もまさにそうです。習慣には良い悪いに関係なく、人の心と体への影響力があるのです。熊本県八代市の守田満(もりた みつ)さんは、90歳です。さらに、「世界一速いおばあちゃん」です。90歳クラスの100メートルで23.15秒。200メートルでも55.62秒。共に、世界記録の保持者なのです。守田さんの、生活習慣は次のようなものだそうです。毎朝、20分かけて家からグランドに行きます。そして、階段駆け上がりベンチを利用した踏み台昇降運動、足の蹴り上げ運動、ダッシュ運動。このメニューで約1時間。その後も少年陸上クラブで少年たちと練習し、自宅に帰ってからも更にトレーニングを行います。食事は朝から肉料理。20年間、同じ食生活です。守田さんは町内の運動会に参加したのをきっかけに陸上を始めました。この時、69歳だったそうです。こんな守田さんも、今から10年前にご主人を亡くされた時は、少し元気をなくしたそうですが、走ることだけはやめませんでした。その後、練習を重ね世界記録を樹立したのです。テレビ番組でも取りあげられ、インタビューした松岡修造さんも本当にびっくりしていました。陸上クラブの少年たちは彼女のことを「おばあちゃん」とは言わずに「守田さん」と呼んでいます。習慣の力は年齢に関係なく、自分を変え人生を豊かなものにしていきます。
2015年04月15日
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【本当のプロ意識とは】 美空ひばりさんのエピソードです。歌手、美空ひばりさんが次のようなコメントをしたそうです。「私は、レコーディングディレクターから『こう歌ってくれ』と言われ たことについては、拒否したり、異議を唱えたことはない。 そのディレクターがどんなに若く、歌の世界に未経験でも、要求され ることは全てこなしたうえで、さらに上乗せして『こうしたら』 『ああしたら』と提案して、よりよいものを作ってきた。 気が付いたら『女王』と呼ばれていたけれども、要求されたことで 『できない』とか『いやだ』と断ったことはない。 どうして『女王』と呼ばれるようになったかは分からないが、少なく とも歌に関しては、私は否定的なわがままを言ったことはない」 というものです。さらに、あるスタジオミュージシャン(レコード録音専門の楽器奏者)の話として、「美空ひばりのときはものすごく緊張」したのだそうです。それは、美空ひばりは「同録一発」だったから、でした。「同録一発」の「同録」とは「同時録音」の略。「同録一発」とは、スタジオに楽器奏者を集め、一度に録音してしまうこと。現在の一般的録音方法はまずカラオケを作り、それを聞きながら(アイドル歌手などは)何十度も歌を入れて、良い部分を繋ぎあわせてトラックダウンするのですが、「同録一発」は失敗ができないという点で、大変厳しい、真剣勝負の録音方法でした。「美空ひばりはわがままで『女王』なのではなく、プロの歌手という点 で、間違いなく『女王』だったのですよ」と彼は言いました。感心するのは、美空ひばりの「要求に応えなかったことはない」という言葉です。全ての要求に100%応えたうえで初めて意見や主張を述べる、という生き方は素敵です。 (引用抜粋:小林正観著『楽しい人生を生きる宇宙法則』講談社)________________________________________ プロとしての技術をどんな時にでも発揮できるのが本当のプロ意識だと思わせる話です。
2015年04月14日
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【鍋磨きから取締役になった人】 村上信夫さんは1921年、東京に生まれました。帝国ホテルに16歳で見習いとして採用されます。仕事は厨房での鍋磨きから始まりました。新入りの全ては2~3年は、洗い場だけでの仕事という今では想像できない社会でした。当時の調理用の鍋は、全て銅製でした。村上さんはここでの仕事をするにあたって、「自分は日本一の鍋磨きになってやろう」と思ったそうです。休憩時間には、人と同じに休まず二ヶ月かかって全ての鍋200個をピカピカに磨きあげました。実際、彼が磨いた鍋は光を放っていて鏡のようでした。先輩の料理人は、自分の味を他の人に盗まれないよう、使い終わった鍋に洗剤、石鹸を入れた状態で洗い場に回してきます。三か月ほどが過ぎた頃、先輩の料理人が言いました。「今日の鍋洗いは誰だ?」「ムラです」(村上さんのこと)「そうか」村上さんが鍋を洗う時だけ、洗剤を入れずに鍋が返ってくるようになりました。他の人の時は、洗剤が入って返ってきます。村上さんは、鍋に残ったソースなどの味をなめることを許され、先輩料理人の味を学んでいったのです。その後、戦争に徴兵され陸軍に入隊。終戦後、シベリアに抑留されますが、帰国して帝国ホテルに復職します。1964年の東京オリンピックでは、選手村食堂の料理長を任せられました。12歳の時に両親を続けて亡くしますが、コックになろうという強い一念で努力を重ねました。最初、帝国ホテルに願書を出しても採用通知が来ず、月に何度も庶務に「村上です。よろしくお願いします」と通い続けたこともあったそうです。のちに、帝国ホテルの11代料理長、取締役として功績を残します。村上さんは、鍋を磨くことで、人生を磨いていたのです。
2015年04月13日
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【限界のあとに良いアイディアが生まれる】 発明家、エジソンは研究や実験に明け暮れる毎日でした。死ぬまでに残したメモの数は、500万枚と言われます。毎日270枚書いても50年かかります。この500万枚のメモの中に、日本の京都にまつわるものがあります。エジソンは、日本のお土産としてもらった扇子を見て、その骨が電球のフィラメントに使えないか、実験と試作を続けました。扇子の骨は竹です。実験の結果、竹の繊維が丈夫であることからフィラメントとして長時間使用できることが分かったのです。エジソンは品質が最も優れた竹を探すために、世界中に人を派遣しました。その内の一人の探検家が京都の「八幡竹」を紹介され、他の場所で集めた竹と一緒にエジソンに届けました。日本各地の竹を実験した結果、なんと京都の男山一帯の竹が一番の品質だったのです。この竹をフィラメントとして使用した電球は、1,000時間以上という当時としては最も長持ちし輝き続けたそうです。以後、十数年間に渡りセルローズのフィラメントが発明されるまで、アメリカでも使用されました。京都の石清水八幡宮にはエジソンの記念碑があるほどです。エジソンは言いました。「もうこれ以上のアイディアを考えられない、と思った後にこそ、 良い考えは生まれる」限界という境界線は、思考の世界(心の世界)にはないようです。人生の諸問題も、あきらめないで視点を変えてみることが大事です。
2015年04月12日
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【人生に絶望なし】 中村久子さんは両手、両足を病気で失いますが、作家として生きた女性です。1897年、岐阜県に生まれました。2歳の時に、脱疽という手足の先が壊死していく病気にかかってしまいます。家族の看病を受けながらも、病状は悪化し何度かの手術によって、4歳の時には両手は肘までに、両足は膝のところまでになってしまうのです。しかも、その後父親が亡くなり、母親は久子さんと幼い弟を抱えて生活のために再婚することになりました。再婚先は畳屋で、年上の子が二人いました。久子さんは茶碗を持てずに口で食べることしかできませんが、二人の子らに「猫じゃ、猫じゃ」といじめられるのです。そんな中でも、久子さんは屈することなく裁縫をしたり、箸を使って食べられるように努力します。しかし11歳の時、目が見えなくなり失明してしまうのです。娘の姿に母は悲嘆し、久子さんを背負って激流の川岸から飛び降りようとしますが、久子さんの「こわいよ!」という叫び声で、思いとどまります。半年後、母の気持ちが神に届いたのか、久子さんの目は治療をうけ見えるようになりました。そして、久子さんは決断します。見世物小屋にいき、そこで一人で生きることを決意したのです。「だるま娘」という名前で以後、22年に渡り巡業生活を送ります。その後執筆や、講演、施設慰問の活動を続けます。昭和12年、ヘレン・ケラーが来日し東京で講演会がありました。この時、久子さんはヘレン・ケラーと舞台で会見するという機会がありました。そして、久子さんは女史のために、自分で縫った人形をプレゼントしました。通訳から久子さんの事を聞いたヘレン・ケラーは久子さんの身体をなで、短い両手と両足に触れ、久子さんを抱えて抱きしめたそうです。ヘレン・ケラーは久子さんに「あなたこそ奇跡の人だ」と言いました。久子さんは女史の肩に顔をうずめて、涙を流しました。 72歳の時、久子さんは次のように語っています。「私の人生をふり返って、大変満足であり、幸福でした」と。自分の能力を死ぬまで、出し続けてきたからこそいえる言葉です。
2015年04月11日
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【結果が全てではない。努力した過程が重要】 今いる環境で、できる限りの努力を続ける事はとても大事です。現在、難民の救済や赤十字活動への支援のためチャリティーコンサートを続けるバイオリニストの川畠成道(かわばたなりみち)さんも努力の人です。8歳の時、初めての海外旅行でロサンゼルスに行きます。ところが、到着してすぐ体調を壊し、風邪薬を服用したところ副作用が出たのです。スティーブンス・ジョンソン症候群という難病にかかってしまいます。高熱が続き、皮膚は赤くただれました。命は助かりますが後遺症として視覚障害を負うことになったのでした。バイオリン奏者を父にもつ川畠少年は10歳になると、バイオリンを手にしました。バイオリンは幼少の頃から教育を受けるのが一般的で、彼にとっては遅すぎるスタートでした。視力が弱いため、両親は大きな模造紙に、三段の譜面を何十枚と書き(長い曲は100枚ぐらいになったそうです)それを一枚一枚、はぎとっての練習を続けていきました。3年後、世界的に有名なバイオリニスト、アイザック・スターンが来日し、優秀な若いバイオリ二ストを何人か選び、公開レッスンすることになりました。全国から350人応募があり、この中から川畠少年は選ばれたのです。彼はこの時、難曲といわれるパガニーニのコンチェルトを演奏しました。緊張と静寂の中で演奏が始まりました。聞き入るアイザック・スターン。そして、演奏が終わると、スターンは川畠少年に歩み寄ってきて「素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らしい!」と彼の頭に手をのせて絶賛しました。その後、イギリスに音楽留学し世界各地で演演奏動を行っていきます。視覚障害に遭っても、彼はバイオリンで人生に光を見いだした努力の人です。環境は厳しいものでも、努力を続けていく過程が大事で、そこに喜びややりがいを感じることができると思います。一日、一夜の努力は美しいのです。
2015年04月10日
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【長所と短所は絶対ではない】 学校では入学式、企業では入社式の時期です。特に、新社会人の人は職場での「自己紹介」をよく見かけます。「名前は○○です。長所は明るいこと。短所は飽きっぽいこと。 趣味は映画観賞・・・・」というところでしょうか。はじめて、会う人にとって気になるところの一つが、その人の性格。おとなしいか、活発か、社交的か、協調性はあるか、入社試験の面接ではある程度は分かっていても、厳密には把握できないものです。ただ、長所、短所を聞けば、そのフィルターで人を判断していくことは多いです。少し前ですが、NHKのテレビ「仕事の流儀」という番組で前田文男さんという方を取り上げていました。前田さんは茶師です。茶師とは、茶葉を選んでブレンド、いわゆる調合をする人のことです。調合することを合組(ごうぐみ)というそうですが、この合組の仕方によって味が全く変わってしまいます。前田さんは、お茶にも長所、短所があり違うお茶を組み合わせることで美味しいものが出来るといいます。前田さんがまだ若い頃、いいお茶ばかりを選んで合組をしていたとき、師匠であるお父さんから「お前には、お茶がわかっていない」と叱られました。それ以後、いいお茶だけではなく安く売られているお茶にも、目を向けるようになり、いいお茶=値段の高いお茶と安いお茶との合組で、更にいいお茶にしていったそうです。安売りされるようなお茶でも、組み合わせ次第によっては高価な美味しいお茶となるものを見つけて、皆さんに飲んでもらうのが喜びだと話していました。人間社会も同じことが言えますね。小説、不如帰(ほととぎす)の著者、徳富蘆花(とくとみろか)は「欠点は常に裏から見た長所である」といいました。欠点を裏から見ていくことで、人間関係も円滑になりそうです。
2015年04月09日
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【人生の近道と回り道】 私たちは自分の人生に、それなりの目標を持って生きています。3年後、5年後、10年後、さらにもっと先。しかし、思いどおりに進めるわけではありません。回り道や、たまには寄り道をしながら進みます。成功者と呼ばれる人のほとんどが、「人生で起きることは何一つとして無駄なものはない」と言います。ロックの大御所、矢沢永吉さんがテレビで有名なコピーライターとの対談で、次のようなことを言ったそうです。「借りたお金は返そうよ」「遊ぶ、楽しむは、自分のお金で」と。矢沢さんは3歳で母と生き別れ、8歳の時に父と死別。このため親戚を転々としながら、その後父方の祖母に育てられます。貧しい少年時代だったそうで、近所の金持ちの子どもからいじめられ、「お前の家は貧乏だからケーキなんか買えないだろう」とケーキを顔に投げつけられるという体験をしました。その後、ロック歌手として成功しますが、一時期34億円の負債を抱えることなってしまいます。しかし、幼少期の体験をバネとし、強い精神力で演奏活動を続け、34億円も返済しました。順風満帆な人生ではなかったのです。ある時、矢沢さんの娘さんが家のエアコンをつけっ放しにしていた時、「誰かが、お金を払っていることを忘れるな。お前には“苦労知らず” という敵がいる。油断していると、その“苦労知らず”が牙をむいて 襲ってくるんだ」と、娘さんに説教したそうです。 矢沢さんは「近道したら 近道に潰される」と語っています。いろんなトラブルや、問題を乗り越えていく中で矢沢さんは歌手としても大きくなっていきました。こういう生き方が、根強いファンを魅了させてくれるのだと思います。回り道でも、振り返れば一本道。人生は、近道より回り道の方が味わいがあります。
2015年04月08日
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【時々は反省が必要です】 1日の中で、やるべき事がたくさんあって時間に追われたりすると、いつもの自分を、少し見失いそうなときがあります。こういう時は、わずかな時間でもいいので気持ちを落ち着かせる事が大切です。コーヒーを飲みながら、読みかけの本を読むこともおすすめです。私自身、そんな状況となってコーヒーカップを片手にある本を開いて見ると、茨木のり子さんという方の詩と出会いました。 ●自分の感受性くらい ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志しにすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ________________________________________小学生が先生に叱られるような関係や環境は、いつまでも続きません。大人になっても叱ってくれる人や言葉を持ちたいものです。
2015年04月07日
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【幸運と不運の違いとは】 ある山奥の村に住む人がいました。大事にしていた馬に逃げられてしまい、近所の人達が気の毒に思いお見舞いを言いに来ました。これに対して、彼は言いました。「この災難が福になるかもしれません」と。しばらくすると、その馬がとても良い駿馬を連れて戻って来ました。近所の人達はお祝いを言いに来ました。これに対して、彼は言いました。「この福が、災難の種になるかもしれません」と。しばらくすると、彼の息子が駿馬に乗っていて、落馬して足の骨を折ってしまいました。今度は、近所の人達はお見舞いを言いに来ました。これに対して、彼は言いました。「なに、この災難が福になるかもしれません」と。しばらくすると、その国では戦争が始まり、村に住む若者の多くが徴兵されて戦死しました。彼の息子は、骨折した後遺症のために徴兵を免れて無事でした。________________________________________ 私たちに起きる出来事は、幸運や不運という区別は一概にはできないという故事です。一つの出来事(事実・現実)が、不運と見えていて幸運が隠れている、幸運と見えていて不運が隠れているというものです。更に言えば、一つの出来事(事実・現実)の表側は幸運で、裏側は不運、逆に、表側が不運でも、裏側は幸運。つまり、表裏一体である。どうとらえるかは、まわりにいる人ではなく本人(当事者)次第です。人には、表面的なことの奥にある、本質を観る力を備えもっていると思うと、希望が湧いてくるような気がします。私は、欲張りなので表側も裏側も幸運、ととらえます・・・。
2015年04月06日
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【大人にもある適応障害】 私たちは、一人で独立して生活しているわけではなく、人間どうしの関係や環境の中で生きています。特に、毎日の人間関係では他人とのコミュニケーションを、円滑に行うことが大切です。そのためには、適度な感情表現と情緒表現が大切な役割を果たします。自分の考えや気持ちを、過剰にならずしかも不足せず、適切に伝えるのも大事なことだといえるでしょう。ある職場での話です。一人の青年が、あるコンビニのアルバイト店員になりました。初日、店長さんが「そこらへんの商品、適当に片付けて」と言いました。その青年は、「そこらへん」「適当に」が理解できず、ずーっと立っていました。翌日、体調が良くないからと休んだとのこと。最近、「適応障害」「発達障害」と診断される大人が増えているそうです。このような診断は、幼児期、幼少期の年齢層に見られていましたが、少し世相が変わりつつあります。自閉症などは子供の代表的なもので、ある程度は生まれつきのもの、と思われていました。ところが、少年期から青年期にかけて、いろんな理由で環境に適応できずコミュニケーションがとれないまま、孤立してしまいその結果うつ病になるケースも多くなっているようです。眠れない、食欲がない(あり過ぎる)、○○に依存しているようなら医師の診断を受けたほうがよいですが、軽度であれば自分の力で解消できます。一つは、体を動かして血液の流れをよくする。体と脳の血流が改善されることで、気持ち(こころの状態)を軽くすることができます。もう一つは、考えグセを点検して悲観、楽観のバランスをとる。物事は悲観的に考え過ぎても、楽観的に考え過ぎても体は悲鳴をあげてしまいます。悲観的なタイプの方は意識して、楽観的に考える時間をとるなどをおすすめします。「体のストレッチ」「心のストレッチ」をこころがけましょう。
2015年04月05日
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【トラブルに遭っても、転機の種がある】 自らが起こした問題ではないのに、巻き込まれてしまうこともあります。こんな時、どこに怒りのホコ先を向ければいいのか、と思いたくなります。K子さんは大手の会社で営業の仕事をしていました。彼女の会社は元々、経営側と労働組合の関係が良好ではなく、対立することも時々起きていました。ちょっとしたことから、K子さんはこの問題に巻き込まれてしまいます。ところが、彼女は会社からなんと懲戒解雇の通達を受けるのでした。懲戒処分に納得のいかないE子さんは、会社との裁判をすることになり結局、1年をかけ和解という結果がでました。和解とはいえ、仕事を失くした彼女は心身ともに疲れ、入院するまでになりました。ただ入院中は、周りからの応援や励ましを受け、しだいに元気を取り戻していきました。しばらくして、ある知人から次のようなアドバイスがありました。「あなたは、今最悪で、どん底の状態というなら、むしろ喜ぶべきでは ないでしょうか。あなたの人生をもっと良い方向に軌道修正しようと 神さまが誘導しているのかもしれません。 今を、自己実現のチャンスだと思ってみませんか?」K子さんは、一か月後、弁護士の資格を取ろうと決心しました。法律に詳しかったら、今回のようなトラブルに巻き込まれることはなかったのではないか。これを機に法律をもっと勉強しようと思ったのです。その後、法律事務所に就職し、4年後資格を取得。37歳で弁護士事務所を開業したそうです。________________________________________ 『チャンスは、貯金できない』という言葉を、聞いたことがあります。その人にとって、最悪といわれるような出来事であっても、転機の種が潜んでいるかもしれません。逆境の時ほど、感情に流されないで、物事の本質や意味を考えることが大事です。逆境は好機の手前にあるものです。
2015年04月04日
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【失恋を転じて幸福を掴んだ女性の話】 男女の関係なく、失恋は悲しいものです。しかし、失恋は不幸な出来事だとは限らないこともあります。ラジウムの研究でノーベル賞を受賞したキューリー夫人、彼女は失恋を幸福のためのステップにした女性です。キューリー夫人の独身時代の名は、マリー、といいました。ポーランドのワルシャワ生まれ。マリーには姉がいました。姉妹は、向学心がありまた、それだけの才能も持ち合わせていた少女でした。マリーと姉は、二人でパリに留学するのが夢だったのです。しかし、家は貧しく姉妹の留学資金をだす余裕はありませんでした。どうしても、パリで勉強したいと思ったマリーは姉に提案します。まず、姉が先にパリに行くこと。マリーはワルシャワに残りアルバイトをして、そのお金を姉に送金すること。そのかわり、その後は姉がお金を出して、マリーがパリに留学する、というものでした。姉は、先にパリに行きました。ところが5年過ぎても、姉から「パリに来なさい」という連絡が来ません。当時、マリーには恋人がいました。そこに姉から「自分は結婚したので、あなたは予定どおり留学できるようにするから、パリにきなさい」という手紙が来たのです。マリーは、恋人と結婚してワルシャワにとどまるかどうか悩みました。結局、マリーの恋は実らず失恋したのでした。彼女は、失恋の傷を乗り越えフランスのソルボンヌ大学に留学しました。ここでは、物理学を学び勉学に励みます。無事卒業した後、高校で物理の先生をしていた、ピエール・キューリーと運命的に出会います。マリーはピエール・キューリーと結婚し、その後彼とラジウムの研究で世界的な功績を残すことになるのです。もし、マリーがワルシャワで失恋していなかったら、現在私たちが知るキューリー夫人は存在しなかったのです。失恋はただの不幸ではありません。立ち直りに時間もかかるでしょう。しかし、「自分にふさわしい相手と、必ず出会える」と発想を変え、かつ、そう信じることが大事です。
2015年04月03日
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【愛は行動です】 1929年、その女の子はベルギーで生まれました。生まれて1ヶ月もたたない内に百日咳にかかります。心臓が止まりますが、母の必死の心臓マッサージで助かりました。5歳でイギリスの学校に入ります。9歳の時に両親が離婚。10歳、オランダの祖父のもとに。12歳でバレリーナになります。当時は第二次世界大戦中でした。彼女はドイツがオランダを占領することに反対し、その抵抗運動の資金を得るためにバレーを踊ります。叔父と従兄弟はドイツに抵抗していたことから、彼女の目の前で銃殺。また、兄弟もドイツの強制収容所へ送られることに。食糧がなく、彼女自身も栄養失調になり、呼吸困難、重体になります。16歳の時、看護師に。ようやく、戦争が終わり彼女は母とイギリスのロンドンに住むことになりますが、19歳になると生活のために映画、テレビ、舞台などの端役をしながら家計を支えました。そして、彼女にとって運命を変える出会いが・・・。ある時、撮影に訪れたフランスの女性作家の目に止まりブロードウェイで上演される作品の主役に抜擢されるのでした。その後、映画『ローマの休日』の主役を演じ、アカデミー主演女優賞を獲得するのです。彼女の名は、オードリー・ヘプバーン。以後『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディー』他、多くの映画に出演することになります。「ムーン・リバー」は彼女のイメージソングです。59歳になると引退しますが、その後ユニセフの親善大使として世界中で苦しむ子供たちの援助活動を続け、63歳で亡くなります。 ●オードリー・ヘプバーンの言葉 愛は行動です。言葉だけではだめです。 言葉だけで済んだことなど、一度だってありませんでした。 私たちには、生まれた時から愛する力が備わっています。 それでも筋肉と同じで、その力は鍛えなければ 衰えてしまうのです。
2015年04月02日
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【イヤな仕事の中に成功の種が】 阪急グループの創業者、小林一三という人が言いました。 「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。 そしたら、誰も君を下足番にしておかない」Bさんは今は、ある菓子問屋の社長である。高校時代、家の都合で学校を中退し、今の菓子問屋に就職した。与えられた仕事は、倉庫番。問屋だから倉庫の広さはかなりのもの。この倉庫を毎日丁寧に掃除して、商品を棚に整理整頓しながら帳簿に記入していく。単調で変化のない地味な仕事だった。Bさんは、「高校を中退した自分にはここでしっかり働くしか道はない」と、必死で頑張った。2年たつと、Bさんは倉庫内の膨大な種類のお菓子の商品一つひとつの在庫数が頭の中に、しっかりと入っていてその場で答えられるようになっていた。当時はコンピューター管理される設備はなかった。このBさんの仕事ぶりが社長に認められ、5年後に物流課の課長に昇進し、さらに5年後、支店長となった。昇進は続き取締役に抜擢され、ついに社長という地位を得たのである。「私が現在あるのは、倉庫番をしたお蔭です。あの辛い仕事を経験しな ければ、面倒くさがりの私は、いい加減な仕事しかできなかったかも しれません。倉庫は今でも私のホームグランドなんです」小さな仕事や、人が嫌がる仕事に手抜きをする人は、大きな仕事はできません。どんな仕事でも、自分の夢とかけ離れた仕事であっても、その時の天職であると考え、誠意を持って真剣に取り組むことが大事です。
2015年04月01日
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