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それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」 ルカ 12:22-31
2008年11月29日
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宗教ミーハーさんから、女優の宮崎ますみさんがお子さんをシュタイナー学校に通わせているという情報を頂きました。ブログの方を見たら、ヒプノセラピストの資格を持っていらっしゃるんですね。いや~、EPOさんだけじゃなく女優さんでもそういう方がいるとは驚きました。宗教ミーハーさん、貴重な情報ありがとうございました。m(_ _)m
2008年11月27日
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私が高校生の頃は、フュージョンとはまだ呼ばれてなくて、クロスオーバーと言ってました。その頃に聴いたのが、ブラジル出身のキーボードプレーヤー兼アレンジャーのデオダートです。R.シュトラウスの名曲「ツラトゥストラはかく語りき」をジャズアレンジした曲はとても斬新でした。 Prelude: ツァラトゥストラはかく語りき アントニオ・カルロス・ジョビンの名盤「Tide 潮流」のアレンジも担当しています。
2008年11月27日
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フュージョン界では珍しい、女流フュージョン・ギタリストです。ブラジリアン・テイストのフュージョン音楽が結構好きなんですが、彼女のデビュー・アルバム「Cameo」に入っている「it’s You」は最高です Cool of the Night
2008年11月27日
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ブラジル音楽好きにはたまらないコンピレーションアルバムですいわゆる「ボサノバ名曲集」とは違い、全て21世紀を迎えてからこの世に出た作品です。 ミスト~クール・ボッサ・アンド・ビヨンド
2008年11月27日
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カーペンターズの名曲「遥かなる影」のカバーです。作曲者のバート・バカラック本人も歌っています。他にも多くのアーティストがカバーしてますね。今は、バラエティーに出まくっている「YOU」とデュオしています。二人の声質が対象的で面白いですね。EPOは、オリジナル曲以外にこうしたカバーも積極的に歌っています。 CLOSE TO YOU
2008年11月27日
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最近、家内とほとんど会話を交わしていません。。。特に喧嘩をしたわけではないんですけどね。家内と私は寝る時間が違うので、家内が寝ているところにゴソゴソ行くとうるさい言われ、一ヶ月程前から私はリビングで寝ています。食事も最近までリビングで一緒に取っていたんですが(子供二人はそれぞれの部屋で食事をしている)、一ヶ月程前から家内は和室で食事をしています。テレビも和室で見ています。つまり、接する時間がほとんど無いわけです。そうなるとお互い段々気まずくなり、自然と会話も減ります。もともと、性格はまるで正反対、共通の趣味もない人間同士が同じ屋根の下に住んでいるんですから、かなり無理があるんですが、それに加えて家内はまだ一応現役なので、一触即発状態なんですね。 話しは変わって、私が教会を辞めてCM関係の仕事に復帰した時に、教会にいた頃ある部署で一緒だった女性とバッタリ出会いました。その時はそのまま別れたんですが、広告代理店の博○堂の社員食堂でディレクターと打ち合わせしていた時に、また彼女とバッタリ会ったんですよ!そこでウェイトレスをしてたんですね。話しを聞いたら、比較的近くに住んでいることがわかり、その後彼女のアパートに遊びに行きました。彼女は、祝福を受ける前に教会を離れて普通の結婚をしていたんですが、これがまた仲がいいんですよ。二人とも精神世界に傾倒していて、そういう意味でも私と話しが合って、一緒にそっち系の講演会に行ったり少なからず私も影響を受けました。教会を離れて普通の結婚をして、共通の趣味を持って、向いている方向も一緒の二人を見て羨ましかったですね。あ~私も教会を離れて普通の結婚をすれば良かったな~なんて。。。何の因果か、教会で一緒になった家内とこうしてギクシャクしながら一生暮らしていかなければいけないのかな~。せめて家内が早く目覚めてくれればいいんだけど。。。
2008年11月26日
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<土星=熱惑星期>体は人間の最も古い部分であり、最も完成されたものだ。人間だけでなく、地球も進化しており、地球は何度かの転生を経てきている。最初は熱状態、ついで空気状態、その次には水状態だ。宇宙の熱状態期=熱惑星期には、熱だけがあった。熱惑星は響きを発し、外から来る光・音・匂い・味を反射していた。熱惑星で、人間の体の萌芽、感覚器官の萌芽が形成されていった。生命・心・魂は、まだなかった。鉱物・植物・動物もいなかった。熱惑星期の人間の意識は漠然としていたが、包括的なものだった。昏睡意識、今日の鉱物の意識だ。熱惑星期の最初の段階では、物質的な熱はまだなく、心的な熱があった。熱惑星の進化の中期に、熱から人間の体が形成された。〈意志の神々〉が自らの本質を、人体のために流出したのだ。ついで、〈人格の神々〉が人体に宿って、人間段階を通過した。そのあと、すべてが宇宙の眠りに入っていく。 <太陽=空気惑星期>宇宙の眠りのあと、熱惑星が新しい形態のなかに出現した。空気惑星だ。空気惑星は、最初に熱惑星状態を短く繰り返した。空気惑星期の中期に、熱惑星の熱は空気へと凝縮した。空気惑星は熱を保ち、空気を発展させた。光が生まれ、空気惑星は輝き・響き・香りを発していた。空気惑星は周囲から注がれる光・味・匂い・熱を、自分のなかに浸透させてから反射した。空気惑星で〈叡智の神々〉が自らの実質を注ぎ出し、人間に生命が注ぎ込まれた。人間は今日の植物の段階に達した。生命が組み入れられたことによって、人間の体も変化した。栄養摂取器官・分泌器官・消化器官・生殖器官が加わった。体は、いまや振動する熱の卵であり、輝いたり消えたりする。空気惑星期に、〈炎の神々〉が人間段階を通過した。〈炎の神々〉は人体に宿って、個我意識を得た。熱惑星期に人間段階・個我意識に到らなかった〈人格の神々〉がいた。この神々は空気惑星期に、遅れを取り戻さなければならない。この神々は空気惑星で、生命に浸透されていない体にのみ宿れた。だから空気惑星に、もう一度、体のみからなるものが発生しなくてはならなかった。それが今日の動物の祖先だ。 <月=水惑星期>空気惑星は、水惑星として生まれ変わる。水惑星は、まず熱状態・空気状態を繰り返し、体と生命が形成された。それから、水が付加された。やがて、太陽が熱と光を伴って、水惑星から出ていった。高次の存在も、水惑星から出ていった。水惑星は、太陽のまわりを回るようになった。水惑星は音に浸透され、規則正しい動きをもたらされた。形姿とリズムを体験することによって成熟した体は、心を受け取った。〈動きの神々〉が、自らの実質から、人間に心を流出したのだ。人体に神経組織が発生し、人間は動物段階に達した。水惑星期に人間段階を通過したのは〈黎明の神々〉だった。空気惑星期の段階に取り残された〈炎の神々〉は、体と生命しか持たないものを作った。それが今日の動物界の祖先だ。水惑星期に体しか有していなかった存在たちは、今日の植物界の祖先。植物的な性格を持った鉱物、鉱物的な性格を持った植物が、水惑星の固体・液体状の土壌を形成した。水惑星は動的・生命的であり、その上に生きる存在たちは、自分を寄生動物のように感じていた。水惑星期に、人間は外的な事物を知覚しなかった。人間が知覚したのは、生命を有した夢のイメージのごときものだった。内的に上昇・下降する、生命を有したイメージだ。このイメージは外界と関連しており、人間はそれらのイメージに導かれていた。心は、体と生命を遥かに越えて聳えていた。水惑星期に、人間は内的な熱をまだ有していなかった。人間は周囲にある熱を受け取り、その熱をふたたび流し出していた。 <ポラール時代とヒュペルボレアス時代>水惑星は宇宙の夜のなかに消え去り、宇宙の夜から地球が出現する。地球は自らの内に、太陽と月を含んでいた。このころの地球はエーテル状で、今日の土星の軌道ほどに大きかった。地球は霊的な大気に包まれ、人間の心は上空にあって、地上の人体形姿に働きかけた。地球は最初に、熱状態期・空気状態期・水状態期を繰り返した。そして、人体に血液が組み込まれた。熱惑星状態の繰り返しのあいだに、地球から土星が分離した。空気惑星状態の繰り返しのあいだに、木星と火星が分離した。ついで水惑星状態が繰り返され、太陽が地球から分離した。太陽は、地球から分離したあと、水星と金星を放出した。太陽と月と地球がまだ一体であった時代がポラール時代、太陽が地球から出ていった時代がヒュペルボレアス時代。ヒュペルボレアス時代の人体は鐘の形をしており、上方の太陽に向かって開かれていた。ヒュペルボレアス時代の人間は、子どもを生むと、すぐに自分の心が子どもの体のなかに入っていったために、死を経験しなかった。 <レムリア時代>太陽が分離したあと、地球にとって重苦しい時代が始まった。地球は、まだ月と結び付いていた。生命を阻止する力は、おもに月のなかに働く力に属している。この力が当時、地球のなかで強力に作用していた。最も強い心だけが、御しがたい体に打ち勝ち、地上に生きた。レムリア時代だ。レムリア大陸の気温は非常に高く、地球全体が火のような、液体のような状態で、火の海があった。地球は火の霧に包まれていた。火・液体状の地球から、島が形成されていった。人体を形成していた実質は、まだ柔らかく、ゼリーのようだった。月が分離していくにしたがって、徐々に人体の改善が行なわれた。魚・鳥のような姿だったレムリア大陸の人間は、直立するようになった。脳が発達し、人間は男女に分かれた。そして、人間は死から再誕までのあいだ、心霊の世界と精神の国に滞在するようになった。地球で人間に魂を注ぎ込んだのは〈形態の神々〉だ。月が分離したレムリア時代中期になって、魂が人間のなかに入ってきた。海と陸が分かれ、人間が空気を吸うことによって、魂が人間のなかに入ってきたのだ。レムリア時代に人間の心に働きかけたのが、堕天使ルシファーだ。ルシファーは人間を、神々の予定よりも早く、物質界に引きずりおろした。ルシファーが人間の心に働きかけたことによって、神々のみが働きかけていたら受け取っていなかったはずの衝動・欲望・情熱が、人間に植え付けられた。人間は神々から離反する可能性、悪を行なう可能性、そして自由の可能性を得た。自然法則と人間の意志は分離していなかった。人間の邪悪な情欲は自然に働きかけ、火の力を燃え立たせた。多くの人々がルシファーの影響を受けて、悪へと傾いたことによって、レムリア大陸に火の力が燃え上がった。レムリア大陸は、荒れ狂う火によって没落する。 <アトランティス時代>助かった人々は西に向かい、アトランティス大陸に行った。霧の国だ。アトランティス時代前半には、人体はまだ柔らかく、心の意のままになった。アトランティス大陸の人間のうち、愚かで感覚的であった者は巨人の姿になった。より精神的な人間は、小さな姿になった。そして、アトランティス時代に言語が発達した。進化から逸脱した霊的存在アーリマンが、アトランティス時代中期から、物質のなかに混ざり込んだ。物質は煙に浸透されたように濁り、人間はもはや神を見ることができなくなった。アーリマンは人間の魂を濁らせ、天界を人間の目から隠す。人間の内面・心を惑わせようとするルシファーと、外から人間に向かってきて、外界を幻影つまり物質として人間に現われさせるアーリマンがいるのだ。ルシファーは内面で活動する霊であり、アーリマンはヴェールのように物質を精神的なものの上に広げて、天界の認識を不可能にする。アトランティス人は記憶力が発達しており、先祖の体験したことがらを明瞭に記憶していた。アトランティス時代後期に、生命の頭と体の頭が一致することによって、自己意識が発生した。アトランティス時代の終わりには、二種類の人間がいた。第一に、アトランティス文化の高みに立っていた透視者である。彼らは魔術的な力をとおして活動し、天界を見ることができた。第二に、透視力を失い、知性・判断力を準備した人々がいた。彼らは計算・概念・論理的思考などの萌芽を有していた。アトランティス人は意志によって種子の力、空気と水の力を支配できた。アトランティス人の意志が邪悪なものになり、心の力を利己的な目標に使うようになったとき、彼らは水と空気の力も解き放った。こうして、アトランティス大陸は崩壊する。アトランティス大陸には秘儀の場があり、そこでアトランティス大陸の叡智が育成された。さまざまな惑星から下ってきた人間の心にしたがって、七つの神託が設けられた。太陽神託の秘儀参入者は、魔術的な力をもはや有していない素朴な人々を集めた。そのような人々が、アトランティス大陸の沈没から救出され、新しい時代を築いていく。 <アトランティス後の時代>アトランティス時代後の最初の文化は、太古のインド文化(蟹座時代の文化)だ。アトランティス大陸を沈めた洪水から逃れ、太古のインドに集まった人々は、天界への憧憬を有していた。そこに、太陽神託の秘儀参入者は七人の聖仙を遣わした。太古のインド人は、「物質界は幻影である。私たちが下ってきた天界のみが真実である」と感じた。つぎの双子座時代である太古のペルシア文化期に、物質界は虚妄ではなく、精神的なものの表現・模像であると認識され、地上を改造しようという思いが現われた。第三のエジプト文化期(牡牛座時代)において、天空の星々に神的な叡智が込められているのを、人間は見出した。人間はまなざしを上空に向け、その法則を究明しようとした。第四のギリシア・ローマ文化期(牡羊座時代)に、人間は完全に物質界に下った。そして、外界・物質に、自分の魂を刻み込んだ。 西川隆範(シュタイナー研究家)
2008年11月26日
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<心霊の世界における死後の心>体の調子がよいとき、心は心地よく感じる。逆の場合は、不快だ。同様に、魂も心に作用する。正しい思惟は心を爽快にし、誤った思惟は心を不快にさせる。心が魂の表明に共感すればするほど、人間は完成する。心が体の活動によって満足させられている分だけ、その人は未完成だ。魂が人間の中心であり、人間は自分の働きのすべてが魂によって方向づけられないと、自分の使命を達成できない。体は、魂が物質界を認識し、地上で活動するための仲介役を果たしている。体が知覚したものを心が体験し、それを魂に伝える。一方、魂が抱く考えは、心の中で実現への願望となり、体を用いた行為になる。死後、魂は体から離れても、心とは結び付いている。そして、体が魂を物質界につなぎとめていたように、心が魂を心霊の世界につなぎとめる。私たちが眠くなると、体は心と魂を離す。同様に心は、地上的・身体的なものへの執着を脱すると、魂を精神の国へと解き放つ。死ぬときに地上的な欲を捨て切っていれば、人間は死後ただちに精神の国に向かえる。死ののち、心は物質への執着を解消するための期間を過ごすことになる。物質への執着が強い場合、その期間は長く、そうでない場合は短い。その期間を過ごすのが、「欲望の場所」だ。そこを通過するうちに、「体によって満足させられる欲望を抱くことは無駄だ」と、心は悟っていく。そして、物質的・身体的な関心が心から消えていく。心が心霊の世界の高次領域、すなわち共感の世界に入っていき、利己心が消えて、心霊の世界と一体になったとき、魂は解放される。魂は地上に生きることをとおして、自らを体と同一視することがある。だが、それよりも、魂と心の結び付きのほうが強固だ。魂は心という仲介物をとおして体と結び付いているけれど、魂と心はじかに結び付いているからだ。心霊の世界の最初の領域に入った死後の心は、体のいとなみに関連する粗雑で利己的な欲望を消滅させていく。物質生活への欲望を捨てられずにいる心は、満たしようのない享受を求めて苦しむ。地上では、欲望は満足させられると、一時的になくなったように見える。けれども、欲望が消滅したわけではない。幾日か経つと、また欲求が生じる。その対象を入手できないと、欲求は高まる。死後、心に染み付いた身体的な欲望は、満たされないので、高まることになる。心霊の世界の第一領域で、欲望は、その高まりによって燃え尽きていく。これが浄化だ。生前、身体的な欲望から自由だった人は、死後、心霊の世界の第一領域を、苦しみなく通過していく。一方、身体的な欲望への執着が強かった心は、死後、この領域に長く引き留められる。心霊の世界の第二領域は、人生の外的な瑣事への没入、流れゆく感覚の印象の喜びによって生じた心の状態に関連する。そのような欲求も、感覚的・物質的な事物が存在しない心霊の世界では叶えようがないので、消えていかざるをえない。第三領域の性質を持つ心は自己中心的な共感を有し、その共感の力によって対象を自分の中に引き入れようとしている。この願望も成就できないので、次第に消えていく。心霊の世界の第四領域は、快と不快の領域だ。地上に生きているときは、快・不快が身体と結び付いているので、人間は体が自分であるかのように感じる。この「自己感情」の対象である体が失われると、心は自分が失われたように感じる。死後、心霊の世界の第四領域で、「身体的自己」という幻想を打ち砕く必要がある(自殺者は、体に関する感情を心の中にそっくり残している。体が次第に衰弱していったのではないので、死は苦痛を伴う。そして、自分を自殺へと追い込んだ原因が、死後も当人を苦しめる)。心霊の世界の第五領域は、周囲に対する心の喜びと楽しみに関連している。心は、自然のなかに現われる精神的なものを体験することができる。けれども、感覚的に自然を楽しむこともある。そのように感覚的に自然を享受する心の性質が、ここで清められる。また、感覚的な平安をもたらす社会を理想とする人の心は、利己的ではないのだが、感覚界を志向しているという点で、この第五領域で浄化される。心は第五領域で「楽園」に出会い、楽園の空しさを悟ることになる。地上の楽園であれ、天上の楽園であれ、宗教をとおして感覚的な安楽の高まりを要求する人々の心が浄化される。第六領域では、利己的ではなく、理想主義的・自己犠牲的に見えながらも、感覚的な快感の満足を動機とする行動欲が浄化される。また、面白いという理由で芸術・学問に没頭している人は第六領域に属する。心霊の世界の第七領域で、「自分の活動のすべてが地上に捧げられるべきだ」という意見から、人間は解放される。こうして、心は完全に心霊の世界に吸収され、魂はすべての束縛から自由になって、精神の国に向かっていく。 <精神の国>精神の国は思考を素材として織りなされた領域だ。地上の人間の思考は、精神の国を織りなす思考素材の影である。物質界は現象・結果の世界、精神の国は原因・発端の世界。精神の国には、物質界と心霊の世界に存在するものたちの原像が生きている。その原像は創造的であり、精神の国は絶えざる活動の世界だ。それらの原像は、協力しながら創造している。心霊の世界では、さまざまな神霊が色・形で現われ出ている。精神の国に入ると、原像が響きを発する。精神の国も七領域に区分される。第一領域には、無機物の原像がある。鉱物の原像であり、植物・動物・人間の物質体の原像である。地上では、空間中に物質が存在している。精神の国では、物質の存在しているところが空になっており、その周囲の空間に、物質を創造するものたちが活動している。この領域が、精神の国の「大陸」だ。第二領域には、生命の原像が存在する。思考を素材とする生命が流れており、生命は調和ある統一体をなしている。「海洋」と言われる領域だ。精神の国の第三領域=大気圏には、心の原像がある。地上と心霊の世界における心の活動が、この領域に天候のように現われる。第四領域には、精神の国の第一領域・第二領域・第三領域の原像を統率し、秩序を与える原像が生きている。第四領域は、思考の原像の世界だ。第五領域・第六領域・第七領域は、精神の国の上部領域。精神の国の下部領域の原像に、原動力を与えるものたちの領域だ。この領域に達すると、人間は宇宙の基盤にある意図を知る。この領域には、言葉が響いている。この領域で、あらゆるものが「永遠の名」を告げる。 <精神の国における死後の魂>人間の魂は死後、心霊の世界を遍歴してから精神の国に入り、新しい身体存在へと成熟するまで、そこにとどまる。精神の国に滞在する意味を知るには、輪廻の意味を理解する必要がある。過ぎ去った人生の果実は、人間の精神的な萌芽に摂取される。そして、死んでから生まれ変わるまで滞在する精神の国で、その果実は熟する。その果実は熟して素質・能力となり、新しい人生のなかに現われる。地上での人生で獲得した果実が、精神の国で熟すと、人間は地上に戻る。人間は地上で、「精神存在」「精神の国の使者」として、創造活動を行なう。地上で活動するための意図・方向は精神から来る。地上での活動の目的は、地上に生まれるまえに、精神の国で形成される。精神の国で設計したプランにしたがって、地上での人生が歩まれる。魂のまなざしは常に、自らの地上的な課題の舞台に向けられている。地上での活動が人間の魂の課題なのだけれども、体に宿る魂は、繰り返し自分自身の領域つまり精神の国に滞在しないと、この世で精神存在でありつづけることができない。人間の魂は、精神の国の諸領域の本質に浸透されることによって成熟していく。精神の国の第一領域は、物質の原像の世界。その原像は、地上の事物を生み出す思考存在だ。この領域で、人間は自分の遺骸・物質的身体を、外界の一部として認識する。精神の国の第一領域では、家族への愛や友情が、死者の内側から甦る。この領域を生きることによって、家族への愛や友情は強まっていく。地上でともに生きた人々を、精神の国でふたたび見出す。地上でたがいに関係があった者たちは精神の国で再会し、精神の国にふさわしい方法で共同生活を続ける。精神の国の第二領域は、地上の共通の生命が思考存在として流れているところだ。地上では個々の生物が個別に生命を有するけれど、精神の国では生命は個々の生物に限定されずに、精神の国全体を循環している。その残照が地上で、全体の調和への宗教的な畏敬として現われる。精神の国の第一領域で、死者は家族・友人と再会した。その関係を維持しながら、第二領域では、同じ信条を持つ者たちが集うことになる。精神の国の第三領域には、心霊の世界の原像がある。心霊の世界に存在するものが、ここでは「生命的な思考存在」として出現する。ここでは、利己的な欲求が心に付着していない。地上で人々のために無欲に行なったことが、ここで実を結ぶ。地上で奉仕的な行為に専念するとき、人間は精神の国の第三領域の残照のなかに生きている。精神の国の第四領域には、芸術や学問など、人間の魂が創造するものの原像が存在している。地上で人間が日常的な生活・願望・意志の領域を超えて従事したものすべてが、この領域に由来する。死後=生まれる前に、人間はこの領域を通過してきたので、地上で個人を超えた普遍的・人間的なものに向かえるのだ。精神の国の第五領域まで上昇すると、人間の魂はどんな地上的な束縛からも解放される。そして、精神の国が地上のために設けた目標・意図の意味を体験できる。第五領域で、魂としての本来の人間があらわになる。第五領域で、人間は本来の自己のなかに生きている。精神的な自己は、ここに生きている。ここで、前世と来世の展望が開ける。第五領域と同質の精神性をあまり獲得しなかった人間は、来世は苦しい人生を欲する。「苦しみの多い人生が自分には必要だ」と、精神の国の第五領域で思うのだ。精神的な自己は、精神の国を故郷と感じる。そして、精神の国の観点が、地上生活の基準になる。自己は自らを、神的宇宙秩序の一部分と感じる。自己の活動の力は、精神の国からやってくる。 西川隆範(シュタイナー研究家)
2008年11月25日
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<人間の体>人間の身体は、たんなる物質ではない。生物は、生命のない物質・鉱物とちがって、生殖・成長する存在だ。超感覚的に見ると、「形成する生命力」「生命に満ちた霊的形態」が知覚される。人間の身体は物質的な体と、その体を生かしている生命からなっている。生命ある身体から生命が離れ、物質的な力に委ねられると、身体は崩壊する。生命が体を崩壊から守っているのだ。日中、体と生命に破壊的な力が働きかけ、睡眠中は構築的な力が働きかける。生命は体を形成する力であり、記憶・習慣・気質・性向・良心の担い手、持続する欲念の担い手だ。そして、思いの場である心がある。 <人間の心>外界の印象を感じ取る活動の源泉は「感じる心」だ。人間は多くの場合、自分の感覚的な欲望(感じる心の要求)を満足させるべく思考している。便利で快適な生活、つまり、感じる心にとって心地よい生活を実現するために思考力を用いている。けれども、そこにとどまらず、人間は自分の感受について考え、外界を解明する。思考は心を、たんに感じる心が属さない法則性のなかに引き入れる。思考に用いられるのが「知的な心」だ。思考は感覚の欲求を満たすためにも使われるけれど、精神的な思惟に向かうこともできる。星空を見て感動するとき、その感動は個人のものだ。星について考え、星の運行法則を明らかにしたら、その思考内容は客観的な意味を持つ。思考をとおして認識された内容は、個人から独立して、万人に通用する。心のなかに輝く永遠のものは、「意識的な心」と名づけられる。魂が意識される場であり、精神が輝き入っているところだ。この意識的な心が、心のなかの心、精神的な心である。知的な心は感受・衝動・情動に巻き込まれることがあり、自分の感受を正当なものとして通用させようとする。けれども、真理は個人的な共感・反感に左右されない。そのような真理の生きる場が意識的な心だ。体は心を限界づけ、魂は心を拡張する。知的な心は、真・善を受容すると、大きくなる。自分の好き嫌いのままに生きる人の場合、知的な心は感じる心と同じ大きさだ。 <人間の魂>心の中心は魂。体と心は魂に仕える。魂は精神に帰依し、精神が魂を満たす。魂は心のなかに生き、精神は魂のなかに生きる。魂を形成しつつ、魂として生きる精神は、人間の自己として現われるから、「精神的な自己」と呼ばれる。自己は天界と物質界に向かい合っている。物質界は感覚によって知覚され、天界は直観をとおして現われる。心、あるいは心の内に輝く魂は、身体的側面と精神的側面に向けて、扉を開いている。感覚的な知覚は個我のなかでの物質界の開示であり、精神的な自己は魂のなかでの天界の開示だ。地上に物質的な体があるように、天に霊的な体がある。物質的な体に生命が浸透しているように、霊的な体に精神的な生命が浸透している。 心の核としての魂が衝動・欲望を支配できるようになると、心のなかに精神的な自己が出現する。精神的な自己は「変容した心」と言える。同様に、精神的な生命は変容した生命であり、物質的な体が変容したのが霊体だ。 <人間の本質>人間が死ぬと、体の形態は次第に消えていき、体は鉱物界の一部になる。体は、自らのなかにある鉱物的な素材と力によっては、形態を保てない。形態を保つためには、体は生命に浸透されていなくてはならない。人間が生きているあいだ、体を崩壊しないようにしているもの、体のなかに存在する鉱物的な素材と力に一定の形・姿を与えるものが生命だ。生命の力は、意識の光を輝かすことはできない。生命は自らに没頭するなら、絶えず眠っていなくてはならないだろう。繰り返し人間を無意識の状態から目覚めさせるものが心だ。ものごとの印象を感じるのが心であり、感受とともに喜怒哀楽が生じる。人間が目覚めているとき、生命は心に浸透されている。人間は動物とちがって、体に由来しない望みや情熱を抱くことができる。その望みや情熱の源泉は魂にある。地上の鉱物・植物・動物にはないものだ。内的体験の転変のなかに持続的・永続的なものがあることに気づくと、個我感情が現われる。生命に結び付いていないと、体は崩壊する。心に浸透されていないと、生命は無意識に沈む。同様に、魂によって現在へともたらされなければ、心は繰り返し忘却のなかに沈む。心には意識が特有のものであり、魂には記憶が特有のものだ。現存する対象についての知を呼び起こすのは感受の働きであり、その知に持続性を与えるものが心だ。この両者は密接に結び付いており、感受と心が一体になっているのが「感じる心」だ。魂は、対象そのものから離れ、自分が対象についての知から得たものに活動を向けるとき、感じる心よりも高い段階にある。そのような活動をするのが「知的な心」だ。知的な心も、感じる心と同様、関心は外界、つまり感覚によって知覚されたものに集中している。知的な心は魂の性質を分有しているけれども、魂の精神的本性をまだ意識していない。心が自分を魂として認識するとき、人間のなかに住む神が語る。心の第三の部分は、自らの本質を知覚したとき、神的なものに沈潜する。この第三の部分、「意識的な心」において、魂の本性が明らかになる。魂は、この部分をとおして知覚される。意識的な心のなかに一滴のしずくのように入ってくるのが、永遠の魂だ。魂は心に働きかけることができる。知的な進歩、感情と意志の純化は、心を変化させる。魂によって変容させられた心が「精神的な自己」だ。魂は生命にも働きかける。性質・気質を魂が変化させるとき、生命に働きかけている。宗教的な信条は、心のいとなみのなかに確固とした秩序を生み出す。また、芸術作品の精神的な基盤に沈潜することによって魂が受け取る衝動は、生命にまで働きかける。この働きかけによって、生命は「生命的な精神」へと変化していく。魂は物質的な体に秘められた精神的な力と結び付いて、物質的な体を変化させることもできる。変容した体は、物質的な人間に対して、「精神的な人間」と呼ばれる。 <心霊の世界>心の特性、衝動・欲望・感情・情熱・願望・感受などは、心霊の世界に由来する。心霊の世界は地上よりもずっと精妙・動的・柔軟であり、心霊の世界は物質界と根本的に異なっている。初めて心霊の世界を見る者は、物質界との相違に混乱する。心霊の世界に物質界の法則を当てはめようとすると、間違う(心は一方では体、他方では魂に結び付いており、そのために、体と魂の影響を受けている。この点に留意して、心霊の世界を観察する必要がある)。心霊の世界の存在は心的な素材からなり、心霊の世界を「欲望・願望・要求の世界」と呼ぶことができる。心的な存在は、親和性があると相互に浸透し、相反するなら反発しあう。そして、地上の空間的距離とは異なって、内的本性(好き嫌い)による距離を示す。心霊の世界の存在には、共感の力と反感の力の作用が見られる。他のものと融合しようとする共感の力と、他を排して自分を押し通そうとする反感の力だ。共感・反感がどう作用するかが、心霊の世界の存在の種類を決める。反感が共感にまさっている段階では、周囲の存在を共感の力によって引き付けようとするけれども、この共感と同時に反感が内にあって、周囲にいるものを押しのける。その結果、自分のまわりの多くのものを突き放し、わずかなものだけを、愛情を込めて自分のほうに引き寄せる。近寄ってくる多くのものを反感が突き放し、満足しようがない。この段階の存在は、変化しない形態で心霊の世界を動いている。この存在の領域が心霊の世界の第一領域、「欲望の炎の領域」だ。心霊の世界の第二段階の存在には、共感・反感が同じ強さで作用している。共感・反感が均衡を保ち、周囲のものに中立的に向かい合う。自分と周囲のあいだに、はっきりした境界を引かず、周囲のものを自分に作用させ、欲望なしに周囲のものを受け入れる。このような心の領域が「流れる刺激の領域」だ。第三段階の存在においては、共感が反感にまさっている。けれども、共感の力の及ぶかぎり、あらゆるものを自分の領域に引き入れようとするので、この共感は自己中心的だ。この存在の領域が「願望の領域」。第四段階では、反感が完全に退き、共感だけが作用している(反感があるかぎり、その存在は自分のために、ほかのものと関わろうとしている)。ただ、この段階では、共感が存在自身の内だけで作用している。「快と不快の領域」だ。以上の四層が、心霊の世界の下部をなしている。第五・六・七領域では、共感の作用が存在を越え出ている。第五層は「心の光の領域」、第六層は「活動的な心の力の領域」、第七層は「心の生命の領域」。これらの三領域が心霊の世界の上部を形成している。 西川隆範(シュタイナー研究家)
2008年11月25日
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原曲は、エリック・サティのピアノ曲です。それにEPOが詩をつけました。なんでもそれが音楽の教科書に載っているそうです。凄いですね~。この曲好きなので、12月の「アクアノーム」ライブでも歌ってくれると嬉しいんだけどな~。 ジュ・トゥ・ヴ
2008年11月24日
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古代ギリシア以来、人間には四つの気質があるとされてきました。赤を好む、割り算的な気性が、火のような胆汁質です。意志が強く、決断が早く、目的がはっきりしています。怒りやすく、危険を好みます。背は低く、肩幅が広く、首は短く、目鼻立ちがはっきりしています。地面にめりこむような歩き方をします。時間に正確で、食べ物に好き嫌いはありません。黄色が好きな、掛け算的な性格は、風のような多血質です。気が変わりやすく、興味がつぎつぎに移っていきます。跳びはねるような歩き方です。ものの見方は肯定的・楽観的です。スタイルがよくて表情豊か、身のこなしは軽やかです。しかし、浅はかで、だらしなく、優柔不断なところがあります。緑色を好む、足し算的な性格は、水のような粘液質です。太っていて無表情、だらだら歩きます。一人でいるのが好きです。整頓が好きで、人から言われたことは正確に行ないます。友だちを作りにくいのですが、できた友だちには忠実です。のんびりしていて、激することがありません。几帳面で、持続力があります。食べすぎ・寝すぎ・厚着の傾向があります。藍・紫を好む、引き算的な性質が、土のような憂鬱質です。痩せていて、猫背になりがちです。足を引きずるように歩きます。寝付きが悪く、朝は不機嫌です。大人のように振る舞い、悲観的で敏感で、自己中心的です。自分を閉ざしているのですが、好きな人にはすなおです。不幸な人を見ると安心して、同情します。胆汁質の子どもは、大きな関心を示していてもらわないと不満です。その子の能力を少し越えた課題を与えるのが有効です。尊敬できる権威者がいると、自制できます。多血質の子どもには、生活に静かなリズムが必要です。一つの遊びに変化をつけながら、その遊びを続けるようにします。粘液質の子どもには、早朝の手伝いをさせるとよいでしょう。その子自身には、無関心なふうにしているのがよいのですが、その子がものごとに興味を持つようにさせる工夫が必要です。いっしょに散歩しているときに、「見てごらん、きれいな花が咲いているよ」と注意を促すのではなく、「ああ、きれいな花だなあ」と大人が気づいていればいいのです。一緒に遊ぶときに、すこしテンポを早めていきます。憂鬱質の子は、心身の暖かさを必要としています。大人は人生の苦悩を背負う人間として、みずからの苦しみへの対処を、その子に語るようにします。お話も、悲話を選びます。同気質で向かい合うという方法があります。胆汁質の子どもと競争して、大人が胆汁質的にがんばって、勝つようにします。多血質の子どもと一緒にいて、大人がその子以上に真面目に多血質的に振る舞ってみます。粘液質の子どもに対して、こちらがその子以上にゆっくりとしてみます。憂鬱質の子どもを、娯楽で楽しませようとすると、失敗します。食べものによる対処法もあります。胆汁質の子どもには、穀物・生野菜のほか、甘いものを与えるとよいはずです。多血質の子どもには、砂糖や肉を控えめにします。乳製品がお薦めです。粘液質の子どもには、雑穀・葉菜を与え、おかずは塩味にします。卵は控えめにします。憂鬱質の子どもには、蜂蜜や、花のハーブティー、果物、サラダ、そして甘いお菓子を与えるようにします。考え込む癖があるのですから、思考を促す根菜は控えめにします。キャベツも控えめです。老婆心ながら、気質に関係なく、一歳未満の子どもにはジャガ芋は与えません(妊娠期間中の大人もジャガ芋は摂りません。また、父親が飲酒していたら子どもは神経に問題が生じ、母親が飲酒すると子どもの内臓に影響が出ます)。子どもが口にするタンパク質・脂肪・糖分は、良質のものである必要があります。良質の食糧を摂っていると、必要な栄養素を本能的に欲し、味覚によって適量を判断できるようになります。砂糖は、天然のものだと適量で満足するのですが、人工的に精製したものは癖になって、度を越して欲しがるようになります。どの気質も本来よいものなのですが、極端になると、弊害が出てきます。親や教師の気質が、子どもに影響します。その影響は、その子が成長して中年になるころに、身体に現われます。大人は、自分の気質をよく認識して、適度なものにするように気遣う必要があります。親・教師が胆汁質すぎる場合、子どもは血液循環に障害をきたすことがあり、リューマチになったり、消化器に症状が現われることがあります。大人が多血質すぎる場合、子どもは活力がなくなることがあります。方向が定まらず、意志・忍耐力の弱い人間になる可能性があります。大人が粘液質すぎる場合、子どもは精神的な呼吸困難に陥り、神経質になりがちです。愚鈍になることもあります。大人が憂鬱質すぎる場合、子どもは感情が抑圧され、呼吸器や心臓を病むことがあります。胆汁質の大人は、子どもを驚かせるような言動をしてしまうので、子どもは不安を感じ、虐げられていると感じます。多血質の大人は子どもから深い印象を受けず、子どもは生命の喜びを抑えられます。シュタイナーは、唯物論は人間への興味を失わせるので、唯物論の影響を受けた大人は子どもに無関心、すなわち粘液質になる、と言います。憂鬱質の大人は自分自身に関わっており、子どもとの関係を築こうとしないので、子どもの心が冷えます。大人は自分の気質を、みずからの努力によって改善することができます。たとえば多血質の人は、関心をつぎつぎと変えるのがふさわしい状況を作り出して、そこで多血質を使い果たすのです。胆汁質の人は、怒っても何もならない状況に身を置くようにします。憂鬱質の人は、自分の苦悩ではなく、世間の苦悩に関与してみます。粘液質の人は、本当に退屈なことをしてみます。粘液質の人は、適度のダイエットによっても、心魂の発達が促されます。人間は大体、子どものころは多血質、青年期は胆汁質、中年は憂鬱質、晩年は粘液質的になります。シュタイナーの精神科学=人智学によると、自我が強く出ている人は胆汁質、さまざまな心の思いが主になっている人は多血質、ゆるやかな生命の波のなかに生きている人は粘液質です。憂鬱質の人は頭脳を基盤として生きており、身体から解放されていないと感じています。十歳以下の子どもの場合は、大人と異なっています。胆汁質の火のような力が、子どもの場合は、心をとおして現われます。多血質の子の軽快さは、生命領域において示されます。身体が優勢になっている場合、粘液質の子どもになります。憂鬱質の子どもの場合、自我が勝っています。 西川隆範(シュタイナー研究家)
2008年11月24日
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頭部の形成に従事していた〈いのち〉は、3歳ごろ自由になり、胸部に作用していた〈いのち〉は、5歳ごろ、記憶力として活動するようになります。 3歳になると、歩行が安定してきます。もう、滅多に転びません。もしも、頻繁に転ぶとしたら、いわゆる頭でっかちになっているかもしれません。それとは別に、身体的に頭が、全身に比して大きいか小さいか、という問題もあります。これは、頭の小さい子どもは大人ぽい知的タイプ、頭の大きい子は子どもらしいファンタジー・タイプということです。2つのタイプなのですから、どちらが好ましいということではありませんし、違うタイプに変えることはできません。3歳までと同様、生活環境が大事です。幼児は周囲の大人、特に親の仕草・口ぶりを自然に模倣し、吸収しています。大人の言動の元には、その言動を引き起こした考え・思いがあります。子どもは大人の行為を模倣することによって、大人の思考・感情を自分の内に取り入れます。大人は普段から、自分の考え・思いを濁りのないものにしている必要があります。そのような思考・感情から自然に発する言動を、子どもは見聞きし、模倣をとおして吸収します。親の行為・言動を模倣することをとおして、子どもは親の考え・思い、つまり、親の道徳性を吸収するわけです。これが、その子の道徳性を形成していきます。学校に入ってから教わる道徳は、ただ頭に知識として入るだけで、心の力とはなりません。親の行為の模倣をとおして受け取ったものが、内的な道徳を作り上げます。頭による理解よりも、よいことは好き、悪いことは嫌いという心の反応のほうが身につきます。よいことを喜び、悪いことを悲しむようにして、道徳感を発達させます。善人・悪人の登場する童話を、原作どおりに物語って聞かせることによっても、道徳観が根付きます。語るときには、勧善懲悪的な抑揚はつけません。7歳ごろ、〈いのち〉は〈からだ〉を形成する仕事を終え、その一部が思考活動のために用いられるようになります。一挙に切り替わるのではありません。低学年のあいだは、幼児期の余韻が響いており、まだファンタジーに浸っているのが適しています。このころに知的な勉強をさせられると、創造的な力が奪われます。歯が生え変わると、先生を尊敬したいという気持ちが湧き起こります。権威者から学び、成長したいと願うようになります。7歳から14歳のあいだに権威者を見上げることを学ばなかった子どもは、成人してから自由な人間になれない、とシュタイナーは考えています。教師が生徒に仰がれるかどうかは、教師の精神性が深いかどうかによります。子どもを深く見る目を持った教師の精神は豊かになります。そして、子どもの本質を深く見る教師は、子どもを敬う気持ちを持ちます。もしも、教師が美術的・音楽的なものへの喜びに浸されておらず、知的な授業をすると、生徒はその教師を利己的だと思い、尊敬しなくなります。シュタイナー学校に入ると、図形・紋様を描く授業があります。これが思考の練習になります。そして文字を、抽象的な記号ではなく、象形文字のように、絵から派生させるしかたで教えていきます。小学生は、おもしろいもの、興味あるものを、労苦なしに覚えていきます。それまでは、大人の行為を真似して、いろんなことを身につけていたのが、言葉をとおしてものごとを習得するようになっていきます。この時期の勉強に関して大事なのは、どの授業も美術的・音楽的な要素に貫かれていることです。算数も理科も社会も、美的・リズム的な要素に浸透された教え方をすると、子どもに伝わっていきます。小学生、特に7歳から9歳までは、美術的・音楽的なものへの要求を強く持っています。脳を知的に活動させると疲労し、芸術的・創造的な活動は子どもを元気にします。今日、知識偏重と協調性強要によって、子どもたちの脳は慢性疲労状態にあり、それが不登校や切れる原因になっているといいます。家庭では、さらに勉強を課すより、子どもが美的な楽しみに時を過ごせるようにしたいものです。7歳を過ぎると、子どもは外界を感情によって受け入れようとします。まだ、知的に受け入れるのではありません。ですから、9歳以前の子どもには、ものごとを科学的に説明しません。3歳で目覚めた個我は、9歳で一つの発展段階を迎えます。子どものなかに個我が入り、幼年期の夢のような世界は消えていきます。他人を個人として感じるようになり、自分と他人とをはっきり識別します。また、人間と人間以外のものとを、はっきり区別するようになります。いままで気づかなかったものごとに気がつくようになり、親や教師を批判的に見るようになります。9歳までは先生を無条件に敬っていたのが、9歳をすぎると疑問を抱くようになります。これまでは世界をメルヘン的にとらえていたのが、知的・科学的に把握しようとします。自意識が発達し、世界を外から観察しはじめます。このころ、子どもは外界としっくりいっておらず、内面に不安を持っています。子どもは孤独を感じます。かまいすぎると、子どもはますます内に閉じこもります。自分の内にこもるのですが、人に理解してほしいと望んでいます。9歳・10歳のときに必要なのは、人間性への信頼を失わないことです。大人が内的に成長しようという気持ちで生きていると、子どもも自らを肯定できるといいます。このころ、子どもはさまざまな問いを発します。どこから自分は来たのかと子どもが問うとき、〈からだ〉の由来ではなく、〈たましい〉の由来を答えてほしいと思っています。子どもが自分を周囲の世界と区別した時点で、子どもを周囲の世界のなかに導くことが教育の課題になります。シュタイナー学校では、9歳になると生物(動物・植物)の勉強を始めます。文法の勉強も始めます。文法の学習は、自意識の健全な発展に寄与します。音楽に関して、9歳までの子どもは、五音音階(レミソラシ)の曲にふれているのがよく、9歳・10歳から長調・短調の体験を取り入れます。9歳まで、子どもはまだ天上的な故郷とのつながりを持っていました。思春期を経て、地上との結び付きが深まるにつれて、天上的な故郷は遠ざかっていきます。12歳になると、ものごとの因果関係を理解したい、と思うようになります。知的・思考的な勉強に向いてきます。シュタイナー学校では、5年生で歴史・地理、6年生で鉱物学・物理学、中学1年で化学に取り組みはじめます。身の回りのことができないのに、偉そうなことをしゃべる人は滑稽です。小学1年生から編みもの、4年生から縫いものを教え、6年生で運動靴を作れるようにすると、本当に賢い人間になれます。青年期には理想を持っていることが、なによりも大切です。大人が社会に対して悲観的だったり、不安を抱いていると、子どもは安定して育つことが難しくなります。大人があまりに批判的な態度だと、子どもは落ち着きを失います。大人が内的な時間を大事にして、敬虔な気分を育成し、人生を肯定していると、子どもは「生きよう」と思えます。 西川隆範(シュタイナー研究家)
2008年11月23日
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シュタイナー教育では、子どもの成長を「0歳~7歳」「7歳~14歳」「14歳~21歳」に分けて考えています。これはシュタイナーの人間観と密接に関連しています。シュタイナーは人間を、〈からだ・いのち・こころ・たましい〉の四部分からできているもの、と考えました。〈いのち〉は〈からだ〉を形成するもの、〈こころ〉は自分の思い、〈たましい〉は自分そのものです。誕生した日から約7年間をかけて、子どもの〈いのち〉は〈からだ〉の構築に従事します。親から遺伝された〈からだ〉を、自分の課題を果たすのにふさわしいものへと作り変えている時期です。どういうことかと言いますと、誕生以前から〈たましい〉は存在しており、自分が宿りたい〈からだ〉をイメージしている、とシュタイナー教育では考えています。子どもの〈たましい〉は、自分が成し遂げようと思うことを行なうのに適した〈からだ〉を得ようとするのですが、両親から提供された〈からだ〉は、自分がイメージしたものにぴったりのものとはいえないそうです。それで、〈いのち〉の形成力によって〈からだ〉を自分に適したものに作り変えるというのです。この作業の終了したしるしが、乳歯が抜けて、永久歯が生えてくるという現象です。もしも、この7年間に〈からだ〉の作り変えに専念せず、知的な方向に力を回すと、〈こころ〉と〈たましい〉は自分にぴったりしない〈からだ〉のなかで生きていかなくてはならず、〈こころ・たましい〉と〈からだ〉とのあいだに無意識的な違和感が響きつづけます。成長力はやがて想像力に変わり、さらに知力へと変化していきます。約7年間で〈からだ〉の基礎を構築した〈いのち〉は、記憶をたくわえ、イメージを形成するという活動を始めます。いままで心身の区別がはっきりしてなかったのが、7歳ごろ、〈こころ〉が独自の思考・感情・意志の力を発揮しはじめます。7歳から14歳まで呼吸系・循環系が発達します。呼吸と血液循環との調和が生まれると、子どもはリズム・音楽を欲します。生まれてから7歳までは感謝の気持ちが育成される時期、7歳から14歳は愛情が発達する時期になります。生まれてから7歳ごろまで、子どもは「世界は善いものだ。みんな善人だ。わたしは愛されている」と感じています。7歳から14歳までは、「世界は美しい。どれもこれも素晴らしい」と思っています。14歳を過ぎると、「世界は真実なものだ」と考えるようになります。本当にそのような社会を築いて行くことが、今日の私たちの急務です。生まれてから7歳まで、体の動きによって意志が形成されます。そして、7歳から14歳まで心・感情を育て、14歳から頭・思考を使うという、おおまかな見通しが立てられます。よく観察すると、もっと細かい区分が可能になってきます。3歳で歩行の一応の完成、5歳でかなりの言語能力、7歳で思考の基盤ができます。早くから歩かせようとすると、のちに身体の不調を引き起こします。大人が子ども言葉を使うと、しっかりした心身になりません。記憶させようとすると、神経がのびのびしません。9歳ごろ、子どもは自分と外界を区別します。12歳ごろ、原因と結果の関係を理解するようになります。生まれてから7歳までは、心と頭の土台になる体を築くことが最も大事です。幼児は全身で周囲の印象に没頭しています。自分と周囲との境界は、はっきりしません。ですから、環境からとても大きな影響を受けます。安らかな印象を与える環境づくりが第一です。周囲の音やものの色・形だけでなく、まわりの大人の行動も子どもに影響します。落ち着いた、愛情のある言動を大人たちがしていることが大事です。いらいらしていると、子どもはその様子を真似して、同じような気分になっていきます。大人が美的なことを楽しんで、心をのびのびさせていることが大事です。生後9カ月ぐらいまで、母乳で育てるのが理想です。ただ、最近は食料などの問題で母乳も汚染されているので、注意してください。9カ月以上、母乳を与えつづけると、子どもは母親からの遺伝を受け取りすぎて、個人として自立する度合いが弱まることがあります。 蛋白質は、良質の穀物・実から摂取するのが最適です。幼児が肉・卵・ジャガ芋から蛋白質を過剰に摂取すると、健全な栄養本能が損なわれ、適切なものを適量欲することができなくなります。脂肪は、葉菜に含まれているものを中心に摂るのが好ましいはずです。カルシウム・マグネシウム・鉄分の不足にも気を付けましょう。問題は砂糖です。精製された砂糖に慣れると、それは嗜癖品になり、子どもの独立した個我の発展を弱めます。糖分は炭水化物から取るのが最良です。糖分そのものは、適量摂取していると個性がはっきりした人になり、不足するとあまり個性を発揮できなくなるので、大切なものです。味付けにも注意しましょう。甘いにしろ辛いにしろ、どぎつい味は禁物です。また、熱すぎるもの、冷たすぎるもの(冷蔵庫から出したてのもの)を、子どもが口にすべきではありません。刺激物の摂取過剰、騒音、強い視覚印象は、子どもを病気にします。1歳・2歳から、同じ言葉を何度も繰り返すことによって、記憶ができていきます。そして、毎日おなじ時刻に同じことが行なわれるよう、求めます。同じ話を繰り返し聞きたい、と思います。3歳ごろ、イメージを記憶するようになります。また、手足の活発な動きから、2歳・3歳で想像が豊かになっていきます。先に述べたように、3歳で歩行が完成し、5歳で言語の基礎が出来上がり、7歳で思考の基盤が現われるのですが、この3つの能力の萌芽は、すでに3歳までに現われてきます。1歳で歩きはじめ、2歳で話すようになり、3歳で思考の目覚めが現われます。3歳ごろ、言葉の習得が進み、正しい構造の文を語るようになります。それとともに、思考が目覚めてきます。記憶がはっきりしてきて、それと同時に、自分を意識するようになります。個我の最初の目覚めが生じるのです。こうして、第一反抗期が始まります。目覚めゆく思考のなかで個我が出現し、その結果、反抗が現われるわけです。幼児期・児童期・青年期全体にわたって、生活に安定したリズムがあることが重要です。特に小さいときほど、同じ日程の繰り返しが安心感を与え、意志を強くします。 幼児期全般にわたって、子どもは親を模倣して育つものですから、真似をする見本なしに、自分で決定するように言われると、意志の方向を定めようがなくなります。子どもを甘やかしすぎる、たとえば、子どもが「いや」と言えば、なんでもやらせずにすませていると、子どもは自制する力を持てません。放任主義にした場合、子どもは無気力になりがちです。逆に、しつけを厳しくすると、子どもは受け身になって、自分からものごとに関心を示さなくなります。叱ってばかりだと、その怒りに反応して萎縮し、不器用になることがあります。感情的になるのではなく、威厳をもって落ち着いて諭すのが教育的でしょう。また、たいしたことでもないのに、おおげさにほめるのも考えものです。手伝ってくれたときは、「ありがとう」で十分。ほうびは不要です。3歳半ばごろから、童話を聞くことができます。童話というのは、これから人生を歩んでいくために、故郷から与えられた伴侶のようなものだ、とシュタイナーは言っています。きれいな心の主人公に幸いがもたらされるというイメージが、子どもの生涯を力づけます。子どもが小さいうちは、ストーリーに葛藤の少ないもののほうがいいでしょう。もうすこし大きくなったら、主人公が古い世界の加護から離れ、自分で先へと進むことによって、調和的な結び付きにいたる過程を物語るメルヘンを取り上げるとよいと思います。一つの童話を4週間、あるいは1カ月つづけて語るのがいいと思います。3週間ごとに変えるのでもいいでしょう。たくさんの童話ではなく、厳選した十数話ぐらいを繰り返すほうが、メルヘンに含まれた力が子どもに浸透していくと思います。 西川隆範(シュタイナー研究家)
2008年11月23日
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シュタイナーは、人間を〈からだ・いのち・こころ・たましい〉の四つからなるものととらえました。そして、これらの部分がおよそ七年ごとのリズムで開発されていく、と彼は考えました。七歳までは周囲を反映し、人々は善であると感じているときで、愛を感じられる家庭環境であることが重要です。七歳から十四歳までは、生きることの楽しみを感じ、すべては素晴らしいと感じるときで、教師を信頼できることが大切な時期です。十四歳から二十一歳までは、内的な自立に向かいます。知識を概念・理念の形で受け取り、ものごとを自分で判断できる人間になる時期です。七年ごとの節目以外にも、自分と外界を区別する九歳、因果関係を理解する十二歳、将来の方向を意識する十八歳が注目されます。シュタイナーの人間観で特徴的なのは、子どもはこの人生でやるべきことがあるから生まれてくる、という見方です。自分のテーマを持たずに生まれてくる人間はいない、という人生観です。親と教師は、子どもが持って生まれた能力・素質を尊重し、それを成就させようとします。子どもは自分の課題に適した親を選んで生まれてくる、という言い方をシュタイナーはしています(親による子どもの虐待という問題がありますが)。自分の魂を生かすのに相応しい身体を、遺伝を通して与えてくれる親を選ぶというのです。子どもは一〇歳ごろまでに、親の言動を模倣することをとおして、親の考え方・感じ方を吸収します。それが、その子の道徳を形作っていきます。シュタイナー学校では、あらゆる学科が道徳感覚を育成するので、別個に道徳の時間はありません。例えば理科の授業で、自然界の秩序・調和を学べば、それが道徳感覚を育てるはずです。例えば生物を、個々のものに切り離して教えるのではなく、生命を成り立たせている環境全体との関連において体験させれば、生徒たちは自然界の法則=道徳を実感します。数学にしても、その美しい秩序を学ぶことによって、道徳感覚が養われます。地理や歴史からは、人間の存在の条件を感じ取れます。学童期は、イメージ的・絵画的・音楽的な学習が大切な時期です。この頃、尊敬できる大人がいないと、自由な人間へと成長していけない、とシュタイナーは考えていました。また、思春期に個性が目覚めないと、依存的・反抗的になっていく、と考えていました。少年期における抽象的思考は、批判的・衝動的な行動を誘発します。シュタイナー学校では、教師は教科書に頼って授業をしません。自分が身に付けた知を、メモにもノートにも頼らずに、語ることができて初めて、生徒はその先生の話に耳を傾ける、と考えています。子どもが自分で判断できる年齢になるまで、大人が模範を示すことが大事です。幼いうちから子どもに自分で決定させると、無気力で不機嫌な人間になります。子どもの言いなりにしていると、子どもは自分の基準とするべき見本がなくて、自分を支配できないようになります。見本を示されていると、思春期になって、自分の考えで自制できるようになります。なじみの話、いつもの遊びなど、生活のなかに繰り返しがあると、意志の強い、落ち着いた子になります。「しかる・ほめる」が、思春期に良心が目覚める準備になります。自分の良心から行動する人間が自由な人間だ、とシュタイナーは考えていました(良心が目覚めるのは十歳ごろからです)。大人が感情的に怒ると、子どもは大人の怒りに反応し、叱られている内容を洞察できません。いつも叱られて、びくびくし、不安になると、子どもは不器用になっていきます。叱り過ぎると、子どもは過敏になり、叱らないと、良心が欠如した人間になります。甘やかすと、断念を学べず、意志の弱い、無気力な人間になる可能性があります。厳しいしつけは、子どもを受動的にし、やがて外界に対する関心を失わせ、ついには暴力的な行動に走らせます。学童にとって、大人は確かな判断をするオーソリティーである必要があります。教師の適性は、学識ではなく、生徒に信頼される人格(親しみやすいと同時に、よい意味での権威者として見上げられる風格)です。大人が子どもと同じレベルに下りる必要はありません。子どもは本来、大人を見上げて、そこに向かって成長していこうとするものです。大人の意志が弱っていると、子どもは落ち着きがなくなります。大人が手で仕事をすることが少なく、機械に頼りすぎたり、大人に将来への不安や悲観があると、子どもは落ち着きをなくします。大人が世間を中傷することが多い場合も、子どもは落ち着かなくなります。落ち着きのない子を癒すのは、大人が発する敬虔な雰囲気です。そのためには、大人が内的な平安を育てる時間を確保しておく必要があります。大人自身が知的に硬化していない、自由で創造的な人間である必要があります。そのためには、自然体験・芸術体験によって、心に抑圧のない、開放的でくつろいだ人間になっている必要があります。シュタイナー学校の教員養成では、まずシュタイナーの人間観・精神科学、第二に芸術体験、そして教育方法の習得というふうに、教師になる人の芸術体験が重視されています。思春期には、内面とは逆の行動するという特徴があります。思春期の少年は、内面に閉じこもりがちです。自分を外に出さず、不良の真似をしてみることもあります。少女の個我は、大自然に結び付いている心の影響を受けます。自由で開放的な自分を示しますが、人に対して批判的になります。シュタイナーは、少々のことは、いちいち注意せず、大目に見ていました。少年には、ユーモアをもって接するのがいい、と考えていました。思春期に必要なのは、理想を持っていることです。少年には、英雄の性格を物語り、少女には偉人の美しい行為を絵画的に物語ります。思春期の少年少女は本来、人生は崇高な目的のためにあると思っているので、それを挫くようなことを大人が言ってはなりません。自然の雄大な美を体験することが、思春期の非行を防ぎます。思春期には、父母を人間として知ること、両親が子どもの話相手になることができます。 特に日本で問題になるものに、テレビがあります。テレビは、ただ見ていれば、自分の努力なしに楽しめるものです。その結果、テレビを見ていると、思考が受動的・表面的になります。言葉が単純になり、集中力・創造性が低下します。意志が弱くなり、攻撃的になります。シュタイナー教育では、テレビを見ても害がないのは十六歳以降と考えています。十歳以後なら、害はいくぶん少なくなりますが、親が一緒に見て、番組の内容についてあとで話し合って消化する必要があります。子どもは、人類が通過してきたことを、自分の成長につれて順に体験していくものです。例えば、楽器はまず昔からあるもの(笛や弦楽器や打楽器)を手にし、近代の楽器(ピアノ)は、もう少し大きくなってからにします。現代の発明品であるコンピュータは、大人になってから-早くても青年になってから-習得するものです。コンピュータは仕事に使うものであって、ゲームに使うものではありません。遊びに使うと、没頭してしまって、受ける影響が多くなります。建築に譬えれば、小学校までが、基礎を固める時期です。小学校時代は柱を立てる時期、中学・高校時代は屋根を乗せる時期だといえます。インスタント食品で手早く料理することもできますが、味わい深いものは、本格的に、じっくりと時間をかける必要があります。基礎(体)や柱(心)がしっかりできていないうちに、急いで屋根(頭)を乗せようとすると、安定感に欠けた家になります。三歳ごろにしっかり歩けることが、しっかり話せる基盤になります。五歳ごろにしっかり話せると、しっかりと考えられる基盤ができていきます。早く歩かせようとしたり、大人が子どもに幼児語で話しかけたり、いろんなことを記憶させたりすると、のちに心身に問題が出ることがあります。幼年期の成長力が、やがて想像力に変化し、さらに知力に変化していきます。感覚的印象と想像力が脳を形成していきます。穏やかな感覚的印象と、想像力を刺激する素朴なおもちゃが大事になってきます。完成されたもの(本物そっくりにできている玩具)だと、想像力がせき止められるし、知育目的の抽象的な遊びは、子どもを生活から引き離していきます。遊びは、大人の仕事の真似をして、生活能力へとつながっていくものがいいのです。想像力がないと、他人に敷かれたレールの上を歩むことしかできなくなります。幼児は全身で周囲の印象に没頭しているので、環境が穏やかで安らかな印象を与えることが大切です。子どもは、きつい味付けのものを好むことがありますが、それが体によくないことは、だれでも知っています。同様に、けばけばしい色・形や騒々しい音は、子どもの心身を害していきます。まわりの大人の行為と思考が、落ち着きと愛情あるものであることも重要です。一日を静かに始め、元気に過ごしたあと、静かに終えることが大切なので、たとえば童話を語るときも、劇的にせず、淡々とした語りに終始します。幼稚園時代に知育すると、心身が虚弱になる可能性が出てきます。最も大事なのは、親が明確な考えをもって行動することです。真似をする手本を親が示さないと、子どもの意志は盲目のものになります。 子どもは、親の手伝いをできることがうれしいのですから、「これをしてくれたら、ほうびをあげる」と言う必要はありません。親の手助けをできること自体がうれしかったのに、ほうび目当てに手伝うようになってしまいます。叱るときも、「罰を与える」と言うと、自分の行為の善悪を考えないまま、罰を恐れて行動を控えます。それだと、教育になりません。 両親がそろっている家庭の場合、妻が夫をどう思っているか、夫が妻をどう思っているかが、そのまま子どもに伝わります。父親と母親の間に、教育方針のずれがあると、子どもは迷ってしまいます。父親の態度が、思春期の子どもに大きな意味を持ちます。会社員の場合、子どもは父親が働く姿を目にしていないので、休日に家庭労働をすると、子どもは父親の価値を認めます。また、母親が子どもに家庭で、父親のことをしばしば話題にすると、子どもと父親との結び付きを支援できます。子どもをしつけるには、まずその子を信頼することから始めます。すると、親の信頼に応えて、子どもが親を信頼します。親は夜、自分の子が今日どんなふうだったかを、ありのままに思い浮かべてみます。教師は、学校に行くまえに、自分の担任する生徒たち一人一人を思い浮かべます。そのようなことが、不思議なことに、子どもとの関係をよくしていくものです。幼年期・少年期に体験した暖かさ・楽しさは、たとえ意識の表面からは消え去っても、生きていこうとする力として、深みから作用しつづけます。 西川隆範(シュタイナー研究家)
2008年11月22日
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実は、先日友人と会って飲みに行った後も、カラオケに行きました。二人で行ったんだから、一人カラオケじゃないですよ。その友人は、「達郎とかEPOとか歌ってもいいけど、知ってる歌にしてよ。。。」とか言うもんで、自分の好きな歌が歌えなかったので、昨日また一人カラオケに行ってきました。そこで初めて、達郎の「ずっと一緒さ」を歌ったんですが、何と点数が94点自分でも割りと上手に歌えたかな?という歌が、74点。。。一体、カラオケの採点基準てどうなってるんじゃ
2008年11月22日
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最近よく財布を忘れるんですよね~。今日も財布を忘れて、家へ取りに戻りました。。。以前に、回転寿司屋で会計の時に財布を忘れたことに気づき、家まで取りに戻ったことがあります。O型なので、もともとちょっと抜けているというのもあるんですが、それにしても忘れ過ぎだよな~。ボケの初期症状かな?
2008年11月21日
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昨日、久々に友人と会って焼き鳥屋で飲みました。最初はお互いの仕事の話しとか世間話しとかしてるんですが、彼は仏教系の新興宗教を信仰しているので、段々話しがそういう方向に流れて行きます。私もアルコールが入ると段々テンションが上がってきて、精神世界系の話しをし出します。焼き鳥屋で、シュタイナーがどうの、キリストがどうの、秘教がどうのという話しをするわけです。。。隣の席にいた若いカップル(女の子は結構可愛い)が、何やらこちらを見てニヤニヤ笑っています。帰り際にその女の子に、「うるさかったでしょ?御免ね~」と言ったら、「いいえ~」とニコヤカに笑みを返してくれました。なかなか感じのいいカップルだったな~。
2008年11月21日
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秋の夜長に、たまにはクラシックもいいでしょ? Slava(動画)Slava Ave Mariaお勧めCD Charlotte Church (動画)Voice Of An Angelお勧めCD
2008年11月19日
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同じ魂の延長であるということが、ソウルメイトということです。ソウルメイトというのは、自分の人生の適切な時に出会います。自分が見る必要がある時に、見る必要のあるものを反映して見せてくれる人がソウルメイトです。そういう意味では、あなたが交流をもつすべての人がソウルメイトであるということができます。つまり、あなたの人生の中で現れる人はすべて偶然ではなく現れるのです。 ソウルメイトは実際にあっていいのですが、ただそれは、単なる同意のもとにあるということです。覚えておいてほしいのは、どんな人でもあなたの目の前に現われてくる人は、そのときあなたに一番必要なものを反映して見せてくれている、ということです。つまり、ソウルメイトの定義づけからすると、あなたの目の前に現われる人はすべて、そのときのあなたのソウルメイトということになります。なぜならばその瞬間、そのときに、あなたに一番いい方法で奉仕をしてくれているからです。 「バシャール」より
2008年11月19日
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今日は、風が強くて枯葉吹雪が舞って寒かったですね~。短い秋が終わったら、もう冬ですね。今の時期になると、何となくジャニス・イアンの曲が聴きたくなります。。。 Will You Dance?17才の頃恋は盲目
2008年11月19日
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今日、見込みのお客さんのお宅に伺った時の話です。。。お客さんが何気に、風水の勉強会に言っているという話しをしてきました。 私 「それって、宗教は絡んでないんですか?」お客 「何だか、キリスト教みたいだな・・・・。」私 「えっ?それってもしかして統一教会じゃないですか?」お客 「詳しいね。もしかしてそこに居たんじゃないの?」私 「いや、知り合いがそこに行ってたので、本とか読んだことあるんですよ。」嘘つき~居たくせに~お客 「この前、韓国に旅行に行ってきたんだよ。道場みたいな所に行ってきて、何だか変な雰囲気だったな~。」私 「そこってもしかして、清平じゃないですか?」お客 「えっ?随分詳しいね~。本当はそこに居たんじゃないの?」私 「いえいえ・・・・・・。」と、笑って誤魔化す。。。^^;お客 「何だかそこの人しつこくてさ~、最近、風水の勉強会に行ってないから、訪問して来るんだよ。」私 「もうそこ深入りしない方がいいですよ。」お客 「いや、もう行かないよ。でもこういう事、誰にも話せなくさ~。」 そのお客さん、家族にもそのこと話してなかったようで、でも誰かに話したかったんでしょうね。。。良かったですね、深入りしなくて。私も契約取れたし、お客さんも話してすっきりしたみたいだし、目出度し目出度し。。。
2008年11月18日
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<あらすじ>スイス。ジュネーブにあるスイス銀行の大金庫は万全の備えをもつ最新式のものだ。扉は電子装置で開閉、地下には坑道をめぐらし電気写真装置、侵水装置などその防御設備には近代化学の粋がもりこまれている。そして中に眠っているのは時価数百億円の金ののべ棒。となればこれを狙う連中の心は常にもましてハッスルしようというもの。ある冬の日、真黄色に塗った道路工事の車と、オレンジ色の服を着た六人の男が、道路に穴をあけ地下にもぐっていった。しかし誰も彼らがヨーロッパよりぬきの泥ちゃんとは気がつかない。しかも向いのホテルの一室では、リーダーの"教授"とよばれる男アルべール(フィリップ・ルロワ)が、情婦のジョルジア(ロッサナ・ポデスタ)を傍わらに無線通話機、レーダーで総指揮をとっているという念の入り方。特製ドリルで大金庫の底に穴をあげた男たちは午後一時、計画通りに仕事を完了。七トン、時価五億円の金ののべ樺は"銅"という名目でイタリアへ発送されてしまった。「教授」とジョルジアは夜行列車で、あとの六人は車で出発。落合うところはローマ。ところがジョルジアはスイス銀行の支配人としめし合せて、「教授」を眠らせて横取りを計った。しかし役者は「教授」の方が一枚上で計画は見事に失敗。彼は金を独占--と思ったが、愛する女は憎めないし、六人も黙ってはいない。そこで皆で分配しようとした時、金をつんだトラックのブレーキがゆるんで坂を急降下。ドカーンと物売りの屋台にぶつかって金ののべ棒はあたりいっぱいに散乱--これで万事休す。「もうやめようよ」「そんなこといわないでもう一度」。そして何カ月かのちのある晴れた朝、ローマ銀行の前には道路エ事用の真黄色に塗った車と、「教授」とジョルジアの乗ったロールス・ロイスがやって来た。 <寸評>確か、小学生か中学生の時にテレビで観たんですが、とにかく音楽が最高音楽を聴いて観たくなる映画って結構あるんですが、この映画もその一つです。「11PM」のテーマ音楽は、このパクリだな。DVDをレンタルして、久々に観ようかな~。 黄金の七人黄金の七人(音楽のみ、こっちの方が音質は)
2008年11月18日
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ボサノバは好きで結構聴くんですが、最近のお気に入りです。夫婦デュオです。CDショップで試聴して、一発で気に入りました彼女を部屋に呼んだときのBGMにいいですよ。あ・・・・もう皆さん、そういう時期は過ぎてるか? Planos
2008年11月18日
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また今日も行っちゃいました~。何だか癖になりそう。。。今日は、我が歌姫EPOの曲を22曲と、例によって山下達郎の曲を7曲です。男が女性の曲を歌う場合、キーが難しいんですが、6つキーを上げたら丁度良かったです。 歌った曲 疑似恋人達の夜12月のエイプリルフール三番目の幸せふたりのメロディー百年の孤独ハーモニーPARK Ave 1981渚のモニュメントジェラシーと呼ばないで汽車う・ふ・ふ・ふ遠い窓近い窓くちびるヌード・咲かせます寂しくならない別れの言葉DOWN TOWN ラプソディー土曜の夜はパラダイスVITAMIN EPO真夏の青写真身代わりのバディー私について音楽のような風朝のドライブ 他、山下達郎7曲Love Spaceこの曲、途中で声が出なくなるんですが、キーを2つ下げたら歌い切りました達郎の曲の中でも特に気に入っている歌です。「いつか」が何故カラオケにないんだよ~。
2008年11月17日
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凄い動画を発見してしまいましたこのライブ、行ったんですよ~懐かしいな~。ブラザーズ・ジョンソンのルイス・ジョンソンが、ベースで参加しています。この動画だと、観客席は見づらいかも知れませんが、観客総立ちで踊ってるんですよ。もちろん、私も。。。 「愛のコリーダ」
2008年11月16日
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●あなたは、愛とともに生まれてきました。あなたは、愛とともに生かされています。 ●偶然は何ひとつありません。あらゆることが、気づきと真なる幸せを見出すために起こります。 ●ほんとうに必要なものは、最適の時に与えられます。その法則を信じて、あなたの努力を楽しみましょう。 ●あなたの心が、あなたの現実をつくりあげます。どんな時にも、あなたの心の運びを整えなさい。 ●善し悪しや優劣の評価をするのはあなたの選択です。宇宙的視野から見れば、すべての事がOKなのです。 ●あなたが今やらねばならぬことは、当面の任務です。誠実に熱心にやりこなせば、やがて任務は変わります。 ●どんな物事も明るい光の目でみましょう。いつでも明るく輝く光の心でいられます。 ●人にせいにしている間は、真実が見えません。静かに自分を見つめると、気づきが起こります。 ●あなたに宿っている神性を信頼しましょう。あなたの制限をとり除いて実践しましょう。
2008年11月16日
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今日、久々に(約一年ぶり?)ヒトカラ(一人カラオケ)に行きました。ここです。今日で二度目です。ストレス解消にいいですよ山下達郎オンパレードです 歌った曲 Ride On Time LOVE SPACE 愛を描いて甘く危険な香り風の回廊好き好きスイートキッス!SPARKLEパレードMorning Gloryラスト・ステップレッツ・ダンス・ベイビーFOREVER MINE2000トンの雨永遠のフルムーンいつか晴れた日にエンドレス・ゲームクリスマス・イブサーカス・タウンソリッド・スライダーついておいでシャンプー土曜日の恋人夏への扉Loveland Islandアトムの子
2008年11月14日
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今日の「とくダネ!」に、平松愛理が出ていました。久々に「部屋とYシャツと私」を聴きました。(フルコーラスで)彼女の歌、結構好きでアルバムも持っています。彼女の楽曲の多くは、清水信之氏(後に平松愛理と結婚するが、離婚している)がアレンジを担当しています。清水信之氏と言えば、EPOの初期~中期の楽曲アレンジを数多く手がけた名アレンジャーです。アーティスト(この場合、シンガーソングライター)とアレンジャー(プロデューサー)がゴールインするケースは少なくないんですが、例えばユーミンと松任谷正隆、竹内まりやと山下達郎なんかもそうですね。そのジンクス?からいくと、EPOと清水信之氏は出身高校(都立松原高校)が同じで共にバンド活動をしていたらしく、しかもその延長線上で清水氏がEPOのアレンジを手がけているわけですから、そのままゴールインしてもおかしくなかったわけです。 ここからは、私の独断と偏見的的解釈になります。もし当時、EPOと清水氏がゴールインしたら、当然その後のEPOの楽曲アレンジを清水氏が手がけていたと思います。ユーミンと松任谷正隆、竹内まりやと山下達郎が運命共同体であるのと同じように。。。という事は、EPOのポップ路線はそのまま続き?、もしかしたら今のヒーリング路線に転向していなかったのではないか?と、ふと思ったりするわけです。EPOさん、私の読みは如何でしょうか?て言うか、人のプライバシーに勝手に口挟んで、変なこと書いてんじゃね~~~ EPOさん、どうもすいませんでした。。。m(_ _)m
2008年11月13日
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人気ホラー小説「リング」に登場する貞子のモデルになったといわれる御船千鶴子の素顔を再現ドラマで伝える。日本で催眠術が流行していた明治30年代後半、人間の深層心理を研究していた福来友吉は、封印された鉄瓶の中の紙の文字を言い当てた千鶴子の超能力を確信。学会で発表するが、学者たちには信じてもらえなかった。再び実験が行われるが、透視に失敗した千鶴子は希代のペテン師としてマスコミに書き立てられ落胆する・・・・。 実は、私の息子も透視能力があるんですよ。目隠しをした状態で、カードをほぼ100%当てます調子の良い時は、本も読んじゃうんです結構、凄いでしょ?一時期、テレビに出そうかなと思ったんですけどね。
2008年11月12日
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今日の、「ザ・ベストハウス123」でやってました。 Vocal Sampling 声で、エレキ・ギターをやってます。Raul Midon 声で、トランペットをやってます。Bobby Mc Ferrin声で、いろんな楽器をやってます。 やっぱ、人間の声って最高の楽器だな~
2008年11月12日
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シュタイナー関連のサイト、「神秘学遊戯団」の中の「風日誌」に、何気にEPOの記事がありました。シュタイナーに傾倒している人って、EPOのファンが多いのかな?EPOさんもシュタイナーを学ばれているようだし、これも「引き寄せの法則」かな?
2008年11月12日
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私の好きな、イタリア製ポップス(カンツォーネ)です。 砂に消えた涙ほほにかかる涙ボラーレアマポーラ正確にはカンツォーネではありませんが、それっぽいのでオマケです。
2008年11月12日
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私が、高校生くらいの時に流行ったボサノバ調の曲です。ダリダの歌に被せて、アラン・ドロンが台詞を言っています。結構、渋いでしょ? あまい囁き 日本では、中村晃子と細川俊之がカバーしました。こちらも雰囲気がありますね。皆さんは、どちらがお好みですか? あまい囁き
2008年11月12日
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超レア音源です今は荻窪に住んでるけど、この頃はまだ高校生で青森にいたからな~。こういうの聴けちゃうんだから、やっぱネットって凄いや~。 シュガーベイブ荻窪LOFTラストライブ 達郎のこの曲、好きなんだよね~。当時、エレキ・ベースやってた頃は、これくらいコピー出来たんだけどな~。嘘つけ~何だかまたベースやりたくなって来たぞ~。 「LOVE SPACE」
2008年11月11日
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80年代のEPOは、「元気でポップなEPO」というイメージが強いと思うんですが、EPOの真骨頂は実はバラードなんです。これ程、「胸キュン」にさせるバラードを書けるアーティストは他にいないでしょう。因みに私が一番好きなバラードは、アルバム「ハーモニー」に入っている、「疑似恋人達の夜」という曲です。 EPOバラード集ここ多分そのうち削除されると思うので、聴いていいな~と思ったら、CDを購入して下さいね~。amazon
2008年11月11日
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三位一体が宇宙のプランを作り、それをセラフィムが受け取って、ケルビムが構築し、トローネによって実現される。物質的惑星形態はエクスシアイが創造したもので、惑星の内部の動き(人間のエーテル体に相当)はデュナメイスによって引き起こされる。惑星の低次意識(人間のアストラル体に相当)はキュリオテテスによって規則づけられ、空間を運行する衝動(感受的心魂に相当)はトローネ、惑星系全体の秩序(悟性的心魂に相当)はケルビムによって与えられる。さまざまな惑星の取りまとめ(意識的心魂に相当)はセラフィムの働きである。 「シュタイナー用語辞典」より ※神的・霊的存在の中心は、9つの位階からなる天使群です。●セラフィム(熾天使)●ケルビム(智天使) ●トローネ(座天使)●キュリオテテス(力天使)●デュナメイス(主天使)●エクスシアイ(能天使)●アルカイ(権天使)●アルヒアンゲロイ(大天使)●アンゲロイ(天使)
2008年11月09日
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●エドガー・ケイシー(1877-1945)20世紀の米国にて活躍した霊能者。その類まれな霊能力を用いて非常に多くの病人を救った。その霊能力をリーディングと言う。リーディングの分野は医療のみならず前世・夢解釈・哲学・超古代文明など多岐に渡る。そのリーディングの多くは速記によって記録され文書で保存されている。その数は何と14306件にも登り、誰もがその閲覧を許されている。リーディングの依頼者(相談者)には時の米国の政財界・学会の著名人も含まれている。 「知ってるつもり?!」~エドガー・ケイシー
2008年11月08日
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精神界の余韻。エーテル体の振動に関連し、音楽の感覚はエーテル体が自由になるとき、つまり7~14歳に目覚める。呼吸リズムが脳で感覚知覚と出会い、音楽感受が生じる。論理的思考の萌芽は、エジプトーカルデア文化期にヨーロッパに生きた菩薩によって、音楽を通して感受的心魂に植え付けられた。音楽はアストラル体に印象を与え、ついでエーテル体の中に音を送る。長調では音楽がエーテル体の音に打ち勝ち、短調の場合は逆である。長調ではアストラル体がエーテル体にぶつかるのが快適で、短調ではエーテル体がアストラル体に打ち返すのに安堵を感じる(長調では心魂が身体から解放されて、身体に勝っており、短調では心魂が身体に屈服している)。音楽はケルビム(智天使)と関連している。音楽の奏でられる空間には、アストラル体を最下位の構成要素とする神霊存在・大天使が入ってくる。高貴な音楽は良い存在を引き寄せ、嫌悪を引き起こす音楽は、邪悪なアストラル存在を引き付ける。アストラル体は音の世界に生きており、死後にアストラル体を捨てる時に地上の音楽も捨てることになるが、音楽は天球の音楽に変化する。音楽の中心は感情で体験されるハーモニーで、音楽が頭に向かいつつも表象にはならないとメロディーになり、意志に向かいつつも意志にはならないとリズムになる。レムリア時代には9度、アトランティス時代には7度が神々の開示であり、人間は精神界にいると感じた。ポスト・アトランティス時代前期には5度において精神界・神々との結び付きが体験され、ギリシアーラテン文化期に3度の音程が現われた時点で、音楽は主観的になった。長調・短調が形成され、人間は音楽によって自分を地上存在と感じたのである。ギリシアーラテン文化期にはオクターブ、中世には5度が、現代の3度のように感じられた。4度は5度の忘我と3度の自己内生の中間にあり、4度を体験するとエーテル的なものの中に生きているように人間は思った(人間は4度体験においてエーテル体を体験する)。音楽は一次元の芸術で、精神・心魂が体験される。ハ音から嬰ニ音が物質的身体、ホ音からト音がエーテル体、7度までの高音がアストラル体を共振させる。オクターヴへの移行に際しては、内的個我から高次段階の自己が発見される。子供は9歳ごろまで5度の気分を体験しており、9歳ごろに3度と長調・短調を理解し、12歳ごろにオクターヴを体験する。将来は、個々の音楽の中にメロディーが体験されるようになる。ドー火星、レー水星、ミー木星、ファー金星、ソー土星、ラー太陽、シー月という関係があり、木管楽器がメロディーで神経・感覚系、弦楽器がハーモニーで律動系、打楽器がリズムで新陳代謝系に関係する。音楽の才能を発揮するには、音楽的な耳が必要である。音楽的な人は、前世でいきいきとした印象を受けた。 「シュタイナー用語辞典」より
2008年11月08日
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思考・感情・意志の均衡から生まれるもの。利己主義から自由になりうる唯一の情熱で、アストラル体に担われており、エーテル体を構築する。愛は、レムリア時代に、人間の鈍い意識の中に輝いた。物質的身体を有する存在の中でのみ、愛は発生できたのである。レムリア時代に両性が分離したことによって、愛は最も低い形で植え付けられた。レムリア時代に、天の戦いの結果をルシファーが人間のアストラル体に植え付けたことによって、悪と自由と愛の可能性が得られたのである。愛と言う概念はBC7世紀に発生した。愛を送るのは、太陽に住む6柱のエロヒムである。ヤハウェはエロヒムの愛を反射して、夜の間に人間に無意識に愛を植え付けた。愛は自由と結び付いてのみ存在可能であり、自立した個我のみが愛を担える。神の中にいれば、愛することができない。分離したもののみを愛することができるのである。集団性が壊されることによって、愛は発展できた。古代には、愛は血縁に結び付いており、今日より強いものだった。今日では愛は心魂的になり、弱くなったが、キリスト衝動によって再び強くなる。心魂は愛から織られており、心魂のいとなみは愛と憎しみからなる。血縁を超えた普遍的な愛は、ナタン系イエスとして出現する存在によってもたらされた。愛・同情の教師は仏陀である。地球は愛の発展を課題とし、木星進化期には、あらゆるものから愛が流れ出る。修行のためには、愛の能力の育成が必要である。 「シュタイナー用語辞典」より
2008年11月08日
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自分と同じ誕生日や生まれ年の有名人がわかります。因みに私の誕生日は12月9日なので、雅子妃や綾小路きみまろなんかと同じです。 生年月日(誕生日)データベース 因みにこの本は、1年365日すべての誕生日について、その日に生まれた人の特徴が解説されています。昔、占星術に凝ってたことがあって、会社の同僚なんかのホロスコープを作ってあげたりしたことがあります。
2008年11月08日
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ヒトラーがまだ無名だった時代、その出現と災禍を予告したオーストリア人がいた。 その男の名は人智学の創始者ルドルフ・シュタイナー。そしてまた、ヒトラーのオカルト的精神が最も敵視したのが、同じ神秘主義の世界に生きたこのシュタイナーだった。シュタイナーは、ヒトラーが「唯一、完全に抹殺したい」人間であったと言われている。 ヒトラー vs シュタイナー
2008年11月07日
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第5文化期の代表的人物で、彼の『パルジファル』ほどキリスト秘教の真理に迫ったものはなく、エーテル体が特別振動する。ワグナーの音楽はモーツァルトやロッシーニよりも強力な作用があり、気質やエーテル体の傾向を変化させ、生命的精神の形成に向う。 「シュタイナー用語辞典」より ワルキューレの騎行
2008年11月06日
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"私"の内部には、現在"私"が持っている判断能力よりも正しく"私"を導いてくれる何かが存在している。 "私"はこの「"私"の内部の何か」に対して、"私"の感覚を開いておかなければならない。そこまでは"私"の判断能力はまだ成就していないのだ、と。魂が人生のそのような場合に注意をを向けていれば、その何かは、魂にとっても有効に働きかける。そのとき、時々の人間の判断力で見通せる以上のものが、人間の内部には存在しているのだという事が、健全な予感のように、魂にあきらかとなる。このような注意深さは、魂の活動が拡張するように働く。しかしこの場合にも容易ならぬ一面性が生じる可能性がある。"予感"が自分をあれこれの事柄に駆り立てるので、常に自分の判断を排除する習慣をつけようとする者は、あらゆる不確かな衝動に翻弄されるであろう。そして、そのように習慣となった判断しない状態と迷信との間には、大きな違いは無いのである。
2008年11月06日
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歌手としての和久井映見は、あまり知られてないと思うんですが、歌も結構上手いし、歌声も癒し系なんですよね。当時はファンクラブにも入ってました。 my lonly good-by club
2008年11月05日
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深キョンの写真集が出たそうです。特に彼女のファンというわけではないんですが、の写真、どうやらスッピンのようでちょっとドキッとしました。スッピンの色気とでもいうんでしょうか。。。テレビに出ている時は、結構派手なメイクをしてるので、何だか新鮮ですね。こういったタレントの写真集は、和久井映見のファンだった頃買ったきりですが、何だか見てみたい気もします。。。
2008年11月05日
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■[からだ・いのち・こころ・たましい] 体は人間の一部だ。人間の体は、崩壊に対して戦う生命に浸透されていないと、死体になる。生命が人間の第二の部分である。生命オーラの上部は体とほぼ同じ姿をしており、下に行くにしたがって、体と似たところがなくなっていく。体と生命オーラでは、左右が逆になっている。男の生命は女性的であり、女の生命は男性的だ。健康な人の生命は若い桃の花の色をしている。心が人間の第三の部分である。楽しみ・苦しみ・喜び、それらの思いのオーラは、輝く雲のように見える。人間の思いが絶えず変わるように、心の色と形も絶えず変わる。人間の第四の部分は魂。その中心は前脳にあり、青く輝く球が見える。 [いのちのゆくえ] 死ぬと、生命は体から離れる。死の瞬間、過ぎ去った人生が大きな画像のように、死者のまえを通り過ぎる。生命は記憶の担い手であり、その記憶が解き放たれるからだ。 [こころのゆくえ] 地上への愛着から離れる時期が始まる。心のなかの衝動・願望は、死後も存在しつづける。体の喜びは心に付着しており、欲望を満たすための道具である体がないだけだ。地上に結び付いている欲望がなくなるまで、心霊の世界の期間は続く。物への願望が強ければ、死後の生活において意識が曇る。物への執着をなくしていくにつれて、意識が明るくなっていく。生まれてから死ぬまで、自己の発展の妨げとなるものを作る機会が多々ある。自分本位の満足を手に入れたり、利己的なことを企てたりしたとき、私たちは自分の発展を妨げている。だれかに苦痛を与えても、私たちの進歩の妨げになる。心霊の世界を通過していくとき、進歩の妨げを取り除く刺激を受け取る。心霊の世界で、人間は自分の生涯を三倍の速さで、逆向きに体験していく。ものごとが逆の姿で現われるのが、心霊の世界の特徴だ。自分が発している衝動や情熱が目に入るのだけれど、それらが自分のほうに向かってくるように見える。自分の行為によって他人が感じたものを、心霊の世界で体験する。自分が相手のなかに入って、そのような体験をするのだ。そのように、人生を誕生の時点へと遡っていく。 [たましいのゆくえ] 新しい状態が始まる。苦悩から解放された、精神の国での魂の生活だ。そこでは、地上の鉱物があるところは空になっており、そのまわりに神的な力が生命的な光のように存在している。地上の事物のなかに存在するものが、精神の国の大陸を作っている。地上では生命は数多くの存在に分けられているが、精神の国における生命は一個の全体として現われる。精神の国の海だ。心のなかに生きるものが、精神の国の空気を作る。人間が地上で抱く喜びと苦しみが、精神の国では気候のように現われる。かつて体験したことが、いまや大気圏として人間のまわりに存在する。精神の国のこれらの領域に思考が浸透している。 [輪廻する私] 人間は精神の国で、みずからの元像を作る。精神の国に持っていった、地上の人生の成果・精髄が、そのなかに取り込まれる。この元像が凝縮して、物質的な人間になる。人間は新しいものが学べるまでは、地上に下らない。生まれ変わるべき時期が来ると、魂は精神の国で作った元像に従って心をまとう。そして、神々によって両親へと導かれる。両親が与える体は、生まれようとする心と魂におおよそしか適さないので、体と心のあいだに、神々によって生命が入れられる。生命をとおして、地上的なものと、天から与えられたものとが適合する。生命を得るとき、これから入っていく人生を予告する画像が現われる。 西川隆範HP
2008年11月05日
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キムタクのラバーダンス、すげ~~~昔、ディスコによく通ってた頃、ロボットダンスが流行ってましたが、私も少しは踊れますよ。このダンス、覚えよ~っと。 原曲
2008年11月03日
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というわけで、仕切り直しです。実はEPOさん、杉並区と縁があるんですよ。杉並教育フォーラムのテーマソング「WE CAN」を手がけているんです。私は杉並区民なので、これもシンクロニシティですね。もう、プライベートライブは杉並でやるっきゃないっしょそこで、候補会場はここです。大ホールは、何度かクラシックコンサートで行ってるし、しかもうちの近所です。194席あるので、動員が結構大変かも知れませんが(もちろん満員にするつもりです)、EPOさんのHPでも告知してもらい、杉並区民としてのコネ?を最大限に利用して動員したいと思います。 ※EPOさんのファンの方で、今回のプライベートライブ実行委員として協力して頂ける方がいらっしゃいましたら、御連絡お待ちしております。m(_ _)m(ブログ左のメールという所からメッセージを送れます)
2008年11月02日
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何度か事務所の方と連絡を取り合い、ジャズ喫茶「メグ」の収容キャパでは、EPOさん側に支払う出演料の支払いが困難であるという結論に達しました。でも、決して諦めたわけではありません。これからもっと箱の大きい会場を探したいと思います。ここまで話しが盛り上がっているのに、やらないわけにはいかないでしょ? 「ワクワクとすることをやるときに、無限に信頼をおいてください。信じてください。そして宇宙がそれに対して、自分をサポートしてくれることを信じてください。」 バシャール
2008年11月01日
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