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皆さん、ヴェレダ化粧品って知ってますか?私は男なので詳しくないんですが、芸能人やモデル、セレブに愛用者が多いそうです。藤原紀香さんや、君島十和子さん、元フジテレビアナウンサーの深澤里奈さんも愛用しているそうです。実はヴェレダ社は、シュタイナーのアントロポゾフィー医学に基づき、自然薬を製造する会社として創設されたんですよ~。 へ~へ~へ~へ~へ~へ~
2008年08月31日
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シュタイナー教育で使われているおもちゃが、なんと皇室でも使われているんですよ~。これは、愛子様が使われていたママごとセットです。 へ~へ~へ~へ~へ~へ~ シュタイナーおもちゃ
2008年08月30日
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シュタイナーはずいぶん長い間、ヨーロッパでは異端者-----まともな学者ではないとされていました。なぜかといいますとヨーロッパは9世紀のころ、日本では平安時代初期のころ、コンスタンチンノープルで公会議が開かれ、人間というのは魂と肉体からなる存在であるということが、キリスト教の教義の中に取り入れられました。 それ以前のキリスト教の人間観はどういうものであったかといいますと、これはプラトンやアリストテレス以来の考え方なのですが、人間は霊と魂と肉体からなるものということが基本的な考え方でした。日本でいいますと一霊四魂といい、人間というものは4つの魂(「あらみたま」「にぎみたま」「さきみたま」「くしみたま」)と霊があり、霊・魂・体という見方をしていました。 この9世紀の教義は「人間には魂と体だけで、霊は教会の中にある」ということになり、人間の中に霊は存在せず、教会の中に聖霊が生きておられて、信者にならなければ霊性にふれることはできず、異教徒は迷える子羊になり、悪魔の誘惑に堕ちてしまう」というように定められたのです。 シュタイナーはその教義に反するような「霊・魂・体」説を打ち出したものですから、異端者にされてしまいました。いまでも英語では霊はSPIRIT、魂はSOULで、辞典を引くとSOULは心・魂・精神とでていますし、SPIRITと引くと同じように心・精神まれには霊、と出てきます。ことばの上でもSOULとSPIRITとは厳密に区別されていない状況なのです。 しかし、1970年代くらいにアメリカのニューエイジ・ムーヴメントが起こってから、チベットから大勢の人が亡命して、チベットの密教が影響を与えたり、学生運動が盛んになって近代合理主義への批判が生れたり、仏教や東洋哲学を勉強し始める若者が増え始めたことなどにより、人間のなかに霊性が宿っているらしいということになってきたのです。 高橋巌(シュタイナー研究家)
2008年08月28日
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皆さんは、ライアーという楽器を知ってますか?宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」の主題歌を歌っている木村弓さんが使っている楽器です。これって実は、シュタイナーの理念のもとにその弟子が考案した楽器なんです。ちょっとしたトリビアでしょ?へ~へ~へ~へ~へ~・・・・・・
2008年08月27日
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シュタイナー研究者として活躍するドイツ文学者、子安美知子女史(早稲田大学名誉教授)が、シュタイナーについて環境文化誌「TERRE」で語った内容です。 http://www2.cosmo-oil.co.jp/terre/05/02-01.html
2008年08月27日
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シュタイナーはその霊視能力を用いて、キリストをめぐる事象の秘教的意味を明かしています。キリスト事象は人類が経験した最高の霊的恩寵であり、人類進化の根源的原動力になっているとシュタイナーは考えます。それは単に2000年前に芽生え、その後キリスト教徒の間で受け継がれてきた信仰という、外面的捉え方では済まない、秘儀をもっているのです。キリストの教えは4つの福音書の内に残され、その教えは神父や牧師の口を通して人々の心の中に広がっていく一方、聖書に述べられている言葉の正確な意味が、地道な聖書学によって研究されています。その教えから、高次な存在に対する敬虔な思いと隣人への愛が生まれ、聖書学からは、言語学的な誤謬が正され、正しい読み方ができるようになれば、キリストに対するそれ以外の関わり方は不必要に思われるかもしれません。そして、本当にそれだけで、敬虔な思いや、真実の愛を呼び起こされる人も少なくないことでしょう。しかしシュタイナーはそうした関わり方だけでは、時にその目的が達せられないばかりか、却って誤謬が入りこむ可能性すらあるのが、現代のあり方だと考えています。福音書はそれが書かれた当時、直接キリスト事象を洞察するルチファー的グノーシスと均衡を保つ目的で人々に与えられたのだと、彼は言います。それを、2000年後の、唯物的時代にそのままに受け取るだけでは、字句の表面的意味に捉われるアーリマン的態度を生む恐れもあるわけです。宗派の分裂はまさに、人々の間に分裂と反目を起こそうとするアーリマンの思惑にはまっているわけです。しかし彼が、これまでは特別な秘儀参入者にしか知られていなかったキリスト事象の秘教的な意味を人々に伝えようとしたのは、単にグノーシスへの回帰ではなかったのです。人間の自我のあり方は、2000年前とは大きく異なりました。人間はその自我の進化の現段階で、皆がキリスト事象の秘教的意味を知るべきだと彼は考えるのです。普通の理解の仕方とは別に超常的な仕方で突然訪れる霊的なヴィジョンといったものも、キリスト教の歴史の中で繰り返されてきましたが、シュタイナーは、そのようなヴィジョンを可能にするイマギナチオーンを意識的にコントロールし、しかもその内容を論理化できた人でした。精神(霊)科学に基づいたキリスト論が、そこから生まれたのです。彼は、キリストが地球の進化に関わった経緯や、アーリマンやルチファーの悪の働きの秘義を、現代人は明確に知るべきだと考えたのです。自我による明確な意識化が誤った道に迷いこむことから人間を守るというのです。それは霊的な内容を、没我状態、霊媒状態で手に入れようとする太古のあり方と決別し、その内容を自我の明確な意識によって咀嚼することが、自我のさらなる霊的発達に必要だとする精神(霊)科学の基本に沿った考えです。 樋口純明(シュタイナー研究家) http://www.kirisutoshakyodotai.org/about.html
2008年08月27日
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運命とは、君が今生において体験しようと計画し、持ってきたものだ。言わば、不変のマスタープランであり、生まれ落ちる時に予め用意した絵の具だと思ってくれればいい。何色入りで、何色を配しておくのか。そうしたことを決めて、君たちは生まれ落ちる。 そして予め持ってきた絵の具、例えば黄色が君の目の前に現れた時、君はこんな色は嫌いだ!冗談じゃない!こんな物で絵を描けるか!と思った。 しかし、君の魂は、生まれ落ちる前、その黄色を使って書き上げるものをこそ体験するために生まれたのだから、君はその黄色と付き合うしかないのだよ。そして「今」は全てを忘れているのだからこそ、黄色をもってきたことを嘆き哀しむかもしれないが、やがて君が再び「あの世」と呼ぶ世界に戻った時は納得できる。自分で用意したことをね。 いいかな。そして君の創造力とはまさにこうした時にこそ用いられるべきなんだ。例えば、AくんとBくん、同じ内容の十二色の絵の具を持っていた。でも、描かれる絵は違うし、描きたいと思う内容も違うだろう?君は、与えられた不可避の状況(といっても君が選んだものなのだが)の中で、できる限り素晴らしい絵を書くという挑戦を自らに課しているんだよ。 例えばある演劇で、君は殺される役をやったとする。しかし、これがドラマだと知っているから、君を殺す役の人には別に敵意や憎悪を抱くことはないよね?しかし、これではドラマの価値がないんだよ。君たちは、あらゆることを体験したいと願い生まれてきたのだよ。殺される者の哀しみ。憎しみ。そして殺す者にすら抱くという「許し」の気持ち。あるいは、身内を殺されるという不幸。そこから脱却するという成長のドラマ。しかし、こうしたドラマがドラマに過ぎないと思ったら、君たちの世界は成立しない。ドラマだと知らないから、忘却しているからこそ、成立するんだよ。だが、中にはあまりにもドラマに浸かり過ぎるために、自分の筋書きを、成長のプログラムを体験しきれない者もいる。「自分を傷つける者を許す」事を体験しようと生まれてきたのに、それができないまま生きていく者もある。そしてそのまま死を迎える者もあるのだ。 いいかね?何が計画通り成功し、失敗だったのか。何が幸せであり、不幸せだったか。そうしたことは本人だけのものだし、いわゆる「あの世」に行って振り返るその時までは誰にも分らないのだよ。だが君たちは、例えば何かをやろうとして計画を立てたら、当然それが達成されたら嬉しいだろう?しかしそれは、計画を立てた当時の、つまり昔の自分にふりまわされる憐れなことだろうか?そう、違うだろうね。むしろ、祝福だ!誉むべきことだ!そうだろう?やったぞ!僕は計画を、挑戦を達成したのだ!と喜び、そしてまたこの次元に生まれることを選んだ魂は、また別の挑戦を設定する事だろうな。君たちは、この忘れる状態で成立する次元をとても愛しているのだから。 だが、いくら忘れることで成立しても、もう少し楽にできる方法はないか? もう少し、心穏かに生きていく術はないのだろうか?神よ、本当にこれは私が望んだ計画だったのですか?あなた方は、幾夜も私に向かって叫んだ。熱望した。答えは、イエスだ。こうして私が語るのはそのためだ。君たちは本当の意味で失敗は無い。時間は無限だし、幾らでもやりなおせるのだからね。そうしたことを知っていれば、生きやすくなるのではないかね?そして自らが選んでもってきた「絵の具」で、もっと朗らかな絵を描けるのではないかね?そして私は、君たちがそれを知っているからこそ、それを望んでいるからこそこうして語っているのだ。さぁ、友よ。あなたには、あなたの選んだ絵の具がある。壮大で、華やかで、そして穏かな絵を描こうではないか。あなたにはそれが描けるよ。私は知っている。そう、永遠に。
2008年08月26日
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来る9月16日~18日に行われる風水展に向けて、風水講演会が企画されていますが、動員がまだまだこれからの状況です。下記の内容を参考にしてぜひ対象者にあたって下さるようお願い致します。 「風水に関心がありますか?」というように軽くでもいいので、とにかく声を掛けて見てください。「風水」という言葉を聞いて心が動く人、血が騒ぐ人がいます。懲りないで、まだ霊感商法みたいなことやってるんですか?そのような対象者は時の人です。その人の背景に過去、国造りに携わった先祖がいて風水に関わっています。そのような背景を持った人は、現代においてTPと共に国造りをするために準備された人です。またまたお得意の嘘八百を並べてますね~。ですから、「風水」ということに反応する人を講演会に動員して下さい。あまり難しいことは考えずに対象者にあたって下さい。いや~いつまでこんな事やってるんでしょうね~。一応、キリスト教なんだったらキリスト教らしい事をやりましょうよ~~~
2008年08月25日
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<解説>2000年のカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞とエキュメニック賞を受賞した。九州の田舎町で起こったバスジャック事件に遭遇し、生き残った運転手の沢井と中学生・直樹と小学生・梢の兄妹。3人は乗客が次々と射殺され、自らも殺される寸前にまでなった凄惨な現場を体験し心に深い傷を負ってしまう。2年後、事件直後、妻を置いて消息を絶っていた沢井は再びこの町に戻ってきた。同じころ、周辺では通り魔の犯行と思われる連続殺人事件が発生し、次第に疑惑の目が沢井にも向けられるようになる。兄妹が今も二人だけで学校にも行かず家に閉じこもっていることを知った沢井は、突然兄妹の家に行き、そこで奇妙な共同生活を始める。しばらくして、同じような体験をしたという兄妹の従兄・秋彦もやってくる。やがて、沢井の提案で4人は沢井の運転するバスに乗り、あて所のない旅に出るのだった......。心に深い傷を負った人々の、崩壊と癒しそして再生への旅をゆったりとした時間の流れで真摯に見据えたドラマ。 <寸評>光テレビ(ビデオ)で観ました。3時間半の長尺ですが、時間の長さはあまり感じませんでした。いわゆる娯楽映画ではないので、好き嫌いがはっきり分かれるかも知れませんが、観終わった後、何か心にズシンと残る映画です。ラストで事件後、一言も口を聞けなくなってしまった梢が両親や沢井の名前を呼びながら貝殻を投げるシーンは感動的でした。 http://jp.youtube.com/watch?v=YqnfNTg4tog&feature=related
2008年08月25日
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人生の期待を捨てたときに愛の意識が目覚めるこうして、思いを巡らすものの、オウムの呪縛はなかなか取れなかった。 「もしかしたら、何百年に一度あるかないかの幸運をみすみす逃し、絶対の幸福が得られる機会を失ってしまったのかもしれない」 「もしかしたら、あのときのトラブルは、麻原先生が私を試すために、わざと仕組んだテストだったのかもしれない」 などと、はたからすれば馬鹿馬鹿しいような思いが、脳裏から離れないのだ。 自分はグルのテストに失格し、グルに見捨てられた価値のない人間だという空虚感、グルの期待を裏切ったのではないかという罪の意識で、絶望でいっぱいになってしまうのである。 そんな心の状態が続いていたので、オウムをやめて以来、修行らしいことは何ひとつしなかった。絶対の幸福など、自分には叶わぬこととして、あきらめの気持ちが強くなっていった。 すると、自分は今まで何をしてきたのかと、たまらなく情なくなった。 大学を卒業した同年代の友人たちは、もう立派に働いて、給料が出たボーナスが出たといって喜び、海外旅行へ行ったり結婚したり、充実した毎日を楽しんでいるというのに、私ときたら、いつまでも中途半端な生き方をし、根無し草のような生活を送っている。 それでも今までは、自分は精神的にひとかどの人物だという自負が、そんな引け目から救ってくれた。しかし、それさえも今は、ボロボロに崩壊してしまったのである。 私は世俗においても、精神世界においても、何の取り柄もない無価値な人間であることを、容赦なく思い知ることになった。幻想の自己イメージではなく、ありのままの自分を見たのだ。空虚でつまらない自分の姿を。こんな自分に、いったい何ができるというのか? 私は、残りの人生を世捨て人のように暮らし、そのまま終えようと思った。 「凡庸でいい。実際、凡庸なのだから。悩みや不安も、そのままでいい。きっとそれが私自身なのだから。何の期待もなく、ただ苦しむために、この人生を生きよう。どのみち、いつかは死が救ってくれるだろう・・・。 その頃、家族と一緒に、埼玉県の田舎の方に引っ越した。安い原稿をぼちぼち書きながら、森や湖などを散歩するような生活を送った。20代だというのに、まるで隠居した老人のようだったのだ。けれども、あれほど苦闘した修行の道を、もう歩むこともないのだと思うと、不思議に穏やかな心境になった。 そんな、ある晴れた秋の日のことだった。 いつもの散歩コースとして、近所の湖にでかけていった。ここは秋の紅葉が、ひときわ美しく冴えわたる場所である。 だが、この日は、普段より美しく、輝いて見えるような気がした。 あまりにも美しすぎるのである。もう何回も目にしてきた光景なのに、まるで違うのだ。 いったい自分は、何を見ていたのだろう! その色彩の、あまりの美しさに、ただただショックだった。 目の前に広がる光景の、絶妙なまでの美しさに! 美そのものが、攻撃的ともいえるくらいに、これでもかと視界に飛び込んでくる。まさに、痛いくらいの美しさだったのだ。 その美には、「生命の躍動」とでも表現したらいいような、ある種のエネルギーが放射されているのが感じられた。すべての生き物から、生き生きとした輝きと、非常な幸福感が伝わってくるのである。生命への深い畏敬の念が胸に押し寄せ、圧倒された。 まるで光の泉のごとく、溢れるように沸き上がってくる幸福感。かつてインドの子供たちと共有した、あの至福だった。それが再び、独り散歩していた私に訪れてきたのだ。 全体に溶けて消えそうな自己の存在、深く癒されていく心。 これこそが「愛」であり、これこそが、私の求め続けてきたもののような気がした。 それは、決して経験したことのない愛だった。 だが、ずっとむかしから知っていたような、懐かしい愛でもあった。 それは親子の愛でも、男女の愛でも、兄弟愛でも、博愛でもないが、そのすべての母体としての愛だった。愛は、世界の至るところに浸透し、遍満しているようだった。 そして、断固とした確信が訪れてきた。 生命と愛とは、同じエネルギーの異なる側面だという確信が。生命は愛であり、愛は生命である。愛がなければ、そこに生命はなく、生命は、愛がなければ生まれない。 沸き上がる愛と生命のエネルギーに圧倒され、この自然の、この地球の、あらゆる存在が、愛しくてたまらなくなった。できればこの胸にすべてを抱きしめたいと思った。 すると一瞬だが、もうすでに、自分はすべてを抱き締めているのだという、不思議な感覚が意識を支配した。また、私という存在はどこにもなく、同時に、どこにでもあるという、奇妙な思いが脳裏をよぎったのである。 だが何よりも、このすばらしい愛に報いたかった。 あらゆる生命のために、世界のために、何かさせていただければ、もうそれで幸せである、あとは何もいらないと思ったのだ。今までに経験した辛いことや悲しいこと、失敗や挫折などは、まったくとるにたりないものだと思った。 それよりも、愛に生きること、それだけが人生の目的であり、それだけが唯一、心を傾けるべき重要なことであり、あとはもう、本当にどうでもいいことだと思ったのである。 大切なのはただ、生きている限り、愛することだ。それが人生の目的だ。 いや、目的というより、それが人生なのだ。人生にそれ以上のことも、それ以下のこともない。ただそれしかないのだ。一瞬一瞬において、常に愛が輝いていること、呼吸をするように愛し続けること、それ以外のことは、人生の本質とは何の関係もないことなのだ。 結局、この意識状態は数分ほど続き、その後、少しずつ薄れていき、1時間もたたないうちに、またもとの状態に戻ってしまった。 だが、私の心には、決して消えることのない刻印が残されたように思われた。 世の中に平凡なものは何ひとつとして存在しないこれは、何らかの神秘体験だったのか? しかし、あの意識状態の最中は、少しも神秘だとは感じないのだ。それどころか、きわめて当たり前の、本来の状態に戻った気さえするのである。 むしろ、われわれのいう「普段の状態」の方が、よほど不思議であり、「神秘体験」であり、尋常ではなく思われるのだ。あの意識から、われわれが「普通」と呼ぶこの状態を振り返ると、不思議で仕方がないのである。というのも、 いったいなぜ、この世界に満ちている美しさと愛に、気がつかないのか? なぜ美しいものが、そのまま美しく見えないのか? なぜわれわれは、お互いを愛さないでいられるのか? こう思ってしまうからである。まるで眠っていたとしかいいようがないのだ。 今まで現実と思っていたのは、実は夢のようなもので、あの意識状態で認知した現実こそが、本当の現実ではなかったのか? こう思えてしまうのである。 もちろん、私の体験が、私の主観において、いかにリアリティがあったとしても、それを客観的に証明することができない以上、この「現実」を人に押し付けることはできない。 それでも私としては、あきらかに「目覚めた」という感覚があったのだ。本来の自分に戻ったような感覚、自分が自分らしく、いきいきとしていられる感覚を"取り戻した"ように思われたのである。 以後、少しだが、生まれ変わったような気持ちになった。 あの体験の最中ほどではないにしても、見るものすべてが新鮮で、特に自然が美しく輝くようになった。今まで夕陽というものが、こんなにも荘厳な美しさに満ちていたことなど、まったく知らずに生きてきたのである。立ちどまって何分も何十分も空を見つめるなど、今までやったことがなかったことを、やるようになったのだ。 そんな自然の中で、独り静かにしているとき、私は本当に、自己の内外に、愛の遍在を感じるような気がする。孤独はまったく感じない。満たされた心だけがそこにある。 何げない日常の、退屈でつまらなく思えるような事柄の中に、非凡な美とすばらしさが潜んでいることを発見するのだ。真実は、この世に平凡なことなど、何ひとつないのかもしれない。平凡なのは、それを平凡としか見れないわれわれの感性なのだろう。 仮死状態から蘇ったという患者の次の言葉に、私は大きな共感を覚える。「病院で目覚めたとき、最初に目に入ったのは花でした。信じてもらえないかもしれないが、死から蘇ったあのときまで、花の姿を本当の意味で見たことがなかったんです。死んでみて学んだことは、私たちはみな、大きな生きた宇宙の一部だということです。ほかの人間や生物を傷つけても、自分自身には何の害もないと考えるのは、大変な間違いなんです・・・」 また、苦しい手術に耐え、人生を再出発した次の女性の言葉にも。「人生に陶酔しています。空の美しさを見てください! なんて澄みきった青空でしょう! 花園に行きます。花はみんな、とても素敵な色で咲いています。その美しさに目が眩みそうになります。人生の本当の喜びが一体どういうものであるかが、私には全然わかっていなかったのです。本当に生きることができるようになるために、私は、死と間近で直面しなくてはならなかったのです。私は、生きるために死ななくてはならなかったのです」 そして、麻原教祖やオウムへの未練、しこりなどは、急速に薄れていった。あれほど悩んだのが嘘のように、やがて風化した記憶になってしまったのである。 そんなことより、あの意識をどのように取り戻すか、その方に関心があった。一時はあきらめたが、再び修行の道を歩み始めることになった。 以前、インドの子供たちと交流したときに、あの意識が訪れた原因は明らかである。 取引ではない愛の関係が、あの意識をもたらしたのだ。それに間違いはないと思う。 だが、今回はどうしてなのだろう? 私は、独り美しい秋の森林を散歩していただけだ。 思い当たるのは、自然の「美」が関係しているかもしれないということだ。 美しいものには、人の魂を覚醒させる力があるように思われるのである。美しいものに接すると、愛が目覚めるのではないか? だが、それだけでは説明がつかない。もしそうならば、美しい自然の中にいれば愛が覚醒されるはずだが、必ずしもそうではないからだ。たしかに、美が、愛を覚醒させるひとつの刺激にはなっているように思う。だが、それだけではないのだ。 となると、やはりオウムを辞めたことと無関係ではないように思われる。 そのとき私は、絶望の状態にあった。 自分を支えてきたアイデンティティ(自我)が崩壊したからである。 そのアイデンティティとは、「修行者」であり、当時は「麻原教祖の弟子」であった。それが自分自身を支えてきたのだ。解脱する可能性をもった修行者、これが「私」だったのである。 だが、「私」は砕け散ってしまった。プライドも存在の基盤も失い、唯一の目標であり悲願だった絶対の幸福も捨ててしまった。もはや何も残っていなかったのだ。 まったくの空虚で、精神的には死んだも同然だったのである。 人生に、もう何の期待もしていなかったのだ。 だが、空虚になったそこに、愛のエネルギーが流れ込んできたのである。 人生というものは、いつだってそんな感じなのかもしれない。あきらめて絶望したときに、道が開かれるのかもしれない。絶望とは、すぐに希望が訪れるという、逆説的な「予告編」であるかのように思われたりもする。
2008年08月24日
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麻原教祖があれほど信者を惹きつけた理由自らの意志で脱会したとはいえ、私の心には、大きなしこりが残った。 私は、あんな男が、最終解脱者や聖者なんかで"あるはずがない"と思った。 つまり正直なところ、まだ心のどこかで、 「もしかしたら本物だったかもしれない」 という思いが、払拭できないでいたのである。頭ではニセモノとわかっていながら、気持ちがついてこないのだ。拭っても拭っても頭から消えない。自分の頭が自分で制御できないことへの苛立ちと嫌悪が募っていき、あげくの果ては、麻原教祖のもとで修行している夢を、しつこく見たりするのである。 「いったいなぜ、あんなインチキ・グルを忘れることができないのか?」 自分に腹を立てながら、何回も何回も自問自答を繰り返した。 その理由はやはり、麻原教祖の持つ、頭の回転の早さ、博識ぶり、理路整然とした説教、そういったものが、実際かなり鋭かったからだと思う。単なる詐欺師として片付けるには、インパクトが強すぎたのだ。何を語るのでも、確信に満ちた口調なので、こちらはつい信頼を寄せてしまうのだ。どんなことも明確に定義し、物事の白黒をはっきりさせるのである。それが実に痛快で、歯切れのよさが感じられるのだ。 その回答が本当に正しかったかどうかは別として、宗教という、あいまいな世界をさ迷っている者にとっては、あのように幅広い知識と確信に満ちた態度で指導し、明確な(正確にいえば単純な)世界観を与えてくれる人物というのは、実に頼りがいがあり、また魅力的に映るものなのだ。何が本当で何が本当でないか、混沌として見えにくく、それゆえに不安な現代社会においては。 しかも彼は、近づき難い権威を振りかざす反面で、父親のような、妙に気さくな一面もあり、それらを非常にうまく使い分けて、弟子の心をつかんでいたように思う。 私も修行中に、「おまえは鈍感だなあ」などと笑ってけなされたかと思うと、「美しい光が内部に見えるよ」などと褒められたりした。こういうアプローチをされると、弟子としてはたまらないわけである。それこそ「尊師のためなら死んでもかまわない」と思う弟子が出てきても、不思議ではないのかもしれない。 だが、麻原教祖を内面から追い出せないのは、こうした彼自身のカリスマ性もあるが、むしろその背後にある、さらに根深いものであるように思われるのだ。 それは、インド系の宗教を信じる人の間で、常識のように思われていることなのだが、真のグルに巡り会う幸運は、何百年に一度あるかないかであり、グルなしで解脱することは不可能だという、いわば暗黙の了解なのである。 教典などを読むと、悟りを開くうえでグルの存在がいかに大きいか、しつこいほど強調されている。オウム信者がなぜ、あそこまで執拗に麻原教祖への帰依を捨て切れないでいるのか、最大の理由は、この点にあると思うのだ。 たとえばミラレパというインドのグルは、かなり過激な状況に弟子を追い込み、悟りの指導をしたといわれる。グルがいかにひどいことをしようと、グルへの信頼を失わない弟子こそが、悟りを開いて解脱する資質があるとして、称賛されるのだ。グルというものは、いかようにも自分を変えて弟子をトリックにかけ、その信を試すと信じられているのである。 だが、こうした話は、インチキ・グルが弟子を盲信させるための、かっこうの言い訳になることも確かであろう。自分のボロが出そうになったら、 「グルというものは、ときにはペテン師のように弟子を試すものなのだ。グルを信じられないなら、解脱なんかできないぞ!」 といって脅し、弟子の疑いをかわして、自らの権威を保てるからである。実際、私はそんな「グル」にも会ったことがある。そういう人は、精神世界では珍しくないのだ。ミニ麻原ともいうべき連中が、自分は悟りを開いたグルなどといいながら、口先だけのもっともらしい説教をし、たいていは法外な指導料(お布施)を巻き上げて、集団を形成しているのである。 それはともかく、オウムに惹かれて入信するような人は、すでに仏典やヨーガ教典などは読破して理解しており、解脱のできる優秀な弟子というのは、グルの命令であれば、どんなことも無条件に、死ねといわれれば死に、人を殺せといわれれば殺すほどの従順さと、何があってもグルへの信頼が揺るがない者であるという知識を、すでにインプットされているのだ。 早くいえば、グルに支配されることを欲する人間が入信してくるわけである。あと教祖がやることといえば、自分を最終解脱のグルと称し、それらしく振る舞うことだけなのだ。 弟子は喜んで洗脳され、グルの機嫌を取るためなら何でもするようになり、グルへの信頼を揺るがす、いかなる情報に対しても、自らの心を閉ざすようになってしまう。 あれだけ狂信的な弟子を周囲に引き寄せることができたのも、教祖自身のカリスマ性もあるのだろうが、それ以上に、もともと「グル至上主義」ともいうべき土壌が敷かれてあったことが原因であると、私は考えている。 オウム信者を凶悪犯罪に駆り立てたのは何か?オウム信者たちは「脱皮」するために、修行に熱心であった。「仏陀」になるために、必死に努力していたのだ。ハードな修行に打ち込むひたむきさには、ある種の悲壮感さえ感じられたほどだ。われわれは、本当によく戦っていたのである。 けれども、そこには「別の戦い」もあったように思われた。 「認められたい、人の上に立ちたい」という戦いである。 具体的には「位の高い弟子になる」という戦いだ。 当時はまだ、後に見られた細かい階級制度はなかったが、それでもグルから認められ、教団内部において一目置かれるポジションに身を置きたいという、そんな願望というか、野望が、修行の動機のひとつとしてあったように思われたのである。 もちろん、すべての信者がそうだったというつもりはないし、露骨に剥き出しにしていたわけでもない。彼ら自身、気づいていなかったかもしれない。 ただ、話などをしていると、競争心や嫉妬、演技がかった教祖への称賛が見え隠れし、私にはそれが、位の高い弟子をめざすという野心の現れのように感じられたのである。 優秀な弟子として認められるには、グルの命令ならどんなことも服従し、実行できなければならない。たとえその行為が、どう考えても間違いだと思えてもである。 なぜなら、そう思うのは自分が未熟だからで、この課題をやり遂げればすばらしい進歩があることを、偉大なグルはすべてお見通しであると、こういうことになっているからである。 だが、その結果として、弁護士の殺害、サリン事件が起きたのではないのか? 「命令とあれば、こんな不正なこともできるのです。それだけあなた(グル)への信頼が厚いのです。そんな私を認めてください」 こう訴えていたのではないのか? だとしたら、まさに彼らが軽蔑する「世俗」の打算、エゴイスティックな野望と、何ら変わらない動機にオウムは支配されていたことになる。一般の人々が「出世競争」に明け暮れるのと同じ原理で動いていたのだ。 だが、逆に見るなら、歪んだ現代社会に生まれ育った若者たちの病理が、オウムの中で反映されたともいえるだろう。 繰り返し述べてきたように、親の野望達成のための道具にされた子供が、親の「愛」を勝ち得るには、道具になりきるしかない。だが、道具の価値とはその「機能」である。ハサミに価値があるのは「よく切れる」からで、切れなくなれば、そのハサミは無用のゴミとなって捨てられてしまう。つまり、取引する親の愛は、子供そのものではなく、子供のもつ「機能」に向けられているのだ。彼らはこういって子供(という道具)を使うのである。 「優秀な能力を示して親の野心を満たしなさい。そうすれば愛をあげましょう」 そうして育てられた子供は、大人になっても、自分の才能や能力、あるいは柔順さといった「機能」を褒められたいと願い続け、認められることに執着するようになる。彼らにとっては、機能への称賛が「自分自身」への愛だと錯覚しているからだ。 そんな彼らがオウムへ入れば、まるでプログラムされたロボットのように、今度は教団内部で自らの優秀さ、滅私奉公といった「機能」をアピールし、グルの寵愛を自分に集めようと執着を燃やすようになる。そんな柔順さを「エゴの消滅」と勘違いしながら。 だが、それは単に、グルを通して自分のエゴを満たそうとしているだけの、きわめて自己中心的(エゴイスティック)な行為なのである。 こういう、お互いを道具としてみなす関係では、支配する方も服従する方も、常に捨てられる恐怖を背負いこむことになる。そして捨てられないためには、自分の優秀さを常に誇示していなければならない。グルはその威信を保っていなければならない。 それは基本的に戦いである。だから、真の意味で心を許しあう相手もいなければ、触れ合いもない。ただみせかけの愛と連帯があるだけで、内実は恐怖と孤独にあえいでいるのである。 これが現代社会の、そしてオウム教団の世界なのだ。ある意味でオウム教団は、現代社会の相似形にすぎない。オウム教団の母体は、他ならぬ現代社会なのである。 その中で、子供たちも、オウム信者たちも、もともとありもしない親(グル)の愛を獲得するために、空しい戦いをしてきたのである。
2008年08月24日
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右の天使がいった。「何が必要か、ということばかり考えてはいけません。何が必要でないか、という観点からも考えなければなりません。必要でないものは、どんどんと捨て去っていくことです。高価なバッグ、高価なクルマ、豪勢な家、そのようなものが必要ですか? 必要なら所有しなさい。けれども、人はもてばもつほど不自由になってしまうことを忘れてはいけません。喫煙の習慣をもっている人は、もっていない人よりも不自由なのです。ブランドの服を必要としている人は、必要としていない人よりも、自由を犠牲にしているのです。煩雑な戒律やドグマに凝り固まった宗教が必要な人は、必要でない人に比べて不自由なのです。あらゆるこだわりがある人は不自由なのです。これがなければダメだ、とは考えずに、これはなくてもいいんだと考えて、なるべく身辺を軽くしていなさい。実際、この地上世界は、旅人がちょっと立ち寄った宿のようなものです。荷物が軽くなければ、天国へ昇っていくことはできないでしょう」次に左の天使がいった。「何をもっていないか、ということばかり考えてはいけません。何をもっているか、という観点からも考えなければなりません。あなた方は、常に自分に不足しているものばかりに不平をいっています。お金がないといって文句ばかりいっていますね。ならば、私は大金をあなたに支払いますから、あなたのその両目を譲ってください。あなたの腕や足を譲ってください。あなたの子供でもけっこうですよ。お金はいくらだって差し上げますから。でも、どうでしょう。たとえひとつの国が買えてしまうほど大金をもらったとしても、両目を売ろうとは思わないでしょう。ならば、あなたが両目をもっているということは、お金に換算すれば、それだけで大金を所有していることになりませんか? もしもあなたが、美しいものに感動できる心をもっていたら、それを私にいくらで売ってくれますか? たとえいくら積まれても、その心を売ろうとは思わないのではありませんか。もっていないものを数えるのではなく、もっているものを数えなさい。そして、そのひとつひとつに感謝しなさい」
2008年08月24日
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東の方角へ向かって長いあいだ旅をしているときのことだった。ふと空を見上げると、二人の天使が雲の間から姿を現し、私の方に向かって降りてくるのが見えた。 「やあ、天使さん、君たちはいったいどこに行くの?」「君たちだって?」。天使たちは互いの顔を見つめ、一瞬ためらった表情を浮かべたが、すぐに愛らしい笑顔に変わって、ふたりはまったく同時に声をそろえてこう告げた。「私は二人に見えるかもしれませんが、実はひとりの天使なのですよ」私は困惑して言葉を返した。「そういうけれど、どう見ても二人にしか見えないけれどなあ」二人の天使は、少しとまどい、少し愉快な様子であった。「天国では、私は、ひとりなのです。けれども、地上に降りてくると、地上の人間たちには二人に見えてしまうのですよ」「たしかに君たちはそっくりな顔かたちだけれど、双子なんですか?」「双子ではありません。今いったように、私はひとりなのです。でも、よくごらんなさい。私は、、、いえ、とりあえず"私たちは"、といいましょうか。私たちは少し違うのです。気づきませんか?」そういわれてしばらくふたりの天使を見つめてみた。すると、たしかに髪型が少し違う。一方は左に髪が流れ、片方は右に髪が流れている。「気づいたようですね。私たちは、ちょうど鏡で映したように、反対になっているのです」。私は内心、彼らを「兄弟関係」ならぬ「鏡像関係だな」などと思って愉快になった。すると天使たちは一緒になって笑った。「なるほど、面白い表現ですね。鏡像関係だなんて」「君たちは、心が読めるのですか?」「ええ、透けて見えるようにね。あなたの思い、あなたの考え、すべてわかりますよ」。自分の心の中を覗かれるというのは、裸を見られているようで居心地が悪いものである。そそくさと別れを告げて先に進もうとした。すると彼らはこういうのであった。「ちょっと待ってください。私たちはあなたを助け導くためにきたのですよ」次に、左の天使だけがこういった。「真理を見いだすには、神の助けがなければ無理です。私たちは、神の導きの啓示をあなたに授けるために来たのです。私たちの言葉を信じ、神の恩恵にすがることで、あなたは遠い彼方にまで道を歩むことができるでしょう」ふたり同時にしゃべるのかと思っていたら、別々にしゃべることもあるのだなと思っていると、今度は、右の天使が口を開いて次のように語った。「真理に到達し、救いを得るには、自分以外の何者にも依存してはいけません。自分の力を信じ、自分の足で歩まなければなりません」私は困惑した。二人のいうことはまるで違う、正反対ではないか。「おいおい、君たちは本当に"ひとりの天使"なのかい? いっていることがまるで反対じゃないか?」すると今度は、二人は声を合わせて同時に次のように語った。「ああ、地上というところは、なんてめんどうなところなのでしょう。私が天国の真理について語るときには、ここではいつでも正反対の言葉に分裂してしまうのですから」私はもう、何がなんだかわからず、めまいがしてきた。「いったいどっちなんですか。真理にたどり着くには、神にすがる他力の道と、自分の力で歩む自力の道と、いったいどちらの道を歩めばいいのですか?」すると右の天使は「自力の道です」といい、同時に左の天使が「他力の道です」というのであった。私は言葉を失ってしまった。気の毒そうな顔をした天使は、一緒に次のように語り始めた。「かわいそうな人間たち。あなた方は、右が正しいといえば、右が正しくて左は間違っていると思う。左を示せば左だけしか見ずに、右には目を背けてしまう・・・」 続いて右の天使がいった。「けれども、真理というのは、右の中にも左の中にもないのです」。次に左の天使がいった。「真理というのは、右の中にも左の中にもあるのです」私は頭を抱え込んでしまった。するとまた二人の天使が同時に話した。「私たちは、あなたに道を照らす光をもたらしにきました。光はいつでも、正反対のものが一致したところに生まれるのです。どうか、それを忘れないでください。私たちの矛盾した、対極的なメッセージの試練を、どうか乗り越えてください。この地上世界は"鏡"の世界なのです。もしも"A"というものがあったら、"反A"が必ず生まれるのです。もしもあなたに「自分」というものがあれば、必ず"反自分"、つまり他者が存在するのです。けれども真理は、自分と他者という分裂した領域にはありません。私たちの、道を照らす光は、常に矛盾した言葉によって運ばれてきます。けれども、それを矛盾だと感じられる領域を越え、両者はひとつだと見ることのできる方向を見いだしてもらいたいのです。真理の探究は、矛盾対立した相反する事象を乗り越えていくことによって為されていくからです。」
2008年08月23日
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私は、大きな川にさしかかった。向こう岸にわたるために、渡し舟に乗った。ところが、にわかに大波が押し寄せたと思うと、舟は転覆して逆さまになり、私を含め何人かの乗客と一緒に川に投げ出された。私は泳げない! 必死になって手足をバタつかせた。水を嫌というほど飲み込み、もうダメだと思った瞬間、天使が舞い降りてきた。二人の天使は同時に叫んだ。「諦めてはいけません!」「諦めなさい!」いったいどっちなんだ?! いつもいつも反対のことばかりいって! 諦めずに、このまま手足を動かして泳ごうとした方がいいのか? それとも、諦めてこのまま沈んでしまえということなのか?私は息がつまって呼吸ができなくなり、意識が薄れていった。そして身体の力が抜けていくのを感じ、それと同時に手足の動きが止まった。私はこのまま沈んでいくに違いない。そう思った。私は諦めた。ところが、ふと意識が戻ると、私の身体は水に浮いて、そのままゆっくりと流されていくのに気づいた。下手に抵抗して手足を動かさなかったのがよかったのだ。人間の身体は浮くようにできている。私は身体の力を抜いて、そのまま流れに身を任せていた。すぐ近くには、他の人たちもいて、必死になって泳いでいた。彼らの泳ぎは達者だったが、上流に向かっていた。しかし、この川の流れに逆らえるはずがない。しばらくすると、やがて力尽きて水の中に沈んでいった。一方、私と同じように泳げない人たちもいた。彼らはいつまでも手足をバタつかせていた。だが、やがて力が尽きてきた様子だった。私は内心、しめたと思った。「そうだ、抵抗するのをやめて、水に浮けばいいのだ」ところが彼らは、「もうダメだ」と叫んで深いため息をつき、垂直の姿勢のまま、沈んでいってしまった。やがて私は流れに乗って向こう岸にたどり着くことができた。私は思った。助かるためには、諦めなければならない。水に抵抗していたら沈んでしまうからだ。けれども、諦めてはならない。もし諦めたら、浮力を失ってしまうからである。助かるためには、諦めないで諦め、諦めながら諦めることが大切なのだと気づいた。
2008年08月23日
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いくつも山を越えて、私は小さな町にたどり着いた。日はすでに暮れ、どこかで飢えを満たすことにした。しかし街路は暗く、明かりが漏れている店といえば、小さな居酒屋しかなかった。「仕方ない。求道者である私は酒など飲まないが、軽食くらいはあるだろう」。そう思いながら足を踏み入れた。たばこの煙でくすんだ店内には、何人かの男性客がいて、下品な笑い声をときおり発しながら、ああでもない、こうでもないと酒を飲み、乾燥した肉をほおばっていた。私は店の片隅に座ってパスタを注文し、その間、彼らの様子を何とはなしに見つめていた。何の意味も発展もない、くだらない雑談、これを毎日のように繰り返す人生、それは無駄ではないだろうかと私は思った。彼らには、理想を追い求める気持ちはないのだろうか? 神だとか、人類愛といった崇高なものに憧れ、それを何とか我がものにしたいという気持ちがないのだろうか? そうした理想を愛する気持ちがない人生なんて、ただ時間を無駄に費やしているにすぎないのではないか? 彼らは、この人類に対して、何の貢献もしていないのではないか? 彼らがこの地上に存在する意味なんて、まるでないのではないだろうか?そんなことを考えていると、くすんだ天井から天使が降りてきた。「へえ、君たちはこんな汚いところでも降りてくるんだね、意外だなあ」皮肉っぽくそういうと、彼らは一瞬、意味がわからない様子できょとんとしたが、やがて左の天使が語り始めた。「人間は、常に道を求めて前進しなければなりません。この地上に生まれ、存在しているのは、ここで果たすべき目的や使命があるからです。それを自覚するべく、人は求道的に生きなければなりません。だから時間を無駄にしてはいけません。つまらないことに時間を浪費することは許されません。時間は大切です。意義のある、密度の濃い時間をすごすように、常に意識的に努力を続けなさい」私はその通りだと思い、時間を意味なく費やしているような連中のいるこんなところから早く出ようと、運ばれてきたパスタをかきこんですぐに店を後にした。しばらく歩いていると、教会が見えた。中を覗くと、神父さんが信者を相手に説教をしていた。「そうだ、このような集まりこそが、求道を志す私にふさわしいところだ」私は中に入り、最後列の席に腰掛けて説教を聞いた。「人生でもっとも大切なのは、困っている人に愛を捧げる生き方です。そういう生き方こそが、もっとも価値ある生き方なのです」と話していた。信者たちはうなづきながら耳を傾けていた。やがて説教が終わったので、私は外に出た。すると、いつのまにか雨が降っていた。困った。私は傘をもっていない。どうしようかなと腕を組んで困り果てている私の方をチラリと見つめながら、信者たちは外に出ていった。みんな天気のことは知っていたようで、持ってきた傘を開き、無言でうつむきながら去っていった。まもなく教会にはだれもいなくなり、私はひとり取り残され、やがて明かりが消えた。仕方がないので、濡れていくことにした。私は雨の中をとぼとぼと歩き始めた。すると、だれかの呼び止める声が聞こえた。「おーい!」振り返ると、先ほどあの居酒屋にいた連中のひとりだった。「傘、もってないのか?」。私がうなづくと、赤い顔をしたその男は自分のもっていた傘を私に手渡した。「もっていけよ」「だって、そうしたらあなたが濡れてしまうではありませんか」その言葉が言い終わらないうちに、男はそのまま小走りに闇の中に消えていった。あっけにとられて立ちすくんでいると、再び天使が舞い降りてきた。右の天使がいった。「道を求めている限り、道を歩むことはできません。道を探している限り、道を歩むことはできません。それよりも、道を愛しなさい。道を愛するとき、人は道の上にいるからです。ただ、道を歩きなさい・・・」
2008年08月23日
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道の途中、ひとりの男が倒れていた。そしてうめいていた。「頼む、食べるものをくれ」「わかった。いま助けてやるぞ」私はもっていたパンを彼に与えた。男はむさぼるように食べた。そしていった。「頼む、もっとくれ」私はすべてのパンを与えてしまったので、もうないといった。すると男はいった。「うそを言うな! 本当はあるんだろう! 助けてやるぞといったじゃないか。あれは嘘だったのか? この偽善者め!」男はそう怒鳴ると、立ち上がってふいと去っていってしまった。私は空しい気持ちになった。自分のすべてのパンを与えたのに、感謝されるどころか、偽善者呼ばわりされるとは、いったいなぜ、善意があだで返されるのだろう。なぜ報われないのだろう?すると、二人の天使が舞い降りてきた。そして、右の天使がいった。「もしも、善意を施したのだから報われなければならないと憤慨しているのなら、それは取引なのであって、善意ではありません。もし人生が、善意に対して必ず報われるのだと決まっているのなら、人は自分の報われに対して、それは自分の施した善意のためだ、自分がいかに善人かを証明するものだと、自惚れてしまうことになります。これでは、自分が善人であることを認めてもらうために慈善活動をする偽善者と変わりません。これでは、人間が取引という二元性から解脱して、一元的な愛の境地に目覚めることはできないでしょう。真の善意は、いかなる結果も問いません。ただ、無条件に与えるだけです」続いて、左の天使がいった。「だから、宗教的に、あるいは霊的に目覚めつつある人こそが、不条理な世の中の仕打ちに苦しむようになるのです。裏切られたり、忘恩の憂き目にあったりするのです。なぜなら、そのような試練を経て、高い宗教的霊的な境地、すなわち無条件の愛を獲得してもらおうという、神の愛のはからいが働くからです。霊的成長のためには、いかなる取引をも越えなければなりません。そのためには、いかなる不条理な状況に置かれても、凛として不動なる真実の愛を貫かなければならないのです。この世の中は、人間の、そうした試練の機会として創造されたのです。この世界を平和にすることが神の目的ではありません。この不条理な世界にあっても、この世界を平和にしようと人間が努力するための舞台、その機会を与えることが、神の目的なのです。ですから、この世の中をよくするために努力したとして、仮にその努力が何の成果を結ばなかったように見えたとしても、実はその行為は立派に目的を達成し、立派な意味があったといえるのです」
2008年08月23日
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右の天使がいった。「常に前進しなさい。全力を尽くして歩きなさい。怠けていてはいけません。たとえ一歩でも歩けば、それだけ目標に近づくことになるのです。後ろを見てはいけません。それは二度と歩むことのない道なのですから。常に足下を見つめなさい。そして、どんなに苦しくても悲しくても、とにかく歩きなさい。少しでもいいから歩きなさい。」今度は左の天使がいった。「あなたは何もせず、たとえ意味のないと思えるような事柄でも、それを柔和に甘んじて受け入れることのできる気持ちを養わなければなりません。あの空の雲を見てごらんなさい。 何もせず、ただ浮いているだけなのに、風がちゃんと運んでくれるではありませんか。あなたは、何もしなくても、神の摂理によってちゃんとしかるべきところに運ばれているのです。だから、ときには流れに身を任せてみなさい。常に何かをしていなければイライラしてしまうようでは何事もうまくいきません。無為に生きる価値を見いだしなさい。あなたには無為だと思えても、実は「無為」ではないのです。冬の地中では、種たちは無為に過ごしているのではありません。蔵にしまわれている酒は、無為に横になっているのではありません。きたるべきときにそなえて力を蓄え、あるいは内部の熟成をはかっているのです。無為に過ごす時間をもつことで前進しているのです」
2008年08月23日
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〈質問〉KHさん遅々たるものではありますが、私も「精神の進化」を目指している者です。これまでいろいろな宗教(大学の時は富山の浄土真宗親鸞会に所属していました)や神秘思想を遍歴してきましたが、今はシュタイナーを中心に学んでおります。特に「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」を座右の書にしております。先生はシュタイナーについてどういう考えをお持ちですか。聞かせていただくと幸いです。 シュタイナーは私見では最も西洋神秘学の伝統を深く受け継いでいる人だと思います。コリン・ウィルソンの「ウスペンスキー」には、もし、ウスペンスキーがグルジェフでなく、シュタイナーに私淑していたら、彼の神秘学はもっと発展できていただろう、との内容がありました。グルジェフについては何故か私は違和感をかんじてしまいます。クリシュナムルティとシュタイナーに現在は最も親近感を感じています。 ところで、神智学には最近、東條真人さんという人がいて、「ミトラ教」という角度から神智学の研究を進めていらっしゃいます。あきれるほどの博識ぶりですが、彼のようなアプローチはシュタイナーに言わせると「先祖がえり」的な退行的なものになるのではないでしょうか(この点が人智学と神智学を分ける点では)。クリシュナムルティとシュタイナーのような「脱セクト主義」こそが、これからの神秘学だと私は思っています。なぜシュタイナーのことを書いたのかというと、斉藤先生はシュタイナーについて直接言及されることは少ないですが、思考の方向がなにか共通しているように思われたからです。ちなみに私は「アカシャ年代記より」などの本には違和感をどうしても感じてしまいます。しかし、「いかにして」や「自由の哲学」などにはとてつもなく深いものを感じてしまうのです。また、日本への紹介者である高橋巌さんの著作にもたんなる解説を超える深いものを感じます。 (回答) 一般読者に向けて、この質問にお答えするには、まず前提として、シュタイナーやグルジェフとはいかなる人物で、どのような教えを説いたのか、といったことをまず述べなければならないだろう。 だが、仮にそれを行ったら、このHPすべてをこれだけのために向けなければならないほどの、膨大な量になるだろう。シュタイナーだけを取り上げても、その思想の領域の広さは、神秘学を土台として、芸術や教育などに及び、彼の著作、およびその関係書だけでも圧倒的な量なのである。たとえば、以前、私がロンドンに滞在していたとき、大英博物館の南、歩いてすぐのところに、シュタイナー専門の書店があった。そこで著作リストをもらってきたのだが、「リスト」だけでもかなり厚いのである。だから、私は、シュタイナーを語るほどの勉強は、残念ながらできていないというのが現状である。 ただ、神秘学者として、彼の代表作といえば、質問にも書かれてあるように、『いかにして超感覚的世界の認識を可能にするか』(イザラ書房)と、その副読本ともいうべき『自己認識への道』(人智学出版社)、それと『神智学』(イザラ書房)であろう。これらは、私も若い頃に熟読した。したがって、読者の方は、ある程度、こうした方面における基礎知識があるものと思って、話を進めて行かざるを得ないので、どうかご了承いただきたい。 シュタイナーは、人間性を回復させるには「魂」を覚醒させる必要があると感じ、それまで行ってきた自然学やゲーテの研究から、40歳頃に、神智学協会に入会して、霊的世界の研究の道に入った。ところが、誰もが自らの修行によって魂を覚醒させるというのが彼のモットーだったのに対し、神智学協会は、救世主の出現によって救われるとし、クリシュナムルティというインド人少年を救世主として、彼を育てるのが目的となってしまった。シュタイナーはこれに反発して脱会、あくまでも人間個人の内的発達こそが魂の救済の道であるとして、自ら「人智学」を提唱して活動したのである。だが、皮肉にも、クリシュナムルティも同じ考えによって、後に神智学協会から離れ、単独で活動するようになったことは、周知の通りである。 シュタイナーの優れているところは、彼の霊的な教えを、人間としての高度な倫理観に支えられた上で、あくまでも現実生活の実践を重視したところである。単なる観念的な哲学に終わっていない。これはもとより、彼自身の人間的な高潔さによるということは、いうまでもないことである。シュタイナーの著作を読んでも、いかに彼が誠実な人柄であるかがよく伝わってくる。晩年はナチスの迫害などに苦しんだが、その強い意志を最後まで貫き通した希有の人物であった。一方、ロシアのグルジェフは、同じ魂(意識)の覚醒をめざした点で同じであり、シュタイナーと同様、ダンスなどの芸術にも力を発揮したが、彼の場合は、やや「山師」的なところがあり、常識はずれな言行がめだつ、破天荒な人物であった。もちろん、それも弟子に刺激を与えるという目的があったわけではあるが、なかなかのくせ者であった。ただし、私は彼のような導き手がいても、それはそれなりにいいとも思う。けれども彼は、覚醒するためには指導者の存在が必要不可欠だというのが原則であり、私はその点においては、必ずしも同意できない。というより、仮にそうだとしたら、個人的な修行よりも、まず師匠を求めることから始めなければならず、真の意味で理想的な導師に出合うことは、実際問題として困難であり、そうであれば、この世界のほとんどの人が絶望ということになってしまうので、その考え方は、まず私の選択肢からは最初にはずされているのである。 彼自身、本も何冊か書いているが、その教えはむしろ、弟子のウスペンスキーの『奇跡を求めて』(平河出版社)において知ることができる。また、やはり彼の弟子ベネットによる『TRANSFORMATION』(邦訳はたぶんないと思う)なども、実践的な視点から書いてあって参考になる。 ところで、シュタイナーにしろグルジェフにしろ、歴史的な神秘学者として位置づけられているが、そもそも「神秘学」というとき、それは何を意味するのだろうか? 学術的な定義があるのかどうかはわからないが、神秘学とは、いわゆる「神秘主義」のグノーシス的学問である。グノーシスとは、真理を知識として体系化した学問であり、知識を通して高い霊的境地を開拓しようとする教えである。一方、神秘主義とは、神や霊的世界との直接的な認知体験を得る教えである。つまり、「神の学問」ではなく、直接に神そのものを知ること、といえよう。そこには、当然、いわゆる「神秘体験」なるものが介入されてくる。 つまり、神秘学というのも、その本来の目的は直接的な神(ないしは真理)の認知なのであり、そのための理論体系や知識などは、単なる手段に過ぎない。いってみれば「道具」であり、建築の足場なのであって、目的さえ達成されれば、もうそれは必要ないものであり、むしろ足場などは、建物の邪魔にさえなるだろう。したがって、神秘学が「セクト主義」になるということ自体が、まるでナンセンスということになる。鉛筆の芯を削るのに、ある人は鉛筆削りで削るだろうし、ある人はナイフで削るかもしれない。別に、どちらでもいいことである。 ところが、人間というものは、形のないものを認知することが、そう容易にできるわけではない。ここが非常に問題になってくる。たとえば、「神」というとき、空の上に住んでいる白い老人といったイメージがある。もちろん、そのことを本気で信じている人はいないだろうが、何となく、そのようなイメージを抱いてしまう。あるいは、もっと知的に優れている人であれば、神というものを、あたかも宇宙法則のような、無形の抽象的概念で把握しているかもしれない。 しかしながら、神は、無形の抽象的概念でもない。「神」という、ほんのいかなる、またわずかな概念であっても、それは決して「神」ではない。そもそも、「神」という言葉さえ、それを使用したときに、それは神ではなくなってしまう。 したがって、神秘学で説かれているさまざまな教理も、その意味では決して真実を説いているのではない、ということになる。かといって、人間のいかなる意識概念にさえもひっかからないほどの超絶的な存在である神を、私たちはどのように探求していったらいいのだろう? 確かな手応え、自分が知っているという感覚、このようなものがなければ、人間は不安でしかたがない。まるで上も下もない宇宙空間を漂っているかのような気持ちになる。足をしっかりとつける大地が欲しくなるのだ。そして、それが今日における「神秘学」だとか「グノーシス」なのである。 これらが、あくまでも魂の覚醒のための手段だとしっかりと自覚しているのであれば問題はない。だが、いつしか、この「知識」なり「学問」が、「目的」になってしまう。しかも、これが人間のエゴのために利用されてしまうようになる。つまり、「力への意志」をもつエゴを強化させてしまう。そして「自分が一番偉い」ことを誇示するために、神秘学が利用されるようになる。そうしてセクトが生まれる。いわゆる「シュタイナーの権威者」といった人たちが生まれる。こうして人間は、「道具」に使われるようになる。そして、道具としての本来の使い方をすることなく、ただ道具とたわむれ、道具とたわむれているだけなのに、まるで自分自身が進歩しているかのような幻想を抱き、そこに埋没するようになってしまう。 こうしたことを、もっともよく理解して説き続けてきたのがクリシュナムルティである。ところが皮肉なことに、彼の教えでさえも、多くの人は自らのエゴを強化するために利用してしまっている。 こうしたことは、シュタイナーの意図とは違うものだったであろう。彼の教えは、芸術や教育の画期的なアイデアを導き、それがいわゆる「シュタイナー教育」ということで実行されている。それはそれなりに意義のあることだと思う。だが、「教育」は、概念の上に成り立っているのだろうか? 愛が概念ではないように、教育も概念ではない。子供を愛している教師は、概念や理論で子供を導いているのだろうか? そうではない。真の教師にとって、子供への「教育」は、「愛」そのものである。そのような教師にとって、子供を教えることと、子供を愛することとは、同義語なのだ。そこにな何の区別はない。教育とは、愛の表現そのものである。 もしも、神と直接的に交流し、神を知りたいならば、すなわち、神秘学が本来めざしている目的に到達したいならば、神についての知識や理論を学ぶ以前に、神を愛することではないのだろうか? そして、神を愛するとは、神が望まれるように、自らを捧げるということではないだろうか? 自らを捧げるには、上も下もない宇宙空間に平気で飛び込んでいける勇気が必要である。また、神が望まれていることとは、私たちがお互いに愛しあうことである。 真の意味での隣人愛があれば、シュタイナーを学ぼうと、グルジェフを学ぼうと、その本物を学ぶことができるだろう。だが、愛がなければ、シュタイナーもグルジェフも、単なる自己満足的な娯楽以上のものにはなり得ない。私はそのように考えるのだが。
2008年08月23日
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〈質問〉TMさん1994年の青山圭秀著「理性のゆらぎ」を読んで、「アガスティアの葉」「真実のサイババ」を熟読した私は、翌95年にインドのプッタパルティにサティア・サイババを訪ねました。ダルシャンで手紙を受け取ってもらった私は、感激のあまり落涙しました。私は敬虔なサイババ信者となりましたが、2000年末のパンタ笛吹著「裸のサイババ」を熟読して、懐疑の念に駆られました。サイババが青少年を性的に虐待したり、トリックで物質化現象を行っているという内容に衝撃を受けました。 そして2002年のゴールデンウィークに、真偽を確かめるにインドのホワイトフィールドにサイババを訪ねました。しかし、今の自分では、サイババが無罪潔白の神の化身であるか判断がつきません。サティア・サイババについてどのような見解をお持ちでしょうか?<回答>私は、サイババについては詳しく知らないし、あまり関心もない。奇蹟を行うインドの聖者として有名だが、テレビで、彼が手のひらから灰を出したり、指輪を出したりするシーンを見たことがある。かと思うと、実はそれはトリックであるとして、サイババは偽物だとする番組を見たこともある。また、実際にサイババに会って灰をもらい、その灰と彼の写真を大切に奉っている人物の家を訪問したこともある。彼にとってサイババはまさしく「神」であり、その灰は宝物で、サイババの写真にうやうやしく合掌し祈っているのであった。 だが、もしもサイババが、まったくの偽物で、彼の奇蹟はトリックなのだと証明されたとしたら、この人は今後、サイババからもらった灰と彼の写真を、どのようにするのだろうか? 今まで長い間、あれほど尊敬し、朝晩祈りを捧げ、信頼し、心の支えにしてきたのが、まったく馬鹿げた行為だったと思うだろうか? だまされた、今までの信仰は何だったのかと、悔しい思いにかられ、あるいは悲嘆に沈み込むのだろうか? もらった灰をゴミ箱に投げ入れ、サイババの写真を引き裂いて踏みつけるのだろうか? 「なぜあなたは、奇蹟を行うのか?」という質問に対して、サイババは、「現代人は、はっきりと目に見える奇蹟でも見せなければ、信仰心をもたないからだ」といった意味のことをいっている。つまり、自分が奇蹟を行うのは、人々を信仰に導くための方便であり、奇蹟そのものが重要ではないというわけだ。 だが、奇蹟を見せれば、本当に信仰心が芽生えるのだろうか? サイババのもとに集まった大勢の人々を見ていると、「自分に何かをくれないか」、「自分の手紙をもらってくれないか」「自分を面会に招いてもらえないか」といった態度が露骨で、常に「自分が、自分が」といったエゴイスティックな雰囲気に染められているような印象を受ける。そして、どういう基準でサイババが選ぶのかはわからないが、そのうちの何人かに対して、彼は「奇蹟」を行い、手紙を受け取り、面会をするのである。選ばれた人は、「自分は特別なのだ」と感じるかもしれないし、選ばれなかった人は「自分は認められていないのだ」と感じるかもしれない。いずれにしろ、このような思いに人々を招き入れるところに、真の信仰が芽生えるとは、私にはとうてい思われない。彼の周囲に集まる大部分の人たちは、依然として「奇蹟めあて」のレベルを超えていないような気がしてしまう。 真の問題は、自分を神の化身だと語り、その証拠として奇蹟(と思えるような)ことを行うサイババのような人物に、なぜ惹かれるのか、という点にあるのではないだろうか。つまり、サイババが問題なのではなく、自分自身が問題なのではないだろうか? もしもサイババが本物で、トリックではなく本当に奇蹟を行うのなら信じるが、そうでなければ信じないというのであれば、いったいサイババの「何を」信じるというのだろうか? 彼の教えを信じるというのだろうか? もしそうであるならば、彼の教えを盲信しているということになる。なぜなら、その教えが本当に自分が納得して受け入れているのであれば、たとえサイババがどんな人物であろうと、ペテン師であろうと、それに関係なく教えを信じるであろうからだ。 あるいは、サイババに頼ることによって、サイババから救ってもらいたいと願っている、ということなのだろうか? つまり、彼の救世主としての力を信じている、ということなのだろうか? そうであれば、なるほど彼の「奇蹟」が本物であるかどうかは、死活問題となるだろう。もしも奇蹟が偽物であれば、自分は救ってもらえないことになるだろう。しかし、これは「信仰」ではない。 たとえいかに宗教的なしぐさをまねて祈りを捧げ、マントラを唱え、五体投地をして礼拝したとしても、商人が客に対して「いらっしゃいませ」と叫び、頭を下げる行為と何ら変わりはない。いや、商人は提供するものをもっているが、サイババの救いを当てにするだけの人間は、言葉は悪いが、宗教的な乞食でしかない。もしも、そのような人間ばかりを生み出すのに一役買っているのであれば、サイババは次々と乞食を生み出していることになる。だとすれば、これは明らかに宗教者としてあるまじき行為ということになる。 オウム真理教にしろ、あるいはヒトラーにしろ、北朝鮮のキム・ジョンイルにしろ、いったいどうして私たちは、特定の個人を神格化し、崇拝したがるのだろうか? どうして私たちは、神格化した人物は、すべてにおいて完璧であり、わずかな欠点も弱点もなく、わずかな罪を犯したこともなく、百パーセント純粋な愛に満ちて、山をも動かす奇蹟の力をもっていると信じたがるのだろうか? 問題なのは、私たちの心にある、こうした傾向ではないのだろうか。こうした傾向が、あるときはヒトラーを生み出し、麻原彰晃を生みだし、キム・ジョンイルを生み出し、そしてサイババを生み出すのである。もちろん、サイババをヒトラーや麻原彰晃と同列に扱うつもりはないが、社会的な善悪は別として、心理的な動機としては、どれも同じことである。その証拠に、もしもサイババが奇蹟を行わなかったら、あれほど大勢の信者を集めることはできなかったであろう。あるいは、「私は奇蹟を行う力を失いました」と宣言したら、たちまち信者の数は激減してしまうであろう。 浄土真宗の親鸞は、「たとえ師匠の法然にだまされて地獄へ落ちたとしても、悔いはない」といった。それほどまでに、彼は師匠に対する深い帰依の念を抱いていた。親鸞をそこまでさせたのは何だったのだろうか? それは、法然からにじみ出る人格的な魅力、高貴な霊格であったに違いない。それが親鸞に核心的かつ絶対的な影響を与え、そのために、たとえ法然がペテン師であったとしても、偽物であったとしても、そんなことは問題ではないのだと、捨て身の思いを抱かせたのである。 サイババにまつわるスキャンダルな噂を耳にはさんだ程度で疑惑をもち、信仰が揺らぐというのは、そもそも核心的な部分において、最初からまったくサイババに対する敬虔の念をもっていなかった、ということを物語っている。サイババに、人格ないし霊格な高貴さがなかったためなのか、あるいは質問者がそれに気づかなかっただけなのか、それはわからない。しかしいずれにしろ、自分の保身を第一に考え、そのために誰かを利用しようとする気持ちがあるならば、その誰かが本物かどうなのかということが、何よりも気になることは確かである。 しかし、信仰のエッセンスとは、最終的には自分を捨てること、自分が助かろうと助かるまいと、そんなことはどうでもいいという心境にまで到達することではないだろうか。私たちが特定の個人を神格化して崇拝したがるのは、「自我(エゴ)」を守ろうとする、信仰とは正反対の欲望にとらわれているためである。換言すれば、それは恐怖にとらわれているからである。自分を失うことへの恐怖が、救世主への願望として個人に投影され、絶対化されて崇拝させるのだ。しかし、恐怖と信仰は決して共存しない。恐怖が育つ場所では信仰は育たず、信仰の育つ場所で恐怖は育たない。 サイババは、いつまで自分を神の化身だとして「奇蹟」を行い、自らを神格化し崇拝させ続けるつもりなのだろうか。いつになったら、人々を真の信仰に導くのだろうか。恐怖を餌に膨張する個人崇拝の念から、真の信仰が生まれることは、決してあり得ない。「奇蹟」を見せることは、信仰よりも個人崇拝へと人々を引き寄せる。彼が「神の化身」であるならば、最初からこのことに気づいているはずである。
2008年08月22日
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(質問SAさん) 洋の東西を問わず、ずっと以前から聖人、覚者と呼ばれる人達の多くが迫害や虐待そして不当な差別を受けてきました。組織から追い出されたような人もあります。確かにそういった状態にならず生前から尊敬を受けていた人達もいますが、圧倒的に少数であると感じています。キリスト教(カトリック)には、殉教した人間や迫害を受けた聖人が特に多いですが、ただ単なる政治的、思想的な理由だけではないのではと思います。「愛」を体現している存在に、なぜ恐ろしいほどの試練を"人間によって"与えられなければならないのか大変疑問です。どのようにお考えになりますでしょうか? (回答)それが人間によってであれ、あるいは何らかの事柄によってであれ、なぜ、愛ある人が、なぜ善人が、ひどい苦しみや試練を受けなければならないのか? 一方で、なぜ悪い人が栄えるのか、なぜずるい人が幸運な人生を送るのか? こうした人生の不条理に対する疑問は、すでにずっとむかしから、心ある人たちを悩ませてきました。これを実によく物語っているのが、旧約聖書の『ヨブ記』です。信仰深いヨブに、悪魔が苦しみを与えるのを神が許します。ヨブは家族も子供も財産も失い、おまけに身体を悪い皮膚病が襲います。そこで「なぜ自分はこんなめにあわなければならないのか」と神を呪います。友人が慰めにやってくるのですが、神は善人に罰を与えるわけはないといい、ヨブに対して、何か悪いことをしたに違いない、何か罪を犯したのだと逆に責め立てます。しかし、ヨブに覚えはありません。そして、ついに神が姿を現します。神はヨブにいいます。「浅はかな知恵で神の計画を計ってはならない」と。ヨブは神に遭遇し、自らを恥じて懺悔します。そして友人たちに対しても、神は、自分に関する間違ったことをいったといって怒りますが、ヨブが仲介に入って祈ることで許されます。そうして神は、再びヨブに繁栄をもたらすのです。以上が、『ヨブ記』のおおまかな内容です。 善人が苦しむのを見ると、この世に神は存在するのかと思いたくなることもあります。人によっては、『ヨブ記』で語られているように、神には計画があるのだから、人知では計り知れないのだ、つまり、その苦しみが与えられたのは、結果的にそれでよかったのだ、という人もいます。理屈では確かに筋が通っていますが、問題を不可知の領域にあずけてしまっただけで、何の説明にもなっていません。要するに、そのことを信じられるか、信じられないか、という信仰の問題になってしまうのです。 しかし、実際のところ、このような不条理に対して、信仰の要素をまったく除外して、だれもが納得のいく理性的かつ合理的な説明というのは、果たして存在するのかどうか疑問です。まして、その説明によって、何の罪もないのにひどい苦しみにあっているすべての人が納得し、慰めを得てもらえるような説明は、少なくても、私にはできません。どうしても、最後のところでは、信仰的な要素が入り込んでしまうように思うのです。つまり、「こう信じたい、こうであろうと信じる」という言葉で締めくくらざるをえないような気がするのです。 この点をご理解いただいた上で、私なりの見解を述べさせていただきたいと思います。 まず、いくつかの考え方があるように思います。 ひとつは、この世界を浄化するには「犠牲」が必要であるという考え方です。 たとえば、洗濯をするとき、水を使います。服はきれいになりますが、水は汚れます。何かを浄化するためには、たいていの場合、その汚れを引き受けるものが必要とされるわけです。同じように、悪という世界の汚れを浄化するには、その悪を自分の身に受ける存在が必要なのかもしれません。しかし、そのような「汚れ役」など、いったいだれが望むでしょうか。それを望むには、この世界、この人間に対する、そして世界と人間の浄化を望む神に対する、絶大なる愛をもっていなければ無理でしょう。 あるいはまた。血液の中には「白血球」と呼ばれる細胞があります。ご存じのように、白血球は、外部から細菌などの異物が入り込んでくると、その細菌を自分の中に取り込んで、その細菌と一緒に自分も死ぬのです。そうやって、私たちのからだは守られているのです。白血球が犠牲になってくれるおかげで、他の細胞が生きられるわけです。からだの中には、そのような役割を担っている細胞が住んでいるのです。 神の創造したこの世界も、ある意味では、巨大な「肉体」のような構造をしているのかもしれません。人間は過ちを犯します。悪を生みます。しかし、悪は全体の健康を脅かします。そのため、その悪を自分に包み込んで、その悪と一緒に死ぬような役割が、この世界には必要なのかもしれません。しかし、そのような役割を引き受けるのは、よほどの愛と善意をもった魂だけではないでしょうか。そのために、この地上世界では、愛ある人や善人が、苦しみや試練を受けるのかもしれません。キリストは、人類の罪をあがなうために自分が犠牲になりました。白血球のように、彼は悪を自分の中に取り入れて、一緒に死んだのです。その役割を担ってきたのです。 私たちは、巨大な魂、あるいは生命の「集積体」です。個々の生命が単に集まっているだけではなく、テレパシーのような、何らかの通信手段によって、お互いが密接に結ばれている「システム」となっているように思われます。しかし、このシステムは成長し、進化し続けています。ところで、成長や進化を遂げるには、逆説的ですが、成長しようとする方向とは反対の力が必要とされます。たとえば、ジェット機は進行方向とは反対の方向へエネルギーを噴射し、その反動で前進するわけです。同じように、人類が善の方向へ進むには、ある意味では「悪」を経験することが必要なのかもしれません。悪を知ることによって善を知るからです。そのため、この生命体のシステムは、必然的に内部に「悪」を生み出すのです。しかし、その悪ばかりがはびこってしまえば、逆にシステム全体が崩壊してしまいます。したがって、ある一定量の悪がたまったら、それを浄化しなければなりません。肉体でいうなら、肝臓や腎臓のような機能が必要とされるのです。そして、そのような役割を担っている魂が、このシステムには存在するのです。それが、愛ある人であり、聖人や善人なのかもしれません。 また、このシステムが「幸福」を知るためには、「不幸」や「苦しみ」を知らねばなりません。そのため、このシステム内部に、不幸や苦しみを味わう「感覚器官」が必要とされるのです。そして、その感覚器官を通して得られた不幸や苦しみの情報が、テレパシー的な情報手段を通して、他のすべての魂に伝えられ、それによって、個々の魂が成長できるのです。ですから、この考え方でいけば、この世の中には「苦しむ人」が必要なのです。その人は、ひたすら苦しむことを通して、全体の進化と幸福に貢献しているのです。 ところで、仮に以上の説が本当であるとしても、苦しむという役割を担った魂は、あまりにも気の毒で、不公平であるような気もします。魂の意識では、自ら志願して、この地上にやってきたのかもしれませんが、肉体意識のレベルでは、とにかく苦しくて仕方がないわけですから、自分がそんな志願をしたなどとは思えないでしょうし、まったくとんでもないことだと思うでしょう。なぜ自分の人生は、こんなにも不幸なのだと嘆きたくなるでしょう。 これに関しては、このように考えるしかないように思います。 たとえば、人間の一生が8年だったとしましょう。つまり、十分の一だったとします。生まれてから一年で物心つき、二年で成人になるとします。しかも、人間は何回も生まれ変わることを自覚しているとします。さて、だとすれば、仮に今のあなたの人生が、不幸の連続だったとしても、そう嘆いたり、不公平だと憤ったりすることもなくなるのではないでしょうか。8年だけなら、我慢できるのではないでしょうか。しかも、この8年を我慢すれば、次の8年の人生、その次の次の人生も、ずっと幸福であり続けられるとしたら、今の8年の人生が苦しみだけだったとしても、ほとんど問題とはならないのではないでしょうか。 どうやら、私たちの魂は、このような時間感覚をもっているようなのです。魂が、その本来の霊的な世界ですごす時間に比べたら、地上での80年など、8年どころか、8分とか、8秒ほどの、ほんの短い一瞬でしかないようなのです。これほど、地上と霊的な世界との時間感覚のずれがあるようなのです。したがって、肉体意識レベルでは不条理に思えるこの世の出来事は、非常に長い霊的な尺度で見るならば、断片の断片の断片くらいでしかないわけです。半年も続くNHKの連続ドラマのうち、一日だけ正義の主人公がいじめられるだけのストーリーだったとしても、「このドラマは不条理だ」という抗議の電話はかかってこないでしょう。このような悠久な感覚で、この世の人生の不条理をとらえる必要がありそうなのです。 したがいまして、先ほどの『ヨブ記』で神がヨブにいったように、「遠大な神の計画を、近視眼的な人間の浅はかな知恵で計ることはできない」ということになるわけです。 しかし、実は『ヨブ記』には、もっと深い意味があるのです。 表面的な字面だけを見ると、ヨブは「神の計画を浅はかな知恵で計るな」と神から怒られ、その言葉で、自分の苦しみの理由がわかり、懺悔して納得したように思われます。しかし、そうではありません。ひどい人生の苦しみにある人が「あなたの苦しみは、神の計画で訪れたのだから、あなたの浅はかな知恵で解釈してはいけないよ」といわれ、「ああ、そうですか」と納得して癒されるでしょうか。そのくらいで癒されるような苦しみなら、たいした苦しみとはいえないと思います。ひどい苦しみにあるとき、いかなるもっともらしい理屈を耳にしても、決して癒されることはありません。 しかし、ヨブは癒されました。なぜなのでしょうか。 それは、「愛である神」に、直接、遭遇したからです。ヨブの友人たちの言葉は、理屈としては正しいものでした。しかし、癒されませんでした。なぜなら、友人たちには「愛」がなかったからです。ただ理屈だけがあったからです。だから神が、友人たちに対しても「自分に関して正しいことを語らなかった」と怒っているのです。神は理屈ではありません。しかしヨブは、理屈としての神ではなく、愛である神に接しました。つまり、ヨブは愛に接したのです。それが、ヨブの抱えている不条理、苦しみを癒したのです。 人生は、理屈で考えれば、確かに不条理です。しかし、その不条理に、納得のいく回答を与えてくれるものがあるとすれば、それは愛しかないように思うのです。 斉 藤 啓 一 (精神世界著述家)
2008年08月20日
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バイクで環八を走っていたら、白バイの警官に止められました。 心の声~「え~っ!何かやばいことしたか?こっちはバイク事故で免停をくらって、もう二度とそういう目に遭うのは御免なんだよ!」 警官 「ヘルメットのあご紐が緩いですね。もっときつく締めて下さい。」 心の声~「何だ、そういうことか・・・びっくりさせるんじゃね~よ。」
2008年08月19日
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真の霊学的寛容について 皆さんにお願いがあります。私はすでにベルリンでも同じことを皆さんにお願いしました。--私がこれまで述べてきたこと、これから述べることのどんなことでも、それを権威として、信仰として受けとることのないようにしていただきたいのです。見霊能力を獲得する以前でも、見霊的認識によって得られた事柄の真偽を吟味する可能性はあるのです。私がこれまでにツァラトゥーストラ、ナザレのイエス、ヘルメス、モーゼ、オーディン、トール、或いはキリスト自身について述べた事柄を、どうぞ信じないでください。私の言葉を権威として受けとらないでください。権威の原則に振りまわされないでください。なぜなら私たちにとって権威の原則は不幸を呼びおこすだけでしょうから。 けれども私たちは確信しています。もし、とらわれぬ真理感覚をもってよく考え、「こういう言葉を聞いた。文献や史料にあたって調べてみよう。自然科学の成果に照らして検討してみよう」というようになれば、皆さんは聞いた言葉の正しさを洞察なさるでしょう。どうぞあらゆる手段に訴えてください。そうしてくださればくださるほど、有り難いのです。私は一向にかまいません。......けれども現代科学の皮相な方法によってではなく、できるだけ深く、良心的に検討してください。霊的認識の最上の生徒は聞いたことを先ず示唆として受けとり、それを生活に即して吟味するために、生活に役立てようとする人です。 ですから皆さんの心の中に次の言葉を託そうと思います。--誰それがこう言ったからといって、それをドグマと見做すことは本当の神智学的態度ではありません。本当の神智学的態度というのは、霊学から受けた示唆を生活の中で吟味することです。そうすれば神智学的見解がどこかから色づけられるというようなことなどなくなります。東洋的色づけも西洋的色づけもあってはなりません。薔薇十字会の意味で語る人には、東洋主義も西洋主義もありません。その両方に共感がもてるようになるのです。...... 私たちが全人類に最もよく奉仕できるのは、私たちひとりひとりにそなわっている特質をひとつの供儀として、進歩していく文化の流れの中にもたらすことです。このことが理解できるようにならなければなりません。霊学が存在する理由は、宗教信条として地球上のどこかを支配しているものが別の地域をも征服できるために、その手助けをするということではありません。西洋が東洋によって征服されたり、その逆であったりするとしたら、それは霊学の真意にはまったく反していることになります。私たちの最上のもの、純人間的なものを全人類のために捧げることが霊学の願いなのです。そして私たちがまったく私たち自身の中で生きながら、しかも私たちのためではなく、すべての人のために生きること、そのことが真の霊学的寛容なのです。 1910年6月17日クリスティアニア(オスロ)にて
2008年08月17日
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以前に、新居のベランダから富士山が見えるという記事を書きましたが、プレミアがもう一つありました。雷が鳴ってるのかなと何気に外を見たら、何と花火が見えたんです最近、生花火を見てないので、これはめっけものでした。調べたら、たまがわ花火大会(二子玉川~多摩川河川敷)でした。http://www.tamagawa-hanabi.com/index.html丁度花火大会が終わった頃に、雷が光り雨が降ってきました。雨と雷も、花火大会に気を遣ったのかな? http://jp.youtube.com/watch?v=MilPoAgNCyw&feature=related(オマケ)
2008年08月16日
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「人類の偉大な教師たち、モーセ、インドの聖仙たち、ヘルメス、キリスト、初期キリスト教の教父たち、彼らは皆輪廻転生の考えの上に立っていました。 ・・・・・・・・・・・・・・途中略・・・・・・・・・・・・・キリスト教はその後1500年間、輪廻転生についての知識をもっていませんでした。もし輪廻転生の教えをもっと隠しておきたいのなら、私たちは人間に対してふたたびこの知識を隠すことになるでしょう。それは、大きな罪になります。人類に対する犯罪行為になります。しかし一度目の隠蔽は必然的でした。なぜなら、誕生と死の間の一回限りの人生もまた、人間にとってかけがえのないものとされなければならなかったからです。」 統一教会にいた頃、シュタイナーの本を読んでまずぶち当たった問題が、「輪廻転生」でした。統一原理では既成キリスト教と同様、輪廻転生を否定しているからです。もともと私は統一教会に入る以前は、輪廻転生を信じていたんですが、統一原理と出会いこの問題は保留にしていました。しかしその後、シュタイナーの本を読み進めていくうちに輪廻転生を確信するに至りました。これがまず統一原理信仰の牙城を崩す第一歩になりました・・・・・・。
2008年08月15日
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<あらすじ> 老朽化した広い浴室で目覚めた、青年アダム(リー・ワネル)とローレンス・ゴードン医師(ケアリー・エルウェズ)。突然拉致された彼らは、それぞれ足首に鎖をはめられ、2人の間には自殺死体が転がっている。そしてポケットに入っていたテープを再生すると、6時間以内にどちらかを殺さないと、2人とも殺害するという犯人のメッセージが入っていた。この犯人は、命を粗末にしている人間にその大切さを教えることを目的に、残虐なゲームを次々行なっている人物で、"ジクソウ"と呼ばれていた。彼を執念深く追っているのはタップ刑事(ダニー・グローヴァー)。彼は犯人を追い詰めた時、相棒の新米刑事シン(ケン・リョン)を殺され、自分もノドを裂かれかけたのだ。一方、浴室の2人は、ゴードンの妻のアリソン(モニカ・ポッター)と娘のダイアナ(マッケンジー・ヴェガ)が犯人に捕らえられていることを知る。そしてアダムは、ゴードンの浮気調査をしていたカメラマンであることが明らかに。やがてタイムリミット。アリソンたちを監禁したのは、病院の雑役係ゼップ(マイケル・エマーソン)だった。そこにゼップを見張っていたタップが助けに現われるが、揉み合っているうちにタップは死亡。浴室では、ローレンスがノコギリで自分の足を切断して、鎖から逃れる。そこに現われたゼップを、アダムが叩き殺す。だが実はゼップも犯人に脅され動いていただけだった。 <寸評>光テレビ(ビデオ)でやってました。普段、あまりこの手の映画を好んで観る方ではないんですが、ストーリー展開にぐいぐい引き込まれ、1、2、3と続けて観てしまいました。グロいシーンもたくさん出てくるので、この手の映画が苦手な方にはあまりお勧めしませんが、好きな方は騙されたと思って観て下さい。薄っぺらなスプラッタ・ホラー・ムービーよりも全然面白いですよ。「ソウ4」は、視聴料(420円)が取られるので、DVDをレンタルして観ようかどうか検討中です。 http://jp.youtube.com/watch?v=gEk3TEWUrW8&feature=related(「ソウ」が全編見られます、字幕なし)http://www.sawmovie.jp/(オフィシャル・サイト)
2008年08月14日
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また家内から電話。 家内 「悪いんだけど、弁当買って来てくれないかしら。」私 「何で?」家内 「熱が37度2分もあって、頭が痛いのよね。」 ほほ~今度はその手で来たか・・・・・・。「ヨシケイ」のレシピも送ってもらいました。今月様子をみて駄目だったら、来月から「ヨシケイ」を再開する予定です。
2008年08月11日
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今年は、3月17日孝進様のご昇華、真のご父母様と真のご家庭のヘリコプター事故、と神様の祖国光復と天一国創建に実体的に出発した2008年、サタンは総攻撃してきました! おいおい、サタンのせいにするなよ、サタンも迷惑だよ。サタンもサタン視するぜ。 真のご父母様は一点の讒訴条件も無く、全てに勝利されています故、生きて働き給う神様が霊界の真のご子女様・聖人義人・絶対善霊を総動員して守ってくださり、み旨を進められるかたちで勝利されました! 讒訴条件だらけでしょ? 勝手に言ってれば?
2008年08月10日
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仕事で外回りをしていたら、携帯が鳴った。自宅からだった。 家内 「今日、外で食べてきてくれないかしら。」私 「何で?」家内 「こっちは適当に食べるから。」 昨日私が、「もし今後、冷凍ものやレトルトものが出てきても食べないからな!」と言ったので、それに対しての電話だった。 ほほ~、あれだけ言われてもまだ作る気にならないらしい・・・・・。仕事の帰りにブックオフに寄って、レシピ本を2冊買った。 私 「はい、お土産。」家内 「・・・・・・・・。」私 「明日からはこれ見てちゃんと作ってよ。」家内 「・・・・・・・・。」 第2Rの始まりである。
2008年08月10日
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ちょっと愚痴を言わせて下さい・・・・・・。家内もパートをするという前提で、今の高い家賃のマンションに引越したんですが、引越しをして一ヵ月後に家内はパートを辞めてしまいました。何でも仕事がハードで、これ以上自分には出来ないということでした。その後も特に次の仕事を探すわけでもなく、数ヶ月が過ぎました。パートをやってた時は、多少家事が手抜きになってもしょうがないと思うんですが、今は専業主婦にも関わらず、家事の手抜きが続いています。洗濯はまあいいとして、炊事と掃除が手抜きなんです。掃除は、「自分は花粉症で、埃が立つのが嫌だ」という理由で、ほとんどしません。クイックル・ワイパーで、フローリング部分を掃除する程度で、掃除機はかけないし、家の中の埃取りもしません。なので、基本的に私が週に一回掃除をしています。炊事の方は、前のアパートに住んでた時は、「ヨシケイ」を利用してたので、レシピを見ながらそれなりに作っていたんですが(時には面倒くさい、やりたくないと愚痴をこぼしながら・・・・)、今は1~2週間に一回は、カレーやオムレツなんかを作るんですが、その他はほとんど冷凍ものやレトルトものや出来合いのおかずです。今まで何度かその事を指摘したんですが、「やる気が出ない」という理由で「馬耳東風」「馬の耳に念仏」です。しかし今日はさすがの私もキレました!昨日のおかずが冷凍食品の肉団子だったのに、今日はレトルトのハンバーグですよ!似たようなものが2日続けて出てきたので、「もう少し、メニューを考えろ!明日からは、もし冷凍ものやレトルトものが出たら、絶対食べないからな!」と怒鳴りつけました!料理の上手下手があるのはしょうがないとしても、下手は下手なりにレシピ本とか買ってきて普通努力するでしょ?なんだかな~~~。明日も多分、食卓に冷凍ものかレトルトものが出るんだろ~な~。ああ~ここ最近、料理らしい料理を食べてないな~。料理上手な奥さんを貰った人は、それだけで当たりだよな~。来世は絶対料理上手な奥さんを貰うぞ!
2008年08月09日
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http://www.amazon.co.jp/gp/reader/456969988X/ref=sib_dp_pt#reader-link(なか見!検索) 普通の人々にとって、物事のスピリチュアルな側面に入り込むのは容易なことではありません。それに反するような疑いや恐れが、潜在意識から吹き出てくるからです。それらは「敵軍」のようなもので、敗走させなければなりません。このためによく「夜明け前が最も暗い」状況になるのです。大きな覚醒がやってくる前には、たいてい苦痛を伴う思考にさいなまれます。というのは、高いスピリチュアルな真実を語ると、それは潜在意識にある古い信条に挑戦することになり、そうした古い「間違い」が解消されるよう「表面化」するからです。この時こそ、人は真実を語るアファメーション(肯定的宣言)を何度も繰り返さなければなりません。そして自分がすでに受け取っていることを喜び、感謝を捧げるのです。「あなたが呼びかけるより先に、私は応える」という言葉が聖書にありますが、この意味は「あらゆる完全で良い贈り物」は、すでに人に気づかれようと待っているということです。人は、自分が受け取っていると思い浮かべられるもののみ、受け取ることができます。そしてしばしば、大きな目標達成がやってくる直前には、失敗と思えることや意志をくじかれるようなことがやって来ます。何か大きなことが現実となる直前には、「すべてがうまくいかない」ように思え、深い落胆で意識が曇ることがある、という事実についてお話しました。これは、長年積み重なってきた疑いや恐れが潜在意識から立ち昇って来ている、ということです。潜在意識にあるこうした古い廃棄物のようなものは、そこから去っていくために表面化するのです。
2008年08月07日
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この度の「絶対死守の歩み」の目標を、奇跡的に勝利することができました。 それは良かったですね~。誤父母様もさぞお喜びでしょう。 尚、今回の勝利のために多少の借入れもしていますので、その返済のために10日まで5Kの取り組みは継続します。 えっ?また借入れしたんですか?それに教会で借入れしてるのに、信者にその尻拭いをさせるんですか? まだできていない家庭は諦めずに取り組んで下さい。 いや、諦めます。 この摂理に同参することにより、受ける恩恵はあまりにも大きいことを理解して下さるようお願い致します。 そんなわけのわからない恩恵よりも、早く献金地獄から解放してくれ~。
2008年08月05日
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秘儀の三段階古代においても、近代においても、大宇宙に参入するための三段階があります。第一段階では、霊我によって知覚できるようになります。そのときの人間は、新しい意味での人間になるだけでなく、ヒエラルキアの意味で、「天使の本性」にまで成長します。それは人間のすぐ上に位置するヒエラルキアです。ですからペルシアの秘儀においては、大宇宙に参入する人、つまり霊我が自分の中で働いている人を「ペルシア人」と呼びました。なぜなら、その人はもはや個人ではなく、ペルシア民族の天使に属していたからです。そしてその人を直接天使と呼んだり、神のような人と呼んだりしました。次の段階は、生命霊が目覚める段階です。この段階の人は、ペルシア秘儀の意味で「太陽の英雄」と呼ばれました。なぜなら、太陽の力を得て、下から上へ、太陽の力にまで発展していき、そこから太陽の霊力を地上に送り込むからです。しかしその人は「父の子」とも呼ばれました。更に、古代秘儀のおいては、アートマもしくは霊人を発達させた人を、「父」と呼びました。天使、日の御子(または太陽の英雄)、父、これが秘儀参入者の三段階でした。いつ秘儀参入の時が来るのか、それは最高の秘儀参入者だけが知っています。ですからキリストは、お前たちが、今私の案内した道を歩み続けるなら、秘儀に参入するであろう、と言い、そして、お前たちは天国へ到るであろう、と言いました。しかしその時は霊我を得た天使も知らないし、生命霊に参入した人も知らないのです。ただ「父」を得た最高の秘儀参入者だけがそれを知っている、とキリストは言いました。ですから、「マタイによる福音書」のこの部分は、秘儀の伝統にまったく即した言葉で私たちに語っているのです。そしてあとでお話するように、天国の告知は、使徒たちが秘儀に参入するであろうという予告なのです。「マタイによる福音書」のイエス・キリストは、この点について特別の仕方で語っています。しかるべき箇所を正しく読み取るなら、当時天国へ入るために語られていた教えをキリストが取り上げていたことが、手に取るように分かります。人びとは地球全体が天国へ到るのだと信じましたが、それはこの経過を物質的に理解したからです。本来、一人ひとりが秘儀を通して天国に入るのだと考えなければならないのです。キリストは、物質の次元で地球が天国に変わるであろうと主張する人たちを、偽予言者、偽メシアと呼びました。今日でも、福音書解説者たちが、物質的に神の国が近づいているという立場がイエス・キリスト自身の教えの中にある、という話を作っているのは何とも奇妙です。イエス・キリストの言っているのは、霊的な経過のことなのです。秘儀参入者だけがその経過を体験するのです。しかしキリストは、地球紀の進化を通してキリストに結びつく人は、どんな人でもこの霊的な経過を共にする。そしてそのときには人類のみならず、地球そのものも霊化されるであろう、と言うのです。
2008年08月04日
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行や瞑想というものは、アントロポゾフィー以外にもあります。しかし、アントロポゾフィーの行の特徴は、まず必ず、思考を通過することにあります。シュタイナーは、それが現代人に適した道であると主張します。思考を捨て、一定の感情に染まることから入るような道もあるのですが、それは現代の進化段階にある人間がとるべき道ではないと、シュタイナーは考えるのです。これは大切なことです。人間の思考力を邪悪なものであると考えるような道は、場合によっては、正邪を見分ける力を失わせるかもしれません。シュタイナーが唱える行の、もう一つの特徴は、師弟関係が不要なことです。師から口伝される道しかないというのは、古い時代のものだというのです。また、行のために山にこもったり、仙人のような特別の生活環境を求めることも不要とされています。瞑想の時間を除いて、社会生活は、ちゃんと営まれているのが、現代にかなったやり方であるわけです。 樋口純明(シュタイナー研究家)
2008年08月04日
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震える子ども 今日、百年前にはほとんど知られていなかった病気が広まっている。知られていないことはなかったとしても、広まってはいなかった病気である。神経質である。この独特な病気は、十八世紀の唯物論的な世界観の結果である。唯物論的な思考習慣なしには、神経質はけっして生じなかったであろう。もし、唯物論がまだ何十年もつづくなら、唯物論は民族の健康に破壊的な働きかけをするだろうということを、秘密の導師は知っている。もし、唯物論的な思考習慣が抑止されないなら、やがて人間は神経質になるなるだけではなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。とくに、精神病が非常な早さで広まる。狂気の流行病が、何十年か先には現れるだろう。精神病の流行によって、人類の進化は妨害されようとしている。このような未来の世界像ゆえに、人類の隠れた導師たち、叡智のマイスターたちは、霊的な叡智を一般の人類に注ぎ込まねばならない必要性に迫られているのである。
2008年08月04日
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敵同士だったマルクスとエンゲルス 八世紀、九世紀に今日のフランス北東部で起こった出来事に目を向けてみましょう。そこでは、つぎのような出来事が生じました。当時は、まだ大国家が建設されていませんでした。ですから、これからお話しすることは、比較的小さな人間社会のなかで起こったことです。今日のフランス北東部に、エネルギッシュな性格によって大きな財産、地所を所有した人物がいました。この男は非常に秩序だった方法、当時としては非常に組織的な方法で、財産、地所を管理していました。彼は、自分のしたいことを知っていました。彼のなかでは、目的を意識している人間と冒険家が奇妙に混ざり合っていました。彼は自分の財産で兵士を雇って、小規模な出兵をしました。その小さな軍隊はさまざまな分捕りをしました。彼はその軍人たちと、フランス北東部から行進しました。彼が留守のあいだに、彼よりは冒険家ではないけれどエネルギッシュなべつの人物が、彼の所領と全財産を乗っ取ったのです。彼には身寄りがありませんでした。帰ってくると、ほかの人物が自分の領地を乗っ取っているのを見出しました。新しい所有者は彼よりも強く、たくさんの兵士をかかえていました。彼は新しい所有者にはかないませんでした。当時は、自分の故郷でうまくいかなければ、すぐに見知らぬ土地移るというふうにはなされませんでした。たしかに、この人物は冒険家でした。しかし、彼には交戦するだけの力がなく、支持者たちとともに、かつての自分の所領地で農奴になりました。彼は財産を奪われ、彼とともに冒険に出た者たちとともに農奴として働かねばならなくなったのです。かつて領主であった者が農奴なると、とくに権力に対して批判的な見解を抱くようになります。彼らはこの樹木の生い茂った地方で、夜になると集まって火を焚き、領土を奪い取った者に対する陰謀がめぐらされました。領主から農奴になった当該の人物は、仕事の時間以外の余生を、いかにして領土と財産を取り戻すかの計画を練ることに費やしました。彼は、自分の領土を強奪した者を憎みました。この二人の人物は死の扉をくぐり、死と再受肉のあいだに霊的世界で、その時以来ともにおこないえたことをすべておこない、十九世紀に再受肉しました。全財産を失い、農奴となった人物は、近代社会主義の樹立者カール・マルクスとして再受肉しました。彼の領土を奪い取った人物は、彼の友人フリードリッヒ・エンゲルスとして生まれ変わりました。死から再受肉への長い道程のあいだに、彼らのかつての行為の均衡を取るための衝動が刻印づけられました。マルクスとエンゲルスがおこなったことを知り、カール・マルクスの独自の思想を研究して、いまお話しした八世紀、九世紀における人物たちの行動と結びつけてみてください。そうすると、マルクスとエンゲルスの文章に新しい光をあてられます。歴史においては、ものごとがどのように関連しているかを抽象的に語るのではなく、人間がかつて体験したことがらが、まったく異なったもののように思えても、じつは類似点があるものとして、つぎの人生にもたらされるのが見出されます。八世紀、九世紀に森で火を焚いて人々が語り合った口調と、ヘーゲルが活動し、弁証法が成立した十九世紀に語られる文体とは異なっています。九世紀のフランス北東部の森を思い浮かべてみてください。共謀者たちは、当時の言葉で悪態をつき、罵りました。その言葉を十九世紀の数学的-弁証法的な言語に翻訳すると、マルクスとエンゲルスの文章になります。
2008年08月03日
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中継日時 : 8月2~6日 19:10~21:00頃 http://www.nebuta.or.jp/miru/live.html
2008年08月03日
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ニーチェ・フランシスコ会修道士 わたしは、フリードリッヒ・ニーチェの運命の関連に大きな興味を持っています。わたしの人生はわたしを、この人物に導いたからです。わたしはニーチェ問題を、あらゆる面から考察しました。わたしはニーチェについて多くのことを述べ、フリードリッヒ・ニーチェをあらゆる側から考察しました。わたしが彼に会ったのは一度だけです。1890年代にナウムブルクで会ったのですが、そのとき彼はすでに重い精神病にかかっていました。午後2時半ごろ、彼の妹がわたしを彼の部屋に案内してくれました。彼は寝椅子に横たわっていて、彼の目は人が入ってきたことに気づかず、無関心でした。美しい、芸術的な額が注意を引きました。目が無関心であるにもかかわらず、狂人が目のまえにいるという感じではなく、午前中集中的に魂のなかで精神的に活動して、昼食をとり、休息しながら、午前中魂のなかでおこなったことについて思索しているように感じられました。霊的に見ると、そこには物質体とエーテル体しかなく、心魂と精神はすでに外にあって、太糸で身体につながっていました。すでに死が近いのですが、身体組織が健康なので、完全な死にはいたっていないのでした。完全に破壊された神経-感覚組織はもはやアストラル体と自我を保持することができないのですが、非常に健康な新陳代謝-律動組織が飛び去ろうとするアストラル体と自我をつかんでいるのでした。「ほんとうのニーチェは、彼の頭の上に漂っている。下方にある身体は、心魂に去られて死を迎えてもよいのだが、非常に健康な新陳代謝-律動組織によって身体が心魂に結びついているので、まだ死がやってこないのだ」という印象をわたしは持ちました。(P204-P205)ニーチェの個体が身体の上に漂っている衝撃的な姿を目にすると、彼の著作に対して、「彼の著作を読むと、ニーチェは書いていたとき、けっして完全に身体のなかにいなかったという印象を受ける。彼は、いつも身体の外にいたかのように思われる」と、いわざるをえません。事実、彼は座って書いたのではなく、歩きながら書きました。とくに彼が身体の外にいたと強く感じられるのは、『ツァラトゥストラはこう語った』第四部です。「これは身体が正常な状態で書かれたのではない。身体がもはや正常ではなく、心魂が身体の外にあるときのみ、このようなものは書ける」という感情をわたしは持ちます。精神的生産においてニーチェは自分の自分の身体を置き去りにした、という感情をわたしたちは持ちます。彼は日常の習慣においても、ついにはそうなりました。彼はとくにクロラールを好み、身体から離れる気分を味わいました。心魂の気分のなかの、身体から離れたいという憧憬をとおして身体は病気になり、たとえば頭痛が長期にわたってつづきました。これらすべてが、19世紀末におけるニーチェのイメージを与えます。ニーチェは狂気にいたり、ついには自分がだれであるかわからなくなりました。デンマークの文芸評論家ゲオルグ・ブランデスにあてた手紙に、彼は「十字架に懸かった者」とサインしたり、自分を自分の外にいる人のように客観的に見たり、自分をイタリアのポー川を散歩する神だと思って、「ディオニュソス」とサインしたりしました。精神的な生産活動における身体からの遊離が、ニーチェとしての人生における特徴でした。内的-イマジネーション的に進んでいくと、それほど過去にはさかのぼらない前世に導かれていきます。代表的な人物の多くのおいて特徴的なのは、彼らの前世がはるかな過去にさかのぼるものではなく、比較的近代にあるということです。ニーチェはかつて禁欲的なフランシスコ会修道士で、徹底的に自分を痛めつけました。フランシスコ会修道院の修道服に身を包んだ人物が何時間も祭壇のまえでひざまずいて祈り、非常な苦行をしました。自分が課した苦痛をとおして、思いが自分の身体の強く集まります。苦痛を感じているとき、人間は特別肉体を意識します。アストラル体が苦痛を感じている肉体に浸透しようと強く望むからです。救済を願って身体を痛めたことによって、魂はつぎの人生においては身体のなかにもう入りたくないと思うようになりました。このような運命的な関連があるのです。一連の地上生について、通常の思い込みをもって臆断することはできません。臆断すると、たいてい間違います。しかし、正しいことがわかると、人生が解明されます。(P204-P210)
2008年08月02日
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