(ア)本件日日記事の「百人斬り競争」が虚偽であることは,以下のことから明らかである。 a. 南京攻略戦当時の我が国の新聞においては,被告毎日の前身である東京日日新聞や被告朝日を始め,各新聞社の報道競争が過熱しており,真実は軽んじられ,戦意を高揚する記事がもてはやされていた。両少尉の南京軍事裁判での陳述によれば,両少尉は,昭和12年11月29日,無錫郊外で浅海記者と出会い,その後,常州の城門近くで記念撮影をしたということである。この際,浅海記者は,両少尉に「百人斬り競争」という冗談話を持ちかけたところ,その武勇伝に両少尉が名前を貸し,この冗談話を基に本件日日記事が掲載されたものであって,それらは,浅海記者によって作り上げられた戦意高揚のための創作記事であった。
b. 冨山大隊は,昭和12年11月26日正午すぎに無錫駅を占領した後,同日午後,常州に向けて追撃を開始したため,無錫城内には入っていない。冨山大隊は,同日は無錫より約3里のところで露営し,翌27日には横林鎮で中国の退却部隊と遭遇し,戦闘となった。冨山大隊は,同月28日,常州へ向けて出発し,翌29日に常州に入城した。向井少尉は,同年12月2日,丹陽にて砲撃戦中に負傷して,離隊し,救護班に収容された。冨山大隊は,同月4日,命令変更により丹陽を出発し,句容に向かったが,翌5日早朝,既に金沢師団が句容西方の退路を遮断していることを知り,旅団長の命令により句容を攻略することなく,北へ迂回転進することとなった。そのため,冨山大隊は,句容に入ることなく北上し,同日は賈崗里で宿泊して,翌6日,同所を出発し,砲兵学校を占領し,同月7日,前面偵察のため,西進した湯水鎮を経由することなく蒼波鎮に出た。冨山大隊は,その後,同月10日から12日にかけて,紫金山南麓にいる中国軍を攻撃しながら,南京城に向かって西進した。 このように,向井少尉は,丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ,同月中旬に冨山大隊に復帰したものであるし,野田少尉も句容には入っておらず,また,紫金山の攻撃は,歩兵第三十三連隊が行ったものであって,両少尉とも紫金山の山頂にも行っていないのであるから,本件日日記事第三報及び第四報に記載された経路は,両少尉の真実の行軍経路に反している。
c. 本件日日記事は,上記のほか,以下の点においても事実に反している。 本件日日記事第一報は,昭和12年11月30日に掲載されているところ,それによれば,両少尉が無錫出発後に「百人斬り競争」を始め,無錫から常州までの間に,向井少尉が56人,野田少尉が25人を斬ったとされている。しかしながら,佐藤記者は,常州で両少尉と会った際,浅海記者から「二人はここから南京まで百人斬り競争をする。」という話を聞いたのであって,第一報はこの話の内容に反している。また,第一報では,向井少尉の斬った人数が,横林鎮で55人,常州駅で4人の合計59人となっており,上記の人数と矛盾しているし,第一報が真実であれば,両少尉の記念撮影をしたとき,両少尉は,常州駅で数人の中国兵を斬った直後ということとなるが,佐藤記者もそのような話を聞いておらず,両少尉も全く返り血を浴びていなかったのであって,不自然である。 本件日日記事第二報は,昭和12年12月4日に掲載されているところ,それによれば,常州から丹陽までの間に,向井少尉が30人,野田少尉が40人を斬り,向井少尉が丹陽中正門に一番乗りをしたとされている。しかしながら,向井少尉は,上記のとおり,丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ,野田少尉も丹陽には入城しておらず,両少尉の行軍経路に反している。 本件日日記事第三報は,昭和12年12月6日に掲載されているところ,同日の隣の記事は,浅海記者が同じ日に丹陽で取材したものであり,同記者が丹陽からはるか離れた句容まで「百人斬り競争」の結果を取材したとは考えられない。 本件日日記事第四報は,昭和12年12月13日に掲載されているところ,それによれば,両少尉は同月10日の紫金山攻略戦で106対105という記録を作って,同日正午に対面し,翌11日からさらに「百五十人斬り競争」を始めることとしたとされているが,そもそも,この記事の内容自体が大言壮語の荒唐無稽な作り話であるとしか言いようがないものである。
d. 本件日日記事の「百人斬り競争」については,後述する望月五三郎を除き,当時,両少尉の部下で,これを目撃した者は一人もおらず,これを信じる者もいなかった。また,本件日日記事報道以後,「百人斬り競争」は武勇伝としてもてはやされ,他紙においても後追い記事が掲載されたが,これらはいずれも到底信用できないものであった。野田少尉は,南京攻略戦後,郷里の鹿児島で講演を行った際,「百人斬り競争」を否定しており,向井少尉は,南京攻略戦後も,部下に対し,「百人斬り競争」が冗談話を新聞記事にしたものであると度々話しており,「百人斬り競争」が創作であると話していた。 なお,本件日日記事は,中国側では我が国を誹謗中傷する宣伝材料として利用され,本件日日記事の第三報と第四報がジャパン・アドバタイザー紙に転載されると,国民党国際宣伝処の秘密顧問であったティンパレーによって,「殺人ゲーム」というタイトルを付けて紹介され,残虐事件の報道記事に仕立て上げられた。
e. 向井少尉は,昭和21年7月1日,極東国際軍事裁判(以下「極東軍事裁判」又は「東京裁判」ともいう。)法廷3階325号室において,米国のパーキンソン検事から尋問を受けたが,「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となり,釈放されたものである。パーキンソン検事は,向井少尉に対し,同少尉を召喚する前に新聞記者を喚問し,その結果,「百人斬り競争」は事実無根と判明したと述べ,「新聞記事によって迷惑被害を受ける人はアメリカ人にもたくさんいますよ」と述べて,握手して別れたのである。 なお,浅海記者及び鈴木記者は,向井少尉の尋問に先立って,同検事から尋問を受けており,その際,両記者は,本件日日記事の内容を「真実である」旨答えているが,この供述書は東京裁判には提出されなかったのであって,その理由は,記事を書いた両記者が「百人斬り競争」を目撃しておらず,記事に証拠価値がないと判断されたからである。
f. 南京軍事裁判において,両少尉は,①浅海記者が野田少尉と会ったのは2回,向井少尉と会ったのは1回であったにもかかわらず,新聞記事が4,5回も報道されていること,②野田少尉が麒麟門で戦車に乗った浅海記者に会ったとき,浅海記者が最後の記事を既に送稿したと話しており,後日,その記事が紫金山の記事であることを知ったこと,③両少尉が句容には入っておらず,句容の記事が創作であること,④向井少尉が砲撃戦に参加したのは,無錫と丹陽のみであり,丹陽の戦闘で左膝頭部及び肘右手下部を負傷して,離隊し,救護班に収容され,その後戦闘に参加することができず,砲兵学校で帰隊したことから,句容,紫金山の記事が創作であること,⑤両少尉は丹陽で別れた後,向井少尉が帰隊するまで会っていないこと,⑥向井少尉が昭和21年7月に東京裁判の検察官から取調べを受けたが不問に付せられたことなどを主張して,「百人斬り競争」が虚偽であると主張し,無罪を訴えた。しかしながら,南京軍事裁判所は,ただ一度の公判審理で,両少尉の申請した浅海記者と冨山大隊長を証人として採用することもなく,被害者証人を取り調べることすらせずに,即日両少尉及び田中軍吉大尉に死刑判決を言い渡した。両少尉は,冨山大隊長,冨山大隊本部書記竹村政弘,浅海記者の証明書を付けて,再審を申し立てたが,認められず,昭和23年1月28日,銃殺刑に処せられた。これら南京軍事裁判の記録及び経過を見れば,この裁判が極めて不当であり,報復裁判以外の何物でもなかったことは明らかである。
g. 本件日日記事の「百人斬り競争」は,日本刀の強度の点からもおよそあり得ないことであり,虚偽である。すなわち,軍刀は,将校にとって身分の象徴であり,守護刀であって,いわゆる指揮刀として使用されるものであり,戦闘に用いられることは極めて稀であった。しかも,将校用の軍刀は,美観を重視したものであり,実際には脆弱なものであって,多くの人を斬ることは到底不可能である。
h. 本件日日記事の「百人斬り競争」は,当時の日本陸軍の組織の点からもおよそあり得ないことであり,虚偽である。すなわち,向井少尉は,歩兵砲の小隊長であるところ,歩兵砲の小隊長は,歩兵砲小隊を指揮し,自らを砲撃戦に任じているので,第一線の歩兵部隊のように突撃戦には参加しないし,その任務は,敵の重火器の撲滅あるいは制圧,第一線歩兵の援護射撃の指揮等であって,多忙を極め,そのような立場にある者がいきなり持ち場を離れることは,軍律違反であって許されることではない。なお,向井少尉は,軍刀での戦闘経験はない。 また,野田少尉は,大隊の副官であるところ,大隊副官は,大隊本部の事務整理と取締りを担当し,その任務は多忙であって,白兵戦に巻き込まれるのは,大隊本部が敵の急襲を受け,あるいは大隊長自らが突撃するような緊急の場合のみであり,そのような立場にある者が持ち場を離れて勝手気ままに殺人競争をすることは,許されることではない。
i. 本件日日記事の「百人斬り競争」は,当時の南京攻略戦の実相から見てもおよそあり得ないことであり,虚偽である。すなわち,南京攻略戦は,近代戦であり,組織化した日本軍と中国軍との戦闘であって,中国軍はドイツ式の近代的組織防衛戦を行い,武器も日本軍兵器に遜色ないものであったから,両少尉が日本刀を振り回して中国兵に立ち向かうなどということはおよそ考えられない。
a. 被告本多は,「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったとする根拠として,志々目彰が小学生の時に聞いたという野田少尉の話を引用しているが,そのような話が本当にあったか否かも定かではないし,その内容も,近代戦である南京攻略戦においてはおよそ考えられないような話であって,到底信用することができない。
b. 被告本多は,「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったとする根拠として,鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」を引用しているが,「百人斬り競争」とは,時と場所と殺害対象を特定した事実であり,残虐行為を行った全くの別人の話を根拠として,「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったと断定することは許されない。
c. 被告朝日は,望月五三郎の「私の支那事変」の一部を,コピーで「農民虐殺」の証拠として提出しているところ,この本には200か所を超える誤りがあり,依拠したとされる「覚え書」や「資料」等が存在するか否かも疑わしいものであるし,望月五三郎の「南京攻略作戦」当時の所属も不明確である。「百人斬り」の項では,常州と丹陽の位置関係を誤って記載したり,「百人斬り」を開始したとされる場所に誤りがあり,記載内容も抽象的かつあいまいであって,到底信用することができない。
エ 「百人斬り競争」及び「捕虜や非武装者の殺害」については,以下のとおり真実である。 (ア)本件日日記事の「百人斬り競争」が存在していたことは,以下のとおり明らかである。 a. 本件日日記事は,昭和12年11月30日から同年12月13日にかけて4回にわたって連載されたものであり,関係した記者も,浅海,光本,安田,鈴木の4人の手によるものである。そして,浅海,鈴木両記者は,極東軍事裁判における検事の尋問に対する供述やその後の種々の記事で,両少尉からの聞き取りによる取材であることを明らかにしている。また,佐藤記者も,両少尉が「百人斬り競争」を行っているという話を直接聞いて,「取材の中で『斬った,斬ったと言うが,誰がそれを勘定するのか』と両少尉に聞いたところ,『それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして,当番兵が数えているんだ」という話だった。」と述べている。両少尉が浅海記者らに虚偽の事実を告げることはあり得ず,これらから両少尉の「百人斬り競争」の事実が裏付けられる。
b. 「百人斬り競争」については,当時,本件日日記事のほか,昭和12年12月1日付け大阪毎日新聞鹿児島版,同月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版,同月16日付け鹿児島朝日新聞,同月18日付け鹿児島新聞,昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版,同年3月21日付け鹿児島新聞,同月22日付け鹿児島朝日新聞,同月26日付け鹿児島新聞,昭和14年5月16日付け東京日日新聞にそれぞれ掲載されており,野田少尉が中村碩郎あての手紙の中で「百人斬り競争」を自認し,「百人斬日本刀切味の歌」まで披露していること(昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版),野田少尉が帰国後に新聞社の取材に対して「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月21日付け鹿児島新聞),野田少尉の家族も「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞)などの事実からも,両少尉が「百人斬り競争」を事実であると認めていたことが裏付けられる。
c. 望月五三郎は,昭和12年当時,冨山大隊第十一中隊に所属し,南京戦にも参加した人物であるところ,同人の著書である「私の支那事変」には,両少尉による「百人斬り競争」について記述されており,その内容は,具体的で迫真性があり,体験者でなければ到底書き得ないものである。
d. 志々目彰は,雑誌「中国」昭和46年12月号に投稿した論稿の中で,同人が小学生のころに聞いた野田少尉の講演内容について記載しており,それによれば,野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言をしていたものである。志々目彰は,野田少尉の話が,軍人を目指していた志々目彰にとってショックであり,それゆえ,明確な記憶として残っていたとするものであって,その内容も具体的で確かなものである。
e. 両少尉は,その遺書においても,自分たちが「百人斬り競争」を語った事実自体は否定していない。
f. なお,両少尉は,南京軍事裁判において,野田少尉が麒麟門東方において行動を中止し,南京に入った事実はないとし,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されていた旨弁解しているところ,野田少尉は,上記のとおり,自ら「百人斬り競争」について具体的かつ詳細に語っているし,南京戦の資料でも冨山大隊が南京戦に参加していたことが認められ,向井少尉については,冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し,向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録中に負傷した事実の記載がないばかりか,昭和14年5月16日付け東京日日新聞の記事中では,自ら負傷した事実がないことを自認しているから,いずれの弁解も客観的資料や証言に反し,信用することができない。
a. 望月五三郎の「私の支那事変」によれば,野田少尉が行軍中に見つけた中国国民を殺害し,「その行為は支那人を見つければ,向井少尉とうばい合ひする程,エスカレートしてきた」ことが明記されており,志々目彰の上記論稿によれば,野田少尉は,投降兵や捕虜を「並ばせておいて片つばしから斬」ったことを認めている。
b. 洞富雄元早稲田大学教授は,詳細な資料批判を行った上,「百人斬り競争」が捕虜の虐殺競争であると考えているし,田中正俊元東京大学教授も,客観的資料に基づく実証的見解として,「百人斬り競争」の対象者のほとんどすべての人々が非武装者であったのではないかと述べており,「南京大虐殺のまぼろし」を執筆した鈴木明も捕虜の殺害であれば「百人斬り」の可能性があることを認め,秦郁彦拓殖大学教授も「百人斬り」が「戦ってやっつけた話じゃなさそうだ」と判断している。 そして,昭和12年の南京攻略戦当時,日本軍による略奪,強 姦,放火,捕虜や一般民衆の殺害などはごくありふれた現象であり,多数の資料も存在するのであり,鵜野晋太郎が「日本刀怨,恨譜」で記しているように,多くの捕虜や農民の殺害が行われていたものである。
エ 本件日日記事に記載された「百人斬り競争」が真実であり,両少尉の「据えもの百人斬り」,「捕虜虐殺」が真実であることは,以下のとおり明らかである。 (ア)両少尉が,記者からの取材に対し,本件日日記事のとおり語ったことは,以下のとおり事実である。 a. 浅海記者は,本件日日記事について,自らが取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。 すなわち,浅海記者は,まず,昭和21年6月15日,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第三報及び第四報に書かれていることが「真実か虚偽か」との質問に対し,「真実です」と明言し,続いて,南京軍事裁判に提出した昭和22年12月10日付け証明書においても,「両氏の行為は決して住民,捕虜等に対する残虐行為ではありません」,「同記事に記載されてある事實は右の両氏より聞きとって記事にしたもので(す)」と記載している。 また,浅海記者は,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,両少尉から話を聞いたことを認めているほか,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」においても,両少尉自らが浅海記者に百人斬り競争を計画していることを話し,その後の百人斬り競争の結果について両少尉の訪問を受けて,その経過を取材したことについて具体的に述べている。
b. 鈴木記者は,本件日日記事第四報について,浅海記者と共同で取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。 すなわち,鈴木記者は,まず,昭和21年6月15日,浅海記者とともに,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第四報に書かれていることは「真実ですか,虚偽ですか」との質問に対し,「真実です」と明言するとともに,同尋問において,1941年から1945年の間の陸軍省記者クラブ時代に大本営情報部から伝えられた情報については,振り返ってみれば記事の大部分は虚偽だったと思うとしながらも,上記記事に書いたことは,自分が真実だと知っていることだけを書いたと述べている。 また,鈴木記者は,昭和46年11月発行の雑誌「丸」所収「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」において,両少尉から聞いた話を記事にしたと述べ,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事においても,紫金山で両少尉に会い,浅海記者とともに両少尉から上記記事の事実を直接聞いたと述べている。 さらに,鈴木記者は,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「当時の従軍記者として」において,両少尉から紫金山の麓で直接聞いたこと,虐殺ではないことを信じて記事にしたことを明確に述べているほか,「『南京事件』日本人48人の証言」においても,両少尉から上記のとおり聞いたと述べている。 c. 佐藤記者は,本件日日記事第四報の写真を撮影をした際,両少尉が百人斬り競争の話をしたことを聞いていた旨一貫して述べている。 すなわち,佐藤記者は,まず,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,本件日日記事第四報の写真を撮影した経緯を述べ,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について進んで話をしていたこと,浅海記者が両少尉の話をメモにとっていたことを述べ,「百人斬り」の数の数え方についても「それなら話はわかる」と納得している。 また,佐藤記者は,平成5年12月8日発行の「南京戦史資料集Ⅱ」所収「従軍とは歩くこと」において,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について積極的に話していたこと,佐藤記者も納得できない点を質問し,返答を受けて納得できたと述べており,その後,南京の手前で浅海記者に会った際に,浅海記者がなおも「百人斬り競争」の取材を続けていたことを確認したと述べている。 さらに,佐藤記者は,当法廷においても,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について話しているのを聞いたと明確に証言している。
a. 昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には,野田少尉から中村碩郎にあてた書信のことが書かれており,それによれば,野田少尉自身が,同日時点では,既に本件日日記事に「百人斬り競争」の記事が出たことを知っており,南京入城まで105人を斬り,更に253人を斬ったと自ら述べており,同様の内容の記事は,同月26日付け大毎小学生新聞にも掲載されている。
b. 野田少尉は,南京攻略戦後の昭和13年に日本に帰国し,同年3月に郷里の鹿児島に立ち寄った際,新聞記者や父親に対し,あるいは講演で,百人斬り(それ以上の数を斬ったこと)を認めている。 昭和13年3月21日付け鹿児島新聞では,野田少尉自らが374人を斬ったと述べ,さらに紫金山攻撃に参加したと述べており,同月22日付け鹿児島朝日新聞では,野田少尉の父が,野田少尉から374人の敵兵を斬ったことを聞いている旨述べている。 同月26日付け鹿児島新聞には,同月24日「百人斬の野田少尉神刀館で講演」との記事が掲載されており,阿羅健一「名誉回復のその日まで」(「正論」平成15年12月号所収)によれば,当時,野田少尉の講演を聞いた人が多数いて,「百人斬り」が話題になったことが述べられている。
c. 野田少尉の父親である野田伊勢熊は,昭和42年6月に陸軍士官学校四十九期生会が発行した「鎮魂第二集」に寄稿し,その中で,南京軍事裁判以後も両少尉の「百人斬り競争」が事実であったことを認めている。
d. 志々目彰は,雑誌「中国」昭和46年12月号所収「百人斬り競争―日中戦争の追憶―」において,野田少尉が帰国後の昭和14年春ころ,鹿児島県立師範学校付属小学校で行った「百人斬り競争」についての講演を直接聞いたと述べている。
e. 向井少尉は,南京戦の後,中尉に昇進し,昭和14年5月に中国漢水東方地区において,南京戦での百人斬りの青年将校として東京日日新聞の西本記者の取材を受け,その中で「百人斬り競争」が真実であることを認める言動を行っている。
f. 両少尉は,遺書の中で,捕虜や住民を殺害してはいないことを強調しているが,戦闘行為として斬ったことは否定しておらず,「百人斬り競争」について自ら進んで新聞記者に話したことを認めている。
g. 本件日日記事の直後,昭和12年12月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版,同月16日付け鹿児島朝日新聞,同月18日付け鹿児島新聞には,野田少尉関係の記事が,同月13日付け大毎小学生新聞には向井少尉関係の記事が,それぞれ掲載されている。
a. 冨山大隊第十一中隊に属していた望月五三郎は,昭和60年7月発行の「私の支那事変」において,両少尉の「据えもの斬り」を直接体験した事実として具体的に記述している。
b. 冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し,向井少尉直属の部下であった田中金平は,「我が戦塵の懐古録」(第十六師団歩兵第九連隊歩兵砲隊の戦友会である「九'砲の集い」が出版した懐古録)に寄せた「第三歩兵砲小隊は斯く戦う」において,第三歩兵砲小隊の行軍について詳細に記述しているところ,同行軍記録には,各場所での戦死者,負傷者の記述があるが,小隊長であった向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されたとの記述はない。 直属の小隊長が戦線を離脱したのに,その記述がないということは考えられず,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されたという,南京軍事裁判における向井少尉の答弁や冨山大隊長の受傷証明書は,真実を述べたものとは到底考えられない。
c. 六車政次郎は,陸軍士官学校時代に野田少尉と同期生であり,第十六師団歩兵第九連隊第一大隊副官(少尉)として,南京攻略戦に参加している(野田少尉の手紙の中にも「六車部隊長」,「六車」として名前が出ている。)が,白兵戦について実際に経験した内容を具体的に記述しており,平成2年8月発行の「惜春賦―わが青春の思い出―」においては,大隊副官であっても,白兵戦で人を斬ったことを具体的に記述しているし,昭和47年5月発行の「鎮魂第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)所収「野田大凱の思い出」においては,「百人斬り」という数についても違和感を抱いていない。
(エ)南京軍事裁判での両少尉の弁明は,その置かれた立場からすればやむを得ない弁明というべきかもしれないが,重要な部分において虚偽であることが明らかであり,信用することができない。 a, 南京軍事裁判における両少尉の各答辮書によれば,浅海記者が架空の記事を創作したとされているところ,浅海記者,鈴木記者,佐藤記者の前記各証言や,野田少尉が百人斬りを認める言動をとっていたことなどからすれば,両少尉自身が浅海記者らに「百人斬り競争」の話をして,それを浅海記者らが記事にしたことが明らかであり,両少尉の上記弁明は,虚偽である。
b. 野田少尉は,記事を見たのは民国27年(昭和13年)2月のことで,その後も戦地を転々と転属して新聞記事訂正の機会を逃したとしているが,前記のとおり,野田少尉は,報道直後の同年1月から3月までの時点で,本件日日記事に両少尉の百人斬りの記事が掲載されていることを十分認識した上で,書信や新聞記者の取材,講演等で自ら「百人斬り」を行ったことを述べているのであり,この弁明も虚偽である。
c. 野田少尉は,麒麟門東方において行動を中止し,南京に入った事実はないと弁明しており,これによると,野田少尉の属する冨山大隊主力は,丹陽北方から鎮江方面に北辺迂回をし,揚水の南側を行軍したが,麒麟門手前で引き返し,湯水を経由して砲兵学校に至り,紫金山にも南京にも行かなかったこととなる。しかしながら,冨山大隊は,草場追撃隊の先発隊として丹陽を攻撃して占領し,さらに句容付近の敵の陣地を攻撃突破し,追撃隊主力とともに湯水鎮方面に向い,紫金山,中山門を経て,昭和12年12月13日に南京に入城していることが明らかであり,野田少尉自身,昭和13年の時点では自ら紫金山攻撃に参加したとはっきり述べており,野田少尉の上記弁明も虚偽である。
d. 野田少尉は,大隊副官の職務からして「百人斬りの如き馬鹿げたる事をなし得る筈なし」と弁明しているが,六車政次郎の証言にあるとおり,大隊副官の任務上,白兵戦で人を斬ることがないとはいえず,この弁明も虚偽である。
e. 両少尉は,俘虜住民を虐殺したことはないと弁明しているが,両少尉が無抵抗の農民を奪い合うようにして,日本刀で斬り捨てたことは,望月五三郎の前記証言から明らかであって,この弁明も虚偽である。
f. 向井少尉は,昭和12年11月末ころ,丹陽の戦闘で左膝頭部及び右手下膊部を負傷し,同年12月中旬(南京攻城戦終了)まで丹陽の臨時野戦病院において臥床中で,同病院が湯水温泉地に移動した際に担架車載トラックで湯水砲兵学校に駐留していた所属部隊に帰隊したと弁明している。 しかしながら,前記のとおり,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,入院し戦列を離れたとの事実は,向井少尉直属の部下である田中金平の行軍記録には全く記載がないし,向井少尉自身が「百人斬り競争」の事実を認めており,さらに,浅海記者及び鈴木記者とも,昭和12年12月12日に紫金山の麓で両少尉に会って「百人斬り競争」の経過について取材したと明確に証言しているから,この弁明は虚偽であって,向井少尉は,冨山大隊の第三歩兵砲小隊長として,丹陽の戦闘の後,句容の攻撃に参加し,さらに紫金山攻撃に参加し,同月13日に中山門から南京に入城し,同月25日に南京から湯水東方の砲兵学校に移駐したものである。
g. 両少尉は,本件日日記事で「百人斬り」報道がなされたことを認識しながら,報道から10年後に南京軍事裁判のため逮捕,起訴されるまで,「百人斬り」が事実ではなかったとは全く述べておらず,野田少尉については,前記のとおり,講演等で「百人斬り」を行ったことを繰り返し公言していたもので,逮捕,起訴後の弁明に信用性はない。また,両少尉は,その遺書においても,前記のとおり,俘虜住民を殺害したことはないと述べつつも,百人斬りを行ったこと自体は否定していない。 なお,冨山大隊が麒麟門東方において行動を中止し,南京に入ることなく湯水東方砲兵学校に集結したとする冨山大隊長の証明書及び向井少尉が丹陽郊外で受傷し,雛隊したとする冨山大隊長の受傷証明書も真実を記載したものとはいえない。受傷や離隊等が事実であれば,公式記録等によって証明することができたはずであるが,冨山大隊長は何ら裏付け資料を提出していない。