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ゴールデンウイークに入ってから、ずっと晴が続いている。これでは、草木がかわいそう。少し雨がほしい屋久島。明日には雨が降るらしい。本格的に暖かくなってきている。四月になってほとんど使わなかったヒーターを、掃除して箱に仕舞った。確か2980円で買った扇風機型のヒーター。もう幾冬越したことだろう。これ以外にヒーターはないので、ずいぶん安い暖房器具ということになる。少なくとも四シーズンは使っているのではないだろうか。電気代もたいしたことはないので重宝している。やはり屋久島は暖かいということだろうか。昨夜、久しぶりにホラー映画を見た。普段、そのようなものを見ることはない。なんとなくそんな気になった。ところが・・・やはり、波動がどうしようもなかった。基本的にゴースト(幽霊)の次元なので、そのようなエネルギーになってしまう。よほど途中でやめようかと思ったが、最後まで見た。最後は、まあまあハッピーエンドに近かった。映画を見ながら、時々、隣にある水晶群を見た。そこで改めて気づいたことがあった。それは、この水晶たちのすばらしさ。なんと光に満ちていることか!水晶たちは、映画の波動とは隔絶した世界にいた。光り輝いているように見えた。普段は、そんなことは感じない。普段は、こちらも水晶と似たような次元にいる。そのため、まったく違和感はない。ところが、こちらが嫌な波動を感じていると、水晶のピュアーさが際立った。すばらしい!こんなに光り輝いていたとは・・・たまには低次元の波動と一緒にいてみるのもいい。周りが光り輝いて見える。確かに、ここにある水晶たちは光に満ちている。お客さんには、いつもそう言われるが、自分でも再確認。特に最近は大きなシトリン(黄水晶)が増えたので、周りの影響を受けにくくなった。今、この部屋には10cmを超えるシトリンが、7本ある。それらは、安定的に明るいエネルギーを放射している。見ているだけで、心身が活性化する。これだけのシトリンを集めるのは、簡単なことではない。いくらお金があっても、ものがない。ネットを隈なく探しても、10cmを超えるシトリンは、わずかしかない。しかも、美しくて波動が高いものは、皆無に近い。みんながほしがるシトリン。つい先日も、美しいシトリンカテドラルがアップされた。出た瞬間、カートに入れるをクリックした。解説文も詳細画像も見ないまま。ところが、それでも買えなかった。たぶんタッチの差で、他の人が早くクリックしたのだろう。ADSLになっても、まだ光にはかなわない。それほど、クオリティの高いシトリンは需要が多い。逆に言えば、それ以上に供給が少ないということでもある。大きく美しく六角形に結晶したシトリンは、極めて少ない。ほとんどは、研磨されたもの。それですら、大きくて美しいものは限られる。牡牛座の水晶祭りに出た水晶たちが、ほぼ引き取り手の元に届いた。いろんな感想メールが寄せられている。エネルギーを感じられる人は、意外と多い。今回は、かなり強烈に感じられた様子。水晶を持った途端、天から地に大きなエネルギーが降りてくるのを感じた人もいた。第三の目に当てたら、そこが強烈にヒリヒリした人も。水晶を見たら急に眠くなった人も多かった。顕在意識を休めて、潜在意識レベルを調整したのだろうか。顕在意識は、先入観や固定観念の塊。顕在意識には休んでいてもらった方が、意識の調整はしやすい。それは、光のセミナー時代から変わらない。今では水晶が、光のセミナーを代行してくれているのだろうか。その割には、安い水晶。世間相場と変わらない。むしろ安いものさえある。光代はもちろん、浄化代さえ入っていない。すべての水晶は、屋久島の海と川で浄化されている。それも一回や二回ではない。その上、朝の太陽と満月のエネルギーも充電されている。仕上げに光のエネルギーまで入っている。この手間賃は、一切入っていない。人件費は、ただ。とてもビジネスにはならない。今生は商売をするつもりはないので、これでいくしかない。自分の趣味からスタートしたこと。好きな水晶がたくさん買えて、ありがたいと思っている。多少は付加価値を付けないと、誰も買ってくれない。水晶が循環することによって、それに関わるすべての人が楽しめる。何も問題はない。誰も損をする人はいない。みんなが喜ぶ。それが一番尊い。自分を含めて、みんなが喜ぶようなことができれば、それが幸せというものだろう。個としても、全体としても満たされる。誰も犠牲になる人はいない。もちろん、自分も犠牲にしない。自分も活かし、自分も喜ぶ。自他共に幸せになる。そんなことが可能だろうか。できないことはない。これからは、そういう方向に時代は流れていく。誰かが得をすれば、誰かが損をする時代ではない。自分も周りも、共に喜び、共に楽しむ。誰も悲しむ人はいない。そういう方向へ流れていくには、やはり人生の深い理解が不可欠。闇雲に生きても、みんなが幸せになることはできない。幸せとは何なのか。生きるとはどういうことか。その辺りを深く理解する必要がある。そのためには、日々、真剣に生きることだろうか。注意深く見極めて生きることだろうか。イージーに生きれば、すべてを活かすことは難しい。自分の意識状態。周りの意識状態。社会の動き。自然の推移。そういうものに注意しながら生きる必要がある。注意深く生きることから、新しい意識が開ける。静かで不動の意識が開ける。それは、静かに表に出てくる。何にも依存する必要のない意識。何ものも揺るがすことのできない意識。深いところから湧き出す意識。一切の不安や心配と縁がない意識。そういうものは、自然に顕在意識に浸透する。ある日、突然、湧いてくるものではない。気がつけば、そうなっているだけのこと。自(おの)ずとそうなる。ゆっくり注意深く生きることだろうか。いろんなものを静かに味わいながら、楽しむことだろうか。季節は、春。自然も新緑に覆われている。春のような新たな意識で生きることだろうか。日々、新鮮に生きることだろうか。自他を活かし、喜びのなかで生きることだろうか。生きていることを注意深く楽しむことだろうか。『天上の 光受けとめ 輝いて 周りを照らす 水晶の群』『みな共に 喜び楽しみ 生きるのが これから先の 時代のあり方』これが日記を書き始めて1215日目の心境。
2008.04.30
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「違いがわかる男の・・・」というコーヒーのコマーシャルがある。あれは、男で正解。あれが女では、様にならない。なぜ?違いがわかるとは、識別。つまり、分別しているということ。分別は、男性原理。女性原理に分別はない。女性原理は、違いを超えて受け入れること。抱(いだ)き参らせ。つまり、大和心は、女性原理ということ。エッ?大和心が、女性原理?そんなバカな・・・一昔前の軍国主義者が聞いたら、何と言うだろうか。絶対に受け入れないだろう。男どもは、みんな石頭?本来、大和心で戦争などということは、あり得ないこと。完全な論理矛盾。大和心は、平和そのもの。どうしてそんなことが言えるのだろうか。それは肉体を見れば、一目瞭然。男性自身と女性自身の違い。よく観察すれば、誰でもわかること。女性自身は、受け入れるようにできている。受けとめて抱きしめる。ひたすら包み込む。それが女性原理。一方の男性原理は、アクティブ。新しい分野を切り開く。新たな創造。冒険。細かい違いをいろいろ言うのは、男性原理。女性原理は、みんなまとめて包み込んでしまう。見極めは、男性原理。見守りは、女性原理。世間から名人と呼ばれるような人は、見極めの達人。まさに違いがわかる男。本物と偽物が、一目で識別できる。素人と玄人の違いも、また見極めの違い。世界の王は、ギリギリまで球を見極めた。見極めきったところで、他の人にはないスピードでバットを振った。それがホームラン王と、普通のバッターの違い。極限まで見極めるということ。その見極める目が、すばらしい芸術作品を創り上げる。芸術家の眼光は、鋭い。みんな抱き参らせるだけでは、繊細な見極めはできない。アバウトでは、見極めは難しい。見極めることは、ある意味、努力の世界。細かく、細かく見つめていく。繊細に研ぎ澄まされていく。一点に集中されていく世界。一方の見守りは、努力では到達できない世界。いくら努力しても見守ることはできない。一切の努力が放棄された時、見守りが実現する。それは、時間ではなく、努力でもない。見極めは、努力の結果。時間の果てに時間を超える。見守りは、最初から時間の外。努力のない世界。ただ無条件に、すべてを包み込む。無条件の愛の世界。理由もなく、区別もなく、ただ受け入れる。すべてを無条件に抱きしめる。それが、見守りということ。空の次元。何もないところ。ただ愛があるところ。それは、夜空のようなもの。夜空は、数多(あまた)の星々をすべて無条件に包み込んでいる。あるいは、海のようなもの。海は、数えきれない生きものを自分のなかに抱きとめている。見守りとは、まるでお釈迦様の掌(てのひら)のようなもの。見極めとは、掌の上で飛び回る孫悟空。どこまで飛んでも、掌のなか。色は、空を超えられない。孫悟空が自我我欲に突っ走れば、自分で自分の首を絞めるようなもの。お釈迦さまだけでは、ドラマにならない。色と空、どちらも必要。両方があって宇宙は成り立つ。今の科学は、見極めに偏っている。今の医学も同様。「手術は成功しましたが、患者は亡くなりました。」何のための手術?「角を矯(た)めて牛を殺す」のが、今の医学。全体を見ないで、部分だけに目が行き過ぎている。いのちの本質を忘れ、部分だけを治そうとする。医学も科学も全体性を忘却している。もし全体性が理解されていたら、科学が兵器に転用されることはなかっただろう。科学が進歩すればするほど生活は便利になるが、一向に戦争は減らない。むしろ貧富の差が拡大している。科学の恩恵にあずかれない人も多い。見極めだけに意識が向くと、全体の調和が乱れる。部分を深めることだけに傾斜すると、全体のバランスが崩れる。これまで男性原理によって、どれだけの文明が崩壊してきたことか。全体の調和を忘れれば、やがて海底に没するしかない。何度も何度も繰り返してきた人類の歴史。自分さえよければいいというのは、部分の極致。それが、結局は自分自身を滅ぼす。個だけが繁栄するということはあり得ない。男性原理だけで突き進めば、やがて文明は崩壊する。常に女性原理と共に進まないと、人類は危うい。愛と共に進まない文明は、やがて空中分解する運命にある。すべてを抱き参らせて進まないと、結局はみんなが落ちこぼれる。これからは、男性原理と共に女性原理が大切にされる時代。すべてを抱き参らせて生きる時代。愛というベースの上に文化が築かれる時代。見守りのなかで、見極められる時代。空のなかに、色がある。色のなかに、四季がある。色とは、識別。違いの見極め。空とは、見守り。抱き参らせ。すべてを無条件で包み込むこと。色と空の調和。一人のなかに色と空がなければならない。それが同時に存在することが、新しい時代の必須条件。片方だけでは、また崩壊してしまう。千年王国を築くには、両方が必要。見極めるということは、かなりなされてきた。しかし、それは外側に限ったこと。自分自身を見極めることは、なされてこなかった。一部の人を除いて、大衆には縁のないことだった。これからは、自分自身を見極める必要がある。外側だけでなく、内側も見極める必要がある。それによって、人生を深く理解する。見守りの必要性を理解する。見極めるとは、自覚すること。明確に意識化すること。気づくことであり、理解すること。人生を深くわかること。個であり全体であるとは、見守りつつ見極めること。空のなかで色を生きること。男性原理と共に女性原理でもあること。すべてを抱き参らせながら、個性の花を咲かせること。だんだんと新しい時代の意識のあり方が、明らかになりつつある。これから更に明確になっていくだろう。新しい時代は、これまでとは意識の有様(ありよう)が異なる。今の意識の延長線上にはない。意識のシフトが起きなければ、アセンションは絵に描いた餅。フォトンベルトを待っているだけでは、何も変わらない。深く深く人生を理解する必要がある。自分自身を通して理解する必要がある。見守りながら見極める。すべてを抱き参らせながら、自分を生きる。愛のなかで、いのちを生きる。すべてと共に、今を生きる。『色(しき)は星 色(しき)は個別化 色(しき)は花 色(しき)は色々 色(しき)は移ろい』『変わらない 仏の御手に 抱(いだ)かれて 踊る悟空は ドラマの主役』『変わらない ものは見守り いつの日も 抱き参らせ 包み込むだけ』『見極める だけでは足りない 見守りが 同時にないと バランス崩す』『色であり 空であるとは 個であって 全体である 別の言い方』『見守りは 時間を超えて 始めから 終わる時まで 愛としてある』これが日記を書き始めて1214日目の心境。
2008.04.29
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波紋がある。いちばん内側が、表面意識だろうか。そして、波紋の外側が、神の意識。空の次元。波紋のなかは、色の世界。何層もの波紋は、次元の違い。次元の実体は、波動の違い。荒いものと繊細なもの。中心に近づくにつれて、波動は荒くなる。外側は、精妙。波紋の外になると、波動がないに等しい。果てしない静寂の世界。人は、何層もの意識と共にある。すべての波紋が、中心の波紋に浸透している。人は、波紋の集大成。全意識の結集体。実は、中心の波紋のなかにも、さらに細かな波紋がある。思考、感情、感覚などという意識の波紋。更に肉体の意識の波紋もある。人は、意識の総合体。見守りの意識とは、中心の波紋よりも外側の波紋。ある時は、ハイアーセルフの意識かもしれない。ある時は、魂意識かもしれない。ある時は、グループソウルの意識かもしれない。また別の時は、波紋の外の神の意識の時もあるかもしれない。見守りの意識と一口に言っても、実体は多様。確かなことは、表面意識よりも大きな意識であるということ。表面意識よりも大きな意識が、表面意識を見守っている。大きな意識に見守られて、表面意識は、この世で行動する。試行錯誤を重ねながら、状況を見極めようと努める。見極められれば、行為は自然に起きる。見極めの程度に応じた行為が起きる。どこまで深く見極められるか。どこまで全体的に見極められるか。それは、見守りとも関わってくる。個だけで見極めようとする時、極めて狭い視野となる。大きな見守りのなかで見極めようとする時、より全体が見渡せるようになる。全体を見渡したうえで、更に細かく見極めていく。マクロとミクロ。全体のなかの個。見守りと見極め。大きく見守りながら、こまやかに見極める。主観だけにならないように自分自身を見守りながら、繊細に見極める。全体の調和を見守りながら、個々の状態を見極める。中心の波紋であると同時に、波紋全体であることが求められる。個であり全体であるとは、そういうこと。表面意識だけでなく、大きな意識と共にあること。そうでないと、全体と調和して生きることは難しい。一合目での見晴らしよりも、五合目での見晴らしの方がよいに決まっている。五合目での見晴らしよりも、九合目での見晴らしの方が更によいだろう。しかし、残念ながら九合目でも、山の反対側は見えない。頂上まで登らなければ、全体を見渡すことはできない。九合目からは、一合目はよく見える。しかし、頂上やその反対側は、推測するしかない。全体が見えるのは、頂上だけ。波紋の外側だけが、全体がわかる領域。波紋の外側から見守れれば、言うことはない。しかし、実際は、そこまではなかなか行けない。途中の波紋から見守っているのが実態に近い。表面意識よりも大きな波紋から見守っているというのが実態だろう。別にそれではまずいということではない。見守りの意識があることによって、人生のバランスが保たれる。調和のうちに生きることができる。見守りと見極めは、車の両輪。個というのは、表面意識。見守りの意識は、たぶん個人差があるだろう。ハイアーセルフレベルの人もいれば、魂意識レベルの人もいるだろう。更に全体に近い意識の人もいるかもしれない。要は、表面意識よりも大きな意識で包み込みながら見守るということ。見守る意識に限界はない。限りなく広がっていく。無限と共に自分自身を見守る。見守りと同時に行為がある時、意識の変容が起きる。大いなる意識と共にあって行為が為される時、普段の意識とは異なる。個と全体が融合したような不思議な意識状態となる。トータル感覚。波紋の外側と一緒にいるような気持ちで見守ることだろうか。山頂から見渡すような気分で見守ることだろうか。そうすれば、ゆったりと生きられるだろう。調和のなかで生きられるだろう。『見守りは 波紋の外と 共にいて 波紋の内を 眺める気分』『見守りと 同時に波紋 そのものと なって望みの 現実創造』『頂上に いながら麓(ふもと)で 生きるのが 見守りながら 見極めること』『全体を 見守りながら 今ここを 見極めながら 生きる人の世』『個であって 全体である その時に 意識の変容 自然に起きる』これが日記を書き始めて1213日目の心境。
2008.04.28
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数日前に次のようなコメントがあった。「今日の日記は、とても未消化で考え込みます。私は根本的に、循環ということが理解できない、したくないのだと気付きました。だから敢えて今まで、環境問題は避けていたし、どちらにしても人間を支配者階級だと思っていました。木だけで考えても、過剰包装を止めましょう、割り箸の使用を止めましょう、という運動があります。いいことだと思う。減らせるなら、木の伐採に繋がらないのはいいことだ。今日の日記で出てきた、剪定することで木の寿命を延ばしてやる、というのはわかります。これは除外。けどそれ以外・・・減らすのはいいけど、減らせばいいのか。食事用の野菜(肉も)ならいいのか。更に、人間にとって価値ある物のためならいいのか。これらは、樹木本人にも地球にも聞いた事がないのでわからない。人間が独断で判断します。うーん。きっとこんなこと、環境問題を考える人にとっては初歩の初歩だと思います。私は今日の日記で出てきた『見極めること』の意味がわかりませんでした。おそらく循環という意味もわかっていないのだと思います。どうしても・・・必要悪(すみません)という意味にとれてしまいます。創造と破壊・・・共存とか、主役は誰かとか・・・とても混乱しています。何回でも日記を読み直し、出直して参ります。今までは本当に、何も考えず、人間はトップに立つ支配階級なので、自分たちで決めていいんだ、ただ、地球を自分たちの資源として、破壊し尽くさないように利用しよう、そんな意識しかありませんでした。なので、切られた木や水晶が可哀相に感じる感性もなかった。大事に使うのが必要なのはよく理解してます。濫用乱獲すれば滅びる。今まではそこまでしか考えなかった。今日の日記で、『本当に人間が主役でいいのか?』と突然疑問を感じてしまいました。地球にあるものは素材なのか。あるいは意志のある人間と対等な存在なのか。(人間が勝っていることを承知で言う欺瞞ですが)」わからなくなるのは、悪いことではない。わからなくなったら、もう一度ゼロから見直してみることになる。そこから気づきが生まれる。人生の理解が深まる。日本人は、長い間、自然と共に生きてきた。自然を支配しようとはしてこなかった。一方、欧米では、自然は征服する対象だった。だから、幾多の山々に登頂しようとしてきた。日本では、山は神々の降りるところ。麓から崇めるのが、普通だった。日本の自然には、八百万の神々が住んでいた。だから、自然を大切にした。どちらが主役?ということもない。どちらが上で、どちらが下ということもない。手と足では、どちらが上で、どちらが下だろうか。肝臓と腎臓は、どちらが上で、どちらが下だろうか。脳と心臓は?片方がなくても人間は生きていけない。両方とも必要に決まっている。手の指の一本がなくても不自由。どれも大切なもの。宇宙は、人体のようなもの。どれもが必要なもの。しかし、髪の毛は抜けるし、爪も伸びる。そういうものがなくなっても、本体に支障はない。新陳代謝というものがある。常に入れ替わっている。常にベストの状態であろうとしている。創造と破壊が、常時進行している。創造と破壊が止まれば、それは死を意味する。変化こそが生命というもの。すべては循環して存在している。その流れを止めないことだろうか。食べ過ぎれば、病気になる。循環が滞れば、健全な状態は維持できない。森を切り過ぎても、自然体系は壊れてしまう。魚を採り過ぎれば、魚が採れなくなる。根絶やしにすれば、再生不能となる。自然のメカニズムを理解する必要がある。自然のメカニズムを理解して、自然と共に生きていく。どちらが主役ということはない。共に生きていくだけ。自然の循環が滞らないように、調和点を見い出しながら生きていく。それには、常に注意が必要。意識の繊細さが求められる。自我我欲に走れば、やがて自分の首を絞めることになる。今の人類のように。いや、これまでの人類のように。これまで多くの文明が、自我我欲によって滅びてきた。地球の自然体系を考慮することなく、過度の自己満足に耽ったため。ムーもアトランティスも海底に没した。自然と共に、地球と共に生きなければ、やがて人類は絶滅する。まだまだ未熟な人類。目先の利益しか考えない。小さな小さな自己満足。意識が肉体や物質だけに限定される時、全体のバランスを見失う。地球全体や他の星々に意識が及ばない。宇宙の成り立ちを理解できない。単なる個として生きているだけ。個であると同時に全体であることは、誰が主役で誰が脇役ということはない。それぞれに役割があるだけ。上下関係はない。担当の違いだけ。屋久杉から、すばらしい芸術的な壺を作る人がいる。その人は、購入した原木を何年も眺めている。その原木が、どういう姿になりたいか語り始めるまで待つ。その原木の希望を叶える。原木を活かして使う。けっして自我我欲で高く売れるものを作ろうとはしない。屋久杉の特徴を活かす。屋久杉が、この後、何千年も生きれるように。屋久杉を屋久杉として活かす。屋久杉の個性を花開かせる。けっして自分の都合で切り刻まない。素材を活かす。それは、料理についても言えること。人を使う時にも適材適所というものがある。自分自身についても、向き不向きがある。自分を活かし、人を活かし、すべてを活かす。自我我欲で必要以上に破壊しない。肉体も酷使すれば、壊れてしまう。動と静のバランスが不可欠。何事も調和点を見い出す。教科書は、どこにもない。自分の感性で、日々、バランスを取っていくしかない。それには、深い理解が必要となる。人の理解と自然の理解。調和やバランスは、学校では教えてくれない。自分自身で探究するしかない。試行錯誤を重ねて体得するしかない。都合のよい公式は存在しない。日々、状況を見極めて生きていくしかない。調和とバランスを見極めていくしかない。荒っぽく生きないことだろうか。自分自身で日々の調和とバランスを探ることだろうか。屋久杉で仏像を彫る人も、屋久杉の木目を見極めて、何を彫るかを決めると話していた。闇雲に彫ればいいというものではない。やはり、見極めが大切になってくる。それも深い見極め。どこまで深く物事を見極められるか。それによって人生が違ってくる。深く深く見極めていけば、いのちを感じられるだろう。いのちに上下などあろうはずもない。共に生きることしかできない。お互いに活かし合うことしかできない。お互いのためになるように生きるしかない。お互いがお互いを活かし合う。人は、特別ではない。単に波動の違いに過ぎない。密度の違い。人でさえ、大きな意識から見たら小さなアリのようなもの。「一寸の虫にも五分の魂」すべては、霊からできている。霊とは、零。つまり、0。0とは、何もないこと。つまり、空っぽ。空ということ。分離のないスペース。一、二、三・・・に分かれる以前の、ひとつ。宇宙創造以前。まだ色のない世界。それが、すべての素材。すべての元は、ひとつ。素材とは、霊=0=ひとつ。みな同じ。それが、すべての源。それが個別化すれば、色。元の素材は、すべて空。空を色付けしているだけ。お絵描き?宇宙は、お絵描き?いかに調和した絵を描くか。いかに美しい絵を宇宙空間というキャンパスに立体的に描くか。光に満ちた絵…しかし、光に満ちた絵を描くには、闇も必要。現象世界は、相対界。この世に絶対はない。変化変滅しかない。しかし、それは色の世界だけを見ているから。空の世界には、変化変滅はない。ただ愛があり、ただいのちがある。すべからく霊が浸透している。全体と共に個を生きる。調和のなかで現実を創造する。見守りながら、見極める。いかに深く見極められるか・・・全体との調和のなかで生きていく。それには、深い理解が欠かせない。見極めが不可欠。静かに見守りながら見極めることだろうか。やがて、見守りと見極めは溶け合っていく。ひとつに収斂していく。元々がひとつのものだから。色も空もない。ひとつのものの無限の分かれ。ひとつのものの限りないバリエーション。それが、創造宇宙。壮大なドラマ。自然界の産物でさえ、何かが創ったもの。人を超えた意識存在が、クリエイトしたもの。本当は、自然の産物などはない。どこかで意識が働いている。天使もいれば、竜神もいる。生命進化の担当もいれば、気象の担当もいる。地球の意識さえある。大きな大きな意識が、人を包み込んでいる。壮大な宇宙絵巻。それを楽しみながら、共に描いていく。自分のパートを楽しくこなす。全体と繋がりながら、個性の花を咲かせる。『いろいろな ものを見極め 活かしつつ 調和のなかで 個性咲かせる』『できるだけ 深いところと 繋がって 全体感じ 宇宙創造』『壮大な コラボレーション 宇宙とは 多層多次元 曼荼羅(まんだら)宇宙』『大切な ことは調和を 見つけつつ 個性を活かして 生きていくこと』『素材とは 宇宙のすべて 壮大な お絵描きこそが 神の楽しみ』これが日記を書き始めて1212日目の心境。
2008.04.27
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この日記は、2005年から書いている。スタートしてから既に3年が過ぎた。この日記を読んでいると、どうなるだろうか。はっきり言えることは、ただ一つ。自由になる。これまでの思い込みが外れ、より自由に生きれるようになる。ただそれだけ。それ以上でも、それ以下でもない。自由になることは、良いこと?というわけでもない。良いも悪いもない。ただ既成概念から解放されるだけ。生まれて今日まで、無意識に身に付けてしまった様々な思い込み。その数は、計り知れない。実は、大多数の人は、そういうものにがんじがらめになっている。自分は自由と思っていること自体が、思い込みに過ぎない。人は、過去の経験に縛られる。社会の価値観の影響を受ける。両親からの無意識の刷り込みがある。学校教育による価値観は、潜在意識に深く刻まれている。道徳や宗教や社会常識・・・友人知人の価値観の投影。マスコミからの情報の洪水。人の意識の大部分は、そのようなものに占拠されている。成長過程で身に付けてしまったものを削ぎ落とす。もう必要のないものを取り払う。自分を守るために無自覚のままに取り込んできた多くのパターン。見下したり、卑屈であったり・・・自分を保護するために必要と思い込んでいた重い鎧。二重、三重、厳重警戒。心をオープンにすることは、稀。心は、いつも半開き。宇宙創造とは、自分自身の創造をも含む。人格は、可変的。けっして固定しているものではない。時間と共に、人生経験と共に変化する。どのような自分にしていくか、それも変更可能。どんな自分もクリエイトできる。自分の望むままに。但し・・・自我のままに突っ走れば、苦しみの人生となる。自己中心的に生きれば、周りとの軋轢は避けがたい。他の人のためと思ってやることでさえ、摩擦が起きかねない。なぜ?それぞれの価値観が異なるから。良かれと思ったことが、別の人には良くないことも多々ある。自分の価値観をベースに生きると、足元をすくわれる。自分の望む人生を創造すればいいのだが、そのためには・・・いくつかの前提条件がある。まず人生を深く理解する必要がある。人生を理解するとは、人を理解すること。人を理解するとは、結局、自分自身を理解すること。自分自身を深く理解しない限り、周りとの軋轢は避けがたい。自分自身を深く理解していけば、いかに余計なものをたくさん身に付けていることか・・・それが自分を縛り、周りとの軋轢を生み出していることに気づく。そこから再スタート。真の人生が、始まる。自分で主体的に生きる人生の始まり。それまでは、無意識のうちに条件づけられた人生。自分が環境の産物であることに気づいていない人生。気づいて、必要のない既成概念を外す。それは、客観的に見れば、先入観であり偏見。自分だけが、それを正しいと信じ込んでいたもの。常識であり、当たり前であると思い込んでいたもの。そういう身に付けた余計なものを削ぎ落としていく。どんどん必要のないものを削り落す。その時に多少の痛みを伴うかもしれない。あるいは、スッキリさわやかな気分が味わえるかもしれない。いずれにしても、時代は軽くなることを求めている。それが正しいからではなく、そういう方向に地球や太陽系は動いている。そういう流れに逆らえば、抵抗が増して苦しくなる。時代の流れと共に生きるのが、最も楽に生きる道。時代の流れと共に生きるのは、自然なこと。全体の流れと共に生きるのが、全体の一部である個としてのナチュラルな生き方。全体から分離し、個だけで生きるのは孤独地獄に自ら落ちるようなもの。全体と共に生きるのが、幸せの道。共感し、共有するのが、幸せというもの。自分一人の幸せなどというものは、あり得ない。みんなと一緒の幸せしか存在しない。それが、真実。創造する。自分の望む現実を創造する。全体と繋がりながら創造する。常に新しく創造する。それが、生きるということ。周りと調和して生きるということ。地球や太陽系と共に生きるということ。宇宙の流れと共に生きるということ。真に生きたかったら、自分自身を理解するしかない。自分自身を理解していけば、余計なものを手放すしかない。不必要な思い込みを削ぎ落として、軽くなるしかない。軽くならなければ、宇宙の流れと共に生きることはできない。時代は、軽く速くなっている。波動が、更にこまやかになっている。繊細に精妙にならなければ、時代に取り残される。重たくて固いものを、いつまでも持っている時代ではない。自分自身を純化させる。自分自身を新たに創造する。軽やかで精妙な自分自身に創り直す。現実創造。全体と繋がりながらの現実創造。宇宙の流れと共にあっての現実創造。愛や調和に包まれた現実創造。それが新しい時代の現実創造。自分を見守りながら、現実をクリエイトしていく。親のような大きな眼で自分を包み込み、見守りながら生きていく。すべてを抱き参らせて生きていく。見守りながら、望む現実を創造していく。『いつまでも 重たいものを 持ってると 次の時代に 取り残される』『必要の ないものすべて 手放して 軽く明るく 楽しく生きる』『創造は 外側だけとは 限らない 自分自身も 創造対象』『思い込み 外していけば 軽やかに さわやかになる 時代と共に』これが日記を書き始めて1211日目の心境。
2008.04.26
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コメント欄に次のような書き込みがあった。長いけれども、そのまま引用する。「実は、水晶ライフの日記が、きちんと読めませんでした。読んでいると、何かわからないもやもやしたエネルギーが動き始めて・・・つらくなって、私の何かが塞がってしまって・・・それで、そのまま下のえっちゃんのコメントを読んだ時、そこでまた光が戻ってきて、すごく救われた感じで、また、えっちゃんのコメントが心にじ~んと沁み入って・・・涙が出て、光に包まれました。本当に救われたのです。水晶を調整するというのは以前の日記でも読んでいましたが、水晶ライフの日記で大幅にカットするという部分を読んだ時、まるで私が切られるかのような感覚に陥ったのです。精神波形が、その時大きく乱れる感じ。サポートの日記の調整する部分も、読んでいると私の中の何かが切り取られるような、割れてしまうような感覚になって、すごくキツイんです。エネルギーが遮断される感じ。水晶ライフの日記を読んだ時、どうしてす~っと文字が入ってこないんだろう、kimiさんの日記なのに、なぜ言葉が入ってこないんだろう、このもやもやした私の感覚は何だろう?って思いました。そして、サポートの日記を読んで、わかりました。水晶を調整するということが、自分を調整させられているような感覚になるのだと・・・木を剪定する時、切花を活けるときに余分な茎を切る時、植物の心が一瞬すごく悲しみに覆われるのを感じるのです。それで、私もすごくつらくなって、『ごめんなさい、ありがとう』って、心から謝って、感謝して、切らせてもらいます。余談ですが・・・だから、kimiさんも書かれているように、この日記を読んで、少しホッとしました。切り取られた部分が、宇宙で光になり、またそれら自身が宇宙の呼吸と共に呼吸し、輝き始めるのであれば、私自身が救われたような気持ちにもなりました。良かった・・・本当に・・・夢を見てシェアしてくださった方、本当にありがとうございます。でも、少し、私の気持ちの上で影が残ってしまう感覚も、正直、あります。水晶の真正、真性、神聖な姿、本来の光り輝く姿を現すのも、水晶にとっても、それがいいのかもしれない。また、循環する、また、サポートしあうというエネルギー的なところから感じても、とても融和する感じを受けます。お互いの光が惹き合い惹かれ合い、調和するような・・・美しいです。でも、白濁していても、折れていても、そこをまるごと含めてエネルギーを受けることはできないのだろうか・・・大和心が、すべてを包み込み抱(いだ)きとめ、大宇宙に調和するように・・・そういう部分も、すべてが美しいと抱きとめるのは、水晶はまた違うのだろうか。そんな疑問も、残ってしまったのでした。もちろん、私は、kimiさんがどれほどの水晶のエネルギーを感知しておられて、また、多次元宇宙とどれほどの繋がりをされているのか、知る術もありません。きっと、私の遥か想像も及ばないような、そのようなエネルギーと交信されているkimiさんである と、いつも感じさせていただいています。ですので、とても素人的な発想であり、感じ方であり、全くズレたことを言っているとも思っています。が、そのように感じられた私の素直な気持ちを、シェアしてみました。」すべてを抱き参らせる。すべてを見守る。この日記で、さんざん書いてきたこと。しかし・・・それだけでは足りない。それだけでは宇宙は成り立たない。では、何が足りないのだろうか。どうして宇宙は成り立たないのだろうか。ただ見守るだけでは、創造は起きない。すべてを抱き参らせているだけでは、宇宙は変化しない。そこには、創造原理が欠けている。それでは、創造宇宙は現成しない。自然は、新陳代謝を繰り返している。台風が来れば、巨木もなぎ倒される。その巨木の倒れた上から、また新しい芽が出る。原生林は、自然に更新されている。枯れかかった木がある。自然の状態では、枯れてしまう。思い切って枝葉を剪定する。大胆に枝葉を切り取る。そうすると・・・新しいいのちが芽吹く。古い枝葉があったのでは出てくることができなかった新しいいのちが、芽生える。起死回生の奇跡が起きる。重病になった時、断食療法というものがある。断食すれば、生命力が活性化する。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされて、いのちは必死に生きようとする。それが病気を治す。淡々と死を受け入れるのもいい。従容として死んでいくのも悪くはない。すべて抱き参らせ。何もしないのも、それはそれでいい。しかし、アクションを起こし、新たに生き直すのも、またいい。ただ見守るだけでなく、新たな人生を創造するのが個としての役割。宇宙を創造するのが、個。それを見守るのが、全体。原石を見守っているだけでは、芸術作品は生まれない。石を切り刻まないことには、ミロのビーナスは誕生しない。屋久杉を加工しないことには、芸術的な屋久杉の壺はできない。屋久杉の美しい木目を生かした壺は、自然の状態ではあり得ない。ほとんどの宝石は、原石を研磨してある。ダイヤモンドも磨かなければ、ただの石。美しい宝石にはならない。もちろん、そのままで美しいものもある。そのままでも美しい。研磨しても美しい。折れた水晶から、また新しい水晶が出てくることもある。いろいろな成分が溶け込んだ濁った水晶から、色の付いた美しい水晶が生まれる。自然は、すばらしい。だから、自然のままでもいい。しかし、それだけでは人類の文化というものは存在しない。人類の存在価値はない。木を切らなければ、家さえ造れない。土をこねて焼かなければ、茶碗さえできない。それは、ある意味、自然破壊とも言える。創造とは、破壊の別名でもある。石を削って、芸術作品ができあがる。削られた石は、どうなるだろうか。また自然に還って、別の姿に変わっていく。それは、自然現象としても起こっていること。破壊と創造は、表裏一体。生と死が表裏一体であるように。破壊がなければ、創造もない。いつまでも同じものがあったのでは、創造はあり得ない。破壊と創造は、同時進行。インドのシバ神は、破壊の神であり、創造の神でもある。創造とは、破壊の別名。創造と破壊は、個別化ということ。見守りや全体には、創造や破壊はない。ただすべてを受け入れるのみ。ただそのまま見守っているだけ。しかし、それでは宇宙創造はあり得ない。個と全体。見守りと見極めは、車の両輪。両方がないと、宇宙の創造はできない。見守りだけでは、見守る対象がない。すべてを抱き参らせることも必要。しかし、それだけでは宇宙の生成発展はない。創造宇宙は、個によって成し遂げられる。全体は、見守るのみ。創造とは、個別化。見極め。見守りとは、全体。抱き参らせとは、愛。見守りという女性原理と共に、創造・破壊という男性原理も必要。女性から男性は生まれる。元々は、両性具有。ひとつ。しかし、ひとつでは、創造宇宙はできない。ひとつが、いくつにも分かれて創造宇宙が成り立つ。個別化とは、創造原理。個性こそが、創造そのもの。自然のままでもいい。破壊して新たに創造してもいい。片方に囚われないことだろうか。全体を理解することだろうか。自然のアートもある。人間のアートもある。人は、霊止。霊止のアートもある。霊止のアートとは、神のアート。創造宇宙は、神のアート。破壊も、神の為せる業。壊して創る砂遊び。見極めるとは、純化すること。純化するとは、分別すること。何かを際立たせること。そのためには、余計なものを削り取るしかない。削り取られたものは、また宇宙に還る。また創造の素材となる。ただそれだけのこと。元々、すべては素材。その素材を使って、個性的なアートを創っているだけ。創造宇宙とは、そのようなもの。個であり全体であるとは、そのようなこと。全体のなかで個性を発揮しているだけ。全体と共にあって、個性の花を咲かせる。すばらしい創造のアートを花開かせる。削り屑を気にせずに。削り屑は形を変えて、また別のアートになるだけのこと。全体という素材から、個というアートを創造する。それが、創造宇宙。主体的に創造してもいいし、それを見守ってもいい。創るものと見守るものの両方が必要。人は、個であり全体である。人は、見守るものであり、見極めるものでもある。人は、創造するものであり、それを見て楽しむものでもある。人は、すべてを抱き参らせるものであり、個の花を咲かせるものでもある。人は、創造原理そのもの。人のなかに、すべてがある。人は、神の子であり神そのものでもある。個であり全体である。個とは、子。全体とは、親。人は、子でもあり親でもある。親が子を産み、子が親になる。宇宙は、極めて単純にできている。理解されれば、難しいことはない。見守りながら見極める。全体と共に個として生きる。『木の奥の いのちの息吹 見極めて 剪定をする 古きを除く』『古きもの 取り除く時 新しき いのちの息吹 吹き出してくる』『奥の奥 その奥までも 見極める 見極めるとは そのようなこと』『見極めて 見極めきれば 純粋な きらめく光 そこにあるもの』『見極めて 見極めきれば その先に 神の宿りし 光あるもの』『純化して 見極めきった その先は 分離が消えて ひとつに溶ける』『個としての 創造だけに こだわれば 分離生み出す 破壊に終わる』『個であって 全体である その時に 破壊即ち 創造となる』『調和した 世界生み出す 前提は 古き残滓を まず壊すこと』『思い込み 気づいて外す 作業こそ 新たな時代 創る前提』『古いもの 削り落せば 新しい 時代のための 素材に還る』『限りない 素材を使い 自(みずか)らの 個性の花を 咲かせ楽しむ』『すべからく 見守りながら 見極める すべてと共に 個として生きる』『個であると 同時にすべてで あることが 宇宙の原理 創造原理』これが日記を書き始めて1210日目の心境。
2008.04.25
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今日の屋久島は、久しぶりに晴れています。ここのところ雨続きでした。昨日は、嵐のような雨と風でした。やっと、新しく届いた水晶の浄化に行けそうです。牡牛座の水晶祭りに出た水晶たちは、屋久島で最後の日光浴をしています。屋久島へ来て何度目の日光浴でしょうか。最初は、着た直後に海と川で浄化した後でおこないます。水晶祭りに出ることが決まってからだけでも二回目です。最低三回の日光浴をしているのは間違いありません。古くからいる水晶は、もっとたくさんの日光浴をしていることでしょう。月光浴も、水晶祭りに出ることが決まってから二回やりました。満月と、その前夜に。海と川での浄化も、最低二回はしています。屋久島にやって来た直後と、旅立つ直前です。長くいる水晶たちは、その他にも何度も屋久島の自然を体験しているでしょう。朝の太陽や満月の光を何度も受けたことでしょう。後は、光を入れて送り出すだけです。今日の午後か明日ぐらいから始めることになるでしょう。毎月やっていることです。水晶循環。水晶に関して、次のような質問が寄せられました。「私、今回、ローズ・シトリンを注文したら、kimiさんからメールで、波動は合っていたのですが、もっと合っていた人がいて、残念な結果だったのです、よ~~。質問ですが、水晶さんとピッタリ合う人の波動の違いって、どんなものか解かるような解からないような・・・ 水晶さんと感性が合うような波動になりたいけど、どうしたらいいのでしょうか? セミナーで光を入れるとか、繊細・微細なエレルギーとか、解かるような解からないような、自分のなかでもやもやして会得できない感覚があります。質問自体が違う性質のものを一緒にしてるようですが、整理していただければ教えてください。」リクエストした方と水晶の波動が合っているかどうか・・・リクエストがダブった場合は、公式には抽選ということになっています。でも、実際は抽選はしていません。最も水晶と波動が合う人のところへ行くだけです。では、誰が最も水晶と波動が合うのでしょうか。それをどうやって見分けるのでしょうか。それが質問の趣旨ですね。また、水晶と波動が合うようになるには、どうしたらいいのかということも含まれていますね。二週間ほど前に屋久島を案内した方がいました。その方は、こちらから送った水晶を持って来られていました。実際にお会いしたのは、初めてです。でも、その方は、その水晶ととてもよく合っていました。リクエストされた時点では、名前だけしかわかりません。名前と水晶を見比べて、誰が最も合っているかを探ります。名前と水晶を交互に見ていると、なんとなくわかるものです。科学的根拠はありません。あくまでもなんとなくです。でも、実際にその方にお会いし、水晶を見ると、それが間違っていなかったことがわかります。最も波動が合う人の根拠はありません。なんとなくわかるだけです。水晶も個性があります。人も個性があります。水晶に合わせるために自分を変える必要はありません。今の自分に必要な水晶と出会うのです。それは、人との出会いと変わりません。必要な時に出会い、また別れます。必要な間だけ一緒にいるのですね。それが出会いの不思議です。水晶や人と出会うことによって、自分のなかに潜在していたものが引き出されます。出会いとは、引き出し合いですね。相手のすばらしいところを、お互いに輝かせるのです。磨き愛、輝かせ愛。水晶を眺めていると、自分のなかに内在していたものがあふれ出てきます。より明確になっていくのですね。自分の意識のなかで、きちんとした位置を占めるようになります。水晶の波動とリンクするのです。人との出会いも同じです。その人といることによって様々な刺激を受けます。自分のなかにあったものが引き出されます。内在していた可能性が花開くきっかけとなるのです。水晶祭りでは、同じ水晶にリクエストが集中する傾向があります。特にトップページに掲載したものには、リクエストが集中するようです。美しいものや光り輝くものに惹かれるのは、無理からぬことです。でも、自分の感性を大切にすることですね。今の自分にとって必要なものを選ぶことです。自分が最も惹かれるものを。トップ写真や写真の美しさに惑わされないことです。静かに水晶を感じてみることですね。リクエストがダブったものは、最も水晶と波動が合う人のところへ行くことになります。依怙贔屓(えこひいき)は、一切ありません。まったく私情は交えません。客観的にやるだけです。私情を交えると、自分が苦しくなります。不自然なのですね。すべてが複雑になって、混乱します。無私でやるのが、一番シンプルです。もし私情を交えれば、秘書のぴあのさんは、毎回、望み通りの水晶を手にすることができるでしょう。しかし、現実は・・・けっこう「残念でしたメール」が多いのですよ。今回もアメジストエレスチャル(しずく)は、ぴあのさんのところへは行きませんでした。人気ベスト3が、次々と行く人もいます。毎回リクエストしたものが届く人もいます。ところが・・・そういう人も、突然、リクエストしたものが届かなくなったりするのです。天の時、地の利、人の和。何事もタイミングというものがあります。天は、一人の人だけに依怙贔屓することはありません。必要なものが、必要な人のところへ届くだけです。宇宙の流れと共に生きるしかありません。無理をしないで、楽しみながら生きることでしょうか。自然を楽しみ、水晶を楽しむ。縁があるものは、きっとやって来るでしょう。取り敢えずは、自分が惹かれるものをリクエストしてみることですね。縁があったら届くでしょう。縁がなかったら届きません。ただそれだけのことです。誰かが縁を決めているわけではありません。それこそ遠い過去からの縁なのですね。これまでの生き方の集大成です。誰にも文句は言えません。まあ、悠然と縁のあるものがやって来るのを待っていればいいでしょう。焦ることも慌てることもありません。必要なものは、必要な時にやって来ます。自分でそのようにプログラムしているのですから。自分を信頼することですね。何も問題はありません。すばらしい人生です。今日は少し風が強いですが、さわやかに晴れている屋久島です。『縁のある ものは自然に やって来る 縁を大事に 生きればいいだけ』『これまでの 生き方問われる だけのこと 縁とは過去の 集大成』『なんとなく わかってしまう ものだから 波動ごまかす ことはできない』『生き方が 波動に出てる だけのこと 襟を正して 生きるしかない』『無理せずに 焦らず慌てず 落ち着いて ゆっくり構えて 自然に生きる』これが日記を書き始めて1209日目の心境です。
2008.04.24
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昨日、水晶について書いた。そのなかで、水晶を調整することが出てきた。大きな水晶を、かなり削る。そのことについて、次のようなメールが届いた。「水晶祭りの前ですが、どうも残ってしまう夢を見て。私の目の前で、大きな水晶のあちこちがどんどん削り取られて・・・削り取られた部分は、その空間に、星から分裂して宇宙を漂うように独自の動きをしていたんです。まるで剪定するみたいに削り取られていたんです。切り取られ崩れ落ちた部分は、きれいに散っていき、そして、その水晶はとても美しく存在しているのを見たのですが。なんだ、kimiさんが削り取っていたんですね。私、このどんどん削り取られて、まるで崩れていくんだろうか?というような水晶の夢を見て、私自身、水晶を大事にしていないから、こんななるんだろうか?とか、私には、もう水晶がいらないということなんだろうか?とか、でも、すごいきれいに散っていくから、いいんだろうか?とか、すごい何日も考えてしまって(笑)たぶん、もう私には水晶がいらないんだろう、と勝手に決めてしまっていた。何度も何度も日常の中で湧き上がってくる、覚えていた夢だったから。日記を読んで、なんだこのことかと、ちょっとほっとしました。とても綺麗でした。その削り取られた水晶は、どこかへ消えていくの。そしたら、水晶が呼吸するようになるのです。固形ではなく、幻影でもなく、夢でもなく、現実でもなく、ユラユラとしていて綺麗だった。光は黄色とか薄い緑も見えてね。まるで、今からの新緑がきれいに生まれてくる季節の中で、光合成をして、ミトコンドリアが呼吸(???)するような水晶でした。」水晶を調整する場合は、かなり大胆にやることもある。普通は、ペンチで危険なところや尖ったところを折る程度。でも、たまには金槌を使って大きく調整することもある。その場合は、失敗することもあり得る。これまで何度も失敗している。大きく割れ過ぎる。大事なところが割れてしまう。真っ二つになる・・・いろいろ失敗を重ね、経験を重ねて、調整し続けている。稀に一個をまるまるダメにする時もある。思うように美しく割れてくれなかったり、繊細な部分が壊れてしまったり・・・泣きたくなる時もある。それでも、成功すると見違えるように美しくなる。濁った部分や折れた部分を取り外す。水晶は、意外と簡単に折れる。同時に形成された塊があるので、それを見極めて金槌を振り下ろすと、狙い通りに行くこともある。それでも、必要以上に割れてしまうことは珍しくない。にもかかわらず、調整する。水晶を美しくしたいからだろうか。でも、その時、ふと思うことがある。自然のままが一番いい?人間が調整しない方がいい?しかし、元々人間が山から掘り出している。その時点で、水晶を不自然に折っていることになる。今回のメールを読んで、少しホッとした。まさに水晶の剪定という感じだったから。剪定されたものは、宇宙空間に溶けていく。残った水晶は、呼吸を始める。まるで新しく生まれ変わったかのように、新鮮な呼吸を始める。新生!まるで、新星!そして、神聖!残った本体は、その本来の輝きを取り戻す。いろいろなもので覆われていたものが取り除かれ、水晶の真性が現れる。それこそが、水晶の真正な姿。新生であり、真性であり、神聖。水晶の新生物語。本来の水晶の輝きを表に出す。それが、調整ということ。助産婦?水晶をサポートし、サポートした水晶から、またサポートされる。お互い様?助け合い?ギブ・アンド・テイク?人と人との関係も似たようなものだろうか。その人の個性や本性を輝かせるサポート。お互いにサポート。ある人をサポートすることが、巡り巡って自分のサポートにもなっていく。循環。螺旋。進化。深化。宇宙は、巻貝のようなもの。巨大な巻貝銀河。台風のような渦巻き。ダイナミックなエネルギーの奔流。水晶と共に、生きていく。純粋な水晶の輝きと共に生きていく。すばらしい水晶たち。お互いにサポートし、サポートされながら生きていく。『水晶を より純粋に 純化して 真の姿を 表に現す』『その人の 個性輝き 本来の 姿現す サポートをする』『サポートし サポートされて 人の世は 磨き合いつつ 磨かれ合うもの』これが日記を書き始めて1208日目の心境。
2008.04.23
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今日の屋久島は、曇。時々、小雨が降っている。できれば水晶の浄化に行きたいのだが・・・新しく届いたものが、少し溜まっている。今回は、大きなものが多い。13cmから20cm前後。大きいので、かなり迫力がある。しかし、その分、価格も高かった。特に今回はシトリン(黄水晶)系が多いので、価格が跳ね上がった。天然のシトリンは、少ない。しかも、無研磨で自然結晶のものは、更に少ない。ローズクオーツに次いで少ないと言われている。良質の大きな天然結晶のシトリンは、なかなか見つからない。アクアマリン並みに少ない。ローズクオーツの結晶は、最近はよく見かける。もっとも、たいていは5cm以下で、極めて小さい。ローズクオーツの大きな天然結晶は、皆無に等しい。その点、シトリンは大きなものもある。ところが、アップされるとすぐに売れてしまうので、大きくて質の良いものを手にするのは至難の業。なかなか買いたくても買えない。今回は、大きなシトリンカテドラルが届いた。これは、なかなかすばらしい。以前、別のサイトで購入したものと同質。まるで隣で採れたかのような雰囲気。しかし、価格は、1.5倍もした。サイトによって、価格はまるで異なる。さすがに高いので、まだ売れ残っているものもある。シトリンにしては珍しい。もっとも、写真が悪いので売れないということもありそう。高いお金を出して買う気にはならないお粗末な写真。ネットショップというのは、写真に左右される。写真の撮り方が上手なサイトは、繁盛している。写真の撮り方が上手ということは、それなりの美的センスがあるということ。美的センスがあれば、それなりの水晶がセレクトされている。写真は、ウソをつかない。センスのない写真では、水晶の質も思いやられる。もっとも、不鮮明な写真から掘り出し物を探すという楽しみもないことはない。写真が不鮮明だと、ハイクオリティのものが売れ残っている場合もある。しかし、これにはかなりのリスクが伴う。稀に大当たりすることもあるが、外れることも多い。それは、水晶ライフの楽しみ。実物を見ないで買う限り、当たり外れは致し方ない。できるだけ確率を上げていくしかない。それには信用できる店で買うのが一番。しかし、安全第一だけでは、人生の面白みに欠ける。そこで、冒険することになる。そうなると、常に失敗の可能性が伴う。実は、かなり失敗もしている。今回も新しくオープンしたばかりのサイトから、シトリンを購入した。13cmほどもある天然シトリン結晶。これだけのサイズの天然結晶は、なかなかない。期待して箱を開けると・・・・残念ながら、外れ。裏側が、大きく剥離していた。剥離したところは、写真が不鮮明だった。美しいところだけが、強調されていた。もちろん、そのような解説もなかった。こういうサイトも、たまにある。そういうところからは、もう買わないことになる。やはり、良心的なところからしか買わない。誠意がないと、やがて見放される。誠実に生きるしかない。しかし、届いたものは、活用するしかない。じっと見つめて、その水晶の最も美しいところを見つける。最も美しいように台座を作る。それもまた楽しい。しかし、外れの水晶を調整するのは、なかなか骨が折れる。逆に、最初からハッとするような水晶もある。高さが26cmもあるスモーキーカテドラルが届いた。これまで買った中で最も大きい。下の方は、クラスター状になっていた。上の方は、透明度抜群。見た瞬間、これはすばらしいと思った。しかし、下のクラスターの部分は、折れたり濁ったりしていた。これを調整した。19cmにまでカット。重さは、たぶん半分以下になった。迫力は、ほとんど消えてしまった。しかし、ピュアーさは、何倍にもなった。すばらしいポイントに変身した。この水晶は、まさにアンテナ。多次元宇宙をキャッチするアンテナ。クオリティが、実にすばらしい。これから大活躍してくれそうな水晶。ポリッシュされた大きなシトリンも2本届いた。20cm前後もあり、迫力があった。しかし、クラスターになっていた一本は、下の方が白濁していた。22cmぐらいあったものを、15cmにまで大幅に調整。これで、非常にピュアーになった。しかし、その分、迫力は落ちた。どちらを取るか。美しい方を選択した。シトリンは、太陽のエネルギーを持つ水晶。浄化の必要がないと言われる稀有な石。普通の透明な水晶は、浄化用。周りのエネルギーを吸収して、その場を浄める。そのため、定期的に水晶を浄化する必要が生じる。そのままでは、周りのエネルギーを吸収して波動が落ちてしまう。たまに浄化して本来の状態に戻す必要がある。ところが、シトリンは、その必要がない。なぜかと言うと、常に太陽のエネルギーを放射しているから。周りのエネルギーを吸収するというより、自分のエネルギーを放射している。だから、浄化する必要がない。それほどパワフル。シトリンの効果は、計り知れない。まず、周りの人を元気にする。活気を与え、明るくする。なにしろ太陽のエネルギーなのだから。そして、現実化の石でもある。成功、繁栄、達成・・・ありとあらゆるこの世の豊かさをもたらす。豊かさの象徴みたいな石。精神的にも物質的にも、人を豊かにする。ポジティブそのもの。ネガティブの欠片(かけら)もない。常に明るく輝いている。暗い人や元気のない人には、お薦めの水晶。見ているだけで元気になる。心が明るく朗らかになる。何でも笑い飛ばせるようになる。シトリンが見えるところにあるだけで、心身を活気づけてくれる。あまり暗く沈むことがなくなる。まさに太陽のような存在。常に心身にエネルギーを充電してくれる。ポリッシュされたシトリンであれば、かなり売られている。もっとも、きれいなシトリンは少ない。熱処理や放射線によってアメジストを人工的にシトリン化したものもある。特に中国産は、要注意。美しい六角形に結晶したシトリンは、希少。美しくて大きなものは、滅多にない。みんながほしがるので、稀に見つけると、たいていは売れた後。アップされた直後に見つけない限り、購入するのは難しい。しかし、見ているだけで何とも気分が良いので、求め続けている。自宅には天然結晶が、大小10本ぐらいある。ポリッシュしたものは、5本程度。いずれも、苦労して集めたもの。これらのシトリンも、順次水晶祭りに登場するだろう。毎月、最低でも一個は出したいと思っている。ローズクオーツやアクアマリンと並んで超貴重な石。貴重だけれども、回転させるしかない。最近は、大きな水晶をほしいと思っている。多次元宇宙と繋がるアンテナとして。しかし、大きくなればなるほど、美しいものは少なくなる。いろんなものが混入し、濁ってしまう。大きくて美しいものは、稀。しかも、できればカテドラルをほしいと思っている。更に発見するのが難しくなる。それに比例して価格は格段に高くなる。それでも、これからも探し続けるだろう。当分は、水晶マニアが続きそう。お金が続く限り?ここのところ買い過ぎて、来月は・・・なんとカードの支払が、40万円を超えそう。さすがに、これは買い過ぎ。この他にも現金でも買っているのだから。もう少しセーブしないと・・・でも、美しいものを見ると、買いたくなる。その場で買わないと、美しいものはすぐに売れてしまう。躊躇していると買い損ねる。即座の決断が求められる。そのくらいの集中力がないと、本当に良いものは買えない。お金があるだけでは、良い水晶はやって来ない。それは必要条件ではあるけれども、十分条件ではない。やはり、縁というか出会いがないと、すばらしいものは集まらない。人も水晶も同じ。出会いと別れ。すばらしい出会いがあり、すばらしい別れもある。よろこんで引き取ってもらえる時、うれしい別れとなる。水晶祭りは、楽しい。儲かることはない。でも、水晶が回る。おかげで新しいものに出会える。美しいだけではない水晶たち。それぞれの役割や効果を持つ水晶たち。一緒にいて飽きない。もうしばらくは、水晶ライフが続きそう。『太陽の エネルギー持つ シトリンは 見れば元気が 湧いてくるもの』『それぞれの 水晶が持つ エネルギー 人に作用し 変化与える』『その人の なかに潜在 するものを 活性化させる 水晶波動』これが日記を書き始めて1207日目の心境。
2008.04.22
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「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、牡牛座の水晶祭りが始まっています。今回は、30組の水晶たちが登場しています。水晶祭りに関して、次のようなメールが届きました。エッセンスを要約して掲載します。「水晶祭りがはじまると、石のネットワークもなかなか元気になるのです♪kimiさんのところから石が出れば出るほど、強くなっていきます。石のエネルギーが強くなると、私みたいな人でも石のネットワークに入れてくれるの^^これはkimiさんの水晶のおかげなの~☆石のネットワークは、本当に、屋久島の巨石や、阿蘇や、そんな方たちの力が根底にあって、kimiさんの水晶のネットワークはもうちょっと、かなり上の方かな?うまく言えませんが、役割というか、位置があるんですね。縦の役割と横の役割みたいな。巨石ネットワークに、私が時々参加させてもらっていて、そのラインにのせてもらっているときに、kimiさんの水晶のラインを感じる気がします。それも、石と一体化しなくても、私の姿で参加させていただけるの。石とずっと一体化していると、体とか固まってきちゃうんだよね。ちゃんと考えてくれている感じがする。心遣いをしてくださっているんですよ、本当に。既にkimiさんの石を持っている人も、この水晶祭りで、またパワーを遠隔のように、パワーをもらう気がするんです。私自身は、とってもクリアではないのですが、水晶のパワーがすごいもの~。光の集結に向かっているのですね^^水面下で、みんなが動き出しているその姿を、とても強く感じます。」水晶ネットワークというのがあるようです。水晶同士が見えないエネルギーで繋がっています。その水晶を通してエネルギーが流れます。同時にネットワークに繋がるのですね。水晶ネットワークは、三次元を超えています。見えない次元ともリンクしています。そのことに関して、別の方から次のようなメールが届きました。「前略。それから、全く対照的な静かな場面に切り替わりました。リアルな土地感覚はなくて、幻想の世界のような場面。白っぽい土地、何もない土地に若い男の子と女の子が白い服を着て立っていて、(男の子は、二十歳前くらい、女の子は、15、6歳くらい)地平線の向こうの宇宙空間を見ています。そうしたら、その宇宙空間に、眩く輝く光が現れました。すごくきれいで、大きく光り輝いていて、放つ光が放射する帯がきれい。女の子が(私のようです)、「あの光の世界へ行きたい、どうやったら行けるの?」と、言っています。二人でじっと、その光を見つめて、私は、向こうに行きたいと願っています。そうしていると、たくさんの水晶がそのビジョンの空間を満たし始めました。満たし始めたと言っても、そのビジョンの中でのまたビジョンというイメージで、実際に水晶で物質的な感じに満たされていくのではなくて・・・エネルギー?でも、水晶は映像として目に見えています。その光景を二人で見ていると、男の子が話し始めました。あの向こうの光の世界に、こちらと同じ双子の水晶があると。実際に双子と言ったのではないのですが、そのようなニュアンスのことを言いました。 それから、こう言いました。『あちらの世界の水晶と、こちらの世界の水晶は、繋がって共鳴している。(みんな)それに気づいていない。気づかなければいけない。私達の意識しだいで私たちはすぐにでも水晶どうしの共鳴するエネルギーラインに繋がることができる。水晶どうしは、向こうとこちらでお互いに響きあい、繋がっているのに、そのことを知らない(気づかない)から、その繋がりを自分達のエネルギーとして現す(取り入れる?活用する?かな・・・)ことができない。あちらとこちらですごい、計り知れないエネルギーが行き来している。共振共鳴している。呼吸しあっている。あちらとこちらは同じ一つの世界(エネルギー場)なんだ。それを知ること。そこに繋がること。それがとても大切なことなんだ』私に、そう言いました。ところで、この男の子は、瞑想中の私の中ではkimiさんと認識していました。そう言われて、そのようなエネルギーが流れてきたとたん、光の世界の水晶とこちらの世界の水晶が共鳴しているのが、私にもはっきりと感じられました。そうして、水晶琴のような音色、水晶が響きあう音色が、あちら側とこちら側で静かに響き始めました。二重奏のように響きあうお互いの音は、調和して、光の世界とこちらの世界を繋げるようにひとつの曲になっていました。しばらくその音色に静かに自分が浸透しているのを心地よく感じていると、いろんな人が次々とたくさん見えてきました。男の人、女の人、いろんな年齢、いろんな時代、いろんな民族の人達が、ぐるぐると、次から次へ・・・最後に、とてもきれいな西洋人の女の人が、(それまではあまりリアリティのない人達だったのが)すごくリアルな感覚で見えて、しばらくその人を見ていました。そこまで見えて、こちら側の意識に戻ってきました。」水晶は、別の次元ともリンクしているようです。別の次元にも同じような水晶があるのですね。実際は、この世の水晶の別の次元の姿でしょうか。この世の水晶は、この世だけのものではなく、いろんな次元とリンクしています。水晶を通して、いろんな次元と繋がれるということです。もちろん、水晶を通さなくても、実際、いろんな次元とリンクしています。でも、水晶は、それをよりわかりやすくしてくれるのですね。水晶とは、波動増幅器でもあるのですから。センサーが鈍感になっている人にとって、波動を増幅してくれる水晶は、とても役に立ちます。水晶を通して別の次元と繋がりやすくなるのです。また、水晶同士のネットワークとも繋がります。それは、屋久島の山々をはじめ、地球上の山々と繋がっています。水晶は、地球と多次元宇宙を繋ぐスペシャルアイテムです。そういう水晶を活用することですね。極めて鋭敏な人は、必要ないかもしれません。しかし、大多数の人は、そうではありません。そういう人にとって、水晶は役に立ちます。鈍感なセンサーでもキャッチできるように、水晶が波動を増幅してくれるからです。自分自身が宇宙や地球と繋がっているのを実感するのを、サポートしてくれます。水晶自体が様々な宇宙とリンクしているからです。物質化して直接繋がりにくい人にとっては、とても役に立つアイテムです。アンテナですね。波動増幅アンテナ。松果体や脳下垂体を補助するものです。まるで宇宙的補聴器みたいです。鋭敏であれば必要ありません。でも、十分に鋭敏な人は、極少数です。現状では、大多数の人にとって水晶は役に立つでしょう。光を帯びて、水晶が屋久島から旅立ちます。その水晶は、地球全体の水晶や石たちと繋がっています。地球だけでなく、宇宙の水晶たちとも繋がっています。別の次元の水晶とも繋がっているのです。壮大な光のネットワークです。宇宙的、多次元的な光のネットワークです。それがどのような結果をもたらすか・・・それは自分自身で実感してください。いろんな結果報告が届いています。それぞれの人にとって必要な現象が出ています。でも、基本は、内なる光を目覚めさせるということです。内なる真実に気づくことですね。水晶は、宇宙の多様性と繋がる時に役に立ちます。宇宙の多様性とは、自分自身の多様性に他なりません。自分自身が、宇宙そのものです。水晶は、表面意識と内なる宇宙とを繋げてくれるのです。水晶光のネットワーク。それが水晶祭りの真の目的です。地球的、宇宙的光のネットワーク。多次元的光のネットワークです。『人と人 星と星とを 水晶が 光で繋ぐ 多次元ネット』『水晶の 一つ一つが 星々の 光のように 輝くネット』『宇宙的 多次元的な 水晶の 屋久島発の 多次元ネット』これが日記を書き始めて1205日目の心境です。
2008.04.20
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コメント欄に次のような書き込みがあった。「今日の日記を読んで。。なぜか安心しました。。超非現実なことを言われないKimiさんの言葉に安心感を覚えました。。いま。。ことさらにスピリチュアルとかアセンションとかまことしやかに言われている中。。。ここの場は。。とても不思議と安堵できる場所です。」この世は、三次元の物質世界。しかし、それがすべてではない。そうかと言って、スピリチュアルがすべてでもない。今、自分が存在している物質次元を無視しては、足許が危うくなる。ちゃんと地に足を着けた上で、スピリチュアルに生きる必要がある。物質オンリーでは、片手落ち。スピリチュアルオンリーでは、寄って立つ基盤がない。共に理解し、同時に生きることだろうか。それには、見守りながら見極めること。見守りとは、全体。見極めとは、個。個であると同時に全体であること。見極めるとは、事実と共にいて限りなく繊細になること。繊細さの究極は、精妙であり極小。極小の究極は、極大。陰極まれば、陽に転換する。繊細さを究めれば、繊細さは消えて無限となる。無限とは、全体。個は、個に非ず。個は、全体でもある。色即是空。空即是色。分離はない。ひとつのものでしかない。それを別々と見なしているのは、思い込み。物質も霊も、大差はない。単なる波動の違い。グラデーションの差異に過ぎない。見守るとは、このグラデーションの全体をひとつとして抱(いだ)き参らせること。見極めるとは、個々のグラデーションを突き詰めること。突き詰めてみれば、最終的にはひとつに行き着く。個と全体は、別々ではない。見守りながら見極める。それが、個であると同時に全体であること。それぞれのグラデーションであると同時に、ひとつの全体でもあること。色であり空であること。色心不二。物質も霊も異ならず。心身一如。心も体も、それぞれ別々のように見えて、ひとつに繋がっているもの。とりたててスピリチュアルであることも、物質だけにのめり込むことも必要ない。バランス。調和。個であり全体。日々、自分自身を生きながら、自分を含めたすべてを包み込む。自分を含めて抱き参らせる。すべてを抱き参らせながら、自分を生きる。肉体をベースにスピリチュアルに生きる。日々、普通に暮らせばいい。それで何も問題はない。普通に個として生きればいいだけ。日々、個であり全体として生きればいいだけ。個だけに偏らない。スピリチュアルだけにのめり込まない。バランス、調和。今ここに、すべてがある。今ここで、個であり全体として生きること。すべてを見守りながら、事実を見極めつつ生きること。特別なことはいらない。日々の生活が、すべて。どこかで特別に修行することは、現実からの逃避。現実が、最も困難な修行場。今ここから逃げたら、どこへ行っても真実はわからない。今ここで、すべてを見守りながら見極めること。『物質も 霊も波動の 違いだけ すべて見守り 見極めていく』『特別な ことはいらない 毎日の 生活こそが 修行そのもの』『自他共に 抱き参らせ 見守れば 自分勝手は できにくいもの』『難しい ことはいらない 淡々と 見守りながら 見極めること』『究極は 今ここにいて 見極める 見守りながら 見極め尽くす』『今ここで 見守りながら 見極める それが究極 他にいらない』これが日記を書き始めて1200日目の心境。
2008.04.15
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一昨日のコメント欄に、次のような質問がありました。「kimiさん 質問いいですか?昨日、瞑想をしていて、わたしのハイヤーセルフと会話をしました。 神様的な存在と会話もし、わたしの質問に対して答えてくれました。 ハイヤーセルフや神様と溶け合って、ひとつになったりもしました。 それで意思決定について質問なのですが、 どんな高次の存在からの答えでも、それを選択するかは、肉体をもつ今ここのわたしが決めていいのですよね? ということです。 ただ、ハイヤーセルフも神様もわたしの一部だし、ということは、 意思決定も、そのトータルでするという感じの理解でいいのでしょうか。。。? 」どんな高次元の存在からのメッセージでも、その通りにする必要はありません。この物質次元で生きているのは、生身の体を持つ自分自身ですから。この物質次元を一番よく知っているのも自分自身です。ですから、自分の人生は自分で決めればいいのです。万万一、高次元の存在と語っていたものが、低次元の闇の存在であった場合、誰が責任を取るのでしょうか。言われるままにすることは、危険です。どんな状況でも、自分自身で決めた方がいいでしょう。責任を取るのは、自分自身ですから。もっとも、意識が深まれば、高次元の存在と自分自身は溶け合っていきます。ハイアーセルフの声を聞かなくても、ハイアーセルフレベルの意思決定ができるようになります。ハイアーセルフや高次元からのメッセージが聞こえる間は、慎重に自分で意思決定をした方がいいでしょう。静かに静かに深い自分自身でいることです。深い自分自身で生きることですね。高次元の自分自身と融合することです。分離がない状態が理想です。その時に、トータルな意思決定が自然に起きることでしょう。三次元というのは、アリの視点のようなものです。人間から見たら、アリの視点は極めて限られたものでしかありません。車が近づいているのに、その方向へ進むアリもいます。もしそれがわかったら、教えてあげたくなるのが人情というものでしょう。それが、人間に対するハイアーセルフの視点です。基本的には、良かれと思って為されるサポートです。でも、何でも介入すると、みんなハイアーセルフに依存するようになります。自分自身で見極めるのが疎(おろそ)かになってしまいます。それでは、何のために地上に生まれてきたのかわかりません。ハイアーセルフや神々とコミュニケーションを取るのもいいでしょう。しかし、依存しないことですね。何でも教えてもらおうとする姿勢は、幼稚です。自分自身で見極めるのが、基本です。徹底的に見極める。その姿勢が、ハイアーセルフにも通じます。更に高い次元の意識にも通じます。こまやかに見極めようとする意識が、無限の意識に繋がっていくのです。別にハイアーセルフや神々のサポートがなくても、自分自身でやれます。真剣に生きれば、ハイアーセルフや神々の声が聞こえなくても問題はありません。むしろ自力で頑張ることの方が、この世に生れた甲斐があるというものです。もっとも、いくら自力と思って頑張ってみても、所詮、見守られていることに変わりはありません。ハイアーセルフも魂も、常にこの世に出ている意識を見守っています。何と言っても、自分の意識の一部ですから。子供を見守る親のようなものです。いつまでも親に伺いを立てていたら、子供は大人になれません。自分で見極めようとする姿勢が、何にも増して大切です。そのスタンスが、最も危険のない生き方でもあります。その延長線上に、無限に通じる通路も広がっています。この世に出ている子供のような意識は、無限と繋がることができる意識でもあります。最先端から最奥まで繋がることが、統合です。神の創った世界の末端まで神の意志を浸透させるのが、この世に生きる意識の使命です。つまり、神の国をこの世に実現するということですね。それには、まず自分自身が神の意識に繋がる必要があります。神の意識に繋がるためには、見守り、見極めることです。自分自身を見守りつつ、見極める。大きく包んで、徹底的に見極める。その時に、極微が極大に変容する可能性が生まれます。極微と極大は、繋がっています。人は極微であり、神は極大であるとも言えます。極微にまで集約されたものは、ビッグバンを起こすのです。集中と拡散。まるで呼吸です。宇宙の呼吸。宇宙の構造そのものが、そのようにできています。そういう意味では、魂もハイアーセルフも中間的な存在です。人であることが、いかに偉大なことであるか・・・すばらしい可能性を秘めているのですね。極微から極大までを統合する可能性を持っているのです。何にも依存せず、地道に見守り、見極めることでしょうか。自分自身を見守り、事態を見極める。すべての人を見守り、すべての推移を見極める。すべての存在を見守り、真実を見極める。そのようなスタンスで生きる時、宇宙はその神秘を開示するでしょう。自分自身の真実が、自(おの)ずと明らかになるでしょう。真実は、自分自身の裡(うち)にあります。自分自身が、真実そのものです。『ゆっくりと 自分自身と 共にいて 深く静かに 見極めていく』『見極めて 見極めきれば 自(おの)ずから 行くべき道が 明らかとなる』『見守って 見極めていく スタンスが 無限に通じる 秘密の通路』『神々や ハイアーセルフも いいけれど 自分自身が 最も重要』『神々も ハイアーセルフも 超えていく すべてと繋がり 融合していく』『真実は 自分自身の 裡(うち)にある 自分自身が 真実そのもの』これが日記を書き始めて1198日目の心境です。
2008.04.13
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『いのちの島=屋久島』の方に、次のような質問がありました。『いのちの島=屋久島』は、ぴあのさんが管理人ですが、ぴあのさんから依頼がありましたので、こちらの方でお答えします。 「お聴きしたい事があります。知的にわかってきたものが、実感としてわかるようになってきました。 難しいことはわかりませんが、いろんなところから『エネルギー』をヒシヒシ感じます。 意識の波動が変わることで、周りの景色も変わってくるみたいです。 今はただそれを楽しんでいる感じですが、『今とは全く違う意識や肉体』ってどういう感じになるんですか? 半物質次元とか難しい事はよくわかりませんが、確かに以前より自分が人間のようでそうでないような、物質のようでそうでないような、変な妙な感覚ではありますが。 教えていただけたら幸いです。 」時代と共に波動が速くなっています。特に最近は、その変化が激しいですね。意識も物質も、波動が繊細になってきています。そうなると・・・これまで絶対だと思っていたものが、そうではなくなってくるのです。固定的であったものが、ファジーになってきます。流動性が高まるのです。やがて、意識の影響を受けて、すみやかに変化するようになっていきます。これまでも意識の影響はあったのですが、波動が遅かったために結果が出るのに時間がかかったのです。ですから、影響があったのかどうかはっきりしませんでした。しかし、これからは変化が速くなり、誰もがその結果に気づくようになります。意識によって物質が顕著に影響を受けるのです。それは、意識の波動が速くなっているだけではなく、物質の波動も速くなっていることを意味します。そのため、意識によって影響を受けやすくなっているのです。波動が速いということは、変化が速いということです。逆に、波動が遅いということは、変化が遅いということになります。これまでは波動が遅かったので、物質は固定的に見えました。変化がスローだったのです。でも、これからは波動が上がっていきます。そうなると、意識の影響によって目の前で変化するようになっていきます。それが、半物質と言われる状態です。それは、この物質次元が、物質次元よりも高い次元にシフトしつつあることを意味します。いわゆる、アセンションです。この地球そのものが、徐々にアセンションしつつあるのですよ。アセンションとは、次元上昇です。次元上昇とは、波動が速くなることです。波動が速くなることは、変化が速まることです。変化が速まることは、意識の影響力が大きくなることです。ですから、書かれているように、自分の意識が変わると周りの景色も変化するように感じるのです。意識によって周りも影響を受けるのです。それが、これからは更に顕著になっていくでしょう。ということは・・・自分の意識しだいで、周りの環境はどうにでもなるということです。つまり、自分の望む環境を自分で創り出せるということです。それが、現実創造です。これから、いよいよ本格的に現実創造ができるようになっていきます。意識の力によって、現実を望むようにクリエイトできるのです。これまでは波動が遅かったので、実現に時間がかかりました。タイムラグが、かなりありました。しかし、これからは、そのタイムラグがどんどん小さくなっていきます。想ったことが、時間を経ずして実現するようになります。それは逆に言うと、ネガティブなことを想えば、すぐにネガティブな現実が現れるということも意味します。自己責任が、より明確になってきます。自分の現実は、他人や社会のせいにできなくなります。自分の望む現実を、自分で創造する。それが、これからの時代です。もちろん、肉体も例外ではありません。自分の望む肉体になっていきます。若返りたかったら、それも可能です。但し、それには意識が若いことが必要です。意識が老けていては、肉体だけ若返ることはできません。意識が若いとは・・・しなやかであることです。柔軟でなければ、意識が若いとは言えません。石頭では、肉体だけが若返ることはあり得ません。固定観念を持たないことですね。常に目の前の事実と共に生きることです。先入観や偏見や信念や信条を持たないことです。そういうものは、意識を固くします。思い込みが、意識をフリーズさせます。つまり、何も持たないことなのです。何もないのが、一番しなやかです。何かを所有してしまえば、その分、固くなってしまいます。何もないのが、最も自由でしなやかな生き方です。何も所有する必要はありません。必要なものは、創り出せばいいのです。創り出したものにも、いつまでもこだわることはありません。必要な間だけ使って、いつまでも固執しないことです。固執すれば、しなやかさが失われます。常にフリーハンドでいることです。その時にのみ、今必要なものを今創造できるのです。何も心配する必要はありません。もちろん、このようなことが、今すぐに実現するわけではありません。しかし、そのような方向に進んでいるのは間違いありません。ですから、何事も固定的に考えないことです。ファジーな方が、楽に生きていけます。すべては、ファジーになりつつあります。固定的に捉える傾向が強い人は、過去に生きている人です。やがて時代に取り残されることになるでしょう。時代は、待ってはくれません。新しい時代は、着実に近づいています。日々、前進しているのです。波動は、刻々と速くなっています。そういうことを理解して生きることでしょうか。意識の波動が速くなればなるほど、自由にいろんなものを創造できるようになります。望む現実を創り出せるのです。意識の波動を速くするには、囚われを外すことです。フリーハンドで生きることですね。まあ、楽に楽しんでください。これから更に楽しくなっていくでしょう。意識の波動は、速くなる一方です。光と共に明るく生きましょう。『囚われを 外していけば しなやかに なって意識の 波動も上がる』『囚われが 今の現実 創り出し 自分縛って 固めているだけ』『動かぬと 思い込むから 動かない 動くと思えば 動き始める』『山でさえ 動き出すかも これからは ファジーになって 現実創造』『必要な ものは意識で クリエイト 何もなくても 暮らしていける』『何もかも みんな手放し しなやかに なって自由に 創る現実』これが日記を書き始めて1197日目の心境です。
2008.04.12
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『ガイドする 時は普通の 人になる 日記書く時 また別の人』『日記書く ことが自分の 生きること この世の真実(まこと) 言葉に残す』『世を忍ぶ 仮の姿の ガイドでも いろんな人に 会えて楽しい』『世を忍ぶ 仮の姿が ガイドなら ホントの姿は 光そのもの』これが日記を書き始めて1196日目の心境。
2008.04.11
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『天国も 地獄もみんな 通過点 宇宙果てなし 車窓楽しむ』『肉を持つ 人間として 生きるのも 楽しからずや 地球の旅路』『人生も 人間として 生きるのも 自己同一化の 旅の連続』『毎日が 旅から旅と 思えたら 今日の出会いも 新鮮になる』『水晶と 自然と人と 出会うのが 屋久島暮らし 地球の旅路』『人生も 宇宙もすべて 旅の旅 何かになって 体験する旅』これが日記を書き始めた1195日目の心境。
2008.04.10
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波紋が広がる。その同心円の外側。波紋の外側は、限りがない。波紋の内側は、何層にも限定された空間。意識とは、波紋の外側であり、波紋の内側でもある。無限であり、有限でもある。無限のなかに有限がある。有限は、無限の一部。意識とは、個であり全体である。意識とは、波紋の一つであり、波紋の外側でもある。波紋の一つになりきれば、限定された意識となる。波紋の外側にあれば、無限定のまま。色とは、限定。空とは、無限定。限定とは、何かとの自己同一化。無限定とは、非同一化。何かと自己同一化しなければ、その体験はできない。自己同一化してしまえば、狭く制限された意識となる。何かと自己同一化しながら、しかも、無限定であることはできるだろうか。それが、個であり全体であるということ。個でありながら同時に全体でもある。個の体験をしながら、それだけではない意識も併せ持つ。特定のものと自己同一化しつつ、自己同一化しない意識も保持する。小さな波紋の一つでありながら、同時に波紋の外の意識でもある。小さな波紋だけになりきれば、全体から分離された迷子の意識になってしまう。小さな波紋の一つであると同時に、波紋の外側でもなければならない。個であると同時に、それを見守る全体でもある必要がある。行動し創造する個であると同時に、それを見守る全体でもある必要がある。個であり全体であるとは、色であり空であるということ。波紋の一つであり、波紋の外側でもあるということ。自己同一化だけでなく、非自己同一化でもあるということ。有限であり、無限であるということ。意識が顔の表面だけに集中する時、個になりきっている。限定された小さな波紋の一つになりきっている。意識が後頭部にある時、あるいは更に後ろにある時、個だけではない意識状態にある。 個を見守る全体的意識状態にある。集中とは、個になりきること。一点にフォーカスすること。全体を忘れて特定のものと自己同一化すること。行動し創造する個になりきること。それは、ほとんどの人がやっていること。これまでの人類史。だからこそ、現在の混乱が生じている。それを超える道は・・・個であると同時に全体でもあること。一点集中ではなく、意識の統合。特定の波紋であると同時に、波紋を超えた外側でもあること。波紋の外側の意識と共に波紋として生きること。静かに深く生きること。これまでの経験に囚われた狭い意識だけで生きないこと。そのすべてを見守る大きな意識と共に生きること。全体を自覚した個として生きること。『特定の ものに集中 することは 全体忘れ 個になりきること』『全体と 共に生きねば 調和する 世界をつくる ことはできない』『個を生きる 徹底的に 個を生きる それと同時に すべてを生きる』『個の意識 個性発揮し 花咲かす 全体意識 抱(いだ)き参らせ』『個であると 同時にすべて 包み込む 全体である ことが肝要』『個であると 同時に他の 個を認め 抱(いだ)き参らせ 共に生きゆく』『生きること それと同時に 自他共に 見守ることが 抱(いだ)き参らせ』『個であって 全体でもある 状態が 宇宙の真理 色即是空』『人の世は 個性の花を 咲かせつつ 個性の違い 抱(いだ)き参らせ』これが日記を書き始めて1194日目の心境。
2008.04.09
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人は、旅人だろうか。いや、意識は、旅人だろうか。意識は、自己同一化の旅人。様々なものと自己同一化して旅をしている。今は、肉体と自己同一化している。それによって、美味しいものが味わえる。美しい景色を愛でることもできる。麗(うるわ)しい香りに満たされることもできる。心地よい音に浸ることもできる。温泉の温(ぬく)もりを肌で感じることもできる。肉体と自己同一化していればこその楽しみ。肉体を通して、いろいろなものを体験できる。意識は、肉体と自己同一化しているだけではない。美しくてスタイルが良いという自己イメージとも自己同一化している。あるいは、カッコ良くて、みんなにもてるという自己イメージと自己同一化しているかもしれない。逆に、自分は病弱で最悪という自己イメージと自己同一化している意識もいるかもしれない。どのような自己イメージと自己同一化するかによって、人生は大きく変わる。体験できる世界が、まるで違ってくる。美しくてスタイルが良いという自己イメージと自己同一化していれば、胸を張って街を歩く体験ができる。カッコ良くて、みんなにもてるという自己イメージと自己同一化していれば、肩で風を切って歩けるに違いない。パワフルで怖いもの知らずという自己イメージと自己同一化していれば、冒険の旅を体験できるだろう。何事も緻密に突き詰める自己イメージと自己同一化していれば、いろんな研究の体験ができるかもしれない。病弱で弱い自己イメージと自己同一化していれば、みんなからやさしくしてもらう体験ができる。逆に、みんなからバカにされ、爪弾きにされる体験もできるかもしれない。どんな自己イメージと自己同一化するかによって、人生体験は違ってくる。いかような人生体験も可能。それが現実創造ということ。体験創造。意識は、どんな自己イメージとも自己同一化できる。自分とは、自己同一化した自己イメージ。それ以外に自分はない。単なるイメージとの自己同一化に過ぎない。意識は、今は人間と自己同一化し、人間の体験をしている。しかし、それがすべてではない。ある時は、水晶と自己同一化していたかもしれない。別の時は、美しい花と自己同一化していたかもしれない。また別の時は、大空を飛ぶ鷹と自己同一化して、地上を見渡していたかもしれない。違う時は、妖精と自己同一化して、森のなかを飛び回っていたかもしれない。異なる時は、風と自己同一化して、いろんなものを撫(な)でる体験をしていたかもしれない。はたまた水と自己同一化して、川下りの体験を楽しんだ時もあるかもしれない。将来、星と自己同一化して、自分のなかで多くの生命を育てる体験をするかもしれない。銀河と自己同一化すれば、数えきれないほどの星々との体験が待っている。グループソウルと自己同一化すれば、神に近づく体験ができるかもしれない。そう、忘れていた。過去世においては、王侯貴族と自己同一化して、栄耀栄華を極めた体験もあった。逆に、乞食や奴隷と自己同一化して、悲惨の極みを体験したこともあった。美女と自己同一化したことも、醜い老婆と自己同一化したこともあった。あるいは、どこにでもいる普通の人と自己同一化したこともあった。多くの数えきれないほどの自己同一化を体験してきた。そして、今がある。今は何と自己同一化しているだろうか。肉体だろうか。プラスの自己イメージだろうか。マイナスの自己イメージだろうか。いずれにしても、人間と自己同一化していることに違いはない。今は、人間としての体験の真っ最中。過去も、未来も、様々な自己同一化の連続。数えきれない体験の連なり。多くのものと自己同一化して体験する、体験ワールド。この宇宙全体が、限りない体験ワールド。悲しいことに、人は自己同一化の事実に気づいていない。自己同一化に埋没し、自己同一化していることを忘却してしまった。まるで役になりきり、役を演じていることを忘れてしまった役者のよう。体験ワールドにはまり込み、体験に没頭している意識。自己同一化し過ぎると、根本を見失う。本来の意識を喪失する。自己同一化したものになりきり、そのものに振り回されて本来の意識を忘却する。個別化した人間になりきり、全体を忘れる。あまりにも個別化した人間と自己同一化し、お互いに殺し合う。自虐的になり、自殺したりもする。意識の故郷(ふるさと)を忘れ、宇宙の孤児となって彷徨(さまよ)う。道を失い、迷える霊の体験をすることすらある。迷ってしまえば、意識の故郷へは帰れない。すべてが存在する源とは断絶してしまう。至福の世界から切り離され、孤独地獄のなかで苦しむ。意識の真実を忘れたために。あまりにも自己同一化し過ぎたために、本来の意識を喪失してしまった。それでは、自己同一化の旅を楽しめない。体験に埋没し、体験に振り回されることとなる。もう一度、自己同一化していることを思い出すことだろうか。しっかりと自己同一化していることを自覚して旅をすることだろうか。何層にも渡る意識の旅。そういうものとも自己同一化しているに過ぎない。多次元に渡る宇宙の旅は、すべて自己同一化の旅。いろんな次元の、いろんな存在と自己同一化して、いろんな体験をするのが、意識の旅。 別の言葉で言うと、神の旅。神という意識が、いろんな次元のいろんな存在と自己同一化して体験する不思議な旅。 自分で創造し、創造したものと自己同一化して体験する波瀾万丈の旅。無限が有限と自己同一化して体験する色の旅。旅から旅。人には推し量ることすらできない遠い過去から遥かな未来まで。多次元、多層に渡る旅の連続。何層も何層も自己同一化を重ねて、今ここにある。あまりにも複雑に自己同一化を重ねたために、本来の状態がわからなくなってしまった。自分の本質を忘却してしまった。迷子の迷子の子猫ちゃん?意識の真実は、自己同一化の果てしない連なり。まるで十二単(じゅうにひとえ)を着ているようなもの。タマネギの皮を被っているようなもの。その一枚一枚と自己同一化している。その多層多次元の自己同一化の元を辿れば、純粋な意識に辿り着く。始まりも終わりもない意識。無色透明の意識。快晴の空のような意識。その掴みどころのない意識が、雲と自己同一化し、雨と自己同一化する。山と自己同一化し、川と自己同一化する。花と自己同一化し、水晶と自己同一化する。やがて、その意識は、人と自己同一化する。雲の体験をし、雨の体験をする。山の体験をし、川の体験をする。植物の体験をし、鉱物の体験をする。そして、人の体験をする。無限が旅する有限の旅。人の本質は、純粋な意識そのもの。その自己同一化の結果が、人というもの。果てしなく続く意識の自己同一化の旅・・・『タマネギか 十二単か ユリの根か 自己同一化 果てることなし』『いろいろな ものと一つに なりきって 体験重ね 旅する意識』『何層も 何次元にも 重なって 自己同一化 旅は果てなし』『同一化 重ねる度に 色がつき 複雑怪奇 元がわからず』『青空の ごとき意識が 繰り返し 自己同一化 重ねているだけ』『何であれ 自己同一化 することは 自己限定を するに等しい』『境目が わからないのが 同一化 以前の意識 意識の源』『元の元 自己同一化の 源を 探っていけば 純粋意識』『数々の 自己同一化 外す時 そこにあるのは 無限の意識』『今ここに 自己同一化 する前の 元の意識が 厳然としてある』『大空の ごとき意識の そのなかに 愛は息づく 裸のままで』これが日記を書き始めて1193日目の心境。
2008.04.08
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「1187日目 - 悲苦」のコメントに、次のようなものがあった。「悲苦エネルギーに、背中を押され、突付かれ、私は人生の歩を進めてきた。悲苦エネルギーに取り込まれないよう、際どいところですり抜けてきた。私の逃げ技は、笑い飛ばすこと。私の悲苦をお笑いネタにして、人も笑わせ、自分も大笑いして、悲苦エネルギーの本質をやり過ごしてきた。これは私の生きるための必殺技。悲苦に取り込まれては、私の精神が壊れてしまう・・・。思い込み・・・かも知れない。けれど、事実になりうる可能性を知っている。私の親戚に、私に似た立場の人がいた。末っ子で、陽気で、家族にかわいがられて育った・・・というところが。彼女は初めての子を流産したあと、家族に言い含められて離婚した。理由は色々あっただろうけど、彼女は、流産した自分の所為と、悲苦の想いにどっぷりはまってしまった。明けても暮れても、医学書など読み漁り、自分の部屋にこもってしまった。まわりがこれではいけないと、彼女を部屋から連れ出した時には、精神は半分壊れかけていた。日常生活は出来るけれど、心は突如、とらわれの世界に帰っていく・・・ああいう風になりたくない。決して悲苦の餌食にはなりたくない・・・。私は悲苦に、つかまらないよう、直視しないよう、笑い飛ばしてかわしてきた。私には、悲苦と留まる事は到底出来ない。」悲苦を笑い飛ばすことによって、悲苦から離れる。それも一つの方法ではある。悲苦に呑み込まれて自分を見失うよりも、遥かに賢いと言えるだろう。しかし・・・それでは、悲苦から完全に離れることはできない。ただ笑い飛ばしているだけでは、また悲苦がやって来る。なぜ?悲苦を根本的に超えていないから。悲苦を主観的に見て悲苦になりきれば、悲苦に呑み込まれてしまう。笑い飛ばすということは、悲苦を客観視できている。そういう意味では、バランスが取れている。そのため、精神的に病むことは避けられる。しかし、悲苦の度に笑い飛ばしていても芸がない。と言うより、何度も何度も悲苦を笑い飛ばしていること自体が、笑えてくる。性懲りもなく同じことの繰り返し?何も学習していない?ただ笑い飛ばしているだけでは、何も学んでいないことになる。一生笑い飛ばして過ごす?それでも人生は楽しいかもしれない。しかし、なんともやりきれない楽しさではある。笑い飛ばしているだけでは、悲苦を超えることはできない。悲苦の原因を理解しなければ、悲苦は解決されない。根源的に悲苦が理解されれば、二度と悲苦を味わうことはない。悲苦を笑い飛ばす必要もなくなる。悲苦を見極める。徹底的に見極める。頭と心と自分のすべてで見極める。悲苦と留まり、悲苦になりきるギリギリまで見極める。悲苦そのものになりきれば、自分を見失う。常に自分を見守る視点が不可欠。その上で、悲苦と留まる。実は・・・悲苦を見極めることと、悲苦と留まることは、厳密には異なる。悲苦を見極めるためには、問題意識がいる。なぜ悲苦は起きるのか。何が悲苦の原因か。悲苦と留まることは、ただ黙って留まるだけ。たとえば、百足(むかで)に咬まれたとする。痛みの原因は何か。辺りを見回すと、百足を発見。それで原因は明確になった。原因がわかれば、対策の講じようもある。これからは百足に咬まれないように注意する。家のなかに百足が入らないように工夫する。しかし、原因がわかっても、痛みは治まらない。全身を激痛が襲う。その激痛に歪んだ顔を鏡で見て、笑い飛ばす?そんな余裕は、普通はない。笑い飛ばせるのは、かなり後になってからのこと。咬まれた直後は、激痛に七転八倒する。その時に、冷静に自分と一緒にいて、痛みを感じきれるかどうか。徹底的に痛みと一緒にいられるかどうか。痛みから逃げない。気分転換で気を紛らわせない。ただ痛みと一緒にいる。一緒に居切る。それができれば、痛みはやがて消えていく。一緒に留まるとは、そういうこと。一歩も逃げない。痛みと一緒に居切る。そういう時に、変容が起きる。奇跡と言ってもいい。突然、痛みが消える。痛みが、やすらぎに変わる。悲苦と一緒に留まれば、悲苦は慈しみに変容する。悲苦を見て、慈しみが溢れてくる。悲苦は、慈しみによって癒される。それには、相当の覚悟がいる。全身全霊で対峙するほどの気合いがいる。中途半端では、悲苦に呑み込まれてしまう。初めて断食する時のように、命懸けの気迫がいる。そのくらいの心づもりがないと、変容は起きない。悲苦と留まるのもいい。そうすれば、悲苦は慈しみに変わる。しかし、悲苦と留まるだけでは、また悲苦が起きてしまう。悲苦を根源的に理解しない限り、悲苦を超えることはできない。根本は、悲苦を理解すること。理解によってのみ、悲苦を超えることができる。悲苦は、なぜ起きるのか。悲苦の原因は何か。自分自身を通して理解することだろうか。真に理解できたかどうかは、すぐにわかる。真に理解されれば、悲苦は二度と起きない。再び悲苦を体験することはあり得ない。人生が、一変する。悲苦の人生が、喜びだけの人生となる。人生から、苦しみや悲しみが消える。二度と苦しむことも悲しむこともない。ただ、周りの悲苦を見て、心の奥から慈愛が湧いてくるだけ。自分自身の悲苦というものはない。そこまでいかないと、この日記を読んでいる意味はない。ただ気休めで読んでいるのなら、即刻読むのをやめた方がいい。真剣に読まなければ、人生の変容は起きない。いい加減に読むのだったら、時間の浪費。人生に真正面から対峙する時、人生の扉が開く。それが、真に生きるということ。『原因を 理解しないと 苦しみや 悲しみ超える ことはできない』『苦しみや 悲しみ起きる その時に その原因を 見極めること』『人のせい 社会のせいに していれば いつまで経っても 悲苦繰り返す』『刻々の 人・花・空の 美しさ 今この時に 悲苦はあり得ぬ』『過去思う 記憶のなかに 悲苦はある 今と比べて 嘆き悲しむ』『悲しみや 苦しみ起きる 原因は 所有すること 移ろうものを』『悲苦起こす その原因は 思い込み 自分のものと 思う錯覚』『思い込み 外れた時に 苦しみや 悲しみ起きる それだけのこと』『移りゆく ものはそのまま 刻々に 楽しみ愛でて すぐに手放す』『何ものも 所有しないで 愛でるだけ その時にのみ 悲苦は起きない』これが日記を書き始めて1191日目の心境。
2008.04.06
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『苦しみも 悲しみもない 人生は 自分で自分 縛っているだけ』『ゆっくりと 抱きしめながら 見守れば すべてはほぐれ 癒されていく』『見守りは すべてのものを おおらかに 大和心の 抱(いだ)き参らせ』これが日記を書き始めて1190日目の心境。
2008.04.05
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「透明な 光のなかで 真っ黒な 光きらめく 闇夜の魔力」「光なき 世界のなかに いればこそ 何でもできる 怖いものなし」「全体に 意識が向かず 自分こそ すべてと思い 世迷言(よまいごと)言う」「闇のなか 愚かなことと 気づかずに 愚かなことを 為す自我の群」「真実を 知らぬが故に 犯される 天に唾する 不毛な行為」「愚かさに 気づかぬものこそ 愚かなり 己(おの)が為すこと 何もわからず」「浅はかな 目先のことに 踊らされ 欲望のまま 道を外れる」「あからさま 力誇示する ものたちは恐れ慄(おのの)く 弱きものたち」「真実を 知らないために あれこれと 回り道する 徒労を重ね」「愚かなり 魑魅魍魎(ちみもうりょう)の 為せる業(わざ) 己が所業を 知らざるが故」「光なき 世界に蠢(うごめ)く ものたちは 光の前に 泡と消えゆく」「真実は 何より強き ものなれば ただあるだけで 光り輝く」「真実を 知ればおのずと 生きる道 定まってくる 迷う余地なし」これが日記を書き始めて1189日目の心境。
2008.04.04
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『いにしえの 三十一文字(みそひともじ)の 美しさ 昔の香り 今に伝える』『美しき 言葉紡ぎて 和歌(うた)を詠む 美しきもの 美しきまま』『人の世に 生きた証(あかし)に 美しき 和歌(うた)を残して 墓標に代える』これが日記を書き始めて1188日目の心境。
2008.04.03
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『悲苦こそが 悲苦を超えゆく エネルギー 悲苦から逃げず 悲苦と留まる』『焦らずに 内なる悲苦を 見守れば 悲苦は自(みずか)ら 解(ほど)け溶けゆく』『人類の 悲苦を見守る 慈しみ 悲苦を包んで ただ抱きしめる』『人の世の 悲しみ見れば 慈しみ 自然に湧いて 菩薩生まれる』これが日記を書き始めて1187日目の心境。
2008.04.02
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