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もしもあなたが神ならばあなたはお金を貯めるだろうかもしもあなたが神ならばあなたは土地を欲しがるだろうかもしもあなたが神ならばあなたは何かを奪うだろうかもしもあなたが神ならばあなたは人を殺すだろうかもしもあなたが神ならばあなたは何かにこだわるだろうかもしもあなたが神ならばあなたは何かを支配するだろうかもしもあなたが神ならばあなたはすべてを持っているだから貯め込むこともない人から奪うこともないもしもあなたが神ならばすべてが自分のものだから人と争うこともない人を殺すこともないもしもあなたが神ならばすべてそのまま見守って大きく包み抱きしめていとおしむに違いないもしもあなたが神ならば小さなことにこだわらずそのまますべて受け入れて愛の心で満たすだろうもしもあなたが神ならば何も掴まず所有せずそのまま流し循環させ宇宙の変化を楽しむだろうもしもあなたが神ならば介入せずにそのままにそれぞれ個性を発揮させ創る世界を愛でるだろうあなたが神と思わずに自分を小さな断片と思い込むから人生のすべての混乱起きてくるもしもあなたが全体と自分を見なせば人生は100パーセント変化する不安や心配消えてゆく人は自分を宇宙から切り離された断片と思い込むから人生が孤独と怖れに覆われるもしもあなたが全体とひとつと思い感じれば人生すべてが変化する何もなくても生きられるなぜならすべてあなたのものすべてが自分のものならば己のものにするために人と争うこともないあなたは自分を個であると思い込むから生きるのが心細くて寂しくて誰かに依存したくなるあなたは自分の存在を小さなものと決めつけて小さく小さく生きている自分で小さく生きているもしもあなたが個ではなく全体ならばどうだろうその時人生激変し天地が逆になるはずだもしもあなたが神ならばあなたはすべてを見守って何も欲しがることはないすべては自分のものだからもしもあなたが神ならば何も掴まず次々に循環させて変化させ宇宙曼荼羅(まんだら)愛でるだけもしもあなたが神ならば何も苦しむことはない何も悲しむことはないすべては愛のなかにあるもしもあなたが神ならば愛でるだけでは飽き足らず個々に分かれて行動し共に宇宙を創るだろうもしもあなたが神ならば全体であり個であるとわかったうえで個となって宇宙創造皆で楽しむもしもあなたが神ならば自分が播いた神の種大事に育てはぐくんで大きな花を咲かすだろう『肉体と 共に育てば 個であると 思い込むのも 無理からぬこと』『個であると 思い込むから 人生は 悩み苦しみ 尽きることなし』『気づくまで 茨(いばら)の道を ただ一人 孤独と共に 歩むしかない』『個であって 全体である その時に 喜びだけの 世界生まれる』『気がつけば すべての謎が 解けてゆく 森羅万象 愛(いと)おしくなる』『目覚めれば 苦悩も消えて 人生は 光り輝く 天国と化す』『創り出す 喜びだけに 満たされて 光と共に 輝き生きる』『手を取って 生きる世界が やがて来る 苦悩は過去の 亡霊となる』『自己保存 だけに心を 奪われて 深い心を 忘れているだけ』『自(みずか)らの 裡(うち)に隠れた 真実に 気づけば人の 生き方変わる』『物質に 囚われ欲に こだわって 自己中心に 生きているだけ』『人類の 苦悩の元を 見極めて 苦悩を超えて 生きる真実』『真実は 今ここにある 生きている 己の裡に 生きて輝く』『真実は すべてひとつと 気づく時 真実以外 何もあり得ぬ』『真実の 他に何かが あるように 思い込むのが 迷いそのもの』『ひとつだけ すべてひとつの 現われと 見極めきれば 迷いは終わる』これが日記を書き始めて1185日目の心境。
2008.03.31
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『刻々に すべてが変化 するならば 自分のものなど あるはずがない』『何であれ 自分のものと 思うのは すべて幻想 ただのイメージ』『幻想の なかでしっかり 捉まえて 自分と思い 込んでいるだけ』『捉まえて いると思って いたものに 捉まえられて いただけのこと』『刻々の 今目の前の 出来事を 楽しみ味わい 感謝するのみ』これが日記を書き始めて1184日目の心境。
2008.03.30
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朝、宮之浦の本局まで水晶を出しに行く。これで発送は、ひとまず完了。宮之浦の街の後ろにある山が、ところどころピンク色に染まっていた。山桜の季節の到来。これから気温が上昇するにつれて、山桜の花も山を上っていく。半月ぐらいは楽しめるだろう。サクラツツジも咲き始めている。山が最も華やぐ季節になった。数日前のコメントに、えっちゃんが山羊座の時代も楽しみたいと書いていた。これからアクエリアスの時代が、二千年以上続く。その後も、まだ地球にいるの?たとえ、いたとしても・・・その時、えっちゃんは存在しない。えっちゃんというパーソナリティは、今生限り。生まれ変わり?そんなものあるはずがない!エッ?話が違う?精神世界の本と違う?本には、生まれ変わると書いてあった?さてさて・・・生まれ変わる本質は何か。今の人格は、今生でつくりあげたもの。また再び生まれ変わったら、別の人格になるに違いない。その時、えっちゃんという人格は存在しない。記憶の欠片(かけら)すらない。それは、今生を見れば明らか。過去世を覚えている人は、ほとんどいない。みんな白紙にして生まれ変わる。リセット。ゼロからやり直し。それが、生まれ変わりということ。今のこの人格が、生まれ変わる訳ではない。魂が、新しい人生用に新しい器を用意する。これまでの過去世の経験から次の人生に必要なものをチョイスし、新しい人生用にオーダーする。過去世で培った才能やカルマなど、いろいろ組み合わせる。そういう準備の元に、赤ちゃんとして生まれてくる。そこからまた新しい人格をつくっていく。そういう訳で、今の人格は今生限り。生まれ変わることはない。では、この人格は死んだらどうなる?たぶん、魂のなかで存続する。人格のすべてではなく、そのエッセンス部分が。魂のほんの一部として。たとえて言えば、手のようなものだろうか。指の一本一本が、人格=個別意識。手全体が、魂。個々に独立しているように見えるけれども、本来は一体。それは、水晶クラスターと同じ構造。母岩から多数のポイントが出ているようなもの。魂も構造的には、水晶と変わらない。個であり全体。この魂も、個となる時がある。魂の集団のようなグループソウルにとって、個々の魂は水晶クラスターのポイントのようなもの。手の五本の指と異ならない。グループソウルにとって、魂は個。魂にとって、グループソウルは全体。人格から見て魂が全体であるのと同じ。魂は、場合によって個にも全体にもなる。次元が変わると、立場が逆転する。より大きなものの前では、個となる。より小さなものの前では、全体となる。宇宙の構造は、相似形。個と全体の組み合わせ。各内臓器官にも、それぞれ意識がある。それらは、人体全体から見れば個別化した意識。人体が、全体。各器官が、個。各器官は、多くの細胞からできている。器官から見れば、各細胞は個。細胞から見れば、器官が全体。器官は、人体にとっては個であり、細胞にとっては全体。器官も個という立場と全体という立場の両方を併せ持っている。器官もまた、個であり全体。個であり全体である構造は、すべての次元に共通する。何層にも何層にも渡る個と全体の連続構造。水晶クラスターの構造が、多次元に渡って存在している。多層多重クラスター構造。ある時は個となり、ある時は全体となる。本質的には、常に個であり全体。大きな大きな水晶クラスターがあるとしよう。母岩からは、たくさんのポイントが生えている。よく見ると、そのポイントの先端からも、たくさんの小さなポイントが出ている。まるでカテドラルクオーツのように。更に詳細に見ていくと、そのまた先端からも、より小さなポイントがたくさん出ている。今度は虫眼鏡で見てみると、更に更に小さなポイントが先端の方にある。それが延々と続く。それが、宇宙。宇宙は、まるで水晶クラスター。母岩から、無数のポイントが何層も何層も出ている。大元の母岩が、全体であり空。各ポイントが、個であり色。最先端の極小のポイントも、大元の母岩と繋がっている。どんな小さなポイントであれ、個であり全体。色即是空。空即是色。母岩もポイントも、ひとつのもの。別々ではない。母岩とは、空、全体、静、陰、受容、女性原理。ポイントとは、色、個、陽、創造、男性原理。中間のポイントにとっては、自分から出ている小さなポイントは個。自分が全体。しかし、そのポイントが出ている、より大きなポイントから見ると、そのポイントは個。大きなものから見れば個であり、小さなものから見れば全体。あらゆるものが、個であり全体。あらゆるものが、色と空を同時に持っている。動であり静。男性原理と女性原理を併せ持つ。宇宙は、水晶クラスターのようなもの。人もまた、水晶クラスターのようなもの。多層多次元構造。個であり全体。「ひとつ」という言葉には、「同じ」という意味もある。また、「一体」という意味もある。同様に、「共に」という意味もある。そして、「全体」という意味もある。母岩と見え、ポイントと見えるものも、本質的にはひとつ。つまり、一体であり、同じもの。個であり全体。色であり空。宇宙は、水晶クラスターが何層も何層も重なっているようなもの。その層が次元というもの。次元の違いは、波動の違い。あたかも波動の違う水晶クラスターが、何層にも渡って存在しているようなもの。そのすべては、母岩に繋がっている。すべては、母岩から生えている。ひとつの存在があるだけ。ひとつの水晶クラスターがあるだけ。これが、宇宙。色即是空。空即是色。個であり全体。『ポイントの 先端だけに 限定し それがすべてと 思い込む自我』『ポイントを たどっていけば 水晶が ひとつあるだけ ひとつしかない』『母岩から 分かれ分かれて 限りなく 宇宙創造 ポイントの夢』『水晶の なかに見られる 構造が 宇宙貫く 基本構造』『水晶を 見れば宇宙の 構造が 一目瞭然 個であり全体』『美しい 水晶見れば そのなかに 宇宙の秩序 厳然とあり』『色と呼び 空と呼べども 本質は 一心同体 個であり全体』『何層も 同心円を 描きつつ 意識広がる 宇宙の次元』これが日記を書き始めて1183日目の心境。* 日記を書いている途中で新しい水晶が届いた。 しかし、水晶を見る前にやるべきことが・・・『水晶を 見たいけれども その前に 日記書かねば 水晶見れない』
2008.03.29
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朝から牡羊座の水晶祭りで行き先が決まった水晶たちの梱包作業。11時過ぎまでに郵便局へ持っていけば、今日のフェリーに間に合う。よほど遠くない限り、明日には届く。しかし、一度に全部はできない。なにしろ数が多いので、今日と明日に分けて行う。梱包する前に水晶に光を入れる。その時に気づいたことがあった。水晶によって光の入り方が異なる。まず柏手で水晶を浄める。それから、光を入れる。正確には、光を通すという感じ。その通り方が、水晶によって違う。スムーズに通るものもあれば、少し抵抗感のあるものもある。抵抗感がある間は、水晶の結晶構造を整えている感じ。結晶が整然と並ぶと、光がスーッと通る。最初から何の抵抗もなく通るものもある。最も抵抗が少ないのは、ヒマラヤ水晶。スーッと何の抵抗もなく光が通っていく。光を通す必要なし?とさえ思ってしまう。光が通る際には、水晶の密度も感じられる。やはり、ヒマラヤ水晶は、すごい。特に今回は最高レベルのガネーシュヒマールがあった。さすがに、そのクオリティはすばらしかった。肉眼で見てもすばらしいのだが、エネルギー的にも実にすばらしい。肉眼でも、たいていのことはわかる。しかし、エネルギー的に感じると、更にこまやかにわかる。水晶の質感が、個々に異なる。ヒマラヤ水晶は、密度が濃いにもかかわらず光がスーッと入る。実にすばらしい!さすがにヒマラヤの高みから来ただけのことはある。見かけはイマイチのヒマラヤ水晶でさえ、驚くほどスムーズに光が通る。ヒマラヤ水晶は、整然と結晶している感じ。光を通し、人の意識をクリアーにする。霊的な光をチャージする。抜群の緻密さに満ちている。ヒマラヤ水晶以外も、それぞれに役割がある。リンクする宇宙が異なる。だから、今、自分がほしいものを手にすればいい。それが今の自分にとって必要なもの。回を重ねるにつれて、光の入れ方も緻密になっている。どんどんバージョンアップしている。これからも飛躍的に深まっていくだろう。更に光に満ちた水晶が、屋久島から旅立つことだろう。気がつけば、屋久島も水晶のような感じ。まるで水晶クラスター。林立する山々は、クラスターの各ポイント。屋久島自体は、クラスターの母岩。屋久島に限らず、平地から聳(そび)える山々の姿は、クラスターそのもの。日本列島が、水晶クラスター。世界中の大陸が、水晶クラスター。それらの山々からエネルギーが放射されている。平地が、女性性。山々が、男性性。地球全体でみれば、海が女性性、陸が男性性。宇宙的に見れば、宇宙空間が女性性、星々が男性性。女性性が、静。男性性が、動。女性性が、陰。男性性が、陽。すべてを包み込む女性原理と、行動し創造する男性原理。空の女性原理と、色の男性原理。空間の女性原理と、時間の男性原理。全体である女性原理と、個である男性原理。個と全体の組み合わせ。それが宇宙の基本構造。水晶クラスターとまったく異ならない。人体も、また同じ。個性を帯び、役割の異なる個々の存在。そのすべてを包み込み、見守る全体。男性原理の動を、やさしく見守る女性原理の静。変化変滅する男性原理を、変わることなく見守り続ける女性原理。静かな宇宙空間に抱(いだ)かれて、星々は様々にきらめく。自由に動き回り、創造宇宙を形成する。そのすべてを無言で包み込む宇宙空間。それが、宇宙の基本構造。色と空。動と静。陽と陰。男と女。二元の宇宙。そのすべてを包含する、ひとつ。ひとつが色と空に分かれる時、宇宙が始まる。その始まりの構造は、すべてに浸透している。水晶クラスターは、個であり全体であるという宇宙の構造を端的に表している。もし目の前に水晶クラスターがあったら、じっくり見つめてみるといい。個々のポイントは、すべて母岩と繋がっている。母岩から個々のポイントは生じている。個々のポイントは、形も色も方向も異なる。しかし、根っ子は同じ。すべて同じ母岩から出ている。それは、人についても言える。個々に分かれて見えるだけ。肉体が別々なだけ。表面意識が分かれているだけ。本質的には、すべて繋がっている。屋久島の山々も、屋久島というベースで繋がっている。日本列島も同じ。地球の陸地すべてが、根底では繋がっている。星々も見えない糸で繋がっている。ひとつの存在の無限の分かれ。分かれて自由に生きると共に、常に母体を忘れないことだろうか。個になりきれば、糸の切れた凧。自分の本質を見失って路頭に迷う。個であり全体である。そのことを身を持って実感することだろうか。もし実感できなかったら、水晶クラスターを眺めるといい。水晶クラスターのなかに宇宙の基本構造がある。『母岩から 個々に分かれて いることを 水晶見れば 思い出すかも』『水晶を 見れば宇宙の 構造が 一目瞭然 個であり全体』『人はみな ひとつのいのち それぞれが ひとつのいのちの 無限の分かれ』『全体と 繋がりながら それぞれが 個性豊かに 夢を咲かせる』これが日記を書き始めて1182日目の心境。* 「1180日目 - 真実」も同時にアップしました。
2008.03.28
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今日の屋久島は、午後から強風が吹き出した。午前中は、新しく届いた水晶の台座を作っていた。大きな水晶は、鉱物用粘土では固定しきれない。特に気温が上がってくると、鉱物用粘土が柔らかくなってしまう。昨夜、大きなカテドラルクオーツが届いた。高さが、13cmほどある。いくつものトップを持つカテドラル。ヨーロッパの聖堂風。しかも、全体が淡い黄色をしているシトリン。上から下まで透明。欠けや傷も見当たらない。ほぼ完璧なカテドラルクオーツ。現在、ネット上で見られるもののなかでは、最上級のもの。現時点で、これ以上のものはアップされていない。買いたくても、そんなに簡単には買えない。お金がいくらあっても、縁がないとやって来ないレベルのもの。カテドラルクオーツとは、宇宙的な叡智を秘めた水晶。大きな時代の変革期に現れる水晶と言われている。二千年ぶりに一斉に出現しているのかもしれない。新しいアクエリアスの時代を切り拓くための水晶。普通の水晶は、トップは1個。しかし、カテドラルクオーツは、トップがいくつもある。昨夜届いたものは、ざっと数えただけでも20~30個のトップがある。それだけ多くの宇宙とリンクしていることになる。自宅にある同サイズのポイントと比較してみると、迫力がまるで違う。ポイント、つまり単結晶は、極めてシンプル。カテドラルクオーツは、ベースは単結晶だけれども、トップはクラスターのようなもの。ポイントであり、クラスター。多様性に満ちた水晶。多次元宇宙と繋がる水晶。宇宙のアカシックレコードとリンクする水晶。古い古い水晶。このカテドラルクオーツを見ていると、モッチョム岳を思い出す。モッチョム岳もカテドラルクオーツのような形をしている。まさにアンテナ。多様な宇宙と地球を繋ぐアンテナ。ムーの時代。屋久島は、巨大な大陸の一部であった。モッチョム岳も今よりも遥かに大きな山であった。屋久島全体が、現在よりも遥かな高みにあった。つまり、宇宙に近かった。そこで宇宙と交信していた。地球の情報を発信し、宇宙の情報を受信していた。今よりも遥かに重要な役割を担っていた。それはモッチョム岳に限らず、愛子岳や七五岳など、屋久島の山々の多くが宇宙と繋がっていた。屋久島全体が、ムーを支えるエネルギー基地であった。その太古の役割が、今、復活しようとしている。屋久島の山々が活性化している。この山々のミニチュア版が、水晶。形が、酷似している。特にヒマラヤ水晶などは、ヒマラヤの山々とそっくり。もちろん、屋久島にも水晶が眠っている。屋久島の水晶は、まだ表に出ていない。秘められたところで出番を待っている。本来の場所で、その役割を果たしている。それらの水晶も活性化しているに違いない。山は、動かない。しかし、水晶は動かせる。山は、不動。しかし、水晶は可動。山々のミニチュア版である水晶は、いろんなところでアンテナとして機能する。いろんな場所をエネルギー場にすることができる。水晶は、宇宙とも地球の山々ともリンクしている。水晶は、明らかに山々のエッセンス。尖ったものは、その先端からエネルギーが放出される。それは、形のエネルギー。山や水晶は、トップからエネルギーを放出している。ピラミッドも同じ。受信装置は、パラボラアンテナのようなもの。形としては、男性自身と女性自身に似ている。それが、発信と受信の構造。役割分担。水晶の本来の状態であるクラスターは、どちらかというと受信装置に近い。そのなかにいくつものポイントが林立している。その個々のポイントが、発信装置となる。受信装置のなかに発信装置がある。受信装置でエネルギーを集め、それを集中させて発信装置から放出する。それが、万象万物の基本的な構造。太古は、両性具有。それが、男女に分離。元々は、発信を含めた受信装置。そこから、発信装置が分離。女性性が、原型。男性性が、分離したもの。染色体の構造も、そのようになっている。女性の方が、原型。受信、つまり受け止める方が原型。抱き参らせ。人は、母親から生まれる。母親、つまり、女性原理が原型。男性原理を含めた、すべての母体。元の元。見守るというのは、そういう元の元の状態。行動する、創造するというのが、男性原理。それを見守っているのが、女性原理。それは、色と空の関係でもある。創造原理が、すべてに浸透している。個であり全体であるとは、男性原理であり女性原理であるということ。ポイントであり、クラスターであるということ。発信装置であり、受信装置であるということ。行動し、創造するのは、人。それを静かに見守るのは、神。人は男性原理、神は女性原理。人は色、神は空。色と言い空と言えども、元々はひとつのもの。雌雄合体。両性具有。ひとつ。それが分離し、複雑化していくのが宇宙創造。分離の極にいるのが、自我。男性原理そのもの。女性原理から隔絶された意識。個であり、色であり、発信装置。故郷を忘れてしまった男性原理。行動することだけしかできない男性性。受容や、やすらぎを忘却した自我。カテドラルクオーツは、ポイントでありクラスター。個であり全体。発信装置であり受信装置。男性原理であり女性原理。つまり、トータル。宇宙の叡智。多様な宇宙とリンクする、新時代を切り拓く水晶。アクエリアスの時代のための水晶。『水晶の なかにいくつも トップあり カテドラルとは 宇宙そのもの』『いみじくも 水晶見れば 創造の 原理がわかる 個であり全体』『それぞれが 個性互いに 輝かせ 全体として ひとつに輝く』『個であって 全体である 原理こそ 宇宙貫く 創造原理』『色であり 空である時 人はみな すべてのものと 繋がっている』『女より 生まれし男 ふるさとに 戻れば次の いのち生まれる』『外に出て 創造するのが 人の道 それを見守り 神は喜ぶ』『全体を 見ずに個として 生きる時 自我となりきり 悩み苦しむ』『全体の なかで個性を 発揮して 輝くことが 個としての道』これが日記を書き始めて1181日目の心境。
2008.03.27
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『真実は 誰も教えて くれぬもの 自分自身で 見つけ出すもの』『真実は 何かと問えば 真実は 自分自身の 裡(うち)にあるもの』『人の世は 試行錯誤で 真実を 自分自身で 見つけ出すとこ』これが日記を書き始めて1180日目の心境。
2008.03.26
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『どうしても 信じるものが ほしければ 自分自身を 信じればいい』『リラックス すればするほど 人生は 信頼感に 満たされていく』『目の前の 山はびくとも 動かない 大きく強く 存在している』これが日記を書き始めて1179日目の心境。
2008.03.25
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(昨日の続きです)最後は、山羊さんですね。「山羊も書き込みしたくなりました。期限遅れで且つ、見当外れかもしれませんが、すいません。山羊はディーラーを職業としています。ディーラー職は、過去ベースを用いて意思決定することが出来ません。罫線分析等々過去のデータを参考にしますが、過去のデータに頼って意思決定することが出来ない職種です。一瞬一瞬が断絶している、ランダムウオークの世界の中で、過去のパターンが頭をよぎって行きますが、今度は違うか?と思ってディーリングしています。今日と明日にも断絶があって、今日の延長が明日では無い世界です。地球を一周して帰ってくると、いきなり変わっています。そのような世界に10年近くいると、今日の延長線上、今の延長線上に次は無い事を日々思い知らされています。日々暮らす中で頼るのは自分の一瞬の勘?だけのように思います。少なくともディーリングの世界では、過去に答えを見つけようとあがきますが、逆に過去を基礎として意思決定できないような気がします。このホームワークからは検討外れだと思いつつ、日常的に過去に縋りたいと思いながら縋れない事を生業にしていますので、思わず書いてしまいました。失礼しました。」相場の世界は、一瞬、一瞬が勝負ですね。先のことは、わかりません。過去は参考にはなりますが、あてにはできません。誰もバブルが崩壊すると思った人はいませんでしたものね。少なくとも素人は。プロのなかでは、少数の人が警鐘を鳴らしていました。でも、オオカミ少年みたいに、いつも言っていたので、あまり耳を貸す人はいなかったですね。でも、見事にバブルは崩壊しました。最初に大きく崩れた時、大多数の人は、また持ち直すと思っていました。これまでは、そうして上げてきたから。過去が続くと思ったのですね。でも、それは間違いでした。それから長い間、株は下げ続けました。やっと、ここ数年、上げに転じていますが、また雲行きが怪しくなっていますね。アメリカも。いよいよかなという感じです。世界の金融システムが、末期症状を呈し始めています。これから過去は、まったく役に立たなくなります。参考程度にもならないでしょう。完全に新しい展開が待っています。過去ベースは、通用しないのですね。頼るのは自分の一瞬の勘だけ?その勘が、正しく働くことを!欲ボケして錆びつかないことを!いつも正確なセンサーであることを!その勘というのは、どこから来るのでしょうね。第六感?その源は?どこ?波動を読む?勢いを感じる?株のエネルギーを感じるのでしょうか。流れや波動を・・・それも自分の欲が入ると、乱れますね。明鏡止水。易聖と言われた高島呑象は、易を立てる時、心身を清めたと言われています。体を清め、心を清めたのですね。無念無想で易を立てたのです。それによって百発百中と言われる易断ができたのですね。つまり、日常の意識を超えた状態で易を立てたのですね。街頭の易者とは、心構えが異なります。心身を清めきらないと、正しい易断はできません。万一、正しい易占が出ても、心が乱れていると、それを間違いなく解釈できないのですね。要は、心を正すことです。心を清めきること。そうすれば、百戦百勝かも。的確な勘が働くのですね。それは既に物質次元を超えていますね。別の次元の波動を読んでいるのですね。物質化する前の波動。物質化する前に、別の次元にその原型ができるのですね。それを読みきれれば、連戦連勝でしょう。いかに心が澄み渡るかですね。要は、いかに心を澄みきらせるかということに尽きます。心が澄みきれば、過去ベースでない意思決定が可能でしょう。それには、今ここに無心でフォーカスすることです。欲を離れて。つまり、思考の次元を超えて。静かに静かに聴き入ることですよ。そのものの声を聴く。響きを聴く。言葉でない言葉でわかるのですね。言葉を超えた言葉でわかるのです。理屈を超えて、スッとわかるのですね。そのままダイレクトにわかるのです。どうしたらいいか。どうすべきか。何をしたらいいか。自分の役割は・・・頭でいろいろ考えることなく、そのままわかるのですよ。それが過去ベースを用いない意思決定です。ストレートにわかることです。理屈抜きに。見抜くことですね。先入観なく。ダイレクトに。それには、心が澄んでいないと・・・心が澄みきれば澄みきるほど、過去ベースでない意思決定がスムーズに行われるでしょう。心が濁っている間は、千千(ちぢ)に乱れるでしょう。心が混乱している限り、思考も錯綜するはずです。まずは心の整理整頓が必要ですね。それなくして、心が澄みきることはありません。まずは、自分の心を見つめることから始めることでしょうか。心のなかが整理されるにつれて、心はクリアーになっていきます。それにつれて、行動も過去ベースではなくなっていくでしょう。だんだんと、今、今に生きれるようになっていくでしょう。今ここが、すべてのすべてです。すべてのエネルギーが結集しているところです。ここに焦点を当てることですね。その焦点は、限りなく繊細になっていきます。瞬間の密度も無限なのですね。意識の密度しだいです。さてさて、宇宙は広いですね。『過去こそが 思考の基と わかったら 思考手放し 頭休める』『見極める 徹底的に 見極める 見極めきれば 気づき生まれる』『気づきから 自然に起きる 行為こそ 思考を超えた 非自我の行為』『見極めて 損得抜きで 起きるのが 選択のない 気づきの行為』『見極めて 心が澄んだ その時に 為すべきことは 自然とわかる』『思考から 思考を超えた 気づきへと 意識の次元 変わる潮時』これが日記を書き始めて1177日目の心境です。
2008.03.23
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(昨日の続きです)次は・・・昇華さんですね。昇華さんは、パソコンの調子が悪くてBBSには書き込めなかったそうです。次のようなメールが届きました。「『今』と言った『今』は、一秒後には『過去』になり、『未来』と思っていた『未来』は、一秒後には『今』となり、そのまた一秒後には、『過去』になります。『過去』に感じ、体験したと思っている事も、、『今』思うこと、『今』 感じる事ならば、それは、『今』の事であり、ともすると、さっきまでの『未来』だったりするのです。 時間軸に捕われず、そして空間軸にも捕われないで、自分軸を中心に据え置いて『その瞬間』を感じること。ただひたすら『感じる』ことが、『過去ベース』というものに捕われないで、決定する方法だと想います。と言いつつも、この表現も、どんどん変化するのでしょうね~^^」その瞬間を、ただひたすら感じるということですね。それが過去ベースに囚われないで決定する方法?時間軸や空間軸に囚われず、自分軸ですか・・・その自分軸が問題かも?確かに、過去や未来に囚われる必要はありませんね。時間は、思考の産物ですから。絶対的なものではありません。ただ、自分のなかに過去の蓄積物があるということですね。無意識のうちに、そのフィルターを通して物事を見ているということです。時空を超えて見ている?時空を越えてひたすら感じている?そういう場合もあるかもしれません。でも、そういう時というのは、思考が止まっている時です。思考が止まれば、時空を超えることも可能です。過去からワープできるのですね。でも、なかなか思考は止まってはくれません。波動が上がってこないと、思考は止まりません。低波動状態では、思考は動きっぱなしです。どうやって波動を高めるか。それは真剣に見ることですね。静かに、注意深く見る。見極める。そういう時に思考は静かになります。要は、意識状態ですね。過去が介入できないくらいの意識レベルであるかどうか。深く深く感じきれているかどうか。事態と一緒に居きれているかどうか。すべては、自分の意識状態しだいですね。次は、青色琥珀さんさんですね。「ホームワークの参加、初めてです。期限切れですみません。宜しくお願いします!自分なりにかんがえてみました。まずは、答えから。『今の私には、過去ベースを用いずに意思決定できない』ということに、気づかされました・・・この物質界にいる限り、難しいと感じます。何故かといいますと、たとえば、私は羊年の羊座なのでが、私がヒツジだったとします。 オオカミが襲ってきたとき、他のヒツジ達が逃げると、本能で『ヤバイ!逃げろ!』と思って逃げます。しかし、一度襲われて助かっていた場合、「この前のオオカミだ!逃げろ!」と、姿を見ただけですぐに行動に移せると思います。これは過去ベースですよね?例えがすごく悪くて申し訳ないですが、より良く生きる為には必要なこともあるのではないかと考えました。(より良く、という定義も難しいですがここでは省略します)ただ、気をつけるべきはシッポをくわえた犬のように『思い込みワールド』にはまり込まないこと。kimiさんの言われるように事実を捉えて流れるように生きていくこと。kimiさんの日記を欠かさず読むこと・・・このように考えがまとまりました。自分が過去ベースで生きていることがよく解かり、今回のホームワークに感謝します。 ありがとうございました。」今の私には、過去ベースを用いずに意思決定できない?この物質界にいる限り難しい?今、できないというのは、それでいいですよね。よく気づけましたね。でも、この物質界にいる限り難しいと決めつけることもないでしょう。決めつけてしまえば、もう不可能になってしまいます。そんなに小さく自分を限定することもないでしょう。自己限定は、自分を縛りますよ。過去の失敗から学習するということはありますよね。でも、同様に「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」ということもあります。 つまり、心の傷があることによって、過剰に反応するということですね。過ぎたるは及ばざるがごとしです。学習は必要、でも、過剰反応は不必要。なかなか頃合いが難しいですね。過去を活かし、なおかつ、過去に縛られない。かなりしなやかな心が必要ですね。今、目の前の事実ベース。これが基本です。過去は、あくまで参考。今、目の前の事実を見極めるということですよ。以前は危険だったものも、今は危険ではないかもしれません。以前は安全だったものも、今は危険かもしれません。常に注意が必要ですね。過去の目で今を見ないということです。過去の目で今を見てしまうと、ありのままの今が見えなくなってしまいます。それこそ、思い込みで見てしまうのですね。それを不注意と言うのですよ。今、今、今・・・です。今に注意深くフォーカスすることですね。過去は、あくまで参考です。ギリギリまで今を見極めることですよ。その時に初めて過去ベースでない行動が起きてくる可能性が生まれます。(明日に続きます)
2008.03.22
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昨日の続きです)次は、みるちゃん♪さんですね。「はじめて参加します。よろしくお願いしま~す!難しそうですね!この週末じっくりと自己観察してみます。週末で仕事がないので時間的な制限もなく、さあ今起きよう、○○しようと自分の気持ちに正直に行動していました。でも、顔を洗う時や洗濯など家事をする時は無意識で何も考えずに、いつも通りに行動していることに気づきました。これは過去ベースですね。観察しているうちに、いろんな思いが湧いてきました。何を求めて私はKimiさんの日記を何度も何度も読んでいるんだろう?何をベースに意思決定しているのかな?今年に入ってから、いのちの島でぴあのさんが紹介してくれたKimiさんの拠り所という日記に感動し、瞬間、瞬間、ありのままの自分と一緒にいようと決意したところなのですが・・・朝起きるタイミングも、ありのままの自分と一緒にいようと思う決意も、自分がただこうしたいという思いから決めているのですね。自分ではそれが自然なことと思っていましたが、その思いが私の自我なのですよね?真の意味の自由とは、思い込みから自由ということ。過去から自由。自我から自由。何ものにもこだわらない。完全に自由な心ということ。というkimiさんの言葉も大好きです。思い込みについては度々考えていたのですが、自我については深く意識することがなかった私です。過去から、自我から自由だとどのような意思決定になるのでしょうね~?結局、ホームワークの答えは見つかりませんでたが、週末、ホームワークを意識して過ごし、今までいかに無意識に生きてきたかを再確認しました。自分と向き合う機会をいただきありがとうございました。」答は見つからなくてもいいのですよ。大切なのは、答ではありませんから。重要なのは、自分を見守るという行為そのものです。その行為のなかに答はあるのですから。頭でわかったつもりになっても、結局は机上の空論です。実際に自他を見守ることなのですね。見守るなかで実感することです。過去ベースではない意思決定というものを。まずは、いかに自分が無意識に生きているかということに気づけただけでも、すばらしい収穫ですね。そこからすべてが始まるのですから。いかに自分自身を知らないか。無知ということですね。最もわかっているつもりで、まったくわかっていないのが自分自身です。自分のことが一番わかりづらいのですね。普段から自分を見るという習慣がありませんから。外にばかり意識が向いているのですね。まずは、その意識を内に向けることです。自分自身を理解することが、人を理解することです。自分自身が理解できない限り、真に人を理解することはできません。自己理解が、すべてのベースです。その自己理解を深めていくプロセスのなかで、見守る意識が育っていきます。その意識が、過去ベースではない意思決定を可能にします。見守ることがベースにない意思決定は、ほとんど過去ベースです。あるいは、たまに閃きとして訪れるだけのものです。見守るなかで自分自身が理解され、自我が静まる必要があるのですね。そうでなければ、過去ベースでない意思決定は不可能です。すぐに比較したり判断したりします。ただ静かにしていることができないのですね。だいぶ本質的な部分に近づいてきましたね。次は、誰でしょう?ぴあのさんですね。「ホームワークが出てから四日間、注意深く自分の思考の動きを見つめてみました。そして、過去ベースを用いずに意思決定ができるか、試みてみようと思いました。四日間ワークしてみて、気づいたことを書きます。私達は、過去ベース、比較の世界で生きている ということは理解していたつもりです。 が、意識を曖昧にせず常に自分を見つめ続けてみた時に、今まで見過ごされていた無意識にいつも通り過ぎていたことが、見えてきました。それは、過去ベースというものが、どれほど事実を見る目を曇らせているのか、ありのままを感じることを妨げているのか ということでした。仕事をしていても、音楽を聴いていても、美しい芸術に接していても見ていても・・・ 無意識に今その場の状況を、過去との比較を通して感じている自分がいました。もちろん、そんな比較をしながら見たり聴いたりするつもりは全くないのです。ただ、過去が常に意識のベースにあって、何をするにも感じるにも、思考が過去を持ち出すのです。それはこの四日間、日常の些細なこと、四六時中、すべてにおいてそうでした。そしてそのことは、向き合う対象すべてにおいて、その対象の何にも歪められることのないそのもの、そのまま、ありのままを感じることを妨げている ということが言えます。さて先日、私の中に常に根強くある、あるネガティブ思考が、いつものパターン、癖で表面化し、私の意識いっぱいに広がりました。その時の私の意識、頭の中は、そのことに纏わる過去のイメージで占領されていました。 過去が蘇り、過去を恐れていました。咄嗟に思いました。「こんな意識には占領されない!」次に思いました。この意思決定は、過去をベースにしている。占領される自分と占領されまいとする自分に分離している。そして次に、一切のイメージを排除しました。(なぜか、ふとできました)イメージ、つまり、過去の記憶、時間の外へ出る。途端に、今までであれば必ずその次に訪れる意識の連鎖反応がピタッとやみ、過去に占領されていた私の意識が開放感と共に広がりました。そして、今この瞬間のみ、時間のない今を、その時に一瞬ですが感じることができました。その時、自分も見える景色も今いる空間も、何をも通さないありのままを感じることができたように思います。(これは少し感動でした)過去から自由になること、それは一切のイメージを持たないこと、一切のイメージなく、今ありのままのこの瞬間で意思決定する。その時、『過去ベースを用いない意思決定は可能』 ということになるのではないでしょうか。そして、意思決定することにイメージをつけないことも重要ではないかと思います。 ps以上です。いつも長々とすみません。ズレているかとも思いますが、イメージ、過去から一瞬自由になれたあの感覚、体験は、自分ではとても大きなものでした。昨夜もふと一瞬ですが、一切の過去から自由になった瞬間がありました。自我の内にいる時には到底感じることのできない暖かさ優しさ、根源の愛、何か不動のものを感じました。私にとって実りあるホームワークでした。ありがとうございました。」真面目にホームワークに取り組んでいるのが、伝わってきますね。一切の過去から自由になった瞬間を体験できたのですね。すばらしい!ホームワークの成果ですね。そういう状態で物事を見れば、おのずとわかってくるのではないでしょうか。何を為すべきかが。あるいは、何を為すべきでないかが。自然にわかるのですよ。それは、過去ベースではないのですね。思考は動きませんから。もちろん過去のデーターベースでもありません。でも、過去のデーターを無視しているわけでもありません。過去のデーターも踏まえてトータルなのですね。トータルな状態で自然に意思決定がなされるのです。とりたてて決定するまでもなく、明らかなのですよ。そこまで見きる必要があるのですね。事実と直面し、事実と共にいる。まずは、居きることですね。事実から目を逸らさない。ギリギリまで事実と一緒にいる。事実と居きり、事実を見きる。そのエネルギー状態なのですよ。そのエネルギー状態があれば、過去ベースでない意思決定が可能です。トータルな状態ですね。そういう意識状態でなければ、すべて過去が介入します。無意識のうちに過去が潜入しているのですね。過去の影響から外に出るには、時間の外に出る必要があります。思考の次元の外にいる必要があるのですね。思考も含めたトータルである必要があります。その時に、過去ベースでない意思決定が可能です。それは自然に起きます。意識的に起こそうとするのは、自我です。自然にそうなるのです。そして、自然に取るべき行為がわかる。為すべきことがわかるのですね。わからなければ、わかるまで一緒に居きり、見極めるしかありません。なかなか厳しい意識状態です。安易な意識状態ではありません。深く静かな状態です。意識のポイントは、後頭部の後ろの方にあります。ぴあのさんは、その後も書き込みをしていますね。「今回は、kimiさんの回答がアップされるのに期間があいているということもあり、先週見つめた四日間から後も、絶えず自分の中にホームワークが意識された状態で日常を過ごしています。ホームワークを書き込んでから、その後さらに見つめてみて思ったことをシェアします。これは、既に提出期限の過ぎた自分の一人ホームワークであるので、取り上げていただき回答を望んでいるものではありません。日記でアップされるkimiさんの皆様へのコメントを読んで、自分が見つめてみたことを再度見つめなおしてみます。今回のホームワークで一番よくわからなかったのは、”決定” という言葉でした。この言葉にかなり考えさせられました。日記を読んで、瞬間に思ったことは、『決定はできないのではないか・・・ 決定は自我ではないのか・・・』ということでした。でも、過去ベースを用いず(つまり自我を使わず) 決定ができるものなのかどうかを、よく見つめてみようと思いました。その結果、一週間前に書いたような内容になったのですが、それからも決定という言葉が引っかかっていて、ずっとワークしていました。一週間経ち、今は自分の中でこのような答えになっています。いくらその瞬間白紙の状態、何もイメージを持たない過去から完全に自由な状態物事のありのままが感じられる状態があったとしても、そこで何かを決定しようとする行為が成される時、それはやはり思考を使う訳なので、思考が持ち出された瞬間、純粋思考でない限りはイコール自我、過去から来るもの になってしまうのではないだろうか・・・という考えに行き着き、私の、”一切イメージを使わない時に過去ベースを用いない決定は可能ではないか?” という答え(答えじゃないですね、何て言うんだろう?)は、今現在自分の中で脆くも?崩れ去っています。」あまり言葉にこだわることもないでしょう。厳密に言えば、確かに決定は思考の行為とも言えます。でも、自然に決まるのですよ。自然に落ち着くところに落ち着くのですね。思考で考えて決めることは必要ありません。無理がないのですよ。それこそ、しっくりくるのですね。葛藤も後悔もない。自然にわかり、自然に決まるのですよ。無理に決定する必要はないのですね。事実と一緒に居きったら、為すべきことは明らかになっていくのですよ。あらためて決定するまでもなく。それが、自我の行為ではない行為ですね。無為ということでもあります。作為がないのですね。意図がない。意図というのは、やはり自我の場合が多いのですね。自然な流れ。宇宙の流れに沿った行為になるのですよ。みんなと調和した行為ですね。(明日に続きます)
2008.03.21
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(昨日の続きです)次は、藍さんですね。「自分は。。つくづく最近アルツになっていると思うのです。真摯に考えることが少なくなりました。。。そんなアルツの頭で。。いろいろ考えましたが。。なんと!藍は。。未だに思い込みと自我の塊なのかもしれないと気がついてしまった。 まだ過去ベースを用いて意思決定をするほうが上等です。ほとんどが浅い考えと思いつきで行動している藍がいました。ひらめき?と言うなら。。まだ聞こえはいいです。ほとんど本能のまま自我のままなんですもの~。。アルツ街道まっしぐらですね。。ただ。。お仕事の選択で言えば。。。人の役にたつお仕事がしたかった。。昔から(学生のときから)誰かの役に立つ生き方がしたかった。それが得だと思ったのではなく。。誰かの役に立つことで。。こんな自分でも生かされていると思えるのですね。安心するのです。。自分のこころが。。。ほとんどが自己満足の世界なのですが。。。きっと誰かの役に立つことで。。自分が生きていてもいいんだって思えるんです。つまり。。もともと藍は、自分に自信がないんです。不安の裏返しですね。。自分が生きていても価値のない人間だと思っている時期が長かったから。。。。。と言うことは、やはり自分の本能のまま生きているに過ぎないのですね~。。(汗) でも、いまは子供たちから必要とされ、ヘルパーのお仕事を通して必要とされ。。。だから。。藍は、いまが一番しあわせです。誰からも必要とされなくなったら?とKimiさんから問われそうですが。。。(汗)そんなときは。。夫婦仲良くアルツになって。。微笑みながら生きていきたいな~~。。」 真摯に考えることが少なくなった?まだ過去ベースを用いて意思決定をするほうが上等?ほとんどが浅い考えと思いつきで行動している?ほとんど本能のまま自我のまま?思い込みと自我の塊なのかもしれないと気がついた?まあ、気づいただけましですね。もしかしたら、これまでは、それすら気づいていなかったのかもしれませんから。それこそ、本能のまま自我のままですよ。自分を見つめることで、ありのままの自分がわかってきます。ありのままの自分がわかったら、それを批判したりしないで一緒にいることですよ。そんな自分と一緒にいてあげる。やさしくいてあげることですね。子供に必要とされ、仕事を通して必要とされ・・・今が一番幸せ?いいですね。今の幸せを思う存分味わってください。心ゆくまで味わえばいいでしょう。自己満足と思わないで。十分満足すればいいですよ。自分が、もうこれでいいと思うまで。それは、他者依存であり、自己満足かもしれません。でも、それでいいのですよ。今、そうしたいのなら。心ゆくまでそうすればいいでしょう。十二分に体験しきったら、次のステップへ進むでしょう。アルツになっている暇はありませんよ。そんなのは逃避ですから。逃げているだけですから。一歩一歩着実に生きればいいのですよ。今やりたいことをやりきって・・・やりきれば、執着は残りません。中途半端にやるから、執着が残るのです。徹底的にやりきることですね。そうすれば、また道が開けます。新しい道ですね。未知の道です。無理をしないで。我慢しないで。素直に。正直に。ありのままに生きればいいのですよ。楽にね。そうしているうちに、だんだんと深いものが出てくるでしょう。更に深く生きたいと思うでしょう。次は、えっちゃんですね。「私の買い物の仕方、衝動買い…。じっくり検討することはあまりない。目の前に突如現れて、私の好奇心を揺さぶると買ってしまう。生きる上での選択もそんな感じ。事態の変化に、目の前に用意されたものを、選択の余地なしとして、不安を抱えながらも、好奇心を原動力に受け入れる。成り行きで、仕事を変わることも多かった。何の当てもなく仕事をやめた後、もちろん、仕事探しをしたりするけれど、幸いなことに新しい仕事は、不思議なほど用意されていた。けれど、私はどんな職場に行っても有能な人材になれない。一生懸命やっていても、不器用なのです。だから、キャリアというものもない。そういうわけで、新しい仕事を『選択する』等という状況になりにくい。今、目の前の仕事を、不安を好奇心と止む無し事情で押しのけて受け入れる。生き方に関しても、新しい世界に飛び込む場合、私は、選択というより、流れに任せるやり方しか知らないのです。そういう場合の、過去のデータは私を萎えさせるだけ。好奇心だけが支えでした。過去が参考にならない場合、選択は好奇心が決める・・・これは何ベースになるのか?過去からの脱皮ということになると、過去も意識していることになる?どうなのかな?」好奇心ベース?止む無しベース?流れベース?無選択ベース?結婚する時も?離婚する時も?自分で仕事を始めた時も?屋久島に住んだ時も?ボランティアに行くことも?みんな無選択ですか。過去ベースではないのですか。衝動ベース?それで失敗することはないの?好奇心や衝動は、どこから来るのでしょうね。その奥にあるものは・・・ハー、コメントのしようがありませんね。ホームワークを提出した後、また一人ホームワークなるものが書きこまれていました。 「一人ホームワークです。私も疑問符で提出してしまったんですが、やはり、過去に囚われずにいたとしても、過去を無にしては意思決定は出来ないと思います。意思決定は、ぴあのさんの言葉にあるように、思考を使うわけです。私のように思いつき人間でも、過去のデータの切り張りで思考しているわけですから、過去に囚われて身動きならないというのでなく、もっと自由に思考して、過去のデータは利用するということで意思決定する・・・ということになります。これが私にとって一番自由な意思決定です。」過去のデータを利用する?確かにそれも必要ですよね。電車に乗ったりする時には、過去のデータがないと困ってしまいます。どこで切符を買えばいいか、どこで乗り降りすればいいか・・・また最初からやっていたら疲れますよね。そういう意味では、過去のデータは役に立ちます。でも、過去のデータが邪魔になる時もあるのですね。たとえば、心理的トラウマとか。似たようなものを見る度に、思い出して苦しむということが起きます。そして、その苦しみから、更なる苦しみの選択をすることも。過去をいかに適切に活用するか。あるいは、過去に振り回されないか。嫌な思い出があると、そのイメージで人を見たりしませんか。今と過去では、その人は違うにもかかわらず、過去の目で見てしまいますよね。そこからトラブルが生じます。逆の場合もありますね。昨日はやさしかったのに、今日は同じことをしても怒られてしまうとか。昨日のつもりでいたら、とんでもないことになります。それは不注意ですね。惰性とも言います。それが過去ベースです。必要な過去は用いながらも、なおかつ、過去に振り回されない。なかなか一筋縄ではいきませんね。だから、こうしてホームワークになるのですね。衝動と好奇心だけでは解決できない問題かも・・・次は、優しい気持ち2005さんですね。「思考は過去ベース。顕在的、潜在的な記憶、観念、思考パターンに縛られます。過去、未来の時間に縛られると言ってもいいでしょうか。自分に素直になって、その時の本心から意思決定する?その本心というのも怪しいもの。思考を用いて本心を探ってみても、それはイメージの自分との対話でしかないのではないでしょうか。意思決定の対象を言葉やイメージで理解して判断した場合、すでに、あるがままの事実ベースから遠のいているように思います。思考が働かない意思決定、比較を行なわず相対的ではない意思決定、というものがあるのかどうか。見守る意識は今ここにしかありません。見守る意識は常に今ここで事実とともにあります。もし、純粋に今ここにある意識でもって意思決定をすることができるならば、それは事実ベースの意志決定だと思います。記憶という重荷から開放された意思決定、僕にはできていないことですので、このような答えになってしまいました。でも、過去ベースを用いない意思決定、とても興味深く、みなさんとkimiさんのコメントが楽しみです。」確かに本心というのも怪しいですね。コロコロ変わったりしますものね。潜在意識の可能性が、大いにあります。そういう意味では、注意が必要ですね。思考が働かない意思決定?比較を行なわず相対的ではない意思決定?純粋に今ここにある意識でもって意思決定をすることができるならば?確かに、過去ベースではありませんね。思考ではない意思決定ですね。今ここにあっての意思決定。見守りながらの意思決定。いい線いってますね。(明日に続きます)
2008.03.20
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一月末に出たホームワークが、そのままになっていました。回答の多さに躊躇するものがありました。それなりのエネルギーがないと、全部に目を通してコメントするのは難しいのです。 日々の日記を書くだけで精一杯でした。でも、タイムリミットが来てしまいました。本格的なガイドシーズンの幕開けです。このままにしておくと、冬までできそうにありません。そこで、意を決して取り掛かることにしました。ホームワークのテーマは、「過去ベースを用いない意思決定は可能だろうか」というものでした。さて、みなさんの回答は・・・それでは、回答が寄せられた順に見ていきましょう。最初は、クリスタルさんですね。「過去からではない選択はできると思います。(であって欲しいという願望も少々含む。。(笑))思考からくる選択が多いですが、時々、直感のように湧き出る、もしくは、降ってくるようなひらめきのような予知のような、そんな選択肢が出てくるときがあります。自分では、自分の意識が気づいてる範囲を超えて生み出されているように感じる選択肢だと認識しています。といっても、自分が顕在的に意識できてない、過去からの縁で出てきている答えかも。。 という気もしますが。。」直感。それは、過去ベースでない可能性はありますね。でも、過去ベースである可能性も捨てきれません。かなり微妙ですね。思考を超えてダイレクトにやって来ることは、確かですね。そういう意味では、過去ベースではないかもしれません。少なくとも思考ベースではなさそうですね。でも・・・その直感の質ですね。どこから来るものなのか。潜在意識レベルだと、忘れていた過去という可能性もありますね。あるいは、人類の集合意識。ハイアーセルフや魂レベルからのものもあるかもしれません。それは何とも言えません。問題は、どうしたら過去ベースでない直感が生まれるかということですね。どうしたら、過去ベースの直感ではなくなるかとも言えますね。それは、やはり日々の生きる姿勢でしょうか。日々、どういう次元で生きているか。毎日、どういう姿勢で生きているか。毎日、どういうスタンスで生きているかですね。日々の生きる姿勢が高次元なら、高次元からの直感が届くでしょう。逆に低次元なら、低次元からの直感ということになります。それから、もう一つ問題があります。直感は、何から来るかということです。自分以外の何か?それとも、ハイアーセルフや魂?守護霊やご先祖ということもありますね。はたまた、宇宙人や霊界人ということもあるかもしれません。出どころがはっきりしないと、不安ではありませんか。直感に従っていいのかどうか迷いませんか。直感は、常に正しいでしょうか。検証したことがありますか。直感も注意深く見守る必要があるのですね。安易に頼ってしまうと危険です。一番の基本は、日々の生きる姿勢です。日々の生き方が、真っ直ぐであれば直感も信頼していいでしょう。毎日の生き方がいい加減であれば、あまり信頼しない方がいいかもしれません。最終的には、自分自身の生き方が問われます。日々、真剣に生きてください。日々、自分に正直に生きてください。次は、ゆめまくらさんですね。「ごめんなさい。過去ベースという意味がまだよくわかっていないのですが、この部分だけ言えることができたので、コメントさせてくださいね。>過去ベースで人生を選択しているのだろうか。その瞬間出会った縁で人生を選択していると思います。人も物も。あと知ってはいないけれども、見たり聞いたりしたことはないけれども、確信ある気づき(智慧?)というのは誰にでもあるものと思います。それが過去のことからであるか、今気づいたものであるか、未来(予想)であるものであるのかは、その人が決めることなのではないかと思いました。ん~なので、よくわかんないけど、できるかできないかはやっぱりその人次第になるのかな。もし過去ベースということを知っていたら、選択には当然はいってくるのでしょうが、私には今はないのかな。よく使われている言葉みたいですが、理解不足な為、ここまでにさせていただきます。」 まず、過去ベースということがどういう意味なのか、日記をよく読み返された方がいいのではないでしょうか。ゆめまくらさんは、何かを決める時に、過去の経験をベースにしてはいませんか。それが過去ベースということです。ですから、そういう過去の経験を使わない決定はできるだろうかというのが、今回の問いかけです。その瞬間出会った縁で人生を選択している?縁というのは、過去の縁ではないのですか。そもそも、縁であるなら、選択と言えるのでしょうか。ほとんど無選択ではありませんか。確信ある気づき(智慧?)というのは誰にでもある?知ってはいないけれども、見たり聞いたりしたことはないけれども?それなのに、どうして誰にでもあると思うのですか。確信ある気づきというのは、外れることも多々ありませんか。もう少し時間をかけて、日記をじっくりお読みになることをお勧めします。サッと目を通すだけでは理解できないと思いますよ。もしサッと目を通すだけで理解できるのなら、この日記を読む必要はないということです。多くの方は、何度も何度も繰り返し読んで理解されていると思うのですが・・・次は、くみこさんですね。「ホームワークに初めて参加します。よろしくお願いします。ふと湧いてきた想い・・・、理由はない、ただそうしたい・・・というのが過去ベースを用いていないと思います。過去ベースの想いが湧いてくることは多いです。自分を見守りながら、その都度、過去ベースの思い込みに気づいて解放していく。自分は本当はどうしたがっているかに気づく。そして、それを行動に移す。いつも自分をしっかりと感じて、過去ベースを用いない意思決定ができたらとても満たされると思います。そのように心がけて生きていきたいと思っています。 」理由のない、ふと湧いてきた想い・・・確かに、そういうものはありますね。懸案事項の糸口が、ふとわかるとか。突然気づくことはあります。そういうものは、過去ベースではないかもしれませんね。直感と似ていますね。少なくとも思考は使っていません。でも、それも不確かですね。必要な時に確実にやって来るというものではありません。それに、なんとなくハイアーセルフからのサポートぽくもあります。カンニング?まさか・・・虫の知らせみたいなものもありますね。それも過去ベースではないかもしれません。でも、そんなことは、いつも起きるものではありません。もっと日常的に過去ベースを超える必要があるのですね。普段、普通に過去ベースではない生き方。いつ湧いてくるかわからないものではなくて、もっと確実な過去ベースではない意思決定はないのでしょうか。それが求めている回答です。もう少し自分を見つめてみてください。次は、ゴンさんですね。「ホームワーク初参加です。よろしくお願いします。ですが、難しいですね(>_
2008.03.19
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昨日、次のようなコメントがありました。「初めまして。いつも楽しく読ましてもらってます。初めてコメントします。いきなりなんですが、一つ、疑問があります。非苦がないということは、楽しいとか喜ぶとかそういうのもないということにはならないんでしょうか?悲しんだり苦しんだりした分だけ人は楽しめたり喜べたりするもんだと思うんですが…もしかして、話の次元が違うかも。お時間があればお返事くださいな。」所有するということがなければ、奪われる悲しみや苦しみもありません。しっかり握っているから、無理やり引き離される時に苦しみや悲しみが生まれるのですね。何も所有していなかったら、所有から生まれる悲苦はあり得ません。それでは、楽しみや喜びはどうなるのでしょうか。悲しんだり苦しんだりした分だけ人は楽しめたり喜べたりする?確かにそういう一面もありますね。それは、愛憎の愛に似ています。可愛さ余って憎さ百倍というやつです。愛と憎しみが裏表なのですね。自分の思い通りにならないと、愛はすぐに反転して憎しみに変わります。非常に不安定な愛です。自分勝手で相対的な愛ですね。苦労した分だけ喜びも大きい?だから、努力しなさい?そういう相対的な楽しみや喜びもあります。それはそれでいいのですが・・・努力して美しくなっても、やがて容姿は衰えます。体を鍛えて逞しくしても、年齢には勝てません。努力してトップになっても、次は敗れるかもしれません。相対的な楽しみや喜びは、永続しません。あんなに頑張ったのに・・・すべては夢と消えていきます。まるで水に浮かぶ泡沫(うたかた)のようです。そこから虚しさが生まれます。悲しみや苦しみをベースにした楽しみや喜びは、儚(はかな)いものです。しかも、その儚い楽しみや喜びを得るためには、辛い悲しみや苦しみを経なければなりません。喜怒哀楽とは、よく言ったものです。それらが回っているだけです。輪廻の輪。カルマの連鎖。自分の尻尾を追いかけまわしている犬です。自作自演ですね。それは、終わることのない悲苦の人生です。それは、すべて所有することから生まれます。自分のものと思い込むのですね。しっかり掴んでしまうのです。それが自我の人生です。自我の人生は、悲苦と隣り合わせです。その隣には、儚い楽しみと喜びがあります。悲喜交々(こもごも)とは、よく言ったものです。そういう人生を生きたければ、それも可能です。誰も止めることはできません。それぞれの人生です。尊重するしかありません。それでは、悲苦のない楽しみや喜びは存在しないのでしょうか。それは存在します。別に所有しなくても楽しみや喜びを見い出すことは可能です。道端に咲いている花の一輪にさえ、限りない美しさが秘められています。要は、それを見い出す心の状態です。その路傍の花でさえ、執着すれば、次の日には悲嘆にくれることになります。ただ、その時、その場の花を愛でるだけ。一切引きずらない。その時にだけ、悲苦が生まれません。瞬間だけが、影のない光なのです。時間を持ち込むと、悲苦という影ができます。時間とは、記憶であり、比較であり、執着です。今と以前を比較して、なくなってしまったものを嘆くのが悲苦の実態です。比較は、思考作用。そして、執着が悲苦の源です。では、なぜ執着するのでしょうか。本当は、これはホームワークにしたいのですが・・・ホームワークを見る時間的余裕がありません。でも、少しは自分で考えていただいた方がいいでしょうね。ここのところ速度が速いので、少し踏みとどまって自分で考える必要があるように感じます。最近の日記は、かなり深化しています。それもハイスピードで。付いてこれているでしょうか。一人だけ進んでもしかたがないので、やはりホームワークが必要なようですね。(詳細については、日記の最後に書きます)自我とは、しっかり握りしめて自分のものにすることです。まるで子供ですね。小さな子は、よくやっています。これ私のもの、取っちゃダメ!その子供が大人になったのが、今の人類です。基本的には、子供と変わりません。自分のものと言い張って、互いにケンカしているだけです。それが少し複雑になっただけですね。何度も繰り返しますが、握ってしまえば悲苦が生じます。握りしめている手のなかには、何もありません。それは思い込みという幻です。実際は、何も自分のものにすることはできません。自分のものにすることはできないものを、自分のものと錯覚することから悲苦が生まれます。悲苦は、錯覚の産物です。錯覚とは、つまり思い込みです。これが悲苦の本質です。錯覚なのです。人生は、錯覚?思い込みとは、そういうことです。幻の人生なのですね。影のない光の世界に生きるか、影のある光の世界で生きるか。その違いです。事実ベースで生きるか、思い込みベースで生きるか。いつまでも幻を追い続けますか。悲苦をベースにした楽しみや喜びは、儚い夢です。追い求めても、気がつけば消えているものです。掴まえたつもりが、いつのまにか手からこぼれ落ちています。人が追い求める幸福とは、そういう種類のものです。人生の真実を見極めないで、ただ幻を追い求めているだけです。それが幸福の青い鳥の正体です。青い鳥は、捕まえることはできません。掴まえたと思ったら、飛んでいきます。瞬間、瞬間、愛でて、即、忘れる。それだけです。瞬間、瞬間、楽しみや喜びはあります。後を引かない楽しみや喜びです。それが影のない楽しみや喜びです。悲苦を伴わない楽しみや喜びですね。気がつけば、楽しみと喜びだけの世界です。楽しみや喜びを感じる感性さえあれば・・・何もいらないのですよ。必要なのは、そういう繊細な感性です。楽しみや喜びは、限りなく深まっていくものです。努力や頑張る必要もありません。繊細に、注意深く生きればいいだけです。瞬間の密度は限りなく深まります。瞬間の密度は、無限です。波動が遅いから瞬間に生きれないだけです。波動が遅いから、時間の世界で生きているのです。悲苦を伴う時間のなかでしか生きれないのです。何もかも自分のものにして引きずっているから・・・重たくて波動が遅くなってしまうのです。いっぱい所有して背中に背負っているから、重たくて遅いのです。何も持たなければ、軽くて速いのです。しっかり持ってしまっているから、自由に動けないのです。物質に縛りつけられて身動きがとれないのですよ。時代の波動は、どんどん速くなっています。いつまでも物質に執着していると、時代に取り残されてしまいますよ。地球自体が、変容しようとしています。影のない光の世界に移行しようとしているのです。そういう時代だからこそ、こういう日記も出てくるのですね。時代の要請です。人類の意識を変えるための一環です。もっとも、これは日本人向けバージョンですが。まあ、楽にゆっくりお読みください。何度も読んでいれば、やがてクリアーになるでしょう。自然にクリアーになるようにできています。言葉だけではありませんので・・・『悲苦はじめ 不安や恐れ 何もかも 思い込みから 生まれ出るもの』『本当は 残像なのに あるように 思い込むのが 自我というもの』『イメージは 錯覚であり 思い込み 事実ではない 過去の残像』『錯覚の 上に成り立つ 人生は 自我そのものが 錯覚そのもの』『人生に 革命起きる 人生が 錯覚なりと 自覚する時』『今ここの このきらめきを 味わわず 所有するから 後で苦しむ』『愛(め)でるだけ 愛するだけで 終わるなら 憎しみになる ことはあり得ぬ』『愛したら 自分のものと 思うから 裏切られると 憎しみとなる』『何もかも 自我の世界に あるものは 移りゆくもの 変わらざるなし』『自我もまた 魂もまた 同じもの イメージ貯めた エネルギーの場』『自覚して 色の世界を 楽しむか 無自覚のまま 翻弄されるか』『自覚する ことがすべての 元の元 自我と魂 そこが異なる』『花の色 変わらぬものは ないものと わかり楽しむ いろんな花を』これが日記を書き始めて1171日目の心境です。☆ ホームワーク「執着が悲苦の源です。では、なぜ人は執着するのでしょうか。」これが今回のホームワークです。締切は、3月26日午前8時。BBSに書き込んでください。自分自身を見つめて書いてくださいね。自分は、何に執着しているのか。なぜ執着するのか…誰でも参加できます。主義主張や自分の考えは必要ありません。最も大切なことは、ホームワークを通して自分の内面を見つめることです。自分の実際の意識の成り立ちを理解してください。自分が何によってできているかに気づくことです。前回のホームワークの回答が、まだできていません。これから仕事が忙しくなるので、今日、明日にはやらないと・・・という感じなのですが。
2008.03.17
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今日の屋久島は、曇。山々は、厚い雲に覆われている。そんなに寒くはないが、暖かくもない。水晶の浄化に行こうと思ったが、延期。ここのところ、だいぶ深化が進んでいる。脳が、かなり調整されている。既に20年近く調整し続けている。ここへ来て、それが一気に加速している。クリシュナムルティを真剣に学ぶためにK-コミュニケーションを始めた頃、脳が動いているのに気がついた。脳の中心部が、カシャッ、カシャッと動いていた。動く度に頭がスッキリした。まるでハッカが鼻のなかを通ったかのように、さわやかになった。それが始まったのは、1989年か1990年頃。もうかれこれ20年近く前。それから、ずっと脳は動き続けている。24時間ではなく、心身がリラックスした時に動く。たぶん、動いているのは松果体や脳下垂体。特に松果体は、思春期を過ぎると活動が鈍くなる。だんだん委縮して、やがて機能しなくなる。性的な方にエネルギーが向くため。子供の頃は誰でも松果体や脳下垂体が活性化しているので、かなりスピリチュアル。三次元を超えた存在と交流している子供も多い。しかし、思春期になると思考力が発達し、そういうものを頭で否定してしまう。社会常識の渦に呑み込まれ、スピリチュアルの世界から離れていく。そうなると、普通の人のできあがり。この世的な物質人間。お金や物に執着する平凡な人。どこにでもいるような人になり果てる。子供の頃は、夜寝ると意識がどんどん広がった。それが何なのか、その頃はまったくわからなかった。それは、大学生の頃まで続いた。だんだん間隔が開き、その後は起きなくなった。大学時代は、かなり意識が物質化していた。学生運動の影響もあり、左翼的だった。しかし、就職した頃から、またスピリチュアル系に戻った。20代の半ば頃からは、盛んに幽体離脱をするようになった。ほぼ毎晩、横になると肉体から抜け出した。肉体から抜ける瞬間も、肉体に戻る瞬間も自覚できていた。なにしろ毎晩なので、そのプロセスが徐々に理解されていった。人は肉体に非ずということが、身に沁みて実感された。その状態は、数年間続いた。やがて、それも間隔が遠のいていき、だんだんなくなった。それから10年くらいして、脳が動き始めた。それは、今も続いている。その動く密度が、相当濃くなっている感じがする。調整が急ピッチでなされている。その必要があるのだろう。時代が切迫してきた。この生身の肉体に高次元のエネルギーを入れるには、肉体を調整する必要がある。それには長い時間がかかる。一気にやれば、肉体が壊れてしまう。少しずつ精妙化するしかない。物質次元にありながら、物質を超えるものにしていく必要がある。かなり緻密なものにしないと、高次元の光はキャッチできない。それは、イメージや言葉ではない。光のエネルギーそのもの。もちろん、光のなかには情報も含まれている。しかし、それはもはや人間の言葉に翻訳できるレベルのものではない。何段階もの処理を経て、結果的に日記に反映されているかもしれない。日記になる時には、この世の経験というフィルターを通っていく。60年近く生きてきた経験や言葉を経由して、日記となる。もちろん、本人は自分で書いているつもり。でも、確かに他からの影響もありそうな気がする。書きながら気づくことが多々ある。松果体は、これからも更に精妙化していく。更に高次のエネルギーを受け止められるようになっていく。それが、今、必要なことだから。肉体で受け止め、この次元に響かせることが必要とされている。それによって、この次元の波動が高まる。それによって、この次元をアセンションへと導く。まるでアンテナ?それとも避雷針?いずれにしても、宇宙からのエネルギーを受け止め、この地上に響かせることに変わりはない。別に意識的に、それをやっているわけではない。結果的にそうなっているだけ。こちらは、自然に自分の頭を調整しているだけ。しかし、それは個人的なことに留まらない。この日記に関わっている人たちの意識も、ここのところ急速に深化している。それはコメントやメールを読んでいるとわかる。みんな一緒に深化している。時代が、深化している。明らかに物質の拘束から自由になろうとしている。物質に縛られた時代は終わる。もう物質に、それほどこだわることもない。宇宙的なエネルギーをベースに、この次元を生きる。フリーな感覚で、今を生きる。物質に囚われることなく、自由にクリエイトする。過去の呪縛から解放され、時間のない世界を生きる。そういう時代が、刻々と近づいている。その時代に向けて、意識はどんどん深化している。もうそういうところに、しっかりと照準が当てられている。間違いなく、そこへ行くようになっている。日記という、言葉や思考を通しての理解。エネルギーによる、ストレートな閃(ひらめ)き。光による、ダイレクトな変容。いろんなルートから変化が促(うなが)されている。脳の中心部が動くと、まるでハッカでも食べたかのように鼻がスーッとする。頭のなかが涼しくなる。クリアーそのもの。浄化の極み。浄化も加速度を増している。これには水晶も寄与しているかもしれない。なにしろピュアーな水晶がたくさんある。それらに囲まれていると、いやでも浄化されてしまう。水晶は、透き通るような波動を常時出している。それを絶えず浴びていれば、こちらもきれいになるしかない。すべてが相乗効果を発揮している。すべてが、新しい時代に向けて流れている。『宇宙より 届く光を キャッチする アンテナ磨き 精度高める』『体内に アンテナはある 松果体 宇宙の光 受けて輝く』『光受け 光響かせ 新しい 次元へ向けて 波動高める』これが日記を書き始めて1170日目の心境。
2008.03.16
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昨日のコメント欄に次のようなものがあった。「そう。。失うのが怖い。。いま現実に周りにあるすべてを。。。たいせつな家族。。大好きなお仕事。。過去も。。また、このまま続くと信じる未来も。。壊されたくない。。。しっかり掴んでいますね。。う~~む。。」しっかり掴んで放さないものを、執着と言う。それが苦しみの源。いくら握りしめていても、いつかは取り上げられる。永遠に握りしめていることはできない。取り上げられる時に、苦しみや悲しみがやって来る。では、誰がそれを取り上げるのだろうか。神?時節?実は、誰も取り上げたりはしない。台風が一つ来ただけで吹き飛ぶものもあれば、交通事故が起きたら終わってしまうものもある。誰かに何か言われただけで崩壊してしまうものさえある。しっかり握っているはずなのに、どうしてこんなにも脆いのだろうか。そっと手を開いて覗いてみると・・・あれ?何もない。まるで裸の王様。手のなかには何もない。では、何を握りしめていたのだろうか。それは、イメージ。自分がしっかり掴んでいたものは、すべて残像。記憶であり、思い出。プライドという名の心地よい自画像。楽しかった日々の思い出。充実していた頃の記憶。更に要約すれば、思い込み。過去の楽しかったイメージ。それらを大切にしまい込んでいるだけ。既にそれらはない。今、目の前にあるのは、過去のものではなくて今のもの。過去の記憶で見ているから同じように見えるだけ。実際は、刻々と変化している。過去と同じものはない。ゆるやかに動くものは、変化をキャッチしにくい。しかし、確実に変化している。変化しないものはない。昨日の家族と今日の家族は同じではない。自分でさえ同じではない。何も同じものはない。実は、失うこと自体が不可能。元々、何も持つことはできないのだから。しっかり握りしめているものは、すべて幻。単なる過去のイメージ。思い込み。今の現実ではない。その思い込みが奪われるのを恐れているだけ。実際は、何も奪われるものはない。元々、何も所有していないのだから。何も持っていないのに、持っていると錯覚しているだけ。奪われるものは、何もない。失くすものは、何もない。握りしめていたものは、すべて幻想。単なるイメージ。その証拠に、記憶がなくなれば、すべて消えてしまう。自分が大切と思っていたものは、すべて消失する。すべてが記憶に依存している。つまり、イメージ。大切なものは、記憶?まさか。大切なものは、そのもの?しかし、その実体は、本当は掴めない。なぜなら、刻々に変化しているから。自分が掴んだものは、掴んだ瞬間に過去になる。今この瞬間を掴むことは、絶対にできない。今は、掴めない!掴めるものは、過去だけ。掴んだ時は、既に過去のイメージになり果てている。過去の記憶を後生大事にしまい込んでいるだけ。今を忘れて・・・もし本当に周りの人や仕事が大切なら、今を全力で生きることだろうか。心を込めて今を生き抜くことだろうか。完全燃焼して、燃えカスが残らないほどに生き切ることだろうか。そうすれば、執着という燃えカスは残らない。今を完全に生き切らないから、思い出という名の執着が残る。今を完全に生き切っていたら、過去に意識は向かない。過去のものに執着したりはしない。ただ、今、今があるだけ。今を生き切れていないから、意識が過去のものに引きずられる。波動が遅いから、今に追いつけない。過去の亡霊に追い回されて、今を見失う。過去のトラウマに振り回されて、今に生きれない。今を生き切るとは、ものすごいエネルギー状態。過去に意識が向く暇はない。何かを必死でやっている時、過去を振り返る余裕などないのと同じ。今に完全にフォーカスされていれば、過去は重要ではなくなる。過去の延長としての未来も重要ではなくなる。重要なのは、今。今だけ。それ以外の時は、すべて幻。今、目の前にあるものを大切に生きればいいだけ。それが永続することを望まないで。望めば、その瞬間、目の前にあるものは死んでしまう。その時点で、フリーズしてしまう。その凍りついたものに、人は執着しているだけ。それは冷たく凍って動かない。生きた現実ではない。死んだイメージ。自分の手のなかにイメージを握りしめ、しっかり思い込みワールドのなかで生きる。現実ではなく、記憶の世界のなかで生きる。やがて、現実と思い込みとのギャップが明らかになる。その時、人は現実を呪う。思い込みワールドの夢が破れたことを、何かのせいにする。自分が思い込みワールドの住人であったと気づくまで、人のせいにし続ける。社会が悪い。あの人が悪い。実際は、思い込みという幻想が壊れただけ。過去が、今に付いていけないだけ。やがて、次々と過去は今から脱落していく。その度に、苦しみ嘆くことになる。今ここに生きることだけが、悲苦の世界から逃れる唯一の道。悲苦は、思い込みワールドのなかにだけある。今ここに、悲苦は存在しない。今ここは、悲苦を超えている。今ここは、何も持たない。今ここは、その瞬間だけ。今ここには、すべてがある。今ここには、何もない。『物事は 握った途端 過去になる それをわかって 生きるしかない』『過去こそが 自我の源 その過去を すべて捨てれば 楽に生きれる』『いつまでも 持っているから 重くなる 過去はいらない 今だけでいい』『今ここに フォーカスせずに 生きるから 過去が大事に なってくるだけ』『今今に 意識が向けば 執着は 風に吹かれて 飛んでゆくだけ』『今だけが この世のすべてと 思ったら 今が輝く 何にも増して』これが日記を書き始めて1169日目の心境。
2008.03.15
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1165日目の日記に、もうじき自我の季節が終わると書いた。すると、恐怖と違和感を感じたというコメントが届いた。なぜ、恐怖と違和感を感じるのだろうか。なぜ?今瞬間に生きていれば、季節は常に終わっている。自我の季節そのものが存在しない。自我とは、過去。自我は、過去によって成り立っている。その過去が終わるのを、自我は恐れる。自我にとっての未来は、過去の延長。まったく知らない未来は、自我にとっては不安。自我が依って立つ過去が消え去ることは、自我にとっては耐えられないこと。時間という幻想のなかで生きている限り、過去の次に今があり、今の次に未来がある。 それは連続しており、その連続線上に自分がいる。しかし、それは思考がつくりあげたカラクリ。実際は、過去も未来もない。あるのは、今だけ。永遠に、今だけ。それをあると思い込んでいるから、自我の季節が終わるのを悲しむ。自分が持っていたものを失くすのを恐れる。自我とは、所有。しっかりと手に握りしめているもの。その手を放せと言われると、自我は抵抗する。放してしまったら、自分の存在基盤がなくなってしまう。なぜ自我の季節が終わることに、こうまで拘泥するのだろうか。なぜ光の季節がやって来ることに、フォーカスしないのだろうか。過去に執着すれば、悲しみと苦しみがやって来る。持っているものは、必ず奪われる。なぜなら、持っていると思うのは、幻想だから。本当は、何も持つことはできない。その真実の状態に常に戻るだけ。しっかりと手に握りしめているものは、中身のない幻でしかない。握っている手を開いたら、なかには何も残ってはいない。なぜなら、それは単なる思い込みだから。人は、何も所有できない。それこそが、真実。自我の季節が終わろうと、光の季節が始まろうと、本来、そのようなものにこだわる必要はない。それらもまた、すべて幻。ただ事実ベースの時代が来るだけのこと。光に照らされ、物事が今よりも明確に見えるだけのこと。幻想の闇が光によって消され、事実が事実として明るみに出る。その光のなかで、今ここを生きる。過去ベースではなく、今ベースで生きる。ただそれだけのこと。幻を追い求めない。今をクリエイトして楽しむ。そういう時代が来る。それなのに、なぜ恐れるのだろうか。自我の季節とは、幻想の季節。光が弱くて、クリアーに見えない時期。自我という幻に囚われ、自己中心に生きる時代。争いと殺戮を繰り返した日々。そういう時代が終わるのを、なぜ怖がるのだろうか。自分自身の心に問い直してみるがいい。何を恐れているのか。恐れている主体は何か。自我の季節が終われば、光の季節がやって来る。自我の終焉は、光の誕生。何も恐れることはない。喜びこそすれ、恐れることではない。時間という幻想が終わる。私という幻想も終わる。過去ベースという生き方も終わる。思考中心の時代が終わる。すべての過去が一掃される。すべてが今にフォーカスされる。光に照らされ、今が前面に現れる。過去や未来は、舞台の後ろに去っていく。光のなかを光と共に歩む。光は、今ここにある。アセンションを待つこともない。今ここは、常に光に満ちている。『所有から 自我が始まり 所有から 失うことの 悲しみ始まる』『人の世の 自我の苦しみ 悲しみは 所有するから 起きてくるだけ』『自我ベース 過去をベースに 生きる時 常に悲しみ 傍に寄り添う』『自我という 幻想に依り 生きる時 自我の終わりを 自我は恐れる』『時が満ち 自我の季節が 終わる時 光の季節 次に始まる』『今ここは 何も持たない 所有せず 常にリセット ただゼロベース』これが日記を書き始めて1168日目の心境。
2008.03.14
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ここ二日ほどで、たくさんの水晶が届いている。数にして、24個。金額にして、20万円弱。今日も8個ほど届く予定。20日頃までには、お取り置きになっているものも引き取るつもり。そうなると、更に30個ほどやって来る。結局、今回の牡羊座の水晶祭りに出す数よりも多くなってしまう。なかなか水晶は減らない。ここのところ届いたもので出色なのは、ゴールドルチルクオーツ。世界最高水準のものが届いた。2月にアメリカのツーソンというところで世界最大のミネラルショーが催された。日本からもたくさんのバイヤーが仕入れに出かけた。いつも購入しているサイトも、かなりのところが渡米した。そこで販売されていたゴールドルチルクオーツのなかの最高級のものを仕入れたサイトがあった。それがネット上に登場した。即、購入した。すぐに買わないと、すぐに売れてしまう可能性があった。これまで見たこともないようなルチルの質と量。この二日で、同レベルのゴールドルチルクオーツが3個届いた。すばらしいクオリティ。このクラスのゴールドルチルクオーツは、わずか4~5cmのものが3万~10万円もする。せいぜい一個10~30グラム程度。グラム当たり、2000円?泣きたいくらい高い。でも、それだけの価値はある。届いた実物を見ると、もう言葉が出ないほど美しい。ほとんど宝石並み。見ているだけで、うっとりしてしまう。この二日間、ずっと見ているが、いくら見ても飽きない。さすがにクオリティが半端ではない。高いだけのことはある。買って損をしたという感じはしない。そもそもゴールドルチルクオーツとは?まず、黒いヘマタイト(赤鉄鉱)から金色のルチル(金紅石)が成長する。それを水晶が取り囲む。その結果、透明な水晶のなかに金色のルチルの放射が見られるようになる。しかし、美しく放射するものは少ない。また、美しく水晶に覆われるものも少ない。水晶が透明で、きれいな六角形になるものは更に少ない。いろいろクリアーしなければならない関門が多い。そういう関門をすべてクリアーして、美しいゴールドルチルクオーツが誕生する。しかし、その数は限られる。そのため、非常に高価。クオリティが高くなれば、宝石並みとなる。しかも、最近の中国のルチルブームで、更に値段が高騰している。逆に、産出量は減る一方。なかなかクオリティの高いものはない。ネット上でも、滅多に良いものは出ない。ゴールドルチルクオーツは、迫力がある。強烈なエネルギーを持っている。しかし、それだけではない。それ以上のものがある。見ているだけでも美しい。しかし、それを超える何かがある。他の水晶にはない何か。最高級の何か。リッチになる?金運?確かに、それもある。なにしろゴージャス。でも、それはこの世バージョン。もっと、この世を超えた何かがある。それは何?何だろう?黄金(おうごん)。エジプトのツタンカーメンのマスク。金色(こんじき)に輝く仏像。何か最高のもの。王者。ツタンカーメンは、物質世界の王者。如来は、精神世界の王者。すべての中心。ゴールドルチルクオーツは、獅子座の水晶。獅子座の守護星は、太陽。太陽系の中心。光の源。自ら光を発するもの。すべての中心。光の中心。それが、ゴールドルチルクオーツが象徴するもの。人のチャクラで言えば、第七チャクラ。その名も、クラウンチャクラ。王冠のチャクラ。光を受け取るところ。宇宙エネルギーとリンクするチャクラ。人体内では最高のエネルギー場。心身に光をもたらすところ。叡智の光が降りるところ。もっとも、ゴールドルチルクオーツは、第三チャクラとしても機能する。自我の拡大や金運。獅子座というのは、百獣の王、ライオン。自我の最大化という意味もある。最も肥大化した自我。大富豪。支配者。王や女王。この世的にも宇宙的にも使えるところが、ミソ。ツタンカーメンの黄金のマスクと金色の如来像。物質と精神の極み。獅子が鬣(たてがみ)をなびかせた姿。威風堂々。正々堂々。王道。求道。極め尽くす。最高のものを求める。永遠のものに到達する。究極。究極に繋がるもの。究極と繋げるもの。求め続け、最後に得られるもの。究極の究極。光の中心。光の放射。光の源。光そのもの。それが、ゴールドルチルクオーツが象徴するもの。今回の水晶祭りには、3個出る。その後も、1個ずつぐらいは出したいと思っている。ローズクオーツと同じように。今、自宅には30個ほどのゴールドルチルクオーツがある。これらのものも、順次手放していく。獅子座の水晶祭りでは、一気に放出されるかもしれない。すべては、光の循環。『水晶の なかで煌(きら)めく ルチルこそ 獅子の鬣(たてがみ) 王者の印(しるし)』『水晶の なかでパワーが 爆発し 金色(こんじき)燦然(さんぜん) 光の放射』『水晶の なかで輝く ゴールドの ルチルが示す すべての中心』『水晶の なかで煌めく ルチルこそ 変わることなき 光の象徴』これが日記を書き始めて1167日目の心境。
2008.03.13
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朝10時半に宮之浦の新港へ行く。知り合いが、クイーンエリザベスでやって来るため。オッと、クイーンエリザベスは、屋久島へは来ない。パシフィック・ビーナス?よく屋久島へ来る豪華客船。今回は満室で、500人が乗っているとか。知り合いは、お客ではなく、船内セミナーの講師。年に1~2回、こんな感じでもやって来る。既に20回近く屋久島に来ている。来る度に山に登る。今回は到着が遅いので、たいした山登りはできない。それでも、山に登りたいとのこと。一応、モッチョム岳へ向かう。しかし、この時間からでは山頂は無理。途中の万代杉を目指す。千尋の滝の駐車場に着くと・・・新しい展望台ができていた。なんとなく上ってみる。すると・・・満開の桜。7~8本はあるだろうか。すばらしくきれい。久しぶりに見る桜の満開。辺り一面がピンク色に輝いていた。モッチョム岳は、急な登りが続く。でも、それほどきつくはなかった。なぜ?今回は、膝の保護のためにステッキを2本使った。それと、登る道筋に、ずっと花が咲いていた。これが疲れを忘れさせてくれた。最初から最後まで花は絶えなかった。白い可憐な花。香りは、ほとんど沈丁花。沈丁花の原種みたいな感じ。自宅に帰って名前を調べると、サツマイナモリ。あれッ?サツマイナモリなら何度も写真に撮っている。なのに、なぜ名前がわからなかったのだろう?木霊の森で見るのと、なんとなく感じが違っていた。こんなに群生しているのを見たのは初めて。なにしろ、ものすごい数のサツマイナモリ。さすがにモッチョムは南。まだ木霊の森では、咲いていない。今、木霊の森で咲いているのは、オオゴカヨウオウレン。万代杉には、余裕で着いた。ほとんど疲れを感じなかった。彼女は、もっと登りたい様子。既に何度もモッチョム山頂まで行っている。道は熟知しているので、一人で行ってもらうことに。こちらは、万代杉で休憩。まだ体慣らし状態なので、あまり一気に歩きたくはなかった。それよりも、万代杉の根元で瞑想したかった。結局、彼女が一人で登ることに。1時間ぐらいで帰ってくるように言う。それ以上遅くなると、尾之間温泉が混雑する。それに、船の出航時間も決まっている。彼女は、1時間もしないうちに帰って来た。こちらは、樹齢三千年の屋久杉の真下でゆったり瞑想できた。でも、半分ぐらいはアクビをしていた。パソコン疲れが溜まっていた。なにしろパソコンの前に座っている時間が長いので、森に行くとすぐにアクビが出る。 体内のエネルギーを入れ替えている感じ。パソコンをしている限り、森へ行く必要がある。波打ち際を歩いてもいいが、なにしろ自然のなかに入らないと疲労が蓄積される。モッチョムは、登りよりも下りの方が明らかに疲れる。ほとんど垂直に近いところもある。上から見ると怖い。下からでは、そんなに感じない。ゆっくり下る。途中で、若い男の子に会う。今日、二人目。いずれも学生のような若い男の子。尾之間温泉は、男湯は空いていた。女湯は、そこそこお客がいた。いつ行っても、女湯の方が混んでいる。それにしても、すばらしい湯質。今日は、屋久島に住んで、ちょうど5年目の記念日。5年前に来た時は、前山にまだ雪が残っていた。それに比べると、暖かい。この5年間で、かなり暖かくなっている。速い、速い。5年間が、アッという間。もう5年?という感じ。仕事は軌道に乗っている。なんとか生活もできている。水晶もたくさん買えている。水晶循環も順調に回っている。日記も満足のいくものが書けている。日記を書くことによって、精神は充実している。自然のなかに入ることによって、心身のバランスも取れている。特に不満はない。収入も多過ぎもせず、少な過ぎもせず。まあ、なんとか生きていけている。特に不足しているものはない。仕事は、いろんな人に出会えて面白い。特段、何もない。可もなし、不可もない。空っぽ?何もない。水晶を楽しみ、日記を楽しむ。自然を楽しみ、人を楽しむ。まあ、楽しく生きていけている。先のことは、わからない。いつまで地球にいるのかも定かではない。やるべきことをやったら、去るのだろう。そんなに長居をするとも思えない。でも、もうしばらくはいるだろう。地球にいても、他の星にいても、特に変わらない。自分のやりたいことをやるだけ。面白そうなことをやるだけ。楽しそうなことをやるだけ。何と言っても、神様もそうしているのだから。神様と同じことをするしかない。神の子だから。神と本質的には変わらない。本来は、みんなひとつ。でも、今は別々に別れて楽しんでいる。その方が面白そうだから?個性の花は、美しい。これからアセンション?みんなドラマチックが好きなのだうか。集団創造?みんなでアセンションを現実創造する?最高に面白いドラマになるだろう。映画や小説の比ではない。こちらは現実なのだから。実は、現実という夢なのだが・・・映画や小説は、現実をヒントにした想像。現実は、神の意志を戴した創造。たいして違いはないけれども、自我と神の違い。個と全体の違い。映画や小説は、あくまでそれで終わり。現実化しようとする意図はない。しかし、神は想像力を使って現実を創造する。人間を使って、物質次元を創造する。現実化するエネルギー。想像し、創造するエネルギー。その一翼を担うことは、楽しく面白い。神の子の本懐。それを使命感を持ってやるのもいい。ただ楽しく面白くやるのもいい。どちらでもいい。どのようにでもやれる。オンリーワンということはない。いろんなやり方がある。それは各自に任されている。それでこそ神の子。ある程度の自由はある。完璧に自由ではない。宇宙の流れには逆らえない。一時的に逆らうことはできても、結局、力尽きてしまう。小さな自我が、大宇宙に敵うはずがない。ささやかな自我にできることは、お山の大将になることぐらい。自我という幻想世界の主人公。大宇宙の流れのなかの小さな淀み。小さな淀みが増え過ぎると、一気に押し流される。それがアセンション。古いものを一掃し、新しく造り替える。自我の構築物は、一掃される。そういうドラマのクライマックスが近づいているにもかかわらず、自我は我が世の春を謳歌している。そんなに春は続かない。春の後には夏はなく、突然、厳冬期がやって来る。そして、自我の季節が終わる。屋久島へ来て5年。これから5年。劇的に変わるだろう。楽しみ、楽しみ・・・『過去世より 深い縁(えにし)の 屋久島に 住んで五年の 月日流れる』『屋久島へ 引っ越してから 五年経ち 心と体 ずいぶん変わる』『たくさんの 人に出会って 屋久島で 生きていくのも 面白いかな』『日記書く ことは楽しみ 書くことで 深い自分が 現われてくる』『目の前に ズラリ並んだ 水晶は 宇宙と繋ぐ 波動アイテム』『特別に ほしいものとて 何もない 水晶ながめ 自然と生きる』これが日記を書き始めて1165日目の心境。* 「1164日目 - 正直とは」も同時にアップしました。
2008.03.11
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コメント欄に、次のような書き込みがありました。「自分に正直に生きるという言葉が、今の自分にとって一番気になる言葉です。わからないことがあります。自分が今生で成し遂げたいと思って決めてきたことを実践することが、自分が生きたいように生きるということだと思うのですが、やはりそれは、自我の意識で感じる、自分が望む人生とは違うのでしょうか?もし、生まれてくる時にプログラミングしてきた人生があって、その過程では様々な困難があって、それを乗り越えることで学びを経験するということであれば、自我の意識で、こんな人生は自分が望んでいる人生じゃないと、ある行動をとったり、何かを選択をするとしたら、間違った方向に進んでしまうということになるのでしょうか?その辺のところが、以前から自分の中で釈然としないのです。」人は、生まれる前に今生の計画を立ててきます。どのような人生にしたいか、アウトラインを決めてくるのですね。でも、生まれた瞬間、そういうことは忘れてしまいます。ゼロからのスタートになります。自分が計画した通りの人生を、物質次元で実現する。それが今生の目的です。現実創造ですね。魂のビジョンを現象化することが、この世を生きるということです。しかし、肉体のなかに入ってしまうと、どんな計画だったのか、とんと思い出せません。 ですから、これでいいのか迷ってしまうこともしばしばです。今、自分がやりたいと思うことが、本当に生まれる前に計画してきたことなのかわかりません。それで、自分に正直に生きろと言われても困ってしまうのでしょうか。そもそも自分に正直とは、どういうことでしょうか。欲望ギラギラでも、自分に正直に生きていると言えるのでしょうか。少なくとも自我には正直かもしれませんね。あるいは、周りの環境に正直に生きているのかもしれません。自我というのは、生まれてからの環境の結果みたいなものです。両親や身近な人たちによる条件づけ。その時代の文化や風潮に深く影響されます。自我というのは、ほとんど環境の賜(たまもの)と言っても過言ではありません。そういう自我に正直に生きることが、今生の目的に叶うとは限りません。むしろ、逆の場合が多いでしょう。何が真に自分のしたいことか。何が自分にとっての正直か。それは、やってみないとわかりません。頭で考えているだけでは、永遠にわからないでしょう。いろいろ試してみるしかありません。試行錯誤が、この世の常です。でも、一つだけ羅針盤があります。心の奥深くに羅針盤が埋め込まれているのですね。それはどういうことでしょうか。それは・・・何かをやってみて、心から満たされたら、それが自分にとっての正直ということです。 今生の目的に叶っているのですね。目的を達成しても何か物足りなかったら、それは今生の目的ではないかもしれません。心の深いところが満たされるかどうかです。自分が納得できるかどうか。自分が落ち着くかどうか。自分が静かに高揚するかどうか。自分が自分自身でいられるかどうか。それが今生の目的に叶うことであれば、思わぬサポートもあるでしょう。困難があっても充実しているはずです。生きている実感があるはずです。事が終わって虚しくなることはないはずです。何かやってみたいことがあったら、やってみることですね。やりながら自分の心のなかを注意していることです。本当に充実しているかどうか。心が本当に満足しているかどうか。心が充実していれば、それで問題はありません。心が満たされないなら、もっと他の道があるのかもしれません。なにしろ自分の心に問いかけるしかありません。これでいいのかどうか。何をやったらいいのかわからない人は?そういう人は、目の前に降りかかってくることを誠実にやることです。誠心誠意、心を込めてやることです。そうすれば、自然に道は開けます。誠実に生きていれば、自然に今生の目的に沿う生き方になっていきます。起きてくる出来事に誠実に対応していれば、自然と自分の目的の方向に流れていくのです。キーワードは、誠実ということです。いい加減に生きていても、自然に今生の目的の方向へは流れていきません。誠心誠意全力で生きていれば、自然に自分の目的の方向へ流れます。それは間違いありません。誠実に生きれば、そうなるようになっているのです。そのようにプログラムしてきたのですから。これまではともかく、これからはそのように生きることをお勧めします。自分の心に聞きながら、目の前のことに誠実に対応する。どんな些細なことでもいいのです。心から丁寧に生きることです。それは、自分に正直に生きることに繋がってきます。より誠実に生きることが、深い心で生きることに繋がるのですね。深い心で生きることは、即ち今生の目的に沿って生きることです。自然にそうなります。まずは、自分の心に注意しながら、やりたいことをやってみればいいでしょう。目の前に起きてくることに、誠心誠意対応することです。逃げないで、いい加減に誤魔化さないで、一つ一つ丁寧に生きてみる。心から生きてみることですね。そうすれば、自然に深いものが出てきます。特に探さなくても、今生の目的に沿ったものが自然に現れます。そういうふうにプログラミングされているのですから。ただ素直な自分自身であればいいだけです。自分に嘘をつかない。自分を誤魔化さない。自分に素直に生きる。肩の力を抜いて、楽に生きればいいのですよ。『人生は 試行錯誤の 繰り返し 生きる目的 見つけ出すまで』『横向いて 後ろを向いて 誤魔化して 躊躇するから 道が見えない』『羅針盤 心の奥に 埋めてある 自分自身に 聞きつつ進む』『無理せずに 自分の心 誤魔化さず 素直にスーッと 生きればいいだけ』『真っ直ぐに 心の奥に 正直に 自分自身を 生きるしかない』『難しい ことではなくて 日常の 身近なことを 大事に生きる』『起きてくる 一つ一つの 出来事に 心を込めて 対応すること』これが日記を書き始めて1164日目の心境。
2008.03.10
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明け方、夢を見た。内容は、忘れてしまった。でも、かなり困難な状況であったのは覚えている。にもかかわらず、真っ直ぐに前向きに生きようとしていた。夢というのは、潜在意識が現れる。夢のなかで真っ直ぐに生きようとしていれば、もう心配はない。潜在意識レベルまで真っ直ぐに生きようとしているということ。顕在意識と潜在意識の不一致がない。顕在意識と潜在意識が一致すれば、それは心の底からそう思っているということ。実際にそのように生きているということ。たまに夢のなかで自分の弱い部分が出たりする。そういう時は、まだ顕在意識と潜在意識が不一致ということ。そういう場合は、まだ深く理解されていないか、潜在意識のなかにトラウマが残っている。今生60年近く生きていると、いろんなトラウマがある。しかも、幼児期のトラウマとなると、まったく記憶にない。そういうものでも、まだ生き続けているものがある。徐々に解放されている。しかし、まだ完璧ではない。だから、まだ出てくる。出てくるのは、しかたがない。今生だけでなく過去世まであるので、出てくるのを阻止することはできない。また阻止する必要もない。できるだけ出した方がいい。そういう意味では、出てくること自体は問題はない。問題は・・・それが夢のなかに出てきた時に、どのように対応するか。夢のなかで的確に対応できれば、それでクリアー。まだ躊躇しているようなら、まだまだということ。自分が普段思っている通りに夢のなかでも行動できたら、それでOK。嘘偽りはないということ。でも、夢のなかで迷うようなら、まだ意識が不明確ということ。本当に明確に自覚されているものは、夢のなかでも明確に行動できる。どんな状況であっても、前向きに生きる。人は、前向きに生きるしかない。それ以外の選択肢は、モラトリアムを決め込んでいるだけ。回り道をしているだけ。後ろを向いて、躊躇しているだけ。誰かに甘えたいだけ。誰かがやさしくしてくれるのを待っているだけ。一緒に愚痴を言ってくれる人を探しているだけ。それは、嫌なことを酒を飲んで忘れるのと似ている。気晴らしをして、気を紛らわせるのにも似ている。それも悪くはない。でも、逃げているだけ。正面から見つめる。正面から対峙する。それしか根本解決の道はない。問題を先送りすれば、やがてツケがどっとやって来る。前向きに生きる。今を真剣に生きる。自分に正直に生きる。実際は、それしか選択肢はない。それ以外の選択肢は、自分を誤魔化しているだけ。一時凌ぎ。見て見ぬふり。自己欺瞞。誠心誠意、真っ直ぐに生きる。それが、結局は一番楽な生き方。大変そうだが、ストレスは最も少ない。極めてシンプルな生き方。自分に正直に。自分に素直に。常に前向きに。誰にも甘えないで生きる。やさしくしてくれる人もいるかもしれない。同情してくれる人もいるだろう。でも、最終的には、甘えた分だけ後で苦労する。自分の足で立つしかない。どんなに困難な状況でも、常に前を向いて生きる。後ろを向くのは、困難から逃げ出したいから。横を向くのは、目を逸らしたいだけ。でも、横を向いたり後ろを見たりしていたら、躓(つまづ)いてしまう。素直に顔を上げれば、前を向くようになっている。それが一番楽な姿勢。何の無理もない。実際は、これ以外の選択肢はない。『前を向き 進んでいくしか 道はない 後ろ横向き 躓(つまづ)きの元』『上辺だけ 誤魔化すことは 可能でも 夢のなかでは 誤魔化しきれず』『この世では 嘘をつけても 気がゆるむ 夢のなかでは 嘘はつけない』『本当の 自分が常に 試される 夢のなかでは 嘘をつけない』『言うことと 行うことが 違う時 夢のなかでは 苦しむことに』『この世でも 夢のなかでも 同じなら 誠心誠意 生きてる証(あかし)』『顕幽(けんゆう)を 越えて誠に 生きる時 思ったことは 常に実現』これが日記を書き始めて1163日目の心境。* 「1162日目 - 砂遊び」も同時にアップしました。
2008.03.09
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朝から水晶の浄化に行く。10時前に着いたら、まだ海水は冷たかった。太陽は出ているのだが、川の水も冷たかった。新月で大潮のはずだが、波は穏やかだった。川で水晶を浄めていると、人がやって来た。ツワブキを取りに来たらしい。炒めて食べるとか。話してみると、熊本出身だった。同郷なので、話が弾む。屋久島に住んで3年になるとか。ここで浄化していると、いろんな人に会う。意外と外から来ている人が多い。個性的な人が、屋久島へ移住してきている。そういう人たちと話す機会が多い。地元のネイティブとは、雰囲気が違う。お互いに、なんとなくそれを感じるのだろうか。自宅に帰ってからも、ほぼ一日、水晶のケアーをしていた。まず、太陽で自然乾燥。それから、アクリルの台座に戻す。かなりの数なので、これが一仕事。牡羊座の水晶祭りに出る水晶たちは、ピカピカになった。海と川で浄化すると、見違えるように美しくなる。これから、朝の太陽に当て、満月の夜に月光浴させる。最後に光を入れて送り出す。まだまだやることがある。でも、それだけすれば、それだけの違いは生まれる。届いた先で、いろんな現象を引き起こしている。奇跡としか言いようのないことも起きている。その効果をあまり自覚できない人もいる。逆に、強烈に感じる人もいる。それぞれの感受性。しかし、感受性に関わりなく、水晶は波動を振りまいている。その影響は、間違いなく意識のなかに浸透していく。心身は、水晶のピュアーな波動の影響を受ける。本来の健全な状態に還ろうとし始める。宇宙や地球と調和した状態に戻ろうとする。そういう水晶が、屋久島から発送されている。そう考えると、すごい!ハー、ホントにすごい。光に満ちた水晶たち・・・夜は、これまでの発想を転換。ヒマラヤ水晶のクローライトタイプを、サンゴや貝の上に置いてみた。クローライトの緑色が白いサンゴに映えると思って、数日前に小さなクラスターをサンゴの上に置いた。それが意外とよかったので、全面的に置き換えることに。アクリル台の方が安定するのだが、自然のサンゴや貝の上に置くとオブジェになる。これが、なかなか面白い。もっとすてきな貝やサンゴを拾ってこないと・・・ますます屋久島バージョンの水晶に変身中?これらは、次の牡牛座の水晶祭りから一部登場するだろう。まだ実験中。美しければ、すべての水晶を自然の台座に切り替えるかもしれない。まだ試行錯誤中。相変わらず、お金もないのに水晶を購入している。既にお取り置きが、50個ほどになっている。たくさんのサイトから購入しているので、一つのサイトでは少ない。屋久島は送料が高いので、ある程度まとまった段階で送ってもらう。お金はない。でも、水晶を買う。なぜ?水晶は、エネルギー。お金は、物質。物質は、エネルギーの後から付いてくる。エネルギーがあれば、物質はしばらく遅れて現実化する。何事もエネルギーが先。エネルギーと物質には、タイムラグがある。まずエネルギー的に実現すれば、あとは自然に現実化する。間違っても逆ではない。まず意識のなかで実現すること。自分の意識のなかで完了すれば、やがて現実のなかでも現象化する。意識のなかにあるものを形として見ているだけ。それが、神がやろうとしていること。神と同じことを、人間もやっている。人は、神のミニバージョン。小さな神。神と同じことをしているだけ。意識のなかにあるものを現象化して楽しんでいるだけ。子供の砂遊びと変わらない?スケールは、だいぶ違うけれども。人によってスケールが、まるで違う。それでも、自分で現実をクリエイトしていることに変わりはない。えっちゃんは一般人をクリエイトし、ぴあのさんはピアノ教師をクリエイトしている。あとりさんは病人をクリエイトし、もうすぐそれを店じまいしようとしている。こちらはガイドをクリエイトし、日記もクリエイトしている。人それぞれ、自分の好みのものをクリエイトしている。どうせクリエイトするなら、自分の納得のいくものをクリエイトした方がいい。自分の気に入らない現実をクリエイトしてもしかたがない。それでは人生がつまらない。できれば楽しい人生がいいのではないだろうか。まず意識のなかで実現する。それがタイムラグを伴って現実化する。ただそれだけのこと。極めてシンプル。自分の意識のなかを明確にすることだろうか。意識のなかが混乱していたら、現実も混乱する。意識のなかがクリアーなら、現実もクリアー。ただそれだけ。シンプルに、さわやかに生きる。これからは、そういう時代。複雑に重苦しく生きた時代は、既に終わってしまった。魚座は、既に終了。軽やかな水瓶座の時代になっている。心身共に軽やかに生きる。楽しく明るく、さわやかに・・・重いたものは、もういらない!『楽しげに 砂遊びする 子もいれば 砂を投げ合い 争う子もいる』『屋久島の 貝やサンゴで 台作り 水晶乗せて 遊ぶ子もいる』『屋久島に 世界中から 水晶を 集め楽しむ ヘンな子もいる』『水晶を 買って遊んで 楽しんで それを送って 更に楽しむ』『まず意識 自分のなかで 明確に なれば現実 付いてくるもの』『まず意識 自分のなかで クリアーに できればすべて クリアーになる』これが日記を書き始めて1162日目の心境。
2008.03.08
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昨日の「悪夢」の日記に対して、次のようなコメントがありました。「先日から予告編を観ただけで頭から離れず、不安感に囚われていた映画がありました。アフガニスタンの物語「君のためなら千回でも」という友情と裏切りを描いた映画。どうしてこんなに心を騒がせるのか・・・。よく見つめてみると、裏切りの後悔が勇気に繋がっていくこともあるって気づいたり、同時に、自分の学生の頃にお金までもらって引き受けていながら、ウヤムヤにしてしまった仕事の後悔が頭を持ち上げてきて、そしてこういう裏切りの行為が、映画とダブって私を不安にさせていたのかも知れないと思えてきました。取り返しのつかないそれらの想いを手放して、囚われから自分自身を解放してあげていいのでしょうか。私に出来ることは、今の自分をせいイッパイ生きることだけですが・・・。」これは、一般人代表のえっちゃんからのコメントです。たぶん、えっちゃんに限らず、過去の出来事でいまだに悩んでいる方は多いことでしょう。では、既に終わってしまったことは、どうしたらいいのでしょうか。取り返しがつかない?えっちゃんは、「囚われから自分自身を解放してあげていいのでしょうか。」と書いています。ずいぶん謙虚ですね。それとも、ずーっと死ぬまで持っていたいのかな?そんなことはありませんよね。もう終わったことなので、どうすることもできないと思っているのですね。もしかしたら、それも思い込みかも?なに?そんなことはない、事実だって?確かに、事実ですね。過去においては。今は?今も事実ですか。今は、単なる記憶ですよね。しかも、えっちゃんの個人的な記憶です。客観的な記憶ではありません。相手の人は、そんなことは気にしていないかもしれないし・・・たぶん忘れていることでしょう。でも、えっちゃんの記憶のなかでは、しっかりと生きているのですね。まるで昨日のことのように。そう、時間は関係なく。それは、単なる残留想念です。目の前の事実ではありません。えっちゃんが握り締めた過去の思い出に過ぎないのですね。ただ、えっちゃんが後悔しているだけです。あんなことをしなければよかった・・・後悔先に立たず。残念でした。後の祭りです。と、まあ、これが今の常識ですね。でも、事実は、単なる記憶の残滓です。残り物の記憶に翻弄されているだけです。つまり、自分で自分の首を絞めているのですね。もちろん、えっちゃんの過去の行為を正当化するつもりはありません。えっちゃんは、反省しているし、後悔しています。それで十分です。いつまでも引きずることはありません。しっかりと過去を直視します。自分はどうしたらよかったのか、今の視点で見直します。自分を生かし、相手も生かすには、どうしたらよかったか。ベストの行為を模索します。そして、やるべき行為がはっきりしたら、イメージのなかで、その行為をします。過去に遡ってやるのですね。今さら遅い?過去は変わらない?確かにそのとおりです。でも、重要なのは、過去を変えることではありません。過去は既に終わっています。終わったことにいつまでも拘泥してもしかたがありません。問題は、今も記憶のなかに残っているということです。それが自分を苦しめているということです。それは何とかする必要があります。そうでなければ、永遠に苦しみ続けることになります。記憶を修正すればいいだけです。ベストの記憶にしてしまえばいいのです。但し、その前に必要なことがあります。それは・・・また似たような状況になったら、二度と同じ行為は繰り返さない。自他を生かすベストの行為をする。そう自分のなかで明確にすることです。それが曖昧だと、過去を修正してもあまり意味はありません。過去は、今に活かす。それでこそ過去が活きます。それでこそ、過去を心おきなく手放せるのですね。そうでなかったら、また同じことを繰り返します。同じことを繰り返したのでは、過去の経験の意味がありません。何度も同じパターンを繰り返している人は、自分の行為を真剣に検証していないのです。逃げているのですね。恐怖に追われながら・・・逃げない。正面から対峙する。そして、直視する。それでクリアーにすることができます。自分のなかで為すべき行為が明確になったら、過去に遡って、それを実行します。イメージのなかでやればいいのです。それで過去の記憶は、修正されます。一度で修正されなかったら、何度でも繰り返すのです。何度も繰り返すことによって、将来的にも自他を生かす行動が自然に取れるようになります。一石二鳥なのですね。過去は修正され、未来はベストの行為ができるようになる。それが、真に過去を活かすということです。それが、えっちゃんが今為すべきことではないでしょうか。いつまでも後悔していてもしかたがないでしょう。今できることは、過去の経験を活かすことです。過去を今に、未来に活かすのです。嫌な過去や気に入らない過去は、ベストの過去に書き換えます。それには、自分の生き方を変える必要があります。未来永劫に渡って変える必要があるのですね。その過去だけの一時しのぎでは、自己欺瞞になります。心から反省し、心から懺悔し、心から悔い改めることです。そうすれば、過去が未来に活きます。生き直せるのですね。そうすれば、過去も安心して成仏してくれます。そうでないと、過去はまた化けて出ます。ほとんど幽霊ですね。幽霊も似たようなものです。残留想念ですから。未処理の思いです。生きているうちに、きちんと処理されなかったものですね。執念、妄執、後悔、囚われ、こだわり・・・ハイ、生きているうちに整理整頓しておきましょう。心のなかを整理整頓すれば、日常の行為も変わってきます。悩むことが減ります。スーッと流れるように生きていけます。自然にそのようになるのです。心のなかが混乱しているから、日常生活も混乱するのです。何のことはない。自分の日常は、自分の心の反映です。自分の心のなかを外に映し出して見ているだけです。極めてシンプルですね。ハイ、心のなかを整理整頓する気になりましたか。整理整頓して、軽やかに生きていけばいいのですよ。もうそういう時代なのですから。いつまでも重たいものを背負って生きる必要はありません。人生は、ボデイビルではないのですから。重荷は、このへんでぜんぶ降ろしましょう。背負い過ぎていると、三途の川で溺れてしまいますよ。スッキリさわやか。今そうなれば、死後もそれが続きます。人は死んだ後、自分の人生を見せられます。そこで反省することになります。死んだ後まで待つ必要はありません。生きているうちに済ませておけば、残りの人生が何倍も楽しめます。あの世の関門も、ノンストップで通り抜けられます。閻魔大王も手の出しようがありません。そういう生き方をすることです。それは今生だけでなく、あの世へ行ってからも通用します。あの世だけでなく、また地球に生まれ変わっても役に立ちます。どの星に行っても、どの次元へ行っても通用するのです。スッキリと宇宙と共に流れることです。みんな手放し、軽やかに生きることです。何のとらわれもなく、自由に生きることですよ。それが、これからの生き方というものです。『いつまでも 過去に囚われ 後悔し 振り回されて 終わる一生』『いつまでも 過去の痛みを 持ってると 今を生き切る ことができない』『過去は過去 未来のために 活かすだけ 過去の後悔 活かして使う』『何回も 望むシーンを イメージし 過去を書き換え 未来を築く』『明確に 行(生)くべき道を 決めること 自分を生かし 周りも生かす』『自他共に 生かす生き方 していれば 後で後悔 することはない』『後悔を 公開すれば 後悔も みんなの役に 立って成仏』これが日記を書き始めて1161日目の心境。* 今回も、えっちゃんは一般人代表として、すてきな役割を果たしていますね。 この質疑応答によって、どれだけの人が気づくことでしょう。 えっちゃんの質問のおかげですね。 読んでいる方、そうではありませんか。
2008.03.07
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掲示板に次のような書き込みがありました。「Kimiさん、はじめまして。リンク先からやってきて半年前くらいから日記を読ませてもらっています。私は今までコメントせずに読み逃げばかりなので、お返事はもらえないかもしれませんが、なにか良い方法があれば教えて下さい。ここ何ヶ月か、悪夢を見続けています。過去にあった二度と絶対に戻りたくない場面を何十回も繰り返し見続けたり、サイコ映画のような内容(文章にするとこの光の場に申し訳ないのでこの程度の表現にしています)、自称宇宙人や霊能者が出てきて分け分からないアドバイスが始まったり、とにかくあまりにすべてリアルで目が覚めていつも夢でほんとによかったと心臓がどきどきで疲れ果てます。夢があまりにリアルすぎて怖く、また内容も怖いです。どうすれば、悪夢を見なくなるのか何か参考までにアドバイスをいただけませんか??そもそも夢は夢ですよね、なにも心配することないですよね??でもこんな夢ばかり見ることが不安でしかたありません。」確かに夢は夢ですから、心配することはありません。でも、不安?何が不安なのでしょう?ネガティブな想像をしていますか。不安は、ネガティブな想像から生まれます。想像することがなければ、不安もありません。まずそのことを理解する必要があるでしょう。不安は、自分の想像がつくり出している実体のないものです。夢よりも実体がないかもしれませんね。ですから、まずはしっかりとグランディングすることですね。不安に負けない。ネガティブな想像に振り回されないことですよ。過去にあった二度と絶対に戻りたくない場面を何十回も繰り返し見続ける?それは、解放のプロセスです。潜在意識のなかに強くインプットされているものを、心が解放しているのですね。心の自然治癒力みたいなものですよ。よほど深くインプットされたのですね。逆に言えば、それだけ強く掴んでしまったとも言えます。掴んだものは、手放せばいいだけです。出てくるものを怖がらないことですよ。既に終わったことです。残っているのは、記憶だけです。それがフィードバックされているだけです。そのことを、まずはしっかりと自覚することですね。そして、出てくるのを嫌がらない。出てくるものは、出てくるままに。そうすれば、そのうちに出てこなくなります。潜在意識のなかから出切れば、もう二度と出てくることはありません。見たくないものは、意識的に直視した方がいいのですよ。冷静な視点で、もう一度見直してみることです。何が問題だったのか。どうしてそのように感情的になってしまったのか。避けている限り、何度も同じようなことを繰り返します。経験は、学ぶためにあるだけです。いつまでも潜在意識のなかに溜め込んでおかないことですよ。溜め込んで蓋をするから、夢で出てくるのですよ。心が息苦しくなって、夢で解放しようとするのですね。それは、顕在意識が問題を見て見ぬふりをしているからです。逃げないでください。問題を先送りしないでください。もう限界なのですよ。心のなかに留めておくのが。だから夢に出てくるのですよ。そういうものは、意識的に出してあげることです。いつも言うことですが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」です。逃げているから、恐ろしくなるだけです。直視すれば、問題は解決します。直視すれば、怖がっていたものは幻だったとわかるのです。しっかりと自分自身でいて、自分自身の潜在意識を直視することです。どんなに恐ろしいことが溜まっていても、逃げないことです。逃げる方が、何倍も恐ろしいことなのですから。逃げている限り、追いかけてきますよ。一生逃げて過ごしますか。残念ながら、それは死んでも追いかけてきますよ。死んだ後も、死ぬ時の心の状態が続くだけです。今の悪夢が、永遠に続くのです。だから、今、気づいた時に解決するしかないのですよ。そういう逃げの姿勢が、サイコ映画のような夢をつくり出しているのです。自称宇宙人も霊能者も、恐怖心という弱みに付け込んでアドバイスしてくるのです。恐怖心がなかったら、そういうものは出てこれないのですよ。結局、自分自身が呼び込んでいるとも言えます。しっかりと見切ることです。逃げないで、直視する。主体性を持って見るのです。意識的に見ようとする時には、エネルギーが伴います。そのエネルギーが、ネガティブなものに負けない原動力となります。逃げている限り、ネガティブなものに勝つことはできません。逃げる姿勢そのものが、エネルギーを弱くします。見ようと意識する時、エネルギーは強くなります。そういうエネルギー状態で過去のトラウマと対峙すれば、トラウマに呑み込まれることはありません。過去に負けないでください。それは既に終わったことなのですから。いつまで過去の幻影に脅かされているつもりですか。死ぬまで?それでは死んだ後も続きますよ。永遠に続くのですから。直視して解決しない限り、終わることはありません。なぜなら、自分で掴んでいるからです。自分がしっかり掴んでいるだけなのです。そのことを真に理解する必要があります。悪夢は、単なる夢です。何も心配することはありません。心配すべきは、悪夢ではなくて、あなたの生きる姿勢です。前向きに真っ直ぐに生きているかどうかです。悪夢は、いずれ消えます。あなたの生きる姿勢が変われば。自分に正直に、素直に生きればいいだけです。真っ直ぐに目を逸らさずに生きればいいだけです。私は今までコメントせずに読み逃げばかり?大多数の方は、コメントしませんよ。ただ読むだけです。それで別に問題はありません。コメントしてもらうために書いているのではありません。書かれている内容が理解されれば、それでいいのです。もしかすると、読み逃げという表現の仕方に、あなたの生きる姿勢が表れているのかもしれませんね。ただ読んでいるだけの大多数の人が、同じように感じているとは思えませんから。読んだらコメントすべきという固定観念があるのでしょうか。それをしない自分を責めていますか。もしそうなら、自分で自分を苦しめているのですね。誰もあなたを責めてはいませんから。まあ、そんな感じです。何事も逃げないことですよ。真っ直ぐに生きること。それが問題解決の一番の近道です。また何かわからないことがありましたら、遠慮しないで書き込んでください。読むのも自由。書き込むのも自由。書き込まないのも自由です。このサイトからは、いかなる権利も義務も生じません。自由に生きればいいだけです。ただ、真剣に生きようとされるなら、書かれていることを実行してみることでしょうか。少なくとも試す価値はあると思うのですが・・・『トラウマを 解放しようと 夢を見る 怖い夢でも 問題はない』『怖い夢 見ても恐れる ことはない しっかり見切る それが一番』『逃げるから パワーが落ちて つけ込まれ 悪夢となって 恐怖が襲う』『逃げるから 追いかけてくる 恐怖心 直視しないと 終わることなし』『逃げないで しっかりと見る 最後まで 見ることにより 問題消える』『見ることで パワーはどんどん 強くなる 悪夢などには 負けないほどに』『夢に見た ものは何でも 手放して 何も残さず サラサラ生きる』『何事も その場限りで 終わらせる 引きずることは 重荷になるだけ』『感謝して みんな手放す ありがとう 悲喜交々(ひきこもごも)の 経験すべて』これが日記を書き始めて1160日目の心境。* 「1159日目 - ディジュリデュ」も同時にアップしました。
2008.03.06
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朝から木霊の森へ行く。今日のお客さんは、男子大学生。男性1人は、珍しい。ごく稀にあるが・・・男1人でガイドを依頼する人は、変わった人が多い。個性的と言うか、ユニークと言うか・・・これまでは、すべてそうだった。今回も例外ではなかった。彼は、楽器を持って来た。これが楽器?ただの筒ではないの?ところが・・・これは、ディジュリデュというアボリジニの楽器。何度聞いても覚えられない名前。またの名をイダキとも言う。こちらは、一度で覚えられた。スリコギの巨大バージョン。1メートル近くある。中は空洞。白アリが食べた痕とか。空洞があるだけで、指を当てるような穴はない。これでどうやって演奏するの?かなり重たい。楽器の既成概念を打ち壊す代物。アボリジニについては、何冊か本を読んだことがある。彼らの映画も見た。オーストラリアの先住民。なんとなく惹かれるものを感じる。木霊の森へ入って、彼の演奏が始まった。最初に連想したのは、チベットの長い筒の楽器が出す重低音。次に思い浮かんだのが、アルプスのホルン(角笛)。最後に思い出したのが、日本の法螺貝の響き。これらを総合したような音。メロディーはない。法螺貝にメロディーがないように。極めて素朴な楽器。非常に低い音。地響きのように空気が振動する。彼は、唇を震わせて、この音を出す。アボリジニは、これを儀式などで使うらしい。岩の上で吹いたり、切り株の中で吹いたり・・・歩きながらも・・・なにしろいろんなところで吹いてくれた。最初の大きな岩のところで吹いた時、ヤクジカが二頭、ずっと鳴いていた。こんなに鳴き続けるのは珍しい。ずっとディジュリデュの音を聞いている様子。前回来た時にもいたヤクジカの母子。以前に、オカリナを木霊の森で吹いた人がいた。その時も最後までヤクジカが聴いていた。彼らは音楽が好きなのだろうか。それとも、好奇心がいっぱい?もしかしたら、両方かもしれない。なにしろジーッとこちらを見ながら聴いている。とても真面目な態度。咳払いなどしない。彼は大学の4年生で、春から就職が決まっている。でも、ぜんぜん企業戦士というタイプではない。ほとんどアボリジニ。アボリジニの人と一緒に歩いている感じ。過去世は、ケルトやアボリジニやアメリカインディアンだろうと本人も言っていた。風貌もそんな雰囲気。ほとんどタイムスリップ。まったく今風ではなかった。彼は屋久島に一週間ほど滞在し、明日帰る予定。縄文杉や白谷雲水峡にも行った。体験ダイビングもした。でも・・・木霊の森が最高!すごい!すごい!と何度も繰り返した。本当に感動しているのが伝わってくる。最後に取っておいただけのことはあったとも言っていた。寒かったけれども、彼は興奮気味。アボリジニ系なので、やはり原始の森と合うのだろう。整備された屋久島の森と比べると、圧倒的に迫力が違う。そういう森が、彼には似合っていた。木霊の森の主の切り株の中でも、長い時間演奏していた。演奏が終わった後も、しばらく出て来なかった。瞑想していたのだろうか。こちらが心配になるくらいの長い時間だった。今日は、不思議なことにイタチが2匹も出てきた。イタチは、この5年間で10匹も見ていない。それが1日で2度も出て来るとは・・・しかも、彼は写真まで撮った。いつもはすぐに姿を消すイタチが、わりとゆっくり動いてくれた。明るい茶色の毛がフサフサ。時々、こちらを振り返りながら逃げて行った。超カワイイ!シカも何頭も出てきた。本日は、アボリジニバージョンの木霊の森?天気が良かったので、さすがに木霊の写真は撮れなかった。でも、きっと木霊たちも喜んでいたことだろう。ディジュリデュの音は、原始の森に溶け込んでいた。木霊の森では、以前に横笛を吹いた人もいた。その時は、鳥たちが一緒に伴奏した。チェロを演奏したのは、チェリスト真由美さん。ここで歌を歌った人もいたような・・・いろんな人が、いろんなことをやってくれる。ガイドをしていても飽きない。木霊の森は、天然のコンサートホール?ガイドは生活の手段だけれども、それだけにとどまらない。人との出会いの場でもある。そして、スピリチュアルな世界のガイドをする機会でもある。ナチュラル&スピリチュアルガイドというのが、こちらの正式な名称。今は、この仕事が気に入っている。日記を読んだ人が来る。HPを見た人が来る。縁のある人がやって来る。なかなか楽しい。たまにホテルの下請け仕事もあるが、こちらもいろんな人と出会えて悪くはない。まあ、楽しく暮らしている。日記を書きながら・・・『シカが鳴き 鳥が囀(さえず)る 森のなか ディジュリデュ響く 法螺貝の如く』『アボリジニ 自然ベースの 楽器から 伝わるものは そのあたたかさ』『響き合う 森と音色と アボリジニ 遠く離れて リンクしている』『屋久島の 森で太古の エネルギー 融合されて 復活果たす』これが日記を書き始めて1159日目の心境。
2008.03.05
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牡羊座の水晶祭りの準備をしている。現時点では、22組の水晶たちが揃った。昨日から解説文を書き始めた。すると・・・書くことがたくさんあり過ぎて、前書が長くなった。それでも、かなり省略した。もう少し書きたくなって、日記に書くことにした。牡羊座とは・・・12星座の最初のもの。人間で言えば、誕生にあたる。その意味するところは、この世を生きようとする意志。生命力。牡羊座の守護星は、火星。守護神は、軍神マルス。戦いの神。積極性であり攻撃性。つまり、アクティブ。けっして、受け身ではない。火星のマークは、○の上に↑。生物学的なオスの印と同じ。(♂)火星は、男性性を表す。外に向かう力。ポジティブ。力強さ。牡羊座の対極にあるのは、天秤座。天秤座の守護星は、金星。金星のマークは、○の下に+。つまり、生物学的にはメスの印。(♀)金星は、女性性の象徴。守護神は、愛と美の女神フローディア。火星とは逆の、やさしさや愛。受容性。180度の対極にあるものは、すべてが逆。プラスとマイナス。陰と陽の関係。牡羊座と天秤座も同様。牡羊座は、生きようとする意志。個としての生命。天秤座は、調和。全体のバランス。牡羊座の守護星の火星は、セックスを表す。天秤座の守護星の金星は、愛情。それぞれ肉体と精神の象徴。男性性と女性性の象徴でもある。牡羊座は、パワーに溢れている。元気いっぱい。バイタリティ。積極性。今回の牡羊座の水晶祭りでは、オレンジ系の水晶がたくさん出ている。オレンジ系は、元気の色。パワーをくれる色。この色の代表的な水晶は、タンジェリンクオーツ。鉄分が水晶の表面に自然に付着したもの。今回は、このタンジェリンクオーツが6個も出ている。特に大きなポイントが、すばらしい。透明感があって、とても美しい。これだけのタンジェリンクオーツは、滅多にお目にかかれない。トップも完璧で、形も美しい。それから、一番大きなクラスターも、すばらしいクオリティを持っている。透明感も照りも最高クラス。オレンジ色では、もう一つ、ゴールデンオーラクオーツというのも出る。これは、水晶に金を蒸着したもの。こちらも、とても美しいオレンジ色に輝いている。同じ蒸着ものでは、前々回に人気だったオーロラクオーツもまた出る。こちらは、チタンを蒸着。見る角度によって、虹のように色が変わる。こういう蒸着系は、ほとんどがアクエリアス時代向きの水晶。軽やかにキラキラ輝いている。人気のローズクオーツも2個出る。1個は、まるでバラの花が咲いたような結晶。小さいけれども、美しい。実際は、バラというより桜の花の色に似ている。もう1個は、大きな丸玉。直径が4cmもある。ピンクの色が濃く、透明感に優れている。なかなか見かけないレベルのもの。ローズクオーツは、言わずと知れた天秤座の水晶。牡羊座とは、対極にある。優美さ。やわらかさ。女性性の極み。この水晶を見ているだけで、女性は美しく、やさしくなれる。調和とバランス。平和の象徴でもある。しかし、元気になりたい人は、牡羊座のオレンジ系がお勧め。バイタリティがほしい人は、何と言ってもオレンジ系。もっと積極的に人生を切り開きたい人には、元気の出るオレンジ系がいい。要は、自分の必要に応じて活用すればいいだけ。もちろん、その日の気分で使ってもいい。美しさややさしさといたい時は、ローズクオーツ。元気が必要な日は、タンジェリンクオーツ。クリアーになりたかったら、透明なヒマラヤ水晶。部屋を清浄にしたかったら、透明なクラスター。スピリチュアルな意識を深めたかったら、アメジストやラピスラズリ。宇宙からのエネルギーをキャッチしたかったら、ゴールドルチル。透明なヒマラヤ水晶は、ほとんど万能薬に近い。今回も、ヒマラヤ水晶がたくさん出る。なにしろ自宅にある水晶は、圧倒的にヒマラヤ水晶が多い。透明な水晶は、ほぼ万能薬。自分の望み通りに働いてくれる。もっとも、こちらは意識をクリアーにするために求めている。そして、そのつもりで手放している。この日記の趣旨に最も合っている。透明さのクオリティにおいて、ヒマラヤ水晶に優るものはない。昔も今も、男根は多産の象徴。世界中の神社仏閣で祭られている。水晶の世界では、セプタークオーツ。日本名、松茸水晶。まさにマツタケとそっくりの形をしている。火星もまた男性性の象徴。あのマークは、男根の象徴でもある。今回も、大きなセプタークオーツが出る。男性性を強めたい人には、お薦め。積極性やバイタリティを身につけたい人にも勧められる。受け身になり過ぎている人には、役に立つ。セプタークオーツも、タンジェリンクオーツと並んで牡羊座の水晶。今回は、久しぶりにゴールドルチルも4個出る。いずれも黒いヘマタイトから金色のルチルが放射している。このヘマタトは、火星系の鉱物。ヘマタイトの和名は、赤鉄鉱。鉄の属性は、火星。硬くて強いからだろうか。男性性そのもの。鉄は、血液の循環を良くし、身体を活性化させる。鉄分が不足すると貧血になる。そうなれば元気は出ない。そういうところを補ってくれる。貧血気味の女性向きかも?ゴールドルチルは、この世的に使えば金運。スピリチュアルに使えば、宇宙と交信するためのアンテナ。牡羊座は、火の星座。ゴールドルチルは、火の星座に合っている。最も合うのは獅子座だが、牡羊座にも合う。同様に、オレンジ系は獅子座にも合う。金色は、獅子座の色。でも、牡羊座でも使える。今回もゴールドルチルだけでなく、ゴールド系の水晶が2個出ている。1個は、アーカンソーのゴールデンヒーラー。もう1個は、ガネーシュヒマールのゴールデンヒーラー的なクラスター。いずれもクオリティは高い。この他にも、クオリティの高いピンククオーツも出ている。ここのところ毎月1個ずつ出しているが、あまり人気はない。しかし、手元に届いた人は、その美しさに驚く。写真写りが悪いだけ。今回も、抜群にすばらしいピンククオーツが出る。色も形も透明度も言うことなし。しかも、そんなに高くない。ガネーシュヒマールとセットになって出る予定。今回は、もう一つ特筆すべきものがある。それは、ガネーシュヒマールの12cm近くある大きなポイント。大きさだけなら、この程度のものは珍しくはない。しかし・・・そのクオリティは、特筆に値する。このサイズで、これだけ透明なものは、これまで見たことがない。その透明度のクオリティは、ガネーシュヒマールの最高クラス。小さいものなら、このクオリティはある。しかし、これだけのサイズになると、普通は濁ってしまう。上から下まで透明というのは、超珍しい。何と言っても、その透明度の質感がすばらしい。透明度の緻密さが群を抜いている。ヒマラヤ水晶が特別視されるのは、世界一の高地で採れるからだけではない。世界一神聖な場所で採れるのは間違いない。しかし、いくら聖地で採れても、美しくなかったら水晶としての価値は半減する。ところが、ヒマラヤ水晶は、水晶自体としても世界一のクオリティを持っている。ヒマラヤ水晶に優るクオリティを持つ水晶はない。その透明度は、群を抜く。人を寄せ付けないヒマラヤのエッセンスという感じ。神聖さの極み。そういうヒマラヤ水晶が、今回も10個ほど出る。クオリティの高いものが、どんどん旅立っている。屋久島のエネルギーで浄化されて出ていく。光に包まれて旅立つ。今回の水晶祭りは、22日の満月。元気あふれる水晶たちが登場する。屋久島のいのちを帯びて。光のエネルギーに満たされて・・・『受け止めて 包み込むのが 女性性 切り拓くのが 男性性』『牡羊座 天秤座とは 真反対 アクティブ・パシブ 男性・女性』『個としての 生き抜く意志が 牡羊座 皆と調和し 生きる天秤』『生まれたら 生き抜く意志が まず大事 成熟したら 周りと調和』これが日記を書き始めて1158日目の心境。
2008.03.04
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今日は、天気は良いのだが風が強い。それだけでなく、景色がボンヤリしている。クリアーではない。黄砂の影響らしい。自我は、やがて終焉(しゅうえん)する。終わりの時を迎える。それも、そう遠くない時期に。では、自我が終わったら、どうなるのだろう?自我に代わる主体は、何?今の人類の主体は、自我。つまり、思考。人は、思考ベースで生きている。別に思考が終わるわけではない。思考は、感覚や感情と同じように存続する。ただ、思考に振り回されるということはなくなる。思考を使いこなすようになる。思考の次に来るものは?自我ではない主体は?それは、言葉で説明するのは難しい。基本的には、実感するしかない。それは、思考が止んだ状態。思考に判断の基準を置かない状態。思考ベースではなく、静かさベース。思考が止んだ静かさのなかで、意思決定がなされる。過去のデータベースではない。今ベース。今、目の前の状況から、すべてが始まる。過去は、あくまで参考程度。意識は、今にきっちりとフォーカスされる。過去を悔いたり、過去のノスタルジーに耽ったりはしない。今にすべてがフォーカスされる。今ここに、すべての意識が結集される。感覚や感情に振り回されることもない。トラウマや心の傷に左右されることもない。過去の習慣や思いのパターンに翻弄されることもない。今、今にフォーカスされる。そういう自我を超えた意識の時代が、やがて来る。自我が主体の座を降り、新しい意識が主体の座に上(のぼ)る。そういう時代になれば、もう争いはない。戦争など、過去の遺物以外の何ものでもなくなる。今の時代が、お伽噺のように感じられる。本気で自我になりきり、個として生きた時代が懐かしくなる。それは、既にセピア色の思い出。遠い遠い人類のファンタジー。そう思える時代が、やがて来るだろう。今は、転換期。自我から、次の主体への転換期。私利私欲から離脱する時。自己中心。自己保存。自我我欲。自我ベースの人生が終わる。もちろん、自意識はある。しかし、もはや自己中心的な自我ではない。個であり全体でありという意識。共に生きる意識。静かに見守る意識。静かに気づく意識。静かに己がやるべきことがわかる意識。静かに全体を感じることのできる意識。自我の喧騒は終わる。思考の騒がしさが終焉する。静かな意識が芽生える。どこまでも浸透する意識が育つ。その意識が、これからの主体となる。静かな意識。思考が空回りしていない意識。思考に振り回されない意識。静かさのなかで、すべてが行われていく。静かさのなかで、次々に事が運んで行く。トラブルはない。躊躇もない。ただ静かに見守り、行動に移す。その間に思考は介在しない。思考を超えた意思決定がなされる。静かな意識のなかで次の行動が決まる。人類の意識は、これからそのような方向へ向かう。自我の終焉。それが現実のものとなる。遠い将来のことではない。新しい時代が幕を開ける。新しい意識の時代がやって来る。自我を超えた時代が花開く。もう蕾がほころび始めている。『新しい 時代がやがて やって来る 自我とは違う 主体で生きる』『自我という 切り離された 状況で 個として生きた 時代は終わる』『サバイバル ゲームは終わり 人類は 豊かに清く ゆったり生きる』『私利私欲 介入させず 客観視 今必要な ことをやるのみ』『私利私欲 なければ楽に 生きられる 必要なこと やればいいだけ』『静かさの なかですべてが 始まって 静かさのなか すべてが終わる』これが日記を書き始めて1157日目の心境。* 「1153日目 - あとりの虹」 も同時にアップしました。 すてきな童話の紹介です。
2008.03.03
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* 今日の日記は、水晶雑感です。 あまり深い内容はありません。 長い文章なので、水晶に興味がある方か暇な方だけお読みください。三月になって、春のような陽気になっている。やはり、春はいい。なんとなくウキウキする。お花見に出かけたくなる。自宅には、ざっと300個ぐらいの水晶がある。最盛期に比べれば、100個ぐらいは減った。しかし、まだ多過ぎる。水晶祭りに出す数を増やさないと・・・冬場は収入があまりないので、水晶を売って暮らしていた。その結果、100個ほどは減った。しかし、まったく購入していないわけではないので、思ったほど減ってはいない。既に予約して、お取り置きになっているものが30個ほどある。これから仕事が本格化すれば、収入も増える。そうなれば、当然、水晶を購入することになる。いくら水晶祭りをやっても、これではイタチごっこ。画期的に水晶を減らす方法はないものだろうか。小さなものを買わないで、大きなものだけにする?安いものを買わないで、高級品だけにする?確かに、そういう方法もある。しかし、それでは面白みがない。何と言っても一番面白いのは、掘り出し物を見つけること。これは趣味みたいなもの。自分の審美眼が試される。水晶を見抜く目。実物を見れば一目瞭然なのだが、パソコンを通しては難しいものがある。都会ではないので、水晶ショップは一軒しかない。しかし、ネット上には数百の水晶ショップがある。これは便利。但し、パソコンを通して見なければならない。直に見ることはできない。そのため、経験と勘が必要となる。これまでのそのショップのデータと、個々の水晶の感じ。写真の撮り方も、ショップによって異なる。実物よりも明るく撮るところ。きれいな角度からのみ撮るところ・・・そのショップの撮り方を理解しておく必要がある。写真は下手だが、実物はいいところもある。これまで、どのようなクオリティのものをアップしてきたかを把握しておく必要もある。そのショップのオーナーの好みというものがある。突然変異はない。休業するサイトもある。新しくオープンするサイトもある。水晶ショップも栄枯盛衰。特にネットショップは簡単にオープンできるので、変化が激しい。毎日アップするところもあれば、月に一度のところもある。事前に知らせてくるところもあれば、突然アップするところもある。たくさんのサイトが、水晶を販売している。似たようなものでも、サイトによって価格差は激しい。やはり、見る目が試される。こちらは、毎日、たくさんのサイトをチェックしている。知らないサイトはないくらい。ほとんど水晶オタク。これだけたくさんのサイトをチェックしていても、本当に良い水晶は少ない。結果、選りすぐりのものだけを購入することになる。それでも外れることがある。実物を見れない以上、外れるのは避けられない。届いた水晶を自分で調整したりしていて、壊してしまうこともある。水晶は、意外と壊れやすい。そういう意味で、どうしてもロスが出る。外れたり、壊れたり・・・そういう試練を超えて残っているものは、それなりに美しい。水晶のエッセンスのようなもの。世界中の水晶が集まっている。大富豪ではないので、そんなに高価なものはない。しかし、美しいものは多い。特に最近は、スピリチュアル系としか言いようのない水晶が来はじめている。七色の天使の翼が入った大きなシトリン。龍が入ったハニークオーツ。フェアリーの形をしたファーデンクオーツ。そして、とうとう鳳凰が入ったシトリンまでやって来た。これは、すばらしいレインボーが出る。目の覚めるように美しい水晶。もう一つ、ほとんど宝石に近いような巨大なヒマラヤ水晶も届いた。これもトップに虹が出る。滝のように上から落ちる虹。その他にも、観音様系の水晶が何個か来ている。なにしろすてきな水晶が、てんこ盛り。これでは手放せないはず。ハー、執着してない?かも?次から次にすてきな水晶がアップされるので、本当にキリがない。長くいるものは、どんどん手放すしかない。部屋の絶対スペースが限られているので、増えても限度がある。それに、そんなにケアーできるものでもない。幸か不幸か冬場は乾燥して埃っぽかったので、三日おきぐらいに水晶を並べ替えていた。しかし、これだけの数があると、しょっちゅう並べ替えていなければならない。仕事が本格化すれば、そうもいかない。もっとも、雨が多くなって埃も減るが・・・ゴールドルチルクオーツは、水晶のなかに金色の針が入っている。水晶だけでも、アンテナの役割を十分果たす。そのアンテナのなかに、更にアンテナの針が入ったら・・・すごいアンテナになる。ゴールドルチルクオーツは、アンテナのなかのアンテナ。無研磨で美しく結晶しているものは、数少ない。そういうルチルクオーツは、ものすごいアンテナとなる。アンテナのクオリティが違う。アンテナの内側にあるアンテナは、宇宙の深層にアクセスできる。宇宙の内面とコンタクトが可能。高度なエネルギーや情報が流れてくる。ただの水晶ではない。きれいな六角形に結晶しているゴールドルチルは限られる。産出量は、減り続けている。元々、塊として産出されるものが多かった。きれいな六角形に結晶するものは少ない。それに加えて、中国でのゴールドルチルブームによって、ほとんどはブレスなどに加工されてしまう。中国では原石のまま飾るということはあまりしない。ほとんど風水的に加工してしまう。貴重なゴールドルチルの結晶まで加工されてしまう。日本でもリッチになりたい人で、ゴールドルチルのブレスレットをしている人もいる。しかし、それはゴールドルチルの即物的な使い方。物質次元の欲でゴールドルチルを使っているだけ。それは、それなりの効果はあるのだが・・・ルチルは、アンテナ。だから、直感力が鋭くなる。ゴールドルチルは、地道に財産を蓄積するのではなく、投機的なものに向いている。勘を必要とするもの。宇宙的なアンテナとしても使えるし、この世的なアンテナとしても使える。要は、使い方しだい。どのようにも働く。スピリチュアルに使うか物質的に使うか・・・ゴールドルチルは、加工されてもアンテナとして機能する。水晶はブレスレットにされれば、アンテナとしての役目は果たせない。しかし、なかのルチルは、ちゃんとアンテナの役割を果たす。だから、リッチになりたい人には役に立つ。しかし、スピリチュアルに使う場合は、あまり加工しない方がいい。天然のままの方が、感度がよくなる。加工してしまうと、その水晶の繊細な部分が壊されてしまう。それでは繊細なアンテナとしては機能しない。精妙な宇宙の波動をキャッチするには、水晶自体も繊細である必要がある。それには、人の手を加えない自然な状態がベスト。自然に繊細で美しく成長した水晶が望ましい。しかし、そういうものは、なかなか高価。ゴールドルチルの特級品というのは、ものすごく美しい。しかし、ものすごく高い。買いたくても、なかなか手が出ない。しかし、いつまでも見飽きない美しさを秘めている。一家に一本の水晶!アンテナとしての水晶。スピリチュアルなものを求める人は、ゴールドルチル!アメジストもスピリチュアル。求めよ、さらば与えられん!確かに、求め続ければ、すばらしいものがやって来る。それは、間違いない。求めるエネルギーが、すばらしいものを引き寄せる。自宅には、屋久島の天柱石と似た形をしたヒマラヤ水晶がある。ガネーシュヒマールの最高クラスのもの。透明度のクオリティが、すばらしい。天柱石のミニチュア版。いつも天柱石に行くことはできない。天気が悪ければ、見ることさえできない。しかし、水晶であれば、手元でいつでも見られる。宇宙からのエネルギーをチャージしてくれる。たくさんの水晶に取り囲まれているということは、それだけ宇宙からのエネルギーを受けているということ。この日記を書くためには、それだけのエネルギーが必要なのかもしれない。必要があって、この水晶たちはここにいる。この世を生きるパートナーとして・・・『水晶の 中できらめく ルチルこそ 宇宙と繋ぐ スペシャルアンテナ』『宇宙から 届く波動を 増幅し 地球に合わせ 流す水晶』『水晶は 届く波動を 増幅し 心と体 響きで満たす』『透明な 中にきらめく ゴールドの ルチル遥かな 宇宙と繋ぐ』これが日記を書き始めて1156日目の心境。
2008.03.02
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三月になって、急に春めいてきた屋久島です。先日の魚座の水晶祭りの水晶たちが、引き取り手のところへ届いています。お礼のメールも届き始めました。そのなかに次のようなものがありました。「ところで、私のメイン、カクタスアメジストですが・・・3時ごろ家に届いたゆうパックの箱♪まずはいつも届いたら箱をセージで浄化します。(いろんな人の手を渡っているので)それから、箱の上に頭を置いて、箱を抱きしめて、しばらくボ~~~~~・・・眠くなってきたので、箱を抱きしめて寝ていたら、きれいな紫色のお花がそよ風に揺らめいている映像が見えました。見たことのないお花で、自然のお花畑でした。夜、みんなが寝てから、カクタスアメジストの包みを開けました。「うわあ~~ きれい~~~~~」と、思ったのですが、正直なところ、いま一つピンとこなかったのです。共鳴できないというか、あれ?という感じでした。おっかしいなあ、なぜだろう?と思いながら、昨夜は息子にいただいた石たちのエネルギーをビンビンに感じていました。朝起きて、息子を学校へ送り出し、お掃除をして朝ごはんを食べて、ゆっくり座れるようになってから、アメジストを手に取りました。そうしたら・・・昨夜の「あれ?」は何だったのだろう、というくらい石に惹きつけられました。あまりにきれいで、手から離せない・・・何十分も見とれていました。見ていると涙が溢れてきて、私のハートのチャクラが開いていきました。水晶祭り前日、瞑想していた時に入ってきてくれたこの石のエネルギーが、そのままに私の中に入ってきて、愛と優しさ、慈愛のエネルギーで満たしてくれました。気高くて、凛としていて、優しくて、調和のエネルギーを放ってくれています。既にうちにいる石たちが、カクタスアメジストに共振しているのをとても感じます。個々の石たちが、ひとつのエネルギーで見えないエネルギー場を創ってくれているのを、とても感じます。(今までこんなことを感じたことはあまりありませんでした)眉間からエネルギーが入ってくるような感じがして、石の先端を眉間に当ててみました。そうすると、私の体がゆらゆらとしてきました。そのまま瞑想状態になって、ビジョンが見えてきたので、見えるに任せてみました。きれいな薄紫を基調にした星雲が、ゆっくりと回転しながら宇宙空間に浮いていました。星雲から、紫がかったような、青白いような、とてもきれいな色の光の微粒子が宇宙空間に、次から次へと放たれていました。微粒子といっても、目に見えるような粒ではなくて、細かな細かな、三次元の目で見ることのできない光のエネルギーの粒という感じ・・・しばらく見ていると、その星雲の周りに、同じ星雲がいくつかあるのが見えてきました。五つ?それらは、同じように光の微粒子を放ちながら、ゆっくり回転しながら、最初の星雲の方に近づいていきます。それぞれの星雲が回転しながら、最初の星雲と一つになっていき、やがて大きな薄紫の星雲が宇宙空間に誕生しました。そこからは、やはり紫がかった青白い(ちょっと色が言葉で表現できないです)光の微粒子のようなエネルギーがキラキラと眩く輝きながら宇宙空間に放出されています。星雲が大きくなった分、光の粒の数もすごいです。2乗?3乗?っていうくらい。その光のエネルギーに宇宙空間が満たされていっているのを感じていたとき、地球が見えてきました。光のエネルギーは、星が降るように地球に降りていきました。(宇宙から、上から見ているので、降りるという感じで見えました)地球が、光のエネルギーの粒に優しく覆われていきます。地球に、光のエネルギーが優しく浸透していきます。その様子をうっとりと見ていると、瞑想している私が見えてきました。その時に気づいたのですが、私はその時、石を両手で包み胸の前に持ってきていたのですが、ふと、それが、大日如来が智拳印を結んでいる姿とオーバーラップしました。自分を大日如来とオーバーラップさせるなんておこがましいのですが、石を持つ手が智拳印を結んでいる手に似ていて・・・見えてきた自分を感じていると、星雲(これは、光の繭でしょうか?)から、一筋の光、(先程から書いている光のエネルギーが集結されたようなもの)が、ものすごいスピードで私をめがけて降りてきました。その光は、私を貫いて、あっという間に私を紫がかった青白いエネルギーで包み込み、身体の内部まで余すところなく浸透していきました。私の身体は青白く光っています。そのエネルギーを隅々まで感じていると、違う次元の私が見えてきました。高い、低いという言葉を使うのは本意ではないのですが、そういう言葉を使うとすれば、高い次元の私、ハイヤーセルフ?よくわからないのですが、見守ってくれている存在?が、私に何かメッセージを伝えてくれていました。そのメッセージを言葉で受け取るだけのエネルギーは、まだ私にはなくて、でもメッセージは、エネルギーで、波で、何か、私に伝わってきました。そのエネルギーだけで、今は十分でした。その次元の私の姿も、見ることはできなくて、ただ、光でした。光の中に誰かいるようなシルエットが見えなくもないのですが、光で十分なので、その光を見て、感じていました。その光は、すべての私、今ここにいる肉体の私も、過去世の私も、あらゆる次元の私も愛で満たしてくれていて、あなたはいつもここ(光)に繋がっている、というようなことをエネルギーで伝えてくれました。その間、たくさんの過去世の私が浮かんでは消え、浮かんでは消え、浄化されていくのを感じました。しばらくその光と一緒にいて、自分の中の不動の部分にフォーカスしていました。それから、だんだんとエネルギーが無くなっていき、こちら側(顕在意識)に戻ってきました。目を開けると、目の前の水晶たちが今までと違う感じがしました。視覚的には同じですが、今まで感じられていなかった、水晶たちが秘めている精妙なもの、奥深いものを、私の内奥が感じられているように思いました。瞑想が終わると、光のセミナーを受けた後のような気持ちでした。光のエネルギーに包まれ、光のエネルギーに私が共振共鳴することができ、あのような美しい映像が次から次へと見えてきたのだと思います。瞑想中は、愛と光と至福に包まれ満たされきっていました。カクタスアメジストのエネルギーはもとよりですが、今までに送っていただいた水晶たち、その石たちのエネルギーが、今までずっと私にエネルギーを充電してきてくれていたのだと思います。エネルギー枯渇状態の私に、石が届くたび、エネルギーを満たしてくれていっていたのでしょうね。そして、なぜか、水晶祭り前日からご縁があり、私にエネルギーサポートをしてくれた今回の石、そしてこのようなビジョンを見せてくれたこの石に、神秘なものを感じます。無色透明の光のエネルギー場からやってきてくれた他の石たちの影響も、大いにあったかもしれません。これからも少しずつ、石本来の持つエネルギーを感じる感受性が高まっていってくれると思います。kimiさんのところから来てくれる光の石たちによって、私の深奥に光が届き、私は、私本来になり輝いていきます。ありがとうございました。」この方のところには、大きなカクタスアメジストが行きました。その写真を見た段階から、彼女にはこの水晶のエネルギーが来ていたようです。そして、実際に手にすると・・・とんでもない展開になりました。水晶の持つエネルギーのすばらしさですね。カクタスアメジストがリンクしている星雲と繋がったのでしょうか。それとも、星雲のように見えたのは、彼女の魂本体やグループソウルでしょうか。やがて、彼女を見守るハイアーセルフのような光も現れます。その光になって、地球で瞑想している自分自身を眺めます。明らかに、人は多次元存在です。多次元に同時に存在しています。ただ肉体次元の意識は、そのことに気づいていないだけです。宇宙空間から肉体の彼女に光が流れます。水晶がアンテナの役割を果たしているのでしょう。光が心身に充電されていきます。その場にある水晶たちが、一つになってエネルギー場を形成しています。水晶同士の交流もあるようです。物質次元の自分だけではなく、過去世の自分も浄化されていきます。それがビジョンとして見えるというのも、すばらしいですね。自分という存在は、計り知れない大きさがあるようです。光が、すべてを浄化していきます。光化された水晶が、光を引き寄せるのですね。水晶があるだけで、その家に光が降りてきます。すばらしきかな水晶!彼女は、以前に光のセミナーを受けたことがあります。もう10年以上前でしょうか。その時の感じに似ていたようです。光が充電されると、この世を超えた次元と繋がるのですね。光のセミナーは、2002年で終了しました。屋久島に来る前に完了させました。これからもやるつもりはありません。これからは、水晶がその役割を果たしてくれるのでしょうか。光に満ちた水晶が、ミラクルを起こしてくれるでしょう。こちらは、日記を書くことに専念するだけです。ダイレクトな光の感受で実感できることもあります。それと同時に、しっかりと顕在意識で理解することも大切です。右脳と左脳。精神と肉体。物質次元と霊の次元。共に必要なのです。エネルギーは、水晶からも日記からも流れます。顕在意識で理解するとともに、エネルギー的にも感受できるといいですね。一層変容が速まるでしょう。水晶も時代の変化を促す役割を担っているようです。単なる鉱物ではありません。エネルギーを秘めた存在です。宇宙と繋がる存在です。これからも光に満ちた水晶が、屋久島から旅立つことでしょう。『水晶が 光を帯びて 届く時 宇宙と繋ぐ 役割果たす』『宇宙から 届く光を 受け止める アンテナとなる 光の水晶』『水晶は 宇宙の光の エッセンス 宇宙の響きと 共振している』『人類の 目覚め促す 水晶の 放つ波動は 光の響き』これが日記を書き始めて1155日目の心境。* 「1154日目 - 沈丁花」も同時にアップしました。
2008.03.01
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