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「1397日目 - 愛と慈しみ(1)」の続き。大きなエネルギーに包まれた空間にいれば・・・そのエネルギーを十二分に体験すれば・・・やがて、その感覚が身につくでしょう。愛や慈しみのエネルギーと同調すれば、自分のなかに愛や慈しみのエネルギーが満ちます。それを周りに振りまくことも可能でしょう。もっとも、愛や慈しみは意識的に振りまくものではありませんが。そういうものは、自然にあふれ出すものですね。自分では気づかずに、周りの人が気づくものです。それは、自分のエネルギーではありません。自分を通して流れるものです。それらのエネルギーは、個を超えています。むしろ、全体と言った方がいいようなエネルギーです。もしそういうエネルギーを周りに発したかったら、できるだけそういうエネルギーと一緒にいることですね。愛や慈しみのエネルギーと共にあれば、自然にそういうものが流れ出すようになります。 そういうエネルギーと同調するということは、自分自身もそういうエネルギー状態になるということです。そうすると、自分のなかの通路が開くのですね。愛や慈しみのエネルギーが流れる通路が広くなるのですよ。自然に自分から流れ出すようになるのですね。もっとも、個を通して流れる時は、多少色づけされますが。こだわりや囚われが多いと、かなり歪んでしまいます。できるだけスーッと通るといいのですが・・・それには、素直であることですね。常にスーッとした意識状態であることです。そうすれば、愛や慈しみのエネルギーが、そのまま流れるでしょう。人の意識のなかには、どうしても凝り固まっているものがあります。信念や信条、先入観や偏見、信仰や価値観。観念が、山のように詰まっています。それだけではなく、心の傷もあります。過去の記憶というフィルターを通って出てくる時、愛や慈しみのエネルギーは、かなり色づいています。無条件ではなくなっているのです。条件付きの愛や慈しみになっています。頭のなかは、障害物がいっぱいです。頭のなかが整理され、スッキリするにつれて、愛や慈しみのエネルギーがそのまま流れるようになります。特定の人だけにではなく、誰にでも何にでも流れ出します。必要とされるところに引き寄せられる感じでしょうか。自然に流れるだけです。その人を通して流れ出すのですね。その人が、愛や慈しみのエネルギーを出すのではありません。自我で出せるものではありません。自然に流れ出すものです。愛や慈しみの通路になれるほど、頭のなかを整理整頓することですね。自我というよけいな蓄積物を取り除くことですよ。自我とは、あちこちにぶつかる塊(かたまり)のようなものです。角(かど)だらけですね。こだわりや囚われ、執着や妄念・・・観念やトラウマ、恨みや憎しみ・・・プライドや自信、劣等感や優越感・・・所有欲に支配欲、権力欲に金銭欲・・・保身のために、ありとあらゆるものが詰まっています。自己保存ベースは、非常に根強いものがあります。そういうなかを愛や慈しみが通るのは、限りなく難しいことです。凝り固まったものに跳ね返されてしまいます。自我とは、凝り固まった意識です。肉体をベースにした自己保存の体系です。自己中心的な意識と、愛や慈しみは対極にあります。全体と末端という感じでしょうか。その末端が、小さく小さく凝り固まってしまったのですね。まるでフリーズしたかのように。個として、硬く固まっているのです。それが、自我というものです。小さなエネルギー場が、全体と離れてフリーズしたのです。完全に断絶状態です。だから、自我は孤独です。潜在的に、常に恐怖と共にあります。全体から孤立している自我にとって、真のやすらぎは遠い夢です。だから、神や仏を求めるのです。孤独に耐えかねて。あるいは、真のやすらぎを求めて・・・自我の意識の一番奥にあるのは、やはり純粋な光です。無色透明な光が、芯にはあります。それが、何層も何層も、いろんな色に染まっているのですね。その挙句、一番外側は、ほとんど真っ黒でしょうか。そんなところを、どうして愛や慈しみが通れるでしょう。透き通った意識でないと、愛や慈しみは通れないのですよ。スーッと素直な意識でないと・・・塊のない、しなやかな意識でないと・・・記憶は、ある意味、塊です。フリーズ状態とも言えます。ですから、記憶と一体化していると、固ーい人間になってしまいます。記憶から離れている必要があるのですね。記憶から離れると・・・実は・・・本当は・・・私って何?記憶喪失の人は、アイデンティティをなくしています。自分が何者かわからなくなります。私は誰?状態になるのです。記憶こそが、自我のバックボーンです。自己イメージという記憶=思い込みと一緒に生きているのが、自我人間です。自分は、何々と思い込んでいるのですね。実際は、心身共に刻々に変化しているのですが。フリーズした自己イメージと共に生きているのですよ。それは、過去の記憶と自己同一化した姿です。フリーズした過去をアイデンティティとして生きているのが、自我人間です。そして、その自己イメージであるアイデンティティこそが、何よりも大事なのです。プライドを傷つけられたとか・・・記憶と少し距離をおき、純粋な意識として生きることでしょうか。自我人間とは、記憶と一体化した意識です。意識が無色透明ではなく、色濃く色づいています。もちろん、無色透明だけでは色の世界は存在できません。いろんな色があっていいのですが、その色そのものになってしまわないことですね。その色を楽しむことですよ。楽しむということは、その色そのものではないということです。色以前である必要があります。無色透明な純粋な意識が、いろんな色をまとって楽しむのです。それは、肉体をまとってこの世を生きるのと似ています。肉体は、自分自身ではありません。肉体は、それを通して何かを表現する媒体です。記憶と自己同一化している自我は、媒体そのものになってしまっています。肉体の存続そのものが、目的化しています。生きて存在することも大切ですが、それ以上に大切なことがあるのではないでしょうか。 それは、創造することです。肉体が凝り固まると、自由に動けません。頭が凝り固まると、しなやかに表現できません。宇宙創造が、小さな自我創造に委縮してしまいます。それも創造には違いないのですが・・・凝り固まった頭をなんとかしましょう。解きほぐしましょう。緩めましょう。しなやかにしましょう。自我とは、塊。全体から分離した、小さな意識。自己イメージにフォーカスした意識。自己イメージをベースに生きる意識です。その自己イメージの中身は、記憶の断片の集合体。過去の諸々の塊です。自我とは、記憶と心中した意識でもあります。過去にフリーズした意識です。純粋な意識というものは、無色透明です。完全にフリーです。何ものとも自己同一化していません。ですから、名無しのゴンベェーです。それは逆に言うと、固定化していないということでもあります。一定の形がないのですね。あるようでないのです。まるで空です。ただ意識場があるだけです。エネルギー場。器ですね。肉体を始めとする、何層もの器・・・その何層もの器のなかに、純粋な無色透明の意識が浸透しています。器には、肉体のように個性があります。しかし、意識は、あくまで無色透明です。器とは、別のものです。時に応じ、何かと一体化して現実創造をします。時に応じ、どこかの器にフォーカスして自己表現をします。無色透明の意識は、旅人のようなものですね。それぞれの次元で、器を通して現実創造をしているのです。しかし、この三次元では、どういう訳か器そのものになっています。本来の純粋な意識を忘却しています。肉体や自我になりきっているのです。そのため、意識の自由をなくしています。少し記憶から離れて、静かにしていた方がいいかもしれませんね。そうすれば、媒体や器を超えた意識が現れるでしょう。純粋な透き通るような意識が・・・その時に、愛や慈しみも一緒にやって来るかもしれません。過去の塊と共に生きる時、自分自身も固まってしまいます。愛や慈しみからは遠く離れ、心のやすらぎは期待できません。それらは、すべて思い込みの産物です。思いが、凝り固まったものに過ぎません。そういうものと自己同一化して生きれば、苦しい人生となります。それは、硬くなって物質化した意識です。本来の意識のしなやかさを取り戻さないと、苦しいだけの人生になってしまいます。 風に揺れるススキのような、しなやかな意識で生きないと・・・何もない。でも、すべてがある。自分のものは、何もない。でも、すべてが眼前で展開している。『あちこちに ぶつかりながら 生きるのが 自我のこだわり 自我の囚われ』『塊(かたまり)が 自我というもの こだわりが 自我というもの サラサラ生きる』『色づいた 個として生きる 人の世は 色々あるさ 色んなことが』『色だけに なりきる時に 苦しみが 狭い視野から 押し寄せてくる』『手放して 生きれば楽に 生きられる 握っているから 疲れ苦しむ』『透明な 意識のなかを 様々な 色とりどりの 色が流れる』『純粋な 意識になって 様々な 色の展開 楽しみ愛でる』『人はみな 十二単(じゅうにひとえ)を 身にまとい 歌って踊る 神楽のように』これが日記を書き始めて1398日目の心境です。
2008.10.30
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蠍座の水晶祭りに出た水晶たちは、すべて無事に届いたようです。お礼のメールが次々に寄せられていますが、そのなかに次のようなものがありました。 「今日、時間があったので、二つの水晶を手に持ち、瞑想してみました。やはり、水晶を置いている両方の掌が、内側に槍が刺さるように痛くなってきます。でも、そのまま瞑想していました。手の痛みが気になって、それと、先週転んでから体の何かがズレている感じで、絶えずその痛みのようなズレが気になるので、いつものようにすっと瞑想に入っていけないので、私の目の前で、kimiさんが一緒にいて、一緒に瞑想してくださるイメージをしながら瞑想していました。私に対面して座っているkimiさん。kimiさんの静寂さがこちらに浸透してきて、kimiさんのエネルギー?が、すごくこちらに流れ始めました。同時に、過去世でしょうか、いろんなビジョンが見え始めました。過去世、一緒にこうして瞑想させていただいているビジョン。懐かしくて、とても静かで、涙が出そうになってきました。そのビジョンを感じてしばらくすると、ビジョンが消え、(その間にも、今生に影響を及ぼしていると思われる過去世のビジョンを見ました) 今度は、今現在のkimiさんのエネルギーがまた、こちらに流れ始め、私が瞑想している空間と、私を満たし始めました。それは、とても深くて、大きくて、その深さ大きさの質感が三次元の感覚ではないので言葉で説明しづらいのですが、kimiさんの意識ってこういう感じなのかなあ、大きいなあ、この奥行きと深さ、広さ、そこに充ち満ちている愛というか、慈しみというか・・・(あああ~~表現ができないですっ)私は、その果てのないような至福に、この肉体がどこへ行ったかと思うほどに心地よく溶けていました。掌の痛みも、すっかり無くなっていました。というより、もう、肉体の感覚が全くないので・・・そのまま、宇宙空間にいだかれているような感覚を心地よく感じていると、電話が鳴って・・・意識が途切れちゃって、残念でした。これだから昼間の瞑想は・・・でも、すぐに意識が戻って来られなくて、電話を無視して、そのまままた瞑想に戻ろうとしたのですが、やっぱりダメでした。瞑想中断、というより、すごく眠くなってきて、そのまま寝てしまいました。・・・そんな感じです。石を感じたというより、kimiさんを感じていた?瞑想かもしれません。もちろん、石のサポートを受けながら。あの静寂さと深さと広さと、例えようのないほどのエネルギーの美しさ・・・あの至福感が忘れられません。また、kimiさんを感じさせてください。(ダメ?)ガネーシュとカテドラルは、そのうち馴染んでくると思います。ピュアーホワイトもそうです。今頃、ぴったりと馴染み始めました。」次は、こちらからのメールに対する返事です。「> 水晶の代わりにkimiさんのエネルギーを感じたのかな? > それもいいかもね。じゃあ、これからも時々、感じさせていただきます☆(わ~い♪)感じている時、私が、何か、大きな大きな何かに包み込まれて、受け止められて、ゆりかごの中で赤ちゃんが大切に見守られて、安心してすやすや眠っている感じ・・・でした。そんな感じを、私のすべてが、愛と喜びと、それでいて高揚感はなく、静けさに満ちながら溶けながら感じていて、そうしていたら、その感覚というか至福の意識状態、その大きな慈しみのエネルギーを、自分からも回りに発することができるのではないか、とすら思えてきました。まあ、そんなことはなかなかでしょうけれど、意識状態がそこへ行っている時には、明らかに私もそのエネルギーと同化できる部分があるから、繋がっているのでしょうから、そんな感覚が臆面もなく出てきました。いつか、常時私も、そういうエネルギーと繋がれる時がくるでしょうか・・・」「1398日目 - 愛と慈しみ(2)」に続く。
2008.10.29
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昨日は、住んでいる地区の草刈りだった。年に1~2回ある。こちらは電動草刈機がないので、もっぱら切られた草の後片付け。それでも、玉の汗をかいた。久しぶりに汗をかくと、気持ちがいい。終わった後、風呂に入ってのんびりしていると、何かが飛んで来た。まるで窓から入って来そうな勢いで、白い大きな鳥が超低空飛行した。カモメかシラサギのような・・・瑞兆?いや、吉兆?宝くじでも当たるかな?しかし、買ってないものは当たりようがない。その後も特に変わったことはなく、一日が終わった。夜眠りに就く時、最近はチューナー(音叉)を使う。先日、人体の各器官に対応するチューナーを購入した。それぞれが、健康な各器官の波動で振動する。血液、副腎、腎臓、肝臓、膀胱、腸、肺、結腸・大腸、胆嚢、膵臓、腹、脳、脂肪細胞、筋肉、骨の15本セット。アメリカ製で、10万円近くした。このなかで本当にほしかったのは、脳と腎臓のチューナー。しかし、セットでないと売っていなかった。脳は、一度健全な状態に調整してみたかった。腎臓は、遺伝的に弱い。しかし・・・実際に使っているのは、骨のチューナー。頭を調整する際に、今は脳のチューナーより骨のチューナー方が効く感じ。まずは頭蓋骨を調整しないと、脳の調整はできないということだろうか。このセットには、使用説明書が入っていなかった。そのため、すべて手探り。最初の頃は、チューナーを棒で叩いて音や振動を出していた。しかし、最近はそのまま使っている。そのまま百会(ひゃくえ)などのツボに当てると、何もしなくても振動が伝わる感じ。その方が、繊細な振動が伝わってくる。昨夜も、それをやっていた。すると・・・尾てい骨から頭へ向かって末広がりに花が開く感じになった。まるでユリの花のように。よく感じていると、なんとなく頭の上に栓があるような・・・その栓を取ってみる。すると、スッキリさわやか。上に栓があるということは、もしかして下にも?下の栓は、まったく感じられなかった。でも、なんとなく取ってみる。すると・・・抜けた!個が抜けてしまった。個ではなく、宇宙になってしまった。なんと気持ちのよいこと。個は、完全に消失。個とは、上と下で栓をしているようなもの?いや、ソーセージのようなもの?上と下を縛られた狭い袋?つまり、限定されたスペース。それは、肉体であっても幽体であっても同じ。たとえ霊体や神体であっても変わらない。いずれも限定されたスペース。ハイアーセルフも魂もグループソウルであっても異ならない。すべて限定された空間。一定スペース。無限ではない。特定のエリア。個とは、そういうもの。無限のなかを一部区切ったもの。特定のエネルギー場。スペースであり、器。それも絶対ではない。かなり流動的。ゆらゆら揺れている空間。意識場とは、そのようなもの。個とは、閉じられた空間。狭い限られた場。一定のスペース。そういうなかで生きている。そういう閉じられた空間が、自分という個。しかし、閉じられた部分を開けば、無限のスペースが広がっている。狭い個の枠を超え、無限に広がることができる。限定が外れる。人は、個であり全体でもある。個として生きるのも楽しい。全体としてたゆとう時、すべてのすべてとなる。ただ愛が満ちる。個でもいい。全体でもいい。個であり全体であってもいい。意識は、しなやかに揺れ動いている。星になってみるのもいい。宇宙空間に浮かんでみるのもいい。何もない。すべてがある。意識は、無限。そして、有限にもなれる。無限であるが故に、有限にもなれる。いかようにも変容できる。しなやかに、しなやかにゆるやかに、ゆるやかにたゆとう銀河のように広がる宇宙のように『閉じられた 意識開けば その先は 制限のない 無限の宇宙』『限りなく 意識広がり 星々を 抱いてたゆとう すべてのすべて』これが日記を書き始めて1395日目の心境。
2008.10.27
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先日、次のようなメールをもらいました。「久しぶりにメールしますね。。ちょうどKimiさんから水晶リクエストの返信メールを貰った時からでした。私が、生牡蠣に中毒して苦しい思いをしたというメールへの返信でした。そこには。。>体調は、いかがですか。> あまり動物性のものは食べない方がいいですよ。> 植物性に切り替える時期ですね。。。と書いてあったのを覚えていらっしゃるでしょうか。。?私は、この言葉を真剣に受け止めましたよ♪この日からお肉やお魚を摂るのを一切やめました。。それが不思議不思議。。ちっとも苦痛じゃないんです。もともとお野菜大好きですし。。主人と結婚する前までお肉は嫌いなほうでしたから。。 ただお魚は好きで。。(汗)家族には、いままでどおりお肉やお魚料理を作っているのですが。。この前、鰹のお刺身や秋刀魚を焼いたときは、ちょっと我慢が要りましたね~。。でも、基本的に動物性の食材を排除しても全然!平気♪毎回のお食事を美味しく戴いています。却って、このほうが私の食生活にぴったり合っているみたいです。お通じも快調♪トイレに行くのが楽しみな感じ。。いままで苦痛だったのに。。そんなこんなでKimiさんに感謝する気持ちでいっぱいです。ところで教えて下さい。。どうして動物性のものを摂らないほうが身体や精神に良いのでしょうか。。?よく分からずに実行していますが、その理由が明確に分かったら嬉しいです♪よろしくお願いします。。 」このことに関しては、既に日記で何度も書いています。でも、それではどこを読めばいいですか。と聞かれても、答えられません。いろんなところで散発的に書いているので。せっかくの機会ですので、もう一度まとめて書いてみることにしますね。動物性のものを食べるということは、血を食べるということを意味します。血は、最も酸化しやすいのです。酸化したものを食べれば、肉体は老化します。動物は殺される時、恐怖を感じます。その恐怖は、血液に伝わります。その血液を体内に入れれば、恐怖のエネルギーを心身に注入することになります。恐怖は、心身を不安定にします。心は暗くなり、イライラしやすくなります。怒りや不必要な争いも起きやすくなります。動物性のものをたくさん食べている人と、植物性のものだけを食べている人とでは、精神状態が明らかに異なります。動物性のものをたくさん食べると、どうしても波動が荒くなります。そもそも植物性のものの方が、波動がこまやかです。動物性のものは、波動が荒いのですね。どういうものを食べるかで、心身は多大な影響を受けます。食べものが絶対ではありませんが、影響がないということもありません。なに?すべてに感謝して食べれば、何を食べてもいい?確かに。そういうふうにも言えます。但し、それにはものすごいエネルギーがいるでしょう。酸化した肉や魚を体内に取り込めば、すぐに体内も酸化されます。それを感謝によって酸化を防ぐことができるでしょうか。心身共にものすごいエネルギー状態であれば、それも可能でしょう。しかし、普通は酸化されたものを入れれば、肉体も酸化されます。あるいは、同化するまでは酸化された状態です。たとえ、酸化されたものを中和できたとしても、それだけのエネルギーロスが生じます。元々酸化されていないものを食べていれば、無駄なエネルギーを消費する必要はありません。即座に中和するだけのエネルギーがあれば、それもいいでしょう。しかし、そういう人は稀です。また、そういう人は、あまり動物性のものは食べていないでしょう。やはり波動が精妙なものを入れている方が、心身は楽です。外から入れたものは、異物です。体内で同化する必要が生じます。普通は、体内の方がエネルギーが高いのです。だから、食事をすれば、波動が下がります。それを上げるには、エネルギーが必要です。できるだけ波動の高い状態に心身を維持したかったら、波動の高いものを食べた方がいいでしょう。動物性と植物性のものを比較したら、圧倒的に植物性の方が波動が高いのですよ。それだけ体内に入れた時に、波動が下がりにくいということですね。動物食というのは、死体を食べているようなものです。植物食は、まだ生きています。玄米は、水に浸ければ芽が出ます。ニンジンやタマネギも、しばらく置いておくと芽が出たりします。生きているものの方が、死体よりも波動が高いのは明らかでしょう。加工食品よりも自然なものの方が、波動は高くなります。農薬や化学肥料で育ったものよりも、自然農法や有機農法で育ったものの方が波動は高いです。不自然なものは、どうしても波動が低くなります。合成保存料や合成着色料などが含まれているものも、波動は低くなります。できるだけ自然なもの、いのちあふれるものを感謝していただくことではないでしょうか。感謝することによって、波動は更に高くなります。スピリチュアルなエネルギーが加わるからです。時代の波動は、より精妙になっています。精妙な心身をつくりあげるには、精妙な食べものを入れることです。食べものの影響は、バカにできません。毎日毎日体内に入れているのですから。より高い波動のものを入れれば、心身共に高い波動を維持するのに役に立ちます。しかし、それもこだわったり、囚われたりしないことですね。理解した結果として、自然に行うことです。頭だけで理解して、こうでなければならないと思い込むと、苦しくなります。ただ理解して、素直に実行する。ただそれだけですね。観念で頭のなかを一杯にすると、波動は落ちます。心身共にしなやかであることですね。食事の量も、できるだけ少ない方が波動を高くキープできます。外から食べものを入れることは、波動を下げることです。スピリチュアルな精神の波動よりも高い食べものなど存在しません。食べものは必要最小限の方が、波動を高く保つのには役に立ちます。まあ、無理をしないで、ゆっくりやってください。質の良いものを、少なめにじっくり味わって食べることですね。繊細に、注意深く食べることですよ。感謝しながら・・・時代は、心身共に精妙に生きる方向に流れています。食べるものも、その方向で食べた方がいいでしょう。心も体も繊細に。深く静かに生きる時代です。『食べものも 食べる分量 食べ方も 繊細・精妙 波動を高く』これが日記を書き始めて1394日目の心境です。
2008.10.26
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新しいススキの穂が、風に揺れている。屋久島も、だいぶ気温が下がってきた。Tシャツだけでは、もう暮らせない。秋が、一段と深まっている。ここのところ仕事がなく、のんびりできている。昨日は、懸案だった名刺を作成した。前のパソコンが壊れた時、名刺ソフトも消失してしまった。それから、ほぼ一年近く名刺なしでやってきた。名刺がなくても、なんとかなる。しかし、たまに名刺が必要になる時もある。他の人にも紹介したいので、名刺をほしいと言われると困ってしまう。やはり、作る必要があった。新しい名刺ソフトは、だいぶ前に購入してあった。しかし、なかなか作る時間がなかった。10月後半は、あまり仕事が入っていなかった。ここで作らないと、いつできるかわからない。作り始めると、思ったよりスムーズにできあがった。気がつくと、それは2009年バージョンだった。これまでの名刺とは、まったく雰囲気が異なる。まず、写真が違う。これまでは、屋久島の海で撮った笑顔の写真が付いていた。しかし、それはもう6~7年も前のもの。今回は、光降るなかで両手を広げている写真。去年、山で撮ったもの。この名刺を見るだけで、光を感じられる。とてもステキな名刺ができた。裏側の文章は、これまでと同じ。これが、実にすばらしい。「心を開いて屋久島の大自然と融け合うとき心も体も自然に癒され個であり全体である本来の自分自身へ回帰していきます」これまで、「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPのトップは、次のような文章だった。「自然のなかでの 自然による 自然な癒しそれが ナチュラルヒーリングです日本で 最も深い自然が残る 屋久島あなたもいのちあふれる屋久島に抱かれてみませんか・・・」この文章も気に入っていた。ナチュラルヒーリングの本質が、素直に表現されていた。しかし・・・この文章を変えようと思っている。ここで表現されているのは、Naturalの部分のみ。Spiritualの部分がない。名刺の裏にある文章には、その両方がある。これからは、両方を明確に表現したい。Naturalだけでは、片手落ち。Spiritualだけでは、不安定。しっかりと地球でスピリチュアルに生きるには、両方が必要。スピリチュアルに、しかも、しっかりとグランディングして生きる必要がある。そして、最も大切なのは、個であり全体である意識。この意識が芽生えない限り、人類の未来はない。平和で調和された世界は創造できない。個々バラバラに生きたのでは、地球そのものが危ない。そういう基本テーゼを、明確に打ち出したいと思う。それが、2009年からの「屋久島ナチュラルヒーリング」の基本方針。そういう意味で、HPも全面的に見直したいと思っている。それは、たぶん冬場になるだろう。冬場の仕事が暇な時に、HPを全面改訂したいと思っている。時代に合ったように、すべて見直す必要がある。これまでも小さな変更は度々加えてきた。しかし、基本的には当初のままだった。こちらの意識状態も、屋久島に来た当時とはかなり違っている。日記を書くことによって、本来の自分自身に立ち返りつつある。地球バージョンだったものが、宇宙バージョンに変容しつつある。これから、更に加速度がつく。意識が変われば、仕事の内容も変わる。今は、多くの人が行くメジャーなところは案内しなくなった。誰もいない屋久島の自然そのものをガイドするようになっている。しかも、休憩時間が異常に長い。静かに屋久島の自然に浸ってほしい。深く、じっくり味わってほしい。自然と共にいてほしい。自然と深くふれあってほしい。これまでは、自然とふれあうところまで。これからは、自然と融け合う方向性を持ったガイドになるだろう。もっと大きな自分に目覚めるために・・・個を超えるために・・・時代が変わり、意識も変わる。名刺が変わり、HPも変わる。着実に新しい時代に向かっている。心身共に、ニューバージョンへ移行しつつある。『屋久島の 深い自然と 融け合えば 肉体を超えて 意識広がる』『ゆるやかに 緊張ほぐし 心身を 開けば個から 全体になる』これが日記を書き始めて1393日目の心境。
2008.10.25
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今日の屋久島は厚い雲に覆われて、山の方はまったく見えない。小雨も降っている。気温も低い。秋が深まっている。ここのところ、ずっと右の肘の状態がおかしかった。少し重たいものを持つと、強い痛みがあった。もう一ヶ月以上、不自然な状態が続いていた。原因は?いくつか心当たりがあった。木霊の森を歩く時に、大きなマットを常に右手で持って歩くから?車の運転をする時に、いつも右手を窓から出しているから?パソコンをやる時に左手でマウスを持つので、右手は折り曲げていることが多いから?正確な原因は、わからない。これらの相乗効果かもしれない。もちろん、原因と思われるものは、すべて改善した。それでも思うように回復しなかった。肘が痛いと、なかなか不自由。何か少し重たいものを持つたびに、痛みが走る。それもかなりの痛み。恐る恐る持つ感じになってしまう。いろいろ手当てもやってみた。しかし、一向に回復しなかった。ヒーリングができる人に、オイルマッサージもしてもらった。しかし・・・これは重傷と言われただけだった。揉んでも、解(ほぐ)しても、休ませてもダメ。温めると少しは良くなるが、すぐに元に戻った。肘を感じてみると、まるでブラックホールだった。エネルギーがマイナスで、多少のことではビクともしない。暗い暗いブラックホールが、右肘のなかにある感じ。いやはや、まいった。もうお手上げ状態。しかし、焦ってはいなかった。四十肩や五十肩を体験している。かなり長い期間、肩が不自由だった。ある日、気がつくとウソのように軽くなっていた。そういうこともあるので、それほど深刻ではなかった。しかし、不自由ではあった。体の一部が不自然だと、そこをカバーしようとして全体も歪んでしまう。どうしたものかと思っていた。ここのところ忙しかった。それが、やっと暇になった。そこで、今朝、じっくり肘を感じてみた。落ち着いてヒーリングしてみた。まずゲルマニウムやセラミックなどの石の上に肘を置く。しばらくそのままにしておく。しかし、それほど芳(かんば)しい感じはしなかった。次に肘と一緒にいて、意識エネルギーを充電する。これまでも何回かやったが、今回は本気でやってみる。それでも変化はなかった。それではと、肘を意識的に自然に動かす。これには、コツがある。体にエネルギーが充電されると、体はひとりでに動き出したりする。まるでエビが跳ねるように、体が反ったりする。それも瞬間的に激しく動く。それを意識的に肘にやらせてみる。これは、全身を調整するために何十年もやっていること。この自然な体の動きは、流派によって霊動とか活元とかいろんな呼び名がある。肘を瞬間的に反応させると・・・動いた!腱が、ピクピク反応した。やった!ゆるんだ!これでOK。これまでウンともスンとも言わなかった肘が、自律的に動いた。腱の緊張が、ほぐれた。やったね。原因は、腱が凝っていたということか・・・骨が悪いのか、筋肉の問題か・・・原因がイマイチわからなかった。でも、原因は、腱。これで、なんとかなりそう。後は、エネルギーを入れればいいという感じ。今朝もゲルマニウムやセラミックなどで、まずエネルギーが入ったのだろう。それから、意識エネルギーも充電された。そこで、初めて肘が自律的に動いたに違いない。エネルギーがないと、動けない。反応さえ起きない。ある程度のエネルギーがあれば、鍼や指圧も効く。しかし、エネルギー枯渇状態では、刺激に反応する力さえない。そういう時は、お灸や手当などで、まずエネルギーを充電する必要がある。エネルギーがある程度充電されれば、鍼や指圧などの刺激にも反応する。あまりにもマイナス状態だと、反応する力さえない。完全にブラックホール状態になってしまう。これは、体だけに限らない。意識も、まったく同様。エネルギーが枯渇した状態では、刺激にも反応できない。どんどんマイナスになっていくだけ。実は、心の傷やトラウマなども、自然に回復しようとしている。エネルギーがある時は、それらのものも自然に回復する。しかし、エネルギーがないと、潜在意識の隅で固まったまま動かない。時々、刺激されて、わずかに反応するのみ。ここ2~3日、目も激痛があった。これは、定期的なもの。パソコンなどで目を酷使すると、数日、目が痛くてたまらなくなる。しかし、これは回復の兆し。特に森に入ったりすると、目が痛くなりやすい。自然の新鮮なエネルギーに刺激されて、溜まっていたものが解放されようとする。解放される際に、痛みを伴う。数日後には、スッキリする。心の傷も、それに似ている。セラピーなどで心の傷が解放される時にも、痛みを再体験することが多い。静かに見守っていると、痛みは解放され、消えてゆく。しかし、痛みが出てくるためには、エネルギーがいる。エネルギーが充電されていないと、心の傷を解放できない。セラピーなどでは、セラピストからエネルギーが充電される。元気な人や意識エネルギーの高い人と一緒にいても、エネルギーは充電される。そうすると、自然に解放が始まる。まず充電すること。そうすれば、心身は自然にほぐれる。エネルギーが足りないと、解放は起きない。いつもネガティブパターンでは、どんどん凝り固まっていくだけ。意識が固まってしまえば、自殺もあり得る。しなやかさが失われた意識は、選択の幅が狭くなる。ネガティブパターンで暗く固まった意識は、やがて身動きが取れなくなる。自分の世界だけに埋没した意識は、危ない。いろいろな刺激を受けると、意識は活性化する。意識に限らず、体も活性化する。鍼や指圧や体操など・・・体を動かせば、体は活性化する。しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。やり過ぎると、体は疲れて固くなってしまう。意識も使い過ぎれば、同様のことが起きる。考え過ぎれば、ノイローゼーになる。ほどほどの刺激は、脳を活性化する。体も元気になる。同じ姿勢は、体を硬くする。同じ意識パターンは、意識を硬化させる。ネガティブに凝り固まって暗くなった人は、まずエネルギーを充電する必要がある。ポジティブなエネルギーをしばらく入れ続けないと、ネガティブパターンからは脱却できない。ネガティブパターンが強い人は、意識がほとんどブラックホール化している。多少エネルギーを入れたくらいでは、どうにもならない。ポジティブなエネルギーを入れ続けること。ある程度エネルギーが充電されたら、刺激を入れてみる。それが適切であれば、刺激に反応して古い傷が解放される。まずは、反応できるだけのエネルギー状態にする必要がある。充電、刺激、解放・・・充電するには、いろんな方法がある。静かに自分と一緒にいる。深い自然のなかに入る。お灸や手当。元気な人や意識の高い人の側にいる。水晶などのエネルギーの高いものを傍に置く。その他にも、いろいろ考えられる。いずれにしても、まず充電。それから、適度な刺激。そして、解放。そのメカニズムを理解することだろうか。心身共にエネルギーが充電されれば、自然に本来の状態に戻ろうとする。それを意識的にサポートする。そうすると、更にスピードが加速される。まずは、メカニズムを理解すること。体も意識も異ならない。暗く凝り固まったところには、まずエネルギーを充電する。ポジティブな言葉を発するのもいい。朝の太陽も効果がある。光のイメージも、エネルギーが充電される。シトリンやゴールドルチルも、パワフル。自分に合った方法で充電すればいい。しばらくは、エネルギーを入れ続けるしかない。諦めないで続けることだろうか。そうすれば、やがてエネルギーは満ちてくる。そうなれば、解放が起き始める。刺激に反応するようになる。適度な刺激を続ければ、どんどん解放されていく。心身共に、本来の状態に回復していく。体や意識の凝り固まりが、ほぐれていく。心身共に、スッキリする。軽やか。さわやか。流れている状態。滞りがない状態。それが、本来のいのちの状態。常に流れているのが、いのちというもの。流れているものは、しなやか。活き活きとしている。凝り固まっているものは、脆(もろ)い。しなやかなものほど、強い。心も体もしなやかで、やわらかな方がいい。赤ちゃんのようにしなやかになれれば、何も滞りがない。こだわりや囚われなどは、ほどほどに。執着すれば、心身共に固まってしまう。心の傷は、手放すに限る。それは、固まってしまった過去。血液が固まれば、間違いなく病気になる。意識が固まっても、同じこと。柔軟な意識こそが、健全な意識。しなやかな心身が、美しい。『しなやかな 心と体 本来の 自然な姿 取り戻す時』『充電し 刺激与えて 解放し 滞りなき 心身にする』『赤ちゃんや 幼い子供 活き活きと 心の底から よろこび表す』これが日記を書き始めて1391日目の心境。
2008.10.23
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ここ数日、波の音が高い。今日は、とうとうフェリーが欠航してしまった。今日は、水晶が届く予定だったのに・・・ああー!今日届く予定だったのは、全部で10個ほど。久しぶりに本格的なカテドラルクオーツが、やって来るはずだった。全面的にカテドラル化した水晶は、滅多にない。ほとんどは、一部だけ。自宅にあるものでも、本格的な全面カテドラルは少ない。部分的にカテドラル化したものは、たくさんある。カテドラルクオーツとして売られているものは、ほとんどが一部カテドラル化したもの。全面的なカテドラルは、そんなにはない。今日届くはずだったものは、本格的なカテドラルクオーツ。しかも、5個。ここのところ連日のようにカテドラルクオーツが、いろんなサイトでアップされていた。どうもかなりの量が、まとまって日本にやって来たようだ。同じ卸業者から流れたのではないだろうか。アップされた日時が、酷似しているから。しかし・・・質や価格は、サイトによって異なる。トップが欠けていたりなどの、イマイチのものばかりのサイト。価格が割高なサイト。質が良くて良心的なサイト。超高級品をアップしたサイト。サイトの特徴が、はっきりと出ている。同じようなクオリティのものでも、サイトによって価格が異なる。小さなものばかり扱うサイトもあれば、質の良いものばかり扱うサイトもある。オーナーの意識しだい。カテドラルクオーツは、質の良いものはほとんどネット上にはない。検索して出てくるのは、どうしようもないものばかり。つまり、質が悪いので売れ残っているものばかり。質の良いものは、すぐに売れてしまう。カテドラルクオーツは、2000年毎に現れると言われている。時代の変わり目に登場する水晶。今こそが、その時。新しい時代を切り開く水晶。カテドラルクオーツは、一本のポイントのなかに多くのファセット(垂面)を持つ。一であると共に多でもある。まるでクラスターのようなポイント。同時に多くの世界と繋がっている。多層多次元とリンクする水晶。それが、カテドラルクオーツ。多層多次元を、この次元に集約してくれる水晶。今ここに、すべてが結集されるのを可能にする水晶。個であり全体であるのをサポートしてくれる水晶。なんともトータルな、すばらしい水晶。そうそう簡単に見つかるはずがない。自宅にも完璧なカテドラルクオーツは、3個しかない。その3個は、どこへ出しても恥ずかしくないもの。上から下まで透明。トップも完璧。照りも最高。サイズは10cmを軽く超え、結晶も美しい。ほとんど奇跡のような感じでやって来た水晶たち。今回届くものは、大きなものは全面的に透明ではない。全面的に透明なものは、サイズが小さい。なかなか希望通りのカテドラルクオーツはない。それでも、カテドラルクオーツを探し求めている。完璧なカテドラルクオーツを。最高のカテドラルクオーツを。実は、今日は普通郵便で水晶が届いた。昨日のフェリーで届いたものが、今朝配達される。そのなかに驚くようなものがあった。それは・・・アイスクリスタル。地球温暖化でヒマラヤの氷が解けて出てきた水晶。数年前に海抜6000mぐらいで発見されたらしい。最初に発見したのは、日本人とか。淡いピンク色をした水晶。その存在は、ずいぶん前から知っていた。しかし、あまり美しくない感じで、買うのを躊躇していた。ところが、最近、透明感のあるアイスクリスタルを発見した。こんなきれいなアイスクリスタルだったら、買ってもいいと思った。しかし、それは既に売約済だった。しばらくすると、よく買うサイトにアイスクリスタルが新規にアップされた。そのなかに、ある程度透明感のあるものがあった。それが、今日届いた。最初の印象は、薄かった。というのは・・・濃いピンクのローズクオーツが、一緒に届いたから。これまで見たこともないような、すばらしいローズクオーツ。ピンクの色が濃くて、透明。しかも、すばらしい照り。間違いなく最高レベルのローズクオーツ。その隣にあると、アイスクリスタルは霞んでしまう。なにしろ派手なローズクオーツ。濃いピンクは、目立つ。アイスクリスタルのピンクは、薄いオレンジに近い。ところが・・・先ず、水道の水で洗い浄める。それから、セイジの煙で浄化する。最後に、音叉で調整。これが、海と川で本格的に浄化するまでの応急処置。それから、アクリルの台座の上に立てる。すると・・・すると・・・見違えるように美しい。それだけではない。なんとも言えない雰囲気が・・・アイスクリスタルの別名は、ニルヴァーナクオーツ。ニルヴァーナとは、仏教用語で涅槃のこと。涅槃とは、煩悩が消滅した寂滅の世界。ニルヴァーナクオーツとは、悟った水晶の意味。あるいは、この世を超越した水晶ということ。アイスクリスタルを改めて見て驚いた。その水晶からあふれ出すエネルギーは・・・まぎれもない慈悲のエネルギー。慈しみがあふれ出ていた。隣にあるローズクオーツからは、愛のエネルギーが流れ出ていた。慈悲と愛は、異なる。愛は恋愛にも変わり得るが、慈悲はあくまで慈しみ。完全な無償の愛。そのエネルギーは、すばらしいの一言。慈悲が、生きてそこにあった。まさにニルヴァーナ。仏の世界。このアイスクリスタルが、特にすばらしいのか。それとも、すべてのアイスクリスタルがすばらしいのか。ニルヴァーナクオーツという名が付くくらいだから、基本的にはすばらしい本質を持つ水晶なのだろう。アイスクリスタルには、トライゴーニックと呼ばれるレコードキーパーとは逆の三角形が付いているものが多い。このトライゴーニックは、多次元と顕在意識を結びつける役割。あるいは、これまでの宇宙の歴史を記憶している。いずれにしても、霊的な叡智を秘めた水晶であることは間違いない。実物に接してみて、本当に驚いた。こんな水晶があるのか・・・水晶も幅が広い。今の時代をサポートするために、いろいろな水晶が登場している。新しく発見されるスピリチュアルな石も後を絶たない。時代が、今ここにすべてを収斂させようとしている。フォーカスは、今ここ。今ここに、すべてが結集される。そのために、多くの水晶がサポートしてくれる。アイスクリスタルを、あと2個オーダーした。もう少し感じてみないと、何とも言えない。何かに関心が向くと集中する性格。納得がいくまで集中する。やがて、アイスクリスタルが水晶祭りに出てくる時もあるだろう。その時には、もっと明確な解説ができるかもしれない。今は、ただ驚きと、喜びだけ。すてきな水晶に出会えて、とても幸せ。『なんとなく 慈母観音を 見るような 淡いピンクの 慈悲の水晶』『ニルヴァーナ 煩悩超えた 静寂の 水晶見れば 慈悲の雨降る』これが日記を書き始めて1386日目の心境。
2008.10.18
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蠍座の水晶祭りは、次々と行き先が決まっている。登場した23組は、残り1組となった。新しいところで、新しい出会いがある。人と水晶との出会い。出会うことによって、新たな展開が始まる。エネルギーとエネルギーとの出会いは、新たなエネルギーを生み出す。人も水晶も、共にエネルギー。どんな展開が始まるのか、楽しみではある。前回の水晶祭りの後、次のようなメールが届いた。「実は、子供のように愛してやまない我が家で生まれた子犬2匹が、昨日病院で、難病ということが判明いたしました。悲しくて、悲しくて。。。(中略)救いを求めて、応募してもだめですね。。。悲しみを受け止めて、また笑顔で頑張ります。」この方は、水晶の抽選に外れてしまった。当選する人の方が少ない。人気のある水晶は、10倍以上の狭き門。しかし・・・次のような返事を送った。「難病であれば、なおさら可愛がってあげればいいだけのことですよ。難病は、あなたの愛を引き出してくれる宝ものです。悲しんでいる場合ではありませんね。常に前を向いて生きることですよ。」このメールに対して、次のような返事があった。「そうですね!泣いてる場合ではありませんね。笑顔で前を向いて生きてゆきます。自分を見つめて。。。私のところに2匹も難病のわんこが生まれたのは、きっと意味がありますね。ありがとうございます。おもいきって、Kimiさんにメールしてみてよかった♪光が、差したようです。」それから一ヶ月。今回の水晶祭りに届いたメール。「犬、kimiさまにアドバイスいただいて、本当に愛情をそそいでます。病状は、一進一退です。でも、毎日毎日を大切にいきている子犬。私も『瞬間、瞬間』を大切に生活するように心がけています。kimiさま、ありがとう。。。。」こちらからの返事。「子犬に教えられる人生ですね。瞬間・瞬間が、いかに尊いか。悲しむのではなくて、一緒に必死に生きるのですね。病気の赤ちゃんや幼児というのは、みんなそんな感じなのですよ。感動的ですらありますね。」難病に罹れば、普通は悲しむものと相場が決まっている。それが、今の人類の共通無意識。悲しむことは、執着すること。悲しむことは、所有を長引かせたいという願い・・・自分のものが奪われる悲しみ。所有するが故に生じる悲しみ。不治の病は、そんな所有の思い込みを粉々に打ち砕く。無常が宇宙の定法であることを、いやというほど思い知らされる。所有しなければ、何の悲しみもない。所有するが故に、愛着が生まれる。愛着は執着となり、苦しみや悲しみを生み出す。それが、これまでの一般的な人生。しかし、現実は、非情。現実は、人間の情に左右されない。変化こそが、宇宙の法。それが、いのちというもの。難病であること。不治の病であること。いつまでも一緒にいられないこと。いつ別れが来るかわからないこと。それは、悲しいことだろうか。それとも、何かに目覚めるきっかけだろうか。漫然と何十年生きても、あまり意味はない。人生は、量ではない。いかに真剣に生きるか。いかに充実して生きるか。人生は、質。その生き方にかかっている。不治の病を持つものが身近にいるということは、人を真剣にさせる。瞬間・瞬間が、いかに貴重かを教えてくれる。人は、難病によって真剣に生きるようになる。本人も周りも・・・病気は、目覚めるための起爆剤。真実に気づくためのショック療法。嘆いたり悲しんだりしている場合ではない。真剣に生きる時なのだ。これまで眠っていた愛を、目いっぱい降り注ぐ時でもある。愛するものが病む時に、自然に愛はあふれ出す。その愛を、瞬間・瞬間爆発させること。愛を生きることなのだ。そうすれば、病は人を救う。病が、人を生き返らせる。病が、人を目覚めさせる。病は、真理への扉となる。あらゆる困難は、気づきや目覚めるためのきっかけ。すべてをポジティブに捉えることだろうか。ネガティブに捉えないことだろうか。前を向いて生きることだろうか。難病は、人の愛を呼び覚ます。不治の病は、人を真剣に生きさせる。困難は、人生を見つめ直させる。何も恐れることはない。真正面から対峙して、真剣に生きる。それしかない。それが唯一の対処法。けっして逃げない。逃げれば、逃避の人生となる。一生後ろ向きの人生になってしまう。暗く重たい重荷を背負って生きることになる。そんな人生を生きたいだろうか・・・どんな状況でも誠心誠意生きることだろうか。全力で生きることだろうか。真剣に生きることだろうか。そうすれば、道は開ける。愛の花が咲く。魂の交流が起きる。時間が止まる。宇宙に抱かれる。難病の人やペットがいたら、最大の愛を注ぐことだろうか。そうすれば、その難病が活きる。難病になった甲斐がある。赤ちゃんや幼児は、両親のために自らの心身を不自由にすることすらある。周りの人の愛を甦らせるために、自らを犠牲にする。それは、愛の行為以外の何ものでもない。嘆いている場合ではない。あふれるような愛で報いる時なのだ。愛は、愛を生む。愛は、愛を目覚めさせる。困難は、愛が生まれるためのもの。愛が花開く前触れ・・・『難病や 不治の病を 嘆くより 今ここ共に いのちを生きる』『所有する ことで悲しみ 生まれ出る 今この時を 共に在るだけ』『難病が 愛の糸口 開く時 すべて光へ 収斂していく』『愛の花 咲かせるために 自らの いのち捧げる 幼子(おさなご)もいる』『冷たさの 冬を乗り越え 開く梅 ただひたすらに 抱(いだ)き愛うのみ』これが日記を書き始めて1385日目の心境。
2008.10.17
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数日来の雨も上がって、ほぼ快晴に近い秋晴れ。さわやかな空気のなかを、水晶の浄化に行く。今日から「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、蠍座の水晶祭りが始まっている。そこに登場した水晶と新しく届いた水晶を、海と川に持っていく。海は満月で大潮のため、満ち引きが激しかった。もう少しで水晶を入れたザルが、ひっくり返るところだった。海水は冷たくなかったが、早々に引き揚げる。川は、台風で一掃されていた藻が再生していた。藻の上は、滑りやすい。ここで滑ったら、体だけではなく水晶も傷つく。せっかく水晶祭りでリクエストしてもらっても応えられなくなる。慎重に川のなかを進む。浄化作業中に、国立公園のレインジャーという人と会う。若い人で、定期的に調査しているとのこと。いい仕事だね。ガイドほどではないけど?1~2時間浄化すると、見違えるように美しくなった。今夜は、満月。晴の予報なので、月光浴ができるだろう。川で太陽を浴びながら浄化したので、これでほぼパーフェクト。自宅には、たくさんの水晶がある。売るほどある?にもかかわらず、せっせと新しいものを購入している。キリがない。しかし、しかし・・・水晶に助けられていると思う。これだけの日記を書き続けられるのは、水晶のお陰。かなり水晶が寄与しているのではないだろうか。部屋中に置かれた水晶たちが、様々なエネルギーをチャージしてくれる。それが精神の安定を支えている。また、次々と気づきが起きる要因にもなっているに違いない。水晶様さま。屋久島へ来て、日記を書き始めて、精神は極めて安定している。東京にいた時のベストの状態が、常時維持されているような感じ。屋久島という場所のエネルギー。自然のなかに入るガイドという仕事。スピリチュアルな日記を書き続けることによる、別の次元からのサポート。それに加えて、水晶たちのサポートがあるような気がする。そうでなければ、これだけ次々とスピリチュアルな日記は書けないだろう。自分の実力以上の日記が書けている。と言うか、どんどん気づきが深まっている。それは、やはりゴールドルチル効果だろうか。宇宙的なエネルギーをチャージしてくれるからだろうか。しかし、ゴールドルチルも、かなり整理された。大きなものは、ほとんど旅に出た。もう買わなくても十分と思っていたゴールドルチルを、最近、また買い出している。しかし、ゴールドルチルは、更に値上がりしている。そうそう大きなものは買えない。大きなクラスターは、十万円以上が当たり前。しかも、質の良いものは滅多に出ない。気長に待つしかない。ゴールドルチルだけではない。透明な水晶も部屋の浄化に一役買っている。エネルギー場を浄化してくれている。それに、ヒマラヤ水晶。何と言っても、ヒマラヤ水晶。地球上のすべての水晶のなかで、やはりヒマラヤ水晶。スピリチュアルそのもの。多くのヒマラヤ水晶が、スピリチュアル的にサポートしてくれている。自分のバックボーンみたいなもの。ざっと数えて90本。ブラジル産の水晶と同じくらいある。ブラジルは、多種多様な水晶を産出する。ヒマラヤの比ではない。ヒマラヤとブラジル以外の地域からも、たくさん来ている。ほぼ世界中から集まっている。ただオセアニアは少ない。あまり水晶は採れないらしい。中国やアフリカ、ヨーロッパや北米からもたくさん届いている。それらが一体となって、今の自分を支えている。日記を書くサポートをしてくれる。趣味と実益とが一致する。水晶は、見ているだけで美しい。それだけで心が満たされる。それに加えて、エネルギー的なサポートもある。ありがたいことではある。まだしばらくは、水晶との二人三脚が続きそう。なかなか離れ難い。やはり水晶はいい。実にいい。『美しい 水晶見れば 心まで 美しくなる 見ているだけで』『透き通る 水晶の持つ エネルギー 心と体 浄めてくれる』『ヒマラヤの 水晶見れば 宇宙から スピリチュアルな エネルギー降る』これが日記を書き始めて1383日目の心境。
2008.10.15
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庭にナンバンギセル(南蛮煙管)の花が咲いている。まるで煙管(きせる)のような形なので、この名前が付いたとか。今年は、豊作。庭のあちこちにピンクと白の花が目につく。目の前には、たくさんの水晶がある。形も色も異なる。それぞれに美しい。なんと豊かな世界であることか。この世は、多様性の世界。個別化の極限ワールド。逆に言うと、次元が上がるにつれて多様性は薄れていく。究極は、ひとつになってしまう。ひとつから、分かれ分かれて無限に近い多様性が生まれる。その多様性も、あるように見えるだけ。実は、刻々に変化している。その実態は、ひとつのものが刻々に姿を変えているに過ぎない。ひとつの宇宙が、多様性に満ちて刻々に光り輝いている。まるで星雲のように。まるでオーロラのように。存在するのは、ひとつの宇宙のみ。宇宙は、人体に似ている。人体は、多くのパーツからできている。目や鼻や口。内臓や骨や血液。人体は、ありとあらゆるパーツの組み合わせ。しかし、一つのまとまりとして存在している。一つの個体として行動する。一つに統合されている。しかし、部分的に病むこともある。末端までエネルギーが行き渡らない。一部が全体から分離する。自我と宇宙のように。宇宙の源は、ひとつ。ひとつだけ。それが波動を徐々に落とすことによって、無限に分かれる。分離、個別化、多様性。波動が遅くなるに従って、変化も遅くなる。その究極が、物質。物質のなかでも鉱物は、まるで固定しているかのように見える。じっくり眺めるのに向いている。鉱物もゆっくりと変化している。しかし、それは人間の時間では計り知れない。波動が凝縮され、固定化され、充実している。存在密度が異なる。密度が濃いということは、多くの情報を持っているということ。同時に、変化が遅いということでもある。それは、水の変化を見れば明らか。氷は、固定しているように見える。水は、流動的。水蒸気になると、一定した形を持たない。波動が速くなるということは、変化が速いということ。波動が遅いということは、変化がスローということ。それは、現代と江戸時代や平安時代を比べれば一目瞭然。江戸時代は、歩いて東海道を行き来した。今は、新幹線や飛行機。平安時代は、更にゆったりと時間が流れていた。地球の波動は、速くなっている。それに連れて変化も加速している。これから更に加速度がつく。個別化や多様性から、ゆるやかな統合の方向に向かっている。これまでが、個別化や多様性の極限。全体から分離し、個として生きてきた。豊かと言えば、豊か。多様性に満ちていた。しかし、分離も過ぎたるは及ばざるが如し。分離は分裂を生み、争いをつくり出した。全体を忘れた個は、地球を壊し、自らも危機に陥れた。個別化の行き過ぎ。全体性に気づかないと、個としての存在自体が危うい。全体回帰。個であり全体であるという次元へのシフト。全体性を持ちながら、多様性を楽しむ時代への転換。宇宙は、ひとつ。ひとつのいのちの変化。それが、多様性。それが、豊かさというもの。波動の違いによって、この多様性が存在している。密度の違いによって、変化のスピードの違いが生まれている。無限の組み合わせによって、めくるめく宇宙が展開している。豊かな豊かな世界が目の前にある。深く理解し生きること。深く理解されればされるほど、この豊かさを享受できる。断片的な理解では、苦しみが増すのみ。全体性を忘れれば、悲しみの人生となる。個であり全体であることが、これからの基本スタンス。全体としての統合性を保持しつつ、個としての多様性を表現する。すべてを見守り、個々を見極めて生きる。ひとつのいのちの多様性を楽しむ。『ひとつから 波動を落とし 多様性 変化変滅 多次元宇宙』『個別化し 豊かな宇宙 実現し 更なる変化 無限の変化』『個別化の 極限なれば それぞれが 全体忘れ 自我に邁進』『個別化も 過ぎればひとつ 忘却し 己が利益を 追求するのみ』『個であって 全体である その時に 平和と調和 地上に実現』『うねり飛ぶ 龍の姿が 目に見える 宇宙の姿 現象宇宙』『刻々に 変わる宇宙は 万華鏡 ひとつのいのち 生きて輝く』これが日記を書き始めて1382日目の心境。
2008.10.14
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『目をつぶり 耳を澄ませば 虫の音が 宇宙の響き 伝えてくれる』『目をつぶり 虫の音聞けば 居ながらに 宇宙の彼方 漂う気分』『個であって 全体である 状態は 星々であり 宇宙そのもの』『色と空 光と闇の 関係は 星々いただく 無限の宇宙』これが日記を書き始めて1375日目の心境。
2008.10.07
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数日前のコメント欄に次のような書き込みがありました。「いつも読ませていただいています。 特に心に響く日記は、携帯の画面メモに残しているのですが、昨日過去に遡ってじっくり読み返してみました。 今知りたかった答え(真実)がそこにはたくさんありました。ここ最近、いわゆるスピリチュアルな世界に意識が引っ張られて、ヒーラーと呼ばれる人のワークを受けたり、チャネリングした内容の日記を読みあさったり、また自分自身もそういう能力を求め過ぎていた傾向にありました。それがいけないというわけでもなく、また能力は誰にでもあるのだと思いますが、何故欲しいのか? と問うてみたところ、憧れのようなものがありました。 でも、kimiさんの日記を読み返してみて、能力を求め過ぎている自分に対し、本質的ではないような違和感が気づきとしてありました。それよりももっと大事なのは、『今の自分を見つめること。静かにありのままを見つめること。今今今の連続で生きること。』そこに真実があり、もうその意識から離れたくない!幻想の中には生きない!って思いました。 それが、日記にもある、『事実と共にいる』ということですよね?真のリアリティーとは何でしょうか。。? 瞑想で出会うハイヤーセルフや神々の存在も、事実だといえば、その時のわたしの事実。。? また、感覚や感情や思考が動いているのも、その時のわたしの事実だし。。?目に見えるもの、目に見えないもの、様々な次元がありますが、その時々で、入ってくるそれらを自覚していることが、事実と共にいるということですか?すみません。結局、質問になってしまいました。今一歩、ここを超えたいので、よろしくお願いします! 」事実と共にいるということは、幻想のなかに溺れないということですね。思いの世界に埋没しないことです。思い込みワールドのなかで生きないということですね。しっかり自分自身にグランディングして生きるということです。事実に対して、あれこれ思いが浮かびます。そのこと自体を否定する必要はありません。思いが浮かぶのは、事実ですから。問題は、思いのなかに呑み込まれてしまうことです。あれやこれやと思い煩い、いつのまにか自分を見失ってしまうのですね。自分が思いのなかに吸収されてしまいます。主体が曖昧になってしまうのですね。しっかり自分にグランディングできていない状態です。いくら思いの世界をさ迷っても、リアリティに出会うことはできません。リアリティは、思いの世界のなかにはありません。リアリティは、思いの世界を超えないとわかりません。それには、静かに見つめる必要があります。静かに静かに、見守り見つめるなかにリアリティはあります。そういうなかで、気づきや洞察が起きます。ハイアーセルフや神と名乗るものが出てくるかもしれません。しかし、そういうものにも心を奪われないことです。ただ静かに見守ることですね。心を奪われると、奪われたところで意識がストップしてしまいます。そこにフォーカスすることになるのですね。それも悪くはないのですが、意識は無限の可能性を秘めています。どのような状態になっても、主体を見失わないことです。天使や菩薩が出てきても、自分の主体はしっかりとキープしておくことですよ。今は、個として生きているのですから。このパーソナリティで生きているのですから。自分の主体を譲り渡さないことですね。しっかり自分自身にグランディングすることですよ。やがて天使や菩薩も超えていくことができるのですから。途中下車しないことです。途中下車して楽しんでもいいのですが、そこが終着駅ではないということです。何ものにも引っ掛からないことですね。ネガティブなものにもポジティブなものにも。何にも囚われないことですよ。ただスーッと透き通るような意識で生きることですね。それが無限に通じる道です。途中下車しない。何ものにも引っ掛からない。事実と共に生きる。事実に寄り添って生きる。事実を包み込むように生きる。事実を見守りながら生きる。何ものにも引っ掛からない意識は、限りなく広がっていきます。どこまでも澄みきっていくのですね。それは、どこまでも繊細になり、宇宙に溶けていきます。宇宙に溶けて、愛になるのですよ。神を求めない。救いを求めない。救世主を求めない。自分自身が、そのものなのですから。自分自身がそれ自体であれば、どうして外に求める必要があるでしょう。生かされている?生きている?いえいえ・・・生かされているも生きているもないのですよ。ひとつのいのちがあるだけです。自分自身が、いのちそのものです。ただいのちが生きて在るだけです。真のリアリティを求めるのであれば、途中下車しないことですね。ただただ透き通る意識でいることですよ。何ものにも囚われないで。それのみが、真のリアリティに通じる道です。『人はみな 心の奥に 愛がある みんな途中で 遊んでいるだけ』『引っ掛かる ところで意識 ストップし そこが自分の 生きるワールド』『透き通る 意識もあれば 人間の 意識もあって 多重人格』『リアリティ 求めるならば どこまでも ただ透き通る 意識でいること』『透き通る 意識の奥に 愛がある ただ愛だけの 世界広がる』これが日記を書き始めて1372日目の心境です。
2008.10.04
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数日前に次のような書き込みがありました。「私の場合、幸せな出来事はすぐ忘れてしまうんですが、悪かったことや嫌なことばかりをひきずってしまいます。そのせいで・・いいことなんて何もないんでは??!!(怒)!!っと考えてるようになってしまい、周りへの感謝を忘れてしまいます。いい加減成長したいと思うこのごろです・・。」典型的なネガティブパターンですね。しかし、それもまた癖です。オートマチックな反応です。それは、子供の頃からの刷り込みの結果かもしれませんね。箸の持ち方なども、子供の頃の癖です。そういうものは、他の人と違うと気づいた時に改めればいいだけです。正しい持ち方に変えると、スムーズに食事ができるようになります。しかし・・・最初のうちは、なんとなぎこちないものです。長い間慣れ親しんできたやり方の方が、楽です。それでも、新しいやり方を続けていると、そのうちに馴染んできます。やがて、以前のやり方の方が不自然に感じられるようになります。心理的なことも、まったく同じです。単にネガティブに受け止める癖です。暗いことばかりを記憶しているパターンです。重たいことの方が、インパクトがあるということでしょうか。たぶん、自分の意識状態がネガティブな方にフォーカスしているということでしょう。 重たく暗い方を向いているので、そちらばかりが気になるのです。顔の向きが、後ろ向きなのでしょうか。どうも前向きではないようですね。後ろ向きに生きていると、重たく暗い人生になってしまいます。但し、その分、冒険は少なくてすみます。勇気の必要はありません。チャレンジがないですから・・・動きたくないのでしょうか。安全でいたいのでしょうか。安住の地がほしいのでしょうか。それもわかるのですが・・・そういう意識状態の時は、波動は重く遅くなります。速(すみ)やかに軽やかに動けません。今にも雨が降り出しそうな曇り空状態です。快晴は、望むべくもありません。意識のフォーカスを前向きに切り換えることでしょうか。人生は、常に変化です。無常が、この世の定法です。変化がなくなれば、宇宙は死んでしまいます。変化こそが、いのちなのです。変化こそが、創造宇宙の有様(ありよう)です。変化がなければ、空そのものです。色ではありません。そういうことを深く理解することでしょうか。変化を怖がらないことですね。常に前向きにチャレンジすることですよ。受け身でいると、変化が怖くなります。主体的に生きることですね。主体的に自分の人生を創造することですよ。そうしないと、恐怖と共に過ごすことになります。自分が主体になって創造していくしかないのです。周りに振り回されないことですね。自分の人生を自分で切り開くことですよ。そうすれば、ネガティブなものだけに関心が向くことはないでしょう。ネガティブなものだけに惹きつけられるということは、後ろ向きに生きているからです。前向きに生きていく時には、逆風に負けてはいられないのですよ。切り拓くしかないのです。ネガティブなものに押し潰されるわけにはいかないのです。乗り越えて進むしか選択肢はないのですよ。前向きに生きれば、ドラマチックな人生が待っています。山あり谷ありのジェットコースター人生です。それが怖いから後ろ向きに生きるのでしょうか。でも、後ろ向きに生きたら充実した人生は望めません。人生は、常にチャレンジです。死ぬまでチャレンジの連続です。新しいものを創造するのです。それが、人生の醍醐味です。ビクビクしないで、思いきって生きることですね。ネガティブパターンを手放して、ポジティブパターンに切り替えることですよ。古いものをどんどん手放し、常に新鮮に生きることですね。次々に切り換えることですよ。まるで穴倉のなかから外を見ているような人生を生きたいのでしょうか。それとも、穴から出て、太陽の下で思いっきり生きたいのでしょうか。どちらでも可能です。自分が決める自分の人生です。少しずつ変わればいいでしょう。少しずつ穴から這い出せばいいでしょう。これまでのネガティブパターンを手放して、新たに生き直すことですね。真に自分の望む生き方を始めることですよ。いつでもスタートすることはできます。何も障害はありません。ただいつものパターンが邪魔するだけです。そんなものに負けていてもしかたがありません。結局、過去に負けているだけです。今よりも過去が優勢なのです。過去は確定しています。だから冒険の必要がないのですね。未来は、不確定です。だから、恐れるのです。だから安定した過去を選択するのですね。夢を捨ててまで・・・ただ自分を保持するだけの人生に、何の意味があるでしょう。前向きにチャレンジし、新たに創造するところに人生の意義があります。保身に走ったら最後、暗いトンネルの中に突っ込むようなものです。常にチャレンジするしかないのが、人生です。チャレンジすれば、新しい可能性が開きます。新しいものが開くことは、人生の喜びです。ワクワクする体験ができます。心も体も明るく希望に満ちます。何があっても前向きに生きるしかありません。他に選択肢はないのです。後ろ向きに生きているのは、怖いからです。もう傷つきたくないからですね。自分の傷を直視することでしょうか。傷の中身を理解することですよ。それは、自分のプライドや誇りが傷つけられたということでしょうか。自分が思っていたよりも低い評価を受けたということでしょうか。いずれにしても、自分の思い込みが傷ついただけです。傷つけられるということはあり得ません。自分の思い込みが、否定されただけです。傷つくのは、思い込みに過ぎません。その実態を理解することですね。小さな思い込みに拘泥しないことですよ。ただ自分独りで強く思っているだけのことですから。事実ではありません。事実ベースで生きることですよ。思い込みベースではなくて。そうすれば傷つくこともないでしょう。自分の思い込みを理解することですね。自分が傷つけられたと思った時は、自分の思い込みに気づくチャンスです。思い込みがあるから傷ついているだけです。思い込みを手放せば、傷つくことはありません。思い込み人生を卒業することですね。暗いものを手放して、明るく生きればいいだけです。人生は、どのようにでもクリエイトできます。自分しだいです。切り取りしだいが、人生なのです。ゆっくりじっくり自分を見つめてみるといいでしょう。自分の意識構造を深く理解することですね。そうすれば、自由に生きることができます。ネガティブパターンを理解して、手放すことですよ。大空のように無限の広がりのある意識で生きてください。自由に大空を羽ばたいてください。人は、無限の可能性を持っているのですから。今からでも遅いということはありません。今、今、今です。今、始めることですね。今、生き直すことですよ。今、切り換えることです。『保身こそ 恐怖生み出す 源と 知れば前向き 生きるしかない』『保身する 時に心身 委縮して 沈む夕陽に 変わってしまう』『前向きに 積極的に 生きる時 朝陽は昇る 夜明けの空に』『人生は 切り取りしだい 心から 望む現実 常に創造』『今ここで 気づいた時が 変わる時 引きずらないで すぐに切り換え』これが日記を書き始めて1371日目の心境。
2008.10.03
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数日前のコメント欄に、次のような書き込みがありました。「見守るのと見極めるのって、どう違うんでしょ?」このことについては、既に何度も書いています。でも、まとめて書いたことはないので、この機会にまとめてみます。見極めることは、色です。見守ることは、空です。見極めることは、個です。見守ることは、全体です。見極めとは、個々に深く見ていくことです。どうしてこうなってしまったのか。流れをもう一度振り返って見直します。そして、原因を突き止めます。静かに経過をフィードバックしていると、気づきや洞察が生まれます。どこに問題があったのかがわかります。それには、もう一度、問題の前後を見直す必要があります。事実経過と周りの人の心理状態。そして、何よりも重要なのは、自分の心の動きです。自分の意識の変化を理解することです。スローモーションビデオを見るように、振り返ることです。何が問題だったか・・・そういう感じで、前後関係や原因結果を明確に見ることです。それが、見極めるということです。冷静に客観的に見ることです。自分自身をもう一度見直すことですね。それによって今まで気づかなかったものが見えてきます。自動的に反応していたこと。無意識のパターン。冷静さがなくなり、感情に呑み込まれる瞬間。自分の意識状態を冷静に見直し、その構造を理解する。それが、見極めということです。何かあった直後に見極められればいいのですが、たいていはしばらく経ってからでしょう。夜寝る前でもいいので、その日一日を振り返ることですね。何か引っ掛かることがあったら、何に引っ掛かっているのかを検証した方がいいでしょう。そのまま寝てしまうと、潜在意識に残ってしまいます。それは、いつの日か表面意識に出てきます。反応という形で顔を出すのです。それは、恐怖かもしれないし怒りかもしれません。萎縮するか反発するか・・・いずれにしてもオートマチックに反応します。潜在意識に蓄積されたものは、必ず出てきます。ですから、その日に引っ掛かったものは、その日に処理した方がいいのです。何も潜在意識に残さないことです。残してしまえば、いずれ整理する必要に迫られます。潜在意識に引っ掛かりを蓄積しないことです。しかし、既に生まれてから今日までの膨大な引っ掛かりが、潜在意識のなかに蓄積されています。そういうものが、日々の出来事に自動的に反応します。その自分の反応を見つめることです。深く見極めることです。自分の意識構造を理解することです。それがないと、潜在意識に振り回されるだけの人生になってしまいます。過去の亡霊に翻弄される人生です。恐怖に覆われた暗い人生となります。一切の恐怖がない人生。のびやかな明るい人生。活き活きとした健全な人生。そのためには、自分のなかの恐怖を理解する必要があります。これまで潜在意識に蓄積されてきたものを理解する必要があるのです。それらは、日常生活のなかで出てきます。出てきた時に、自分を振り返ることです。どうして自分は、このように反応するのか。他の反応の仕方はないのか。別の受け止め方はないのか。もっと軽やかに反応することはできないのか。今のパターンが、唯一絶対ではないのです。いろんな視点から自分を見直してみることですね。自分自身を見極めることです。そうすれば、今とは違った可能性が開きます。過去のパターンをクリアーできれば・・・一方、見守るというのは、そういうことではありません。個々の気づきではないのです。もっと全体的な意識状態です。やわらかく包み込むような意識状態・・・分析や原因究明などはないのです。ただあたたかく見守る。無条件に見守る。静かに自他を見守る。それは、冬の太陽のようなあたたかさです。母親のようなやさしさです。良いも悪いもない無条件の抱擁です。ただ自他を包み込むだけです。そういう大きな見守りがないと、見極めだけでは苦しくなります。小さなことだけに意識が集中すると、全体を見失います。自分が何をしているのかわからなくなります。見極めている自分をも見守っている必要があるのです。見守りは大きな円であり、見極めは円のなかの点のようなものです。見守りは拡大であり、見極めは集中です。見守りは極大であり、見極めは極小です。見守りは神の意識であり、見極めは人の意識です。見極めは、気づきであり洞察です。明確に自覚することです。理性的に冷静に見ることです。はっきりと意識化することです。見守りは、ただ包み込むことです。どこまでもやさしく、どこまでもおおらかに。無条件の愛です。ただやさしく見守るだけです。善も悪も正も邪も、すべてを包み込むことです。無差別、無評価、無判断。ただ無条件に包み込むのです。それは、神の意識に繋がるものです。人は、個別化した光です。しかし、同時に全体でもあります。個であり全体なのです。個だけにこだわると、自我になります。全体を忘れ、自分さえよければいいということになってしまいます。自己の成長も大事です。しかし、自分のことだけでは自己中心的な人間になってしまいます。自分も大事、周りも大切です。個として生きることも重要です。しかし、個だけではアンバランスです。個と同時に全体の調和も不可欠です。それには、見守ることが必要です。自分自身が調和するのにも、見守りが必要になります。見守りという意識がベースにあると、自然に全体と調和していきます。見守りは、全体に通じる意識だからです。見守りとは、無限の愛です。静かに自分を見つめている状態というのは、見守りと見極めが融合したような状態です。見極めは、明確な意識化です。しかし、見守りは意識化ではありません。ただふんわりと包み込む意識です。大きな大きな計り知れない意識です。無限に広がる意識です。その一部が、自分を静かに見つめている時に浸透する感じでしょうか。冷静に、霊性に見つめる時、見極めが実現します。霊性は、顕在意識を遥かに超えています。見守りの無限大の意識から流れてくる意識です。冷静と霊性は、融合しています。静かであればあるほど、融合していきます。見極めとは、自分ではっきりと自覚することです。意識的に自分を見つめ、自分を理解することです。見守りとは、大きく大きく自他を包み込むことです。まるで神の意識のように大きくすべてを抱擁することです。それは、意識的にはできません。静かに見つめていくなかで自然に実現するものです。見守ろうと意識して、徐々に広がっていくものです。ゆっくり自然に実現するものです。自我で力まかせにやっても実現することはできません。静かに静かに自分を見つめていくことですね。そういうなかで見守りのエネルギーは、自然に流入してきます。自然に大きく包み込むような状態になっていきます。静かに深く自分自身を見つめ、理解していくことです。そういうプロセスのなかで、人は潜在意識から解放されていきます。潜在意識とは、今生の条件づけであり刷り込みです。それは今生に限らず、過去世からのカルマでもあります。カルマというのも、癖や条件づけのようなものです。心のシコリであり、囚われです。すべて思い込みです。執着であり、パターンです。そういうものを解放しない限り、人は潜在意識の奴隷です。真の自由はないのです。心は、過去によってがんじがらめです。未来は、過去の延長でしかないのです。いつまでも同じことを繰り返していてもしかたがないでしょう。それでは生きる意味がありません。新しい創造がないのです。常に新しい創造が、宇宙というものです。大きな見守りのなかで自分自身を見極め、理解することです。それが本来の自分自身に還る道筋です。見守りのなかで見極めていくことによって、見守りのエネルギーはどんどん大きくなっていきます。見守りのエネルギーが、自分のなかに広がっていくのです。見極めとは、意識化。明確に自覚することです。見守りとは、ただすべてを包み込むこと。言葉を超えて、無条件に抱きしめることです。見極めは、個=人の領域。見守りは、全体=神の領域。見極めは、個々に輝く色。見守りは、ひとつの空。『自覚する ことがなければ 反応の ままに翻弄 される人生』『見守りの なかで個別に 理解する 大きく包み 個々に見極め』『見極めは 男性原理 見守りは 女性原理 能動・受容』『見極めは 個別の光 見守りは 全体の愛 ○(まる)のなかの・(てん)』『見極めは 色の輝き 見守りは 空の広がり 無限・有限』『個であって 全体である 状態は 見守りのなか 見極めていく』『明確に 自覚するのが 見極めで やさしく包む 愛の見守り』『見極めは 星のきらめき 見守りは 星がまたたく 夜空そのもの』これが日記を書き始めて1370日目の心境です。
2008.10.02
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『晴れる日も 曇る日もある 人生は 雨が降らねば 虹も見えない』『晴れる日も 曇る日もある 人生は 晴れても降っても 日々是好日』『咲く花も 散る花もある 人の世は 流れと共に 変化楽しむ』『執着を すれば苦しみ 沸いてくる 流れと共に 生きるしかない』『いつまでも あの快感に 浸りたい それが執着 未練というもの』『よろこびは 感謝と共に 終わらせる 引きずる時に 苦しみとなる』『終わらせる ことができれば 新しい 展開がある 次々開く』『いつまでも 過去に執着 する時に 新たなものは 開いてこない』『前向きに 切り換え生きる どのような ことになっても 新たな創造』『人生は 常に完了 新天地 引きずる時に 重たく暗い』『刻々に 完了させて 生きる時 苦しみもない 悲しみもない』これが日記を書き始めて1369日目の心境。
2008.10.01
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