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今日で11月も終わり。明日から12月。2008年も終わりに近づいている。アッという間に一年が過ぎてゆく。仕事も昨日で一区切りがついた。12月は、月末に一日予約が入っているだけ。1月、2月も予約は入っていない。これから仕事が入ってくるかもしれないが、12月~2月は基本的にシーズンオフ。年末年始だけ、少しお客さんが来る。それが過ぎれば、3月まで静かな屋久島となる。森に入る人も少なく、森は雪に守られる。人の来ない静かな自然となる。人の来ない冬の間に、屋久島の自然は甦る。本来の生命力を取り戻す。冬は、シーズンオフの方がいい。一年中、人が入るのはよくない。自然も休みが必要。人に荒らされない期間がいる。人の波動は、荒い。自然本来の波動に戻る期間が必要不可欠。シーズンオフになると、ガイドの収入は途絶える。多くのガイドは、夏場に稼いだもので暮らすことになる。余裕のあるガイドは、海外の山に研修と称して出かける。余裕のないガイドは、本土の方に出稼ぎに行く。屋久島に残るガイドは、静かに春を待つ。タンカンやポンカンの収穫のアルバイトをする人もいる。本土の実家へ帰ったり、旅に出るガイドもいる。冬は、ガイドにとっても静かな季節。こちらは、静かに春が来るのを待つ。ここ数ヶ月、カードの支払が毎月40~50万円になり、貯金はほぼ底をついた。夏から秋にかけて、水晶を買い過ぎたようだ。これからは、それらの水晶を手放して暮らすことになる。新しい水晶が届くのも楽しい。次々にステキなものがやって来る。しかし、水晶を手放すのも楽しい。どれを手放すか選ぶ時もワクワクする。解説文を書く時は、よくよく水晶を観察する。そうすると、新たな発見がある。写真を撮っている時も、これまで気づかなかった美しさに気づく。最後の最後まで水晶は楽しませてくれる。旅立つ水晶たちは、あたたかく迎えられる。こちらは、手放してスッキリする。何も問題はない。それによって、また新しいものが買え、生活もできる。水晶は、ひととき自分の手元にあるだけ。やがて、旅立っていく。それは、水晶に限らない。すべてのものが、基本的にそのようになっている。すべては、流れている。すべては、循環している。すべては、新陳代謝。物だけでなく、体も常に新陳代謝している。新陳代謝が衰えると、老化ということになる。若いうちは、新陳代謝が盛ん。逆に言うと、新陳代謝が盛んな間は、まだ若いとも言える。それは、体に限らず物や心も同じ。物が停滞すれば、気が詰まる。体内に停滞すれば、病気となる。心のなかに停滞すると、煮詰まってしまう。新陳代謝が衰えると、だんだんと固まっていく。固まりの極限は、死。完全なフリーズ状態。しかし、それでも肉体は変化を続ける。自然回帰の循環は続く。肉体は、土に還る。地球の材料でできているものは、地球に戻る。物も最終的には、地球に還元される。ある時期、手元にあって利用しているだけ。すべてのものは、ひとときの付き合い。人間関係も同じ。ひととき、味わい楽しむだけ。永続はしない。永続すれば、新陳代謝はない。変化こそが、いのち。変化は、止められない。それこそが、宇宙の創造原理。肉体が滅んでも、意識は持続する。しかし、その意識も常に変化している。物質、肉体、意識で変化のスピードが異なる。後者になるほど、変化が速い。波動が高くなればなるほど、変化は速くなる。それを不安定と感じれば、心は動揺する。人は安定を求めて、固定したものに走る。物をたくさん所有しようとする。周りの人を縛り、古い人間関係で支配しようとする。信念や信仰にすがる人もいる。強く思い込むことによって、自分を維持しようとする。変化を恐れる心は、どんどん硬くなる。硬くなれば、新陳代謝は落ちていく。心身共に若さが失われる。保守とは、老人の心身。若さに、保守はない。変化と共にありながら、安定していることはできないだろうか。新陳代謝と共にいて、心が動揺しないことは可能だろうか。所有して身の回りを固めることなく、心やすらかに生きることはできるだろうか。何もなくても、不安や心配なく生きることはできるだろうか。不安な心は、安定するために固定を求める。地位、名誉、財産、経歴、家族、信念、信仰・・・何でもいい。自分を安定させるために、何とでも自己同一化し、所有する。支えてくれるものがないと生きていけない?拠りどころがないと生きていけない?何もなしでは生きていけない?自分=自我こそが拠りどころ?すべてのものは、変化している。ひととき、自分の手元にあるだけ。すべて流れている。物も体も心も・・・何も固定されたものはない。ただ記憶だけが、固定されているように見える。ただイメージだけが、あたかも固定されたものがあるかのような錯覚を生み出す。思い込みが、固定という幻想をつくり出す。事実は、すべてのものは常に変化している。自分というようなものはない。自我は幻に過ぎない。それらは、すべて思い込み。記憶をベースに、自我ベースで生きてもいい。しかし、その自分も曖昧なもの。自分というものは、記憶の組み合わせ方によって様々に変化する。すばらしい自分であったり、醜悪な自分になったりする。それは、実体のないイメージだから。人は、自分というイメージをベースに生きている。しかし、その実態は、極めて不安定。コロコロ変化するもの。自分とは、固定。ある一定期間、固定させているだけのもの。ある一定期間、物が手元にあるのと同じ。やがて変化する。自分にも、そんなにこだわることはない。自分というのも、変化するもの。固定しているものではない。一時的な仮初(かりそめ)のもの。単にイメージでつくりあげているだけのもの。それは、自我だけに限らない。魂も似たようなもの。一時的に固定化しているだけ。単なるエネルギー場。色のついたエネルギー場。色の世界は、すべて一時的に固定化しているだけ。波動の集中固定化が、色の世界。空の世界は、水蒸気。色の世界は、水や氷。ひととき、その形をしているだけ。波動を落として、集中固定化しているだけ。そういうことを理解して生きることだろうか。そうすれば、そんなに自分にこだわることもなくなる。自分にこだわって、角突き合わせて生きる必要もない。しなやかに生きればいいだけ。しなやかに、水のように生きるということだろうか。水蒸気では、形がなさすぎる。それでは、色の世界は成り立たない。しかし、氷では自由がまったくない。人は、水ぐらいがちょうどいい。水は、方円の器に従う。様々な形を楽しみ、変化を楽しむ。しかし、その形にもこだわらない。ある期間だけ、自分の手元において楽しむ。ある期間だけ、自分というものを楽しむ。次の期間には、別の自分を楽しむ。生まれ変わりとは、そのようなもの。いろんな人生を体験して楽しんでいるだけ。今の自分に、そんなにこだわることもない。しなやかに、水のように流れていけばいい。人間らしく、ひとときの楽しみを味わいながら・・・『美しき 花を咲かせて 風に散る ただ一片の 執着もなく』『人はみな 甘い記憶に 酔いしれて 執着という 病に罹る』『執着は 固く掴んで 放さない 支配と依存 氷の如し』『変化する ものが怖くて 固定した ものを求めて 不自由になる』『人生は 波乗りゲーム しなやかに 波と戯れ 波を楽しむ』『人格も 器であって 仮のもの この肉体と 何も変わらず』『目に見える ものは仮初(かりそめ) 変わりゆく 自分でさえも 移りゆくもの』『移りゆく ものに執着 することが 苦しみの元 悲しみの元』『楽しんで 楽しんだなら 手放して 次の楽しみ 楽しめばいい』『次々と 魅力あるもの 創造し 楽しみ生きる 囚われないで』『蕾から 咲いて散りゆく 花々の その時々を ただ愛でるだけ』これが日記を書き始めて1429日目の心境。
2008.11.30
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今日の屋久島は、不安定な天気になっている。時々、激しい雨が降る。そうかと思うと、太陽が顔を出す。そうこうしているうちに、また雨になる。海は、大シケ。白い波が目立つ。フェリーは、欠航。山の中腹では、滝が大きく膨らんでいる。今日は、新月。新しいスタート。さて、何を始めよう?昨夜、ハタと考え込んでしまった。ゆっくりリラックスしていると、先々のことが感じられた。来年=2009年は、自分にとって物質的なものを削ぎ落とす年になる。これまで蓄えてきた物質的なものを削ぎ落としていく。心身共にスリムになる。60年近く生きてきて、物質的なものをたくさん身につけてしまった。この世を生きる上では、必要なものもある。でも、必要でないものも、たくさんある。そういうものを削ぎ落とす。必要最小限まで削ぎ落とすことになる。心身共に・・・削ぎ落としたところには、もう少し波動の高いものが入って来る。心身の波動が上がっていく。2009年いっぱい削ぎ落とす。2010年になれば、ほぼ完成する。2012年を待つこともない。少し早目に完成しそう。物質化のサイクルから、非物質化のサイクルへ。時代は、大きく逆転している。個別化から、全体性へ。分離から、融合へ。物質との自己同一化を外す時。肉体との自己同一化を外し、物質的意識との自己同一化を外す。誕生して成長するなかで培ってきた意識たち。この世を生きるために必要とした意識たち。時代と共に、世代と共に形作ってきた意識たち。その意識に乗って、これまで生きてきた。日本人として、最後の団塊の世代として。60年近くも生きてきた。いろんな体験をした。楽しい体験だった。貴重な体験だった。すばらしい体験だった。これまでは、それらと自己同一化して生きてきた。過去の体験=記憶が、自分だった。自分は、過去の産物。過去の意識の集合体。そういう記憶は、今もある。これからも、ある程度はあり続けるだろう。しかし、自己同一化は、どんどん外れていく。自分は、それほど重要ではなくなっていく。この世においては、個=自分が最重要。個として体験するのが、この世界。自分ベース。それは、それでいい。しかし、それがすべてではない。個として身につけてきたものを、手放していく。外していく。そんなに個にこだわることもない。物質的な自己を削ぎ落としても、別に死にはしない。意識は、在る。常に意識は、在る。存在している限り、意識は在り続ける。これまでの自分という枠を外していくだけ。既成概念を手放すだけ。個という極限の分離状態から、ゆっくりと融合へ向かうだけ。意識が広がるだけ。小さな肉体。その肉体に入り、肉体と自己同一化して生きる人生。それも楽しい。人生の様々なドラマを体験できる。またとないすばらしい機会。しかし、それがすべてではない。もっと違う世界もある。人間の意識を超えた世界もある。それは、目の前に並ぶ色とりどりの水晶たちのような・・・人間とは、まったく異なる生。でも、それぞれに個性があって美しい。そう、夜空に煌めく星々もある。いろんな生がある。人間だけが、すべてではない。意識の限定を外せば、可能性が広がる。いかような生もあり得る。雨が降り、やがて太陽が顔を出す。花が咲き、やがて静かに枯れていく。波が荒れ、やがて穏やかになる。すべてのものが、変化しながら存在している。それが、生きて在るということ。宇宙の生成変化。巨大なスケールの存在の有様(ありよう)。ゆるやかにたゆとう意識・・・小さな人間の意識にこだわることもない。限定された意識に執着することもない。フォーカスを緩めれば、意識は静かに広がっていく。限定とは、意識の集中固定化に他ならない。それは、物質と似ている。水蒸気が冷やされれば、水になる。水が更に冷やされると、氷になる。固い固い氷ができあがる。自己同一化とは、自己限定。それは、集中固体化のようなもの。凍りつくのと変わらない。氷のように固体化している状態。温めて溶かしていけば、氷は水に変わる。水は、氷より流動性がある。更に温めれば、水は水蒸気となる。水蒸気は、水とは比較にならない流動性を持つ。自由とは、そういうもの。自己同一化を外すこと。自己限定を外すこと。意識の固定化を外すこと。意識の固定化とは、意識の物質化。固定化され物質化された意識は、不自由。水蒸気のようなしなやかさがない。まるで氷のようにフリーズしている。過去にこだわればこだわるほど、氷に近づく。意識の自由は奪われ、氷のように固まってしまう。自己同一化を外していく。自己限定を外していく。固定化を外し、しなやかに生きる。すべて外しても、意識は存在する。意識は、在る。在ることが、すべて。在るとは、究極。意識は、在る。I am.「私は、在る。」在ることから、すべてが派生する。自己同一化の連続によって、今がある。限定し限定し、特定し特定する。そこに個が生まれる。個とは、子でもある。神から見たら、子の子の子の子の子の子の子の・・・何十代、何百代、何千代目の子だろうか。もう数えきれないほどの末代に違いない。それでも、神の子孫には違いない。元の元は、在る。そこから、すべては派生している。自己限定することによって、個性を帯び、特定化しているだけ。自己限定は、悪いことではない。ただ、無自覚だと、不自由なだけ。ミイラ取りが、ミイラになっているだけ。自ら望んで個別化したのに、今は全体と分離して苦しんでいる。自分自身を見つめ、自己同一化=自己限定を外す。固定化=物質化している自分に気づく。氷のように意識がフリーズしているのに気づく。意識は、しなやかだろうか・・・意識は、水蒸気のようにしなやかだろうか。それとも、氷のように固まっているだろうか。あるいは、水のように流れているだろうか。自分の意識は、どうだろう・・・『思い込み 強い意識は 固まって 角(つの)突き合わせ 共に傷つく』『しなやかさ 失くした意識 固まって 氷のような 心身となる』『しなやかで ただしなやかで あるだけで 傷つくことも 苦しみもない』『所有して 自己同一化 物質化 自己限定で 身動きとれず』『安全を 確保するため 自らを 小さく固く 縮めて生きる』『肉体の 安全だけを 求めれば 意識固まり 不自由になる』『限定を 外していけば しなやかな 意識息づく 赤子のように』『人はみな 神の末裔 元は神 流れ流れて 人間となる』『人の世の 原理を深く 理解して 意識しなやか 自由に生きる』これが日記を書き始めて1427日目の心境。
2008.11.28
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屋久島のあちこちで石蕗(つわぶき)の花を見るようになった。石蕗の花が咲くと、屋久島も冬の気配。濃い黄色の花は、深い香りがする。魂まで染み透るような凛とした香り・・・あとりさんからメールが届いた。そのなかに、次のような文章があった。「昔、親が屋久島行ったとき、サイトに来て、六角形でキミさんやみんなで手を繋ぎ合って、まだ半分くらい暗くて『あと少し』という場面の夢。次に初めて屋久島行って帰ってきたとき、同じような場面で、みんな繋いでいる中、既にだいぶ明るくなっていた夢。今回は、みんな繋ぐ中、既に光が六角形の中心部からこんこんと生み出されているようなビジョン。光がすごいので、それに釘付けで他は見なかった感じだけど、やっぱキミさんがすごいですね。一人頑張り?(笑)その光は別次元に入って行けて、いろんな世界の入口のようでした。エネルギー革命みたいだ~」あとりさんは、一番最後から走っている。こちらは、トップを行っている。真ん中あたりに、ぴあのさんがいる。まるでそれぞれの役割分担があるかのように・・・こちらは、光を目指して一目散という感じ。あとりさんは、難病や傷つき倒れた人たちといる。一番最後から、一人も落ちこぼれがないように一緒に進んでいる。ぴあのさんは、多くの人の中心にいて、みんなが光の方向へ行くように促している。えっちゃんは?「私でも付いて行っているんだから・・・」と、みんなを励ましている。脇道を走る一般人代表のおばあちゃんランナー。「あの人が行けるのなら・・・」と、みんな思ってしまう。こちらは、既に九合五尺ぐらいまで登っている。これまでは、森のなか。しかし、既に森林限界を超えた。一気に見晴らしがよくなった。周りは、光に満ちている。もう頂上は、目の前。その気になれば、来年にでもピークに立てる。行ってしまうのだろうか・・・でも、自分だけ登っても、あまり意味はない。今回は、みんなと一緒に登ることに意味がある。できるだけ多くの人と一緒に登る。それが、今回のテーマ。縁のある人たちと一緒に登っている。既にコメント欄に登場した人もいれば、まだ姿を現さない人もいる。「できるだけ多くの人と共に」というテーマは、ぴあのさんも共有している。だから、彼女は必死に光の情報を提供している。あとりさんは、最後の最後。闇を深く体験した人たちと一緒に登っている。闇を一気に逆転させようと思っている人たちと共に、最後のゴールを目指している。いろんなグループが、富士山の頂上を目指して山登りしている。富士山の頂上に立てば、すばらしい眺望が待っている。しかし、途中は険しい。特に九合目から先は、これまで体験したことがない空気の薄いゾーン。自我ではない領域に入る。まだ自我しか知らない人たちは、息苦しくなるに違いない。もう生きていけないと思う人も出るかもしれない。それほど苦しい自我超えが待っている。しかし、それを超えなければ、ピークには到達できない。こちらは、来年にはピークに到達するだろう。そして、ピークからみんなに声援を送る。あるいは、遅れている人をサポートするために、また下まで降りて行くかもしれない。まだわからない。来年になれば、光は急角度で降りてくる。ものすごく強い光がやって来る。もう闇は、太刀打ちできない。闇の時代は、既に終わっている。これからは、光がいや増すばかり。格段に強い光が降り注ぐ。人は、光の本質に目覚める。自分のなかに光が確立する。これまで順調に光が増してきた。光の輪は、間違いなく広がっている。明らかに光が輪を一周している。みんな光で繋がっている。縁のある人は、光で繋がる。縁のある人たちと一緒に、新しい時代へ向かう。それが、今生のテーマ。生まれてきた目的。間違いなく光の道を進んでいる。もう後戻りはない。真っ直ぐに光の道を進むだけ。光の一直線。それぞれの人が、それぞれの持ち場で光を輝かせる。それが繋がり、大きな光となる。世を照らす光となり、多くの人の希望となる。多くの人が光に目覚め、光の世界へ向かう。着実にその方向へ進んでいる。予想以上に、光は明るい。みんなの光が増している。間違いなく、光の方向へ向かって進んでいる。『泥沼に 芽生えた蓮は 成長し 光湧き出す ところまできた』『暗闇に 灯(とも)る光は 世の人の 行くべき道を 指し示す蓮』『富士の山 登り登れば 雲の上 自我の曇りも 晴れて快晴』これが日記を書き始めて1424日目の心境。
2008.11.25
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「思い込みを手放すテクニックがあるのですが、役に立つでしょうか」という質問があった。思い込みや自我を解放する方法は、いろいろ提示されている。長く続いているものは、それなりの効果もあるのだろう。しかし・・・思い込みや自我をなんとかしたいと思っている主体については、あまり考慮されていない。テクニックを実行することによって、楽になることに主眼が置かれている。それは、それでいいのだが・・・しかし、しかしである。いくら方法やテクニックを実行しても、それをやっている主体を問い直すことがなければ、本質的な解決には至らない。なぜなら、それをやろうとしている主体こそ、自我に他ならないのだから。そこに広がっているのは、自我が自我を克服しようとする世界。自我が自我を克服する?そういうことがあり得るのだろうか。自我が克服された時、残っているものは?克服しようとした自我ではないのだろうか。自我で自我を克服しようとする限り、このパラドックスが存在し続ける。逆に言うと、克服しようとすればするほど、克服しようとする自我は強くなる。張りきれば張りきるほど、自我のパワーは増強する。自我を克服するぞと張り切ることそのものが、自我を強化してしまう。それは、自分の尻尾を追いかけまわす犬に似ている。追えば追うほど、尻尾は逃げていく。追うスピードを速くすれば、尻尾が逃げるスピードも速くなる。どこまで行ってもキリがない。最初は自我でもいいではないか、という声もある。確かにそうかもしれない。自我しか知らないのだから。しかし、自我でやりながら、自我を克服できるだろうか。これが、自我が自我を克服しようとする時に陥る絶対矛盾。要は、自我では自我を克服できないということ。いくら頑張っても、頑張っている主体そのものが自我に他ならない。自我は、頑張ることをやめるしかない。自我が自我を克服しようと頑張る限り、自我は存在し続ける。なんとも厄介なことではある。自我は、ただ静まるしかない。理解を通して・・・テクニックというのは、効果がある。しかし、その効果は、限定的なもの。ベターという程度。以前と比べれば相対的によくなるだけ。テクニックでは、絶対へは行けない。テクニックをやれば、テクニックで止まる。テクニック以上には行けない。テクニックに縛られてしまう。精神をテクニックで縛れば、完全な自由は更に遠くなる。テクニックを熱心にやればやるほど、テクニックの虜となる。テクニックは、人を不自由にする。結局、ミイラ取りが、ミイラになってしまう。テクニックや技法やメソッドというものは、方便。相対の世界にあるもの。自我や色の世界のもの。それでは、絶対へは行けない。絶対に方便はない。絶対に方法はない。すべての方便が放棄された時、自然に成就される。完全自由に至る方法はない。ただ理解すること。理解して、即、実行すること。理解と実行の間に方法を介在させないこと。方法論とは、自我の隠れ蓑。変化したくない自我は、「では、どうすれば変われるのか」と問う。しかし、方法を模索し始めると、方法に埋没する。その方法をうまくやるための別の方法が必要になる。方法は、次々とそのための方法を求める。それは、自我のゴマカシ。自我の延命策以外の何ものでもない。方法=テクニックというものは、自我の領域にあるもの。方法やテクニックをやっている限り、自我の領域からの自由はない。完全な自由は、方法論を持たない。理解して実行する。ただそれだけ。極めてシンプル。どうやって実行する?実行するためにはどうしたらいい?そういうことを言っている限り、真の変化はない。それは、自我の逃げ口上。理解即実行。ただそれだけ。それが、唯一、人を真実に導く道。方法論はいらない。自分を深く見つめて理解する。その連続。その連続の先に、別の世界が広がる。広がることを期待しないで、ただ理解する。広がることを期待して理解しようとすれば、ギブ&テイクの世界に陥る。それこそは、まさに自我の世界。理解まで方法や手段にされてしまう。何も期待しないでやるしかない。一切期待しない。何も求めない。ただ自分を理解する。自分が条件づけられていることに気づき、それを理解する。不自由さに気づき、不自由さを理解する。理解されれば、それまで。不自由でなくなる。そうなればどうなる?それは、自我の期待。何も期待しない。ただ淡々と理解あるのみ。理解の後に広がるものは、自然にやって来る。それは、自然に実感される。期待するものではない。期待すれば、期待したものしかやって来ない。無限のものは、やって来れなくなる。期待するのは、自我。期待すればするほど、自我が強まっていく。一切の期待なく、ただ淡々と理解あるのみ。理解の先に無限が広がっている。『自我が自我 克服しようと 努力する 努力する度 自我が強まる』『自我が自我 克服せんと する時に 葛藤という 苦しみが沸く』『自我減らす ために行う 方法は 自我を温存 するだけのこと』『理解して 即座に実行 それだけが 自我を超えゆく 唯一の道』『期待して 努力するのは 自我のうち ギブアンドテイク 自我の満足』『自分観て 理解しながら 生きていく 結果は後から 付いてくるもの』『理解する 先に広がる 空間は 計り知れない 無限の彼方』『道示す 星は理解の 光だけ 理解の先に 愛が広がる』これが日記を書き始めて1423日目の心境。
2008.11.24
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射手座の水晶祭りの水晶が届いた方からのメールを掲載します。今回の水晶は、スモーキーツインカテドラルです。「水晶達、無事、昨日受け取りました。ありがとうございます。カテドラル、届いて早速大好きです。スモーキーなので、光源によって色味が変化するなぁ、と思っていたので、写真から想像を巡らしていたのですが、思っていたより軽くてやわらかな印象を受けました。濃い~重い、どっしりと威厳のある感じの色合いではなくて、光に透かすと内部がキラキラとして軽快な煌めき。。。もっと敷居が高いような感じなのかな。。。と思っていたのに、とってもフレンドリーなような。ちょうど開けるときに、家で飼っている鳥が部屋まで、何してるのー?とやってきて、最初は紙の残った空箱に入って遊んでたんですけど、カテドラルを丁重に、ドキドキしながら開けて見ていたら、ちょーんと手にとまってこれ何?って具合にコツコツ。。。と。なんか、そのほのぼのした光景に気が緩んでふわーっと仲良くなれたのかもしれないです。(今回は身をキレイにしてからじゃないと開けれない!…と思って、届いてすぐじゃなくて、先にお風呂--禊ぎ--で気合いを入れてみたんですけど(笑) )開ける前、届く前から背筋があつーく感じたり、頭がスッキリしてるなーと思っていたんですけど、水晶かな?(時々そんな感じはあるので違うのかもです)持ってみてから、いつも眠る時刻も過ぎていたので、そのままうとうとしていた時、いろいろな景色…澄んだ山河や塔のような建物や、宇宙空間とか星雲?みたいな流れ…粒子の煌めきが交響曲みたいだなぁ…って感じながら、そこに住む住人、民族…というか、あぁ地球の人たちではないなぁ…と、不思議とそんなふうに感じながら。雰囲気、波動っていうんでしょうか、それらが違っていて、もっと理知的なような穏やかさもあって。もっと調和され、もっと賢く?自我・自我でお互い争っていないような感じというのか、そういった方達のイメージと、それから今度は、ふっと外側から見た地球・人類を客観的に見たような視点。そこから地球を感じると とっても混沌としてネットリした赤と黒のスープのようでもあり、いろんなものが混じりあい、悲苦や物質に溺れるもの、、、そういった感じもあるけれど、誠実でなんとかしようとする者、そういった人達がどんどんと集っていく感じ・・・というのもまた印象として受けました。そこからそれが強くなっていき、創り出すものがピカピカと広がっていくような。。。子供の時から比べると、画一的(男だから女だから…etc...)でなく、選び取りたい生き方、付き合う人・グループ、そういったものがどんどんと、それぞれ望む方向へ進んでいくんだろうなぁ、なんて そんな風にも思ってました。誰かがそうなり、またそれに惹かれる者が集まりやすく、濯がれて加速度がつくような。そういった感覚を静かに静かに感じてました。これは、水晶持ったからなのかなー??ですけど。水晶さんの理知的だけれど、でもどこか暖かみのある感じ、賢くて穏やかで懐が広いなぁ、なんて感じさせていただいてます。安心して、落ち着けます。置いているだけでも、安堵感がありますね。いてくださると、ふーっと人心地つける感じもあって。改めて、石のエネルギーってすごいな、なんて思ってました。まだ来たばっかりなので、ゆっくり大切にしていきますね。kimiさんの所から来てくださる水晶は、賢人…のような、お坊さま?…上手なたとえが見つからないですが、静かな見守りのような…に心が静まります。どこかみんなに共通して、そういった雰囲気を感じます。(後略)」カテドラルクオーツは、宇宙の叡智を象徴しています。また、一つの水晶にもかかわらず多くのトップを持っているので、集合意識にもたとえられます。グループソウルみたいな感じです。魂の集団=霊団という感じでしょうか。霊団となると、極めて巨大です。魂の大集団ですから。まるで星雲のような・・・カテドラルクオーツというのは、巨大なキャパシティを持っているのです。カテドラルクオーツは、グレートスピリット。大いなるグレートクリスタルなのです。そういうものを手にすると、宇宙的なビジョンが見えてもおかしくはありません。お互いにリンクしているからです。宇宙には、様々な星々があります。数えきれないほどの次元もあります。そこに存在するものは、ほとんど無限に近い数です。存在の形態も異なります。進化の度合いも、文明の程度も様々です。そういうなかで、地球は?まだまだ混迷の星でしょうか。混沌としているのが、地球の現状でしょうか。それは、人類の意識が混乱しているからでしょうか。己の本質を忘れ、物質に埋没しているからでしょうか。肉体と自己同一化し、霊の本質を忘却してしまったからでしょうか。意識が物質化し、無限のしなやかさをなくしてしまったからでしょうか。甦(よみがえ)れ、地球人!という感じですね。目覚めよ、地球の人々!という感じでしょうか。宇宙から見れば、まだまだ赤子のような地球人類。でも、そろそろ目覚める時です。お互いに殺し合っている場合ではありません。本来の自分を取り戻す時なのですね。メールでも書かれているように、希望の光はあります。目覚めつつある人が増えています。着実に意識は変化しています。光へ向かって進んでいるのです。カテドラルクオーツというのは、そういう宇宙的な視野を目覚めさせてくれます。個人や魂を超えた視点。大きな大きな視点です。水晶は、すばらしいですね。カテドラルクオーツは、クラスターと似ています。どちらもたくさんのトップがあります。しかし、クラスターの方は、個々のポイントが独立しています。カテドラルの方は、全部が一体化しています。クラスターには、母岩があります。それは、まるで物質地球のようです。クラスターは、物質次元に生きる霊性という感じでしょうか。まるで肉体をまとって地上で生きる人類みたいです。一方のカテドラルの方は、水晶質のみです。純粋な霊性だけです。まさにグループソウル。魂の集団であり、霊団ですね。物質次元で生きるものにとっては、グループソウルは遠い存在です。多次元宇宙は、遥か彼方にあります。それを繋いでくれるのが、カテドラルクオーツです。宇宙的な水晶--それがカテドラルクオーツの本質です。今回旅立ったような本格的なカテドラルクオーツは、あまりありません。サイズも大きく、たくさんのトップを持つ立派なカテドラルでした。これからも、また違ったカテドラルクオーツが水晶祭りに出てきます。宇宙的な叡智を感じたい方は、リクエストされるといいでしょう。静かに秋が深まり、冬が近づいています。水晶たちは、いつも変わりなく存在しています。静かに波動を発している感じです。それぞれに個性があり、それぞれの宇宙とリンクしています。『遥かなる 多次元宇宙と リンクして 深い叡智を 宿す水晶』これが日記を書き始めて1421日目の心境です。
2008.11.22
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射手座の水晶祭りの水晶たちが、たくさん旅立って行きました。無事に届いたようで、お礼のメールが次々に来ています。そのなかに次のようなものがありました。「息子は、ヘリオドールクラスターが来るのを待ち焦がれていました。学校から帰ってきて、包みを開けたいのにすぐには開けず、宿題をまず終わらせてからと、いつものらりくらりの宿題をハイスピードで仕上げていました。私はレッスン中で、レッスンの合間にリビングに入ると、息子は水晶と一緒に寝ていました。私が、『寝てるの?』と声をかけると、『ううん』水晶を感じていた様子。『おかあさん、水晶祭りのこの水晶の写真見せて』と言うので、水晶祭りページを開いてやると、『やっぱり実物がもっときれい~~♪♪』と、超満足そうでした。『こうやって寝ててもね、こっちから(水晶から)来るの。(エネルギーが)』と、言っていました。私も、『さわってもいい?」』と聞いて、さわって、感じさせてもらいました。クラスターは繊細で、ヘリオドールは、こんなきれいな石があるのねえと、感心の美しさ・・・なんだか、この世の石ではないみたい。どこか、違う次元からこの三次元へ物質化してきたような・・・そんな感じさえするほど・・・kimiさんがメールで、『ヘリオドールのように内から輝いている』 とおっしゃっていたので、『きれいな光、やさしくて、やわらかくて、慈しむような・・・そして真っ直ぐにこちらに浸透してくる叡智のエネルギー、kimiさんって、こんな感じなのかしら・・・』と思いながら、石の輝きを、石を感じていました。息子が寝た後も石を感じていて・・・それで、あくる朝。研修があったので、研修会場まで30分ほどドライブの必要があったのですが、いつもと、見える景色が違うのです。全然。もちろん、走っている道は、いつもと同じ。走り慣れた道。それなのに、青い空が、白い雲が、いつもと同じ木々が、建物が、人が、国道を走り交う車までも、何か、すべてのものの元素が変化したのかと思うほど、知っているものなのに、初めてのものでした。空間が、あきらかに違うのです。あまりのすべてのものの光に、私は静かな興奮を覚えながら車を走らせていました。『事故をおこさないようにしなくては』かろうじて、その意識が保たれていました。見える景色の色の美しさも、今までとは全く別次元のように思いました。一夜で視力がよくなったのかと思えるほど、あざやかさに満ちていて、すべてがキラキラと光っていて・・・でも、そのキラキラと光っているのは、三次元の視覚で捉えられるものではなく、私の中の、違う次元の目が捉えていたものでした。あまりの目に入るものの美しさにただただ感動、驚嘆という感じだったのですが、そんな中、『これは、昨日の水晶のエネルギーが私に浸透しているからではないだろうか』と、美しさに感動する中、思いました。それと、そればかりのことではなく、kimiさんが、『ヘリオドールのように内から輝いている』 とおっしゃられたその言葉が、あのヘリオドール自体のエネルギーを感じると共に、そのkimiさんのエネルギーも、私なりにですが、感じたのではないか、それが私の内の何かの変化に一緒に作用してきたのではないかとも思いました。今日も、同じように、すべての物質の質感が美しいです。感動です。その感覚は、でも、とてもとても言葉では表現できないです。何て言えば、最もこの感覚を表現できる言葉があるだろうと、どんなに思い巡らせてみても、とても、あるものではありません。う~ん、伝えたいなあと、この感じを、kimiさんにというのではなく(きっとkimiさんは、私の言いたいことは言葉の向こう、エネルギー状態で感じてくださると思うので・・・ ←お願いします)、周りの人達に、何か、何か、大切なもののような気がして、伝えたいなあと、思うのです。でも、とても伝えられません。そんなことを考えていたら、以前に見た夢の映像が、ふと浮かんできました。あまりに感動的に美しい夢で、日記のコメント欄にも、その時の夢のビジョンを書いたことがあるのですが、そうだ、あの夢の感覚に似ているかしらと思いました。『その時の私は、私という個の目ではなく、なにか、大きな大きな意識で、その夢の光景を見て、感じていました。その光景や、人々や、その世界のエネルギーと、私は分離していなかったのです。そして、どのような個々の色彩も、様々な人のいのちも、何か大きなものに抱かれて、ひとつのいのちとして在るのだという感覚を内なる静けさが感じ、包み込まれる愛に同化していく感覚を覚えました。』こんなふうに書きました。そうそう、こんな感じに似ていると思いました。目に映る景色、感じるもの、触れるものが、三次元の個としての私ではなくて、そこを超えた私の意識、個にフォーカスしていない私の意識が、見て感じている、それを、個の私が、同時に感じている・・・言葉にすると、そんな感じかもしれません。とにかく、すべてがキラキラと光っていて、美しいのです。いのちの輝きでしょうか。それを、私の肉体の五感ではなく、私の意識の五感で、感じ、そして肉体の五感に降ろされてきます。息子に来てくれた水晶ですが、同時に私にも大いなるサポートをしてくれて、感動の極みです。あの、揺れ揺れ水晶ちゃんがもし私のところに来ていたら・・・私は、当然そちらを感じることに意識がいき、ヘリオドールクラスターをそこまで感じきれなかったことでしょう。自分に必要な、ベストなことが起きるのですね。今回のことで、あらためて、そのことも強く思い、感じました。私の感動と意識の変化は、とてもこの文面で表せるものではありませんが、少しでも少しでもお伝えしたく、長々と打ってしまいました。読んでいただき、ありがとうございました。」これは、ヘリオドールクラスターが、小学生の息子さんに届いた方からのメールです。ご本人も別の水晶をリクエストされましたが、そちらは抽選に外れてしまいました。なかなか望み通りにはならない水晶祭りですが、必要なものは届くようですね。それにしても、見える世界が違ってくるとは・・・意識が変われば、見える世界も違ってきます。自分の意識を通して外側を見ているだけですから。自分というフィルターを通って外の情報はやって来ます。フィルターが変われば、当然見え方も変わってきます。三次元の肉眼で見るのと、それ以上の次元で見るのとでは、美しさがまるで違います。存在感そのものが、異なります。一つ一つが生きているのですね。個々にいのちが宿っている輝きがあるのです。それは、三次元的にはモノクロとカラーぐらいの違いがあります。美しさの次元が違うのです。そういう多次元の美しさを肉体の目で見られるとは、すばらしいですね。普通は、肉体を出ないと見れませんから。意識レベルが上がっているということでしょう。ヘリオドール効果ですね。ヘリオドールと言うのは、水晶ではありません。エメラルドやアクアマリンと同質のものです。色が黄色いものをヘリオドールと呼びます。今回のヘリオドールは、結晶が溶解したものです。でも、その溶解の状態が、とても美しかったのです。なかなか見られないレベルのヘリオドールでした。以前に、この方からメールをもらいました。その内容は、自分の浄化度は40パーセントという夢を見たけれども・・・本当でしょうかというものでした。彼女をよーく感じてみると・・・確かに40パーセントぐらいは、きれいになっていました。しかも、極めてきれいです。残り60パーセントはまだですが、40パーセントについては澄みきっていました。そこで、他の知り合いも見てみました。すると、その人の場合は、65パーセントぐらいがきれいになっていました。ところが、完璧なクリアーさではありません。以前よりもきれいという程度です。全体的に灰色っぽい雲がかかっています。しかし、時が来れば一気にクリアーになる感じです。今は見かけ上は、以前と全然変わりません。しかし、深いところで着実に浄化されています。それが明確に感じられました。人それぞれ浄化のパターンも異なるようです。それでは、自分の浄化度は?二年前には浄化度75パーセントと書いていたと、最初の人からのメールに書かれていました。そこで、自分自身を感じてみると・・・意外なことに、既に浄化という段階ではありませんでした。自分のなかが全体的に輝いている感じでした。そこで、『ヘリオドールのように内から輝いている』 というメールになったのです。浄化度自体は、既に97パーセント以上という感じでしょうか。わずかに周辺が少し暗い程度です。本体は、基本的に明るくなっています。内から光が湧いてきています。まさにヘリオドールのような黄金色の光です。速いですね。ものすごく加速しています。自分だけでなく、周りの人たちも急速にきれいになっています。時代が、加速しているようです。もうまっしぐらにアセンションへ向かっている感じです。明らかに意識が変容してきました。三次元的ではなくなりつつあります。別の次元へ移行しているようです。三次元的な喜怒哀楽から離れつつあります。三次元が、遠くなっています。意識は、更にクリアーになってきています。意識が、後頭部の方に固定された感じです。日常生活が、ほとんど瞑想状態になりつつあります。三次元的な生活も理解できるのですが、遠いですね。もう後戻りはできないでしょう。このままアセンションしていくのでしょう。意識が変わること。意識がクリアーになること。意識が純化されること。それがアセンションです。物理的な変化は、付随的なものです。意識が、すべてです。意識が変わらないことには、アセンション待ちをしても何も意味はないでしょう。ただ待ちぼうけをくうだけです。やはり、自分を見つめることですね。自分を見守りながら、理解すること。そのなかで、表面意識が浄化され、見守る意識が育っていきます。大きな大きな意識になっていくのですね。大きな意識とは、元々自分にあるものです。ところが、表面意識だけで生きているとわからなくなるのですね。深く静かに生きないと、大きな意識とは繋がれません。それは、魂の意識であり神の意識です。それは、元々自分のなかにあります。表面意識が理解され、浄化されるにつれて、そういうものと繋がっていきます。自分自身が、どんどん広がっていくのです。すべてが繋がっていくのです。窓の外を見ると、青空が広がってきました。意識も、同じような感じでしょうか。重たかった雲が消え、青空が広がっていくのです。どこまでも続く青空が・・・『青空の 先は無限に 広がって 宇宙果てなし 意識果てなし』これが日記を書き始めて1420日目の心境です。* 間違っても「自分の浄化度はどの程度ですか」というような質問はしないでくださいね。 こちらは、霊能者ではありませんので。 たまたまよく知っている人=過去世から縁の深い人の状態がわかっただけですから。
2008.11.21
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今日は、急に知り合いのガイドから連絡があり・・・新しくオープンするホテルのレセプションに行って来た。ところが・・・やはり・・・なんとも場違いな感じがした。そこには、屋久島のお偉いさんたちが、たくさん来ていた。そういう意味では、屋久島のことをより知ることができた。しかし、こちらは完全に部外者だった。今年の六月に、突然、ホテルあかつきが閉鎖された。それから、ほぼ半年。新しい経営グループによって、名前も変えて新規オープンとなった。そのお披露目パーティだった。こちらは、ガイドの打ち合わせ会かと思っていた。行ってみると、みんな正装していた。ほとんどの人が、黒のスーツ姿。こちらは、普段着。しかも、いつものように野球帽を被っている。ハー、目立つこと。町長や観光協会長なども来ていた。実物は、初めて見る人ばかり。新しくホテルを引き受けた経営グループの社長は、若い人だった。四十代前半だろうか。彼は、十数軒のホテルチェーンを経営しているらしい。ホテルの副支配人は、とてもきれいな女性だった。胸と背中が大きく割れたドレスを着ていた。目の保養になった。屋久島では、まずお目にかかることはない。そう言えば、東京でもそのような機会は・・・来賓の挨拶の後、立食パーティ。何人かの知り合いのガイドが来ていた。それで救われたようなもの。そうでなかったら、時間を持て余してしまう。ホテルの部屋も見せてもらった。インドのマハラジャが寝るようなベッドもあった。設備は、豪華。しかし・・・自宅の方が、何倍もいいと思った。と言うのは・・・ホテルの窓からは、近くの部屋が見えた。あまりにも近すぎる。今住んでいるところは、外から見ればプレハブみたいなところ。大家さんに言わせれば、これでもコテージ。しかし、実際、鉄骨造りのプレハブ。でも、でも・・・ここから見える景色は、最高。山も海も滝もある。その上、天上には、満天の星々。周りは、広々とした野原が広がっている。貧しいながらも楽しい我が家?ここが、一番!最近は、かなり気に入り度がアップしている。風が強いので、気が滞ることがない。いつも新鮮な気が満ちている。自然のなかにあるという感じ。しかも、月の家賃は、ホテルの一日分ぐらい。これで十分満足。それにしても、もう世俗の方たちとは、あまり付き合いができそうにない。ギラギラ感がなくなりつつある。きれいな女性を見れば、楽しくはあるが・・・でも、住む世界が違う感じ。今日来ていた人たちとは、ほとんど別世界に住んでいる感じがした。別に悪い人たちではない。田舎の人たちなので、人間性はいい。でも、普通の人たち。平均的な日本人より、少し前の世代だろうか。自分が子供の頃の田舎の人たちという感じ。昔懐かしい感じ。でも、旧世代。もちろん、例外もある。若い人も来ていた。それぞれ個人差もある。一概には言えない。でも、やはり何かが違う。一世代前の感覚。もう忘れ去られようとしている浪花節や演歌の世界。そんな感じがした。もっとも、ホテルの経営グループの人たちは、新しい感覚だった。それでも、生きる世界が違うという感じ。もろにビジネスという感じ。こちらも仕事には違いないのだが・・・サービス業という自覚は、まったくない。お客様という意識すら、あまり定かではない。ほとんど友達?あるいは、知り合い?ほとんどの方は、HPや日記を見てガイドを依頼される。だから、話が速い。ビジネスや金儲けではない。ただ静かに屋久島を案内すればいいだけ。これから、意識は、ますます世俗を離れていくだろう。ほとんど別世界に住んでいる感じがする。世間は、遠い。関わっているけれども、表面でわずかに関わっているだけ。芯(真)のところでは、まったく関わっていない。世俗とは、別のところで生きている。そういう感じが、ますます強くなっている。世俗と関わってはいるけれども、深くは関わっていない。アセンションとは、そういうことなのかもしれない。世俗のなかにあって、世俗とは別の世界で生きる。意識は、澄み渡りつつある。もう世俗のゴタゴタのなかにはいない。そういうものは、どこか遠くの世界という感じ。自分とは、直接的には関わりのない世界。別々の世界で同時に生きる感じ。だんだん交流ができなくなっている。だから、人のいないところをガイドしたがるのだろうか。人がいっぱいいるメジャーなところをガイドしたいとは思わない。世俗の喧騒には出会いたくないという感じ。静かな自然のなかにいたい。静けさを求める人が、ガイドを依頼すればいい。賑(にぎ)やかなところがいい人は、他にガイドはいくらでもいる。静かな森に静かに浸りたい人と一緒に森歩きをしたい。そんなにたくさんでなくていい。食べていける程度のお客さんが来てくれればいい。特にほしいものもない。もう物質世界に、それほど未練はない。淡々と生きていくということだろうか。森は、いい。自然は、いい。自然のなかで、自然と共にいたい。静かに自然と共に暮らしたい。「ギラギラも 枯れてサラサラ 秋の風」『身は世俗 心世俗に 既になく 世俗見守り 世俗を生きる』『澄み渡る 意識世俗を 突き抜けて 世俗を超えて 世俗に生きる』『淡々と 生きる意識は 静けさに 虫の音響く 秋の屋久島』これが日記を書き始めて1414日目の心境。
2008.11.15
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「1409日目 - いじめ(1)」の続き愛が足りない。それが、根底にあることです。しかし、それも自己保存の本能をベースに生きる社会では、やむを得ないことかもしれません。自己中心的に生きる競争社会なのですから。その競争社会で、子供を守ってあげるのが家族の役割です。ところが、その家族から十分に守ってもらえない子もたくさんいます。そういう子が、いじめをしたりします。いじめた子を憎んでも始まらないのです。仕返しや復讐は、何も肯定的なものを生み出すことはありません。否定の連鎖であり、否定の増幅です。それでは、ますます生きにくくなるだけです。愛は遠ざかり、不幸が近寄って来ます。まずは、自分自身の愛されたい、認められたいという気持ちを十二分にわかってあげることです。そして、同じような気持ちを持っていて満たされなかった、いじめた方の気持ちもわかってあげることです。双方の気持ちをわかってあげることですね。そして、心から抱きしめてあげることですよ。それだけが、肯定的な結果をもたらします。愛を増幅させます。淋しさを満たし、心を幸せにします。自他が肯定されることによって、心は満ち足りるのです。自分だけを抱きしめても、悔しさや憎しみは消えません。相手も抱きしめてあげることです。そうすれば、悔しさや憎しみは愛に変わっていきます。足りなかった愛が、満たされていくのです。愛されたい、認められたい。その思いは、大人になっても持続しています。それが、恋人を求めたり、結婚に走らせます。しかし・・・お互いが愛されたいだけでは、長続きはしません。愛することを学ばないと、愛されたいだけでは子供のままです。愛されたいだけでは、幸せになることはできません。幸せとは、愛することなのですから。しかも、その愛は、お仕着せの愛ではありません。愛の見返りがないと、すぐに憎しみに変わるような愛ではありません。ただ愛するだけの愛です。無条件の愛です。それだけが、人を幸せにします。愛することでしか、人は真に幸せになることはできません。ただ愛するだけです。その時に、人は真に幸せになれるのです。その愛だけの状態になるには、自分自身を理解することです。自分自身の理解がなければ、他の人を真に理解することもできません。他の人を真に理解することがなければ、人間関係はうまくいきません。結局、すべては、自分自身をよくわかっていないということに帰着するのです。いじめに対して、仕返しや復讐をしても、否定が増幅されるだけです。それでは、いじめた方と同質のことをやっているだけです。否定に対しては、絶対肯定で対処するしかないのです。マイナスにマイナスで対応したら、更にマイナスになるだけです。愛は、全肯定です。全肯定とは、その存在を認め、見守り、育むことです。子育てと同じですね。それが、人に接する基本的スタンスです。愛のスタンスですね。みんながそのようなスタンスで生きれば、いじめや犯罪はなくなるでしょう。これからは、そういう方向で生きることになるでしょう。そうでない限り、人類の未来はないのですから。自他を理解することですね。そして、子育てのように人に接することですよ。あたたかい眼差しで、やさしく見守ることです。それが、自分を含めたすべての人が幸せになる道ですから・・・『好きな子に 自分認めて ほしいから 気を引くために 悪戯(いたずら)をする』『存在を 認めてほしい 欲求が 積もり積もって いじめに走る』『いじめる子 いじめられる子 お互いに 相手認めて いない現実』『否定する 雰囲気感じ 認めさす ためにいじめを 繰り返す子等』『存在を 否定されれば 誰だって ムッとくるもの 反発するもの』『存在を 否定されれば 人はみな 反発しながら 自分を守る』『存在を 肯定しないと 問題は いつになっても 解決しない』『復讐や 憎しみ恨み 仕返しは 否定するだけ 暗くなるだけ』『肯定が 最初の最初に すべきこと 相手認めて じっくりつき合う』『存在を 認めてじっくり つき合えば 人間関係 うまくいくもの』『子育ての つもりで人に 接すれば 些細なことで 怒ることなし』『愛だけが すべての人を 活かす道 全肯定が すべてを生かす』『愛流る 人になるには 自らを 理解すること 自我の塊(かたまり)』『自我こそが 愛の流れを 堰き止める 愛を自分の ものにしたくて』『愛は愛 誰のものにも ならぬもの 愛の所有は 執着となる』『理解こそ 愛が流れる 消化剤 自我を解かして 抵抗を消す』『愛だけが 人の世救う 救世主 全肯定が すべてを救う』これが日記を書き始めて1410日目の心境です。
2008.11.11
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かなり以前に、次のようなコメントがありました。「>今、今、今です。 >今、始めることですね。 >今、生き直すことですよ。 >今、切り換えることです。でも、『よしっ!』と決意したそのすぐそばからネガティブパターンが顔を出しました。 顔を出すというよりフラッシュバックという感じでしょうか。その一つにいじめられたという記憶があります。その記憶とともに、どうしてあの時すぐに仕返しできなかったのかという後悔やら相手に対する憎悪やら、今できる復讐の方法は何かとかいった妄念やらがどっと湧いてきます。はい、これこそ過去に振り回されてるネガティブパターンです。わかってます(ただし理屈の上でだけ)。でも、暴力を受けた場合でも、事実ベースで言えば傷ついたのは肉体だけということなのでしょうか。悔しいとか相手が憎いというのは実体のない自己イメージが傷ついたに過ぎないということなのでしょうか。過去を『手放す』と言われても、なんだか『見て見ぬふり』をしているような感じもします。過去を清算するには、やはり復讐、仕返しをするしかない?(さすがにそうではないと感じてはいるのですが。。。)『自分の傷を直視』せず『傷の中身を理解』しないで過去を手放そうとしているから、まさに『見て見ぬふり』となるのでしょうか。犯罪被害に遭われた方や虐待を受けた方でも前向きに生きていらっしゃる方は大勢いらっしゃると思います。自分の受けた暴力など事実ベースではたわいのないものです(大けがでもなければ後遺症とかもありません)。暴力を受けた『記憶』を後生大事に持ち続けるのは愚かしいと理解しているのですが、フラッシュバックするということはまだまだ表面的な理解に過ぎず、その愚かさを見極めきれていないのでしょうね。」仕返し、憎悪、復讐、悔しい、憎い・・・まるでサスペンスドラマのような言葉が並んでいますね。今もテレビや映画では、サスペンスが大流行(はや)りです。人は、サスペンスが好きなのでしょうか。人は、なぜ仕返しや復讐をしたがるのでしょう。人は、なぜ悔しいとか憎いとか思うのでしょうか。そういうことを正面から検討することは、あまりありません。すべて当たり前のこととして過ごしています。しかし、よく考えてみると、どうして悔しいのか、なぜ憎くなるのか・・・ほとんどオートマチックにそうなっているだけです。自動的にそのように反応しているのですね。そして、それを疑問に思うことすらありません。悔しいとは、どういうことでしょうか。普通は、自分の望むようにならないと、悔しいという感情になります。欲しかったものが、他の人に買われてしまったとか。一番になるつもりが、ビリになってしまったとか。いじめの場合は、どうでしょうか。本当は大事に扱ってほしかったのでしょうか。そんなに冷たく扱ってほしくなかったのでしょうか。無視されたり、存在を否定されて悔しいということでしょうか。本当は・・・本当は、存在を認めてほしかったのですね。大切に扱ってほしかったのです。にもかかわらず、存在を否定されてしまったということでしょうか。では、憎しみは、どうでしょうか。どんな時に憎しみの感情が沸いてくるでしょうか。いろんなケースで憎しみの感情は沸いてきそうですが・・・基本的には、やはり自分が認められなかった時でしょうか。憎しみの根底にあるのは、自分の存在が無視されたり否定されたということでしょうか。ところが・・・これは事実ベースではありません。実際に無視されたり否定されたりしてなくても、自分がそう思えば憎しみの感情は沸いてきます。感情は、思い込みベースです。事実と関わりなく、そのように思いさえすれば感情は沸いてきます。思うことが、感情を沸き立たせるのです。自分が無視されたり否定されたと思う時、悔しいとか憎いとかの感情が沸いてきます。それは、やはり自分を認めてほしいからでしょうか。それが自分の安全に繋がるからでしょうか。元を辿れば、やはり自己保存の本能に行き着くのでしょうか。自分の存在が無視されたり否定されることは、自己の生存にとっては脅威です。認めてもらう方が、居心地がいいのですね。安全であり安心です。自分の存在が否定される時、悔しさや憎しみが沸いてきます。そして、仕返しや復讐となっていきます。しかし、いくら仕返しや復讐をしても・・・自分の存在を認めてもらえるわけではありません。逆に、更に否定の思いを強めてしまいます。逆効果以外の何ものでもありません。にもかかわらず、仕返しや復讐をしたがります。それで自分の気が済むのでしょうか。スッキリする?実際は、淋しくなるだけなのですが・・・認めてほしい。自分の存在を肯定してほしい。それは、とても根強いものがあります。ほとんど本能と言ってもいいぐらいです。それを否定される時、悔しさや憎しみ、怒りや恨みなどの感情が沸いてきます。その根底にあるのは、自己の存在を肯定してほしいという願いです。それは、愛の渇望とも言えます。愛とは、全肯定ですから。ところが、実は、いじめをした方も愛に飢えているのです。愛が満たされない気持ちを、いじめによって発散しているのかもしれません。それは、両親や周りにいる人たちの愛の欠如です。子供たちに十分な愛が行き届いていないのです。自己肯定が十分でないので、いじめをするのでしょうか。いじめることによって、相手から認められたいのでしょうか。自分を真に認めている相手には、いじめはしないでしょう。潜在的に否定している相手に対して、いじめをするのではないでしょうか。いじめる方も、いじめられる方も、認められたいというのが根底にあるのではないでしょうか。自己の存在を認めてほしいのですね。自己肯定を求めているのです。それが認められない時に、いじめや憎しみが生まれるのではないでしょうか。過去の忌まわしい記憶を手放すには、やはり理解することでしょう。自分を理解し、相手を理解する。自他の状況を共に理解する。それが、記憶からの自由に繋がります。悔しさや憎しみという感情は、子供の頃にたくさん体験します。ところが、大人になっても、その感情を持ち続けている人のなんと多いことでしょう。ほとんどの人が、子供時代と変わりません。ただ子供のように表面に出さないだけです。人は、大人になっても基本的には子供時代と変わりません。感情や思考が理解されない限り、子供時代のままです。見かけだけが大きくなった子供です。根本的には、何も変わっていません。忌まわしい記憶のフラッシュパックがあるというのは、解放のプロセスとも言えます。そうやって、心の傷は自然に回復していきます。それは、体の傷と同じです。ただ体と違うのは、出て来た時に痛みが伴うことです。それを嫌がって、更に記憶を強化するという悪循環にはまってしまう人もいます。いやだ、いやだ、いやだ・・・・それは、嫌な記憶を更に強化してしまいます。嫌なことの中身の理解がない限り、嫌なものから解放されることはありません。自分を認めてほしいということは、自分を愛してほしいということです。それは、幼児にとっては切実です。愛されなければ、存在することができません。自己の存在を認めてもらえなければ、生きていくことができないのです。愛されたい。それは、自然なことです。その愛を満たしてあげるのは、親の役割です。その愛が十分に行き届いていれば、いじめる子はいないでしょう。自己の存在を十分に認めてもらえなかった心の傷が、自分を認めていない子へ向かいます。それは、いじめられる方の悔しさや憎しみと同質のものではないでしょうか。あるいは、大切にされている子を見ると、妬みが沸いてきたりもします。本当は、自分もあのように大切にされたかったのです。「1410日目 - いじめ(2)」に続く
2008.11.10
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昨日は、久しぶりに快晴だった。暖かかったので、水晶の浄化に行った。今度の射手座の水晶祭りに出るものと、新しく届いたもの。だいぶ溜まっていたので、90個ほどになった。海は、波がほとんどなかった。美しく澄み、まったく冷たくなかった。いつもより長い時間、海中に沈めた。そのまま置いていても大丈夫だった。いつもは波にさらわれるので、水晶を入れたザルを手で持っている。海での浄化は、速めに済ますことが多い。しかし、今日は、とても波が穏やか。海のなかが気持ちよく、ゆっくり浄化する。川は、冷たかった。どちらかというと、海の方が美しかった。川の石には小さな苔がたくさん付着しており、歩くと水が濁った。海は、そんなことはなかった。しかし、川は流れがあるので、しばらくすると澄んでくる。澄んだところで、水晶を水に浸ける。しばらくしてから、一個一個、丹念に手で洗う。数がたくさんあるので、かなり時間がかかる。それでも、直射日光が当たっているので、そんなに寒くはない。寒くないどころか、むしろ暑いくらい。いや、ちょうどいいだろうか。こちらの服装は・・・Tシャツに半ズボン。真夏と変わらない。水晶を浄化する際は、どうしても水のなかに入る必要がある。そのため、半ズボンの方が都合がいい。それにしても、良い天気。雲一つなく、青々と晴れ渡っている。前方には海が広がり、後方には山がそびえている。空気は、とびきりさわやか。誰もいないので、のんびり浄化。水晶だけでなく、人間も浄化される。なんとなく・・・まるでアセンションした後のような感じ。何も問題はない。心地よい気候。美しい風景。澄んだ空気。好きな水晶を、清らかな水で浄化している。水のなかの水晶は、一段と美しい。透明な水が、すべてを洗い流してくれる。ゆったりと自然に包まれて暮らしている。アセンションしたら、同じような暮らしが続くのだろうか。この暮らしが特別に変わるとも思えない。別にこのままで何も問題はない。水晶を見て、日記を書く・・・すばらしい自然に囲まれている。山や海で遊べる。温泉にも入れる。夜になれば、満天の星が輝く。最高の自然環境のなかにいる。これだけの自然環境は、世界中を探しても、そうそうあるものではない。そのなかで、自然と共に暮らしている。水晶もたくさんある。必要なものは、ネットでほとんど揃う。他に何がいるだろうか。最近は、ノラネコもいる。付きまとってうるさいが、可愛くもある。別にアセンションしなくても、このままで十分。何も問題はない。少なくとも自分の周りは・・・屋久島では。しかし、世界を見渡せば、問題が山積している。幸せに暮らしている人の方が、圧倒的に少ない。悩み苦しんでいる人の、なんと多いことだろう。とてもハッピーな地球とは言い難い。このままで地球がアセンションするなどということは、あり得ない。変化が、必要。人の意識が変わらないことには、人類の未来はない。人の意識が変わるために、いろいろ変化が起き始めている。金融システムが、崩壊しつつある。古い体制は、崩壊するしかない。利益至上主義は、もう限界。これ以上は、立ち行かなくなりつつある。まったく新しいシステムが必要。利益を餌に活動するのではなく、もっと別の動機で行動する必要がある。それは、何か。何が新しい原動力となるのだろうか。それは、やはり愛だろうか。愛をベースにした社会になっていくのだろうか。他に思いつかない。他に原動力になりそうなものは見当たらない。愛をベースにした社会であれば、基本的に問題は起きないだろう。たとえ問題が起きても、解決できるはずだ。自分の利益ではなく、みんなのためを考えればいいのだから。かなりシンプルに生きられる。但し、その愛が人の心のなかから自然に湧き出すようにするのは、そんなに簡単なことではない。現状では、夢のまた夢。それほど、今の人類は自己本位。自分勝手にバラバラに生きている。個として、全体から分離した状態で生きている。これでは、愛が自然に湧き出すのは難しい。個別の愛はある。特定の人だけには、愛を注げる。しかし、その愛は、無償の愛ではない。ほとんどが、条件つきの愛。見返りを求める愛。見返りがないと、愛は憎しみに転化する。愛する者が自分の思うようにならないと、愛は容易に憎しみとなる。可愛さ余って憎さ百倍!それが、現実。今あるのは、無条件の愛ではなく条件つきの愛。それは、愛着に繋がる愛憎の愛。愛着は、執着であり、苦しみを生む。愛と愛情は、異なる。情が入ると、個人的な愛になってしまう。純粋な愛が自分のなかから自然に湧き出すには?どうしたらいいのだろうか。実は、直接的には何もできない。愛を出そうとする行為は、愛を否定すること。愛は、出そうとして出せるものではない。愛は、自然に湧いてくるもの。悲しみを見て、慈しみが自然に湧くように・・・愛は、自然に湧き出すもの。では、どうすることもできないのだろうか。何もできず、ただ手をこまねいているしかないのだろうか。もしそうなら、救いはないかもしれない。あるいは、救世主を待つしかないのかもしれない。しかし、もうキリストは現れない。救世主の時代は、終わってしまった。一人一人が、救世主になるしかない。一人一人が、まず自分の救世主になること・・・それが、周りの人を救う。周りにいる人は、自然に感化される。何もしなくても、一人が真に変われば、それが自然に伝播していく。愛は、自然に広がる。作為は、いらない。作為のある愛は、愛ではない。愛は、無作為。自然にあふれ出るもの。やはり、自分を理解することだろうか。自我を理解し、自我を超えることだろうか。自我が理解されクリアーになる時、愛は自然に湧いてくるのではないだろうか。愛は、どこにでもあるものだから。ただ、自我が、その湧出を阻害している。ハートの奥には、今も愛がある。誰のなかにも愛はある。愛のない人など、一人もいない。人は、愛によってできている。生きていること自体が、愛の結晶。愛が、すべてを存在させている。愛が、すべてに浸透している。ただ、それがあふれ出すのを押し留めているものがある。それは、自我我欲。あるいは、恐れ。そして、疑い・・・自分のなかの過去の経験が、愛の発露を塞いでいる。過去の恐怖体験が、気力を萎えさせる。愛を表現する勇気が生まれない。喉まで出かかって、思考に邪魔され、愛はUターンしてしまう。素直にスーッと愛が表現できたら・・・どんなにすばらしいだろう。自分のなかを、ただ愛が通り過ぎるだけ。自分の色の付いていない愛が・・・無償の愛。条件つきではない愛。無差別の愛。ただ流れ出るだけの愛。そういう愛をベースにした社会が、新しい時代。すべてが愛から出た行為であれば、何も問題はない。そういう時代が、これからの時代。今とは、明らかに懸け離れている。そういう時代が、来るのだろうか。今の時点では、夢物語としか思えない。しかし、そういう時代にならない限り、真の幸せがないのも事実。人類が救われるためには、そういう時代が必要であるのは明らか。確かなことは、そういう方向に時代は流れているということ。利益誘導から、愛の時代へ。愛が、すべてを誘導する時代へ。静かに時代は、変わっている。『これまでは 利益誘導 自我社会 愛をベースに 新たな時代』『愛が出る ためには自我を 理解して スッキリさわやか 抵抗排除』『ただ愛が 自分のなかを 通り抜け あふれ出すだけ 必要な時』これが日記を書き始めて1405日目の心境。
2008.11.06
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最近、次のようなコメントがありました。「まだ劣等感の日々です。事実を見れば、判断せざるを得ない。評価を受けざるを得ない・・・。気が利かない。愚図だ。要領が悪い。段取りが悪い。得意なものがない・・・私が頑張っていると思うことにさえ、好意的評価もない。ポイントがずれているのか・・・私自身はそんな自分も認めてあげたい。けれど、私は雇われの身。判断され、評価される身の上。相性というものもあるだろうけれど、否定的な空気の中で、私は事実の上に、更に思い込みを背負って、どんどん自滅していく。泥沼にひとり打ち沈んでいく・・・。泥沼から顔を出そうと、どうもがいてみても・・・私がそんな自分自身を認めてあげようとしても・・・周りはそんな私を認めていない。私は、自滅していく悪循環の渦のただなかにいる。そういう自分を見守りつつも、救ってあげる事は出来ずにいる。逃げ出すか?自分に鞭打つか?コッテ牛の鈍重な私がお門違いの角を前に突き出し、闇雲に周りの否定からわが身を守ろうとする・・・無力な鎧兜のドンキホーテの滑稽さを、涙しながら見守っているしかない・・・この泥沼から這い出る方法すら見えないうえに、愛や、慈しみの通り道には程遠い。劣等感でパンパンに詰まりきった私の心の整理整頓も手付かずのまま・・・・日記から届けられる愛や慈しみのエネルギーが、私の傍をすり抜けて行くような気がします。ただ、こんなコメントでも、書かせていただけた分、詰まりきった心に、小さな自分への癒しの風を吹き込めるような隙間が出来たように思います。ありがとうございます。」獅子座生まれで住み込みのお手伝いさんは、なかなか大変でしょう。どちらかというと、逆の立場の方が獅子座には向いています。つまり、人を使う方が。獅子座は、王様や女王様の星。面倒見がよくて、親分肌。周りの人には、とても親切。但し、よけいなお節介も多い。まあ、何事も親切心から出たことではありますが・・・逆境にある時は、修行と思い定めるしかありません。自我に気づき、自我をクリアーにする修行です。それは、土星と似ています。土星は、一般的には嫌われものですが・・・土星は、抑圧の星であり制限の星です。自由にのびやかに生きようとするのを阻みます。そのため、土星が自分の生れた時の太陽にかかってくると何事も思うようにいきません。 その結果、土星は悪者にされがちです。逆に木星が自分の太陽にやって来ると、何事もうまくいきます。木星は、開運、発展の星として歓迎されます。人のなかに眠っていた潜在的な可能性を開いてくれるからです。木星は誰からも喜ばれます。しかし・・・いつもいつも木星が一緒にいたら、どうなるでしょうか。人は、天狗にならないでしょうか。自分は何でも望むようになると思い込むに違いありません。態度は横柄になり、周りに自慢し、威張り散らすでしょう。謙虚さの欠片(かけら)もなくなってしまいます。それでは、周りとのトラブルが続出します。我が世の春は、長くは続きません。そういう時に、土星が回って来ます。増長し世間を見下している人にとって、土星は脅威です。これまでと打って変わって、やること為すことうまくいきません。何をやっても裏目に出るばかりです。そこで、人は考えます。なぜだ?どうしてこんなにうまくいかないのだ!やがて、静かに自分を振り返ることになります。そして、やっと気づくのです。これまでの自分の態度に。自分さえよければいいという身勝手さに。そこから、また新しい人生が開けます。土星は、制限の星です。しかし、それは何の意味もない抑圧ではありません。本人に気づかせるための薬です。自我の肥大化に気づくチャンスなのです。土星の内側が、自我です。土星を超えると、自我の外に出ます。土星とは自我の象徴であり、自我を超えるゲートでもあります。実は、土星こそが自我を超えるキーになるのです。木星が巡って来ることによって、いくら発展しても・・・所詮、自我の範囲内です。自我として成功するだけのことです。土星の切磋琢磨には、遠く及びません。土星の厳しさは、父性の厳しさです。峻厳とも言えます。しかし、それは愛をバックにした厳しさなのです。自我を超えるための試練です。土星が巡って来た時は、自我を理解するチャンスです。外に向かうのではなく、内に向かう時です。自分自身を見つめ、自分を振り返る時です。活動の時ではなく、静かに内省する時なのです。自我は、あちこちにぶつかります。ぶつかった時は、自我を理解するチャンスです。自我とは、所詮、自分勝手です。自己本位でない自我など存在しません。相手の気持ちを思いやっているように見えても、実は心の奥で計算が働いていたりします。自我とは、自己中心的なものです。自己保存が、最大の命題ですから。自己保存の権化こそが、自我の本質なのです。そういう自我を理解しないことには、心やすらかに生きることはできません。自我は、肉体と共に成長することによってできたものです。肉体にとって自己保存の本能は、必要なものです。まず命を保持することが、肉体にとっては最大の課題です。それは、人にとっても必要なものです。しかし、思考は必要以上の安全を求めます。そのために、他者を支配しようとします。自分の安全のためには、他者を犠牲にすることすら厭いません。お互いがそれをやり出せば、争いが尽きることはありません。争いは恐怖を生み、恐怖は疑いを増幅させます。それが更なる争いを引き起こします。恐怖と争いの連鎖です。それは、戦争に限らず日常生活のなかでも見られることです。生活に困窮するのが怖くて、嫌な仕事を続けている人のなんと多いことでしょう。会社のために自分を殺し、環境を破壊し、公害を出し続けることさえあります。自己保存の本能が、必要以上に自分のなかで増殖してしまったのです。いつも恐怖と共に生きている人のなんと多いことでしょうか。自己の安全を第一に考えることが、恐怖を生み出します。思考は、恐怖を更に増幅します。そのメカニズムを理解しない限り、恐怖の連鎖から抜け出すことはできません。土星は、自我を理解するチャンスです。逆境は、自我に気づく絶好の機会です。周りが理解と思いやりのある人ばかりであれば、生きやすいでしょう。しかし、それでは気づくチャンスは少なくなります。周りが自分に厳しい時は、自分自身を見つめ直すチャンスなのです。何が問題なのか。どうして評価されないのか。何を求められているのか。そういうことを、もう一度冷静に検討してみることです。自分にできることと、できないこともあるでしょう。期待に添えないこともあるかもしれません。しかし、少なくとも何を期待されているのかを理解しておく必要はあります。相手を理解し、自分を理解する。それが、問題が起きた時の大原則です。逃げたければ、逃げ出すことも可能です。別のところでやり直すのも選択肢の一つではあります。しかし、問題が自分にある限り、どこへ行っても同じ問題が発生します。自分をクリアーにしない限り、根本的に解決することはありません。チャンスを活かすか、殺すか。今ここで踏みとどまるか、別天地を求めるか。それは、自分しだいです。まだエネルギーの余力があれば、踏みとどまればいいでしょう。真っ直ぐに今の問題に立ち向かうことです。自分自身を直視することです。しかし、常にそうでなければならないということでもありません。エネルギー的に限界であれば、しばらく休むことも可能です。また別の世界でやり直すこともできます。いろんな可能性があります。要は、冷静に対処することなのです。心が落ち着いていれば、たいていの問題は解決されます。心が不安定な時は、問題は更に複雑化します。まず自分自身にグランディングすることです。しっかり自分自身と一緒にいて、問題を直視することです。愚痴を言ったり、他の人のせいにして逃げないことです。それは、エネルギーのロスです。不満のはけ口とも言えますが、それでは直視するエネルギーが漏れてしまいます。 黙って自分自身を直視することです。言い訳をしないで。他人のせいにしないで。あくまで自分自身を理解することです。それが、土星が存在する意味です。土星とは、磨き石なのです。玉磨かずば光なし!昔からそのように言われています。世間という砥石に磨かれて、人は輝いていきます。理解の水によって、人はクリアーになっていくのです。肉体ベースから魂ベースへ変身するには、世間の冷たい風が必要なのです。土星は、大いなる愛をもって厳しく接してくれます。土星の厳しい愛に気づくことです。獅子は、可愛い我が子を谷底に落とします。父性の愛とは、そのようなものです。厳しくも深い愛もあるのです。その愛に応えられるかどうかということでしょう。その愛は、たぶんハイアーセルフや魂たちの愛でもあります。人をこの世に送り出した存在たちの深い愛です。祈るような気持ちで見守っているものたちの愛なのです。そういう存在たちと一緒に、この難局を超えられるでしょうか。超えていくしかないのですが・・・自我を超えていくのです。道は、他にはないのです。自我超えこそが、今回の課題です。つまり、アセンションの課題ということです。自我を理解し、自我を超えていく。それが、今の人類の課題なのです。『逆境は 自分に気づく またとない 機会であれば 自分見つめる』『逆境は 深く生きよの 天の声 自分見つめて 生き方を問う』『這(は)い上がれ! 獅子は我が子を 千尋(せんじん)の 谷に落として 姿見守る』『厳しさが 父性の愛の 接し方 やさしいだけでは 強さ生まれず』『厳しさの 冬は静かに 家(うち=内)にいて 自分自身を 振り返る時』『厳しさの 冬が過ぎれば 花の咲く 春が自(おの)ずと やって来るもの』『自我こそが 問題起こす 元の元 自我を理解し 問題解消』『自我という 関所を超えて アセンション 理解しないと 超えていけない』『自我超えが 時代の峠 新しい 時代を拓く 理解通して』『自我超えの キーになるのは 自らを 理解すること 自我の構造』『自我という 峠超えれば 新しい 世界が見える 楽に生きれる』『人類の 悲願(彼岸)は一つ 自我超えて 争いのない 世界を創る』『肉体も 思考も超えて 自我超えて 意識澄み切る 次元に生きる』『吹き荒れる 自我を超えれば 澄み渡る 意識広がる 静けさのなか』これが日記を書き始めて1404日目の心境です。
2008.11.05
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この三連休、屋久島には、たくさんの観光客が訪れている。駐車場では、多くの人を見かける。しかし、森に入れば、誰にも会わない。行き先が異なる。人がたくさんいるところには、行きたくない。静かな森に行きたい。屋久島へ来て、六年目。明らかに喧騒に対して拒絶反応が出ている。静かに生きたい。普段の生活も静か。派手なところは、何もない。質素に暮らしている。人は、肉体と共に生きている。肉体は、今生を生きる器。肉体だけでなく、人格もまた今生の器。意識の器。人格は、肉体の成長と共に形作られる。それは、今生限りのもの。過去世とは異なり、来世とも違う。今生限りのオリジナル。しかし、逆に言えば、生きている時にだけ有用なもの。死んでしまえば、また違ってくる。肉体は、明らかに死後は役に立たない。肉体は、地球にお返しするしかない。では、人格は?今の時代に地球でつくった人格は、いつまで役に立つだろうか。永久不滅?ではなさそう。最終的には、みんな分解する。肉体が、そうであるように。意識も、やがて分解する。分解して、意識の元に還る。残るのは、無色透明の意識。愛や光も残るだろうか。それ以外の部分は、やがて分解する。宇宙に戻る。魂に還れば、人格の必要のない部分は分解する。グループソウルになれば、魂の必要のない部分も分解する。その時に残っている人格の部分は、どのくらいだろうか。小さな人格の部分は、溶けてしまう。怒りや憎しみや恨みが、グループソウルレベルで残っているとは考えにくい。そういうものは、すべて消えていく。個人的な思い込みは、消滅する運命。大切なのは、理解。宇宙についての理解。それは、かなり後まで残っていく。宇宙の原理原則の理解は、魂にとってもグループソウルにとっても必要。人格部分の個人的な恨み辛みは、どうでもいいこと。それらは、すべて思い込み。イリュージョン。幻であり、幻想。思いが、固着しただけのもの。そういうものは、すべて分解していく。人間として生きている間につくってしまったもの。良いも悪いもないけれども、単なる思い込み。実体のあるものではない。そういうものをいくら持っていても、何の役にも立たない。役に立たないどころか、生きていくのに障害になるだけ。そういうレベルのものが、魂やグループソウル段階で役に立つことはない。ただ人間段階で、つくり出してしまったものに過ぎない。実は、人間として生きていく上でも、そういうものは役に立たない。役に立たないどころか、邪魔になる。思い込みがたくさんあると、それだけ抵抗や摩擦が増える。まるで逆風に向かって進んで行くようなもの。人格は、肉体の成長と共に形成される。どうしても肉体ベース、自己保存ベースになりやすい。自己中心的な人格が形成されることが多くなる。それは、ある意味、やむを得ない。誰のせいでもない。肉体と共に成長すれば、肉体の影響は避けがたい。肉体が自己保存の本能でできていれば、人格も自然にその影響を受ける。肉体ベースである限り、それは避けがたい。しかし、人は肉体だけではない。肉体は、あくまで器。主体は、意識。その主体である意識と肉体の中間にあるのが、人格。肉体と意識を繋ぐものが、人格。肉体と意識の共同創造物が、人格。人格は、この世を生きる上での意識の器。その人格を、もう一度見直す必要がある。多くの人は、人格と自己同一化して生きている。人格は、成長過程での様々な影響でできあがっている。人格が何によって構成されているかを理解する必要がある。そうでない限り、人格の奴隷になってしまう。人格は、多くの場合、条件づけられている。両親や教育や時代の影響下にある。「高校三年生」で育った世代もあれば、「ピンクレディ」で育った世代もある。「鉄腕アトム」の世代もあれば、「ドラゴンボールZ」の世代もある。オヤジになれば、演歌が好きになる。若い人は、ロックを好む。人それぞれ、育った環境によって人格は違ってくる。双子であっても、別々のところで育てば、まったく異なる人格となる。日本とアメリカで育った双子は、まったく人格が異なるだろう。人格は、周りの影響下にある。魂は、それぞれ異なる。魂から分かれて肉体に入った意識も、それぞれ異なる。それぞれ異なる意識が、それぞれ異なる環境を吸収して成長していく。環境と意識の合作によって、人格が形成される。それは、固有の個性を持つ。しかし、世代による共通の意識も併せ持つ。人は、人格であり、人格ではない。人は、人格であり、人格そのものではない。人は、人格であり、人格がすべてではない。人は、人格であり、人格を超えている。人格から、少し距離を置くことだろうか。自分という人格を理解することだろうか。それが何によって構成されているかを深く理解することだろうか。そうでないと、人格に振り回されてしまう。人格の中身を理解し、必要のないものは手放す。この世を生きる上で必要なものは持っていればいい。しかし、無条件にすべてを保持する必要はない。無自覚のままに人格に取り込んできたもので、今となっては必要のないものが山ほどある。恐怖の記憶。恨みや憎しみ。屈辱や劣等感。不安や心配や自信のなさ。そういうものを持っている必要はない。持っていたい?そういう人がいるだろうか。たぶんいないだろう。そうであれば、手放せばいい。人格要素から外せばいい。必要のないものだから。自分が本当に必要だと思うものだけを人格とすればいい。人格も、また形成されるもの。不変的なものではない。それは、可変的なもの。人格は、いかようにも形成できる。三つ子の魂百まで?確かに、そういう側面もある。基本パターンは、根強い。それは、魂のパターンかもしれない。しかし、それさえ変更可能。理解されれば、変更できないものはない。自覚されない限り、パターンのまま死ぬことになる。死んだ後まで、そのパターンは続く。死後も、そのパターンが続く次元もある。それらを遥かに超えた次元もある。どこに意識をフォーカスするかによって、意識の有様(ありよう)は違ってくる。意識は、無限にフォーカスできる。まずは、自分の人格を理解することだろうか。人格は、絶対ではない。それは、絶えず変わっている。しかし、繰り返されているパターンもある。必要のないパターンは、人格から外す。必要なものだけを残しておく。魂として何が必要か。魂意識の視点から見直してみる。人格から少し離れてみると、意外と楽になる。楽に生きられる。視点を、ちょっと変えてみるといい。魂としての視点で見てみるといい。魂として、この世に何をしに来たのか。魂として、どのような人格をつくろうとしているのか。魂として、今何をやったらいいのか。魂として、どのように生きたいのか。人格オンリーの視点から、魂の視点に少しフォーカスをずらしてみる。そうすると、また違った人生が開ける。魂は、歳をとらない。魂は、肉体や人格を超えている。大きな視点で生きてみればいい。肉体や人格を包み込むような視点で生きてみればいい。それが、死後の自分自身だから。それが、生まれる前の自分自身だから。『魂の 夢はこの世に 神の世を 創るつもりで 肉の身まとう』『肉の身を まとえば意識 物質の 虜(とりこ)となって 夢を忘れる』『肉体を まとってこの世 生きる時 自己保存こそ すべてのすべて』『肉体を まとえば肉の 本能に 翻弄されて 終わる人生』『肉体を 守ることだけ 意識され 魂の夢 忘れ去られる』『魂の 視点で見れば 人格は この世バージョン 自分優先』『人格が 物質ナイズ される時 魂の夢 はかなく消える』『人格を 見守ることで 人格に 囚われないで 人格超える』『肉体を 守りながらも 魂の 夢を実現 それが人生』『人格の 成り立ち理解し 人格を 整理整頓 自分見直し』『物質も 肉体・人格 魂も すべて理解し 宇宙創造』『理解する ことがなければ 物質に 埋没したまま 終わる人生』『理解する ことで意識は 直列し すべてひとつに 繋がっていく』『理解する ことが意識を 澄み切らせ すべてをひとつに 統合していく』『理解する ことで意識は 浄化され ひとつに向い 澄み切っていく』『透き通る 意識の先は 果てしなく ただ限りなく 澄み渡るだけ』『透き通る 意識の先に 愛がある すべてが消えて 愛が寄せ来る』これが日記を書き始めて1400日目の心境。
2008.11.01
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