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三泊四日の旅が終わった。今回は、梅雨時にもかかわらず天候に恵まれた。十分に屋久島を堪能できた感じ。また来たいという言葉を残して、お客さんは帰って行った。初日は、永田いなか浜を裸足で歩いた。そして、ゆっくり昼寝をした。西部林道では、シカやサルたちをたくさん見かけた。大川の滝は、梅雨時で迫力があった。青少年旅行村のタイドプールでサンゴを拾う。JR温泉に入って、初日の疲れを癒す。宿は、猫が五匹もいるところ。猫好きとのことで、ちょうどよかった。二日目は、木霊の森へ。緑が美しかった。その緑の下で、またお昼寝。お客さんは、かなり長い間、横になっていた。キノコが、たくさん生えていた。もう数えきれないくらいの種類。珍しくカラフルなものもあった。バッチリ写真に撮れたので、近いうちにHPに登場するだろう。超ゆっくりペースで、木霊の森を散策。一番奥の滝のところで雨が降り出した。降り出すと、すごい。まるでスコール。木霊の森の主の切り株に入って、帰路に着く。この日の温泉は、楠川温泉。早い時間で混んではいなかった。温泉から出て宿に向かう途中で・・・虹が出た。最初は、薄かった。だんだん濃くなって、最後には太い虹になった。天空に完璧な弧が描かれた。こんなにはっきりした虹は、初めて見たとのこと。屋久島でも、なかなか見れないレベル。非常に鮮明な美しい虹。そこで、写真を撮ろうと車を止めると・・・残念ながら、虹は消えてしまった。出たり消えたりしていたので、写真には撮りにくかった。目に留めるしかない。瞼閉じれば、レインボー!三日目は、シャクナゲを見に行った。時期的には、もう遅い。基本的には、終わっている。しかし、なんとなくまだ残っていそうな予感が・・・宮之浦岳の登山口に近づいても、シャクナゲはまったく咲いていなかった。やはり、無理か・・・せっかくここまで来たのに。とりあえず、歩いてみる。しばらく進むと、あった!シャクナゲ発見!まだ蕾さえ残っている。遅咲きのシャクナゲ。前回来た時は登山道の両脇に、これでもかと言わんばかりにシャクナゲが咲き誇っていた。しかし、今回は見る影もない。ほとんど終わっている。ただ、数本だけ今の時期に咲き始めたものがあった。それは、ハッとするほど美しかった。雨が降り、霧がかかり、ロケーションは最高。神秘的な雰囲気が漂うなか、悠然とシャクナゲは咲いていた。やはり、来てよかった。シャクナゲの花だけでなく、この雰囲気が最高。この辺りは、海抜1300~1400m。空気感が、ぜんぜん違う。白谷雲水峡やヤクスギランドより、はるかに高度が高い。このエネルギーは、捨てがたい。ゆっくり、じっくり歩くと、心身が生き返る。海の浄化とはまた違う、山の浄化。これぞ屋久島の森のエネルギー。特に霧がかかると、エネルギー状態が一変する。俗世から神秘の世界へ変容する。霧は、すばらしい。空間が変わる。淀川小屋まで行って、引き返す。かなりの雨で、さすがの淀川もいつもの透明感はなかった。いつもであれば、透き通るほど美しいのだが・・・帰りも、神聖な雰囲気のなか、疲れることはなかった。下の方に降りてくると、雨は降っていなかった。千尋の滝、竜神の滝、トローキーの滝を見る。期待したほどの水量はなかった。でも、梅雨時なので通常よりは多かった。ぽんたん館に寄って、お土産を探す。それから、尾之間温泉に向かう。この頃には、青空が広がっていた。山の天気とは、ぜんぜん違う。毎日、温泉を変える。屋久島のいろんな温泉を体験してもらう。それぞれ個性がある。しかし、尾之間温泉は、さすがに熱かった様子。温泉から出ても汗が噴き出る。しかし、湯質は最高。時間が早かったので、人も少なかった。透明なお湯が、こんこんと湧き出ていた。まだ時間があったので、木霊のストラップを作っている木工所へ行く。売れ行きがよく、作るのが間に合わないとか。それから、大きな屋久杉の机を見に行く。お客さんがほしがっていたのだが・・・価格が高過ぎた。数十万円単位なので、そう簡単には買えない。今回は、見るだけ。次回来た時に・・・最終日は、まず水晶の浄化へ。久しぶりに朝からスッキリした天気。もう梅雨が明けたかと思うような青空。絶好の水晶浄化日和。海は、遠くまで潮が引いていた。波もほとんどなく、とても穏やか。水晶を海中に浸けたまま、のんびりできた。生まれて間もない稚魚が、たくさん泳いでいた。川も予想通り、水量はそれほどでもなかった。山の方は連日雨が降っていたので、水が減るのを待っていた。増水した水は濁っており、水晶の浄化には向かない。やっと澄み切った普段の水に戻った感じ。あまりの水の美しさに、お客さんは感動。川のなかに入って、しばし休憩。お客さんが持参した水晶も、見違えるように美しくなった。このまま、ずっとここにいてもいいくらい気持ちがいい。そうもいかないので、竜神の森へ向かう。最初のコンクリート道の登りが、きつい。上まで車で行けるのに、なぜかチェーンが張ってある。以前は自由に行けたのに・・・森へ入ると、別世界。風が最高にさわやか。珍しくカラッとして湿気がない。木々で直射日光から守られ、緑のオアシスという感じ。かなり急な傾斜なので、何度も休みながら登る。その度に、心地よい風が吹く。最高の森。ほとんど夏の森という感じ。こんなに風が心地よかったのは、初めてかもしれない。急な傾斜なので、風が吹き上がる感じ。シカが、ピーッという甲高い声で鳴く。ここのシカは、いつもこのように鳴く。何度も何度も鳴く。よく聴いていると、複数のシカがコミュニケーションをとっている感じ。オスジカが去っていく姿が見えた。立派な角を生やしていた。トロッコ軌道の跡まで行って、引き返す。今日は帰る日なので、あまりのんびりはしていられない。屋久島の土産に、森の水をペットボトルに詰めてもらう。お客さんは、水が美味しいと、ずっと言っていた。最後に、楠川温泉で汗を流す。かなり汗をかいたので、このまま飛行機には乗れない。コンビニで旅行用スーツケースを自宅に送る。これで身一つで帰れる。お客さんは、この四日間で、かなり細胞が入れ替わった感じ。透明な空気と、美味しい水。森の緑と、海の青。屋久島の雨も青空も体験できた。十分に満喫できた三泊四日だった。梅雨時にしては、そんなに雨にも降られなかった。最高の虹も見れたし、すばらしい屋久島の旅。届いたお礼のメールには、たくさんの木霊が写っていた。『さわやかに 風吹き渡る 初夏の森 沢の流れに シカの鳴声』『霧かかり 森は神秘に 包まれる この世離れた 神仙世界』これが日記を書き始めて1276日目の心境。
2008.06.30
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昨日は、三泊四日のお客さんが11時15分の飛行機で到着。まず益救神社へ向かう。それから、永田いなか浜へ。波打ち際を裸足で歩く。浜の一番先で、休憩。お客さんは、砂の上で本格的に眠ってしまった。こちらも横になって、のんびりする。薄日が差して、全身が汗ばむ感じ。最初は仰向けに寝ていたが、それに飽きて腹這いになる。すると、カラスが四羽飛んできた。カーカー鳴きながら、しばらく上空を旋回。二羽ずつ組になって追いかけっこをしていた。そのうちに、崖の上に降り立った。一羽が、崖から下の大きな石の上に移る。そうすると、もう一羽も崖をピョンピョン歩いた後、飛び立った。先のカラスがいる横に舞い降りる。その様子を見るとはなしに見ていた。気がつくと、どういうわけかカラスの気持ちが手に取るようにわかっていた。気持というより、崖の上で飛び跳ねたり、飛び立ったりする感覚が、自分のことのように感じられた。まるで自分がカラスになったような感じだった。自分が崖の上を飛び跳ね、それから飛び立つ。まったく違和感がなかった。その感覚は、人間ではなくカラスだった。その時、気がついた。人にもカラスにも共通する意識があることに。同じ意識を共有している。自分のなかにカラスの意識と共通する部分がある。カラスに限らず、すべての生きとし生けるものと共通する意識が存在する。人は、人類進化のプロセスを自分のなかに保有している。アメーバーから人の意識までを、すべて保持している。自分の意識のなかに、相通ずる部分が共存している。意識の多層性。人は、潜在意識のなかに幼児期の意識を保有している。それは、大人の意識とは異なる。しかし、その幼児の気持もわかる。なぜなら、自分が体験してきたことだから。それと同じことが、他の生物との関係においても言える。人は、人になる前に多様な生物進化の道を経験している。自分のなかに、その意識が今も息づいている。それらの意識を含めて、今の意識が存在する。人は、人として生きている。しかし、それも意識の枠に過ぎない。それは、人の肉体のなかに入り、肉体と共に成長した結果。生まれ落ちた時代や周囲の人々、教育やマスコミなどの影響下で意識は成長する。今の意識は、そういう環境の産物。もちろん、そういう環境から何を吸収するかは、個体差がある。みんなが同じに成長するわけではない。意識とは、環境と魂のコラボレーション。人のなかで育てば、普通は人になる。ところが、狼に育てられた子供は、狼となる。人は、環境によって多大な影響を受ける。今の意識も成長過程の環境の産物。今の意識は、一つの枠組みに過ぎない。けっして絶対ではない。極めて可変的。制限された枠組み。自分は人だと信じて疑わないが、それは人のなかで成長したから。狼に育てられれば、自分を狼と信じて疑わない。意識とは、そのようなもの。育った環境の影響によってできあがるもの。人の意識の枠を外せば、他の生きものと共通する部分に気づく。人は、他の生きものとも意識を共有している。たぶん、植物や鉱物とも共有する部分があるだろう。万象万物と共有部分があるに違いない。人は、人に非ず。人は、意識。無限定の意識。万物に浸透する意識。意識が無色透明に近づくにつれて、意識は無限定となる。意識が無限定になれば、意識の広がりは限りない。人というのは、意識の一つの枠。それぞれの人に個性があるようなもの。いのちの多様性。いのちの多層性。意識は、何層にも渡って存在している。次元が、そうであるように。その根底にある透明な意識。まだ色が付く前の意識。個別化し、個性化する前の意識。すべてに浸透する意識。その意識の上に、何層もの色が付いている。それが種であり、個性。それが、次元。森羅万象宇宙。駐車場に戻ると、ハマユウが咲き始めていた。西部林道の入口には、薄いオレンジ色のチョウセンキダチアサガオの花。こんな色は、初めて見た。通り過ぎた西部林道は、ものすごい蝉時雨(せみしぐれ)だった。『鳥になり 空飛ぶ感覚 思い出す 人より軽い シンプル意識』『生まれ落ち 人にもまれて 人となる 人の意識を すべてと思う』『人はみな 無限の意識 持つものを 限定された 意識で生きる』『自らの 意識の層を 紐解けば 人の枠超え 意識広がる』『透明な 意識の上に 何層も 色が重なり 個性生まれる』『何層も 意識の層が 重なって 今の意識が 成り立っている』 『元の元 元を辿れば 万物に 浸透している 意識に戻る』『透き通る 意識すべてに 浸透し すべてと共に 存在している』これが日記を書き始めて1274日目の心境。
2008.06.28
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今日の屋久島は、曇。山は、雲に覆われている。今日から新しい三泊四日の旅が始まる。11時15分の飛行機で、お客さんは到着する予定。先日、コメント欄に次のような書き込みがあった。「はじめまして。いつも沢山の気付きをありがとうございます。>水瓶座の象徴は、水瓶からこぼれ落ちる水。>その水は、泥水ではない。>透き通るように透明な水。私は水瓶座生まれです。生まれの意味を知った感じがして・・嬉しくて書き込みをさせていただきました。泥水に咲く睡蓮は大好きですが、今は滞らない流れの中で過ごしたいと思っています。 流れのままに・・光を求めて・・これから少しづつ ゆっくりと・・。」今まさに睡蓮は咲こうとしている。蕾が膨らみ、これからゆっくりと咲き始める。咲く準備は、完璧にできている。後は、咲くだけ。これまでは、泥沼のなかで生きてきた。しかし、その泥沼も、だんだんと水が澄んできている。やがて、泥沼は姿を消す。蓮の花が咲き切る頃には、泥沼は過去のものとなる。自我という小さな枠。その枠がすべてと思い込んで生きてきた人類。自我に限定され、自他を分離して生きてきた。それは、囲い込みに他ならない。自我という小さな領地。その領地が、自分そのもの。それ以外は、他国。領地を守るためなら戦いも厭(いと)わない。自我こそが、すべて。自我が、自分のスペース。囲い込んだなかに安住し、安全を貪(むさぼ)る。頑なに扉を閉ざし、身の安全だけを願う。自我とは、小さな枠組み。個別性の極み。それは必要悪?少なくとも、それがありのままの現実。多様性を生み出すために個別化する。それは、必要なこと。しかし、個別化し過ぎれば、全体と断絶する。そこで問題が起きる。個にとっての利益が、全体の利益と合致しなくなる。特定の個だけが、富や財産を独占しようとする。他の個の生死を顧みない。隣で餓死していても知らんふり。それは、全体の繁栄に寄与しない。個のみの繁栄。個に連なる関係者だけの繁栄。それが、これまでの人類史。個であってもいい。十分に個性を発揮すればいい。しかし・・・全体を忘れた時、個の存在意義がなくなる。個とは、子。子には、親がいる。個にも、親がいる。全体という親。子は、一人だけでは成長できない。親の庇護の下で成長する。それを忘れた子は、自分のルーツを失くす。宇宙の孤児となる。個であってもいい。しかし、全体を忘れないことだろうか。全体を忘れれば、自分の存在意義を見失う。自分が何者か、わからなくなる。全体と繋がることによって、初めて個が輝く。自分の位置を知り、存在意義がわかる。個であり全体であるとは、これからの基本テーゼ。これなくして、新しい時代はない。ゆるやかに繋がりながら、個として生きる。それは、個人だけにとどまらず、組織においても基本原理となる。ゆるやかな連帯の時代。個々が自立し、ゆるやかに連帯する時代。深く深く自分の意識を紐解いていけば、全体に出会う。自分の意識の奥は、全体と繋がっている。表面意識だけが、全体から分離している。深く深く生きることだろうか。全体と繋がるほどに深く生きる。全体と繋がれば、孤独感はなくなる。自己喪失は、解消する。自分の存在意義が、明白になる。時代と共に、全体と共に、流れと共に生きることだろうか。新しい時代に向かい、宇宙と共に生きることだろうか。銀河系、太陽系、地球と共に生きることだろうか。自分の魂やグループソウルと共に生きることだろうか。自我という小さな枠で生きないことだろうか。もっと大きな、本来の自分で生きることだろうか。本来の自分とは、全体と繋がっている自分。安心でき、心安らぐ自分。そういう自分で生きる時代になりつつある。睡蓮の蕾は、ゆっくりと開こうとしている。蕾のなかから、光が生まれようとしている。やがて、光の花が咲く。『囲い込み 身の安全を 第一に 汲々として 生きてきた日々』『魂の ルーツを離れ 孤児となり 独り寂しく 孤独噛み締め』『宇宙から 分離した時 人類は 道を失い 相互殺戮』『全体と 繋がる時に 人類は 光の道を 歩き始める』『花開く 時は近づき 泥沼は やがて静かに 真水に還る』『光咲く 時代は間近 新しい 花を咲かせる 光の雨降る』これが日記を書き始めて1273日目の心境。
2008.06.27
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屋久島は、今日も雨。今年の梅雨は、本当によく雨が降る。蟹座の水晶祭りで行き先が決まったものを、郵便局に届けた。連絡がない一組を残して、一斉に発送。今日の飛行機やフェリーに間に合うので、早いところは明日には届くだろう。発送が終わると、次の獅子座の水晶祭りの準備を始めることになる。これが、楽しい。何を出すか、どのように組み合わせるかを決めるのは、とてもワクワクする。獅子座の守護星は、太陽。太陽系の中心なので、ゴールドルチルが似合う。ヘマタイトから放射する金色のルチルは、太陽ルチルと呼ばれる。獅子座の水晶祭りでは、このゴールドルチルが主役。最近はあまり買わなくなったが、長い間買い続けてきた。ゴールドルチルクオーツは、宇宙と繋がるのをサポートしてくれる。頭の中心から入る宇宙的なエネルギーとリンクしている。これまで、どれだけ助けられたことか・・・たぶん自分が自覚している以上のサポートを得ている気がする。絶対的なエネルギーと無意識レベルの自信を与えてくれる。霊的な本質を目覚めさせてくれる。極めてスピリチュアルな水晶。この世的に使えば、勘が鋭くなる。水晶のなかに入っているルチルは、アンテナのようなもの。だから、投機や商売をしている人は、ゴールドルチルのブレスレットをしている。機を見るのに役に立つ。水晶本体もアンテナ。ルチルもアンテナ。アンテナのなかにアンテナがあると?アンテナのなかのアンテナとなる。スピリチュアルなエネルギーをキャッチしてくれる。それは霊的なエネルギーをキャッチしたいと思っている人にとっては、大きなサポートになる。気がつかないうちに、宇宙的なエネルギーと繋がっている。この日記も、かなりゴールドルチルが貢献しているように思う。次回の水晶祭りには、自宅にあるゴールドルチルの半分ぐらいが出る。それでも、まだ一ダース以上は残っている。なにしろたくさん買い込んだので・・・なけなしのお金を使って?ゴールドルチルは、高い。どんどん高くなる一方。需要は増えているのに、産出は減っている。中国の需要増が止まらない。獅子座の水晶祭りには、シトリンの大きなポイントも出る。シトリンも現実創造を支えてくれる。自信を持たせ、グランディングが効くようになる。太陽のエネルギーを持っているので、浄化の必要すらない。シトリンは、周りを浄化する水晶ではない。周りにエネルギーを振りまく水晶。シトリンを見ていると、確かに元気になる。パワーを常に発散している。金色や黄色系の水晶は、第三チャクラに対応している。それは、自我でもある。だから、自信がついたりする。しっかりと現実的に生きることができるようになる。宇宙的なエネルギーを、現実の世界で使えるようになる。だから、現実創造の水晶でもある。獅子座の水晶祭りでは、ゴールドルチルやシトリン以外でも金色や黄色のものが出る。ゴールデンカルサイトも、その一つ。他にも、リモナイトが付着して黄色くなったカクタスクオーツ。鉄分の影響で金色っぽくなったゴールデンヒーラーと呼ばれるクラスター。大きな琥珀(こはく)のペンダント。小さいながらもキラキラ黄金色にきらめくゴールデンベリル。黄色いマイカが付着した水晶もある。エトリング石という黄色いものも出る。なにしろ、獅子座は太陽の色。金であり、オレンジであり、黄色。明るく元気になれるものばかり。パワフル獅子座。太陽のように、すべての中心にあるエネルギー。水晶祭りは、そういうエネルギーを感じてみるチャンスでもある。獅子座の水晶祭りは、ほぼ準備ができつつある。同時に乙女座の水晶祭りの準備もしている。こちらは、繊細で可愛い。乙女チックなものが出そう。乙女チックとなると、ピンク系。ローズクオーツをはじめ、クンツァイトなどをアップする予定。でも、あまり手持ちがないので、まだ検討中。星座ごとに出て来る水晶も異なる。星座も水晶も宇宙の豊かさを象徴している。単色ではない。モノクロでもない。カラフル。宇宙は、カラフル。多種多様。豪華絢爛。星も花も人も・・・気がつけば、豊かな宇宙のなかで生きている。刻々に移り変わる景色は、飽きることがない。森では、セミが鳴き始めた。夜になると、虫の音やカエルの大合唱。夜が明ければ、鳥が鳴き始める。鳥の種類もたくさんいる。花の種類も数えきれない。虫の音もいろんな種類がある。豊かさに囲まれて生きている。多様性に満ちて宇宙は存在する。その無限の多様性を生み出すものは、ひとつのいのち。ひとつのいのちの無限の現れ。花となり、鳥となり、人となり・・・星となり、山となり、海となり・・・動物となり、植物となり、鉱物となり・・・黒人となり、白人となり、黄色人種となり・・・ありとあらゆる水晶。ありとあらゆる星々。ありとあらゆる花々。ありとあらゆる人々。そういう多様性のなかで、宇宙は豊かに息づいている。大きな宇宙に抱かれて、すべては存在する。その存在そのものが、宇宙でもある。この豊かさのなかで、豊かに生きることだろうか。宇宙が豊饒であれば、人もまた豊饒であっていい。人と宇宙は、異ならない。人は、宇宙のエッセンス。一人一人が、神の一人子。一つの万能細胞のなかに、すべての可能性が秘められているように、人もすべての可能性を秘めている。気がつけば、すべての可能性が内にある。その可能性を花開かせることだろうか。宇宙的な可能性を。小さなこの世的な意識に限定しないことだろうか。たかだか数十年の経験で、すべてを判断しないことだろうか。経験は、限られている。記憶は、自分のなかのほんの一部。無限の可能性を保留しておくことだろうか。そのなかから自分の気に入ったものを一つ一つ花開かせることだろうか。何もあくせくすることはない。雄大な宇宙と共に生きればいい。『水晶の 色も形も 大きさも みんな違って 個性花咲く』『すばらしき 水晶見れば すばらしき 宇宙の恵み ここに花咲く』『豊かさは 日々刻々と 限りなし 四季折々の 色の彩(いろどり)』『移りゆく 景色眺めて 限りなき 豊かさ感じ 豊かに生きる』『気がつけば 数えきれない 豊かさが 目の前にある 何もせずとも』『豊かさに 気づく心が 豊かなり 気づかぬ心 豊かさ知らず』『繊細に なればなるほど 豊かさが 身に沁みてくる 四季の移ろい』『豊かさに 気づく心の 美しさ 気づけばここが 天国そのもの』『今ここに すべてがあって 輝いて 生きて宇宙が 息をしている』これが日記を書き始めて1272日目の心境。
2008.06.26
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今日の屋久島は、朝から雨が降っている。今年の梅雨は、雨が多い。連日、雨、雨、雨・・・梅雨らしいと言えば、梅雨らしいのだが。今日から蟹座の水晶祭りの水晶たちの発送を始める。今回は、登場した28組の水晶の行き先がスムーズに決まった。そして、振り込みも速い。8割以上が、月曜日には振り込まれていた。ネットの時代なので、瞬時に振り込みもできる。時間が、どんどん短縮されている。ネット上で探せば、世界中のものが手に入る。時代は、どんどん進化している。今回の水晶祭りは、リクエストが分散した。それでも、6割ほどは抽選となった。抽選になると、少し心苦しい。と言うのは・・・明らかにこの人というのは、問題はない。しかし、どちらに行ってもおかしくないというものもある。その時に困ってしまう。より水晶と波動が合っている方ということになるのだが・・・なかなか決まらない時もある。そういう時は、しばらく時間を置く。水晶は一個なので、一人にしか送れない。微妙に、精妙に感じていくしかない。抽選は、競合とは違う。何も競い合ってはいない。ただ水晶と波動が合っているかどうかだけ。最も必要としている人のところへ水晶は行く。リクエストする。縁があれば、水晶が届く。縁がなければ、それまで。ただそれだけのこと。それ以上に脚色すると、ドラマが始まる。自分の心のなかで。それは、客観的なドラマではない。自分の心のなかにあるだけのドラマ。競合と捉えれば、悲喜劇が起きる。結果を問わなければ、悲喜劇は起きない。ただ淡々と結果を受け入れるのみ。結果オーライ!縁があれば、来る。縁がなければ、来ない。ただそれだけ。極めてシンプル。物事を複雑にしているのは、自分自身。単純に事実のみを受け取ればいいものを、ああではないか、こうではないかと憶測する。それは、やがて事実から離れて独り歩きを始める。そうなると、思考の渦に呑み込まれる。事実ベースではなく、思い込みベースとなる。事実ベースは、極めて単純。思い込みベースは、複雑怪奇。物事は、突き詰めていけば単純なもの。それを複雑にしているのが、思考。単純な事実を自分でいろいろ脚色し、一喜一憂する。ああに違いない。こうに決まっている。事実ベースに徹することだろうか。そうすれば、心が揺れ動くことも少なくなる。迷いも消える。あれこれ思い悩むことから、心は動揺する。それは、思考の独り歩き。事実ベースではない。常に事実ベース。常に原点回帰。意識を自分の中心に置く。意識が夢遊病者にならないように、しっかり見守る。意識の中心とは、部分ではなく全体。自分の意識のトータル。自分の意識のエッセンスと共にいる。意識のエッセンスとは、本質。本質とは、霊性。内なる透き通るような意識と共にある。自分の真実と共にある。自分の真実ベース。本質ベース。霊性ベース。表面意識で揺れ動かない。些細なことに翻弄されない。常に中心は、自分の霊性ベース。自分の真実ベースで生きること。『事実だけ 見つめ見極め 生きる時 スッキリさわやか シンプルになる』『あれこれと 思考働く その時に 事実と離れ 独りさ迷う』『複雑に 考え過ぎて 人生の 糸が絡(から)まる 問題起きる』『あくまでも 事実ベースで 生きること 事実の上に 思い重ねず』『じっくりと 事実と共に ある時に 事実の奥が 自然とわかる』『あれこれと 思い悩めば 真実は 思いの奥に 隠れてしまう』『真実は 思いが消えた その時に 目の前にある 事実と共に』『シンプルに 事実ベースで 生きる時 事実を超えた 真実見える』これが日記を書き始めて1270日目の心境。
2008.06.24
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『結果とは 自然に後から 付いてくる やりたいことを やればいいだけ』『物事を 変えたかったら 変えること 結果気にせず やればいいだけ』『望むなら 結果気にせず 望むこと 結果気になる 時に苦しむ』『最初から 結果を決めて やる時に 決めた通りの 結果出てくる』『結果出す 前に結果を イメージし 味わいきれば 結果実現』『ありありと 想い描けば 目の前に 想ったことが 現われてくる』『人生は 望む通りに なるという ことが次第に 明らかになる』『望むなら 競合せずに 独特の 自分の花を 咲かせるものを』『表面の 結果求めず 真実の 自分の願い 望み実現』これが日記を書き始めて1268日目の心境。
2008.06.22
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今日は、満月。「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、恒例の水晶祭りが始まっている。今回は、蟹座の水晶祭り。蟹座とは・・・月のエネルギー。母性。やさしさ。あたたかさ。銀色。白色。ミルク色。淡い色。水の星座。感情の星座。感受性の星座。繊細な星座。180度の対極にあるのは、山羊座。山羊座は、父性。厳しさ。峻厳。岩をも貫く意志。努力。持続。達成。山羊座は、直線的。蟹座は、円。山羊座は、男性的。蟹座は、女性的。山羊座は、硬い。蟹座は、軟らかい。山羊座は、原理原則。蟹座は、フレキシブル。山羊座は、強さ。蟹座は、やさしさ。山羊座は、力。蟹座は、受容。そういう対極にあるものを、同時に自分のなかに持つことは可能だろうか。今生は、蟹座かもしれない。あるいは、山羊座かもしれない。しかし、それは今生の顔。今生で自分が演じたい役者の顔。それは、自分の一部。自分のなかの特定部分。その部分を今生では特に表現してみたいということ。しかし、それだけに偏れば、バランスを崩す。基本は、トータル。そのベースの上で、特定の星座を生きる。今生の自分の役割を演じる。依って立つベースは、全体。現実に表現するのは、個性を通して。個であり全体。個性の輝きを包む全体の輝き。水晶も、いろんな種類がある。色、形、透明度、照り・・・それぞれの要素が異なる。いろんなエネルギーが、水晶となって結晶している。そういう水晶を見ていると、その水晶と同調する。これまで自分のなかに潜在していたものが、水晶を通して活性化する。元々自分のなかにあった可能性が、現実のものとなって現れる。ありとあらゆる水晶は、自分のなかにある可能性。人は、多種多様な無限に近い可能性を秘めている。自分のなかに無限の可能性が宿る。水晶は、その一つ一つを刺激してくれる。眠っていたものが刺激され、目を覚ます。目を覚ましたら、その水晶は手放す。目を覚ましたい人へ手渡す。それが、水晶祭り。水晶は・・・宇宙のエネルギーの結晶。宇宙と繋がるアンテナ。自分のなかのアンテナを活性化させるアイテム。人は、本来、自分のなかにアンテナを持っている。そのアンテナが眠っているので、活性化させる必要がある。目覚めの時を迎え、目覚めさせる役割を担って水晶が存在する。水晶は、宇宙と人とを繋ぐ。光のアンテナ。水晶祭りは、光の祭り。宇宙のエネルギーが行き交う花火大会。光のエネルギーで地球全体を包むネットワーク。屋久島から光を帯びた水晶が旅立つ。『全体の ベースの上で 個を生きる いのちの上に 色彩(いろどり)つけて』『透明な いのち色づき 花となる 色とりどりの いのちの宇宙』これが日記を書き始めて1265日目の心境。
2008.06.19
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今日の屋久島は、珍しく雨が降っていない。しかし、山は雲に覆われて見えない。もう少し天気が回復したら、水晶の浄化に行きたいと思っている。明日は満月なので、月光浴の前に再度浄化しておきたい。「君子の交わりは、淡きこと水の如し」と荘子にある。君子の交わりは、淡々としていてドロドロではないということ。お互いが自立しているので、共依存からくるトラブルが起きない。お互いに依存していると、望み通りにならないとお互いに不満が募る。君子の交わりは、サラサラ。庶民の交わりは、ネバネバ、ベトベト。お互いに相手に依存していると、トラブルが絶えない。依存とは、相手に期待していること。期待は、往々に裏切られる。裏切られれば、相手は裏切り者。嘘つきであり、冷たい人であり、思いやりのない人。自分のなかは、不満で爆発しそうになる。相手が自分の期待値よりも低いと、自動的に不満が沸く。期待された方は、堪らない。いつも期待に応えることなど、不可能に決まっている。期待とは、思い込み。そうしてくれるに違いないという思い込み。自分勝手な思い込み。それ故に、常に裏切られる運命にある。依存すれば、必ず裏切られる。自立すること。自立した上で、人と付き合うこと。そうすれば、裏切られることもない。何.の期待もなく付き合えば、裏切りは生じない。期待とは、自分本位の勝手な思い込み。だから、裏切られる。何も期待しないで生きることは可能だろうか。裏切られないためではなく、本当に何も期待しないで・・・裏切られるのが怖くて期待しないのは、保身。本当は期待したいけれども、裏切られるのが怖くてできないだけ。そうではなくて、真に期待しないこと。相手に何も要求しないこと。そういう時に、水のような交わりができる。何の依存も利害関係もない関係。サラサラと水のような関係。いつまでも一緒にいたいとか、後を引かない関係。真に自立すれば、自分の周りにエネルギー場ができる。そうなると、お互いに少し距離ができる。密着し過ぎない関係。「親しきなかにも礼儀あり」という間柄。お互いに自立し、相手に何も期待しない。それぞれの生き方を尊重する。期待とは、ある意味、所有でもある。自分の望む相手に固定すること。しかし、意思のあるものを自分の思うようにはできない。必然的に裏切られる。本当は、いかなるものも所有できない。所有したと思うのは、幻想。何であれ、いずれ自分の手元から去っていく。しばらく一緒にいるだけ。人も、物も、生きとし生けるすべても・・・ひとときの交わり。その交わりを、ドロドロの泥水のように交わるか。サラサラの透明な水のように交わるか。これまでの人生は、演歌のようなドロドロ人生。これからは?アクエリアスの時代の交わり方は、サラサラ系。水瓶座の象徴は、水瓶からこぼれ落ちる水。その水は、泥水ではない。透き通るように透明な水。意識が純化され、ピュアーになっていく。それに伴い、人との交わり方も変わってくる。サラサラと淡き水のような交わりになる。軽やかに流れる水・・・執着のない水。所有しようとしない水。ただ流れるだけの水。水とは、元々、霊性の象徴。霊性が濁っては、どうしようもない。霊性は、あくまで透明でなければならない。透明な霊性こそが、万物に浸透しているもの。すべてのすべて。この世の本質。すべての源。その透明な霊性に近づいていくのが、アクエリアスの時代。透明な英知の時代。『依存する ことは相手に 期待する ことは相手に 裏切られること』『依存する 時に互いの 関係は ドロドロネバネバ 泥沼となる』『何ものも 所有すること できぬもの ひとときだけの 夢の交わり』『サラサラと 何も掴まず お互いに 期待もせずに 依存もしない』『透明な 霊性すべてに 浸透し すべてのすべて 元のまた元』『透き通る 意識の元は 万物に 浸透している 真の霊性』これが日記を書き始めて1264日目の心境。
2008.06.18
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朝から雉(きじ)の声が聞こえる。先日、仕事から帰ると、自宅の前の道路を雉が歩いていた。カラフルな雄(おす)の雉だった。写真を撮ろうとしたら、草むらに隠れてしまった。しばらく探していると、突然、飛び立った。バサバサバサという、なんとも騒がしい飛び方。体の割に翼が短い感じ。尾だけは、長かった。姿形は美しいのだが、飛び方はイマイチ。あわてて飛び立つ様子は、どう見ても三枚目。スピードが遅いので、ゆっくり観察できる。急に飛び立ったので、思わず驚きの声が出た。すると、隣のY翁が窓から顔を出した。朝から番(つがい)の雉が、この辺りを歩いていたらしい。そう言えば、最近、雉の声を頻繁に聞くようになった。この辺りに住んでいるのだろうか。屋久島に来てから、年に一度ぐらいは野生の雉を見かけるようになった。雄はカラフルで、まるでクジャクのように美しい。近所で卵を産んで、子育てしてほしいもの。雉の雛を見てみたい。しかし、雉が住みついたことが知れ渡ると、捕られてしまう。島には雉を捕って食べる人もいる。シカも食べれば、サルまで食べる。元々が食糧の乏しい島だったので、何でも食べてしまう。できれば、動物は食べないでほしいと思う。生きている動物たちを見れば、みんな可愛い。目の前の子牛を殺すことなどできないだろう。にもかかわらず、子牛の肉は美味しく食べる。子羊も可愛いし、子ブタも可愛い。動物は、みんな可愛い。しかし、生きるためには、人間は動物を食べてしまう。植物性のもので十分生きていけるにもかかわらず、動物性を欲しがる。今の地球の食糧事情を考えれば、肉食を減らすことは意味がある。肉食をしなければ、動物が食べる飼料が飢えた人の口に入る。それだけで飢餓の問題は解決してしまう。しかし・・・人は、肉食をやめない。わかっていてもやめない。自分さえよければいい。自己中心的な生き方が続いている。しかし、時代は少しずつ変わりつつある。動物性の食べ物が、食べられなくなりつつある。動物性の食べ物をたくさん食べ続ける人は、アセンションとは縁がないだろう。別の世界で生きることになるだろう。肉を食べれば、どうしても波動が荒くなる。野蛮になる。争いが起きやすくなる。戦争は、避けがたい。草食動物は、おとなしい。肉食動物は、獰猛。草食のアオウミガメと肉食のアカウミガメでは、性質が異なる。肉食になると、どうしてもすべてが荒くなる。心身共にこまやかな波動で生きたかったら、草食にするしかない。できるだけ動物性を控える方がいい。肉体の状態は、明らかに精神に影響を及ぼす。心穏やかに生きるためには、植物性のものが向いている。アセンションすれば、もう肉を食べることはなくなる。逆に言えば、肉を食べている限りアセンションは難しいかもしれない。もっとも、それがすべてということでもない。なぜなら、そんなことを言い出したら、欧米の人たちはみんなアセンションできなくなってしまう。モンゴルの人も朝鮮の人もエスキモーの人も危ない。ゆるやかに、徐々に減っていくということだろうか。しかし、将来的には、動物を殺して食べる文化はなくなる。新しい時代に、動物の殺戮はない。動物を殺戮すれば、殺戮は動物だけにとどまらない。やがて、人も殺すようになる。お互いに殺し合うようになる。そういう時代は、もう終わる。ゆるやかに、確実に、肉を減らすことだろうか。波動を高めていきたかったら、植物性のものにするしかない。しかも、絶対量も減らす必要がある。人は、パンのみにて生きるものにあらず!やがて、食べ物ではなくて、別のエネルギーで生きるようになるだろう。肉体の波動が上がれば、そんなに食べ物に依存する必要もなくなる。もっとエネルギーによって生きるようになる。そのうちにエネルギー食が、メインになるだろう。時代は、ゆるやかに、しかし、確実に変化している。すべてのことが、変わりつつある。そういうなかで、食べ物も例外ではない。軽やかに食べて生きるようになっていく。すべてが、ライト。ライトは、軽い。ライトは、光。光へ向い軽やかに上昇していく。『持ち物も 食する物も 軽やかに 心身共に 光へ向かう』『必要の ないものすべて 手放して 光のなかで ライトに生きる』これが日記を書き始めて1263日目の心境。
2008.06.17
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『どのような 経験であれ 経験は 人を豊かに してくれるもの』『どのような 経験であれ 経験は キャパを大きく してくれるもの』『経験を 重ねるほどに 豊かさが 増えていくもの 囚われなければ』『経験に 囚われる時 経験は 人を縛って 人を悩ます』『気に入らぬ 経験ならば 経験を 活かして次は 別の経験』『どのような 経験であれ 経験を 活かして使えば 経験生きる』『失敗は 成功の元 何であれ 学び活かして 生きればいいだけ』『経験に 振り回されず 経験を 自分の肥やしに すればいいだけ』『経験を 糧(かて)に自分の 主体性 より明確に すればいいだけ』『経験に 呑み込まれたら 主体性 消えてなくなる 自分を失くす』『どのような 経験であれ しっかりと 自分自身で 受け止めていく』『経験を 逃げれば同じ 経験が またやって来る マスターするまで』『逃げないで 経験そのまま 受け止めて 理解通して 乗り越えていく』『理解する ことがなければ 何回も 同じ経験 繰り返すだけ』『経験は 理解するもの 経験を 通して人は 成長していく』『経験の 度に大きく なればいい いろんな経験 すればいいだけ』『経験に 負けてしまえば 経験は 人を小さく するものとなる』『経験に 負けたら終わり 負けないで 踏みとどまって 深く見極め』『経験に 負ければ自分 見失い 路頭に迷い お先真っ暗』『負けないで 投げ出さないで 逃げないで 理解しながら 経験を積む』『どのような 経験であれ 見極めて 奥にあるもの 理解していく』『経験を 深く見極め それぞれの 経験通し 理解深める』『経験を 自分のなかに 取り込んで 活用すれば 経験生きる』『経験は データーバンク 必要な 時に参照 すればいいだけ』『経験に 振り回されて 潰されて 自分失くせば 元も子もない』『経験は 自分の一部 経験を 使う主体が 自分本体』『しっかりと 自分自身を 確立し 必要な時 経験使う』『主体性 こそがすべての 鍵となる 甘えず負けず 主体確立』『経験を 理解しながら 主体性 しっかり持って 日々を生き抜く』『主体性 だけでは自我が 強くなる 見守る心 忘るべからず』『個であって 全体である その時に すべてが調和 されてゆくもの』『経験は 人を豊かに するものと 理解できたら 恐いものなし』『経験は 人を豊かに してくれる いろんな経験 積めばいいだけ』これが日記を書き始めて1260日目の心境。
2008.06.14
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先日、コメント欄に次のような質問がありました。「お忙しいと思いますが、ぜひアドバイスを頂けませんか?日記を拝見するようになって、もう1年半以上になります。毎日欠かさず読んでました。今も読んでます。Kimiさんが日記に書かれているように、みなさんどんどん成長されて光に向かっているんですね。どうしようもなく羨ましいです。私には自分の変化が見えません。自分の波動はちっとも変っていないことを、日々突きつけられる毎日です。何年も、もう同じ失敗を何回も繰り返す毎日です。職場でも、どこに行っても同じような暴君現れます。どうしてもリアルな日常は変化していきません。エネルギーとか波動とか前世とかも、自分では全然感じれません。こんな自分はアセンション以前の問題ですよね・・・。持病も悪化し、自分の波動に、自分の創造した現実に、疲れてしまいました。お悩み相談室のKimiさんではないのは承知していますが、どうすれば波動をあげて穏やかな生活ができるようになるのか教えてください。」まずは、日記を読み続けられることですね。結果を求めずに。結果は、後から付いてきます。意識が変われば、現実も後から変わるように。真剣に読み続ければ、必ず変化が起きます。結果だけを求めていると、まだ変わらない、まだ変わらないと、ネガティブになってしまいます。それは、変化を妨げます。まずは、結果を求めないで日記を読み続けることです。それが今の自分にとって必要だから読む。ただそれだけですね。純粋にそういう気持ちで読まれることをお薦めします。結果を求めて読むのは、浅い読み方です。心の奥深くから読むことです。真剣に読むことですね。そうすれば、自然に変わります。自分の深い深い願いが自然に湧き出てくるからです。どこに行っても暴君が現れる?それは、自分が被害者をやっているからです。毅然(きぜん)として生きていないからですよ。依存し、甘えていませんか。自分の生きる方向性を、はっきりさせることですね。周りの人を自分の人生に介入させないことです。周りの人によって左右されないことですね。しっかりと主体性を持つことですよ。そのためには、どういう自分でいたいのかを明確にすることですね。毎晩、寝る時に、自分のありたい姿をイメージすることですよ。それは、願望達成術ではありません。願望達成術は、結果を求めています。結果ではないのです。結果は、求めないでください。結果は、後から付いてきます。大切なのは、結果ではないのです。大切なのは、意識を明確にすることです。なりたい自分と一緒にいることです。そういう自分をイメージのなかで生きてみることです。そういう自分の感覚をイメージのなかで実際に感じてみることです。そういうことを、毎晩、布団のなかでやっていれば、やがてそれが現実化します。結果は、何もしなくても後から付いてきます。まずは、意識を変えることです。そのためには、ありたい自分を明確にすることですね。たぶん、それが不明確なのだと思います。漠然と生きておられるのではないでしょうか。明確に自分の生きたい姿を描くことですよ。そうすれば、それが現実化します。変化したかったら、既に変化している自分を感じてみることです。変化して活き活きと生きている自分と一緒にいてみることです。その感覚をありありと実感することです。そうすれば、そのような現実が後から付いてきます。自分の創造した現実に疲れてしまったのなら、新しい現実を創造するしかありません。古い現実は、すべて手放すことです。新しく生まれ変わることですね。それは、不可能ではありません。しっかりと、自分の生きたい姿を明確にすることです。それが、最初の一歩で最後の一歩です。それが明確になれば、そのように生きればいいだけですから。毎晩、イメージのなかで感じているうちに、やがて現実のなかでもそのように行動している自分に気づくでしょう。何度も繰り返しますが、結果は後から付いてきます。結果を求めると疲れてしまいます。人生が浅はかになり、表面的な人生で終わってしまいます。もっと深く生きることですよ。深く真剣に生きれば、自分自身が自然に花開くのです。イージーに生きれば、周囲に翻弄される人生です。しっかりと自分自身を生きてください。自分の真実を生きてください。それが、この世に生きている意味なのですから。表面的に周囲に迎合して生きても何の意味もありません。自分の真実を生きる!それに尽きます。波動を上げることも、穏やかに生きることも、すべて後から付いてくるものです。アセンションも結果に過ぎません。そんなことに拘泥しないことです。ひたすら自分自身を生き切ることですね。周りを気にして、自分に忠実であることを躊躇しないことですよ。中途半端に生きないことですね。真剣に全力で生きることですよ。自分を花開かせてあげることです。真剣に生きれば、道は開けます。自然に自分自身が開いていきます。自分自身の花を開かせることですよ。それが、この世に生きている目的ですから。自分の真実を生きてください。なりたい自分を明確にしてください。その自分と毎晩一緒にいてください。そうすれば、それが現実となるでしょう。『明確に なりたい自分 イメージし 毎晩それを 生きてみること』『外側に 振り回されて いるうちは 自分自身の 真実ではない』『躊躇して 周り気にして 生きる時 中途半端に 人生終わる』『生まれたら 真の願いを 生きること 真の願いを 花開かせる』『真剣に 自分自身を 生き切って 自分の花を この世に咲かす』これが日記を書き始めて1258日目の心境です。
2008.06.12
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『宇宙とは 料理を創る ようなもの 創る楽しみ 食べる楽しみ』『食材を 理解しないと 満足な 料理を創る ことはできない』『何回も 創ってみては 失敗し 経験重ね うまくなるもの』『何回も 理想の世界 創ろうと トライしてきた 地球の歴史』『今度こそ アセンションして 新しい 地球スタート すべてが変わる』『人生も 料理を創る ようなもの 自分好みを 創ればいいだけ』『いろいろと やってみるうち すばらしい 料理ができて 食べて満足』『人生は 料理を創る ようなもの 美味しく創り 美味しく食べる』『創り出す 主体もあれば それを見る 主体もあって 一人二役』『色と空 二つに分かれ それぞれが 創り出したり 眺め愛でたり』『ゆっくりと 創り味わい 楽しんで 主役観客 同時満足』これが日記を書き始めて1257日目の心境。
2008.06.11
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『今生で 解脱するには 今生に 心残りを 残さないこと』『人の世に 残した思いに 引きずられ 生まれ変わりを 繰り返すだけ』『いっさいの 思いなければ 何回も この世に生まれ 変わることなし』『物事に こだわり囚われ 執着し 思い残せば 輪廻は続く』『時々に 思いは湧いて くるけれど 引きずらないで 完了させる』『裡にある すべての思い 理解して 心残りを すべて清算』『縁に触れ 内なる思い 外に出る 出て来た時に 見極めること』『裡にある 思いをすべて 手放して 心のなかを 空にすること』『この胸に いかなる思いも ない時に すべてのものと 融合できる』『この胸に いろんな思い ある限り 地球の上で 輪廻転生』『胸にある 思いをすべて 理解して 手放し切れば カルマを抜ける』『見極めも 手放すことも 同じこと 自分自身を 理解すること』『人の世を 味わい尽くし 体験し 深く理解し みんな手放す』『見守りの ベースの上で 見極める 見極めながら 現実創造』『空という ベースの上で 色という この世を生きて この世を愛でる』『大空に 己が意識の ベース置き 流れ過ぎゆく 雲を眺める』これが日記を書き始めて1255日目の心境。
2008.06.09
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今日の屋久島は、曇。雨は降っていない。今日からガイドの仕事が8日間続く。梅雨時にしては珍しい。人は、快を求め、不快を避けようとする。それは、本能。命を守るためのシステム。自己保存の本能。一度体験した快と不快は、記憶される。次からは、その記憶を基に行動する。その方が、効率的。同じことを何度も繰り返す必要がなくなる。しかし・・・記憶は、万能ではない。時間が経てば、状況も変わる。記憶が役に立つとは限らない。記憶に頼り過ぎると、足元をすくわれる。記憶だけを拠り所にすると、危ない。今ここにフォーカスして、注意深く生きる必要がある。記憶を活かしつつも、フォーカスは今ここ。記憶は、両刃(もろは)の剣(つるぎ)。記憶は役にも立つが、危険でもある。強烈な記憶は、人を迷わせる。鮮烈な快の記憶は、再び快を求めさせる。それは思考によって増幅され、執着となり、欲望となる。そうなると、過去に縛られて生きることになる。過去ベース、記憶ベースとなり、今を生きれない。今ここが抜けてしまう。過去の強烈な不快の記憶は、必要以上に回避の行動を取らせる。トラウマとなった不快の記憶は、人を恐れさせる。似たような状況になった時、記憶が甦る。そうなると、本能的にその場から逃げようとする。それを何度も繰り返し、パターン化することさえある。強烈な不快の記憶は、潜在的に人を支配する。不快を避けようとするのは、本能。それは命を維持するために必要なこと。しかし、必要以上に恐れることは、必ずしも命の維持に役立たない。むしろ逆の場合もある。にもかかわらず、恐れに負けて現実逃避しようとする。過去の記憶に完全に支配される。ヘビに噛まれたり、ケガをした場所を記憶するのは必要なこと。それを記憶していないと、同じことを繰り返す。記憶を基に注意深く行動することによって、危険を避けられる。命を維持するために記憶は役に立つ。しかし、強烈な不快の記憶は、人の自由を縛る。ヘビを見ただけで、身動きができなくなったりする。記憶が心身をフリーズさせる。記憶が人を支配することもある。それでは、何のための記憶かわからない。記憶は、命を守るためのもの。記憶に使われては、命が守れない。記憶は、使われるのではなくて、使わなければならない。激しく叱られたり、裏切られた記憶は、強く心に残る。それも必要な記憶。それがないと何度も同じことを繰り返す。しかし・・・記憶がすべてではない。似たような状況の度に、また叱られるのではないか、また裏切られるのではないかと疑心暗鬼になる必要はない。それでは、ビクビクして一生を終ることになる。記憶は、あくまで参考。記憶に主体性を手渡してはいけない。主体性は、あくまで自分が保持する。記憶は、活用して使うだけ。記憶に使われては、本末転倒。恐れも自分を守るためには必要なもの。しかし、恐れに支配されては、元も子もない。恐れは、慎重になりなさいという注意信号。その時は、ストップするのではなくて、徐行すること。黄信号が点滅している交差点に、スピードを落とさずに突入したら危ない。徐行するか、一時停止する必要がある。しかし、恐れのあまりフリーズしては、そこから先へ進めない。人生が、そこでストップしてしまう。記憶も必要。恐れも必要。いずれも自分の命を守るためのシステム。そのことを理解したうえで生きることだろうか。記憶は、今を十全に生きるためのもの。今に役立たせるための機能。記憶に縛られて今を十全に生きられなかったら、本末転倒。何のための記憶かわからない。人は、快を求め、不快を避けようとする。それは、自己保存の本能。それ自体には、何の問題もない。では、何が問題なのだろうか。それは、記憶ベースになってしまうこと。過去ベースになり、今を忘れてしまうこと。過去に縛られ、今を自由に生きれなくなること。強烈な記憶に縛られ、今ここにいないこと。記憶は、必要。バスに乗る時でさえ、記憶がないと困ってしまう。それは、生きる役に立つ。しかし、今を生きることを妨(さまた)げる場合もある。過去の経験から学ぶことは、必要。知識は、役に立つ。しかし、過去の経験に翻弄されては、自分を見失う。記憶は必要だけれども、記憶に支配されてはいけない。しっかりと今ここを生きる。記憶は、活かして使う。間違っても記憶に使われない。主体性を記憶に譲り渡さない。今ここの意識は、空白。ゼロベース。その空白のゼロベースの感覚を、しっかり把握することだろうか。その空白の感覚の一部に記憶がある。快を求め不快を避けても、別に問題はない。それは、本能。命を維持する装置。但し、条件がある。今ベースで生きること。過去ベース、記憶ベースで生きないこと。過去の快や不快に支配されては、今を生きることはできない。それでは、記憶の奴隷。今ここは、ゼロベース。空白ベース。その空白の意識のほんの一部に記憶がある。意識を記憶に委(ゆだ)ねない。記憶に使われない。記憶を使いこなす。今ここは、空白ベース。ゼロベース。空白ベースとは、無限ということ。記憶ベースは、有限。空の世界にベースを置き、色の世界を生きる。空白の意識で、記憶を活用する。今ここは、空白。ゼロベース。つまり、空ということ。空にあって、色を生きる。色とは、目の前に見えるもの。しかし、それらも次の瞬間には変化している。あるようで、実体はない。色は、空に他ならない。色即是空。過去の記憶も、実体のないもの。単なるデータ。そんなものに支配されないこと。今ここの意識をしっかりと持つ。今ここの意識とは、空白、ゼロベース。そのゼロベースの意識のなかで、感覚や感情や思考が活動する。記憶も、そのなかの一部。空の意識のなかに、色がある。宇宙空間のなかに星々があるように。空という現象があるわけではない。見えているのは、色だけ。空即是色。空ベース。しかし、現実は、色。色に翻弄されないことだろうか。今ここは、空。何もない。基本は、ゼロベース。その空ベースのなかで色を生きる。記憶を外せば、色も空もない。色即是空。空即是色。今ここには何もなく、すべてがある。『記憶とは 命を生かす ためのもの 命のために 記憶を使う』『恐れとは 命を守る ためのもの 必要以上に 恐れ抱(いだ)かず』『黄信号 点(とも)ったならば ゆっくりと 注意しながら 徐行運転』『黄信号 点った時は 注意して 記憶参照 支配されずに』『無視せずに 使いこなして 役立てて 支配されずに 記憶活用』『空白の 意識の一部に 記憶あり 記憶は使い 活用するもの』『色ベース 現象(しき)に翻弄 されるまま 自分失い 路頭に迷う』『空ベース 色の動きを 見守って 色を包んで 色と生きゆく』『星々が 瞬(またた)く宇宙(そら)が 空ベース 煌(きら)めく星が 色の移ろい』『今ここは 空がベースの ゼロベース 空のなかには 愛がいっぱい』『目に見える 景色はすぐに 移りゆく 色といえども 空と変わらず』『何もない この空間が ゼロベース 空をベースに 色を生き抜く』 『今ここは 色もなければ 空もない 色即是空 空即是色』これが日記を書き始めて1254日目の心境。
2008.06.08
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今日の屋久島は、朝から豪雨となっている。7時頃には雷も鳴っていたが、今は落ち着いている。雷が鳴り出すとパソコンができなくなるので、できれば雨だけにしてほしい。昨日から水晶祭りの写真を撮り始めたのだが・・・今日は暗くて、できそうもない。午後になれば明るくなるだろうか。今回は、蟹座の水晶祭り。次の満月は、6月19日。今回も30組前後の水晶が登場する予定。いつもなら写真撮影は、まだ先。ところが、明日から8日間仕事が続く。そこで早めに撮ることになった。今回はクリアーなものが、これまでになく多い。たぶん、これまでで最高だろう。これだけ粒ぞろいの水晶祭りはなかったような気がする。長い間、自宅にある水晶のトップに君臨してきたものも出る。それは、ガネーシュヒマールのクリアーなポイント。このポイントには、名前が付いている。その名は、ホワイトスノー。根元が、雪のように白い。透明感は、抜群。トップも完璧。その質感が、すごい。ヒマラヤ水晶の最高レベル。ファセットには、たくさんのレコードキーパーが付いている。しかも、それらのレコードキーパーは、立体感があって大きい。肉眼でもはっきりと見える。昨日は、このレコードキーパーを撮るのに苦労した。この水晶をこんなに早く手放すとは、夢にも思っていなかった。サイズは、5~6cm。そんなに大きくはない。しかし、美しい。ヒマラヤの雪の精(エッセンス)という感じ。これだけ美しく、しかもクオリティの高い水晶は、そうそうあるものではない。これまで宝物のように大切にしてきたもの。それなのに、なぜ手放すのだろうか。ふと、そういう気になった。そういう時期が来たということだろうか。あの世に持って行けるわけではない。すべて、いつか手放すしかない。この世のものは、必ず別れの時が来る。どんなに執着しても、別れの来ないものはない。ただ早いか遅いかの違いだけ。何であれ、ひととき一緒にいるだけ。この水晶は、もう2~3年一緒にいる。いつも手の届くところに置いてあった。毎日眺めて楽しんだ。十分に味わったということだろうか。旅立つ水晶があれば、新たにやって来る水晶もある。出会いと別れが、常に繰り返されている。すべての現象も、出会いと別れ。瞬々の出会いと別れ。この世は、出会いと別れの繰り返し。いつまでも一緒にいたい?いられる限りは、そうすればいい。しかし、いずれ別れの時が来る。そのことをわかったうえで、今一緒にいる時を楽しむことだろうか。いつまでも執着しないことだろうか。執着すれば、苦しみが生まれる。今一緒にいるものを愛でて、楽しく生きることだろうか。やがて別れの時が来る。別れの時まで一緒にいればいい。一瞬一瞬を楽しく過ごせばいい。今、目の前にあるものが、すばらしい!『巡り来て やがて去りゆく 水晶を 眺めて愛でて 触って愛でる』『人の世は 出会いと別れ 繰り返し 流れ流れて 果てない旅路』『執着が なければすべて サラサラと 流れゆくだけ 苦しみもなく』『掴むから 引き離される 苦しみが 自分のなかに 芽生えてしまう』『目の前の 移ろう姿 美しく 移ろうままに 愛でて楽しむ』これが日記を書き始めて1253日目の心境。
2008.06.07
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今日の屋久島は、太陽が出ている。出てはいるけれども、薄い雲が島全体を覆っている。晴と曇の間。山は、ぼんやりと霞んでいる。インド北部の聖地、パルバティ。シバ神の妻が住むと言われるところ。そこから来たクラスターを分解した。最も美しいポイントを取り出したかった。ところが・・・そのポイントを取り出すことには、成功した。しかし、クラスターは、ほとんど跡形もなく消えてしまった。後には、2本のポイントが残ったのみ。この2本は、最初はくっついていた。できればその状態で取り出したかった。しかし、バラバラに離れてしまった。離れた後に、大きな剥離跡が残った。この2本のポイントは、美しい。しかし、剥離跡が大き過ぎる。これでは水晶祭りには出せない。最近は、水晶祭りに出す基準が上がっている。どうしたものか・・・しばらくそのままにしておいた。一昨日、閃くものがあった。この水晶の上に置いてみたら?何を?小さな水晶などを。アクアマリンが最初に思い浮かんだ。透明な水晶の上に濃いブルーのアクアマリンを置く。美しい!下の水晶は剥離跡があるとはいえ、パルバティのクオリティの高いポイント。上のアクアマリンは、カンチェンジェンガの最高級のもの。両方とも、クオリティは抜群!次に、ピンクのローズクオーツの結晶を置いてみる。こちらも美しい。剥離跡があるために仕舞われていた他のポイントも出す。それらの上にカラフルな水晶を置いてみる。実に美しい。新しい発見。これまでは、アクリル台がメイン。遊びで屋久島の貝を使ったこともある。貝も悪くはなかった。しかし、透明な水晶のポイントを使うと、格別。本当に美しい。剥離跡は裏側なので見えることはない。そのポイントの上に載るのは、クオリティが高くて小さなもの。これまではオーダーメイドの小さなアクリル台の上に載っていた。それはそれで美しい。でも、個性的とは言えない。透明な水晶の上に載ったカラフルな存在たちは、その美しさが際立つ。コーディネイトの妙?創意工夫?遊び?いずれにしても、楽しい。あるもので、ほんのちょっとした工夫で楽しめる。人生とは、そのようなもの。創意工夫。自分の人生は、自分でコーディネイト。そんなことは、既にやっている?確かに。女性であれば、毎日、何を着るかコーディネイトしているかもしれない。それも楽しい。他にも楽しみは、たくさんあるだろう。人生そのものを楽しむことだろうか。前向きに創意工夫して楽しむことだろうか。生きることに必死で、そんな余裕はない?それも人生。しかし、同じ人生ならば、楽しい方がいいのでは?日々の暮らしを、楽しくコーディネイトすることだろうか。日常を改めて見直して、再コーディネイト。部屋の模様替えでもいい。生活のパターンの変更でもいい。これまで当たり前であったものを、少しだけ変更する。それだけでも、楽しくなる。新しいものは、刺激的。お金がない時は、工夫するしかない。あるものの組み合わせを変える。あるいは、安いものを一つだけ加える。それによって組み合わせのレパートリーが大幅に増える。そういうふうにして楽しむ。その辺りに落ちている美しい石でさえ、コーディネイトの材料になる。野の花はもちろんのこと、周りを注意深く見渡せば、創意工夫の種は尽きない。問題は、自分の意識がマンネリ化していること。意識のマンネリ化がなければ、日々、新しい発見の連続。飽きることはない。意識が惰性に陥ると、人生の鮮度が落ちる。意識が新鮮であれば、人生は常に新鮮。すべては、意識しだい。意識が、人生を決める。この世界は、創造宇宙。自分が創り出す世界。望みの世界を現実創造。それが、生きるということ。どんな小さなことでもいい。自分ワールドを創ればいい。創意工夫して創って楽しめばいい。それが現実創造。小さな日常のことから大きな宇宙的なことまで、基本は変わらない。自分の望む現実を自分で創って楽しむ。自分一人で楽しんでもいいし、みんなで共有してもいい。一人で創る現実創造も、みんなで創る現実創造も、共に楽しい。これからの時代は、お金はあまり重要ではなくなる。お金よりも自由な意識。しなやかでフレキシブルな意識。何ものにも囚われない軽やかな意識が、ポイントになる。そのような意識があれば、楽しく生きられる。自分の望む現実を創り出せる。これまでは、望む現実をお金で買った。しかし、これからは自分で生み出す。自分の意識のなかに宝ものは埋まっている。無限の宝が宿っている。それに気づくことだろうか。それを引き出して楽しむことだろうか。これからは、楽しい時代になる。生き方を間違えなければ。いつまでも古い生き方にこだわらなければ。古いものを手放して、自由に生きられたら。現実創造が、自由自在にできるようになる。自分の望む現実を確実に創り出せるようになる。意識が自由になれば、自由に現実創造ができる。まず、自分の意識を解放することだろうか。古く重たい意識を、すべて手放す。すべて手放しても、不思議なことに生きていける。何もいらない。何もなくても、実は生きていける。自由な意識さえあれば、今あるもので十分に楽しめる。古い意識が、それを邪魔しているだけ。意識が変われば、すべてが変わる。意識が変われば、人生が変わる。これまでのものをぜんぶ手放しても、生きていける。逆に、軽やかに、さわやかに生きていける。これからの時代は、できるだけ持たない時代になる。これまでは持つことに価値があった。所有こそが、豊かさだった。それが、自我の時代。「私」とは、所有に他ならない。自分のものと思っていたものが、「私」そのものだった。そういう時代は、もう終わろうとしている。できるだけ多く所有して重たく生きた時代は、終わるしかない。それでは、シフトは起きない。軽くならなければ、アセンションなど起きようがない。何も所有しないからこそ自由に生きられる。何かを所有すれば、所有したものに縛られる。所有する必要はない。自分で創り出せばいいだけ。大切なことは、何でも望むものを創り出せる意識になること。過去ベースで生きるのではなくて、今ベースに転換する。今のなかに自由はあり、今のなかに創造がある。今、空っぽになることによって、新しい発想が生まれる。楽にやればいい。楽しく生きればいい。型にはまることはない。自由に、しなやかに生きればいい。『古い枠 外してみれば 新しい 意識芽生えて 自由が踊る』『発想や 見方を少し 変えるだけ もっと自由に 楽に生きれる』『室内の 固定外して 模様替え フレキシブルに 頭も転換』『安定と 変化のバランス どこでとる 波乗りゲーム 飽きることなし』『いのちとは 変化すること 動くこと 固定してては 死んだも同然』『生きるとは 常に動いて 変化して 新たな創造 続けるいのち』『安全の ために小さく 固まって 頭で自分 縛って生きる』『安全を 手放す時に 人生は ダイナミックに 動き始める』『手放して また手放して 手放して 手放し抜いて 何も残らず』『何もない ところにすべて 揃ってる 手放し抜けば 豊饒(ほうじょう)が待つ』これが日記を書き始めて1252日目の心境。
2008.06.06
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今日の屋久島は、珍しく晴れている。風もあり、絶好の洗濯日和。少し靄(もや)っているけれども、穏やかな天気。山も滝もはっきり見える。自宅の水晶が、なかなか減らない。次の蟹座の水晶祭りに出るものを差し引いても、まだ300個以上ある。なぜ減らないのか。答は、簡単。良いものが出ると、すぐに買ってしまうから。新しいものが、性懲りもなく次々と届いている。これでは、いつまで経っても減ることはない。水晶祭りは、当分終わりそうにない。購入するのは大きなものだけにするつもりだった。ところが・・・美しいものやユニークなものがアップされると、つい買ってしまう。ほとんど水晶中毒?いつでもすべて手放せるつもりではいるが、美しいものには弱い。まだ楽しんでいてもいいかなという感じ。今、自宅には12cm以上のポイントが、17本ある。どれも無研磨のもの。透明感もあり、形も美しい。この17という数字は、キープしたいなと思っている。既に2本、12cm以上のカテドラルを新たにオーダーしてある。近日中には届く予定。これが届いたら、今あるなかの2本を水晶祭りに手放す。そういう感じで17本という数を保持したい気分になっている。なぜかはわからない。ただ・・・その17本が机の上に並んでいる光景は、壮観!完全にエネルギー場ができあがっている。なかなか12cmを超えて美しい水晶は少ない。濁ったり形が崩れているものが多い。美しいフォルムと透明感を併せ持つ大きな水晶は、稀。買いたくても、ネット上にはほとんどない。新規にアップされるのを気長に待つしかない。そのなかでも、シトリンやカテドラルは貴重。そういう大きな水晶たちと暮らせることは、とても幸せ。場のエネルギーが、透き通る。クリアーなエネルギー場が出現する。ピュアー、ピュアー。まるでストーンサークル?確かに、そのようにも見える。ミニチュアのストーンサークル。クリスタルサークル。エネルギー場ができあがったところで、しばらくkimi水晶館はクローズしたいと思っている。これまでは、見たいと言われれば、見てもらっていた。しかし、他の人が入ると、どうしてもエネルギーが乱れる。再調整するのに時間がかかる。しばらくピュアーなエネルギー場をキープしたいと思っている。他の人が入って来ても瞬時に浄化されるレベルになったら再開するかもしれない。それまでは、しばらく水晶見物は、お断りするつもりでいる。もう少しこの場をエネルギーアップしたい。たまに水晶を直接買うことはできないかと聞かれることがある。実物を見て購入したいという気持ちは、わからないでもない。しかし、ここは水晶屋さんではない。ほしいと言われても、譲りたいとは限らない。それに価格も決まっていない。価格は、水晶祭りに出る時に決まる。普段は売り物ではないので、価格設定はされていない。ただ、購入価格は、調べればわかる。でも、そこまでして売る必要もない。水晶祭りで十分。水晶祭りを開催するのは大変な手間だが、やること自体は楽しい。お金も入るし、喜ばれるし、光もばらまかれる。現時点では、メリットばかり。水晶を新規に購入する限り、続きそう。毎月ではなくなっても、完全に終わるのはかなり先かもしれない。新しく求められる方も毎月いらっしゃるので、これからも需要はありそう。水晶は、エネルギーの増幅装置。自分の望むエネルギーを増幅できる。つまり、望む現実を創る際のサポートアイテム。特にシトリン(黄水晶)などは、現実化の水晶そのもの。自分の望む現実をこの世に定着させる時に、シトリンはとても役に立つ。シトリンの天然結晶は少なく、なかなか無研磨のものは出ない。それでも、時々はアップされる。丹念に水晶のサイトをチェックしていると、たまに当たることもある。シトリンも、できるだけ水晶祭りに出すように心がけている。毎回、1個ずつぐらいは出したい。みんな順番に出す感じになっている。これまで宝物扱いしてきたものも、出してもいいかという気になっている。例外はない。すべて順に出していくことになるだろう。一緒にいられる間、心から楽しむしかない。やがて、すべて旅立つ。すてきな水晶たちが、旅に出る。すばらしい水晶たちが、旅に出る。新しい出会いを求めて。水晶と人との出会い。今一緒にいるひとときを大切に生きるしかない。人も水晶も同じ。自然の移り変わりも同じ。今ここを味わって生きるしかない。『十七の 水晶集い 気がつけば ストーンサークル 目の前にあり』『順番に 届いた水晶 順番に 手放していく あるものすべて』『目の前に 今あるものを 愛でていく 今あることの 尊さ感じ』これが日記を書き始めて1251日目の心境。
2008.06.05
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朝から鳥の声が、こだましている。いろんな種類の鳥が、鳴いている。なんとも心地よい響き。まるで別荘にいるような気分。屋久島へ来て、はや六年目。すべては、夢のような感じ。60年近い人生は、記憶のなかにあるだけ。今ここにあるのは、鳥の声や水晶たち。世間よりかなり遅れて韓国の大河ドラマを見ている。「チャングムの誓い」と「商道(サンド)」。「チャングムの誓い」は、DVDのレンタル。「商道(サンド)」は、BS朝日で連日放送されている。これらのドラマは、韓国の同じ放送局で制作され、演出家も同じ。スタッフも似ている。同じ俳優が、両方に出演している。もちろん、役どころは異なる。同じ役者が、別の役を演じる。善人が悪人になり、二枚目が三枚目になる。悲劇のヒロインが、悪女に変身したりもする。役者は、いろんな役を演じるのが仕事。それは、なんとなく人生に似ている。今は、この肉体で、このキャラクター。しかし、20年前は、肉体もキャラクターも違っている。子供時代と大人になってからでは、大幅に異なる。これが過去世となれば、まったく違ってくる。しかし、役者は、同じ。周りにいる役者も、もしかしたら同じかもしれない。ただ役どころだけが違って・・・なんだ?我々は、劇団?地球劇団?それとも、銀河劇団?もしかしたら、そうかもしれない。いろんな劇を演じて渡り歩いているのかもしれない。どさ回りの旅役者?いやいや、銀河回りの旅芸人?いろんなところで、いろんな役を演じている。豊かであると言えば、こんなに豊かなことはない。それは、目の前の水晶と似ている。いろんな種類の水晶がある。一つとして同じものはない。しかも、次々に新しいものがやって来る。飽きない。水晶は、すばらしい!人生も、すばらしい。いろんなことが起きる。思わぬハプニングもある。予期せぬ出来事に慌てたりもする。すてきな出会いもあれば、辛い別れもある。楽しくてしかたがないこともあれば、涙が止まらないこともある。快の極みもあれば、苦の極みもある。山あり谷あり・・・そうやって一つの人生が終了する。それから、また新しい人生にチャレンジする。赤ちゃんからやり直す。別の役で新鮮な人生を体験する。今は、人間として生きている。人間以前もあるかもしれない。人間以降もあるかもしれない。人間だけが、すべてではない。いろんな経験を重ねている。いろんなドラマを演じている。それが、宇宙劇場。宇宙曼荼羅。美しい水晶を生み出すように、美しい人生も創造されている。美しい水晶を生み出しているのは、誰?天使?自然?では、そういう自然のメカニズムを創ったのは、誰?創造主?いやいや、創造主は、そんな細かいことまではやらない。八百万(やおよろず)の神々?それぞれの次元に、それぞれの意識がある。それぞれの意識に、それぞれの役割がある。それぞれが、それぞれの役割を果たし、宇宙が創造されている。人も、その一端を担っている。星にも意識がある。自分のなかで数多(あまた)の生きものが育つのを見守るのは、すてきなこと。母親のビッグバージョン。星雲の誕生を見守る意識さえありそう。それもまた基本的には、母親の心と違わない。母心があれば、父心もある。もしかしたら、父母一体の意識もあるかもしれない。男女に分かれる以前の両性具有の時代のように。今も両性具有の生物は存在する。自己増殖?進化して、雌雄に分離・・・複雑化のプロセス。進化とは、細分化であり複雑化。分離の連鎖。水晶の母岩から、たくさんのポイントが林立するようなもの。そのポイントからも、また小さなポイントが生まれたりもする。宇宙とは、ひとつからの細分化と複雑化。細かくなり過ぎると、専門バカが生まれる。「手術は成功しましたが、患者は亡くなりました。」という世界。科学もあまりにも細分化されて、全体を見失いがち。人も、あまりにも個別化され過ぎて、本質を見失っている。今という時代は、そういう時代。細分化、個別化が極大になった時代。陰極まれば、陽。極まったものは、反転する。個から全体へ。流れは、逆転する。これまで細分化してきたものが、統合へ向かう。バラバラに分断されていたものが、再統合へ進んでいく。流れが、変わる。個から全体へ流れ始めている。それが、今の人類の流れ。今の地球の流れ。それは、銀河系の流れでもある。個であり全体であるという流れ。大河ドラマは、既に結末が決まっている。しかし、見ている方は、わからない。だから、面白い。わからないから、ハラハラドキドキする。クライマックスでは、体を乗り出して見入ったりもする。映画やドラマでさえも、そうなる。これが実際の人生なら、ハラハラドキドキでは終わらない。泣き喚(わめ)くことさえ起きる。病気になる人もいれば、自殺する人もいる。成功を勝ち取る人もいれば、ホームレスになる人もいる。人生いろいろ。うまくいく時もあれば、失敗する時もある。そのすべてを、鳥のように俯瞰(ふかん)しながら生きることだろうか。個として真剣に生きることも必要。しかし、それだけになると、全体が見えなくなる。すべてを見守る意識があると、人生に余裕が生まれる。行き詰ることがなくなる。冷静に、ゆったり生きることができる。目先のことに振り回されることが少なくなる。心身が安定する。一人の人として、真剣に生きる。それと同時に、自分を含めたすべてを見守っている。母親のような気持ちで自他を見守っていれば、心はあたたかい。行動する男性性と、それを見守る女性性。その両方があると、バランスが取れる。何事も極端に偏らない。調和され、平和に生きることができる。自分を見失うことがなくなる。『星々で 地方公演 旅役者 碧(あお)き地球は クライマックス』『細分化 個別化してきた プロセスが 統合される 流れに変わる』『真剣に 生きるだけでは 全体が わからなくなる 見守りないと』『行動と 見守る意識 ある時に 調和のうちに 現実創造』『何事も 抱(いだ)き参らせ 母心 大和心は 見守る心』 これが日記を書き始めて1250日目の心境。
2008.06.04
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今日の屋久島は、ほぼ一日、雨が降っていた。今は、かなり激しい雨が降っている。梅雨の屋久島、真っ盛り。こんな日は、水晶を眺めて暮らしている。2009年バージョンの水晶を見ていると、自分もそのように調整されていく。大きな光の柱が、自分のなかを貫く。この世的な意識は、隅(すみ)に追いやられる。その意識が、とても小さく感じられる。透明で光り輝く光の柱。何もないクリアーなスペース。ただ輝いているだけ。どこまでも透き通っている。この世の意識とは、懸け離れたエネルギー。ピュアーで透明な空間。まったくこの世的な雰囲気はない。霊性そのもの。色がないので、この世的な面白さはない。物語性はない。そこから眺めると、この世の意識はお伽噺(とぎばなし)。ほとんど童話の世界。喜怒哀楽の人間ドラマ。一喜一憂の人の営み。まるで映画や演劇。夢のまた夢。そのなかに入り込めば、リアルな人生そのもの。遠くから眺めていれば、昔話のようなもの。今生だけではなく、何生も何生も生まれ変わる連続ドラマ。役を入れ替わって演じる壮大な叙事詩。透明な水晶を眺めていると、そういうドラマから少し離れる。色の付く前の意識。何もない、クリアーな意識。純粋な意識。色彩豊かなドラマは、見ていて楽しい。しかし、ドラマにはまってしまうと、自分を見失う。大局がわからなくなり、右往左往する。ドラマであることを忘れ、周りに翻弄される。宇宙は、壮大な叙事詩。入れ替わり立ち替わり様々な役を体験できるステージ。主役も脇役もある。脚本も演出も手掛けられる。宇宙全体の大ストーリーのなかで、自分の役どころを決める。その役をやるには、ふさわしい経験がいる。他の役者との連携も必要。みんな繋がっている。宇宙大劇場の地球バージョン。それぞれの水晶に個性があるように、人にも個性がある。これまでの地球での人生経験によって、個性は形作られる。それを生かして、今生を生きる。カラフルな水晶は、個性を表す。透明な水晶は、その元の意識を表す。ピュアーになることも必要。個性を発揮することも必要。個性を貫く魂からの意識。グループソウルに連なる直線的な意識。それとは別の、すべてを包み込む意識。全体に広がる意識。個であり全体であるとは、直線的な意識であると共に広がりの意識でもあること。縦に流れる光の系譜。個性となって現れる霊的な流れ。行動となって表現される直線的な光の意識。それとは別の見守りの意識。個性のない包み込む意識。限りない広がりの意識。すべてに浸透する意識。すべてに浸透し、すべてを包み込む意識。それぞれの個性をあたたかく見守る意識。無条件の愛。空。しかし、この世を生きるのは、色の意識。個性の意識。直線的な光の系譜。光の霊統。光と愛。色と空。個と全体。直線と空間。縦に貫く光のエネルギー。横に広がる愛のエネルギー。光と愛。個であり全体。『個性から ハイアーセルフ 魂と 縦の系譜は 光の系譜』『色という 縦の意識で ドラマして 空(あい)の意識で すべて見守る』『透明な 水晶見れば 透明な 意識輝く 形(うつわ)のなかで』『透明な 意識は降りて いろいろの 形と色の 器に宿る』『透明な 意識はやがて 形超え すべてのなかに 溶けて消えゆく』『意識とは 光そのもの 純粋な 意識のなかに 神の意志あり』『元々の 光のなかに 神がいる 神の意志あり 光のなかに』『包み込む 意識はすべてに 浸透し 人の意識を 超えて存在』これが日記を書き始めて1248日目の心境。
2008.06.02
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朝からヤクシマシャクナゲの花を見に行く。シャクナゲが咲く時期は、里では四月。山の方では、六月。気温が低くなると、咲く時期も遅くなる。ヤクシマシャクナゲは、普通のシャクナゲよりも背が低い。高山地帯で咲くので、自然にそうなったのだろう。ちょうど梅雨時に咲くので、梅雨の晴れ間を縫って見に行くことになる。今日は、朝から天気が良かった。しかし、山の方には、雲がかかっていた。道路を上るに連れて、雨が降ったり止んだりし始めた。駐車場に近づくと、路上駐車の列。これは、すごい!こんなに路上駐車が続くのは、ヤクシマシャクナゲの時期だけ。例年のことなので、珍しくはないのだが・・・一番最後の車の次に止めたのでは、かなり歩くことになる。どこか空いているところを探す。こちらの車は車高の高い四駆なので、こういう時は便利。ハードな道路脇でも止められる。適当なところを見つけて止める。それから水を汲む。どうせ汲むなら、できるだけ早い時間の方がいい。午後よりも午前。午前中でも、朝方。早い方が、気が新鮮。この辺りは、海抜1350mぐらい。水も、1000mを超えると、クオリティが格段に違ってくる。普段は、海抜600mぐらいの不老長寿の水を汲むことが多い。しかし、ここはその倍の高度がある。こちらの方が、やはり水のエネルギーが高い気がする。時々は、ここでも汲む。冷蔵庫に入れれば、一週間ぐらいは大丈夫。飲み水は、基本的に山の水。屋久島でも、水道水にはカルキが入っている。とても飲めたものではない。水道水は、食器洗いや洗濯用。飲み水は、山で汲んでくる。車を止めた辺りにも、たくさんのシャクナゲの花が咲いていた。シャクナゲだけでなく、サクラツツジの花も咲いていた。木霊の森では、とっくに終わっている。高度が違うので、リンゴ椿まで咲いていた。里では、既にアジサイが咲き始めている。テッポウユリの白い花も目立つ。黄色いオオキンケイギクは終わろうとしている。屋久島は、里も山も花盛り。今年は、ヤクシマシャクナゲの当たり年と言われている。シャクナゲは、毎年咲くわけではない。たくさん咲く時と、あまり咲かない時の差が激しい。ここ数年は、あまり咲かなかった。今年は、昨年からたくさんの蕾が付いていた。ヤクシマシャクナゲは、蕾が付いてから咲くまでに八ヶ月ほどかかる。だから、次の年の花の咲き具合が、前年のうちから予想できる。今年はすごいと、昨年から言われていた。ヤクシマシャクナゲが咲く時期になると、島の人も花を見に行く。ちょうど梅雨時なので、梅雨の晴れ間を見計らって行くことになる。だから、集中してしまう。特に今日は日曜日なので、車がいっぱい。まだ満開には、少し早い。そういう意味で、今日は下見という感じ。一緒に行ったのは知り合いなので、ゆっくり海抜1400m辺りを散策。最近よく行く淀川小屋まで歩く。しかし、さすがに人が多い。これでは、まるでお花見。確かにお花見には違いないのだが・・・あまり屋久島らしくない光景。地元の人が、多かった。家族連れにもたくさん会った。子供もいた。みんな、もう帰り道。朝の5時や6時頃から登ったらしい。みんなヤクシマシャクナゲの名所として知られる投石平まで行って来た様子。そこまで行くつもりなら、朝早く出る必要がある。とてもこんな時間からでは間に合わない。こちらは、それほどのつもりはないので、ゆっくり歩く。縦走している観光客も、それなりにいた。梅雨時にしては、観光客も来ている。普段はほとんど人に合うことのない道だが、今日は特別。淀川小屋でも、人がたむろしていた。ゴールデンウイークや夏休み並み。人がたくさんいると、うるさい。特に中高年のご婦人方は、にぎやか。川縁(べり)に降りて、澄んだ水を眺める。ここは、いつ来ても美しい。今年の夏は、ここで沢登りをするつもり。さて、どこまで行けるだろうか。いつもなら静かな川も、たくさんの人が橋を通り過ぎる。ほとんどお祭り。ゴールデンウイークと夏休みと、シャクナゲの時期だけ見られる光景。その他の時期は、ひっそりしている。シャクナゲは、蕾の間は濃いピンク色。花が開くにつれて、色が薄くなっていく。満開になると、ほとんど白に近い。満開を過ぎると、すぐに花びらが茶色くなる。シャクナゲを美しく撮るのは、なかなか難しい。できれば太陽が出ていない方がいい。直射日光が当たると、花の色が飛んでしまう。しかし、あまり暗過ぎると、今度はシャッタースピードが確保できない。フラッシュを使うことはないので、本当は三脚がほしところ。フラッシュを使えば、自然な色が出ない。特にシャクナゲは繊細なので、自然光に限る。明るい曇ぐらいが、理想的。今日の天気は、小雨が降ったり止んだり。時々、太陽が顔を出す。今日は、狐の集団嫁入り?というような天気。シャクナゲの花に水滴が付いて、なかなか美しい。でも、写真のできは・・・まあまあぐいだろうか。それほど本気モードではないので。本気で写真を撮ろうと思ったら、一人で来る。もちろん、三脚も持参。今日は、あくまで下見。散歩程度。シャクナゲの花を見て、楽しかった。美味しい水も汲めた。雨もたいしたことはなかった。こんな日曜日も悪くはない。できればウイークデーの人が少ない時に来たいもの。もう一度来れるだろうか。まだ1週間から10日ぐらいは楽しめそう。本当は、山小屋に泊まるといいのだが・・・屋久島第二の高峰、永田岳(1886m)の西側斜面にたくさんの蕾があるらしい。しかし、それを見るためには、山小屋に一泊する必要がある。日帰りでは、無理なコース。さて、そこまでする情熱が、ありやなしや・・・なにしろ梅雨時なので、雨が多い。雨が止んだ時を見計らって行く必要がある。最低でも二日間は晴の予報が出ないと。なかなか厳しい条件をクリアーしないと、ヤクシマシャクナゲのすばらしい群生(ぐんせい)は見られない。『ピンクから 白くなりゆく シャクナゲの 花を見ながら 森の散策』これが日記を書き始めて1247日目の心境。
2008.06.01
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