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一昨日から三日続けて、引越しの手伝いをしている。引越し先は、屋久島の南の方にある平内というところ。自宅とは、まるで気候が違う。こちらは雨が降っていても、平内は晴れている。同じ屋久島なのに、気温が五度ほど高い。南向きに大きな窓があるので、まるでサンルーム。窓の前は、広い庭。その下は、畑になっている。畑の先には、ほんの少しだけ屋根が見える。その先にあるのは、広々とした海。家から海が一望できる。北側には、山並み。東側には、小さな川が流れている。その上は急な崖なので、人家は見えない。隣家が接しているのは、西側だけ。と言っても、20~30mは離れている。ほとんど周りに人家のない一軒家。環境抜群。しかも、暖かい。本当に南の島という雰囲気。こちらが住んでいるところは、冬場は雨が多くて寒い。平内は、晴の日が多くて暖かい。まるで裏日本と表日本ぐらいの差がある。同じ屋久島でも、場所によって気候がまったく異なる。大きな家で、全部で四部屋もある。12畳の洋和室、10畳の和室、6畳の洋室と6畳の和室。広い台所に広い風呂場、トイレまで広い。庭も広く、その上、車庫まで付いている。南側と北側は、大きな空き地になっている。暖かくて、眺望が良くて、隣が離れていて・・・文句のつけようのない最高の場所。ところが、女性が一人で暮らすとなると・・・ちょっと広過ぎる。その結果、淋しい・・・なんとも贅沢な話だが、実際、一人では広過ぎる。掃除をするのも、戸締りをするのも大変。そういう訳で、「居候する?」という話になった。最初に見た時は、「居候させてくれる?」だったのが、立場が逆転。変われば変わるもの。さてさて・・・彼女とは、過去世から深い縁がある。何度も父娘や兄妹をやっている。彼女は、ある過去世のビジョンを見たらしい。それは、父親であるこちらが縛り首になっている光景。彼女はまだ幼く、母親と二人で変わり果てた父親の姿を目にした。その時、とても淋しい思いをした様子。それが、父親に対する未完了感として残ってしまった。そういうことで、今生、再会することとなった。そういう意味では、しばらく一緒に暮らしてもいいのかもしれない。平内は冬の間は暖かいので、一緒に住んでもいいかとも思う。しかし、夏場は暑そう。今住んでいるところは、夏場はわりと涼しい。今のところには、六年間住んでいる。いつもいるとわからないが、他のところに行ってみると、自宅が客観的にわかる。ここは、すごいことになっていた。エネルギー状態が、まるで違っていた。平内の家は、普通のところ。どこにでもある世俗という感じ。ところが、自宅は・・・既に世俗ではなかった。光に満ちていた。ほとんど神殿に近かった。たくさんの水晶があるからだろうか。それとも、四年間、日記を書き続けてきたからだろうか。いずれにしても、その波動は既に世俗を超えていた。極めてクリアーな空間。澄み切ったエネルギー場。光が満ち満ちていた。ここを出るのは、もったいない気もする。でも、冬場は平内に住むのも悪くはない。ガイドのシーズンが始まっても、本当は平内の方が便利がいい。というのは、お客さんが泊まる宿が南の方に多いから。ここからでは、迎えに行って、山へ行って、送って行って、また戻ってくる必要がある。長い長いドライブとなる。屋久島へ来た当初は、そのうちに南の方に引越したいと思っていた。そういう意味では、理想的な場所。しかし、六年間、ここに住んでいる間に、ここも気に入ってしまった。ここは風が強いところなので、常に気が新鮮。とてもクリアー。それに自宅の地下には天然の水晶まで埋まっている。ここは、屋久島の最も東に位置する。東と南を行ったり来たりするという方法もある。まだ決めかねている。平内の方に泊まってみてから決めることになるのだろう。新しい家にADSLが付くには、もう少し時間がかかる。パソコンができるようにならない限り、転居という選択肢はあり得ない。今最も為すべきことは、日記を書くこと。それには、パソコンが必要不可欠。日記を書くということをメインに、他のことを決めるしかない。最低でもあと二年は、日記を書くだろう。その後のことは、わからない。今は、日記ベースで生きるのみ。『気がつけば 自宅は既に 別世界 光に満ちた 光の神殿』これが日記を書き始めて1459日目の心境。
2008.12.31
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昨夜は、フィギュアスケートの全日本選手権をやっていた。浅田真央が、見事に優勝。すばらしい演技だった。他の選手とは、次元が違う感じだった。優勝したり入賞したりすれば、自信となる。誇りとなり、自分の拠り所となる。しかし、それは両刃の剣。プライドは、やがて負担ともなる。恥ずかしい演技をしてはいけない。前回の優勝者にふさわしい演技をしなければならない。周りの人とは一味違う演技をする必要がある。そう思い出すと、プレッシャーとなって苦しくなる。若くして優勝したりメダルを手にした人の多くが、プレッシャーによって潰れていった。大きな栄光は、それに見合うプレッシャーを生み出す。色の世界は、相対の世界。光が当たれば、影もできる。人は、経験をベースに生きている。過去の栄光を自分の拠り所として生きている。自分とは、過去の栄光。あるいは、過去の心の傷。会社を興して成功した。定年まで無事に務め終えた。子供を立派に育て上げた。誰にも負けないマイホームを手に入れた。みんなから美しいと言われる。会社で業績を上げた。みんなに認められた。周りから尊敬されている。学校の成績がよかった。運動会では、いつも一番だった。クラブ活動では、リーダーだった。選手権大会に出場した。自分の先祖は、お殿さま。自分の過去世は、王侯貴族。自分の子供は、エリート校に合格した。自分の子供には、人並み外れた才能がある。映画やテレビに出たことがある。誰よりもカラオケが上手。美味しい料理なら任せて。ファッション感覚抜群。一流会社に勤めている。何と言っても、公務員。いやいや、会社を経営している。大金持ちの御曹司。ファッションモデル。デザイナー。女子アナ。プロ野球やサッカーの選手。社会的に有名になればなるほど、プライドも高くなる。しかし、普通の庶民でも、それなりにプライドを持っている。それが、自分の拠り所。それこそが、自分自身。自分が誇りにしているものが、自分自身。自分が所有しているものが、自分自身。所有しているものは、過去の経験。過去の栄光。実は、所有しているものは、栄光だけではない。その逆の惨めな体験も、しっかり所有している。それは、誰にも言わない。人には言えない自分の秘密。自分だけの秘密は、心の傷であったりコンプレックスであったりする。不思議なことに、人はポジティブなものだけを所有しているわけではない。ポジティブなものと同時にネガティブなものも所有している。それが、自分というものを構成している。しかし、表に出すのは、ポジティブな部分だけ。ネガティブな部分は、一人ですねる時のために取ってある。あるいは、誰かに甘えるために保存してある。永久保存版として潜在意識の奥に閉じ込めている人もいる。人は、自分の過去をベースに生きている。経験ベース。その経験に基づいた自分というイメージベース。自分は、こうだから・・・そんなこと、自分にはできない。誇りが許さない。そんなことをしたら、周りから何と言われるか・・・そんなみっともないことはできない。人は、すばらしい体験を所有し、惨めな体験を所有する。それらをベースに自分を生きる。それが、人の生。波乱の人生。体験は、色。一瞬のもの。すぐに過去に変わってしまうもの。色褪せない色はない。色の世界にこだわれば、無常の風に晒(さら)される。今日の栄華は、明日の没落。昨日まで賛辞を惜しまなかった人たちが、一度の不渡りで豹変する。昨日までの成功者が、今日は経営者失格の烙印を押される。成績が良くて親の言うことをよく聞く子が、突然、登校拒否になる。自慢の子供が、家庭内暴力を振るい始める。出世コースを歩いていたつもりが、突然、リストラされる。ヒット作を世に送り続けるために、薬に溺れる人もいる。移り変わる色の世界をベースに生きれば、心がやすらぐ時はない。色の世界は、無常の世界。それは、自然と変わらない。自然は、常に変化している。自然の変化を嘆いても、しかたがない。変化と共に生きるしかない。変化を楽しみながら生きるしか術(すべ)はない。美しいままに留める方法はない。体験にこだわらないことだろうか。体験に執着しないことだろうか。どんなにすばらしい体験も、所有すれば、それに縛られる。体験と自己同一化すれば、その体験の奴隷となる。体験は、体験。ただ楽しむ。十二分に楽しんで、手放す。けっして所有しない。所有しないとは、それと自己同一化しないということ。体験は、体験。終わってしまえば、ただの記憶。それを自分にしないで、ただの記憶にとどめておく。体験を所有すれば、体験が自分となる。自分は、過去によってできあがる。過去の集大成が、自分。自分は、過去の結果。色の世界は、移り変わりを楽しむところ。四季折々を楽しむのが、色の生き方。流れるものをとどめようとすれば、抵抗が生まれる。色にこだわれば、苦しみが生じる。既に過ぎ去ったものに、いつまでもこだわれば、嘆きは終わらない。悲しみと苦しみが、心を満たす。後ろを向いて歩けば、今この時を思う存分楽しむことはできない。今が、過去の色に染まってしまう。自分が誇りにしているものは、すべて過去。自分の拠り所は、すべて過去の経験。そういう過去ベースで生きる限り、プラスとマイナスの世界。誇りは、いつの日か傷つけられる。プライドは、同じプライドを持つ人が否定してくれる。プライドが否定される時、自分が否定されたような錯覚に陥る。自分が否定されれば、自分を守るために相手を否定する。プライドとプライドが、お互いを否定し合う。自分の拠り所が否定されることは、自分が否定されること。自分が否定されては、心の安定は保てない。新たな拠り所を探すか、悲劇のヒロインに酔いしれるか。あるいは、あくまで相手を否定して、自己正当化を図るか・・・自分とは、何?自分は、何によってできあがっている?誇りや心の傷?自慢や自信やトラウマ?自分を支えているものは、何だろう?自分の拠り所は、何だろう?自分の存在のベースは、何だろう?問い直してみる時、何があるだろうか。人は、過去からできている。自分とは、過去の産物。過去がなければ、自分もない。自分を支えているのは、過去の記憶たち・・・自分とは、過去に支えられている、か弱い存在。まるで、波打ち際の砂上の楼閣。波が来れば、みんな壊れてしまう。嵐になれば、形を留めることはできない。一つ一つの体験に、こだわらないことだろうか。それらを所有しないことだろうか。それらから自分というイメージをつくり出さないことだろうか。ただ体験し、体験するだけにとどめることだろうか。色にこだわれば、心は常に揺れ動く。色に執着する限り、心が安定することはあり得ない。色とは、移り変わるもの。変化してやまないもの。空にベースを置き、色を生きる。その時にだけ、心はやすらぐことができる。変化変滅する現象に囚われれば、現象と共に心も揺れ動く。変化してやまない色の世界に生きながら、心は空の世界に住むしかない。それ以外に、色を楽しむ方法はない。色に埋没しては、色を楽しめない。色から離れた時に、初めて色を楽しめる。空にある時にだけ、人は色を楽しめる。『自分とは 誇り・プライド 腕自慢 あるいは逆に 暗いトラウマ』『自分とは みんな過去から できている 自分と思う 思い込みから』『経験を ベースにつくる イメージと 自己同一化 したのが自分』『何であれ 自己同一化 したものに 振り回されて 終わる一生』『体験は ひとときのもの いつまでも 未練残せば 苦しみの元』『刻々に 体験をして 終わらせて 過去は忘れて 今を生き抜く』『今という この瞬間に 過去はない プラスもないし マイナスもない』『あるものと 思って氷 握る時 その手のなかで 崩れ始める』『束の間の 氷の姿 暖かく なってしまえば 跡形もなし』『赤ちゃんも 大人になって 年寄りに なって最後は 棺桶のなか』『移りゆく 色はすべてを 打ち壊す 囚われる時 色は苦しみ』『移りゆく ものをベースに 生きる時 心やすらぐ 時はないもの』『移りゆく ものを所有し 握りしめ 自我で生きれば 苦しみの生』『移りゆく ものをそのまま 楽しめば 悲しみもない 苦しみもなし』『空にいて 色の移ろい 眺めつつ 何も持たない ただ愛でるだけ』これが日記を書き始めて1456日目の心境。
2008.12.28
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「1454日目 - 水晶体験-2」の続き。まるでアニメ映画のようですね。三次元の意識では、とても付いて行けないかもしれません。しかし、肉体を抜けると、このような世界が待っています。時間空間が、自由自在なのです。意識の世界は、三次元のように時間軸がはっきりとはしていません。三次元では、時間は過去から未来へと一直線に流れています。逆行することはありません。空間を移動するのにも時間がかかります。しかし、肉体を超えれば、時間も空間もないに等しいのです。時空を超えるのは、瞬時です。望みの時代、望みの場所へ瞬時に移動することができます。それは、夢の世界と異なりません。太陽神は、愛の女神と融け合いました。光と愛の融合。男性性と女性性の統合。色と空の一体化です。意識は際限なく広がり、すべてと融合しました。すべてがひとつとなりました。ただ在るという状態。すべては、ひとつ・・・日記に書かれていたことを、具体的に体験したということでしょうか。こちらは、ビジョンが見えたりはしません。ただストレートにわかってしまうだけです。しかし、このメールを書いた人は、ビジョンを通して実体験したという感じですね。その体験をサポートしたのが、年末の水晶祭りの水晶たちでした。日記のエネルギーをビジョンとして見せてくれたようです。抽象的な日記の文章を、具体的な映像に変換してくれたみたいですね。それは、まるで小説を映画化したようなものでしょうか。今回、この方へ届いたのはNo.7のラベンダーアメジストエレスチャルとスモーキーカテドラルでした。それはそれは、美しい水晶でした。確かに写真の何十倍も美しかったかもしれません。その水晶たちが、三次元では実感しにくいものを、別の次元で実体験させてくれたようですね。ラベンダーアメジストエレスチャルは、人を高みへと導くエネルギーを持っていたようです。まだ開かれていない可能性を解き放つサポートをする水晶だったのですね。人に潜在している、まだ本人も気づいていないものを開花させてくれる水晶。人がスピリチュアルに生きたいと真に願う時、それを全面的にバックアップする水晶だったのです。水晶には、それぞれ性質やエネルギーがあります。その水晶が持つ性質と、それを手にした人が必要としているものが一致する時、今回のような劇的な結果が現れます。自分のなかに内在する何かを開きたい時、それに合った水晶と出会えると大きなサポートになります。エネルギー的に刺激してくれるので、潜在していたものが出やすくなるのです。たとえば、自分のなかのやさしさや愛を花開かせたかったら・・・美しいローズクオーツと一緒にいるといいでしょう。毎日眺めていれば、自然に内在する愛ややさしさが呼び覚まされるでしょう。ローズクオーツは、そういうエネルギーの水晶ですから。こちらがいろいろ直覚できるのも、水晶のサポートがあるからのような気がします。水晶は、増幅器です。小さなものを大きくして見せてくれます。繊細で微妙なものを明確にしてくれるのですね。もちろん、水晶がすべてではないでしょう。このようなビジョンが生まれるためには、多くのエネルギー的なサポートがあるはずです。ハイアーセルフや魂からもエネルギーが来ているでしょう。もっと大きなグループソウルからも来ているかもしれません。天使や指導霊たちも、サポートしているに違いありません。そういう大きなサポートがあって、必要なものを体験できるのです。それを文章化して分かち合えば、多くの人にエネルギーが伝わります。それは、元々日記に降りてきたエネルギーを、この次元に定着させるのに大いに役に立つことでしょう。いろいろな体験をすることによって、これまでの意識の枠が外れていきます。今生つくってきた既成概念が外れていくのです。思い込みという先入観から解き放たれます。意識が広がり、自由になっていきます。体験そのものが、重要なわけではありません。体験は、終わった瞬間に過去のものとなってしまいます。そんなものに、いつまでも執着している必要はありません。どんなにすばらしい体験も、終わった瞬間に手放した方がいいのです。そうしない限り、過去に生きることになります。大切なのは、体験そのものではないのです。体験を通して意識の枠が外れること。体験が、意識を自由にしてくれることです。体験に執着しては、逆に新たな意識の枠をつくってしまうことになります。何も所有しない。ただ体験するだけ。体験して解放され、自由に生きるだけです。いろいろな体験をすれば、人は豊かになっていきます。キャパシティが、大きくなっていくのです。それだけでいいのです。体験を所有する必要はありません。過去にこだわれば、新しい体験ができなくなります。体験したものは、いったんすべて手放すことです。そして、次々に新しい体験をしていく。そのプロセスを通して、どんどんキャパシティが大きくなっていくのです。大きな大きな豊かな存在になっていくのです。器が大きくなるのですね。しかし、器の中身は、いつも空っぽ。必要なものは、そのつど記憶の倉庫から取り出せばいいだけです。器は、常に空っぽの方がいいのです。空っぽの器にだけ、新鮮な風が吹き込みます。中身が詰まった器では、新しいものは入ってこれません。いつも空っぽであることで、軽やかに生きていけるのです。体験し、気づき、自由になり、意識が広がります。体験し、表現し、共感しながら生きていくのです。何もいらないのです。人生が目の前で次々と展開していくだけです。『体験は 味わいきって 手放して 心はいつも 空っぽでいる』これが日記を書き始めて1455日目の心境です。☆ このメールに書かれてあるように、水晶が届いたら、開封する前に箱をセイジの煙で浄化するのがいいかもしれませんね。(いろんな人の手を経て届きますので)以前、届いた水晶を水道の水で浄化した方がありました。しかし、既に屋久島の海と川で浄化されていますので、その必要はありません。太陽のエネルギーも、満月のエネルギーも、光のエネルギーまで入っています。ほぼパーフェクトに近い状態で水晶は届きます。美しい屋久島の自然のエネルギーが、都会の水道水で汚されるのが関の山です。浄化するなら、外側だけで十分です。
2008.12.27
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「1453日目 - 水晶体験-1」の続き。ビジョンの後半です。光が宇宙空間に放たれてきて、それを私は宇宙空間から見ていました。地球はかなり遠く、とても小さな惑星のように見えましたが、その光ははっきりとしていて、とても力強いものでした。(地球はよく見る青い星ではなく、赤褐色でした。少し病んでいるみたい?そのためか、その光は強烈に映りました)ところで・・・この時、突然、私に、それまでのビジョンの記憶が一切消えるという不思議なことが起こりました。私はその光を見ながら宇宙空間を飛んでいたわけですが、ふと、『?? 私、なぜ今ここにいるんだろう?』わからないのです。その前の一切の記憶がないのです。どう思い出そうとしても思い出せす゛・・・この時、もう深く入りすぎていて、自分が何をしていてこのようなビジョンを見ているのかということさえ、記憶の外のようでした。夢を見ていて目覚めた時、さきほどまであれほど鮮明に見ていた夢の映像、記憶が、すーっと遠ざかっていって、どう思い出そうとしても思い出せない、そんなことがよくありますよね。(ね?)そんな感じです。(というか、遠ざかるもなく、とにかく記憶がない・・・)おかしいくらい、何も思い出せません。『なぜ?どうして?私はなぜここにいるの?どうやってきたんだろう?』記憶をたぐりよせようと必死になっていると、ふっと、私が地上にいて空を見上げているビジョンが、一瞬、見えました。『そうそう!』そのビジョンをとっかかりに、不死鳥のような美しい鳥が現れたこと、地平線のビジョンや、それまでの記憶が走馬灯のように現れて戻ってきました。すべての記憶が戻ってきたように思いますが、何か自分の中で、まだ戻っていない部分があるような・・・そんな気もするのです。なんとなく、まだあったような気がします。前半のメールは、だから、私が見たビジョンの全部ではないかもしれません。(実際、地平線に光が降りてきたところから、私が明るい地上に立っているところ、その間が全く何の繋がりもなくて・・・何かあったような気もするのです)うーん、どうでもよかったことかもしれませんが、続き、いきます。記憶が戻ってきた私は、『そうだった、この鳥と一緒に地上を飛んでいて、そして、あっという間にこの鳥がこの宇宙空間へ飛び出してきたんだった・・・』そう思い、再度、地球を見下ろしました。一点から放射されている光が、地球の周りを取り巻き始めました。地球全体を、網目のような光が広がり、包んでいきます。『あれは光のネットワーク?』そう思って見ていると、私はその光の拠点に吸い寄せられるように、また地上に舞い戻りはじめました。(あいかわらず、すごいスピードです)地球に向かって飛んでいます。あんなに小さかった地球が、見る見る大きくなっていきます。地上が見えてきました。飛行スピードは落ちません。そのまま地上を飛びながら、私は、地球上のあらゆるすべての上空を縦横無尽に飛びました。飛びながら私と鳥は、ラベンダーアメジストのエネルギーのオーラに包まれていて、そしてその限りなくやさしく美しいエネルギーを、薄紫色の光の粉に変えて地上に降らせていました。光のネットワークのグリッドの上を飛んでいるのかもしれません。その光の粉の美しさ、眩しさ・・・慈愛のエネルギーがそのまま光として変化(へんげ)すると、あのような美しい淡い紫、色がありながら限りなく透明に澄み切り、そしてすべてに浸透する神の意識とも思えるようなバイブレーションを湛えて現れるのでしょうか・・・私は、その光の粉のバイブレーションと一体となり、遍く地上を飛びます。その時現実の私は、(目を瞑っていたのですが)すぐそばにあるであろうカテドラルを無意識に手探りし、手に持ちました。そのとたん、ビジョンの中の私の右手に光の杖が現れました。(カテドラルを持ったのは、右手でした)ラベンダーアメジストの慈しみのエネルギーの光の粉を撒きながら、光の杖でさらにそのエネルギーを浸透させていきます。前にも書きましたが、すごいスピードにもかかわらず、景色の一つ一つが鮮やかに目に映ります。私は、見えるものすべて、山や、川や、大地や、草木に浸透しました。目の前にそびえる山の意識は私の意識であり、大地の意識は私の意識であり、ほんとうに、私は、すべての意識であることを知りました。広がった意識は、大きい・・・大きくて、大きくて、際限がなく大きくて・・・もう、至福という言葉、感覚さえも、その大きさのなかに抱(いだ)きとめられ包まれてしまい、そういう感覚的なことを遥かに超えて在る、絶対の次元に浸透するもの・・・を、感じていました。(すみません、この辺の感覚は、とても言葉では表せません)(無理みたいです・・・)広がった意識の私は、かつてない慈愛のエネルギーに満たされていました。飛んでいると、太陽の化身の、神?(神々しい人とヘリオドール、二つの映像が一体化して透過されて見えます)が、目の前に現れました。大きな見守りのエネルギーを感じました。それと同時に、すべてのすべてに光を当てる見極めのエネルギーを感じました。慈愛のエネルギーに充ち満ちている私は、女神の姿に変化(へんげ)していました。そして、その太陽の神(?)の意識と融和し、ひとつになりました。その時、kimiさんがいつもおっしゃっている言葉、それから、流されているエネルギーを、その時の私のすべてで感じきったように思います。いえ、そんなことほんとうはまだまだなのでしょうけれど、すべての意識の統合を感じた時、そのように思ったその感覚は私の中で揺るぎなく、すべてであろうが、そうでなかろうが、そんなことはどうでもいいことで、無限の意識、すべての統合を垣間見ることができた、私にとってのその真実は、私の内を大いなる愛と光を持って変容させてくれる、素晴らしく、そしてかけがえのない体験でした。しばらくその統合された意識を感じていると、こちら側の意識が少しずつ戻ってきました。エネルギーが切れてきたようです。静かに目を開けました。肉体が、高いエネルギーを受け止めるのに少しキツイ思いをしているようです。鼻が詰まって、とても重苦しく、眉間から頭の中心に向かって一本のエネルギーのラインが通っているのが、光のラインなのですが、それが頭の調整をしているのか違和感を持って感じられ、頭全体がじんじんしています。意識は上がってしまったままで、肉体と離れてしまっているような感覚です。姿勢を保っていることができなくて、横になりました。息が普通にできなくて、身体が勝手に丹田呼吸をはじめました。しようと思って意識してしているのじゃないのです。身体が勝手に・・・もう、自分の身体じゃないみたい。すべてお任せして、なされるがまま、私は横たわっていました。自分の意思とは関係なく延々くり返される呼吸に、体内のエネルギーの入れ替えを行っているのではないかと思いました。新しいエネルギーが入ってきて、古い、滞っていたエネルギーが居場所がなくなり、出されていたのでしょうね。呼吸がようやくおさまると、鼻の詰まりがあっという間になくなり、すーっと通り始めました。頭のほうも、まだ朦朧感は伴いますが、違和感がなくなってきました。そうこうしているうちに息子が帰ってきて、包みの開けられた二つの水晶を見て、興奮して、やかましいこと。一気に、グランディングさせてくれました。(笑)その後、現実に戻った私の意識は、とてもやわらかくしなやかになったのを感じています。確かに、何かが確実に変わりました。そのことを、自分の内の愛の広がりを実感すると共に、深く感じています。今は、穏やかさと柔らかさのベースを、とても感じています。まだまだ水晶は来てくれたばかり。これからさらなる変化へ導いてくれそうな気がしています。そのことを、もう私の深奥は知っているし、私の深奥にはその変化が既にあるのであろうとも思います。長々書きました。読んでいただき、ありがとうございました。言葉に変換できなくて、とても苦労しました。でも、言葉の次元ではない体験を、この次元に降ろしてくる作業は、また、それも意味深いものがあるのだと思いました。この三次元で、しっかりとグランディングして、高い次元と繋がること。スピリチュアルな次元の意識との繋がりを、ここに居て、この地上で、その意識を表すこと、エネルギーを降ろしてきて、そのエネルギーをこの次元で生きることが、とても大切で必要なことなのだと思います。だから、言葉に変換してこうして現すことは、私をしっかりと地にも繋げ、そして、天にも繋がることなのだと思います。私のその作業にお付き合いいただき、読んでいただき、ありがとうございました。」「1455日目 - 水晶体験-3」に続く。
2008.12.26
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昨夜のクリスマスイブ・・・年末の水晶祭りに出たカクタスリモーネが、キラキラ輝いていました。本来、虹色に輝くはずのものが、これまであまり輝かなかったのです。それが、突然、クリスマスイブになって輝き始めました。カクタスリモーネとは、カクタスクオーツをリモナイトという黄色の鉱物が覆ったもの。光が当たると、このリモナイトが虹色に輝きます。それはそれは、美しいのです。それを期待して購入したのですが・・・形は完璧なのに、肝心の輝きがイマイチでした。これまで持っていたものの方が、きれいだったのです。そのためもあってか、水晶祭りでも行き先が決まりませんでした。それが、突然、クリスマスイブになって本来の輝きを取り戻したのです。不思議なこともあるものですね。光の角度でしようか。昨夜は、思わぬレインボーを楽しむことができました。これぞ、クリスマスプレゼント?そのことがあって、今朝、まだ残っていた三組にオマケを付けることにしました。これまでも最後に残ったものには、「残りものに福あり」ということでオマケを付けていました。そうしたら、午前中に二組の行き先が決まってしまいました。残るのは、最も大きくて最も高価な巨大シトリンカテドラルだけとなりました。 巨大シトリンカテドラルは、次の牡牛座の水晶祭り(五月)まで自宅に置いておこうかと思っていました。でも、国産の大きなクラスターをオマケに付けることにしました。さて、どうなるでしょうか。行き先が決まるでしょうか・・・水晶祭りで旅立った水晶の感想が、たくさん届いています。そのなかから、ご本人にとって大きなインパクトがあったものを一つ紹介します。とても長いので、一度にはアップできません。三回に分けてアップします。「水晶を手にした時の体験を書きます。でも、きちんと伝えられないかもしれません。見たもの、体験した感覚的なものが、あまりにこの次元の五感、波動を超えすぎていて、三次元の言葉で伝えることは難しいし、言葉という限定されたエネルギーの世界で伝えられるようなものでは到底なくて・・・kimiさんをあのエネルギーのなかへお連れして、私が体験したことを一緒に体験していただけたらいいのに・・・まず、3時半すぎに水晶が届いて、エクスパックの箱をセージで浄化しました。(いろんな人の手を経ているので、いつもそうします)もうすぐ息子が帰ってくるので、開けずにそのまま胸に抱きしめて、コタツの中でごろんと横になっていました。胸のあたりで、一輪のきれいな紫色の花が咲いて揺れているのが見えてきました。見たことのない花で、大きすぎないけれども、大きな花。とてもやさしいエネルギーで、私のハートが、その花のエネルギーで満たされていきました。落ち着きと、穏やかさと、やわらかなやさしさが私の内で満ちているのを、その花のビジョンを通して静かに感じました。いつの間にか眠っていました。しばらくして息子が帰ってきて目が覚めましたが、意識朦朧・・・ただ寝起きだからという、そういう朦朧さではなくて、顕在意識が向こうの方に行ってしまっていて、どこにもグランディングできず、意識が宙に浮いてしまって心もとない感じです。でも、不安感などは全くありません。(この感覚は、送られてきた光の水晶を手にした時によく経験します)息子はこの日、5時に美容院にカットに行く予約を入れていたので、息子がいないその間に一人で静かに水晶とご対面しようと思っていました。息子が出かけて、いよいよ開封。まずは、カテドラルを手に取ったようです。なんだか箱そのものも暖かかったのですが、包みを開けながら、とても暖かいのを感じました。『きれい!』うわあ~~~すごい☆きれいすぎるっ、もう感動・・・!凛とした澄み渡ったエネルギーが、一瞬で部屋に広がり、そして、私のなかに透明感と清らかさを伴う叡智の波動が浸透してきました。しばらく、カテドラルを至福の思いで感じていました。そして、次にラベンダーアメジストの包みを開けました。『うわああ~~!きれい!』どこから声が出たのかと思えるほど、私の奥の奥から感嘆の声が出ました。なんてきれい・・・感動、感動、感動すぎる☆写真で見たとき相当その美しさに見惚れていましたが、実際に見るラベンダー・アメジストの美しさは、写真の美しさを遥かに超えていました。数十倍はきれいかも! ←誇張なしですよ。もちろん、きれいという美しさだけではなくて、何というエネルギーを秘めているのでしょうか・・・ほんとうに、私に新しい可能性を開かせてくれる石なのだと思いました。『リクエストしてよかった・・・』(じいい~~ん・・・おもいっきり静かに感動)『よかった、リクエストして・・・私のところに来てくれて・・・』(感動、感動、ひたすら感動)そして石に、『よく来てくれました』と言った途端、涙が溢れてきました。あとからあとから涙が出てきて、止まりませんでした。カテドラルも一緒に手に取ると、さらに涙が・・・しばらく、溢れる涙をそのままに、深い喜びをそのままそのまま、抱きとめていました。 それから、カテドラルにじっと意識を沿わせました。水晶のなかに、たくさんの人が見えました。人と言ってもリアルな人間の姿ではなくて、次元の違うところでたくさんの人の意識が人形(ひとがた)になったような、そんな映像で、たくさんの人たちが、ゆらゆらと、それでいてすーっと天に昇っていっていました。(みなさん、笑みを浮かべて幸せそうでした)しばらく、その映像を眺めていました。『なんだろうなあ、このビジョン、何を意味しているんだろう』そう思いながら、ビジョンが消えていくまで見ていました。ラベンダーアメジストはどうかしら?何か見えるかしら・・・そう思って今度は、ラベンダーアメジストをそっと手に包みました。地平線が見えてきました。何もない地平線で、静寂の世界、地平線には果てがなく、私の視覚を超えていました。 まっすぐな地平線の向こうは、何もない世界で、夜明け前のようにラベンダー色の光が地平線に沿い、地平線と共に、やさしく神々しく幻想的な美しさを伴って広がっていました。『これから陽が昇ってくるのかしら・・・』そう思いながら見ていましたが、そうでもなく、まるで一枚の絵のように、ビジョンは流れず、そのままでした。何もビジョンが変化しないので、もっとその世界に深く入ろうと、目を閉じました。(それまでは、目を開けていたのです。私の目は三次元の世界も見えているはずなのに、それは感じなかったです。なんだかおもしろいですね)(カテドラルを見ていたときも、目は開いていました)しばらくそのビジョンを静かに感じてみていました。T&F時代のセッションの時、kimiさんはいつも、『それではそれと一緒にいて、それをよ~く感じてみてください』と誘導してエネルギーを流してくださいますね。私はいつも何か見えてきた時や瞑想中など、光のセミナーのエネルギーを意識の内に呼び覚まし、”一人光のセミナー(?)”をやります。特に光の水晶を手にしている時などは、やはり光のエネルギーの流れ方が、格段、違うように思います。余談でしたが、そうやって先ほどのビジョンと一緒にいて、よ~く感じていました。そうすると、その美しい地平線の真ん中に、天から光が降りてきました。あまり眩し過ぎないけれど、やさしいシトリンのような色のその光が地上に届くと、光のベールの内側でキラキラと光の粒子が舞いはじめました。(その光の粒子は天に昇っていきます)先ほどまでの地平線と光のビジョンから一転して、突然私は、明るい地上にいました。 明るさの明度がすばらしく、何もかもがいのちの輝きを内から発して、個々を輝かせている世界でした。私は、空を見上げました。大きな鳥が、向こうから飛んできました。悠々と、優雅に、私のいる場の上空を大きな弧を描きながら飛んでいます。不死鳥のような鳥でした。美しい顔をした鳥で、鶏冠の部分と尾の部分が長く(そして光を放っている)、それは優美で、まるで天からの使いの鳥のようでした。ふっと、私は、いつの間にか、その鳥の背に乗っていました。下から見ていた時よりも、遥かに大きな鳥でした。片翼だけでも1メートル以上の長さがありました。私は、背に乗っていると言っても、身体が乗っているのではありません。身体を持たない私(何て言ったらいいのでしょう?私の意識?魂?)が、その鳥の背に乗って(?)いて、一緒に広大な空を舞っているのです。しばらく私は、鳥と一緒に私が先ほどまでいた地上の上をあちらこちらに旋回するように舞っていました。ところで、この鳥の飛ぶスピードは、その優雅さからくるイメージとは掛け離れていて、ものすごいスピードです。数キロを一瞬にして飛ぶ、そんな感じ。なので、鳥と一緒に飛んでいる私も、生身の肉体では到底体験できない、すごい飛行スピードを、風をきって体験しています。でも、それ程のスピードであるにもかかわらず、流れる景色の一つ一つ、その美しい地上の個々のいのちをすべてその目にとどめることができて、すべてを感じきり、そのすべての美しさと自分を同化させているのです。不思議なことですが、これは三次元の時間の感覚ではまずわからないし、体験し得ないことですね。三次元を出た、今私が居るその次元では、そういうことが当たり前なのだと感じました。 そうしていると、その圧倒的なスピードで、鳥と私は一瞬にして宇宙に出ました。今度は、宇宙空間を自由自在に飛びます。私は、背に乗っているだけです。その鳥が飛んでいるのに任せたまま、広がった意識で見える世界を感じていました。地球が、小さく見えています。上から見下ろすような感じ、少し左下の方に小さく地球が見えました。『ああ、地球だなあ~』と感動して見ていたら、その地球の一点から光が放たれました。 見ていると、その光は、ものすごいスピードの螺旋を描きながら、こちら(宇宙)に光を放射してきました。『何だろう?あそこだけ・・・?』不思議に思いながら見ていたのですが、もしかして、その一点(光の出どころ)は、kimiさんのいらっしゃるところ?光のエネルギー場の拠点??きっとそうだと思いました。 * * * *あの~、すみません。長いですね・・・でも、まだ半分くらいです。メール、休憩します。すみません、長々打って、お読みになるのも大変ですね。(私も大変です)あの時の光景を、その時のエネルギー状態を伴って書きたいのですが、なかなか伝え切れませんし、もう、今、エネルギー切れです。でも、私の内に変化をもたらせてくれた二つの石のエネルギーの体験、これはすごいものがあって、できれば、すべて細やかにお伝えしたく、何も漏らさず書いています。なんだか、すごい量の文章になってしまいそう・・・なので、後半は、またエネルギーが充電されて、一人静かに打てる時に書きます。「1454日目 - 水晶体験-2」に続く。
2008.12.25
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屋久島は、穏やかに晴れている。今日は、世間ではクリスマスイブ。都会は、さぞ賑やかなことだろう。ここ屋久島では・・・最近、自宅から外に出ていないので、よくわからない。屋久島の人里離れたところに住んでいると、普段とまったく変わらない。クリスチャンでもないし、クリスマスケーキもない。もちろん、恋人とデートなどというシャレたものもない。まあ、敢えて言えば、ネコとデート?毎日デートしているので、新鮮味はない。しかも、オス。せめてメスだったら・・・昨日は、久しぶりに鏡をしげしげと見た。そこには、不思議な人が映っていた。これが、自分?自分って・・・以前は、鏡に映る姿を疑うことはなかった。それは、自分に決まっていた。完璧に自己同一化していた。肉体や記憶と。しかし、最近は、そういうものと分離し始めている。だから、これ誰?という感覚になってしまう。見たことがあるような・・・よく見ると、もう人間ではないような目をしていた。人は、自分を信じて疑わない。これが自分だと確信している。しかし、実際は、自分も変化している。刻々に変わっている。ただ自分という自己イメージと自己同一化しているに過ぎない。そのイメージから離れると、自分は誰だかわからなくなる。まさに記憶喪失状態。深い眠りから覚めた寝起きの状態に近い。自分、自分、自分・・・自分が一番大事。自分と共に生きてきた。自分こそが最大最上の宝だった。そういう意識で長いこと生きてきた。しかし、そういう意識が崩れつつある。人類の想念(おもい)という世界から抜けつつある。想念(おもい)の雲の外に出ようとしている。雲の上は、常に晴れている。雲の下が土砂降りでも、雲の上は太陽が輝いている。雲の上は、どこまでも快晴。雨が降ることは、あり得ない。富士山の山頂に立てば、雲は遥か下の方に見える。想念(おもい)の世界を超えれば、意識が曇ることはない。意識は、常にクリアー。気分は、いつも爽快。人類は、長い間、雲と共に生きてきた。雲の状態によって、一喜一憂、喜怒哀楽。まだ大多数の人は、雲の下で暮らしている。土砂降りの人もいれば、木漏れ日が差している人もいる。人の意識状態は、それぞれ異なる。しかし、雲の下で暮らしていることは、共通している。肉体や記憶と自己同一化し、自分、私、自我として生きている。別にそれが悪いと言っているわけではない。それは、単なる事実。記憶と一体化して生きているのが、紛れもない人類の現状。そういうことに気づいていないということ。それに思い至ることさえないくらいに、自己同一化しきっている。生まれた時から肉体と共に成長し、記憶と共に暮らしている。肉体ベース、記憶ベースになっても、おかしくはない。むしろ、それが当たり前。誰もが当然と思っている。しかし、たまに記憶喪失の人が現れる。そうすると、自分が消えてしまう。意識はあるのに、自分はない。自分とは、明らかに記憶との自己同一化。子供の頃の記憶。確かにあれは、自分だった。子供の頃の意識で生きていた。それは、覚えている。それは、子供の頃の意識で体験したこと。それが、記憶されているということ。今の意識とは、異なる。子供の頃の意識で体験したこと。しかし、体験は記憶されている。それは、メモリーとして蓄積されている。自己同一化しなければ、単なるメモリー。実体験を伴うメモリー。意識とメモリーとの分離。これまでは、完全に一体化していた。それが、一体化にヒビが入りつつある。不離一体であったものが、静かに分離を始めている。意識は、どこまでも澄み渡っている。それが、メインの意識。いわゆる瞑想状態に近い。あまり揺れ動くことはない。静かな澄み切った意識になれば、自然に記憶とは分離する。澄み切った意識は、記憶の遥か彼方にある。記憶から離れれば、自分は消える。今生の記憶と一体化する時、これまでの自分が戻る。深い眠りから覚めた時、ここはどこ?と一瞬思うことがある。しばらくすると、記憶が戻る。あるいは、夢の世界から目覚めた時、今どこにいるのかわからなくなることがある。それに似ているかもしれない。記憶と分離した意識は、方向性が定まらない。自分のいるところがわからない。時間と空間に規定されて、今の自分という意識はできあがっている。そういうものとの自己同一化が外れれば、意識は宙に浮いてしまう。私は、誰?ただの意識。色づけされていない意識。純粋な意識。人間にどっぷりと浸かりきった意識。普通は、そうやって生きている。それが、当たり前だと思われている。それが常識人の世界。しかし・・・そういう当たり前が、崩れようとしている。自己イメージとの自己同一化という前提が、これから揺らぎ出す。それこそが、真のアセンション。物理的なアセンションなど、何の意味もない。自我からの分離。自我からの遊離。自我からの自由こそが、真のアセンションに他ならない。雲の下で生きるのか、雲の上に出るのか。雲を超えることが、アセンション。アセンションとは、上昇。人類の想念(おもい)の雲を超えること。ドロドロとした想念(おもい)の次元を超える。想念(おもい)の次元は、重い。重いので、滞留している。地球を暗く取り巻いている。欲望という想念(おもい)。ドス黒い想念(おもい)。それが、まるで黒雲のように地球を覆っている。それが、宇宙からの光を遮っている。雲の上は、常に晴れ渡っている。想念(おもい)の世界を超えれば、意識はクリアー。雑念はない。ただ澄み切った意識があるだけ。人類の目指す方向は、雲の上。想念(おもい)の雲を超えること。想念(おもい)の次元からアセンションすること。クリアーな意識の次元へ飛翔すること。想念は、道具。現実を創造する道具。今は、意識と想念が一体化し、意識が想念の海に呑み込まれている。意識と想念の未分離状態。意識は、想念や記憶と自己同一化し、自分=自我として生きている。別の言い方をすると、意識は想念や記憶の次元にしっかりフォーカスされている。つまり、思考の次元で生きている。思考の次元から抜け出せない。真のアセンションとは、思考の次元を超えること。想念(おもい)の世界から抜け出ること。人間界とは、まさに想念(おもい)の世界。想念(おもい)が渦巻く世界こそが、人間界そのもの。想念(おもい)に呑み込まれるか、想念(おもい)を使いこなすか。想念(おもい)を使いこなすためには、想念(おもい)から分離した意識が必要となる。それには、想念(おもい)の雲を超えてアセンションする必要がある。意識の高みに立つ必要がある。意識の高みに立てば、雲はなくなり、見晴らしがよくなる。全体が見える。トータルに見える。心は、静かに全体を見渡すことができる。別に今のままではよくないと言っているわけではない。今の自分を理解すれば、今よりも楽に自由に生きられるというだけのこと。想念(おもい)に翻弄される状態が、想念(おもい)を自由に使いこなせる状態に変わるということ。それこそが、真のアセンションであるということ。今の人類は、想念(おもい)の海のなかで溺れそうになっている。想念(おもい)の海から抜け出せないで、もがいている。想念(おもい)の海を超えなければ、真の自由はない。想念(おもい)の海のなかにあるのは、思い込みという自縄自縛だけ。人は、思い込みワールドのなかで生きている。想念(おもい)や記憶と自己同一化して生きている。私という自我の世界で生きている。その想念(おもい)の海を抜けた時、新しい世界が開ける。時代のエネルギーは、想念(おもい)の海から抜け出す道を提示している。それは、自分自身を見つめること。見守りながら見極めること。そのプロセスを通して、想念(おもい)を超えた意識が育つ。愛に包まれて光の道を歩む。それが、見守りながら見極めるということ。自分自身を愛で包みながら、自分自身に光を当てる。それが、真のアセンションへと導く。『想念の 雲を抜ければ どこまでも ただ透き通る 意識あるのみ』これが日記を書き始めて1452日目の心境。今日の日記は、無色透明からのクリスマスプレゼント!
2008.12.24
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先日、次のようなコメントがありました。「今日から昨日、振り返ってみました。苦しいです。思い込みに振り回されているし、他の人も振回しています。『先入観や固定観念や偏見・・・信念や信条や信仰・・・価値観や道徳観や常識・・・それらのものが、判断や解釈を決めていく。』そうなら、わたしはほんの自分のリラックスしている時だけしか本心に沿えていません。『新しく生き直すには、肉体も感覚も感情も思考も理解する必要がある。今のありのままの自分自身を深く理解する必要がある』自分の弱さは分かるのですが、どうすれば強く生きて行けるのか分かりません。『そうしなければ、新しいステージには行けない。』どうすれば、自分の固定観念を捨てられるでしょう。動機も分からず、ただ歩き続けています。ただ周りの人とは調和して行きたいんです。喧嘩はしたくない。。。。毎日、自分を振り返って生きて行くだけでしょうか。よろしかったらご助言お願いします。」どうすれば強く生きていけるのでしょうか。それは、強く生きると決めることでしょうか。感情に振り回されない。思考の虜にはならない。逃げない。直視する。と、自分で決めることでしょうか。心から決意することでしょうか。どうすれば自分の固定観念を捨てられるのでしょうか。それは、固定観念に気づいて、手放すと決めることでしょうか。はっきりと決意することでしょうか。新しく生き直すと・・・周りの人とは調和して行きたい?喧嘩はしたくない?そうであるならば、これからは周りの人と調和して生きると決めることでしょうか。そして、調和して生きている自分をイメージして楽しむことでしょうか。周りの人と調和して生きている感じは、どのような感じでしょうか。それをイメージのなかで十二分に味わうことです。毎日毎日イメージのなかで体験することですよ。それをやり続けていると・・・やがて、現実が変化してくるでしょう。イメージが定着することによって、それが現実化してきます。心からイメージを体験することです。イメージのなかで現実と同じようにリアルに体験することですね。それは、明らかに現実にエネルギー的な影響を及ぼします。それを毎日やっていたら、現実が変化しないわけがありません。いやいややらないでください。心から楽しんでください。本当に本心からみんなと調和して生きたいのでしょうか。もしそうなら、心の深くからみんなと調和して生きているイメージを感じてみることです。こまやかに、リアルに感じてみることです。まず自分の理想とするイメージのなかで生きてみることですね。リアルに日々イメージのなかで生きてみることです。できれば、夜、寝る前がいいでしょう。そのまま眠ってしまってもかまいません。それを続けていると、自分の意識も変化するでしょう。自分が生きている現実にも変化が起きます。やってみれば、それがわかるでしょう。現実とは、まずイメージから始まるのです。イメージが固定化して、現実となるのです。水蒸気が冷えて水となり、水が更に冷えて氷となるようなものです。気体は、液体から固体へと変化します。気体とは、イメージ。個体とは、現実のことです。それを繋ぐのが、あなたです。毎日イメージして楽しむことが、現実化を促します。楽しむことですね。イメージのなかで、いろいろ工夫して楽しんでください。試行錯誤でいいのです。最初からうまくできなくても問題はありません。毎日やっているうちに、だんだんとうまくできるようになっていきます。イメージのなかで遊んだり、楽しめるようになっていくのです。調和を楽しんでください。調和に限らず、自分が真に望むことをイメージのなかで試してみてください。トライしてみてください。楽しくチャレンジしてみてください。毎日、自分を振り返って生きて行くだけ?もし真剣に毎日自分を振り返ることができたら・・・すごいことになりますよ。本当に毎日できたら・・・人生が、変わるでしょう。毎日自分を振り返ることは、毎日自分を見つめることです。そういうことを毎日やっていたら、見つめる意識が育っていきます。その意識は、感情や思考に振り回されない意識です。感情や思考を超える意識です。静かに見つめる意識が育っていくのです。そのうちに、その静かな意識が意識の中心を占めるようになっていきます。それは、とても強い意識です。感情や思考に振り回されることのない意識です。そうい意識をベースに生きることですね。毎日自分を振り返ることは、極めて地味な作業です。劇的な効果が期待できるわけではありません。何かすばらしいノウハウがあって、それさえやれば、すべて問題解決!そんな都合のよいものはありません。日々の地道な作業の積み重ね。それが、最も強い意識を生み出します。ぜひ実行してみてください。毎日、その日の自分を振り返る。そして、周りの人と調和して生きている自分のイメージを楽しむ。 毎日やることですね。そうすれば、間違いなく変わるでしょう。自分自身も現実も。まず間違いありません。実行あるのみです。本当に真実に生きたかったら、実行することですね。実行すれば、変わります。変われば、人生が楽しくなるでしょう。もっと軽やかに生きられるようになるでしょう。重たくしているのは、自分の思い込みです。重い込みなのですね。その重たいこと!人は、目いっぱい思い込みを背負って生きているのです。それが、人を縛り、不自由にしています。それに気づくことですね。気づいて、手放す。極めて単純なことです。それだけで、人生が変わります。お金は、まったく必要ありません。必要なのは、情熱だけです。真剣に生きようとする情熱!それさえあれば、人生は変わります。極めてシンプルです。自分が真に望むことを、イメージのなかで楽しめばいいだけです。こんなに楽な方法はないでしょう。しかも、布団のなかで横になってやればいいのですから。そのまま眠ってしまってもいいとまで言っています。至れり尽くせりですね。ただイメージのなかで楽しめばいいだけですから。超らくちんコースです。これ以上のイージーコースはないでしょう。もしできるならば、毎日、寝る前に一日の自分を振り返る時間が取れると申し分ありません。それを毎日続ければ、もう鬼に金棒です。これから、時代の波動は急速にアップしていきます。意識と物質が、更に融合していくのです。イメージが現実化するスピードが、格段に速まります。イメージのなかで楽しんでいるうちに、気がつけば現実化しているでしょう。そういう時代になるのです。そういう時代が、刻々と近づいています。自分の望む現実を創造してください。自分が真に望む人生を生きてください。どうぞ肩の力を抜いて、ゆっくり始めてください。リラックスしてやってみてください。楽しんでくださいね。深い決意と共に・・・『イメージの なかで望みの 現実を 想像すれば 現実化する』『イメージの なかでリアルに なるたびに 現実化する 時が近づく』『繰り返し イメージ化する ことにより 固まっていき 現実となる』『楽しめば 現実となる イメージを 楽しむことが 現実創る』『イメージの なかで楽しむ だけのこと 望む現実 創造可能』『毎日を 振り返るたび 見る意識 自分のなかで 静かに育つ』これが日記を書き始めて1450日目の心境です。
2008.12.22
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昨日、水晶が届いた。冬場は、原則として水晶を買わないことにしていたのだが・・・この水晶は、買うしかなかった。届いたのは・・・巨大なレモン水晶。横が15cm、高さが10cmもあるクラスター。しかも、アメリカのアーカンソー産。滅多に見かけることのない水晶。レモン水晶というのは、硫黄が水晶のなかに含まれて黄色くなったもの。これまでも二本、水晶祭りに出したことがある。あまり出回ることのない水晶。ほとんどは、スリガラス状に曇っている。ところが、今回届いたものは・・・目を見張るほど透明。こんなレモン水晶は見たことがないというぐらいのクリアーさ。これまで見たレモン水晶のなかでは、最上のもの。購入したサイトは、良いものはすぐに売れてしまうサイト。深夜の1~2時に新規のアップがあるので、ほとんど良いものは購入できない。朝になって見ると、みんな売れた後。ごく稀に良いのが残っていたりする。しかし、それは高価なものや何か問題があるもの。今回のものは、後者だった。美しい部分は、三分の一ほど。残りの三分の二は、どうしようもないものだった。たぶん、それで売れ残っていたのだろう。しかし、その美しい部分は、これまで見たことのないすばらしさ。これは、買うしかない。お金がなくても買うしかない。買った後で調整することにして、オーダー。届いた後、慎重に全体を見る。どこにノミを当てると、どのように割れそうか。注意深く割れ筋を見極める。そして、実際に金槌を振り下ろす。しかし、なかなか予想通りにはいかない。思わぬところが割れたりする。それでも、なんとか八割がたOK。このクラスターのエッセンス部分を取り出す。全体の四分の一に満たないだろうか。しかし、それはそれは美しいものが出現した。これまでに見たことのない最高レベルのレモン水晶。元々がアーカンソー産なので、形も透明度も抜群。それが、薄い黄色に染まっている。レモンより少し濃い程度。なにしろ美しい。このメインのクラスター以外にも、いくつかの美しいポイントが採れた。それも単結晶として美しい。しかし、何と言ってもメインのクラスターの美しさは、目を見張るものがある。今生で、これ以上のレモン水晶に出会えるかどうかというレベル。そういう水晶が、手元に10個ぐらいはあるだろうか。どんなにお金があっても、縁がなければ絶対にやって来ないものたち。いくらネットで探しても見つからないレベルのもの。アップされた直後に買ったもの。たぶん、これからもそういうものが出たら購入するだろう。しかし、そういうものは、毎日チェックしていても滅多に出ない。ごく稀に突然現れるだけ。それはそれは、美しい。美しい水晶を眺めているだけで、心は満たされる。ただ美しいという理由だけで、心は満ち足りる。美しさとは、何だろうか。人は、美しいものを求め続ける。大理石を削って彫刻する人。絵を描く人。作曲する人に演奏する人。陶芸に情熱を燃やす人。斬新な建物を設計する人。デザイナー。刀工。アートに関わる人は、多い。美しさとは、色の世界。形と色と響きの世界。美しさを極めていくと・・・それは、色の世界を超えていく。色を極めれば、空に転換する。色を極めていけば、最終的には純粋なものや愛やいのちが残る。それらは、もう色の領域を超えている。形を超えた空と言える。美にこだわって、こだわって・・・突き詰めて、突き詰めて・・・見極めて、見極めていけば・・・最終的には、色を超えて空になる。色の終局は、空。色即是空。元々空のなかにあったものを、色という形の世界で現わしたもの。空即是色。すべての原材料は、空のなかにある。そのなかから必要なものをチョイスして、色の世界に現わす。形のなかったものに、形を与える。それが、色の世界。インスピレーションによって作曲する。まず五線紙に音符を書き綴る。それを実際に楽器で演奏する。その時に、形を持たなかったものが形となって現れる。現象化。現実創造。誰もが認識できる形として現わされる。それまでは、空という形のない状態。彫刻家は、大理石を削る前に既にイメージを持っている。そのイメージに沿って大理石にノミを当てる。何をするにも最初にイメージがある。それを明確な形にするのが、現実化。金の鉱石から金だけを精錬する。ダイヤモンドの原石を磨いて宝石に仕上げる。自然のままではない。人の手が入って美しいものが紡ぎ出される。空は、無限の世界。ありとあらゆるものの源泉。色は、その空を現実に現わすところ。空のなかにあるものに形を与えるところ。形にして楽しむところ。形にして味わうところ。だから、本質的には、色と空は同じもの。ひとつのものの表と裏。自分の望む現実を創造すればいい。これまでの既成概念に縛られないで、直接、空から原材料やインスピレーションを手に入れればいい。空のなかには、無限の材料が満ちている。しかも、タダ。インスピレーションを得て、それを現実化するには、知識や技術がいる。インスピレーションを得るだけなら、そんなに難しいことではない。しかし、それをこの世のものに翻訳して表現するのは、至難の業。時間がかかるし、努力もいる。しかし、それが人の為すべきこと。天を地に現わすのが、人の役目。「天にあるがごとく地にもあるべし!」それが、人が天から地に降りてきた理由。天にあるような世界を地にも実現する。そのために天からインスピレーションが降りてくる。それを地上の言葉に翻訳し、形を与えるのが人の仕事。地上の原材料を使って現象化するのが、人の役割。美しいものを地上に実現すればいい。それは、形あるものとは限らない。人の生きざまも表現の一つ。いかに自分を生きるか。自分が生きること自体が、アート。いかに自分を表現するか。いかに内なる可能性を花開かせるか。人生は、アート。美しい水晶を眺めていると、満ち足りる。どんな角度に置くかで雰囲気が違ってくる。それは、生け花と似ているだろうか。水晶を削るのも、花を切って活けるのと似ているだろうか。生け花とは、活け花。花を活かすことが、生け花。花をより美しく活かす。複数の組み合わせによって、それぞれの個性を活かした調和の場を創り出す。生け花に限らず、歌も踊りも何であれ、美しく表現する。内にあるものを外に表現する。いかに深いものを外に現わすか。いかにして魂を表現するか。いかにして空を色に現わすか。空は、自分の内にある。色は、自分の外にある。それを繋ぐのが、人=霊止の役割。内にあるものを外に現わす。空なるものを色として形に現わす。人生は、アート。無限のアート。『波動落ち スピード落ちて ゆるやかに 変化している 色の世界は』『目に映る ものは同じに 見ゆれども 変わらぬものは 一つとしてなし』『色なれど 一瞬たりとも 同じもの あることはない 空と変わらず』『色という 固定したもの ありはせぬ ただ一瞬の 空に等しい』『色と言い 空と呼べども その実は 表と裏が 入れ替わっただけ』『食うために 生きてきたのが これまでの 物質化した 人類の生』『物質の 世界を学び マスターし これからやっと 現実創造』『これからは 内にあるもの 外に出し 創造的に 生きる人生』『内にある ものをそのまま 外に出し 天の御国を 地にも創らん』『源は 空と呼ばれる 内にある 内なるものを 外に現わす』 『神々の 元を辿れば 空という 無限のなかに 源がある』 『空という 形なきもの 色という 形と為して 愛でて楽しむ』これが日記を書き始めて1449日目の心境。
2008.12.21
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昨日、年末の水晶祭りに登場したNo.8のマリア観音を発送した。発送の際は、光のエネルギーではなく聖母マリアや観音様のエネルギーを入れて送ると約束してあった。昨日降りてきたエネルギーは、聖母マリアのエネルギーだった。同じ人がリクエストされた他の水晶も、光ではなく慈愛のエネルギーを望んでいた。光のエネルギーは入りにくく、聖母マリアのエネルギーはスムーズに入っていった。一昔前であれば、聖母マリアのエネルギーと聞くと・・・それは、すごい!すばらしい奇跡!と、騒いだかもしれない。しかし、今となっては、別にどうということもない。特段、驚くこともない。統合という意味では、聖母マリアや観音様のエネルギーを遥かに超える領域まで、この日記は進んでいる。聖母マリアのエネルギーは、やさしさに満ちている。ただのやさしさではなく、聖なるやさしさ。無条件のやさしさ。自然に涙があふれ出るほどのやさしさ。まさに母性の本質。そのエネルギーに包まれれば、幸せそのものを体験できる。一方で、宇宙の摂理のような峻厳な父性のエネルギーもある。法則と言うか、創造原理と言うか・・・愛もあれば、光もある。物もあれば、心もある。宇宙は、多様性に満ちている。そういう宇宙のなかで、いかに生きるか。現実創造と見守り。個としての現実創造と、そのすべてを見守っている全体的な意識。主体性と客観性。色と空の同時存在。個として現実を望みのままに創造する。主体性を持って生きる。活き活きと個性の花を咲かせる。それが、宇宙創造というもの。しかし、個だけでは、全体の調和が保てない。個々バラバラに生きたのでは、混乱した社会ができあがってしまう。それは、今の現状を見れば明らか。個でありながら、同時に全体的な意識も必要。全体的な意識とは、自分も含めたすべてを見守る意識。すべてを見守りながら、現実創造に励む。主体性だけでは、全体の調和は難しい。客観性がないと、すべての人が喜ぶ社会はできない。全体の調和を心がけながら、個々の創造活動を行う。個であり全体。色であり空。主体であり客体。見守ることは、愛。母性のエネルギー。創造することは、光。父性のエネルギー。一方は、包み込むようなエネルギー。大きな大きな無限大のエネルギー。他方は、集中されたエネルギー。こまかく繊細さを極めていくエネルギー。極大と極小。それらは、究極的にはひとつとなる。「陰極まれば陽」ひとつのものの表と裏。プロの鑑定家の目は、鋭い。まさに見極め。本物と贋物の違いを見極めていく。プロ野球の選手も球筋を見極める。違いがわかる男の・・・違いがわかるとは、見極める鑑定眼。こまやかに繊細に見ていくしかない。比較検討の世界。科学も比較の世界。比較から違いを見つけ出し、法則性を発見する。つまり、分析、思考の世界。コンピューターの世界。それは、男性性のエネルギー。集中し、固定化していくエネルギー。それこそが、新しいものを創造していく原動力。宇宙の創造原理。では、女性性のエネルギーは?おおらかさ、全体性。フィーリング、感性。アートの世界。それは、右脳と左脳の違いでもある。集中と拡散。陰と陽。しかし、それらは統合される必要がある。男性性と女性性の統合。主観と客観の統合。現実創造と見守りの統合。光と愛の統合。それらを自分のなかで実現することだろうか。片方だけでは、片手落ち。トータルとは言えない。個であり全体である必要がある。実際は、色も空もない。色即是空。空即是色。ひとつのものでしかない。それをわかりやすくするために、分けているだけ。方便であり、分析。思考の仕事。実際は、宇宙はひとつ。それを直観してもいいし、論理的に詰めていってもいい。直観は、女性性。論理は、男性性。いずれにしても、そこまで実感する必要がある。愛を感じながら、光を生きる。全体と共に、個を花開かせる。見守りながら、現実を創造していく。客観的な視野を持ちつつ、主体的に生きる。個や主観だけで生きることに別れを告げる時だろうか。個や主観だけで生きれば、混乱の人生となる。苦悩と悲しみの人生が待っている。個であると共に全体であることが、調和へと導く。『現実は 光によって できている 色の世界は 光の世界』『漆黒の 闇から光 生まれ出(い)で 無数に分かれ 宇宙創造』『色と空 夜空が空で 星が色 空に抱かれて 色は輝く』『主体性 持って現実 創造し その全体を 見守り生きる』『人の世の 光の舞を 舞いながら 光の舞を 愛でて楽しむ』これが日記を書き始めて1448日目の心境。
2008.12.20
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屋久島は、今日も晴れている。年末にしては、暖かい日が続いている。ネコは、陽の当たるところで毛づくろい。冬になって、毛がフサフサしてきた。人は、自己保存の本能がベース。自分を守るため、快を求め不快を避けようとする。最初は、肉体的な快と不快からスタート。やがて、精神的なものへと複雑化していく。快の記憶は、更なる快を求めさせる。不快の記憶は、更なる不快を避けようと働く。人は、安定を求めて快を確保しようとする。快と思えるものを所有し、蓄積しようとする。食欲や性欲から始まった快の追及は、金銭欲や名誉欲などへ広がっていく。更なる快を。確実な快を。不動の快を求め続ける。欲望に限りはない。しかし、欲望は両刃(もろは)の剣(つるぎ)。欲望は、同時に不安定にもする。更なる所有は、奪われる心配を生み出す。金銭も異性も地位も名誉も財産も、持てば持つほど妬まれる。周りは、虎視眈々とそれらのものを奪おうとする。安全のために確保したものが、逆に安全を脅かす。持てば持つほど、奪われる危険性が増していく。何も所有しなければ、奪われることもない。共に分かち合えば、人は奪おうとはしない。自分だけが安全でいたいと思う時、自分の安全は脅かされる。結局、自分だけの安全というものは、幻想に過ぎない。多くの人は、自己保存のために日夜奮闘努力している。しかし、その方向は、間違っている。自己中心的に生きる限り、身の安全は保障されない。お互いが自分さえよければいいと思う時、お互いの安全は不確かなものとなる。今の人類は、自己中心的に生きている。自分の安全を第一に考えている。しかし、それは自分の安全を保障することにはならない。逆に、安全を脅かす結果となってしまう。以前にも書いたけれども、天国と地獄の違いを表す寓話がある。食事をする時に自分の腕よりも長い箸で食べなければならない場合・・・地獄では、必死に自分の口へ入れようとする。しかし、自分の腕よりも箸の方が長いので、簡単には食べものにありつけない。食べものを頭の上に持ってきて、落として食べようとする者がいる。すると、横から他の者が食べてしまう。苦労して食べものを掴むと、誰かがそれを横取りする。奪われないためには、常に周りを警戒していなければならない。他の人には、やりたくない。自分の口にだけ入れたい。自分だけ満足すればいい。他の人のことは、どうでもいい。地獄界では、食べものの奪い合い。周りは、みんな敵。食べもののためなら、人を殺すことさえ厭(いと)わない。なんとも浅ましい阿鼻叫喚の餓鬼地獄。一方、天国では・・・誰も自分の口に入れようとする人はいない。みんなが他の人の口に食べものを入れようとする。その結果、みんなが満たされる。食べものの奪い合いはない。みんな和気あいあいと暮らしている。何も問題はない。食べものが少ない時も、みんなで分け合えば争いは起きない。天国と地獄の差は、歴然。一方は、自己中心。他方は、他者中心。どちらが幸せだろうか。これまでの人類は、自己中心的に生きてきた。しかし、それもそろそろ終わりを迎えようとしている。新しい時代は、まったく逆になる。自分中心ではなく、自分以外の人が中心。周りの人のために生きる。周りの人が必要としていることを行う。周りの人の喜びが、自分の喜び。自己中心的な生き方が、180度転換する。これまでは、地獄的な生き方をしてきた。自己中心的に生きるとは、そういうことだった。しかし、これからは、天国的な生き方に変わる。もうそろそろ目覚めてもいい頃。これまで人類は、肉体の自己保存の本能をベースに生きてきた。たまに仏陀やキリストのような聖者も現れた。しかし、それは例外。大多数の人は、肉体ベースで生きてきた。その結果・・・それは、今の地球の現状を見れば明白。隣にホームレスがいても、餓死する人がいても知らんふり。それが、地球のありのままの現実。しかし、長い永い経験を経て、人類も学習してきた。何かがおかしいと思っている人が増えている。もう限界に近いと感じている人も多い。このままでは行き詰る・・・いろんな意味で転換期にきている。物質文明も、地球との関わり方も、人類の生き方も。すべてが転換する時に差し掛かっている。生き方が、180度逆転する。新しい時代は、自己中心的な人は生き残れない。それでは、新しい時代の波動に合わない。新しい時代は、共に生きる時代。相手の口に食べものを運ぶ時代。自分の口のことだけを考えている人は、古い世代。もう時代遅れの世代。新しい世代は、みんなのことを考える。みんなと一緒に生きる道を模索する。まず他の人に与える。まず自分に与えるのではなくて。みんながそうすれば、即座に天国に変わる。そんなこと・・・これまでは、夢だった。それは、ユートピアのなかにしかなかった。非現実的な話だった。仏教説話のなかの世界だった。しかし、時が満ちてきた。夢と思えたものが、現実化する時がやってきた。生き方が180度転換する時を迎えている。新しい生き方は、はっきりしている。自己中心的ではない生き方。周りの人を喜ばせる生き方。みんなの幸せが自分の幸せという生き方。自分だけでなく、みんなで幸せになっていく生き方。そのような生き方が、これから始まる。最初は、小さなコミュニティのなかで。お互いをよく知っている人々の間で。そのようなコミュニティが、各地で自然発生的に生まれる。やがて、それらはお互いに連携を深めていく。ゆるやかなネットワークが形成される。新しい時代は、マイナーなところから始まる。マスコミからは、けっして生まれない。みんなが周りの人を最優先すれば、結局、自分も最優先されることになる。お互いが最優先される。今は、他の人は最後の最後。自分だけが最優先と思い込んでいる世界。時代が逆転する。まったく新しい時代になる。これまでの価値観が、反転する。地獄が、天国に変わる。そういう方向に、時代は動いている。そういうことを理解して、日々、生きることだろうか。自己中心的に生きている自分を、はっきりと自覚することだろうか。現実から目を逸らさないで、真っ直ぐに見つめることだろうか。肉体ベース。自己保存ベース。過去の記憶ベース。個をベースとし、快を求め不快を避けようとしている自分を直視することだろうか。深く理解し、理解によって個を超えていく。自我という小さな枠を超え、自由の天地に羽ばたく。本来の自分の本質に目覚める。深く深く自分を見つめ、自分の真実に気づく。時代は、転換する。遅かれ早かれ、人は生き方を変えざるを得なくなる。自分の本来性に戻るしかない。肉体ベースを超えていくしか選択肢はない。個と全体が、融合していく。個であり全体であるという生き方に転換していく。全体のために生きることが、個の喜びとなる。全体のために個を活かすことが、真の喜び。個も全体も共に活きるのが、真の幸せ。そういう時代に向かって、すべてが進んでいる。みんなが幸せに生きる時代。地獄から天国への転換。『自分さえ よければいいのが 地獄界 周り優先 それが天国』『お互いが 周りのために 生きる時 互いにとって 最良となる』『個を殺し 全体のため 生きるのが 全体主義の 過去のやり方』『個を活かし みんなのために 生きるのが 真の幸せ みんなの幸せ』『個も活きて みんなも活きて お互いに 調和のなかで 喜び生きる』『人類の 幾千万の 経験が やがて花咲く 時を迎える』これが日記を書き始めて1445日目の心境。
2008.12.17
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昨日の日記で、個人的には2010年に完成すると書いた。しかし、その後のことはわからないとも書いた。ところが、その後のことが、なんとなくわかってきた。一晩寝るとわかってしまう不思議な世界・・・個から離れると、いろんなことが楽しめる。個に執着すると、自己実現で忙しくなる。それも悪くはない。それが今生を創造していくのだから。では、今生の自己実現が完了したら?何をするのだろうか。それが昨日の疑問だった。さて、何をするかと言うと・・・チョウになる。あら、チョウ。とはいかない。チョウって?花から花へ飛ぶ蝶。へー、人間やめて昆虫になるの?オイオイ・・・そこまでは無理でしょう。美しい花々を見て、楽しむ。その香りをかいで、楽しむ。色とりどりの花から花へ。それぞれの個性を愛でる。それらの花と一緒になって、その美しさを感じる。その甘い香りに浸る。その花園を心から味わう。ただ一緒にいる。それだけ?でもない。では、何をするの?何をするでしょう?応援をする。花の応援をする。その花が、すばらしい花を咲かせるように応援する。美しい花が開くように応援する。応援するって?どうやって?エネルギー的に。一緒にいて、エネルギー的にサポートする。サポート?どんなふうに?足りない部分にエネルギーを送ってあげるとか。落ち込んでいる時に、励ましのエネルギーを送ってあげるとか。なんだか天使みたい?そう、守護霊にも似ているかも。じゃあ、やっぱり死んじゃうの?死にはしないと思うけど・・・では、どうなるの?まだなってないから正確にはわからない。なんとかなるでしょう。たぶん、これまでとは違う楽しみ方。パトロンみたいな?この世的に言うと、それに近いかも。でも、下心なし。何も見返りは望まない。ただサポートするだけ。美しい花が咲くのを一緒に楽しむだけ。個性が開くのを愛でるだけ。あたたかく包み込んで、共にいるだけ。それって天使的な生き方?地上の天使?どうかな?翼がないから・・・翼だけじゃなくて、髪の毛もないのでは?ハ?何と言うことを・・・傷ついた?傷つきはしないけど。なーんだ、つまんない。少しは傷ついてよ。オイオイ。まあ、事実ではあるけど、気にしなければ、どうということもないね。あら、そう。そうやって思い出させてくれない限りは。お役に立てたかしら?淡々と事実ベースで生きる。そして、美しいものを愛でて暮らす。それぞれの人が花開くのを一緒に楽しむ。陰ながらエネルギー的にサポートする。それが、新しい生き方。ただ自分が抜けただけ。楽しみ自体は、存在する。水晶を楽しむのと同じ。所有しようとする自我がなく、ただ応援するだけ。何も見返りを求めない。気づきたいとも、成長したいとも、自己実現したいとも思わない。そういうものは、既に卒業。ただ美しい個性の花が開くのをサポートするだけ。脇役。裏方。応援団。それが、今生の自己実現が完了した後の生き方。余生?残りの人生の生き方。別の星へ行けば、また新しい生き方があるかもしれないが・・・2011年以降は、主役ではなく裏方。みんなが輝くための照明係。それもまた楽しそう。みんなと一緒に余生を楽しむ。『主役降り 裏方となる 二年後に スポットライト 当てて楽しむ』『美しい 花咲くために サポートし 花開く時 共に喜ぶ』『見返りも 自己実現も 成長も 何も求めず 共にあるのみ』『あふれ出す 慈愛の光 限りなく ただ燦然(さんぜん)と 光り輝く』これが日記を書き始めて1444日目の心境。
2008.12.16
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ここのところ、また寒くなっている。寒くなると、ネコが家のなかに入りたがる。家に入れると、寝てばかりいる。そんなんで楽しいの?今回の水晶祭りは、リクエストが少ない。これまでで一番少ないのではないだろうか。年末なので、みんな忙しいのだろうか。もうしばらく様子を見ることにしよう。こちらの2008年の水晶は、レムリアンシードとシトリンだった。レムリアンシードは、高さが17cmぐらいの淡い肌色。雷に当たったライトニング水晶。上から下まで、ほぼ透き通っている。大きな剥離跡があるのだが、これが不思議な形をしている。まるで多次元への入口のような・・・やさしくて、やわらかい。美しい水晶。シトリンの方は、色が濃い。スモーキーシトリンと言った方が正確かもしれない。高さが13cm、幅が7cmもある。かなり大きい。このシトリンの特徴は、透明感と照り。最高の照りをしている。このサイズで、この照りは貴重。非常に美しい水晶。今年は、とても安定していた。意識が、思考を超えた次元にほぼ固定された。多少のことでは動じない。時として感情や思考も動くが、すぐに安定した状態に戻る。安定した状態とは、クリアーで見守っている状態。意識の中心は、ほぼ後頭部に固定されている。顔の方に動くことは、あまりない。全体を見渡している感じ。今年は、この状態が確立した。それには、この二つの水晶も寄与しているだろう。両方とも、とても安定したエネルギー。存在感があって、落ち着いている。それだけでなく、透明でクリアーでもある。まさに2008年にぴったしの水晶。これらによって、ほぼパーフェクトに今年の目的を達成できたのではないだろうか。別に意識していたわけではないが、結果的にそうなっている。2009年の水晶も既に二本準備されている。それらは、両方ともカテドラル。一方は、21cmを超えて透明。他方は、19cmの薄いスモーキー。両方とも2008年の水晶とは対照的。極めてスリム。やさしいという感じではなく、厳しい。安定ではなく、急激な変化をもたらす水晶。2009年は、急(9)激な変化が起きるだろう。変化に一段と加速度がつく。激変と呼べるほどの変化になるに違いない。もちろん、個人差はあるだろうが・・・時代は、切迫してきている。そんなに悠長にやっていられる時代ではない。急激な変化が求められている。社会も個人も。2009年は、変化がますます加速する。誰の目にも激変と写る。世界が劇的に変わり始める。時代の動きは、もう止めようがない。実は、既に2010年の水晶も届いている。それは、最後の秘境と言われたインドのラダックのヒマラヤ水晶。ラダックの水晶は、あまり日本には入ってきていない。ほんの数ヶ所のサイトでアップされただけ。しかも、美しいものをアップしたサイトは、アッという間に完売になった。何度か再入荷したが、そのつど飛ぶように売れてしまった。2010年の水晶になったものは、そのなかでも最高のもの。普通では、まずお目にかかれないレベルのもの。高さは、13cmほど。幅が6cm近くある。かなり大きい。それだけでなく・・・最高の透明感を持っている。照りも抜群。その透明感の質は、もう言葉にできないほど。レコードキーパーやトライゴーニックもたくさん付いている。ガネーシュヒマールのヒマラヤ水晶は、峻厳という感じ。父性の象徴。しかし、ラダックのヒマラヤ水晶は、やさしい。透き通るように透明であるにもかかわらず、母性的なエネルギーも秘めている。大きく包み込むような包容力。一方で、カテドラルにもなっている。父性と母性の両方を併せ持つ水晶。ほぼ完璧。これが、こちらにとっては2010年の水晶。それは、完成を意味している。2010年には、今生で目指した地点まで到達する。今生の目標の達成。2010年は、ちょうど60歳。十干十二支が一回りした還暦。赤いチャンチャンコでも着て、お祝いするのだろうか。人間卒業。そこで死ぬことはないだろうが、普通の人間的な感性はなくなるだろう。世俗完了。2010年は、自分にとっては終わりの年。ということは、別の何かの始まりの年。それが何かは、まだわからない。人間ではない何か。人間を超えた何か。これまでとはまったく違う生の有様(ありよう)。2010年の水晶は、本当にすばらしい。淡いピンクのやさしさとカテドラルの厳しさを併せ持っている。上から下まで透明。深い深い透明・・・天にも通じ、しっかりとグランディングもしている。もう言うことなし。完璧!完成!水晶というのは、面白い。今の自分に必要なものが、自然に集まる。未来を見通してやって来る。実にすばらしい!もちろん、年の水晶だけが重要なわけではない。他にもたくさんの水晶たちがサポートしてくれている。実際、2009年も他に4本のカテドラルクオーツがサポートすることになっている。年の後半になれば、2010年と繋ぐ水晶も準備されている。しかし、年の水晶がメインであり、その年を象徴している。他は、みんなサポート。これまでも、たくさんの水晶がサポートしてくれた。これからも、きっと多くの水晶がサポートしてくれることだろう。水晶は、今生を生きる際のサポート隊。ありがたいことではある。役割が終わったものは、順次手放していく。また別のところで新たな役割を果たすために・・・時代もクライマックスに近づいている。個人的にもクライマックスが近い。もう意識は安定している。後は、必要のないものを削ぎ落とすだけ。来年は、その削ぎ落としが最高潮に達する。必要のないものは、すべて手放す。物質的にも、肉体的にも、精神的にも。そのために水晶がスタンバイしている。時代は、パーフェクトに進んでいる。もう間違いなく時代は転換する。はっきりと方向性が見えている。何も心配はいらない。『必要な 波動を傍(そば)で 響かせて 水晶たちは 変化促す』『人の世で 生きるサポート してくれる 水晶たちは 小さき神々』『激変は 必要のない ものをみな 削ぎ落とすため やって来るもの』『日頃から 手放すことが 激変を 未然に防ぐ 最良の道』これが日記を書き始めて1443日目の心境。
2008.12.15
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昨日から「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、年末の水晶祭りが始まっている。今回も24組の水晶たちが登場している。クオリティの高いものが多く、しかもバラエティに富んでいる。年末にふさわしく、カラフルで美しい水晶祭りになっている。最近は、あまりほしい水晶を見かけない。もう買い尽くしたのだろうか。ここ三年ほど、手当たりしだいに買ってきた。一通りの水晶は、買ったのではないだろうか。水晶と一口に言っても、たくさんの種類がある。色も形も様々。産地によってエネルギーも異なる。内包物や覆っているものによっても違ってくる。それらの水晶たちを、ほぼ一通りは購入したような気がする。今は、気に入ったものだけが残っいる。その数、およそ300。今回の水晶祭りに出たものを除いて、それだけの数がある。冬場は、たくさんの水晶を手放す。ほとんどガイドの仕事はないので、水晶祭りの収入で暮らすことになる。売り食い?そんな暮らしが、ここ数年続いている。ガイドは、春から秋にかけて収入がある。しかし、お金が入ると、すぐに水晶を買ってしまう。結果、冬になると貯金が残っていない。あるのは、水晶だけ。しかし、そんな暮らしも悪くはない。お金がないというのもいい。気軽でいい。たくさん持っているのは、重たい。そういう意味では、冬場に水晶を手放すのも問題はない。手放すことは、気持ちがいい。スッキリさわやか。リニューアルされる。空っぽになれば、また新しいものがやって来る。いつまでも古いものを持っていると、新しいものはやって来ない。ぜんぶ手放せば、新たな展開が始まる。手放すのは、けっして悪いことではない。新しいものを手に入れるのも楽しい。手に入れたものを見るのも楽しい。古いものを手放すのも楽しい。結局、みんな楽しい。楽しいことばかり?イヤなことや辛いことはないの?ほしい水晶が手に入らなかった時?買いそびれていたら、他の人に買われてしまった時?そういう時もある。いつも思い通りにいくわけではない。でも、そういうことは忘れてしまえばいい。いつまでも覚えておく必要はない。悔しい思い。イヤな思い。そういうものは、持っていたかったら持っていればいい。持っていたくなかったら、手放せばいい。そもそも悔しいとかイヤというのは、思いがあるから起きる。所有したいという思い。それが思うようにならなかった時に、悔しかったりイヤだったりする。どんな思いであれ、思いがある限り悔しさやイヤさは付いて回る。自分の思うようにならなかった時に、必ずそういう感情が沸く。何かを思うようにしたいという思いがある限り、反作用が伴う。思う通りになった時は、喜ぶ。逆の場合は、悔しがる。思いが、感情をつくる。良くも悪くも思いから感情は沸いてくる。思いがなければ、それに伴う感情もない。よく観察すると、ほとんどの感情は思いに源を発している。自分の思いに注意することだろうか。感情は、結果。結果に拘泥してもしかたがない。その源を理解する必要がある。感情は、肉体的な快・不快から始まる。それが複雑化し、心理的な快・不快によっても感情が沸くようになる。大人になると、多くは心理的なものから感情が動く。自分の思う通りになったかどうか・・・逆に言うと、思いによって感情は左右される。いかなる思いを持つかによって、感情は決まってくる。望み通りにいけば、喜ぶ。望み通りにいかなければ、悲しむ。予想外のことが起きれば、驚く。予想通りに事が運べば、満足し自慢する。思ったことと逆になれば、失望し落ち込む。褒められれば喜び、貶(けな)されれば怒る。一喜一憂、喜怒哀楽。自分が肯定されれば喜び、否定されれば悲しむ。自分にとってプラスであれば、パッと明るくなる。逆の場合は、一転して暗くなる。しかし、何がプラスで何がマイナスかというと・・・そんなに簡単ではない。ただ自分で解釈しているだけ。自分でそのように思い込んでいるだけ。それによって起きる感情が違ってくる。判断や解釈によって感情は左右される。自分にとってプラスと判断されれば、感情は喜ぶ。逆の場合は、感情は沈む。判断、解釈・・・それは、どこからやってくるのだろうか。その根拠は?それは・・・先入観や固定観念や偏見・・・信念や信条や信仰・・・価値観や道徳観や常識・・・それらのものが、判断や解釈を決めていく。つまり、思い込みが、どのような判断や解釈をするかを決める。それによって、感情が動く。感情は、思い込みによって動かされる。感情の源を探ってみた方がいい。今の感情は、何によって起きているのか。何が今の感情を呼び起こしているのか。満足、不満足。快、不快。嬉しい、悲しい。好き、嫌い。良い、悪い。楽しい、つまらない。感情の裏には、思い込みがある。思い込みが、感情を呼び起こしている。思い込みによって感情は左右される。感情は、ほとんど思い込みしだい。感情を理解することは、自分を理解することの一環。感情だけでなく、自分の思い込みも理解する。思い込みが、自分の人生を左右していると言っても過言ではない。人は、思い込みの塊。その思い込みから多くの感情が沸く。感情は、思い込みしだい。判断や解釈しだい。実際は、思考が感情を左右している。逆に言うと、感情は思考に支配されている。自分の感情は、思考に振り回されているだけ。恐るべし、思い込み。理解すべし、思考と思い込み。理解されれば、感情からも思考からも自由になれる。理解されない限り、感情や思考の奴隷。思い込みに振り回されて終わる一生。これまでの大多数の人の人生。新しく生き直すには、肉体も感覚も感情も思考も理解する必要がある。今のありのままの自分自身を深く理解する必要がある。そうしなければ、新しいステージには行けない。これまで通りに生きていたのでは、アセンションなど夢のまた夢。感覚、感情、思考を超える。それらを理解することによって超えていく。新しい意識の地平へ向かう。それには、今のありのままの自分を深く理解することが不可欠。深い理解によって、意識は静かに離陸する。これまでの人類の共同無意識から、新しい次元へ旅立つ。感覚も感情も思考も超えた次元へ飛翔する。新しい次元で生き始める。『感情の 基本はすべて 快・不快 精神的にも 肉体的にも』『快求め 不快を避ける 本能が 感情となり 行動させる』『事実より 自分にとっての 快・不快 思い込みから 感情が沸く』『感情の 元を辿れば 思い込み 自分にとって 良いか悪いか』 『浅はかな 思い込みから 感情に 翻弄されて 道を誤る』 『感情を 増幅させて いるものは 決めつけ・解釈 思い込むこと』『様々な 思い込みから 沸々(ふつふつ)と 感情が沸く 事実ではなく』『冷静に 事実見つめて 感情に 振り回されず 静かに生きる』『感情も 思考も超えて ゆるぎない 見守る意識 ベースに生きる』これが日記を書き始めて1442日目の心境。
2008.12.14
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昨日、郵便局へ行った。用事を済ませて車に戻ると・・・エンジンがかからない。アレ・・・?もしかしてバッテリー切れ?しばらく待って、再度チャレンジする。しかし、何度やってもエンジンはかからなかった。そう言えば、ここ数日エンジンのかかりが悪かった。しかたがないので、自動車修理工場へ電話する。折り返し電話するので、しばらく待ってほしいと言われる。しばらく待つも、連絡がない。忙しくて人出がないのだろうか・・・連絡がないので、再度電話を入れる。電話に出ない。まいったね。さてさて・・・待てど暮らせど連絡がないので、別の修理工場に電話するしかない。こちらもかかりつけだが、あいにく電話番号がわからなかった。郵便局で電話帳を借りる。こちらは、すぐに来てくれることになった。電話をかけ終わって車に戻ると・・・ニコニコ笑いながら若い人がやって来た。最初に電話をした工場の人。オイオイ・・・「電話してから来てくれよ」と言いたかったが、あまりにも笑顔がすてきだったので言いそびれてしまった。感じの良い人で、すぐに修理を始める。と言っても、携帯のバッテリーで充電するだけ。すぐにエンジンがかかる。ヤバイ!二番目の工場に連絡しないと。ところが、電話が繋がらない。たぶん、もう出かけてしまったのだろう。最初の工場の人が帰ってしばらくして、二番目の工場の人が到着。既にエンジンはかかっている。まいったね。事情を説明するしかないか・・・ところが口から出た言葉は、「エンジンがかかってしまった」うまいこと言うなと自分でも感心。二重連絡では、気分が悪いだろう。ウソも方便?もちろん、手間賃は払うつもり。ところが、別にいらないと言う。ハー、良心的だね。それでは、別のことをお願いしようか。ハンドルを木製のものに替えようと思っていた。既に新しいハンドルと必要部品は、購入してあった。ただ時間がなくて、二ヶ月ほどそのままになっていた。それに、タイヤも前後を取り換えたかった。せっかくの機会なので、そのことを話す。バッテリーと一緒に見てくれることになる。午後に新しいハンドルを持って工場へ行くことに。ここまで来てくれた手間賃も一緒に請求してくれるように話す。午後になって、修理工場へ行く。まずタイヤの前後を交換してもらう。本当は新しいタイヤにした時に、前後を交換してもらうことになっていた。ところが、新しいタイヤを取り付けた人が、交換するのを忘れてしまった。こちらも交換してくれたものと思い込んでいたので、数日後に気がついた。交換してくれた人が心もとない感じなので、別のところで交換したいと思っていた。ガソリンスタンドではなくて、ちゃんとした修理工場で。そういう意味で、ちょうどよかった。次にハンドルを交換してもらう。エアバックは、交換する時に爆発する恐れがある。バッテリーを切って、慎重に作業が進む。新しいハンドルを取り付け、試運転も無事に終了。次にバッテリーを見てもらう。まだ使えそうなのだが・・・ここのところ調子が悪いので、新しいのに交換してもらう。思ったより値段も安かった。いろいろ話をしているうちに、エンジンオイルも交換してもらうことになる。前回交換してから、既に1万キロぐらい走っている。せっかくなので懸案事項は、みんな処理することに。これで車に関する気がかりは一掃された。お客さんを乗せるので、車は定期的に点検してもらっている。もう11年目なので、いろいろガタがきている。部品を取り換えることも頻繁にある。それでも、まだ十分に乗れそう。すべて終わって、さて支払いは・・・これだけやったのだから、3~4万円ぐらいかなと予想していた。ところが、請求されたのは、1万7千円。安い!しかも、2万円出したら、お釣りがないと5千円返してきた。それで利益があるの?ちょうど二千円あったので、渡す。向こうも恐縮していたが、こちらも恐縮してしまう。東京では考えられない料金。いくら屋久島でも、これは安い。屋久島の修理代は、かなり安い。しかし、部品代は、全国共通。しかも、フェリー代が加算されるので、割高になる。それを含めてこの値段では、利益はいくらあるのか心配になってしまう。この工場は、新しくできたところ。兄弟二人でやっている。感じがいいので、時々行っている。本当はバッテリーが上がった時、最初にこちらに電話したかった。しかし、電話番号がわからなかった。また定期点検の時に来ることを約束して別れる。バッテリーが上がってしまった時、よりによってこんなところで・・・とは思った。でも、冷静だった。しばらく様子を見た。でも、回復しなかった。そこで、修理工場へ電話を入れた。なかなか来てくれなかった。それで次のところへ電話した。電話を切ったら最初の工場の人が到着した。二度目の工場の人へ断わりの電話をした。しかし、繋がらなかった。二度目の工場の人も到着してしまった。事実関係を書けば、そんなところ。別に何ということもない。冷静に対応すれば、なんとかなる。しかし・・・ここで興奮することもできる。あたふたと慌てたり、身の不運を嘆いたりすることもできる。今日はツイてないと落ち込むこともできる。イライラして車に八つ当たりすることもできる。どんな対応も可能。その対応によって、気分も変わってくる。心が動揺することもあり得る。心が沈むことも起こり得る。事実は、事実。しかし、反応はマチマチ。怒ることも、嘆くことも、イライラすることも、何でも可能。それによって、心の状態は千変万化する。冷静に対応するのが、一番スムーズに進む。しかし、冷静過ぎると面白みに欠ける。まったくドラマは体験できない。感情的になることによって、ドラマは生まれる。事実ベースで淡々と事を進めたら、波風は起きない。波風がないと、興奮もない。ジェットコースターのようなハラハラドキドキは体験できない。静かに事態が推移するだけ。感情は、人を興奮させる。盛り上がるドラマを体験させてくれる。些細なことでも一大イベントにしてくれる。感情による興奮効果。冷静であると、そんなことは体験できない。ハラハラドキドキは、まったくない。ただ事が淡々と運んでいくだけ。それでは物足りないから、人は目いっぱい感情ドラマを演じているのだろうか。どちらでもいい。どちらでも選択できる。しかし、実際は選択の幅は小さい。なぜなら、冷静である選択は稀。大多数の人は、感情ドラマを選択する。事を自分で脚色して盛り上げる。「たいへんなんだから・・・」「もう、どうしようもないんだから・・・」傍(はた)から見ると、どうでもいいことに見える。しかし、本人は真剣。おおいに興奮している。まるで人生の一大事のように。感情は、自己増殖する。興奮は、興奮を呼ぶ。怒りは、更に怒りを増幅させる。恐れは、更なる恐れに繋がる。人は、感情のドラマを自ら演じてきた。しかし、そのことに気づいている人は少ない。ほとんど自動的に反応しているだけ。親からの刷り込みや人類の共同無意識のままに反応している。もうそろそろ冷静に対応することをマスターしてもいいだろう。感情に振り回されるのではなく、冷静さと共に生きること。感情よりも深い次元で生きること。冷静さ=霊性さと共に生きること。落ち込んだり、嘆いたり、悲しんだり・・・怒ったり、イライラしたり、心配したり・・・そういう自分のパターンに気づくことだろうか。オートマチックに反応する自分の感情に気づくことだろうか。何か問題が起きたら、それを活かせばいいだけ。バッテリーが上がって、結果的に懸案事項が一掃された。バッテリーが上がることは、良いこと?それとも、悪いこと?どちらにでも使える。一つの事実で、嘆いたり八つ当たりしたりもできる。怒ったり不安になったりすることもできる。一方、チャンスを活かして、懸案事項をなくすこともできる。問題というものは、ない。問題は、問題と思う本人がつくるもの。問題と思うこと自体が、問題をつくり上げる。問題と思うこと自体が、問題そのもの。問題は、ない。何も問題は、ない。ただ事実がある。解決する必要のある事実があるだけ。それに冷静に対処できれば、次へ進むことができる。そこで引っ掛かると、新たなトラウマをつくってしまう。潜在意識のお荷物が、また一つ増える。未完了のものが、どんどん蓄積されていく。冷静に、クリアーに処理することだろうか。いつまでも興奮ドラマをやっていてもしかたがない。もうそろそろ感情のドラマは卒業してもいいだろう。いつまでも感情に振り回されていてもキリがない。感情は、ほとんどパターン化している。明らかに反応パターンがある。何か特定のことを言われると、オートマチックに反応する。思い込みから感情は沸いてくる。冷静にサラサラと生きるのが、アクエリアスの生き方。ドロドロと熱くなるのが、魚座のパターン。もう魚座は卒業してもいい頃。魚座を卒業するには、感情をマスターする必要がある。感情に振り回されている間は、アクエリアスの時代には入れない。アセンションは、遥かな夢。冷静でクリアーな意識だけが、次の時代へ行ける。次のアクエリアスの時代は、霊性でクリアーな時代だから・・・『感情に 振り回されて 二千年 感情超えて 時代を超える』『感情は 思い込みから 沸いてくる 単なるパターン 反応パターン』『感情に 流されないで 気がついて 踏みとどまって 冷静に見る』『冷静に 事実ベースで 生きていく 事実だけ見る 脚色しない』『事実だけ 見据(す)えていけば 淡々と 事は運んで 問題消える』『きっかけに すればいいだけ 何であれ 問題にせず 機会を活かす』これが日記を書き始めて1439日目の心境。
2008.12.11
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夜空に煌(きら)めく星々は、美しい。無数の星たちが、それぞれの色で輝く。天の川が横たわっている。流れ星が光跡を残して去る。夜空と星々は、どちらがベースだろうか。夜空だろうか。それとも、星々だろうか。目立つのは、星々だが・・・その星々も夜空がなければ、美しく煌めくことはできない。昼間の星々は、見る影もない。漆黒の夜空があればこそ、あんなに美しく輝くことができる。どちらがベースかは、言うまでもない。夜空の方が、ベース。星々は、その上で踊る踊り子。空がベースであり、色はその上で歌う歌い手。けっして逆ではない。夜空が舞台であり、星々は役者。空という舞台の上で、色という役者が歌って踊る。大きな大きな舞台で、無数の役者が交互に煌めく。それぞれにスポットライトが当たる。ところが・・・一つの星だけが目立とうとする。他の星のエネルギーを吸い取って、自分だけが輝こうとする。宇宙は自分のためにあるとでも思っているかのように・・・宇宙の中心は自分だと思っているのだろうか。他の星はどうでもいいと思っているのだろうか。自分が煌めくことがすべてと思っているのだろうか。そんな宇宙が最も美しいと思っているのだろうか。ただ一つの星が輝く宇宙。そんな宇宙に魅力があるだろうか。満天の星がそれぞれの色で輝く。それこそが宇宙ではないのだろうか。宇宙とは、調和。宇宙とは、バランス。満天の星々は、ただ漫然と存在しているのではない。それぞれが繋がり、大きな調和の世界を構成している。星々のグループがある。それは美しいハーモニーを奏でている。グループ同士の連携もある。それは、宇宙の一大ハーモニーへと繋がっている。宇宙は、生きている。それもただ生きているのではなく、それぞれが繋がり調和しながら生きている。そのことが目立ちたい星にはわからない。自分さえよければいいと思い込んでいる。実は、その星は自分のことさえよくわかっていない。自分のベースを忘却している。自分のふるさとを思い出せない。自分の真の姿に気づいていない。人も似たようなものだろうか。人も、みんなが調和してこそ、すばらしいのに・・・その星のように自分だけ目立ちたい人のなんと多いことだろうか。自分さえよければ満足なのだろうか。自分が幸せならば他はどうでもいい?せいぜい自分の家族や親類縁者が幸せであればいい?自分の安全や安心が最優先?周りで飢え死にしている人がいても知らんふり?それが、他でもない人類の現実ではないだろうか。自分だけの身の安全を守ることに汲々としている。それが結果的に自分を危険にしていることも気づかずに・・・全体が見えず、自分のことだけしか考えられない。肉体が、すべて。この命が、すべて。個であることが、すべてであると思い込んでいる。全体という発想がない。個に埋没し、全体を忘却して生きている。個に執着し、苦しみのなかで生きている。個を守るために、恐れと不安と共に生きている。疑心暗鬼に陥り、宇宙への信頼を忘れて生きている。それが、まぎれもない人類の現状。良いも悪いもない。ただの事実。悲しい事実。人は、自分のベースを忘却している。人は、星々を美しいと思う。しかし、その後ろにあるものに気づかない。星々を支えているものに考えが及ばない。星々は、夜空があってこそ煌めくことができる。人も、空というベースがあってこそ色を全うできる。人は、役者。空という舞台で舞い踊る色の役者。ベースを忘れた人は、迷い子。宇宙から孤立した家なき子。ふるさとを失くした放浪の民。いつ果てるとも知れない苦悩の旅が続く。人は、やがて・・・移り変わる色に疲れ果て、安住の地を探し始める。心のやすらげるオアシスを求める。物質的な富は、人に安心立命を与えることはない。物を所有すればするほど、奪われる恐怖が増していく。地位や名誉を得ても、それを維持するために更なる努力を強いられる。権力を握れば、より一層疑心暗鬼に陥る。この世の富は、人を真の幸せには導かない。地上での様々な体験の後、人は真のやすらぎを求める。真に心がやすらぐものは何か。真の幸せとは何か。人は、自分自身を見つめ始める。この世は、無常。変わらざるものなし。栄耀栄華は、一場の夢。驕(おご)れる平氏は、久しからず。愛する者は、次々と去っていく。いくら執着しても、執着すればするほど苦しくなるばかり。いかなる権力も富も死の前では無力。死が、この世のすべてを奪ってしまう。人は、その事実の前に愕然となる。虚しさの先に孤独が待っている。虚無感と共に死が近寄って来る。人生の意味を発見できないまま死を迎えることになる。移り変わる色に安住の地はない。無常のこの世に、真にやすらげるところはない。どこまで青い鳥を求めて彷徨(さまよ)っても、ただ時間が過ぎるだけ。変わることのないものは・・・ベースを忘れたまま生きる人は、砂上の楼閣を築いているようなもの。ひとたび大地が揺れれば、ひとたまりもない。これまで営々と築いてきたものは、一瞬のうちに崩壊する。人生の意味が、根底から覆(くつがえ)される。夜空に煌めく星々は、夜空というベースがあればこそ輝くことができる。ベースを忘れた人々は、昼間に煌めこうとする星のようなもの。いくら輝きたくても輝くことはできない。本来の煌めきを発揮することはできない。宇宙は、調和。宇宙は、バランス。宇宙は、連携。宇宙は、繋がり。愛が、宇宙を繋いでいる。愛が、宇宙を調和させている。愛が、すべてを結んでいる。愛が、すべてに浸透している。ベースを空に置く。変わることのない空にベースを置き、移り変わる色を生きる。心のふるさとを自覚し、物質次元を生きる。愛に満たされながら、現実を創造する。空にあって、色を生きる。色にあって、空を生きる。変わらざるものを自覚し、移り変わる世界を生きる。移り変わる世界にあって、変わらざる次元に住す。無限の夜空を感じながら、煌めく星々を愛でる。空のなかで色は輝く。愛に包まれて、いのちは煌めく。調和のなかに、真のやすらぎがある。『自分さえ よければいいと 思う時 孤独地獄の 扉が開く』『全体と 調和するしか 道はない 真のやすらぎ 実感するには』『軸足を 色から空に 置き換えて 空をベースに 色を楽しむ』『空という 舞台の上で 色という 役者は踊る 宇宙の舞を』『漆黒の 夜空に抱かれ 星々は 歓喜の調べ 響かせている』これが日記を書き始めて1438日目の心境。
2008.12.10
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冬になり、雨の多い日が続いている。山は、見えたり見えなかったり。海も、荒れている日が多い。今日は、それほど寒くはない。人は、過去ベースで生きている。人は、ほとんど過去でできている。今の姿は、過去の結果とも言える。生まれ育った過去の結果として、今がある。過去の成育歴を見れば、その人がわかる。過去の経験や経歴を見れば、ある程度の推測はつく。人の意識は、過去によって構成されている。過去が、今を規定している。人は、自分の過去を背負って生きている。過去の結果と共に生きている。良くも悪くも、人は過去の記憶によって成り立っている。それ以外に構成要素はない。今出てくる言葉も発想も、過去の結果。過去のデーターバンクから飛び出してくる。目の前の状況に過去が反応する。あるいは、過去のデーターと照合すると言ってもいいかもしれない。人は、過去ベースで生きている。しかし、過去だけでは生きられない。今の状況と過去とを照合しながら生きている。常に今と過去を比較しながら生きている。物事がゆっくりと流れていた時代は、過去の経験が役に立った。しかし、激動の時代になると、過去の経験が役に立つとは限らない。自分の経験で処理できる間はいい。しかし、経験が役に立たなくなると、人は困惑する。どうしていいかわからない。何をやったらいいのか途方に暮れる。行動の指針を失くす。これまでは、過去の経験が行動の指針だった。一昔前は、銀行が倒産するなど考えられなかった。つい先頃までは、みんなが年金を信頼していた。アメリカのビッグ3が経営危機に瀕すると予想した人が、10年前にいただろうか。これほどまでに食品偽装が蔓延っていたと思っていた人が、どれほどいるだろうか。これから更に想定外のことが起きてくる。原因不明の病気が蔓延する可能性がある。天候異変に伴う天変地異は、更に増加する。テロや戦争も後を絶たず、難民は増え続ける。過去の経験が役に立たない時代になろうとしている。世界的な金融危機は、まだまだ続く。最終的には、政府でさえ当てにできなくなるかもしれない。これまでの権威が、次々と崩壊していく。そういう時代にあって、どのように生きていくか。過去が役に立たない時代に遭遇して、いかに生きるか。もう過去ベースでは、生きられない。過去ベースで生きていたら、時代に取り残されてしまう。人は、過去が役に立たなくなったら、どのように生きるのだろうか。過去のデーターが、みんなゴミとなったら・・・何を拠り所として生きるのだろうか。何か頼れるものはあるのだろうか。『これからの時代はどうなるか』『これからの生き方』その手の本が売れているらしい。時代が混迷すると、そのような本が売れるようになる。これからの指針を求めて、多くの人が何かにすがる。しかし、すがったものが正しいという保証はない。先のことはわからない。その時になってみなければ、本当のところはわからない。では、どうやって日々を生きたらいいのだろうか。最終的に頼れるものは?それは、何だろう。最後の最後に頼れるものは・・・それは、自分の感性だろうか。しかし、感性も過去の経験からできているのでは?そうではないとは、言いきれない。多分に過去の影響を受けている。グライダーで飛ぶ時は、常に風の流れを気にしている必要がある。常に注意深くないと、墜落してしまう。海が荒れている時も同じ。緊急事態が起きれば、万全の注意力で進むしかない。慎重に見極める。一歩一歩手探りで、確かめながら進む。不注意に進めば、事故に繋がる。注意力全開で進むしかない。今この瞬間の意識は、過去とは関係がない。次の瞬間、過去と照合する。過去を参照し、発言し行動する。しかし・・・それが早過ぎると、思わぬ陥穽(かんせい)に陥る。早とちりという落とし穴。過去のデーターから類推すると、現実とのズレが生じる。自分の思い込みが、いつも通用するとは限らない。事実を深く確かめる必要がある。しっかり見極める。そうしないと、誤解してしまう。誤解とは、思い込みの別名。事実を正確に把握する。正確さがないと、命取りになる。緊急事態では、その危険性が高まる。冷静に瞬時に事態を見極める必要がある。全身の注意力を持って目の前の事態を直視する。イージーでは、生き残れない。真剣に注意して生きないと、間違いを犯す。日々注意深く生きる必要がある。時代の流れを見極める。事態の推移を注意深く見守る。見ること。深く見極めること。過去の経験が役に立たなくなった時に唯一頼れるものは、見ること。見極めること。その注意力。その透徹な意識の力。今この瞬間の意識。その透明で透き通るような意識。過去に影響されない純粋な意識。その意識が、新しい時代を生きる意識。それは・・・日々、注意深く生きることから培われる。今ここを真剣に生きることから育つ。イージーに生きていたのでは、芽生えない。真剣に、こまやかに、注意深く見つめる。見極める。見抜く。深く深く見つめていく。見るという意識は、光。真剣に見れば見るほど、意識の光は強くなる。意識が輝いていく。静かに深く見極めていくことだろうか。それが、過去が役に立たなくなる時代に唯一頼りになるもの。頼りになるのは、経験でも本でもない。まして、救世主であろうはずがない。自分を救えるものは、自分以外にはいない。人に救ってもらっても、本当に救われることはない。ただの一時凌ぎ。そんな生き方をしていたら、意識は鈍くなる一方。自分の意識を研ぎ澄ますしかないのに・・・自分の羅針盤を磨く。人に頼るのをやめ、自分の注意力を研磨する。透き通るような透明な意識にする。過去の混じらないクリアーな意識にする。それが、新しい時代を生き抜いていく意識となる。もう過去の意識では対応できない。過去の経験は、手放すしかない。そんなものは、どんどん役に立たなくなっていく。時代は、ますます進んでいる。波動は、更に高くなる。変化は、一段と加速する。そんな時代に、過去はほとんど役に立たなくなる。ただ、今の意識だけが、道を切り開く。本に書かれてある一般論は、役に立たない。刻々に変化する目の前の状況に間に合わない。変化の激しい時代は、瞬間・瞬間の気づきが求められる。マスコミも何の役にも立たない。それは誰かが取捨選択した情報。古い意識のマスコミ人を通ってきた情報。過去に色濃く色づけされた情報。表面だけの情報は、ほとんど何の貢献もしない。ただ不安を煽(あお)り、動揺させるだけ。世の混迷に拍車をかけるだけ。そこには、真がない。意識の表層で生きている人たちから発せられるものに、真は期待できない。深く生きている人からしか、真実は流れてこない。真の生き方は、真の生き方をしている人からしか流れ出さない。それを受け止めるには、自分も真の生き方をする必要がある。そろそろ表層の生き方をやめる時だろうか。マスコミが煽ってきた表面的な生き方を見直す必要がある。いつまでそんな生き方をしているのだろうか。もう時代遅れの生き方しかマスコミは流せない。根底に流れる真実は、マスコミから流れてくることはない。それは、自分の深い意識で感じるしかない。それには、自分を研ぎ澄ますしかない。表層的な生き方をやめるしかない。深く生きることだろうか。真剣に生きることだろうか。真実に生きることだろうか。それのみが新しい時代に繋がる生き方となる。表面的に世間的に生きても、さしたる意味はない。人類の共同無意識に呑み込まれるのが関の山。それでは、これまでのような浅はかな人類史を繰り返すだけ。もうそれは終わる時を迎えている。今この瞬間の意識を深めていくことだろうか。過去ではなく、今の意識を。この何もない透明な意識を深く感じることだろうか。この無限に透き通る意識と共に生きることだろうか。新しい時代は、新しい意識を必要とする。過去に縛られた古い意識の出番はない。幻想と思い込みに満ちた意識に居場所はない。クリアーで透き通る意識だけが、次の時代を担っていける。自分自身を見つめ、意識を研ぎ澄ますことだろうか。よけいなものを削ぎ落とし、今ここを生きることだろうか。いつまでも過去に拘泥しないで、何もない生き方を始めることだろうか。色ではなく、空に軸足を置きかえることだろうか。今この瞬間の意識は、空。何もない空。無限に広がる空。どこまでも透き通る空。『何もない この透き通る 今ここの 意識が次の 時代を開く』『今ここを 見極め抜いて 今ここを 生き抜く道を 見い出していく』これが日記を書き始めて1437日目の心境。
2008.12.09
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「1435日目 - 新たな意識(1)」の続き。『逃げるから 扉どんどん 閉じていく 行き場なくして 閉じ籠るだけ』『逃げている 限りはいつも 後ろ向き 自分のなかに 引き籠るだけ』『言い訳は 何もいらない 逃げないで 真っ直ぐ直視 理解するのみ』『決めること 後ろ向きには 生きないと 真っ直ぐ前を 向いて生きると』『逃げないと 決めれば怖い ものはなし 何が起きても 直視するのみ』『前向きに 生きれば道は 見えてくる 後ろ向く時 道は見えない』『人類の 共通無意識 超える時 逃げのパターン 乗り超える時』『見守りの 愛に包まれ 見極めの 光輝き 理解深まる』『自我でない 見守り気づく 主体性 思考を超えた 新たな意識』『気づきから 行動起きる これまでの 思考ではなく 感情でもなく』これが日記を書き始めて1435日目の心境です。
2008.12.07
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昨日、次のようなコメントがありました。「先日から、逃げかかっていたことがあって、kimiさんの日記をタイムリーに読めて、とてもありがたく感じています。直視しました。ついつい意識が逃げかかるのに気づいては戻し、気づいては戻ししていました。いろんな思い込みに気づけました。でも『もう逃げない』としっかり決めると、本当に楽になるのですね。相手がすーっと遠くに行ってしまうように感じられます。何も怖くなくなります。もうすべての現象をしっかりと目を見開いて見ようと決めました。こんなことに振り回されて逃げてばかりいたら、自分を生きることなんてできないと感じました。何だかコツを掴めたようです。しっかり見れて、気づけると、人生ってすごくおもしろいんだなと感じました。何からも逃げない強い自分を頼もしく、楽しみに思えます。『思い込みがなくなると、私ってなくなってしまうよなあ。これがただ在るっていうこと?これって楽だよなあ。』なんて、自分なりにいろいろ感じています。注意深く、自覚していこうと思います。kimiさんにとても感謝します。」この方以外にも、もう逃げないという力強いコメントがありました。逃げないと決めると、人生が変わります。これまでは、後ろ向き。それが、前向きに変わります。問題が起きると、逃げる。困難は、避ける。面倒なことは、嫌がる。楽してイージーに生きようとする。それが、これまでの大多数の共通無意識でした。人類の共通無意識と言ってもいいかもしれません。これ以上傷つかないために、自分の殻のなかに閉じ籠る。厚い鎧を着て、ガードする。どんどん心身共に硬くなり、自分のなかに引き籠る。何か気に障ることを言われると、過敏に反応する。誰かが自分の悪口を言っているような疑心暗鬼に陥る。ネガティブ循環は、果てしがありません。相手をそのまま受け入れられなくなり、思い込みだけが増幅されます。本当のところがわからないので、いつも不安です。みんなの視線が背中に刺さります。いつも監視されているような・・・後ろを向いて歩けば歩くほど、人生は暗くなります。当り前ですね。太陽は後ろにあるのですから。見えるのは、自分の影だけです。自分の影に怯えて生きる人生です。自分の思い込みに振り回されて終わる一生です。思考の空回り。思考に翻弄されるだけの人生です。人は、肉体と共に成長する過程で、まず肉体の感覚を自分のものにしていきます。それから、感情を体験し、マスターしていきます。次に、思考が発達し、いろいろ考えるようになります。しかし・・・冷静に考えることはできません。数学や科学などは、冷静に考えることができます。自分と直接関わりのない分野は、冷静でいられます。しかし、ひとたび自分の利害が絡むと・・・冷静さは、吹き飛んでしまいます。冷静さは消え、感情混じりの思考になります。極めて主観的な客観性のない思考です。思考の思い込みバージョンです。自分と直接関係がなければ、問題はありません。研究や分析は、得意です。しかし、自分の利害が絡むと、途端におかしくなります。客観的に公平に考えられなくなります。必要以上に考え込み、思考に呑み込まれてしまいます。論理的な思考のはずが、同じところを空回りするようになります。どんどん妄想が膨らみ、事実から離れて幻想の世界に迷い込みます。やがて、自分の居場所を見失います。そういう思考の泥沼に沈んでいる人の、なんと多いことでしょう。程度は、様々です。しかし、多かれ少なかれ、ほとんどの人が体験していることです。大多数の人は、その泥沼から完全に自由ではありません。それが、人類の現状です。悲しいかな、ありのままの事実です。それが、今の地球上の混乱をもたらしています。それを乗り超えなければなりません。もうそういう時期なのです。いつまでも思考に翻弄されている時ではないのです。思考を理解し、マスターする時なのです。それには・・・自分自身を直視する必要があります。自分から逃げていたのでは、いつまで経っても思考の奴隷です。思考に翻弄されて、人生の主導権を奪われたままです。朦朧とした曖昧な意識が続くだけです。アクエリアスの時代とは、クリアーで透き通るような意識の時代です。思考の渦に巻き込まれ、自分を喪失して生きる時代ではありません。魚座の時代は、感情的な思考の時代でした。私的思考に翻弄され、客観的に公平に生きることができませんでした。自己本位。自己中心。自分さえよければいい。そういう生き方しかできなかったのです。お互いに愛し合いながら幸せに暮らすことは、ごく限られた範囲内でした。その幸せも、極めて脆いものでした。周りからの圧力や自我の主張によって、容易に崩れました。ドラマのように運命に翻弄される人生でした。それは、主体性が確立していなかったからです。被害者や犠牲者をやっていたからです。人のせいにして、自分を守ろうとしてきたからです。全体が見えていなかったのです。自分だけ。自分の幸せだけ。家族の幸せだけ。意識が、狭い範囲に限定されていたのです。小さな個として生きてきたのです。それは、個=子(子供)のような人生でした。周りがよく見えていなかったのです。視野狭窄に陥っていたのです。まだ発達途上であったとも言えます。まだ未熟であったと言ってもいいでしょう。まだ思考をマスターしていなかったのですね。思考に使われ、思考に翻弄されていたのです。しかし、時は来ました。思考を理解し、思考をマスターする時が。思考を超え、思考を自由に使いこなす時が。それが、これからの新しい時代の生き方です。それには、まず自分自身の思考プロセスを理解する必要があります。理解するためには、観察する必要があります。よく見つめ、そのメカニズムを理解するのです。それは、多くの人にとって困難なことです。なぜなら、これまでそのようなことはしてこなかったから。これまでやってきたことは、自分を見て解釈していただけです。良い悪いと判断していただけです。自分を裁き、更に苦しくしてなっていただけです。冷静に客観的に自分を見るということは、至難のことです。なぜなら、これまで経験がないから。すぐに自分の価値基準で解釈したり判断します。ただ見て理解するだけというのは、意外に難しいのです。しかし、過去のパターンを乗り越えなければ、新しい地平には出られません。静かに自分を見守ることです。見守りのなかで自分のパターンに気づくことです。注意して自分の思考パターンを見極めることです。自分を見守ることも、これまで人類がやってこなかったことです。新しい意識の分野です。ですから、最初は困難が伴うかもしれません。ただ黙って見守るのは、なかなか難しいことです。しかし、それは新しい意識を人類にもたらします。見守るという意識は、愛に繋がる意識です。それは宇宙に遍満する愛です。大いなるグレートマザーの愛です。グレートマザーとは、宇宙の母性です。すべてを包み込んで見守っている慈しみのエネルギーです。見守ることは、そういうエネルギーと繋がるのです。自他を見守ることによって、自分から愛があふれ出すのです。見守りのエネルギーは、明らかに思考の次元を超えています。つまり、自我の次元を超えているのです。自我とは、思考の次元にあるものです。思考によって形成されているのが、自我という幻です。自我は、自分を客観的に冷静に見ることはできません。なぜなら、自我は自己中心的だから。自分本位にしか見ることができないのです。ですから、必ず歪んでしまいます。その歪んだ目で見て行動するので、自分自身も歪んでいきます。その結果、社会全体も歪んでいくことになります。それが、今の世界の現状です。それを変革する必要があるのです。変革する時を迎えているのです。それが、宇宙の時であり、地球の時です。そういう時代なのです。そのために、このような日記も書かれているのです。生き方を180度転換する時です。後ろ向きから前向きに方向転換するのです。太陽に背中を向けて生きるのではなく、太陽と共に生きるのです。光と共に生きる、光の時代です。見ることは、光です。自分を見つめることは、自分自身に光を当てることです。光が当たることによって、自分の意識構造が明らかになっていきます。光が当たれば、おのずから物事は明白になっていくのです。今、社会的に隠されていたものが、どんどん明らかになっています。それは、時代の光が強くなっているからです。もう隠し続けることはできないのです。もう隠蔽(いんぺい)は、許されないのです。光が強くなるということは、すべてが白日の下に曝(さら)されるということです。これまで隠されていた事実が、これから更にはっきりしてきます。これまでわからなかった自分の意識構造にも光が当たります。そうやって思考のメカニズムを理解していくのです。思考を理解し、思考を超えていきます。それには、真っ直ぐに直視する必要があります。いくら光が強くなっても、目を逸らしていては何も見えません。真っ直ぐに見ることです。見れば、明らかになります。はっきりと構造が見えるのです。その結果、これまでのような混乱に陥ることがなくなります。冷静に、霊性に生きていけるようになっていくのです。見ることは、光です。見守ることは、愛です。光とは、色です。愛とは、空です。光は個であり、愛は全体です。愛に包まれて、光は現実を創造していきます。光のバリエーションが、現象世界です。今の世界は、光も愛も弱いのです。これから、光は更に強さを増していきます。しかし、光だけでは、眩(まぶ)し過ぎて苦しくなります。見守りの愛が必要なのです。愛のなかで、光は美しく輝くのです。見守りながら、見極めることですね。自他を見守りながら、自分の意識構造に光を当てましょう。思考のメカニズムを理解していきましょう。もう後ろを向いて生きる時代ではないのですよ。そんな時代遅れの生き方はやめましょう。時代と共に前を向いて生きましょう。目をつぶったり、目を逸らしたりしないで、事実を直視しましょう。逃げないで、乗り超えて生きましょう。時代は、変わっています。人類の共通無意識も変わろうとしています。いつまでも古いパターンにしがみついてないで、新しい生き方を始めましょう。その方が、何倍も人生を堪能できるでしょう。人類の共通無意識から抜け出すには、エネルギーがいります。無理をすることはありません。ゆっくりできることから始めましょう。まずは、方向転換することですね。前を向いて生きると決めることです。それが、すべてのスタートです。もう後ろ向きには生きないと決めることですよ。逃げずに、真っ直ぐに見つめて生きると決めることですね。そこから、新しい人生が始まります。新しい時代に生きるには、新しい意識が必要です。2012年を待っているだけでは、何も変わりません。主体性が変わらないことには、2012年になっても今のままです。もう運命に翻弄されないことですね。運命は、切り開くものです。自分の主体性を確立しましょう。自我ではない、別の主体性を・・・「1435日目 - 新たな意識(2)」に続く。
2008.12.07
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昨日、次のような書き込みがありました。「不安や恐怖に支配されてばかり・・・そんな自分の人生を振り返ってみると、結局のところ親から受け継いだネガティブ思考が原因のようです。両親は(特に母親は)心配ばかりする親でした。いつも暗いニュースや悲惨なニュースばかりを持ち出しては、『だからあなたも気をつけなさい』という会話ばかりでした。ありとあらゆるネガティブを刷り込まれた結果、私は希望をもつことを止めてしまいました。別に虐待されたわけでもないし、普通に育ててもらった恩もある、、、でも、あの親を自分で選んで生まれてきたとは到底納得できない。・・・そんなことばかり考えている時点で、まだ想いに振り回されてますね。Kimiさんみたいに早くなりたいです。」親の刷り込みは、根強いものがあります。60年近く生きてきても、まだ親の発想パターンが出てくることもあります。一朝一夕に消えるものではありません。まず、そのことを理解してください。でも、親からの刷り込みがあるからといって、不自由ということでもありません。そういうパターン化した記憶もあるというだけです。それが、事に応じて反応します。しかし、それに気づけばいいだけです。気づく主体は、今この瞬間の意識です。反応しているのは、過去の記憶です。自分は、今の意識です。今の意識は、無色透明です。ただ過去の記憶と自己同一化しているだけです。だから、反応が出た瞬間に気づいて、反応から自由になればいいだけです。そんなに過去にこだわることはありません。過去がすべてではないのですから。今この瞬間の意識をベースに生きることですよ。今この瞬間の意識は、何もありません。名無しのゴンベーです。ただ意識があるだけです。しかし、それだけでは、生きていけません。過去の記憶を使い、言葉を使わなければ、この世を生きることはできません。そういうものは、ツールです。この世を生きるための道具でしかありません。そういう過去の記憶に振り回されないことですよ。感情や思考にも振り回されないことですね。それらは、自分の身を守るためのツールですから。想像力や思考力を有効に活用すればいいだけです。主体を、今この瞬間の意識に置くことですね。そうすれば、即座に自由です。その自由な意識で、過去の記憶や思考などを使うことです。まず純粋な意識にフォーカスすることですね。そこに常に意識の中心を置くようにすれば、過去に振り回されることはありません。目の前の現象に一喜一憂することもないのです。確かに刷り込みは根深いのですが、それは超えられないものではありません。一つ一つ気づいて、手放していけばいいだけです。希望を失くすこともありません。これから、どうにでもなります。自分しだいです。無限の可能性が、目の前にはあります。何をするのも自由です。何を創造することも可能です。障害は、一切ありません。「できない」という思い込み以外は・・・親を自分で選んで生まれてきたとは到底納得できない?それもわからないではありません。もっと良い親だったら納得できたのでしょうか。ちょっとひど過ぎ?自分が、こんな親を選ぶとは?そんなことはない!もっとましな親を選んだはずだ!では・・・どうして、この親から生まれてきたのでしょうか。偶然?それとも、神様のイタズラ?あるいは、抽選に外れて?いずれにしても、外れクジですね。でも、そう思ってしまうと・・・被害者になってしまいますよ。運命に翻弄される悲劇のヒロイン?悪いのは、世間?自分は、何も悪くない?いつも自分だけが、貧乏クジ?パーフェクトなネガティブパターンですね。世を恨み、人を恨んで暮らすのも一生です。でも、重たいですよ。ちっとも楽しくはありません。結局、そうやって自己正当化しているだけですから。自分を守るための言い訳です。それもわかりますが・・・とても苦しい守り方です。それも親から刷り込まれたのでしょうか。他を否定して、自分を正当化する。それこそが、ネガティブパターンです。誰かのせいにして自分を守る。それもきっと刷り込みでしょう。つまり、親の刷り込みによってこんな自分になってしまったと思うのも、刷り込みパターンによる発想ということですね。自分を被害者や犠牲者にすることによって、自分を守ろうとするパターンです。見事なネガティブパターンですね。そういうことに気づくことですよ。道は、開いています。可能性は、常にあります。生きている限り、変更可能です。自分の望むように人生をクリエイトしてください。ポイントは、今瞬間の意識です。無色透明の意識ですね。純粋な、ただ在るだけの意識です。自覚だけの意識です。記憶は、ツール=道具です。思考もツールです。想像力も、現実を創造するためのツールです。そういうものに振り回されないことですよ。肉体も感覚も感情も、この世を生きるためのものです。成長する過程で、そのようなものと自己同一化してきたのです。自分だと思い込んできたのですね。でも、それらもすべて変化しています。よくよく観察すれば、肉体も感覚も感情も思考も一定ではありません。自分と思っているものは、常に変化しているのです。記憶でさえも忘れたりします。記憶喪失になれば、自分も消えてしまいます。自分とは、記憶をベースに思い込んでいるだけのものです。記憶喪失になっても、意識は存続しています。自分はなくなっても、意識はあり続けます。それでも十分生きていけるのです。自分とは、思い込みです。幻想です。極めて曖昧なものなのです。そういうものにこだわらないことですよ。もっと自由に生きられるのです。未来は、無限に開いているのです。小さな過去にこだわることはありません。親の刷り込みは、記憶の一部に過ぎません。まず今瞬間の意識に戻すことですね。今瞬間の意識は、完全に自由です。親の刷り込みからもフリーです。その意識をベースに生きることですよ。親の刷り込みも記憶の一部として持っているということです。必要のないものは、外せばいいだけです。役に立つものは、そのままでもいいのですよ。あらゆる記憶を、もう一度見直すことですね。必要なものは、ストックしておく。必要のないものは、手放す。極めて単純です。ただ主体をどこに置くかだけです。記憶と自己同一化しないことですね。どんなに辛い記憶も、どんなに苦しい記憶も、既に終わったことです。それは、今では単なる過去のデーターにすぎません。記憶に振り回されない主体を確立することですよ。そういうこともあった。でも、今の自分は、それとは違う。今この瞬間は、白紙。いつでも新しくスタートできるのです。目をつぶれば、何もありません。目を開ければ、すべてが眼前に現れます。目をつぶれば、空。目を開ければ、色。目をつぶって、いったん空に戻し、それから目を開くのですね。そうすれば、新しい現実が目の前にあります。そこで、新たに選択すればいいのですよ。今の自分にとって必要なものかどうかを。必要なものを使って、人生をクリエイトすればいいのです。必要ないと思われるものは、そのつど手放せばいい。親からの刷り込みも、気づいたら手放せばいいだけです。何も問題はありません。どんな刷り込みをされていても、どんなに刷り込みが強くても、心配はいりません。今瞬間の意識は、完全にフリーですから。親の刷り込みなどに左右されるようなものではありませんから。問題は、それらと自己同一化するかしないかだけです。ネガティブパターンと自己同一化しないことですね。気づいたらパッと手放すことですよ。それで別に問題はありません。ただ自分をいつも見守り、気づこうとする姿勢を保つことです。それがないと、刷り込みにも気づけません。そういうスタンスで生きれば、刷り込みを乗り超えることは可能です。まあ、ゆっくりできることからやってみてください。あらゆる可能性が、眼前には広がっているのですから・・・『被害者や 犠牲者になる ことよりも 自分の望む 人生創る』『刷り込みは 単なる記憶 出た時に 気づいてパッと 手放せばいい』『気をつけて 自己同一化 しなければ 条件づけも 乗り超えられる』『刷り込みも 心の傷も 過去のこと 今この瞬間(とき)は 新たな意識』 『代々に 渡る刷り込み 乗り超えて ネガティブのない 時代を開く』『色と空 瞼(まぶた)閉じれば 何もない 瞼開ければ 現象世界』これが日記を書き始めて1434日目の心境です。
2008.12.06
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昨日、次のような書き込みがありました。「先日、ウオー・ダンスという映画を観た。アフリカのウガンダ北部の紛争地域で、両親を殺されたり、小さい子供が誘拐されて少年兵にされ殺人を強要されたり・・・そういったことで心が傷ついた子供達が、難民キャンプの学校で自分達の文化であるダンスや楽器の演奏を通して生きる喜び、生きる意欲を取り戻していく・・・・。前向きのドキュメンタリー映画なんだけれど、私はそのむなしい紛争の犠牲者となる一般の人々のことを考え込んでしまいました。突如、村が襲われ無残に殺される状況に自分が置かれた場合、私はその事実とどう向き合えるだろう?ただぶるぶる震えて、そして、意味もない犠牲者となるということに、どう向き合えるだろう・・・そんなことを考えながら寝たあくる日、体がこわばっていました。体中の血液がストップしたかのように凝り固まってしまい、首の周りが痛くてたまりませんでした。もっと思いつめたら、恐怖や不安に益々落ち込みそうでした。映画を観ても何も考え込まなければ、体がこわばることも不安になることもない。思考は、事実に関係なく私を恐怖に落とし込める・・・精神はもろいところがありますね。精神を鍛える・・・それは、事実としっかり向き合うことでしょうか。冷静さを見失うことなく。」映画から想像して、そのまま眠りに就くと・・・翌朝には心身がこわばっています。目の前の事実ではなく、ただ想っただけで心身に反応が出ます。想いが、現実を創造します。このように恐れや不安を想像すれば、それに見合った現象が起きてきます。ということは、それを逆手に取ると・・・楽しいことを想像して眠りに就いたら?さて、どうなるでしょうか。翌朝は心地よく目覚められるでしょうか。どうぞ試してみてください。想いが、現実を創造します。想像=創造なのです。想いとは、ツールです。想いは、使うものです。使われるものではありません。想いを理解して、現実化のツールとして使えばいいだけです。想いとは、字の如く心に相を描くことです。相とは、イメージです。イメージを心に描けば、描いたイメージが現実化します。そのためには・・・イメージは、雲(水蒸気)のようなものです。不安定で、刻々変化します。そのままでは、現実化はしません。雲(水蒸気)を望みの形にするには?まず気温を下げて水にする必要があります。水は方円の器に従います。自分の望む器に水を注ぎます。それを冷やせば、氷となります。氷は、雲(水蒸気)のように不安定ではありません。水のように流れて形が変わることもありません。しっかりした形を持っています。それが、現実化=現実創造ということです。自分が望む現実を、はっきりした形でイメージします。できるだけ活き活きと細部まで描きます。それを固めていきます。しっかりした形にしていくのです。どんどん明確にしていけば、はっきりした形となります。上から見た感じ。下から見た感じ。横から見た感じ。斜めから見た感じ。内部から見た感じ。ありとあらゆる角度から見つめていきます。そうすることで、形が固まっていくのです。それが、気温を下げて氷にしていく作業です。要は、物質化することです。物質とは、エネルギーが集中固定化したものです。形の曖昧な雲(水蒸気)を集中固定化することです。現実化とは、物質化ということです。物質化とは、エネルギーの集中固定化です。エネルギーをイメージ(想像力)を使って、はっきりとした形にするのです。より明確な形にすることが、固定化=物質化=現実化です。想いに振り回されないことです。想いのメカニズムを理解することです。理解して活用することです。理解されれば、何も怖がることはありません。思考力や想像力は、使うものです。使われてはいけません。主体性を持って使ってください。思考の次元を超えてください。いつまでも想いに振り回されていては、どうしようもありません。そろそろ卒業しないと。そのために、この日記があるのですから。理解して卒業してください。想いは、使うものです。ポジティブに自分の望む現実を創り出すために活用してください。間違ってもネガティブに使わないことです。望まない現実が現象化します。なに?いくらイメージしても現実化しない?それは、固定化が足りないからです。しっかり物質化できていないのです。はっきりした形ができていないのですね。まだ水なのです。だから、油断すると形が流れてしまうのです。氷になるまで更に固める必要があるのです。何度も何度も、何日も何日もイメージすることです。そうやって、エネルギーを固めるのです。明確な形に固定化するのです。その作業を続けていけば、望みのものが現象化するでしょう。どうぞオリジナルなものを想像してください。みんなと競合するものではなく、独自のものを創造しましょう。それこそが、自分の存在意義ですから。競合すると、形が崩れてしまいます。宝くじが当たることや競馬に勝つことでは、まったくオリジナリティはありません。もっと自分独自のイメージを創りましょう。宇宙に一つしかないものを創造してください。それが、真の現実創造です。思考力は、理解するために使うものです。想像力は、現実創造のために使うものです。間違っても、それらに使われないように。主体性を持って生きましょう。想いをのべつまくなしに垂れ流ししないことです。必要な時だけ使えばいいのです。想いベースで生きないことです。想いは、必要最小限でいいのです。想いの次元を超えた主体性を持ちましょう。想いにのめり込み、主体性が埋没しないように注意しましょう。静かに見守り、見極めましょう。思考力や想像力は、ツールであることを肝に銘じましょう。『不注意に のべつまくなし 垂れ流し 想いをしっかり 見守らないと』『感情や 思考の次元に 埋没し 振り回されて 生きる人類』『しっかりと 思考・感情 見守って 自分理解し シフトしていく』『思考力 理解するため 使うもの 想像力で 現実創造』『感情や 思考の次元 超える時 気づきの次元 静かに開く』これが日記を書き始めて1434日目の心境です。
2008.12.05
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ここのところ暖かい日が続いている。連日、快晴。青空が、気持ちいい。昨日は、久しぶりに水晶の浄化に行った。海は、美しく澄んでいた。ほんの少し冷たい程度。しかし、川の水はかなり冷たかった。それでも、一時間ほどは手足を浸けていられた。陽射しがあるので、寒くはない。半ズボンでも大丈夫。浄化の際は水に浸かるので、どうしても半ズボンになる。さすがに上は、ワイシャツをはおった。水晶は、海と川によって本当にきれいになる。自宅に帰って、じっくり見ると、見違えるように美しくなっている。新しく届いたものと、今月の水晶祭りに出るもの。それに、長らく浄化していなかったもの。みんなきれいになった。後は、写真を撮って、解説文を書くだけ。今回の水晶祭りも、バラエティに富んでいる。カラフルで美しい。水晶を浄化している間、誰にも会わなかった。空と海と太陽と木々。川の流れる音と、波が打ち寄せる音。冬場なので、岩場には雁が止まっていた。こんなにすばらしい自然に囲まれていても、病気になる人はなる。屋久島でも精神を病む人がいる。考え過ぎれば、心の闇に落ちる。それは、どこに住もうと変わらない。今、不安な人は、将来も不安に違いない。今、安心な人は、将来も安心だろう。不安は、心がつくり出すもの。将来は、今の投影に過ぎない。将来は、本来はない。あるのは、今だけ。今が、将来をつくり出す。今、健全であれば、将来も健全に違いない。なぜ不安になるのだろうか。それは、考えるから。これまでの経験と現状を見比べて、いろいろ考える。その結果、不安になる。別に不安にならなければならないことはない。実際、同じような状況下でも不安にならない人もいる。それは、癖だろうか。発想のパターンだろうか。自分にとって良くないことが続くと、不安になる。このままいくとどうなるだろうか・・・本当は、先のことはわからない。にもかかわらず、不安になってしまう。それは、過去の辛い経験からくるものだろうか。もう同じような目に二度と遭いたくないので、不安になるのだろうか。潜在的な恐れがあるということだろうか。だから不安がよぎるのだろうか。幼児も不安を感じることはある。しかし、それは親の雰囲気を感じてのもの。自分で考え出したものではない。しかし、辛い経験が続くと、自分で不安を考え出すようになる。経験ベース。記憶ベース。似たような状況になると、不安がよぎる。それは、自分の身を守るため。しかし、不安が慢性化すると不安神経症になる。過度の不安は、精神的な病気をつくり出す。身の危険を感じて、警戒する。それは、本能的に備わっているもの。それは、身を守るために必要なもの。しかし、それに思考が加わると、必要以上に警戒することになる。「過ぎたるは及ばざるが如し」過度の警戒は、自分の身心を傷つける。思考が空回りし、思考に呑み込まれる。思考に振り回され、自分を見失う。主体性の喪失。自分が見えなくなってしまう。冷静に、一つ一つ紐解いていくしかない。一つ一つその元を辿っていく。一つ一つ元に戻していく。そうやって自分の意識構造を理解する。不安の元は、潜在意識にある。何かを恐れている。何かが再現されるのを恐れている。自分が辛い立場になるのを恐れている。恐れているということは、それを避けようとしているということ。つまり、逃げようとしている。しかし、逃げている限り、問題は解決しない。問題を解決するには、直面するしかない。直面すれば、恐れは消える。なぜなら、恐れは逃げる時に生まれるものだから。逃げなければ、恐れはない。つまり、逃げようとしなければ、不安もない。どのような現実であれ、逃げない。直面する。そのまま受け止める。そうすれば、不安も恐れもない。ただ事実と共に生きる。極めてシンプル。それだけで、不安や恐れは解消される。事実に直面すればいいだけ。今の事実に直面する。ありのままの事実と対峙する。その事実に自分でよけいな脚色をしない。単なる事実として受け止める。事実によけいな脚色を施せば、不安や恐れが沸いてくる。ただ事実といるだけなら、不安も恐れもない。冷静に、いかに対処するかを検討すればいいだけ。ただ霊性に生きればいいだけ。不安も恐れも必要不可欠のものではない。別になくてもいい。不安や恐れのない人生は、快適。心やすらかに生きることができる。あれこれ思い煩わないこと。ただ、どんな事実であれ直面すると決めること。逃げない、避けないと決めること。そうすれば、もう怖いものなし。逃げているから、怖くなるだけ。避けようとするから、不安になるだけ。すべて直面する気になれば、何も恐れるものはなくなる。極めて単純。冷静に事実に直面すれば、たいていのことは乗り越えられる。乗り越えられないものは、まずない。意外となんとかなる。不安や恐れがなければ、事態はなんとかなるもの。ただ直面する勇気があればいいだけ。ただ逃げないと決めればいいだけ。何事も避けようとしない。何であれ、正面から直視する。その生きる姿勢が、人生を切り開く。真っ直ぐに前を向いて生きる姿勢が、困難を乗り越えさせる。逃げよう、避けようとする姿勢は、更なる困難をもたらす。生きる姿勢の違い。あらゆる事態に正面から立ち向かえば、超えられないものはない。道はある。道は見つかる。逃げたり、避けたりする必要はない。逃げたり避けたりしている限り、どんどんツケが膨らんでいくようなもの。いつかは、そのツケを払わなければならない。溜まりに溜まったツケを払うのは、大変なこと。重過ぎて自己破産する人も出る。精神が壊れたり、遠くへ逃避したり・・・最悪は、自殺ということも考えられる。そんなになるまでツケを溜め込まないこと。生きる姿勢を転換すること。目を逸らさない。逃げない。避けない。すべて直視する。事実のみを直視する。事実によけいな脚色をしない。淡々と事実と共にいる。そして、冷静に解決法を探る。そのような生き方をすれば、人生が変わる。不安や恐れから解放される。何も難しいことはない。逃げたり避けたりしなければいいだけ。いかなる事実であれ、直面すると決める。直面すると決めれば、不安も恐れも消える。事実に負けない。事実に押し潰されない。しっかりと事実を見つめる。しっかりと自分にグランディングして、事実に対処する。そうすれば、道は開ける。生きる姿勢が、人生を開く。くれぐれも逃げないこと。間違っても避けようとしないこと。直視すること。何事も真正面から見つめること。『不安なし 恐れなしで 生きること その気になれば 即座にできる』『逃げないで 避けようとせず 直視する 真っ直ぐ見れば 恐れは消える』『直視せず 逃げ回る時 心配や 恐れや不安 絶えることなし』『何事も 考えるなら 冷静に 考え過ぎは 自分喪失』『何であれ 避けたいものが ある限り 不安や恐れ 消えることなし』『起きてくる 事実と共に 生きるだけ 何も避けない 逃げたりしない』『どのような 事態になっても そのままを 受けとめ生きる 真っ直ぐ生きる』これが日記を書き始めて1432日目の心境。
2008.12.03
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今日の屋久島は、快晴。太陽が心地よく、朝から洗濯をする。ネコもくつろいで、部屋のなかで横になっている。外も寒くはないのだが、部屋のなかがいいらしい。先日、久しぶりの人がやって来た。会わない間に、きれいになっていた。以前より、かなりスッキリした感じ。詰まっていたものが、だいぶ抜けたようだ。話を聞いてみると・・・なかなかすごいドラマのなかにいた様子。普通では考えにくい男女関係。一般的に言うと、三角関係なのだが・・・でも、単純な三角関係ではなかった。世間では考えられないような状況。相当鍛えられたようだ。鍛えられるのも悪くはない。厳しい環境は、人を磨く。困難は、人のよけいなものを削ぎ落とす。心が整理され、キャパシティが大きくなる。実際、彼女はきれいになっていた。『艱難(かんなん)、汝を玉にす』困難との対処の仕方によって、玉にも石ころにもなる。要は、いかに困難と向き合うかということ。まずは、逃げないことだろうか。逃げて身を守ろうとすると、石ころになる。心身共に、どんどん硬くなっていく。恐怖に怯え、追いかけられるような人生となる。心のやすらぎは、遠い。困難を正面から直視する。その本質を見抜く。何が自分にとって辛いのかを理解する。事実は・・・自分が辛いと思っているだけのこと。自分の思い込みが、反応しているだけ。あるのは、単なる事実。その事実に、自分の思い込みが反応する。その思い込みに気づければ、軽くなる。よけいなものが削ぎ落とされる。スッキリさわやか、楽に生きられる。困難と思えるものは、結果的に自分を楽にしてくれる。そのためには、逃げないこと。真っ直ぐに直視すること。自分の気持ちを見守ること。どうしてそのように感じるのかを、見極めること。多くの場合は、こうしたい、こうあってほしいという思い込みがある。それは、自分の価値観であり固定観念。それに反する現実が起きた時に、感情的な反発が起きる。そこで、混乱する。あまり混乱がひどいと、混乱から逃げようとする。耐えがたくなると、容易に逃避の道を選択する。しかし、その混乱を直視できれば、結果は違ってくる。自分の意識構造がわかる。普段は隠れて見えないものが、修羅場では表面に出てくる。その時こそ、自分のパターンに気づくチャンス。反応のパターンに気づき、思い込みのパターンに気づく。気づいて、手放す。それは単なるパターンであり、それだけが対応の仕方ではない。別の対処もあり得る。そういう複眼的な視点に立つと、楽になれる。短絡思考は、自分を追い詰める。困難は、チャンス。自分に気づく機会であり、自分をシェイプアップする絶好の時。何でも活用すればいいだけ。活用する気があれば、困難は人を玉にしてくれる。もともと困難はない。ただ、本人が困難と感じているだけ。その感じ方は、個人差がある。客観的な困難は、存在しない。ということは、つまり困難とは、その人の思い込みということになる。各人の思い込みによって、困難がやって来る。困難が来た時は、自分の思い込みに気づけばいいだけ。思い込みが、思い込みを解消する機会をつくり出す。何も問題はない。自然に任せておけば、自然に思い込みは解けるようになっている。体の傷が、自然に癒えるように。かさぶたをつくり、傷を癒すのは、いのちのシステム。心の傷も、心のシコリも同じ。自然に解けるようになっている。それを、あれこれいじりまわすから、もっとひどくなる。困難がやって来た時は、素直にそれを見ればいいだけ。そうすれば、必要のない思い込みは解けていく。自分を正当化したり、相手を非難している場合ではない。それでは、真に自分を守ることはできない。目先を取り繕うのではなく、本質的に解決する必要がある。普通は、自分を正当化したり相手を非難したりして、自分を守ろうとする。しかし、それをやっている限り、自分の思い込みから解放されることはない。困難の原因は、自分の思い込み。思い込みが、困難を招いているだけ。それは、思い込みが外れるための自然のシステム。だから、逃げないこと。自分を直視すること。自分の意識構造を理解すること。どんな状況であれ、活かして使えば自分を磨くチャンスとなる。保身に走らないことだろうか。保身に走れば、すべてはクローズされる。亀のような閉じ籠りになってしまう。前を向いて生きる。主体的に生きる。状況に負けない。困難に立ち向かう。真っ直ぐに見つめる。素直に生きる。あれこれ理屈を並べて、逃げ口上にしない。状況を、そのまま受け止める。困難を直視できれば、困難を乗り越えることができる。自分を直視することで乗り越えれば、自分が変わる。以前よりも軽くなる。意識は整理され、シンプルになる。困難がやって来た時は、自分を見守る。見守りながら、自分の反応パターンを見極める。どうしてこのように反応するのかを理解する。自分の本音を見、思い込みに気づく。けっして困難から逃げない。逃げれば、チャンスを逸する。そうなると、いずれまた似たような艱難がやって来る。ただ遠回りしているだけのこと。思い込みがある限り、必ずそれにまつわるトラブルが起きる。トラブルから逃げれば、いつまで経ってもトラブルに見舞われ続ける。いつか決着をつける必要がある。いつまでも逃げまわれるわけではない。どうせ決着をつけるのなら、早い方がいい。その後の人生の展開が、まるで違ってくる。さわやかな人生を創造するためには、思い込みはできるだけ少ない方がいい。早目に気づき、手放すに限る。困難やトラブルは、何も問題ではない。ただ自分の思い込みに気づくチャンス。自分を見つめ、自分の意識構造を理解する、またとない機会。それを肝に銘じることだろうか。そのように生きていけば、どんどん楽になっていく。心身共に軽やかになっていく。本来の自由でしなやかな心身に回帰していく。思い込みが人を不自由にしているだけ。見守ること、それは愛。女性性のやさしさ。見極めること、それはいのち。男性性の現実創造。深く自分を包み込んで見守る。そのなかで、自分自身の意識構造を見極める。困難から逃げない。果敢にチャレンジする。チャレンジするには、見守りが不可欠。母の愛に抱かれて、子供は思い切ってチャレンジできる。自分を見守りながら、困難に立ち向かう。逃げないで思い込みに気づく。空と共に、色を生きる。空とは、愛。色とは、いのち。女性性に包まれて、男性性を生きる。愛のなかで現実を創造する。無限のやさしさに抱かれて、無限のチャレンジを続ける。それが、宇宙の創造原理。空と色、全体と個の関係。ネコは、可愛い鼾(いびき)をかきながら横になっている。安心しきって、くつろいでいる。まるで幼子のように。人も、そうありたいものではある。『困難と 思う心の 思い込み あるのは事実 反応パターン』『困難を 直視するのが 困難な 時の生き方 機会を活かす』『冷静に 自他の心を 見守って その反応を 理解していく』『反応が 出てくるままに 見守って その構造を 見極めていく』『思い込み 外れる度に 軽くなる 心開いて 楽に生きれる』『見守りに 抱かれて深く 見極める やさしさのなか 強く生き抜く』『空と色 愛に抱かれて 現実を 創造するのが 宇宙の原理』『人々が 愛に抱かれて 現実を 創造すれば 世界が変わる』これが日記を書き始めて1430日目の心境。
2008.12.01
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