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今日は、朝から暖かい。外で洗濯をしていると、かすかに風に乗って沈丁花の香りが・・・春は、もうすぐ。『春近し 風の香りは 沈丁花』二月は、日記がとても充実していたような気がする。仕事が一日だけだったので、日記に専念できた。シーズンオフも悪くはない。落ち着いて日記が書ける。三月下旬の春休みが始まるころから、2008年のシーズンが開幕する。そうなると、仕事が忙しくなる。仕事をしないと水晶も買えないので、喜んで仕事をする。生活もかかっているし・・・仕事は嫌いではないので、別に問題はない。ただ、いまのように日記に専念することはできなくなる。と言っても、毎日仕事というほどでもない。シーズン中でも、月の半分ぐらいだろうか。だから、日記はなんとか書ける。ただ、どこまで深まるかは何とも言えない。日記の内容については、顕在意識を超えたものがある。書き出すと、思わぬ展開になることも多い。いろんなエネルギーが作用している。もちろん、中心は顕在意識にある。けっして無意識で書いているわけではない。しっかり自覚して書いている。書きながら気づき、書きながら学んでいる。と言うことは、書きながら見守っているということでもある。書いている主体と、それを見守っている意識が同時にある。意識は統合されてはいるけれども、多様性を秘めている。多次元の意識が同時にある。顕在意識の隙間を縫って、別の次元の意識が現れたりしている。そんな感じがする。顕在意識だけでは、この日記は書けない。いろんな次元の意識のサポートがあって、この日記はできあがっている。この世ではバラバラの個人だけれども、別の次元では繋がっていたりもする。緊密な連携の下に、出会ったり、エネルギーが降りたりしている。三次元の預かり知らぬことも多い。それでも、なんとなくみんなが繋がっているのは感じられる。そういう流れの中にあって、二月の日記ができあがっている。特に「あとりの森」辺りから、急速に深化してきた感じがする。意識の変容を感じる。それは個人の変容ではなく、グループ全体の変化。かなり大きく意識が変容している。個々人は気づいていないかもしれない。しかし、集団的に起きている感じがする。この日記に関わっている人たち。その周りにいる人たち。その人たちの潜在意識レベルで変容が起きている。かなり大きく揺れ動いている感じ。自我の壁にヒビが入り、崩れる前兆を見せ始めている。長い永い間、確固として君臨してきた自我が、崩壊寸前になっている。これから、ゆっくりと最期を迎えることになるだろう。光が強くなり、闇は消えかかっている。闇の存在である自我は、光が強くなれば存在することはできなくなる。すべてが明らかとなれば、自我の存在する余地はなくなる。みんなが、お互いの心の状態をわかるようになる。嘘が、誰の目にもはっきりわかるようになる。隠すこともない。自分をごまかすこともない。すべてオープン。そんなところで自我は存在できない。ありのまま。素直に生きるしかなくなる。自分に正直に生きればいいだけ。カッコつけてる場合ではない。自分というイメージ(=自我)もいらない。そのようなものにこだわることもない。もっと自由に生きればいいだけ。自分にこだわれば、不自由になる。のびやかに個性の花を咲かせればいいだけ。みんなにどう思われるかとか、よけいなことを考える必要はない。ストレートに生きればいいだけ。シンプルで、楽に生きればいいだけ。そういう方向へ、時代は流れている。そういう方向へ、この日記も向かっている。共に同じ時代を生きるもの。今、一緒に新しい時代へ向かって進んでいる。『新しい 時代に向かい お互いに シンクロしながら 深化している』『多次元と 同時にここで 生きる時 地球規模での 変容起きる』『自我という 幻捨てて 真実の 自分自身で 生きる時代に』これが日記を書き始めて1154日目の心境。
2008.02.29
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あとりさんが屋久島に来た時、すばらしい虹を見ました。その虹は、静岡に帰ってからも彼女のなかで生き続けていたようです。その虹は、すばらしいお話を紡ぎ出しました。それが、「虹色のやさしさ」です。それは、彼女の日記のなかにあります。童話というか、ファンタジーというか・・・とにかく、すばらしいお話です。心温まるストーリーです。この童話を本にしたら、きっとベストセラーになるでしょう。幼い子供たちの心を豊かにしてくれるでしょう。美しいお話です。そして、ある意味本当です。神が多くの色を創ったのは、それなりに意味があります。まさしく虹のように調和された世界を創りたかったのでしょう。美しく調和された世界。それが神の夢だったのかもしれません。今の地球は、その神の夢からは遥かに遠いところにあります。今の地球から見れば、まさに夢でしかありません。現実とは、ほど遠い世界です。でも・・・神は、諦めてはいません。神の計画に狂いはありません。神は、虹色の世界を創りたかったのです。いろんな色が調和して一つになる世界。それが、これから始まります。これからそういう時代になります。虹色の時代です。虹のように調和された時代です。そういう時代を思い出させる童話です。人類の中にインプットされている未来の記憶ですね。やがてやって来る虹色の時代。それを子供たちに思い出させる童話です。もちろん、大人が読んでも感じるものがあるでしょう。大人の心の奥にも宿っているものですから。ただ、大人は忘れてしまったのですね。心の宝物を。幼い子供たちは、まだそれを持っています。それを忘れる前に、もう一度はっきりと思い出させる役に立つでしょう。人は、心のなかに宝物を持っています。ただ忘れているだけです。そういうものを思い出させるものが、これからどんどん出てくるでしょう。人が本来持っているものを思い出すきっかけになるものが、これからたくさん現れます。それらによって、人は本来の状態へ回帰していきます。人が、霊止になるのです。よろしかったら、ぜひあとりさんの日記 「虹色のやさしさ」 をお読みください。きっと心温まることでしょう。かわいいイラストも載っています。誰かさんの背中には、翼が付いていたりして・・・『様々な 経験重ね 体験し 虹の花咲く 世界を創る』『それぞれが 個性の花を 咲かせれば 神が夢見た 虹色世界』『自我という 闇が消えれば 目の前は 虹の七色 調和の世界』『まず人は 神が描いた 虹色の 心の宝 思い出すこと』『七色の 虹の世界を 創るには 一人一人が 調和すること』『自(おの)ずから 調和するには 自(みずか)らの 心のなかを 理解すること』『神播きし 心の宝 咲かせれば 花咲き匂う 虹色世界』これが日記を書き始めて1153日目の心境。
2008.02.28
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昨日の日記に対して、次のようなコメントが寄せられました。「心配することで相手とのつながりを見出す。相手に必要とされる喜びで相手を愛する。頼られるという事。そういった存在の心配をすることは、私の愛情の一部だと思っていました。自分の心の中を覗いてよく見てみると、私が愛する人達への愛だと思っていたものが殆ど、依存であることがわかりました。相手の力になれる為に相手の幸福を願いつつ、どこかの次元で相手の不幸・無力な状態を私が必要としている。誰かに力を借りる、という関係を結ぶために私が弱くなる。三次元的に本当の愛なら、相手が全快して私から去ることこそが喜びのはずなのに。それには私の寂しさ、苦痛が付きまとう。全て依存の変形だったとわかると・・・じゃあ何が残るんだろう。自分自身の波動は重いまま。自分のこれまで生み出してきた重さのみ見えてきて、とまどいます。かといって戻りたいとも思えない。人は他人を必要だろうか。何故、他の人がいるんだろう。一個しか地球がないから共同で住んでいるのかな。以前kimiさんは、『瞬間瞬間に出会ったものを体験し、味わい尽くし完了して手放す』とおっしゃっていました。水晶はきれいです。音楽は楽しい。自然も美しい。でも人は?もしも全てがドラマであり、それすら手放すとしたら・・・人との関わりに、意味があるのだろうかと思いました。意味・・・はないのですよね。もとより解釈だって必要ない。名前付けは要らない。体験そのものがある・・・?今、私の中には”保留~~保留~~”の声ばかりです。」前半部分は、よく自分のことが見つめられていますね。でも、後半部分は、疑問形で終わっています。人は他人を必要だろうか。なぜ、他の人がいるんだろう?人との関わりに何の意味があるのでしょうか。どうして、こんなにたくさんの人がいるのでしょうか。それは、とてもシンプルです。自分の心のなかを覗いて見れば一目瞭然です。一人では、つまらないから。一人では、自分一人の世界だから。一人では、広がりがないから。一人では、分かち合えないから。うれしいこと。楽しいこと。それは一人でも楽しめますが・・・でも、誰かと共有できたら、もっと楽しくなります。誰かと喜びを共有し、共感し合えたら・・・喜びは、何倍にもなります。自分だけの喜びにしておいたらもったいないですよね。みんなで喜びを分かち合わないと・・・みんなで喜びを分かち合えば、喜びは何倍にも膨れていきます。波紋のように無限に広がっていくのですね。みんなが喜びの波紋を出し合ったら・・・喜びの連鎖が起きます。それはそれは幸せな世界が実現することでしょう。それは一人では体験できないことです。他の人がいないと、それは経験できません。一人で楽しむのとは、また違った喜びがあるのですね。神は、一個の完全な人間を男と女に分割しました。男と女が愛し合うことによって、すばらしい喜びを生み出すために。男と女が一つになることによって、新しい生命を創造するために。すばらしいドラマの始まりです。それもまた消えていく?確かに。永続するものではありません。それでは虚しい?そんなことはありませんよ。すばらしいドラマを楽しめます。でも、それもやがて消える?そうですが・・・それは、消えることにこだわっているからです。逆に言うと、本当は永続してほしいのですね。つまり、その喜びに囚われているということです。囚われがなければ、虚しくもなりません。ただ喜びがあるだけです。その喜びはすぐに消えますが、次の喜びが待っています。それで別に問題はないのです。特定の喜びに囚われるから、すべてが滞ってしまうのです。ただ味わう。一緒に楽しむだけです。創造のドラマを共に創り出すだけです。それに囚われることはありません。囚われて執着するのが、これまでの人類のパターンでした。それによって悩みや苦しみが派生しました。人生の四苦八苦が生まれたのですね。でも、いつまでも苦しみ続ける必要はありません。ただその場の喜びを感じるだけでいいのです。それをストックしておく必要はありません。喜んだら、すべて忘れればいいのです。それは済んだことですから。次の喜びを味わえばいいだけです。喜びは無限にあるのですから。別に悩んだり苦しんだりする必要もありません。喜びオンリーでも生きていけます。悩みや苦しみは、単なるパターンです。まったく必要のないものです。悲しみも必要ありません。喜びだけの世界でもかまわないのです。喜びを増幅するには、たくさんの人がいるのです。たくさんの人がいれば、限りなく喜びは広がっていきます。極めてシンプルですね。複雑に考えることはありません。周りにいる人と喜びを共有し合って生きていけばいいだけです。そうすれば、喜びが何倍にもなります。喜びの波紋が広がり、世界全体が喜びに満たされます。それで何も問題はありません。掴んでいるものを手放せばいいだけのことです。人類の一人一人が、しっかり掴んでいます。それが、自我というものです。それが世界を苦しめている元凶です。一人一人がしっかり握っているものを手放せば、世界は変わります。そのためには、理解する必要があります。救世主はいりません。一人一人の自覚が必要なのです。このことを真にわかることが、覚醒です。真の意味のアセンションです。旧人類から新人類に変わることです。意識の変容なくしてアセンションは何の意味もありません。わかってしまえば、極めて単純なことです。今の人類は、無明の闇のなかをさ迷っているだけです。方向を見失っているのですね。本来の自分を忘却しているのです。これから目覚める人が増えていくでしょう。やがて急速に増えていきます。加速度がつきます。そんなに遠い未来の話ではありません。『依存する ことで互いを 絡(から)め捕り 終わることなき 愛憎ドラマ』『喜びを 持続させたい 欲望が 苦しみを生む 過去に囚われ』『握らない 常に手放す 終わらせる 一つ一つを 完了させる』『次々に 終わらせる時 新しい 更なる喜び やってくるもの』『過去モード 外して今を 生きる時 喜びだけの 世界実現』『寝る時に すべて手放し 終わらせて 白紙になって 明日を迎える』『一人では さびしかろうと 神様が 二つに分けて 喜び創る』『色々の 花咲き匂う 花園を 眺め楽しむ 神の喜び』これが日記を書き始めて1152日目の心境。
2008.02.27
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子供のことが心配で眠れないという相談があった。大学生の次男が、探検部に入って出かけることが多くなった。どこへ行くか、誰と行くかなど、詳しいことを何も教えない。帰ってくる予定の日に帰ってこないこともある。つい先日も、4日も遅れて帰って来た。そういう時は、生きた心地がしない。心配で心配で夜も眠れない。どうしたらいいのだろうという相談。大学生にもなると、親に干渉されたくないのかもしれない。詳しく話すと何か言われるので、喋りたがらないのかもしれない。自由にしたい年頃ではある。それは一般的に言えること。しかし、ある程度のことは聞いておかないと、親として心配だし責任も取れない。まあ、それが今の世間一般の常識だろう。事細かに教えてもらう必要はないが、アウトラインだけは教えてくれるように話してみてもいいかもしれない。それでも教えてくれなかったら、どうして教えてくれないのか素直に聞いてみることだろうか。親に教える必要はないと言うだろうか。どこへ誰と行こうと自分の勝手?確かに、そういうふうにも言える。しかし、親と一緒に住んでいる限り、そうとも言いきれない。外で自立していれば、どこで何をしようと自由。しかし、親の世話になっている限り、行き先や予定のアウトラインを話すのはエチケットかもしれない。それでも干渉されたくないので話さないとなれば・・・後は?諦める?それとも、心配するのをやめる?彼を信頼する?彼の人生は、彼に任せる?そもそも、心配する必要があるのだろうか。あるいは、なぜ心配するのだろうか。彼を信頼しきっていれば、心配するだろうか。まだ子供?子供だから心配なのだろうか。その子供扱いが、彼の反発を招いているのだろうか。あるいは、自分に対する信頼のなさに反抗しているのだろうか。もっと自分を信頼してほしいと心の奥で叫んでいるのだろうか。いずれにしても、心配しても何にもならない。心配のマイナスエネルギーが、彼に届いて悪影響を与えるだけ。そうではなくて、信頼のプラスエネルギーを送ってやる方が、何倍も彼の役に立つ。彼が大きく成長するバックアップになる。心配とは、自分のコントロール下に置いておきたいということの表れだろうか。どうなっているのかわからないのが、いやということだろうか。安全で元気でいるのを常に確認していたいということだろうか。それが確認できないから、心配するのだろうか。常に自分の思うようにあってほしい。でも、そうとは限らない。だから、不安。だから、心配?自分の心が不安定なだけかもしれない。不確実に自分が耐えられないのかもしれない。彼の身の安全というよりも、自分が耐えられないだけかもしれない。実は、自分のために心配しているのかもしれない。メインは、彼ではなくて自分?自分が不安定に耐えられないだけ?夜も眠れないほど心配するのは、彼に何かあっては困るから?それとも、何かあっては、自分が困るから?何が起きるかわからない。この世は、常に安全という保証はない。それなのに、安全確実を願う?願う方に無理があるのかもしれない。何が起きてもおかしくはない。それが、この世。何の保証もないのが、無常の世界。そこに保証を求めているのだろうか。諦めるしかないのかもしれない。それとも、やはり眠らずに心配する?しかし、心配すればするほど、子どもにとってはマイナスに働く。心配とは、マイナスのことを想像して心を苦しめることだから。自分も苦しいし、そのマイナスエネルギーは、当然、子供にも影響する。何も良いことはない。それなら、あっさり心配するのをやめる?なに?心配せずにいられない?心配で心配でしかたがない?それは、パターン。心の癖。何の必然性もない。単なるネガティブパターン。人類が、これまで陥ってきた暗闇コース。人類の悪癖。そういうことを、いつまでもやっていても何の進展も期待できない。心配して事態が好転するということは、あり得ない。事態は、悪化するだけ。そうであるなら、やるべきことは、はっきりしている。心配を一切しない。別に心配しなくても、何も問題はない。なんとなく心が寂しい?何もやることがなくて、手持無沙汰?すぐに心配するという癖。まったく必要のない習慣。マイナス以外の何ものでもないパターン。プラス要素のまったくないネガティブパターン。どうして心配するのかを、よーく見つめてみることだろうか。そこにあるのは、自分の願望だろうか。人の世の常に逆らい、常時、安全確実を保持したいのだろうか。それは自己保存の本能の思考バージョンだろうか。自己保存の延長線上に家族はいる。家族は、自分と変わらない。だから、安全でいてほしい。そうでないことがいやなので、心配する。結局、自分の望み通りにしたいということだろうか。その強い願望が、心配を生み出しているのだろうか。それは、やはり所有ということだろうか。自分のものを安全確実にしておきたいという・・・所有すれば、奪われる苦しみが生まれる。所有すれば、奪われないかという心配が始まる。所有した時から、苦しみはセットされている。なぜなら、所有は喪失と表裏一体だから。奪われる苦しみを避けるためには、所有しないしかない。所有すれば、必ず奪われる。なぜなら、この世は無常の世界だから。変化変滅が、この世の常道だから。苦しみを免(まぬが)れる唯一の道は、所有しないこと。一切執着しないこと。何も持たないこと。それは・・・つまり、自我を放棄することを意味する。自我とは、所有。掴んでいるものが、自分というもの。しっかり握って離さないものこそ、自我そのもの。イージーな道はない。自我というのは、イコール苦しみみたいなもの。この世は苦界とは、よく言ったもの。自我で生きる限り、苦界から抜け出すことはできない。自我とは、所有。所有すれば、必ず奪われる。永遠に変わらぬものはあり得ない。色の世界は、無常こそが常。色の世界というものは、比較相対、変化変滅。色の世界の構造そのものが、変化するようにできている。そうでなければ、色の世界そのものが成り立たない。安全確実は、あり得ないこと。変化こそが、この世の法則。一定不変を保とうとすること自体に無理がある。子供は子供の運命に任せるしかない。子供のいのちを信頼するしかない。いのちが、いのちの望むように生きるだけ。それをどうこうしようとするのは、我儘。天道を自分の望み通りに動かそうとするようなもの。宇宙の運行に逆らうことはできない。宇宙の流れと共に生きるしかない。自我で、あれこれ支配しようとすれば、苦しむだけ。自然のままに生きるしかない。宇宙と共に生きるしかない。子供のいのちと共に生きる。子供のいのちを尊重して生きる。子供のいのちを信頼して生きる。子供は自分の子供にあらず。子供は、いのち。自分の子供と思うのは、自我。自分の所有物と思っているに等しい。一個のいのちを尊重するしかない。親は、子供を育てさせていただいているだけ。親が子供を育てていると思うのは、思い上がりというもの。だから、自分のもののように心配になる。お金や財産と変わらない。自分から奪われるのを恐れているだけ。地位や名誉と変わらない。何ものにも執着しない。ただ縁のあるいのちを尊重して共に生きるだけ。子供を手放さない限り、苦しみは続く。一個のいのちとして尊重しない限り、苦しみは離れない。何ものも所有しない。子供も例外ではない。共に生きるいのちとして、尊重して生きることだろうか。尊重し、共感して生きることだろうか。いのちが響き合っていれば、そこに心配など存在する余地はない。心配は、自我のなかにだけある。いのちとして生きることだろうか。自我から離れて、無所有で生きることだろうか。何も持たない時に、すべてがある。すべてと共にある。『所有する ことがなければ 奪われる 心配もない 苦しみもない』『いつまでも 持っていたいと 願うのが 自我というもの 心配の元』『所有とは 依存でもある 所有した ものに自分が 支配されてる』『所有する ことこそ自我と 気づいたら 所有しないで 生きるしかない』『響き合う いのちといのち あるならば ただ信頼が そこにあるだけ』これが日記を書き始めて1151日目の心境。* 今日の日記は、世の親御さんにとって少し厳し過ぎるかもしれません。 でも、これが事実なので、こう書くしかありませんでした。 子供を育てていくなかで、気がつかないうちに支配したり、コントロールしたりしています。 子供を私物化しているのですね。 つまり、所有です。 それが苦しみを生み出します。 子供を私物化すること自体が、所有=自我ということです。 相談した方は、相談する相手を間違えたのかもしれませんね。 厳し過ぎ?
2008.02.26
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昨日、今日と、屋久島ナチュラルヒーリングのトップページには、自宅から見える景色が掲載されている。昨日は、光降る山。今日は、虹が架かる野原と海。いずれも最近撮ったもの。目の前には山があり、その中腹には滝がある。振り返れば、海が広がっている。その手前には、森もある。すぐ近くは、野原。環境、抜群!最高の景色に囲まれている。人家は、ちらほら。ほとんど無人の野。まるで自宅の庭のよう。もちろん、法律上は、他人の所有物。しかし、所有者の姿はない。島外の人だろうか。誰もいない自然は、自分のものと同じ。所有する必要など何もない。ただ税金がかかるだけ。眺めている分には、無料。雨が上がれば、虹が架かる。夜になれば、満天の星。大雨の後は、迫力の滝。四季折々、飽きることはない。自分で所有しているものは、何もない。住んでいる家も借家。でも、別に何も問題はない。すばらしい景色が、目の前に広がっている。思いを所有しても、重たい。物をたくさん所有しても、重たい。何もないのが、一番軽い。必要なものが、必要な時にあればいいだけ。物も思いも、極力少ないに越したことはない。たくさんあり過ぎるのは、負担になるだけ。重い荷物を背負っているようなもの。少なければ少ないほど、楽に生きれる。人は、生まれる時も死ぬ時も無一物。本来、無所有。この世を生きるために、一時的に使わせてもらっているだけ。物も思いも・・・本当は、物質も肉体も感覚も感情も思考も、みんな借りもの。一時借用。自分のものではない。もちろん、自分自身でもない。ただ、それを自分自身であると錯覚しているだけ。それらのものと自己同一化しているだけ。一体化。不分離。みんな使うもの。有効に使いこなせばいいだけ。有意義に活用して楽しめばいいだけ。それを所有する必要はない。所有すれば、逆に、所有される。捕らえたつもりが、気がつけば捕らえられている。それが、囚われ。掴んでしまったものと、いつのまにか一体化している。自分はお金になり、お金のために人の命を奪ったりもする。自分は肉体になり、快楽のために人を裏切ったりもする。自分は感情になり、感情のままに人を傷つけたりもする。自分は思考になり、思いに振り回されて悩み苦しむ。それらのものと一つになれば、それらのものに翻弄される。自分の主体性を喪失に、それらの奴隷となる。自分とは、何?自分とは・・・人は、それほど持たなくても生きていける。ホームレスでも生きている。昔から、修行者は身一つに近い。何もない方が、楽に生きられる。世間のしがらみから離脱したいと思う人は多い。すべてを捨てて蒸発する人もいる。そういう気分になったことのない人はいないだろう。自分を縛っているものが多過ぎる。そういうものを整理整頓した方がいいかもしれない。そのほとんどは、思い込み。自分で自分を縛っているだけ。自縄自縛。ほとんどのものを手放しても、生きていける。楽に生きていける。死ぬ時は、何一つ持ってはいけない。たくさんの思いを握っていると、重たくて三途の川で溺れてしまう。天国に行くには、翼が生えたように軽くならないと・・・何もないのが、一番軽い。必要最小限でいい。必要な時に使えればいいだけ。これまでは、たくさん持っている人が尊敬された。たくさん持っていることは、価値のあることだった。しかし、それは富の偏りを生み出した。贅沢三昧する人と、飢えて死ぬ人。それが幸せな世界と思う人はいないだろう。これからは、価値観が逆転する。何も持たない人の方が、尊重される。何も持たないで自由に生きれる人こそ、憧れの目で見られるようになる。大切なことは、使いこなすこと。自由に動かすこと。所有することではない。所有すれば、不自由になる。自宅を持てば、そこから動けなくなる。自宅を持ったつもりが、自宅に縛られている。別に所有しなくても、使えればいいだけ。使いたい時に使えれば、何も問題はない。思いも強く持ち過ぎると、思いに囚われてしまう。思いに縛られ、心の自由をなくす。感情を強く持ち過ぎると、心の安定をなくす。肉体を強く持ち過ぎると、肉体の快・不快に支配される。所有しない。活用するだけ。囚われない。楽しむだけ。楽しんで、忘れる。いつまでも、その記憶に耽らない。耽れば、それに支配される。そこから離れられなくなる。ほどほど。腹八分。距離を持つ。つまり、見守るということ。一体化し過ぎない。自己同一化して自分を見失わない。常に見守っている。行動しながらも、見守る意識を忘れない。『所有する ことで自分が 重くなる 持てば持つほど 身動きとれず』『所有した ものと自分が 同一化 物に縛られ 思いを背負う』『思い込み しっかり掴み しまい込み 所有するから 悩み苦しむ』『掴まない 何も持たない しまわない みんな流して 眺め楽しむ』『ひと時の 仮の住まいの 人の世を 移ろう景色 楽しみ生きる』これが日記を書き始めて1150日目の心境。
2008.02.25
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日記のコメント欄を読んでいると、だいぶ思いから離れつつあるのを感じる。思いと意識が分離しつつある。これまでは、べったり同化していた。思いが、自分自身だった。しかし、それが徐々に分離しつつある。思いは、思い。自分は、自分。見守る意識が、育ちつつある。これまでの人類史は、すばらしい文明を築いては破壊することの繰り返し。エゴの為せる悲喜交々(こもごも)のドラマだった。しかし、それも大団円を迎えようとしている。いつまでもエゴをやっていてもしかたがない。十二分に自我を体験したのではないだろうか。肉体人間になりきって、個別化の極限まで経験した。全体から分離した私で生き切った。私こそが、地上最大の重要人物だった。良くも悪くも自己中心に生きてきた。私というものを思う存分味わってきた。それは、楽しくもあり、苦しくもあった。どちらかというと、苦しみの方が多かったかもしれない。しかし、楽しさと苦しさは、裏表。喜びと悲しみも、表裏一体。この世は二元の世界。片方だけということはなかった。常に、喜びには悲しみがつきまとった。善があれば、悪もあった。天使がいれば、悪魔もいた。善玉と悪玉でドラマは盛り上がった。そういう相対二元の世界のなかで、競争し、勝ち負けを競った。勝てば喜び、負ければ悔しがった。褒められれば有頂天になり、、貶(けな)されれば落ち込んだ。子供が生まれてはガッツポーズをし、親が死んでは打ちひしがれた。そういうドラマのなかで、たくさんの思いを所有してしまった。その記憶が、自分自身を縛ってきた。自分とは、こういうものだと記憶してしまった。記憶こそが、自分自身になってしまった。思いの集大成が、自分自身というもの。それ以外の自分は、考えられなくなった。自分とは、思いの塊。実質、思いが、反応しているだけ。思い込んだ観念や信念や信仰。トラウマや執念やこだわり。夢破れた無念や達成してきた誇り。そういうものの集大成が、自分自身。しかし、それは器の中身。器そのものではない。器とは、スペース。意識というエネルギー場。意識が、器の中身を自分と思い込んでいるだけ。意識が、まだ器を自覚できていないだけ。光が足りなくて、暗闇のなかで誤解しているだけ。自分を中身と錯覚しているだけ。意識という器のなかに、思いも感情もある。それは海のなかの波のようなもの。海が、自分を波と思ったらおかしい。波は、海のほんの一部。しかも、自分と思ったその波は、既にないもの。波は、一瞬にして姿を変える。そんな過去の波を自分自身だと思うのは、どうかしているとしか言いようがない。今は、別の波が立っているのに・・・波は、常に変化している。自分が波なら、自分も常に変化していることになる。常に変化しているとしたら、自分とは何?自分に実体はあるのだろうか。一瞬にして消えるものに実体などあろうはずがない。自分と思い込んでいるものは、すべて過去の幻。今の波でさえ、次の瞬間は過去になる。つまり、自分というのは、すべて幻。ただ波が立っては、消えているだけ。思いや感情の波が、起こっては消えているだけ。もしそれが自分なら、一瞬ごとに消えていることになる。つまり、自分の実体はない。もし自分が器の方であるなら、思いや感情とは別ということになる。思いや感情は単なる波に過ぎず、自分はそれを入れている器。意識という器。空っぽの器。器と言うと物資っぽくなるが、実際は空間。エネルギー場。意識場。意識の活動スペース。それが極大になれば、宇宙空間のようなもの。そのなかで無数の星々が瞬いている。個々の星のきらめきが、思いや感情の波みたいなものだろうか。それは、瞬間・瞬間変化する。永続するものは一つとしてなく、すべては即座に消えていく。この世の実相とは、そのようなもの。あるようでないようなもの。色即是空。物質次元も意識の次元も、原理は同じ。持続するものは、ない。あるように見えているだけ。実際は、瞬々刻々変化している。そういうものを自分と思う錯覚。それらは、単なる記憶であり、思い込み。残留想念。心のなかに引っ掛かっているだけのもの。自分を特定の何かと思う愚かさ。その瞬間は、その色で輝いていたというだけ。次の瞬間は、別の色で輝いている。どこにも継続性はない。同じ肉体?同じ名前?同じ会社?同じ役職?確かに、そういうものは変わらない。いや、変わらないというのは事実ではない。即座には変わらないというのが、正確な言い方。それらのものも、やがて変化する。すべて変化しないものはない。早いか遅いかの違いだけ。変化するものが自分?結局、一定不変の自分などというものは存在しない。それは、幻想。思い込み。刻々に変化している意識があるだけ。星は、刻々にきらめいているだけ。なに?星は、いつもあり続けている?確かに。寿命が尽きるまでは。しかし、正確に言うと、星でさえ瞬々刻々変化している。一定不変のものはない。今の星と一瞬後の星は、厳密には同じではない。ただ大まかに似ているというだけ。一定のものがあるように思っているのは、大いなる錯覚。波動が遅い世界に住んでいるから、そのように思えるだけ。これから波動が速くなれば、そういうことは通用しなくなる。「私」などは、過去の残滓となる。思いベースの世界から、次の段階へ移行する。思いと自己同一化した世界から、思いと分離した意識の次元へシフトする。思いは、自分のなかの一部に降格する。これまでは、思いこそが自分そのものだった。思いから分離した意識が、これからはベースとなる。思いや感情に振り回されていた時代は、終わる。思い込みワールドの幕は、下りようとしている。新しい幕が、開こうとしている。『刻々に すべてが変化 するなかで 一定不変の 自分はいない』『握り締め 放さぬ思い それこそが 自分自身の 構成要素』『自分から 思い外せば 自分消え 色の付かない 意識あるだけ』『雲間から のぞく青空 美しい 雲を自分と 思う錯覚』『雲の上 いつも青空 広がって 雲を包んで 見守っている』『さわやかに 晴れ上がりたる 青空に 浮かぶ雲こそ 思いなりけり』『思いから 離れてみれば さわやかに 風吹き渡る 秋の草原』これが日記を書き始めて1149日目の心境。
2008.02.24
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今日の屋久島は、朝から強風が吹き荒れている。まるで春一番といった感じ。気温も春のように暖かい。こういうことを繰り返しながら春になっていくのだろうか。「1143日目 - トラウマ」の日記について、電話で相談のあった人から次のようなメールが届いた。「トラウマの日記、ありがとうございました。電話の時、一生懸命kimiさんのおっしゃることを聞いていたのですが、あのあたり数日、あまりエネルギーがなくて、kimiさんの言葉を捕らえるのに必死で、深く理解して聞くことがあまりできなくて、エネルギーも漏れていくような感覚で、せっかくお電話させていただいたのに、ちょっと未消化だったのです。だから、再度文字で書いてくださって、とてもうれしく思いました。何度も読んでみます。私があの牢獄の少年(と言っても15歳くらい 私は三つくらい上の少年の姉)を、なんとかして出してあげたいと苦しくなるのは、もちろん私の苦しみで、私の残留想念、掴んでいたものなのですが、あの少年を牢から出してあげられたら、同時にシンクロして、今の彼の意識に影響があるのでは・・・現在の彼も、同時に少しでも苦しみから解放されるのでは・・・と思うからなのですが・・・それは、どうですか?やっぱり、何とかして助けたいということに拘っているから、そう思ってしまうのでしょうか。私が何もかも手放せたら、流れるものを流しておけたら、もうそれでいいのでしょうか。彼の苦しみを感じて自分まで苦しくなるのは、何とかして解放してあげたいと思うのは、あれ?堂々巡りしていますね・・・(悩)すみません、理解度がめちゃくちゃ浅いです。支離滅裂になってきました。」牢のなかにいる彼を、かわいそうだと思う。なんとか出してあげたいと思う。でも、それはできなかった。出してあげられなかった無念が、心のなかに長く永く残る。過去世に戻って彼を牢から出してあげられたら、今生の彼も元気になるのではないか。だから、何としても牢から出してあげたい。そう思うのであれば、そうすればいい。それは、彼の役に立つかもしれない。彼をかわいそうと思っていれば、そのエネルギーは彼に影響を与える。彼が幸せな時でさえ、そのエネルギーは彼をかわいそうにしようと働く。相談者のなかでは、いつまで経っても彼はかわいそうなまま。かわいそうを、しっかり掴んでしまっているので、どうにもならない。そんな思いは、あっさりと手放すことだろうか。もう過ぎ去ったこと。その時は、そう思っただけのこと。でも、それは終わってしまったこと。いつまでも、かわいそうという思いを持っている必然性は、どこにもない。ただ惰性で持っているだけ。潜在意識のなかに強くインプットされたので、まだ残っているだけ。何の意味もない。過去世で過ちを犯した時、慙愧(ざんき)の念が強いと、次の世まで持ち越すこととなる。しかし、いくら過去を悔やんでも、元には戻らない。終わったことは、完了させるしかない。よくよく自分がやったことを直視し、二度と同じ過ちを繰り返さない。何であれ、失敗から学べばいいだけ。すべては、学習。いつまでも悔いの念を持ち続けることはない。それは、執念となって心を不自由にするだけ。恨みも、憎しみも、嫉妬も、悔いも、強く持ち続ければ、自分を苦しめる。そんなものを、わざわざ持ち続けることはない。自分の気持ちをわかってあげて、そこで完了させる。けっして持ち越さない。握りしめた手を、パッと開く。パッと勢いよく開いて、パッと忘れる。その場で完了させる。繰り越さない。持ち越せば、後々まで尾を引く。問題を更に複雑にする。瞬間・瞬間、理解して完了させる。けっして蓄積しない。過去世の無念の思いも、手放せばいいだけ。いつまでも持っている必要はない。それは彼に悪影響を与えるだけ。自分も苦しめるし、何のメリットもない。過去世に戻ってもいいし、戻らなくてもいい。いずれにしても、その無念の思いを手放せばいいだけ。それは単なる思い込みであり、執念に過ぎない。妄念に振り回されているだけのこと。もし彼も牢に入っていた時代のことが強いトラウマとなっていたら、彼もそれを思い出すだろう。あるいは、似たような状況に自分を置くかもしれない。いずれにしても、自分で解くことになる。自分のトラウマは、自分で解くしかない。彼の問題は、彼が解決する。必要なことは、自分のなかの執着を手放すこと。自分のなかにある心のわだかまりを、すべて解消させること。心の自由を縛っているものを、すべて氷解させること。心のシコリとは、本当に氷のようなもの。硬く固まっているだけ。思いが、フリーズしているだけ。解かしてあげれば、何も残らない。過去の思いが、凍りついているだけ。過去の姿のままストップしているだけ。強く強く握りしめてしまった結果。固く固く心に刻んだ結果。そういうものが多いと、心は歪(いびつ)になる。シコリだらけでは、心のなかはすぐに傷ついてしまう。固まったものが心のなかで動くたびに、心から血が出る。どうして、わざわざそんなことをするのだろうか。人は、自分が何をしているのかを知らない。自分で自分を傷つけているのがわかっていない。自分でつくったシコリが自分自身を傷つけていることに、まったく気づいていない。無知こそが、すべての苦しみの元。そんなこと、誰にも教えてもらっていない?学校では教えてくれなかった?教科書には載っていない?確かに、確かに。誰も教えてはくれない。自分で理解するしかない。自分で血を流して理解するしかない。苦しみのなかから理解するしかない。なぜ?なぜそんなに苦しまなければならないの?間違ったから?それとも、試行錯誤?答は・・・物質次元に降り、物質と共に暮らすなかで自分の本質を見失ったから。物質に心を奪われ、本来の自分自身を喪失したから。それを再び見出す旅をしているだけ・・・人類は、長い間、闇のなかを歩いて来た。しかし、それもそろそろ終わりに近づいている。夜明けが近い。もう東の空は、明るくなっている。長い永い人類の闇の時代が、今、終わろうとしている。光の時代が、今、始まろうとしている。もうすぐ、もうすぐ・・・光は、目の前まで来ている。『執念で 人を恨めば 穴二つ 自分苦しめ 他人苦しめ』『気がつけば 過ぎた思いに 囚われて いつまで経っても 過去の囚人』『塊(かたまり)を つくって心 傷つけて 自分で自分 苦しめている』『強過ぎる 思いに心 縛られて 振り回されて 生きているだけ』『強過ぎる 思いは人を 苦しめる ほどほどにして 囚われないこと』『固まって しまったものは 抱きしめて わかってあげて 手放してやる』『固まった 思い抱きしめ 見守れば 涙となって 氷は解ける』『持っている 思いをすべて 手放して 身軽になれば 楽に生きれる』『無心とは 思いが消えて 澄みきった 冬の夜空の 星のきらめき』これが日記を書き始めて1148日目の心境。* 「1114日目 - 籠の鳥」(1月20日分) も同時にアップしました。 これは超お薦めかも?
2008.02.23
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昨日から「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、水晶祭りが始まっている。今回は、魚座の水晶祭り。魚座的な水晶が、24組登場している。魚座とは・・・愛と霊性の星座。多くの人に対する博愛。無条件の愛。自己犠牲。魚座の人は、基本的にやさしい。それに、感性が優れている。インスピレーションや直感が働く。霊感も鋭い。ややもすると豊か過ぎる感情に押し流されてしまう。きちんきちんと物事を処理するのには向いていない。自分の感性でやるのに向いている。すばらしい芸術的感覚。霊性と感情的な豊かさを併せ持つのは、アメジスト。今回は、アメジストがらみが三分の二を占める。一口にアメジストと言っても、いろんな種類がある。産地も世界中に渡る。色の濃いものから薄いものまで。大きな結晶から小さな結晶まで。無研磨のものから美しく研磨されたものまで。若々しいものからエレスチャル化したものまで。花のように開いた、フラワーアメジスト。小さな結晶が密集している、カクタスアメジスト。アメジストとシトリンが混ざった、アメトリンというものまである。母岩が付いたものは、水晶が結晶している原風景がわかる。これらの水晶は、屋久島の海と川で浄化されている。太陽と月のエネルギーを吸収し、屋久島の風に吹かれている。屋久島の大自然のなかで、水晶本来のエネルギー状態に調整されている。最後に、光のエネルギーを充電されて旅立つ。この光を帯びた水晶たちが、その後どうなるかは、既に何度も日記に書いている。宇宙からのエネルギーを受けるアンテナとなる。地球全体にエネルギーを届ける中継地点となる。そして、地球のミニミニチャクラとなる。手にした人を光化し、周りにいる人にも影響を及ぼしていく。やがて、その土地をも光化し、地球全体の光化に貢献する。水晶が繋ぐ光のネットワーク。時が来れば、地球全体が光によって覆われる。そういうことを何度も書いてきたら、次のようなメールが届いた。誰が書いたかは、「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPを見ている人なら、すぐにわかるだろう。「これを意識せずに無意識にされていたなんて、日記を読んでかなり驚きました。kimiさんは、意識してされているのだと思っていました。私は、当然そのつもりでした。水晶祭りのページを作成している時にも、いつもそういうビジョンが見えて、心震えていました。地球が、繋がれた光のネットワークで眩く光り輝く様を、そして、その地球の美しさといったら、言葉では表せません。地球の呼吸に、光のネットワークの光が共振して光も呼吸するかのように輝きます。地球という惑星が、そこで生を受けている森羅万象が、優しく光の呼吸をします。宇宙と共に、呼吸をします。それはそれは、本当に、本当に、きれいです。その地球を包み込む宇宙空間も、とても、とても、きれいです。愛と光と優しさに満ち充ちています。このような世界を創り上げることに携わらせていただいているのだと、いつも感謝の気持ちでいっぱいでした。次の水晶祭りのページを作らせていただくのも、楽しみにしています。このような仕事を与えてくださって、もったいないくらいの喜びで溢れています。ありがとうございます。」その美しさは、飛行機から夜の大都市を見ているようなものだろうか。ライトアップされた都市。都市と都市を繋ぐ光の線。車の光、街路灯・・・三次元を超えたところは、地上よりも更に美しい光で繋がっている。それは肉眼では見えない。しかし、肉眼を超えた目でなら見ることができる。肉眼で見る世界の何千倍も美しい。そういう世界もある。物質次元だけが、すべてではない。水晶は、そういう光の次元から物質次元へ光を降ろす手伝いをしている。水晶を通して様々な光が物質次元へ降り注ぐ。異なる水晶は、異なる宇宙とリンクしている。それらの波動を受けると、人は自分のなかに潜在していたものに気づく。自分が本来持っていたものに目覚める。物質次元に限定されていた意識が、弾(はじ)ける。三次元仕様の意識が、その限界を超えて遥かな次元に飛翔する。本来の意識の多次元性が花開く。三次元・物質次元は、ほんの限られたスペース。宇宙は、限りない次元の広がりに満ちている。そういう内在する可能性を開く役割も水晶にはある。単に美しいだけではない。美しさの奥に秘められたものがある。宇宙の神秘が隠されている。水晶は、美しい。本当に美しい。ただ見ているだけで満たされる。光の結晶とも言えるほど美しい。『限られた 意識に代わり 水晶が 光受け止め 地上に流す』『肉眼を 超えて遥かに 美しい 光の世界 水晶繋ぐ』これが日記を書き始めて1147日目の心境。* 「1143日目 - トラウマ」も同時にアップしました。 なかなか読み応えがあると思いますよ。
2008.02.22
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昨日のコメントに、次のようなものがあった。「kimiさんのところからやってきた水晶たち。素敵な水晶たち。今まで、キレイキレイ♪面白い面白い♪と楽しんでました。でも、その水晶達が光の世界をつくってくれようとしているという事。>しかし、わかる人にしか、わかりません。>現状では、わからない人の方が大多数です。 私はそのわからない人の最たるものです。友達気分でいた水晶たちが、何だか遠い存在になってしまったような・・・そうしたら、キラキラ水晶が、とてもマットな感じになってしまったのです。鉱物の標本のように、マットな水晶たちが並んでいます。水晶たちが気の毒になってしまいました。今までのように、キラキラ水晶になるにはどうしたらよいのでしょう。」人は、自分がわからないものを遠ざけようとする。なんとなく違和感を覚える。一人だけ外国籍の子がいたりすると、いじめたりするのと似ている。自分に理解できないものは、排除しようとする。そうやって、これまでの自分を維持しようとする。新しいものを受け容れたがらない。理解できないものに対して、ニュートラルでいられない。わからないまま接することができない。自分のものにしたがる。自分のコントロール下に入れたがる。自分が支配したがる。自分の思う通りにならないものは、自分から遠ざける。水晶自体は、昨日までと変わらない。それなのに、どうして急にマットになってしまうのだろうか。どうしてキラキラをなくしてしまったのだろうか。昨日の日記を読んだから?昨日の日記を読んだ人は、495人。でも、みんなの水晶が色褪せたとは思えない。逆に輝きを増した水晶もあるに違いない。さてさて、何が違うのだろうか。水晶は、変わらない。変わったのは、見る人の気持。つまり、見る人の思いが変わった。はっきり言ってしまえば、思い込みが変化しただけ。この水晶たちが光の世界をつくっていると思い込んだから、自分から遠い存在に思えてしまった。自分の理解の範囲を超えてしまったから、水晶が光をなくしてしまった。水晶に罪はない。水晶は、昨日までと少しも変わってはいない。思い込みワールドのなかで生きていれば、思い込みが変化する度に見える世界が違ってくる。自分の思い込みというフィルターを通して見ているので、対象は変化しなくても、自分の思い込みが変化すれば世界が変わる。それは、多く宗教に見られる。新しく宗教に入ると、これまでと世界が一変してしまう。どのようなフィルターを通して見るかによって、世界はいかようにも変化する。赤いフィルター越しに見れば、世界は赤く染まってしまう。一昔前の共産圏では、実際にあったこと。今も競争原理や資本主義というフィルターで物事を見ている人のなんと多いことか。どのようなフィルターであれ、フィルターがかかると、事実をそのままには見れなくなる。昨日まで輝いていたものが、今日は色褪せてしまう。別にどのようなフィルターを用いてもいい。それが思い込みワールドだから。でも、自分がフィルター越しに見ていることを自覚していないと、真実を見失う。フィルターに振り回されて、心身が動揺する。事実ベース。これが一番安定している。水晶は、美しい。ただ、それだけでいい。なんとなく惹かれる。それで十分。自分の心に正直に生きることだろうか。思い込みに振り回されないことだろうか。水晶は、何か心に響くものがある。その気持と一緒にいればいいだけ。人がどう思おうと、水晶は水晶の役割を果たしている。思い込みフィルターに関わりなく、水晶は事実ベースで生きている。水晶は、水晶独自の世界を持っている。思い込みを外せば、それと交流できるだけ。思い込みがあるから、水晶の本質が見えないだけ。自分の思い込みが、邪魔をしているだけ。にもかかわらず、水晶を遠ざけようとする。本末転倒?フィルターを外せば、世界はクリアーになる。自分のフィルターを外すことができるのは、自分だけ。他の誰も外してやることはできない。なぜなら、自分でつくっているフィルターだから。美しい水晶たちと一緒にいる。ただそれだけでいい。後は、水晶たちがやってくれる。美しいものと一緒にいるだけで、無上の幸せを感じる。コメントを書いてくれてありがとう。コメントのおかげで、誰かの思い込みフィルターが、また一枚外れる。こうやって一枚、一枚剥がしていく。ハー、気の長い話。でも、真剣にやれば、やがて加速度がつく。思い込みが外れれば、残っているのは青空のみ。どこまでも続く澄み切った青空。一点の雲もない世界。なに?雲があった方がいい?確かに、いつも青空だけでは殺風景かもしれない。しかし、空全体が厚い雲に覆われていては、うっとうしい。黒い雲に覆われたところにいたら、雲のすばらしさはわからない。青空にいて雲を眺めないと、雲は楽しめない。青空にベースを置いてこそ、白くたなびく雲の優雅さが感じられる。クリアーなところにいればこそ、色彩の美しさが一段と身に沁みる。思い込みワールドにいては、感じられるすべてにフィルターがかかっている。別に思い込みワールドから出なければならないと力説しているわけではない。どちらでもいい。ただ事実を述べているだけ。『思い込み 通して見れば 同じもの 違って見える 人それぞれに』『フィルターを 通して見れば 色がつく 好きや嫌いや 良いや悪いや』『利き酒を するには舌を ゼロにする 必要がある 何事もそう』『青空に 浮かぶ白雲 美しい 曇り空では 雲は映えない』『事実見て 事実感じて 事実から 事実ベースで 生きていくだけ』『事実見て 事実見つめて 見極めて 事実から出る ものを感じる』『フィルターを 外して頭 空にして ひたすら事実(水晶) 見ればいいだけ』これが日記を書き始めて1146日目の心境。* えっちゃんの良いところは、打たれ強いところだよね。この3年間、日記のなかでボロクソに書かれているものね。それでも、よく読み続けているよね。すばらしい!実に、一般人代表の役割を果たしていますね。最後の一人になるまで、思い込みワールドの住人でいてね。ラブリー!
2008.02.21
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今日は久しぶりに晴れたので、水晶の浄化に行きました。明日からの水晶祭りに出るものと、新しく届いたもの。大きなザルが、5個も必要でした。風が少しありましたが、海水は冷たくはありませんでした。水晶に関係したメールが、あとリさんから届きました。寝ていたら、光が眩(まぶ)しくて起こされたとのこと。ステキなメールなので、ここで紹介します。「ソレイユさんに、『水晶がお疲れみたいだよ』と言われても気づかなかったんですが、水晶が出している光と宇宙につながる柱?みたいなものが、なんとなく見えてきました。私が縁があったものだから余計に見えるのかな?こうやって、常に今までもつながっていたのでしょうが、パイプが太くなったんだろうと感じます。キミさんが嫁に出した水晶同士の交流もあるように感じています。日本には、いくつかの線、光のような線があるようです。何て言うか、道路みたいな感じですね。赤いライン、青いライン、白っぽいのとか、光の場所、各所から各所へつながりを持っている感じがします。そして、その線が薄いところや雲が掛かったようなとこもあるようです。水晶は、ラインのつながりとパワーを強くします。ラインを円滑にしながら天からのエネルギーの交流をしていきます。かつてキミさんが歩いた場所かな?なんとかセミナーとかで?そういう所は、ラインも含めて活性化しているように見受けられます。火のような所もある気がするよ~。キミさんから流れて行く水晶には、これからも沢山情報(エネルギー)が降りてきます。その土地との縁というか、仲良しになれる性質とかもあるのかな?また水晶により他の鉱物や植物、自然?のエネルギーをのびのびとさせ、その自然からの情報を受け取る人もますます増えていきます。誰もが自然に受け取っていく感じ?自然のエネルギーが、もっと何て言うか、全面的になるような、強くなるような、そんな感じ。」次は、レイラインについて、こちらからメールをした後に届いたメールです。「レイライン?そういえば聞いたことありますね。神社のラインとか聞いたような。キミさんが走らせたラインもすごかったよ。パワーの大きさが。明るくなった感じ。今は、もっと緻密で繊細なラインを走らせているような気がしたよ。何て言うか、体で言えば、かつてのキミさんのラインは静脈とか動脈で、今は毛細血管みたいな。」「水晶は、全てを生かすんですね。体の細胞全てが輝くように、地球の全てが輝く。眠っているところがなくなります。それは体で言えば、チャクラとかだったですよね?チャクラも沢山あるみたいな感じだけど、土地のそういうとこに。土地すべてが本来のパワーを発するように、体もすべてがオンになるように、人が目覚めるように。いのちパワー漲る屋久島が、それらをオンにしていく感じ。古代の人は、かなり目覚めている(オン)パワーがあったのですね。だから、果てしない科学やエネルギーを扱えたようです。古代の人達も惜しみない協力をして下さいます。古代の叡智みたいなものでしょうか。人間や土地、地球すべてが目覚めると、とてもすばらしい可能性にあふれるのですね。乗り越えて新たな世界の扉を開く私達を、既に待っているような感じでしょうか。(ゴールの位置にいて、手を広げているような)きっとキミさんご自身が、ご存じなことばかりなんですよね(笑)私あまり知らないから、何が変で何が大切かわからなくて、メールするしかなくてすみません。映像と光をキミさんのところに転写送信できればいいのにね。すごいスピードの中に、果てない情報が組み敷かれているような感じです。でも、それも簡単にできる時代がくるのね。て言うか、キミさんは実はできますね~。」「水晶とラインが点滅し輝く姿は・・・日本は、本当に美しいです。その美しさを見てたら、体も連動します。きっと人間のチャクラと細胞たちも連動します。本当に食べない時代くるかも。きれいだね。いろんな光がきれい。そして、人ももう光になろうとしている人達がいる。光ってる人もいる気が…。私の視線になると(人かな?水晶かな?って見ようとすると)、急に眩しく目がつぶれそうになるので見にくいですが、要するに、自分が光ってないと周りの人が認識できたり見えないんだわ…。光の人が増えていくたびに、どんな光の世界になるのだろう。まだまだ真っ暗どんよりあとりが実感。キミ魔法使い、地球劇場でどんな魔法をこれから使うのかなあ~」宇宙と繋がる縦の光。地球全体を結ぶ横の光。そのポイントに地球のチャクラがあります。屋久島のようなところですね。水晶は、地球のミニチャクラのようなものでしょうか。宇宙とも地球とも繋がっています。移動チャクラでもありますね。水晶が広く行き渡るということは・・・ミニチャクラが、至る所にできるということですね。そのミニチャクラは、宇宙と地球に繋がっています。そして、ミニチャクラ同士も繋がっているのですね。クリスタル光のネットワークです。屋久島に住む前、日本全国のエネルギースポットを回りました。それは、その土地、その土地に光を降ろすためでした。一人ではなく、光のセミナーに参加していた人も一緒に行ってくれました。その光のラインが、まだ生きているようです。それは、動脈であり静脈。今、水晶でつくっているのは、毛細血管。地球全体を光の網の目で覆うのですね。やがて、地球自身が光り輝くことでしょう。光というのは、エネルギーです。それは理屈を超えてダイレクトに伝わります。しかし、わかる人にしか、わかりません。現状では、わからない人の方が大多数です。そういう方には、言葉で伝えることになります。エネルギーがわかる人も、言葉で、左脳で理解する必要もあります。右脳と左脳、両方で理解する必要があるのですね。一方に偏れば、混乱します。右脳でダイレクトにエネルギーを感じ、左脳で明確に理解する必要があります。右脳と左脳が統合される必要があるのですね。それでこそ、トータルです。脳の中心で生きる必要があります。水晶を持つことによって、持っている人にエネルギーが伝わります。その人から周りの人にエネルギーが伝播していきます。やがて、その人の住む土地も光に満たされます。水晶がつくり出す光の世界です。それだけではありません。水晶を持つことによって、心身も光化されていきます。波動が上がっていくのですね。地球とリンクして波動がアップしていきます。水晶は、アセンションに向けたアイテムです。今、日本には世界中から膨大な量の水晶が流れ込んでいます。それも意味のないことではありません。水晶が、光を繋ぐからです。もっとも、そのように意識している人は、ごく少数でしょう。ほとんどの人は、無意識です。ただ、若い人は本能的に知っているのかもしれません。無意識レベルで感じているのでしょう。今の若者は、水晶を持っている人が増えています。水晶は、若者のなかでブームになっています。若い人から意識の変容は広がっていくでしょう。自然に変わっていきます。もちろん、意識しているのと無意識では、影響力が格段に違ってきます。しっかり自覚して水晶を持てば、水晶自体もその本来の役割を果たしやすくなるでしょう。屋久島の自然で浄化され、光を帯びて届く水晶は、それなりの役割を持っています。有効に活用すれば、光の世界へ旅立つパートナーになってくれることでしょう。別に水晶祭りの宣伝をしているわけではありません。水晶祭りの本来の意味を書いているだけです。こちらも、求められて無自覚に始めたものです。結果的に意味があったようです。今回も24組の水晶たちが旅立ちます。これからも水晶祭りは続いていくでしょう。より光に満ちた水晶になっていくに違いありません。今後は、こちらも意識して行うことになるでしょう。光に満ちた水晶は、心も体も光で満たします。水晶は、光の伝導装置です。光を伝導し、増幅します。光の時代のパートナーです。『水晶は ミニミニチャクラ 宇宙から 光受け取り 地球に流す』『光降る 時代にあって 水晶は 光り繋げる 移動アンテナ』『宇宙より 届く光と 地球より 届く光を 水晶繋ぐ』『美しい 水晶見れば それだけで 心と体 整理整頓』これが日記を書き始めて1145日目の心境です。*「 1142日目 - あとりの森(蓮の花)」も同時にアップしました。
2008.02.20
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今日、ADSLが繋がった。待ちに待ったこの日。五年間も待ってしまった。その結果は・・・待っただけの甲斐はあった。速い、速い。ものすごく速い。これ光じゃないの?と思うくらい速い。これまでのISDNに比べたら、百倍ぐらい速い感じ。HPが、アッという間に出てくる。これまでは時間がかかり過ぎて、重たいサイトは画像が途中で切れてしまうことが多かった。それが、一瞬のうちにすべて出てしまう。まるで夢を見ているよう。昨日までが、ウソみたい。まるで別世界へワープしたような気分。そこで・・・アセンションすれば、こんな感じになるのだろうかと思った。まるで次元が違う。瞬時に変化する。あのスローなISDNが、遠い夢の世界のように感じられる。時代は、どんどん速くなっている。時間も空間も速くなっている。アッという間に世界中と繋がる。時代は、間違いなくアセンションへ向かって進んでいる。しかし、真のアセンションとは、物質次元のことではない。真のアセンションは、意識次元で起きる。それが結果的に物理次元まで波及する。基本は、意識。意識が変わらないことには、何も変わらない。ただアセンションを待っているだけでは、置いてけ堀を食ってしまう。自分自身を見つめ、自我をクリアーにするということがなければ、アセンションは絵に描いた餅。突然世界が変わるということはあり得ない。これまで溜め込んできたものを手放した人だけが、アセンションする。アセンションとは、次元上昇。重たいままで上昇できるはずがない。重たい人は、このままこの三次元に残ることになる。別に差別でも、選別でもない。意識の状態に応じたところへ行くだけ。極めて自然なこと。この三次元では、いろんな意識次元の人が同居していただけ。意識のフォーカスを三次元から五次元へ動かすだけのこと。まだ三次元にフォーカスしていたい人に、強制はできない。それぞれが選ぶこと。それを認めるしかない。アセンションのために、特に何かをすることもない。アセンションは、結果。意識の変容の結果。意識が変われば、自然に起きる。アセンションするために何かをすれば、エゴの行為となる。自然に生きればいい。自分自身を理解するということだけをやっていればいい。後は、自然に付いてくる。やるべきことも、やりたいことも、自然にわかる。意識が変われば、すべてが明らかになる。自然のまま。無理をすることはない。絶えず自分自身を見つめ、外側のものに振り回されないことだろうか。いつも自分自身にフィードバックすることだろうか。常に自分を見ることによって、見守る意識を育てることだろうか。意識のフォーカスを、自我から見守る意識の方へシフトさせることだろうか。『アセンション 待てど暮らせど 来はしない 自分自身を 見つめなければ』『これまでの 自我の生きざま 見直して 生き直すより 他に道なし』『特別に 何かをすれば エゴになる 自然のままに 自分見つめて』『無理をせず 自分自身と 共にいて 見守りながら 理解深める』これが日記を書き始めて1144日目の心境。
2008.02.19
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電話で相談があった。ワイズ博士の過去世療法のCDを聞いていたら、イメージが出てきたけれども、本当に過去世なのだろうか。話を聞くと、どうも過去世のようだった。そこで、問題があった。今生で仲の良い知り合いと自分が出てきた。知り合いは、牢に閉じ込められていた。出たくてたまらない様子。できるものなら助けてあげたかった。しかし、屈強な男が見張っており、とても助けられそうになかった。知り合いは沈み込んでおり、何か手助けができればと思った。今生でも今落ち込んでおり、なんとかサポートしてあげたい。それが相談の中身だった。もう一度そこへ戻って、助けてあげればいい。それが、こちらの回答。どうやって?それが相談者から返ってきた言葉。確かに普通に考えれば、屈強な男が牢の前に立っていれば、助けるのは難しい。まして、相談者は、あまり強くなさそうな感じ。まともに勝てる相手ではない。では、どうするか・・・過去世というのは、夢の世界のようなもの。潜在意識のなかに溜まっていたものが、出てきただけ。今生のトラウマの過去世版。トラウマというのは、時系列は関係ない。潜在意識のなかに蓄積されているものが、突然、出てくる。夢も同じ。時系列は、顕在意識のみ。思考で時間を軸に体系化しているだけ。潜在意識のなかに時系列はない。だから、アトランダムに出てくる。前後関係に一貫性はない。どんどん場面が飛んでしまう。今生の過去も、過去世も、夢の中も、たいして変わらない。心のなかに引っ掛かっていたものが、出てくるだけ。それは、心のなかにあっても重荷になるだけなので、心が出そうとしている結果。自然治癒みたいなもの。そういうものに囚われる必要はない。ただ心の中で、しっかりと握りしめていただけのもの。何の実体もない。まるで夢のようなもの。それは、幻。自分の思い込み。囚われ。トラウマ。ただ、握っているものを手放せばいいだけ。過去世で助けることができなくて無念だった思いが残っているだけ。強い残留想念。過去世で、しっかり握りしめたまま亡くなったということ。ただ手放せばいいだけのこと。しかし、ただ手放すことができない。そのため、過去世に戻る必要が生じる。過去世に戻って、牢屋にいる知り合いを助け出す。どうやって?どうやってというのは、この世的思考。実は、どうやっても、こうやってもない。夢のような世界なのだから。どうにでもなる。番人を魔法で眠らせてもいい。腹痛を起こさせて、トイレへ行かせてもいい。牢屋を火事にして、番人を消化に専念させてもいい。何でもできる。なにしろ夢のような世界なのだから。過去世は、夢の世界と変わらない。ただ潜在意識のなかにあるだけのもの。自分のなかの残留想念が、今生の過去であれ、過去世であれ、自然に出てくる。トラウマを解消するために出てくる。心の自然浄化作用。だから、本当は、ただ眺めているだけでいい。出てくる時は、消える時。自分が掴んでいたものが、潜在意識から出てきて消えようとしているだけ。そんなものに、どうしてまたこだわる必要があるだろうか。せっかく解消されようとしているものを、どうしてまた掴み直すのだろうか。ただ手放せばいいだけ。ただ手放すことができなかったら、思いが残った原因を解消してあげる。具体的には、牢から出してあげる。その際の手段は、問わない。現象世界のことは、ほとんど幻。心がつくり出しているだけのもの。そういうものに囚われないこと。色の世界は、無常の世界。変転極まりない世界。瞬々刻々変化していく。そういうものに、いちいち囚われないことだろうか。ただ眺めていればいいだけのこと。動かないものは、ただ一つ。空の意識のみ。色の世界は、変化変滅が常態。それは、変化を楽しむ世界。変化するものに囚われたら、変化できなくなってしまう。変化するものを掴まえたら、取り残されてしまう。変化するものを握ってしまったら、過去に生きることになる。変化するものに執着すれば、虚しくなるだけ。では、握っているものは、何か。捉まえているものは、何か。囚われているものは、何か。執着しているものは、何か。それは、ただの幻。過去の思い出。ただの思い込み。一人で思い込んでしまった思い込みワールド。そういうものに一切かまわないことだろうか。流れるものは、流れるままにしておくことだろうか。ただ流れるものを眺めて楽しむだけにすることだろうか。そうすれば、すべてはスムーズに流れていく。退行催眠を受けてもいい。過去世療法を実践してもいい。各種セミナーを受講してもいい。セラピーで癒してもらってもいい。何をやってもいい。しかし、何もやらなくてもいい。本質的には、変わらない。ただ掴んでいるものを手放すだけのこと。それ以上でも、それ以下でもない。囚われているものを、手放すかどうかという問題。それを自分でやるか、誰かに手伝ってもらうかの違い。どちらでも結果は変わらない。出てきたものを手放すことができれば、過去世に退行することもない。今生も過去世も同じ。握りしめて放さないということをやめるだけ。掴まない、握らない、囚われない。サラサラと水のように流れていく。この世=色の世界は、そのようなところ。無常の世界。変化の世界。変化を喜び、変化を楽しむ。何ものにも囚われない。何も掴まない。何も握りしめない。ただ眺めて楽しむ。それ以外のことをすれば、苦しみがやってくる。流れを堰き止めれば、水が溢れ出す。水が溢れ出せば、人はそのなかで溺れてしまう。何もない。すべてがある。何もなくても、すべてがある。何もないところに、すべてがある。『トラウマは 心のなかに あるだけの 実体のない ただの幻(まぼろし)』『死ぬ時に 強い執着 持ったなら 生まれ変わって 解(ほど)くしかない』『今生も 過去世も同じ 掴まえた ものを放せば 跡形もなし』『人の世は 変わらざるもの 何もなし 変わりゆくもの 何も掴まず』『過ぎたこと みんな手放し 今ここを 味わいきって 生きればいいだけ』『流れゆく ものを掴まえ 囚われて 溜まり溜まって 身動きできず』『変わりゆく すべてのものを 見守って こだわらないで 楽しみ生きる』『流れゆく ものを楽しみ 味わって 色の世界を 生きればいいだけ』『人の世は 波乗りゲーム 絶え間なく 来る波に乗る 囚われないで』『流れゆく ものはそのまま 見守って 共に流れて 変化楽しむ』『流れゆく ものを止めれば 心身に シコリができて もがき苦しむ』『サラサラと 流れるままに 生きる時 心身共に 淀むことなし』これが日記を書き始めて1143日目の心境。
2008.02.18
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屋久島から帰った後、あとリさんは、いろんなエネルギーと繋がっているようです。次のようなメールが届きました。「以前、kimiさんに、親が屋久島に旅行に出かけた日の朝、夢を見たことをお伝えしたことがあります。蓮の茎が、ぐんぐん伸びて、地震のように揺らぎ、そして、紫の花が開いていく夢。そして、その後、kimiさんとみなさんが(数え切れないほどの数)手をつなぎ、六角形になって、宇宙の暗い闇の中で、宇宙のような光とともに、『あと少し・・・』と言っている場面を見た夢。私は、実家に戻ってきてから、あくまで私が感じる夢の世界ですが、そこにリンクします。kimiさんと皆さんが手をつないでいた最初に見た夢は、まだ周りが暗く、誰がその先にいるか見えない部分もありました。最近見たものは、もう既にとても明るく、非常に人の顔も姿も、そして周りも明るくなっているものでした。蓮の花は幻想のような美しい中で、もう既に紫色に咲きかけている感じ。」以前の夢のことは、「339日目 - うす紫の蓮の花の共同体」 に出ています。その時は、周りはまだ暗かったようです。一緒にいる人の半分ぐらいしか見えませんでした。しかし、今回の夢は・・・周りもかなり明るくなっています。紫の蓮の花も咲きかかっています。あれから2年。かなり状況は進んでいるようです。自分自身の実感としては、既に75%まではきている感じがします。残っている闇の部分は、25%といった感じです。これも時間の問題であるのは、間違いありません。やがて、全面的に光の世界になるでしょう。まだ現実世界では、あまりはっきりした変化は見えません。まだまだ深く静かに進んでいる感じです。でも、この動きが表面化する時、一気に事態は変化するでしょう。動き始めたら速いですよ。一気に変わります。ソ連邦が崩壊した時のように。東欧共産圏が瞬く間に瓦解したように。表面化した時は、既にクライマックスなのです。それまでは、静かに見えないところで進行します。既に意識レベルのネットワークは、かなり深く広く繋がっています。これは深化する一方です。間違いなく光のエネルギーが広がっています。外に向けてやることはありません。宗教活動ではないので、このことを広める必要もありません。まずは自分自身を見つめることでしょうか。自分自身から変革するしかありません。それは外側の変革ではなく、内面的な変革です。意識の変容こそが、最も求められていることです。意識が深まれば深まるほど、繋がりも深くなります。表面的な繋がりは、何の意味もありません。直接的には、この日記によって繋がっています。でも、間接的には、日記を超えて遥かに繋がっているのです。見えない光のネットワークが、張り巡らされています。それが、どんどん緊密になっています。やがて、それが不動のものになった時、一気に表面化するでしょう。その時は、もう既にクライマックスです。一気に世の中が変わる時です。水面下では、間違いなく変化が加速しています。何も心配することはありません。間違いなく変化します。光は目の前です。花は咲きかかっています。『密やかに 蕾(つぼみ)開けば 曙(あけぼの)に 薄紫の 光こぼれる』『もうすぐに 蓮の花咲く 時がくる 光り輝き 一気に開く』これが日記を書き始めて1142日目の心境です。
2008.02.17
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あとりさんをヤクスギランドへ連れて行った時、天柱石がきれいに見えました。その時、彼女は、古代の人々が天柱石の前で儀式をしているビジョンを見ました。何か不思議なエネルギーワークをしているようでした。その後、静岡の自宅に帰ってからもビジョンが見え続けていたようです。その後のビジョンを教えてほしいとメールしたら、次のようなものが返ってきました。「天柱石のお話ですが、まだ途切れ途切れなのです。何かエネルギーを使って、その場所でエネルギーをどこかに放出?していたようなシーンが見られます。それは天のようなところに向かって。何かそこで、世界とつながっていたビジョンもあります。世界のすべてが見え、世界の中心のような、果ての果てまで見えていた様子です。そこはユニットのように、すべてが連動しています。何かが動くと何かに伝わる。私が知っている世界より、もっと微細で、繊細で、それでいて強いエネルギーを持っています。でも、今、私が知っているエネルギーではないので、何のエネルギーか感じ得ません。天柱石には、何かそのユニットの中で中枢である者たちが向かうところ、そんな気もします。そこには、リーダーというか、総領というか、そういう人もいるようです。エネルギーは強い力を持っているけれど、それが個人のものではないです。今言う、「私が、私よ!」っていう、そういう個人的感覚もなくって、誰が誰だか・・・・。でも、個人のものとして使った者もいるのかもしれません。その時、エネルギーは攻撃のエネルギーに転換されてしまっている気がします。私の中にある攻撃のエネルギーに少しリンクします。力は巨大ですが、質が攻撃っぽい。まだ、少しの場面、途切れ途切れのシーンしか見えず、つながらないのでよくわかりません。リラックスしている時、時々、感覚が出てくるのですね。でも、何て言うか、私の波動とはちょっと違って、高いのかな?あの、たぶん、かなり高いのだと思います。追いつかないんですね。この時代は、エネルギーの交流がとて盛んという感じかな。それから、その時代の人であるかもしれませんし、わからない、未来からかもしれません。その人たちは、????時代がないの????どこの人?わからないけれど、しばらくリンクしました。何か伝えたいようでした。でも、私の知らないエネルギーで、言葉にうまく変換できないんですね。何て言うか、語彙も足らないというか・・・・。幽霊さんなら、私とエネルギーがよく似ている言葉に変換できるのですが・・・。言葉は足りませんでしたが、次のようなエネルギーでしたよ。『私たちは、あなたたちと共に聡明なビジョンを迎えていくために、エネルギーの準備と手伝いをしていきます。どうぞ恐れずに。動き回る必要もありません。それほどの勇気もいりません。水面下では、もう時を待つのみです。』なんか、語彙がなくってごめんなさい。要するに、こんな感じのメッセージというか・・・・・。何て言うか、自分の知っている言葉でしか訳せなかった。そして、既に私がメール打っている時点で、エネルギーが私のエネルギーになっている気がします。このエネルギーは、私たちの苦しみや、kimiさんの言葉で言えばエゴ、そういうものを本当に小さな可愛らしいものと感じています。何も問題ないようです。何て言うか、高い高い感じだなあ。よくわかんないけど。そして、いろんなビジョン。(もう言葉に変換できる気力がなかった)kimiさんの水晶も、ものすごく見えたの。何て言うか、水晶は大切みたいな気がする。(kimiさんが日記でおっしゃっているから言うんではなくって、とても大切みたいですね)あと、屋久島のつながりかな?もっと深く?光のつながり?パイプ、太さ?パワー?とかとか?(ごめん、だめです。私の語彙力でつなげられません。)エネルギーが私に戻った時、しばらく新聞の文字とかが読めなかったです。読んでも意味がわからなかった。だから、文字がない世界なのかな?それから、ほら、そうそう、このサイトのエネルギーでびっくりして、なんだか酔いまくって、私、kimiさんの夢とリンクした時見たけど、kimiさんが、夜、どこかに行っていた時、付いて行ってしまって・・・なんか、とっても高いところで、会議みたいなのに参加して、で、すごい資料が沢山あるところの傍で、いろんな人と会議してた時です。白い世界です。このこと何かの折に、勝手に入ってしまったことの謝りメールで書いたことあるんですが、そういうところに行っている感覚と少し似ています。それから、kimiさんの日記を読んでいる時、何かすごい天高くのところで記録しているような、何て言うか、記録の本にペンでスラスラと書き込まれているような、あの感覚。あの音。それに少し似ていて、そのスラスラと書き込まれているような感覚の時に感じる音がしました。この音は、よくkimiさんの日記の中にいる時に聞いたことがあるんです。でも、私、夢物語を創っているのかもしれませんので、ほどほどに聞いてくださいね。kimiさんに天柱石の続編を教えてと言われて書こうとした後、ちょっと訳がわからなくなって、落ち着いた後、このメールしました。またゆっくり思い出すと思います。」中略。「kimiさん、私、kimiさんに今までもずっとお世話になってきましたね。あなたの瞳は昔からぜんぜん変わっていないし、その奥にある色も変わっていない。kimiさんの香り、魂の中にある色は、私がkimiさんに会う目印になりました。私は、いろいろと裏切ってきたようですね。kimiさんの香りは、やはり、昔のままですね。感謝します。(っていうか、いまいち私の言葉じゃないし!何て言うか、これ書いている時、もう既に私のかなり低いエネルギーで書いてますが、でも、やはり、少しだけ丁寧語になるのね。上品なエネルギーがまだ残っているうちに、失礼しますね)でも、すばらしいサポートがあるような感じでしたよ。集結(この言葉がぴったりするな)の時のような・・・・。世の中何が起きているのかな?こんなに暴動と浄化の世界なのに。」あとりさんが見たビジョンは、ムーの時代でしょうか。古代、屋久島が世界の中心であった時代があるのかもしれませんね。その頃は、もっともっと高かったでしょう。今の屋久島は、ムー大陸が沈んで、ほんのちょっと残っただけですから。その頃は、エネルギー的に宇宙や世界中と交流していたようです。そのアンテナが、今の天柱石です。その前で、中心的なメンバーがエネルギーワークをやっていたのですね。それを、あとりさんは見たようです。そのエネルギーは、非個人的なものでした。巨大なエネルギーだったのです。そのエネルギーが宇宙と地球をつないでいました。地球全体にエネルギーが行き渡っていたのですね。全地球と連動していたのです。その時代は、あまり個人的な動きはなく、全体的に動いていたようです。でも、時代が下るにつれて、個人的にエネルギーを使うようになり、やがてムー大陸は海底に沈んだのではないでしょうか。エゴが、全体性を凌駕してしまったのですね。そういう過去があって、今があります。そういう過去を踏まえて、今があるのですね。そういう過去を超えるために、今があるとも言えます。そのために、過去を思い出す必要があるのですね。単に思い出に耽るだけでは、何の意味もありません。何のために今回、地球に生まれてきたのか。それは、明らかです。時代を統合するためです。これまでの地球の歴史を統合し、新しい時代を開くためです。そのために多くの魂が出てきています。私たちも、その一環です。地球アセンションプロジェクトですね。『水面下では、もう時を待つのみです。』過去も未来も超えた、時間のない高次元からのメッセージですね。既に事は成っているのです。ただ現実化するのを待っているだけです。もっとも、これは高次元から見た場合で、三次元では、これからですね。これから私たちが、新しい時代を切り開くのです。人は多次元的に存在していますので、次元によってタイムラグがあります。本質的には、事は成っています。水晶についても、少し言及されていますね。水晶は、たぶん重要な役割を担っています。それは・・・エネルギーをつなぐのです。光のネットワークをつくりあげる際のアンテナの役割を果たすのですね。屋久島からたくさんの水晶が旅立っています。日本はもちろん、海外にまでも行っています。それらがエネルギーをつなぐのです。高次元からのエネルギーを水晶がキャッチします。それを周りにいる人に伝達します。波動的に影響を与えます。水晶を通してつながるようになります。宇宙の高次元の波動が、水晶を通して流れます。地球全体に光のネットワークができます。そのためのアイテムです。光のアイテムですね。これまでは、そういうことは意識していませんでした。このメールを読んで、ハッと気がつきました。無意識にやっていたことが、ちゃんと意味があったのですね。光のエネルギー場をつくっていたのです。あとりさんは、高い次元へ行ってエネルギーをキャッチしてきたようです。それは白い光の世界でしょうか。あまりにも高過ぎて、地球の言葉に変換できないものも多かったようです。普段の意識に戻ってきた時には、逆に地球の文字が読めなくなっていました。今の三次元の意識では想像もできないような遥かな意識の次元があります。そういうところへ行って、普段の意識に戻った時は、夢を見ていたような感じになります。意識は多次元的です。そういう視点から見れば、自我は可愛いものかもしれませんね。魂には、香りがあります。その香りによって識別できるのですね。その香りは、そうそう変わるものではありません。だから、誰だかわかるのです。屋久島には、大きな役割がありそうですね。面積は小さいですが、大きな大きな島です。ムーの時代のエネルギーが、脈々と流れています。地球の中心のいのちが、沸々と湧き出しているのです。ここから地球全体にエネルギーが放出されています。もちろん、屋久島だけではありません。地球の各エネルギースポットから、必要なエネルギーが発信されています。それらが地球全体を取り囲み、新しい時代が開いていくのです。この日記を通して、縁のある人たちがつながりつつあります。やがて、深い縁のある人たちは、集結するでしょう。ひとつにつながっていくのですね。そういう時代なのです。必要な情報は、自然に降りてきます。それぞれの人が、それぞれの役割を担っています。新しい時代を切り開く役割です。自分から望んだ役割です。これから共に新しい時代を切り開いていきます。楽しくて心躍るチャレンジです。間違いなく新しい時代はやってきます。これから一緒に拓いていきましょう。『これまでの すべての歴史 統合し 光の時代 地球に拓く』『真実は 既にすべては 成っている 後はこの世に 現れるだけ』『旅に出る 水晶たちは 光咲く ネットワークを つくる役割』これが日記を書き始めて1141日目の心境です。
2008.02.16
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知り合いから電話があった。80歳を過ぎたお母さんが、再び歩けるようになったと。このお母さんは、数か月前に腰の骨を折った。この年齢であれば、再起不能になってもおかしくはなかった。すぐに入院。手術をしようということになった。骨を金属で固定するための手術。しかし、その前に難関があった。手術に際して全身の検査をする必要があった。これが危険を伴う。ほんの数パーセントだが、後遺症が出る可能性があった。その時点で一度相談があった。医者は、手術をして6ヶ月もすれば歩けるようになるとの見解だった。病院では、すべてこのやり方でやっている。しかし、彼女の知り合いの霊能者に見てもらうと・・・お母さんは骨自体が弱っており、手術をしても、また他のところが折れる可能性があると言われた。この年齢で手術をするのは、体に大きな負担になるのは間違いない。しかも腰椎なので、後遺症が出る恐れもあった。電話してきた彼女は、できれば手術はしたくない様子。でも、周りはみんな手術を勧めるので、迷っている感じだった。お母さん本人は、どんな気持なのだろう?本人は、手術をしてよくなるものだったら、すぐにでも手術をしたいと。なにしろ寝たきりで動けないので、早く元気になりたい一心。その気持も理解できないことはない。でも・・・それは、あまりにもイージー。あなた任せ。物事は、そんなに簡単ではない。一番の問題は、お母さんの心構え。ずっと主婦をやってきて、夜はテレビの娯楽番組を見て過ごしている。外に出て何かをしようという感じはなく、ほとんど家にいる。あまり人付き合いもない。実は、1年ぐらい前に、お父さんが生きるか死ぬかの大病を患った。それ以来、生き方が変わってしまった。これまでは肉や魚なども食べていたが、厳格に玄米菜食を実行するようになった。酒もやめ、これまでの生き方を改めた。周りの人に対する接し方も変化し、理解が深まった。これまでの生き方を悔い改め、生き直した感じになっている。今ではとても元気になり、俳句をボランティアで教えたりしている。それには、彼女のアドバイスも寄与したようだ。彼女自身は、完全玄米菜食。一人息子は、小学校6年生。生まれてこの方、一片の動物性も入っていない。パーフェクトな完全菜食。今の時代では、ほぼ天然記念物に近い子供。学校は、シュタイナースクール。世俗とはかけ離れた暮らしをしている。彼女自身も、自然食系のフードコンサルタント。スピリチュアル系の人なので、精神世界と食を結びつけた講演などもしている。どちらかというと神道系。かなり広い人脈があり、お互いにサポートしながら生きている。東京時代からの知り合いなので、時々、電話がある。接骨医に腰のレントゲン写真を見てもらったら、自宅療養でも治りそうだと言われたらしい。 もちろん、病院では考えられないこと。できるだけ体にメスを入れない方がいいのは、大原則。しかも、この年齢。手術をしてうまくいくという保証はない。逆に、この精神状態では、更なる問題が起きる可能性の方が高い。あまりにイージー。生きる姿勢が・・・80歳を過ぎて生き直せと言うのは、酷なのはわかっている。しかし、状況は、そのように進んでいる。娘と孫は、最初から問題なし。100%アセンションする。お父さんも80歳を過ぎて生き直した。残るは、お母さんだけ。そのための試練。今生き直さなければ、更に辛い試練が待っている。本人が気づくまで、試練はやって来る。魂が本人を本当に生き直させたかったら、試練を与えるしかない。この歳で・・・と思う。しかし、魂は容赦しない。自分の人生は、自分で決める。心も体も人任せにしない。周りに流されないで、自分で健全に維持する。自己管理、自己責任。結局、医師の反対を押し切って退院。厳格な食事療法で自宅療養。たまに接骨院の先生が見に来てくれたらしい。それから2ヶ月。つい先日、松葉杖を外して自分で歩いたとのこと。手術をしても半年は歩けないと言われていた。それが手術もしないで、2ヶ月で歩けてしまった。この年齢では、ほとんど奇跡に近い。病院で手術するより、何もしない方がいいということだろうか。手術をすれば、薬の副作用や後遺症の危険が伴う。何もしなければ、そういうことはない。ひたすら自然治癒力を高めることに専念するだけ。緊急の場合には、現代医療も役に立つ。しかし、基本的に現代医療は、対症療法。根本から人を健全にしようとはしていない。病気になった部分は、切って取り除いてしまう。それは、切り捨て医療。病んだ部分を再生させようというスタンスは乏しい。切り捨てないで、育てる。教育も医療も同じ。免疫力を高め、自然治癒力を高める。それが万病に効く特効薬。イージーな道はない。地道にやるしかない。彼女は、ヒーリング光線を出す小さな機械を使ったらしい。それが効いたのではと話していた。しかし、骨を丈夫にするために食事は極めて厳格にしたとのこと。その結果、自然治癒力が増したようだ。また、自分で治そうというお母さんの生きる姿勢も大きく影響しているだろう。みんな病院任せでは、生命力は活性化しない。それでは気が萎えてしまう。自分で治すという気構えだけで、気はシャンとする。それに加えて、日々生かされていることに感謝して生きるよう、お母さんに伝えたらしい。そういう生きる姿勢の変化が、体の変化をもたらしたのだろう。心身一如。まず心を真っ直ぐにすること。イージーなやり方をしなかった。お母さんも納得して、根本から生き直そうとした。それが良い結果をもたらしたようだ。小手先でごまかせば、また問題が再発する。根本から生き直すしかない。今は、そういう時期。年齢は、関係ない。真にアセンションしたかったら、生き直すしかない。これまでのようなイージーな生き方では、時代に取り残されてしまう。これからますます生きる方向が、はっきり分かれてくる。光と闇が峻別される。もう曖昧な生き方は、許されない。時代は、ますます光に満ちている。光が強くなれば、影も強くなる。影の部分が、これまで以上に荒れ狂う。それでも光は強くなる一方。光の時代は、目の前。もう後戻りはない。あなた任せでイージーに生きようとすれば、試練が次々とやって来る。正面から真っ直ぐに生きるしかない。もうごまかせない。すべてがオープンになっていく。心の奥まで光が当たる。真っ直ぐに直視して生きるしかない。自分をごまかせば、真実に生きることはできない。自分の本心に正直に生きるしかない。真実に生きれば、奇跡が起きる。あなた任せでは、地獄に落ちる。光のなかを歩く。光と共に歩く。自分自身が光となる。光の時代が、始まる。『八十を 過ぎても試練 やって来る 生き直すしか 生きる道なし』『試練とは 生き方見直す ためにある 気づき改め また生き直す』『真実に 生きる姿勢が 真実の 奇跡もたらす この人生に』これが日記を書き始めて1140日目の心境。
2008.02.15
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知り合いから電話があった。彼女の実家は、宮崎県。久しぶりに帰ったら・・・とんでもないことになっていたらしい。今では全国区の人気者になった東国原宮崎県知事。元お笑いタレントの「そのまんま東」。彼の人気は、宮崎県では圧倒的らしい。それだけではない。東国原効果が、ものすごいとか。観光客が、わんさか押しかけている。飛行機も列車も満席。ホテルも満員。なんと県庁見学ツアーもあるとか。東国原知事が働いている姿を見るのが目的。県庁の前には、お土産屋さんがズラリ。これが、大繁盛。売っているものには、すべて東国原知事の似顔絵が・・・彼自身が、既にブランドになっている。いや、宮崎県の象徴。いたるところで彼のマスコット人形が売られているらしい。知事は企業誘致にも熱心で、新しいIT企業がたくさん進出している。その結果、宮崎県出身の若者が、たくさんUタンーしている。若い人が帰ってきて、その若者向けの新しいお店も次々にできている。銀行も積極的に融資をしている。彼は、国からもどんどんお金を引き出しているらしい。街には新しいビルが次々と建っている。古くて小さな商店まで新しくなっていたとか。道路もどんどん建設され、さながら建設ラッシュ。それは宮崎市などの都市部に限らない。県全体が、活性化している。宮崎県の特産品は、知事がマスコミで宣伝するので飛ぶように売れている。宮崎県全体が好景気に沸いている。それだけではない。県知事が行くところ、どこも人だかり。これまでは数人しか集まらなかったような催しも、知事が出席するとなると何千人も来るらしい。どこの会場も知事さえ来れば満員の盛況。誰に聞いても東国原知事を悪く言う人はいないとか。その訳は・・・彼は、頭が低い。ほとんど友達感覚。これまでの県知事のように威張っていない。近寄りがたい存在ではない。元々がタレントなので、人の心をつかむのも心得ている。なにしろものすごい人気。先場所の大相撲の千秋楽で、突然、東国原宮崎県知事が登場した。優勝力士に宮崎県特産の賞品を贈呈するため。その時、国技館は大歓声に沸いた。誰よりも大きな歓声だった。ものすごい人気。マスコミに頻繁に出ているからだろうか。大相撲の表彰式にも急に出ることが決まったらしい。寝る暇もないくらい引く手数多(あまた)。もう権威の時代ではない。上下関係の時代ではない。もちろん、支配・被支配の時代でもない。対等の時代。つまり、友達の時代。同じ立場で関わっていく時代。友達感覚の時代。それがアクエリアスの時代。権威は、これから失墜する。既に多くの権威が失墜した。大きな組織は、機能不全に陥っている。末端までトップの意思が伝わらない。個々が自由意思で動く時代。個々を尊重しないと、これからの組織は存続できない。上意下達(じょういかたつ)の時代は終わった。マスの時代は、基本的に終了している。これからは、すべての関係が友達のような関係になっていく。フレンドリーで対等な関係。それは家族や男女関係に限らない。あらゆる組織にも浸透していく。偉い人が、いなくなる。権威のある人が、消える。それぞれの個性を尊重する時代。それぞれの個性が花開く時代。為政者も、徐々にそのように変わっていくだろう。そうでない人は、選ばれなくなる。組織選挙や利益誘導型選挙は、もう成り立たない。個々の票を大切にするしかなくなる。東国原知事が、これからも友達感覚の政治を続けていくことを願う。人気絶頂で、権威や支配者にならないように。これまでのように庶民感覚で政治を行ってほしい。もうエリートはいらない。ゆっくりと、着実に時代は変わっている。友達の時代へ。フレンドリーな時代へ。共に生きる時代へ。『威張ってる 時代は終わり これからは 友達同士 仲良く生きる』『夫婦でも 親子・恋人 組織でも これから先は 友達感覚』『権威から 人を動かす 世は終わり 理解によって 動く時代に』これが日記を書き始めて1139日目の心境。
2008.02.14
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屋久島へ来て、5年。毎年、いろんな人と出会う。仕事がガイドなので、たくさんの人と出会う機会がある。一度限りの人、何度も会う人・・・何度も会う人とは、今生だけではなく過去世でも何度も会っているに違いない。ある時は親子、別の時は夫婦、違う時は親友・・・いろんな関係性のなかで、繰り返し会ってきたような気がする。その度に、いろんなドラマを演じてきたに違いない。立場を変え、状況を変え、時代を変え・・・ドラマは果てしなく続いてきた。そして、今ここで再会している。もちろん、その時々で容貌も人格も性も異なる。いろんな仕事を体験し、いろんな関係性を経験してきた。まさに役者。常に自分のドラマの主人公を演じてきた。相手役は、時に応じて変化した。いろんな役になって、同じ人が何度も出てきてくれた。別の人も異なる役で出演してくれた。その度に違うドラマが繰り広げられた。数えきれないほどのドラマが上演された。本気でドラマを演じてきた。ドラマと思わず、ドラマを生きてきた。命懸けで生きてきた。運命を共にして生きてきた。そういう人たちと出会っている。屋久島に来てからに限らず、今生、多くの縁のある人に出会っている。今生は、これまでの地球暮らしの総決算。これまで地球で縁の深かった人に、みんな出会っているような気がする。過去世で一緒に真理を究めようとした人たち。真実に生きようとした人たち。愛のために生きようとした人たち。そういう人たちと関わるなかで、眠っていたものが目覚めていく。今生、自分が本当にやりたかったことが、はっきりしてくる。過去世で未完了だったものが、姿を現す。人との関係性のなかで学ぶことは多い。いくら頭でわかっていても、人との関係性のなかで実現できなければ完結はしない。人との関係性によって、人格は最も鍛えられる。磨かれ、輝き出す。真っ直ぐに生きることだろうか。いじけないで、正面からぶつかることだろうか。お互いにいろんな立場になり、いろんな役を演じ、人生を体験する。この世は、ドラマ。芝居のようなもの。芝居と違うのは、筋書きが見えないこと。先のわからないドラマを本気で演じている。その役になりきって演じている。芝居と気づかずに演じている。無自覚のまま演じている。もう少し自覚して演じてもいいのかもしれない。明確に自覚して自分の望むドラマを演じた方がいいのかもしれない。無自覚のままに自分の望まないドラマを演じてもしかたがない。自分の体験したいことを意識的に体験した方がいいだろう。一人一人が、自分の望む体験をすればいい。流されて、望まない体験をしないことだろうか。本当に自分の望む人生を生きることだろうか。自分がクリエイトする自分の人生なのだから。自分自身が心から望む人生。魂が真に体験したいこと。今生でクリアーしたいこと。この生で完了させたいこと。そういう体験を主体的にすることだろうか。真に自分の望む人生を生き切ることだろうか。多くの縁のある人たちと一緒に、豊かに地球を体験することだろうか。いろんな関係性のなかで、心豊かに生きることだろうか。屋久島の新しいシーズンが始まろうとしている。春のガイドの予約が入り始めている。今年は、どんな人と出会うのだろうか。また深い縁のある人がやって来るのだろうか・・・『いろいろな 人と出会って いろいろな 役を演じて 味わう地球』『子になって 恋人になり 親になり 立場を変えて すべて体験』『どうせなら 自分の望む 役をやり ステキなドラマ 創り楽しむ』『楽しんで やりたいことを やればいい 自分の人生 自分が主役』『芝居より ドラマチックな 人生は 何があるやら わかりはしない』『どのような 展開これから 待ってるか 自分の人生 楽しめばいい』『ドラマだよ ハラハラドキドキ 楽しめば 生きる重圧 軽くなるもの』 『自分こそ 自分ドラマの 主人公 そう思えたら 楽に生きれる』 『どうなるか 楽しめばいい 人生は 生きねばならぬと 思えば重い』 『死ぬ時は きっと死ぬから それまでは 心配しないで 生きればいいだけ』『時々は ドラマ全体 見直して 自分の生き方 整理整頓』『無自覚に 流されないで 自分から 自分のドラマ 演じて生きる』『自らが 望む人生 心から 演じればいい 望みのままに』『人間(かみのこ)は ドラマ演じる 創造主(かみさま)は それを眺めて ひとり楽しむ』『演じるも 眺めるもよし 人生は 主役・観客 共に楽しむ』『自分見る 余裕がないと 人生は 圧迫されて 生き苦しくなる』『人生の ドラマ演じて ドラマ見て 主役・観客 主観・客観』これが日記を書き始めて1138日目の心境。
2008.02.13
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魚座の二千年。愛の時代。自己犠牲の時代。キリストの時代。愛のために、身命を賭(と)した。愛する人のために、自分の命を捧げた。愛のために生きることが、美しいことだった。愛がすべての時代だった。しかし、愛のために命を捨てれば、当然、悲しみが伴う。すばらしい愛の実現のために、悲しみが生まれた。悲しみによって愛は更に純化された。その極致が、キリストの磔だった。愛の証(あかし)として、神の一人子は十字架にかかった。愛のために己が命を捧げた。永遠に生きるために、十字架上の死を選んだ。愛が永久(とわ)に続くように・・・しかし、キリストにとっての愛の成就は、弟子にとっては愛の悲しみであった。その愛の悲しみが、愛の伝道へとつながった。愛と悲しみは、不離一体のものであった。愛だけということは、存在しなかった。愛と悲しみは、表と裏の関係だった。愛と自己犠牲は、二つで一つのセットだった。愛とは、愛する者のために自分を捧げること。愛とは、自己犠牲だった。それが魚座二千年の価値観だった。愛に勝るものはなかった。愛がすべてだった。愛のために、すべてがあった。愛のためには、悲しみさえも必要とした。愛を際立たせるためには、悲しみが不可欠だった。悲しみの上に愛は決然と聳(そび)え立っていた。愛の聖堂は、悲しみの涙の上に建てられていた。愛の時代は、終わろうとしている。魚座の二千年は、既にエネルギーを持たない。新しい水瓶座に、その位置を譲ってしまった。残っているものは、その名残と余韻だけ。新しい時代に、悲しみの存在する余地はない。すべてが明らかとなる時代に、悲しみは必要ではない。すべてがオープンになる時代に、悲しみを受け入れるスペースはない。悲しみは、魚座と共に消えてゆく。新しい時代の愛の形は、悲しみを伴わない。新しい時代の愛の形は、悲しみを必要とはしない。新しい時代の愛の伴侶は、悲しみではない。新しい時代の愛の伴侶は、楽しさというもの。新しい時代に、自己犠牲は似合わない。そのような重たいものは、魚座の時代のもの。愛する者のために自分を犠牲にすることは、愛の一つの形。それが唯一絶対の形ではない。共に愛し合う。共に生かし合う。それが新しい時代の愛の形。相手に犠牲を求めない。ただ愛するだけ。何も求めない。お互いに愛するだけ。お互いに何も求めない。それが新しい時代の愛の形。悲しみを伴わない愛の形。自己犠牲を必要としない愛の形。共に生かし合う愛の形。新しい時代が、これから始まる。楽しく愛し合う時代が、これから始まる。悲しみを伴わない愛の時代が、これから始まる。自己犠牲を必要としない愛の時代が、これから始まる。『キリストの 姿求めて 二千年 自己犠牲こそ 愛のあり方』『キリストの 後ろ姿に 憧れて 愛のためなら 死をも厭(いと)わず』『愛のため 愛する人の ためならば 自分殺して 相手を生かす』『悲しみと 共に開いた 愛の花 自分殺して 愛を咲かせる』『身を捨てて 人を生かした 美しき 魚座時代の 愛のあり方』『これまでは 自分殺して 人のため 生きる姿が 美しかった』『これからは 自分生かして 人のため 生きる姿が 美しくなる』『愛し合う ただ愛し合う 求めない 相手の犠牲 何も求めず』『お互いに 生かし合うのが これからの アクエリアスの 愛のあり方』これが日記を書き始めて1137日目の心境。* 「1136日目 - 楽しく生きる」も同時にアップしました。
2008.02.12
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たまたまテレビをつけたら、歌手の橋幸夫が出ていた。インタビューで、60歳を過ぎた頃に歌を歌いたくなくなった時期があったらしい。 その時、彼の子供が次のように話してくれたとか。「歌を楽しめばいいんだよ」それまで、彼は真剣に歌を歌っていたらしい。楽しむという感じではなかったようだ。お客さまが望むものを一生懸命歌うという感じ。でも、それに疲れてしまった。それから、自分の好きな歌を歌うコンサートを始めたらしい。そういう企画を既に3回開いた。それによって歌うことが楽しくなり、歌い続けることができるようになったとか。時代は、変わろうとしている。一昔前は、「お客様は神様です」という時代もあった。滅私奉公。自己犠牲の世界。それは、魚座二千年の愛の時代のフィナーレ。既にキリストの愛に象徴される時代は終わってしまった。もう自己犠牲は流行らない。滅私奉公などあり得ない。自分を殺す時代は終了した。自分を生かし、人も生かす。そういう時代になってきている。共に生かし合う。共に楽しむ。自分が楽しくなければ、何をやってもしかたがない。楽しくないことをやって、人生が充実するはずがない。ただ虚しくなるだけ。義務感で生きる人生に何の意味があるだろうか。自分が楽しければ、周りも楽しくなる。周りが楽しければ、自分も楽しくなる。楽しさの循環。みんなで楽しく生きる時代。まだまだ古い意識が根強く残っている。仕事は、楽しくないもの。仕事は、自分に鞭打って頑張るもの。仕事は、生活のために我慢するもの。そういう仕事をしていたら、最後には病気になってしまう。自分を生かす仕事をしないと。自分が楽しめる仕事をしないと。楽しく仕事をしないと・・・時代は、どんどん軽くなっている。義務感は、重たい。自己犠牲も、重たい。楽しくないことは、重たい。楽しいことは、軽い。楽しいことは、楽。楽に軽やかに楽しめばいい。楽しめるように人生を変えればいい。楽しくない人生を生きてもしかたがない。辛く苦しい人生は、もう十分体験した。自分が楽しめる人生を送った方がいい。みんなで楽しめる生き方をした方がいい。時代は、楽しく生きる方向に流れている。やがて、楽しく生きることが価値基準となる時代が来る。自分も周りも共に楽しく生きる。楽しくクリエイティブに生きる。『これからは 楽しく仕事 することが 時代の流れ 生きる方向』これが日記を書き始めて1136日目の心境。
2008.02.11
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屋久島は、曇り空。寒いけれども1300m辺りの森へ向かう。ヤクスギランドでトイレ休憩。三連休なので、そこそこ車が止まっていた。ヤクスギランドを過ぎると、なんとなく雰囲気が変わった。ここは紀元杉から宮之浦岳の登山道へと続く道路。木々に霧がかかったようになり、なんとなく霊気を感じる。ここから隣にいる人の様子が変わってしまった。アクビが止まらない。こちらがアクビをするのならわかる。しかし、隣に座った人がアクビをするのは珍しい。それも普通のアクビではない。ほとんど合間がない。アクビの連発銃。次から次にアクビが出る。どうして?本人にもわからない。こんなにアクビをしたことはないとのこと。それが延々と続く。これだけのアクビは、こちらもしたことがない。紀元杉は、人気(ひとけ)があり過ぎるという理由で通り過ぎる。川上杉で下車。こちらは人気がない。静かに悠然と立っている。空気は、冷たい。しかし、凛として気持ちがいい。周りに霊気が満ちている感じ。彼女は、ここでもアクビを連発。退気を出して、生気を入れる。それを意識的にしているのではなく、無意識にしている。体が自然にやっている。よほど退気が詰まっていたのだろうか。彼女は、川上杉が気に入った様子。確かにすばらしい杉。観光客が来ないところは、どこもすばらしい。紀元杉とは、ぜんぜん違う。宮之浦岳の登山口から、淀川小屋まで歩く。たいした距離ではない。普通に歩けば、片道45分から1時間ぐらいのもの。ところが・・・今日は、所々に雪が残っていた。昨日降ったのだろうか。シャーベットのようなザラザラした雪。この雪で彼女は子供のように遊ぶ。ステッキの先で突(つつ)いたり、雪の上をわざと歩いたり・・・そのため、超スローペース。時間はたっぷりあるので、別に急ぐこともない。ゆっくりと深い森を味わいながら歩く。途中で、苔の先に氷柱(つらら)が下がっていた。これを折って食べる。冷たい!なんとなく苔の味がした。彼女は、この森が気に入った様子。既に何回も屋久島に来ている人。いろんなところを歩いている。でも、ここが一番気に入ったとか。彼女の波動に合っているのだろうか。時々、冷気がやって来る。霧がかかって深山幽谷の景色に変わる。冷気は、霊気。やがて、淀川小屋に着く。珍しいことに人がいた。宮之浦岳からの帰りらしい。ちょうど食事をつくっているところだった。小屋の先の川に行く。屋久島でも指折りの美しいところ。今日も雪が残っていて美しかった。夏は、ここで沢登りをするガイドもいる。彼女も、ぜひ沢登りをしてみたいとのこと。それでは、今年の夏はここで沢登りをしよう!但し、夏でも川の水は冷たい。特にここは海抜1300m以上、特別冷たいに違いない。でも、誰もいない川は最高だろう。水は透明過ぎるぐらいに透き通っている。あまりにもきれいなので魚はいない。水清ければ魚棲まず。ここでも一人の登山者に出会った。彼も宮之浦岳からの帰り。山頂は15cmぐらい雪が積もっていたとのこと。数組登っていたらしい。あまり冬山に一人で登ってほしくはない。遭難されたら、後が大変。行くなら複数で行ってほしい。危険な冬山なのだから。冬山に一人で登るくらいだから、かなり歩き慣れている感じではあった。ちゃんとピッケルも持っていた。でも、アイゼンは持っていない様子。フル装備で来てくださいよ。彼女は、森に入ってからもアクビが止まらなかった。さすがに車のなかほどではない。歩きながらなので、ペースは落ちる。あとりさんは、ここを歩いている間中、ゲップをしていたっけ・・・森のなかにいる間、アクビは出続けた。何が出ているのだろうか。彼女には、わかっていた。それは・・・最近は、よく蕁麻疹(じんましん)が出るらしい。出るのは、夜だけ。昼間は、出ない。なぜ?原因は、仕事のストレス。昼間は緊張しているので、蕁麻疹は出ない。しかし、自宅に帰ってリラックスすると出てくる。それが連日続いているらしい。その蕁麻疹の元になっているものが、アクビとして出ている。仕事のなかで溜め込んだストレス。心身に溜まっていたよけいなもの。抑圧して溜め込んでしまった諸々・・・リラックスすると、そういう溜まっていたものが排出される。それが蕁麻疹となったりアクビとなったりする。屋久島の森へ入れば、周りは生気に満ちている。周りの生気によって心身が活性化する時、心身は必要のないものを排出しようとする。それがアクビになったり蕁麻疹になったり下痢になったりする。心身は、本来の状態に戻ろうとする。よけいなものは、心身の負担になるだけ。心身は、自然のなかで自然に戻ろうとする。肉体も精神も構造は似ている。必要以上のものは、負担になるだけ。過ぎたるは及ばざるが如し。食べ過ぎも考え過ぎも病気の元。適度の緊張は、心身を強化する。しかし、度が過ぎると心身は破壊される。無理をすれば壊れるしかない。何事も多ければいいというものではない。現代の西洋医学では、蕁麻疹が出ると薬で抑えようとする。溜まっていたものを排出しようとするのを抑圧する。下痢も止めようとする。不必要なものを排除しようとしているだけなのに・・・せっかく下痢や蕁麻疹として出そうとしているものを薬で抑えたら、どうなるだろう?いつまでも体内に滞留することになる。その結果、更に蕁麻疹はひどくなる。やがて、体力が衰えると、原因のわからない病気になってしまう。蕁麻疹が出るということは、まだ体力があるということ。体力がなくなると、蕁麻疹として排出することすらできなくなる。その体力があるうちに排除させればいいものを・・・なぜ止めてしまうのだろうか。それは、痒いから。排除する際は、痒みや痛みを伴う場合が多い。だから、苦しい。苦しい表面だけを見て、その症状を止めようとする。原因の究明までいかず、症状だけを止めようとする。それは結果的に更なる症状の悪化を招く。体は、より強く排除しようとする。そうなると、更に強い薬で抑えるという悪循環に陥る。本質を見失い表面だけを取り繕おうとすることは、単なる一時凌ぎでしかない。それが現代医療と言われるもの。医療に限らず、現代文化一般に言えること。食生活も農業も建築も・・・数え上げたらキリがない。現代農業は、見てくれだけを大事にするために、人体に有害な農薬や化学肥料を大量に投入する。食品の合成着色料や合成保存料も同じ。新建材によるハウスシックも同様。見せかけだけ、利益や効率最優先。学歴や地位や名誉や財産。それも似たようなもの。人の本質ではなく、表面だけ。人格ではなく、能力優先。教育においても、人を育てるのではなく、ただ能力を発達させているだけ。それもかなり偏った能力。アンバランスな能力は、人を幸せにはしない。そのような能力は容易に悪用される。今の文化そのものが、極めて表層的なもの。本質的な文化ではない。化学物質によって地球を汚染しても、何とも思わない文化。物質的豊かさの追求によって、人の本質を忘れた文化。そういう文化は、やがて崩壊する。医療も農業も教育も、大量生産系はすべて崩壊する。個々の質を大切にしない文化は、過去のものとなる。時代の大転換が起きる。森のなかを歩くだけ。何も治療行為はしない。蕁麻疹の原因となったものを除くだけ。自然にそうなるだけ。肉体や精神が、自ら行う。そこに小賢(こざか)しい人為はない。無為自然。老子の世界。アクビを連発した彼女は、スッキリさわやか。こちらも少しだけ連れアクビ。一緒にクリアーになる。自然に勝る名医なし。しかし、これでさえ対症療法と言えなくもない。なぜなら、これでは症状を解放しているだけ。抑え込んではいないけれども、原因を解決してもいない。蕁麻疹をつくり出している構造に変わりはない。これでは堂々巡り。つくり出しては解放しているだけ。つくり出す原因にまで踏み込まないと問題は解決しない。必要なことは・・・まずは、症状を抑圧しない。次に、症状を解放する。最終的には、原因を取り除く。そこまでやる必要がある。本当の原因は、何だろう?病気の原因は、何だろう?ストレスの原因は、何だろう?それは・・・それは、自分に正直に生きていないということだろうか。自分をごまかして生きているということだろうか。社会に迎合して、流されて生きているということだろうか。真剣に自分を見つめて生きていないということだろうか。自分に正直に生きないと、どこかに歪(ひずみ)が生じる。無理を重ねると、自分自身を抑圧することになる。素直に生きないと、だんだん心が苦しくなる。体は嘘をつかない。素直に生きないと、気の流れが止まってしまう。気の流れが止めば、気が病む。気が病めば、病気になる。自分に正直に生きないと、病気になるしかない。何かを強く掴んでも、執着しても、気の流れは滞る。何かにこだわり過ぎても、自分を抑圧しても、気の流れは止まってしまう。気は、スーッと流れている。素直に流れている。素直とは、素の自分に真っ直ぐであること。本来の自分に正直に生きること。魂の願いと共に生きること。今生に生まれてきた目的に沿って生きること。素の自分に反すると、流れが止まる。流れが止まれば、病気になる。自分に正直に生きることだろうか。素直に生きることだろうか。抵抗は、自我。抵抗は、病気。自我も病気も同じようなもの。素直に生きていない結果。素直に正直に生きることだろうか。それが一番楽な生き方なのだから。無理や我慢をすれば、どこかに歪が生じる。自分自身を見つめながら、霊性に生きることだろうか。『症状を 抑えることは 原因を 突き止めないで 蓋をすること』『蓋すれば やがて病気は 潜在し 気づいた時は どうにもならない』『出るものは 出してあげれば いいものを 無理に抑えて 治したつもり』『ごまかして 生きているなら そのうちに 自分自身が 壊れてしまう』『溜め込んだ ものは出すしか 道はない すべて手放し 二度と掴まず』『正直に 生きればすべて 流れ去る ごまかすことで 堤防できる』『正直に 生きねば流れ 滞(とどこお)る 抵抗生じ ストレス溜まる』『何もなく スーッと流れて 生きる時 病気も消えて 混乱もなし』これが日記を書き始めて1135日目の心境。
2008.02.10
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人を傷つけたとばかり思い込んでいたら、相手は傷ついていなかったことを知って、ホッとする。こうでなければならないと思い込んでいたら、別のやり方でも大丈夫だった。思い込みが外れてみると、これまで強く信じて疑わなかったのは何だったのか・・・と思ってしまう。拍子抜けするというか、アホくさくなるというか・・・バカバカしくなって笑えてくる。これまで自分は何をしていたんだろう?どうしてあんなふうに思い込んでいたのだろう・・・人は、思い込みワールドのなかで生きている。その思い込みと自己同一化し、思い込みそのものになって生きている。自分はこういうものだと思い込んでいる。そうでない自分は、恥ずかしかったりする。ある時は侮辱されたと感じ、ある時は褒められたと感じる。いずれも、自分というイメージがあるから起きること。自分が思い込んでいる自分のイメージ以下のことを言われると、侮辱されたと感じる。自分が思い込んでいる自分のイメージ以上のことを言われると、褒められたと感じる。 人は、イメージゲームをしているだけ。思い込みゲームに耽(ふけ)っているだけ。本気で信じ込んで生きているだけ。それらは、すべて幻。何も実体はない。ただの思い込み。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」本当の姿が見えないから、想像を膨らませて恐怖を増幅させているだけ。恐怖は、自分でつくり出しているに過ぎない。恐怖の実体はない。ただの想像。ただの思い込み。自分の信念も、信条も、信仰も、モットーも、すべて思い込み。自分がそう思っているだけ。思い込みワールドのなかで生きているだけ。思い込みワールドのなかで悲喜交々(こもごも)のドラマを演じているだけ。それを本気で演じている。命懸けで演じている。赤穂浪士は、敵討が家臣としての道だと信じていた。でも、今ではただの殺人犯。いまだに自分の信じる宗教の敵は殺していいと信じている人も多い。自爆テロは、後を絶たない。すべての戦争は、相手を殺さなければ自分が殺されると思い込むことから生まれる。思い込みは、事実とは限らない。思い込みによる恐怖の増幅によって戦争は始まる。それを延々と人類は繰り返してきた。未来の人類から見たら、どうして?と思うに違いない。単なる思い込みなのに、どうしてあんなに本気になれたんだろう?未来の地球人から見たら、今の地球人は理解不可能かもしれない。本当に思い込んで生きているだけなのだから。思い込みワールドのなかで一喜一憂しているだけ。喜怒哀楽は、すべて思い込みから生じているだけのこと。自分自身をよーく見つめてみれば、ただ思い込みと自己同一化しているだけ。思い込んだことを信じ込んでいるだけ。思い込みの自分と一緒に生きているだけ。自分というイメージと・・・自分、自分、自分・・・自分とは何?その質問に答えられる人は少ない。なぜなら、なんとなく思い込んでいるだけだから。人は思い込みワールドのなかで、一喜一憂、喜怒哀楽を演じながら一生を終わる。強い思い込みは、今生だけではなく次の世まで持ち越される。何度も何度も生まれ変わって手放すことになる。強い思い込みは、人の自由を縛る。元々自由なのに、自分で掴んだ思い込みによって自身を縛っている。そして、今度はその思い込みをほどくために、さんざん苦労する。自作自演としか言いようがない。自分の尻尾を追いかけまわしている犬と変わらない。自分がイメージのなかに生きていることに気づくことだろうか。自分が思い込みワールドの住人であることに気づくことだろうか。何の実体もないイメージの世界で生きているだけということに気づくことだろうか。そうしない限り、幻を追い求めているだけの人生となる。夢から醒めれば、何もない。ただ夢を見ていただけ。思い込みという夢。思い込みワールドのなかで生きることは、夢のなかで生きるのと変わらない。目が醒めれば、何も残ってはいない。ただ記憶があるだけ。思い出があるだけ。みんな遠い昔のこと・・・もうそろそろ夢から覚める時。思い込みワールドで生きていることに気づく時。ただイメージのなかで満足を求めていることをわかる時。目覚めの時。ただ思い込んだイメージを、しっかりと握りしめているだけ。それを手放せば、すべての夢は消えてしまう。喜びも悲しみも、苦しみも楽しさも・・・すべては思い込みという夢の世界。握りしめていたものを、すべて手放して生きる。何のとらわれもなく生きる。そういう生き方もある。夢から覚めた生き方もある。『泡沫(うたかた)の 思い込みから 様々な ドラマ演じて 終わる一生』『幻の 思い自分と 思い込み 思いと共に 生きる人生』『思い込み 外してみれば 何もない ただクリアーな 意識あるのみ』これが日記を書き始めて1134日目の心境。
2008.02.09
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次のようなコメントがありました。「すみません、突然。今、寂しさという感情をもてあまして、お恥ずかしい話ですが、取り乱して泣きました。どうしょうもなく寂しくなりました。こんなこと書いて後で後悔するかもしれません。恥をかくのを承知で、書いています。夫婦の問題です。すみません、なんかドロドロした話題で。相手から、こちらが期待しているような優しさが返って来なかった。それだけのことなのです、客観的に見れば。ただ、こちらも忍耐というか、私なりに譲歩した後のことだったので、これまで、こらえていたものが耐え切れずに噴出してしまった形です。すみません、重い内容になって。今、苦しいです。私が未熟だから、キャパが狭いだけかもしれません。今、なんとか、この感情を静めて、寂しさと一緒にいて、ただそれを味わっていればいいのですよね。やってみます。昨日、日記を読んでいて、私のパターンというか、心の奥底にずっとあった思いは、寂しさだと思っていました。何かにつけて、顔を出してくる思いです。心の癖です。私自身がずっと握り締めてきたんでしょうか?そうしたくてしてきたはずないのに・・・。確か、ぴあのさんの書き込みに対する、お返事だったと思うのですが、闇は手放すために現れる、でしたっけ?今私に起こっていることも、そうなんだと思うことにします。手放すために、今、再体験しなければならなかったんだと・・・。」その寂しさは、子供のころからあったものかもしれませんね。ということは・・・過去世からあったということですね。つまり、過去世から持ち越してきたものですね。寂しさというのは、満たされていないということです。期待したものが返ってこなかったのですね。望みのものがやってこない時に寂しさは生まれます。まずそれを理解することでしょうか。期待することが、喜びと同時に寂しさもつくり出すのですね。期待が叶えられる喜びと満たされない落胆は、表と裏の関係にあります。期待のなかに同時に存在するのですね。期待のなかに満足と不満足の種が同時にあるのですよ。期待しなければ、もちろんそのようなものは生じません。だから一切期待しないという人もいます。裏切られたくないから・・・それもまた一つの生き方ではありますね。でも、それは恐怖ベースの生き方です。失望を避けるためのネガティブチョイスです。後ろ向きな選択なのです。けっして前向きなものではありません。満たされなくて寂しがっている自分を、自分で抱きしめてあげるというやり方もあります。抱きしめてほしかったのですね。やさしくしてほしかった。それを満たしてあげるのです。それから、もう一つは、ここのところ書き続けている、思いから離れるということです。思いと少し距離を置くことですね。寂しさというのも、思いに過ぎません。思いに浸っているだけなのです。期待したものが返ってこない時、寂しく感じるのは事実です。でも、それはその時限りです。しっかり握った手を開いてしまえば、消えていきます。いつまでも握っているから苦しくなるのです。それは執着というものかもしれません。寂しくてもいいのです。その時だけ味わえば。そして、手放せば。いつまでも持ち続ける必要はありません。でも、持ってしまう?それは、これまでの心の癖かもしれませんね。寂しさパターンです。それに浸っているのですね。それに浸って、そういう自分を自分で慰めているのでしょうか。あきらめ?あきらめに浸って、自己正当化しているのでしょうか。期待とは、甘えとも言えます。やさしくしてほしい。大事にされたい。満たしてほしい。それは、依存でもあります。依存すれば、支配されます。支配されれば、振り回されます。やがて、自分を見失うことになります。自立。自律。自分の足で立つしかありません。私は、そんなに強くない?それなら泣いて暮らしますか。残りの人生を周りの人に振り回されて過ごしますか。それもまた人生ですが・・・そんな一生を送りたいですか。真に自立すれば、周りの人に振り回されることはありません。そうなると、周りの人に期待するということも起きません。周りの人のそれぞれの生き方を尊重するようになります。やさしくする義務を押し付けたりはしないのです。期待とは、相手に対する要望です。自分に対して、やさしさを強いることです。そうする自分は、ちっともやさしくはありません。ギブ・アンド・テイクか、ただの自分勝手です。相手は、相手のペースで生きればいいのです。いつも自分に対してやさしさを要求するのは、相手を本当には尊重していないからです。相手を自分の思う通りにしたいだけです。相手を使って自分を満たしたいのです。何も期待しないとは、相手の自由を尊重することです。期待するとは、相手を自分の思うままにしたいということです。期待された相手は、大変です。その期待に応えなければなりません。でも、いつもやさしく接することは不可能です。そうなると、相手も苦しむことになります。自分に正直に生きれなくなるのですね。期待することによって、それだけ相手を苦しめることになります。期待というのは、罪作りなものです。自分も相手も苦しめます。期待に応えようと無理をするのですね。そして、期待されたものを与えられなくて、得られなくて苦しむのです。実は、期待するということは、自分も無理をしているのかもしれません。だから、相手にも無理を強いるのでしょうか。無理の押し付け合い?苦しいゲームですね。その泥沼から離れるには・・・期待の実態を理解することでしょうか。そして、期待から離れることでしょうか。そうすれば、失望も寂しさもありません。思いの世界に少し距離を置くことです。期待、失望、寂しさという輪のなかで生きているのです。思いの輪廻です。そういう輪から抜け出すことはできるでしょうか。抜け出さない限り、永遠に輪は回り続けます。ジメジメ・ジトジト・・・ベタベタ・グチャグチャ・・・それが思いの世界です。思いの世界に浸りきれば、ジメジメした生き方になりがちです。少し離れて見守っていないと、思いの泥沼に足元をすくわれて自分を見失います。もうそろそろ思いの泥沼から抜け出す時期なのです。泥沼のなかから美しい蓮の花を咲かせる時なのですね。泥沼から顔を出さないと、蓮の花は咲きません。泥沼のなかに潜(もぐ)っていたのでは、永遠に開花はあり得ません。美しい蓮の花は、泥沼の上に咲きます。泥沼の体験を肥やしにして咲くのですね。だから、泥沼自体を否定することはありません。貴重な体験にすればいいだけです。でも、いつまでも浸っていると苦しくなるだけです。これからますます苦しくなるでしょう。光が強くなっています。光に照らされて心の闇が浮かび上がってきます。そういう時は、チャンスです。闇に溺れないことですね。泥沼の上に顔を出し、明るい太陽を浴びるのです。その時に初めて花が開く可能性が生まれます。やがて蕾をふくらませ、大輪の花が咲くのです。そのために泥沼はあるのですから。泥沼の性質を理解し、泥沼に溺れないことです。泥沼とは、思いの世界。思いの世界のなかで溺れて苦しんでいるだけなのですよ。思いの世界の性質がわかっていないから・・・そんなこと誰にも教えてもらわなかった?と言いたいでしょうか。それもわかります。少なくとも学校では教えてくれませんでした。なぜなら、学校の先生もわかっていないからです。文部省も教科書を書くような偉い人たちも、何もわかってはいません。ただ表面的なことを教えているに過ぎません。ほとんどは、生活のためのテクニックです。そうでなかったら、堅苦しい道徳でしょうか。あるいは、ただ信じなさいという宗教でしょうか。いずれにしても、自分自身を理解するという観点はありません。自分自身を見守るというスタンスは、まったく欠落しています。周りに期待しないでください。失望するだけです。誰も真理は教えてくれません。誰も常にやさしくはできないのです。泥沼は、もがけばもがくほど下に沈んでいきます。泥沼を理解してください。泥沼から抜け出すには、泥沼の性質を理解するしかないのです。闇雲に生きても、美しい花は咲きません。静かに自分自身を見つめ、理解することです。静かに落ち着いて。焦ることも、慌てることもありません。ゆっくりと自分自身と一緒に生きればいいのです。自分の思いを見つめ、それを理解することですね。自分の思いを見守っていれば、だんだんと思いから離れていきます。いつまでも思いに執着しないことですね。少しずつ思いから距離を取ることですよ。強く握った手を放してみてください。パッと放すと、スッキリしますよ。重たいものが消えていきます。重たいものとは・・・寂しがっている自分自身を見てみてください。どんな状態になっていると思いますか。頭の上を黒い雲が覆っています。重たくて暗い雲です。それはどこからわいてくるのでしょうか。発生源は?周りを見渡してもありません。あなたを寂しくさせた相手でもありません。それは・・・ありました!いや、いました。モクモクと黒煙を出している人が・・・それは・・・ハイ、間違いなく自分自身です。自分で自分の周りに暗雲を張り巡らせていたのですね。自縄自縛です。誰が縛ったのでもありません。自分で自分を縛っていただけです。いや、煙に巻いていた?そして、行き先を見失っていたのですね。自分で縛った縄は、自分でほどくしかありません。ほどくためには、まず自分で自分を縛っていることに気づく必要があります。そのためには、自分を見つめ、理解する必要があるのですね。どうしてこうなっているのか・・・このサイトへ来て、日記を読みながら自分自身を見つめるという方法もあります。それが一番楽?またまた他者依存?まあ、もうしばらくは日記も続きそうですから、それも一つの方法ではあります。でも、この日記にも依存しない方がいいですよ。いつ突然終わるかもしれません。そうなった時、落胆したり路頭に迷うことがないように。あくまで少し距離を置いて読んだほうがいいでしょう。何事も、ほんの少しだけ距離を置くのですね。のめり込まないことです。のめり込むのは、思いの世界です。静かに見守るのが、思いを超えた世界です。また何かわからないことがありましたら、コメント欄に書いてください。ゆっくりやってくださいね。自分のハートに中心を持ってきて。頭だけではなく、心を込めて全体で生きることですよ。『無理をして 我慢するから 相手にも よけいな期待 持って苦しむ』『期待する ことが寂しさ つくり出す 満たされぬ時 思い沈澱』『期待せず 相手そのま 認めれば 失望もない 寂しさもない』『泥沼の 思いのなかに 足取られ 抜け出せなくて もがく人類』『もがいても もがいてもまた もがいても 理解しないと 底は見えない』『泥沼の 上に花咲く 蓮の花 浸っていては 花は咲かない』『泥沼を 味わいきって 理解して 泥沼抜けて 花を咲かせる』『美しい 水晶見れば 泥沼は 心のなかに あるだけのもの』『いつまでも 握ってないで 手放して 楽に自由に 生きればいいのに』『ありのまま 生きればいいよ いつまでも 終わったことに とらわれないで』『何事も 少し離れて 距離を置き 静かに推移 見守るといい』『目の前の 事実ベースに 生きるだけ よけいな思い みんな手放し』これが日記を書き始めて1133日目の心境です。
2008.02.08
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肉体からの分離。感覚からの分離。感情からの分離。思考からの分離。そういうものと自己同一化しない。そういうものに成りきらない。そういうものと少し距離を置く。それらをトータルに見守る。透き通るような意識。透明な意識。色のない意識。静かな意識。そういう意識をベースに生きる。肉体や感覚や感情や思考に翻弄されない。それらと一緒にいながら、それらに支配されない。共に生きる。自分とは、肉体であり、感覚であり、感情であり、思考である。自分とは、それらのものであり、同時にそれらを超えるものでもある。自分とは、トータルであり、全体である。分離した生は、苦しみの生となる。肉体と自己同一化すれば、本能に翻弄される。感覚と自己同一化すれば、快楽に溺れる。感情と自己同一化すれば、不安定極まりない。思考と自己同一化すれば、凝り固まってしまう。それらの特徴を理解し、共に生きる。それらの限界をわかって、共に生きる。それらの本質を踏まえて、共に生きる。それらを抑圧しないで、共に生きる。自分とは、それらすべてであり、それらすべてではない。自分とは、そのトータルであり、そのトータルを超えている。自分とは、それらと一つであり、それらそのものではない。自分とは、それらの集合体であり、それらを包んでいるものでもある。肉体、感覚、感情、思考と共に生きる。それらがつくり出す諸々のものと一緒に生きる。それらと一つになって、この世を生きる。それらと共に、トータルに全体的に生きる。それらに成りきらない。それらを見守る。それらと一緒に生きる。それらを包み込んで生きる。『何であれ 成りきらないで 距離を置く 見守りながら 静かに生きる』 これが日記を書き始めて1132日目の心境。
2008.02.07
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昨日のコメント欄に、グーとパーの話が出ていました。藍さんがさっそく試してみたら、効果があったようです。心身一如ですから、体から入るという方法もあるのですね。もう少し具体的に述べてみましょう。何かに引っ掛かっているとします。たとえば、「バカじゃないの」と軽くあしらわれたことに、いつまでもこだわっている自分。誤解、無理解、一方的・・・心のなかでブツブツが止まりません。悔しいッ!あの○○!許せない!罵倒の言葉が、心のなかで渦を巻きます。その悔しいという気持ちと一緒にいます。悔しさと一緒にいて、思いっきりこぶしを握りしめます。できるだけ力一杯の方が効果的です。心の底から悔しさを味わいます。そして、パッと一気に手を開きます。ハイ、悔しさ終了!いつまでもクヨクヨしない。気分一新!強く握っていた手を一気に放すと、意外とスッキリするものです。ただ悔しいという思いを握っていただけですから。中途半端に握っているから、いつまでも続くのです。思いっきり握ったら、後は手放せばいいのです。実体はありません。ただ悔しい思いを握っていただけなのです。そして、握った思いに翻弄されていたのです。握ったものに握られて、自分を見失っていたのですね。悔しさそのものになっていました。悔しさと完全に自己同一化していたのです。これが、いつものパターンです。無意識のままに自動的に反応していたのです。人は子供の頃につくったパターンを、大人になってからも繰り返しているものです。その子供の頃のパターンとは・・・実は、過去世のパターンに他なりません。子供の頃は、過去世のパターンが自然に出てくるようになっているのです。それは、過去世を再体験し、今生で乗り越えるためです。若い間に再体験するように自分でセットしてきたのですね。ところが・・・生まれてしまうと、そんなことはすっかり忘れてしまいます。そのため、また同じパターンにはまってしまうことが多いのです。そして、無自覚のために、そこから抜け出せないのです。そのまま一生を終えてしまうことも少なくありません。せっかく生まれてきたのに・・・多くの人は、今生でも過去世と同じパターンを繰り返しています。ということは、もしかして?その前の過去世でもそうだったとすると・・・人は、延々と同じパターンを繰り返していることになります。何度生まれ変わっても同じパターンの焼き直しです。そうなると、人はこの輪廻転生の輪から永遠に抜け出すことができません。それでは生まれ変わる意味がありません。しっかりと自分自身を見つめ、自覚しない限り、この輪廻の輪から抜け出すことは不可能です。無意識、つまり、無知こそが最大の問題です。しっかりと自覚して生きる。それでこそ自分の人生です。とらわれても、こだわっても、執着してもいいのです。それをしっかり自覚できていたら。無自覚でなかったら。何をやってもかまいません。人生は、いろんなことを体験すればいいのです。生きるとは、そういうことですから。でも、自分が体験していることを、しっかりと自覚している必要があります。無自覚のままでは、生きているとは言えません。同じことを何回も繰り返しても意味はないでしょう。しっかり体験して、次の体験へ進む。それが人生です。いつまでも堂々巡りをしていて何が面白いのでしょうか。無自覚だから、同じパターンにはまるのです。しっかりと自覚し、しっかりと完了させればいいのです。無自覚のままだから、何生も何生も持ち越してしまうのです。それがカルマと呼ばれるものです。カルマとは、単なるパターン。心の癖です。しっかりと自分が掴んでいるものです。握りしめて放さないのですね。自分が握っているだけです。握った手を放せば、カルマも消えます。カルマとは、無自覚のままに握りしめているパターンです。だから何回も繰り返すだけなのです。カルマとは、サンスクリット語で回る輪という意味です。無自覚だから永遠に回り続けるのですね。無意識に握っているから、解放できないのです。明確に自覚されれば、手放すこともできるのです。まず自覚すること。自分自身のパターンを。「バカみたい」と言われたら、すぐに反応する自分を。機械のように自動的に反応する癖を。自分のパターンとは、自分が無自覚に握っているものです。そういうものを、まずは自覚しないことには手放しようがありません。これまでの人生で数えきれないほどのものを身につけています。そういうものを一つ一つ解いていく必要があります。一つ一つ地道にやっていけば、やがて加速度がつきます。気づく速度が速くなります。いつも見守っていられるようになります。そうすると、意識が自我から少しずつ離れていきます。こだわり、とらわれ、執着と一緒になっていた自分。妄執、妄念、執念と自己同一化していた自分。そういうものになりきっていた自分。それにまずは気づくことです。それは、ただ思いを強く握っているだけです。思いと自己同一化しているに過ぎません。思いそのものになって、自分を見失っているだけです。その強く握っている手を放せばいいのです。そうすれば、悩みも苦しみも消えます。それらは、自分が思いを握っているから生じるものです。思いを手放せば、それらも消えていきます。ただ手を開けばいいだけのことです。気づいたら、意識的に握りこぶしをつくって、パッと開いてみればいいのです。結んで、開いて・・・ハイ、手放して。どんな小さなことでもいいのです。気づいたことからやっていけばいいのです。やっているうちにコツがわかってくるでしょう。これはゲームのようなものです。楽しんでやればいいのです。解放するのを楽しむことです。何でも楽しめばいいのですよ。溜め込んできたものが多い人は、解放する喜びも多いと思えばいいのです。楽しくやればいいのです。苦しくやるのが、これまでの人類のパターンでしたから。そろそろこれまでのパターンを転換する時期です。悲苦のパターンから、楽で楽しいパターンへの転換です。本当は、パターンはいらないのですが・・・パターンなき、楽楽パターンということにしておきましょうか。まあ、何事も楽しんでください。そんなに暗い顔をしてやることはありません。明るく、楽しく、軽やかに・・・うまくいくまで何度でもチャレンジすればいいだけです。『しっかりと 思い握って いつまでも こだわっている こともないのに』『カルマとは 無自覚のまま 同じこと 何度も何度も 繰り返すこと』『同じこと 何度やっても 意味はない 深く味わい 後は手放す』『感情や 思いと少し 距離をおき 強く握った こぶしゆるめる』『無意識に 握っているもの 自覚して しっかり掴んで パッと手放す』『無意識に 光当てねば いつまでも 同じパターン 繰り返すだけ』『見るという 光当てれば 無意識は 意識化されて 解き放たれる』『必要の ないものみんな 手放して 軽く明るく 楽しく生きる』『何度でも うまくいくまで やればいい 結んで開いて ハイ手放して』これが日記を書き始めて1131日目の心境です。* これで「あとりの森」シリーズは終了です。 ワクワクしながら読んでいただいて、ありがとうございました。
2008.02.06
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あとりの森シリーズは、好評のようですね。えっちゃんに言わせると、実践コースとか。百回分の日記に相当するらしいですが。百聞は一見に如(し)かず?好評にお応えして、オマケ?いや、復習?もう一度、要点を見つめ直してみたいと思います。要は、解説ですね。過去世でソレイユさんが、あとりさんを殺した時・・・ソレイユさんは、後でものすごく後悔しました。しかし、あとりさんは、それほど恨みには思わなかったようです。なぜなら、今生、思い出していないから。もし強い恨みの念を抱いていたら、あとリさんも思い出したことでしょう。そして、二人が出会った時、今生でも切った張ったが起きたかもしれません。少なくとも一波乱はあったでしょう。その後で仲直りするとしても。後悔の念を強く持ったのは、ソレイユさんでした。逆に言うと、あとりさんは、それほど気にしていなかったということになります。あるいは、ソレイユさんが自分を殺す気持ちが理解できたのかもしれません。だから、それほど責める気持ちになれなかったのかもしれませんね。いずれにしても、強い念を持った方が、それを持ち越すことになります。強く握りしめて放さないのですね。握ったまま死んだのです。その念は、死後も消えることはありません。念とは、思い込みです。あとりさんは、殺されたことをそれほど気にしていなかったのに・・・ソレイユさんは、自分を許せなかったのですね。自分を許せないという強い思いです。その強い思い込みは、あとリさんに謝った時に解放されました。それまで、どれだけソレイユさんを苦しめたことでしょう。自分で自分を苦しめていたのですね。自縄自縛です。もし、今生であとりさんに出会わなかったら?永遠に苦しみ続けるのでしょうか。たいていは、解放するためのプログラムを設定して生まれてきます。今生こそはクリアーしようと思って生まれてくるのですね。しかし、許しを乞うためには、生まれ変わらなければならないのでしょうか。実は、そうでもありません。自分が強く掴んでいるものを手放せばいいだけです。強く握りこぶしをつくっているから、苦しいだけですから。今生も過去世も同じです。強く思い込んでしまったら、それを手放す必要が生じます。そうしないと、苦しくてしかたがないからです。手放すには、ただ握りしめている手を開けばいいだけです。では、握りこぶしを開いてみたら・・・手のなかには何があるでしょうか。長い間手を握っていたので、苔が生えているでしょうか。それとも、汗でジメジメ・ジトジトしているでしょうか。本当のところは・・・手のなかには何もありません。手を開けば、何もないのです。では、何を掴んでいたのでしょうか。あれほど強く掴んでいたものは、何なのでしょうか。それは、もしかして幻(まぼろし)?実態のない、ただの思い込み?思い込みの塊?自分がつくり出した思い込みの塊を、強く強く握りしめていただけでしょうか。それで苦しんでいたのでしょうか。手を開いてみたら、何も残ってはいません。ただの幻・・・執着、執念、妄執、妄念・・・こだわり、とらわれ、引っ掛かり・・・みんな自分がつくり出した思い込みです。強い強い思いの塊です。それが心のシコリとなっています。心の重荷になっているのですね。心は軽やかさを失い、自由さを失います。それは、ヘドロのように心のなかに堆積していきます。いつの間にか、それがパターン化するのです。その積み重ねによって、暗く重たい人生になっていきます。気がつけば、心も体もボロボロ。夢も希望もない人生となっています。あとりさんの夢枕に立っていた平家の姫様も、源氏に対する恨みの塊でした。源氏が自分の大切な身内を滅ぼしてしまった。源氏のせいで幸せな生活が奪われてしまった。源氏を絶対に許せない・・・そういう強い思いとともに亡くなったのでしょう。あとりさんに出てくるたびに、源氏に対する恨み辛みを並べ立てていました。しかし、それは一方的な思いかもしれません。平家が我が世の春を謳歌する以前は・・・平家も源氏に対して同じような仕打ちをしていたのです。平治の乱で敗れた源氏は、悲惨を極めました。頼朝は伊豆に流され、義経の母である常盤御前は平清盛の慰み者にされました。もちろん、頼朝や義経の父である源義朝は殺されています。因果は巡るのです。頼朝や義経は、父の仇を討ったに過ぎません。そういう事情を知らないで、平家の姫は源氏を一方的に恨んでいたのですね。つまり、自己中心的な狭い視野しか持っていなかったのです。全体的に見ることができれば、それほど強く源氏を恨むということもなかったでしょう。そうなれば、死後も恨みの念を持って、さ迷うということもなかったはずです。自我とは、視野狭窄です。自分の視点からだけしか物事が見れないのです。もし殺されたあとりさんが、自分の視点だけからソレイユさんを見ていたら・・・当然、強く恨んだに違いありません。しかし、彼女はソレイユさんの気持ちを理解したのです。親友なので、その気持ちが手に取るようにわかったのかもしれません。その結果、それほど恨むこともなかったのです。自己中心的な視点で見るか、相手を理解するか・・・その違いは、死後にまで影響します。自己中心的に見ている限り、苦しみは避けられません。つまり、狭い自分の視野で生きている限り、苦しみや悲しみが多発するということです。全体的な視野を持ち、深く理解する時、苦しみや悲しみは消えていきます。自分勝手に生きることは、一見、気ままで気楽そうに見えます。しかし、よくよく見ると、苦しい人生に行き着くのです。浅はかに表面的に生きることが、どれほどの苦しみをもたらすか。深く理解することなしに快楽に溺れることが、どのような結果をもたらすか。自己中心的な狭い視野で生きることこそが、混乱と苦しみの元凶です。それが世界中で見られる現実です。自分の視点と相手の視点の両方を理解することでしょうか。両方を理解したうえで、両方とも生きれる道を探ることでしょうか。一方的な見方に偏ると、強い念を心に持ってしまうことにつながります。自己中心的な思い込みです。それは、結局、自分を苦しめます。自分だけではなく、周りも混乱に陥れ、みんなを苦しめるのです。強い念を持つ原因は、自己中心的な一方的な見方です。自分へのこだわりとも言えます。あとりさんを殺した後、ソレイユさんが執拗に自分を責めたのも、自分へのこだわりでしょう。そういう自分を許せなかったのです。そんな残酷な自分ではあってほしくなかったのですね。それもまた自分へのこだわりです。人は間違いを犯します。間違ったら、改めるしかありません。心から謝って、生き直すしかありません。いつまでも引きずらないことです。間違いから学ぶことこそが、最も大切なことです。もう二度と同じ間違いをしないことが、真の反省です。それで完了させることです。いつまでも自分を許さないことは、自分にこだわっているからに他なりません。自分を許せないということは、他人も許せないということを意味します。結局、それは自分の思う通りにしたいということなのです。自分の思う通りにならないから、自他を許せないのです。許せないということは、自分の思う通りにならないことの裏返しなのです。まだまだ自分というものに強くこだわっているのですね。心から謝って、手放すだけでいいのです。それで完了です。強く握っていた手を離せば・・・そこには何もないのです。ただ自分が強く握りしめていただけです。強く強く思い込んでいただけに過ぎません。ですから、ソレイユさんが心から謝った時、そこには何も残らなかったのです。ただ自分が掴んでいるだけです。単なる思い込みです。幻です。人は幻を掴み、苦しみ悶(もだ)えているだけなのです。本当は、すべてを手放しても生きていけるのです。でも、しっかり掴んでいないと自分がなくなってしまうと思っているのです。それもまた悲しい思い込みです。まだ試してもいないのに・・・しっかりとこぶしを握りしめて、苦しみの自我の道を生きるか。手放して、軽やかに自我ではない道を生きるか。人類は、その岐路に差しかかっています。真の意味のアセンションとは、そういうことです。自我の生は、過去の生。過去につくった、こだわりやとらわれとともに生きる人生です。自己中心的な視野狭窄の生。苦しみと混乱の生でもあります。それが、これまでの人類史でした。それが、これから転換しようとしています。大転換が起きるのです。持てる生から、持たざる生へ。たくさんのものを所有することが、自我にとっての満足でした。その所有こそが、自我そのものでもありました。自我とは、手に握りしめている中身です。実体は、思い込みという幻なのですが・・・強く力を込めて握りこぶしのまま生きるか。肩の力を抜いて手を開いて生きるか。握りこぶしのままでは、殴り合うことしかできません。手を開かないと、抱き合うことはできないのです。握りこぶしをつくって生きれば、心は固くなります。手を開けば、心も開きます。心を閉ざし、狭い自分の世界だけで生きるのか。心を開いて、自由な空間のなかで生きるのか。心にシコリがあれば、シコリとシコリがぶつかります。すぐに引っ掛かって、傷つく原因になります。心にシコリがなければ、傷つくことも起きません。プライドやコンプレックスという思い込みが、傷つくだけなのですから。心のシコリは、やがて体のシコリをつくります。心身一如。体は、心の鏡です。体は、心を映し出す鏡に他ならないのです。ここに述べていることは、自我から非自我への大転換の道です。それこそが人類の悲願です。幾千万年に渡る人類の悲願なのです。人類最後の悲願とも言えます。それを乗り越えられるかどうか。それは、ひとえにあとりさんの肩にかかっています。もとい!この日記を読んでいる、あなたの双肩にかかっているのです。何も持たないで生きるのは、気楽でいいですよ。必要な時だけ、記憶を紐解けばいいのです。それは単なるデーターバンクに過ぎません。空っぽの心で生きるのが、一番楽な生き方です。過去ベース。記憶ベース。心のわだかまりベース。執念や妄念ベース。自己中心ベース。視野狭窄ベース。無知、無理解ベース。全体無視ベース。それが、これまでの自我の生でした。それは、イコール、苦しみと混乱の生でした。それを乗り越えられるかどうか。これからですね。『よく見れば 自己中心に 生きるのは 自分自身を 苦しめる道』『狭い視野 妄念・妄執 つくり出す 全体的に 見ないことには』『自分から つくってしまった 妄念で 自分縛って 自分苦しめ』『とらわれて 掴んで握って 仕舞い込み 心のシコリ 自我の塊』『手放せば 後には何も 残らない 握っていたのは みんな幻』『人類の 歴史を見れば 苦しみと 悲しみの道 混乱の道』『苦しみの 原因見れば 理解なく 自己中心に 生きてきたから』『狭い視野 超えて全体 見なければ 幸せの道 見つけ出せない』『事あれば 自他の気持ちを 理解して 共に生きれる 道を手探り』『人類の 悲願は彼岸 自我を超え 彼岸に至る 見守りの道』『何もない 空(から)の心に 映し出す 色の世界を 愛でて楽しむ』『有限の 色の世界の 移ろいを 空の意識で 包み見守る』『カラカラと 笑えば心 空(から)になる 空(から)の心を 風吹き渡る』これが日記を書き始めて1130日目の心境です。
2008.02.05
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「1128日目 - あとりの森(メール2)」の続き。屋久島を離れた後のあとりさんからのメール。(2月1日)「水晶見てかなりきましたよ~高速船ロケットの中では、体や関節がバラバラになるかと思ったよ!膵臓痛くて分解するかと思ったよ!なんとか吐かずに、キミさんちでいただいた水を抱いてたよ~森行く前に見に行ってたら、やばかったかもですが、それだけ力が出てきたのですね。わりと早く落ち着いてきました。間違いなくパワーアップしてます~綺麗な水晶見せてくださって本当ありがとう。今回屋久島を森歩きに連れていってくださり本当ありがとう。見守ってくださってありがとうね、キミさん。では」高速船に乗る前に、kimi宅で水晶をたくさん見ました。少し水晶あたりしたようです。エネルギーの強いものを一度に見ると、浄化がきつくなったりすることがあります。一気に見過ぎたかな?東京に着いた後の彼女からのメール。(2月2日)「こちらは寒いです。やはり鹿児島、屋久島は暖かい。体調は、疲れてはいますが良好です。私からのメールを載せるのですか?すっごいタメ語ですみません(汗)あまりにタメ語は飛ばして(笑)おまかせします。載せるのは必要あるところだけね!恥ずかしいけど、でも、まあ、もう隠すこともないしなあ。キミさんからのメール、うん、私だけならもったいないものね。日記に載せてくださいね。遭難者保護されたのですか!鹿児島のタクシー乗った時、運転手さんと心配してたのでよかった。命に別状ないといいな。教えてくださってありがとう。そういえば、昨日かわいい若い男の子一人に飲みに行こうよってナンパされたんだよ!ナ、ナンパなんて10何年ぶりか??もう縁がないかと思っていた。あはは。屋久島若返り効果万歳!!!すばらしい屋久島。毎日また大切に過ごして屋久島に行くことにつながるといいな。親もキミさんに感謝してます。(まだ電話だけだけどね)ではあとり@24歳続行中」このメールに対する返事。(2月2日)「今日の屋久島は、朝から雨だよ。あとりちゃんがいなくなって、屋久島が泣いてるよ。早く戻ってこーいッ!ナンパされたの?夜?ものすごく暗くなかった?そいつ目が悪かったとか。『失礼ねッ!』という声が聞こえそう。でも、雰囲気が若返っていたのかもね。誘いたくなる雰囲気だった?いずれにしても、おめでたいことで・・・今度屋久島へ来たら、ナンパしてあげよう!では、ご両親によろしくね」その後、彼女は無事に静岡の自宅に着いたようです。これが二人のメールのやり取りのすべてです。ポイントは、意識です。意識が、すべての根本です。彼女の意識がジメジメ・ジトジトだから、体もそうなっているだけのことです。体は、意識の結果に過ぎません。ですから、体だけを治そうとしても、対症療法に過ぎないのですね。根本から治さないと。ジメジメ・ジトジトとは、執着です。何かを掴んで放さないのですね。掴んだものと自己同一化して、それになりきっているのです。それが、自我です。自我とは、所有です。自分が掴んでいるものです。こだわり、とらわれ、執着しているもの。強く握って放さないものが、自我です。その自我の頸木(くびき)から解放されるためには、ただ手放せばいいだけです。強く握った手を開けばいいだけです。それが、公開するということです。オープンにする。秘密にしていることが、ジメジメ・ジトジトの原因です。それをオープンにすることが、開放であり、解放です。開くことで、囚われから解放されます。ただ強く握りしめたこぶしを開けばいいだけのことです。開くことは、光に晒(さら)すこと。光が当たれば、ジメジメ・ジトジトは消えます。光のないところでだけ、ジメジメ・ジトジトは存在できるのです。暗闇で秘密にしていることが、ジメジメ・ジトジトの温床です。それは暗く重たい念です。想いの塊(かたまり)です。執念ですね。妄念とも言います。要は、暗く重たい妄執です。そういう塊が、心も体も病気にさせます。なぜなら、流れが滞るからです。病気とは、まさに気が病むことです。気が止む(病む)のですね。気の流れが止むのです。固まってしまうことによって、気が滞ってしまうのです。固まるのは、強く握って放さないからです。簡単に言えば、強く思い込むからですね。それが流れをストップさせます。何も掴まないで、サラサラと流すことです。それが自我のない生き方です。自我の生とは、掴んで掴んで掴みまくることです。だから病気にもなるのですね。すべてが滞るから。自我こそが、病気の源です。健康に生きるためには、何も掴まないことです。掴んでしまえば、そこで流れが遮られます。堤防ができてしまうのですね。心身の詰まりが多くなれば、病気になるしかありません。掴んでいるものを手放すことです。手放せば、楽に生きることができます。掴んでいる限り、抵抗のある苦しい人生となります。どちらでも可能です。所有するものが多ければ多いほど、身動きできずに不自由になります。所有=自我です。執着をいかに手放すか。それが自由に生きるということです。あとりさんは、モデルみたいなものです。自我人間のモデル。これから自我を超えていくモデル。過去世からの深い縁によって、出会い、目覚め、変身していくのですね。これからが楽しみですね。サナギから美しいチョウに変身できるでしょうか。物質の呪縛から解放されるでしょうか。ジメジメ・ジトジトの大地から、さわやかな大空へ飛翔できるでしょうか。『病気とは 気が病むと書く 気が止むと 流れ止まれば 腐るしかない』『気の流れ 留めるものは 握ること 強く掴んで 放さないこと』『執着を すればするほど 重くなる すべて手放し 生きるしかない』『何事も 掴めば止まる 流れない 軽く触って 愛でて楽しむ』『掴むなら 軽く掴んで 楽しんで いつでも手放す つもりでいること』『気づいたら すぐに手放す それ以上 何も言わない それで完了』『共にある 今を楽しみ それ以上 先のことまで 欲張らないこと』『欲張れば 苦しみ悲しみ やって来る 握れば無理に 引き離される』『とらわれず 軽く楽しく さわやかに 生きれば何も 問題はない』これが日記を書き始めて1129日目の心境です。
2008.02.04
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「1127日目 - あとりの森(メール1)」の続き。これは、彼女の体調のことなどプライベートなことを日記に公表することの了解を得るためのメールです。(1月30日)「ソレイユさんとは、楽しい時を過ごせましたか。日記をこれからアップするんだけど・・・このなかに、あとりさんの肉体的プライバシーが出てきます。たとえば下半身のこととか。ゲップとか。女性として、山羊座として、隠しておきたいかな?でも、隠すと、またジトジト・ジメジメの世界になるよ。この際、オープンにしてみたら?それができれば、精神的にはスッキリさわやかでしょう。たぶん、肉体的にも回復が早まるでしょう。あとりさんというのは、ネット上の存在だからね。Y・S(本名)さんとは、またちょっと違うかもね。自分自身を客観視する意味でも、役に立つと思うけど。公開する前に、一応、ご本人の了解を得た方がいいかなと思って。それでは、返事を待ってます」上のメールに対する彼女からの返事。(1月30日)「ソレイユさんとは一時間くらい会いましたよ~私のこと元気になってるって言ったよ!森へ行った帰りみたいで、とてもキレイだったあ~キラキラピカピカ。すごいかわいいね、ソレイユさん。私にパワーをくれたよ。ちょっと私はパワーなし子ちゃんだったからなあ。子宮が痛くて、本当、下半身系浄化かなあ~生理も近いかも~。もうひたすら目をつぶって温めて横になっとります。前に、もうキミさん、私の体のこと日記にアップしたよ~だから二度目だよ。話の流れで書く必要あるなら別にいいよ~下半身婦人系肛門様系は、尾之間温泉で治ると確信したよ!あそこで治らなかったら治らん。知り合いで肛門から体重分くらい膿が出続けている子がいるの。トイレがめちゃ大変なの。その子を連れてきたいよ。かけ湯だけでもすると違うよね。私も昨日、かけ湯と足浴が効いたよ。膵臓とか炎症ある時は温泉に入るのは良くないんだけど、今のところ森歩きが効いているおかげか平気みたいだよ~まあ部分部分より大本の意識の問題なのだろうね。キミさんおっしゃるとおり。ではでは」このメールに対する返事。(1月30日)「ソレイユさん元気で、パワーもらえてよかったね。以前にも書いた?まったく記憶にないな。書き過ぎだよね。もう忘れてる。なに?アルツ・・・尾之間温泉は強力だから、殺菌力もあるでしょう。では、これからアップします。みんな読むのを楽しみにしているんだよ。それでは、また明日」彼女からの次のメール。(1月30日)「下半身は、もう治ると感じるよ。まあ人並みになるには、時間かかるけど。なんとなくジメジメを少し手放せたんだ~前に少しキミさん日記で書いてくれたんだよ。私が相談したんだよ。で、それから体とよーく向き合ったつもり(これでも)。アルツ気をつけてね。小指と親指から抜くんだよ~では、ありがとう」彼女から電話があって、いろいろ話した後のメール。(1月30日)「この文章を書いている時、電話がかかってきたんだよ。いい文章だから送るね。オープンにしていけば、どんどん治るのさ。オープンとは、開放。開放とは、解放。解放とは、手放すこと。握っているものを手放す。それには、オープンにすることなんだよ。オープンにするとは、光を当てること。光が当たれば、すべては光に帰る。極めてシンプルだね。いつまでも隠そうとするから、いつまでも良くならない。光が当たらないから、いつまでもジメジメしている。光を当てることだね。開くこと。オープンにすること。手放すこと。そうすれば、後は結果を待つだけだね。ソレイユさんに関しては、またフォローの日記を書きます。近日中に。ハー、忙しいな。では、明日ね」あとりさんからのメール。(1月30日)「明るいね。さわやかで明るい。うん、ソレイユさんに対してもわかったよ。この文章でわかった。もう殺した殺されたという時代じゃないんだね。そこでもんもんしている場合じゃないんだね。私もこの滞在の間、罪の意識で小さくなったよね。自分を呪うも人を呪うも同じなんだけどね(笑)ソレイユさんがね、殺したことを苦しんでたことを涙ながらに話してくれた時、私はこんな綺麗で優しい人はいないと思ったの。そこで苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、それを打ち明けて、しっかりと隠したいことを伝えてくれたソレイユさんの私への癒しはすごいの。本当にすごいの。ソレイユさんの優しさは、すごいよ。だからさ~日記で簡単に書いて欲しくなかったのよ。(簡単じゃないって?失礼な)でもソレイユさんは、たぶんキミさんに過去世のこと伝えたと言っていたよ。もしよかったらソレイユさんに、直接、書いたよとメールか電話してね。礼儀じゃ!私からというのは伏せてね。そうした方がいいと思う。ハー大変だ。よろしくね。ありがとう」このメールをもらった後、ソレイユさんに電話しました。彼女は、まだ日記は読んでいませんでした。いろいろあとりさんとの関係を聞きました。彼女が思い出した過去世は、次のようなものでした。あとりさんとソレイユさんは、仲の良い親友でした。ところが、一人の男性をめぐって三角関係になってしまいました。それで、ソレイユさんが、あとりさんを殺してしまったようです。その後、ソレイユさんは、そのことを悔い、自分を責め続けました。その想いは、亡くなっても消えなかったようです。その想いは、今生まで持ち越されました。そして、あとりさんとの運命の再会となったのです。そこで、ソレイユさんは泣き崩れました。涙ながらに過去を詫びたそうです。それが、あとりさんの心を打ちました。それは、ソレイユさんとともに、あとりさんの心まで癒したのです。感動の再会でした。今生でも実際に会うまでにメールのやり取りをしていたようです。でも、そこでも少し行き違いが生じていました。まだ過去世を引きずっていたのですね。それも同時に解消されたようです。そういう経緯(いきさつ)があったので、日記に簡単に書いてほしくなかったようです。またソレイユさんの気持ちも酌んでほしかったみたいです。日記に書かれることによってソレイユさんが傷つかないようにとの、あとりさんの心づかいでした。しかし、そういう心配は必要ありませんでした。ソレイユさんの気持ちは、既にスッキリしていました。わだかまっていたものを出してしまえば、もう大丈夫です。それは過去世も今生のわだかまりも同じです。自分一人の心のなかに隠しているから、苦しいだけです。死んでしまえば時間はありませんので、死ぬ時の想いがいつまでも持続します。苦しみのまま死ねば、死後も苦しみが続きます。心のわだかまりも、そのままでは溶けることはありません。手放せばいいだけなのですが・・・あとりさんからの次のメール。(1月31日)「もうジメジメしないからね~オープンでいきます。なんとなく体とぴったりべっとり一緒だったのが、少し離れてきた気がするよ。そしたら、体にさわやかな風が入ってきた気がします。とても気持ちいいね。素敵な文章ありがとうございます。ではでは何回もすみませんでした~」意識が変われば、体も変化します。すべてが変わります。ジトジト・ジメジメから少しは離れられたでしょうか。徐々にスッキリさわやか系に移行しつつある、あとりさんでした。上のメールに対する返事。(2月1日)「元気になってよかったね。とても楽しかったよ。家族の人がびっくりするかな?今から、『あとりの森-4』を書くところだよ。昨日のことだね。今日のことは、明日か明後日書くんだけど、そこで総括するつもりなんだ。その際に、あとりちゃんからもらったメールを使わせてもらいたいんだけど、いいかな?こちらからのメールと一緒に公開しようかと思っている。もちろん必要なところだけ。プライベートな部分はカットするつもり。読む人に意識の重要性を理解してもらいたいんだね。たぶん公開すれば、その分、あとりちゃんも楽になると思うよ。間違っても、公開して後悔することはないでしょう。先程、ヘリコプターが飛んで来て空港に降りた。その後、救急車がやって来た。昨日の人が見つかったかな?今、放送があった。無事保護されたって。よかったね。それでは、お父さんとお母さんによろしく伝えてね」このメールは、港から彼女を送り出した後に書いたものです。前日、白谷雲水峡を歩いた時、遭難している人がいました。その人のことを、あとりさんは心配していました。遭難していたのは彼女と同じぐらいの年齢の男性で、原生林歩道の奥の方で発見されました。もう瞳孔が開いており、危機一髪のところでした。それでも、なんとか返事ができるだけの意識は残っていたそうです。ヘリで救助され、病院に搬送されました。その後は、元気になりつつあるとのことです。「1129日目 - あとりの森(メール3)」に続く。
2008.02.03
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あとりさんの屋久島は、終わりました。12日間の動静については、「あとりの森」でアウトラインは紹介しました。しかし、内面的なことについては、あまり詳しくは述べていません。今回は、内面的なことを紹介します。彼女からもらったメールと、こちらから送ったメールを公開します。このことについては、彼女も了解済です。屋久島の旅が終わってから、公開について話しました。事前に話せば、自由にメールできなくなると思ったからです。基本的には原文のまま公開します。ただ、一部プライバシーや固有名詞などについては、カットしたり修正したところもあります。公開することは、彼女にとってもプラスになると思います。読む方にとっても、きっと役に立つことでしょう。彼女は、1月21日に屋久島に上陸しました。それからしばらくは、電話でのやり取りが続きました。26日になって携帯からメールが届きました。それは、木霊の森を歩いた後のことです。「キミさんあのですね、私一日を振り返って、自覚しきれてないところ(ほとんど一日は見守れてない)をいつも見るのだけど、そうすると、その時そのまま自分の行動と気持ちの流れが出てくるんだけど、最悪に最悪。私ね、こだまの森で石についていた苔を靴ではがしてきたかもしれない。わざとじゃないけど、不注意で気がそぞろだった。終点のところです。その時、瞬時に蓋をしました。ごめんね、本当にごめんなさい。森にも謝ります。ずっと謝ってるけど、どうしようもない。本当にごめんなさい。不注意でした。だいぶ前も気持ちを押さえられなくて、けしてマイナスな気持ちではなかったのだけど、その気持ちを押さえて行き場のない体が、道路の苔をはがしていることに気づいたことがあるの。これは故意だけど。その時は自分の行動に驚いた。ただ何かにぶつけたくて苔をはがしていたんだ。だからひとつひとつを見守ろうとしたら、今まで動きはわりとまだテキパキしてたけど、恐怖に追われるように行動してたのに気づいたら、超ゆっくりしか行動できなくなったの。それでも、まだ見えてない今までしてきたことが、今回キミさんの会話の中での自分の動きが見えてきて、気づかなかった私が浄化するのは当然な気がします。ごめんね。本当にごめんなさいね。私、『自分』から発することで行動し、そのことに蓋をし、負のエネルギーを増やして行く循環に、まだ乗りやすい。怖い、完璧孤立しているという部分がまだ震え上がっていて、そこの部分はみんななんでも怖かったりする。でも全てと交流して、みんなを大切にしたいのは本当ですどうか何度でももっと冷静に見ていくので、無礼を本当ごめんなさい。森は私のことも全てわかってるね。隠せるものなんて何もないし、必死に隠しても受け入れてくれるのに。キミさんもお見通しかもだけど。本当にごめんなさい。」このメールに対する返事。(1月26日)「気がついたら、それでOK。すぐに手放すことだよ。いつまでも、くよくよしない。気づいたら、即、完了させる。いつまでも引きずらないことだよ」次のあとりさんからのメール。(1月26日)「心から謝って手放すよ。今までしてきたことも心から謝ります。ありがとう~」あとりさんからの最初のメールを読んで、何か違和感を感じました。それが何なのか・・・しばらくして、ハタと気づきました。そして、次のようなメールを送りました。(1月26日)「メールをもらって気づいたことが・・・それは、あとりちゃんの意識が粘着型になっているということ。ジメジメ、ジトジト・・・こだわり、とらわれ、執着・・・そして、意識に見合った体になっているんだね。心身一如。お父さんが、あとりちゃんは湿気のあるところが苦手と言っていたけど・・・ハイ、自分が一番湿気があったりして?山羊座は、粘着質だからね。それが良い面に出ると、忍耐強いんだけど。逆になると、執(と)らわれて、捕(と)らわれて、囚(と)らわれて・・・今のところ、マイナスに出ているかも?これからは、逆に、手放して、手放して、手放すんだね。軽やかに、さわやかに、あっさり系に変身することかな。これからは、そういう時代なんだから。時代遅れにならないうちに、チャレンジしましょう。まあ、そんな感じでした。では、またね。」これは、かなり思いきったメールでした。ストレートに言っていいものか少し迷いました。でも、言わないままにすることは考えられませんでした。なぜなら、これこそがすべてのキーだからです。体は、意識の鏡のようなものです。根本は、意識のあり方です。それをそのままにしておいて体だけを治そうとしても、あまり意味はありません。体は、結果に過ぎないからです。原因に立ち入らない限り、根本治療はあり得ません。しかし、あまりにストレートに言い過ぎると、彼女が傷つくかもしれません。傷ついて心を閉ざされたのでは、元も子もありません。かなり慎重な配慮が必要でした。でも、彼女から来たメールは、こちらを失望させないものでした。(1月26日)「そうだね、本当にそうだね。体がジメジメしてカビやすいし、それはジットリな気持ちからできてるのわかるよ。軽やかに生きれるようチャレンジしていくよ。体は落ち着いてきて、その後、気持ちが荒れてきて、でも両方落ち着いてきました。ちょっとジタバタしちゃったね。ありがとう。時代遅れを卒業するよ。ホントにホントに。せっかく念願の屋久島に来れて、さわやかキミさんに会えたんだものね。」次の日に彼女から届いたメール。(1月27日)「私は落ち着きましたあ~幽霊さんも笑顔だあ~子供も明るい中で遊んでる~かわいいよ~もう大丈夫。平家のお姫様も久々に出てきたよ~何も言わないけど、前会った時よりすごく軽くて、女神様みたいに美しくなってるよ~ではソレイユさんとデートしてきまあす」彼女は霊媒体質で、以前からいろんな霊が出てきていました。子供というのは、ヤクスギランドに行った時に出てきた霊です。昔、森に捨てられて凍死したとか。その幼児の霊が、森から彼女に付いてきたようです。平家のお姫様というのは、彼女の過去世でしょうか。これまでは出てくるたびに、源氏を恨み、泣いていたそうです。そのお姫様も、すっかり変わってしまったようです。すごいですね。彼女の意識が変わることによって、彼女の周りのものも変わります。彼女が明るくなって、周りの存在たちも元気になりました。彼女が輝きを増せば、周りにも光が届きます。彼女が健全になれば、周りも健全になるのです。みんな彼女を見ています。彼女の意識の状態が、周りに影響を与えるのですね。人が変わるとは、ものすごいことです。先祖代々にまで影響が及びます。次は、ソレイユさんと会った翌日の彼女からのメールです。(1月28日)「言うの忘れちゃった。ソレイユさんに、かわいいブレス作ってもらったんですよ~誰かに自慢したくって!明日、キミさんに見せます(笑)いなか浜の貝のブレスなんだから!ご飯も本当に美味しく、丁寧ですばらしかったです。本当に本当に素敵な人だよ~ソレイユさん。すばらしい人だよ~すっごく癒されてしまいました~屋久島で一番癒されたかもです(笑)森で沢山きのこに会えたので、きのこの絵本ができそうです。では明日お願いします」海抜1300mの森を歩いた翌日の彼女からのメール。(1月30日)「キミさんに送っていただいた後、寒気があって、すぐ布団に入りました~ガタガタしたよ~今日はやはりバテバテ。お腹痛いので、ソレイユさんとは宿で少し会うよ~夜中は汗をびっくりするくらいかいて、咳もすごい出ました。霧がよかったです。素敵な森でした。今日はゆっくりしながら帰りの準備をしまあす。明日動けるかなあ?ま、ゆっくりします。ではでは」このメールに対する、こちらの返事。(1月30日)「一日おきだね。充電して、解放。今日、ゆっくりすれば、明日は動けるでしょう。まあ、マイペースでやってください。これから昨日の日記を書くところだよ。題して、『あとりの森(3)』みんな楽しみにしているみたいだよ。ソレイユさんにも、よろしくね。それでは、また」携帯で、こちらの日記を少し読んだ彼女からのメール。(1月30日)「名前も出てるのですね(笑)あはは。すごいな。あこがれのキミさんの屋久島日記に登場するなんて。ありがとう。昨日の水もおいしかったですね。非常にスッキリする感じのお水です。スッキリ水です。ではでは。あとり@人気ブログサイトに登場できて光栄やら恥ずかしいやら」海抜1300m付近の水が、あとりさんには合っていたようです。スムーズに体に吸収されていきました。新鮮な水が吸収されると、体は瑞々(みずみず)しくなっていきます。彼女も、お肌美人に向かってスタート!?「1128日目 - あとりの森(メール2)」に続く。
2008.02.02
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朝9時半過ぎに、あとりさんを迎えに行く。元気そう。普通の人と変わらない感じ。屋久島に上陸した時は、病人だったのに。顔色が、すごく良くなっていた。そのことを話すと、「24歳だもの」「まだ24歳がキープされてるの?」「永遠の24歳よ」「強気だね」確かに24歳のお肌かも?元々色の白い人なので、ほんのりピンクがかってきれいになっている。「よかったね、屋久島で美人になって」本人もまんざらではなさそう。屋久島は、人をきれいにする。心身ともにきれいにする。美しくなりたい人は、屋久島へ来るといい。下手なエステより効果がある。但し、長く居過ぎると、日焼けして肌が黒くなる危険がある。何事も、ほどほど。今日は、12日間の屋久島の旅の最終日。大きなボストンバッグを車に積み込む。重たいので、宅配便で送ることになっている。もう一つ重たいものがあった。それは屋久島の水。ボストンバックよりも重たいくらい。これも宅配便で送る。それ以外にも、けっこう荷物がある。まず、宿の鍵を返しに行く。少し離れた弁当屋が、この民宿を管理している。あとりさんは、この宿が気に入ったようだ。最初のうちこそ他にも泊まっている人がいたが、ほとんど彼女の貸し切りだった。鍵を返して、あとりさんが持ってきた水晶の浄化に行く。元をただせば、屋久島から旅立ったもの。久しぶりに見るヒマラヤ水晶。なんとなく懐かしい。里帰り水晶を、屋久島の産湯(うぶゆ)に浸ける。そう、屋久島バージョンになるためには、この海と川での浄化が必要不可欠。まさに水晶にとっては産湯のようなもの。水晶も心なしか懐かしそう。海は、ものすごくきれいだった。波もなく、とても穏やか。しばらく海水に浸ける。大きいので、そのまま置いておける。他に小さなものを2個持参していた。それも海に浸ける。しばらく浸けてから、川に行く。川の水も意外と冷たくなかった。川には藻がたくさん生えていた。大雨ですべて流されたのに、また再生していた。なかなか強い生命力。きれいな流れのところに水晶を浸す。川は波がないので、安心して置いておける。水晶を置いたまま、少し上流の方へ歩く。そこは水が青い。澄みきり切っている。「ここで泳ぎたい!」彼女が言う。確かに、ここに入れば浄められる。それは体験済み。この上流には民家はない。この水は、飲むことさえできる。海の間際なのに、すばらしく美しい。この水で水晶を浄化したら、最高に浄められる。水晶だけではない。人も浄められる。水晶と人を同時に浄めるところ。とてもピュアーな空間。今日は高速船の時間が決まっているので、そんなにのんびりはしていられない。水晶の浄化の次は、kimi水晶館へ。たくさんの水晶を一気に見て大丈夫だろうか。ピュアー過ぎて水晶当たりしないだろうか。彼女は、食い入るように水晶に見とれていた。「きれーい」次から次に出てくる水晶に、茫然自失という感じ。山羊座なので、ガネーシュヒマールのクローライトタイプが一番安心するらしい。しかし、ブルーのアクアマリンにも惹かれていた。黄色いシトリンのなかの虹色の翼には、声も出なかった。その他にも、龍が入っているハニークオーツや水晶のフェアリーなどなど・・・シトリンの大きな玉のなかのレインボーにも感動していた。最近は魅力的な水晶が、どんどん増えている。見応えのある水晶館になっている。そのうちに観光名所になるだろうか。それはあり得ない。もう少しゆっくりしたかったが、船の時間が近づいていた。その前に宅急便の事務所に寄る必要があった。宅急便の料金は、思ったより安かった。重たいので、高いかと彼女は心配していた。出航15分前にターミナルに着く。でも、まだ余裕があった。乗船まで、しばらく待合室で待つことに。放送があって、高速船まで歩く。最後に握手をして別れる。こうして、あとりさんの屋久島の旅が終わった。12日間のうち、4回森へ行った。最初と最後に、海にも行った。温泉にも半分は浸かれた。美味しい水もたくさん飲めた。日差しに弱い彼女向きの天候だった。そう、虹も出た。大きな、大きな虹だった。滅多に見れない虹。屋久島に祝福された12日間。またいつでも帰っておいで!『来た時と 帰る時では 別人の ように元気に なってサヨナラ』『屋久島の 水をたくさん 飲むことで 瑞々(みずみず)しさが 肌に出てくる』『美しく なりたかったら 屋久島へ 遊びに来れば いいだけのこと』『美しい 自然(もの)と一緒に いるだけで 美しくなる 心身ともに』『屋久島の 自然は人を 美しく 健康にする ただいるだけで』これが日記を書き始めて1126日目の心境。
2008.02.01
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