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朝晩は、涼しい。しかし、午後になると・・・部屋にいるだけで、汗が滴(したた)り落ちる。冷房は、つけない。汗と共に体内に溜まっていた毒素が出る。それが、冬場の健康を約束する。体内に毒素がなければ、風邪をひくこともない。たまに吹く風が、心地よい。「君子は豹変す」と言われている。突然、変わってしまうわけで、周りの人は唖然とする。信念のカケラもない?確かに!良く言えば、臨機応変。悪く言えば、無節操。いかようにも言える。さてさて・・・朝令暮改では、周りの信用はなくなる。そうかと言って、頑固一徹でも時代に取り残される。なかなか難しい。では、どうしたらいいのだろうか。君子は、無節操ではない。豹変とは、いつまでも過去の経緯(いきさつ)にこだわらないということ。過ちに気づいたら、すみやかに改める。その時その時の状況に応じて、しなやかに対応する。凡人は、過去の経緯にこだわる。すみやかに転換することができない。信念に基づいて生きていると、信念に反する現実が起きた時に困ってしまう。信念に忠実に生きるか、現実に即して生きるか・・・中高年になると、しなやかに変身できなくなる。長年サラリーマンをしていると、頭は固くなる。信念という思い込みが、しっかりインプットされている。石頭であり、頑固オヤジ。君子と凡夫の違いは、頭のしなやかさ。自由度とも言う。長年決まりきったことをやっていると、頭は固くなる。頭を使わなくても、頭は固くなる。適度に使っていれば、頭はしなやか。信念や信条などが少なければ少ないほど、頭は自由。信念体系が何もなければ、自由度限りなし。信念体系がないということは、依存するものがないということ。何ものにも依らず、独り自立しているということ。思考の次元では生きていないということ。思考以下か、思考以上。さて?動物たちは、信念体系は持っていない。それでも十分生きていける。別に信念体系は、必需品ではない。なくても生きていくことはできる。思い込みがなくても生きられる。先入観や偏見がなくても困らない。ただ事実としての知識は、役に立つ。知識がないと、現代を生きるのは難しい。事実ベースの知識か、それとも思い込みか。その辺りは、なかなか微妙。事実と思っていたら、思い込みだったりもする。現代栄養学の知識は、事実とは言えないものが多々ある。それは、学説。推定であり、統計学でさえない。カロリー万能の時代があり、ビタミン万能の時代があった。今では、そういうものは顧みられない。時代と共に栄養学も変化している。今の科学を事実と思い込めば、学説が変わった時に困惑する。あなたは、常に豹変できるだろうか。心は、常にしなやかだろうか。頑なに信じないことだろうか。今の科学は、仮説に過ぎない。そういうことを理解したうえで、しなやかに生きることだろうか。科学だからと言って信じない方がいい。電車賃もバス代も変化する。150円と思い込んでいたら、突然、変わっていたりする。ガソリン代も入浴料も、みんな可変的。そう、すべては可変的。そういう前提の下に生きることだろうか。ファジーに生きることだろうか。固定的に生きないことだろうか。ゆるやかに、おおらかに生きることだろうか。すべて、これまでの経験に限定しないことだろうか。それは、ベース。しかし、それも可変的。そのすべてを大きく包むようにして生きることだろうか。顕在意識を大きく包むような意識で生きることだろうか。それこそは、見守りの意識。瞑想状態の意識。自我を超えた意識。そのようなゆるやかな意識と共に生きることだろうか。限定しない意識。包み込む意識。顕在意識を見守る意識。これまでの人生経験や知識だけに限定しない。いつでも豹変できるスタンスで生きる。過去に縛られない。自由におおらかに生きる。『すみやかに 君子豹変 いつまでも 凡夫自説に こだわり続け』『いつまでも 過去に縛られ 生きる時 変身できる チャンスを逃す』『しなやかに 豹を見習い 生きていく 信念なしに 時に応じて』『今ここを 注意しながら しなやかに 何にも依らず 生きていくのみ』これが日記を書き始めて1307日目の心境。
2008.07.31
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今日も、屋久島は晴れている。しかし、今日は雲が多い。山の上の方は、雲に隠れている。それにしても、蒸し暑い。六月上旬、突然、ホテルあかつきが閉館した。原因は、営業不振。屋久島で、最も高いところにあるホテルだった。そして、料金も最も高かった。昨年は、知り合いのガイドの下請けで、ホテルあかつきに何度も行った。今年は、一度も行かなかった。そうこうしているうちに倒産した。もう下請けはいいかなという感じだったので、特に問題はない。従業員も全員解雇。突然のことで驚いたらしい。しかし、一ヶ月ぐらいで、それぞれの身の振り方も決まったようだ。今は空っぽのホテルが、聳え立っている。なぜ倒産したのか。答は、簡単。お客さんの入りが悪かったから。なぜ?それは、料金が高過ぎたから。普通の収入の人では躊躇するような料金設定だった。タレントや芸能人が、よく利用していた。経営者も多かった。リッチな個人客がメインで、団体はあまりいなかった。他のホテルは、団体がメイン。個人のお客は、限られている。数で稼いでいるのが、大きなホテル。民宿は、個人客がほとんど。一人一人を大切にすることで民宿は成り立っている。個人客は、リピーターも多い。口コミが、大きな宣伝力となる。ホテルあかつきは、よく雑誌などで紹介されていた。頻繁に雑誌などに広告も出していた。しかし、いかんせんあまりにも料金が高過ぎた。今の時代には、マッチしなかった。今の時代は、誰でも泊まれるところが繁盛する。特定のセレブしか泊まれないところは、立ち行かない。大衆の時代。対等で平等な時代。金持ちだけを対象にしたものに、発展の余地はない。誰でも参加できるものでないと、広がることはない。ピラミッド構造の時代は、終わった。上下関係や縦社会は、過去の遺物になりつつある。これからは、横社会。同一平面。対等な立場での、ゆるやかな連帯。ネットワーク。そういう時代にマッチしたものが、繁栄する。ネットショップは、その最たるものだろうか。誰でも簡単に店開きできる。大きな資本やバックを必要としない。誰でも気楽に参加できる。それが、キーコンセプト。お金やコネクションがないと入れないものは、時代遅れ。対等、平等の時代。大分県の教員採用に関する汚職事件も同じ。裏金やコネクションの時代は、終了している。今、過去の膿が出ているだけ。完全に機会均等の時代になる。チャンスは、平等。後は、チャレンジするだけ。自分の本当にやりたいことを、やればいいだけ。お金や世間体のためではなく、真に自分が望むことを・・・財産や地位や名誉などという自分の付属物は、これからは価値を持たなくなる。本人しだい。本人の人間性しだい。嘘が通用しなくなる。ありのままの自分で生きるようになる。見栄も外聞も体裁も必要ではなくなる。事実ベース。素の自分で生きるようになる。自分に嘘をつかないで、正直に生きることだろうか。これからは、それが評価される時代になる。ゴテゴテ厚化粧をしてもしかたがない。ただ暑苦しいだけ。素顔で生きる。ありのままで生きる。それが、一番楽な生き方。最もエネルギーが滞らない生き方。機会は、誰にでも公平に開かれていく。素直にスーッと生きることだろうか。こだわらないで、流れを見極めて生きることだろうか。流れのなかからチャンスを発見することだろうか。『縦社会 終われば次は 横社会 対等・平等 時代の流れ』『いつまでも グルをやってる 人は過去 時代の流れ わからないだけ』『教え合い 気づかせ合って お互いに 自立・対等 時代の流れ』『これまでの マスの時代は 終わり告げ 一人一人が 大事な時代』『大衆に 埋没せずに 自らの 個性活かして 生きるしかない』『これからは 一人一人を 大切に 一人一人が 主役の時代』これが日記を書き始めて1306日目の心境。
2008.07.30
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屋久島は、連日、晴が続いている。しかし、時々は雨も降っている。天気が、少し不安定。その分、いくらか過ごしやすい。こちらは、まだ整理整頓を続行中。昨日、今日は、本立の整理をした。かなり本が処分された。もう読みそうにないものは、次々に処分した。連日、ゴミをたくさん出している。ゴミが出た分、部屋は広くなる。片付ければ自動的に掃除もするので、部屋はどんどんスッキリしている。一段と風通しがよくなっている。先日、次のようなコメントがあった。「いつからか、自分の家も体も心も『神殿』だと感じるようになりました。いつでも『神殿』は美しくしておきたいですもんね。」すべては、神殿・・・確かに、そのような心積もりで生きたら、すばらしい人生になるだろう。神殿がホコリやゴミだらけでは、神様も降りては来れない。やはり神殿は、神聖でないと・・・掃き清められて美しいのが、神殿というもの。家も体も心も、自分のスペース。自分が、依って立つところ。自分の住まい。ある意味、自分自身でもある。正確には、自分の延長だろうか。あるいは、自分の表現だろうか。はたまた、自分の作品だろうか。いや、これが自分自身というものかもしれない。家が、自分?そんなことはない!体が、自分?それは、そうかもしれない・・・心が、自分?それは、そうに決まっている!いろいろな反応がありそう。しかし、事実は、すべて自分の表現媒体。そのトータルを自分自身と呼んでもいい。しかし、家は、壊れる。体も、老化し、遂には朽ちる。心は?心も、刻々に変化している。では、自分とは?今、表現しているもの。家を通し、体を通し、心を通し・・・家も体も心も、創造物。表現媒体。自分が創造した現実。創造したものが、自分自身。特有の表現の仕方が、個性。創造している現実が、自分の人生。家も体も心も、自分が創造している現実。これが自分の人生であり、自分自身とも言える。創造している主体と創造されている客体は、不離一体。主体が、イコール客体。創造されている現実こそが、自分自身そのもの。目の前の現実が、自分というもの。現実が、気に入らない?自分が、嫌い?でも、それが自分が創造しているもの。それが、イコール自分自身。家も体も心も、自分が創造している現実。それが気に入らなければ、変えるしかない。何事も変更可能。なぜなら、人は創造主だから。人は、神の子。神の分霊(わけみたま)。人は、神に似せて創られた。人は、神に他ならない。そうであるならば、自分の現実は自分の望み通りに創造できる。実際、そうしている。そのことに気づいていないだけ。創造力を主体的に使いこなせていないだけ。ただ、無意識に創造力を使っているだけ。そして、その結果が気に入らないだけ。まだ自分の創造力に気づいていないだけ。創造力を意識的に使っていないだけ。家も体も心も、すべて自分の創造した結果。責任は、自分が取るしかない。誰も責任を代わってくれる人はいない。100%、自己責任。家も体も心も、自分の望むように創造すればいい。誰にも遠慮はいらない。自分の望むようにイメージし、それを楽しむ。楽しんでいれば、それは現実化する。本当に心から楽しんでいるだけなら、必ず現実化する。疑念や不信感がなければ。そんなことが現実化するはずがないと否定しなければ。自分には現実を創造する力はないと思い込んでいると、創造力は発揮できない。素直に、単純に楽しんでいれば、現実化する。堂々と自分の望む現実を創造すればいい。家も体も心も、美しい神殿にすればいい。イメージだけでなく、現実に動いてみればいい。この世は、イメージ+行動。行動することによって、加速度が付く。自分の望む現実を創造できる。神殿を創造し、そこに住めばいい。家も体も心も、神殿。神の宿る神殿。そう、自分自身こそが、神そのもの。神殿の主(あるじ)。自分にふさわしい神殿を創ればいい。いかようにも創造できる。何も制限はない。自己規制以外は・・・自分で自分を縛らないことだろうか。自縄自縛を解(ほど)くことだろうか。思い込みという制限を外すことだろうか。人は、本来、完全に自由。自分の望む現実を創造できる。自分の神殿を、自分好みにアレンジできる。あなたは、どのような神殿に住みたいだろうか。自分にふさわしい心、体、家=神殿をイメージしてみよう!『神住むに 似合った神殿 創り出す 神とは自分 創造原理』『自覚なき ままに創造力(ちから)を 使う時 望みもしない 現実となる』『明確に 自覚しながら 使う時 想像力は 創造原理』『肉体も 心も家も 地球すら 神住む場所に ふさわしくする』『肉体も 心も家も 地球すら 神住むところ 神の神殿』これが日記を書き始めて1305日目の心境。
2008.07.29
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暑い日が続いている屋久島。朝晩は涼しいのだが、昼間の暑さは半端ではない。森にいれば涼しいのだが、自宅は灼熱地獄に近い。それでも、仕事以外で、わざわざ森へ行こうという気にはならない。自宅にいれば、やることは山ほどある。まだまだ整理整頓が続いている。今日は、半袖のワイシャツを処分した。屋久島へ来て、一度も袖を通していない。一度も着ていないので、一度も洗濯していない。そのため、襟の部分が黄色くなっていた。もう着そうにはない。屋久島では、Tシャツしか着ない。一年の半分以上は、Tシャツ。半袖のワイシャツなど必要ではない。サラリーマンならともかく・・・自由業は、気楽でいい。必要のない衣類を大幅に処分した。ついでに、その衣類を入れていたボストンバックも処分。最近は、海外旅行は鍵が第三者に開けられるようなボストンバッグでないといけないとか。古いボストンバックは、使い道がない。国内旅行用に使っていたボストンバックも、もうボロボロ。こちらも物入れになっていた。両方とも処分して、新しい引き出しを購入することに。整理整頓すると、スッキリする。整理整頓すれば、同時に掃除もすることになる。部屋が、どんどんきれいになる。きれいになってわかる。これまで、どんなに汚かったか・・・汚いところに住んでいると、その汚さがわからない。部屋もそうだけれども、心のなかも同じ。心が混乱していても、それが常態であれば違和感はない。人のことはよくわかるが、自分のこととなると、とんとわからない。人のふり見て、我がふり直せ。人は鏡だから、人を見て気づいたことは、たいてい自分にも当てはまる。人は、教師。相手に反発している暇があったら、自分を振り返ることだろうか。相手に反発しているのは、自分にもそのような部分があるから。そういう自分を嫌っているから。ありのままに認めていないから、相手を通して反発する。実は、自分自身に反発しているだけ。相手は、単なる鏡。重要なのは、相手ではない。問題は、自分の心。自分の心が、縁に触れて反発する。縁というのは、原因ではない。原因は、自分の心のなかにある。その因が、縁に触れて出てきているだけ。そういう意味では、相手はありがたい存在。自分のなかの因を明らかにしてくれる神様みたいなもの。相手に反発するのは、お門違い。感謝することはあっても、反発する筋合いではない。筋違いなことをしていると、どんどん捻(ね)じれていく。捻じれ捻じれて、そのうちに訳がわからなくなる。糸が絡まってしまう。そうなると、ただ訳もなく反発するだけ。自分のなかの因が、まったく見えない。一つ一つの心の反応を、丁寧に見ていくことだろうか。丁寧に見ていけば、心は徐々に解(ほぐ)れていく。一つ一つ丁寧に絡んだ糸を解していくしかない。最初は時間がかかるが、そのうちに加速度がつく。やるしかない。やらなければ、自由はない。自縄自縛。自分で自分の心を縛っているだけ。生まれてから今日まで、気がつかないうちに自分で自分を縛っている。思い込みという鎖でがんじがらめになっている。これまでは、その事実に気づいていなかっただけ。条件づけられたままに生きてきただけ。環境の産物として、自動的に反応していただけ。人は、環境と自己保存の合体物。自分を守るために環境に適応してきただけ。適応と言うと聞こえはいいが、実は迎合。長いものに巻かれてきただけ。寄らば大樹の陰。安全第一に生きてきただけ。そういうものから、一度、全面的に離れてみる。自分を守っている鎧を、全部外すと・・・どうなるだろうか。裸のままで世間に対したら?ボロボロに傷つくだろうか。傷つくのが怖いから、厚い鎧を被っているのだろうか。このクソ暑い真夏に。大汗を通り越して、冷や汗が出てくる。クール・ビズの時代だというのに・・・部屋も整理整頓すれば、涼しくなる。心のなかも整理整頓すれば、さわやかになる。ただでさえ暑い時期、心身共に整理整頓して軽やかに生きることだろうか。余計なものを手放せば、スッキリして心地よい。整理整頓すれば、部屋が広くなる。物が多いと、暑苦しい。空間が広くなると、なんとなく涼しげな感じになる。心のなかも同じ。空間が必要。空間のない心には、閃きはやって来ない。閃きとは、魂からのメッセージ。ハイアーセルフからのサポート。宇宙空間は、広々としている。そのなかに、ほんの少し星があるだけ。人の心も、本来はそういうもの。広いスペースのなかに、時々、流れ星のように閃くもの。心のなかが常に思いに占領されていては、思いの次元以上のものはやって来れない。静かな空間がないと、スピリチュアルな閃きは届かない。心のなかを整理整頓し、空間をつくることだろうか。空間ができれば、思考を超えた意識が閃く。何もない空間のなかに、無限のものが詰まっている。空間は、無限の玉手箱。必要なものは、何でも入っている。静かに耳をそばだてて聞き出すことだろうか。『クール・ビズ 心のなかも 省エネで 思考減らして 空間開く』『必要の ないものすべて 手放して 軽くなったら 風吹き抜ける』これが日記を書き始めて1301日目の心境。
2008.07.25
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三連休が終わって、少し人が少なくなった屋久島。レンタカーが、かなり車庫に戻っている。しかし、暑さは続いている。夏空の屋久島。昨日も木霊の森へ行った。最近は、木霊の森で瞑想する時間が長くなっている。お客さんが休憩するポイントが、三ヶ所ある。それぞれ30分前後は、休憩する。その間、こちらは石の上で瞑想している。以前は、写真を撮ったりしていた。しかし、もうほとんど撮り尽くしてしまった。後は、瞑想するしかない。森のなかで瞑想すると、沢の振動が全身に伝わる。鳥の声が響き、蝉が一斉に鳴き出す。何やら騒がしいと思ったら、背後にサルがずらりと並んでいたこともある。森は、豊か。心のなかの想いが消えると、心は大きくなる。小さな自我より一回り大きな意識になる。それは、ハイアーセルフの意識だろうか。魂は、もっと大きい。意識が広がると、時に感動したりもする。やっとここまで来たという感じだろうか。自我ではない意識が、定着しつつある。とても安定した大きな意識。自我的な喜びはない。ハラハラドキドキもない。ただ大きい。大きく包み込む感じ。そういう意識が、心を支配しつつある。もちろん、まだ自我の意識もある。この世的な喜怒哀楽もないことはない。ギャルを見て喜んだりもしている。しかし、それはご愛嬌。付録。オマケという感じ。時々は刺激があってもいい。静かな意識が、ゆっくりと浸透してきている。やがて、それがメインの意識になるだろう。自我は、徐々に隅に追いやられていく。自我が生き残る術(すべ)はない。意識が大きく変わっていく。自我から一回り大きな意識に転換していく。そうやって、新しい人生が始まる。自我を超えた人生。本来の大きな意識が、顕在意識に浸透してきている。これまでは、三次元的な限られた意識だった。自分の人生経験をベースにした意識。たかだか数十年の経験に基づいた意識。その意識を大きく包むように、本来のスピリチュアルな意識が浸透してきている。三次元を生きるには、三次元の意識も必要。しかし、それだけでは、限界がある。もっと大きな視野が必要な時。小さな自我に限定された意識ではなく、もっと全体と繋がった意識。そういう意識に軸足を移す時が近づいている。静かに自分自身といれば、それは自然に起きてくる。自分自身と一緒にいる静かな時間が必要。静かに静かに自分自身と一緒にいれば、自然に意識の転換が起きる。大きな本来の意識が降りてくる。本来の自分自身となる。安定した不動の自分自身となる。全体と繋がり、不安や心配のない自分自身となっていく。孤立した自我から、ゆるやかに全体と繋がった意識に変わっていく。着実に意識の変容が起きている。これから更に加速度がつく。『沢の音 鳥の囀(さえず)り 蝉(せみ)の声 森で座れば 意識広がる』これが日記を書き始めて1298日目の心境。
2008.07.22
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暑い日が続いている屋久島。三連休で、屋久島はものすごい観光客の群。レンタカーが、出払うほど。山だけでなく、里でも観光客の姿をよく見かける。今年も昨年以上の屋久島ブームらしい。特に今年は燃料費の高騰で海外旅行が敬遠された分、国内が増加している様子。白谷雲水峡の駐車場も路上駐車の列。森の中も人ばかり。今日は、久しぶりのお休み。自宅にいると、暑い。パソコンの前に座っているだけで、汗が滴(したた)り落ちる。一日に何度シャワーを浴びることか。もっとも、天気が良いので洗濯ものは、すぐに乾く。汗が出る分、洗濯する回数も多くなる。暑い暑い屋久島も、朝夕は涼しい。さわやかな朝が続いている。最近は、あまり水晶を買わなくなった。買いたいのだが、買いたい水晶がない。これまで、いろんな水晶をたくさん買ってきた。そのため、だんだんハードルが高くなってきている。よほどのものでないと、買いたいという気にならない。お金はある。仕事が続いているので、水晶を買う余裕はある。にもかかわらず、買いたい水晶が見つからない。水晶が買えないので、ここのところ生活用品を購入している。屋久島へ来て丸5年が過ぎ、買い替えの時期に差し掛かっている。まず、FAX電話の子機が壊れてしまった。新たにコードレスの電話機を購入。FAXが届くのは、年に何回もない。今は、ほとんどがメール。使用することも稀なので、FAXなしにすることにした。小さな電話機になって、スッキリさわやか。次に、イスを買い換えた。これまでのイスは、リラックスし過ぎ。もう少し姿勢のいいものに変更。色もスタイルもアップ。それから、レースのカーテンをすべてUVカットに変更。これは、水晶を紫外線から守るため。次は、ガス台。これは、ここへ来た時からあったもの。もう鉄の部分がボロボロで、やっと鍋を置ける程度。もう完全に寿命。こちらは、業務用の強烈なガスレンジに変更。次は、冷蔵庫。こちらは、まだ使える。実際、まだ使っている。しかし、小さいので不便。120Lを225Lに変更。屋久島で買うと、49800円。ネットで買うと、37700円。あまりにも違うので、ネットで買うことにした。電話機もイスも、カーテンもガスレンジも、すべてネットで購入。屋久島にもあることはあるが、やはり高い。ネットは、安い。どうしてもネットで購入する機会が多くなる。ネットなしでは暮らせない屋久島。最後は、鏡を買った。これまであったものは、顔を見るだけの20cm程度のもの。全身を見れるものが、ほしかった。今回届いたものは、150cmもある。これで、もう紅顔の美少年と言い張ることもなくなるだろう。自分自身を直視すれば、どう見ても厚顔の美少年。お腹の出ている紅顔の美少年などいるはずもない。いやいや、髪の毛が薄い厚顔の美少年なら、ここにいる。いやでも、ありのままの自分自身を見ることになる。しかし、その結果、体の歪みなどもよくわかる。直視しなければ、いつまでも気づかない。目を逸らして妄想の世界に生きてもしかたがない。事実ベース。それは、肉体に限らない。心のなかも直視する必要がある。しかし、心のなかを見れる鏡はない。姿形は、ありのままを見れる。しかし、自分の心は、なかなか見れない。心のなかを直視しない限り、心の歪みはわからない。心が歪んだままでは、人生も歪んでしまう。真っ直ぐな人生を生きれずに、右往左往することになる。右にぶつかり左にぶつかり、傷つきボロボロの人生となる。自分の心のなかを鏡のように見れれば、対処のしようもある。さて、では、どうしたらいいのだろうか。自分の心を映す鏡は、ある。それは、自分の目の前にいる人。人は、自分の鏡。相手を見れば、自分がわかる。相手がどのように見えるか。それが、自分の心の鏡。相手の状態は、自分の状態。相手によって自分の心が、どのように反応するか。相手を見ているつもりが、実は自分を見ている。自分のフィルターを通して相手を見ている。相手の姿は、自分のフィルターの投影。相手の姿は、実は自分が解釈している相手。相手そのものではなく、自分が解釈し判断した相手を見ている。だから、相手の姿は、実は自分自身の心の投影。相手を見ているつもりが、実は自分を見ていることに。自分の解釈や判断のパターンで相手を見ているだけ。心が透明であれば、相手の姿がそのまま映る。それは、きれいな鏡と同じ。心が澄み切れば、事実としての相手がいるだけ。解釈も判断もない。良いも悪いもない。美しいも醜いもない。ただ事実がある。その人がいるだけ。心のなかが動く時は、自分の心のなかを見る時。心の動きが、心の歪み。それを見極める。しっかりと自覚する。明確に自覚されれば、心は自然に真っ直ぐになっていく。鏡に映った歪んだ自分の姿を見れば、誰でも姿勢を正す。自然にそうする。それが、自然な動き。心の歪みが自覚されれば、自然に真っ直ぐにしようとする。それが、自然。素直。あるがまま。人と対峙した時に、自分の心の動きを自覚することだろうか。自覚しながらコミュニケーションすることだろうか。そのなかで自分のパターンを自覚することだろうか。自分の偏りを直視することだろうか。ありのままの自分を見る。鏡で肉体を見るように、相手を通して自分の心を見る。良いも悪いもない。事実を見極める。解釈し判断し、独り悦に入ってる自分。相手を否定することによって、自分を肯定する癖。悪いのは、いつも相手。自分は、いつも正しい。自己正当化によって、自分を維持しようとするパターン。アイデンティティを保つための自己正当化。心のなかで、いつもブツブツ相手を非難し、自己正当化している。それもまた自己保存の一つのパターン。根深い根深い自己保存の本能と思考のドッキング。気がつけば、ほとんどのパターンが、ここから生じている。自分を守るために、相手を否定したり、自己主張したり。逆に、自己を卑下し、自分を弱者にして自分を守ろうとすることもある。自己保存のパターンは、たくさんある。被害者になって、自己正当化することもある。どんな状況であれ、自己正当化を試みる。自分を守るためには、ありとあらゆる手を使う。心の歪みは、すべて自己保存から来ている。単純な歪みもあれば、複雑に錯綜した歪みもある。複雑過ぎて簡単には見極めがつかないものもある。人の心は、複雑怪奇。しかし、そのルーツを訪ねれば、すべて自己保存に行き着く。すべては、自分を守るため。自己保存の本能と思考のドッキング。そこを見極めることだろうか。自己保存の本能も思考も否定することはない。ただ事実を見極める。自分の心の仕組みを知る。しっかり自覚する。明確に自覚されれば、それなりの行動が起きる。自分を知らないから、自分を苦しめる行為を繰り返す。心の鏡を持っていないから、自分の心がわからない。相手を見て、自分の心を知る。相手は、自分の鏡。相手を見ながら、自分の心のなかを見守る。心が動けば、注意する必要がある。しっかり注意しながら見守る。『人を見て 自分の心 見守れば 人は自分の 心の鏡』これが日記を書き始めて1296日目の心境。
2008.07.20
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今日から「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、水晶祭りが始まっている。今回は、獅子座の水晶祭り。獅子座の守護星は、太陽。太陽系の中心。すべての中心にあるのが、獅子座。そのため、獅子座は王者の星とされている。牡羊座は、誕生した生命が生きようとする意志。牡牛座は、誕生した生命が若葉のように伸びようとする時期。双子座で、好奇心が芽生える。蟹座で、感受性が開き始める。そして、獅子座で自我が生まれる。中心とは、自我でもある。獅子座の人は、親分肌。面倒見がいい。度量も大きい。しかし・・・その思いやりは、自己中心的。自分のフィルターを通した親切。相手の立場に立った思いやりではない。王様や女王様には、それは期待できない。施してやるというスタンス。世話をしてやる、面倒を見てやるという感じ。上からの視線。まとめ役。王様や女王様なので、リーダーシップは抜群。すぐにグループのリーダーになる。みんなの中心にいる人。創造性もある。獅子座の180度の対極にあるのは、水瓶座。水瓶座は、獅子座の逆で、対等であり平等。獅子座は、縦の関係。水瓶座は、横の関係。獅子座は、ピラミッドの頂点に君臨する。水瓶座は、どこまでも対等。支配・被支配という関係性はない。どこまでも友達。これからの時代は、水瓶座の時代。獅子座の上下関係の時代は、古い名残り。上から命令して従わせる時代ではない。理由を説明して納得させなければ、従わせることはできない。理解を通して自分から行動する時代。これからは、そういうふうにしていかないと、すべて成り立たない。上下関係で命令しても、誰も従わない。相手を対等に尊重しないと、動いてくれない。親子関係とか師弟関係とか、上下関係が必要な時期もある。しかし、大人になれば、そういう関係は必要ではなくなる。自立し、対等に生きる時。それが、これからの時代。これまでは、グルやメシアも存在価値があった。しかし、これからは、一人一人がグルでありメシアになる時代。いつまでもグルやメシアを求めている人は、時代錯誤。過去世のノスタルジーに浸っているだけ。そういう意味で、宗教も必要ではなくなる。宗教者を介して信仰する時代は終わった。これからは、直接、神と接する時代。一人一人が、内なる神に目覚める時代。人は、自分のなかに限りない可能性を秘めている。いろんな体験をすることによって、その可能性を目覚めさせていく。獅子座の体験も必要。水瓶座の体験も必要。人がいろんな星座を体験するように、宇宙もいろんな星座を体験している。人も宇宙も似たようなもの。スケールが違うだけ。いろんなものを体験し、豊かに花開いているだけ。いろんな水晶がある。いろんな水晶を手にすることで、自分のなかのいろんな可能性が開く。各星座の水晶祭りは、自分のなかに眠っている可能性を目覚めさせるのに役に立つ。それだけでなく、水晶ネットワークにも繋がる。水晶ネットワークは、地球上の巨石ネットワークとも繋がっている。光の宇宙ネットワークとも繋がっている。地球を光で覆う光のネットワーク。そのアンテナとなる。今回の水晶祭りは、ゴールドルチルクオーツが多い。ゴールドルチルこそは、まさに宇宙のアンテナ。水晶本体もアンテナ。ゴールドルチルクオーツは、アンテナのなかに、またアンテナがある感じ。ゴールドルチルクオーツは、第三チャクラ的にも使える。自我的、この世的に使えば、リーダーシップを強めることができる。この世の現実を望み通りに創造することもできる。勘が鋭くなって、金運にも恵まれる。第七チャクラ的に使えば、宇宙と繋がることができる。本来の霊的なエネルギーが、頭頂から降りてくる。自分の本心と出会っていく。スピリチュアルな本来の自分自身に目覚めていく。ゴールドルチルクオーツは、自我を強化することもできるし、霊性を強めることもできる。水晶自体は、ニュートラル。活用する本人しだい。どういうつもりで水晶を手にするかで、水晶はいかようにもサポートしてくれる。水晶も、それ自体のなかにいろんな可能性を秘めている。それをどこまで引き出せるかは、持つ人にかかっている。高価な水晶を持てばいいというものではない。やはり、最後は本人しだい。本人の心掛けしだい。自分の人生は、自分が決めるもの。どのように生きたいか、それによって選ぶ水晶も違ってくる。自分自身の方向性をはっきりさせることだろうか。生きる方向性を明確にすれば、水晶たちもサポートしやすくなる。水晶は、確実にサポートしてくれる。水晶と、どこまで同調できるか。水晶が持つ可能性を、どこまで解き放つことができるか。小さな水晶でも、ものすごいパワーを秘めている。人も、同じ。無限の可能性を秘めている。水晶と一緒に、その無限の可能性を花開かせることだろうか。『人もまた 宇宙と同じ いろいろな 星座巡(めぐ)って 花開かせる』『水晶の なかに秘めたる 可能性 開かせるのは 持つ人しだい』『水晶と 共に咲かせる 夢の花 大きな花を 咲かせ楽しむ』これが日記を書き始めて1294日目の心境。
2008.07.18
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さわやかな朝が続いている屋久島。今日で13日、晴れた朝になっている。子供の頃の夏休みの朝を思い出す。いつもこのような感じだった。本能は、問題ない。いくら食べても限度がある。セックスし続ければ、死んでしまう。12時間も寝続ければ、いい加減起きたくなる。本能は、満たされれば収まる。問題は、本能ではない。問題は、本能とドッキングした思考。こちらは、際限がない。生活費に困らなくなっても、更にお金を欲しがる。きれいな衣服が手に入れば、もっときれいなものを求める。すてきな異性を求めて、妄想は果てしない。生活の安定のために、どこまでも地位の上昇を願う。一日中食べ続けることはできないが、一日中美味しいものの妄想に耽ることはできる。一日中セックスはできないが、一日中美しい相手を妄想することはできる。本能は限りがあるが、欲望は果てしない。本能に思考が加わる時、本能は欲望に変身する。しかし、思考は科学技術も生み出す。生活を便利にする。使い方によっては、役に立つ。使い方を間違えれば、自己を破滅させる。不安や恐怖を増幅するのも思考。追い詰められて自殺に至らしめるのも思考。妄想と現実を錯覚して凶悪事件を引き起こすのも思考。考え過ぎて病気になるのも思考。思考の功罪。思考に振り回されれば、身を滅ぼす。思考の性質を理解して使いこなすしかない。理解がなければ、思考の虜(とりこ)になる。本能と思考が合体すれば、自己中心的な自我となる。自分勝手な振る舞いは、ここから生まれる。本能は限界があるが、思考ベースの欲望は限界がない。それが地球や人類を滅ぼす。恐怖に駆られ軍備を増強し、戦争を始める。食料を奪い合い、隣人が餓死しても知らんふり。ほとんど本能レベル。いや、本能以下。地獄というのは、本能と思考のドッキングによって生まれる。自分さえよければいいというのが、地獄。お互いに苦しめ合うのが、地獄。自分勝手は、結局、自分を苦しめる。まだまだ人類は、未熟。理解の程度が、低い。思考に翻弄されている段階。深い意識が、まだ表面に出ていない。本能を理解し、思考を理解し、欲望を理解する。自分自身を通して理解する。深く理解して超えていく。もう超える時期。いつまでも思考に翻弄されている場合ではない。思考を超えた意識を確立する時。自分の裡に輝くものを自覚する時。裡なる真実で生きる時。冷静に、霊性に生きる時。見守り、見極め生きる時。これまでの惰性を超えて生きる時。新しい意識で生きる時。『理解して 思考の次元 超えていく 超えねば次の 時代開かず』『現実を 静かに深く 理解する 深い意識が 現われるほど』『冷静に 理解する時 そのなかで 霊性目覚め 深まっていく』『自らの 意識の奥に 揺るぎない 不動の意識 息づいている』これが日記を書き始めて1288日目の心境。
2008.07.12
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今日も晴れている屋久島。これで12日間、晴が続いている。もっとも、昨日は午後から少し雨が降った。ほんの少し緑が元気になったような・・・今日も朝から洗濯。ゴミを三袋出すと、だいぶ部屋がスッキリした。明日、雑誌と新聞を出す。それで更にスッキリするだろう。手放すと、スッキリする。暑い時は、手放すに限る。部屋が広くなって、風が通る感じ。必要のないものは、どんどん整理整頓。人類は、身の安全を守るために、いろんなものを所有してきた。所有することが、安全に繋がると思い込んでいた。それは、物に限らず、知識や地位や名誉も含まれる。衣食住の有形のものから、無形のものへ所有は拡大する。ベースにあるのは、自己保存の本能。肉体的な自己保存の本能が、自我の基盤。自己保存の本能と思考のドッキング。それが、自我というモンスターを生み出す。生まれ出たモンスターは、どんどん自己増殖しようとする。モンスターの前途を阻むものは、別のモンスター。モンスター同士の争いが起こる。支配・被支配の歴史が始まる。自分の存在を維持することは、自分を主張すること。それは、赤子を見れば一目瞭然。お腹が空いては泣き、オシッコをしては泣く。自己主張は、生命を維持するために欠かせないもの。しかし、それだけでは、自己主張同士がぶつかってしまう。幼児は、よくケンカをする。自己主張のぶつかり合い。子供の間は、それも可愛い。しかし、大人になると、そうも言っていられない。自己を主張するあまり、相手を抹殺しようとする。争いや戦争が起きる。大人になっても、子供の頃と意識構造は変わっていない。自己保存、自己主張、自我の拡大…身の安全のために、自我はテリトリーを広げていく。食料を確保し、衣服を確保し、家を確保し・・・更なる安全のために、地位や名誉や財産までも欲する。知識を求め、権力を求め、絶対安心を求める。しかし、その延長線上には、絶対安心はない。なぜなら、お互いが絶対安心を求めて自己主張し合えば、絶対安心は常に脅かされる。支配し続けるためには、常に危険と背中合わせに生きるしかない。絶対安心を求める自我は、悟りに方向転換する。しかし、自己の安全のみに関心がある自我にとって、悟りは遠い。なぜなら、悟りとは、差を取ること。差とは、自我そのもの。悟りとは、差=個別性を超えること。つまり、自我を解脱すること。自我からの自由こそが、悟り。自我にとっては、あり得ない選択。自己の存在を否定することが、悟り。そうなると、自我の存在基盤が崩壊する。自我は、自我を放棄できない。自我は、ここで行き詰る。自我のままでは、この世界は変わらない。お互いに己が身の安全だけを求め続ければ、安全は確保できない。そこを理解する必要がある。子供の意識から脱却する必要がある。権力闘争をしているのは、子供のままの大人。ほとんど猿山のボス争いと変わらない。そういう次元を超えるしかない。自己保存の本能と思考の合体構造を理解して超えていく。深く静かな意識で、思考を超えていく。理解を通して、思考を超えていく。静かに深く理解するプロセスを通して、深い意識は目覚めていく。それが、自我を超えていく意識。自我というものを、深く深く理解することだろうか。そして、それを超えていくことだろうか。超えれば、別の世界が広がる。別の生き方が展開する。まだ四年ある。もう四年しかない。いずれにしても、残されている時間は、ほぼ四年。その間に、理解し、超えていくしかない。他に選択肢はない。超えるしかない道。自我を理解し、自我を超える。道は、光の一本道。『本能と 思考が一つに 合体し 自己中心の 自我が生まれる』『身を守る ために争い 様々な ドラマ演じて 生きてきた日々』『身を守る ために支配し 所有して 生きてきたのが 自我人類史』『本当は 自我は幻 モンスター 思考がつくる 仮想空間』『理解して 超えるしかない 自我の道 今のままでは もう行き詰る』『自我を超え 光へ続く 道一つ 他に選べる 道は見えない』これが日記を書き始めて1287日目の心境。
2008.07.11
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今日も屋久島は、晴れている。今日で11日連続の晴。ここまで続くと、スッキリさわやかとはいかない。暑い!今日も朝から洗濯をしている。毎日、毎日、洗濯。そして、部屋の片づけも続いている。連日、整理整頓。しばらく時間を置くと、必要のないものがはっきりする。長いこと使っていないものは、必要のないもの。そういうものは、処分する。どちらか迷うものは、もうしばらく取っておく。整理して整理して整理しまくる。極力シンプルにする。新しい風は、空っぽの容器にしか入って来ない。中身が詰まっていては、新鮮な風は期待できない。定期的に整理整頓を繰り返す必要がある。部屋も、ゴミやホコリが積もる。定期的に掃除する必要が生じる。心も体も家も、まったく同じ。詰まったなと思ったら、掃除する。溜まったなと思ったら、整理整頓する。常に風通しをよくする。それには、絶対量を減らす必要がある。あまり所有しない。何でも少なめがいい。身軽な方がいい。楽に生きれる。価値観が、逆転する。これまでは、できるだけ多く持つことが価値があった。お金も土地も物も・・・それは、自我の拡大に他ならない。囲い込み、所有し、自己を拡大する。名誉も地位も財産も、できるだけ多い方がよかった。それは、自我の支配であり、権力でもあった。そうやって、延々と自我を強化してきた。しかし、所有すればするほど、不自由になった。所有したものに縛られる。身軽に動けなくなる。周りに縛られた不自由な暮らしとなる。今のお金持ちは、忙しい人が多い。時間に追われ、時間に縛られている。お金を使う暇もないほど。財産がたくさんある人も、その管理に汲々としている。あり過ぎると、盗まれる心配をしなければならない。それは、自分が囲い込み過ぎたから。他の人の分まで独り占めしたから。欲張り過ぎたから。頭のなかに観念を詰め込み過ぎると、頭は石頭になる。体のなかに余計なものを詰め込み過ぎても、体は自由に動かなくなる。家のなかに物が多過ぎると、くつろげる空間が狭くなる。何事も、過ぎたるは及ばざるが如し。少なければ少ないほど、自由。頭のなかの観念も、体のなかの必要以上の肉も、物も。地位も名誉も財産も。自分を縛るものを手放すと、楽に生きていける。見栄や世間体を手放せば、楽なことこの上ない。周りからどう見られるか、どう思われるかを手放せば、行動の自由を確保できる。思い込みという観念が、自分を縛る。余計な観念は、整理整頓した方がいい。極力少なめに。極力手放す。極力所有しない。極力何も持たない。時代が、逆転する。自我の拡大から、自我の解放に転換する。価値観が、180度変わる。所有することから、所有しないことのすばらしさに目覚める。必要最小限。身軽な生き方が、これからのトレンド。余計な柵(しがらみ)を極力持たないのが、時代の流れ。軽やかに、さわやかに生きるのが、新しい生き方。整理整頓。心も体も物質も。不必要なものを手放して、ライトになる。ライトになって、さわやかに生きる。『不安から 貯め込む時は 貯め込めば 貯め込むほどに 不安増すのみ』『外側の 何かにすがり 安心を 得ようとすれば 依存増すのみ』『果てしなく 貯め込むことで 安心を 手にすることは 無理な相談』『不安ある 限りは安心 どこまでも 追い求めても 得ること難(かた)し』『安心は 不安を超えた 何もない 思いを超えた 空間にある』『必要の ないものすべて 手放して 身軽になって 楽に生きゆく』『所有する ことは重たい 荷を背負い 苦しみながら 登る山道』『手放して 身軽になれば 楽々と 山川超えて 景色楽しむ』これが日記を書き始めて1286日目の心境。
2008.07.10
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今日も屋久島は、晴れている。しかし、山の方は、少し靄がかかっている。今日で10日連続の晴。これでは、苔も乾いてしまう。こちらは、連日、大掃除をしている。今日は、台所を掃除した。年末でも大掃除はしないのに、どうしたことだろう?そう言えば、マヤ歴では今月が年末。別にマヤ歴で暮らしているわけではない。しかし、しばらく掃除が続きそう。いらないものを、どんどん処分している。台所が、ずいぶんスッキリした。余計なものがなくなれば、いろんなことがスムーズに運ぶ。整理整頓は、心身をシンプルにしてくれる。スッキリさわやか、軽やかに生きれる。心のなかに空間が広がる。情念の時代が、終わろうとしている。感情と思考のドッキングによって生まれる情念。過去への恨み辛み。怨恨であり執着。それは、まさに演歌の世界。アクエリアスの時代に演歌は似合わない。アクエリアスの時代に完全になった時、演歌は過去の遺物と化しているだろう。後ろを振り向いて生きる時代ではない。重たいものを背負って生きる時代でもない。重たい過去は、すべて整理整頓。身軽に生きる時代。情念は、すべて過去ベース。満たされなかった想い。完了できなかった想い。心のなかで引っ掛かっている思い。まだ引きずっている囚われ。そういうものが、演歌の題材となる。しかし、アクエリアスの時代に、そういうものは必要ない。後ろ髪を引かれながら生きる時代ではない。想いを一切手放して生きる時代。想いを握ってしまえば、不自由。縛られ、囚われる。まるで想いの囚人。頭は、想いに占領される。頭は、常に空っぽ。必要な時だけ、頭を使う。記憶は、必要な時だけ取り出すデーターバンク。意識のポイントは、常に今ここ。これまでは、想いや感情と一体化して生きてきた。想いや感情を自分自身だと思っていた。しかし、それは自分自身ではなかった。意識の一部でしかなかった。そういう想いや感情ベースの生き方が、転換する。それらを超えたクリアーな意識で生きるようになる。常に今ここの意識。透き通るような意識。想いや感情と自己同一化した時代は、やがて終わる。情念の時代は、既に過去。クリアーな意識の時代になる。透明でピュアーな意識の時代になる。すみやかに想いから離れることだろうか。人類の残留想念の磁場から自由になることだろうか。一切の思いから遠離し、想いを超えた次元で生きる。想いに使われるのではなく、想いを自由に使いこなして生きる。『整理する ことですべてが 整列し 空間できて 風吹き抜ける』『何もない 空間こそが 透明な 意識のベース 想念以前』これが日記を書き始めて1285日目の心境。
2008.07.09
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屋久島は、夏本番。連日、暑い日が続いている。庭では、ハマユウが咲き出した。甘い香りがしている。昨日から部屋の整理を始めている。なぜだかわからない。何年ぶりかでカーテンを洗濯している。布団カバーもシーツも洗濯。タオルやシーツや布団カバーなどを、オーガニックコットンに替えようとしている。値段が高いのと、これまで使っていたものがあるので、一度にすべてというわけにはいかない。しかし、基本的にはオーガニックコットンに変更するつもりでいる。これまで使っていたものは、順に処分することになる。農薬や化学肥料を使っていないオーガニックコットンは、肌にやさしい。綿本来のふんわりとしたやわらかさがある。もちろん、地球にもやさしい。作る人にも動植物にもやさしい。そういうものを使っていきたいと思う。食事は、基本的にそのようなものが多い。衣類も、できるだけそういう方向にしていきたいと思っている。ただ、価格が高い。それは、食べものも同じ。質を重視するしかない。やさしさを大切にするしかない。できるだけ自然なものを身近に置きたいと思う。着るものは、ほとんど綿100。でも、オーガニックなものは少ない。その理由は、種類が少ないのと、価格が高いから。でも、だいぶ種類も増えてきた。できるだけ植物性のもので、オーガニックなものにしたいと思っている。その方が、自然で、やさしい。違和感が少ない。ナチュラルな感じがする。心身に近いということだろうか。心身の本来の波動に近いということだろうか。オーガニックで植物性のものが、本来のやさしさに近いような気がする。赤ちゃんの肌にやさしい感じ。赤ちゃんの無垢の心身には、オーガニックなふわふわがよく似合う。それが、人の本来性だろうか。やさしさ、やわらかさ。そんな感じがする。整理して、整理して、シンプルになる。シンプルな本来の状態に戻る。自然と共に自然に生きる。素朴なコットンがいい。『大地にも 作る人にも 着る身にも オーガニックの 綿はやさしい』『整理して オーガニックに シンプルに 素朴に自然に 生きてゆくだけ』これが日記を書き始めて1284日目の心境。
2008.07.08
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今日の屋久島は、朝から晴れ上がっている。これは、夏の朝の感じ。つまり、もう梅雨は明けたに違いない。6月30日から天気が一変した。「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、シャクナゲのスライドショーがアップされている。2008年バージョンの屋久島のシャクナゲ。以前のシャクナゲのスライドショーとは、一味違う。今回は、巨木に宿っているシャクナゲが多い。前回は、晴の日のシャクナゲ。今回は、霧のなかのシャクナゲ。雰囲気が、まるで異なる。一見の価値あり。ここのところ、連日、水晶が届いている。数を減らす予定が、なかなか減らない。冬場になれば、これが生活費になるので・・・と言い訳するしかない。しかし、世の中には、すばらしい水晶があるもの。次々とすてきな水晶が届く。今回、特に目を惹いたのは、シトリンとカテドラルクオーツ。それに、エメラルドの原石。シトリンは、小さい。6cm程度。しかし、ほぼ完璧。非の打ちどころがない。トップもファセットもきれい。透明度抜群。照りも最高。その上、レインボーまで出る。色は、濃い。黄色というより、スモーキーに近い。なんとも言えない気品がある。これは、最高レベルのシトリン。サイトの解説にも、そのように書かれていた。しかし、実物は、眼を瞠(みは)るものがあった。自宅にあるシトリンのなかでは、最高の美しさ。これまで見たなかでも、たぶん最高。カテドラルクオーツは、大きい。16cm以上もある。こちらも、スモーキー。しかし、透明度抜群。上から下まで透き通っている。それより何より、形がすばらしい。まるでカテドラルクオーツの見本みたい。まさに、これぞカテドラル!よくもまあ、こんなに美しいカテドラルがあったものだと思う。形、照り、透明度・・・こちらも非の打ちどころがない。実にすばらしいカテドラルクオーツ。これを購入したサイトは、高級品を専門に扱うところ。数十万円のものが多い。ところが、このカテドラルは、一桁安かった。最初は、我が目を疑った。ここのサイトなら、この十倍でもおかしくはない。ほとんど奇跡と言えるほどの価格。もちろん、他のサイトに比べれば、これでも高い。しかし、ここは質がいい。質の良いものばかりを扱っているので、安心して購入できる。まず失敗はない。但し、かなりの出費を覚悟しなければならない。それでも、出費に見合ったものは届く。安いけれども質の悪いものが送られてくるところもある。ネットで購入することは、冒険すること。実物を見ないで買うので、外れることも少なくない。でも、たまにこのような大当たりもある。シトリンの方も、半年ぶりのアップだった。以前からすてきな水晶をアップするサイトで、目を付けていたもの。時々チェックして、やっと買えた感じ。こちらも奇跡に近い。もう一つのエメラルドの原石も、すばらしく美しい。エメラルドの宝石を買えば、数十万円はする。そういうものに興味はない。原石がいい。しかし、これまで美しい原石は、あまり見かけなかった。稀に見かけると、既に売り切れていた。宝石のように透明感があって、形もきれいに結晶しているものは、なかなかない。ずっと探していた。それが、遂に発見された。届くまで不安だったが、届いたものは、実にすばらしかった。これが、求めていたもの。1cmほどの小さなものだが、透明感抜群。形もきれいに六角形に結晶している。色は薄めだが、美しいグリーン。何も文句はない。敢えて言えば、もう少し大きなものがほしいかな・・・すばらしい石たちが、次から次にやって来る。ありがたいと思う。これだけすばらしいものが届くのは、ほとんど奇跡に近いのではないだろうか。尋常ではない気がする。無理に探し回って購入すると、なんとなくイマイチなものが多い。突然、降って湧いたように現れるものには、奇跡を感じさせるものがある。やはり、自我で無理をしないことだろうか。静かに待つということだろうか。必要なものは、必ずやって来る。それを静かに迎え入れる。心の豊かさが、豊かなものを惹きつける。心が貧しいと、貧しいものしかやって来ない。焦らない。慌てない。しっかりグランディングする。静かに落ち着いてチャンスを待つ。そういう時に、すてきな出会いがある。ゆっくり、じっくり、味わいながら生きることだろうか。自我で力まかせに生きないことだろうか。天の時を待つことだろうか。奇跡のような水晶たちが、どんどん増えている。そして、旅立ってもいる。蟹座の水晶祭りのお礼のメールが、続々と入っている。今回は、特に喜ばれているのが伝わってくる。透明感のあるすばらしい水晶たちが、たくさん旅立った。行った先で歓迎されているのがわかる。奇跡が届き、奇跡を送り出す。奇跡の循環になるよう、これからも心掛けたいと思う。それには、心静かに生きる必要がある。表面のカサカサした心では、奇跡のような水晶には出会えない。静かな深い心だけが、奇跡を生み出す。静かな歓喜(よろこび)の心が、奇跡を呼び寄せる。これから暑い夏になる。森の中は、涼しい。滝のミストは、最高。海で熱帯魚と泳ぐのもいい。自然のなかで水晶と暮らしている。澄んだ空気を吸い、美味しい水を飲む。何も不満はない。ただ美しい。『すばらしい 水晶世界に 存在し 縁に惹かれて 屋久島へ来る』『奇跡とは 求め求めて いたものに 突然出会う 夢の実現』『奇跡呼ぶ 心は静か その奥に 喜びを待つ 歓喜渦巻く』これが日記を書き始めて1278日目の心境。
2008.07.02
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