2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全2件 (2件中 1-2件目)
1
◇「東部軍管区に於ける不祥事件」/「陸軍の終戦日記─軍務課『機密終戦日誌』」(抜粋) 1 水戸教導航空通信師団の一部将校の東京における不穏事件 (略) 2 川口放送所占拠事件 (略) 3 その他の不穏の状況 宮城占據事件、上野公園占據部隊の事件、川口放送所占據事件の外終戦前後の世情は騒然たるものがあり、種々の流言が飛び蜚語が交わされた終戦に際し、東部軍として懸念したことは、 1 隷下兵団が承詔必謹の實を擧げ平穏に復員するかどうか 2 帝都の静謐が保たれるかどうか の二点であった。軍隊の動静については近衛師団事件以外は大なる問題は起こらなかったのであるが、只東京湾兵団の動きが悄々懸念せられた。即ち、終戦に決する頃から該兵団司令部内の空気は抗戦継続に傾きつつあるやに察せられたが、やがて東京湾兵団参謀中島憲一郎中佐が単身上京し、陸軍省あたりの徹底抗戦派の少壮将校とひそかに連絡を執りつつ策動しありとの情報が東部軍司令部に齎された。この頃東京湾兵団より東部軍司令部に打たれた意見具申の電文中にも相当激烈な文字を連ねて抗戦継続が主張せられていたのであるが、十五の終戦放送があった後も、中島参謀の不穏の動きが続けられた。東部軍司令官は東京湾兵団の以上の如き動静が果して該兵団司令官大場四平中将の考えより発しているものか、或は中島参謀等個人の主張に過ぎないものかの判断に迷ひ、不破参謀を該兵団に急派して真相糾明に当らしめた。然るに終戦直後の交通網は、敵の爆弾により至るところ遮断せられ、鉄橋、道路橋の主要なものは何れも墜されていたので、自動車で急行した不破参謀は、遂に館山の兵団司令部に到着し得ず空しく引返した。 その後も東部軍としては東京湾兵団の動きに絶えず注目していたが、やがて中島参謀も行方不明となり、兵団司令部の動静も鎮まったので、東部軍としても愁眉を開いたのである。 その外の諸兵団においては、何等心配する程のこともなく何れも整齊と復員して行った。只第三十六軍隷下の第二百二師団は師団長片倉哀少将の日頃の性格、言動から、彼は「5文字伏字」との懸念も持たれたのであるが、終戦に決した直後只一度教鞭なる意見具申の電報を寄越したのみで、その後は具体的な動きを見せなかった。 兵団の動向は以上の通りであったが、帝都の静謐については既述の事件の外に、予備役陸軍大尉佐々木武雄の指揮する部隊による首相官邸及その私邸並に平沼男爵邸の三ヶ所の焼打事件等があり、物情騒然たる有様で、東部軍司令部としても今後いつ如何なる突発事件が起るやも知れず、或は東部司令部自体が襲撃の目標になることも察せられたので、司令部の警戒を厳にして不測の事態に備えたのであった。 かくて終戦の御放送を境として、戦時中の緊張より解放せられた部隊及国民は、やがて無条件降伏の不安と混乱との中に連合軍の厚木進駐を迎えたが、やがて戦犯者の逮捕、共産黨の蹶起等敗戦に伴う不幸が次々に具体化して行った。─「敗戦の記録」〓勝手に独断と偏見〓・宮城事件/ウィキペディアによると 宮城事件(きゅうじょうじけん)とは、1945年8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。 日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺もしくは逮捕され、日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。─ 政府・軍部・マスメディアで進めてきた本土決戦の慣性は巨大、本音は天皇が騙されているの感覚か負けを認めたくないのか海軍に依存しない戦いを行いたいのか、2.26事件の再現を恐怖してきた指導部。 「敗戦の記録」では「東部軍として懸念したことは、 1 隷下兵団が承詔必謹の實を擧げ平穏に復員するかどうか 2 帝都の静謐が保たれるかどうか」 と、戦争継続に加担しないを主張。 しかし、不破参謀が自動車で「館山の兵団司令部」に到着できない状態で本土決戦で良い結果を得られるの感覚を陸軍は持っていたのだろうか。 「平沼男爵邸・・・の焼打事件」に関しては「昭和天皇独白録」に以下の記述がある。 「平沼の私邸も焼かれた、平沼は陸軍に巧言、美辞を並べ乍ら、陸軍から攻撃される不思議な人だ」 「昭和天皇独白録」で昭和天皇は平沼を嫌っているが利用しているのスタンスの記述。
2013.04.29
コメント(0)
(前項より) 9 午后1時より3時迄閣議あり。其の後は、課員以上全員を第一会議室を集め、左の趣旨の訓示を為せり。 本日午前最高戦争指導会議構成員及閣僚を御召し遊ばされ、御聖断に依りポツダム宣言内容の大要を受諾することとせらる。其の時 御上には此の上戦争遂行の見込なきことを述べられ、無辜の民を苦しめるに忍びず。明治天皇の三国干渉の時の必境を以て和平に御決心遊ばされ、一時如何なる屈辱を忍びても、将来皇国護持するの確信あり。忠勇なる軍隊の武装解除は耐へ難し、然れ共爲さざるを得ずと言はれ、特に陸軍大臣の方に向はれ、陸軍は勅語を起草し、朕の心を軍隊に伝へよ、と宣はせらる。又武官長は侍従武官を陸軍省に派遣する由。 御聖断に基き又重なる有り難き御取り扱ひを受け、早速陸軍の進むべき道は唯一筋に 大御心を奉戴実践するのみなり。 皇国護持の確信に就ては、本日も「確信あり」と言はれ、又元帥会議に際しても、元帥に対し「朕は確證を有す」と仰せらる。 三長官、元帥会合の上、皇軍は御親裁の下に進むことと決定致したり。 今後皇国の苦難は愈々加重すべきも、諸官に於ては過早の玉碎は任務を解決する途に非ざることを思ひ、泥を食ひ野に臥ても最後迄皇国護持の爲奮闘せられ度。 10 次いで軍務局長より、本日御前会議に於ける御言葉を伝達す。要旨左の如し。 (「敗戦-20:8月14日の御前会議-3」を参照) 11 閣議は午后7時20分より8時半迄開かれ、更に9時より11時30分迄開かれたり。此の間詔書案文議せらる。閣僚署名あり。─「敗戦の記録」より〓勝手に独断と偏見〓 14日の御前会議の開始時間は 「本日午前に予定されありし御前会議は、1330に延期せられ、午前は閣議のみとなる。 然るに、閣議参集の閣僚及平沼、両総長、最高戦争指導会議幹事に対し、突如1030より宮中に御召し遊ばされ、歴史的御前会議は突如開かれ、世紀の 御聖断は下さるることとなりたり。」 と、ここでは2回変更されている。・『兵力使用第二案』 1 近衛師団を以て宮城を其の外周に対し警戒し外部との交通通信を遮断す 2 東部軍を以て部内各要点に兵力を配置し要人を保護し放送局等を抑へ 3 假令 聖断下るも右態勢を堅持して謹みて 聖慮の[御翻意を]持ち奉る 4 右実現の為には大臣、総長、東部軍司令官、近衛師団長の積極的意見の一致を前提とす 此頃に於て吾等は、大臣は閣議中にて、御前会議は午后なりと思ひ込みありたり。── 御前会議後、午後からの閣議前に於いて 「『兵力使用第二案』を出し、詔書発布迄に断行せんことを希む。之に対し大臣は、意少からす動かれし様なり。又閣議迄の間一度本省に帰へる旨言はれしより、次官、総長と御相談の上決意せられ度旨述べたり。 之より先、総長があれより朝の案に同意せられたりと述べたるに対し、「さうかほんとか」とて「兵力使用第二案」に意動かれしを察せり。」 昭和天皇は皇国護持を「確信あり」「朕は確證を有す」と講和を主張。 阿南大臣は「最早陸軍の進むべき道は唯一筋に、大御心を奉戴実践するのみなり」、帝国陸軍は「三長官、元帥会合の上、皇軍は御親裁の下に進むことと決定致したり」 陸軍上層部が主導するクーデターは回避されようとしているが、天皇の意志が最優先された結果とは思えない。 天皇の「無辜の民を苦しめるに忍びず」「明治天皇の三国干渉の時の必境を以て和平に御決心」は単なる言葉と思わない、其々方向性は異なるが思いが込められていると思う、しかし戦争の継続は皇国護持に悪影響を与えるの判断が大きかったと推測する。
2013.04.14
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1


