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広末涼子主演の「スターマン・この星の恋」の予告で感じたのは「妖星伝/半村良」との関係性。 記憶喪失の星男が出てくるが、「妖星伝」では死んだ石川光之介に補陀洛(ポータラカ)星人が乗り移り記憶喪失の段階で石川星之介と呼ばれる事になる。 補陀洛星人から見ると地球は奈落迦(地獄)。 「あまちゃん/NHK」でも「奈落」は使われていて、其々の脚本を担当する岡田惠和氏・宮藤官九郎氏は「妖星伝」の読者なのかもしれない。 補陀洛から来た者たちは奈落という他の命を餌にしなければ生きていけない世界から補陀洛に帰る(たぶん)、「スターマン・この星の恋」と「妖星伝」との距離感を楽しめればと思う。
2013.07.27
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◇「時代の一面/東郷茂徳」より(8月14日深夜)・「阿南陸相の挨拶」 御前会議後閣僚と共に首相官邸に赴き閣議に参加したが、其間に外務次官を招致し連合諸国に対する通告書を準備するやうに話した。閣議は夜に入り詔勅案の審議を了へて捧呈し、同11時詔勅が発布せられた。 右閣議終了後全部の人がまだ円卓に就いて居る間に阿南陸相は自分の所に来て姿勢を正した上、先刻保障占領及武装解除に付き連合国側に申入る外務省案を見たがあれは洵に感謝に堪へない、ああ云ふ取扱をして貰へるのであつたら御前会議でも左程強く言ふ必要もなかつたのだと挨拶したから、自分は此二問題に付いては條件として提出するに反対であつたが我方の希望として申入るることは度々説明した通りであると答へたが、先方は重ねていろいろ御世話になりましたと丁寧に御禮を云ふので、少しく鄭重過ぎる感じを受けたが、兎に角總て終了してよかつたと笑つて別れた。・「一部の騒擾」 同日深更から15日早朝にかけ宮中に於て近衛兵一部の騒擾があり、又総理の私邸及平沼邸の焼打事件があつた。又15日早朝に陸相自決せる旨の報道に接した。それで其昨夜の態度が了解せられた。其他にも本庄大将以下多数者の自決があつた。──◇「高松宮日記 第8巻」より(抜粋)・8月11日 昨夜御前会議決定、御親裁ありし旨、軍令部一部長告ぐ。之が初耳だつた。 1300 皇族集り、外務大臣から経過一般を聴く。1600散会 1900 山際大蔵次官に財政の現状及将来のこときく(戦後に関しては特に研究に着手しあらず)。・8月12日 梨本宮、三笠宮、賀陽宮二方、久邇宮、朝香宮、東久邇宮二方、竹田宮、閑院宮、李王、李鍵公、私、参集す。 媾和に関する解答文の放送あり、軍令部長、陸軍総長と同列拝謁をなす。どうも外見をことさらに複雑意味あり気にする日本語の訳語については、十分注意すべきなり。 1500 吹上大本営防空壕にて皇族集合(御召あり)。陛下より今回の御決心を御示しあり。皆国体護持に御思召にそつてつとめる旨、梨本宮より御答へし、各自の意見等夫々申上げ、1700頃散会。 夜、三笠宮来り、阿南大将の考へ方、お上のお考へと大いに異るから鈴木総理の意見をきかんとのこと。明朝来ることに約束す。・8月13日 0740、三笠宮、鈴木総理大臣来り、阿南大将の考へにつき語る(総理大臣は最後は思召によつてすべてをする点につきては阿南を疑へずと)。 夜、警保局長にきく。中途で大西次長、ぜひ戦争継続の様に取はからつてくれとの話に来邸。信念の問題にて私如き戦はざるものは取つぐ資格なし。総長なり次長自身申上げられたらと云ふ。──〓勝手に独断と偏見〓 「総理の私邸及平沼邸の焼打事件があつた」の状況下、「昭和天皇独白録」で昭和天皇は「鈴木、平沼の私邸も焼かれた、平沼は陸軍に巧言、美辞を並べ乍ら、陸軍から攻撃される不思議な人だ。結局二股かけた人物と云うべきである。」 平沼騏一郎(男爵・枢密院議長)は「昭和天皇独白録」に於いても此の時期は天皇の命に従い又国体護持を第一に考えて行動してように描かれているが昭和天皇の平沼に対する評価は厳しい、描かれていない平沼があるのか、平沼が昭和天皇に満足していなかったのか。 「高松宮日記 第8巻」によると此の時期に於いて、阿南陸相と大正天皇の皇子である昭和天皇・高松宮・三笠宮(秩父宮は1941年より病気療養中)は異なった考えを持っており、阿南陸相は本土決戦を望んでいた、の主張と考える。 しかし鈴木首相は「最後は思召によつてすべてをする点につきては阿南を疑へず」としている。 阿南陸相は陸軍の利益代表だったと思うが、此の時期に於いて本土決戦を望んでいたとは思わない。 東郷外相への言葉「先刻保障占領及武装解除に付き連合国側に申入る外務省案を見たがあれは洵に感謝に堪へない」より、多くを望んでいなかったと思う、東郷外相は「我方の希望として申入るることは度々説明した通りである」と答えているが、講和条件の議論では阿南陸相にはそうとは考えられない流れだったのだろうと推測する。 海軍が崩壊し制海権・制空権が敵側に移ってしまった状況をマスメディアや軍部が認識しているにも拘らず本土決戦を主張している状態で、昭和天皇が講和発表の決断ができる環境をつくれたのは東郷外相が自身の安全を顧みず先頭に立ち阿南陸相と激論をたたかわして流れをつくり、阿南陸相が陸軍を抑えたのが大きかったと推測する。
2013.07.22
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○「敗戦の記録」よりの「阿南惟幾の自刃」関連◇「8月14日(水曜)」/「陸軍の終戦日記─軍務課『機密終戦日誌』」(抜粋) 13 十四日夜即十五日一時半、竹下大臣官邸着案内を乞ひたる所大臣は自室に在り。「何しに来たか」と一寸咎める如き語調なりしも、軈(やが)てよく来たとて室に請ず。室内には床を展べ白き蚊帳を吊りあり。その中にて書き物をせられありし如く感ず。-遺書なり-机上には膳を置く、一酌始まらんとしありし模様なりき。 大臣は余に対し、本夜予ての覚悟に基き自刃する旨述べらる。之に対し余は、覚悟尤にして其の時機も本夜か明夜か位の所と思ふに付敢て御止めせずと述べたる所、大臣は大いに喜び君が来たので妨げらるるかと思ひしが、夫ならいい、却てよい處に来て呉れたとて盃を差し頗る上機嫌となり、本夜は十分に飲み且語らんとて、夫より5時頃迄語る。其の要旨左の如し 予は平素に似ず飲まるるを以て、あまり飲み過ぎては仕損ずると悪しと言ひし所、否飲めば酒が廻り血の巡りもよく、出血十分にて致死確実なり。予は剣道五段にて腕は確かと笑はれたり。 問答要旨 前後不同[編者後略] 一 若しばたばたせる時には君が始末して呉れ。然しその心配はなからん。 一 遺書は「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣阿南惟幾」と既に書きあるを示されしが、裏に更に「神洲不滅を確信しつつ」と書き足されたり。 辞世 大君の深き恵に浴し身は言ひ残すへき片言もなし 八月十四日夜 陸軍大将 阿南惟幾 (これは戦地に出る時のいつもの心境なりと言はる) 一 短刀でやるが卑怯のつもりではない。 一 疊の上は武人の死に場所ではない。外では見張りに妨げられるので縁側でやる。向きは 皇居の方向である。 一 大臣は夜風呂に入りあり。自決の時は侍従武官時代拝領せし下着を身に付けらる。これは お上がお肌に付けられたるものである。これを着用して逝くのだと。 一 本夜畑中等の件に付ては蹶起時刻たる二時迄は觸れざりしも、(事前に知れば大臣として中止を命ずるの責も生ずべきを考慮したるものなり)二時過ぎ説明したる處、東部軍は立たぬだらうと言はれたり。其の後三時頃K少佐軍刀にて斬りたる由、又居合はせたる白石参謀(第二総軍)は静止せる爲、之又K少佐斬殺せる由。K少佐は報告に来り、今より守衛隊本部に行く由を聞き取り、東部軍の事は分らぬ由も聞き、少佐の帰りたる後大臣に報告せる所、森師団長を斬つたか、本夜のお詫びも一緒にすると述べられたり。 之より先大臣は、十三日大臣室に於て井田中佐が「大臣は変節されたのか、その理由を承はり度」と言ひしことに付、あの際の返答は井田を後に残したかつたのだと言はれ、井田中佐によろしく傳へて呉れと言はれ居りしが、井田来訪するに及び相擁して語られたり。 一 井田中佐帰りたる後、大城戸憲兵司令官来邸、近衛師団の變を報告に来らる。大臣は夜が明けるから始める、司令官にはお前會へとて竹下を応接間に出し、其の後にて自刄せられたり。 林秘書官此の頃近衛師団の件にて来邸、応接間にて竹下に會ひ、大臣の登廳を要すと言はれしが、大臣室に至り自刄中なるを知り、竹下に其の旨傳へらる。 14 林秘書官の知らせにて竹下が現場に到れば、大臣は既に割腹を了はり喉を切りつつあり。余が介添しませうかと言ひたるに対し、無用あちらに行けと言わる。 暫くして来り検するに、少々右前のめりとなり居られたるも、呼吸十分に聞ゆるを以て、苦しくはありませんかと呼ばはりたるも、既に意識なき如きも手足も少々動くを以て短刀を取りて介添へす。 其の後、(閑院宮)載仁親王より拝領の軸物を側に展げ、遺書を並べ、軍服を體にかけたり。 15 陸軍省より再度ありしに依り、三度大臣の死を慥(たしか)め登廳す。この時未だ呼吸あり。◇「8月15日(木曜)」/「陸軍の終戦日記─軍務課『機密終戦日誌』」 1 次官閣下以下に報告 2 十一時二十分惟崎、畑中両君宮城前(二重橋と坂下門との中間芝生)にて自決 午後屍體の引取りに行く 3 大臣、惟崎、畑中三神の荼毘、通夜──〓勝手に独断と偏見〓 「大臣は夜風呂に入りあり。自決の時は侍従武官時代拝領せし下着を身に付けらる。これは お上がお肌に付けられたるものである。これを着用して逝くのだと。」 上記の昭和天皇への感覚は当時の日本人の多くが共有していたのだろう、そして 「神洲不滅を確信しつつ」「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣阿南惟幾」 しかし状況は、 「大城戸憲兵司令官来邸、近衛師団の變を報告に来らる。大臣は夜が明けるから始める、司令官にはお前會へとて竹下を応接間に出し、其の後にて自刄せられたり」 近衛歩兵第二連隊を率いた陸軍将校による宮城占拠(宮城事件)勃発に対応せず自刄を行う阿南惟幾、「宮城事件」ではクーデター参加を断った森赳(近衛第1師団長)と白石通教中佐が殺害されている。 「井田正孝/ウィキペディア」によれば竹下正彦と井田正孝が阿南陸相の自刃を見届けたとなっている、「敗戦の記録」に於ける該当の記述も彼らからの情報が元となり作成されたのだろう、生き残った者の記述、どの程度真実が含まれているのか。 阿南陸相の行動は不可解、「宮城事件」鎮圧後の自刃ではいけなかったのか。 「宮城事件」は失敗に終わるの確信があり、自分が死ぬことで他の「宮城事件」のようなクーデターを防げるとの考えで「一死以て大罪を謝し奉る」になったと推測する、しかし死ぬことへの慣性が強く優先してしまったの感もある。
2013.07.07
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