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ジルボイトテイラーより神経解剖学者1996年12月10日脳の左半球で脳卒中が発生奇跡的に命を取り止めた血栓はゴルフボール大の大きさがあった。左脳機能が停止そのときに体験した記録臨死体験と非常に似ているというか、昔であれば助かってはいない救命救急の発達によりこのような人が現在非常に増えている脳の体性感覚野から得られる情報を処理できなくなっており、身体の存在を得ることができない状態が現れている言語を処理する所にも損傷が発生しているしかしどんどん感覚を失っていくと、非常に平和で明るい領域に合うようになったと証言している。これは臨死体験と同じものを感じる彼女はこの脳卒中より7年をかけて蘇っているまず聴覚野に損傷がはじまり運動を司る部分にも損傷が始まり、身体を自由に動かすことができなくなってきた脳のおしゃべり(猿)が止まるこれは左脳の言語中枢に損傷が起こったことを示しているウェルニッケ野(言葉を理解する所)ブローカ野(文章を作る所)これらの領域に損傷が起こる興味深い点は、この猿のおしゃべりが無くなると辺り一面の平穏な幸福感に包まれた感触を得るようになってきている言語を失っていくと、高度な認知能力と過去の人生(記憶)が消失と共に三次元の自分の現実感覚を失いあたかも身体が流体であるように感じています。このことは左脳の方向定位連合野(身体の境界、空間と時間の感覚)が損傷よくぞ生き残ったものだと思う その中でなんとか電話を同僚にかけることを成功してというか、奇跡としか病院に運ばれた 発症して数時間声も吠え声のようなものしか出せず、電話を取った同僚が察知して手を回してくれた興味深い点は相手の話し声はわからないが優しい助けてくれるという感覚は理解できている点これは、残った半球が働いてくれていたから
2023.08.29
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現実世界は脳内に構築された世界モデルによってでっち上げられている私たちがいま現実だと思っているものは実は脳の創作物であり現実世界のシュミレーションである現実は脳が作り出した幻想である。ジェフフォーキンス
2023.08.26
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観自在とは汝ら諸人なり毒語心経より
2023.08.23
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おんみ、眼の涼しい人、眼に慈しみの深い人、智慧と知識にて眼の優れたる人よ。おんみ、眼にあわれみ深く、眼涼しく眼もまた顔立ちも美しく麗しい人よ。おんみさわやかに汚れなく曇りなき輝き、かげろいのない智慧、太陽の輝きよ。おんみいかなるものも損なうことの無い風と火の輝きよ、おんみは輝いて世間を照らす。真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間梵文(サンスクリット)から訳すいのちの世界法華経より紀野一義
2023.08.23
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語りえぬものについては、人は沈黙しなければならない――ウィトゲンシュタイン
2023.08.21
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譬喩品第三白い牛車としてあらわそうとしたもの信解品第四長者窮子に最後にあたえられたもの化城喩品第七あらわした城の先にあるもの五百弟子受記品第八寝込んでいる男の衣の裏側に、秘密に縫い付けられた高価な宝玉としてあらわしたもの見宝塔品第十一空中の光り輝く宝塔としてあらわしたもの如来寿量品第十六医師がその子に与えた良薬としてあらわそうとしたもの常不軽菩薩品第二十常不軽菩薩が人々にただ礼拝したもの
2023.08.15
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大日経疏にいうには、行者初めて観を学ばん時は、心は未だ純熟せず。未だ現前することを得ず。まさに、まず妙蓮を画作すべし。上に説くところの如く、極めて微妙ならしめ、兼ねて阿字を置き、常に現 前にこれを観ぜよ。まさに、円明の中において図すべし。この円明は、なおし円浄の鏡の如し。その中に、極めて深き阿字の円光あり。中において諦観すれば、久々にすなわち能く現前して、分明に見たり。既に外処において見ることおわんなば、廻らして自心を観ぜよ。円明の中において、阿字を観ずべし云云。同疏第十にいうに、出入の息といっぱ、世人の息を身に入れば、また出し、出しおわってまた入れて、 断絶間隙なきが如し。この人、字輪の円明を観見すること、またまたかくの如し云云。菩提心論にいうに、八葉白蓮一肘間乃至云云。大日経疏第十にいうに、一切如来、 昔、 この門によって正覚を成すこと、異路あることなし。ただし、この一門なり。(私にいうに、この一門といっぱ、阿字門なり。)弘法大師のいうには、阿字はすなわちこれ、本不生不可得空なり。この畢竟不可得空は、 衆徳を具足し、普く一切諸仏の法を摂す。 この定の加持力によるがゆえに、必定して成仏するなり云云。またいうには、これを書き、これを学すれば、 常住の仏智を得たり。これを誦し、これを観ずれば、必ず不壊の法身を証すと云云。行者、阿字観を修せんと思わばなど、 同文上にあり。まず、息を調えて、ひとたび眼を開いてこれを見奉り、眼を閉じてこれを観ず。この観のすべき様は、阿字はこれ本不生の理なり。本不生といっぱ、一切諸法令含蔵なり。喩えば、太虚は色なくして、より所あることなけれども、万法みな空によって生じ、空によって含蔵せしむるが如し。かるがゆえに、有にもあらず、無にもあらず。ただ、中道一実の理なり。一切色心の諸法は、みなこの中道一実の理にあらずということなし。この理は、無始よりこのかた、本有常住にして変易し。かるがゆえに、本不生と名づく。始めよりこのかた、生ずるを生とはいうべし。本有常住なれば、本不生とは名づくなり。また終わりも有るべからず。かるがゆえに、無始無終の理とはいうなり。(本不生の義は、顕密重々なり。 これは暫く一義を述べるなり。)この本不生は、一切諸法の根元、 体性にして一切諸法に遍在す。阿字は一切音声の本源、 体性にして一切の音声文字に遍在す。一切の音声は、阿の声を離れることなきなり。かるがゆえに、この阿字より本不生の理を顕わすなり。ただし、一色一香、無非中道なれば、一切の諸法はみな実相なり。必ず阿字にかぎるべきにあらずといえども、この宗は声すなわち仏事をなすさかいなれば、且く文字によって実理を顕すなり。文字の中に阿字は根本なれば、阿字に殊にかくの如く功徳を具足せしむるおよそ、また自然道理のことわりにて、阿字にかくの如く功徳を具足する なり。さらにそのよしを尋ぬべからず。ただ仰いで信ずべきなり。そもそも、かくの如き法門は、甚深の観解なり。初心行者は、たやすく覚り難し。ただ口に阿字の声を唱え、心に阿の形を観じて、一心乱れることなくば、自ら成就を得べきなり。まず、見する様は、目を閉じてこれを観じ、(心に阿字の形を観ず。) 目を 開いてはこれを見奉れ。出る息、入る息に阿々と唱うべし。およそ、ただの時にも、行住坐臥に心にかけて、阿々と唱うべし。かくの如く時日をつめば、初心には見難けれども、後には漸く見ゆるなり。眼を閉じて向かわざれども、漸々に顕れて見えもて行くなり。その時、無始の罪障ことごとく消滅して、心もいさぎよく、身もさわりなくなりゆくなり。うれしくかたじけなきこと、 おしはかるべし。かくの如く現前に観じたるを、漸く胸の中へ廻し入れて、胸中に観ずべし。一切衆生の胸中に、本より八葉の肉団あり。その形、蓮花の合わさるが如し。男子は上に向かい、女人は下に向えり。この蓮花を観じて開くべし。これすなわち、心の蓮花なり。その蓮花の花台の月輪は、すなわち心月輪なり。(その形みな図の如し。)かるがゆえに、心の蓮と心の月と二体にあらず。すなわち、理智不二の蓮月なり。(理は蓮、智は月なり。)不二の蓮月は、遮那の法体なり。この毘盧遮那に、すなわち三十七尊乃至両部の諸尊を具足せしむるなり。かるがゆえに、三十七尊、心の城に住むというなり。この観を成就したるを、即身成仏というなり。我ら父母より生まるるところの肉身、たちまちに両部諸尊と顕われるなり。誠に目出度ことなり。よくよくこれを観ずべし。上根の人は、昼夜不断にこれを修すべし。下根の人は、我身にたえたらんほどをはからいて、もしくは六時、三時、もしくは二時、一時なりとも、これを修すべし。たとえ下根の行者なりといえども、信心決定して怠らず観修すれば、十二年とは過ぎず、必ず成就すべきなり。この後、なお様々の観行あれども、この観を成就の後に観ずべきなり。したがって、その憚りあるべし。かるがゆえに、これを略すなり。勝覚(しょうかく、天喜5年(1057年) - 大治4年4月1日 (旧暦)(1129年4月21日))平安時代後期の真言宗の僧が顕わす
2023.08.10
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いら立ち、あせり、不安、力み、緊張、プレッシャーつきまとう感情元々の性格など関係ないこれは自覚と訓練で振り回されなくなるこれはだれでも習得できる技術(中略)プレッシャーを感じている自分を第三者のように見つめるんです。そんなもう一人の自分をこころの中に作れば、ゆっくり落ち着いていきます。(ヒカルの碁より)その方法は、その感情に気がつくこともともと私はどこにも存在しないのだから、だから逆にどのようにも替わることができるのだから
2023.08.09
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