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「私を本当の名前で呼んでください」私が明日発つと言わないでなぜって いま もうすでにここに着いているから深く見つめてごらんなさい 私はいつもここにいる春の小枝の芽になって新しい巣でさえずりはじめたまだ翼の生えそろわない小鳥花のなかをうごめく青虫そして石のなかに隠れた宝石となって私はいまでもここにいる笑ったり泣いたり恐れたり喜んだりするために私の心臓の鼓動は生きてあるすべてのものの生と死を刻んでいる私は川面で変身するかげろうそして春になるとかげろうを食べにくる小鳥私は透きとおった池で嬉しそうに泳ぐ蛙そしてしずかに忍び寄り 蛙をひと飲みする草蛇私はウガンダの骨と皮になった子ども私の脚は細い竹のようそして私は武器商人 ウガンダに死の武器を売りに行く私は一二歳の少女小さな舟の難民で海賊に襲われて海に身を投げた少女そして私は海賊でまだよく見ることも愛することも知らぬ者私はこの両腕に大いなる力を持つ権力者そして私は彼の「血の負債」を払うべく強制収容所でしずかに死んでいく者私の喜びは春のようとても温かくて生きとし生けるもののいのちを花ひらかせる私の苦しみは涙の川のよう溢れるように湧いては流れ四つの海を満たしている私を本当の名前で呼んでくださいすべての叫びとすべての笑い声が同時にこの耳にとどくように喜びと悲しみがひとつのすがたでこの瞳に映るように私を本当の名前で呼んでください私が目覚めこころの扉のその奥の慈悲の扉がひらかれるように ティックナットハン微笑みを生きるより(2022年1月22日に亡くなられています。)全てがあるひとつの大切にすべきものを指さしている、それは捕らえようも無いものなのだけどあるとしか言えない大切にしてください。離さないでください多くの大徳が言い残されたもの、大切なもの、言い続けたいとしか
2023.07.28
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月輪の三徳(訓読)月輪の自性、清浄なる故に、能く貪慾の垢を離る。月輪、清涼なる故に、能く瞋恚の熱を去る。月輪、光明の故に、愚痴の闇を照す。此くの如く、三毒、自然に清浄にして、離散すれば、心源、湛然として自ら苦しむ事、之れ無し。(現代語訳)月輪の本来の性質は清浄であり、これによってよく貪りという欲望の垢を取り除くことができるので ある。月輪の性質には清涼があり、これによってよく眠りの熱を取り去ることができるのである。月輪の性質には光明があり、これによって愚かさによる闇を照らすことにより、愚かさを無くすこと ができるのである。このように月輪の三徳を得たならば、貪りや瞋りや愚かさの三毒は自然に清浄になり、そして離れ散 じるのであり、心の本源ははなはだ静かであって、自ら苦しむということが全く無くなるのである。 月輪の自性清浄と清涼と光明の三徳によって我々の善なる心を害する貪りや瞋りや愚かさの三毒を取り除くことができることを示している。こ 即ち此の自性清浄心は、三義を以っての故に、猶おし月の如し。一には自性清浄の義、貪欲の垢を離るるが故に。 二には清涼の義、瞋の熱悩を離るるが故に。三には光明の義、愚痴の闇を離るるが故 を離るるが故に。二には清涼の義、一切の妄想、貪・瞋痴等の一切の煩悩は、断除を仮りずして、自然に起らず。性は常に清浄なり。此れに依りて修習して、乃成仏に至るべしすなわちこの本来の性質である清浄なる心〔自性清浄心〕には三義があるので月と同じとされる。この三義の一つは本来の性質が清浄であるが故に、貪りという欲望の垢が離れるのである。二つは清涼の 義であり、これにより瞋りの熱の苦悩より離れるのである。三つ目は光明の義であり、これにより愚か さの闇から離れるのである。 一切の妄らな想いである貪りや瞋りや愚かさの三毒等のすべての煩悩みは、断ったり除いたりすることなく自然に起こらなくなるのであり、性質は常に清浄となる。これによ って修習して、そして成仏に至るようにするのであるという文を元として記されたものと思われる。密教瞑想入門より北尾隆心著三毒に取り込まれた状態では、この光は観ることはできないし、逆に観ることができているときは、心は静かで平安な状態になっている。
2023.07.28
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怒りこの厄介なもの前日寝る前まで色々な事があり寝て起きたときにもの凄い怒りが沸いてきました 身体全体に怒りが起こっているのです。その怒りを観ていると、身体の上半身の真ん中深くに大きな怒りの塊がありました。恐ろしいものです。これに飲込まれると何をしでかすか、全てを怒りが支配しようとしています。この身体振動であるこの塊を観ました。まさに炎が燃えさかるようです。もう観ている時点で気がついているわけですから、飲込まれるわけではないのですがおそらく普通なら一瞬で取り込まれて、大変な事を起こしているだろうと思うくらいの激烈さです。 「怒っている」優しく観ても治まりません、じっと観ても治まりません。よっぽど腹に据えかねているのです。最後にこの前の阿字観にある。阿息観(アーーーーという声を息の出入りに唱える)を行なってみました。この身体の中央のこの怒りの塊に届く、阿の音の振動がそれに重なりあるようにしばらく行なっていくと、この塊が徐々に消えていき、阿の音だけが続いていきます。怒りは跡形も無く消え、また光明が戻ってきました。
2023.07.25
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平安時代末期の1160年~1180年頃の制作と推定される阿字義、阿字効能、浄三業真言、安楽世界と念仏の功徳(仮称)の4つの部分よりなる阿字義(阿字の義)此の阿字は、是、十万三世の諸仏と一切衆生との、無二無別の本性、清浄の理なり。是、則ち、菩提心の躰(=体)なり。是、則ち、法身如来なり。この阿字は、一切法の寂静の躰 (=体)にして、本不生不滅なり。この阿字は、是、胎蔵界の大日如来の法界の身阿字の功能若し、初めてこの字を観ぜむ時に、心未だ純 熟せずば、先づ、絵に蓮花を描き、月輪の中に阿字を書きて観ずべし。若し、人、此の観を純熟せむ時には、この字の光、胸の中より四方に散じて、遍く十方の一切仏刹に遍せむ。この光は、頂より足に至りて、行者の身を廻り廻らむ。この阿字を明らかに観ずる時には、六根の諸々の垢、皆全て清浄になりぬ。六根純浄にして、無垢なるが故に、心性もまた垢なし。猶し、水精と浄き月との如し。世間の輪の廻る時には、一切の草木の砕け、破れずといふ事なきが如く、この阿字輪も又斯くの如く、よく一切の無明の煩悩を除くにて、多行せずといふ事なし。何が故ぞ、八葉を観じても多くもせず、少なくもせぬ。大凡、人の心の形は蓮花の未だ開けぬが如し。八分に分かれたる筋あり。男子は上に向ひ、女人は下に向かへり。今、此の心を観じて、それを開敷せしむるなり。此の八葉は、四仏四菩薩なり。蘂(=蕊)の具足せるは、その心あり。蓮花三昧の心、若し開敷する時には、無量の法門、 具足す。百八三味門、五百の陀羅尼門等なり。斯くの如き無量無辺の法門、具足せずといふ事なし。若し、諸仏を見奉らむと思はむ人、諸仏を供養し奉らむと思はむ人、菩提を証発せむと思はむ人、諸の菩薩と同じく生まれ合はむと思はむ人、一切衆生を利益せむと思はむ人、一切の悉地を得むと思はむ人、一切の智を得むと思はむ人、斯くの如き事を求めたむ人は、更に他の術なし。唯し、正に、この阿字を観ずべし。一切衆生の自らの心は、元よりこの方清浄なれども、無明の為に覆あたひ隠されて、悟る事能はざるなり。若し、此の心を清めつれば、則ち、それ曼荼羅となりぬ。余の処より来り給ふにあらず。今、此の阿字も又、他より来り給ふにあらず。唯、心より生ぜるなり。定を修して、その心、漸く清くなる。心、清浄なるが故に、阿字、中に現ず。 阿字門に入るが故に、大果報を得。人のよく授くるにあらず。若し、短命の人、日々に三時にこの字を思惟せば、長寿を得む。若し、出で入る息の中に此の字を思はゞ、寿命 長遠なる事を得む。此の阿字の菩提心は、不生不滅門なるが故になり。出入の息に思はゞ、鼻の上五寸ばかりに此の阿字を観ずべし。此の観の下の功徳は、死に当たれる人、更に反りて生ずる事を得。中の功徳は、虚空に昇りて、十方に遊ぶ。大の功徳は、即ち無上正覚に至る。この法を習はむ時には、常に行住坐臥にすべし。若し、心中に乱れ念ひ多くば、必ずこの阿字を観ずべし。此の法は、修行者の為に、最も急切なり。常に心に放つべからず。この阿字は、是、一切の字の母なり。十方三世諸仏の所説の法、此の字の躰(=体)にあらずといふ事なし。僅かにも念ずる人は、一切の如来の法を称するに同じ。乃至、鉄(くろがね)、石にもこの字を観念すれば、よく動き黄金(こがね)となる唐房法橋(=国輔)の御消息にいわく書き果つるままに、涙落ちて、ひが事もや書かれ侍らむ
2023.07.19
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観ているものはだれか?気づいているものはだれか?私はいないあと残るものは、ひとつしかない
2023.07.18
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大阪市の上町台地にある神社で難波高津宮跡に建てられた神社です。貞観8年(866年)に仁徳天皇を祭る神社としてはじまりますがこの場所は上町台地のちょっと高い場所にあります。下からこの社殿の所まで上がると、空気が変わってきます。ここが間違いなく特別な場所であることがわかります。
2023.07.17
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高いビルの展望台に上って、下をみると足がすくみ、恐怖が起こってきます。人一倍高いところが嫌いです。このとき、この恐怖のこころをなんとかするのではなくそのときの身体の振動を観ることをしました。この振動は永遠につづかないので、消えています。その状態では、その恐怖のこころが生じないのです。ただじっと下の風景を観ていました。押さえつけるのでは無くこころは身体が作り出す幻想、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいとわたしはいませんが、ならそれを観ているのは?
2023.07.15
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お釈迦様が悟りをひらかれたとき明星をみたとあります。この明るい星とは金星と書かれていますがただの星ではないのではと思えます。
2023.07.11
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栂尾(とがのお)上人(明恵) 鎌倉時代のひと阿字観それ菩提心といっぱ、すなわち阿字観なり。阿字観といっぱ、本不生の理なり。本不生の理といっぱ、すなわち諸仏の心地なり。諸仏の心地といっぱ、一切衆生の色心の実相なり。色心の実相といっぱ、我が一念の心なり。一念の心といっぱ、悪に随わず、善に着せざる心なり。方寸の胸中に八分の肉団あり。悟の前には八葉の心蓮台と顕れるなり。この心蓮台の上に阿字あり。変じて月輪となる。月輪といっぱ、我が心に起こる菩提心の質なり。我が心に、この理を具するのみにあらず。一切衆生も同じく具せり。乃至、非情草木もみな、ことごとく備えたり。青き草の葉の上に置く白き露の色も阿字の質なり。心といっぱ、五体身分に遍ずといえども、恒(こう、いつまでもかわらない)の棲(すみか)は妙法心蓮台なり。この心蓮台に、我が神を宿すを阿字観と申すなり。阿字は、すなわち我が心の形なるがゆえなり。心といっぱ、無相の法なり。無相の法といえども、流石にまた音声弁説と顕わして、我が耳に我が心の音声弁説を聞くなり音声を聞くといえども、その質は見えず。無と言わんとすれば音あり。音に付いて見んと尋ねれば、その体見えず。有にあらず、無にあらず。不思議の心なり。一切諸法はみな因縁生の物なり。心性の源、清しといえども、悪知識に随えば罪を造って苦を受け、全知識に随えば、功徳を営みて阿字の実際を顕わすなり。苦を受け、楽を受けるも、ともに一念にあり。かるがゆえに、この理を知る人は、心に浄土を構え、自ら往生す。この理に迷うものは、自ら地獄を作り、心に苦を受くなり。喩えば、自ら口より糸を出して自身を緊縛するが如く、また無知の画師の自らおそるべき夜叉を画いて、還って自ら怖れるが如し。地獄も極楽も我が一心の所作なり。他人の構うところにあらず。かるがゆえに、華厳経の二にいうに、三界は唯一心なり。心の外に別の法なし。心仏および衆生、この三は差別べし文。苦も楽も共に我が心なり。厭えは速やかに離れ、願えばすなわり到る。善というも、悪というも、ことごとく一心の所作なり。誰人か厭わざらん。何れの輩か願わん。かくの如く、阿字の体相を観念するを、無相の菩提心と名くなり。作用について、堂塔を造り、香花供養するなどの善根は、 有相の菩提心と 申すなり。この二の菩提心の中には、無相の観行、最も勝たり。諸仏の秘蔵、衆生の心地なるがゆえ。自心頓覚の教門、これに如くはなし。またこれを知るを、 月輪観とも申すなり。月輪には三の功用あり。一には、清冷の徳、 これは冷徳なり。二には、 光明の徳、 これは照暗の徳なり。三には、清浄の徳、 これは下界の塵にも垢されず、 上界の諸天の楽にも着上下二界の間、虚空に住する清浄の徳なり。吾が一念の心にも、この三徳を備えたり。これ貪瞋痴の三毒対治の功用なり。一には、 我が心は本性清浄なり (蓮花) と観ずれば、無始生死の間の貪欲 の罪を滅す。貪欲といっぱ、 他人の財宝を望み、 我が物をしと思う罪なり。二には、 吾が心は本性清浄なり(慈悲)と観ずれば、三界流転の間の瞋恚 の罪を消す。瞋恚といっぱ、腹立てて違逆する罪なり。三には、我が心は本性光明なり (悲智)と観ずれば、六道輪廻の間の痴 悩を断ず。痴煩悩といっぱ、至って愚なる心にして、善悪を弁ぜざる心なり。自ら心をせざるを無明と名づけ申して、総じて我が一念の心を知らざるを痴煩悩というなり。この三毒の煩悩を断ずる力、我が心に備えたりといえども、知り難く、悟り難し。かるがゆえに、彼の世間の月の三徳をもって、 心月輪阿字の体相用の三徳 を知らしむるなり。地水火風の四大和合する時、神を不思議の中に宿して、 しばらく衆生と名 づく。この四大種、各々離散する時、衆生の身破失する。これを死というなり。喩えば、桁梁梠椽などを採り集めて仮に坊舎と名づけ、もし桁梁など離散すれば、坊舎なきが如く、魂に定れる形なし。この身は終いに吾にあらず。家に常の主なし。去れば、常に住むべき形なし。有為の生滅の法なり。常住なれば、心性の月輪なり。 月輪といっぱ、すなわち阿字なり。 阿字といえば、我が一念の心なり。 一念の心というは、出入の息なり。出入の息は、すなわちこれ命なり。死すと申すは、息絶たるに名づけるなり。息はこれ常住の月輪なるがゆえに、 有為の生滅を離れて、さらに生死を論 ず。また死といっぱ、業報の依身尽くして死というなり。生といっぱ、当来の果報の始めて顕れるに寄せて名けたり。生滅共に業力の所作なり。その業力といっぱ、縁起虚仮にして、実体なき有為の法なり。有為の法といっぱ、有始有終に名づけることなり。生は始まり、死は終わりなり。かくの如く、有為無常に迷い、六道輪廻して、生死を離れず。これすなわち、我が一念の菩提心を悟らざるによってなり。この阿字の観門に入れば、死というとも業報の尽るしるしなれば、歎き還っこれをもって、ある文には、 の尽きる時、歓喜することなおし衆病を捨てるが如し文。生死の歎きは妄想顛倒より起こり、合離の悲は迷の前の恨なり。我等衆生は、阿字すなわち一念の菩提心なりと知らざる間は、 願うといえども真実の菩提心にあらず。厭うといえども、真実の出離の行にはあらず。迷の前の是非は、ともに非なり。夢中の有無は有無ともに無なり。現にも夢にも、自心の菩提を悟らざるがゆえに、鎮に輪廻の衆生なり。静かにこの理を思うに、昨日といい、今日といい、日数を双れども、且く 一念の間なり。過去現在未来といえども、またまたかくの如し。昔といい、今といい、 去といい、 来るといえども、ただ言の替わりなり。多刧の三世は、すなわち一念の間なり。夢の中に千年の楽ありと思えども、夢悟ぬれば、千年の栄も五更の枕に眠る間なり。 未だ真実を得ず。夢の中には長遠の修行を送るといえども、即身成仏の悟りの前には、五十小刧もただ半日の間なり。かるがゆえに、華厳宗には、 一念を延べて永く三世を兼ね、 九世を摂して 刹那に入ると釈するは、すなわち十世の相、すなわち一念の心なり。大師は、 一念の阿字に三大僧祇を越えると釈し給もう。三大僧祇といっぱ、仏になること極めて久しきを申すなり。我が一念の菩提心、すなわち阿字なりと知らずして、無量劫の間に仏道を 求める人なり。この人、幾却の間、修行に心を費やすといえども、仏になること難し。しかるに、 一念無相の観行は、彼の無量の間の修因に勝れたり。そのゆえは、無量劫久しといえども、 思えばただ一念の間なり。一念の心には、 三世の不同なし。今とも昔とも、時節の長短をいうべからず。時節の長短を論ずることは、長も短も、みなこれ安心妄境なり。最後臨終の時に、出入の息を数え、 この理を観ずるを、 正念に住すとは申 すなり。物をいわんに、必ず口を開けば初に定んで阿の声を出すなり。すなわち、何と思わねども、自然に唱える真言なり。最後の一念に望む時は、 時分極めて短かきがゆえに、六字名号も、文字乱れて南無阿弥陀仏とも唱えざれ。出る息の一刹那に、 今生の終りを極むるなり。生まれる時には、入る息に便りを得て、 阿と唱え生を続くなり。死する時には、出る息に寄せて、阿と唱えるなり。生れて悦び、死に嘆く。みなことごとく妄念なり。悦ぶべからず。歎くべからず。去も来も、ともに一念の阿字に住するゆえなり。人間に来る時も、心性の月輪に住し、 娑婆を去る時も、自性の阿字に魂を宿す。臨終にこの理を観念するを、最後一念の往生とは申すなり。もし、悪業身を責めて、 安心正念を乱す時は、ただ口を開いて息を出入す べし。出息入息ともに阿字の息なり。阿字を唱える功徳不思議の力用あるがゆえに、妄念漸く滅して、 正念に住するなり。所詮、我が心はすなわち出入の息なり。息はすなわち阿字なり。阿字はすなわち一念の菩提心なり。菩提心はすなわち毘盧舎那の内証なり。毘盧舎那はすなわち自仏の悟なり。周遍法界の大智恵の光明なり。これをもって、金剛薩埵、大日如来に問い奉っていうに、いかんが菩提心と。如来答えていうに、実の如く自らの心を知るなりと教え給もう。自心を知るというは、我が一念の菩提心といっぱ、阿字なりと悟れと示し給もうなり。かるがゆえに、大日経疏に釈していうに、一切如来、昔、この門によって正覚をなし給もう。異路あることなし文。成仏の道に二なし。ただこの一念の阿字の一門なりと判じ給もう。一切如来、 十方の菩薩、 伝法聖者、みなことごとく阿字門に帰り給もう。設え、その心に知らずとも、仰いで信を致すべきなり。金剛智三蔵のいうには、この理を知るといえども、 不信の人は三世の諸仏を誹謗する罪を受け、仏法の中に重罪を犯して、必ず三悪趣に堕すべしと 釈し給もう。かるがゆえに、仰いで信ずべし。行ずべし。努力々々空く過ごすこと莫れ。最後の一念の阿字息風とともに出て、 法界円明の月輪と顕わし、虚空に住 して虚空に周遍するなり。心と虚空と菩提との三つは、すなわち阿字にして同体なり。心といっぱ阿字、菩提心なり。虚空といっぱ、常の虚空にあらず。我が一念の菩提心なり。その量を思うに、 広大無辺際の心なり。三世の心不可得なるがゆえに、始中終ただ一念の間なり。昔といい、今という。年は替われども、太虚空は替わらず。昨日、今日の言は二なれども、その日はただ一なり。かくの如くあることは、余所にあらず。しかしながら、我が身に備われり。盛年二十五の形と衰老九旬の質と齢を双れば、仮に老若不同なりといえど も、心はただ一なり。年月は積れども、心は改まらず。年は替れども、心は老いず。加様に百千無量劫といい、乃至一念十念と申すも、我が心性の月輪の上の時節長短の論は偏に発心の前後によって、 成仏の遅速を知らしむなり。刧数を経ると経らざるとの差別ばかりなり。成仏の遅速得道の遠近は、ただ一念の菩提心の阿字本不生の理を悟る程なこの一念不生の理は、周遍無際の我が心なり。かるがゆえに、世間無碍の虚空を喩えとして、世無際の阿字菩提心の法を 顕わすなり。喩えの月輪は、全く法の阿字心月輪なり。喩えの虚空は、同じく全く法の阿字無障碍堅固金剛の同体、阿字の虚空なと了知するを、 阿字菩提心と名づくるなり。仏といい、衆生というも、知ると知らざるとの差別なり。知を実知といい、不知を妄念と名づくるなり。これをもって、ある経文にいうには、安念によるがゆえに生死に沈み、 実知によるがゆえに、菩提を証す文。大師は、知ると知らざると、誰が罪過ぞと釈し給もうなり。我も人も、噴劫多生の昔より、この理を悟らあるゆえに、今に至って生死を出でざるなり。ただ早く万事を拗て、 一心に観行すべし。有相の行は、修し難くして至り難し。無相の観は、行じ易くして速やかに正覚を唱う。行住坐臥四威儀、怠ることなく観行すべし。三密の観行は、ただ一念の阿字に如かず。凝の値い難き観行を、自性の蓮に宿すべし。常の観行は疎なりといえども、臨終には必ず顕れるなり。速やかに疑心を捨てて、妄念散乱の心を断じて、よくよく一息の阿字を観じて、早く決定成仏の思いを凝らすべし。如彼三世中諸仏菩薩等○乃至心敷曼荼羅文。もし人、この字を観ぜば、 自心の中に白色八葉の蓮花あり。蓮花の上に一肘の月輪あり。その月輪の中に、金色の阿字あり。白色の光を放って、無辺の世界を照らし、一切有情の身中の無明煩悩を除く。その字、立て観ずべし。その月輪は、水精の玉のうつろなるが如し。月輪は智なり。阿字は理なり。以上 明恵上人御房の作なり。この観の成就の瑞相は、夢中に月輪を見て、口より光明の出入を顕現するなり金剛仏子 曇寂
2023.07.05
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シェイクという方法があるようです。シェイク(かき混ぜる シェイクする)全身を脱力し手を水平に上げ強烈に全身で震える事をします。これはこころにストレスを感じたときとか、沈み込む様なよくない状態はそれにとらわれることが多いと思われます。この動作を行なうことで、こころが替わることを観ることができると思います。簡単なことですから、思いついたとき取り入れてはどうでしょうか(頭は振らないでください。めまいを起こす可能性がありますから)こころは身体が作り出す幻影だから身体から外していけば、こころが変わるきっかけになるのではないでしょうか
2023.07.04
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私という存在はその意識の流れはこの悠久の歴史の中で 私という人間の誕生とともに たった一度だけあらわれてそして私という人間の死とともに消え二度と繰り返さないこのような自己意識に関するセントラルドグマ(基本原則)は果たして正しいのか?私の意識の連続性という謎には、時間の流れの謎が関係している。そしてそこに、ペルクソンの論じた純粋記憶が重要なヒントとして浮上してくる。はたして私の意識の本性は何か?私たちは人間(身体)から離れてはいけないエピローグ一人ひとりの人間が私の意識をもって、この宇宙の歴史の中でたった一回だけ生まれてきて、それから死んでいくというのはおそらく勘違いだそれどころか私の意識が唯一のものだと言うこともきっと間違っている。この世界にはたった一つの意識しか無い記憶がつながっているとか、人格が似ているとか、そういうことで意識が区別できるという前提は本当は理論的にはあやしい昔ある物理学者がこの世界の電子の質量がみな同じなのは、実はこの宇宙には電子が一つしか無いからだと言ったように一人ひとりの意識が別々にあるというのは、生命を維持する上では必要なしかし究極的には間違っている幻想だ。実はこの宇宙には意識は一つしか無いのだ本当はこの世界にはたった一つの意識しか無いのだその言い方が穏当で無いというならばたった一つの意識のあり方しか無いのだクオリアと人工意識 より 茂木健一郎著
2023.07.01
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「ヨガ」とはサンスクリット語で「つながり」を意味しています。心と体、魂が繋がっている状態のことを表します。呼吸、姿勢、瞑想を組み合わせて、心身の緊張をほぐし、心の安定とやすらぎを得るものです。具体的には「調和」「統一」「バランス」を意味し、体・心・呼吸・食べ物など、あらゆるカテゴリーと関係しています。このような説明がありました。瞑想から見ると、こころとは身体が作り出す幻影であるので常に身体から始まることになります。例えば怒りやすい人は、常に力が入っており身体が強ばっていることが多いものです。前にも書きましたように身体から外れていけば余計なこころが起こらなくなるように思われます。
2023.07.01
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