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宮沢賢治の時代には、電極式のpH測定器は高価で操作の難しいものでした。 賢治の恩師、関豊太郎の著書「土壌学講義」では、実用的なpH分析は試験紙で行う、イカサマな製品が多いのでメルク社の試験紙を使うとよいと書かれています。 同書227ページ https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012110001/ メルク社のpH試験紙は、現代でも売っています。 現代では電極式のほうが簡単なので主流ですが、電池切れを心配しなくてもよい試験紙もまだまだ現役です。 下記は楽天アフィリエイトです。 メルク メルクpH試験紙ロールタイプ 中性域 5.5-9価格:1856円(税込、送料別) (2021/1/29時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #土壌 #土壌分析 #関豊太郎 #土壌学講義 #試験紙 #pH #肥料 #肥料設計 #肥料相談
2021.01.31
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宮沢賢治の時代は、土壌の酸度、pHをどのように測定していたのでしょうか。 現代では持ち運びに便利で安価で簡単な電極式pH測定器が購入できます。 家庭園芸用に土に差すだけの簡単なpHメーターもあります。 下記は楽天アフィリエイトへのリンクです。 【シンワ測定 SHINWA】シンワ測定 72724 土壌酸度 pH計 A価格:3090円(税込、送料別) (2021/1/28時点)楽天で購入 プロ向けの精度の高いもので、ポケットに入る便利なものでも、このぐらいのお値段です。 堀場製作所 HORIBA 堀場 コンパクトPHメータ LAQUAtwin PH‐11B LAQUATWIN-PH-11B価格:24200円(税込、送料別) (2021/1/29時点)楽天で購入 しかし、賢治の時代は違いました。 賢治の恩師の関豊太郎の著書「土壌学講義」では、電気化学的なpH測定法は、高価で精密な機械が必要で高度の注意と熟練が必要、と書いてあります。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020898 関豊太郎 著 「土壌学講義」224ページ https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012110001/ #宮沢賢治 #関豊太郎 #肥料 #肥料設計 #土壌 #土壌分析 #pH #石灰
2021.01.30
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タイトル「土」 著者 関豊太郎 著 出版者 誠文堂新光社 出版年月日 昭和19 国立国会図書館リンク https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1066618 賢治の死後に出版されたこの本には、恩師の賢治に対する評価が書かれています。 土壌学者として賢治の炭酸石灰普及活動を高く評価し、その死を悼む気持ちが伝わります。 (引用開始) (引用者が常用漢字、新仮名遣いに変換) 筆者は盛岡に在職中、附近に酸性土の多いのに寒心し、しきりにその矯正を勧誘した(大正の中ごろ)。(引用者略)その当時は、ほとんど反響がなかったが、東京へ移ってから数年後(大正の終わり)に花巻の宮沢(賢治)氏から「貴下の宿望であった石灰岩末の使用がよほどひろまってきて、隣県からも続々注文がある」という報知を得て、内心喜んだ。宮沢氏は「盛岡高農」の出身者であって、私財をなげうって郷里の農事改良にじんすい(引用者注 尽瘁、体力をことごとく使い尽くし疲れはてること)、没後、「童話」ですこぶる有名になった鬼才である。 (引用終了) 150~151ページ #宮沢賢治 #関豊太郎
2021.01.29
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宮沢賢治の恩師、関豊太郎が賢治の死後の1944(昭和19)年に著した「土」には、アレニウス表は、掲載されていませんでした。 賢治の当時は、オーロフ・アレニウスの理論は知られていたものの、アレニウス表にして簡便に肥料設計に活用することは、まだ、行われていなかったのかもしれません。調査継続中です。 国立国会図書館のリンクから無料で読めます。 タイトル 「土」 著者 関豊太郎 著 出版者 誠文堂新光社 出版年月日 1944(昭和19)年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1066618 #宮沢賢治 #関豊太郎 #オーロフ・アレニウス #アレニウス表 #石灰 #肥料
2021.01.28
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宮沢賢治に影響を与えた2人のアレニウスのうち、オーロフ・アレニウスの成果で、現代の農家や農業技術者に最も恩恵を与えているのは、アレニウス表だと思います。 農地の現在のpHと土質がわかれば、土壌酸度の改良に必要な炭酸石灰の量が簡単に計算できます。 賢治が肥料相談や炭酸石灰の普及販売に取り組んだころにアレニウス表は、あったのでしょうか。 ルーラル電子図書館 農業技術事典 アレニウス表換算法 http://lib.ruralnet.or.jp/nrpd/#box_search=%E8%AA%BF%E3%81%B9%E3%81%9F%E3%81%84%E8%A8%80%E8%91%89%E3%82%92%E5%85%A5%E5%8A%9B%E3%81%97%E3%81%A6%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%81%84&kensuu=100&sort=0&logic=1&page=0&bunya=&koumoku=10185&db=&uid=0 #宮沢賢治 #オーロフ・アレニウス #肥料 #石灰 #炭酸石灰 #アレニウス表
2021.01.27
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先日は、スヴァンテ・アレニウスが、化学者として、地球科学者、宇宙科学者として、賢治の作品と活動に影響を与えたと紹介しました。 今回は、同じスウェーデンのアレニウス一族の、オーロフ・アレニウスです。(たいへん紛らわしいので、注意が必要です。) オーロフは、石灰による酸性土壌の中和について研究した、偉大な農芸化学者です。 大正時代末に、2回来日し、賢治の恩師で土壌学者の関豊太郎とも会っています。 1926(大正15)年に著書「石灰問題 土壌反応と植物の生育」(kalkfrage bodenreaktion und pflanzenwachstum)を出版し、実用的な土壌中和石灰量の分析法を開発しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012050000/ 現代でも、農家や農業技術者が肥料設計でアレニウス表を便利に使っています。 ところで、オーロフは、日本ではスヴァンテ・アレニウスの甥と紹介されています。しかし、wikipedia(スウェーデン語版)ではスヴァンテの息子の名前もオーロフ・アレニウスと書かれています。謎です。 https://sv.wikipedia.org/wiki/Olof_Arrhenius
2021.01.26
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「宇宙発展論」 スヴァンテ・アレニウス 著, 一戸直蔵 訳 大倉書店, (大正3)年 https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000566662-00 宮沢賢治が読んだであろうこの本が、国立国会図書館のサイトから無料で読めます。 地球温暖化理論と雷等による空中での窒素化合物発生の記述が賢治の「グスコーブドリの伝記」に影響を与えたと思われます。 二酸化炭素による地球温暖化についての記述(85ページ) 雷等による空中の窒素化合物の記述(196から197ページ) また、宇宙観全体が「銀河鉄道の夜」に影響を与えたと思われます。 #宮沢賢治 #スヴァンテ・アレニウス #宇宙発展論 #グスコーブドリの伝記 #銀河鉄道の夜 #肥料
2021.01.25
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論文「宮沢賢治とアレニウスの宇宙観」(大沢正善氏 著)からのご紹介です。 スヴァンテ・アレニウスの「宇宙発展論」が、賢治の「グスコーブドリの伝記」の窒素肥料空中散布の表現に影響を与えたことが、論文の81ページに書かれています。 そのほか、「銀河鉄道の夜」の宇宙観への影響など興味深い論文です。 グーグルスカラーの下記ページの青いバナーをクリックするとPDF形式でダウンロードできます。 https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&q=%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9+%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB&oq=#d=gs_qabs&u=%23p%3DG5px2qwi4IYJ #宮沢賢治 #スヴァンテ・アレニウス #宇宙発展論 #グスコーブドリの伝記 #肥料
2021.01.24
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スヴァンテ・アレニウスは、宮沢賢治より約40才年上のスウェーデンの化学者です。 スヴァンテ・アレニウス https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9 酸性・アルカリ性の定義を定めたり、イオンの理論を確立してノーベル化学賞を受けたり、化学反応の速度を予測するアレニウスの式を発見した物理化学の創始者の一人であり、化学史の巨人です。現代でもコンクリートから抗ガン剤の製造までアレニウスの業績を引用しないと論文が書けないほどです。 本業の化学のほかに、二酸化炭素による地球温暖化効果を発見したり、宇宙の成り立ちや、生命の起源についての著作もあります。 賢治の活動も文学も、アレニウスに大きな影響を受けました。 賢治は石灰による酸性土壌の改良に取り組みましたが、そもそも酸性とは何か、決めたのはアレニウスです。 詩にも何回かアレニウスが登場します。また、グスコーブドリの伝記は、アレニウスの地球温暖化理論を文学に応用した、世界でも著しく早い事例といえます。また銀河鉄道の夜の宇宙観はアレニウスの影響を強く受けています。 なお、スヴァンテ・アレニウスと血縁関係にあるオーロフ・アレニウスも土壌の石灰による改良について研究した偉大な農芸化学者で、賢治の農村での活動に大きな影響を与えています。たいへん、紛らわしいので、注意が必要です。 オーロフ・アレニウスを取り上げた論文 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012050000/ #宮沢賢治 #スヴァンテ・アレニウス #アレニウス #地球温暖化 #アレニウスの式
2021.01.23
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糸井重里氏のほぼ日刊イトイ新聞のホームページに、吉本隆明氏の183回分にも及ぶ講演記録が掲載されています。 宮沢賢治の羅須地人協会時代の活動の評価など、参考となる講演が多数あります。 https://www.1101.com/yoshimoto_voice/ 吉本氏は、一見、辛口で賢治を批判しているようでありながら、とんでもなく高く評価しているところが、興味深いです。失礼ながら、ツンデレ、といった感があります。 たとえば、こんな表現です。 「宮沢賢治は、挫折もあり苦悩もあり失敗もありという生き方をしています。口でいろいろいうけれど、あるいは言葉でいろいろなことを書いたけれど、けっきょくは何もできないで終わってしまったではないかといえるところで、宮沢賢治は死んだと思います。 しかし、もしも人間の行為・表現の概念を、現実的な表現行為に限定しないで、幻想的な表現もある、死への表現もある、死後の世界への表現もあるというふうに拡張していくとすれば、宮沢賢治は近代日本の文学者として、人間として、最大限に行けるところまで行ったように思われます。」 (講演 「宮沢賢治の世界」より) https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a038.html #宮沢賢治 #吉本隆明 #講演 #ほぼ日刊イトイ新聞 #糸井重里
2021.01.22
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日経コンピューターの副編集長が、現代のコンピューター技術者の立場から、宮沢賢治の技術者としての姿勢を読み解いた、異色のエッセイです。 現代の農業技術者にも通じるところがあると思いました。 https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20060605/117827/ #宮沢賢治 #肥料設計 #技術者
2021.01.21
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宮沢賢治は2000枚の肥料設計書を書いたか、調べてきました。 賢治は、詩「野の師父」では「二千の施肥の設計を終へ」たと書いています。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012100000/ ある程度、事実を反映した表現と思われますが、詩は創作ですから、そのまま事実と認めることはできません。 肥料相談会を手伝った教え子と、岩手県農会職員の記録によれば、最低でも約300枚であると推定しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101190000/ 相談会場を約10か所、相談期間を9日、1日の枚数を30枚、3年間行ったとして、最高は約8000枚と推定しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101160000/ 約300枚から約8000枚のどこかに実際の枚数があると推定しました。 今後の新資料の発見に期待しながら結論としては、次のようにいたします。 【結論】正確な枚数はわからないが、数百枚から数千枚の肥料設計書を書いた。少なくとも、2000枚書かなかった、と断言することはできない。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料設計 #肥料相談 #枚数
2021.01.20
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以前は最高の枚数を推定しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101160000/ 今回は、最低の枚数を推定してみます。 1928(昭和3)年3月15~22日及び30日の9日間、石鳥谷(塚根)肥料相談所で1日あたり30枚書いたと教え子が証言しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101140000/ 1928(昭和3)年のある日、14~15人が並んでいたのを県農会職員が見ました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101170000/ 30枚×9日+14枚=284枚 残り9か所の会場では1枚も書かなかったという不自然な推定で、最低枚数は約300枚になります。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料相談 #肥料設計
2021.01.19
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宮沢賢治は2000枚の肥料設計書を書いたのでしょうか。 賢治が肥料相談所・講演会を開いた会場は、11か所のようです。1か所あたりの開催日数は、最長が石鳥谷(塚根)肥料相談所の9日間、最短が湯本小学校の1日間です。 1926(大正15・昭和1)年~1928(昭和3)の期間中、各会場で何回開催したのかが気になります。3年に1回と毎年1回では推定枚数に、3倍の差が出ます。 ヒントとなるのは、現存する肥料設計書です。 現存する23枚の肥料設計書のうち10枚が、前年との比較が可能です。 2年続けて、肥料相談を受けた農家が相当数いたと考えられます。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012070000/
2021.01.18
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先日、宮沢賢治の肥料相談所と講演会場は、10か所と書きました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101150000/ しかし、他にもありそうですので、訂正します。下記の資料のように14~15名が並ぶほどの人気の相談所を前述の10か所の他にも開いていたとなると、肥料設計書の推定枚数は上方修正しなくてはなりません。 さて、資料の説明です。県農会の機関誌に、旧土木管区事務所(現 岩手県花巻地区合同庁舎 花巻市花城町1-41と思われる)で肥料相談を行った様子が掲載されています。 岩手県花巻地区合同庁舎 https://www.pref.iwate.jp/kensei/kanzai/shinkoukyoku/1011356.html 移築された当時の建物 現 花巻市大迫交流活性化センター https://www.city.hanamaki.iwate.jp/shisetsu/bunka/1004122/1004126.html さて、半官半民の技術指導機関である県農会は、当時の、いわば主流の技術者たちの団体です。この資料を読むと、宮沢賢治の肥料相談活動が好意的に評価されていたことが、わかります。 宮沢賢治といえば、生前はあまり評価されなかった人という印象があります。 文学では当時の大半の主流の文学者からは、評価されていなかったり、文化社会政治活動は警察に弾圧されたりしました。 しかし、肥料相談活動が、当時の主流の技術者たちから、評価されていたことは、何かホッとするものを感じます。 文化社会政治活動を制限された、この時期の賢治が、肥料相談に力を注いだ気持ちがわかるような気がします。 タイトルに「特志家」という見慣れない表現が使われています。普通は「篤志家」です。誤字かもしれませんが、「特別な志」という意味かもしれません。 「農界の特志家 宮沢賢治君」より抜粋(『岩手県農会報』第 188号 1928(昭和3)年 26ページ) (本文開始) 最近二度ほど君の仕事を見たに、冬閑には農家の希望によつて学術講演に近村に出掛けて殆ど寧日がないとか、而して決して謝礼を受けない、昨今は旧土木管区事務所に出張して農家の相談相手となり肥料設計をして居る。数日前君の所謂店を利用したるに箱の様な代用机三四脚の腰掛け其処で十四五名の農家は順番に設計の出来るのを待つて居つた、非常に丁寧な遠慮深い農家達だと思つたに、此は皆な無料設計で用紙なども自宅印刷なのであつた。自己を節するに勇敢で他に奉ずることに厚いと噂に聞いて居る宮沢君は世評の如く誠にかざらざる服装で如何にも農民の有力な味方の感があつた。 (本文終了) #宮沢賢治 #肥料 #肥料相談 #肥料設計 #農会 #岩手県農会報 #旧土木管区事務所 #農界の特志家宮沢賢治君
2021.01.17
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宮沢賢治は2000枚の肥料設計書を書いたのでしょうか。 各相談所の開催日数が不明であるなど、残された資料が少なくて、正確な推定はできません。 そこで、いっそ最高でどのくらいの数になりうるか、推定してみました。 記録された1日あたり最高の肥料設計書数は、30枚でした。 1か所あたりの1シーズンあたりの最長開催日数は、9日間でした。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101140000/ 肥料相談、講演の会場数は、10か所でした。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101150000/ 賢治が肥料相談所を開いた年は、主に1926(大正15・昭和1)年から、1928(昭和3)年の3年間です。 単純に最高の数をかけ算すると、 30枚×9日×10か所×3年=8100枚 ものすごい数になってしまいました。 これは、明らかにありえません。 次回は、ここから削りながら妥当な枚数を探ります。 上記のように、1月16日に書きましたが、訂正します。旧土木管区事務所での肥料相談が抜けていました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101170000/ 肥料相談・講演会場は、さらに増える可能性がありますので、いったん枚数の推定を先延ばしします。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料相談 #肥料設計 #講演
2021.01.16
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宮沢賢治は2000枚の肥料設計書を書いたのでしょうか?今回は会場の数を調べました。 石鳥谷(好地村)では、1928(昭和3)年3月15日から3月22日と、好評のため追加で3月30日の9日間肥料相談所を開きました。1日に30枚の肥料設計書を書き、講演も行いました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101140000/ こうした肥料相談や農事講演会を1926(大正15・昭和1)年~1928(昭和3)年を中心に行いました。 肥料相談や農事講演会を開いた主な場所は次のとおりです。 ・十二鏑村 時期不明 ・湯本小学校 1928(昭和3)年2月9日 ・好地村塚根(石鳥谷) 1928(昭和3)年3月15日~3月22日、3月30日 ・ 湯口村 鍋倉 宝閑小学校 時期不明 ・湯本村 大瀬川 時期不明 ・根子村 西一二丁目 時期不明 ・湯本村 狼沢 時期不明 ・花巻下町 宮右商店 時期不明 ・矢沢村母衣輪 時期不明 ・花巻町 新田 時期不明 計10か所のようで、残念ながら、詳しい時期は多くが不明です。湯本小学校のように1日だけの場所もあれば、好地村塚根(石鳥谷)のように9日間行ったところもありました。 上記のように、1月15日に書きましたが、訂正します。旧土木管区事務所での肥料相談が抜けていました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101170000/ 肥料相談・講演会場数は10か所を超えるものと思われます。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料相談 #肥料設計 #講演
2021.01.15
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宮沢賢治が2000枚の肥料設計書を書いたのか、考えています。 賢治は花巻周辺に数ヶ所の肥料相談所を開きました。そのうち最も記録が残っているのは石鳥谷肥料相談所です。建物は現存していませんが、案内板が立てられ、当時の様子を伝えています。 https://www.city.hanamaki.iwate.jp/shisetsu/kanko/1007048.html 案内板の記述からわかるのは次のことです。 ・この記録の相談期間は1928(昭和3)年3月15日から1週間 ・開始前から10人が並ぶほどの人気 ・相談時間は午前8時から午後4時 ・9時、10時とすすむにつれ人が増えた ・開始から午後1時過ぎまで30枚を整理した ・午後は講演であった (本文開始) 石鳥谷肥料相談所跡 昭和三年三月十五目から一週間、ここで宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました。これは、賢治先生の愛弟子であった菊池信一氏の努力と、当時の柳原一郎町長や照井源三郎氏の協力によって実現したものでした。 当時の相談所の面影は写真でしかわかりませんが、菊池信一氏は、「石鳥谷肥料相談所の思い出」の一文に、その模様を次のように表しています。 『店には八畳敷と土間が提供され、荒作りの大きな卓子(テーブル)と大鉢が二・三個あり、囲りの壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲の図が十数枚貼られ、かぜにガワガワゆらいでいた。毎朝七時半の列車で石鳥谷駅におり立った賢治先生は、羅紗の鳥打帽子に茶羅紗の洋服をまとわれていた。そして、ゴムのだるま靴を履かれ、鞄を抱えた左肩を斜めに上げて右腕を大きく振って来られた。 相談所にはすでに十人も待って居り、農民達は皆外に出て先生を迎えた。 毎朝午前八時より午後四時まで休む暇もなく続けざまに肥料設計をされたが、煙草を喫わない先生は一々ていねいにお辞儀をされながら用紙を取り出して順番を譲り合っている農民に対応された。 「石鳥谷の人達はみんな質がいい」先生はいつか云われた。そして又「河西の人達は一帯に土地が痩せていて農作には尠しも油断がならないのです。こうした一面からも因襲的に村の人達の性質が培われるのでせう」と。九時十時とすすむにつれ、人が増えて来た。仕事を分担して僕は土地の景況と前年度の栽培状況を調査。先生はその後をうけて今年度の施用肥料の施用肥料の設計をやられた。 大馬力で三十枚ほども整理し、お昼飯をしたのは一時すぎだ。午後は「稲作と肥料」に関する講演であった。 その年は天候不順であったが、設計に当たっては陸羽一三二号種を極力勧められた。これにより秋は二割方増収であった。」 この肥料相談所と周りの情景を 詩「三月」として賢治先生は残されています。 (本文終了) #宮沢賢治 #石鳥谷肥料相談所跡 #肥料 #肥料相談 #菊池信一
2021.01.14
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宮沢賢治は、詩「野の師父」で2000枚の稲作の肥料設計をしたと書いています。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012100000/ ただ詩は創作ですから事実とは限りません。現存する肥料設計書は23枚です。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012070000/ 2000枚とは、超人的な数ですが本当に可能だったのか考察します。 #宮沢賢治 #肥料 #肥料設計 #水稲 #稲作
2021.01.13
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宮沢賢治は1927(昭和2)年にリヤカーで野菜を売りに行く姿を、農民から嫉妬される詩を書きました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101030000/ リヤカーは、1921年ごろに登場したもので、当時はまだまだ珍しく高価なものでした。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101040000/ 価格そのものは、裕福な農家なら買えない値段ではありませんでしたが、新しすぎたのかもしれません。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101070000/ ただ、賢治が嫉妬と思った視線は、むしろ羨望だったかもしれません。 詩から8年後、賢治の死の2年後の、昭和10年には、リヤカーの価格は半分となりました。 すると、昭和15年には、岩手県の農業用リヤカーは3万台を超えるほど普及しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101060000/ 賢治のリヤカーは、10年早かったのかもしれません。 #宮沢賢治 #リヤカー #リアカー
2021.01.12
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宮沢賢治が1927(昭和2)年にリヤカーを農作業に使って、嫉妬された問題を調べています。 井上ひさし氏は、著書「宮沢賢治に聞く」で花巻には当時は20台程度しかリヤカーがなかったと書いています。 価格が高いのは確かですが、裕福な商家や農家なら買えない値段ではありません。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101100000/ 価格の問題よりも、まだまだ新しすぎたのかもしれません。 下記は楽天アフィリエイトです。 【中古】 宮沢賢治に聞く 文春文庫/井上ひさし(著者) 【中古】afb価格:200円(税込、送料別) (2021/1/11時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #リヤカー #リアカー
2021.01.11
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宮沢賢治が新奇で高価なリヤカーを農作業に使い、嫉妬された問題を調べています。 岩手県の農家の一戸あたり産出額(ほぼ売上額)とリヤカーの値段を比較しました。 1930(昭和5)年(リヤカーの詩の3年後) 一戸あたり年間産出額 約405円 25円のリヤカーは、 一戸あたり産出額の約23日分 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101080000/ 2015(平成27)年 一戸あたり年間産出額 約378万円 15万4千円のリヤカーは、 一戸あたり産出額の約15日分 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101050000/ やはり、当時のリヤカーは、現代より高価なものだったと考えられます。 ただし、現代より何十倍も高価というわけではなかったようです。一部の評論家等は、「当時のリヤカーは、現代のベンツ」といっていますが、それはオーバーな表現だと思います。 なお、留意していただきたいことがあります。 当時と現在の統計では、産出額や農家数の定義、また、リヤカーの送料も異なります。さらに当時は農家間の貧富の差も大きく、平均産出額が農家一般の実態をあらわしていない可能性もあります。また、農家一戸あたりの家族数も当時のほうが多く、多くの労力をかけています。 #宮沢賢治 #リヤカー #リアカー 下記は楽天アフィリエイトのリンクです。 【運搬作業用品-リヤカー】ハラックス スチールリヤカー 3号NG SSR-3NG ノーパンクタイヤ(合板パネル付) <大型・重量商品>価格:154500円(税込、送料無料) (2021/1/10時点)楽天で購入
2021.01.10
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宮沢賢治研究家の鈴木守氏が、ブログで、リヤカーを引く賢治風の人物の写真について、考察されています。 https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/f6daf57924815f25b2b2edd0ad110f26 賢治の死後、賢治のコスプレ?の小道具としてリヤカーが使われるほど、賢治とリヤカーが結び付いて考えられていると思うと感慨深いものがあります。 #宮沢賢治 #リヤカー #リアカー
2021.01.09
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岩手県勢要覧 昭和6年版 から引用 1930(昭和5)年の岩手県の 農産物生産額 3823万8748円 職業別戸数 農業 94475戸 これから計算すると 一戸あたり年間生産額 約405円 25円のリヤカーは、 一戸あたり生産額の約23日分 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3460251 #宮沢賢治 #リヤカー #リアカー
2021.01.08
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1927(昭和2)年に農産物の出荷にリヤカーを使って、宮沢賢治が嫉妬された問題を調べています。 当時のリヤカーの価格の資料がありました。下記論文によると、1930(昭和5)年のチラシでは並クラスで1台25円です。また同論文の1935(昭和10)年のチラシでは、1台12円60銭とあり、5年間で大幅に値下がりしたようです。賢治の死後、リヤカーが急速に普及した原因のひとつと思われます。 論文「国産リヤカーの出現前後」 産業考古学会評議員 梶原利夫 氏 一般財団法人 自転車産業振興協会 技術研究所ホームページから検索できます。 http://www.jbtc.or.jp/tech.php 1930(昭和5)年のリヤカーのチラシ 1935(昭和10)年のリヤカーのチラシ #宮沢賢治 #リヤカー #リアカー
2021.01.07
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1927(昭和2)年ごろ宮沢賢治が農産物の運搬に使って嫉妬されたというリヤカー。 それから13年後、賢治の死から7年後の1940(昭和15)年には、岩手県の農業用リヤカーは3万台を超えていました。 「昔、変わった先生がリヤカーを使っていて、不思議に思ったが、使ってみたら、こんなに便利なものはない」などと思っていた農家もいたかもしれません。またしても賢治は10年早すぎたのかもしれません。 急に農家にリヤカーが普及した背景を考えてみます。 この資料のまえがきには、「農業用生産諸資材は同時に各種軍需用資材に転用し得る性質を有する」とあります。列強にくらべてトラックの生産量の少ない日本にとって、人力で兵器や弾薬を運べるリヤカーは、期待の新兵器でした。しかし、軍用リヤカーを大量に準備する余裕もありませんでした。そこで、農家にリヤカーを普及して、いざというとき徴発して軍で使おうという考えがあったと思われます。 国立国会図書館のサイトより 農業用生産資材需要量調査第1報(1942(昭和17)年発行)帝国農会 編 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124672 #宮沢賢治 #リアカー #リヤカー
2021.01.06
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宮沢賢治が、当時としては高価なリヤカーを農作業に使っていたため、周辺農家から嫉妬され、活動に支障があったのではないか、という問題を調べています。 まずは、現代のリヤカーはいくらするのか、楽天アフィリエイトで検索してみました。 アルミ製の積載重量100kgぐらいの小型の3万円ぐらいのものが、現代ではよく売れているようです。重いものはトラックで運ぶので、小さいものでよいのでしょう。 しかし、賢治が使ったのはスチール製のがっちりした下記のような積載重量300kgぐらいの大きめのリヤカーと思われます。価格は15万4千円くらいです。 【4日23:59まで ポイント3倍】スチール製 リヤカー 合板パネル付 235*124(cm) 仙台銘板 SSR-4NG価格:153912円(税込、送料無料) (2021/1/4時点)楽天で購入 現代の平成27年度の岩手県の農家1戸あたり農業所得は129万4千円です。 「岩手県農業の指標」より http://www3.pref.iwate.jp/webdb/view/outside/s14Tokei/top.html 15万4千円のリヤカーは、現代の岩手県の農家所得43日分の計算となります。 また、岩手県の農業産出額(おおむね売上)と農業従事者数、そこから算出したリヤカーとの対比は次のとおりです。 県農業産出額 2494億円 農業従事者数 70357人 一人あたり産出額 約354万5千円 リヤカーは産出額16日分 また、総農家数で比較すると 総農家数 66099戸 一戸あたり産出額 約378万円 リヤカーは産出額15日分
2021.01.05
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Wikipediaのリヤカーに関する記述です。 1921(大正10)年ころ、静岡県の望月虎一氏が発明したとのことです。 宮沢賢治が農学校教師になったころに発明されたことになります。羅須地人協会時代の賢治がリヤカーで市場に野菜を売りに行く詩を書いたのは、1927(昭和2)年ですから、発明されてからまだおよそ6年後です。確かにまだ珍しかっただろうと思います。 リヤカーが出てくる賢治の詩はこちら https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101030000/ 現在の2021年からみて、最近できた目立つ機械等を考えてみます。燃料電池自動車トヨタ「ミライ」が発売されたのが7年前の2014年です。また、準天頂衛星「みちびき」を活用したトラクターの高精度ナビゲーションシステムは2010年ころの運用開始でした。 賢治の当時の農家には、リヤカーが「ミライ」や「みちびき」のように、新しく、高価な、嫉妬を誘うもののように見えたのかもしれません。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%BC #宮沢賢治 #リヤカー #リアカー #羅須地人協会
2021.01.04
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当時、高価だったリヤカーを宮沢賢治が農産物運搬に使っていたために、周辺農家から嫉妬されて、賢治の農村所得向上活動に支障があったという説があります。 この詩では、作者を反映した主人公が、雪菜とヒアシンスをリヤカー(文中ではレアカー)に積んで売りに行きます。その途中で会った、程吉という馬を連れた人物から嫉妬の視線らしきものを向けられます。 現代ですと、リヤカーより馬のほうが高価で、なかなか想像しにくいですが、当時の価格などもこの後調べたいと思います。 #宮沢賢治 #同心町の夜あけがた #羅須地人協会 #雪菜 #ヒアシンス (本文開始) 一九二七、四、二一 同心町の夜あけがた 一列の淡い電燈 春めいた浅葱いろしたもやのなかから ぼんやりけぶる東のそらの 海泡石のこっちの方を 馬をひいてわたくしにならび 町をさしてあるきながら 程吉はまた横眼でみる わたくしのレアカーのなかの 青い雪菜が原因ならば それは一種の嫉視であるが 乾いて軽く明日は消える 切りとってきた六本の ヒアシンスの穂が原因ならば それもなかばは嫉視であって わたくしはそれを作らなければそれで済む どんな奇怪な考が わたくしにあるかをはかりかねて さういふふうに見るならば それは懼れて見るといふ わたくしはもっと明らかに物を云ひ あたり前にしばらく行動すれば 間もなくそれは消えるであらう われわれ学校を出て来たもの われわれ町に育ったもの われわれ月給をとったことのあるもの それ全体への疑ひや 漠然とした反感ならば 容易にこれは抜き得ない 向ふの坂の下り口で 犬が三疋じゃれてゐる 子供が一人ぽろっと出る あすこまで行けば あのこどもが わたくしのヒアシンスの花を 呉れ呉れといって叫ぶのは いつもの朝の恒例である 見給へ新らしい伯林青を じぶんでこてこて塗りあげて 置きすてられたその屋台店の主人は あの胡桃の木の枝をひろげる 裏の小さな石屋根の下で これからねむるのでないか (本文終了)
2021.01.03
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このところ、宮沢賢治の白菜の普及活動が挫折したことについて考えてきました。残念ながら、白菜は10年早かったようです。 次に、早すぎた、と言われているものとして、農作業へのリヤカーの導入について考えてみます。 下記の論文でも、「賢治が「レアカー」を礫いても,そのリアカー自体が当時としては高級なもので妬みの対象であったとも言われている。」と書かれています。(11ページ、下から3行目 「レアカー」はリヤカーの賢治の表現、「リアカー」は山本氏の表現です。) 農産物にしろ、肥料にしろ、手で持ったり、天秤棒でかつぐより、明らかに便利で楽で能率の高いリヤカーが、なぜそんなに妬まれたのか。なぜ賢治の活動の障害となったのか。リヤカーどころか、軽トラが農村を走り回る現代からみると、なかなか理解が難しいところです。 また、それでは一般の農家には、昭和何年ころから、リヤカーは普及したのでしょうか。何年、賢治の取り組みは早すぎたのでしょうか。 そうしたことを検討していきたいと思います。 (論文)教室の風景―賢治と学校(山本昭彦氏) 下記リンクを開き、青いバナーをクリックすると、PDF形式でダウンロードできます。 https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&q=%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB+%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%BC&oq=#d=gs_qabs&u=%23p%3D64HS7lYXfTIJ #宮沢賢治 #羅須地人協会 #リアカー
2021.01.02
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明けましておめでとうございます。 昨年は当ブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。 今年もよろしくお願いします。 画像は、宮沢賢治が、盛岡高等農林学校時代の親友で同人誌アザリアを共に作った、河本義行に送った年賀状です。このころ賢治は小康状態にあったようで、何通か親しい人に年賀状を出しています。 河本は鳥取県立倉吉農学校に教師として勤めながら、河本緑石の名で自由律俳句や詩をつくり活躍していました。年賀状文中の「お作」は、河本の自由律俳句のことかもしれません。 この年、1933(昭和8)年7月、河本は溺れた同僚を救助して残念なことに溺死してしまいます。また、賢治も同年9月に病死し、二人にとって最後の年賀状となりました。 (本文開始) 謹賀新正 昭和八年一月一日 岩手県花巻町 宮沢賢治 ご無沙汰いたしました。この数年意気地なく疾んでばかり居りました。お作拝見いたしたう存じます。 (本文終了) #宮沢賢治 #河本義行 #河本緑石 #年賀状 #農学校
2021.01.01
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