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前回は、「三原 第二部」の冒頭の、土壌の成り立ちと、肥料成分に関する部分をご紹介しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106290000/ 今回は、「三原 第二部」の続きで、土壌水分の動きと干ばつ対策について、伊豆大島に招かれた賢治が実習と講義をする部分をご紹介します。 賢治が友人に、まるで立て板に水の勢いで、生き生きと話すようすが目に浮かぶようです。この畑には友人の妹もいたのかどうか、気になるところです。 賢治は「或る農学生の日誌」で三年続きの干ばつを扱いました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106220000/ ここでも干ばつ対策に力を入れています。干ばつの被害が、賢治のその後の考えと行動を変えたことがここでもわかります。 敷草やソイルマルチの理論と効果について説明しています。 友人は雑草をわざと残して敷草の代わりにできないか質問します。いわゆる草生栽培です。賢治は雑草を悪質な銀行に例える面白い比喩で答えます。 (本文開始) 三原 第二部 一九二八、六、一四、 (略) たゞ旱害がときどき来るかもしれません けれどもそれもいはゆる乾燥地農法では ほとんど仲間に入らないかもしれません まあ敷草と浅土層をつくること この二つが一ばん手ごろとおもひます つまりはげしい日でりのなかで 十ミリ雨が降ったとき、 (何ミリ降ったかそれはたとへば小屋の屋根の平坪と 貯水タンクの底面積を比較して その係数をだして置き タンクの水の増量を見てもわかります) またすぐ日が照りだしたりすると この十ミリは全く土の深い方には届かずに わづかに表部の根を刺戟して いままでなれたそのつゝましい蒸散を 俄かに拡大したまゝで 水がそのまゝ蒸発すれば 植物体はあとで却って弱ることさへあるのです そのときもしもかういふふうな浅土層をつくるなら その水湿は蒸発せずに 徐々に深部に浸み通り 夜分にかけてよく植物を養ひませう いったいかういふ砂質で 割合深い土壌では ひるの間はすっかり土も乾いたやうに見えてゐて 朝にはすっかり湿ってゐるのが普通です それは土壌が一方毛管作用によって 底の方から水をとってはゐるのですが ひるはそいつが蒸発分を補ふことができないで 夜には余りあるのです 若しも昼にもソイルマルチや敷藁や あるひは日蔭を与へることで 二つの相償させますならば 一晩ぐらゐの雨さへあれば そのあと二十日やそこらは大低困りません 雑草ですか いゝえそいつはちがひます 草は日蔭はつくっても 一方自分がごく精巧な一つの蒸散器官でせう つまり自分が土壌の深くに吸引性の支店をもった たこ配当の銀行などと同じことです あなたの大事の預金をふいにしたといふ さういふ風の銀行ですな (以下、略) 次回は家庭菜園にも役立ちそうな、種まきに関する講義と実習です。 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/6/30時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #三原 #第二部 #伊藤七雄 #伊豆大島 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.30
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前回は、「三原 第一部」をご紹介しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106280000/ 「三原 第二部」は、伊豆大島に農芸学校を計画中の友人伊藤七雄に招かれた賢治の栽培学講義です。 冒頭は、伊豆大島の畑の土壌に関する解説です。 火山灰が気層でふるいわけられ、粒径がそろった火山灰土壌のもととなる、という、賢治ならではの壮大な表現がみられます。 また、土壌分析の機械や薬品が高価だった時代ですので、作物の生育から、土壌の肥料成分を推定しています。 (本文開始) 三原 第二部 一九二八、六、一四、 かういふ土ははだしがちゃうどいゝのです 噴かれた灰が・・・のメソッドとかいふやうなもので 気層のなかですっかり篩ひわけられたので こゝらはいちめんちゃうど手頃な半ミリ以下になってゐて 礫もなければあんまり多くの膠質体もないのです それで腐植も適量にあり 荳科のものがひとりで大へん育つところを考へますと 石灰なども決して少くないやうすです 燐酸の方はこれからだんだんわかります (本文以下、略) 次回も、「三原 第二部」をご紹介します。干ばつ対策と、よりよい発芽についての賢治先生の講義です。 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/6/29時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #伊豆大島 #伊藤七雄 #三原 #第二部 #石灰 #リン酸
2021.06.29
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1928(昭和3)年6月、宮沢賢治は、友人伊藤七雄の招きで伊豆大島に向かいました。伊藤が計画していた農芸学校の相談のためです。伊藤には、妹チヱと賢治を結婚させたいという考えがあり「お見合い」を兼ねていた、という説もあります。 東京から伊豆大島に向かう船で、賢治は「三原 第一部」を書きました。 前半は東京の工業的、機械的な港の様子です。 最後の部分は、これから向かう伊豆大島を有機的、植物的に表現しています。 「……南の海の/南の海の/はげしい熱気とけむりのなかから/ひらかぬまゝにさえざえ芳り/つひにひらかず水にこぼれる/巨きな花の蕾がある」 残念ながら、伊藤の農芸学校は、伊藤の死により一年で廃校となります。また、賢治とチヱの「お見合い」も実らず二人は結婚しませんでした。 蕾がついに開かず、というこの詩の表現と、学校や「お見合い」の結果との奇妙な一致が気にかかります。賢治は学校にも、結婚にも、期待していたはずです。一方、どこかで上手く行かないのではないかとの不安もあり、それが詩の表現として現れたのかもしれません。 (本文開始) 三原 第一部 一九二八、六、一三、 ぼんやりこめた煙のなかで 澱んだ夏の雲のま下で 鉄の弧をした永代橋が にぶい色した一つの電車を通したときに もうこの船はうごいてゐた しゅんせつ船の黒い函 赤く巨きな二つの煙突 あちこちに吹く石油のけむり またなまめかしい岸の緑の草の氈 この東京のけむりのなかに 一すじあがる白金ののろし 東は明るく 幾箇はたらくその水平な鉄の腕 うづまくけむりと雲の下 浜の離宮の黒い松の梢には 鶴もむれまた鵝もむれる きらきら光って 船から船へ流れて落ちる黒炭の屑 へさきの上でほのほも見えずたかれる火 西はいま黒鉛のそら いくすじひかる水脈のうね ガスの会社のタンクとやぐら しづかに降りる起重機の腕 中の台場に立つものは 低い燈台四本のポール 三角標にやなぎとくるみ 緑の草は絨たんになり 南面はひかる草穂なみ その石垣のふもとには 川から棄てた折函や・・・ 向ふからいまひかって来るのは 小く白いモーターボートと ひきづなにつゞく 九隻の汽船 次の台場は草ばかり またその次は草も剥ぎ 黄土あらはに楊も見えず うしろはけぶる東京市 ことにも何か・・・の その灰いろの建物と 同じいいろの煙突そらにけむりを吐けば そのしたからもくろけむり 早くも船は海にたちたる鉄さくと 鉄の門をば通り抜け 日光いろの泡をたて アクチノライトの水脈をも引いて 砒素鏡などをつくりはじめる 品川の海 品川の海 甘ずっぱい雲の向ふに 船もうちくらむ品川の海 海気と甘ずっぱい雲の下 なまめかしく青い水平線に 日に蔭るほ船の列が 夢のやうにそのおのおののいとなみをする ……南の海の 南の海の はげしい熱気とけむりのなかから ひらかぬまゝにさえざえ芳り つひにひらかず水にこぼれる 巨きな花の蕾がある…… (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/6/28時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #伊藤七雄 #伊藤チヱ #伊藤ちえ #伊豆大島 #三原
2021.06.28
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伊藤チヱは、宮沢賢治の友人伊藤七雄の妹です。岩手県水沢出身1905(明治38)年生まれで、賢治の9歳年下です。 兄と同じく社会を良くしようという気持ちが強い人だったようです。東京の二葉保育園で、保母として貧しい子どもたちの保育に取り組みました。 二葉保育園のホームページには当時の「貧民窟」における活動のようすが掲載されています。 https://www.futaba-yuka.or.jp/history/ 大正時代の二葉保育園の活動について次のとおりまとめられています。 「明治末期より大正にかけて「青踏」を代表とする婦人運動が始まり、エレンケイの「児童の世紀」も紹介された。女性と児童の時代と言われたが、米騒動、恐慌と社会的な混乱も大きかった。乳幼児の死亡率の増加は、一般家庭の問題となった。慈善事業から社会事業へと移行する中で、本園、旭町分園の事業も図書部、裁縫部、夜間診療部、廉売部、五銭食堂と内容を拡張していった。 本園では母の家を開設し、母子寮の先駆となった。これは従来から身の上相談にのったり、住居提供していた実績から生まれたものである。」 賢治を尊敬していた伊藤七雄には、妹チヱと賢治を結婚させたいという考えがあったという説もあります。賢治とチエは、花巻と伊豆大島で2回会ったようですが、結婚にはいたりませんでした。 チヱは、賢治の没後、賢治と自分の関係を他人に詮索されることを嫌いました。当時のことについて多くを語ることなく、1989(平成元)年に亡くなりました。 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/6/26時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #伊藤チヱ #伊藤七雄 #伊豆大島
2021.06.27
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宮沢賢治を伊豆大島に招いた友人、伊藤七雄とはどんな人でしょう。 伊藤七雄は、賢治より2歳若い、1898(明治31)年生まれ、岩手県水沢の出身です。実家は大きな製粉所を持つ豪農でした。 早稲田大学在学中から、社会主義運動に従事し労農党幹部になりました。 賢治は、岩手県の労農党組織に多額の寄付をしたり、労農党員の小作農の無料肥料設計などをしていた支援者でした。 二人は労農党支部の総会などで出会い、農村の救済や教育活動について意気投合したものと思われます。 伊藤は結核の療養のため伊豆大島に移住し、ここに農芸学校の設立を計画しました。そこで賢治に相談するため賢治を伊豆大島に招きました。1926(大正15)年まで農学校教師の経験があり、同年に羅須地人協会を設立し農村教育活動をしていた賢治に教わりたいことが多かったのでしょう。 1931(昭和5)年に大島農芸学校は開校しました。しかし、1932(昭和6)年1月に伊藤が死去し、学校も廃校になってしまいました。 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/6/26時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #伊藤七雄 #伊豆大島 #農芸学校
2021.06.26
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宮沢賢治は、1928(昭和3)年6月はじめから、伊豆大島と東京を約3週間旅行し、6月24日に、岩手県花巻に帰郷しました。そのころ書かれた詩です。 友人の伊藤七雄は伊豆大島に農業の学校の建設を計画していました。その相談のため七雄が賢治を招きました。 また、七雄には、妹のチヱと賢治を結婚させたい、という考えがあったともいわれています。 結局、賢治とチヱは結婚にはいたりませんでした。 この詩では、地元岩手県の農家のために、周辺の農村を歩いてまわろうという、決意が示されています。 (本文開始) 澱った光の澱の底 夜ひるのあの騒音のなかから わたくしはいますきとほってうすらつめたく シトリンの天と浅黄の山と 青々つづく稲の氈 わが岩手県へ帰って来た こゝではいつも 電燈がみな黄いろなダリヤの花に咲き 雀は泳ぐやうにしてその灯のしたにひるがへるし 麦もざくざく黄いろにみのり 雲がしづかな虹彩をつくって 山脈の上にわたってゐる これがわたくしのシャツであり これらがわたくしのたべたものである 眠りのたらぬこの二週間 瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが さああしたからわたくしは あの古い麦わらの帽子をかぶり 黄いろな木綿の寛衣をつけて 南は二子の沖積地から 飯豊 太田 湯口 宮の目 湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に 稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/6/25時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #伊豆大島 #伊藤七雄 #伊藤チエ
2021.06.25
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1924(大正13)年6月21日の詩です。 1羽あるいは複数のカッコウが飛ぶようすを、物理化学的な数や量の遷移にたとえつつ、亡くなった妹を追慕する詩です。 1922(大正11)年11月27日に最愛の妹、トシは、結核で亡くなりました。それから約1年半たっても、何を見ても亡き妹が思い出される賢治です。 鳥や自分という生命体を、個体ではなく、物理化学的な現象としてとらえる考え方や感覚は、「春と修羅」序文にも通じるように思われます。 「序/わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)」 (本文開始) 二七 鳥の遷移 一九二四、六、廿一、 鳥がいっぴき葱緑の天をわたって行く わたくしは二こゑのかくこうを聴く からだがひどく巨きくて それにコースも水平なので 誰か模型に弾条(バネ)でもつけて飛ばしたやう それだけどこか気の毒だ 鳥は遷り さっきの声は時間の軸で 青い鏃のグラフをつくる ……きららかに畳む山彙と 水いろのそらの縁辺…… 鳥の形はもう見えず いまわたくしのいもうとの 墓場の方で啼いてゐる ……その墓森の松のかげから 黄いろな電車がすべってくる ガラスがいちまいふるえてひかる もう一枚がならんでひかる…… 鳥はいつかずっとうしろの 練瓦工場の森にまはって啼いてゐる あるひはそれはべつのかくこうで さっきのやつはまだくちはしをつぐんだまま 水を呑みたさうにしてそらを見上げながら 墓のうしろの松の木などに、 とまってゐるかもわからない (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/6/23時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #カッコウ #トシ #遷移 #鳥の遷移
2021.06.24
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干ばつと宮沢賢治といえば、この詩を忘れることはできません。 晩年の1931年11月に書かれ、没後の1934年に発見されました。 この詩では、ヒデリは「ヒドリ」と書かれており、誤記とみられます。 (本文開始) 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ 負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ 南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/6/23時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #干ばつ #ヒデリ #雨ニモマケズ
2021.06.23
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青空文庫 「或る農学生の日誌」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html これまで、「或る農学生の日誌」の干ばつに関する表現を調べてきました。 1925(大正14)年4月から始まるこの作品では、1924(大正13)年から1926(大正15)年までの3年間続いた干ばつの被害が描かれていました。 1925年4月の日誌という形で、干ばつの被害のため学校をやめる生徒が描かれました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106160000/ また、学校で習った測量技術を生かして収量を向上し、干ばつの被害額を取り戻す豊作をめざす、生徒が描かれました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106170000/ 1925年5月の日誌の形式で、干ばつの被害のため修学旅行参加が危ぶまれた生徒が描かれました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106180000/ 1926年3月の日誌の形式で、塩水選で浮く籾から、前年の干ばつの深刻さが描写されました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106190000/ 1926年6月の日誌の形式で、深刻な水争いが描かれました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106200000/ 創作ですから、もちろん事実そのままではありません。しかし、農学校教師の経験が生かされ、被害の様子がまるで目の前の現実のように迫ってきます。 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/22時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #或る農学生の日誌 #干ばつ #ヒデリ #宮沢賢治 #或る農学生の日誌 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.22
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青空文庫 「或る農学生の日誌」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html 前回、主人公が農業用水の番をしていると、水を勝手に使う人物が現れました。 当然、主人公と口論になります。 「何をするんだと云ったら、なんだ、農学校終わったって自分だけいいことをするなと云うのだ。ぼくもむっとした。何だ、農学校なぞ終っても終らなくてもいまはぼくのとこの番にあたって水を引いているのだ。それを盗んで行くとは何だ。と云ったら、学校へ入ったんでしゃべれるようになったもんな、と云う。ぼくはもう大きな石をたたきつけてやろうとさえ思った。」 小学卒が当たり前の当時の農村で、高等小学校を卒業し、農学校に入る人はごく一部でした。花巻女学校の女学生からは「桑っこ大学」と揶揄された花巻農学校ですが、農村では羨望の的でした。現在の中学3年から高校2年生にあたる三年制の学校でした。 「 けれども権十はそのまま行ってしまったから、ぼくは水をうちの方へ向け直した。やっぱり権十はぼくを子供だと思ってぼくだけ居たものだからあんなことをしたのだ。いまにみろ、ぼくは卑怯なやつらはみんな片っぱしから叩きつけてやるから。」 卑怯なやつらを叩きつける、という表現は、この時期の作品によく登場します。このころ賢治には、社会の悪に対する怒りがあったのかもしれません。 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/21時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #或る農学生の日誌 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.21
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青空文庫 「或る農学生の日誌」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html 1926年6月14日の日誌です。 創作ですから、事実そのままではありません。しかし、干ばつによる水争いは実際に起きています。賢治はそうした話を生徒や村人から聞いていたのでしょう。 当時は6月10日が田植えの盛期でした。 「一千九百二十六年六月十四日 今日はやっと正午から七時まで番水があたったので樋番をした。何せ去年からの巨きなひびもあるとみえて水はなかなかたまらなかった。」 番水とは、地域の農家が決められた順番で用水をかけることです。樋番は、用水を勝手にかける者がいないよう、用水を見張ることです。 「水が来なくなって下田の代掻ができなくなってから今日で恰度十二日雨が降らない。いったいそらがどう変わったのだろう。あんな旱魃の二年続つづいた記録が無ないと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。大堰の水もまるで四寸ぐらいしかない。夕方になってやっといままでの分へ一わたり水がかかった。」 田植え盛期を4日もすぎて、まだ代かきもできないとは、たいへんな干ばつ被害です。 主人公は、3月に測候所の発表を信じて、今年は干ばつはないと書いていました。しかし、残念ながら予測は外れてしまいました。 「三時ごろ水がさっぱり来なくなったからどうしたのかと思って大堰の下の岐わかれまで行ってみたら権十がこっちをとめてじぶんの方へ向けていた。ぼくはまるで権十が甘藍の夜盗虫みたいな気がした。」 次回は番水のルールを破った権十と主人公の口論です。 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/20時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #或る農学生の日誌 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.20
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青空文庫 「或る農学生の日誌」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html 1926年3月の日誌です。 創作ですから、事実そのままではありません。 それでも、農学校で習った塩水選などの技術で、昨年の干ばつの被害額を取り戻すような豊作をめざす生徒のようすが、まるで事実のように生き生きと描かれています。賢治の教師の経験が生きた表現です。 「一千九百二十六年三月廿〔一字分空白〕日、 塩水撰をやった。うちのが済んでから楢戸のもやった。 本にある通りの比重でやったら亀の尾は半分も残らなかった。去年の旱害はいちばんよかった所でもこんな工合だったのだ。けれども陸羽一三二号のほうは三割わりぐらいしか浮く分がなかった。それでも塩水選をかけたので恰度六斗とあったから本田の一町一反分には充分だろう。とにかく僕ぼくは今日半日で大丈夫五十円の仕事はした訳わけだ。 なぜならいままでは塩水選をしないでやっと反当あたり二石そこそこしかとっていなかったのを今度はあちこちの農事試験場の発表のように一割の二斗ずつの増収としても一町一反では二石二斗になるのだ。」 また、同じ日には、気象を予測して、自分の家だけでなく、地域全体を明るくしたいという部分もあります。 「今年こそきっといいのだ。あんなひどい旱魃が二年続つづいたことさえいままでの気象の統計にはなかったというくらいだもの、どんな偶然が集まったって今年まで続くなんてことはないはずだ。気候さえあたり前だったら今年は僕はきっといままでの旱魃の損害を恢復してみせる。そして来年からはもううちの経済も楽にするし長根ぜんたいまできっと生々した愉快なものにしてみせる。」 しかし、気象災害は、人間の想定を超えてくるところに恐ろしさがあります。 次回は、三年続きの干ばつが主人公を襲います。 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/19時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #或る農学生の日誌 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.19
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青空文庫 「或る農学生の日誌」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html 1925年5月28日の日誌です。創作ですから、事実そのままではありません。 しかし、干ばつのために修学旅行にいけなかった生徒は、実際にいたのでしょう。 例えば、1925(大正14)年の第4回卒業生は34名で、この学年の修学旅行参加者は26名でした。 賢治先生の北海道修学旅行2 欠席した生徒たち https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202102170000/ 「夕方父が帰って炉ばたに居たからぼくは思い切って父にもう一度ど学校の事情を云った。 すると父が母もまだ伊勢詣まいりさえしないのだし祖母だって伊勢詣り一ぺんとここらの観音巡り一ぺんしただけこの十何年死ぬまでに善光寺へお詣りしたいとそればかり云っているのだ、ことに去年からのここら全体の旱魃でいま外へ遊んで歩くなんてことはとなりやみんなへ悪くてどうもいけないということを云った。 僕はいくら下を向いていても炉のなかへ涙がこぼれて仕方なかった。」 なお、作中では、この主人公は、修学旅行に行けることになりました。 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/18時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #或る農学生の日誌 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.18
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青空文庫 「或る農学生の日誌」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html 1925年4月7日の日誌です。主人公は、田畑の測量を学校で習いました。学校で習った知識を使って、去年の干ばつの被害額を取り戻す豊作にしようと、燃えています。 「うちの田をみんな一枚まいずつ測って帳面に綴じておく。そして肥料だのすっかり考えてやる。きっと今年は去年の旱魃の埋め合せと、それから僕の授業料ぐらいを穫ってみせる。」 創作ですから、事実そのままではありません。しかし、こうした意欲ある生徒を前に、賢治先生はいきいきと授業をしていたのでしょう。 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/16時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #或る農学生の日誌 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.17
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当ブログの「賢治先生の北海道修学旅行」でも紹介した「或る農学生の日誌」です。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202102170000/ 青空文庫 「或る農学生の日誌」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html 創作であり事実を書き記したものではありません。しかし、作者である賢治が干ばつをどのようにとらえていたのか考えるきっかけになると思います。 1925年4月4日の日誌です。新学期早々学校に来なくなった友人について書かれています。実際に干ばつで学校をやめた生徒をモデルにしたのかもしれません。 「高橋君は家で稼いでいてあとは学校へは行かないと云ったそうだ。高橋君のところは去年の旱魃がいちばんひどかったそうだから今年はずいぶん難儀するだろう。」 この作品には、まだ数か所干ばつに関する表現があります。次回以降、ご紹介します。 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/15時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #或る農学生の日誌 #ヒデリ #干ばつ
2021.06.16
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「グスコーブドリの伝記」は、1932(昭和7)年に雑誌「児童文学」に発表されました。 冷害のために家族離散の悲劇に見舞われた主人公が、冷害を防ぐために英雄的な最期をとげる物語といえます。 一方、この物語では干ばつの被害も描かれています。 この物語は、1922(大正11)年ころから「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」として書き始められ、およそ10年後に完成しました。この10年間は、岩手県ではいろいろな災害がありましたが、干ばつも多く発生しており、その影響があるものと考えられます。 青空文庫 グスコーブドリの伝記 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1924_14254.html 森から出たブドリを雇ってくれた農家の主人が、こう言っています。 「たびたびの寒さと旱魃のために、いまでは沼ばたけも昔の三分の一になってしまった」 いったんは積極的な施肥で増収に成功しますが、干ばつで被害を受けてしまいました。 「植え付けのころからさっぱり雨が降らなかったために、水路はかわいてしまい、沼にはひびが入って、秋のとりいれはやっと冬じゅう食べるくらいでした。来年こそと思っていましたが、次の年もまた同じようなひでりでした。」 イーハトーヴ市に向かう汽車で、ブドリはこう思います。 「働きながら勉強して、みんながあんなにつらい思いをしないで沼ばたけを作れるよう、また火山の灰だのひでりだの寒さだのを除くくふうをしたい」 クーボー大博士のもとで勉強しブドリは火山局に就職します。 人工降雨技術について、ブドリの職場の上司のペンネン技師が「旱魃だってちっともこわくなくなるからな。」と言っています。 火山局がポスターで「旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらいの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなって作付しなかった沼ばたけも、ことしは心配せずに植え付けてください。」と農家に呼び掛けています。 干ばつの心配のない未来を、賢治は考えていたのでしょう。 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/14時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #干ばつ #ヒデリ #グスコーブドリの伝記
2021.06.15
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賢治の亡くなるまでの10年間の6月の雨量を調べました。 気象庁 過去の気象データダウンロード https://www.data.jma.go.jp/gmd/risk/obsdl/index.php 花巻のデータがありませんので、盛岡のデータです。 盛岡の6月降水量の平年値は、109.4mmです。 10年間で平年値をうわまわった年は、1928,1931,1933年の3年のみです。 1925年の干ばつを見過ごしたとみられるだけに、賢治は毎年ひやひやしたことでしょう。 1924年 59.9mm 1925年 61.8 1926年 46.0 1927年 63.2 1928年 118.3 1929年 75.6 1930年 84.7 1931年 137.9 1932年 51.6 1933年 167.3 #宮沢賢治 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.14
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1925(大正14)年は、岩手県紫波郡を中心に干ばつで大きな被害がありました。宮沢賢治研究家の鈴木守氏が新聞記事を中心に当時の被害をまとめています。鈴木氏のブログをご覧ください。 https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/6f4c4dd638d877736b5efb8debbdff49 東北地方では「日照りに不作無し」ということわざがあります。冷害に比べて干ばつに対する危機感が薄い傾向があります。賢治も1925年の干ばつでは、有効な対策が取れなかったようです。その後悔が1926年以降の作品に影響を与えているようです。 この作品は1927年4月の作品です。一昨年、すなわち1925年と推定される年に開墾して農地を増やした「きみ」が主人公です。「きみ」の努力を高く歌い上げたのち、「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」でドスンと落とす怖い詩です。 「去年の春」が間にあることから、1926年の干ばつを描いているとも思われます。 (本文開始) 一〇二二 〔一昨年四月来たときは〕 一九二七、四、一、 一昨年四月来たときは、 きみは重たい唐鍬をふるひ、 蕗の根をとったり 薹を截ったり 朝日に翔ける雪融の風や そらはいっぱいの鳥の声で 一万のまた千億の 新におこした塊りには いちいち黒い影を添へ 杉の林のなかからは 房毛まっ白な聖重挽馬が こっそりはたけに下り立って ふさふさ蹄の毛もひかってゐた 去年の春にでかけたときは きみたちは川岸に居て 生温い南の風が きみのかつぎをひるがへし またあの人の頬を吹き 紺紙の雲には日が熟し 川が鉛と銀とをながし 楊の花芽崩れるなかに きみは次々畦を堀り 人は尊い供物のやうに 牛糞を捧げて来れば 風は下流から吹いて吹いて キャベヂの苗はわづかに萎れ 風は白い砂を吹いて吹いて もういくつもの小さな砂丘を 畑のなかにつくってゐた そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た (本文終了) #宮沢賢治 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.13
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宮沢賢治が干ばつの恐れにうなされる詩をご紹介しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106090000/ 賢治といえば冷害と関連づけられることが多いですが、雨ニモマケズにもあるように、干ばつも賢治を困らせました。 「客を停める」は、1932(昭和7)年11月に雑誌「女性岩手」に掲載されました。 冬の天気の急変しやすい日に、軽装で出かけようとする友人に出発を伸ばすよう説得しています。友人は教育関係者か演劇関係者でしょうか、児童向けの劇か、何らかの芸術を披露する予定のようです。 「たゞあすこらは続いたひでりのあとなので/学童(こども)がみんな暗くてね/王女や花ではだめらしい」とあり、干ばつの被害のため、目的地の農村の児童が暗い気持ちになっているようです。農業用水の未整備な当時は高地の農村では、干ばつの被害が大きかったと思われます。当時は人身売買が横行しており、農業収入の減少が、直ちに児童の未来を左右しました。 この干ばつは、1932(昭和7)年夏のもののように思われます。 しかし、下記のように、実は1924(大正13)年の日付けの草稿も残されており、もともとは、1924年夏の干ばつのことだった可能性もあります。 (本文開始) 客を停める 宮澤賢治 その洋傘(かさ)だけでどうかなあ 虹の背後(うしろ)が青く暗くて怪(おか)しいし そのまた下があんなまつ赤な山と谷 ……こんもりと松のこもつた岩の鐘…… 日にだまされてでかけて行くと 上着もなにも凍つてしまふ ……建物中のガラスの窓が みんないちどにがたがた鳴つて 林はまるで津波のやう…… ああもう向ふで降つてゐる へんにはげしく光つてゐる どうも雨ではないらしい ……もうそこらへもやつてくる まつ赤な山もだんだんかくれ 木の葉はみんな鼠になつて ぐらぐら東へ流亡(なが)される…… それに上には副虹だ あの副虹のでるときが いちばん咽喉にわるいんだ ……ロンドンパープルやパリスグリン あらゆる毒剤のにほひを盛つて 青い弧(アーク)を虚空(そら)いつぱいに張り亘す…… 向ふの宿(やど)はだいじやうぶ たゞあすこらは続いたひでりのあとなので 学童(こども)がみんな暗くてね 王女や花ではだめらしい まあ掛けたまへ ぢきにきれいな天気になるし なにか仕度もさがすから ……たれも行かないひるまの野原 天気の猫の目のなかを 防水服や白い木綿の手袋は まづロビンソンクルーソー…… ちよつとかはつた葉巻を巻いた フエアスモークといふもんさ それもいつしよにもつてくる (本文終了) (本文開始) 三〇五 〔その洋傘(かさ)だけでどうかなあ〕 一九二四、一一、一〇、 その洋傘(かさ)だけでどうかなあ 虹の背后(うしろ)が青く暗くて怪(おか)しいし そのまた下があんなまっ赤な山と谷 ……こんもりと松の籠(こも)った岩の鐘…… 日にだまされてでかけて行くと シャツの底まで凍ってしまふ ……建物中の玻璃(ガラス)の窓が みんないちどにがたがた鳴って 林はまるで津波のやう…… ああもう向ふで降ってゐる へんにはげしく光ってゐる どうも雨ではないらしい ……もうそこらへもやってくる まっ赤な山もだんだんかくれ 木の葉はまるで鼠のやうに ぐらぐら東へ流される…… それに上には副虹だ あの副虹のでるときが いちばん胸にわるいんだ ……ロンドンパープルやパリスグリン あらゆる毒剤のにほひを盛って 青い弧(アーク)を虚空(そら)いっぱいに張りわたす…… まあ掛けたまへ ぢきにきれいな天気になるし なにか仕度もさがすから ……たれも行かないひるまの野原 天気の猫の目のなかを 防水服や白い木綿の手袋は まづロビンソンクルーソー…… ちょっとかはった葉巻を巻いた フェアスモークといふもんさ それもいっしょにもってくる (本文終了) #宮沢賢治 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.12
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宮沢賢治が熱にうなされながら、雨不足の解消を願った詩をご紹介しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106090000/ 賢治が、熱にうなされてまで心配した、1927(昭和2)年の干ばつとは、どのようなものだったのでしょうか。 気象庁 過去の観測データ https://www.data.jma.go.jp/gmd/risk/obsdl/index.php 花巻の1927年のデータはありません。 盛岡でみてみます。 6月4日から、ずっと雨が降っていないことがわかります。田植えどきに雨不足で心配したことでしょう。 #宮沢賢治 #干ばつ #ヒデリ
2021.06.11
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前回ご紹介した「囈語」(げいご)と同じ日に書かれた詩です。 こちらでは稲の活着には触れていません。 雨となって、日照りの被害を防ぎたい思いがつづられています。 (本文開始) 一〇七六 病中幻想 一九二七、六、一三、 罪はいま疾(やまひ)にかはり たよりなくわれは騰りて 野のそらにひとりまどろむ 太虚ひかりてはてしなく 身は水素より軽ければ また耕さんすべもなし せめてはかしこ黒と白 立ち並びたる積雲を 雨と崩して堕ちなんを (本文終了) 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #病中幻想 #干ばつ
2021.06.10
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1928(昭和3)年8月に肺結核で倒れる賢治ですが、その約1年前にも、熱を出して寝込んだことがあったようです。 1927(昭和2)年6月13日に書かれた作品です。 囈語(げいご)とは、うわごとのことです。賢治は同じタイトルの詩を数編書いています。 自分が肥料設計した、村々の水稲が気になるのでしょう。当時の田植えは6月10日ころでした。うまく根がのびて活着するか気になるころです。 水稲は亜熱帯原産の作物です。暑さと水分が必要です。自分の病気の熱と湿気が、水稲を活着させてほしいという願いがこめられています。 (本文開始) 一〇七六 囈語 一九二七、六、一三、 罪はいま疾にかはり わたくしはたよりなく 河谷のそらにねむってゐる せめてもせめても この身熱に 今年の青い槍の葉よ活着(つ)け この湿気から 雨ようまれて ひでりのつちをうるおほせ (本文終了) 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #囈語 #水稲 #活着 #結核
2021.06.09
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前回は、現代の水稲の生育診断に基づいた穂肥について、書きました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106070000/ それでは、宮沢賢治の当時の標準的な施肥法をみてみます。 岩手県内務部 編 「農業督励要項」(1932(昭和6)年) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915090 上記から一部を抜粋して、10アールあたりkgの表記を追加してみました。 埴壌土の場合 厩肥 400貫 (1500kg) 硫安 6貫(22.5kg) 大豆粕 8貫(30kg) 過燐酸石灰 7.5貫(28.125kg) 硫酸カリ 2貫(7.5kg) これらを追肥ではなく、全て基肥で施用することとなっています。 生育診断に応じて追肥するのではなく、全部、基肥として、田植え前に散布します。初期生育は良いでしょう。しかし、天候や生育による調節ができず、年によっては、倒伏の恐れがあります。 #宮沢賢治 #岩手県 #農業督励要項 #水稲 #肥料
2021.06.08
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前回は、宮沢賢治が水稲の穂肥の指導を失敗して、再起を誓う詩を紹介しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106060000/ 水稲は、穂肥が早いほど、量が多いほど、籾数が増えて収量が増えます。しかし、早すぎ、多すぎると、草丈が伸びすぎて倒伏してしまい、収量は激減します。 現代ではどのように穂肥の時期と量を診断しているのでしょうか。 銀河のしずく栽培マニュアルver.5.0(岩手県 令和2年3月) https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/034/119/2020manual-v5.0-g.pdf 草丈と茎数と葉色で、生育量をはかります。葉緑素計という便利な機械もあります。 草丈、茎数、葉緑素計の数値を早見表でみれば、標準の穂肥、10aあたりチッソ成分2kgが散布できるかわかります。 賢治の時代には、こうした便利な早見表もなく、苦労したと思います。 #水稲 #岩手県 #生育診断
2021.06.07
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1926(大正15)6月20日に書かれた詩です。 花が咲いたまま倒れた稲の姿がでてきます。6月に稲の花は咲きません。前年の稲の姿を思い出したのでしょう。フラッシュバックといってもいいかもしれません。 昨年の追肥の指導が、時期が早すぎたか、量が多すぎたために、稲が倒伏してしまった地域のようです。 今年こそ、稲が倒れずに、収量が増えるようにしよう、という決意の詩だと思います。 (本文開始) 七一五 一九二六、六、二〇、 道べの粗朶に 何かなし立ちよってさわり け白い風にふり向けば あちこち暗い家ぐねの杜と 花咲いたまゝいちめん倒れ 黒雲に映える雨の稲 そっちはさっきするどく斜視し あるひは嘲けりことばを避けた 陰気な幾十の部落なのに 何がこんなにおろかしく 私の胸を鳴らすのだらう 今朝このみちをひとすじいだいたのぞみも消え いまはわづかに白くひらける東のそらも たゞそれだけのことであるのに なほもはげしく いかにも立派な根拠か何かありさうに 胸の鳴るのはどうしてだらう 野原のはてで荷馬車は小く ひとはほそぼそ尖ってけむる (本文終了) 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/6時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #水稲 #倒伏
2021.06.06
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1922(大正11)年6月25日に書かれた詩です。 賢治の言う「プウルキインの現象」とは、明るい場所では赤色が、暗い場所では青色がよくみえるという、プルキニェ現象のことです。 プルキニェ現象 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%8B%E3%82%A7%E7%8F%BE%E8%B1%A1 水田や放牧地でフロックコートを着た人物を誉め称えています。 フロックコートは現代では結婚式などで使われる男性昼間礼装です。しかし、もともとはポーランド槍騎兵(ウーラン)が平原の戦場を駆け回るときに着た軍服です。したがって、放牧地に似合っても、変ではありません。 フロックコートの人物は、賢治自身だという説の方が多いようです。ただ照れ屋の賢治がここまで自分を誉めるかどうか、やや疑問があります。 (本文開始) 風景観察官 あの林は あんまり緑青を盛り過ぎたのだ それでも自然ならしかたないが また多少プウルキインの現象にもよるやうだが も少しそらから橙黄線を送つてもらふやうにしたら どうだらう ああ何といふいい精神だ 株式取引所や議事堂でばかり フロツクコートは着られるものでない むしろこんな黄水晶(シトリン)の夕方に まつ青な稲の槍の間で ホルスタインの群を指導するとき よく適合し効果もある 何といふいい精神だらう たとへそれが羊羹いろでぼろぼろで あるひはすこし暑くもあらうが あんなまじめな直立や 風景のなかの敬虔な人間を わたくしはいままで見たことがない (本文終了) 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/5時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #風景観察官 #フロックコート #プルキニェ現象
2021.06.05
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1923(大正12)年6月3日に書かれた詩です。 この日、宮沢賢治は、花巻農学校の生徒らを、岩手山夜間登山または夜間歩行で引率したようです。 賢治は、前年に最愛の妹トシを結核で亡くしています。歩行中の生徒の会話ですら、妹の言葉を思い出させます。 Egmont Overture (エグモント・オーバーチュア)とは、 ベートーヴェン作曲の歌劇の序曲で、正義の主人公が非業の死をとげる物語のようです。 柳沢は岩手山麓の地名です。 (本文開始) 風林 (かしはのなかには鳥の巣がない あんまりがさがさ鳴るためだ) ここは艸があんまり粗(あら)く とほいそらから空気をすひ おもひきり倒れるにてきしない そこに水いろによこたはり 一列生徒らがやすんでゐる (かげはよると亜鉛とから合成される) それをうしろに わたくしはこの草にからだを投げる 月はいましだいに銀のアトムをうしなひ かしははせなかをくろくかがめる 柳沢(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには 騎兵聯隊の灯も澱んでゐる 《ああおらはあど死んでもい》 《おらも死んでもい》 (それはしよんぼりたつてゐる宮沢か さうでなければ小田島国友 向ふの柏木立のうしろの闇が きらきらつといま顫えたのは Egmont Overture にちがひない たれがそんなことを云つたかは わたくしはむしろかんがへないでいい) 《伝さん しやつつ何枚、三枚着たの》 せいの高くひとのいい佐藤伝四郎は 月光の反照のにぶいたそがれのなかに しやつのぼたんをはめながら きつと口をまげてわらつてゐる 降つてくるものはよるの微塵や風のかけら よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ 《ほお おら……》 言ひかけてなぜ堀田はやめるのか おしまひの声もさびしく反響してゐるし さういふことはいへばいい (言はないなら手帳へ書くのだ) とし子とし子 野原へ来れば また風の中に立てば きつとおまへをおもひだす おまへはその巨きな木星のうへに居るのか 鋼青壮麗のそらのむかふ (ああけれどもそのどこかも知れない空間で 光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか …………此処(こご)あ日あ永(な)あがくて 一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで…… ただひときれのおまへからの通信が いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ) とし子 わたくしは高く呼んでみやうか 《手凍(かげ)えだ》 《手凍えだ? 俊夫ゆぐ凍えるな こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい》 俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか あの青ざめた喜劇の天才「植物医師」の一役者 わたくしははね起きなければならない 《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》 《川村》 やつぱりさうだ 月光は柏のむれをうきたたせ かしははいちめんさらさらと鳴る (本文終了) #宮沢賢治 #風林
2021.06.04
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今も1日約3000人が乗降する盛岡市の厨川駅の情景を描いた詩です。1922(大正11)年6月2日に書かれました。 逮捕経験のある社会主義者が乗客の噂になっています。若いのに老けてみえる姿に当時の厳しい情勢が想像されます。 賢治も、社会主義政党の労農党に寄付をし、小作人の政治活動を支援していました。1927(昭和2)年3月には賢治自身も花巻警察署長伊藤儀一郎の事情聴取を受け、羅須地人協会の活動が弾圧されることになってしまいます。 Larixは、落葉松のことです。 (本文開始) 厨川停車場 (一九二二・六・二・) (もうすっかり夕方ですね。) けむりはビール瓶のかけらなのに、 そらは苹果酒(サイダー)でいっぱいだ。 (ぢゃ、さよなら。) 砂利は北上山地製、 (あ、僕、車の中ヘマント忘れた。 すっかりはなしこんでゐて。) (あれは有名な社会主義者だよ。 何回か東京で引っぱられた。) 髪はきれいに分け、 まだはたち前なのに、 三十にも見えるあの老けやうとネクタイの鼠縞。 (えゝと、済みませんがね、 ほろぼろの朱子のマント、 あの汽車へ忘れたんですが。) (何ばん目の車です。)…… (二等の前の車だけぁな。) Larix, Larix, Larix, 青い短い針を噴き、 夕陽はいまは空いっぱいのビール、 かくこうは あっちでもこっちでも、 ぼろぼろになり 紐になって啼いてゐる。 (本文終了) 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/6/3時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #社会主義 #逮捕 #厨川 #停車場
2021.06.03
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妖艶な詩が続きましたが、今回は爽やかな作品です。 1922(大正11)年6月15日に書かれた詩です。 6月のにわか雨のあとに、農作業の途中で、虹を見たら、この作品を思い出すことでしょう。 (本文開始) 報告 さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました もう一時間もつづいてりんと張つて居ります (本文終了) #宮沢賢治 #報告 #虹 #火事
2021.06.02
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前回は、詩「県技師の雲に対するステートメント」をご紹介しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202105310000/ 同じ1927(昭和2)年6月1日の同じモチーフの作品です。前回作品は官吏の宣言という体裁で、淫らな妖精に呼び掛けながらも、壮大にして固い表現でした。一方、本作品は、より妖艶な表現となっています。 賢治は、自然の光や情景を、触覚や臭覚として感じる能力、ある種の共感覚を持っていたのかもしれないと思わせます。雨雲が妖しい妖精となって、賢治に触手を伸ばすというのです。 清水金太郎は、明治末期から昭和初期に活躍した浅草オペラのスター歌手です。 本文4行目の「コウ」は、原文では、さんずいに景に頁で一文字です。「コウ」は、水、汁、果てしなく広い、などの意味をもちます。機種依存文字のため「コウ」で代用しました。 (本文開始) 一〇七二 峠の上で雨雲に云ふ 一九二七、六、一、 黒く淫らな雨雲(ニムブス)よ ……もし翻訳者兼バリトン歌手 清水金太郎氏の口吻をかりて云はゞ…… わたくしはこの峠の上のうすびかりする「コウ」気から またこゝを通るかほりあるつめたい風から また山谷の凄まじい青い刻鏤から わたくしの暗い情炎を洗はうとして 今日の旅程のわづかな絶間を 分水嶺のこの頂点に登って来たのであるが 全体 黒いニムブスよ ……翻訳家兼バリトン歌手 清水金太郎氏の口吻をかりて云はゞだ…… おまへは却ってわたくしを 地球の青いもりあがりに対して 一層強い慾情を約束し 風の城に誘惑しやうとする けだしそのまがりくねった白樺の枝に つぐみが黒い木の実をくはえて飛んできて わたくしを見てあわてゝ遁げて行ったこと 平たく黒い気層のなまこ 五葉山の鞍部に於て おまへがいろいろのみだらなひかりとかたちとで あらゆる変幻と出没とを示すこと おまへの影が巨きな網をつくって 一様にひわいろなるべき山地を覆ひ わたくしの眼路から ほとんどそれらの彫刻を迷はせること これらを綜合して見るに あやしくやわらかなニムブスよ ……いゝかな 翻訳家兼バリトン歌手の 清水金太郎氏に従へばだぞ…… 最后にそれらの凄まじい明暗で もう全天を被ふべく 且つはそこからセロの音する液体をそゝぐべく ……白極海のラルゴに手をのばす…… みだらな触手をわたくしにのばし のばらとつかず胸ときめかすあやしい香気を風に送って 湖とも雲ともわかぬしろびかりの平原を東に湛え たうたうまっくろな尾をひるがへし ……一点なまめくその下の日かげ…… わたくしをとらうと迫るのであるか (本文終了) 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/5/31時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #妖精 #雲 #触手 #共感覚
2021.06.01
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