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宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 「もしお仕事のすきまにおいでになれるならお待ちして居ります。葉書をさきにお出しください。」 前年の詩「もうはたらくな」で「さあ一ぺん帰って測候所へ電話をかけ 」とあるとおり、宮澤家には電話があったと思われます。しかし、当時の電話は、災害や急病などの非常時に使うもので、葉書で連絡をとりあうのが普通だったのでしょう。 昭和2年ごろの電話加入料金は1220円、年間基本料金が45円でした。公衆電話料金は3分で5銭(0.05円)でした。 一方、葉書は1銭5厘(0.015円)でした。 「肥料の本もそのときはお返しいたせます。一番除草でお忙しいでせうが折角お身体大切に。 まづは。」 当時は水田除草剤がありません。6月5~20日ころに田植えを行ったあとに10~14日ごとに3回中耕除草を行っていました。 大農家であった菊池家では、手押し式の人力除草機を使い、7月3日ころは、まだ、1回目の除草作業が終わっていなかったと思われます。 1928(昭和3)7月3日の年菊池信一への書簡の読み解きは、今回で終了です。 今後は、1928(昭和3)年7月20日に発熱し、8月10日に倒れたころの賢治について、調べてみます。 宮沢賢治全集 9価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/31時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙
2021.07.31
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宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 本ブログは、いつもは資料に基づいて考察しますが、今回は、資料が未発見なので、妄想に近いことをご了承ください。 前回、ご紹介したとおり、1928(昭和3)年6月19日、20日のメモから、賢治が農林省を訪問した可能性があります。 正確には、「農商ム省」とメモされていますが、1925(大正14)年に農商務省は、農林省と商工省に改組されていますので、誤記と思われます。 さて、ここからは妄想です。 二つの可能性を想像してみます。 一つは、手紙に「技術者たちといっしょに働いて」とあるように、農林省の技術者に会って、最新の農業技術などについて情報交換した可能性です。 二つは、賢治と農林省の官僚が、農地解放について、情報交換した可能性です。 農地解放は、戦後、GHQ(連合国総司令部)の指示により、大地主の農地を、小作人に安く売り自作農を育てた政策として有名です。 しかし、農林省は、戦前から農地解放を計画していました。地主が高い小作料を取るため、小作農は、化学肥料も農薬も農業機械も新しい品種も買えず、農林省が理想とする先進的農業が普及できなかったため、地主制度を改革したいと考えていました。 しかし、警察は社会の変化を恐れ、農林省の動向に目を光らせていました。賢治の死後になりますが、社会主義者の疑いで農林省の官僚を逮捕する事件も起きています。 一方、賢治も、羅須地人協会で化学肥料の使用を普及したり、社会主義政党労農党員の小作農を集めて無料肥料相談会を開いたり、活動資金をカンパしたりしていました。警察の取り調べを受けてもいます。 賢治が農林省官僚に連絡し、農地解放、小作人待遇改善について、話し合い、警察を恐れて、資料はすべて破棄した。そのため、資料が現存しない。 そんな妄想を楽しんでみました。 次回は、菊池信一書簡の最終回です。 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙 #農林省 #農地解放 #労農党
2021.07.30
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宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。」 賢治は、1928(昭和3)年6月7日に花巻を出発し、仙台、伊豆大島、東京を中心にまわり、6月24日ごろ帰郷しました。このときのことを書いたのだろうと思われます。 手紙や手帳からどんな技術者とどのような交流をしたのか、探ります。 6月7日の宮城県仙台市では、東北産業博覧会を見学しています。主に水産加工品について見学したようですが、先進地の技術者と接触したかどうかわかりません。 また、東北帝国大学も見学しましたが、文学部の教授と知り合いになったようですが、技術者との接触は記録にありません。 6月8日は茨城県水戸市の茨城県立農事試験場を見学しています。このとき茨城県の農業技術者と交流した可能性があります。 6月12日に、父にスルメの加工法について自分でも充分やれる確信がついた、と東京から手紙を書きました。このころ水産加工技術者と交流した可能性があります。 6月12日から6月14日ころの3日間、伊豆大島で農芸学校設立準備中の伊藤七雄を訪問し、一緒に農作業をし、これからの農業について語り合いました。 宮沢賢治 作 「三原 第二部」3 種まきについて語る賢治 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107010000/ 6月17日の手帳に「農産商会及花の用」と書かれています。農産物卸売業で働く技術者や、園芸技術者と接触したのかもしれません。残念ながら詳細は不明です。 6月19日、20日の手帳から、農林省、西ヶ原農事試験場(現在の東京都北区にあった国立研究施設)を訪問した可能性があります。残念ながら詳細は不明です。 このころの東京周辺での賢治の行動には未解明のことが多くあります。羅須地人協会の活動が警察にマークされていたので、友人知人に迷惑をかけることを恐れて、詳細な記録を残さなかったのかもしれません。面会相手の日記などの資料の発見が待たれます。 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙 #伊藤七雄 #茨城県 #東北大学 #スルメ #伊豆大島 #東京都 #西ヶ原 #農林省
2021.07.29
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宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 「すっかり稲の形が定まってからのことにして」 現代農業であれば、稲の形が定まる前に、いろいろ打つ手があります。生育不足なら追肥をするとか、生育過剰なら倒伏軽減剤もあります。 しかし、基肥重視のこの時代の稲作では、生育不足でも基肥が利くのを待つしかありませんし、生育過剰でも葉をむしるくらいしか対策がありません。 「来年の見当をつけるだけのことにしようと思ひます。」 賢治は、ことしの対策はあきらめて、稲を見ながら、来年の基肥量などを話し合う巡回相談に切り換えるつもりだったようです。 「お手数でも訊かれたらどうかさうご返事願ひます。」 上記のような基本方針を伝えて、農家からの問い合わせに対して、回答を菊池に任せたようです。賢治の肥料相談所の助手のような仕事をしていた菊池信一に対する、深い信頼が感じられます。 前年1927(昭和2)年の賢治は、自然と天候に抗い、「むちゃくちゃ」に働いていたようです。1927(昭和2)年8月20日の詩「もうはたらくな」では「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ/稲が次々倒れたのだ/働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのでない/ことにむちゃくちゃはたらいて/不安をまぎらかさうとする、/卑しいことだ」と書いていました。 前年の1927(昭和2)年の7月8月にむちゃくちゃに働いてみて、大自然の力に対して、当時の科学と人間の無力さを感じて、この年、1928(昭和3)年の賢治は、ある種の諦観の境地にあったのかもしれません。 しかし、結局は1928年も積極的に水田を巡回し、7月20日には発熱して停留所で倒れてしまいます。 宮沢賢治 作 「停留所にてスヰトンを喫す」(初期形) https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107210000/ 宮沢賢治全集 9/宮沢賢治【3000円以上送料無料】価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/27時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙
2021.07.28
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宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 「それで約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」 賢治の肥料相談所の助手のような立場であった菊池信一と、村を巡回する約束をしていたようです。 現代の稲作理論では、7月中下旬の幼穂形成期は追肥を判断する極めて重要な時期です。7月下旬ないし8月中旬というあいまいな時期の指定はありえません。 前回考察したように、基肥の吸収が遅れているために、賢治は追肥をしない方針だったようで、打つ手も無いので、巡回を送らせる考えのようです。 現代では基肥が遅く利きすぎて、草丈が延びすぎた場合には、倒伏軽減剤という茎が延びるのを抑える農薬があります。その散布の診断がありますので、追肥の予定がなくても7月中下旬の巡回は必ず行います。 賢治の時代では伸びすぎた稲は、葉をむしるくらいしか対策がありませんでした。「稲作挿話」で「斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ/むしつて除つてしまふんだ」「ちようどシヤツの上のぼたんを定規にしてねえ/葉尖をとつてしまふんだ」と表現されています。 宮沢賢治 作 「稲作挿話(未定稿)」(発表形) https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107100000/ 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/26時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙
2021.07.27
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昨日は、宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を紹介しました。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ この手紙を読み解いていきます。 当時の農業技術や賢治の考えを垣間見ることができます。 「肥料の本を自働車に頼んで置いてそれがしばらく盛岡行をやめて届かなかったのでまだ手許にあります」 「肥料の本もそのときはお返しいたせます。」 賢治は、菊池信一から肥料の本を借りていたようです。賢治は農業関係の多数の蔵書を持っていたことで知られています。教え子から本を借りていたとは意外な気がします。菊池が賢治の教えを受けてよく勉強していたことの現れなのでしょう。 「ちゃうど追肥を調べる時季ですが」 「追肥だけはみんなやらないことにしようと思ひます。どの肥料もまだ殆んど利いてゐないのです。」 1950年代に松島省三博士が現代の水稲追肥理論を完成させるまで、近代稲作は基肥重視でした。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012130001/ 基肥重視には、初期生育を促すよい面があります。いっぽう、なかなか肥料が利かない場合、稲の草丈が延びすぎになりがちな7月上中旬になってから肥料が利きはじめる恐れがあります。草丈の延びすぎは倒伏につながります。この時期の賢治の詩には稲の倒伏に関するものが多くみられます。 宮沢賢治全集 9価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/26時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡
2021.07.26
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宮沢賢治は、1928(昭和3)年6月に、伊豆大島、東京方面を旅行し、同年7月初めに岩手県花巻に帰郷。花巻周辺の水田を巡回し肥料相談を行います。7月20日ごろから発熱し、8月10日に肺結核で倒れます。 このころの本来の予定を、教え子の青年農家の菊池信一あて書簡で書いています。 (本文開始) 石鳥谷駅前 菊池信一様 平安 七月三日 宮沢賢治 お変りありませんか。先日は結構なものをまことにありがたう。肥料の本を自働車に頼んで置いてそれがしばらく盛岡行をやめて届かなかったのでまだ手許にあります。ちゃうど追肥を調べる時季ですが 今年はこの通りの天候でとてもさきの見当もつきませんし 心配なことは少しもありませんが 追肥だけはみんなやらないことにしようと思ひます。どの肥料もまだ殆んど利いてゐないのです。それで約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして来年の見当をつけるだけのことにしようと思ひます。お手数でも訊かれたらどうかさうご返事願ひます。約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。もしお仕事のすきまにおいでになれるならお待ちして居ります。葉書をさきにお出しください。肥料の本もそのときはお返しいたせます。一番除草でお忙しいでせうが折角お身体大切に。 まづは。 七月三日 (本文終了) 宮沢賢治全集 9価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/25時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡
2021.07.25
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春に平均にムラなくまいた基肥が切れてきて、この時期の水田では地力ムラが稲の葉色のムラとなって現れます。 現代では前年の葉色ムラをドローンで記録して、翌年の施肥量をかえる研究も進められています。 しかし、この問題を完全に解決するまでにはいたっていません。 チッソムラは、いもち病や、倒伏につながるので注意が必要です。 (本文開始) 一〇八四 〔ひとはすでに二千年から〕 一九二七、七、二四、 ひとはすでに二千年から 地面を平らにすることと そこを一様夏には青く 秋には黄いろにすることを 努力しつゞけて来たのであるが 何故いまだにわれらの土が おのづからなる紺の地平と 華果とをもたらさぬのであらう 向ふに青緑ことに沈んで暗いのは 染汚の象形雲影であり 高下のしるし窒素の量の過大である (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/24時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #ひとはすでに二千年から #肥料 #葉色
2021.07.24
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東京、伊豆大島から帰った宮沢賢治は、1928(昭和3)年7月初めから、同年8月10日に肺結核で倒れるまで、花巻周辺で肥料相談や水田巡回を行いました。 手紙での農業相談もあったようで、返書の下書が残っています。7月15日に相談者農家宅を訪問するにあたり、品種や肥料などをメモしておくよう依頼する内容です。 残念ながら農家からの来信や、賢治からの清書は、発見されていません。 (本文開始) 拝復 貴簡拝誦 仰せに従いて七月十五日午前十時までに参上可仕 拝見の分は、 一、品種 二、肥料反当用量 三、田植期日 四、其の他特種時項 御書付置奉願候 敬具 七月五日 (本文終了) なお、項目四の、「時項」は「事項」の誤記ではないかと思われます。 宮沢賢治全集 9価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/23時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #書簡 #肥料相談
2021.07.23
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1928(昭和3)年7月24日の詩です。 穂ばらみ期の水田を農家のみなさんと巡回したのでしょうか。渇き疲れた主人公に甘酸っぱいアンズを持ってきてくれた人がいました。 4日前の7月20日に電車の停留所で倒れて詩「停留所でスヰトンを喫す」を書いただけに体調が心配です。 さて、現代農業では幼穂ができるころ、チッソ追肥をします。この時期に追肥をすると一穂あたり籾数が増えることがわかっているからです。 しかし、この詩では追肥の表現がありません。 幼穂形成期追肥、V字稲作理論は、1955(昭和30)年ごろ、農林省農業技術研究所の松島省三博士が、発見しました。 https://www.jataff.or.jp/senjin/vji.htm 今では農家や農業技術者には常識のこの理論を、1928年の賢治が知らないのは当然です。しかし、潮汐発電所や、地球温暖化理論など当時最先端科学を作品に書いたほどの賢治が、現代農業の常識を知らないという当たり前のことが意外に感じられます。 なお、松島博士は、1912年生まれで、賢治より16才年下で当時は中学生だったと思われます。賢治が退職した農学校の生徒たちと近い年代です。もちろん面識はないと思われます。 (本文開始) 杏 一九二八、七、二四、 つかれて渇いて 夕陽の中を 萓で囲んだこのちっぽけな観音堂へ みんないっしょに漂ひ着いた いちにちの行程は ただまっ青な稲の中 その水いろの葉筒の底で 三十億の一ミリの羽 けむりのやうな稲の穂が いまこっそりとできかかり この一月の雨や湿気の心配は 雲や東のけむりとともに 青い夕陽に溶かされる 麻シャツを着た さっきの人が帰って来る どこからとって来たのだらう 杏を帽子にいっぱい盛って 稲で傷つき過労に瘠せたその顔に 何かわらひをかすかにうかべ 萱の間を帰ってくる (はね起きろ、観音の化身!) ひとはしづかにわらってくる (本文終了) #宮沢賢治 #松島省三 #アンズ #幼穂 #V字稲作理論
2021.07.22
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1928(昭和3)年7月20日の詩です。 賢治は、同年8月10日に肺結核で倒れます。すでに7月のこのころから発熱があったようです。スイトンすら食べられないようではかなり体力が落ちているようです。 以前は推敲された後期形をご紹介しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012210003/ 今回は、初期形です。 最後の「残りはもしもあの川岸の石につかねて置くならば/大へんわたくしにはうれしいのだけれども/そのことはもう/云っていけないことらしい」の部分が後期形と大きく異なります。まるで三途の川を思わせるような表現です。 (本文開始) 停留所にてスヰトンを喫す 一九二八、七、二〇、 わざわざここまで追ひかけて せっかく君がもって来てくれた 帆立貝入りのスイトンではあるが どうもわたくしには熱があるらしく 雲を食べてゐるやうで仕方ない 除草や桑の仕事のなかで 幾日も幾日も心掛けて きみのおっかさんが拵えて学校行きの弁当箱に いっぱいに詰めた雲の形の膠朧体 それを両手に載せながら かうもあやしくふるえてゐる このガラス作りの停留所の さっきにくらべて何としづかなことだらう あの組合の倉庫のうしろ 川岸の栗や楊は 雲があんまりひかるので ほとんど黒く見えてゐる きみはわたくしの隣りに座り わたくしがたべてゐる間 じっと電車の発着表を仰いでゐる また稲を一刈し その入口に来た人は たしかこの前金矢の方でもいっしょになった きみのいとこにあたる人かと思ふのだが あんまり光る雲を見てゐたためなのか その顔色も蒼ぐらく 向ふもわらってゐる わたくしもたしかにわらってゐるけれども どうも何だか半分ひとのことのやう さて 友だちよ空の雲がたべきれないやうに わたくしはきみの好意がたべきれない 残りはもしもあの川岸の 石につかねて置くならば 大へんわたくしにはうれしいのだけれども そのことはもう 云っていけないことらしい (本文終了) 6月初めから3週間、東京と伊豆大島をまわり、岩手県花巻に帰郷。6月下旬に地元の農村を巡回する決意を歌いました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106250000/ それから約1か月たち、賢治の体力は限界に近づいていたようです。 #宮沢賢治 #停留所にてスヰトンを喫す #電車
2021.07.21
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1928(昭和3)年 農林省農務局 編 病虫害駆除予防奨励資料 第10号 稻熱病ト其ノ防除法 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050818 5ページより 「過石灰「ボルドウ」液、砂糖「ボルドウ」液、銅石鹸液等ノ散布ニヨリ被害ヲ軽減スルコトヲ得ベシ」 ボルドー液は、硫酸銅と石灰を混合し反応させたものです。 銅石鹸液は、やはり硫酸銅と、脂肪酸を混合し反応させたものです。 宮沢賢治が農業技術者として活躍した当時は、銅イオン系以外の化学合成殺菌剤がまだ開発されていませんでした。そのため、銅イオン系殺菌剤に頼るしかなかったものと思われます。 銅イオン系は、様々な菌に効く長所があり、予防的な殺菌剤として、現代でも使われています。 しかし、抗生物質や新しい化学合成殺菌剤に比べると、効果が出るのが遅く、多発してしまった稲熱病(いもち病)には十分な効果が期待できません。 当時の農家や農業技術者は、今以上に、稲熱病(いもち病)に苦労していました。 #宮沢賢治 #稲熱病 #農林省農務局 #稲熱病ト其ノ防除法 #ボルドー #銅石鹸
2021.07.20
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日付不明ですが、おそらく7月の詩です。 「稲熱病」は、現代ではひらがなで、「いもち病」と書くことが多いです。今も昔も水稲の最大の病気です。伝染性が極めて強いので、発生源となった農家の翁が、近くの農家に囲まれてうろたえています。農業技師の作者は、表情の見えない月夜だったらよかったと、やや現実逃避ぎみです。 (本文開始) 稲熱病 稲熱に赤く敗られた稲に みんなめいめい影を落して ならんで畔に立ってゐると 浅黄いろした野袴をはき 蕈の根付を腰にはさむ 七十近い人相もいゝ竹取翁、 しかも西方ほの青い夏の火山列を越えて 和風が絶えず嫋々と吹けば シャツの袖もすゞしく みんなの胸も閑雅であるが 恐らく半透明な黄いろの胞子は 億万無数東方かけて飛んでゐるので 風下の百姓たちは はやくもため息をついて 恨めしさうに翁をちらちら見てゐるのだ この田の主はふるえてゐる 胸にまっ黒く毛の生えた区長が 向ふの畔で 厚い舌を出して唇をなめて 何かどなりでもしさうなのだ そらでは幾きれ鯖ぐもが きらきらひかってながれるのだ これが烈々たる太陽の下でなくて 顔のつらさもはっきり知れない月夜ならば 百姓たちはお腹が空いたら召しあがれえといふ訳で 翁は空を仰いで得ならぬ香気と 天楽の影を慕ふであらうし 拙者もいかに助かることであらう (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/18時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #稲熱病
2021.07.19
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1924(大正13)年7月の日付不明の詩です。 「ほほじろ」は小鳥のホオジロでしょうか。 若者たちが、徹夜でガスエンジンを操作して、灌漑水を川からくみあげていたようです。 科学の力を使って、自然の恵みを確保し、干ばつという、自然災害に立ち向かう農村青年たちと、郷土に対する讃歌のようです。 (本文開始) 一五七 〔ほほじろは鼓のかたちにひるがへるし〕 一九二四、七、 、 ほほじろは鼓のかたちにひるがへるし まっすぐにあがるひばりもある 岩頸列はまだ暗い霧にひたされて 貢った暁の睡りをまもってゐるが この峡流の出口では 麻のにほひやオゾンの風 もう電動機(モートル)も電線も鳴る 夜もすがら 風と銀河のあかりのなかで ガスエンヂンの爆音に 灌漑水の急にそなへたわかものたち、 いまはなやかな田園の黎明のために それらの青い草山の 波立つ萓や、 古風な稗の野末をのぞみ 東のそらの黝んだ葡萄鼠と、 赤縞入りのアラゴナイトの盃で この清冽な朝の酒を 胸いっぱいに汲まうでないか 見たまへあすこら四列の虹の交流を 水いろのそらの渚による沙に いまあたらしく朱金や風がちゞれ ポプルス楊の幾本が 繊細な葉をめいめいせはしくゆすってゐる 湧くやうにひるがへり 叫ぶやうにつたはり じつにわれらのねがひをば いっしんに発信してゐるのだ (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/18時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #ほほじろは鼓のかたちにひるがえるし #干ばつ #ヒデリ
2021.07.18
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1927(昭和2)年7月15日、宮沢賢治は口語詩「圃場」を書きました。 宮沢賢治 作 「圃場」突然の雨のなか畑で立ち尽くす https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107160000/ その後、口語詩「驟雨(カダチ)はそそぎ」などを経て、何度も推敲されます。 賢治の死の年、1933(昭和8)年まで推敲は続けられ、文語詩「驟雨」に生まれ変わります。 賢治の口語詩は、その清新なエネルギーに溢れた表現で、日本文学史を画期するものと、高く評価されています。 いっぽう、賢治の文語詩は、病気による衰弱で文学史的に退化したもの、という評価すら、かつてはあったそうです。 幸い、最近は、文語詩の再評価がされているようです。 宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 一 信時 哲郎 http://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papers/bungoshi1.html 元気だったころの、農作業中の憤りなどの感情を思い出しながら、病床で推敲を続ける賢治を思うと、切なさとともに、崇高なものを感じます。 (本文開始) 驟雨 驟雨そゝげば新墾(にひはり)の、まづ立ちこむるつちけむり。 湯気のぬるきに人たちて、 故なく憤る身は暗し。 すでに野ばらの根を浄み、 蟻はその巣をめぐるころ。 杉には水の幡かゝり、 しぶきほのかに拡ごりぬ。 (本文終了) #宮沢賢治 #驟雨 #文語詩稿
2021.07.17
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1926(大正15)年7月15日の詩です。 宮沢賢治は、同年3月末に農学校教師を退職し、羅須地人協会を開き、畑仕事を始めました。 農作業中の突然の雨に打たれながら、思うようにならない仕事を思う気持ちがあらわれているように感じます。 この季節、突然の豪雨には気をつけて、農作業にあたりたいものです。 この詩は、後に推敲されて、「驟雨」という詩にもなります。 (本文開始) 七二八 圃場 一九二六、七、一五、 黒く燃されて 開墾(おこ)した土のなかに立ち うつつに雨を浴びてゐる いったいこれがおれなのか 枯れた羊歯の葉 菊芋の青い茎 壊れて散った塔のまはりを いまいそがしく往来する蟻 夏立ちの雨よ まっすぐに降りそゝいで おれの熱い髪毛を洗へ (本文終了) #宮沢賢治 #圃場 #カダチ
2021.07.16
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「和風は河谷いっぱいに吹く」では、下記がもっとも有名なバージョンです。 感動的な展開で多くのファンを持つ詩です。以前ご紹介しました。 (宮沢賢治 著)和風は河谷いっぱいに吹く https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012090000/ 今回、ご紹介するのはその前の草稿です。 前回、ご紹介した「南からまた西南から」は7月の詩でした。この詩は、8月になっています。7月のほうがより現実に近いのかもしれません。 8月になって草丈が伸びたり穂が出たりすると、重心が上にずれて、水稲はより倒伏しやすくなります。また、回復もしにくくなります。 他のバージョンでは登場しない「きみ」が主人公を避けている様子が描かれています。「きみ」は、農家青年のように見えます。 この草稿では、豊作の祭の様子が描かれ、伊豆大島の友人伊藤七雄あて書簡の表現と似ていることも目を引きます。 書簡240 〔7月初め〕伊藤七雄あて 下書 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107060000/ (本文開始) 一〇八三 和風は河谷いっぱいに吹く 一九二七、八、二〇、 南からまた西南から 和風は河谷いっぱいに吹く 起きあがったいちめんの稲穂を波立て 葉ごとの暗い露を落して 和風は河谷いっぱいに吹く あらゆる辛苦の結果から 七月稲はよく分蘖し 豊かな秋を示してゐたが この八月のなかばのうちに 十二の赤い朝焼けと 湿度九〇の六日を数へ 稲は次々穂を出しながら 茎稈弱く徒長して しかも次第に結実すれば ついに昨日の雷雨に耐えず およそ相当施肥をも加へ やがての明るい目標を 作らうとした程度の稲は 次から次と倒れてしまひ こゝには雨のしぶきのなかに とむらふやうなつめたい霧が 倒れた稲を被ってゐた しかもわたくしは予期してゐたので やがての直りを云はうとして きみの形を求めたけれども きみはわたくしの姿をさけ 雨はいよいよ降りつのり 遂にはこゝも水でいっぱい 晴れさうなけはひもなかったので わたくしはたうたう気狂ひのやうに あの雨のなかへ飛び出し 測候所へも電話をかけ 続けて雨のたよりをきゝ 村から村をたづねてあるき 声さへ枯れて 凄まじい稲光のなかを 夜更けて家に帰って来た さうして遂に睡らなかった さうしてどうだ 今朝黄金の薔薇東はひらけ 雲ののろしはつぎつぎのぼり 高圧線もごろごろ鳴れば 澱んだ霧もはるかに翔けて 見給へたうたう稲は起きた まったくのいきもののやうに まったくの精巧な機械のやうに 稲がそろって起きてゐて そのうつくしい日だまりの上を 赤とんぼもすうすう飛ぶ あゝわれわれはこどものやうに 踊っても踊っても尚足りない もうこの次に倒れても 稲は断じてまた起きる 今年のかういふ湿潤さでも なほもかうだとするならば もう村ごとの反当に 四石の稲はかならずとれる 森で埋めた地平線から 青くかゞやく死火山列から 風はいちめん稲田をわたり また栗の葉をかゞやかし 汗にまみれたシャツも乾けば 熱した額やまぶたも冷える じつにさわやかな蒸散と 透明な汁液(サップ)の移転 この秋こそは祭りの晩に 赤シャツを着た道化師に わたしの粟も豆もたべてくださいと みんなでそれを投げたやうな あゝいふ豊かな年が来る あゝわれわれは曠野のなかに 芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに 素朴なむかしの神々のやうに べんぶしてもべんぶしても足りないでないか (本文終了) #宮沢賢治 #和風は河谷いっぱいに吹く #草稿 #水稲 #倒伏
2021.07.15
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1927(昭和2)年7月14日の詩です。 高温と日照不足で伸びすぎた稲が倒伏してしまいます。 当時の稲の品種は、現在の稲の品種に比べて、草丈が長く、倒伏しやすかったものと思われます。 倒伏した稲に、乾いた南風が吹き、稲が起き上がります。 葉についた露が落ちて軽くなったのでしょう。 作者の自然への感謝が感じられます。 後にこの詩は、「和風は河谷いっぱいに吹く」へと推敲されます。 (本文開始) 一〇八三 〔南からまた西南から〕 一九二七、七、一四、 南からまた西南から 和風は河谷いっぱいに吹く 七日に亘る強い雨から 徒長に過ぎた稲を波立て 葉ごとの暗い露を落して 和風は河谷いっぱいに吹く この七月のなかばのうちに 十二の赤い朝焼けと 湿度九〇の六日を数へ 異常な気温の高さと霧と 多くの稲は秋近いまで伸び過ぎた その茎はみな弱く軟らかく 小暑のなかに枝垂れ葉を出し 明けぞらの赤い破片は雨に運ばれ あちこちに稲熱の斑点もつくり ずゐ虫は葉を黄いろに伸ばした 今朝黄金のばら東もひらけ 雲は騰って青ぞらもでき 澱んだ霧もはるかに翔ける 森で埋めた地平線から たくさんの古い火山のはいきょから 風はいちめん稲田をゆすり 汗にまみれたシャツも乾けば こどもの百姓の熱した額やまぶたを冷やす あゝさわやかな蒸散と 透明な汁液(サップ)の転移 燐酸(ホス)と硅酸(シリカ)の吸収に 細胞膜の堅い結束 乾かされ堅められた葉と茎は 冷での強い風にならされ oryza sativaよ稲とも見えぬまで こゝをキルギス曠原と見せるまで 和風は河谷いっぱいに吹く (本文終了) #宮沢賢治 #南からまた西南から #和風は河谷いっぱいに吹く
2021.07.14
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「稲作挿話(未定稿)」(発表形) https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107100000/ 前回、初期形「あすこの田はねえ」と、発表形「稲作挿話(未定稿)」と、現代の地域の平年収量を比べました。 今回は、当時の稲作増収図書の収量との比較です。 一反(10a,1000平米)あたり詩の予想収量は、 一石が150kgですから、下記の通りです。 初期形 二石五斗 375kg 発表形 三石二斗 480kg 同じ東北地方の福島県を中心に読まれた稲作増収図書を例にあげます。国立国会図書館のサイトで読めます。 松川佐三 著 1926(大正15)年 一反六石取り松川式稲作増収法 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921239 この本では目標収量は6石900kgです。 掲載の実例では、2石300kgであった小作農が、4石600kgになった、とあります。 こうした各地の増収事例や図書が、賢治の詩に影響を与えた可能性もあると思います。 #宮沢賢治 #あすこの田はねえ #稲作挿話 #松川式稲作増収法
2021.07.13
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「稲作挿話(未定稿)」(発表形) https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107100000/ 前回、初期形「あすこの田はねえ」と、発表形「稲作挿話(未定稿)」と、1927(昭和2)年当時の地域の平均収量を比べました。 発表形は、初期形より105kg、地域平均より216kg多くなっていました。 今回は、現代の収量との比較です。 一反(10a,1000平米)あたり予想収量は、 一石が150kgですから、下記の通りです。 初期形 二石五斗 375kg 発表形 三石二斗 480kg さて、現代の岩手県花巻周辺の平年収量はどのくらいでしょうか。 農林水産省のサイトで、2021(令和3)年の地域別平年収量が見られます。令和3年産水稲は収穫前ですので、過去の平均に基づく数値です。岩手県花巻周辺は、北上川下流地域です。 https://www.maff.go.jp/j/press/tokei/seiryu/210629.html 岩手県花巻市が属する北上川下流地域の平年収量は537kgとなっています。 初期形は162kg、発表形でも57kg、現代の平年収量より低い数値です。 詩の収量についてまとめます。 ・初期形より発表形が高い ・当時の地域の平均収量より高い ・現代の地域の平年収量より低い #宮沢賢治 #あすこの田はねえ #稲作挿話 #平年収量
2021.07.12
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「稲作挿話(未定稿)」(発表形) https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107100000/ 前回、初期形「あすこの田はねえ」と、発表形「稲作挿話(未定稿)」を簡単に比べました。 今回は、予想収量の変化をみていきます。 一反(10a,1000平米)あたり予想収量は、 一石が150kgですから、下記の通りです。 初期形 二石五斗 375kg 発表形 三石二斗 480kg 発表形は、105kg増えています。 さて、当時の岩手県稗貫郡の平均収量はどのくらいでしょうか。 国立国会図書館のサイトで、1927(昭和2)年の岩手県県勢要覧が見られます。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456447 1.763石 約264kg となっています。 初期形は111kg、発表形は216kg、地域の平均収量より高くなっています。 #宮沢賢治 #あすこの田はねえ #稲作挿話 #岩手県県勢要覧
2021.07.11
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前回は初期形「あすこの田はねえ」をご紹介しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107090000/ 今回は発表形です。 1928(昭和3)年、花巻の印刷業経営者の鮎川草太郎は同人誌「聖燈」を創刊。宮沢賢治に原稿を依頼しました。そこで掲載されたのが、この発表形です。発表形なのに未定稿とあるのは、永遠の未完成これ完成である、と記した賢治らしい表現だと思います。 初期形との主な違いを挙げてみます。 タイトルがついた 2行目「あの品種」→「あの種類」 4行目「水」→「潅水」 5行目 青年が車を押していた状況の削除 8,9行目 燐酸施肥に関する質問の追加 19行目 日焼けの「悼ましく」の表現削除 20行目 やつれの原因を、「養蚕の夜」→「不眠」に変更 31行目 よくできた田の表現を簡略化 35行目 予想収量を二石五斗から三石二斗に変更 38行目 「あたらしい時代の百姓全体の学問」→「あたらしい学問」に変更 全体にわかりやすく整理したものと思われます。 次回は、技術と予想収量について考えます。 (本文開始) 稲作挿話(未定稿) 宮 澤 賢 治 あすこの田はねえ あの種類では 窒素が余り多過ぎるから もうきつぱりと灌水(みず)を切つてね 三番除草はしないんだ ……一しんに畔を走つて来て 青田のなかに汗拭くその子…… 燐酸がまだ残つてゐない? みんな使つた? それではもしもこの天候が これから五日続いたら あの枝垂れ葉をねえ 斯ういふ風な枝垂(しだ)れ葉(ば)をねえ むしつて除つてしまふんだ ……せわしくうなづき汗拭くその子 冬講習に来たときは 一年はたらいたあとゝは云へ まだかゞやかなりんごのわらひを持つてゐた 今日はもう日と汗にやけ 幾夜の不眠にやつれてゐる…… それからいゝかい 今月末にあの稲が 君の胸より延びたらねえ ちようどシヤツの上のぼたんを定規にしてねえ 葉尖(はさき)をとつてしまふんだ ……汗だけでない 涙も拭いてゐるんだな…… 君が自分で設計した あの田もすつかり見て来たよ 陸羽百三十二号のはうね あれはずゐぶん上手に行つた 肥えも少しもむらがないし いかにも強く育つてゐる 硫安だつてきみが自分で播いたらう みんながいろいろ云ふだらうが あつちは少しも心配ない 反当三石二斗なら もう決まつたと云つていゝ しつかりやるんだよ これからの本統の勉強はねえ テニスをしながら商売の先生から 義理で教はることでないんだ きみのやうにさ 吹雪やわづかの仕事のひまで 泣きながら からだに刻んで行く勉強が まもなくぐんぐん強い芽を噴いて どこまでのびるかわからない それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ ぢやさようなら ……雲からも風からも 透明なエネルギーが そのこどもにそゝぎくだれ…… (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/10時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #あすこの田はねえ #稲作挿話
2021.07.10
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1927(昭和2)年7月10日の詩です。 農学校を卒業した教え子に、主人公が水田で水稲の栽培指導をしています。 賢治の農家青年に対する熱い思いが感じられます。 今日、ご紹介するのは草稿である初期形です。明日は、雑誌発表形をご紹介します。目標収量などに差があります。 (本文開始) 一〇八二 〔あすこの田はねえ〕 一九二七、七、一〇、 あすこの田はねえ あの品種では少し窒素が多過ぎるから もうきっぱりと水を切ってね 三番除草はやめるんだ ……車をおしながら 遠くからわたくしを見て 走って汗をふいてゐる…… それからもしもこの天候が これから五日続いたら、 あの枝垂れ葉をねえ、 斯ういふふうな枝垂れ葉をねえ むしってとってしまふんだ ……汗を拭く 青田のなかでせわしく額の汗を拭くそのこども…… それから いゝかい 今月末にあの稲が君の胸より延びたらねえ ちゃうどシャッツの上のボタンを定規にしてねえ 葉尖を刈ってしまふんだ ……泣いてゐるのか 泪を拭いてゐるのだな…… ……冬わたくしの講習に来たときは 一年はたらいたあととは云へ まだかゞやかな苹果のわらひをもってゐた 今日はもう悼ましく汗と日に焼け 幾日の養蚕の夜にやつれてゐる…… 君が自分で設計した あの田もすっかり見て来たよ 陸羽一三二号のはうね あれはずゐぶん上手に行った 肥えも少しもむらがないし 植えかたも育ち工合もほんたうにいゝ 硫安だってきみがじぶんで播いたらう みんながいろいろ云ふだらうが あっちは少しも心配がない 反当二石五斗ならもうきまったやうなものなんだ しっかりやるんだよ これからの本統の勉強はねえ テニスをしながら 商売の先生から きまった時間で習ふことではないんだよ きみのやうにさ 吹雪やわづかな仕事のひまで 泣きながら からだに刻んで行く勉強が あたらしい芽をぐんぐん噴いて どこまで延びるかわからない それがあたらしい時代の百姓全体の学問なんだ ぢゃ さようなら 雲からも風からも 透明なエネルギーが そのこどもにそゝぎくだれ (本文終了) #宮沢賢治 #あすこの田はねえ #農業教育
2021.07.09
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1927(昭和2)年7月7日の詩です。 ヨシ(アシ)を刈る農民を聖者像に例えています。 ヨシは、よしずなどの日用品の原料や、水田の肥料に使われました。ヨシは固く、葉で肌は切り裂かれ、収穫は炎天下の重労働だったことでしょう。 青い稲田、アイリス、アザミなどの美しい光景と、働く農民の虚ろな眼が、賢治に強い印象を与えたのでしょう。 (本文開始) 一〇八〇 〔栗の木花さき〕 一九二七、七、七、 栗の木花さき 稲田いちめん青く平らな イーハトーヴの七月である 洞のやうな眼して 風を見つめるもの…… はんのきと萓の群落 さわやかによしは刈られて 今年も燃えるアイリスの花 またわづかにひかる あざみの花 幾重の山なみに雲たゝなびき 月見草の花瓣萎む そのひとみのいろ灰いろにしてつゝましく 短く刈られて赤いひげと 風にやつれたおももちは 更に二聯の 精神作用を伴へば 聖者の像ともなる顔である 飯岡山の肩ひらけ そこから青じろい西の天うかび立つ (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/7時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #栗の花咲き #ヨシ #アシ #アイリス #アザミ
2021.07.08
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宮沢賢治が伊豆大島を訪れた1928(昭和3)年の2年前、1926(大正15)年7月8日の詩です。 農作業は、解放感、充実感、達成感があります。休憩、給水すべき時間になっても、ついつい、もう少し、もう少し、と続けてしまいがちです。それを賢治は麻薬である阿片に例えたのでしょう。 しかし、7月の暑い時期にそれは熱中症で命取りになりかねません。二時間半も炎天下で連続作業すれば、賢治でなくても、白い光の幻覚を見そうです。 乾いた喉に、冷たい井戸水がうまいのはわかりますが、体に気をつけてほしいと、思ってしまいます。 (本文開始) 七一八 井戸 一九二六、七、八、 こゝから草削(ホウ)をかついで行って 玉菜畑へ飛び込めば 宗教ではない体育でもない 何か仕事の推進力と風や陽ざしの混合物 熱く酸っぱい亜片のために 二時間半がたちまち過ぎる そいつが醒めて まはりが白い光の網で消されると ぼくはこゝまで戻って来て 水をごくごく呑むのである (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/7時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #農作業 #井戸 #熱中症
2021.07.07
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宮沢賢治は、1928(昭和3)年6月に友人伊藤七雄の招きで伊豆大島を訪れたあと、東京に向かいました。東京での足取りは完全には明らかではありませんが、農事試験場、図書館、美術館、劇場、百貨店などをまわったようです。農業や芸術について見聞を深めたのでしょう。 6月末に岩手県花巻に帰った賢治は、伊藤七雄に手紙を書いています。その下書が残っています。 当時の東京は自動車が増えつつあったものの、未舗装道路が多くほこりっぽく、眼を痛める人が多かったようです。賢治も「少し眼を患ひ」と書いています。 約3週間留守をしていたので、畑も庭も「草ばうばう」だったと書いています。地域の農家の稲の成長は順調で、もう秋の実りを想像した喜びに満ちた下書きもあります。前年の1927(昭和2)年は、風雨による稲の倒伏に悩まされただけに、特に嬉しそうな様子が伝わります。 岩手県水沢の伊藤七雄の実家に行くことを頼まれたようです。「正直に申し上げ」る内容がどのようなことだったのか気になります。 後日、伊藤に花の種を送るとも書かれています。この後も文通は続いたものと見られますが、残念ながら、このほかの書簡は発見されていません。 (本文開始) お手紙ありがたく拝見いたしました。 はなはだ遅くなりましたがその節はいろいろと厚いおもてなしをいただきましてまことにありがたうございました。先月の末おきまり通り少し眼を患ひながら帰ってまゐりました。畑も庭も草ばうばう、くわくこうはまだやって居り、稲はもうすっかり青い槍葉になってゐました。 水沢へは十五日までには一ぺん伺ひます。失礼ながら測候所への序でにお寄りいたしまして、ご安心になるところ、ならぬところ正直に申し上げて参ります。 花のたねはみんなありふれたものばかりですが、そのうちすこし大事のところをお送りいたしますからあれで充分お手習ひをねがひます。次にはかの軟弱不健全なる緑廊は雨で潰れるかはじけるかいたしませんか。 こちらも一昨日までは雨でした。昨日今日はじつに河谷いっぱいの和風、県会は南の方の透明な高気圧へ感謝状を出します。 (本文終了) 下書きは何種類かあり、最後の、気候と作柄に関する部分は、下記のようなバージョンもあるそうです。どちらも良い天候に感謝する賢治らしい表現となっています。 (本文開始) 一昨日までひどい雨でしたが昨日からすっかり天気になりました。河谷いっぱいの和風です。今年の稲の槍葉も伸びてことによったら秋には祭の軽業師に村の人たちが栗やあけびをどうかたべてくださいと言って投げつけるあんな情景がまた来るかと思ったりして居ります。どうぞお大切に。 (本文終了) この書簡は、ちくま文庫全集9巻に収録されています。 宮沢賢治全集10冊セット [ 宮沢賢治 ]価格:11660円(税込、送料無料) (2021/7/6時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #書簡 #伊藤七雄 #伊豆大島
2021.07.06
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宮沢賢治の友人、伊藤七雄の農芸学校は、伊藤の死により、わずか1年で閉校となってしまいました。 農学校設立は、その後も伊豆大島島民の悲願だったようです。悲願がかなったのは戦時中の1944(昭和19)年でした。大島農林学校として開校しました。 現在は、東京都立大島高校農林科となっています。 毎年2~3月の椿まつりには、通常の年は学校の椿園の一般公開が行われるそうです。 今年2021(令和3)年は、椿まつりは、コロナ禍により、オンライン開催でした。 東京都立大島高校椿園の紹介 http://www.osima-h.metro.tokyo.jp/zen/nourin/tsubakien.html 大島のツバキから、高級椿油を作っている株式会社椿では、朝礼で宮沢賢治の詩を朗読するなど、その精神を取り入れているそうです。 また、都立大島高校とも連携し、職場体験を行うなどしているそうです。 株式会社椿 https://www.tubaki.co.jp/contents/philosophy 賢治が協力した大島農芸学校は、短期間で閉校してしまいました。 しかし、直接の関係はありませんが、その心は引き継がれ、島民のみなさんはじめ関係者の努力で、農業教育が続いていることは素晴らしいと思います。 #宮沢賢治 #伊豆大島 #大島高校 #椿まつり #株式会社椿 #ジャポネイラ
2021.07.05
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宮沢賢治は、友人伊藤七雄の招きで訪れ、妹伊藤チヱとも会った伊豆大島の印象を、後日、「火の島」という詩にしています。 「火の島」は何度も推敲され、多数のバージョンがあります。そのうちの一つをご紹介します。 友人が南の島に設立した農学校で働きながら、友人の妹と、椿の林や百合の手入れをする、そんな実現しなかった未来を思いながら書いたのかもしれません。 (本文開始) 火の島(Weber 海の少女の譜) 海鳴りのとゞろく日は 船もより来ぬを 火の山の燃え熾りて 雲のながるゝ 海鳴り寄せ来る椿の林に ひねもす百合掘り 今日もはてぬ (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/4時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #伊豆大島 #火の島
2021.07.04
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1928(昭和3)年6月、宮沢賢治は、友人伊藤七雄の農芸学校開設の相談にのり、妹伊藤チヱとも会い、伊豆大島で充実した時間を過ごしました。 賢治は、帰りの船で「いそがしくあなたがたを離れてしまった」と伊藤兄妹と離れがたい気持ちを語っています。 伊豆の海、山、空の絶景と、何の関係もない福島県からの乗客のユーモラスな様子が、賢治の心を慰めます。 (本文開始) 三原 第三部 一九二八、六、一五、 黒い火山岩礁に いくたびいくたび磯波があがり 赤い排気筒の船もゆれ 三原も見えず 島の奥も見えず 黒い火山岩礁に いくたびいくたび磯波が下がり ……風はさゝやき 風はさゝやき…… 波は灰いろから タンブルブルーにかはり 枯れかかった磯松の列や 島の奥は蛋白彩の けむりはあがり いちめん apple green の草はら ……それをわたくしは あの林のなかにも企図して来た…… 狂ったかもめも波をめぐり 昨日座ったあの浜べでは 牛が幾匹しづかに 海霧のなかに草をはみ 奥地は霧の 奥地は霧の もうこの船は・・・・の燈台を見ます 暗い雲にたった の崎の燈台を見ます いまわたくしは眼をさまして窓の外を見ましたら 船はもうずうっとおだやかな夕がたの海の上をすべってゐて すぐ眼の前には緑褐色の平たい岬が ……よくあちこちの博覧会の模型に出る 一つの灰いろの燈台と 信号の支柱とをのせて横はって居りました それは往くときの三崎だったとわたくしはおもひ あの城ヶ島がどれであるかを見やうとして しさいに瞳をこらしましたが それはなれないわたくしには 崎と区別がつけられないだけ うしろになって居りまして たゞどんよりと白い日が うしろのそらにかかって居り 却って淡い富士山が 案外小さく白い横雲の上に立ちます わたくしはいま急いではね起きて この甲板に出て来ますと ……福島県 なぜわたくしは離れて来るその島を じっと見つめて来なかったでせう もういま南にあなたの島はすっかり見えず わづかに伊豆の山山が その方向を指し示すだけです たうたうわたくしは いそがしくあなた方を離れてしまったのです 富士にはうすい雪の条があって その下では光る白い雲が 平らにいちめんうごいて居り 上にはたくさんの小さな積雲が 灰いろのそらに立って居ります これはもう純粋な葛飾派の版画だ わたくしも描かうとひとりでわたくしは云ひました 三崎も遠く かいろ青のそらの条片と雲のこっちにうかび 日がいまごろぼんやり雲のなかから出て うすい飴いろの光を投げて居ります それはわたくしの影を 排気筒の白いペンキにも投げます もううしろには模型のやうな小さな木々や 崖のかたちをぼんやり見せた 安房の山山も見えてゐますし わたくしの影はいま パイプをはなれて うしろの船室への入口の壁に てすりといっしょにうつってゐます それから富士の下方の雲は どんどん北へながれてゐて みんなまっかな瑪瑙のふうか またごく怪奇なけだもののかたまりに変ってゐます ……甲板の上では 福島県の紳士たちが 熱海へ行くのがあらしでだめだとつぶやいて いろいろ体操などをやります…… おゝあなた方の上に 何と浄らかな青ぞらに まばゆく光る横ぐもが あたかも三十三天の パノラマの図のやうにかゝってゐることでせう 日はいま二層の黒雲の間にはいって 杏いろしたレンズになり 富士はいつしか大へん高くけわしくなって そのまっ下に立って居ります 一隻の二とんばかりの発動機船が 波をけたてゝ三崎の方へかけて行きます そしてもうこの舷のうしろの方で 往くときも見えた あの暗色の鉛筆の尖のかたちをした 燈台が二きれの黒い岩礁の その小さな方の上に立って 橙いろのうすい灯を 燃したり消したりはじめてゐます 黒い海鳥は 幾羽 鈍い夕ぞらをうつした海面をすべり 船はもうまさしく左方に その海礁の燈台を望み またその脚に時々パッと立つ潮をも見ます 三崎の鼻はもう遠く その燈台も 辛くくるみいろした 雲にうかんで見えるだけ そしてあなたの方角は もうあのかゞやく三十三天の図式も消えて 墨いろのさびしい雲の縞ばかり それからほとんど突然に右手の陸で ほとんど石炭のけむりのやうな雲が いくひら いくひらあらはれて もう富士山も いま落ちたばかりのその日のあとの 光る雲の環もみんなかくしてしまひます 思ひがけなく 雲につゝまれた富士の右で 一つの灰いろの雲の峯が その葡萄状の周縁を かゞやく金の環で飾られ さん然として立って居ります ……風と 風と 海があんまりかなしいひすゐのいろなのに そらにやさしい紫いろで 苹果の果肉のやうな雲もうかびます 船にはいま十字のもやうのはいった灯もともり うしろには もう濃い緑いろの観音崎の上に しらしら灯をもすあのまっ白な燈台も見え あなたの上のそらはいちめん そらはいちめん かゞやくかゞやく 猩々緋です (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/3時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #三原 #第三部 #伊豆大島 #福島県
2021.07.03
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前回は、宮沢賢治が伊豆大島の友人伊藤七雄に種まきについて語る部分でした。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107010000/ 今回は、田園を彩る草木について語ります。 伊豆大島は温暖で照葉樹が多く、東北地方にくらべて樹木の密度が高い気がします。 賢治は、どんどん剪定するよう伊藤に指示します。温暖な地方の木は、成長が早い分柔らかく、楽に切れるようです。 ミズキ、サクラ、クロマツ、と、明るい緑から黒緑まで、グラデーションで楽しみながら農園に歩いてこれるように剪定します。緑のトンネルを抜けた先には一転、鮮やかな花々を植えます。そこに茶亭を建てて、お茶を飲むのは最高だと思います。 岩手県花巻には、賢治の設計した花壇が再現されて人気となっています。伊豆大島にも賢治の庭園が再現されたら、ぜひ行ってみたいと思います。 (本文開始) 三原 第二部 一九二八、六、一四、 (略) こんどは所謂この農園の装景といふことをしませう まづ第一にこの庭さきのみづきがあんまり混んでゐて おまけに桜や五葉松までぎっしりで 大へん狭く苦しい感じがしますから これをきれいに整理しませう この木がぜんたいいちばん高くて乱暴です まるでチーズのやうに切れます さあではあなたも切ってください それですそれですその木です あゝ鋸を土につけてはいけませんなあ 刃がすぐすたってしまひます たぶんあなたのちいさい時分 木小屋かどこかのひるすぎごろに 誰かゞひとりでしづかにそんな鋸の 目をたてたのをおぼえてませう ああいふにしてしじゅう大事にするのです それで結構向ふの樺も伐ってください 木立はいつでも一つの巨きなマッスになるか さうでなければ一本一本幹から葉まで 見分かるやうになってゐないといけません 大へんそれでよくなりました その木の二本の幹のうち 右手の方も伐ってください そしたらひとつこゝから向ふをごらんください そこらはみづきのうすい赤からアップルグリン それもうしろはだんだん高く 喪神青になってゐて 向ふが暗い桜の並木 そのまたうしろがあの黒緑な松の梢 すなはちこれが一つの緑の段階で 近代的な浄化過程を示します そしてうしろがあのかゞやかなタキスの天と せわしくふるふあの銀いろの微塵です そこでこんどはこれらの木立の下草に 月光いろのローンをつくるといたしませう すなはちあすこの松や椿や 羊歯の小暗いトンネルを どてからこっちへはいって来ると みづきと桜のあの緑廊になりませう そこもやっぱり青ぐらく 緑と紫銅のケールの列や 赤いコキヤのぼたんを数へ しづかにまがってこゝまで来れば 小屋は窓までナスタシヤだの まっ赤なサイプレスヴァインだの ぎらぎらひかる花壇で前をよそほはれ つかれたその眼をめぐらせば ふたゝびさやかなこの緑色を見るでせう これだけでまだ不足なら さっきのみづきと畑のへりの梓をすこうし伐りとって こゝへ一っつ 六面体の つたとあけびで覆はれた 茶亭をひとつ建てませう 梓はどの木も枝を残し 停車場などのあのYの字の柱にし みづきの方は青い網にもこしらえませう (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/2時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #三原 #第二部 #伊豆大島 #伊藤七雄 #装景
2021.07.02
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1928(昭和3)年6月、宮沢賢治は伊豆大島を訪れました。友人伊藤七雄の招きでした。伊藤は、伊豆大島に農芸学校開校を計画していました。 賢治は、畑で農作業の理論と実際について伊藤に語りました。そのようすを詩「三原 第二部」として書き残しました。 かなり長い詩ですので、分割して解説しています。 前回は干ばつ対策でした。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106300000/ 今回は、種まきについて語ります。 伊藤も岩手県出身ですので伊豆大島の砂まじりの土を岩手県北上川沿岸の土に例えています。 土をよく叩き毛細管現象を促します。地下の水を吸い上げ発芽を良くするためです。 ここでも干ばつ対策に力を入れる賢治です。 アメリカ先住民の種まきの方法まで語るとは、さすが博識です。 砂地の家庭菜園をお持ちの方は、賢治の講義を実践してはいかがでしょうか。 次回は、田園の装景について語ります。装景とは、草花や樹木で美しく機能的な景観を作るという、造園学の用語です。賢治は伊豆大島の田園をどのように彩るのでしょう。 (本文開始) 三原 第二部 一九二八、六、一四、 (略) それではひとつやりませう 縄を向ふへ張ってください そらかうですよ ずゐぶん働きやすい土です 北上川の岸の砂地と同じことです すぐうしろからさっきの肥料を入れてください えゝ それぐらゐ、そんなふうです 肥料はいちばんむらのないのがいゝんです それではそれをかういふ風に耡きこみますよ それから上を ごくしっかりと叩きつけます ぼさぼさ堀って、ことに堆肥をしきこんで 乾いたまゝへいきなり種子を蒔きますと 水の不足でよほど発芽に難儀をします さっきのやうに深いとこから吸ひあげるまで かういふ風にしっかり叩いて置くのです これでとにかく一畦やっとできましたから こゝにはちしゃを播きませう むらが少しもできないやうに もう何べんにもごく叮寧に播くのです あなたはそっちを播いてください むらなところは吹いてください またたなごころでまぶしてもようございます 大事な種子は箱か鉢かへ播きつけますが 一つぶ一つぶ小さな棒に水をつけて ならべることもありますし 鳥の羽などで一めんまぶすこともあります 結局種子と種子の間が 相当きまってはなれてゐればいゝのです それでは土をかけませう 土の厚さは種子の厚さの三倍あたりが原則ですが かういふ軽い土ならもっとかけて置きます いったい種子の発芽には 温熱水湿酸素の三つが要りますが 地表は酸素と熱には多く 深部は湿りが大きいために 土性とそれから気候によってこれら三つの調和の点を求めるのです 非常な旱魃続きのときに 巨きな粒の種子を播きつけしますには アメリカンインデアンの式をとります 棒で三寸或は五寸も穴をあけ 中に二つぶぐらゐもまいて わづかに土を投げて入れます 播く前種子を水に漬けるか漬けないか それは天気とあとの処理とに従ひませう もしもそのとき雨か或は雨が近くて 発芽がすぐにできますときは 一晩乃至二昼夜ぐらゐ 種子をきれいな水につけます けれどもちゃうど今日のやうな日 いつまた雨が来るとも知れず 水をかけたりできないときは むしろ乾いたまゝで播き 雨が来るのを待ちませう それではどうぞ縄を向ふへ向けてください (以下、略) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/1時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #伊豆大島 #伊藤七雄 #三原 #第二部 #種まき #播種 #毛細管現象
2021.07.01
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