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チャン・イーモウが発掘した二大世界的女優コン・リーとチャン・ツィイーが火花を散らす「SAYURI」が中国で上映禁止になったらしい。(おそらく中国女優が日本で売春をするのが気に入らなかったのだろう。しかしそれは明らかな日本文化の曲解である。)まさか『単騎、千里を走る。』までそんなことは無いだろうね、と気にしたら1月29日付け朝日新聞の特集シンポ「日中関係の発展に文化は何が出来るか」で王敏氏が「人民日報でこの映画が大きく報道された」といっていたので一安心。この映画こそ、両国の人民、国民がこぞってみて欲しい。なぜかということは、既に述べた。さて、このシンポは「政冷経熱の現状と『文温』の可能性」という副題がついている。現状いえば、麻生太郎外相が靖国参拝について「政冷」にまた氷水をかけた。「日本の首相が、国内でここには行ってはいけないと外国から言われるのは通らない。中国が言えば言うだけ行かざるを得ない。たばこを吸うなと言うと吸いたくなるのと同じだ」と。加藤周一氏はこのシンポで「今の『政冷経熱』は長くは続かないだろう。閉じた関係は、時が経てば温度が平均化し、いずれ政冷経冷、政熱経熱となる。」と述べている。どちらに傾くか、加藤氏ははっきり述べていないが、『政治が冷たいと経済も冷めていく』とは述べている。一方「靖国反対を言っているのはアジアでは中国・韓国だけだ」という小泉首相の主観とは裏腹に靖国史観派はそのテリトリーをドンドン減らしてきている。世論調査も反靖国だし、月刊『論座』二月号では読売新聞の渡辺恒雄氏と朝日新聞論説主幹の若宮啓文氏とが『靖国批判』で大いに志を同じうしている。渡辺氏は言う。「靖国神社の本殿の脇にある、あの遊就館がおかしい。軍国主義をあおり、礼賛する展示品を並べた博物館を、靖国神社が経営しているわけだ。そんなところに首相が参拝するのはおかしい。」政熱経熱の可能性は充分にあるだろう。そのためには『文温』の温もりが必要なのではないだろうか。加藤氏は「(日本は)ある方向に流れる傾向がある。」という。ほかの書物では「なし崩し的に変わっていくのであって、急激には変わらない」とも言っていた。『雑種文化論』以降加藤氏の関心領域は常にその日本人気質の克服であった。「個人として、自分が正しいと思うことを言わないといけない。」この訴えは親友丸山真男氏とも通抵する考えだろう。ではどうするか。「若者と高齢者は手を取り合って欲しい。この層は発言力は弱いが組織からの圧力は少ない。『未来と過去の同盟』が発言すれば、日本も変わる。」新聞はシンポの要約なのでそれ以上のこと、どういう形の同盟をイメージして言ったのかはわからない、しかし私は『なるほど』と思った。現在全国に無数に出来ている九条の会は、多くは「年金受給者と若者との連携」「年寄りと主婦との連帯」の成果である。あるいはパソコンも自由に扱える新しい定年退職組が次々と九条の会を立ち上げている。問題は学生の動きが目に見えないことである。いかに地域に飛び出るか、そこは年寄りが道を示さなくてはならないだろう。プログやHPはそのための重要なツールだ。ブログの場合はTBという武器があって、「個人として自立しながら」「なおかつ連帯する」にはもってこいのツールである。「なんとなく繋がる」という意味でも使いやすい。新定年組以外の昔ながらの年寄はインターネットの世界は知らないから、若者と年寄の橋渡しは新定年組や元気な中年が担わなくてはならないだろう。まずは高校生、大学生の若者は自分の疑問をドンドン出し、自分の意見をドンドン出そう。大人はきっと応えてくれるし、現在希望はそこから生まれる連帯しかないだろうと思う。
2006年01月31日
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監督 : チャン・イーモウ日本編監督 : 降旗康男出演 : 高倉健リー・ジャーミンジャン・ウェンチュー・リンヤン・ジェンボー いい作品だった。思いのあふれる作品だった。私はこの映画に出てくる、『真心』を全て信じることが出来る。日本人の『真心』も中国人の『真心』も。ごめんなさい。少し映画を離れて思い出話をします。2001年9月上海の周りを一人ぶらぶら旅をしました。一日かけて郊外の水郷の村の周荘というところへ行きました。ミニバスなどに乗り継ぎながら、周荘のバスセンターに着くと周荘入り口までの約2キロ。ひつこい勧誘にあって自転車馬車に乗ってみる。(片道2キロ6元90円)。観光地周荘の中に入ると、またひつこい勧誘にあって、日本語がぜんぜんできないガイド(案内して写真を撮ってくれるという役割)を雇いました。(50元750円)マイペースで案内してくれるのには閉口したけど、人のよさだけは良く分りました。お互い言葉は全然出来ないけど、何とか通じるものです。彼のおかげで、言葉が出来ない私はたぶん乗れなかった観光船に相乗りで乗ることが出来ました(上の写真)。1日千円ちょっとしかならない労働で、彼は家族を養っているんだろうなと思いました。下の写真は昼食中の彼のスナップです。一緒にご飯を食べるとなんかお互いの生活まで分かるような気がするから不思議です。彼と比べると映画の現地通訳はなかなかインテリな男ですわ。観光客相手の彼らを全て信用することは出来ません。上海の街中で、詐欺まがいに巧妙に200元(3000円)の素人絵を買わされたという経験もしました。一方こんな経験もしました。周荘からの帰り道、バスは上海の街中をいつの間にか過ぎてバスセンターに帰ってしまったのです。ここは一体どこだろうか、と職員の詰め所みたいなところに寄って筆談で一生懸命近くの駅の場所を教えてもらいました。すると親切にも一人の職員が駅まで送ってくれることになりました。駅の近くまでいくと職員の友達にあって、どうやら友達に後を託した模様です。その友達は何と乗り換え駅までの切符を買ってくれてどうしても切符代の二元を受け取ってくれないのです。そしてメモを書いてくれたり、言葉で何度も乗り換えの方法を教えてくれました。ホントに私は何度も何度もお礼を言って彼と別れました。映画の中で、通訳の人がさりげなく謝礼を返しにくる場面があります。また、一人の客人を歓待するためにひと村あげての宴会をする場面があります。刑務所ではきちんと用意して「単騎、千里を走る。」の仮面劇をする場面があります。真心が人を動かす。真心が人に応える。高倉健ならそれが自然と絵になる。けれどもそれは決して特殊なことではない。政治の問題を置いても、歴史認識の違いで、日中間にはまだ越えなければならない河はあると思う。でもそれは必ず越えることの出来る河である。そのことを改めて思った映画でした。追記あとで読み返すと、これでは『意』は通じないかもしれないと思いました。私は健さんではないので、行間を読んでもらうという離れ業をしてはいけませんよね(^^;)この映画のようなコミュニケーションは、単なる観光で実感しようとすると難しいものがあると思います。特に中国人は金が絡むといやらしくなるように感じます。けれどもいったん、金からは離れると、健さんのような真のまごころに接したり、本当に困っている人に接すると、中国人は見返りを求めない行動をするのではないでしょうか。『中国人は……』という風に一般化してしまう危険性は承知しながらも、私は自分の経験で直感的にそう思っています。
2006年01月30日
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10年以上前に「通販生活」を購買していたのだが、買うものないわ~と思って止めていた。最近の評判を聞いて、ちょっと買ってみる。昔と比べるとほぼ同じ値段なのに読み物が格段に増えている。これなら業界の中では珍しい「憲法改悪反対」をうたった季刊誌として取ってもいいかな、と思い年間購入の手続きをした。2年で8冊、1280円。春号では「アメリカのこれからの付き合い方」と特集していて、著名人五人のインタビューを行っている。トップバッターはまさかこんなことになるとは「通販生活」も本人も予測していなかった堀江貴文氏。「アメリカと共に自衛隊が戦闘行為に参加することには反対です。」とキッパリ言っていますね。「そのかわり、日本は食料援助ほか、平和的な分野での人道復興支援はもっとやるべきでしょう」とも。それがきちんとした考えの元なら、私は経済活動の無茶は置いといてこの人の考えを評価するのですが、よく読むと、以下のようにそう言うための根拠は非常に薄弱であることがわかります。「アメリカを国家として意識したことは実はほとんどないんですよ。」「ナショナリズムというものに価値を感じませんし、争いの大半は国家という枠組みによって起きるものだから、国家なんてなくなればいいと思う。」このように言いたい気持ちはわかりますが、どうやら国家を甘く見すぎているようです。だからこそ、捕まったのではありましょう。「僕は憲法に自衛隊は軍隊だとはっきり書けばいいと思いますよ。」「「他国に対する武力行使はしない」と憲法に書けば、なんの問題もないでしょう」彼がもし間違って代議士になってしまっていたとしたら、簡単に改憲の駒にされていたことでしょうね。その他この前の憲法の岩波パンフの反響とか、消費者の立場に立った硬派の記事が多くて、気に入りました。
2006年01月29日
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『オーデュボンの祈り』新潮文庫 伊坂幸太郎読み始めは、いつも『逃げている』ばかりの主人公が描写されている。そうか、事件の真相を明らかにする過程で主人公が成長するという物語になるのだな、とある程度この物語を予見をした。ところが、そんなありきたりの物語になってはいない。『弱気なギャングが地球をまわす』という作品のあとがきに著者は次ぎのようなことを書いたらしい。「現実世界とつながっているように見えながらも、実はつながっておらず、また、寓話のように感じられるかもしれませんが、寓意はこめられていない。そういうお話になりました。」(本書解説より)それはそっくりこのデビュー作にも当てはまる。この人を食ったような構造がとても快く感じられる。『読む愉しさ』を教えてくれる小説家である。読んでいる最中、謎がくるくると廻っているが、読後は実はそのときのことをよく覚えていない。あとにはいくつかの『感情』だけが残るのである。まるで良質の音楽会に行って来たときのように。初めて、この人の作品を読んだが、次も読んでみようかという気にさせる作家である。
2006年01月28日
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「亀も空を飛ぶ」製作・監督・脚本バフコマン・ゴバディ2003年3月イラク・クルディスタン、トルコ国境の小さなクルド族の村の約一ヶ月の寸描。乾いた土地、凍った山、抜けるような青空、埃と雨の村、難民たちを抱えて村の人口は膨れていた。そこへ両親を殺されたクルド族12歳位(推定)の少女と両手をなくした15歳くらいの兄、2歳くらいの赤ん坊が流れつく。この村を仕切っているのはアメリカかぶれで英語ができるために村人の長老も一目おかざるを得ない17歳くらいのサテライトである。半村良の「晴れた空」のように子供達は子供のみの裁量で戦乱が続く明日をくぐりぬけようとしている。サテライトはあの兄妹が気になって仕方ない。妹の方に恋をしたみたいでおせっかいをやく。しかも兄のほうは「予言する力」があり、サテライトはそれを信じる。少女はサダムの兵に襲われ、子供を生んでここへやって来たのだ。少女は子供を捨てたくて仕方ない。やがてイラク戦争が始まる。兄は戦争が始まること、戦争が終わることを予言できたが、妹が子供を殺して自殺することを止めることはできなかった。予言者は運命を予言できるが運命は変えられない。戦勝国アメリカのジープが通る中、兄はいずこかへ去っていく。サテライトに「あと275日後に何かが起きる」と予言を残して。イラクはアジアの国だな、と思う。上海や韓国の田舎町で見たような風景だった。決して過去の話ではなく、現在の世界の片隅で起こっているはずの物語である。サテライトはイラクのこれからを象徴し、(それはたくましいが、明るいものではない)少女はイラクのこれまでを象徴する。(決して笑わない少女のまなざし)赤ん坊は生き残らない。兄は運命を変えられない。大人たちは無力である。それでも危険な地雷除去をして仲介業者に国連犬の数十分の一の金しかもらえないと知りながら交渉で少しでも値が上がれば良しとしなければならないことを彼らは既に知っている。さらには掘った地雷で銃を買うすべも知っている。たくましく生きていく村の50~100人の子供たちが「世界の明日」を確実に作っていく。われわれは子供なのか、大人なのか。追記「275日」とは一体なんなのか。少し調べてみた。2003年5月1日のブッシュが勝利宣言した日から275日とすると、数があっているかどうかはわからないが、こういうニュースがある。「2004年2月1日、イスラム教の犠牲祭のさなか、アルビルで100人以上の死者を出した同時自爆テロが起こり住民の安心感は大きく揺さぶられた。」そのときサテライトや、シルクはどうなったのだろうか。ひとついえるのは、この映画はまさに5月1日から、275日の間につくられた、イラクの同時代史なのだ。片足が無い子、両手が無い子、目が不自由な子、彼らが普通に走っている。決してCGで作った映像ではない。イラクの南側で、アメリカ軍の手助けをすることが、日本のなすべきことなのだろうか、鋭く突きつけられている。
2006年01月26日
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「旅の途中で」新潮文庫 高倉健「単騎、千里を走る」を観る前に読んでみた。私の中に高倉健は数ある俳優の中で特別だという思いがある。何故なのかわからないけど「鉄道員(ぽっぽや)」を観たとき最後の健さんが泣く場面に泣いてしまった、からではないかと思っている。あれはきっと高倉健だから泣いたのだ。ほかの役者がやったなら、あんなべたな場面で泣くような私ではない。あの、高倉健が泣いているのだ。いわんや私をや。--とはいっても「あの」の中身を私は具体的には語れない。それでこの本を読んだ。はじめて健さんの著書を読み、少し圧倒された。ここにはスクリーンとちがい饒舌な高倉健がいる。しかしまさしく高倉健なのだ。この本の中に丸山健二から贈られたという「それが高倉健という男ではないのか」という詩が載っている。機会があれば読んでみるといい。(わざと紹介しない)しかし高倉健の魅力はそれだけではない。いや、私などがわかるはずがない。高倉健はオソロシクやさしいのである。いや、オソロシク怖いのである。いや、オソロシク鋭いのである。旅の途中や仕事を通じて知り合った人々の誠実な姿に誠実に「感動」する簡単にできるような感性ではないのである。たとえば「チロルの挽歌」で共演した少女からハッピーバースデーのテープが届く。「‥‥ハッピー バースディー トゥー ユー‥」歌を聞いて健さんは気がつく。「おしまいの部分で、一度もお会いしたこのない安菜ちゃんのお父さんの声がかすかに聞こえてくること。‥‥人に何かを伝えるということはこういうことなんだな。こういうことが人の心を揺さぶるんだな、そう感じました。お返しに何がいいか思い悩んだ挙句、僕もお返しのテープをその夜吹き込んで、送りました。」この本の高倉健は饒舌である。しかし、文字の間から伝わってくる「高倉健という男」はさらに多くのものを伝えている。「人生って捨てたもんじゃないな、生きているって悪くないな」そんなふうに少しだけ感じる。「単騎、千里を走る」はチャン・イーモウが健さんに惚れこんで作ったという。近年の大作とは違い、健さん以外はみんな地元の素人だという。「この子を探して」の世界が帰ってくるかもしれない。いや、それ以上の世界を観ることができるかもしれない。
2006年01月26日
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「模倣犯」(5)新潮文庫 宮部みゆき古河鞠子の遺族である有馬義男はほかの殺人事件で自分を責めている塚田真一少年にいう。「あんたら若い人は、よくそういうものの言い方をするね?」「自分には何々する資格はないとかさ。自分は何々だと思ってコレコレのことをしてきたけど、本当はそれは偽りで、自分の心の底にはコレコレしたいシカジカの動機が隠されていたのだから、あれは間違いだったんだ、とかよ」「私なんざ、不思議でしょうがないよ。」「悪あがきでいい。そんなことははなからわかっているんだもの。私のやることなんざ、全部悪あがきだもんな。だって鞠子は帰ってこないし、真知子は正気に戻らん。そうだろう?」「そんでも私は、悪あがきをしたいんだよ。何かをしたいんだ。」「今となっては私には、大切なのは結果じゃないんだ。結果は理不尽で、ぜんぜん納得がいかないよ。それは充分わかっているんだ。だけど、そこまでいくあいだのことが大切なんだ。もう受身でいるのはまっぴらなんだよ」有馬の塚田少年に向けてのこの十数ページにわたる言葉(引用は物凄くはしょりました)は、この長い物語の(私にとっての)クライマックスであった。塚田少年が前を向くきっかけになった言葉の数々である。犯人たちの心の内は、とりあえず私には重要ではない。運命が人を襲ったときに、人はどのように立ち直るのか、そのひとつの物語を示してくれたということで、この「模倣犯」は意義があった。それにしても宮部の小説において主人公は多くの場合少年とおじさんである。この小説も結局そうなった。ピースの心の内面は一応描いてはいる。しかし、全面的に描いてはいない。この小説の中で、その心の内面へ探索していくかぎはいくつも残されているので、読者はもう一度読み返しながらそこに旅していけばいいのだろう。2006.01.20読了。結局最後はあっという間に読んでしまった。おそらく全部読み終えるのに、合計30時間以上は使った(浸かった)と思う。まあ、それでもさらさらっと読めてしまうのは宮部みゆきの才能だろう。「晴子情歌」の高村薫ならこうはいかない。読み終える前後、ライブドア事件が進行していた。ひとつの意見は「模倣犯」読書日記(2)で述べた。これは劇場型事件ではないが、事件はまるで劇場のような展開を示している。もし誰かがピースのように「これは僕のオリジナルだ」といいながら脚本を書いているのだとしたら、その場合犯人「役」はホリエモンではないだろう。真犯人Xは「真犯人Xは別にいる」とアドバルーンを揚げるだろうか。真犯人Xは決してそのような墓穴を掘るような真似はしないだろう。
2006年01月25日
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「模倣犯」(4)新潮文庫 宮部みゆき4巻の主な登場人物は高井由美子と前畑滋子である。高井由美子は加害者の遺族がどのような状況になるかを体現し、前畑滋子は「事件の真相を描いてもどこまで描ききれるのだろう‥」という宮部自身の迷いを反映した内容になっている。この作品は力作であるが冗漫すぎる、という批判は本が上梓された直後からアマゾンコムなどで飛び交っていた。最初の構想から二倍もの量になったというのは、宮部の迷いが反映してのことだろう。しかし最後まで読むとその迷いはふっ切ったみたいだ。そして単なる連続殺人事件の真相に主題をおかず、事件をめぐる人物群像に主題をおいていることが読み終えてくっきりわかる構想になっている。時々勘違いをしている人がいるが、宮部みゆきは決して「社会派」の作家ではない。「火車」も決してそういう読まれ方は望んでいない。あまりにもいろんな事が見えてしまうから、そしてそれを言葉で表現できる類まれな才能を持っているから、この本を読むと連続殺人事件の本質を知ったような気になるが、彼女が描きたかったのはただ一点「人の心」のみなのである。p196の前畑の若者論、p208以降の由美子の遺族の気持ち、あるいは塚田真一の「自分が殺してしまった」という自責の気持ち、まるであわせ鏡のように、何度も何度も違う形で立ち現れて読者の私たちに考えるきっかけを与えようとしている。人の心の中はまるでひとつの宇宙である。宮部みゆきは常にそう云ってきた。2006.01.19読了。そして(5)をすぐ読み始める。三日前に観た「疾走」がひどかっただけに、殺人にいたる、残される遺族の気持ちにいろいろ考えてしまう。
2006年01月24日
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「模倣犯」(3)新潮文庫 宮部みゆき三巻目はいわば前半のクライマックスである。ヒロミとピースと高井和明三人の対決が行われる。さて、この作品、そのあまりにものリアルさにいつの間にか本を読んでいる我々さえも、この小説の中に取り込まれてしまう。例えばーーやがては古川鞠子の悲劇を二度と起こさないよう、いろんな意見がブログで書かれた。無数の記事と無数のTBと無数のコメントがネットの上を飛び交った。「KUMA0504さんコメントありがとうございました。私も一応独身女性(^^;)ですから、駅から家に着くまで10分間がとても怖くなりました。」「栃木さん気をつけてくださいね。日本の警察は優秀ですから、きっと容疑者は既に相当絞られているはずです」云々。そして一連のそういう反応をヒロミとピースは嗤っていた。というような文章がこの作品のどこかに挟まっていても決して不思議ではないだろう。長い物語にする必然性は例えばこういうところにもあるのかもしれない。遺族を悼むコメントをしながら、犯人像をコメントしながら、巨大なネット上で井戸端会議をすることで、かえって犯人たちを喜ばしているという矛盾。劇場型犯罪に対して、私たちはまだ有効な対処の仕方を知らないのではないだろうか。この作品の重要人物なのに、なかなか叙述の語り手にならない人物がいる。ヒロミとピースの幼友達の高井和明である。和明がヒロミを説得しようとする言葉の一つ一つにこの作品の、作者の願いがこめられている。最後の最後で和明は叙述の語り手となる。和明の真意がヒロミに届きそうになった直後、運命は訪れる。2006.01.12
2006年01月23日
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「THE 有頂天ホテル」 監督 : 三谷幸喜出演 : 役所広司 松たか子 佐藤浩市 篠原涼子 香取慎吾 大晦日。人生いろいろだけど、せめて正月くらいは自分に二重丸をつけながら迎えようじゃないか、そんな監督のメッセージは暖かい。松たか子、こんな役もできるんだ!だてに舞台を数踏んでいないのね。いろんなエピソードをくるくるまわして、ラストまで盛っていくやり方は「ラヂオの時間」以来。一人一人のキャラクターが、時には適役、時には意外な役を見事にこなして良質のコメディを作っていた。伊東四郎の白塗りには確かに大笑いさせてもろた。デモなんか物足りない。テーマはありきたり。笑いは一過性。「男はつらいよ」のように「それをいっちゃあおしまいだよ」というような後々何度も語り継がれるようなそんな内容を願うというのは我がままというものだろうか。
2006年01月23日
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「模倣犯」(2)新潮文庫 宮部みゆき栃木の幼女誘拐殺人事件の犯人はまだ捕まらない。被害者の家族の心痛は想像できないが、小説という形をとってそれを追体験することが少しは出来るかもしれない。あるいは県警の努力、マスコミの犯罪分析……それぞれの立場に立てば全く違った景色が見えてくる。宮部みゆきの最初の長編小説は、「犬」の立場から見た犯罪小説だった。彼女の小説の魅力はまるきり登場人物の主観にたって物語を紡ぐことが出来るところである。これは簡単なようで難しい。宮部は特別な経験をして作家になったわけではない。その彼女が、苦労を重ねて老成した豆腐屋の主人になったり、熟練の刑事になったり、エンコー女子高生になりきるのである。宮部は生来のカメラアイとも言える類まれな記憶力を活かして、誰もがすぐに忘れるそのときの景色や風の色までも見事に文章の中に写し取るのである。だからおそらく普段から人を観察していて、おじさんの目線がどこを見ていて、そのときどういう景色だったか、心の箪笥の中にきちんと整理されているのだろう。まだ二巻目までしか読んでいないが、彼女はその才能を活かして今度は誰もがいい加減な描写で済ます連続殺人事件の犯人の心の中に入っていこうとしているように見える。まずは栗橋浩美(ヒロミ)側からの描写から入っている。ヒロミはトラウマがあって、病的で、自己中心的で、プータロウである。その後、外から見えるヒロミが一般的に言ってエリートっぽい人物に扱われていたことに少なからず驚く。外見と心の中、同じものを見ていてもいかに見える景色か違うのか、読者は体験する。栃木の犯人はまだ捕まらない。その異常性とは裏腹に、犯人の外見はきちんとしたエリートなのかもしれないし、万が一彼の心の中を覗いてみたら、つい私たちは「哀しい」と思ってしまうような心情さえ見つけてしまうのかもしれない。果たしてそのような感想を持つ私たちとはなんなのだろう。……というようなことは映画を観たときには思わなかった。これがこの小説の力である。2006.01.06読了。01.22追加ライブドアのもと副社長が自殺したのか殺されたのかネット上ではいろんな意見が出ているらしい。そういう方はぜひこの本を読んで頭を冷やしてもらいたい。確かにあれが自殺ではなく、殺しであったなら、日本の経済界を揺るがす大問題になるので騒ぎたい気持ちは分かる。しかし単に新聞やテレビから得られる情報で「憶測」で物事を書いても事態の進展には何の益もない、警察の動きを変える事は出来ない、ということをわれわれは知るべきだし、もちろんわれわれの想像をはるかに超える情報を警察は握っていることも知るべきだろう。「模倣犯」の犯人がこの騒ぎを利用したら簡単にわれわれは操作されちゃうよ。
2006年01月22日
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「模倣犯」(1)新潮文庫 宮部みゆき宮部の著書は全部読む、というのが私のポリシーである。というような変なことで威張る小市民の私であるが、彼女はその小市民を描くのが天才的に上手い作家だ。「未曾有の連続誘拐殺人事件を重層的に描いた現代ミステリの金字塔、いよいよ開幕」ということだし、映画にもなったので、ある程度の筋はみんな知っているし、リンクつきのバナーを貼っておくのでそこを見ると大体のその巻のあらすじを書いてると思うので参照してもらいたい。文庫(1)は、事件の被害者側、捜査側のほうの視点で物語が進む。宮部みゆきは次々と代わる視点に少しも描写の上で妥協はしない。被害者の不安とやりきれなさと怒りと悲しみ、振り回される刑事と犯人との知能比べが綿密に描かれていて、読ませる。そして事件がとりあえずの結末を迎える。(まだ一巻目なのに?)ところが私は知っている。これがこの物語のマクラに過ぎないことを。映画「模倣犯」は大失敗作だった。見た時点で原作の筋など全然知らなかったが、あまりにも薄っぺらい主犯(仲居正弘)の演技に、まるで職人のように映画つくりをした監督の姿勢にがっかりした覚えがある。だからポリシーではあるが、一巻目二巻目を読んで読む気がうせたら止めようと思っていた。心配は杞憂だった。そして新たな心配が……。私はこの本を読むために何時間を費やしてしまうのだろう……。2006.01.03読了
2006年01月21日
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「フライトプラン」先行上映で見た。この作品は、ミステリである。監督 : ロベルト・シュヴェンケ出演 : ジョディ・フォスター ショーン・ビーン ピーター・サースガード エリカ・クリステンセン突然の夫の死によって、悲しみに打ちひしがれた航空機設計士のカイル(ジョディ・フォスター)は、6歳の娘ジュリアと共に帰国の途に向かっていた。ベルリン発ニューヨーク行き、最新型エアジェット──だが、高度1万メートルの上空で、彼女の娘は忽然と姿を消した…。しかし、乗客はおろか乗務員の誰一人として、ジュリアが機内に存在していたことを認めない。必死に機内を探すカイル。その時、乗務員は彼女に恐るべき“真実”を告げる。FAXで送られてきた記録によれば、ジュリアは6日前に夫と共に死亡していたというのだ……。けれどもカイルには、娘がこの旅客機に搭乗しているとしか思えない確かな証拠があった!……というような内容は既に予告CMで流れているので、解かなければならない謎は、どうやって娘を消すことが出来たか、その目的は何か。ということだ。もちろん頭の片隅には、やはりカイルは精神の病で、実は飛行機にさえ乗っていなかった、などという夢落ちも考えていなければならない。(これをやってしまうと失敗作になるとは思うが……) 上の二つのことが解けたなら、犯人は当然絞られる。以下ネタバレではないが、ヒントがあるので消します。反転してください。あまりにも見え見えの伏線が張られてあるので、「この私でも」気がついた。謎解きとしては非常に弱い作品である。いかにも犯人らしき俳優を使ってフェイントをかけているのも、いやらしい。でも私ぐらいの頭なら、謎を解くのに一時間ほど使ったので、それなりに楽しめた。後の楽しみは最新鋭ジャンボ二階建て旅客機の様子が隅々まで分かるということと、「母は強し」のジョディー・フォスターの鬼気迫る演技であろう。でもそれはあらかじめ分かっていたことだ。前の「パニックルーム」でそれは充分見させてもらっている。私なら最後のところでもう一ひねりしたと思う。かって北村薫は「ミステリ万華鏡」でこういっている。「本格にとって、最も大切なのは、トリックでもなければ、論理でもない。その素材を扱う人間の心の震えである。それが物語と結びついたとき、《本格推理小説》が生まれる」この映画に心の震えはあるか。あるとすれば、事件が終わった直後にもって来るべきだった。かつて初期の宮部みゆきがいつもしていたように、事件が終わり、犯人が捕まった後に物語の真の主題が立ち上がるのである。セリフでほんの少しだけかすっている。でもあれでは全然説得力がない。真の主題とは「娘がさらわれるところを誰も気がつかない、という他人への無関心そのもの」(この部分は最も重要なネタバレです。未見の人は見ないように)なのだとしっかりと映像として見せるべきだった。
2006年01月21日
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今日の朝日朝刊にこんな記事が載っていた。横須賀の強殺、米司令官ら「雨降って地固まる」と謝罪 神奈川県横須賀市で女性(56)を殺害し、所持金を奪ったとして、米空母乗組員ウィリアム・リース容疑者(21)が強盗殺人容疑で逮捕された事件で、ジョナサン・グリナート第7艦隊司令官とジェームズ・ケリー在日米海軍司令官が18日、日本国民と横須賀市民あての公開書簡を発表した。「日本には『雨降って地固まる』ということわざがあるが、この事件が触媒の役割を果たし、日米同盟がより強くなる結果をもたらしてくれるといいと思う」などと述べている。 「雨降って地固まる」について「非核市民宣言運動・ヨコスカ」メンバーの広沢努さん(51)は「謝る側が使う言葉ではない。市民感覚が分かっていない証拠だ」と話している。 書簡で2人は謝罪して再発防止に取り組むことを約束し、「日本に駐在している海軍関係者が善良で人の気持ちがわかる人間であることを理解してほしい。彼らは有事の際には危険な場に身をさらすことをいとわない」と強調している。(以上コピー終わり) ……よくもしゃあしゃあとこんなことがいえるものだ。アメリカの海兵隊の訓練の様子は何度も何度も映画化された。特に「フルメタメジャケット」に詳しい。そこで行われるのは徹底して「相手の気持ちを思いやる心をなくす訓練」である。ともかく人間の心をなくす。そうでないと相手を撃てない。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」(講談社)にもその過程が目に見えるように書いてある。最初の人殺しのときに彼は吐いた。その後は大量殺人にも平気になる。そしてアメリカに戻ってPTSDになるのである。「戦争は人を殺すマシーンにさせる」と彼は言う。そして、その親玉が、一生懸命日本の辞書を引いて持ち出したのがこの言葉である。小学館国語大辞典にはこう書いてある。「雨の降ったあとはかえって地面が堅固になるところから、変事の後は、かえって事態が落ち着いて、基礎がかたまることをいう。」おっ、この言葉はいいぞ。この言葉を使ったら、災い転じて福となす、かえってわれわれのアピールも出来る、とふんだのでしょう。さぞかし、司令官、学生の頃は「いい点数」をとったことでしょう。けれども普通の人間なら、殺された遺族の気持ちを考えてみる想像力のある人間なら、「この言葉ちょっとおかしいぞ」と思うはずです。しかし、彼らは相手のことを思いやる人間性をなくす訓練をしたのだから、これは当然の帰結だったのです。戦争とはこういう人間をつくる。
2006年01月20日
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阪神大震災から11年目の今日、1月17日、三つのニュースが全国を駆け巡った。「ライブドア株ストップ安。市場急落。」「『違法性の認識ない』証人喚問でヒューザー小嶋社長」「宮崎勤被告に死刑。連続幼女殺害事件で最高裁が上告破棄」三つの事柄はそれぞれ関連してはいない。けれども、三つの事件は決して阪神大震災以前では起こりえなかった事件として、実は密接に関連しているのではないだろうか。バブル崩壊のあと、大震災のあと、崩れたのはいったい金とか建物だけだったのだろうか。「金と数字はみなの共通語。一番分かりやすい物差しだ。」とうそぶく堀江社長。金の重さと命の重さを天秤にかけることを当然のことと思い、未だに自分が何をしたか分かっていない小嶋社長。自分の心と子供の命を天秤にかけ、その揺れを愉しんだ宮崎勤。『疾走』監督・脚本 : SABU出演 : 手越祐也 韓英恵 中谷美紀 豊川悦司 大杉漣 この作品も、映像もその描く心も殺風景な風景が続いていく痛々しい映画である。原作者の重松清はずっと「家族のつながり」をテーマに書いてきた作家である。しかしこの作品だけは全ての繋がりを切って中学生の家族は崩壊する。少年の兄も、父も、母も、彼を見捨てる。するとどういうことになるのか、ということをな真正面から描いた作品になっている。バブルに踊る干拓地のテーマパーク構想とその終焉、ささくれ立っていく地域や級友、守ってくれない家族……その延長線上に、今日の三つのニュースがあった。ただ、映画としては、主役二人の決定的な演技力不足と、それをカバーできない監督の演出力不足があり、いい題材なのに失敗作に終わった。でも映画が終わると周りの大の男たちが何人も何人も泣いていた。きっと心の琴線に触れるものがあったのだろう。少年は最終近く、ガレージに自分の携帯の電話番号といっしょにちょっとした落書きをする。「誰か僕といっしょに生きてください」訂正とお詫び重大な間違いを起こしました。「おけいのうち」さんからの指摘で、宮崎事件は震災前の事件だったとのこと。調べたら88~89年の事件でした。事件後部屋から「オタク」のビデオがいっぱい出てきた事件でしたね。私は97年の「神戸連続児童殺傷事件」の犯人酒鬼薔薇聖斗こと「少年A」と混同していました。申し訳ありません。無理やり震災とくっつけようとした私が浅はかでした。
2006年01月17日
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(まずは映画と関係ない話から)皆さんはご存知でしたか?正規もパートも突然の一方的解雇なんて出来ないことを。残業が出来るのは36協定を結んでいる場合だけだということを。しかもその場合は25%以上、22時以降の場合は50%以上の割増賃金を払わなくてはならないということを。サービス残業は上司が黙認しても、法的に罰せられるということを。パートでも6ヶ月以上働いたら、10日間の有給休暇を申請できるということを。労働安全衛生法によって労使双方からなる労働安全推進委員会を開く「義務」があることを健康診断の実施も照明の基準(普通作業で150ルクス以上)も法律で義務つけられていることを労基法の基本を労働者も使用者さえも丸きり知らない人が多いということを。労働組合をつくろうとしたら名誉毀損で逆提訴されたり一年中、休みなしで働いて労働者使用者とも体壊すまでなんとも思わなかったことも。そんな事例、掃いて捨てるほど満ち満ちていることを 「スタンドアップ」(原題 North Countory)監督 : ニキ・カーロ出演 : シャーリーズ・セロン フランシス・マクドーマンド ウディ・ハレルソン ショーン・ビーン DVでシングルマザーになったジョージーは、ミネソタ州の鉄鋼山で働き始める。1989年。男対女の割合は30対1。職場では、男性社会に進出してきた女性に対する会社ぐるみの厳しい洗礼と、屈辱的な嫌がらせが待っていた。医者による妊娠診断からはじまり、卑猥な落書き、度の過ぎた悪戯、恥辱行為、レイプ未遂、会社の解雇勧告、守ってくれない労組……。モデルになったエベレス鉱山におけるルイス・ジョンソン裁判はセクハラ訴訟の嚆矢となった。セクハラが社会的に認知されたのはほんのこの10年ほどである。ジョージーは「これは女性みんなの問題よ」という。しかし誰も訴えでようとはしない。生活がかかっているからだ。かっこつけて出来る様な話ではない。シャリーズ・セロンは今回も堂々とした少しかっこ悪い母親役をやった。「ノイズ」みたいなつまらない映画でも彼女の顔を観ているだけで幸せな二時間が過ぎていた昔が夢のようだ。いまや押しも押されぬオスカー女優である。脇も渋めで固めて見応えのある二時間だった。今年最初の収穫。こんなことがあるから映画鑑賞はやめられない。単なるセクハラ裁判の話ではない。勇気ある人々の物語である。ジョージーは四面楚歌の中ひとり立ち上がる。途中、思いがけない人々が立ち上がるのであるが、私は泣いた。立ち上がる人々に泣いた。世の中きれいごとではやっていけない。でも黙っていてはもっとひどくなることばかりだ。私はついつい現代の日本社会のことを考えてしまう。労基法があるからといって単純な話ではない。はいそうですか、といって使用者は未払い賃金は払わない。労働基準局にちくる、労働110番に電話する、一人でも入れる労組に入る、ともかくも一人でも立ち上がれ、一人でも立ち上がれ、一人でも立ち上がれ。けれども一人では闘えない。
2006年01月15日
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12月20日(火)四日目 大宰府~吉野ヶ里~柳川朝起きると-2℃。やはり内陸部は海沿いとはちゃう。今まで欲張りすぎたので今日は二ヶ所のみの見学。太宰府天満宮のお守りのご利益太宰府天満宮となりの九州国立歴史博物館へ行く。少し早めに着いたので、道真公のあやかりを貰おうとお参りへ。小吉だった。「道に迷うが人に訊けば大丈夫。」イヤー、今回の旅そのものだ。ところが、交通安全のお守りを500円で買ったのだが、途中で落としたことがあとで発覚。いや~な予感。(結局、このことでものすごく慎重に運転するようになった。私が無事に岡山に帰ることができたのも、あのお守りのおかげかもしれない)石の謎歴博の建物の北側、わりと目立たないところに「大王のひつぎ実験航海」に使われた「海王」の船が展示されていた。熊本の阿蘇ピンク石は石棺として吉備の造山古墳や大阪今城塚古墳にも使われているのだが、「ほんまに熊本から運んできたのかいな」という疑問に答えるために実際一ヶ月以上かけて大阪まで運んだ実験である。なぜわざわざ阿蘇の石が使われたのかということは、弥生時代専門学者の私(ウソ)には答えられない(^^;)なぜ阿蘇なの?朱色が神聖な色だったとしても、ほかの近い地域でも同じような色はあったのではないの?しかし、この展示、実際に船に飛び乗り、櫂を握ることが出来る。実にしっかりとした造り。しかも、漕ぐのはものすごい力がいることが分かる。ともかく尋常な石いや「意思」ではない。スマートな博物館歴博は巨大な建物だが、展示室は3Fのみ。あまり小部屋に区切らない。結果ゆったりとした展示に見える。スタッフは接客業の雰囲気。実際公務員の人は少ないかもしれないが、今までの博物館のイメージが変わり、非常に親切。最新デジタルシアターを見る。なるほど実物見るよりよくその遺物の価値が分かると感心した。アジア資料(特に韓国)豊富。フラッシュを使わなかったら、写真OKというのも西欧的。あっという間に時間が過ぎていった。特に縄文時代の精巧な水差し型土器に感心した。土器ではあるが、形は中国の青銅の水差しに酷似している。土で作る技術と真似る技術。縄文時代に既にそれがあったのか。スマートな博物館でした。隣接している歴史博物館も考古学資料が充実していた。吉野ヶ里歴史公園に感心する吉野ヶ里は最近国立公園としてオープンした。五年ほど前一度吉野ヶ里に来たことがある。そのときは背振山を背景に大環濠集落が見事にイメージできて、それだけで圧倒された覚えがある。今回来るにあたってひとつの心配があった。遺跡を壊してはいないとはいえ、遺跡の上に公園を作っているわけだから、大きな箱物を作ったテーマパーク化していないかということである。不安は杞憂に終わった。弥生時代の大規模環濠集落を目、耳、身体で体感できる非常にいい公園になっている。「復元施設は吉野ヶ里の発掘資料だけでは足りず、ほかの遺跡や中国の資料を基に作られているが、違っていたなら訂正していきたい」と入り口近くの看板に書いてあった。こんな誠実な説明版は見たことがない。スタッフの人たちが建物の外や中でホーキをつくったり、蚕から絹の糸を取り出したり、土器を作ったりしている。竪穴住居は大人の家、従者の家、王家の家、という風に性格付けがされていて、外から見たら同じ家でも中はそれぞれ工夫していた。つまり生活の臭いのする公園になっている。土器でおかゆを炊いている人がいた。「弥生時代でもこんな風に竈を石で作っていたんですか」「三点で支える石がちゃんと出ているんですよ」「寒くないですか。この前の雪のときはたいへんだったでしょう」「あの時は寒かったですね。今日は大丈夫です。」「あの日も外でしていたのですか。」「あの日は建物の中でしていました。弥生時代もきっとそうだったでしょう」平日火曜の午後ということもあり、小学生の団体以外は入場者がまばらだ。スタッフの人たちは聞けばちゃんと質問に答えてくれる。よく勉強していると感じた。もっと流行っても良い施設だと思う。柳川に泊るそのあとまっすぐ南へ。柳川温泉センターで疲れを癒す。少しとろ~りとした透明なお湯。夜は郊外の久留米ラーメンへ。しっかりとした出汁。非常に美味しかった。柳川の町の公園で車中泊。走行距離180km。
2006年01月14日
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監督 清水崇 /出演:優香 香里奈 椎名桔平 ホラー映画が本当にこわいかどうかは、やはり映画館で、スイッチを切れない状態にしてみないと分からないだろう。あんまり好きではないんだけど、「もしかしたら傑作かも」と思い、たまには見るようにしている。清水監督のハリウッド凱旋一作目。果たして出来は?清水監督ハリウッドで悪い癖をつけたんではないの?なんかまとまりが良すぎる気がしてあんまり怖くなかった。しかも、見たあとに決定的な違和感が。以下ちょーネタバレ。未見の人は見ないように。(反転してね)優香は事前に殺されていたゾンビたちに襲われるわけだけど、ゾンビたちは輪廻転生してきた設定のはずなのに、だから魂は彼らが持っているはずなのに、なぜ浮かばれない魂たちに殺されなくてはならないんだ?もう完璧にしらけた。結局、黒沢清「回路」の前に「回路」なし。「回路」の後に「回路」なしですね。舞台は福岡県八女市が選ばれている。磐井の乱の岩戸山古墳があるところである。この前の旅のときゆっくり出来なかったが、古くて私好みの町並みがあった。、
2006年01月13日
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「日本インターネット映画大賞」よりお誘いのTBを頂いた。既に「私の2005年ベスト10」はエントリーを済ませていて重なるところはある。が、しかしそこはリンクで誤魔化せるので簡単に参加させてもらう。この映画大賞はニフティの旧映画フォーラムから発生したものだ。私はこの映画フォーラムで鍛えられた。私が参加したのはたった5年ぐらいだったけれども、しかもあまり参加できていなかったけど、日本には年間100作以上映画を観る人はざらにいるのだということを初めて知り、自分の映画の見方がいかに表層的であったかということも初めて知った。感謝している。旧フォーラムは去年二月に閉じられた。そして私はブログという新しいツールをえた。(まるで何年も前のことのように感じる。)旧フォーラムは会員用に閉じられた巨大な掲示板空間であった。ある程度管理されているので、わりと突っ込んだ真剣なやり取りがされていた。ブログは開かれた空間である。TB&コメントという機能で、いままでのHPとも違い、積極的に広大なネットの世界に出て行くことが出来る。いいところもあり、悪いところもある。けれども拡散し始めたこのブログの世界は停滞することは暫くはしないだろう。今回の映画大賞がすべてのブログにも呼びかけているのは当然である。去年フォーラムが閉じた時点で私の発言は全てデジタル的に消滅したのだと思っていた。そしたらいまHPを見ると映画大賞の私の去年のコメントが残っていた。(私の過去のハンドルネームはもりのくまさんでした。ちなみに考古学フォーラムでは森の熊)こういう形で残る発言もあるのだ。なんかものすごく嬉しい。簡単に済ませると書きながら長々と書いてしまった。以下が本論である。『日本インターネット映画大賞 投票フォーマット 』 投票部門 (外国映画)【作品賞】(5本以上10本まで) 「エレニの旅」 10点 「ヒトラー最期の12日間」 6点 「ミリオンダラーベイビー」 4点 「子猫をお願い」 2点 「サイドウェイ」 2点 「スターウォーズep3」 2点 「大統領の理髪師」 2点 「クローサー」 2点【コメント】「私の2005年映画ベスト10」参照。-----------------------------------------------------------------【監督賞】 作品名 [アンゲロプロス] (「エレニの旅」)【コメント】何をかいわんや【主演男優賞】 [クリントイーストウッド] (「ミリオンダラーベイビー」)【コメント】アカデミー監督賞、作品賞もとった。男優賞はこれ以上はもうだめといわれたのでしょうが、正直今年ブルーノ・ガンツとならなんですごい演技だった。【主演女優賞】 [ナタリー・ポートマン] (「クローサー」「スターウォーズ」)【コメント】ええ、ファンですとも。だから彼女の作品はすべて見ている。今迄で「クローサー」が最高の演技でした。【助演男優賞】 [クライヴ・オーウェン] (「クローサー」)【コメント】あんまり目だってすごい人がいない中で、目立っていました。【助演女優賞】 [不在] (「 」)【新人賞】 [不在] (「 」)『日本インターネット映画大賞 投票フォーマット 』 投票部門(日本映画)【作品賞】(5本以上10本まで) 「パッチギ!」 10点 「リンダ、リンダ、リンダ」 6点 「妖怪大戦争」 4点 「理由」 2点 「フライ・ダディ・フライ」 2点 「ALWAYS/三丁目の夕日」 2点 「さらならCOLOR」 2点 「男たちの大和」 2点【コメント】「私の2005年映画ベスト10」参照-----------------------------------------------------------------【監督賞】 作品名 [井筒和幸] (「パッチギ!」)【コメント】無名の俳優を使ってここまでのものをつくるとは見直した【主演男優賞】 [堤真一] (「フライダディフライ」)【コメント】「三丁目の夕日」等多くの作品に出て、全て役つくりをしている。今年、彼は演技派になった。【主演女優賞】 [薬師丸ひろ子] (「レイクサイドマーダーケース」)【コメント】「三丁目」の彼女も良かったが、こっちの彼女には色気を感じた。【助演男優賞】 [仲代達也] (「男たちの大和」)【コメント】彼の出番は「余分」ではない。まさにこの映画の真髄そのもの。わざわざむくんだ顔になって、素晴らしい役つくり。【助演女優賞】 [香椎由宇] (「リンダ、リンダ、リンダ」)【コメント】「ローレライ」の彼女はいただけなかったが、こっちはすくっとした立ち姿が絵になった。可能性を感じる。【新人賞】 [沢尻エリカ] (「パッチギ!」「問題のない私たち」)【コメント】今年突然四本の映画に出て、全て違う役をやりきった。もっとも可能性を感じる新人である。
2006年01月12日
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12月19日(月)三日目 呼子~佐世保~長崎~佐賀朝6時起床。やっと背を伸ばして車中泊が出来た。ぜんぜん寒くない。空気マットのポンプを買い忘れたため下がごつごつして冷たいのが玉に瑕だか、熟睡できた。トイレで顔を洗い、6:30出発。「不幸な出来事」を伝える名護屋城波戸岬で意外と静かな玄界灘を眺め、博物館には入れないが名護屋城を見る。秀吉の朝鮮出兵時の出城である。石垣しか残っていないが、南国風の豪快な城だった。「この史跡は東アジアの国々との不幸な出来事を伝えるものであるが、一方では安土・桃山時代の文化を知ることの出来る数少ない遺跡でもある」との説明板。うーむ、お役所的な説明。各武将の陣屋がその周りに無数にあったということは初めて知った。旅の拾いものその後佐世保に向かう。物見峠が積雪でチェーンが必要なので西の迂回路を選ぶ。平戸経由を覚悟していたが、途中で思いなおして電話で問い合わせると西の峠はOKだという。ラッキー(^o^)/。30分ほど時間の節約をして佐世保市に入って本山の交差点で弥生遺跡発見!四反田遺跡。弥生時代前期の松菊里型(朝鮮型)の円型の堅穴住居が21軒も発見されたという。甕棺に葬られた小さめの支石墓もひとつ発見されている。海を渡ってここにたどり着いた朝鮮半島の渡来人たちは海の近くのこの川沿いに自分たちのムラを設け、稲作を開始しだわけだ。その場所に佇まないと本では分からないことがある。静かな入り江。穏やかな空気。一瞬だけ2500年前にタイムスリップ。思いがけず遺跡に出会えるとなんか嬉しい。米軍の前線基地佐世保米軍佐世保基地を視察するため弓張の丘展望台に登った。少し遠いが、佐世保湾が一望に見える。米軍はつくづくこの湾の第一等地を占有していることを知る。佐世保港の 83%が米軍の指揮下にある。佐世保基地は現在強襲揚陸艦エセックスをはじめとする揚陸艦4隻、2隻の掃海艦、1隻の救難艦の母港となり、米世界戦略のもと、アジアでの出撃基地としてまた西太平洋の補給・中継基地として、イラク戦争でもどうどうの役割を演じた。私は丸っきりの兵器オンチであるが、なんとか「ドック型揚陸艦フォートマクヘンリー」(1995年配備、乗員413名、揚陸部隊504名、LCAC4隻搭載可)(写真参照)と掃海艦パトリオット(1996年配備、乗員83名)は確認した。その他艦の番号128、127、231、234、232番も発見したのだが、どなたか分かる方がおられたら教えてほしい。なお、参照したのは長崎平和委員会である。おそらく日本で一番詳しい佐世保基地紹介だろうと思う。長崎の祈り今日は月曜で各博物館は休みなので、半日は長崎観光をしようと決めていた。小学校の修学旅行以来の長崎平和公園。平和の像は覚えはあったが、原爆落下中心地公園も原爆資料館も初めて見た。よって浦上天主堂の遺壁のザベリオと使徒の祈るようなまなざしに衝撃を受けた。浦上地区はかつて日本で一、二を争うキリスト信者がいたところであった。そこへ原爆が落とされた。しかも福岡小倉に落とす予定だったのに急遽変更されて。一体日本人はそれをどう受け止めたらいいのか。資料館は被爆者の生々しい声がなかったので広島のそれと比べて不満だったのだが、あとで資料を見ると平和祈念館は隣に併設されてあったのね。(反省)長崎市街地では仏蘭西語を学んだ中江兆民を偲んでみた。オランダ坂を歩き、唐人通り、丸山公園一帯を歩き、来年には復元整備されてオープンする「出島」を歩いた。県庁一帯は武家屋敷があったところであるが、兆民はそこには住んでいなかっただろう。むしろ老舗の料亭「花月」一帯がふさわしい。龍馬も高杉晋作も西郷隆盛も訪れたらしいから「兄さんタバコ買ってきてくんなセェ」と龍馬に言われいそいそと夜の丸山界隈の雑踏の中へ飛び出した青年中江篤介の姿が目に浮かぶ。この一帯を歩くと、ゴミゴミしながらもなんとなく哀愁漂う昭和の景色が見事に息づいている。開け放れた戸の奥にある醤油屋の荷物。京都みたいに小さい玄関、縦に細長い間取りになっている。ところどころに縦割り長屋がある。篭町センター街通りは朝帰りのやくざが歩いているような雰囲気。映画「長崎ぶらぶら節」の舞台であるが、映画の舞台になりそうな景色がそこかしこにあった。嬉野温泉のもと湯で汗を流し、今日は道の駅「山内」泊まり。走行距離230km。
2006年01月11日
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朝日新聞でアジアネットワーク「越境する文化」チームが執筆する「時空をこえて」という連載が始まった。一回目は日中韓で紋切り型の歴史表現を超えよう、という取り組みを紹介している。中国で「心優しい」日本軍人を主役級に据えたTVドラマ「記憶の証明」。平田オリザ氏が韓国の人たちと共同執筆・演出した「その河をこえて、五月」。ここではお互い悪口を言い、笑いあう場面があるという。満州を扱った「虹色のトロツキー」、近代朝鮮を扱った「王道の狗」等、意欲作を次々と出す安彦良和氏にも取材している。そういうものがあるのだよ、ということだけを今日は紹介したい。作品の批評は実際に私が見たり、読んだりした後にしたいと思う。最近私が実際に読んだ本に「歴史認識を乗り越える」(小倉紀蔵著 講談社現代新書)がある。この本は読み応えがあった。いろんな刺激をいただいた。しかし結論を先に言えば、哲学的言語で政治や社会を語るのはいいのだが、言葉の厳密性を感じないため、残念ながら説得力を持たなかった。ならどうしてそんな本を長文で紹介するのかというと、ところどころ「ハッ」とするような指摘があり、考えるヒントになると思ったから。特に右派も左派も「主体性」が問題であるという指摘は考察に値する。少し詳しく述べる。現在、日本人と韓国人は、対等な関係でものを語ることが可能か。否、と小倉は言う。一般的に言って、日本人よりむしろ韓国人のほうが「歴史観の土俵」においては、力関係でにいる。ところが(左派の)日本人は、韓国人による日本人蔑視を過去の反省もあり、ゆるす。このとき日本は現実には何の位階秩序の変更もないまま仮想的精神的なに立つ。ニーチェはこのようなあり方をはき捨てるように「奴隷道徳」といったそうだ。歴史認識を前進させるためには、自らの歴史認識にな韓国や中国に対して、歴史を認識するとしての「日本人」を立ち上げなくてはならないのに、それが立ち上がらない。他方でそれを性急かつ排他的に立ち上げようとする(右派の)運動勢力が存在する。そして無用の対立が繰り返される。ーーここまでは良かった。私は、ソウルの安重根記念館に行ったとき、パゴダ公園に行ったとき、国立独立記念館に行ったとき、いつも感じたのは韓国国民の強烈なナショナリズムだった。日本の軍国主義を糾弾するという意味では韓国内では右派左派の違いはない。一方、長崎原爆資料館には浦上天主堂のがある。日本は原爆を落とした米国さえもゆるす、いわんや韓国をや。それを「奴隷道徳」というべきかどうかはまた議論があると思うが、日本と韓国との関係を相対的に言えば、韓国、日本の左派と右派、三者の間でを巡り堂々巡りをしていると私も思う。しかし主体的な日本人をどう立ち上げるか、という点でこの本は一挙に説得力をなくす。今までの哲学的言語から急に浮遊して突然現れる「第三の道」を示している。「自由と民主主義」を基盤とした「謝罪し国際貢献する日本」。言葉自体はいいのだか、最も重要な部分にかかわらず、今まで流れから浮いているのである。磐井の乱を起こした人物の古墳結局主体的な日本人はわれわれがに作っていくしかないということだろうか。私の「九州平和と古代をを訪ねる旅」も実はそういう問題意識から発しているのではある。ただし問題意識のほうはまだ終わりが見えない旅なのではあるが。
2006年01月09日
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岡山市は今日、日曜が成人式である。岡山市憲法改悪反対共同センターその他数団体は、振袖やはかま姿が集う会場で「憲法改悪反対」のチラシまきや署名行動、11月にもおこなったシール投票をした。結果は30分の行動で「憲法改正に反対」23対「憲法改正に賛成」0である。前回の岡山駅前でおこなった24対1と遜色ない結果になった。ただ……「これが自民党の憲法草案。自衛軍を保持する、って書いてあるでしょ」「うん」「そうすると、海外へ戦争にいくのも可能になっちゃうんだよ」「うーん、それゃあよくないよね。じゃあ、こっち。」という風に少しでも話を聞いてくれた娘はまだいいほうで、ほとんどの成人は全然立ち止まらずに、反射的に「反対」のところにシールを貼ってくれた。(^^;)(いや、「反射的」というのは私の主観です)確かに駐車場から出たばかりのところで、会場から遠く、立ち止まるような雰囲気ではなかった、(だから数も少ない)そういう雰囲気を作らなかったという私たちの反省点はある。でも前回は主婦やサラリーマンが立ち止まって考えてくれる人が案外多かった。新成人君たち大丈夫~?と、正直思ったのでした。今社会では大変なことが起きているのだよ。「無知であることは無罪であるのか」いや、無罪ではない、と中年のおっさんは思うのだが……ただ、23対0でよかった。次回やるときはちょっと工夫の余地あり(^^;)会場では小学校の給食を300円で売っていた。ん十年ぶりに食べてみる。焼きソバと磯辺揚げとゼリーとパンと牛乳「今は三日に一遍はご飯なのよ」へー、そうなんだ。とりあえず美味しかった(^-^)
2006年01月08日
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12月18日(日)二日目 下関~板付~前原~呼子下関海峡わたるのにもっとたいへんかと思っていたら、簡単に渡れた。これなら6時ごろ出発すればよかった。福岡の国道は全然大丈夫。「ワープ」をしようとして通行止めが解除されているインターから入ろうとすると、突然雪景色で大回りを余儀なくされた。なんやかんやで大宰府インターに着いたのが11時ごろ。今日は一日弥生時代の遺跡めぐりである。福岡平野に弥生のクニを想像する迷った。金隈(かねのくま)遺跡。資料館に電話してやっとたどり着く。弥生時代の共同墓地の遺跡で、資料館に入ると目の前に甕棺墓や土こう墓がずらっと広がっており、圧倒された。穴、穴、穴。そして甕棺の中に残る人骨。あと200年後、私の村の共同墓地を発掘するとこのような賑わいを見せるのだろうか。すぐ近くの福岡埋蔵文化財センターの資料も少し見て、有名な板付(いたつけ)遺跡に至る。弥生の田んぼと住居がセットで出て来て、稲作の開始時期から弥生後期までのムラの様子がよく分かる標準的な遺跡である。復元田んぼを見てみる。弥生初期の菜畑遺跡の田んぼより一回り大きい。現在の田んぼとほぼ変わらない。あぜの作り方。水の引き方。補強の杭の打ち方。今でも田舎に行けば同じような田んぼを見ることができる。(写真の緑部分の溝は雨水対策で作っているので意味はないとのこと)資料館には、当時のムラをジオラマで再現している。内環濠の中に20数件ほど住居があるだけで、なぜこの村を囲ったのか不明である、と書いてある。この中に守るべき人がいたのだろうか。投弾や石剣は実用の大きさを持っている。明らかに戦争には備えている。すぐ近くに邪馬台国時代の奴国の中心地だといわれている須玖岡本遺跡がある。奴国の幹部がいたムラだったのだろうか。それにしても、福岡の都市部にこれだけの遺跡がちゃんと保存されているには感心した。車で移動して、かなり広い弥生のクニがあったのだということを実感した。お風呂屋さんで道を訊くラーメン長浜御殿。400円。美味しかった。(写真失敗)野方遺跡に寄って、更に紹介があった呼子の名護屋城に行かなくちゃ、と走り出すとなんかとんでもないところへ。(春日市のあたりをうろうろ)急いては事を仕損じる、ちょうどお風呂屋さんがあったのでそこで汗を流すと同時に道を訊く。今度こそ大丈夫だと思っていたら大渋滞。おまけに近くまで行っても、場所が分からない。野方遺跡は諦めた。伊都のクニで支石墓文化を考察するふと思いついて前原(まえばる)の伊都歴史博物館が最近新築されたことを思い出す。弥生時代、伊都の国があったことが確定している地域である。日本最大の青銅鏡が何枚も出ているということでも有名。結果大正解だった。非常にいい博物館だった。二日後に見る国立歴史博物館もそうだが、アジアと日本の関係をしっかり見据えた展示構成になっているし、ゆったりとした展示とボランティアの常駐があり、しっかり解説してくれた。こういう博物館はホント助かる。私が注目したのは支石墓である。朝鮮半島各地で支石墓がつくられていたのは約2500年前まで。そして入れ替わるように弥生時代早期、九州北部に支石墓が作られるようになる。数年前私が朝鮮前羅南道で見た世界遺産の支石墓群は石の重さ100tクラスがざらにあり、脚の部分が高いのが特徴である。この伊都の国にも11の支石墓が分布している。彼らが稲作を持ってきたといわれるが、しかし支石墓は稲作とともには広がらなかった。写真は伊都の国でも巨大な支石墓になる井田用会支石墓。神社の中にあった。ここの支石墓は何れも支える脚が短い。しかも墓の下に甕棺があるという。小型化と見えないところに埋葬する、既に朝鮮半島と価値観は変わっている。それでもこの墓を作るためには何百人と人手を要したはずだ。人々の階層化は既に2000年前以上から始まってはいた。私の小説の習作を紹介(^^;)私はかって朝鮮半島を旅したときに同時に支石墓をつくった人たちと吉備の国を結びつける壮大な小説の練習版を旅ノートといっしょに(1)(2)(3)と書いたことがある。しかし、支石墓文化と吉備を結びつけるのはやはりムリがあったと反省した。むしろ支石墓文化との断絶の中に日本列島の文化の秘密があるのかもしれないと思うようになった。この日は呼子の道の駅桃山天下一で泊まる。この日の移動距離、242km。疲れた。でも充実していた。
2006年01月07日
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12月17日(土)一日目 岡山~下関かねてからしたいと思っていた『放浪の旅』に出かけることにした。泊りは原則、車の中。行き先は九州。テーマは「平和と古代を訪ねる旅」。できるだけお金は使わない。ガソリン代をのけて8日間3万をめざす。出発からトラブル実際は春先とか夏とかがこういう旅に出る季節らしいのだが、私の都合で厳寒のこの季節を選ばざるをえなかった。ここ10年間これ一枚で冬をしのいでいる羽毛布団と30個のホッカイロを仕込み、寝袋と空気ベッドを買い込んだ。「なんとかなるでしょ」。ただし雪だけは心配。早朝6時。出発。早くも第一のトラブル。機動力を高めるために自転車を積み込むつもりだったのだが、旅の8日前私のシビックがオカマを掘られ、なんやかんやあった後、新車の軽四ライフに切り替わったため、余裕で入ると思っていた自転車がぎりぎりでしか入らないと当日わかった。逡巡の末やはり置いていくことにした。(これが結局よかった。実際使ったら助かるような場面はほとんど無かった。きっと9日間ずーと出し入れに苦労することになっただろう)岩国基地で職務質問される昼前に岩国基地に着く。前回来た時には見ることができなかった沖合い埋め立て工事現場を見た。岩国基地には現在二本目の滑走路が作られようとしている。米軍基地強化の一環である。世界でも基地を拡張しているのは、岩国基地ぐらいなものらしい。膨大な土砂を持ち込み、広い土地ができている。あとは舗装を待つばかりのように思える。ここに厚木のNLP(夜間離発着訓練)を移転しようという動きがある。厚木の騒音反対運動に圧されて計画しているのだが、岩国市民や世界遺産の宮島(直線距離でいえばわずか8km。御神体としての自然や文化の破壊が懸念される。さらに言えばヒロシマへもすぐ近くだ。)の騒音被害のことは頭からすっぽり抜け落ちている。これも米軍再編(トランスフォーメイション)の一環。ところで基地に来てみると、先客が5~6人居た。立派な望遠カメラを持った兵器マニアたちである。一機輸送機らしきものが轟音を立てて飛び立った。私は次のルートを地図で確認していた。するとコンコンと窓をたたく音。警察手帳を目の前に突きつけられる。なんと職務質問をさせられてしまった。どうやらマニアでもなさそうな岡山ナンバーの車が来ているので不審に思ったらしい。「テロを警戒して見回りに来ているんですよ」こんな広い基地で万が一何かしたとしても効率的なテロなど出来るはずもないのに。私どこかの過激派に見えますかねえ。(いや、見えるかもしれないと思う自分が哀しい。)……しかしこんな寂しい所まで『わざわざ米軍のために』見回りに来るとはご苦労様。周南で来来亭のラーメン。550円。行列が出来ていたが、イマイチ。雪にびびり、下関ジョイフル泊り当日午後5時。いつもは穏やかな瀬戸内の海と空が不気味にうねり出した。下関市に急ぐ。当日深夜0時。現在下関市のジョイフルにいる。今晩はここに『避難』することに決めた。外はブリザードである。超一級の寒気団が南下して西日本を襲っている。『晴れの国・岡山』ではついぞ体験したことのない嵐が吹き荒れている。これは白い暴力だ。ついに国道も白くなり始めた。いくら防寒してもこの環境でポツンと車中泊する勇気は私にはない。明日の体力は心配だが、ここで机上泊をすることにする。この日の走行距離340km。
2006年01月06日
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年末年始に観た映画はことごとく外したみたいです。よって今回はさらっと書いておきます。「理想の女」(監督 : マイク・バーカー出演 : スカーレット・ヨハンソン、ヘレン・ハント )女は貞節に生きるべきか。奔放に生きるべきか。うーむ、なんなのだろう。だめでした。私ヨハンソン苦手なのかもしれません。なんか、かまととぶっている気がするんですよね。自分に身近な題材ではないからかな。「SAYURI」突っ込みどころ満載なのは覚悟済み。着物や小物はいいものを使っているんじゃないかな。むしろこれはハリウッドが見た中国の代表的女優の覇権闘争の物語なのではないかな。チャン・イーモウに見出されたコン・リーが次の女優のチャン・ツィイーにバトンを渡す映画。しかしチャン・ツィイーに精神の安らぎはない。それは彼女が選んだ道が芸者(芸で身を立てる道)であったから。ミシェル・ヨーは別畑だからむしろチャン・ツィイーに協力できたわけである。そう考えるとなぜ中国の女優が日本が舞台の映画に選ばれたか納得できる。もっともこれは「ハリウッドの見方」であって、実際の芸者の心の中が分からないように、彼女たちの心の中は分からない。「キングコング」これには期待していたんです。「男の純情」の物語だと思うから、コングに感情移入できるのではないかと。ところが、コング、純情すぎました。ほかの言葉で言えば、ほとんど子供です。ナオミ・ワッツきれいなんだけど、コングから奪い取るほどこっちには度胸ないし。(^^;)ずっと思っていたのは、なぜ今「キングコング」?ということ。結局、ピータージャクソンが一度の成功でわがままを押し通したということではないか。「ロード・オブ・ザ・リング」には現代的なテーマを感じたけど、この作品にもきっと環境破壊云々はあるのかもしれないけど、私はそのことについても共感できなかった。結局、ジャック扮するあの監督のように監督の壮大なる我がまま物語のように思えた。
2006年01月06日
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19時、ジョイフルの窓の外に外灯に照らされて、粉雪が舞っているのが見える。幼児が車から飛び出し手をいっぱいに広げてくるくると回る。12月17日の夜の下関のようには、この雪が決して積もることがないことを私は知っている。朝方降る雪で積もることはあるけれど、晴れの国岡山では夜から降る雪は決して積もらない。12月22日のときには、県庁所在地で道路に積もらなかったのは岡山だけだと聞いた。あの時は鹿児島まで積もったし、私も久留米で途方に暮れていたというのに。そろそろ九州旅行について書かねばならない。約束だし、第一自分のあやふやな記憶はすぐ蒸発してしまう。全てを書いてからではいつになるかわからないので、とりあえず出来た分だけ順次載せていこうと思う。もっともその文章の八割がたは「遺跡」の話なのでTBセンターにおくることも憚れる。また、飛び飛びの連載になるだろうから、新たに「旅の記録」のカテゴリーを立ち上げ、そこに格納しておこうと思う。何よりもこの「記録」こそが今回の旅の目的だったのだから。(ジョイフルから携帯より送信)
2006年01月06日
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毎年映画の総括はしているのですが、今年は少し遅くなりました。でもしておかないと気味が悪いので今年は簡単にします。去年は結局65本観ました。生活が激変ししたため、数は少なくまりましたが、そのぶん厳選できたのではないかと思います。ベスト1「エレニの旅」現代を何度も何度も語り継ぐことのできる叙事詩にしてしまった監督の映像世界に感服。これぞ映画。しかもテーマは「戦争」「家族」「歴史」というのだからなおさら。ベスト2「ヒトラー最期の12日間」ひとつの組織が終末に向かうときその中のさまざまな醜悪な部分が現れる。決して過去の話ではなく、現代の国家や会社組織のありようまで想起してしまった。ベスト3「パッチギ」一見ありえないような高校生の喧嘩生活も、社会風俗も、昭和43年の京都では確かにありえただろうと思える。ラストに向けての盛り上がりは今年の邦画ではピカイチだった。ベスト4「ミリオンダラーベイビー」よく練られた脚本。静と動のメリハリの聞いた演技。尊厳死というテーマ。アメリカ映画の実力を遺漏なく発揮した作品。アカデミー作品賞は伊達じゃない。ベスト5「子猫をお願い」今年岡山での上映作品は約300。そのうち韓国作品はざっと数えて25。玉石混淆である。「大統領の理髪師」「マラソン」「サマリア」等秀作がある中で、あえてこれを選びたい。韓国版「夢見る頃を過ぎても」である。それを見たときの私の気持ちとぴったりフィットして、見た直後よりも後のほうで忘れられない作品になった。そのあと映画の舞台を尋ねて仁川まで旅をした。ベスト6「スターウォーズep3」05年外国エンターテイメント大賞として選んだ。「民主主義は死んだ。万雷の拍手の中で」アミダラ姫のこの言葉は、おそらく監督のブッシュに対する言葉なのだろうとは思うが、映画公開後わずか2ヵ月後に日本でも起きるとは誰も想像していなかったという点でも記憶に残すべき映画になった。ベスト7「リンダ、リンダ、リンダ」今年の邦画の秀作を二本だけ選ぼうとして迷ってしまう。「理由」「フライ・ダディ・フライ」「ALWAYS/三丁目の夕日」等を差し置いてこの青春物を選んでしまったのは、人生の輝きは実はこんな些細なところにあるというメッセージが心地よかったため。ベスト8「妖怪大戦争」05年邦画エンターテイメント大賞。子供も大人も愉しめるサービス精神満点の怪作。この前(故人になってしまった)岡本喜八監督の「ジャズ大名」を見て、こんな理屈抜きに楽しめる作品っていいなあ、と思ったのでした。ベスト9「サイドウェイ」恋愛物を選ぼうとして「クローサー」「きみに読む物語」「さらならCOLOR」を差し置き、これを選ぶ。ワインオタクの主人公が、旅の途中で、自分を理解してくれる相手にめぐり合う。せめて映画の中だけでも正直な男は幸せになってもらいたい。ベスト10「皇帝ペンギン」ベストドキュメンタリー賞。後でしわじわ効いて来る映画です。何億年も彼らはあんな過酷な生活をしているというのか。冬暖房の前でPCに向かっている自分が幸せに思える。
2006年01月03日
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わが一族、生来酒を好む。年一回、正月の朝、家族集いて御神酒を飲みて時を知らず。父(豪傑君)年少の折に呉海軍少年兵となれり。娘が正月なのにチュニジアに外国旅行に行っているのが気に食わないのか、突然日本は改憲して軍隊を持つべし、と唱えり。豪傑君「軍隊を持つべし。軍隊を持つべし。チュニジアの古の都はカルタゴである。日本のように貿易立国であったが、軍隊を持たなかったためにローマ帝国に攻められ、国を滅ぼされた。日本はその轍を踏むのはよろしくない。人間には闘争本能がある。守る手段を持っていなかったら殺されるだけだ。」豪傑君に二人の息子あり。弟(紳士君)のほうは最近護憲運動に関わえり。豪傑君に反論していわく。紳士君「何を無茶なことを。あなたは軍隊を持つことでさらに戦争への危険が増すことに気がついていない。さらにいえば、人間には闘争本能はあるかもしれないが、それが戦争には結びつかない。縄文時代に戦争はなかった。またカルタゴの場合は、戦争状態になる前にするべき外交手段はなかったのか、その当時無いにしても、現代はある。改憲は論外である。自民党草案を読んだことがあるのか。あれは軍隊を認めるということではない。集団的自衛権を認める、ということである。それは今まで歯止めになっていた「派遣」という言葉が「派兵」という言葉になるということだ。アメリカといっしょに戦争をするということである。」二人の息子のうち兄(南海先生)は、二人の娘を持つ父親である。二人の言を評していわく。南海先生「改憲をして戦争への歯止めがなくなるのだとしたら、それはよくないだろう。しかし、現代そのようなことが可能な世の中だとは到底思えない。実際の条文が出来上がってから考えても遅くはないだろう。」豪傑君「元寇を知らないのか。外国はいつ攻めてくるか分からない。神風もあったが、武力があったからこそ、侵略されずにすんだのだ。」紳士君「今の憲法でも自衛権はある。自衛のための武力を持つな、ということではない。改憲をしたら、よその国に攻めていくことが可能になるのだ。第二次世界大戦がいい例だ。満州という同盟国を守るという名目で侵略して行っただろう。」豪傑君「あの戦争はよくなかった。あれは陸軍が暴走したのだ。山本大将はあの戦争には反対しておられた。東条が悪いのである。靖国にせよ、いつ東条が祀られたのか知らんがあの男を祀るからいかんのだ。」南海先生「どちらにせよ、戦争になるような改憲ならば、それは反対していけばいい。現代に必要な部分があるなら変えていけばいいだろう。」(ただ先生、墓参りのために結論を急げり。条文は読んだことはなし。)以上、中江兆民「三酔人経綸問答」に擬して書いたが、会話の内容は今朝話されたことをそのまま書いたので、古典の内容と相当ずれていることを一応お断りしておきます。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
2006年01月01日
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