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三日目(日) 09.1.4朝、いやな夢を見る。久し振りに見るいやな奴が私に意地悪を始めたのである。けれども途中で夢だと気がつき、興味が出たのか、何度か目が覚めたのだけど結末を見ようとしてまた寝坊をする。8時半。旅の起床時間としては致命的。ソウルでゆっくりすることに決める。新大元旅館の部屋。オンドルである。 posted by (C)くま 朝食は11時。鐘門駅近くの里門ソルロタン。歴史的な建物らしい。(特)を頼んだら少し肉が多いだけだった。ここは付け合せのキムチは各机に常備してある入れものから要るだけ取る方式に変わっていた。残飯ゴミ問題や使いまわし問題が韓国にあってそれへの対策として最近増えてきたらしい。いいことだ。里門ソルロタン posted by (C)くまソルロタン(特)肉は牛の肝。 posted by (C)くまこれが各机にひとつついている。取り放題。 posted by (C)くまそのあと1号線を下って富川ファンタジックスタジオ(野人時代セット場)で映画「ブラザーフッド」「下流人生」やドラマ「ファッション70」「野人時代」のロケセットを見る。富川ファンタジックスタジオ。右隅が入り口。 posted by (C)くま「ブラザーフッド」で使われた電車 posted by (C)くま懐かしい風景が続く posted by (C)くま小さなロケ地の中に40年代から70年代にかけてのソウルの建物が効率よく凝縮されていて、私はとても面白かった。このちんちん電車などは「ブラザーフッド」の冒頭で効果的に使われていました。ムーランルージュの看板 posted by (C)くま富川はいわゆる新興住宅地。家族連れが多い。 posted by (C)くま松舎駅(ソンネ駅)で屋台のおでんを食べた。目の前の野菜てんぷらを食べようとすると、新たに揚げ直してくれる。そういえば帰りに小腹がすいて駅のプラットホームでワッフルを買うとやはり温め直してくれた。これは嬉しいサービスである。おでん屋台。野菜てんぷら。 posted by (C)くまワッフル。甘い餡が入っている。 posted by (C)くま市庁に帰ると、5月にBSE反対ロウソクデモで埋まった広場はスケートリンクに様変わりしていた。ソウル市庁前の特設スケートリンク posted by (C)くま旧庁舎は今は工事中。工事の外壁はよく見るとひとつひとつの写真で構成していた。ソウル市民の心意気がうかがえる。市庁改修工事の外壁 posted by (C)くま外壁に近づくと‥‥‥ posted by (C)くまソウルに来た以上は有名店で食べようと思い、どじょう専門店「湧金屋(ヨングンオク)」を探す。探し回ってやっと見つけて出てきたのがこの料理。湧金屋入り口 posted by (C)くまどじょう汁です。以前光州で食べたのと違い、ここは丸ごとのどじょうが10匹以上はいっている。韓国の扶安から毎日仕入れているらしい。香味コショウを少しだけ入れてください、と注意を受けていたのだが、ビンを傾けたとたんにドカッと入ってしまう。まるごとどじょうには正直閉口していたので「間違ってたくさん入った」と言い訳をして帰ろうとすると、1/3ほど食べていたのにもかかわらず交換してくれた。さすが1934年創業の老舗ではある。あり難いやら、悲しいやら。でも我慢して食べると最後の方では美味しくなった。精はついたのだろうか。よく分らない。どじょう汁 posted by (C)くま次回は韓国の青年と日韓の労働問題、政治問題を縦横に語ります。お楽しみに。
2009年01月31日
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1月15日夜、東京・日本教育会館で開かれた「やっぱり必要!派遣法抜本改正1.15集会で全国ユニオン会長の鴨桃代さんが司会を兼ねながら主催者あいさつをしたときこういったという。「三日三晩飲まず食わずで日比谷公園にたどりついた人、群馬から自転車でたどりついた人など、個々の村民はたいへんな状況だったが、いま一人ひとりが生活を立て直そうと前を向いている。しかし、「もう派遣村はないんですか?」「日比谷公園の派遣村はなくなってしまったんですか?」という問い合わせの電話がいまも毎日、事務局にかかってくるという状況がある。全国各地に派遣村をつくる必要性を感じると同時に、やはり派遣村を必要とするような状態はなくさなければならない、派遣労働者を切り捨ててもあたり前という状態を早く改善しなければならないと実感している。」そうして、全国で派遣村を作ろうという動きが始まっている。2月中にも岡山版“派遣村”発足 県労おかやまなどが労働相談窓口 派遣労働者の「雇い止め」が相次ぐなど岡山県内でも雇用危機が深刻化しているのを受け、県労働組合岡山地域会議(県労おかやま)などは「派遣労働者支援センター(仮称)」の2月中の開設を目指す。職や住む場所を失った人の緊急避難所や生活支援窓口を備えた岡山版“派遣村”の設置が目標。 県労おかやまのほか、岡山地区労働組合協議会、岡山・野宿生活者を支える会、県農民連、岡山市社会保障推進協議会の計5団体が中心となって取り組む。(2009年01月27日山陽新聞)ローカルセンターの力量が試されている。ここにある「緊急避難場所」は、どうやら岡山市赤坂台にある「青年の家」を想定し、市当局と交渉中らしい。私もここで合宿をしたことがあるが、平屋の民家を改造した集会所で、詰めれば60人くらいは寝れるだろう。少し郊外にあるが、歩いて岡山市の中心街にいけなくは無い。ちんちん電車を使えば、140円で駅前までいける。すぐ目の前は協立病院である。必要あれば炊き出しも検討中だとか。各地域でこのような場所を作っていくことが必要だろう。
2009年01月29日
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昨日の続きです。さていよいよ垣内(かいと)遺跡に行く。寒い。雪がかなり本格的に降ってきた。けれども用意していた説明会の文書が足りずに急遽コピーをしにとってくるような盛況ではあった。みんな背中を丸めて教育委員会の人の話を聞く。弥生後期後半(AC.120-220)の遺跡。標高200Mと山の上にあり、遺跡範囲は東西500M。今回は圃場整備でこの遺跡が見つかった、という。雪の中での説明会現地説明会資料のまとめにはこうかかれている。 今回の調査では、鉄製品やその未制品、鉄素材や鉄器作りの際に出る鉄片などどともに鉄器作りに使ったと見られる石制工具類、多数の炉跡を有する建物跡(鍛冶工房跡)が発見されました。竪穴建物跡を見学するこれらの内容は当時の鉄器作りの様子を具体的に知ることが出来る貴重な資料となります。 また平成19年度の調査とあわせると、全部で10棟の鍛冶工房跡が存在した可能性があります。確認した全建物跡17棟に占める鍛冶工房の割合が高く、まさに「鍛冶のムラ」とも呼べる様子が見られます。今回の調査で、これらの工房跡がすこしづつ時期と場所変えながら、弥生時代の終わりまで継続して営まれていたことが明らかになり、安定的に鉄器作りを行なっていたものと考えられます。この建物からは炉跡は発見されず。用途は不明。 鍛冶工房跡の詳しい説明は省略。私は見学の群れには加わらず、教育委員会の人に質問攻めをしました。そうすると現地説明資料では分らなかったことが、見えてくるのです。一つ大きく分ったのは、鉄の遺跡なのでこれからの遺跡分析によってでしか分らないことがあまりにも多い、ということです。だから結果的には私の疑問に答えてくれるような現説(現地説明会)ではありませんでした。鏃。しかし、クリーニングしないとよく分らない。例えば、出土した鉄製品は主に鏃(やじり)なのだが、他に生活用具を作っていたかどうかは謎だと言うことです。けれどもこの鉄分析によって朝鮮半島で作ったのか、中国で作ったのかぐらいはわかるだろうということでした。ここに常時何人が働き、どれだけの量の鉄を生産したかは謎のまま。非常に興味深いのは、この鉄工場が弥生後期後半から突如立ち上がり、弥生の終了とともに終わり、決して大和朝廷の台頭する古墳時代には引き継がれなかったということです。 生活土器が出土しないのも特徴です。しかしミニチュアの土器はありました。これは祭祀用でしょう。人はいったいどこに住んでいたのか。聞くと、ここから通勤圏内にしかも同じように200M高地に弥生住居跡がいくつもある。ミニチュア土器。本来のものよりふた回り小さい。 鉄を作るためには大量の燃料が必要だ。燃料はどうしていたのか。島内で燃料は確保できたのか、聞いてみました。鉄を加工するためには高温化が必要である。しかしどのようにしていたかは結局は謎だそうです。ひとつはついにふいご(送風管)施設は見つからない。(もっとも弥生時代の鉄遺跡では見つかったためしがないらしい)送風はいったいどうしていたのか、これからの課題である。高温化のためには炭を作るのが一番なのだが、まだ炭焼き跡は発見されていない。どうやらこの鉄工場では鉄を溶かすほどの高温化はしなかったようだ。しかし一部分では土の色が変わっているので、溶かすまでやったかもしれないとはいっていた。木材は島内で十分に確保できたようです。備長炭の材料でもあるウメバガシもこの島には豊富にあるらしい。垣内遺跡 遠景 少しびっくりしたのは、この遺跡と邪馬台国とを結びつけることを担当者はひどく嫌っていたということです。鉄製品は島内だけで消費したかもしれない、と担当者は言っていました。でもそれだと突然(しかもこれからというときに)鉄の生産がストップした理由が分らない。報告書が出来上がるのは、数年後、下手をすれば10年後ぐらいになってしまう。今すぐにでも、ここをテーマにシンポジウムを開いてほしい。海が近い。山の上だが、交通の便はよさそうだ。約100年間に淡路の島に大鉄器工場が出現し、ちょっとした新興住宅地を作り、そして消えていった。時はあたかも、初めてクニが出現し、「倭国大乱」の真っ最中であり、その直後におそらく大和に吉備、出雲、近畿、北九州の連合国家が出来上がり、箸墓古墳が築かれた頃である。約三代から四代に渡るであろう、鉄の技術屋集団(遺跡の数から私が推測するに常時100人以上はいただろうと思う)は、何処からやってきて、何処に行ったのか。大きな謎を抱えたまま、太陽沈む方向に、山を100以上超えて帰っていきました。
2009年01月28日
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淡路島で久し振りの大型弥生遺跡が発掘された。垣内遺跡:弥生時代最大級の鍛冶工房を確認 しかも一部報道では邪馬台国を支えた大鉄器工場だといわれている。鉄を制するものを弥生時代を制す、それはつまり日本列島の国々の最初を制するということである。行かねばならぬ。高速に乗り、明石大橋を越えて行きました。北淡ICで降りると、少し時間があったので先ずは近くの淡路市北淡歴史民俗資料館へ。個人収集資料の館なのだろうか、きちんと整理されているとは言い切れない。多数の漁業中心の民俗資料と考古資料がある。一室にはね大震災の写真のつづりが重ねられていた。確かに今となってはあれだけの量は貴重な資料となるだろう。びっくりしたのは思った以上に弥生後期の遺跡が発掘されていたということだ。説明文にはこのように書かれていた。「この地域には弥生時代後期(約1900年前)の集落が多く発掘されています。当時の生業である稲作に不向きであったと思われる場所になぜこんなに多くの集落が営まれたのか問題になっています」結局その答が今回の垣内(かいと)遺跡になるということなのだろう。せっかく来たので少し足を延ばして野島断層保存館に行ってみる。50cmから120cmの断層。たったこれだけのズレが5千人以上の命を奪い、ひとつの大都市圏を壊滅させたのだ。人間はなんと危ういところに生きているのだろう。説明版には「弥生時代にも同様のズレが起きた」と書いてあった。しかし古代の人たちにとってはちょっと驚くような「揺れ」でしかなく、すぐに忘れ去られたのだろう。ここには震災体験館もあり、せっかくだから体験してみた。強さも、長さも、揺れ方もすべてあの日を再現したらしい。確かに立ってはいられない揺れではある。けれども心の準備をして望んだし、周りでは何一つ壊れなかったので、たいしたことではないように感じられた。ただ、最初1、2秒の「ゴゴゴ」の振動のあとに、突然横揺れが始まったのには驚いた。私のうちの本棚ならば、半分以上倒れていたかもしれない。昼食はコーヒーショップフォレスタで牛丼(850円)。そこに「淡路牛丼46選」というチラシが置いてあった。淡路牛と、淡路たまねぎ、卵を使った淡路ブランドを作ろうとしているらしい。すべてが「濃厚」な牛丼でした。(続く)
2009年01月27日
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思いもかけず、いい作品だった。少女ときつねの交流と別れの物語というと、使い古されたお決まりの物語を思い浮かべる人は多いかもしれない。そう、今までのこの手の話はたいていは、大自然を背景としてその物語(フィクション)で人を感動させるというのがパターンだった。それはそれで意味はあるのだろう。人間の死を介することなく純粋に「命」と向き合うことが出来るからである。この映画は発想の転換をしている。フィクションという視点を借りて、むしろ大自然を描くことに主眼を置いているのである。何も何年もかけて全世界を回って自然の驚異を映さなくてもいい。フランスの山奥の一年をじっくりと撮る。その中に、か弱い一人の少女をぽつんと置く。それだけで、こんなにも豊かに自然の厳しさ、恐ろしさ、そして美しさを撮ることが出来るのか、驚きの映像が連続する。監督・原案 : リュック・ジャケ 出演 : ベルティーユ・ノエル=ブリュノー 、 イザベル・カレ 、 トマ・ラリベルテ 少女は狐に導かれて、子供では決して行ってはいけない山奥に彷徨い込む。少女は楽天的で、ある程度の山の知恵と脚力を持ってはいるが、それでも明らかに無謀なことを何度もする。少女の表情がいい。面白いもの、美しいもの、怖いものに素直に反応する。山の主の熊にであったり、一歩足を踏み外せば命の無い峡谷に入っていったり、複雑な洞窟の中に入り迷い何とか出口に出れば野生の動物の目が光る真っ暗な闇の森。自然と人間は本来、命と命との対話をする処であったことを思い出す。怖く、厳しく、恐ろしい処なのだということを、少女と弱小肉食動物である狐の視点で見せてくれる。その一方で、紅葉の山、真っ白な雪山で満月を背景に見せる狐の交尾の踊り、春の花々‥‥‥はっとするような自然美をいたるところで見せてくれる。狐の表情もいい。今まで日本の自然が一番表情豊かだと思っていたけど、いやいやフランスの自然も侮れない。自然って、凄い、美しい。
2009年01月23日
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この一週間、ずっと風邪と戦っている。少し寒風に当たると、すぐ夕方頭が痛くなる。体がだるい。関節が痛い。マズイと思い、早めに帰る、途中で夕食をどか食いする。(いまだかって私は病気で1日食欲なくて食べなかったということが一度しかありません。あとは無理してでも、無理しなくてもいつもより多く食べることが出来ます)出来るだけ野菜をとる。予算は無視する。そして温かくして出来るだけ早めに寝る。そうすると、次の朝起きたときに霧が晴れたように身体が軽くなっている。安心して仕事に出かける。その繰り返しなのである。世の中はインフルエンザが大流行である。幸い私はかかっていないが、罹った同僚は、しばらく近づくのも毛嫌いされ、本人も凄く辛そうである。幾つかのインフルエンザはタミフルが効かないということでニュースにもなっていた。そんな情勢だから、このウィルスパニック映画は、もしかしたら大当たりするのではないかと思っていた。監督・脚本 : 瀬々敬久 出演 : 妻夫木聡 、 檀れい 、 国仲涼子 、 田中裕二 、 池脇千鶴 、 佐藤浩市 、 藤竜也 ところが、思ったほど当たってはいないようだ。公開三日後に見たのだが、500席の会場に100席ほどしか埋まっていなかった。内容もイマイチだ。大事なセリフは二つほどあるのだが、それが心に迫ってこない。セリフだけに頼っているわけではないが、セリフに頼っているのである。残念である。今日は雨に打たれたのがよくなかった。早く寝ます。
2009年01月22日
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エルネスト・チェ・ゲバラに興味を持ったのはつい数年前だ。『モーターサイクルダイアリーズ』はゲバラが中南米の統一を夢見るようになるまでを描いた素晴らしい作品であるが、この映画はある意味その正統続編になっている。監督 : スティーヴン・ソダーバーグ 出演 : ベニチオ・デル・トロ 、 デミアン・ビチル 、 サンティアゴ・カブレラ 、 エルビラ・ミンゲス北方謙三はキューバ革命を中国の古典に移し変えて『水滸伝』を書いた。中国全土を支配している宋王朝の転覆のために、梁山泊という一地方を自分たちの城にして、そこからそう王朝に挑む話である。精神的な支柱である宋江はカストロ、前衛軍を指揮し宋江と同等の将軍であった晁蓋をゲバラに見立てたのだという。(もちろん発想だけであり、ストーリーとはまったく違う)宋江と晁蓋は強い友情で結ばれるとともに、時には政策上敵対をし、時には敵を騙すために敵対をした。そうして晁蓋は志半ばで戦死するのである。ゲバラにとって宋は米国、中国全土は中南米だったのだろう。『チェ・ゲバラの遥かな旅』戸井十月著 集英社文庫という本がある。映画のかなでは省かれているが、超楽天主義に夢を語るカストロとの出会いや、グランマ号で無謀なキューバ上陸を試みて82人の兵士は12人に減ってしまう経緯が詳しく書かれている。映像にするとうまくいきそうな場面なのではあるか‥‥‥。ゲバラとカストロが別れ別れになる経緯なども書かれている。それは映画では次の話になる。その代わり映画では、ゲバラが約3年間のゲリラ生活の中で、どうやって寄せ集めのゲリラ軍を組織していったか、成長していったかがわかる。国連演説のあとに米国や米国よりの国々の反論に対して、ユーモアを持ちながら的確に再反論しているのは、この本の中では分らないことだったので、新鮮だった。あるインタビューでゲバラは答える。「愛の無い革命なんて想像することは難しい」なぜ、チェのみがカリスマとなっているのか。なぜ、ゲリラ戦という現代社会変革では取りにくいたたかい方で成功した人間が、例えば米国、日本、欧州、議会制民主主義の国々の国民からも支持されているのか。その秘密がこの映画を最後まで見れば明らかになるのかもしれない。いまのところ、私の仮説はこうである。彼のみが、『理想』を全面に据えた革命家であり、そうやって生き、一度みごとに成功し、そして失敗し、死んでいった。つまり最後まで『純粋』だった。後半『チェ 39歳 別れの手紙』を見てコメントしたい。
2009年01月21日
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じゅんぺいさんに教えられて「"派遣切り"と闘う~東京・派遣ユニオンの1か月」をみました。派遣村の誕生の経緯ではない。今派遣に何が起こっているのかをリアルに見せた番組だった。労組事務所までに来る金がない。2000円の労組費が払えない、労組は何を保証してくれるのか、と苛立ちを隠せない『今日派遣きりをされた』労働者、食べていないすむところも無い、という労働者は生活保護申請をギリギリ受けてもらった直後にカメラの前でずるずると倒れる。食事をしていなかったことに対する過労である。命の問題なのである。派遣村で死んでしまうような人がたくさん救われたことは確かだろう。しかし、本当の命の危険に晒されている人は、いや死んでしまっている人はもう既に何人も何人も出ていることを想像させるにたる映像である。ともかく見て欲しい。その一その二その三
2009年01月20日
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道後温泉に行ってきました。遊びじゃないんですが、もちろん坊ちゃん温泉にも入ってきました。入泉だけなら400円。もっとだせば、2階で茶菓子をたべながら休憩もできます。道後の湯はかすかに粘り気のある透明な湯です。中の様子は写真撮影禁止なので、お見せできなくて残念。今回ある単産の委員長の話を聞きました。最初は当然派遣村の話です。彼が行ったのは、4日らしいですが、それでも生々しい感想を聞くことが出来ました。彼が言ったときの最初の感想は『震災の避難所の光景だ』ということ。派遣村の公表はギリギリまでしなかったそうです。当局からの妨害が無いように神経をつかっのだそうです。当初200人という予想が、500人にまでなった。いろんなドラマもあったようです。静岡から徒歩できたという人、床屋も二人来た。散髪が重要だ、というのは震災のときの経験だ、とのこと。腱鞘炎になるまで散髪したそうです。高校生もボランティアで来ていました。「ある人は物資をそっと持ってきておいて帰ろうとする、待って、待って、記帳しておいて、というんだけどね。震災時のボランティア精神は生きているんだね。日本の美徳というか」義援金は4000万集まっている。湯浅村長の言葉も紹介していました。ボランティアは1000人集まっていた。けれども5日からはいなくなる。そこからは自分たちでやっていくリーダーが必要だ。湯浅さんはリーダーを募集するときこのように言ったらしいです。『ひとつ、えばるな。そういう人はリーダーにはお断りです。ひとつ、優遇されることは無い。そういうのを期待する人がもしいればそういう人もお断りです。ひとつ、それどころかえらそーにしているとかいわれたり、いやな思いをする。それでもよかったら、リーダーを募集します』なかなかいえることではないし、そういう発想は私には出来ない、と委員長はえらく感心していました。私も、ものすごく頭が柔軟な人だなあ、と思います。今回動かない行政や政府を動かした。これは大きい。きっと地域の役所の態度も変わっているはずです。1月7日は国会請願デモを500人の人たちと一緒にしました。彼ら自身も短期間に大きく変わったはずです。請願を受ける議員は共産党、民主党、社民党それに公明党がいました。厚顔無恥ですよね。彼らは『この裏切り者!』とかいわれていたようです。後で聞くところによると、彼らもぶつぶつ言っていたようです。『裏切ったのは俺たちだけじゃ、ねえ。民主も社民も賛成したじゃねえか』今年の新春宣伝は今までとまったく反応が違った。一人で1時間200枚のチラシをまいた、と言っていた。彼にとっては『生まれて初めて』だそうです。私も演説カーでこういうと、道行く人がみんな振り向くんです。「派遣村、明日はわが身と考えている人はいっぱいいるよね」首切りは8.5万で終わらない。大和総研の試算では、17万人になるとも言っています。契約期間内の首切りには批判するが、期間が切れたら首が切られても仕方ないのか。そうではない。彼らは派遣は単年で終わる人はほとんどいない。『使い捨ては平気だ』ということにはもっと怒っていい。弁護士会の意見は『期間が終わっての首切りも法律に触れる』という見解である。何年も使っていたならば、正規雇用と同じように扱わなくてはいけないのだ。以上K委員長の言葉をメモしていたのをそのまま書きました。
2009年01月18日
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橋を渡りきったところによくある通行止めグッズ posted by (C)くま地下鉄が景福宮駅(チョンボックンギョク)に着くのが思ったより時間がかかり、着いたのが16:35。あと25分で新大元旅館を見つけてチェックインをして、鐘閣(チョンガク)の待ち合わせ場所まで行かなくてはならない。案の定なかなか見つからない。15分をきったところで、向こうからおまわりさんがやってくる。このあたりは大統領府がすぐそこなので、おまわりさんが多いのだ。聞いてもみると、大元旅館の資料を示せという。彼はそれをみてすぐに旅館に電話をしてくれた。『そこをぐるっと回ればいいよ』とのこと。ありました。5分でチェックインを済ませてタクシーで行くと、間に合いました。鐘閣の建物 posted by (C)くま鐘閣まえでキム氏に無事会えました。(彼との出会いはこちらを参照)『お久し振りです』手を握り合う。この二年間まったくメールのやり取りもしなかったのが嘘のよう。テレビでも紹介された有名な居酒屋らしい posted by (C)くま『友たちに聞いて、お勧めの店を聞いてきました。そこに行きますか』相変わらず、日本語は達者である。『カジャ、カジャ!(行く行く!)』行ったところは鐘路(チョンノ)の路地を少し入った居酒屋。これで12000W。代金はキムさんが持ってくれた posted by (C)くまそこでここの名物、豆腐の具入り饅頭みたいなものを頼む。大きい。がんもどきみたいな内容だったけど、しっかり味はついていた。魚卵チゲ。たらの卵みたいなものが入っていました。 posted by (C)くま後日本では食べたことないということで、魚卵鍋を頼んだ。トンカン(?)酒。琥珀色をしていて、綺麗。 posted by (C)くまお酒はトクトク酒といって人参酒(でも実際は人参ではないそうだ)を頼んだ。銘酒だそうです。最初はめざしが入っていたのかと思った。色はブランデーみたいですが、飲むと少し甘い。いくらでも飲めそうですが、20度あるという。キムさんの年齢をこのとき初めて知ったのですが、34歳。この二年は病気療養中だったので、今年から就職活動だそうです。『日本ではリストラで大変なことになっています。韓国はどうですか?』と聞くと、どうもそんな危機感はないようです。非正規労働者が50%を超えていて、いつも就職難の韓国にあっては、もう既に恐慌状態と同じなのかもしれません。ロウソクデモについて聞きました。キムさんも参加したようです。『何故参加したのですか?』と聞くと、熱い答えが返ってきました。『インターネットで色々と調べました。東亜、中央、朝鮮の三紙は前の大統領の時にはBSEは危険だといっていたのに、李明博大統領になってころっと意見を変えました。信用できません。新聞で言えば、左のハンギョレよりもヤンギョンが中道で信用できます。』『ドラマのモレシゲ(「砂時計」)でもそんなことを普通のおばちゃんが言っていたけど、つまりは現代でも、大新聞は信用できないというのは、キムさんたちの常識でもあるんだね』キムさんは否定はしませんでした。私は聞きます。「でも日本では一部の人を除いて、BSEがあんな大きな国民的な反対運動になることはなかった。いったい何処に違いがあるのだろうか?』『ひとつは日本と比べて、輸入部位の中味が違います。韓国の方がいろんなところの部位を輸入する。狂牛病はすぐには発病しない。だから今安全だといわれても全く信用できません。BSEを支持しているのは、40代以上の人たちです。彼らは発病するときには既に死んでいる人が多い。けれども、ぼくたち30台以下には切実な問題なのです』なるほど、中学生から始まって、今回のデモには本当に若者が多かった。そういう輿論ができていたのだ。キムさんはどの組織にも属していません。(おそらく)でもこれだけの意識の高さがある。『一人ひとりが自ら情報を集めて、自ら判断して、行動している。日本であれだけの規模の運動を作るのはできない。凄いです。羨ましいです』私は羨ましいを連発しました。一番旨いというスニネピンデトク posted by (C)くまそのあとカンジャン市場に行きました。お目当ての(食べ始めたら止まらないと言う)『マヤク寿司』は週末ということでお休み。もうひとつのお目当て、ピンデトク(具入り平餅)を食べた。これもここの名物ということだそうだ。確かに熱々の出来立ては美味しかった posted by (C)くまその後長く歩いて、清渓川 (チョンゲチョン)をそぞろ歩く。この川は長らく暗渠化しその上を道路が走っていた。今の大統領がソウル市長だったときに川の復元が実現し、市民の憩いの川になったそうだ。キムさんと色々と世間話をする「日本では正月になると何か特別なことをしますか?」今回私はキムさんへのプレゼントとして、日本の丸餅と豆餅をもって来ていた。デジタルカメラの写真を見せながら、雑煮をはじめとした日本の正月料理の幾つかを既に見せていた。『あのような正月の特別料理も一つですね』『鐘閣では年が変わるときに鐘を突きますが、日本でもつきますか?』『突きますよ。私の家の近くのお寺では、毎年108の鐘を突いています』『韓国では33です」『何故その数字なのですか?』『3.1独立運動を始めたときの指導者の数が33名だったからだという説がありますが、さだかではありません』いかにも韓国ではありそうな数字の決め方ではある。音楽に合わせて光の模様が替わります posted by (C)くまそんな話をしていると、突然、清渓川 冬の特別企画光と音の競演を見ることが出来た。クリスマスまえから旧正月にかけて、毎日しているらしい。派手なパフォーマンスではある。けれども綺麗だった。キムさんとは、名残惜しく其処で別れたのでした。2,400(タクシー)、21,000(普通州→ソウル)、1,700(朝食)、4,000(昼食)、2,000(タクシー)、1,000(入場料)、3,000(みやげ)、20,000(キョトンカード)、4,000(タクシー)、4,000(ピンでトック)、29,000(宿代)
2009年01月16日
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2日目(土) 09.1.3寝坊をした。起きたのが7時前。6時前には起きてソウル行きのバスに乗ろうと思っていたのだが、急いでタクシーを拾って高速ターミナルまで行ったが、7:40発のバスになってしまった。これでソウルに着くのは12時前になる。ソウル行きバスの切符。ほぼ韓国を縦断するのに約1,500円。 posted by (C)くまバスの窓から写しているので見難いが、バスの車窓、至る所、山や畑の斜面、日当たりのいいところに丸い塚の韓国特有のお墓がある。ふと気がついたのであるが、こういう墓があるところは青銅器時代の遺跡があるところと大きく重なっている。もう相当数の遺跡が壊されていると見たほうがいいのだろう。斜面にポコポコあるのがお墓です posted by (C)くまソウルの江南バスセンターについて先ずは地下鉄に乗る。前々回の旅から持っているキョトンカード(日本でのスイカカードみたいなもの)のチャージをする。二万ウオン。これでソウル市内は先ずは地下鉄、バスとも乗り放題になるはず。トンカス定食 posted by (C)くま地下鉄を幾つか乗り換え、先ずは岩寺駅に着く。ここで昼食。急いでいたので適当に入って適当にトンカツ定食にする。やっぱりご飯が少ないのが特徴。トンカツは肉は少し薄めだけど、これが4000ウオン(約280円)なので安い。トマトソースがたっぷりかかっていて、美味しかったです。珍しい木のお箸。冷麺がメニューにあるからか posted by (C)くま韓国の食堂は基本的にすべて金めの箸なのだが、ここには木製の箸も置いてあった。日本人にはこっちの方があっている。(もちろん割り箸は何処にも置いていない)70年代の家。洋風で庭付き。 posted by (C)くまネットで情報を得ていたのだが、映画『マルチェク青春通り』のロケ地に行く。この映画の大部分は群山、金堤、全州など地方で撮影されたが、クォン・サンウやハン・ガインの住んでいるソウルの住宅地を撮る場所はなかなか決まらなかった。ユ・ハ監督のこだわりがあり、「ただ古いだけではなく、当時のソウルが持っていた都会的な雰囲気がなければならない」と言い張ってロケハン・チームの提案に次々とNGを出したらしい。そして、やっと監督のOKが出たのがソウル市カンドン区アムサ洞の古い住宅街。ここはその頃のソウルが感じられるという。ベランダがある posted by (C)くま‥‥‥ということで行って見ました。チョンマル住宅地。川の土手の下、昔の高級住宅地である。すべて二階建ての煉瓦造りの家々。凄いのは、ひとつの家ごとにすべてデザインが違うということである。バルコニーや、庭付きという大まかに共通点もある。車は広い道に止める。みんな車通勤だったんだろうな。70年代、いわゆるエリート層が住んでいたところ。このときは人影は全くなかった。縄文土器そっくりの土器を作る posted by (C)くま岩寺(アムサ)先史遺跡はそこから歩いて10分ぐらいのところにある。ソウル最大の先史住居跡が見つかったらしい。模様はいたってシンプル。しかしこれは大きい。 posted by (C)くまわりと充実した展示物だった。つくづく櫛目文土器は日本の縄文土器にそっくりだ。しかし日本の火焔土器のような複雑な模様をつけたのはひとつもない。あれは純粋に日本列島のみの『流行』だったのである。古代住居の復元 posted by (C)くま寒い地域だからか、住居はわら(?)ですっかりかぶさるように作られている。非常に高度な文明だと思うのだが、汚い原始人の格好をさせている。 posted by (C)くま子供たちが集団学習で来ていた。中の住人は原始人の格好をしているが、稲作も始めている弥生人の技術を持っているのではある。百済の町は城郭都市であったことが分る posted by (C)くまあと、ひとつ向こうの駅で降りて、百済時代の城の外壁を復元しているのを見た後、そのまま漢江(ハンガン)を歩いて渡った。広い海のような漢江(ハンガン) posted by (C)くま海のようだった。日本にも大きい川は多いが、ここまで水の量が多い川を私は知らない。なみなみと流れている。歩いて渡るのに15分くらいかかった。
2009年01月15日
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宮部みゆきはやはり面白い。あっという間に読んでしまう。日暮らし(上) 日暮らし(中) 日暮らし(下)【内容情報】(「BOOK」データベースより)浅草の似顔絵扇子絵師が殺された。しかも素人とは思えない鮮やかな手口で。「探索事は井筒様のお役目でしょう」―。岡っ引きの政五郎の手下、おでこの悩み、植木職人佐吉夫婦の心、煮売屋のお徳の商売敵。本所深川のぼんくら同心・平四郎と超美形の甥っ子・弓之助が動き出す。著者渾身の時代ミステリー。 佐吉が人を殺めた疑いを受け、自身番に身柄を囚われた。しかも殺した相手が実の母、あの葵だという。今頃になって、誰が佐吉に、十八年前の事件の真相を教えたりしたのだろう?真実を探し江戸を走り回る平四郎。「叔父上、わたしは、本当のことがわからないままになってしまうことが案じられるのです」。 「ねぇ叔父上、ここはひとつ、白紙に戻してみてはいかがでしょう」。元鉄瓶長屋差配人の久兵衛からもたらされた築地の大店。湊屋が長い間抱えてきた「ある事情」。葵を殺した本当の下手人は誰なのか。過去の嘘や隠し事のめくらましの中で、弓之助の推理が冴える。進化する“宮部ワールド”衝撃の結末へ。 どこかで書いたかもしれないが、宮部みゆきと私はおない歳である。だから何処かしら彼女にライバル意識がある。もちろん、私は弓之助のように頭が回らないし、おでこのように人間テープレコーダーのような機能は持ち合わせていないし、平四郎のように思いやりがあるわけでもないし、お徳のように人情が厚いわけでもない。ところが、宮部みゆきは『火車』を書き始めた20代後半のころから、そのすべてを寄せ集めて、さらにストーリーテラーの才能まであったのだから、彼女と比べるほうがどだい見当違いなのは分ってはいる。けれども、彼女が面白い話を書けば書くほど、彼女よりほんの少し面白い話をいつの日か書けるのではないか、と思ってしまうから不思議だ。それはたぶん彼女の文体にあるのだと思う。むつかしい文字を使わない。得意のカメラアイを使って、今さっき見たように物事を出来るだけ。詳しく語ろうとする姿勢。そして中巻、なかほどにある「岸が違えば、眺めも変わる」という言葉、これはミステリの基本であるが、うまく使いこなしているのは宮部をはじめほんの数人だろうと思う。さまざまな登場し人物の視点から文章を書きながら、最後に一番書くべき『犯人からの視点』を書かずに済ます。これが宮部ワールドのいつものやり方である。知れば案外かけそうな文体なのである。しかし、面白くかける人はやはり日本では限られているのだ。超美形少年、弓之助が次第と大人になっていく。テレビ向きの設定なのだが、演じられるとしたら今すぐの 神木隆之介か、 本郷奏多であろう。あと一年以内にドラマ化できなかったらしばらくはドラマ化は無理だね。
2009年01月14日
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日曜日に見た『青い鳥』の場合は、村内先生は石川啄木詩集の愛読者であった。いじめというリアルな現実の前には、啄木のほうが確かにあっているような気がする。例えば、気の変わる人に仕えてつくづくとわが世がいやになりにけるかな打ち明けて語りて何か損をせしごとく思ひて友と別れぬ(映画の中では一首も紹介されなかったが)そんな歌の中の現実が、これから向かう学校の現実の真の姿を探す手助けにもなっただろう。同じ原作者のこっちの映画の方は、結局宮沢賢治が大きくクローズアップされた。どちらの原作にも、実は啄木も賢治も出てこない。けれども、この二人が脚本に使われたのは偶然ではないだろう。岩手県出身の二人の詩人はどちらも言葉の天才で、東北の重く垂れ込める空が、どちらも登場人物の心像風景にぴったり合うのだろう。監督 : 大林宣彦 原作 : 重松清 脚本 : 市川森一 出演 : 南原清隆 、 永作博美 、 筧利夫 、 今井雅之 、 勝野雅奈恵 原作は既に読んでいる。けれども、冒頭から明るい音楽とともに始まる。ずいぶんと原作とは違うタッチで描かれる。ガンで死ぬ人たちの話であるが、泣かす映画にしてしまっては、確かにつまらない。人はその日のまえにどのようにすごし、その日をどのように迎え、その日のあとをどう生活して行くのだろう。映像と見せるためには、むしろ泣くのはほんの少しでいい。あとは淡々とした明るいタッチの方がいい。肝心の心の部分を、宮沢賢治の『永訣の朝』が代弁する。けふのうちにとほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよみぞれがふって おもては へんに あかるいのだ(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)(略)ああ あの とざされた 病室のくらい びゃうぶや かやの なかにやさしく あをじろく 燃えてゐるわたくしの けなげな いもうとよこの雪は どこを えらばうにもあんまり どこも まっしろなのだあんな おそろしい みだれた そらからこの うつくしい 雪が きたのだ(略)詩に託して、雪の岩手県の映像が流れる。その静かな白さが、私には心地よかった。原作は去年一番ないたものだった。映画は泣きはしない。けれども、死を迎えるということはこういうことなのだ、と静かな気持で納得できる映画であった。
2009年01月13日
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「反省文は5枚以上、先生みんなのOKが出るまで5回も6回も書かせたんです。でも書き直せば、書き直すたび、生徒たちの顔が見えなくなるんです」監督 : 中西健二 原作 : 重松清 出演 : 阿部寛 、 本郷奏多 、 伊藤歩 、 太賀 、 鈴木達也 ちょっと粗筋(goo映画より)いじめで自殺未遂事件が起こった東ヶ丘中学2年1組。自殺を図った野口の転校後、クラスに臨時の担任として村内が赴任してきた。極度の吃音の村内に生徒たちは苦笑するが、生徒たちに彼は「忘れるなんて、ひきょうだな」と言い放つ。そして片付けられた野口の机をクラスに戻させ、毎朝無人の机に挨拶し続けた。そんな村内に生徒たちが反発する中、事件で深く悩む生徒・園部はその姿を複雑な想いで見つめていた。小学校時代どもりだった重松清は、村内先生を自分の分身として2年1組に送り込んだのだろう。いつも饒舌な重松文体を抑える役割も持っていたのかもしれない。それと同時に想いをそれぞれのやり方でしか伝えることができない、そういうことの象徴なのだろう。本来描かなければならないところまで省略していたようには思う。けれども抑制の効いた、心にストレートに訴えるいい『いじめ映画』(というようなジャンルがあるかどうかはしらないが)だったと思う。小学生高学年から中学生にみて欲しい。中学時代の私に、いまの私は『責任』を持てるだろうか。もてると思う。あの頃は、特定の個人が個人を悪口を言ったり、いじめたりしていた。ボクは、無視も悪口もしなかった。うっとうしいと思いながらも、Y君やM君にはなぜか好かれていたし、傷つけるようなことはしなかった―と思う。けれども、本当にそうか?もう何10年もボクはその問いを問い返している。Y君、君は中学卒業から4年後、チンピラになって大阪で死んでしまったと、大学のときの同窓会で聞いた。(そのときの原因や君の状況などはついに分らずじまいだ)中学時代、ボクは本当に君を傷つけなかったのだろうか?もう思い出そうにも思い出せない遠い過去だ。ただ、君が死んだと聞いたあのときから、ボクはずーと『遣り残したこと』を考えている。映画の中、反省文を書かせ、『青い鳥』という相談ボックスを作り、『運動』として世間体をつくろうことに執心する学校の態度には反吐が出る。
2009年01月11日
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クリントン大統領が京都議定書に反対のサインをしてから約11年、その当時の赤ん坊は今では立派な意見も言える子供になっている。彼らに向かってやっと大人たちのコメントが届くようになった。みごとなクオリティのアニメとして、ウォーリーとイヴの愛の物語として。今年の最初の鑑賞映画はこれでした。監督・原案・脚本 : アンドリュー・スタントン 声の出演・サウンドデザイン : ベン・バート 声の出演 : エリッサ・ナイト 、 ジェフ・ガーリン 、 フレッド・ウィラード 、 キャシー・ナジミー 、 シガニー・ウィーバー 途中少し眠っちゃったけど、いい映画だったと思います。
2009年01月11日
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寺の事務所から出てきた安倍なつみ似の彼女は、観光地図を見せながら『ここに行きたいのですが』と言うと、すぐ理解してくれて『チッャカンマンキダリセヨ(ちょっと待ってね)』と奥に入った。 電話で寺の責任者らしき人に色々聞いている。観光地図もあるし、地元だし、すぐに分ると思いきや、出てきた答えは『見ることはできない。地図も道が複雑なので書けない。どうやって行っていいか教えられない』というものだった。私が困ったようにしていると『ごめんなさい』と本当に悪そうな顔をする。私は『大丈夫、大丈夫。私は行ってみます』と探すことにした。裏の山にあるのは確かなのだから、どこかに道はあるはずだ。P1020069 posted by (C)くま住宅密集地を登っていく。坂道を登っていくと、2-3回とも民家に突き当たる。おばあちゃんが不審者を見つけたように出てきた。『古墳知っていますか』そう聞くと驚く。そうなのだ、たとえ目の前にあっても、普通日本でも、地元の人は古墳の位置なんて知らない。私は半分諦めかけていたけど、小山をぐるっと回ったころ、オバサンに聞いてみた。『古墳知っていますか』『ああ、チョギヨ。(あそこだよ)ちょっとそこまで行けばあるよ』ああ、なんて簡単に答えることか。オバサンは「日本人がこんな辺鄙なところまで来て古墳を探すなんて物好きだねえ」というような顔をしていた。そこはまったくの畑道であった。確かにあのお寺の彼女の説明では難しかっただろう。玉峰古墳頂上の蓋石 posted by (C)くまけれども、道なき道をあがっていくと素晴らしかった。古墳の回りは柵で囲っている。地域放送用の塔が立つ。 posted by (C)くま古墳は柵の中に小さな盛り上がりに石の蓋(石棺?)が置いてあるだけのものであった。古墳より市場方面を望む。見晴らしは抜群。 posted by (C)くまけれども、なんとこの丘から普州の町が360度見渡すことが出来るのである。伽耶の時代、ここを墓を選んだのはおそらく最盛期の唯一の王だったに違いない。玉峰古墳の大型器台 posted by (C)くま国立博物館では、この古墳出土の伽耶時代特有の特殊器台が展示されてあった。ウンヨル寺。6時を回っていたので門は既に閉められ‥‥‥。 posted by (C)くま夕闇に包まれていいものを見させてもらった。元に戻ってお寺の彼女にお礼をしに行った。(というのは口実でまた可愛い彼女に会いに行きたかったから)ところが、お寺の門は既に閉めらていた。残念だ。非常に残念だ。 そのあと、父の形見の腕時計のベルトが壊れていたので、中央市場で修理か交換を頼もうと時計屋を幾つか回る。みんな無理だという。けれどもここへ行けと教えてくれた。メモには『ナイキ』とかいている。てっきりナイキという名の時計屋かと思い、大通りを探すが見つからない。ブランドのナイキの店はあった。行ったり来たりしたあと、ふとその横の細道を見ると、小さい時計屋があった。時計屋のおじさんは気楽に請け負ってくれて、すぐにベルトを治してくれた。『サービスだよ』といってくれる。なるほど、こういうのが市場のいいところだ。どの店が何が得意かを知っていて、教えあうことが出来る。量販店にはできないことである。今度はこの店を教えてくれた時計屋にはお礼をしに行った。お店のオバサンはなんでもない、というように少し顔を動かしたただけであった。ハイツモーテル。冷蔵庫にはヤクルト二つ。 posted by (C)くまハイツモーテルというところに泊まる。3万ウォン。バスタブもあるし、まあOKだろう。少し女の子趣味の部屋だった。ユッケビビンバ。野菜が美味しい。 posted by (C)くま夕食は普州で最古の食堂チョナンシッタン(80余年の歴史、三代目)で、名物のユッケビビンバを食べる。チョナンシッタンの木枠の窓。バネでドアを閉める仕掛けを作っているのに注意。 posted by (C)くま店の造りは懐かしい木の机に、大型ストーブ、木枠の窓の向こうでは作っているところが見える。このまま映画のセットに使える。味はあまり辛くなく、素朴な味わい。四角い茶色いのが血のにごり。 posted by (C)くまだけど副菜に牛の血のにごりを入れたスープがついて来た。血の一滴も無駄にしない牧畜民族らしい料理だ。美味しかった。340円(バス代)450円(夕食)6900円(倉敷-博多)220円(バス代)25500円(往復船代、燃油チャージ、港使用料)以後、ウオン。変換率10万円→140万ウオン。1,100(地下鉄)7,000(釜山~普州)6,000(昼食)1,000(城跡入場料)3,600(タクシー)30,000(宿代)6,000(夕食)6,000(雑誌)2,500(夜食)
2009年01月09日
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承前あるいは1日目 09.1月1日より2日この日の特徴を一言で表すと「天気晴朗なれど波高し」でも結果よければすべてよし。激動の一日からこの旅は始まりました。一月一日の深夜、倉敷駅より10時45分初の高速バスに乗る。久し振りの寒い夜。車掌が『山口から雪のために通行止めになっています。予定通り到着しないかもしれません』ゲッ、まさかこの程度の雪で高速が通行止めになるのか?明日の朝のビートルに間に合わなかった場合のことをあれこれと考えていると、良く眠れなかった。朝3:30、壇ノ浦サービスエリアに着いたときに雪は全然積もっていない。何のことはない。予定通り到着。博多の国際ターミナルでビートルの搭乗手続き。『今日の波の高さは?』『2.5mです』『ゲッ』ずっと前にビートルに乗ったとき3mの波で二回戻した事がある。案内カウンターで『酔いとめ薬を売っているところはありませんか』『薬屋はありませんが、受付でもらえますよ』朝食のために用意していたパンは食べずに備える。地獄の船、ビートル posted by (C)くま結果は惨いものだった。三回戻した。やはり眠っていなかったのがよくなかった。地獄の三時間を耐える。釜山についてそのままソウルに行くことも考えた。けれども少し体力が戻ったので、とりあえず最初の予定地普州(チンジュ)へ。釜山西部バスターミナルを13:37分に出発。普州で観光して光州にとまる予定であったが、なんと韓国のバスで初めて酔ってしまう。とても光州まで行く気力はない。予定を変えて普州に宿泊、明日はまっすぐソウルに行くことにする。そう思ったら気が楽になった。バスが終わりに近づいたときに通路を隔てた隣の若い女性に『ここは普州ですよね。市外バスターミナルに行くのですか』(普州には市外と高速二つのバスターミナルがある)と聞いてみた。とっつきにくいような顔をしていた女性は、私が日本人だと分ると色々と聞いてきた。彼女は全く日本語はできないけれども、『わたしは二回日本に行きました。東京、奈良、京都‥‥‥』等のたわいない話をしばらく愉しむ。話をすると一遍に酔いが覚めた。これだったらもっと早く話かけるべきだった。普州のチャンオタン(うなぎ湯)ご飯を入れていただきます posted by (C)くま15:10に市外バスターミナルに着くと、すぐに普州城跡まで歩いていって、近くの食堂で遅い昼食。胃が荒れているので、うなぎのお粥にした。秀吉軍の武将を抱えて海に飛び込んだ勇ましい女性が英雄 posted by (C)くま秀吉軍との戦い posted by (C)くま城跡はたいしたことなかった。朝鮮出兵のときの古戦場らしいがすべての施設は復元である。一回目は秀吉軍との戦いで勝ったらしい。中の国立普州博物館にはそのときの図が残っている。約3000年前の土器。土の色がやわらかい posted by (C)くまそのほか、2000年、3000年前のあるいは4Cごろの遺物も展示されていた。韓国の何処にでもいる国民的な?鳥 カチ。 posted by (C)くま観光案内所に聞いて、伽耶時代の玉峰古墳(オクブンコブンクン)を見に行く。地図ではウンヨルサというお寺のすぐ裏なのだが、道行く人に訪ねてもわからない。お寺の事務所に聞きに行く。可愛い女性が出てきた(^^) 続く
2009年01月08日
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先ほど韓国から帰ってきました。今年は幾つか予定していたコースを急遽取りやめて、主にソウルでいろんな人に合ってきました。二年前の旅行のときにアンドン(安東)で一緒になったキムさんや、日韓交流喫茶店のH氏、あるいは旅先で出会った可愛い女の子「たち」、あるいはハンギョレ新聞社や労働組合で働いている方たち‥‥‥。今までと大きく違った旅になりました。また例のごとく、おいおいと報告していきます。日本に帰ると、政治はさすがにほとんど変わっていませんが、派遣村の運動は政府をも動かしたみたいで、祝着です。
2009年01月06日
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昨年はいろいろと(感想、励まし、助言、等々)ありがとうございました。今年もよろしくお願いします。写真は、今朝兄嫁が作ってくれたお雑煮です。こちらの雑煮は、醤油の澄まし汁にほうれん草、ニンジン、大根、かまぼこなどを入れて、丸い白餅を入れるのですが、私は豆餅を入れるのが大好きなのでそれを入れてもらっています。昨日の年越し派遣村の開村式の様子です。エイエイオー!http://jp.youtube.com/watch?v=mG_InRyy4NY湯浅誠さんかNHKの『視点・論点』で派遣切りのことを語っています。http://jp.youtube.com/watch?v=4b2loVd-WMk最後の方で、湯浅さんは大企業の重役に対して、『好景気のときに溜め込んだ内部留保を吐き出す経営者はいないのでしょうか』といい、『私は怒っています』といいます。自分の子や孫に対して『人の命を大切にしろと教 えることができますか』と問いかけています。そうだ!!そうだ!!年末最終になって、二年前の旅のときに出会った韓国のキムさんと連絡が取れました。彼も確か非正規雇用だったはず。今日の夕方、深夜バスで岡山出発です。いろいろと聞いてきます。
2009年01月01日
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