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癌で死ぬ人の映画は多いと思う。毎年、少なくともそれを中心としたお話だけで三つ以上はできているはずだ。国民の三分の一が癌で死ぬのだから、しかもそれぞれドラマがあるのだから、観る人にも需要があるし、作る側も作りやすいのだろう。監督 星護 出演 草なぎ剛 (牧村朔太郎) 竹内結子 (牧村節子) 谷原章介 吉瀬美智子 でも、癌で死ぬ人の映画で、闘病が五年近くの患者をじっくり見せる作品も少ない。最後は寝たきりになって、ほとんど会話はなくなるのであるが、それがそのまま小説家の小説に生きていて、あじわい深い話になっている。1778話めの「最終回」は本にはなっていないのだそうだが、映画には本文が全文(?)載っていて、これが一番感動的なエピソードになっていた。眉村卓って、こんな若い人だったけ、と思ってみていたら、本当は30代で妻が発病したのではなくて、60代前半らしい。子供もいたようだ。けれどもそれでは「絵」にならないということで、設定を少し変えたのだろう。子供がいないだけ純粋なストーリーになっていて、「癌もの」の映画としては佳作になったと思う。
2011年01月31日
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前回の劇場版も私の周りが絶賛するほどには感心しなかったのであるが、今回はさらにがっかりした。映像的なインパクトがほとんどないのである。監督 和泉聖治 出演 水谷豊 (杉下右京) 及川光博 (神戸尊) 小西真奈美 (朝比奈圭子) 小澤征悦 (八重樫哲也) 宇津井健 (金子文郎) 前回はマスコミの暗部に切り込んだところが映画化のいいところかな、と思ったが、今回は警察の内部に切り込んだというところなのであろう。ただ、「これはあくまでフィクションです」と最終タイトルに出すまでもなく、全部芝居がかっていて、リアル感がない。映画の大画面で見ると、右京さんも神戸さんも他の人たちも芝居が大掛かりに見えて、テレビで見たほうがいいんじゃないのと思う。正月特番の南果歩が主演をつとめた犯人役のほうがよっぽど良かった。コンパクトにまとめて緊張感もあって。監督はなんと同じです。以上、久し振りの愚痴でした。
2011年01月31日
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中東の片隅で、日本代表がやってくれました。同じく中東の片隅では、ツィッター革命が進行中なのだそうですが、遠く日本では午前0時から3時にかけて「「川島!!」「もう勘弁してくれ~」「あと15分、いけ~!」「よし!!!!!!!!」「決めちゃえ!」「優勝!!!!!!!!!やったー!!!!」という、普通ならばなにやらわからん呟きが、共通言語として日本中を飛びかっていました。平和ですね。この二週間、3-4日おきに生活リズムを崩していた私の生活も立て直さなくてはいけません。ところで、茨木のり子さんの文庫版「倚りかからず」にこの様な詩があります。一部抜粋します。「君が代はダサいから歌わない試合の前に歌うと戦意が削れる」がこれほどきっかりと嵌った例を他に知らないやたら国家の流れるワールドカップで私もずいぶん耳を澄ましたけれどどの国も似たりよったりでまっことダサかったねえ日々に強くなりまさる世界の民族主義の過剰彼はそれをも衝いていた球を蹴る人は静かに 的確に言葉を蹴る人でもあった 「球を蹴る人-N・Hに-」中田英寿は君が代を歌わなかった。現代の日本代表はどうだったのだろう。韓国戦のときに注意してみた限りでは、全員唇が動いていたようだ。けれども、誰一人として大声で歌っているものはいなかった。あえて言えば、現代の日本代表は全員呟くように君が代を歌っていた。君が代・日の丸訴訟が第二審で敗訴した。詳しくはまろ0301さん が書いてくれています。まろさんがコメントでも書いていますが、国会で、「国旗・国歌法案」が通過した時、付帯決議として、「強制しないこと」という一項がわざわざ付け加えられています。それを忘れて裁判官は自らの保身の為にこんな判決を書くようでは、何かをいわんや、です。法を守る立場の人間のこの決断は許されませんが、日本代表が呟くように歌ったのを非難する気になれません。現代のマスコミやネット右翼を見ていると、口を真一文字に結んだだけで大きく騒がれることが十二分に予想されます。勝負に集中したい彼らには、そんなことは避けておきたいことにちがいありません。「戦意が削がれる」けれども、損得を天秤にかけたならば、歌う真似だけでもしたほうがマシだと考えても非難できません。国家を背負って闘っているんじゃない、自分のため、日本のサッカーのため。そんな彼らの呟きも聞こえてきそうだ。日本の為に国歌を歌っているんだ、と堂々と胸を張る若者の何割が「君が代」の意味をはっきりと答えられるというのだろうか。私の昔の同僚は「どうして君が代拒否とかするんだろうか」と素朴に聞くから、「君が代って、どういう意味か知っている?」と聞いたら、本気で分りませんでした。30台のいい大人なんですよ。きちんと説明したら、簡単に拒否も納得に変化しました。ここまで単純でなくても、日本=天皇ぐらいに軽く考えている若者も多いだろうと思う。保身主義の裁判官を包囲するような、若者のツイッター革命は日本では起きないものだろうか。
2011年01月30日
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本日、100万アクセス超えました。ありがとうございます。(写真は2年前abi.abiさんからもらった薔薇です(^_^;)1000006 2011-01-29 18:31:45 *.ocn.ne.jp 1000005 2011-01-29 18:29:55 59.106.*.* 1000004 2011-01-29 18:29:41 ***.tfbnw.net 1000003 2011-01-29 18:29:40 74.125.*.* 1000002 2011-01-29 18:22:23 とらのこどもさん 1000001 2011-01-29 18:18:14 ***.yahoo.net 1000000 2011-01-29 18:16:37 59.106.*.* 999999 2011-01-29 18:07:34 ***.yahoo.net 999998 2011-01-29 18:05:26 74.125.*.* 999997 2011-01-29 18:04:07 ***.yahoo.net 999996 2011-01-29 17:59:50 パイパンダさん とらのこどもさんが100万2アクセス目を踏んでくださいました。ありがとうございました。早速、写真を送る手続きに入りたいと思います。とらのこどもさんもコメントでおっしゃっていますが、これで一桁増えました。確かにカウンターの雰囲気が変わりました。しかも、この桁は、絶対にこれ以上増えることはないのです。約6年で100万いったので、次に桁が増えるのは単純計算で54年後になるからです。そういう意味では、びっくりする数字です。こんなに長いこと、こんなに膨大に文章を書くことを続けてこれたのは、もちろん人生で初めてです。本にしたならば、ちょっとした著作集が出来る量だと思います。皆さんの「目」や「声」があったからこそです。ありがとうございました。本当はこれを機に大幅リニューアルするとか考えればよかったのですが、根が粗忽、いいかげんなもので何も考えていません。これからもよろしくお願いします。
2011年01月29日
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話は至極単純、暴走を始めた無人機関車を二人の機関士が後ろから引っ張ってスピードを落とし、飛び乗って止めた。話を聞けば簡単だけれども、実際にやると、とっても危険だということが映画を見るとわかる。やりがいのある仕事だったろう。けれども撮影がとっても大変。こういうのは、ハリウッドはとっても得意としていると思う。監督 トニー・スコット 出演 デンゼル・ワシントン (Frank) クリス・パイン (Will) ロザリオ・ドーソン (Connie) ケヴィン・ダン (Galvin) ジェシー・シュラム (Darcy Colson) いったいどこまで事実なのか。あとで、パンフを立ち読みすると、スピードや、都市の大曲りなどの脚色はあるものの、大まかな所で事実だったと知り、びっくりした。ハリウッドの佳作として、記憶に残すべき作品だと思う。ひとつ、どうしても気に食わないのは、デンゼルの娘がテレビを見ながら、お父さんが機関車の上を走っているのを見て「頑張って」とか「お父さんならやれる」とか叫んでいるのだけど、同僚ならば分かるけど肉親ならば固唾を呑んで無事を祈るのが本来の姿じゃないの?「ベストキッド」でも感じたけど、アメリカ人って、こんなときには肉親でもそんな応援を「するべきだ」というような「ヒーロー応援強制症候群」があるのだろうか。
2011年01月29日
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共感できる人物は、冒頭マーク・ザッカーバーグを振るエリカしかいないというところが、この映画の性格をよくあらわしていると思う。監督 デヴィッド・フィンチャー 出演 ジェシー・アイゼンバーグ (Mark Zuckerberg) アンドリュー・ガーフィールド (Eduardo Saverin) ジャスティン・ティンバーレイク (Sean Parker) アーミー・ハマー (Cameron Winklevoss) マックス・ミンゲラ (Divya Narendra) ザッカーバーグはもちろん現在もまだ26歳。それで総資産5780億円という長者になってしまった。頭はいいが、映画を見る限り特別なことをしたわけじゃない。情報を集めるしくみを作った、それだけで、これだけの金を集めることができる。それが『現代というもの』なのである。これは怖ろしく恐ろしい映画なのである。しかし、その金が集まるというおそらくこの映画の一番「恐ろしいところ」は言葉でしか説明されない。映画にする必要がないようにさえも思える。この映画の何処が凄いのか私には分らない。ヒッチコックならば、もっと恐ろしく面白い映画に出来たのではないか。テンポよく編集している。けれどもこれでオスカーの作品賞を取るようならば、私はこの賞を見限るだろう。
2011年01月29日
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困った‥‥‥。このブログが100万アクセスを超えるのが、明日の夜ぐらいになりそうです。この前90万アクセスを超えたときは「次のときに何かしますので‥‥‥」ということで無企画で終わったので、何かしないといけないのでしょうが、何も考えていませんでした。今さらみんなの知恵をかりるのもなあ‥‥‥。以前は100万アクセスに最も近かった人のリクエストに応える、という企画をしていたのですが、実は80万アクセスのときのabi.abiさんのリクエスト「地下室の手記」(ドストエフスキー)の感想文がまだかけていません。申し訳ありません。これが終わらない限りはその企画は打てないのです。プレゼント、と考えてはっと思ったのは、韓国旅行のプレゼントなのですが、そんなこと完全に失念していたので、適当なものがないのです。で、今日一日考えた上での苦し紛れのプレゼントなのですが、2010年の旅の膨大な写真をそのまま渡します。2010.8月の近畿の旅約800枚。2010.11月韓国の旅約2300枚。これをUSBに落としてそのままお送りいたします。(約2G)ブログで使うのはこのうち1-2割ですし、ブログに使った写真でも元のサイズなので大きく見ることが出来ます。よって、とってもマイナーなプレゼントです。興味を持った人のみへのプレゼントです。ブログを見て分ってくださるとは思うのですが、私の視線は普通の旅人の視線とは違います。一番違うのはポートレート写真がない。私の姿は一枚も映っていません。もうひとつは遺跡や遺物の写真があまりにも多い。ブログを見るとたいていの写真の背景は分るとは思うのですが、それでも分らないのも多いと思いますので、「この写真は何の写真?」という質問権(自らのブログ使ってもオーケー)も与えることにします(^_^;)経験上、100万アクセスピッタリの人はいないでしょう。出来るだけ、近い人ということで、私のこの記事にコメントくれた人で、なおかつ、USBほしいという人が対象です。100万アクセスに一番近かった人は、ブログのホームページ右下にある「メール」機能で連絡してもら送らせてもらうようにします。以上、緊急ですが、100万アクセス記念プレゼント大企画(^_^;)とさせていただきます。
2011年01月28日
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アメリカ人のヒーローコンプレックスは治癒の見込みのない状況まできているのかもしれない。ヒーロー讃歌でもなく、ヒーロー批判でもないこんな作品を見事なエンタメ作品として作ってしまうのだから、既に分裂症の域まで達しているのかもしれない。監督 マシュー・ボーン 出演 アーロン・ジョンソン (Dave Lizewski / Kick-Ass) ニコラス・ケイジ (Damon Macready / Big Daddy) クロエ・グレース・モレッツ (Mindy Macready / Hit-Girl) マーク・ストロング (Frank D'Amico) クリストファー・ミンツ=プラッセ テレビドラマ「ヒーローズフィナルシーズン」はもちろんあれで終わって正解だったのであるが、内容的には全然完結していないのである。そもそも何故彼らが突然超能力を持つようになったかという根本部分の謎解きはついにそのままになって終わった。あの作品は何度も何度もヒーローたちが地球の危機を救うのであるが、彼らはいっこうに報われない。それころではない、そもそも何故地球の危機が起きるかといえば、ひとえに彼らが存在を始めたからだ。まるでマッチポンプのような構造なのである。こういうヒーローモノができるのは、ひとえに9.11の影響なのだと思う。ブッシュ大統領が「悪と戦う」と宣言したときに、みんな無条件に彼をヒーローとみなしてしまった。そのことが国民的トラウマとしてみんなの潜在意識に入ったのである。あのときの純粋な気持ちは間違っていたのか?その回答はなかなか付くものではないのだろう。「間違っていた」という気持ちと「間違っていなかった。結果はどうであれ、悪を憎む気持ちに間違いなどあるはずがない」。一方、アメリカには伝統的にカーボーイ、自警団の伝統がある。この作品の場合は地球を救うヒーローじゃない。あくまでも街の悪役フランコ・ダミコを倒すのが目的なのである。バットマンの系譜ですよね。でも、この映画はヒーローを決して手放しで褒めてはいない。そこが非常に面白い。物語を締めているのは、「ビッグ・ダディ」こと、ニコラス・ケイジの存在だ。どう見ても可憐な少女である子供に超危険なヒーローを強制するのである。見ようによっては非常に複雑な人物を飄々と演じている。この映画を面白くしているのは、ひとえに「ヒット・ガール」の存在である。けっして「キック・アス」じゃない。クロエ・グレース・モレッツ。あの切れの良いアクションと少女の身体のアンバランス。去年見ていたら確実に新人賞だったのに、岡山の悲しさ、正月映画になってしまった。この映画は続編で完結すべき映画である。
2011年01月27日
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最初のころ意識が飛んだせいもあって、協会のしくみや、交換留学生がどうしてあんなに勢力拡大したのかについていけなくて、最後まで乗れなかった。監督 ガース・ジェニングス 出演 ビル・ミルナー (Will Proudfoot) ウィル・ポールター (Lee Carter) ジェシカ・スティーヴンソン (Mary Proudfoot) ニール・ダッジオン (Joshua) ジュール・シトリュック (Didier Revol) 映画つくりの楽しさ、編集のマジック等は良く分かる。子供たちの世界は、こんなにポップだったかなあ。違う気がするなあ。
2011年01月27日
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「この街のこども」「乱暴と待機」を見た日のお昼、久し振りに天神そばを食べた。岡山シンフォニービルはいわば岡山のシンボルタワーであるが、道を隔てた向い側のビル群の間にその存在を主張しているのが、天神そばである。ここのそばはそんなに特別な味がするわけではない。極細麺に普通のシャーチューが五枚ほど入って、醤油スープのラーメンなのである。しかし、これが岡山の代表的なラーメンであるという「識者」は多い。岡山は人ぞ知るラーメン大国であり、人口当たりのラーメン店では全国1、2位を争うのではないか、誰かが言ったとか言わないとか(^^;)。その中で、ずっと老舗の位置をキープしているのは並大抵のことではないのである。私は年数回無性に食べたくなる。ところが、食べたくなったからハイ行こう、と言って食べられる代物ではないのである。なぜならば、土日は休み、開店時間は11:00~14:30という「頑固者」のお店なのだ。開店時間の間は3畳くらいの立地に13ぐらいある席が空くことがない。映画三昧のこの日にやっと食べられたというわけだ。本当はラーメンのあとにこれも岡山大空襲で奇跡的に焼け残った「禁酒会館」で、コーヒーを飲んで二作目の映画を見ようかと思ったのだが、月曜で休み。シネマクレールの二階に行ってこの待合室で、自動販売機のコーヒーを飲んだのでした。まあ、これが私のお勧めする岡山観光コースです。
2011年01月26日
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いちおうあらすじ。郊外の市営住宅に超してきた番上夫妻。失業中の夫に代わり、大きなお腹を抱えスナック勤めを続ける妻のあずさは、近所の山根家を訪れて驚愕する。そこには高校時代に自分を酷く傷つけた許し難い女・奈々瀬が、実の兄でもない英則を「お兄ちゃん」と呼び一つ屋根の下で暮らしているではないか。妙に男の気を引く奈々瀬を見る夫の視線に心穏やかでないあずさは、ある日、山根家で二段ベッドの真上の天井に覗き穴を発見する。監督 冨永昌敬 出演 浅野忠信 (山根英則) 美波 (緒川奈々瀬) 小池栄子 (番上あずさ) 山田孝之 (番上貴男) どうでもいいけど、番上夫婦とあやしげな奈々瀬と英則兄妹が住む市営住宅という名の長屋は、めちゃめちゃ既視感あるんですけど。水島工業地帯のすぐ近くに住んでいる私として見慣れた住宅です。確かにああいう住宅はいろんな事情を持つものが吹き溜まりのように流れてくるところだと思う。あ、私もあのような作りではないけれども、天井に鼠が運動会するような長屋に住んだことがあります。美波という役者を初めて見たが、非常に魅力的です。演劇畑にいたそうだが、少しトウの立った個性派美形女優としてこれからいろんな映画にチャレンジして欲しいと思います。作品としては、観客が五人しかいなかったのが、響いたのかもしれないが、観客の受けがいまいちでした。すべったのかもしれない。
2011年01月26日
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『……なんか、街が新しい……』監督 井上剛 出演 森山未來 (中田勇治) 佐藤江梨子 (大村美夏) 津田寛治 白木利周 中川光子 1月17日に観にいきました。なんか、見ておかなくちゃいけない作品のように思えて。神戸には何の義理もありません。確かに、岡山での未明の小さな長い揺れはまだ覚えているし、次第と被害が分かっていくその日一日のことは良く覚えている。仕事の「応援」で15日後の神戸には行ったし、その数年後には何回かに分けて神戸を歩いたりはした。けど、それで人生が変わったわけでもない。ただ、全然影響がなかったわけじゃないと思う。『それでも、行かな だめなんです』佐藤江梨子演じる美夏が呟くように、人はそれぞれの形で、神戸に何かを置いてきたのかもしれない。数年後に行ったときに、私も「街が新しくなっている……」とびっくりした覚えがある。中学生だった美夏が15年後にやってきて、呟くようにその新しさに違和感を覚えた。そのことを忘れていた。去年NHKがテレビ放送して、反響の大きさに再編集して劇場版にしたらしい。あのときの小学生が、中学生が、もうこんなになっている。そのことだけを確かめただけでも、映画という「体験」は意味があったのかもしれない。遠山未来も佐藤江梨子も実際に震災を体験したらしい。そのためだけではないだろうが、実に自然な演技だった。特に佐藤江梨子の演技は素晴らしかった。
2011年01月25日
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2010.11.7(金海)国立金海博物館に行きました。三度目の訪問です。できるだけ写真も撮ったのですが、照明が暗くて鮮明なものがありません。ショックだったのが、私のブログのプロフィールに使っている「龍と亀の合体した神様」の模型(私は韓国のガメラだと呼んでいる)が撤去されていたということです。韓国では伝説上の動物ですが、悪者ではないんですよ。……ということを確かめに来たわけではないのです。国立博物館だったら、教えてくれるでしょ、ということでやってきたのです。でもそれは後回し。とりあえず展示を楽しみます。国立博物館は、古いということあって、デジタル機器はほとんどないですが、伽耶地域の各地域の代表的な遺物が展示されていて、贅沢です。これは侠川玉古墳群田出土の馬鈴。ちょっと見難いけど、文字や絵の描かれている土器はちゃんと出土している。慶尚大学の先生、話がちょっとちがうやん。ちなみにこれは普州大坪里遺跡から出てきた彩文土器です。青銅器時代の遺跡からは良く出てきます。これは勒島遺跡から出てきた板状鉄斧と鹿角製柄部刀である。よく覚えていないけど、この博物館で40分ほど瞑想して(寝て?)、小説の構想を練ったのを覚えている。よく覚えていないけど、主人公はこの金海の町で大事なことを学ぶことだけは外すことはできない。よく覚えていないけど、時代はやっぱり二世紀の初めしかないかな……ということになる。と、いうことはキムスロは100歳近いおじいちゃんか……。そんな瞑想?をしに来たのではなく、聞きたいことがあってきたのでした。これは鉄鉱石と製鉄のためのふいごの写真です。「鉄の産地はムルグムにあるらしいが、果たして尋ねることはできますか?」さすがに国立博物館、日本語ができる学芸員がいるだけでなく、質問に対してもインターネットを駆使しながらもなんとか答えてもらえた。「確かに鉄鉱石は梁山にもあるが、洛東河を渡って金海方面にも鉱山は延びているそうです。つい10数年前ぐらいまで鉱山があって、今は閉めています。」前人未到の山みたいで、どうやら訪ねるのは無理みたいです。諦める。(ムルグムはしかし、鉱山の観光資源化は検討されているらしい)下の写真は製鉄過程です。ここから行ける青銅器時代の遺跡ということで、茶戸里(タホリ)遺跡の行き方を詳しく聞いた。明日の午前中はそこに行く。「韓国の博物館は大きくて、最新のデジタル技術を使い、分かりやすく金を掛けたものが多いですね」と大坪里博物館のことなどを思いながら褒めてみると、この学芸員(女性)は、大成洞の学芸員と違いどうも高学歴なのを鼻に掛けているのが見え見えで「可愛くない」のです。「国の方針として民族の歴史を知らせ無くてはならないということになっていて、予算は出るのです。でも今の若者はただ展示しているだけならば通り過ぎるだけになってしまう。昔は博物館でメモをしている学生は多かったのに、今はほとんど見ない。今はどんどん馬鹿になっています」彼女は今の若者にそうとう批判的である。それはそのとおりだろうと思うのだけど、言外にデジタル技術を導入していない国立博物館を擁護しているだけとも思えなくありません。でもまあ、いくら民族主義が強いと言っても、この文化政策には賛成です。「(朱蒙なんかは)テレビの時代劇だということで笑いながら見ている。彼等はまるで朝鮮時代のような服装をしている。中学生とかが見学に来て解説するときには、テレビの時代劇を見て学習する人がいるけど、あれをそのまま信用しないでください、とは言っている。」私も建物が青銅器時代も朝鮮時代も同じなので、それはないだろうとは思っていた。国立博物館の隣には子供用の体験施設を作っていた。確かに文化施設には金を掛けている。民族主義の表れであろうとも、文化の発展にはリアルに自らの歴史を知る必要があるというのは真理である。これはぜひとも某政党も真似をして欲しい。すっかり暗くなった。歩いて宿方面に帰る途中、お洒落な喫茶店があったので入ってみる。韓国では押しなべて本格的なコーヒーは高い。ここで一番安いコーヒーはエスプレッソ。4000W。ちょっとした食事と同じ値段である。韓国の食堂の値段が安すぎるのか。何故このような値段体系になるのだろうか。これはインテリアではない。暖房機である。上の傘から輻射熱が来て、けっこう暖かい。韓国には珍しいデザインが時々ある。宿の近くでカルビタン(焼酎つき)を食べた。いまいち。朝食1,300 バス2,000 宿泊35,000 昼食5,500 本15,000 コーヒー4,000 夕食9,000合計 71,800w歩数 22,505歩これでしばらく韓国旅行レポートを一休みします。この連載の間に見た映画や企画、本がたまったせいです。これまでの連載で、旅の約三分の一がすみました。遺跡探訪は旅の前半でほぼ終わって、そのあとは気楽な韓国探訪になって行きます。早いうちに連載を再開したいと思います。
2011年01月24日
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2010.11.7(金海)大成洞(テソンドン)古墳群は釜山の福泉古墳群と同じく末山里古墳のような円墳ではありません。竪穴式の(木槨や石槨の)墓が丘の上に続いています。福泉のように高い山ではなく、ちょっとした丘にあるところが特徴です。丘の北のはずれにこの前来た時には気がつかなかった展示施設があったので入ってみました。そしたら、墓をそのまま移設保存展示していました。この丘は時代を経て墓の上に墓を作っているようなのですね。奥にある大成洞博物館ではきちんとしたジオラマがあって、そちらを見るとどれも殉死した(された?)従者が一緒に葬られているところが異様です。この博物館には、日本語が堪能なアジェンマ(おばさん)のガイドがいました。いや、大学の専攻は日本語学科だったらしく、今一生懸命考古学の勉強をしているとのことでした。いろんな専門的な質問にはあまり答えてくれませんでしたが、ついつい私の問題意識を語り始めてしまったり、私の疑問に「どうしてだろう……」と素直にあいづちを打ってくれたりして気持ちよかったので一時間以上もおしゃべりをしてしまいました。写真は木槨墓を作っている過程です。彼女は日本の埴輪の起源をいまだ「殉死者の代わりに始めた」と信じていました。日本人でもまだ居るかな?そういうことを知っていること自体彼女がしっかり日本の歴史を勉強しているという証拠なのですが、それにしても彼女の教科書は古い。写真は日本と鉄の交易をしている場面のジオラマです。大阪の船の埴輪を参考にして作ったそうです。現在では故近藤義郎教授が唱えた「継承祭器の特殊器台が変化して古墳の周りに置くようになり、それが変化して埴輪になった」という説が定説になっている。「えっ、そうなの?」「疑問に思うのならば、インターネットなどで調べてみて」「それじゃ、特殊器台という漢字を教えて」……というようなやり取りもありました。ここの博物館の展示は分かりやすいです。正直、国立博物館よりはよっぽど分かりやすい。ジオラマが多いのです。流石に大坪里青銅器博物館のようにはデジタル機器が使われていない。ここ6-7年の韓国デジタル事情がこういうところにも現れているのかもしれません。製鉄のジオラマも分かりやすく作られていました。もっともこのジオラマの元になった製鉄遺構は何世紀の遺跡なのかが分からない。木槨墓が作られると、巫女がその上でなにやら祈っています。王の継承儀式でしょうか。土器を割って墓に埋めるという儀式をしていたようです。当時の兵隊組織の服装を七種類ぐらいに分けて展示していました。これも根拠は何なのか分かりませんが、4Cだとしたら、なかなか重装備です。騎馬兵がいたのは確かなのでしょうが、そうだとしたらなかなか手ごわいでしょうね。ここの図録は思いもかけずに日本版でした。解説文で怪しい日本語もありますが、伽耶文化を知るには詳しい解説があってお得でした。博物館をでると、こんな建物がどーんとあって、一応中に入ってみました。そしたら、広島の被爆者の記念館みたいに名前がずらーとあって入り口のところに大きく「美しい名前を金海は永遠に忘れません」と書いている。うーん、良く分からないけど、全国の金海金氏の記念ドームみたいなものなのかな、とはあとで写真を見ながら思ったことです。これは明らかに寄付で建てられた建物だろうけど、その力のすごさに少したじたじです。
2011年01月23日
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2010.11.7(金海)首露王陵である。韓国ドラマ「キムスロ」さんの墓ですね。まるで昔からこんなりっぱな建物が周りを巡っているかのようであるが、2002年ごろに来た時には王陵だけがぽつねんとあったのを私は知っている。次に来た時には大きく変わっていて、まだ建築中でした。だからこの写真の門も石垣もまだ築6-7年です。さて、だんだんと韓国の歴史にも詳しくなってきた私は、この親切にも日本語で書かれている説明版を読んでおやおや、と思ったわけです。どこがおかしいか。読めますか。ここに書いているのは後世の歴史書「三国遺事」で書いていることをまるで歴史的な事実のように書いているのです。日本で言うと「古事記」で神武天皇の墓を説明しているようなものです。だからAD42年の誕生とか、AD199年に158歳でなくなったとかは全く怪しいものです。これが首露王陵だという根拠は唯一「平地にあること、領域が設定されていた点」のみみたいです。朝鮮時代で整備されて現在のような形になったということなので、最初から円墳かどうかというと、疑問です。大成洞古墳は竪穴式石室あるいは木槨墓です。よって初期の王陵も当然竪穴式木槨墓でしょう。と、いうようなことをこの後行く国立博物館の学芸員の方に聞きました。彼女によると「伽耶地域で円墳を造り出したのは新羅の影響が大きい。だから初期の伽耶の国である金海の古墳群は円墳ではないのです」とのことだった。(つまり暗にこの王陵の円墳としての根拠はないと言っていました)首露王陵はさすがに天皇の墓と同じような位置づけなのか、発掘調査はされていないらしい。もしこれが首露王陵だったとしても、円墳ではなかったことは確かでしょう。竪穴式木槨墓は日本の初期古墳に採用されている。いや弥生晩期の楯築遺跡も変形円墳だが、埋葬形態は木槨墓だった。一方で、金海の王族の墓に埋葬されていた遺物は日本の初期古墳群から出ていないと記憶している。すくなくとも楯築からは出ていない。墓を作る技術は持っていても、伽耶式の王族の祭を継承することは良しとはしない人物が楯築の王の主である。金海の武士階級が吉備にやって来たのではないか。そして二世紀後半金海の墓以上の巨大な個人墓を作った。その流れが箸墓古墳まで及ぶのではないか……。すみません。話がほとんど自己満足な妄想の世界に入っていったので元に戻します。遅い昼食を食べました。首露王陵前にある食堂で、テジクッパ(豚汁飯)。以前も金海で食べたときに出てきたのであるが、ここで副菜に生のたまねぎとししとうが出てくる。それをコチジャンみたいなお味噌(ここの店はかなり甘い。店によってこの味噌の味を変えているのかもしれない)をつけて食べる。美味しかった。公園入り口に許黄玉(キムスロのお后)の像があった。最近できたのだと思う。やはり三国遺事を根拠にして作っている。33年~189年のお人。昔の王族はどうしてこうも長寿なのだろう(「古事記」もそうです)。阿羅陀国(インド?)から来たということになっている。この公園を少し北に行くと大成洞(テソンドン)古墳群の上がり口があります。
2011年01月22日
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2010.11.7(金海)金海は、故ノムヒョン大統領の故郷ということもあるのか、近年急激に開発され出したけれども、普通の道端にまだこのように菊の鉢植えなどを置くような所がある。中心地もまだ田舎の雰囲気を残しています。土器探しで我を忘れて興奮し、すっかり時間を食ったので今日は金海泊に決めました。早く宿を決めようと思って中心地の韓屋体験館に行くと、中学生の団体がいて、伝統染物の布をキャーキャー言いながら乾かしていたり、矢を焼き物の筒に投げ入れる(?)という遊びをしていました。素泊まりで5万wならばここに泊まることも考えたのですが、事務所で資料を見ると、このような体験コースがセットで付いてきていて、大変お高いのですごすごと出て行くことにしました。ときはまさに実りの秋。韓屋体験館を出た道端には地方からトラックがやってきて、次々とこれらの農産物を駕籠売りし始めました。これはホバクコグマ。かぼちゃサツマイモ、とでもいう種類のサツマイモらしい。大きいです。(値段は付いていなかった)すぐ近くの密陽はりんごの産地だったはず。この地方でもりんごを沢山作っているのだろうか。この駕籠5000w(400円)は安いと思います。一人旅、しかも毎日宿を代える私ですので、とうてい買うことはできません。ふらふらと体験館隣の民俗博物館に入った。前来た時には月曜で休みだったのです。左はパントル(パン焼き石)、おそらく二日前に咸安で食べた「昔なつかし菊花プルパン」の大きいタイプの焼き器だと思う(前の記事では国花プルパンと書いたけど菊花の間違いでした)。アルミニウムの弁当箱と一緒に軍隊用の飯盒などもおいてある。飯ごうごはんはどうやら韓国の古い男にとっては郷愁を誘うものらしい。釜山の学生街でそういうことを主張するランチを食べたことがある。昔ながらの「とっぽん便所」も再現していた。トイレの形は45年前の我が家の便所とよく似ている。ただし、私のところは肥桶は外にあって外から取れるようになっていたように思う。首露の墓の前に、この前来た時にはなかった観光案内所があった。歩いていけるモーテルの場所を聞くことにした。以前きたときに墓の料金所で聞いたときにはモーテル街は遠く離れたところにしかないという説明で、そこまで二時間かけて歩いていったことがある。今回はそんな愚は犯したくなかった。歩いていけるところで高くても3万5千w以下という条件を言うと、少し無理をして交渉してくれて4万Wのホテルを5千Wおまけしてもらった。ところが、書いてもらった地図がいいかげんで、それから一時間以上探し回ることになった。結局金海では宿は簡単に見つからないということか。この写真はそのとき通った市場の値段。野菜は決して安くはない。このレタスなんか二個240円だ。韓国の感覚からしたらとっても高いだろう。モーテルを探してウロウロ歩いていたらハルモニ(おばあちゃん)が私を呼び止めた。どうやら段差があって手押し車が前に行かないらしい。ひょいと持上げて道路に下ろしてあげる。「ありがとうよ」という感じでさっさっとおばあちゃんは向こうに歩いていった。カメラが間に合わなくて、車の右に上半身だけ写っているのがおばあちゃんです。もちろん普通のことをしたのだけど、日本のおばあちゃんのことを考えたのです。日本のおばあちゃんは道ゆく人にこういうこを気軽に頼めるだろうか。やっとモーテルに着いた。何人もの人に場所を聞いて見つけることができた。歓楽街にあるモーテルなのだが、さすがに本来は4万w。綺麗だし、インターネットはできるようになっている。やっとリュックサックを置いて、金海の町に繰り出すことにした。
2011年01月21日
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11月7日(日)晴れ8時のバスで金海に向う。切符はこれである。⇒の左が釜山で、右が金海という意味である。金海と書いて「キメ」と読む。最初の文字が「金(キm)」で次が「海(へ)」という漢字に対応している。連音して「キメ」になるのである。その右にくっついているのは、隣接しているスーパーの宣伝なのであるが、今回つくづく見てこれが「アップル」というファッションアウトレットの店だということを初めて知った。わりと大型のアウトレット店なのであるが、韓国でも出来ていたんだと認識を新たにする。朝飯はアウトレット店前のファミリーマートで買ったお握りとコーヒー。セットで買うとコーヒーが少し安くなる。金海バスセンターにはやっぱりコインロッカーはなかった。韓国ではロッカーは本当に少ない。金海は三回目である。だから本当は此処は半日で済ませるつもりだったので、バスセンターに荷物を置こうと思ったのだ。結果的に半日ですむということには(思いがけないことが多く重なり)ならなかったのである。大判の図録が五冊入ってぱんぱんに張ったリュックサックを背負って先ずは歩いて鳳凰洞(ポンファンドン)遺跡に向う。以前来たとき、ここの山には登ったが、その周りは整備中だったので行かなかったのである。上の写真は鳳凰貝塚の整備前の写真。これは整備後の写真である。今回私はこの山の下側をぐるりと歩くことにした。鳳凰洞遺跡周辺はいまや遺跡公園になっている。この一帯は韓国で(一番大きい?)貝塚だったので、もしや、と思い斜面を削ってみるとびっくり!!!一発でこんなものが出土した!!山に上がる階段の下で出土したのではあるが、これは明らかに韓国土器特有の甑の「とって」の部分です。つまり(おそらく)このような土器のとってだと思われる。(国立金海博物館より)国立金海博物館ではなぜか独立の展示までしていた。めずらしい出土物ではないと思うのだが何故なんだろう。そのあと場所を移動して公園から離れて民家の畑の前を歩いてみた。そしたら、耕すと畑から続々土器が出てくるのでしょうか、溝に沿って土器らしきものがたくさんうち捨てられています。この民家では畑の横にこんな土製の竈を作っていました。日本ではむかし庭で秋刀魚を焼くことはあるけど、煮炊きをする竈を置くことはあったろうか。ぐるっと南を回ると同じ貝塚のはずだが、このあたりは会?里(ヘヒョン二)貝塚という名前になっている。貝塚展示館が出来いました。そこでは、土器の展示はなくて、貝塚の土層をそのまま展示していました。こんな感じで、ここは本当に広範囲にしかも深く何百年にも渡って貝塚の層があるのだと分かります。普通に歩くだけでいくらでも土器を拾うことが出来ます。この貝塚は説明文を読むと、1907年、日本人の今西龍より発見され、戦前だけでも八次に渡る学術調査が行われたらしい。そういう関係からか、日本文の説明もあるし、非常に考古学的な説明文になっている。写真は1914年の鳳凰台の姿。展示館の横の山に登る坂の斜面を探してみると、動物の骨がありました。草食動物のような骨でした。結局、この日拾った土器、遺物は以上の通りです。いや……本来、日本に持ち帰ってはいけないものです。日本の文化財保護法では拾ったものであるにせよ、関係者に渡さなくてはなりません。おそらく韓国でも同様の法律があるはずです。分かっています、分かっているんですが、このあと行った大成洞古墳博物館の学芸員の方にも見せたけど、「あっ、甑の土器だねえ」とか「牛の骨かしら」という感想だったんですよ。そのとき、子供も「これ、土器かな」と言って土器を持ってきて、確認すると喜んで持って帰っていました。お咎めはなかったので、まあ大目に見てやってください。
2011年01月20日
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2010.11.6(蔚山・釜山)博物館の前には、実際の福泉古墳群が並んでいる。4C-6Cの古墳群なのだが、なぜか咸安やこれから行きたいと思っている高麗の池山洞古墳群のような円墳ではなく、丘陵に竪穴式の墓が並んでいるのである。総て竪穴式の木槨墓か石槨墓である。竪穴式式の墓は朝鮮半島のほうが日本より早かった。そして3世紀半ばから伽耶地方から大型の石槨墓も始まる。大和で竪穴式石室が始まるのは、三世紀末。一方、百済の古墳は横穴式石室である。新羅のそれは積石木槨墳である。これは大和政権が明確に伽耶の影響下で発生したことを示しているのではないか、という説もある。(私は木槨墓は新羅からもでているのだから、そうとは言い切れないと思っている)前回時間がなくて歩かなかったので、初めてこの王墓の丘を散策した。中央にあるドームの中には、木槨墓(54号墳)と石槨墓(53号墳)が発掘当時そのままで展示されていた。特に54号墳には「殉死」の跡が残っていた。4Cの朝鮮半島で殉死の風習があることにショックを覚える。明らかに倭とは違いがある。日本では殉死はなかったはずだ。そういえば、韓国では埴輪を墓の周りに立てる習慣はないようだ。(殉死に付いては他の遺跡でまた考えます)青銅器文化時代から王権が育ち、個人の威信を高める様々な装置が発生し、殉死さえも見せる朝鮮半島。弥生の中期から王権が育ち始め、後期にいたって近畿まで広がるも、朝鮮半島の王としての威信財はその初期段階ではほとんど伝わらずに、共同体的な祭の古墳を作り出した日本。朝鮮半島と似ている部分とかけ離れている部分。それが何故起きたのか、そこの部分がとっても面白い。今日の遺跡めぐりはこれで終わり。釜山に泊まることにした。沙上駅にもどり、マックで日記を書いた。やっぱり若者が多い。そのあと、モーテルに泊まろうかどうしようかと思ったが、土曜日なのでモーテルが5000w増しになる可能性がある。昨日のビチモーテルのとなりの旅館にした。25000wのわりには部屋は綺麗だ。バスルームも比較的綺麗だ。これは当たりだった。旅館選びはつくづく「博打」だと思う。丁と出るか、半と出るか。ビチモーテルの前、沙上のヨンナムジャン旅館、覚えておこう。バスターミナルのそばという絶好の立地。これからの釜山の定宿の候補の一つだ。昨日お金を使いすぎたので、今日の夕食はコンビニで済ませることにした。チンロとC1とこの「チョウンデイ」を飲み比べてきたけれども、このチョウンデイが最も美味しい。しかしツマミは失敗した。安くて美味くて腹が膨れるツマミはないものか。コインロッカー1,000 バス2,000 タクシー10,000 昼食6,000 バス1,700 バス1,700 マック2,000 夕食3,750 泊まり25,000合計 52,150w歩数 11,356歩
2011年01月19日
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2010.11.6(蔚山・釜山)検丹里遺跡は谷あいにある盆地みたいな平野です。近くに小さな川が流れていていました。このあたりは沼地一歩手前の原っぱなので、そういうことが稲を作るのに適していたのかもしれません。バスで来なくて本当によかった。たぶん住民もあまり場所を知らないだろうから、看板さえないのだから、たどり着けなかったかもしれない。タクシーで行って返ってメーターは一万wと少しになっていました。普通ならば、2万w札を渡して感謝の印に「釣りは要らないよ」となるところかもしれませんが、貧乏旅の私は決してそんなことはしない。二万w札を準備していると、タクシーの運ちゃんが「一万wでいい」と言うではありませんか。タクシーではさんざん嫌な思いをしてきた私には忘れられない一瞬になりました。さきほど、「遺跡まで何分かかるか分からんよ」と言っていた同僚のタクシーの運ちゃんも車を降りたところにいて「やっぱり何もなかっただろう」とか言ってきていた(見たい)なので、「とっても面白かったです!ありがとうございました!」と礼を言うと、私を送ってくれた運ちゃんはにこっと笑ってくれました。昼食はせっかく来たのでウンチョンですることにしました。店は牛肉料理ばっかりです。産地なのでしょう。ちょうど昼飯時間でしたが、人が多いところを探して入りました。一人なので、焼肉は無理だといわれました。「味噌チゲか?キムチチゲか?」と聞くので、高いほうのキムチチゲ(キムチ鍋)にしました。なんと副食が9品も付いてきました。この地方は副食が多い地域なのかもしれません。しその葉の味噌漬けみたいなおかずをのぞけば、全部とっても美味しいおかずでした。しかもチゲの中にしっかり牛肉のモモ肉らしきものも入っており、肉は期待していなかっただけにとっても嬉しかった。これで6000wならば安い。昨日の咸安の田舎味の昼食が60点だとすれば、今回は100点です。バスで釜山に戻り、一号線でトンネ駅まで戻り、福泉(ポクチョン)古墳群に行ってみる。二度目だが、以前は時間がなくて駆け足で回った。前回はタクシーを使ったが、今回は行きも帰りもバスを使ったのでたぶんタクシーより6000wくらいは節約できたと思う。(その分駅の事務員にバスの乗り方を聞いて、100m先にあるバス乗り場まで付いて来て貰ったり、帰りはバス待ちが20分もあったりはしたのだけれども)今回の旅は新しいカメラに買い換えた。前のカメラのバッテリーがすぐに切れるようになったためだ。前々回初めて買ったデジカメは3万円以上した。前回のデジカメは2万円近くした。今回のデジカメは12000円ほどである。ああ、それなのにそれなのに、性能はだんだんと良くなっているという不思議。……ということを言いたいのではなくて、前回のデジカメは1Gのカードを5000円も出して買ったのだが、今回は2GのSDカードがおまけで付いてきているのである。2005年の22日間の韓国旅行の時には旅の後半はカードの容量がなくなってきて、それまでの写真を幾つか消去しながら、撮りたい写真を極力抑えて1000枚以上を撮った。今回は2000枚以上の写真が撮り放題だということになる。それでもうまったくストレスなく、博物館の展示品は条件が許す限りは思いっきり撮っている。特にここの博物館の展示品には、すべて英語日本語中国語の解説が付いているのである。考古学博物館ではそれは少ない。……(ということでいよいよ本題)それで幾つかを選んで解説文と展示品とを交互に紹介します。私の2000枚の写真のうち六割くらいは展示品の写真だけど、それをそのままブログに載せても皆さんにはちんぷんかんぷんだと思うので(これでも)極力載せるのを抑えていたのです(^^;)。でももちろんここに載せたのは撮った写真のほんの一部です。この博物館の図録は見せてもらったのだけど、写真しかなくて解説がなかったので買わなかった。図書館では発掘報告書がずらりと並んでいたのだけど、これは時間がなくて読めなかった。いや、もともと読めないのだけど、時間があれば眺めるだけでいろいろと発見はあったはずなのではある(検丹里遺跡の報告書にあった地図はここで見つけました)。企画展示では「靴」の歴史をしていた。こちらは日本語解説はなかった。これは3-4世紀の木の靴(下駄?)だそうです。日本でもおなじみの藤木古墳から出てきた靴とそっくりの百済の王様の靴(公州)とかあって、楽しいものであった。
2011年01月18日
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11月6日(土)晴れ沙上駅に荷物を置いて、釜山の北のバスターミナル・ノポドンへ。そこで今日の目的のひとつである検丹里(コムタンリ)遺跡の行き方を聞きました。釜山大学の研究者から大体の位置は聞いていたのだが、彼女たちは車で移動するので旅人の行き方までは分からなかったのである。観光案内所に行って聞きます。例によって観光案内所のアガシは聞いたことも無い地名だという。インターネットでも検索できない。どうやらウンチョンというミョン(面=町)にあるということぐらいしか分からない。私は遺跡の場所は分からないだろうとしても、検丹里という村への行き方ぐらいは直ぐ分かるだろうと期待していたのだが、甘かった。しばらくして役場に電話してくれたらしく「1127番か1137番のバスに乗って蔚山(ウルサン)のウンチョンミョンサムソユッキョ(ウンチョン面事務所陸橋)まで行って、そこから反対方向のコヨンコンタンかチュネ大学方面のバスに乗ってチュネ大学の次の停留所で降りたら10分くらい歩けば検丹里遺跡に行けるそうです」という情報を貰った。すぐに場所がわからなくて不満そうな顔をしてすみませんでした。後で考えると、出来うる限りの一番的確な情報をもらったと思う。普州でも感じたが、中核都市の観光案内所には必ず日本語が出来るアガシがいるし、彼女たちはとても優秀だと思う。(と、言う感想はその後少し修正されるのであるが、それはまた別の話)さて、陸橋でバスを降りて反対方向から来るバス乗り場に行ってみたが、そこの待ち客は「この停留所ではそんなバスは来ない」という。さては違う市内バスの系統があるのだと思い、しばらくウロウロしたが、写真にあるとおり、完全に田舎町の道で両側とも路上駐車し放題、停留所なんてどこにもない。仕方ないので、タクシーに聞いてみる。「検丹里遺跡は知っている」と最初言うので何分かかるのかと聞くと、「そんなことは分からない」と言う。(ぼったくるつもりか……)不安に思ったのでこのタクシーはやめて通りがかりのタクシーに聞いてみる。GPSや電話で聞いてくれたが、「分からない」という。もう一度、最初のタクシーの運ちゃんが車を洗っていた地元のタクシー待合所らしき所に行って、あの運ちゃんが居なくなるのをじっと待って他のタクシーの人に聞いてみる。「知っているよ。5,000wくらいかかる。」とあっさり言う。決めた!!でもそのあと、いろいろと言い出した。やっぱり行っても何もないということを言っているのだと思う。掘ってどこかに持っていったという。「知っています、知っています。大学へもって行きました」この何も無いところを見に行く、という感覚は、日本でも理解されないのだから当然なのだ。10分ぐらい走って「さあ、ここだ」と示されたのは、本当に何も無い、掲示板も無い原っぱだった。私は騙されたのであろうか。そうではなかった。そうではないことは私の第六感が教えてくれていたが、後で確かめることが出来た。その後、この日の午後、福泉古墳博物館の図書室で発掘報告書を見て知ったのであるが、運転手が連れて行ってくれたのはこの写真の6番の場所だったようだ。彼は正しかったが、本当は9箇所にわたって発掘されていたのである。(今度行くときは行きだけタクシーで行って、この地図を元に遺跡探索して地元の人にバスの時間を聞いて帰るという方法がある)検丹里遺跡は日本では非常に良く知られた遺跡で、弥生時代の早期に対応する。日本に稲作技術が渡ったころの標準的な遺跡なのである。つい最近まではプヨの松菊里遺跡とこの検丹里遺跡ぐらいしか弥生時代に対応する遺跡としては知られていなかった。この遺跡の原風景を確かめるということの意義はこの辺りにある。原っぱにはこんな花が咲いていた。日本では見たことのない花です。
2011年01月17日
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2010.11.5(咸安・釜山)その後ぶらぶらと歩きながら地下鉄の駅まで戻り、西面(ソミョン)のロッテデパートまで行って、この旅最初の映画を見ることにしました。ここの映画館は病院のように番号で呼んで注文をとるようになっています。並ばなくてもいいけど、不効率のような気がします。今年の一月とは打って変わって同時に6本もの韓国映画が同時上映されています。一月の時には一本しかありませんでした。なにか法律が変わったのでしょうか。女優のコンヒョンジンとイケメン俳優キムヨンピルの「ソワハムケヨヘガヌンポブ」という映画にしました。しっとりとした感じの作品はこれしかなかったので。その前に一階下のロッテリアでワッフルコンビセットを頼んで時間待ちです。他の上映作品は上記5作品(一作品だけは次回に説明)でした。果たして日本にくるのはこのうち何作品あるでしょうか。たぶん2作品がいいところなのではないかと思います。映画の買い付けをしている人に聞くと、「韓国映画は非常に高い」のだそうです。この映画の題名をあえて訳すると「牛と一緒に旅する掟」とでもなるのだろうが、映画を見て、ポブを掟と訳するのは良くないと思いました。辞書にはほかには仏教用語で《物心善悪のあらゆる事象》=仏法僧の法を表すのだとあった。この映画では、しきりに仏教のテーマが出てくるので、おそらく後者を意味しているのだろう。ロードムービーである。田舎道がふんだんに出てきて、場所は良く分からないけど露天温泉まで出てきて私的には楽しめました。田舎の農家の長男が仕事に嫌気がさして家の大事な牛を売りに出す。市場では思った値が付かないので他の市場を目指す。そこで昔の恋人や住職やいろんな人と出会い、なにやら「何か」を掴むという話である。ラブシーンもあるが、最近の韓国映画にありがちな激しいものは無い。それどころかものすごく微妙な恋愛関係を描いている(ようだ)。最終的に主人公が意外な行動を取るのであるが、仏教的にあれでOKなの?と言いたくなる。どうも恋愛映画というよりは哲学映画に入る作品である。地味な作品なのか、金曜の7時20分の上映なのに、たった6人しか見ていなかった。日本ならまだしも、韓国の映画館でこんなに少ない観客数は初めての経験です。映画が跳ねて西面の繁華街に出て食べれるところを物色しました。安い食堂でサムギョプサルを頼みました。ともかく韓国に来た以上は一度は焼肉を食べたかったのです。ところが、韓国ではヤクニクの値段は一人前の値段しか書いていないが、ほとんどは2-3人前からしか頼むことが出来ない。そこで、ここの一番安い豚肉が2,000Wということに目をつけて頼んだわけです。思ったとおり、「三人前からだよ」とのお達し。いいですよ。それでも6,000wです。肉を焼きだしてから写真を撮ったので、本当は写真の肉の倍の量です。軟骨が混じっている最低ランクの豚肉ですが、野菜や味噌と一緒に食べるこの焼肉がとっても美味しい。味を確かめた上で、焼酎も頼みました。向こうの席では、良く韓国ドラマで出てくる「女性が焼酎を何本も開けてくだを巻いている」という場面に。店中に響き渡る大きな声でなにやら男性に悩みを打ち明けているようです。女性がトイレに立ったとき、男性は私のほうを振り向いて「うるさくてごめん」と言った(ようです)。私は、ぶるぶるっと首を振りました。サンドイッチ1,500w チンジュ→ハマン3,600w タクシー3,600w 博物館500w 昼食6,000w 国花プルパン600w ハマン→釜山4,600w 宿泊35,000w 映画8,000w ロッテリア3,000w 夕食9,000w 地下鉄カードチャージ5,000w合計80,400w歩数27,607歩
2011年01月16日
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2010.11.5(咸安・釜山)咸安バスセンターの前で「昔懐かしい国花プルパン」というのを作っていた。作り方がたこ焼きと似ているが、それよりも餡の入った小さな今川焼きでしかも油菓子であるとという感じである。七個600wというので初めて買ってみた。美味しかった。バスで釜山に戻りました。沙上駅前の同じビチモーテルに泊まることにしました。三時にチェックインして急いで四日分の下着を洗います。明日の朝までに乾かさないといけないので、早くチェックインしたときがチャンスなのです。地下鉄に乗りました。地下鉄の中の広告にこういうのがありました。医者や看護婦や患者が笑顔で写っていて、「政府と民間は助け合います」と書いています。官民一体で医療を行なおうという宣伝のようです。李明博大統領の方針なのでしょう。海雲台方面に行き、観光地図に説明も無くぽつんと載っていた「釜山映画スタジオ」というところを目指そうという試みです。詳しい地図ではないので、駅の地図が頼りだったのですが、見当たらない。とりあえずは外に出て、うろうろしていたら、市立美術館の周りではこんなオブジェがありました。こんなのもありました。韓国の彫刻は、肖像以外はいちようにこのような極めて抽象的なものになっています。街の片隅に「ソウルオリンピック記念南北平和統一祈願詩塔」というものがありました。現在は隣は何か工事中です。広い場所なので、オリンピック会場だったのでしょう。ソウルオリンピックに対して、南北統一への願いがあったことが分かります。詩は漢文でしたが、ところどころ読めない漢字があるので写すことが出来ません。「祖国の平和と統一を江山南北城で祈る、世界万民このオリンピック大会に雲のごとく集まり、歓声を挙げる」という意味でしょうか。あまり上手い詩とは思えません。漢字で書いているだけで有難がるようなところが韓国にはあるように思えます。迷いに迷った末にたどり着いたら、週一度(金曜日午後2時)、予約したものだけが見学できるというシステムになっていました。だから観光案内の看板に載っていないんですね。映画スタジオはこんな感じです。転んでもただでは起きない私、しっかりと「観光」をします。スタジオの壁にはおそらくこの映画会社の歴代ヒット作品がずらりと並んでいるようです。なぜか、日本の「着信アリ」と「HERO」が「チング」「グルエム」や「シークレットサンシャイン」と並んで飾られているのには、びっくりするやら、苦笑するやら。たぶんこの会社の配給作品なんでしょうが、こんな作品が韓国でヒットしたことに一抹の寂しさを覚えるのは私だけではないでしょう。ここの駐車場にあった車を次々と写したのです。もしかしたら、スターが来るかもしれないという期待もあったのですが、映画関係者の車に興味があったということもあります。いい車もありましたが、普通の車もありました。特筆することも無いので、このロケハン用の車だけ紹介します。
2011年01月15日
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2010.11.5(咸安・釜山)咸安博物館の隣には、八号墳に登っている中学生がいました。先生に怒られないのかな。この博物館では武具がそのまま出たということで、馬に乗った武士の復元が目立っていました。鉄をあれだけ着せて馬も重かっただろうと思います。対象の武具でしょうか。墓は高句麗式の竪穴式木槨墓から石槨墓に移ります。ここの円墳はこのように墓を作ります。日本の前方後円墳で竪穴式の場合、ほとんどは墳丘の上の辺りに葬られているということでは、そういう意味でも朝鮮の王と日本の王は系統が違うのだということが分ります。ここの古墳の出土品で有名なのは、四号墳から出土した車輪型土器(5世紀)です。土器としては確かに精巧な造りです。また、ほかに例を見ない造りでもあります。でも驚くほどではありません。青銅器時代の支石墓もここの博物館の庭に移築されていました。ここの地方の支石墓はわりと背が高い。今度は歩いてバスセンターまで帰りました。昼食はカルビタンにしました。田舎っぽい味でした。この店で、キリスト教会の人がミニ集会(?)を開いていました。男の人が牧師で、まずみんなで賛美歌を歌います。そしてそのあと牧師が(おそらく)聖書を読み上げるのです。そして賛美歌を歌って終わりです。終わった頃に次々と常連が昼食に来るように時間設定に気配りをしているようでした。集会が終われば、この店の名物料理らしきものが次々と並べられます。韓国はキリスト教人口が多いので、このようなことは日常的にあるのでしょうが、初めて見ました。びっくりしたのは、会員たちがみんなお年を召した女性ばっかりだったということ。日本でも、新興宗教でこのような集まりは多いと思うが、みんな会員は若い。この年齢構成に私は韓国の信仰の歴史を感じたのでした。実は時間を間違えて釜山行きのバスに乗り損ねました。次のバスまで一時間ほど時間があったので、近くの伊末亭で日記を書いたのでした。
2011年01月14日
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11月5日(金)晴れモーテルは快適だった。ムビモーテルという名前かと思ったら、movie motel とロゴを打ってあった。この国では外来語を輸入するとき、伸びる音は表現しない(できない)。ハングルの特徴なのであろか。部屋にチョン・ドヨンが主演した「ユアマイサンシャイン」のポスターを貼ってあったぐらいしかモーテルの由来の意味は分からなかった。朝7時のバスに間に合うように、6時40分に出る。コンビニでサンドイッチを買い、飲み物はモーテルに備えてあった栄養ドリンクを二本貰ってきてバスセンターに入る。モーテルには大抵、冷蔵庫の中にサービスのジュースかドリンクが入っている。二人で泊まるのが通常だから大抵二本入っている。出費が高めに推移しているので、これから朝は基本的にこれらのジュースとコンビニのパンかおにぎりで済ませて決して店には入らないようにしようと決める。咸安(ハマン)行きの時間を見ると、18:45と書いてある。あれおかしいぞ、と思ったが、窓口に言うとちゃんと7:00出発のがあった。1日に2本しかない貴重なバスである。霧の中を一時間のバスの旅。やはり内陸部は冷えるのかもしれない。日中は14度くらいにはなるのであるが。咸安のバスセンターに着いたが、観光地図は道路が書き込まれていないので行きたい古墳群がどのくらい離れているか見当が付かない。恐る恐るタクシーに「末山里(マルサンニ)古墳群までいくらくらいかかりますか」と聞いてみる。3000wとの答だったのですぐに乗った。実際は3600wだったが、もう私は約束が違う、と怒ったりしない。交渉ごとでは「ふっかける」のがこの国の常識なのだ。タクシーで10分も行かないところで古墳群はあった。ここは伽耶時代の後期に栄えた安羅国一族の墓である。山の上にびっしりと円墳が作られている。韓国らしく四号墳の隣に3.1独立運動の記念碑があった。大きい墳墓には全部登ってみた。遺跡は展示品や写真を見てもわからない事は多い。その場に行く、出来たら登るということが大切だ(と、私は信じている)。見た順番は違うが、一号墳から見えてきたことを言う。一号墳の墳墓はこの古墳群がある小高い山の北の突端に位置する。山の頂上部ではないが、この突端からは当時の中心町が一望に見えていたに違いない。墓の上に上ると人が立てるのは多くて二人くらいだ。この上に登ったものがいたとしてもせいぜい神官と王ぐらいな者だったろう。この墓は人を崇めるものとしては当時としては最大のものが作られたに違いない。道沿いに小菊が沢山咲いていた。日本のそれと似ているけれども、花がとっても小さく、茎が伸びないで藪状に咲く。日本には無い品種のように思えた。二号墳からみえた風景である。二号墳は山の墳丘、北の一番頂上に作られた。一号墳の隣が空いていたにも拘らず、ここに作ったということは、親子の仲が悪かったか、国を大きくしたのは自分だ、というような自負があったのかもしれない。三号墳は二号墳のすぐ隣にある。少し下側にあって二号墳を立てた感じになっている。夫婦か弟か、それとも父を慕う子供か。そして四号墳はこの古墳群最大の大きさを誇る(直径39.3m 高さ9.7m)。おそらく安羅国が一番栄えた頃だったのだろう。ここは二号墳よりも一段低い丘陵にあるのであるが、ここに上ったとき、一番高い墳墓のように思えた。反対に言うと、二号墳より高く感じさせるまで墓を大きくしたのかもしれない。この王墓の山では二番目にいい立地なのだろう、二号墳では主に北から西にかけての景色がよく見えたのに対して、ここからは、現在の咸安の中心地が一望に見える。写真は十号墳から見える風景。四号墳から5-9号墳までは下側の尾根に作られる。そうせざるを得なかったのかもしれない。それだけ四号墳の力は絶対だったのだ。四号墳から五世代たってやっと墳墓は山の稜線に戻る。十、十一号墳は南側の稜線に陣取る。もしかしたらその間に領地が南のほうまで広がったのかもしれない。しかし、そのあとは墓はそれほどの規模にはならずにしかも下側に作られていく。やがて安羅国は六世紀末に新羅に滅ぼされるのである。というようなことを、何の根拠も無く、私の想像だけで考えて見ました。西の麓には咸安博物館がありました。昔ながらの博物館であります。中学生の団体が来ていました。
2011年01月13日
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2010.11.4(普州)ちょっと時間はおしたけど、高麗古墳群というところも予定とおり行って見ました。バスの運転手にここで下ろしてと言ったときに彼が何かを言った気がするのですが、その後何も言わないのでそのまま乗っていると、終点についてしまいました。仕方ないので、そこからユーターンして昨日の案内所で教えてくれたところで降りました。「龍華寺石仏」と「高麗古墳群」の二つの看板がいちおうありました。そこからさらに迷うことになるのです。昨日の観光案内所のアガシの話では、「龍華寺石仏」はそこからすぐだが、高麗古墳群はだいぶ離れているということでした。「龍華寺石仏」はすぐに見つかりました。これも古い石仏が祀られているのです。けれども私の関心領域と違うのでサラッと見て、帰ろうとした。。けれどもふと目に止まったこの手洗い用の石のデザインは飛鳥の石遺物を思い出す。手塚治虫の写楽くんはあの遺物で複雑な薬を作ろうとしたけれども、本当はそんな深い意味は無くて単なる模様だったのかもしれない。寺では薪を割って自炊しているのだろうか、門の横にこんなかまどもあった。それと、このような趣のある焼却炉もありました。寺にはたいていこの二つがセットとしてあります。寺のお坊さんが竈で飯を炊き、庭を掃いてゴミは原則外に出さないで、自前で処理する生活というのが思い浮かびます。さて、私の関心はあくまで古墳群。小学生に聞いたり、地元の住人らしき人に聞いてみたりしても「知らない」という。古墳は形があるから知っている人は多いけど、普通の人はやはりそういうものには興味は無いのです。スーパーの若い主婦は「住所が書いていないから分からないわ」と五分くらい考えた末に言ってくれました。30分くらい歩き回って、最後に試しに聞いたくたびれたような叔父さんは「知っている」と言って書いてくれた地図が私の思っていたのとまるきり反対方向。「何か勘違いしているな……」と思い、まあいいや、と思い行ってみると、一キロぐらい歩いた先になんと看板が!!あのさえない叔父さん、思えばちゃら書きだったけど、非常に的確な地図を描いてくれていたのです。人は見かけによらないものです。この高麗古墳群、てっきり5-6世紀のものかと思ったら、11-13世紀のものでした。日本は古墳は7世紀で打ち切りなので、つい勘違いしていました。古墳というべきではなく、「墓所」というべき遺跡です。現代の韓国の墓と形も大きさもほとんど変わりません。山からの景色もよくなく、まるで人里から隠れるように作られています。墓を作る目的は、もう既に威信を見せるというものではなく、完全に追慕の対象として作られていたのでしょう。帰り道に気がついたのですが、韓国ではこのような畑が一般的にあります。松を栽培しているのです。この隣には少し小さい松がびっしり植えられています。少しはなれたところには、たぶん植え替えるのでしょう、大人になった「松畑」があるのです。畑になるほど、韓国では松の需要はダントツだということなのでしょう。夕食は、トイレに行きたくなったのでその場のお店に決めてしまいました。ソルロンタンです。食事の値がどこにも書いていなくて、あとで6,000Wもしました。味はよかったです。宿は次の日の朝のことを考え、市街バスターミナルの前のモーテルにしました。40,000Wと少し高かったけど、探すのも面倒だし、ここに決めました。やっぱりそれなりの設備がありました。きれいなお風呂と大画面テレビ、しかもインターネットまで付いています。十分ビジネスクラスです。楽天ブログにアクセスして、日本語モードに出来なかったけど、ローマ字でコメントしました。朝食3,000 バス1,000×5回 昼食4,000 夕食6,000 夜食3,700 宿泊40,000合計 61,700歩数 21,754歩
2011年01月12日
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地図ではバスから降りてしばらく歩くことになっていたけど、実際はすぐ目の前に慶尚大学はあった。]六階建ての立派な図書館が大学の敷地の真ん中にある。インフォメーションのお兄さんに博物館図録は売ってないかと聞いてみる。(この時まで、私は既に釜山、ソウル、蔚山、東亜と四つの大学博物館に行ったことがあったにも拘らず、総ての博物館に考古学博物館が整備されていることを知らなかったのである。だから純粋に図録だけを手に入れるつもりでここに来たのだ。)六階の博物館事務所に行けというので、迷いながら行ってみると小さな事務所があって誰もいない。博物館の入り口らしきものには鍵が掛かっている。一階に降りていって「誰もいない」と言うと、「ランチにいったんでしょう。(今12時45分なので)20分待ってみて」と言うので、1時10分に行ってみる。やっぱり人がいない。どうしたものかと、途方に暮れたが、もう一回インフォメーションにいってみると、昼食休憩で今度はお姉さんに変わっていた。もう一回聞くと、事務所に連絡してくれて「もう一回行け」という。それで行こうとすると、そちらじゃないという。なんとエレベーターは二種類あったのだ。六階直通のエレベーターで行くと、きちんと博物館が開館していた。管理人はいるが、もちろん入場無料。大坪里遺跡やその他慶尚南道の遺跡、古墳がきちんと展示されていた。特に侠川の玉田古墳群の遺物が充実していた。日本の古墳時代の遺跡ではあるが、みごとな鉄の文化なのだ。少し行きたくなった。(結局行かなかった)これは、大坪里遺跡の前景模型である。無料のわりと充実したパンフもあったのであるが、(ふつうならばそれで満足するところだが)何しろ美人のアガシとの「約束」がある。「博物館図録がほしい」と言うと、管理人は事務室へ連れて行ってくれた。そこでは大学の関係者(?)三人が図面を見ながらミーティング中だった。日本から来た、というと「どうぞ中へ入ってください」という。釜山でも感じたが、韓国の考古学者は日本に大きな関心があるのである。私の想像ではあるが、韓国の考古学の歴史は浅い。戦前までは日本の考古学者だけが韓国の遺跡を発掘していたのが実情だ。(そこから派生する問題もあるが)だから、韓国の考古学者は今急速に日本から学んでいる途中なのではないだろうか。私はたどたどしく「博物館の本がほしいんです」というと、思いもかけず日本語で「それは難しいです。あれは売り物ではないのです」という答え。諦めかけると、「まあ、ここにお座りください」というので、彼らの好奇心に付き合うことにした。メンバーは初老の教授らしき男の人と若い眼鏡の男性ともっと若い女性の三人。眼鏡の人はほとんど日本語は出来ないが、教授は普通会話ならば出来る。女性は日本語ぺらぺらのようだった。私が、全くの趣味で遺跡を回っているけれども、勒島遺跡などに行ったということも言うと、驚いていました。私が岡山から来たというと、教授は「岡山には偉い先生がいました。近藤義郎教授」と言い出した。ああ、この人は日本の考古学、特に私の興味を持っている弥生から古墳時代にかけての考古学を知っている、と直感した私は「ええ、昨年お亡くなりました。けれども、しばらくは死んだことを伏せていて……」と少しは考古学を齧っていることを匂わせておいて、またと無いいい機会なので、今回の旅で気がついたことや、今回の旅の「テーマ」をぶつける事にしました。「韓国で鉄を作り出して(BC1C)、日本で初めて製鉄が始まる(6C初め)まで約500-600年かかっています。もちろん、製鉄は技術的にいろんな秘密(精練の概念、高温、触媒)があることは承知しています。それでも鉄を制するものは国を制す、製鉄はどんなことをしてでも実現しなくてはならない一番のことだった。どうして、そんなに長い年月が掛かったのか」「技術だけが問題ではない。鉄鉱石が必要です」教授が答えます。「日本にもあります」だからこそ、吉備で製鉄が始まったのです。「けれども、土を掘らないといけないでしょ。韓国には地表に鉄鉱石がのぞいている場所があった。それが金海と梁山の間にある勿禁(ムルグム)というところで、露頭鉱山と呼ばれています。これがあるから金海が鉄の生産地になった。」「それでも500年伝わらなかったのは不思議だ」などと私は口ごたえをしたのではあるが、この事実は衝撃だった。後で考えれば考えるほど、「鉄鋼石を探すのに時間がかかった」この事実は決定的だったかもしれない、と考えるようになった。大きな「啓示」だった。ついでに私は他の質問もしてみた。「昨日、勒島に行ったのですが、どうしてあんな小さな島に遺跡があるのでしょうか」「あそこは海上交通の要所なのです。大きい島(巨済島)には水が出ないのです。それにあそこは潮が韓国で二番目に速いところです。スピードを上げて浜に乗り上げるにはちょうどいい所だったのかもしれません」うーむ、良く分からないけど、さすが発掘した当人しか答えられない答だと感心した。ついでに、土器が沢山残っていて勿体無いということも言ってみた。「我々が掘ったのは、舗装道路の部分だけで畑などはそのままにしているのです。それに、絵や文字が土器に残っていたら大変だ、というけれども、韓国では絵や文字土器は一切出土しません。」それは大変失礼しました。「杜撰だ」と書いてしまってごめんなさい。絵・文字土器が出土しないというのはその事実だけでも日本と大きく違うところであり、大変な発見である。(その後、文字土器を博物館で見つけるのではあるが、要検討事項になった)プレゼントとしてここでもカップヌードルを二個置いて帰ったのであるが、教授は苦笑い、女性は(どうやら日本に留学していたらしく)「大好きです」ということだった。(これで日本から持ってきたプレゼントは無くなりました)あ、博物館図録はここでも無料でくれました。大学では、所謂販売活動は禁じられているから売ることは出来ないのであるが、アマチュアだということは伝わっているのだが、「好意」で貰ってしまいました。こんなところで趣味で来る日本人は流石に居ないからでしょう。大学前の食堂で鶏野菜鉄板焼き飯(タルヤチェポックンパ)を食べながら、ここで初めて今さっきの会話を思い出して冷や汗をかいたのでした。あの教授は、もしかして相当偉い先生だったのかもしれない。ミーティング中だったのに、一時間以上も邪魔をして、しかも発掘の文句を言ったり、本のお礼も十分しなかったような気がするし、随分とずけずけものを言って相当失礼なことをいったような気がするのである。
2011年01月11日
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受付の美人のアガシに「大坪里の遺跡を見たいのですが……」と聞くと、やはり「今は無い」という。場所に行ってみたいと主張するが、外の野外展示場にを指し示すばかりでどうも行く手立てはないようである。帰りのバスの時間を聞くと、まだ一時間以上あるので「時間があるのでどうしようか……」と、呟いていたら、しきりに野外展示場に行けという。私は日本によくある建物だけの展示だと思い、それだと既に二階の展示で概要は分かったので行きたくなかったのだが、躊躇していると、そばにいたアジェンマ(おばさん)が業を煮やしたのか「こっち、こっち」と連れて行ってくれた。すると、なかなかいい展示だった。建物だけでなく、中にちゃんと生活用具まで再現してくれていて、非常に分かりやすい。このように魚を干している展示は日本では見たことがない。ここの建物の中には、長方形の住居がある。それも日本にはないのであるが、なんと入り口が二つあるのもあるのである。寝床は蚊帳を吊っているのであるが、根拠は何なのか。聞いてみたいが、そこまでの会話力はない。野外展示場には同時に普州市街化のなかで壊されたカホドン遺跡の墓がそのまま保存されていた。支石墓や竪穴式古墳とも違う。非常に特異な形をした墓だ。面白い。結局大坪里の遺跡のほとんどはこの博物館の敷地になったようだ。ただ、これだけ大きい村だから目の前にあるビニールハウスの下にはまだ遺跡が眠っている可能性は十二分にあると思う。受付の美人のアガシに話す。「とても素晴らしい展示でした。ところで、解説本は無いですか」子供用の解説本があった。「ほかに無いですか」すると、慶尚大学博物館の図録を見せてくれた。とてもいい本だったので、買えますか?と尋ねたところ、「これは私の本です。けれどもあなたにあげます」びっくり。彼女は無理な注文をするへんな日本人につい言ってしまったのかもしれない。「アンデ! アンデ!!とんでもないです!慶尚大学は何処ですか」地図を見ると、市街地のはずれにある。「そこに博物館はあるのですか?」「図書館にあります」「じゃあ其処に行って買います」「バスはちょうど普州に向う11番バスがそのまま大学まで行きます」それはちょうどいい。美人のアガシの言うことだから、急遽今日の予定に入れることにした。「じゃあ、子供用のこの解説本をください」「これはプレゼントします」「いや、とんでもない!!」「いえ、この青銅器博物館はまだ準備中なので入場料は取らないし、先生方にはこういう資料も渡しているのです」……あえて先生ではないとは言わなかった。(美人の前でいいかっこをしたかったわけです^^;)「本当ですか。ありがとうございます!」結局この博物館では一円もお金を使わずに、本まで貰うことになってしまった。(実はこの日のラッキーはそれだけでは終わらなかったのではある)彼女に教えてもらったとおり、11時30分のバスを、イチゴの看板のあたりでぼやっと待っていると、「○×△ !」なにか声が掛かった。「そこで待つんだよ」さきほどのアジェンマがバス乗り場はこっちだと指し示しいる。「そこで?」「そこ、そこ!」そういいながら自転車で村の方向に帰っていった。昼食休憩か。「ありがとう」追いかけるように大声でお礼を言う。韓国のバスは乗り場から離れていてもOKだとはいえ、万が一乗れなかったら大変なことになる。バス乗り場の看板があるのに気がついていなかった。私はこういう時に韓国の人の「情」を感じる。私は慶尚大学に向かうバスに乗った。
2011年01月10日
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11月4日(木)晴れ朝、日本には見かけない植物がが街路樹にあったので写して見る。朝食は軽く済ませたかったが、つい食堂に入ってしまった。シラク(実学?)汁飯を食べる。どうやらTVでも紹介された名物朝食らしく、なっぱ汁に大豆が入っていて全然辛くない汁でした。店に解説文があって辞書を見ながら少し訳したところ、料理の解説ではなくてほとんど自分の料理の自慢話のようでした。日本だとせめて「シラク」の由来ぐらいは書いているだろうに。でも美味しかった。普州には無信号の横断歩道が多い。これも国民性だろうか。大坪里博物館が今日の午前の目的地です。バス停留所には地方都市には珍しく電光で「~バスは~分後」というふうに掲示される。けっこう分単位で変化している。バスから信号が出て、掲示されるのだろう。(その後中核都市のバス停留所には大抵この類の掲示板があることに気がついた。ほかでも述べるが、韓国はデジタル機器は非常に普及が速い)ただし、一方では時刻表は一切置いていない。日本のように停留所ごとに時刻表があって、できるだけそれに間に合うようにバスが走るという習慣がないのである。バスは10-30分は待つものである。そう思い至れば、あまりストレスは感じなくなる。このとき、待っていたバスは最初26分後にくるということだったが、実際来たのはそれより3分早かった。バスはやがて湖らしきところを走るようになる。バスで30分ほど走る。大坪里(テピョニ)遺跡の入り口では「大坪里イチゴの特産地」という模型が迎えてくれた。ここは有名な景勝地らしく、おそらくダムの開発とかで発掘されたのだろう。韓国にもシメジオンっぽい花が咲いていました。なぜか入場料を取られないで中に入れた。この青銅器文化大坪里博物館は、このように徹底的に子供教育のために作られている博物館である。しかし、子供にも分かるように作るということはそれだけ「難しいことを噛み砕いてわかりやすく展示している」ということで、展示内容は本当に素晴らしかった。大阪の弥生文化博物館よりもわかりやすさという点で優れていると思う。今まで韓国の先史時代の再現模型はことごとく原始人の格好をしていた。しかし、ここは大坪里人の生活を映像と大規模なミニチュアを作って再現しているのだが、ほとんど弥生社会の生活と変わらない様に変わっている。韓国の先史時代の認識がこの数年で劇的に変わったということを示している。しかし、良く見ると、豚の飼育、甑の使用、祭祀の仕方、支石墓の採用等々で日本の弥生社会にないものも見えている。こんな仮面もあった。祭祀の道具だろうか。階下では、なんと一時間ごとに10分ほどの3Dアニメをしていた。テピョニ少年が中国の貿易船に攫われて、青銅器の破片を手に入れるが、やがて大坪里に帰って里の王様になるという筋である。(写真は主人公のテピョニ少年とチンジュ少女。外の野外展示場にいました)観客は私一人しかいないので受付の美人のアガシに無理を言って映してもらったのである。「面白かったです」3Dめがねを返しながら感想を言って見た。にこりとする。アガシはすらりとして、目鼻立ちの整った美人です。いい気になって少し質問をした。「上の展示物の中に青銅器がなかったのですが……」青銅器文化博物館と言いながら無いのだ。アニメのように破片くらいは無かったのだろうか。少し説明してくれたが、どうやら青銅器は見つからなかったらしい。しかし、出土した遺物はまごう事なき青銅器時代のものである。私もそのことに疑問の余地はない。3D映像を見て気がついたのであるが、王の系統はどうも血筋を大切にしているところはある。しかし、王になるためには人からの尊敬も必要みたいだ。
2011年01月09日
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2010.11.3(泗川・普州)勒島。おそらく100件200人もいない村なのではないか。改めて、こんな小さな村に、2000年前前後、驚くほどの人々が住み、それだけでなく、日本や中国とも交易をしていることに、大きな疑問を抱いた(この疑問は次の日にある程度は解消することになる)。そして食堂のアジョッシと案内をしてくれたハルモニにお礼を言い、バスの乗り場と時間を教えてもらって、サムチョンボ(三千浦)行きのバスに乗ったのが二時前。サムチョンボから普州(チンジュ)行きのバスに乗って、普州バスセンターに着く。普州城まで歩いていくと南側の入り口に観光案内所がある。日本語のできるアガシ(お嬢さん)の処で、明日の遺跡の場所を聞くためである。普州は2010年1月に来たばかりなのでよく分かるのだ。アガシは私のことをかすかに覚えていた。さすがに玉峰古墳の行きかたを聞いた旅人はいないので覚えていたのだろう。「実はあのあと、古墳のすぐ下の寺で行きかたを聞いても、とても説明できないといって断られたんですよ。苦労してやっと見つけました」「そうでしたか大変でしたねえ」「でも行った甲斐がありました。あそこに登ると、町が360度一望に見えるんです。あの古墳は間違いなく、この地域の一等地に作られているんです。つまり正真正銘ここ一帯の王の墓だということが良く分かりました」というようなことを話した。観光案内の人に普州の隠れた遺跡の名所を伝えることが出来てよかった。ちなみにこのアガシもなかなか可愛い方です。宿にたどり着いたのが、四時を回っていた。これからは観光は無理なのでゆっくりすることにした。宿はヨガン(旅館)にした。モーテルより一万w安いので決めたのであるが、シャワーが想像以上に狭くて汚い。おまけにお湯はほとんど出ない。床暖房が入っていない。本当は荷物を預けることが出来るので、ここに連泊しようと思ったのだが、止めた。明日モーテルを探そう。一日の経費が高めに推移している。日本の近畿旅行よりは安いが、韓国内はせめて20日10万円で収めようという目標はこのままでは叶えられそうにない。夕食は案内所のアガシが教えてくれた普州冷麺を探して歩きに歩いた。観光案内の地図を見せながら「この地図に場所を書いて」と何人かに頼んだ。そうしないと、言葉で聞いても理解できないことが多いのである。けれども決して地図にポイントを示してくれない。言葉で伝えようとする。つまり観光案内の地図は小さすぎるのである。最後のほうでやっとそのことに気がついた。今度からはノートに略図を書いて、そこに示してもらうことにしよう。最終的には親切なお兄さんが200メートルくらい一緒に歩いてくれて教えてくれた。写真は夕暮れの普州の風景。どの町にも当たり前のように角々に教会があります。この写真は少し立派な協会です。普州冷麺は他の韓国冷麺と違い、全然辛くないスープで、肉が混じるアゲやキューリ等豊富な具財が入っています。日本人には食べやすいと思う。見栄を張って(大)を頼んでしまった。お腹一杯なのに、部屋に帰って昨日買った焼酎と今日買ったアーモンドで晩酌をしてしまった。焼酎はつい最近まで韓国の大ブランドだった鎮露と違い「チョウンデイ(善き日)」という焼酎で智里山の湧き水で作ったとかいている。とってもすっきりしていて飲み易い。ここほんの数年でいろんな焼酎をコンビニで買うことが出来るようになった。朝食1,000 釜山~サチョン7,700 サチョン~サムチョンボ1,900 タクシー4,800 海鮮丼10,000 バス1,000 サムチョンボ~普州3,600 旅館25,000 冷麺7,500 お菓子1,000計63,500w15,751歩
2011年01月08日
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2010.11.3(泗川・普州)泗川(サチョン)から10分ほど車を走らせて勒島(ヌクト)に来たはいいけど、遺跡の場所は探検するしかないな、と腹を決める。とりあえず近くの食堂で昼食をすることにした。そしたら偶然にも今さっき話をしたアジョッシの店だった。この小さな島では釣り客のために食堂と民宿だけは何軒かあるのである。当然というか、ここにはフェ(刺身)の食堂しかない。一食5000Wが当たり前の韓国の食堂ではあるが、刺身料理だけはなぜか高いので、私はほとんど足を向けないのである。一番安い海鮮丼(10000w)をたのんだ。出てきました。刺身にコチジャンを掛けた丼と、ご飯と五皿の副菜とスープです。せっかくなので魚の名前が知りたい。閑だった食堂に急遽おばさんがやってきて、昼食を作ってくれたのだけど、日本人が珍しいのか、ひそひそ話をしている。アジェンマ(おばさん)に聞く。「これはなんですか」「○△×」良く分からない「ここに書いてください」とメモ帳を見せる。頼んだアジェンマは尻込みをしてもう一人のアジェンマに書かせる。文字が達筆で全然読めません。単語じゃなくて文章を書いてくれた。読める単語だけでも辞書を引いたけど出ていない。なんだったんだろ。結局何の魚が乗っている海鮮丼なのか分からずじまいだった。副菜のなかで貝の煮つけとイカの塩辛は美味しかった。魚はさすがに新鮮です。食事のあと、荷物を食堂に預け、「遺跡を見て回りたい」と申し出てみた。アジェンマはアジョッシに聞けという。アジョッシは「ともかくこいつは遺跡の場所に行きたいのだ」と納得してくれて、近くで井戸端会議をしていたハルモニ(おばあさん)に案内を頼んでくれた。手前の小柄なほうのおばあさんでした。私の肩ぐらいの背が低くてやせっぽっちのハルモニでした。なんと彼女は少し日本語が出来る。「わたし、7歳から14歳まで日本にいました」なぜいたのか聞いたが、親についていったというぐらいでそれ以上は聞くことは出来なかった。二人並んで橋の手前の畑のほうに歩いていきました。最初、ここで人が死んでいた、並んで死んでいた、というので、自殺があったのか、あるいは戦中のことかと思っていたら、道の処で寝転ぶ真似をする。どうやら遺跡の発掘の様子を一生懸命説明してくれていたらしい。つまりそれだけ沢山の墓がこの勒島遺跡の橋のたもとで発掘されたということなのだろう。このあたりは土がアルカリ性なのか骨の出土状況はいいようだ。きっと良好な形で遺骨が出てきたのだ。釜山大学博物館には勒島出土の人骨の展示があった(純粋に学術展示なので怖がらないでね)。墓があったのは畑の横の舗装道路なのであるが、彼女はそこで並んでいた、と畑も指差す。そこで畑の中に入ってみた。びっくりした。「これは遺跡の土器ですか」「そうです」土器って言う意味分かるのだろうか。「これは貴重です」ハルモニには私の感動が伝わってはいない。畑に遺跡の土器があるのは当然だろ、という感じだ。せめて私が興奮していることぐらいは分かっただろうか。2000年前に朝鮮半島の人たちが土を選び、成型し焼いて生活していた証がここにある。ひとつの破片からは土の形質、作り方、生活の質までも専門家ならば類推することができる(私にはできません)。ハルモニには礼を言って帰ってもらって、しばらく畑の上の土器を探した。ボロボロ畑に落ちている。発掘後にこんなに土器が残っているなんて、日本では決して考えられない。土までもふるいにかけて、小さな玉もないか全部調べて帰るのだ。そして洗浄して土器から時間をかけてて丁寧に一つ一つ再生する。土器の数自体が、データになるし、万が一破片の中に絵画や文字があれば大発見になる。拾った土器は見た目は弥生土器そっくりだ。線刻もはっきり残っている。幾つか拾って帰ることにした。(本当は良くないことです^^;)しかし、韓国の発掘の杜撰なこと!!!そのあと島の上のほうに回った。残りの遺跡の場所は特定できなかったが、漁村の家を見て回ることができた。少し上に登るとすぐ島の反対側が見渡せます。典型的な漁村です。屋根に干物を干している。驚くほど若者がいない。言い換えれば、若い嫁がいない。おばあちゃんが至るところで網の繕いをしている。家のつくりは、玄関からよりも窓から出入りすることのほうが多い気がする。道沿いの壁に絵を描いているのを初めて見た。(帰国して実はこれは現代韓国を覆っている一大美術運動なのだということを知るのであるが、それはこの旅の最後のほうでもう一度書く)綺麗な小鳥も描いています。そのあと、潰れたモーテルの上に上がり、村を一望して写真を撮ったのでした。
2011年01月07日
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11月3日(水)晴れ夜眠れなくて朝ぐずぐずしていたら、バスの連絡が悪くて50分も待って9時出発になった。今回交通の乗り継ぎ連絡のミスが多い。いつもギリギリになって出発するからだ。沙上にある西部バスターミナルは、釜山から地方都市に行くのに良く使います。こういうところです。以前来たときより直行便が少なくなっている気がする。今回の旅では以前に買った韓国版国内地図を持ってきたので、高速を走りながら今どの辺りを走っているのか、初めて分かるようになった。釜山と金海そして加耶地方の市街地の位置関係が初めて分かった。コンビニで買ったキンパブを食べて朝食です。普州を過ぎて泗川(サチョン)のICで降りるとなぜかすぐに目的のバスターミナルに着く。運転手に確認してもここだという。海岸沿いのサチョンに行きたかったのだが、内陸部のサチョンに来てしまったようだ。本当はサチョンの別称のサムチョンボの切符を買わなくてはならなかったことをその後知る。昨日の釜山大学の方は別称ではなく、「サチョンのバスターミナル」と言ったので、間違ったのではあるが、何しろこのサチョン市には地図の上だけでもサチョンという町の名が三つもあるのである。まあ、間違って当然といえば当然。一瞬途方に暮れたが、地図を見せながら若いお母さんに見せると「バスがある」と言う。釜山でチケット買ったときには1時間おきのバスだったので、ここでチケットを買ってすぐにバスが来るのか不安だったが、バス乗り場に行くと果たしてすぐにバスが来た。しかし乗った後でも本当にサチョン(サムチョンボ)に行くか不安でずっと地図を見ながら確認していたのだが、良く分からないままサムチョンボに着いてしまった。(正解でした)ここのコインロッカーに荷物を預けて勒島(ヌクト)まで行こうと思っていたが、バスセンターなのにコインロッカー(ポカナム)がない(その後よっぽど大きいバスターミナル以外にはコインロッカーはないということが分かる)。駅員に聞くと、向こうに行けという。そしたらサービスセンターみたいな部屋があってポカン料2000wと書いている。ところが全くの無人、やる気なし。仕方ないのでパチパチに張ったリュックサックを背負って勒島に行くことにした。バスは一本しか線がなくていつ来るのか分からないので、タクシーにした。2-3キロ先のはずなのに、4800wも取られる。総じて田舎のタクシーは高い気がする。勒島に着いた。主な住宅地はここだけであり、小さくて美しい島である。向いの大きい島(海南郡)への連絡橋を作るときに遺跡が発見されたのであろうか。島で唯一の小物売り場で案内地図はないかと聞く。「ない」と言う。実は勒島遺跡を探しているのだ、と言うと、アジョッシ(おじさん)が話に乗ってきた。「勒島遺跡はもう壊されてなくなった」「(開発のために遺跡が無くなるのはよくあることなので納得しながら、でも昨日の図録にあった勒島の地図を書き写したノートを見せながら)橋はこことここの遺跡を壊したのだろうけど、まだここの遺跡は残ってはいないだろうか。そこを見てみたいです」「遺跡は無い」「でも行ってみたい」遺跡の場所に立ってみたいという気持ちはなかなか伝わらない。(この気持ちは相手が日本人でもなかなか伝わらない)周りでは猫がうろうろしていた。この猫は尻尾がまん丸である。「面白いですね」とアジョッシに言うと彼はにっこりとした。
2011年01月06日
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2010.11.2(釜山)釜山大学博物館は二回目の訪問であるが、今回はじっくり見ることにした。それだけ価値のある博物館であった。青銅器時代の勒島遺跡からは弥生式土器が出土していた。(九州産)しかし一方ではこんな蓋が出土している。こんな形の土器は日本には入っていない。(輸入品という形では出土している。つまり日本の土器製品として採用されなかった)なぜか。青銅器時代の生活遺物(検丹里コムタンリ遺跡)を見ると、日本の弥生式時とほとんど変わらない。唯一、甑(こしき)を除いては。なぜか。一方、墓制に関しては細形銅剣や支石墓はついに日本にはなじまなかったが、甕棺墓(かめかんぼ)は広く行われた。これは一般の墓だったからか。つまり、日本にはこの頃ついには王族はやってきていなかったのだ。面白いのは、矢じりやナイフを作るのに欠かせない黒曜石。韓国ではソウルの北にある白頭山では産出するが、韓国南部では日本の九州産が使われたらしい。図録を買うときに、「遺跡の場所を教えてください」と少し質問をしたら、別の塔の大学の研究室らしきところに連れて行かれた。さすがに釜山大学、日本語が出来る若い女性の研究者がいて、丁寧に教えてくれました。これによって、勒島遺跡、検丹里遺跡、ハデ遺跡、慶州ソンファンニ遺跡、金海の遺跡の大体の場所が分かりました。明日はまず、勒島遺跡に行くことに決めました。少し質問。「勒島ってこんなに小さな島だったんですね。こんなところにどうしてあんなに多くの遺物が出たのでしようか」「分かりません。弥生式土器ばかりでなく、楽浪郡(ナンナングン)の土器もあるので、日本・中国とつながりを持っていたんですけど……」「今日、釜山に着いたんですけど、これから10日くらい掛けてこれらの遺跡を回ろうと思っていたんです」「それは凄いですね。どこかの先生ですか」「いや、全くの趣味です」「えっ、それは凄いです」「今日はありがとうございました。これはソンムル(プレゼント)です」といって、日清のカップヌードルを渡した。いつも韓国旅行にはちょっとした親切へのプレゼント用にカップヌードルをカバンの中に入れている。これがなくなる頃には韓国の荷物が増えていくというしくみである。ただ、余裕を持たせるために今回は下着は5日分も入れたためにリュックの中にヌードルは三つしか入れることはできなかった。これでは全然足りなかったのは言うまでもない。「いや、いいです。先生が10日の間に食べてください」「いや、プレゼントですから。それに私は先生じゃありません。それにこの日清カップヌードルは世界で初めて発明されたヌードルだったんですよ。知っていました?日本を知るためにも食べてください」と言って無理やり渡しました。釜山大学には(民主闘争発生の地なのに)政治的スローガンのタテカンならぬ立て布は全くなく、せいぜいこの様なものしかなかった。この布には「休~試験終わった!漢文踏査GOGO(調査のことか?)」と書いている。ゼミかなんかで地域漢文調査なるものがあるのだろうか。しかし、この漢字の使い方ちょっとおかしいように思う。特に「休~」はないだろ。泊まりは沙上(サジャン)バスターミナル前にあるビチモーテル(ビーチモーテル?)にした。 夕食は鶏のチャーハン。目の前で作ってくれます。一人分を頼んだので、可哀想でした。(普通は数人分で頼むからこそ安いのです)地下鉄カード作成8,000(これ以降総て金の単位はwです) タクシー3,700 記念館200 朝食3,000 タクシー3,400 東亜博物館解説機械1,000 昼食4,000 釜山大学博物館図録10,000 宿泊代35,000 夕食4,000 焼酎1,450合計73,750 歩数15,750歩
2011年01月05日
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2010.11.2 (釜山)適当なバスがないものだから仕方なく、タクシーで東亜大学博物館に寄ってみました。考古学室は小さかったものの、旧石器から三国時代までの釜山周辺の流れをコンパクトにまとめていました。行って見たいと思っている勒島(ヌクト)遺跡の遺物も纏まって展示されていて、三韓時代と位置づけられていて、おやっ?私の認識と違うぞ、とは思いました。(結局こちらのほうが正しいようです)器台変遷図も示されていて、興味深いものでした。6世紀の甕棺墓(陶器の棺おけの入った墓)が日本では見たことのないものに変化しており、興味深いものでした。一世紀頃の甕棺墓とそっくりな甕棺は吉野ヶ里その他の弥生後期遺跡に多く見られるのですが、古墳時代に入るとぴたりと無くなります。写真は梁山新基里古墳群出土。変な想像しないでね。釜山智土洞遺跡では大量の鉄が出土しているようですが、地図にはなかったのでもう既に壊されているのでしょう。もうずっと前からですが、ありとあらゆる地下鉄には防毒マスクが常備されています。地下鉄サリン事件が世界で初めてあった日本でこのようなことはなくて、韓国ではしている。韓国の北朝鮮への危機意識はこのひとつ見てもタダならないものがあり、日本のように政治的思惑で動いているものではありません。非常に現実的です。だからこそ、韓国が動かないときに日本がいたずらに騒ぐのが危険この上なくて馬鹿らしいと私には思えるのです。(韓国の危機意識に付いてはこの後何度も言及します)釜山大駅に行き、近くの店で、まずは腹ごしらえということでテジクッパッ(豚汁飯)です。大学前の食堂は概して安い食堂が多い。此処も通常より1000w安い4000wでした。味は普通です。副菜は青唐辛子の生を味噌でつけて食べるようになっています。この後何回もこのタイプの副菜が出てきます。私はやがて一つの仮説を立てるに及びましたが、そのことはまたずっとのちに。今日のメインの目的地。釜山大学です。釜山大学には、構内にこのような小川が流れています。人口密度が高いはずなのに、公共施設は贅沢な土地の使い方をしているのが韓国です。
2011年01月04日
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11月2日(火)うす曇8時30分、国際ターミナル着。三万円だけ両替する。レートは1340w/100円だった。地下鉄中央駅で駅の地図を見ると、民主抗争記念館が近くだったので、タクシーで行ってみることにした。(行き当たりばったりの旅なんです)記念館どころか、山一つ買い取って非常に大きな公園になっている。今回の旅の目的は伽耶の古代遺跡なのであるが、博物館フェチの私はこういう博物館も喜んでいくのです。けれども今回の旅では結局、現代博物館に行ったのは、この日とあと一日しかなかったのです。入り口のところに1960.4.19の記念塔があった。李承晩(イ・スンマン)政権打倒のきっかけを作ったのが、どうやら釜山の闘いだったらしい。その側に「マンガで見る4.19民主革命」というのが掲げてあったので簡単に解説します。左上から右に順番に、自由堂で3.15不正選挙があった→3.15不正選挙に怒る国民→デモに参加したキムチュヨルが死体で発見された→学生と市民が(共同して)独裁に抗議→ついに全国民が立ち上がった→李承晩大統領下野す→独裁を崩壊させた国民。というものです。思えば、これと同時期、日本では安保闘争が繰り広げられていた。日本では岸政権を崩壊させた。しかし、ついに日本ではこのような「安保闘争」記念塔、記念館は今までひとつたりとも作られていない。自民党ならびにそれを保障した「独裁」が現代も続けられているからだ、といったら言いすぎだろうか。そこから高台に上ると立派な記念館がある。4.19のみではなく、1987.6月抗争とその勝利までを扱っているから、所謂、韓国民主化闘争全般を扱っているようだ。「民主市民」という新聞が1985年から出ていた。「市民」という言葉を大手を振って使い出したのが、このころだったのだろう。記念館の食堂でマンドゥクッを頼んだ。ほかに食べている人が誰もいないので心配だったが、とても美味しかった。マンドウゥは辛くない韓国大衆食の代表みたいなものです。実は渡韓直前の健康診断で『要胃カメラ』という結果が出たのですが、渡韓前にカメラを取る予約が取れなくて胃薬のみ持ってこの旅に臨んだのです。だから(できるだけ)暴飲暴食は慎みたいと思っている私です。(結局はこの旅の間、おなかの違和感は返って調子がよくなったので『暴』とまでは行かないが、相当食べて飲んだのは確かです。帰って胃カメラを呑むと結局十二指腸潰瘍でした。ピロリ菌退治をしながら今治療中です(^_^;)階上からは釜山の町が見渡せました。龍頭山展望台よりもさらに広大な釜山の町が見渡せます。無料ですし。どうしてここが観光スポットになっていないのだろ。すぐ近くに「日本から独立した」という意味の「光復」を冠した光復記念館というのがあったので、寄ってみると、幼稚園児童が群がっていました。思うに、民族教育をしないのは日本とあと数国だけでしようね。あっ、博物館教育とか、野外教育そのものも、あまりにも少ない。(やがて慶州でそういうことを小学校教師とお話しすることになります)こんな大きな公園を短時間で作ってしまう韓国民の民族意識は凄いものがあります。
2011年01月03日
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ついに11月1日~22日の韓国旅行のレポートを始めます。たぶん11月7日ぐらいでいったん連載は終わると思います。けれども、それでも20回以上続く予定です。11月1日(月)雨のち晴れ一日目はほぼ下関への移動のみ。家を出るとき珍しく朝の虹がかかっていた。8時に家を出て、雨は途中で大雨になる。そして電車で西にむかうと、見る見る晴れていった。下関駅に着いたのが16時前。バスの連絡等で遅れて、思ったよりも時間が掛かった。けれども、約一日掛かるのは覚悟すみ。一番安い旅行日程を考えるとこうなってしまった。弁当持参で汽車の旅です。どれだけ安く旅を終えることが出来るかが、今回の旅のテーマのひとつでもあります。もうひとつのテーマは、「伽耶時代の遺跡を見る」です。下関駅ではこんな看板が迎えてくれました。たぶん期間限定。龍馬夫婦の両となりには伊藤九三というマイナーな男と、この地域だから分かる三味線を抱えた高杉晋作がいます。下関国際ターミナルでの乗船手続きまでに一時間弱あったので、プチ観光をしました。駅前のミニ公園では「風の預言者」という銅像がありました。高杉晋作と騎兵隊を称えた像です。後で考えると、非常に日本的な銅像です。韓国のブロンズ像は、歴史的人物を写実的に実際より大きく作ったものか、非常に抽象的なものしかありません。日本のこの像は、高杉晋作をイメージしたのではなく、顔は少女マンガのように綺麗に作り、物語の一場面を切り取った様に作られていて、非常に「情緒的」「ロマン的」なのです。近くの商店街の通りに、沖縄だけあると信じていた石敢當の石があった。沖縄では道の突き当たりに、よくしらないけど「おまじない」としてあるのですが、本土にもあるんだ。とびっくり。それとも此処だけだろうか。駅のすぐそばにある大歳神社は高杉晋作が騎兵隊出陣のときに戦勝祈願をした所であるが、その遺跡として陰で高杉を支えた豪商白石正一郎が奉納した鳥居が残っていました。文久二年の文字が彫られています。また文久3年8月の政変の際に三条実美ら七公卿の都落ちの有様を画碑として記念したのも残っていました。大歳神社でこの旅の「無事帰還」を祈りました。高いところから国際ターミナルならびに下関港を眺める。フェリーは「はまゆう」ではなく、韓国の船でした。帰りのときが「はまゆう」で日本産の船だったのですが、思えば韓国の船のほうがコンビニもあったし、食堂も美味しくて良かったです。夕食はホールでテレビを見ながら軽く済ませるつもりでコンビニで買ったのですが、結局食堂に行ってまた食べてしまいました。ホールでは「モレシゲ(砂時計)」 の総集編をしていた。みんな熱心にテレビを見ていました。バス340円 電車5,780円 文庫本200円 昼のビール、つまみ330円 ソフトクリーム200円 船代(二等客船、油代、港使用料含む)10,400円 夕食8,450W 合計 17,250円+8450w歩数 7,602歩
2011年01月02日
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2011年 明けましておめでとうございます!今年は高橋大輔選手が小さい頃から通っていたスケートリンクのあるヘルスピア倉敷の上に登って日の出を待ちました。建物の中からなら良かったのですが、外だと眺望は良くないのです。けれど、今日は見事な快晴!幸先良く一年を始めることができました。今年もよろしくお願いします。明日からはいよいよ11月1日から22日にかけて行った韓国旅行のレポートを始めます。日記を書いているのですが、それをパソコンに移す過程で次々と思い出すことがあってぜんぜん進みません。たぶん6-7日分のレポートを続けてまた断続連載になるとは思いますが、たぶんそれだけでも20回以上の内容になると思います。ご期待ください。
2011年01月01日
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