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たまたま今日の朝日新聞を読むと、池澤夏樹が先日交通事故で亡くなったテオ・アンゲロプロスを追悼していた。池澤夏樹は12本の映画の字幕(それはほとんど全てということだ)を担当している。私も大ショックだったが、彼の喪失感の比ではない。珍しくテオ・アンゲロプロスについて何も語っていない文章だった。私とアンゲロプロスとの出会いは「ユリシーズの瞳」だった。上映中の八割は寝ていた。最悪と言って良い。その後、幾作品かを経て、「エレニの旅」に出会う。二回観た。映画的体験はめったに起きることでは無い。池澤夏樹が「旅芸人の記録」を観た時の体験を「自分はたぶんこれを一割も理解していないけれど、何かとんでもなく大きくて奥の深い映画だ、ということは分かった」と書いている。私もまさにそう感じた。「難解といえばまさに難解だが、拒絶されたのではなく強い力で引き込まれた。出来れば全部が分かるまで何度でも観たいと思った」と書いている。まさに私もそう感じた。 後、一日かけて「旅芸人の記録」(五時間以上の作品)を観る機会をもらった。寝ることなんて出来なかった。ただ、二割理解出来たかどうか。いかん、こんなことを書いたらテオ・アンゲロプロスについて何も語っていないのと一緒だ。私は池澤夏樹とは違い、語るべき語彙を持たないのである。仕方ない。映画館で観て欲しい。それだけしか言えない。「エレニの旅」から始まる三部作は永久に完結しない。亡くなった時、そのことを一番悲しんだ。今日の池澤夏樹の文で未公開の「第三の翼(仮題)」があることを知った。クランクインして一ヶ月で監督を失った「もう一つの海(仮題)」もあったことを知った。出来ることなら、未完のままでいいから、なんとか観たいと思う。
2012年01月31日
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渡辺謙さんがダボス会議でこの様にスピーチしている。「 国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。 私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。」 渡辺謙さんが私と同世代ということを知った。はからずも、「ALWAYS 三丁目の夕日'64」と同じことを言っている。三丁目の三浦友和演じるお医者さんが言うのです。「私たちは、上の方ばかり向いている。けれども、(無料診療所で無償の医療をしている六ちゃんの恋人のように)その前にすることがあるのではないでしょうか。幸せ、って何なんでしょうね」この作品は、三作目にしてベスト作品になりました。あまりにもベタ名展開ですが、「完成度」が高いのです。お勧めです。ハンカチどころか、分厚いタオルを持っていったほうがよろしいかと思います。
2012年01月28日
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現在中国と北朝鮮の連合軍の5個師団が、西日本の分離・支配と大阪占領をめざし金沢市と鳥取県米子市に上陸を開始。侵攻阻止の防御戦闘を実施する陸自中部方面隊を、米太平洋陸軍(ハワイ)・第1軍団前方司令部(神奈川・キャンプ座間)指揮下の米軍地上部隊が支援し、“侵略軍”を打破すべく作戦を遂行中です。戦線は中国地方に展開され、岡山県では津山盆地が戦場となっています。別に嘘八百を言っているわけではない。今月1月24日から2月6日まで、自衛隊4500人と米韓の1500人が、コンピューターネットワークとシュミレーションを利用して、共同図上演習をしているのである(明確に中国、北朝鮮と言っているわけではない。念のため)。作戦名はヤマサクラ61という。去年の八月に発表された要項は以下の通り。日米共同演習 シナリオ判明2011年8月30日(火)「しんぶん赤旗」 陸上自衛隊と米陸軍が来年初めに予定している共同指揮所演習「ヤマサクラ61」(YS61)が、中国を想起させる国による日本侵略を想定したシナリオで行われることが29日までに分かりました。(以下は記事を読んでください)赤旗記事にもあるように、もともと荒唐無稽な作戦ではある。それならばなぜこんな演習を行なうのか。この演習の目的は、アメリカ軍がアジア・太平洋地域の即応態勢強化を位置づけていることに関係している。「日本防衛」の枠を大きく超えて、全世界で活動するアメリカ軍の訓練の場であり、アメリカが行なう戦争に日本を参加させるためのものである。1月22日には、伊丹で800人の反対集会を成功させている。今日は岡山県平和委員会が県に反対の申し入れを行なった。こうやって、自衛隊はアメリカ軍の手足のように動く準備が出来上がっていく。一機99億とも280億ともするF35戦闘機を45期購入することを政府は決めた。何が「身を切る覚悟」だ。F35の主要性能は「ステルス」だということだ。つまり忍者戦闘機。そんなのが日本上空で必要か?ここにも「日本を守るため」防衛費を聖域化していることの「大嘘」がある。
2012年01月27日
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「親鸞 激動篇」五木寛之 講談社この一月に単行本が出たばかりであるが、読者モニターでいち早く読ませてもらった。激動篇では、親鸞の壮年時代を描く。35歳の時に越後に流罪になったあと、むしろそれからが親鸞の思想が花開くときだったようだ。関東常陸の国へ足場を移し、念仏の教えを広めていたとき、弁円という修験者が親鸞の暗殺に赴く。弁円は親鸞のかおをまっすぐ見ていった。「われらは山中修験の功徳を世間の人びとに伝えて生きている。病気平癒を祈り、家内安全、五穀豊穣を願う。そのための呪文と、そなたたちの念仏と、どこが違うのだ」「われらがとなえている念仏とは、依頼祈願の念仏ではない。阿弥陀さま、おすくいください、と念仏するのではないのだ」親鸞の言葉に弁円は戸惑いを覚える。「われらの念仏とは、自分がすでにして救われた身だと気づいたとき、思わず知らず口からこぼれでる念仏なのだ」おそらく親鸞の「革新」とは、かつてそして今でも日本人に根付いている「現世利益」を徹底的に否定し、純粋な阿弥陀信仰を追い求めていった処にあるのだろう。坊さんの頭の中にでは無く、それを日常生活の中にひろめて行くのは、どうしたのか。五木版「親鸞」は、それを哲学書では無く、エンターテイメントで描き切った。エンターテイメント性を重視しすぎて、越後では親鸞が本来否定しているはずの「雨乞い」を大々的に行う羽目なる。失敗すれば命がない、しかし親鸞は目の前の困っている民を見捨てきれず行なってしまうのだ。そして最後の最後に奇跡が起こる。雨が降らなかったら降らなかったで、親鸞の思想が試される面白い展開になったはずなのだが、五木寛之は前巻を終わらす必要があったのか劇的な展開を用意してしまった。‥‥‥そういう弱点はあるものの、とっても面白く読める、というまさに「庶民のための」親鸞像を打ち立てる。此処には、今までに良く描かれた「聖人親鸞」の姿はない。混沌とした中世の時代の中で、走り、怒り、悩み、おののき、間違い、後悔し、それでも真実を求めてもがいている念仏者の姿がある。あまりにも人間的な親鸞がいる。黒面法師との三度目の対決も描かれる。母親を殺し、殺人拷問を好み、仏塔を焼き、悪を反省せず、最後まで念仏に耳もかさない極悪人も果たして「すくわれる」のか。前巻とはまた一歩進んだ親鸞の言葉を読むことが出来る。悪人正機説、はここで一応の完成を見ているようにも思える。しかし、それを実践の場で確かめるのは次の章を待たなければならないのかもしれない。何しろ、黒面法師との最終決着はまだついていないのである。この黒面法師、この作品のもう1人の主人公なのだろう。どの様に決着がつくのか、とっても楽しみである。最後のあたりで、「歎異抄」を書いた唯円が登場、次回に楽しみを持たせている。
2012年01月26日
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「親鸞 下」講談社文庫 五木寛之「仏様より呼びかけられてする返事だから、仏よりいただいた念仏、というのですね」「そう思う」綽空は自分で自分の言葉を確かめるように、二、三度うなずいた。「それが他力の念仏だ。自力の念仏とは、仏たすけたまえ、とこちらから呼びかける念仏。これまで範宴のころ、比叡のお山までわたしがずっととなえておったのは、その自力の念仏であった。いまはちがう。よばれれば何度でも、はい、と返事をする。一度の呼びかけできっぱり信心がさだまる幸せ者は、いちどの念仏でよかろう。だが迷い多く、煩悩深き悪人のわれらは、呼ばれた声をすぐ忘れたり、とかく逆らったりしがちなものだ。そんな情けない愚か者には、二度、三度と呼びかけられるのが仏の慈悲。だから一度念仏しただけでも往生できる。まして、呼ばれるたびに何度でもはいと愚直に答える者が、どうして救われないことがあろうか。念仏は一度がよいか、それとも多く念仏するのがよいか、などと議論するのは、そもそもおかしいと私は思う。一念なお往生す、いわんや多念においてをや、と法然さまがおっしゃねのを聞いたことがあるのだよ」法然の弟子になった直後の綽空のころは、一念と多念についてはこのように明確に答えていた親鸞であるが、「でも、悪人が救われるなら悪事はやり放題、というもの達には、なんと申しましょう」という問いには明確に答えることができない。悪人正機説の当然出てくるこの問いに対して明確に答えるのは、「激動編」を待たねばならない。しかし、最終決着をつけるのは現在連載中の最終の巻きなのだろうと思う。下巻では親鸞が法然の弟子になり、やがて法然と同時に京の都を追われるまでを描く。
2012年01月24日
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朝ドラ「カーネーション」はついに糸子と周防さんが想いを確かめる。ツイッターでは 「#周防さん」タグが花盛りだ。あの前に北村と糸子が「里芋」「じゃがいも」と罵り合っていたので、「俺も、好いとっと」という周防さんの長崎なまりに萌えたひとたちが「おいも、すいとっと」とたくさん呟いている(^_^;)。いゃあ、これって「不倫」だよねえ、周防さんの奥さんて、まだ死んでないよねえ。ちなみに写真は、左上から新従業員の薫さん、北村、繊維組合長、周防さん、下はヒロイン尾野真千子を囲んでコシノ三姉妹の成長した姿らしい。脚本が渡辺あやだということでずっと注目している「カーネーション」であるが、やっぱり一味違う朝ドラになりつつあるようだ。ふつうの朝ドラとどこが違うのか。一番大きいのは、糸子がバリバリ元気のあるキャリアウーマンだということじゃない。NHK朝ドラでおそらく初めてヒロインが不倫をするということじゃない。タブーを破ることはNHKはなんとも思っていない。宮崎あおいの「純情きらり」にしてもヒロインが最後に死ぬという形でタブーを破った。どこが違うのか。「語り」を糸子自身が行っているということである。大河ドラマにせよ、朝ドラにせよ、語りはたいていプロか、途中で死んでしまう母親とかの重要人物か、それとも未来の自分(「おひさま」では若尾文子)になっている。ところが、これは現在進行形の糸子である。よく見てみると、出てくるドラマも全て、糸子の見聞きしたドラマしか出てこない。ここに出てくる登場人物はすべてきちんとキャラが立っているので、つい気が付かないのであるが、たとえばお父ちゃんと神戸のじいちゃんの確執は詳しいドラマは描かれなかった。お父ちゃんの最期の様子も映像に出てこなかった。勘助の中国戦線でのトラウマに付いてはとうとう詳しいことは何一つ分らなかった。勝さんの不倫に付いても藪の中である。物語作家としては、もう少し「実は‥‥‥」ということで少しだけ別映像をはさめば、彼らの本心は実にくっきり浮かび上がるところではある。しかし、そんな美味しそうな「ドラマ」は全て観客の想像に任せるという「力技」を渡辺あやはしている。その代わり、糸子目線で全てを見せている。おそらく、飲み会で泣き濡れた北村の過去にどのようにことがあったのか、周防さんの長崎ではどのようなことがあったのか、ほとんど語られることはないだろう。行方不明の間奈津がどのようなことをしたのか、それも一切明らかにならないだろう。ただ、糸子の「女性としての自立そして成長」、たぶんそれだけがくっきり浮かび上がるのではないか。「カーネーション」のサブタイトルは、花言葉だったことを初めて知った。先週の「揺れる心」はホテイアオイ、今週の「隠しきれない恋」はジギタリス。
2012年01月22日
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b>「あの日からのマンガ」しりあがり寿マンガの大きな役割の一つに「風刺」というものがある。いや、漫画の役割とはそれだけだ、とまでかつて手塚治虫は言ったことがある。それならば、この大震災の時にマンガがその役割を果たさなかったとすれば、それは漫画の劣化以外のなにものでもないだろう。残念ながら漫画は臆病にもあまり役割を果たさなかった。これから果たすのだ、という意見もあるかもしれない。充分な準備をした後、大震災の「真実」をこれから見せていくのだ、と。しかし、それはもう映画や小説やテレビが始めている。「風刺」という以上、本当にいち早く作品を作らなければならない。特に3-4月の間に、TVが原発報道一色に固まっていた時期、本屋に行っても原発関連の本は数えるぐらいにしかなかった時期、一番知りたいと思っていた時に情報が届かなかった時期に、漫画だから語れる「一目でわかる情報」を届けなければならなかった。しりあがり寿は朝日で四コマ漫画を持っている。また月刊誌なども持っていた。そして彼はなんだかよく分からない時期に、良く分からないまま、しかしほとんど時々だがその「本質」を描き出した。そういう意味で彼の仕事は貴重だった。右上の4月12日(火)に掲載された四コマ漫画はあの当時の雰囲気を見事に写し取っていると思う。これも4月12日に書かれたらしい。コミック「ビーム」の五月号に掲載された。―舞台は50年後の世界である。電気社会は崩壊していて、みんな貧しく暮らしている。おじいちゃんは「昔は良かった」とお怒り気味だ。そして、子どもの時だけ「翼」が生えるように人間は進化(!?)している。「ねえ、ゲンパツってなんなの?」「こわれることで、新しいことが始まった」(と、大人の受け売りをしゃべりながら)子どもたちは冒険をして禁じられた地域に飛んでいく。その先は……。ちょっと鳥肌がたったショットだった。さて、5月2日に、作者は思い立って東北にボランティアに行く。庶民が初めて現場に入った時のショックが伝わる。
2012年01月20日
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キネマ旬報ベスト・テンが発表された。映画は人によって百通りの見方があるのは知っているが、いつもは教えられることが多い賞だけに今回は少し失望した。第85回キネマ旬報外国映画ベスト・テン⇒ 1,ゴーストライター 2,ソーシャル・ネットワーク 3,英国王のスピーチ 4,無言歌 5,ブラック・スワン 6,マネーボール 7,トゥルー・グリット 8,ヒア アフター 9,灼熱の魂 10,家族の庭(次)ウィンターズ・ボーン bit.ly/z0uoGY 第85回キネマ旬報ベスト・テン発表!⇒ 1.一枚のハガキ 2.大鹿村騒動記 3.冷たい熱帯魚 4.まほろ駅前多田便利軒 5.八日目の蝉 6.サウダーヂ 7.東京公園 8.モテキ 9.マイ・バック・ページ 10.探偵はBARにいる (次)監督失格 bit.ly/z0uoGY私の観た作品もたくさんあるが、順番が全然違う。特に邦画。「一枚のハガキ」は確かにいい映画だが、はたして一位に推すほどに完成度は高かったのか。監督に対する功労賞的な意味合いがなかったか。もしあったとするならば、作品自体に対する侮辱ではないのか。「大鹿村騒動記」にしても主演俳優に対する功労賞がなかったか。因みに私のベストテンは以下の通り。邦画マイ・バック・ページ 八日目の蝉 奇跡 エンディングノート Peace 死にゆく妻との旅路 モテキ 一命 一枚のハガキ 太平洋の奇跡 洋画BIUTIFULビューティフル エリックを探して ブラック・スワン 孫文の義士団 冬の小鳥 愛の勝利を ムッソリーニを愛した男 サンザシの樹の下で X-MEN:ファースト・ジェネレーション キック・アス ザ・タウン もう一つ作っているブログに九月以降観た作品の映画評アップしたいのだが、なかなか余裕が持てない。これらの作品がどの様に素晴らしく、何故上位にあるのか、とても書く時間がない。
2012年01月18日
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東京新聞の今日のニュースには、心底怒りの感情が湧き上がる。拡散予測、米軍に提供 事故直後に文科省2012年1月16日 22時21分 東京電力福島第1原発事故直後の昨年3月14日、放射性物質の拡散状況を予測する緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)による試算結果を、文部科学省が外務省を通じて米軍に提供していたことが16日、分かった。 SPEEDIを運用する原子力安全委員会が拡散の試算結果を公表したのは3月23日。公表の遅れによって住民避難に生かせず、無用な被ばくを招いたと批判されているが、事故後の早い段階で米軍や米政府には試算内容が伝わっていた。(共同)枝野さんが「直ちに影響はない」といいながら、10キロ、30キロの避難地域を小出しに拡大していたころである。その頃、アメリカはいち早く80キロ圏内の「同胞」の避難を決めていた。私は、そうは言っても大本営発表を信じていたので、外国のこの過剰な反応を「まあまあ、そんなに‥‥‥」などと思っていた。しかし、アメリカは明確な根拠を持って避難を決めていたのである。私自身にも腹が立つ。これでもまだ、時の政府はその責任の所在を逃れようとするのか。後に裁判になった時に、誰が決定したか闇の中に入るのだろうか。そんな事は絶対に許せない?そういえば、こんなこともあった。☆コスモ石油デマの真相稿者 しょうがゆ 日時 2011 年 5 月 27 日 13:55地震発生直後に出回った「コスモ石油から有害物質が発生するため首都圏の人は雨にあたるな」というデマ(ということになっている)ですが、真相はコスモ石油の隣にあるチッソ石油化学に保管されている劣化ウランへの延焼を懸念するコスモorチッソ石油化学の内部の人間が流した真実の情報であったようです。「単なる震災デマ」として、見過ごすことの出来ない事実です。地震発生日に、チッソ石油化学は政府へ通報しています。首相官邸ホームページ・下記pdf75ページ(注:PDF)http://www.kantei.go.jp/saigai/pdf/201105231700genpatsu.pdf あの時、私は薔薇豪城さんへは「雨に当たるな」ということをコメントで注意喚起した後、「デマだったそうです。」と言って謝ったのである。あのときも「デマに惑わされるな」という大本営発表を素直に信じたのである。しかし、万が一の時には大変なことになっていたことを政府は把握していたのに、それを隠していた。ということを後になって知った。要はどこを向いているか。ということなのだと思う。震災のとき、政府はアメリカの方をみていた。震災のとき、政府は自らの保身だけを考えていた。構造は戦前と変わらない。国体のみ見ていて、自身の保身だけを考えていて、原爆投下を知らせず、戦争を終わらすのを遅らせた彼ら。何も変わっていない。ただ、情報が漏れるのが少し早くなっただけだ。
2012年01月17日
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「赤刃」長浦京 講談社初めて読者モニターなるものに挑戦した。単行本の見本誌(プルーフというらしい)という四六版の簡易製本で読んだ。しかし、しっかり275頁ある読み応えのある時代小説である。2012年1月5日、刊行予定(つまり読んでから一ヶ月たって今は市場に出ている)。小説現代長編新人賞受賞作品らしい。江戸初期、徳川家光の治世。百を超えるの災禍に、江戸の町は震撼していた。殺戮集団の主犯は、戦国の英雄、元津藩士の赤迫雅峰とその一党。幕府が送る刺客は次々と返り討ちにあい、老中・松平伊豆守は切り札となるに旗本・小留間逸次郎を任命する。赤迫対逸次郎、血塗られた闘いは連鎖し、やがて市中は戦場と化す……。「命とはそれほどに価値あるものか。他人の命が惜しくないように己の命も惜しくない。なあ、そもそも命を惜しむとはどういうことだ、教えてくれ逸次郎」赤迫一味のひとり、稲津はそう言って死んでゆく。赤迫の行いのどれもが、樽木屋の目には美しく映った。下品に切り散らかすだけでない、気高さがある。つい先ほど音羽を討ち取ったときの、刀の運び、槍さばき、磨かれた舞のようなそのそれらの動きのすべてが、狂気とは忌むものではなく麗しいものだとうったえかけているようだった。本能のままに生きた末にあるものが絶望ではないと、赤迫は、この男は感じさせてくれる。「何を狂ったことを。おまえは狂っている」「そうとも狂っている。武士などという狂った存在は、この太平な世に必要ない」最初、比較する作家で思い出したのは、作家初期は鬱屈した心情を作品に投影した藤沢周平だった。しかし、やがて似て非なるものだと思う。はるかにドライでそして非情な人物が登場する。次ぎに思い出したのは、末期がんを宣告され闘病生活中に作品を残した稲見一良だった。彼も初期の作品は晩期のファンタジーではなく、異種格闘家が山の中で生命の奪い合いを行う「ソー・ザップ!」という作品を残している。長浦氏も闘病生活のあとにこの作品を書いたという共通項がある。ただ、「ソー・ザップ!」で死人は出るが、それは主要人物だけだった。この作品のように、社会も壊れてしまえ、というような怪物は出てこない。次ぎに思い出したのは、去年の映画「十三人の刺客」の刺客たちの標的、明石藩主の松平斉韶である。斉韶が一番赤迫と共通項がある。ただ、赤迫のほうがはるかに自覚的である。この作品の主人公は逸次郎であるが、力点はあきらかに、辻斬りを百人以上行い大名の嫡子を誘拐して幕藩体制に公然と挑戦状を送っている赤迫一党の「狂気」に向けられている。これも地下鉄サリン事件、秋葉原事件のような大量殺人事件が起こりえる現代日本に出るべくして出た時代小説なのかもしれない。著者は現在難病と闘っていると云う。おそらく、その体験が死を乗り越えた先にあるものへの「何か」に向かったのだろう。「生きるとは何か、死ぬとは何か」その問いかけがこの作品の中にある。ただ、私はそれがすべての権威を破壊し、「狂気」に走る方向に向かった赤迫をああういう死に方で終らしてフォローしなかったのには、共感しない。いまのところ、逸次郎はただの狂言回しでしかない。逸次郎の妻とのエピソードをもっと膨らましていたならば、別の物語になったのではないか。ちなみに講談社に感想文として送ったのは、以下の文です。字数が限られていて、とても意は書きつくせない(字数を合わせるため上の文章を若干削っています)。この作品の主人公は逸次郎であるが、力点はあきらかに、敵役赤迫一党の「狂気」に向けられている。これも地下鉄サリン事件、秋葉原事件のような大量殺人事件が起こりえる現代日本に出るべくして出た時代小説なのかもしれない。著者は現在難病と闘っていると云う。おそらく、その体験が死を乗り越えた先にあるものへの「何か」に向かったのだろう。「生きるとは何か、死ぬとは何か」その問いかけがこの作品の中にある。ただ、私はそれがすべての権威を破壊し、「狂気」に走る方向に向かったのには共感しない。逸次郎の妻とのエピソードをもっと膨らましていたならば、別の物語になったのではないか。
2012年01月15日
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橋下徹という某新市長が公式ツイッターで知識人を批判という名の罵倒を始めた。 例えば内田樹氏に対しては、以下の様な言い方だ。 @t_ishin地域行事の挨拶やシンポジウムなどのイベントに出席することが主な仕事のお飾り市長ならともかく、本気で市長の仕事をやろうと思えば260万人の人口を擁する大都市を一人の市長が切り盛りするのは無理。行政単位は、長がどこまで管理できるかと言う視点が重要であることの認識が全くない。橋下徹@t_ishin住民が自己決定できる行政単位のサイズと言うものがある。住民が選挙で選んだ長が住民とコミュニケーションできる行政単位。これが基礎自治体だ。まあ150人の合気道道場が都市モデルだと言い切る御仁とは永遠に話しはかみ合わないだろう。こちらは現実の政治行政を担っている。夢見る子羊とは違う。橋下徹@t_ishinそしてこの内田という御仁。まあ大阪維新の会の教育基本条例にもあーだーこーだと誰でも言える綺麗ごとの批判を繰り返し、教育論なんてぶち上げていたけど、じゃあ大阪の教育で何をした?平松前市長の特別顧問だった間に。橋下徹@t_ishin昨日、市教育委員会と公開議論をやったけど、市教育委員は前市長と意見交換をしたのは年に一回。教育委員会の形骸化も甚だしいけど、結局こう言う大学教授の面々は、偉そうなことは色々言うんだけど、何をやったの?と問うと、何もやっていない。これが大学教授の実態ですね。橋下徹@t_ishinまあ世の中の厳しい現実からは遠い所で自由な時間を与えられ、自分の好きなことをし、しかも相手はいつも自分を先生とあがめる学生たち。周囲からも先生、先生と呼ばれて、何十年。何一つ実行しない大人になっても仕方がない。今の日本、本当に役立つ識者がいなくなった。これが日本がダメになった元凶橋下徹@t_ishin住民に飯を食わさないと行けない。だから日々、あれやこれやと改革をやって、新しい構想を考えて、色んな所とぶつかって・・・まあこれが税金で養われている僕らの仕事です。批判は良いんです。普通の市民からはアホ・ボケ・カスの類の批判も結構。 2012年1月11日 - 1:24am ついっぷる/twippleから でも、大学教授って、僕と同じく税金が給料に投入されている。しかし、大学教授ってその辺に対する謙虚さってないよね。あんた方何様なんだよ!でも実際に政治・行政のど真ん中に入って、政治・行政のプロセスを体験し、実行した大学教授って、世間に対する謙虚さがにじみ出ている。竹中平蔵先生。 この一年間、中学を卒業した悪ガキの日常を見る機会があったのだか、彼らが言いがかりをつける様子と良く似ている。 ともかく、強い立場にたつ。付け入る点があれば、徹底的に言う。根拠もなく罵倒する。 こういうのを見ると、中学生がいじめ自殺をするのも分る気がする。最初公務員、それは一定成功した。次は労組だ。脇が甘かったとは言え、まともな反論はせずに擦り寄る姿勢を見せた。そうすると、労組一般を罵倒するという経過に。ほとんど日も経たずに今度は知識人だ。 高村薫に対しては、次の様に言う。 田原総一郎さん、あと、香山リカとか言う精神科医と、毎日新聞にしか出てこない何をしている人なのか分からない高村薫と言う人も。香山氏は、一回も面談もしたことがないのに僕のことを病気だと診断してたんですよ。そんな医者あるんですかね。患者と一度も接触せずに病名が分かるなんて。サイババか!高村薫という人は何をしている人なのか全く分からない。作家らしいが、毎日新聞で時事ネタに関して非建設的な意見だけを述べる。役立たずコメントのみ。僕が光市母子殺害事件弁護団に対するテレビ発言で、弁護団に訴えられ一審敗訴の時に、「痛快!」というタコメント。その後、僕が最高裁まで争って僕の言い分が通ったときには、何もコメント出さず。この程度の人。直接論戦したいですね。2012年1月11日 - 6:51pm ついっぷる/twippleから 馬鹿らしい。一番良いのは、反論しない事だ。一つ一つに反論することはおそらく容易だと思う(そもそも数年に一度大作をモノにする立派な作家だし、時評は論文じゃ無い)。しかし、橋下徹は一人の弱い個人じゃ無い。土俵に乗るのは危険だ。 北海道大学の山口氏、中島氏、同志社大学の浜氏、神戸女学院大学の内田氏、精神科医の香山氏、良く分からん高村氏。まあ頓珍漢な批判ばかりしてくるので、一度直接討論をしたいけど、僕と会うのも嫌がるでしょうね。田原総一郎さんお願いします。 高村薫さんは賢い。 まさか挑発には乗らないとは思うが、やっかいなのは、この悪ガキ自体が大きな影響力を持っているという事だ。
2012年01月13日
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今日は「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」という日らしい。寒気極めりとみえるが、自然界は春の準備を始め、氷った泉の底では水が動きだしているという。「鏡開き」の日でもあります。今年初めて豆餅を食べました。寒さをも耐えゆけば、いつかは春の来るのかな。DVDで「ばかもの」(金子修介監督)観た。思いもかけず良かった。子供のような未熟者が、その未熟さ故にアルコール依存症になってゆく様、そして、ゆっくりゆっくり大人に成って、病気も克服してゆくさまを、成宮寛貴、内田有紀、中村ゆり 、白石美帆、たちの男女関係の中でゆっくりゆっくりと描く。「克服」を簡単に描かないところが、素晴らしかった。金子修介監督は、相変わらず女性を魅力的に描く。内田有紀は老練と言っていい演技をし、中村ゆりが存在感のある女優に成っていた。思えば金子監督で「外れ」を見た記憶がない。「毎日が日曜日」「クロス・ファイア」「デスノート」「平成ガメラシリーズ」この前の「プライド」‥‥‥。大作以外はあまり宣伝もしていなくて直ぐに終わるので映画館で見た記憶がないが、DVDでいつも見なかったことを後悔する。もしかしたら大監督かもしれない。これからは見逃すことのない様にしよう。
2012年01月11日
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「名もなき毒」宮部みゆき 文春文庫宮部みゆきの作品は、ここ10年無駄に長くて辟易していたのだが、これは良かった。「火車」を初めて読んだときのような充実感を感じた。ここには、犯罪になるかならないかぐらいの、性質(たち)の良く無い「悪意」が描かれる。一人は、原田いずみ。新人アルバイトでトラベルメーカーである。最初は「ミスを指摘すると、以前はすぐに謝って直していたのに、言い返すようになった。手の込んだ言い訳も並べるようになった。やがて、それを通りこして攻撃的になって来た。」というぐらいのモノだった(これでも大変な事だ)。私は似たような人を知っている。ある範囲を越えると、私には、理解不能に成る。原田いずみは、やがてとんでもない行動も起こす。この作品では、その他、他の人物の殺人などの犯罪も描かれるが、それと日常の悪意或いは「名もなき毒」との違いは何なのか、私たちに問われることになるのだろう。そんな「名もなき毒」を相手にしていた「探偵」北見一郎の意思を継ぐかの様に杉村三郎は呟く。あなたは、事件の後始末に疲れたと言った。もううんざりだと言った。もっと早く、後始末が必要になる前に何か出来ないかと思ったのだと言った。それはいわば、この世の毒を浄める仕事だ。果たして、杉村三郎がそういう日常探偵を始めるかどうかは分からない。しかし、続編は書かれているという。そこに「希望」はあると、宮部みゆきも思っているのだろう。
2012年01月09日
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湯浅誠さんが最近連続ツィートしている(約半年音沙汰なかった)。ほとんどが読書記録なのだが、それなりに意味あるツィートだと思っている。過去連続ツィートしたときは、例えば独身の結婚率などの行政調査結果だった。それが例えば去年の講演の「シューカツ、婚活、そしてその次にくるのは、生活です。」という主張に繋がったのはあとで分かった。今回紹介されている著者はおそらく全面的に同意されているわけではないと思う。でも、多分今年の湯浅誠さんの活動にリンクしているのではないかと推測出来る。ちょっとどう関係するか考えてみようと思う。12/01/02 2:25萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』読了。「ネーションの成立とは、国家ありきの歴史的プロセスなのだ。ネーションの成立にとって、国家がみずからの領域を資本主義経済が発展するための社会空間へと再編成したことは決定的なのである」(P174)同上。「国家が国民化してきた歴史的プロセスを前提として、それを改良するか拡大するかという方向にとどまるほかない」(P200)12/01/02 2:35橋下徹『体制維新』読了。「政策はもちろん大事です。しかし、政策は政治家がひとりで考えるよりも、しかるべき専門家の知恵を結集して案を練ってもらうほうがよい。・・・僕は知事になったとき、現行の体制を変えることが使命だと考えました。・・・体制の変更とは、既得権益を剥がしていくことです。(つづき)・・・これはもう戦争です。・・・議会についてもそうです。・・・民主主義の政治にとって、話し合い、議論は大切ですが、最後は選挙によって決着をつけなければニッチもサッチもいかない、そういう局面がやってきます」(P74-75)これは何らかの政治闘争を想定していると考えたほうが自然ではないかと思うのです。どういう方面か。それは一つは次のツィートが参考になる。12/01/04 0:35「話題」の生活保護問題について、NHK視点論点で話しました。どなたか存じ上げませんが、アップしてくれている方がいるので、紹介します。amba.to/vb08hi12/01/04 0:42視点論点では詳しく取上げられませんでしたが、これも「話題」の生活保護医療費問題。医療費の内訳はこちら。bit.ly/pQVV1M 。医療費の約25%(3200億円。H19年度予算)を使っているのが精神入院費。日本の精神医療は地域生活移行が立ち遅れていることで有名。生活保護受給の精神疾患入院患者6.3万人のうち、約25%の1.4万人は「受入体制整えば退院可能」。医療費問題は、だれでも住める地域・まちづくり問題と考えるべきと思う。12/01/04 0:53阿部彩『弱者の居場所がない社会』。(「現在の日本の社会において、ある家庭がふつうに生活するためには、最小限どのようなものが必要だと思いますか」と項目別に聞いた調査の結果について)「特に、際立つのが、子どもの必需品に対する支持率の違いであった。・・・イギリスでは55%の支持を得た自転車は日本では20.9%。誕生日のお祝いは、イギリスでは93%、日本では35.8%であった。イギリスの人々が、「すべてのイギリスの子どもたちに与えられるべき」と考えるものの多くについて、日本の人々は「すべての日本の子どもに与えられなくても、しょうがない」と答える。ちなみに日本でも、自分の子どもに自転車を与えている親の割合は87%、誕生日のお祝いをあげている割合は95%である。自分の子どもにはほぼ100%与えているものでも、日本に住むほかの子がそれを欠いていても「いたしかたない」と考えるのである(P76-80)。以下の抜き書きがあるのは、よく分からない。「独裁者はこの様に論理を展開するのか」と感心して出したのか。12/01/05 1:08石原慎太郎『新・堕落論』。「アメリカによる日本統治は実に巧みに、実に効果的に運ばれてきたものだとつくづく思います。その象徴的な証左は広島の原爆死没者慰霊碑に記された『過ちは繰り返しませぬから』という自虐的な文言です。これでは主語は我々日本人ということになる。過ちを犯したのは、彼らアメリカ人ではないか。・・・慰霊碑に記されている『過ちは繰り返しません』という自虐的言葉の呪縛は、日本が持てる技術力によって核兵器を製造保有することをタブーにしてしまいました」(P66-67)やはり、この間医療問題に相当興味を持っているようだ。12/01/05 1:16映画『医す者として』を見ました。農村医療の記録としてだけでなく、現在の医療・福祉の課題につながっているところがさらに興味深く、考えさせられました。iyasu-mono.com 近くコメントが載る予定です。12/01/06 0:48映画『医す者として』のコメントがアップされました。bit.ly/yz09Fj12/01/06 1:02中野剛志『国力とは何か』。「経済ナショナリストの真の目的は、ネイションの維持と発展にある。それゆえ、経済成長や産業競争力強化のために、貧富の格差が拡大し、ネイションが分裂することを許容しない。・・・一般に社会政策や福祉国家の理念は左派のイデオロギーに近いものとされ、他方、ナショナリズムとは右派の主張であるとみなされている。しかし、資本主義のもたらす破壊からネイションという共同体を守ろうとする点において、経済ナショナリズムは、イデオロギー上の翼の左右を超えて、福祉国家の理念に共鳴するのである」(P170-171)。12/01/06 1:11中野剛志・柴山桂太『グローバル恐慌の真相』。柴山「自由貿易と保護貿易というのは断絶しているのではなく、程度問題」、中野「自由貿易といっても・・・得意なものに特化して輸出で稼ぐということになると・・・ほとんど重商主義に近くなっている」(P179)。新自由主義≒重商主義≒国家資本主義12/01/07 0:35野口雅弘『官僚制批判の論理と心理』。「後期資本主義国家においては、経済へのいかなる政治介入も、市場の論理を踏みにじり、特定の人々の既得権益をつくりだし、擁護するものに見えてしまう。これを回避するには、介入をミニマムにする、つまり「小さい政府」が有効な方向性として浮かび上がってくる。「このとき「民意」は、容易にそちらの方向へと誘導されていく。「より多くのデモクラシーを」という方向性と、「より小さい政府を」という新自由主義の共闘による官僚制批判は、「正当性」をめぐる争いに直面して、後者に絡め取られていくのである。/もし「正当性の危機」が新自由主義に絡め取られない条件があるとするならば、そもそもきれいで、わかりやすい解決策など不可能であるということを、別の言い方をすれば、形式合理性と実質合理性の相克は原理的に解きえないということを自覚したうえで、モデレートに、粘り強く合意を積み上げていくというのがそれになるかもしれない。・・・それはネゴシエーションやブレや迷いなどの不透明な状態を必然的に抱え込んだ選択肢であり、明確な方針(「哲学」)と強い姿勢(「本気」)を是とする人たちからは好まれようがない政治のあり方となる」。(P94-95)此処から浮かび上がってくるのは、やはり生活保護制度の抜本改悪が狙われている今年、本格的な闘いを覚悟しているということなのではないかと思うのです。その時、それは「ネゴシエーションやブレや迷いなどの不透明な状態を必然的に抱え込んだ選択肢」なのではないかと思うのです。
2012年01月07日
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今日は「寒の入り」だそうです。韓国から戻った直後はジャンパーを開襟しても大丈夫な気候に「日本は暖かい」とつくづく思ったものですが、やっぱりこの時期になると朝夜は暖かいものが欠かせません。けれどもまだ、湯たんぽだけで凌いではいます。春の七草もこのときに食べるわけですが、「芹乃(すなわち)栄う」というのがこの時期でもあるそうです。あかねさす昼は田賜びて ぬばたまの夜の暇(いとま)に摘める芹これ万葉の時代は、日中仕事で忙しい男が夜に摘んでくるほどのプレゼントだったらしい。当然昔は精進料理のようには七草は食べられなかったはずだ。秋の実りの米を使いながら、海や山の幸をぐつぐつ煮て私は美味しい栄養汁を作っていたはずだと想像する。さて今晩の雑炊は、2-3日前から使いまわしている白菜と鶏肉の鍋汁におせちの残り物や練り物、そして韓国から持って帰ったコチジャンを入れて闇雑炊。辛いけど温まりました。この凍てつく空の下、日本全国のホームレスの人たちは生きているだろうか。生活保護世帯が過去最高の205万人を超えたということがニュースになっているが、単に最後のセーフティネットであるこの制度が多くの人に知られただけに過ぎない。今年はこの制度の骨抜きが狙われている。湯浅誠さんが12月16日に毎日新聞に投稿した内容が静かな反響を呼んでいる。途中までわざと「件の新市長」のことを勘違いさせるように書かれている。やっぱり湯浅さんはなかなかのアジテーターではある。私の社会保障論 興味深い新市長のあいさつ=湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)福祉は最高収益の投資 「深刻化する住宅難、減少し続ける働き口、憂いが深まる伝統市場や路地商圏、競争力が低下している自営業や中小企業。増える非正規職。そのどれもが、新しい解決策を求めています」 先ごろ当選した新市長の就任あいさつ文の一節である。新市長は、現政権や既成政党に不満を持つ多くの市民の支持を集めて当選した。「圧勝」とは言えなかったが、それでも対立候補に7ポイントの差をつけた。弁護士出身でアイデアマンとしても知られ、旧来の政治家像とは異なる雰囲気に、市民は「やってくれるかもしれない」と期待を抱いたのかもしれない。政策は十分に練りこまれているとは言えず不確実な部分も少なくないが、今回の選挙結果は既成政党に大きな衝撃を与えており、すでに新市長を「台風の目」とする政界再編が始まっている。 新市長のあいさつ文は次のように続く。 「1%が99%を支配する、勝者が独占し多数が不幸になるという現象は公正な社会ではありません。過度な競争で皆が疲れ弱っていく生活は、公平な世界ではありません」たしかに、過度な競争は多数の人々を疲弊させ、社会の活力を失わせるだろう。それは公正ではないだけでなく、効率的でもない。だから新市長は次のようにも言う。 「福祉は人間に対する最も高利回りの貯蓄であり、将来に対する最高収益の投資です。福祉か、成長かの二分法はもはや通用しません。過去10年の間に、成長かのが必ずしも福祉をもたらすわけではないということが明らかになりました。むしろ、福祉が成長を牽引する時代になったのです。何よりも我々は、OECD(経済協力開発機構)加盟国で最下位の福祉水準という不名誉から抜け出さなければなりません」* 投資とは、何も企業に対するものを指すわけではない。新市長がさっそく実現した公約は大学の授業料半額化だった。授業料負担に耐えられず疲弊していく若者の存在は、生産年齢人口が減る中、端的に社会の損失である。それを回避し、人を育てる費用は、貯蓄であり投資だろう。福祉のない成長を、結果的に将来世代の可能性を食いつぶす。それゆえ新市長は宣言する。 「福祉は施恵ではなく、市民の権利である」と。 新市長とは、朴元淳(パクウォンスン)。10月26日に誕生した韓国の首都ソウルの新市長である。途中まで「あの人」と似ていると思った方がいたかもしれないが、全然違う。そもそも朴氏は「市長こそが市民であり、市民こそが市長なのです」と言い、独裁を掲げてはいない。
2012年01月06日
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朝ドラの「おひさま」でこの本の冒頭の詩「心に太陽を持て」が印象深く使われていた。本屋で文庫本を見つけたので買ってみた。開いてみると、いくつか「そうだったのか」ということが。一つは、私の大好きな本である吉野源三郎「君たちはどう生きるか」は戦前の「国民少年文庫」に入った一冊だったのであるが、あれは山本有三責任編集、吉野編集長で作ったものだった。この本は、その第一回配本で山本有三がまとめたものであった。戦後になって改訂版を出して、10編新しい話を入れたみたいなので、どれがオリジナルの話なのかちょっと分からないが、吉野のあの本にも負けない実に良質の少年本だった。戦前のそれも昭和10年になると、軍記モノが幅を利かす時代でこのような本を出すのはとても勇気が要ったことだろうと思う。ほとんどはアメリカやドイツ、イギリスの話です。イギリスの船が沈没した時に、漂流者をずっと歌で励ました女性の話「くちびるに歌を持て」あるいは何度も何度も困難を克服した「パナマ運河物語」社会事業である海底電線のために、何度も破産をこうむりながら事業を成し遂げた男の話「海底電線と借金」、読んだことのあるようなないような話が次々と出てきます。例えばこの話は明確に読んだことのある話でした(もしかしたら教科書に載っていたのか)。短いので紹介します。「一日本人」「なんだ。なんだ。」「どうしたんだ。どうしたんだ。」 口々にさけびながら、バスティーユのひろ場のほうへ、人々が飛んでいきました。じりじりと日の照りつける広い往来には、たちまち黒山の人だかりができました。 人がきのなかには、荷物を山のように積んだ荷馬車が、動かず突っ立っていました。しかし、みんなが駆けつけたのは、もちろん荷馬車が珍しいからではありません。荷馬車をひいててきた馬がおなかを見せたまま、道端に倒れてしまったからです。おなかにはあぶら汗がいっぱいにじんで、黄色く光っていました。 馬は暑さでつかれているところへ、舗道に水がまいてあったために、ひずめをすべらしてころんだのです。 御者はいうまでもなく、そこへ集まった人たちもなんとかして馬を立たせてやろうといろいろと骨をおりました。馬も立ち上がろうと、もがきました。しかし、鉄のひずめが、舗道の表面をななめにこするばかりで、どうしても立ち上がることができませんでした。そのうちに、馬のおなかは次第にはげしく波をうち始めました。こまりきった御者は、手のつけようがないという顔で、馬の腹をみおろしながら、ため息をついていました。 その時、顔の黄いろい、あまり背の高くない、ひとりの紳士が人がきの中からつかつかと出てきました。かれは、いきなり自分のうわぎをぬいで、それを馬の足へひきました。それから、みぎ手でたてがみをつかみ、ひだり手で馬のタヅナをにぎりました。「それっ!」かれはからだに似あわない、大きな、かけ声をかけました。それははっきりした日本語でした。 馬はぶるっと胴ぶるいして、ひと息に立ち上がりました。うわぎですべりがとめてあったために、まえ足にぎゅっと力がはいったからです。 見物のなかには、思わず「あっ。」と声をもらす人もいました。 御者は非常に喜んで、いくたびか、その黄いろい顔の紳士にお礼を言いました。だが、紳士は、「ノン、ノン。」(いいえ、いいえ。)と軽く答えながら、てばやくうわぎを拾いあげました。そして、どろをはらってそれを着ると、どこともなく、すがたを消してしまいました。 このことはすぐパリの新聞に出ました。いや、それはフランスだけではありません。イギリスの新聞、イブニング・スタンダードにまで掲載されました。(1921年6月30日のぶん。)そればかりではありません。イギリスで出版された逸話の本のなかにも、「日本人と馬」という題でのせられています。 この人の名まえは、おしいことに、今では、もうわかりません。文章を読むと、小学生にも分かるように優しい言葉で書かれているにも拘らず、ありありと情景が浮かぶように、厳選された表現を使っているのが良く分かります。例えば「おなかにはあぶら汗がいっぱいにじんで、黄色く光っていました。」「ぶるっと胴ぶるいして」というような描写です。編集者が選んできた話のひとつひとつを山本有三が厳密に吟味した結果なのだろうと私は推理します。私もそうなのですが、この文章で日本人に対する誇らしさを培ったと思います。もうそれはたぶんなん億もの日本の少年少女が同じ思いをしたのではないか。名も無く、貧しく、無学の、けれども感動的な女性を綴った「キティの一生」という文もあります。今年文庫本としては異例の32刷を数えていました。
2012年01月05日
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明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。ご無沙汰していました。生きています。年末、30日に無事韓国から帰って来ていたのですが、次の31日にどうしてもTOHOシネマズの一ヶ月フリーパスポートを取らないと、ポイントが失効してしまうために映画館に行ってしまいました。それから四日間は怒涛の映画の日々でした。パスポート以外の三本含めて11本見たといえば、家に帰ってPCを開ける間もなかったということも分っていただけますでしょうか。と、いうわけで、そのうちの一本に付いて紹介したいと思います。「真夜中のカーボーイ」去年の映画「マイ・バック・ページ」で、妻夫木演じる主人公が、この映画の感想を女子高生タレントから聞かれて、「最後がみっともない」みたいなことを言うと、彼女は反論し、「私はダスティンホフマンが怖い、怖いって云うところが好き、私はきちんと泣ける男の人が好き」と言うのである。この言葉は、この作品の最も重要な台詞で、私はこの半年ずっとこのことを考えて来た。やっと午前10時の映画祭で観ることが出来た。 果たして、ダスティンホフマンは、「怖い」と言ったときには泣いているわけではなかった。彼がボロボロ涙を流して泣いたのは死ぬ直前の失禁した事に気が着いた時だ。しかし、心の中では「怖い、怖い、死ぬのが怖い」と泣いていたに違いない。彼女は心の中で映画を観ていた。 「きちんと泣ける」とはどういうことだったのか。 ドングリさんから教えていただいたのであるが、ウィキペディアでは、アメリカンニューシネマについてこう書いている。「 ヴェトナム戦争への軍事的介入を目の当たりにすることで、国民の自国への信頼感は音を立てて崩れた。以来、懐疑的になった国民は、アメリカの内包していた暗い矛盾点(若者の無気力化・無軌道化、人種差別、ドラッグ、エスカレートしていく暴力性など)にも目を向けることになる。そして、それを招いた元凶は、政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。 ニューシネマと言われる作品は、反体制的な人物(若者であることが多い)が体制に敢然と闘いを挑む、もしくは刹那的な出来事に情熱を傾けるなどするのだが、最後には体制側に圧殺されるか、あるいは個人の無力さを思い知らされ、幕を閉じるものが多い。つまりアンチ・ヒーロー、アンチ・ハッピーエンドが一連の作品の特徴と言えるのだが、それは上記のような鬱屈した世相を反映していると同時に、映画だけでなく小説や演劇の世界でも流行していたサルトルの提唱する実存主義を理論的な背景とした「不条理」が根底にあるとも言われる。 」 この作品の中でも、これらの世相は描かれてはいるが、ジョンボイトとダスティンホフマンは、断じて反体制人物ではない。ただ、社会の矛盾の中で隅に追いやられた者だ。偽カーボーイのボイトは、 働くのか嫌で有閑マダムに売春をするためにテキサスからニューヨークに来たのだ。その試みは失敗し、マイアミに逃げる途中でホフマンがなくなるのである。ホフマンは、未来のボイトだった。その事に最後までボイトは気がついていない。全く気がついていないのである。恐ろしいほどに彼は最後まで泣かない。 本当に泣いているのは、終始ボイトだった。泣くべきは、自分の人生を後悔し、立ち直らなくてはならなかったのは、ボイトだったのだ。 女子高生は、あの時ボイトを責めていたのである 。そして、作品自体は、妻夫木の号泣で終わった。「マイ・バック・ページ」は反省のかけらもなかった偽反体制人物の松山ケンイチを責めている作品になっていたのだが、実際のモデルである川本三郎は、本を読むと全学連シンパであった自分を全く反省してはいない。川本三郎も原作の中では泣いていない。 さて、現代の私は果たして「きちんと泣いた」だろうか。涙をこらえてかっこつけて、そして大事なものを落として未来にむかわなかっさただろうか。現代の原発を推進した人たちは果たして「きちんと泣いた」だろうか。私は泣いていないように思う。 「きちんと泣ける」このことが、いかに難しいか、私はこれらも考えていかなければならない。
2012年01月04日
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