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さて…何だかネタ埋めみたいに書き込んでいます(^^);今日のテーマはこの機関車です。本線列車が到着し、本線用のカマが列車から離れると、今度は入換用のカマの出番です。ローカル列車だけでなく、特急列車も同じ。本線用のカマが一息入れている間もせっせせっせと働きます。貨物駅でも同じこと。あっちの貨車をこっちに、こっちの貨車をあっちに、編成を組んで、またばらして…広いヤードを縦横無尽。DE10・DE11・DE15のシリーズ。DD51用のDML61系エンジンを一台のみ搭載し、軸重制限と粘着牽引力両方をクリアするため5動軸を採用、独特のセミセンターキャブの姿は瞬く間に全国に広がりました。黒1色だった機関区を明るくしたまでは良かったのですが、蒸機を追い落とす不倶戴天の敵!とばかり、DD51共々蒸機ファンには目の敵にされていました。DD51が「赤ブタ」、DE10・DE11・DE15は「赤鬼」だとか…凄まじいヒールぶり。プロレスなどではヒール役のレスラー達も、その巧みな技と試合運びで、其々根強いファンを持っていたりするのですが…(^^);このシリーズ、入換作業用ということで、運転台がレールと並行に設置されている由。しょっちゅう走る方向が変わるのならその方が良かろうとのこと。しかし実際には…?鉄道ファン誌に連載された、870000キロの旅路で宇田賢吉氏は、この運転席が不便である旨記載されていました。入換作業の際見る方向って、前後では9:1ぐらいの違いがある由。まして本線上で列車牽引の場合、スピードメーターや圧力計を見る度に横を向く必要があってやり辛いとのこと。技術陣の机上での理論と、現場での実感との乖離の事例の一つですね。さて、あれだけ勢力を誇ったDE10グループもしかし、国鉄改革の大嵐の中で多くの仲間が仕事を失い職場を失い、まだまだ車齢さして高くないまま命を落としていきました。行き場を無くし、ナンバープレートを剥がされたカマ達が側線に並んでいる姿は涙を誘ったものです。それでも、考えてみればJR7社共通に在籍するのは実質この形式のみ!なのですね。庫内基地内の小移動や故障車救援といった場面では便りになります。そろそろ後継機の構想もあっておかしくは無いと思うのですが…今しばらくはこのDE10グループの働く姿は見る事が出来そうです。
2006年10月31日
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先日発売された雑誌「鉄道ジャーナル12月号」によると、JR東海道本線(通称JR神戸線)西宮~芦屋間、夙川を渡る辺りに新駅ができる由。この界隈…懐かしい場所です。あれは今を去る事もう19年前、1987(昭和62)年8月の事でした。人事異動でそれまで暮らしていた愛媛県新居浜市を離れ、兵庫県西宮市に暮らすようになったのです。職場はしかし、大阪市中央区博労町。難波神社に近く御堂筋から一つ東よりの心斎橋筋に面した小さな店舗でした。阪神電鉄の香枦園駅から梅田に出て、大阪市交通局御堂筋線本町駅までが通勤経路でした。西宮市屋敷町…名前だけはご立派ですが、木造2階建て6畳一間バストイレキッチンこそあったものの一番北側の1階の部屋でした(^^);界隈で言う文化住宅という形態ですね。最寄駅は前述の阪神香枦園駅ですが、実は徒歩圏内に阪急電鉄神戸線夙川駅もありました。この駅の存在に救われた事があります。具体的な日付こそ実ははっきりとは覚えていないのですが、ある日の事でした。仕事を終え阪神梅田駅に出ると時ならぬ黒山の人だかり。トランペットが「六甲颪」や各種の応援歌を高らかに奏で、人々が歓喜の声をあげる姿に唖然…。何のことは無い、この日甲子園球場でタイガースが試合に勝ったのでした。贔屓のチームが勝てばファンは嬉しくはしゃぎたくなるのは人情と言うもの。それは判ります。其処までは良いとしましょう。しかし、ただでさえ広いとはいえない当時の阪神梅田駅コンコース、勝利に浮かれるタイガースファンで立錐の余地もなく、これでは電車に乗れません(^^);止む無く引き返し向かった先は阪急梅田駅。神戸線電車の車中の人となった私でありました…夙川沿いの道は桜並木に沿っていて、ここはここで何時歩いても気分の良い場所でした。60年以上続いた昭和の時代が終わりを告げた朝、いつもは賑々しく光らせる電飾看板のスイッチを押すのが躊躇われ、いつもの賑やかな店内BGMも何となく控えた矢先、本社から電話がありました。指示内容は正しく「電飾看板の点灯中止。BGMも止めよ」というものでした。日本中が深い悲しみに包まれたその日は、大阪市内の職場で迎えました。後に神戸市東灘区の職場に異動になった際、今度はその夙川駅から岡本駅まで阪急電車で通勤するようになりました。新しい職場は阪神の駅からも阪急の駅からも同じ程度に離れていました。一番近かったのはJRの摂津本山駅だったのですが…(^^);神戸の店に転勤になって、やっとその店のメンバー個性を掴みかけたと思った矢先再び人事異動が発令され、1989(平成元)年7月、今度は富山市で暮らす事になったのでした。そういえば、今は阪神香枦園駅は高架になっているそうですね。この地を離れたのが18年も前のこと。そして何より、1995(平成7)年1月17日早朝に起こった未曾有の激甚災害、6000人を超える人々の命を一瞬にして奪ってしまった阪神淡路大震災は、多くの建物やインフラ施設を破壊してしまいました。かつて私が暮らしていた頃の面影は果たして残っているのやら…?(阪急電鉄の三宮駅舎も過去帳入りしてしまいましたし…)
2006年10月30日
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さて、またまたこのネタですm(_ _)m(写真が出てきましたので)これは確か…1994(平成6)年6月17日だったでしょうか?トラストトレインボランティア参加の帰り掛川駅で撮影しました。生憎ヘッドライトは原型デカ目ではありませんでしたが…そういえば末期の大垣区の165系は奇数向きクハ165の一部を除いて悉くシールドビームになっていましたが、もしかしてそれは?1号車クハ165、11号車クモハ165何れも大垣夜行運用で深夜走行するのに対し、8号車のクハ165を先頭に走るのが昼間時間帯のみであった!と言う事が影響していたのでしょうか?直流急行型電車は既にJR線上では現役営業車はなく、秩父鉄道3000系も間もなく戦線離脱。残るはしなの鉄道の169系と、富士急行の「フジサン特急」だけでしょうか?いずれも経年を考えると時間の問題ですね…そしてこの界隈(山陽線西部)も、かつては湘南色の巣窟・牙城でした。80系・153系(一部165系)・111系・115系と各車大きな足跡を残しています。しかし今、この界隈では湘南色は殆ど見かけなくなった由。当初は115系3000番台専用色の感もあったこの塗装が広く在来車にも普及したかと思ったら、また新しい塗色が登場し、今やリニューアル車が当り前になってしまいました。しかし塗装は変われど中身は同じ115系です。この界隈、後継車に置き換わるのはまだまだ先のことでしょうね。(この界隈を221系や223系が走るようになるのか?或いは新車が来るのか?それとも…?)
2006年10月29日
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いつもお世話になっております「やぶお様」のサイト(http://www.geocities.jp/yabuubu/)のBBSにて、いよいよ静岡地区からも湘南色の113系の引退がカウントダウンに入ったというお話が出ていました。思い起こせば1949(昭和24)年、日本国有鉄道発足と時を同じくして登場し、段々その勢力範囲を西へ北へ伸ばし、遂には東海道本線から山陽本線そして、本州最西端までその色を見る事が出来るようになったのが1964(昭和39)年。爾来幾星霜、1120キロにわたる鉄路の上何処でも見る事が出来るポピュラーなカラーになりました。この2枚は昨年1月、過日4日分使って紹介しました帰省(老母見舞い兼「あさかぜ」お名残乗車)で再び戻って来て東京駅到着時に撮影しました。長く当り前に見られた、つい今年3月まではごくありふれた日常風景だった、東京駅発着湘南色113系の姿も、今は見られません。これは20年ほど前に撮影しました。場所は下関駅のすぐ側、歩道橋の上からです。丁度高架線が目線の高さになるので、恰好の「お立ち台」でした。今にして思えば何故あの時、駅舎の写真も撮っておかなかったのか?それだけが悔やまれます。
2006年10月28日
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久々、鉄道擬人化ネタです。あれは1959(昭和34)年の事でしたでしょうか?登場したばかりの151系(当時はまだ旧名モハ20の時代)を用いて東海道本線上で高速試験が行われ、見事時速163kmの大記録を打ち立てました。確か金谷駅を発車、大井川橋梁を渡り島田駅を通過後加速。藤枝駅までの直線区間を利用して記録に挑んだ由(まだ六合駅はありません)。これからいよいよ試験走行に挑むクハ26003+モハ20003+モハシ21003+モハシ21004+モハ20004+クハ26004をイメージしました。旧作(5月1日付UP分)ではリボン・フリル付きブラウスにフレアスカートといった優雅な衣装を纏わせましたが、今回は試験走行ということでこんな恰好になりました。もっとも、この衣装では陸上競技の選手と言うより、体育の授業を受けてる女子生徒の風情ですが…(^^);(え?今時の女子生徒はブルマーなんか穿いてない?いえ、時代設定が昭和34年ですから)(爆)当時の記録映画(ビデオ編集したもの)は観た事があります。地平区間で踏切も何箇所もあるだけに要所要所に人員を配置し安全確保に努めていた様子がわかります。おそらく早朝の時間帯だったとは思いますがしかし、当時列車密度が線路容量の限界近くまで高かった東海道本線でよくぞ試験列車のスジが引けたものです。当時の先人達のご尽力があればこそ、今日の新幹線の成功があると思うと感無量です。追記 元絵に見落としがありましたので差し替えました。
2006年10月27日
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さて、帰りも再びあさかぜを利用します。乗車前に徳山駅駅弁当ご自慢のあなご飯と幕の内弁当を買い込みます。かつては長距離列車には必ず食堂車があり、長旅の無聊を慰めてくれたのですが、現在は望むべくもありません。まして夜行寝台列車には車内販売すらありません。乗車前の食料調達はお約束です。かつては近隣市町村の中ではもっとも垢抜けた中心市街地を誇った旧徳山市銀南街商店街も今はかつての賑わいは無く、駅ビルに到っては数多あった専門店もすっからかんかつての賑わいを知るものには信じがたい光景です。列車はコンビナートの輝く照明に見送られ一路東京を目指します。巨大なコンビナートの偉容自体は昔と変わるものではありませんが、合理化が進みより少ない人員で回るようになってしまっては、町にかつての賑わいもなくなってしまうのは仕方ないことですね。日中なら波穏やかな瀬戸内海の車窓が楽しめる区間も、夜行列車の走行時間帯ですから夜の帳に包まれて遠望は効きません。とはいえ、コンビナート・工場群・そして本四架橋等々、その不夜城のごとき煌々と点る照明が車窓を飾ります。並行する幹線道路にも車がひしめいていますが、流石に列車の方が速く、渋滞で身動き取れないクルマを尻目にスイスイと走ります。でも時々、我があさかぜを追い越すクルマが…おい、ちょっと待て、この列車流しているとはいえ時速85キロは出しているんだぞ?そこ一般道路だろうが!法定速度は60キロだぞ?…っポケットの携帯電話を取り出し110…あ?もしもーし、県警本部?今ねぇ、国道○○○号線の柳井市の○×交差点のとこ、ナンバーは山口500○のXX-XX、車種はX○、色は赤、スピード違反だよ。叱ってやって…ってな事は流石に言いません、言いませんけどね…(爆)。ふと見るとそのかっ飛ばしクルマ、次の信号でしっかり引っ掛かっていました。一般道路って下手に飛ばしても意味ないんです。ホント(^^);やがて列車は瀬野八に差し掛かります。上り列車では25ミリ勾配が行く手を阻みます。蒸機時代は難所中の難所でした(25ミリというだけなら余所にもあります。しかし連続している上動脈幹線たる山陽線では旅客で600トン、貨物では1200トン牽引が要求されます。C59・C62と雖もD52のサポートがなければ登れませんでした)。電化後も新性能車第一世代MT-46族はMT1:1ではしんどく、EF58も500トン以上の重量になる急行旅客列車では流石に単機ではきつく苦労していました。EF65時代は流石に補機は不要だったものの速度はうんと落ちてしまい、峠道の厳しさを感じさせたものです。しかし、EF66になると?ここが25ミリの連続勾配であることを忘れてしまいそうなハイペース、並行する国道2号線を行く大型トラックに負けていません。お見事です。前夜の下り列車ではとうとう一晩中貸切状態でしたが、この列車では岡山からもう一人、この6号車に乗ってきました。でも考えてみれば、岡山からならサンライズの方が東京着(正確には米原以東の停車駅)が早いのですが…さて、シャワーを浴びて寝る事にしましょう。列車は無事東京駅に到着しました。客車は先に到着していた出雲のエスコート役を担当したEF65に連れられ品川の基地に向かいます。その後EF66が静かに「花道」を去っていきます。今や東京駅から東海道方面へ走る客車列車って、定期では「はやぶさ・富士」と「銀河」のみ。これも何時まで見られるやら。客レファンとしては寂しい限りです。
2006年10月26日
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この日の牽引機はEF6642号機でした。まだ後下関まで100キロあまり走らねばなりませんが、もう後一息です。名残を惜しむ鉄ちゃんならぬ鉄おやぢを駅に残し、列車は終着駅を目指し発車して行きました。振り返ると、側線に115系3000番台が停まっていました。よく見ると?おや?中間モハユニットは117系改造の3500番台のようです。この地区用に生まれた115系3000番台。私が学生だった頃、そして第2新卒状態で就職し下関に配属された頃、新進気鋭だった115系3000番台も今や長いキャリアを誇るベテラン車輛になりました。これはまだ新進気鋭だった頃の115系3000番台です。下関運転所で一息入れている姿です。病院を訪ね、退院のための荷物運びを手伝いました。その日の夜、再び上りあさかぜの車中の人になります。
2006年10月25日
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前日の続きです。目が覚めると、列車は広島県にさしかかっていました。山あいの路をサミット八本松へ向かって高度を稼ぎます。とはいえ、連続しているとはいえ10ミリですから、僅か9両350トンにも満たない編成を持ったEF66には坂にも枷にもなりません。しかしかつての蒸機時代、C59・C62を持ってしても、登坂時の均衡速度は時速35km程度になった由。改めて近代動力車の実力を思い知らされます。瀬野八を超える頃丁度空が白みだし始めました。これが夏場なら、この辺りも明るいのですが、冬場の西日本は日の出が遅く、沿線から撮り鉄するのは困難です。広島駅到着。下車客があった模様です。全体でみれば多少は乗客があったようです。宮島線と並行しながら宮島口駅。あなご飯の駅弁はまだ買えません(ってまだ朝6時ですから…)。瀬戸内海の夜明けです。やがて岩国。いよいよ山口県に入ります。大畠駅付近の車窓を彩る大島大橋をくぐります。この橋の上がまた絶好のお立ち台である由。柳井・光と停車していよいよ徳山へ。東京駅で乗車して13時間経ちましたがちっとも退屈しません(って、仮にも「鉄」が列車に乗っててどうして退屈などしましょうぞ)。列車は定刻に、徳山駅に到着しました。
2006年10月24日
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このところまたまた発言が滞っていました。さて、昨年惜しまれつつも廃止された寝台特急あさかぜ、お名残お別れ乗車した時の写真が出てきましたので、今更ではありますが紹介させていただきます。それは2005(平成17)年1月の事でした。田舎(山口県周南市)在住のお袋が胆石手術で入院との報を受けました。殺しても死にそうに無いような女丈夫?も流石に齢70を過ぎると体力も衰えます。散々肝焼きやらかした親不孝者もやっぱり心配になります。そこで仕事の都合をつけ、1月中旬3連休を取得しました。但し初日は午後5時まで会社に詰めて仕事を行います。(これは就業規定の都合で、午後6時まで勤務すると東京駅発19時00分に間に合わない=当時の職場は成田市内。最寄駅は京成線公津の杜駅=ためで、かといってそれ以前の時間に退社すると早退扱いになってしまうのでこうしました。因みに通常の公休週休の組み合わせです。未消化休日が随分余っていましたので、多少の融通は許してもらえました。)17時になり、会社を辞し、東京駅に向かいます。数日前に取得したあさかぜハネ券を握り締め、9番・10番ホームで列車を待ちます。車内に入ります。早速車内改札を受けます。私の乗った席にはまだ相客はいません。否、6号車全体を見渡しても他に乗客はいません。ホームに発車メロディが鳴り響き、ドアが閉まろうとしたその刹那、ポケット内の携帯電話に着信。列車は軽い衝撃で動き出しましたが、お袋からの電話の衝撃は強烈でした。「明日退院するからね」入院の報を聞いたのはホンの1週間前です。年頃の娘さんならいざ知らず、70過ぎた婆ぁ(!)です。正直驚きました。「見舞いに行くほどの事ないじゃん…心配して損した」(親不孝者>ぢぶん)(爆)ま、それじゃ安心して久々の汽車旅でも楽しみましょう。1月の首都圏の19時台、既に夜の帳は降りています。会社帰り学校帰りの人々で混みあう113系・211系・205系・209系・E231系達と擦れ違い並走し西を目指します。しかし我があさかぜの車内はガラガラ。横浜・熱海・静岡…我が6号車に乗ってくる人がいません。後に通りかかった車掌さんに言われてしまいました。「この車輛貸切だね」かつて「あさかぜ」といえば、寝台券のとりにくい列車の筆頭格で、「乗った」といえばクラスで自慢できた存在でした。そして、私にとっては「あさかぜ」は出世列車でもありました。やがて大人になったら東京へ出て働いて、盆と正月にはこの列車で帰省する…幼い頃はそう思っていました。しかし、この日のあさかぜは何と定員34人のオハネ25に乗客は私ただ一人!此処まで利用率が落ちていたとは…編成中4号車のラウンジカーです。車端にカウンターがあり、ここで物販・供食サービスが出来る構造になっているのですが、ついぞ営業している場面に出会えませんでした。夜はアルコール主体で簡単なおつまみ類主体のメニュー。朝はコーヒー主体にトーストやサンドイッチでも供給できればどれだけ夜行列車の旅が楽しいものになったでしょうか?勿体無いです。列車は月明かりの夜を快調に走ります。25型客車現車9両など、EF66には荷物になりません。寧ろそのハイパワーを持て余してしまいそうです。結局名古屋を発車しても誰も乗ってきませんでした。関ヶ原に差し掛かります。勾配こそ10パーミリですが、R300~400の急曲線が続き、さしものEF66も足が鈍ります。あんまり東海道本線らしくない風情です。やがて米原。終列車になるのでしょうか?反対側のホームには煌々と明かりをつけた223系がいました。JR西日本エリアに入ります。段々車窓が夜目にも白くなってきました。軽い積雪があるようです。夜も更けました。日付も変わりました。いい加減寝ましょう。
2006年10月23日
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ネット上で交わされる情報によれば、関門地区にもいよいよ金太郎ことEH500が姿をあらわし各種試験が行われている由。そのままEH500が走るようになるのか?或いは新形式が登場するのか?部外者には知る由もありません。とはいえ、今走っているEF81も既に老境の域に達している以上、早晩後継機の導入が待たれるところでしょう。かつてはこの界隈はこんな感じではありましたが…まだ昭和だった頃です。これが更に数年前になるとここに集う面々の顔ぶれもまた違っていました。ついこの前のことと思っていたのに、時の流れは残酷です。
2006年10月22日
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以下に紹介する2つの写真をご覧下さい(毎度下手くそで恐縮至極)そしてもう一つ1枚目は紀勢本線宮前駅で、2枚目は北陸本線東富山~水橋間で撮影しました。同じ12系客車による列車です。しかし、大きな違いがあります。(え?機関車が違う?それは運転線区の違いによる止むを得ない事情によるものであり今回それは問いません)何処が違う?それは後部標識です。上の写真は国鉄時代に撮影しました(昭和61年8月)。先頭に立つのはEF60-500。しかしこの年の11月でしたか?電車に置き換えられてしまったはずです。標準装備のテールライトが点灯しています。一方下の写真は平成になってからの撮影です(日付記録未整理のため撮影日失念m(_ _)m)。最後尾スハフ12のテールライトは点灯していません。代わりに「おてもやん」こと赤色後部標識板が2枚、ぶら下げてあります。この、国鉄末期頃貨物列車に使われ始めた後部標識、客車列車でもしばしば見かけるようになりました。使う使わないの内部規定の詳しいことは生憎寡聞にして存じません。要員の都合だったり、停泊期間の長短により、車載バッテリーの消耗回避のため使うの使わないの色々あるようですが詳細は存じません。ただ、個人的には違和感が拭えないというのが正直な感想です。そういえば、JR東海さんでは、在籍の旧型客車オハフ46には、テールライトの周りに取り付ける、旧来の後部標識を復刻採用してありました。これなら、かつての姿の再現でもあり頗る好感が持てました。(ただその当時の旅客車における採用事例は…殆ど記憶に残っていません。未就学児童だった頃ですので…かすかに記憶があるのが一部のヨ・ワフなど、貨車の緩急車に備えられたそれでした)さて、ではそれを最近の車輛に採用できるか?となると…意外と難しいかも知れません。初期型の113系あたりはあの時代を体験しているはずですが…当時を体験し、その後部標識に対応した構造のテールライトを持っていた車両も、後にライト交換の容易な構造に改造されたものが殆どとなり、今の車輛への導入は難しいものとなってしまったようです。そしてそれ以上に驚くべき事に…かつてそれこそ全国各地で当り前に見られた、12系客車を使った急行列車(特別急行列車)、普通列車、季節列車・臨時列車・団体専用列車等々、現在では先ずお目にかかれません。12系の原型車自体がJR東西両社に其々実質6両ずつしか残っていないという事実に、今更ながら唖然某然な今日この頃です。
2006年10月21日
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またまたこんなネタで恐縮至極m(_ _)mということで、これも1985年頃の撮影です。原版はリバーサルフィルムからプリントしたものです。国鉄時代全国各地で当り前に見られたキハ58系、急行からローカルまで八面六腑の大活躍。初期の10系気動車達が引退した後を埋める形で香椎線にもこのような急行然とした編成で顔を出したりしていました。流石に九州地区在籍車だけあって、冷房もちゃんとついています。(もっとも、800番台など、この地のキハ58系と雖も冷房のないクルマはゴロゴロいました。鹿児島本線で走る421系でさえ、冷房がなかった頃です)。キハ58系の走る路線って、かつては蒸機もゴロゴロいて、一緒に顔を合わせることもしばしばあったのですが、当時の諸先輩方は移動の足には使っても、キハ58系を撮影する機会は少なかったのでは?かくいう私も、あまりにも身近にいたこの一族、案外撮る機会は得ていません。それこそ空気のような存在でしたので敢えて意識していなかったというのが実情です。(キハ20系、キハ55系、キハ45系、キハ40系も然り)あんなに沢山いたDMH-17エンジン軍団も、今や絶滅危惧種となってしまいました。
2006年10月20日
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しつこく続きますm(_ _)mこれも1985年頃の撮影です。もっと気合を入れて記録しておけば良かったのですが…旅客列車に比べてどうしても貨物列車は地味な存在で、カマや貨車によほどの思い入れがなければレンズを向けなかった人も多かったのでは?一見何の変哲もない貨物列車ですが、既にヤードでの解結は殆ど行われなくなってしまい、大金を投じて整備した武蔵野操車場も僅か10年でその使命を失った頃です。ワム8で統一された編成は或いは専用貨物列車だったのでしょうか?あと2年早ければ、もっともっと雑多な貨車がつながった貨物列車がこれでもか!とばかり撮れたのですが…これはまだヤード系貨物列車が当り前にあった頃撮影しました。生憎日付も撮影データも記録していませんが、撮影機材はコンパクトカメラです。先頭に立つのは珍しくEF61です。技術的にはお披露目するのも憚られるような愚作・駄作ではありますが、今となってはこれも一応貴重な記録の一つということで…(^^);お目汚し平にご容赦の段m(_ _)m
2006年10月19日
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「鉄」の世界で異口同音に言われている言葉。それは「あと10年早く生まれていれば…!あの車輛の現役時代・全盛時代に間に合ったのに」諸先輩方から幾度と無く聞かされた言葉、今また私も、そして若い人々も同じ思いのようです(^^);これは今を去る事10年近く前に撮影しました。EF65541牽引の貨物列車です。撮影場所は東北本線矢板~片岡間です。EF65-500といえば、私には未だにブルトレ専用機の輝かしい栄光の時代のイメージが強いのですが、この一族がその晴れ舞台の激務に疲れ果て、後進に譲って引退したのが1978(昭和53)年の事。何と28年も前の事です。ブルトレ専用機時代(1965~1978の13年間)より、貨物列車牽引機としての時代の方が遙に(倍以上)長くなってしまいました。しかしEF65-500の栄光の時代には、私はまだ田舎の鉄道少年、貧乏所帯ゆえ一眼レフカメラなど夢のまた夢、たま~に、親のコンパクトカメラを借りて時々写すのが精一杯の状況でした。ヘッドマークも凛々しく格式高い寝台特急をエスコートするその雄姿は瞼の裏に焼きついてはいるのですが…この頃は激務も祟り、戦線離脱するものも出始め、生き延びたものも更新修繕を受け新しい「制服」を身に纏うようになり、国鉄特急色も数を減らしていた頃でした。それでも、501・535・539・541などは伝統カラーを守り、かつての栄光の時代の面影を伝えてくれていたものです。しかし神出鬼没な貨物列車牽引機運用(運用表のデータ等があれば良かったのでしょうが、当時はまだその手の情報は手に入りませんでした。それは今も同じです)は、一介の「鉄」おやぢには情報を得る手段とて無く、思いがけないカマに出会えるか否か?それは天佑僥倖の類でした。今やこの色を身に纏う500番台は501・535の2両のみ。何時までも元気に活躍して欲しいものです。
2006年10月18日
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さて、前日の日記の続きです。421系は昭和36年からこの地で働いていました。それまで鉄道・列車といえば、真っ黒い蒸気機関車がこれまた真っ黒い煙を吐き、黒い貨車やこげ茶色の客車を牽くものであった時代、目にも鮮やかな赤13号(ローズピンク)で加速力も良く近代的な内装のこの電車は、さぞかし地元に好評を持って迎えられたものと思います。この大窓車は急行型なら153系・155系・159系に存在しますが、近郊型ではこの421系と401系の、それも一部にしか存在しません。寧ろ数が多かったこちらのタイプの方がなじみではありました。この当時はまだまだ、ローカル列車には冷房のないものも少なく無く、夏場は窓を全開にし、全身に涼風を浴びたものでした。確かに今の車輛に比べれば快適性では劣るのかも知れません。でも、人工的なエアコンの冷風の中に長くいる方が身体には良くないようです。雨天時は仕方ないとして、からりと晴れ上がった快晴時には、寧ろ窓全開の方が気持ち良く感じました。でも一つだけ…ちょっとお食事中の方には申し訳ない話ですが…乗車位置が後部の車輛だと、こんな快晴時にも時に一瞬水滴を感じる事がありました何故?いえ、原因については此処で触れるのはなし!(爆)あまりにも身近な存在だっただけに、あまり写真が残っていないのが残念なところです。
2006年10月17日
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ということで再び昔話です。(人生の折り返し点を過ぎてしまったおっさんの悪い癖です)鹿児島本線筑前新宮~香椎間で撮影しました。1985年頃の撮影です。この当時はまだ、九州産業大学前駅は未開業でした。モータードライブをよいことに…更に…済みません。こんなネタで…m(_ _)m既にヤード経由の扱い便貨物列車は壊滅した後でしたが、時々こういった貨物列車が見られました。この界隈、夏場早起きすれば上りのかいもん・ながさきなども見る事が出来、上手くすれば写真に出来たはずなのですが…(学生時代の下宿が丁度この付近にあったのですが、当時は一眼レフカメラを持たず、不良学生は朝寝坊でしたので、撮影のチャンスは遂にありませんでした。その分、乗車機会はなるべく持つようにしたものです)。かいもんは1度だけ、部活の合宿で鹿児島に行く時利用しました。20系+12系の時代でした。ながさき号は専ら門司~香椎間での利用でした。ながさきのハネ車は利用機会を得ませんでした。10年一昔と言います。するともう二昔も前のことになってしまうのですね…(ちょっとため息モード)(^^);
2006年10月16日
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さて、2日分続けてドールネタでしたので、ここいらでまた鉄道ネタをこれは1986(昭和61)年の初夏に撮影しました。宇部市といっても居能駅に近い辺りで、6畳程度のワンルームでした。ちょっと早起きして、宇部線と分かれた小野田線が橋梁で川を渡る場所まで赴きました。この時間には「出勤」するクモハ42も通るのですが、その写真は何処に行ったやら…(と言っても逆光になる関係で後追い、それも遠景になってしまっています)当時はまだ新進気鋭だった105系。この窓配置だと、セミクロスシートにも出来そうに見えますが…(^^);これはその数年前、宇部区に105系が新製配置され、旧型置換えが始まった頃、同区を訪ね撮影させてもらったものです。来訪者ノートに住所氏名を書けばヘルメットを貸してくれました。まだまだ大らかな時代でした。来訪者名簿の中には老舗模型店の名前もあり、いずれ模型も出るのかな?とその時は期待したのですが…同社からは発売されたとは寡聞にして聞いておりません。1986年3月から始まった宇部市暮らしでしたが、同年10月には再び人事異動が発令され、四国に暮らす事になりました。僅か半年の仮住まいでした。
2006年10月15日
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10月14日は鉄道の日です。1972(明治)5年の旧暦9月12日(新暦では10月14日)、新橋(今の汐留あたり)~横浜(今の桜木町あたり)に本邦最初の鉄道が開業した日であることは、弊ブログのご贔屓筋各位には今更「釈迦に説法」であります。長く鉄道記念日と呼ばれて来ましたが1987(昭和62)年より「鉄道の日」と呼ばれるようになり、テッピーなるキャラクターも生まれました。今年は丁度この日にトラストトレインの運転日が重なりました。このところ多忙で参加できなかったメンバーが2人久々参加とのことで、旧交を温めるよい機会だったのですが、残念な事に数日前風邪を引いてしまい、体調が戻っていなかったため、参加を断念しました。ちと、前振りが長くなってしまいましたm(_ _)m今日のテーマも実はドールです。弊ブログ開設間もない頃紹介した↓の衣装ですが…「姉妹」お揃いとしてみました。この両者、製造メーカーが違う事もあり体型も全く違います。ただ、向かって右の子購入後およそ1年経って左の子を購入(ドールファンの世界では「お迎え」と呼ぶとの事)しました。設定年齢も右の子は17歳、左の子は小学校低学年ぐらいなこともあり、ウチでは姉妹のような扱いです(右が姉)。体型の違うドール同士ですから当然ながら同じ型紙は使えません。それぞれ基本となる型紙を元にアレンジして作りました(大元は市販の型紙を元にしています)。しかし、それでなくても口うるさい年頃、ちょっとでも目を離すともう元気な事元気な事(爆)…「妹」の方が身長体重ともにあるため両者の力関係は常に拮抗しています。とはいえ、甲斐性なしのだめおやぢにも優しく微笑んでくれる、孝行娘です(親ばかな私)(笑)
2006年10月14日
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このところ更新が滞って恐縮至極m(_ _)mさて、当ブログのもう一方のコンテンツながらこのところネタ枯れしていたDollネタ。久しぶりに紹介します。これは実は20系客車をイメージして作ったものです(^^);20系=夜の女王のイメージから、青系統のプリンセス風ロングドレスということでこんな感じになりました(^^);ただ、本来は縁取りのレースは淡いクリーム色にするべきなのですが…実際その色のレースを当ててみたところイマイチな感じがしたので白のレースを使いました。でもこの色だと、12系以降のカラーリングですね(^^);(^^);(しかし、12系・14系・24系・25型…いずれも女王様だのプリンセスだのの風格には及びません)(^^);実はこの子は王侯貴族の血は引くものの赤子のうちに里子に出され出自を知らないまま下働きの娘として育ってしまったところ親切な魔法使いに助けられ、晴れてプリンセスに…って何処かの童話のネタですね(爆)。(しかし…何故靴だけ魔法が解けなかった?それ以前にガラスの靴でダンスのステップなんぞ決めたら割れてしまわないか?まさかアクリル・ABS・FRP製をガラスと偽った?)お目汚しの段平にご容赦m(_ _)m
2006年10月13日
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またまた昔話で恐縮至極m(_ _)m日本国有鉄道が主にその財政破綻を理由に解体され、7つの鉄道会社をはじめとする新生鉄道JRとして誕生したのが1987(昭和62)年4月1日。それから早いものでもう19年、来年で20周年を迎えます。そういえば、車体の側面にもデカデカと貼られたJRロゴマーク。今では当り前のこのマークも、当初は多少の違和感が拭えませんでした。個人的にはJNR時代のロゴマークは好きでしたので余計にそう思ったのかも知れません。とはいえ、JRロゴ自体はデザイン的には秀逸なものと思っています。これはJR発足間もない頃、撮影しました。東海道本線の夙川橋梁の西側辺りです。国鉄そのものの湘南カラーの113系電車に真新しいJRロゴが目立ちます。この当時はまだあまりにも当り前すぎた113系ですが、JR発足後20年近い月日が流れた事を考えると国鉄時代の車輛が生き残っている事自体が奇跡です。113系といえば、この色もありました。関西線の快速運用に就いていたものです。春日大社の鳥居をイメージしたものである由。しかし色そのものは規定にある既存の色(赤11号と灰色9号?)をそのまま組み合わせ、塗り分け線も新快速と同じ形にされています。この色は関西線カラーとは申しましたが、実は撮影したのは紀勢本線紀伊宮前駅付近です。1986(昭和61)年8月下旬の事でした。こちらは正調阪和線カラーの113系です。上記写真と同じ時期に撮影しました。これも塗装パターンは前述の関西線カラーと同じ、帯色のみ青22号になっています。この色実はJR以降は吹田工場特製の塗料に変更されたと聞き及びました。以降微妙に色調が変わったとの事(生憎私は実見していません)。もっともこの写真を撮影したのは上記の関西線カラーと同じ時期同じ界隈です。実はこの時は、勤務先企業の研修で、1週間程泊り込んでいた時のものです。何で企業研修で日中「撮り鉄」する暇があったのか?それが勤務先企業の取扱商品の都合によります。と、申しますのも、当時私が働いていたのはDPEミニラボチェーン、写真屋でして、店頭にあるDPE処理機を扱うための研修でした。今日のDPE処理機ではモニター画面で簡単に色調整が可能で、それこそ「昨日雇った新人アルバイトでも今日はいっぱしの写真が焼ける!」という代物ですが、当時のものはまだ其処までの機能は無く、それこそ24ミリ×36ミリ(フルサイズ)、17ミリ×24ミリ(ハーフサイズ)、そして、更に小さい110判サイズのネガを直接目視の上、ネガの濃度で焼き加減を判断し補正していました。場数を踏まないと一人前にはなれませんでした。また、当時は全店舗にその装置があったわけではなく、この時点での私の勤務店には配備されていませんでした。近く全店設置の予定があり、未経験の社員にも操作を覚えさせようとのことで、全国から交替で研修に参加者が集う事になりました。場数を踏むためには沢山写真を焼かないといけない。そのためには沢山の写真の作例が必要である。よって各自カメラを持参せよ。それが参加にあたってのお達しでした。そうして訪れた研修会場。DPE処理機では世界トップのシェアを誇っていたノーリツ鋼機さんの宿泊施設付きの研修所を借りての1週間の研修でしたが、会場のすぐ脇を紀勢本線が通っています。練習用の写真を撮って良い。テーマは自由。目の前に複線電化で列車密度も高い幹線鉄道。そんな環境に「鉄」を置いたら?少なくとも、馬の鼻先にニンジンをぶら下げるより、ライオンの目の前にシマウマを放り出すより、遙に危険です(爆)。勿論、サンプル写真は「鉄」ネタばっかり(自爆)。さて、1週間かけて受けた研修でしたが、人事の都合でその後設備のある店舗に配属されるまでは丸1年弱のブランクが開いた上に、研修時に扱った当時の最新型より手順の厄介な旧世代機。当初は戸惑いました(^^);次の転勤先で待っていたのは新機軸は取り入れたものの取扱手順がややこしくなってしまい結局以後増備されなかった試作型だったり…こんなんばっかり(泣)。やっとその辺りの憂いがなくなってきたと思ったら?何時の間にか世はデジタル時代。一生懸命学んだ技術は過去の遺物と成り果てました(寂)。今回紹介した写真は実は既にやぶお様のサイトのBBSでも紹介した既出モノですm(_ _)mそこで、お詫びと言っては変ですが、当時の未発表画像を1枚…これは最初に紹介しました湘南色113系と同じ時に同じ場所で撮影しました117系新快速です。この車輛、それまでの国鉄では考えられなかった異色車輛として当時は話題を呼びました。でも、DT-32系台車やかつてのモハ52に範を取ったようなカラーリング等々、やっぱり国鉄テイストの強いクルマでした。乗り心地も良く好きな車両の一つでした(153系が引導を渡されたのがちょっと憎ったらしい)(^^);そういえばこのクルマも「華の命」は短く終わってしまいましたね。
2006年10月12日
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さて、かつて暮らした町の第2段。福岡市東区は学生時代に暮らしていました。これは香椎駅で撮影しました。といっても撮影したのは学生時代ではなく卒業後就職した後の事です。(学生時代は一眼レフカメラとは無縁の存在でした)。ただ、この時ズームレンズの望遠側で撮影したため四周に糸巻き収差が生じてしまいました。それでも左右はさほど目立ちませんが、上辺だけは架線支柱のビームがモロに影響されてしまいました。それ以来ズームレンズが苦手になり以後は単焦点レンズ主体で撮影するようになってしまいました。その時の帰りの電車内からすれ違いの電車を撮影しました。今では絶滅同然の交直両用電車の標準色ですが、この当時は当り前でした。(何しろ当時はまだ国鉄だった時代です。当然ながら全て国鉄型・国鉄色でした)。
2006年10月11日
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さて、もうすぐ北陸本線の長浜~敦賀間と、湖西線の永原~近江塩津間の交流電化区間が直流に変換されるとのこと。京阪神地区と敦賀との交流(特に列車本数)が改善される事が期待されています。しかしそうなると気になるのは、「この子」を始めとする、界隈で働く交直両用車の今後。既に419系はこの機会に引退するのではないか?と言われています。そして、471系・475系・457系も、もしかしたら運用される車輛に変化は生じるのでしょうか?このシリーズ、いちばん新しいものでも昭和43(1968)年の生まれ、まして471系に到っては昭和37(1962)年の生まれです。釣り掛け世代より寿命を割り切っている(といっても今時の209系やE231系ほどではありませんが)(^^);新性能車で40年以上現役にあるのは脅威、否、奇跡と言っても過言ではないでしょう。そして、直流急行型よりも早くに急行運用を失ったものの、既にJR管内ではその姿を見られなくなった(秩父鉄道3000系は引退してしまい、しなの鉄道の169系に面影を残すのみ?)直流急行型より結果的に長生きしているのですね。幼い頃は九州直通急行で山陽線に働く面々に世話になり、大学時代にも鹿児島本線で世話になり、富山在住時代にも通勤やお出かけで何かと世話になったこの一族。その雄姿を何時までも見たいと思う今日この頃です。
2006年10月10日
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そろそろ本分に戻しましょう(^^);さて、8日のブログで触れた下関市。ここは海峡の町であり、交通の要衝でもあります。当時撮影した写真です。日付はチェックしていませんが、確実なのは1984年12月~1985年03月の間です。この頃はまだまだ新進気鋭だったEF651098号機ですが、このカマは既に鬼籍に入ってしまいました。当時の東京機関区所属のEF65は、東京発の山陽・山陰・九州方面寝台特急専用機として運用されていました。東京~下関間およそ1120キロ強を一晩で走りまた翌晩一晩で走り抜き…を繰り返す毎日。旧国鉄の電機の中でも最も過酷な任務にあたっていました。それ故先代のEF65-500はその「過労」が祟り、普通なら20年以上持つ筈のところ、13年でガタが来てしまい、特急運用を引退、武蔵野線あたりで短区間、速度の遅い貨物列車牽引の仕事に「隠居」してしまいました。これは先行列車を牽引し、EF81-300(若しくはEF30)にバトンを渡しホッと一息ついているEF65PFです。画像ではナンバーが判別し辛いのですがEF651111号機です。耐久性やメンテナンスフリーに大きく改善されたEF65-1000が増備され、バトンを受けたのが1978年、それから7年経った後、今度は編成増結で列車重量が増えた事により、東京~山陽~九州運用からは外れてしまいました。直流電化区間で、12系以降の客車の先頭には、EF58に代わって広く活躍していたEF65PFですが、何時の間にか定期の特急列車運用は消え、客レ運用は唯一東京~大阪間の急行銀河にのみ、見られるものとなりました。かつての東京区のメンバーの姿を新小岩駅で見かける機会が多くなった今日この頃です。これはそんなEF65PFを擬人化してみたものです。かつて特急色のEF65は、ヘッドマークも部品の一つの感がありましたが、それももう過去の話になりそうです。
2006年10月09日
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ここ数日妄想ネタが続きましたのでここらで気分一新!いつもと全く雰囲気の違う画像です(^^);これはかつて、2度目の就職がなった時最初に配属された町で、暮らしていたアパートのすぐ側で撮影したものです。アパートに面して四つ角があったのですが、丁度対角線上の先は何と!海でした。そうです。関門海峡を望む山口県下関市。この辺りは海のすぐ側でした。そしてこの辺には引込み線が伸びていました。一度だけDE10(11?)が、黒いタキ車を持って、その線を走って(動いて)いたのを見かけたことがあります。がしかし、当時既に国鉄貨物輸送は最末期。直行コンテナ輸送こそ梃入れされていましたが小口混載車扱いは壊滅状態。この引込み線もいつまで使われていたのやら…今を去る事20年以上も前、まだ元号も昭和だった頃の昔話です。
2006年10月08日
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先日の発言で竹客@中村様よりご指摘のありました駅前食堂、設定を考えてみました。ま、地方の駅前、昭和40年代と設定するとこんな雰囲気でしょうか?左端にあるのはタクシー営業所、その隣りが今回主役の駅前食堂、次がブティック…もとい、洋品店(当時ならそれで通じたでしょう)、そして理髪店、路地を挟んでアパート(関西では文化住宅と呼ばれるタイプ?)。そして、商店の配達用の3輪トラックが道端に駐車中。現在のような厳しい駐車違反摘発も当時はありません(笑)。そして、そんな駅前商店街の駅前食堂を切り盛りするのはこんな家族?無口で頑固一徹、しかし腕は折り紙つきの親父さん。そんなご亭主を巧みな手綱捌きであしらい、男勝りの肝っ玉母さんなおかみさん。そして、失礼ながらメンデルの遺伝の法則を疑いたくなる?トンビが鷹を生んだような?看板娘。お店が忙しくなると、学校から帰って来た制服も着替えずそのまま店を手伝うけなげな親孝行振りが評判となって、彼女目当てにやって来るのは同級生や同窓生はもとより、商店街のおやじ連中、会社帰りのサラリーマンに、更には3日と開けずに通って来る隣町の工場の社長等々…おっとっと…妄想が妄想を呼んでどんどんどんどん異世界に落ちてしまいそうです。
2006年10月07日
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再び国鉄接続駅に戻ってきました。丁度国鉄線の列車もやって来ました。ついこの前電化が完成したばかりですが、まだ電車の増備が追いつかないようでまだまだ蒸機列車も走ります。せめて急行列車だけでも無煙化!ということでやっと一部の旅客列車にEF58やEF61の姿が見られるようになったばかりです。この国鉄列車は実は5分停車で後続のキハ82系特急の通過待ちをします。その代わり民鉄線列車との接続が出来るのです。反対側を見てみましょう。国鉄線をオーバークロスしているのは臨海線です。こちらも接続が考慮されているようです。駅本屋裏手、貨物扱いの側線が何本もあります。国鉄~社線間貨車受け渡しにはなんと、旧式の蒸機がいました。そういえばこの民鉄、開業当初は非電化だった由。その頃の蒸機の生き残りでしょうか?おや?長い急行列車が到着しました。あれ?民鉄の電機がするすると、編成最後尾に近づき、連結します。この列車の後ろ4両が、実は民鉄乗入れ直通列車でした。程なく切り離し作業の終わった基本編成は身軽な8両となって発車して行きました。一呼吸おいて、温泉保養地向けの列車も発車して行きます。夕方、今度は温泉保養地から帰途の客を乗せた列車が到着、時を同じくして到着した国鉄線急行。先頭のEF58は早速列車から離れ、転線。隣りのホームに到着した4両編成を迎えに行きます。民鉄機と「業務引継ぎ」が済むや否や、再び転線。元のホームで待つ基本編成と手を繋ぎます。しかし、今は夏場だからいいのですが、冬場だと?暖房用ホースが熱くなっていますから連結解放作業は大変ではなかろうか?と心配してしまいます。とはいえ、まだまだ暑い。売店の、アイスクリームの幟旗についつい引き寄せられてしまいました。待合室の天井で回る大きな扇風機。飛行機のプロペラみたいですね。帰りの列車はこの急行ではなく、後続の夜行鈍行です。懐の乏しい貧乏学生には、優等列車は勿体無い。幸いこの後の鈍行は、結構スハ43系が混ざっているので期待しましょう(^^);(万が一乗れなくてもオハ35系なら何とかなる。でも、オハ61だったら避けたいなぁ~…)え?何?何ですの?えええ?何時まで部屋散らかして妄想にふけってるの!とっとと片付けなさい…だって?はい、ごめんなさい…妄想ネタで5日分引っ張ってしまいまして恐縮至極m(_ _)m
2006年10月06日
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裏路地も静かな集落。一歩入ると出迎えてくれるのは三毛・トラ・ブチ…でも人懐っこい猫達には心癒されます。少し歩くと小さな鉄橋。例の一級河川の支流のようです。男の子が一人遊んでいました。程なく電車がやって来ました。おっと、この電車に乗り遅れると大変!急いで駅に戻ります。この電車、てっきり国鉄線接続駅行きとばっかり思って乗ったのですが…本線と接続する拠点駅に到着する直前の車内アナウンスで初めて、この電車が温泉保養地への直通便だと知りました。今更戻っても仕方ないので一旦下車しましょう。ホームを見るとおや?制服姿のお嬢さん方。あれ?今日は学校はお休みじゃ?さてはクラブ活動ですね。近々試合でも控えて練習が忙しいのでしょうか?(そんな彼女たちも今じゃもうれっきとしたおば…以下自粛)(爆)この駅を境に本線側も沿線風景はぐっとローカル色を増します。とはいえ、起点駅も県内でこそ有数の工業都市ですが所詮は人口20万程度の地方都市ですが…(^^);さて、この線の客車列車は殆ど一手にこの機関車が引き受けています。丁度国鉄最新鋭のEF60をD型にしたような感じです。青地に細いラインが入ったスタイルは国鉄機と比べても遜色のない秀逸なスタイルです。
2006年10月05日
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では今度は支線に乗ってみましょう。流石に支線となると、沿線人口も少なく、棒線駅が目立ちます。しかし、この辺りは何故か道路整備が進んでいます。こんな立派な道路が出来てしまうといずれは深刻な影響が出るのではないでしょうか?今はまだ、自動車を持つなんて余程のお大尽でもない限りできない相談ですが、いずれ21世紀を迎える頃には或いは?そんな支線ですが、流石に朝夕は利用客が多く、通勤通学輸送の長い編成(と言っても4両編成が限界ですが)の客車列車が走ります。おや?側線に貨車がいます。この短い支線でも貨物輸送は行われているようですね。終着駅はこじんまりした駅舎でした。データイムのせいか駅前は静かな時間が流れています。折り返しの電車は…と?今乗ってきた電車が5分で折り返して出て行きました。次の電車は…え?1時間30分後?おやおや、これはしばらく町の中でも散歩して時間を潰しましょうか?
2006年10月04日
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さて、悪乗り企画が続きますm(_ _)m今度は、本線に乗ってみましょう。これは国鉄線接続駅から5つ目の、この鉄道の拠点駅です。此処までは都市近郊路線の性格の強かったこの鉄道ですが、此処から先は段々あたりの風景が緑濃くなっていきます。今までは貨物列車用の電気機関車が間合いで旅客列車も担当していたものが、最近は電車も導入するようになり、自社発注の電車も走るようになりました。この界隈ではもっとも人口のある集落ですが、まだ鉄筋コンクリートの高層建築らしいものは見かけません。この頃は学校や警察署・消防署・行政機関と雖も、昔ながらの木造建築が当り前に存在しており、もっとも高さのある建造物は高圧電線、その次が火の見櫓!といっても過言ではありません。終点の温泉郷は山間の深い谷に面した場所です。オールドタイマーの戦前型電車は他社からの譲渡車とのことです。
2006年10月03日
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最近ブログのネタが無く何日も空白が続いていますので、ちと、穴埋めを…そこで今回からしばらく、妄想ネタでお付合いくださいm(_ _)m題して心象鉄道。要するに架空の鉄道です。何の事は無い鉄道模型のレイアウトの構想です。では。始まり始まりぃ~それは、中国地方西部の、瀬戸内海沿いの工業都市を起点とする、中規模の鉄道です。路線は、国鉄駅を起点として、山奥の温泉保養地へ向かう本線。国鉄線をオーバークロスして海沿いの港湾・工業地域へ向かい臨海鉄道兼工場通勤客及び沿線にある高校への通学生の足となる臨海線、そして、温泉街とは外れるものの古くから開けた山間部の町へ向かう支線(本線の途中駅から分岐)を持ち、全線電化された鉄道です。しかし、旅客輸送と同等以上の貨物輸送需要が大きく、そのため機関車の在籍数が多く旅客列車には電車に混じって客レも多数走っている鉄道です。沿線は国鉄駅周辺の小規模な市街地を抜ければ、長閑な田園風景が続きます。しかし、終点の温泉保養地は結構有名なところで、遠隔地からの訪問客も多く、国鉄から急行列車も直通します。しかし長い編成は入れないので、直通列車は接続駅で基本編成から離れ、短い4両編成で乗入れます。国土交通省の言うところの一級河川があるので古くから農業は盛んでした。また、この川のおかげで遠浅な海岸線があったことが、後の工業地域発展のきっかけにもなりました。川沿いには桜並木もあり、春先には大勢の人々で賑わいます。こんな感じで工場の合間を抜けて列車は走ります。工場街の貨物ヤードの風景です。時あたかも高度経済成長期。何処の工場も2交替・3交替の大車輪。貨物列車もそれこそ出船千艘入船千艘の賑わいでした。そんな時代のお話です。
2006年10月02日
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はい、タイトルどおりです。事の起こりは去る30日。先月予約した品物が届いていないか?と、新宿区下落合の、店頭に赤い電車のある模型店…ホビーセンターカトーを訪ねました。予約していたのはNゲージのスハ43・スハフ42各2両及びアルミサッシ窓でした。8月に予約した時には9月中の再生産と聞いていたのですが、来るはずの連絡がなかったのでもしかして行き違いかな?と思い訪ねたものです。(そしてもう一つ。アビリティーガーデン通所用定期が30日で切れるので、少しでも交通費節約の意味もありました)(爆)さて、店頭で問い合わせてみると?「予定が延びて10月になるのでもう少し待って欲しい。入荷次第必ず連絡するから」との事でした。鉄道模型の発売予定って得てして遅れるもの、いくら「鉄道」とつくからといって、鉄道会社の作業スケジュール(本線列車はもとより構内作業も全てダイヤグラムに従って動き、1分でも遅れたら大問題、10分遅れたら暴動が起きる?)並みの精度を期待してはいけません(^^);ふと振り返ると其処で目に付いたのは…?かねて慣れ親しんだオレンジと緑のツートンカラー。そうです。初代湘南型80系のNゲージモデルが…これも今抑えておかないといつ手に入るやら!かくして次の瞬間、注文札持ってレジカウンターに並んでしまった私の姿がそこにありました。モハ80M車、Mなしダミーのモハ80、サハ87・・・そこまではよかったのですが、残念!クハ86は品切れ。仕方なく両先頭車はクハ85となりました。このクハ85、元サロ85300番台を改造した300番台がプロトタイプです。旧国最高傑作のこの車両、ぜひ乗ってみたかったのですが、惜しいことに広島鉄道管理局管内にはただの1両たりとも在籍車がなく、乗れずに終わってしまいました。(0番台を改造したクハ85や、昭和31年度製の下降窓車=但し035の1両のみ=はいたのですが…或いはサハ87を改造した100番台の、300番台をタネにした104以降なら、106と111がいて一時期同じ編成の両端を勤めていたこともありましたので、これらならもっと受け入れやすかったのですが…)イメージとしては、神領区所属の篠ノ井線用って感じになってしまいましたorz写真を撮る余裕がなかったので例によって「落書き」添えます。クハ86300~は、大きな前面窓にデフロスタがよく目立ち、あたかも眼鏡をかけたような風情です。そこで80系はメガネっ娘としてみました(^^);隣りのちっこいのは、藤枝駅や袋田駅で出会ったであろう、静岡鉄道駿遠線の湘南フェイス、キハD18以降をイメージしました。例によってお目汚し平にご容赦m(_ _)m
2006年10月01日
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