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そのむかし、「仕事はみな同じ」といわれていた。どんな仕事も楽な仕事は無い、仕事に差別は無いと。。。先生が子供たちに教えていたものだ。それは逆に、仕事で人を差別してはいけないという意味だったのだろうが、実際おおかた大変な仕事は報酬が高く、楽な仕事はその分報酬が少ないのを我慢しなければならなかった。そして、人はやろうと思う仕事を案外自由に選ぶことが出来た。(もちろん以上の条件の中には政治家や一部の特権階級は外さなければならない)それも昔の話だ。今では金儲けをする連中は現実化した仮想世界のマネーゲームやら、趣味の延長が思わぬ収入になったのどうのこうと楽に稼ぐことができて、きつい仕事をやらされている連中は低料金で将来の不安を半永久的に抱えて生きて行かなければならない。もちろん前者にも今現在でなくても過去にリスクや犠牲は払ったものもいるだろう。しかし、ではこの成功者たちは低所得者の身分になりたいと思うだろうか?以前の自分を懐かしく思い返すことはあっても、今は嫌に決まっている。私もそうなったら嫌だ。つまり仕事はなんでも同じではない。勝ち組、負け組み?表立って政府もマスコミもはっきりとは言わないが、今の日本にはすでに十分それが充満してしまっている。それが証拠にテレビでは金持ちと貧乏人の価値観の違いを取り上げたものや、成功者はどうやって成功したか?、セレブ豪邸拝見などの企画物が大流行なのだ。少なくとも将来的には貧富の差が完全に充満することは間違いない。なのに政府やマスコミは、まるで負け組みにも未来があるようなことを軽々しく言って消費=納税(収入)を煽っている。自分たちが生き延びるために。実際生きていく以上人には希望が必要ではあるが、軽率なうわべだけの言葉に踊らされて泣きを見るのはわれわれ庶民だけである。(作家の村上龍氏が同じような発言をしている)そうしていつの頃からか、アイディアひとつでパッと成功できるという幻想が生まれてしまった。私もあなたも、その可能性は否定できないが、全ての仕事を、仕事というものをまだ社会に出てもいない子供たちがそういう風に捕らえるのは間違いである。最近の子供は辛抱が利かないという。私が思うに、ひとつには映画やテレビの影響があると思う。成功した歌手やセレブといわれている連中をもてはやすことも原因だ。テレビや映画の中では分刻みで次々と物語が進行していく。それもたかだか1時間や2時間の間で主人公の人生を描いていく。そこには苦労や見えない時間経過はあってもパッと成功しパッとハッピーになったかのように錯覚させるに十分なトリックが存在する。映画が映画たるゆえんである。テレビがテレビたるゆえんである。なぜなら、人に現実を忘れさせて制限のある時間の中でたちまちいい気分を味合わせるためにあるのだから。若者は現実と虚構の区別がつかなくなっているという。そんな中でスピード感のある映画のハッピーエンドを見せ付けられたらどう思うだろう。私にも出来る。私にもあっという間に幸せになる権利はある、と思わないだろうか?話が少しそれたが、「仕事はみな同じ」「仕事に差別はない」。昔はそう言われていたことを忘れないで欲しい。
2005.05.29
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世界をあっといわせたというドイツ映画だ。旧東ドイツが旧西ドイツと統一し、壁が崩壊して共産主義から資本主義社会に急変する時期を描いたものだ。わざわざガルシア・マルケスなぞ読まなくても現代の物語で十分ファンタジーは作れるのだということを証明した作品だと思う。ファンタジーではないか?メルヘンでもない。何と言ったらいいのか。神話的な要素を含んだ大人のファンタジー。どこぞの作品みたいに暗くなく、夢があって、無邪気で、しかも現実の辛さ厳しさをきちんと描いてあって、自己満足の自慰的な作品ではなく、メリハリの利いたアイディアとドラマがちゃんとあって楽しめるエンターテーメントになっていて、人生について何かを考えるきっかけを与えてくれて、若々しい青臭さを忘れていない大人子供の普通の人の映画。旧東ドイツの時期に息子が目の前で逮捕される姿を見て失神したバリバリの共産党員の母親が、そのまま昏睡状態に陥り、東西が統一された後に目を覚ます。当然、旧東ドイツが消えてしまったことを知ると、母の病状が急変しかねないと危惧した息子が、西側から流れ込んできた消費社会の形跡をなんとか退院した母親の目には触れさせないように隠し通そうと奮闘する。母の好きだったピクルスを東製の古いビンに詰めて出したり、共産主義体制が続いているかのように見せかけるためテレビニュースまで仕込んだり・・・。そしてラストは思わぬどんでん返しが。彼が作ったテレビニュースは、まるでりっぱに共産主義体制が存続していて西の資本主義文明よりどれだけすばらしいものであるかを友人のリポーターがアピールし続ける。最後見て欲しいのだが、ドキュメント映像を編集して(これも複線がある。影像も編集次第で・・・という意味だろう)大嘘をこいている。それが実にユニークな社会風刺になっている。現実と虚構の逆転。共産主義が勝利し、資本主義の矛盾があらわになる。もちろん(母が恐怖に負けたように)共産主義になど理想はない!だが、競争と消費に代表される資本主義社会も全てじゃない。このブログで言いたかった全てがこの映画のラストにほんの何秒かで集約されているかもしれない。そう、『人は、国家や、資本主義であるか社会主義であるか、を選ぶのではなく、純粋に魂の安らぎ、平和を求めているだけなのだ』なんか変だな?と、思うことが少なくなっていく世界であって欲しい。映画の中では、その理想の国家の新しい首相?が、子供の頃憧れていた(今ではしがないただのタクシー運転手の)宇宙飛行士だっていう所がミソなのだが。この少年の純粋な思いがファンタジーなのだ。魂を権力に操られないためにグッバイ・レーニン!といいながらも、魂を金や欲望に奪われないようにグッバイ・アメリカ!と叫んだかどうかは分からない。いずれにしろ、政治的メッセージが主目的とは言えないが、このようなメッセージ性の強い映画を成功どころかまともな作品に完成させるのは難しい。貴重な一本だと思う。
2005.05.27
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内に向かう変さでも外に向かう変さでもかまわないが、ただ変ではダメだ。1.目的がある。2.信じている。3.具体的な新しい哲学、考え方、アイディアを持っている。ただ変な人とは違う、パイオニアとして成功するにはこの三つが条件になると思う。イチローが子供の頃、親戚?その他大勢に「お前など成功するわけがない」と足を引っ張られたという。これを、英語でデビルズ・アドボケイトと言う。悪魔・デビルのささやき。そう、お前なんかなにやってもダメだ、そんなアイディア通用しない、いや今株なんかやったって儲かんないよ~など、やる気を失わせる言葉のことを言う。変な人度は周りにサポーターがどれだけいるかによって決まる。回りが敵ばかりの場合、完全な変な人となる。変な人は周りの忠告・反対を押し切ってめげずに実行するために、世間から孤立し、ますます変な人となる。そして彼が成功したときに、さも自分のアイディアだったかのように、あるいは、いかにも変な人に進んで協力したかのように言いふらすのがこのデビルたちである。しかし人間は、自分よりすぐれている者、恵まれている者を見ると、彼らデビルのように足を引っ張りたくなるのが普通なのかもしれない。人間の多くが恵まれていないからだ。そして知らずとデビルになってしまう。そこで、このような者たちに足を引っ張られないようにするには、自分の信念しか見ない鉄の心か、あるいは誰にも引け目を感じないですむ苦労を背負い込むかのどちらかが必要になってくる。イチローのように何言ってやがる勝手に言ってろ!俺は天才だ的な考えか、「あの人研究に打ち込んで貧乏でお嫁さんももらえないんじゃあかわいそうねぇ」的なことである。日本人は浪花節で、どうしても後者の方に感情が行ってしまい、イチローのような恵まれた天才の境遇には共感しないのである。彼の場合は成功しているからこその人気だ。仏陀でさえ、国の王子で、結婚していて子供もいて、地位と金を全部捨てて出家したといっても、後に覚醒して成功していなければ、妻と子供を捨てて出て行ったただのわがままオヤジにしか思えないだろう。途中経過では誰もが彼なんか認めないただの変な人だった。画家のバン・ゴッホは有名な彼の麦藁帽子に何本もろうそくを立ててまで(まるで八つ墓村だ)人通りの多い通りで一人夜景を描き続けた。変な人だが確信犯だ。では、ドン・キホーテは変な人であって天才、成功者ではないのか?いや、彼も同じだ。条件に当てはまる。逆に言うと、ただ変な人は、どれだけマイナスを背負っているかにも関わってくる。精神的にマイナスのところにはマイナスしか生まれない。そうだ、この3つの条件に更に隠れ条件がある。4.自分の環境や状況に関する客観性実はこれが一番肝心なのかもしれない。変な人パイオニアになるには実際の生産性が問われる。イチローはクールなまでに自分を見つめ直すこの客観性があると思う。自分のしている事を客観的に捕らえて間違いがないことを確認できる客観性も大切だ。自分が自分の中だけでも何かを生み出している確信がなければパイオニアにはなれない。いつまでもずるずる夢ばかり追いかけて自分を省みないことも罪なのだ。働きアリは30パーセント?が実際に働いていて70パーセントだったかが無駄な動きをしているという。パイオニアになるには当然その30パーセントのうちにならなければならない。無駄な動きをしていないか客観視できたほうがいい。変な人性に相反する条件のように思うが、それだけに最も大切なことかもしれない。
2005.05.24
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優しさとはどういうことだろう?基本的に、同じ立場、あるいは相手よりも上の立場の者が与え(?)えるもののように思う。立場が下の者には上の者に与えにくいのでは?たとえ地位が高いものと低いものでも、優しさを相手に伝えるときは立場が逆転する。あるいは同等になる。立場が低いとコンプレックスを感じている者は、いろんなときに優しさを武器にして自分の優位を示そうとするやからもいる。おばさんなどこの手の人が多い。いわゆる押し付けの優しさ。あつかましさだ。さらに、優しさと気の弱さは違う。優しさは同等の立場のときに発揮されるもので、人の圧力に負けてなんでも受け入れることは優しさでは決してない。それは自分をおとしめている弱さだ。しかし、時には黙っていることも優しさだ。優しい強さだ。いや、それは愛情か?真の優しさとは同等の立場に降りるとき、同等の目線で物を見ようとするときに生まれる。それが自分が降りたつもりではいけない。それではまだ足りない。だから、優しさが自己満足で終わらないように、相手より更に立場を低くして物を見れたかどうかを自問自答する必要がある。優しさを示そうというときにはお互いの立場を払拭しなければならない。優しさはローマ皇帝の慈悲とは違う。裸と裸の人間になれなければその優しさは嘘である。たとえ立場や地位が違ってもその瞬間に同じ仲間として理解し合おうとする態度が必要なのだ。その瞬間を感じ取ってこそ、どんな相手にも伝わるものだ。仏陀は王子の地位と家族を捨てて外の世界に飛び込んだ。自分をフリー(いや、ニュートラルといおうか)にしたのだ。もし理解し合えなかったら?人間は生きている以上好みも違うし、立場も違うし、愛情の表現も違う、環境も違う、自分には見えないことも沢山ある。お互いの違いを認めることは必要だ。それを無視すれば、おばさん型の押し付けになってしまう。自分から裸になることが必要なのだ。自分が押し付けになってないかと疑ったとき、余計なことまで喋りすぎていないかをチェックすればいい。最近賢い話し方という本も出ている。押し付けになっている場合は賢くない喋り方になっていることが多い。本当の優しさの裏には理解があり、現実的にはなかなかお互いを認め合えないかもしれない。かといって怖がって、何もしないでいるのは逆に罪なのだろう。くれぐれも言うが、優しさを武器にして何かをコントロールしようとしてはいけない。裸になるのは難しいが、なにか行動を示さなければいけなくなったときそうありたいものだ。日々の生活がそれすなわち行動だが。。。
2005.05.23
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江戸時代の後期商人が豊かになった世の中に、そのおこぼれを拾おうと町にはあらゆる種類の物売りたちが行き来したそうだ。その物売りたちはその日の食べ物もままらない貧乏な層の人々で売れるものは何でも売って回ったという。「きんぎょ~ェ~金魚~」の金魚は当たり前、今でも回ってくる物干し竿、風鈴屋、さすがにちり紙交換はないだろうがもう考え付くもの全てが売られていた。夏の暑い日には道にじょろで水を打つ姿が昔は見られたが、とうとう水打ち屋なるものまで現れて軒先に座って涼んでいる町人たちに頼まれてはじょろで目の前の道に水を撒いてわずかばかりの金をもらっていたらしい。そんなものにいちいち金を払う町人たちも裕福でうらやましいものだ。仕舞いには空気まで売る者たちまで出てきたらしい。「空き~いらんかね~」とでも言ったのだろうか?どうやって売ったかは定かではない。しかし確かにこれも品川図書館の古い江戸時代の文献を見て調べたものだ。今はもう昔。しかし、江戸時代にもうすでに、資本主義の究極の姿がここ日本にもあったのですね。現代の商売などそのバイタリティに比べれば創造性において貧弱としか言えないのではないでしょうか?人間面白いというか、物悲しいというか、おかしな生き物だと思いませんか?
2005.05.13
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フリーのライターと聞いて文章力と思う人が多いだろうしかしそんなものは話し言葉が浸透したこの現代、あまり関係ない重要なのはネタをいかに沢山持っているかということもちろん魅力的なネタの方がいいどんなネタを持っているかでその人の個性が決まる人は個性で興味の対象を選ぶ会議に「考える人」(黙っている人)は必要ないのだネタがいい加減で出所がハッキリしなくてもいいとりあえず発言するその後は皆が協力してくれるネタはアイディアやコンセプトを豊かに肉付けする例えば、冷戦時代、ドイツが壁で東西に分断されていた頃。あるおじいさんが「こんなものがあるからいけないんだ!」とよじ登って、壁をまたいだと思ったらハンマーで叩き始めた。その騒ぎをテレビが中継していたのだが、次の瞬間おじいさんは勢い余って壁の反対側、東ベルリンに落っこちてしまった。それっきりおじいさんの消息は分からなくなったらしい。今、彼は無事で生きているのだろうか?あの後彼は向こう側でどうなったのだろうか?と、こんなことでいい。あのギター侍もテレビが好きでテレビばかり見てるからああいうネタが出来る。大切なのは何にでも興味を持つことだ。
2005.05.11
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侍サムライとは・・・暇すぎて昔、図書館で古い文献を調べたことがある。侍の心得というか侍とはどういうものかを書いた絵付きの江戸時代の書物だった。(当然現代語訳してるのだろうが)その中で特に目を引いたのが「侍とは、 戦にのぞんでは命ある限り戦うべし 右腕を切られれば左手で刀を持ち戦い 左手も失えば足で戦い その足も失えば口で噛み付いて相手の鼻をそぎ落としてでも戦うべし」もうかなり前のことなので、詳しくそのままここに掲載することは出来ないが、まあこんなようなことを書いてあった。いや、もっとすさまじい臨場感のあるものだった。(文章力がなくてすみません)絵がついていたのもあるが、まるで目の前で髷を切られ散切り頭で腕もなく足もなく地を這いながら相手に噛み付いているのそのすさまじい姿を見るようだった。当時かなりびっくりしたことを覚えている。ここまでなのか?だって、侍って海外では何か美化されて芸術品のように思われているところがあるじゃない?当然といえば当然だが、侍とは殺人マシーンに違いない。単なる戦の駒のひとつに過ぎない。それがどうしても家庭を持って、戦のない時代には戦に備えて給金をもらって普通人としてごくごく普通に生活していなければなならない。そこに侍の哀しさが出てくる。ジレンマ?じゃないもっと何かピッタシの言葉があったが忘れてしまった。どなたか思い出させてください。侍がなぜ海を越え、時代を超えて根強く人気があるかというと、この哀しい宿命を背負っているところだと思う。侍、そのイメージの中に「悲哀」があるから。だってお上に背いたり失敗したら切腹、そればかりかお家断絶ですよ。つまり、嫁も子供も母親父親まで、ついこの間まで仲間だった連中に殺されなきゃいけないんだよ?こんな悲惨なことはない。これほどのことを背負って生きていなきゃいけないなんて悲哀もこの上ない。まあ、日本はどこを切り取っても村社会のおたふく飴なんですね。このことに関してはある文豪の小説で興味深いのがある。ひじを突いてうたた寝していて、仲間が馬鹿にしてひじを蹴った、それに逆上して喧嘩になったら相手を切り殺してしまった。それでお上に切腹を申し付けられるってはなし。もちろん家族もよってたかって殺されることになる。さあ、主人公はどうやってその窮地から逃れるか。家に火を放ったりなんだかんだしてさあ大変です。ああ、怖ろしい。(このように、話は小さいほど面白いのです。余談)そこに高度成長期の現代サラリーマン諸氏は共感したんでしょう。お父さんは哀しい生き物なのです。(この間細木数子が「男には社会に出れば7人の敵がいるって言うのに社会に出ている女が何の責任感もなく我が物顔でいるのはおかしい」といっていたがそうかもね。女性も7人の敵がいると思って社会に出るべきだ)とにかく侍は今の時代美化されがちだが生首の転がる戦場のさまを想像すると、とても憧れてはいられない対象なのだ。そういう点で「ゼイ・アー・オール・パーフェクト!」の「ラスト・サムライ」より山田洋次の「たそがれ精兵」の方に感心するのだ。(あのラストの土下座は少しオウギョウだ。外人が考えた日本だ。まあああしないと終わらなかったろうが。。。しかし日本文化に敬意を持って良く研究し、上手く作っていることは認める)
2005.05.10
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若い頃、撮影で馬に乗ろうとして馬がいうことを聞かなかったので、馬の鼻づらを殴ったら指を骨折したらしい。クリント・イーストウッドは西部劇で葉巻をくわえているが、彼はかなりの健康志向の禁煙家でタバコは一切吸わなかったのでスタッフが用意した害のない葉巻を映画では吸っていた。彼はハイスクールの頃バスケットボールに夢中だったが、彼の担任の女教師があなた映画スターになれるわよと勧めたらしい。
2005.05.07
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女のように歩いて、ストーンエイジからやってきた男のように話す。 スゥエード
2005.05.01
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