2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全9件 (9件中 1-9件目)
1
仏教がなんとなく古臭く感じるのは(てか古いか・・・)昔日本で、お経を唱えると来世で成仏できると言ったことから始まるような気がする。今の人間は「死んでから良くなったって遅いじゃん」と言う意見が圧倒的だろう。来世でといった考えを広めた人が悪いというわけでは全然ないが、仏陀の考えとは、日本に仏教が上陸してから少しずれてきている部分があるに違いない。(だからこそ新興宗教もできるのかもしれないが私はそういったものとはまったく関係がありません)来世で成仏できるという考えをするしかなかった理由は、その時代にあると思う。その時代に必要とされる考え方に仏教をある程度合わせて、人々に浸透させたということだろう。もちろんそういった考えが悪いわけではない。その時代には、自分の力ではどうしようもない権力・貧富の格差が出来上がってしまっていて、そのどうしようもない現世の圧力から逃れるにはもはや来世に望みを託すしかなかったその頃の人々の悲痛な叫びが聞こえるようだ。では、今の時代は?物質主義で物が溢れ、情報過多で未熟な魂が翻弄される時代に、ますます一人一人の人生での選択肢自体は増え続けている。今の時代こそ、強力な誘惑に負けなければ、自分の人生を自分で作れる時代なのだ。自分たちで。戒律もお布施もいらない。お寺に行けば偉い宗教大学のお坊さんが、何か勘違いな時代錯誤の説教をたれる。もうそんなものは要らないのだ。要は全て心の問題で、それを教えてくれる人が今は誰もいない。よりストレートな仏陀のそもそもの「真理」の方が、人々の心に響く時代なのだ。
2005.07.28
コメント(0)
アメリカがしていることは端的に言って、ビジネスでは?北朝鮮とは政治の駆け引きで、イラクには爆弾・・・。あのイラク戦争はいったいなんだったのだろう?核があるのとないのとで違う???本当か?本当はやっぱり宗教戦争だったのでは?ビジネスとして厄介な存在で、やっつければ巨額の収益が見込めたこと以外には・・・単にあの宗教が気に入らなかっただけでは?単に気に入らなかったからあそこまでした。北朝鮮はそこまで宗教的に彼らとは対立していない。だとしたら?だとしたら、対立する二つの宗教の間に「世界」は挟まれ、恐怖と不信で窒息して命を絶たれてしまうかもしれない。
2005.07.26
コメント(0)
仏教と聞くと、厳しい戒律、貧乏臭いまでの禁欲主義、ただぐちゃぐちゃとうるさい説教、そのわりに不節制な坊主というイメージをどうしても抱いてしまう。いや、それ以前に「古臭い」「ダサい(東洋のもの)」ということがまず頭をよぎる。「悟り」に至っては「植物人間」になるとまでは言わないが、自己の意識を完全に否定してしまう行為のように思ってしまいかねない。昔のアニメに良く出てきた、脳が溶水に浸かっていて管だけがそこから伸びて生きている人間とか。生きていても意味の無い無感覚・無感動の世界のような。違うだろうか?しかしだ。本来の仏教はそうではないと思う。そう思っているとしたら間違いだ。まず「仏教」が説いているのは『中道』だ。この世の全ての物は「バランス」で成り立っている。「禁欲」や「厳しい修行」を行えとは仏陀も言っていない。修行を始めた当時の彼自身も否定していることだ。逆に悪行三昧行えばいいということでももちろんない。これは、インドネシアのモスリムが語ったことと同じだと思う。普段の生活の中で「悟り」への道を実践することこそが一番大切であり、難しいことだと。次に、仏教はその仕来たりや、使い古され一般で意味を取り違えられて伝えられている仏教用語によって古くなってしまっている。あるいは昔新しかったであろう代表的仏教精神である慈悲の心などをテーマにした歌や小説、映画が過去のことになってしまっているということもある。黒澤の初期の脚本も本人が狙っていたのかどうかは別として異常に「仏教的」である。『ダルマ寺の外国人』とか『姿三四郎』の蓮の池のシーン、タイトルは忘れたが、確か木下恵介が監督したヤクザが立ち退きの嫌がらせに二階に住み込んだ家の夫婦がすばらしい純粋な心の持ち主で二人は次第に更生するという話の松竹作品など。一番問題なのは、「脅し」によって人々を操作しようと意図した「偽りの説法」がまかり通っていることだ。自分の権威や、地位を高めようとして、自然界のただひとつの「法」ではない人間界の「戒律」を説き、地獄に落ちるとまで言って「恐怖」で檀家の人々を支配しようとする。こんなことを未だに行っている坊主がいることには本当に呆れ返る。仏陀が知ったら間違いなく嘆くだろう。このような行為は、われわれを侮辱している。お前たちは仏陀が到達した真理などとおてい理解することはできない。その代りに、これをしちゃいけないあれをしちゃいけないと厳しく言い続け、監視していないとたちまち地獄行きの愚かな連中なのだということなのだ。アメリカは「平和」の名のもとに「恐怖」によって市場経済を支配しようとしているが、何者も、「恐怖」によって支配することはできない。「恐怖」によって支配してはならない。それこそ自然界の「法」(真理)だ。それから「悟り」とは、無感動・無感覚の世界ではなく、逆に「感動三昧」ということであり、生きていく術を示した科学であると思う。このように、仏教は本来の意味から大きく反れ、誤解された形で広がっていると思う。「仏教」は映画「マトリックス」のように刺激的でスタイリッシュなものなのだ。やはり一番大切なのは、ただひとつの真理『法』を知ることだ。今こそ皆がそれを望んでいるし、皆が理解できる時期に来たと思う。「仏教」は一番新しい。テロの恐怖に怯え、お互いがお互いに不信感の中で生きていかなければならない時代、今こそ、西洋の国々が、仏教の、自然界のただひとつの真理を知るべきときだろう。
2005.07.26
コメント(0)
そう考えて生きることの大切さ。いや、別に死んでしまわなくても良い。悔いなく生きる生き方。それを、日々、一刻一刻意識することの大切さ。最近痛感する。仏教では「諸行無常」という。ニューエイジで確かラム・ダスだったか?が「BE HERE NOW(ビー・ヒア・ナウ)」と語ったのも同じ意味である。「今を生きる」「諸行」(世の中・人も全て)は「無常」(常ならむ)だからこそ「今を生きる」ということの重要性を説いている。真理はどこでも同じ。「ビー・ヒア・ナウ」は仏教から来ている。もし、明日、癌か交通事故かなんかで死んでしまうとしたら?今本当に悔いのないことをしているだろうか?仕事は?住まいは?生き方は?愛する人を十分愛しているだろうか?ヒステリックになることなく、普通に迷いなく暮らしているだろうか?「人もし生きること百年ならんとも、身に慎むところなくば、慎みのある人の、1日生きるにもおよばざるなり」(釈尊)「今を生きる」とは、自分探しでもあり、裸の自分になって、本当の自分を「生きる」ということなのだ。
2005.07.24
コメント(0)
やはり間違いだった。罪も無いブラジル人を、殺してしまった。イギリスは殺人者だ。人間の行い(業)ではない。恥を知って欲しい。「ダーティ・ハリー」じゃあるまいし、いきなり5発もぶち込むとは、動物でも無駄な殺しはしないというのに。「ダーティ・ハリー」は映画、フィクションだ。あのころのクリント・イーストウッドはもはや存在しない。「石器時代の恐竜」なのだ。それは彼自身が罪滅ぼしのようにして何度も映画の中で描いてきた通りではないか。「許されざる者」も「ミステック・リバー」も・・・多分最新作も。暴力のシンボルによって暴力は、否定されているのだ。「感情」の奴隷になってはいけない。「スター・ウォーズ」のように「感情」に支配されると、ダークサイドに陥ってしまう。一度落ち込んだらなかなか抜け出ることはできない。それはルークが、いや、アナキンが証明済みだ。イギリスは手を血で染めてしまった。本当の意味で、ダークサイドに入って行ってしまった。
2005.07.24
コメント(0)
信は、わが蒔(ま)く種である。智慧(ちえ)は、わが耕す鋤(すき)である。身と口と意の悪行を制御するは、わが心の田における除草である。精進は、わが牽(ひ)く牛にして、行きて帰ることなし。このように、われは耕し、このように、われは種を蒔く。不死は、その収穫にして、われは、全ての苦を脱せリ。(『阿含経』)仏教とは、科学である。ただひとつの真理である。よって、人が誰しも望む『幸福』への答えは、仏教の真理にある。お金持ちの法則も、仏教の真理と同じ。世界のトップに立つスポーツマンの真理も、仏教の真理と同じ。世界一有名なタレントの真理も、仏教の真理と同じであり、何気ない幸せを掴んだ普通の人々の真理も、仏教の真理であり、絶え間ない責め苦の中で明るく生きる人々の真理も、仏教の真理と同じである。仏教が偉いわけではなく、釈尊の悟った真理が、世界でただひとつの真理であるゆえに、世界のどこにでもある真理は、仏教の真理と同じことなのである。お金持ちが到達した、お金持ちになる法則、人生の真理も、仏教の真理と同じなのだ。
2005.07.24
コメント(0)
インド、バラナシの鹿野苑(ろくやおん)に9年ほど前に行ったことがある。仏陀のゆかりの地、アショーカ樹の下で誕生したネパールのルンビニ、お城跡のカピラバァストゥ、悟りを開いたブッダガヤの菩提樹、スジャータに救われたネーランジャラー河付近、等を巡ろうとインドを旅している途中である。鹿野苑では、覚醒した仏陀の初めての説法が行われたところである。私は、古ぼけたホテルの一室で、明日そこへ向かうことを楽しみにして寝た。鹿野苑とは、鹿の原という意味で、かつては野生の鹿が沢山いた場所だった。私はそんなことを知ってかしら知らずか、鹿の夢を見た。なぜか夢の中で私は見知らぬインド人の少年と歩いていた。そして、突然林の中から現れた鹿に驚いて少年が私に「見て!見て!鹿だよ!鹿が出たよ!」と指差した。目が覚めた私は、あまりのリアルな夢に現実のような錯覚を覚え、その理由を必死で考えた。まず、インド人の少年なんて知り合いもいないし、ましてや鹿なんていくら鹿野苑でも今の時代に野生の鹿がノコノコと人の目の前に現れたりはしないだろう・・・とそれ以上深く考えることはしなかった。私は鹿野苑へ向かうバスで、二人のインド人少年と出合った。日本から持ってきたガムを不思議そうに見るので与えたら彼らは親しげに話しかけてきて最終的に鹿野苑の案内を買って出てきた。私は断る理由もないので二人と一緒に園内を回ることにした。と、そこに、小さな動物園があった。彼らはここによく来るというので私は二人と共に入った。回っていると鹿が出てきた。そして、少年が指差した!「見てみて!鹿だよ!鹿が出たよ!・・・あんたはラッキーだね!」って。まったく夢と同じ少年のポーズと笑顔で、林から出てきた鹿の位置も、構図まで一緒だった。「あ!これだ!昨日夢で見たよ!まったく同じだよ!・・・君がこうやって指差して!・・・」お兄ちゃんの方が照れくさいように笑い出したので私も恥ずかしくなって止めた。でも、夢で見たのはこの状況だったのだ。まったく不思議なことがあるものだ。インドを旅していると不思議なことが数多く起こる。大したことではないし、勘違いじゃないの?って思われればそれだけの話だが。でも二人と別れた後、私は大勢のインドの子供たちに助けてもらうことになる。アイスクリーム売りのおじさんから!彼らは皆、仏教徒だといっていた。インドでは迫害されている少数派だ。バスに乗った私を走っていつまでもいつまでも追いかけてきて手を振った彼らのことを、私は忘れないだろう。
2005.07.21
コメント(0)
考えてみれば、今頃になってようやく世の中がシンプルな法則で成り立っていることに気が付いた。しかし、真実は”シンプル”であるがゆえに表層は”複雑”に現れるのがこの二元論の世界。シンプルに生きるということは、実は仏陀の言う『悟り』の境地なのです。仏陀は、実は、単純に「人生で苦悩することなく、人が生きやすい生き方を説いただけ」。しかしその真理は、彼が言った通り一般にはなかなか分かりにくい物。・・・掴んだと思ったら消えていくもの。だからこそその真理は単純なことなのだ。なんで気づかなかったのだろうという物であり、永遠に理解できそうにないなぁという物なのだ。私が思うに、経験上、けっこうお金持ち、あるいは上昇志向の人たちの中には、この真理を知ってか知らずか、少なくとも実行しようと努力している人たちが多いように思う。貧乏な田舎の人はそうじゃないというわけではなくて、そういった人たちの方がそれを『知っている』のだ!仏教でも「貪る」正義のためではなく自分の損得のために「怒る」知らないという意味の「痴」は、三毒であるとある。知っているだけでも違うものなのだろう。やはりそういった人たちに幸福は降って来るのだろうか?
2005.07.19
コメント(0)
以前、思わぬ偶然の導きでインドネシアのモスリムの男の部屋に泊めてもらうことになったことがある。彼は控えめで寡黙な青年で、決して冗談など言う人間ではなかった。彼の国では、彼ら独自の原始宗教とイスラム教が合体した宗教を信じていて、どちらかというと原始宗教が色濃く残っている世界観を信じていた。彼は「宗教というものは、仙人のように山にこもって修行する出家僧だけが偉いわけじゃない。むしろ、家にいて、以前と変わらぬままの生活をして、その上で宗教の教えを忠実に守っていく、それこそが最も難しいことである」と語った。そして「出家した僧より、日常で教えを実行していくその人こそ、最も尊敬さに値する人物だ」と。更に彼は不思議なことを語ってくれた。山奥にある農村の彼のふるさとでは、呪術という習慣が残っていて、自分も周りの人間も、病気にかかったとき、呪術師(メディスン・マン シャーマン)に治してもらったという。その呪術師は、いろんな魔術を行うことができ、超能力を持っている。彼も実際に、年老いた呪術師が宙に浮くのをこの目で見たという。私が信じられないでいると、至極まじめに「本当だ」と何度も訴えた。その上彼の実家には、代々伝わる短刀があって、それがすごく不思議な歪んだ形をしているらしいのだが、装飾の施された鞘に収まった美しい短刀だということだった。その短刀を身に付けていると人から見えなくなる、つまり、透明人間になれると言い伝えられているというのだ。彼はその言い伝えが本当なのかどうか、自分自身も信じられなくて試してみたそうだ。彼は親に内緒でその短刀を持ち出して、映画を見に行ったそうだ。映画館の切符切りが自分が見えなければ、タダで映画を観れるという魂胆だ。しかし、彼はそれを信じているわけではなく、すぐに見つかって入り口で止められるだろうと思っていた。ところが、彼はまんまと入り口を何の咎めもなく通り抜けられたそうだ。「やっぱり彼らには、僕が見えなかったからだよ。そうでなかったらいったい誰がタダで映画を見せてくれる?奇跡が起こったんだ!」彼は興奮気味で語った。当然私はまったく信じられなかったが、彼の熱意と、見えていない見えていたとに関わらず、なぜ誰も咎めることなく映画館に入り、タダで映画を観れたのかは不思議だったのでその場では奇跡が起こったとまでは賛成しないが実際そうだったんだろうねと頷いておいた。しかし、考えてみると、世の中不思議なことだらけ、そういう不思議があってもおかしくはない。むしろ私はそういった小さな不思議とは幾度かお付き合いしてきた仲じゃないか、彼の言うことだけ否定する理由はまったくない。彼のいうことも、信じられるのかもしれない。そう思えてきた。日々の実務に追われるようにして、かしこまった現実ばかり考えるより、夢のある不思議を考えた方が、楽しいではないか。
2005.07.06
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1

![]()
![]()