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「子ども」『批判ばかりされた 子どもは 非難することを おぼえる 殴られて大きくなった 子どもは 力にたよることを おぼえる 笑いものにされた 子どもは ものを言わずにいることを おぼえる 皮肉にさらされた 子どもは 鈍い良心の もちぬしとなる しかし,激励をうけた 子どもは 自信を おぼえる 寛容にであった 子どもは 忍耐を おぼえる 賞賛をうけた 子どもは 評価することを おぼえる フェアプレーを経験した 子どもは 公正を おぼえる 友情を知る 子どもは 親切を おぼえる 安心を経験した 子どもは 信頼を おぼえる 可愛がられ 抱きしめられた 子どもは 世界中の愛情を 感じとることを おぼえる』私もこの詩は、好きな詩のひとつだった。部分的に覚えていて、ニュースで皇太子の会見を見たときには、改めてこの詩の良さに感嘆した。興味のない方もいると思う。特に皇室のことに興味がないというより、皇太子自身に興味がないという方は多いと思う。しかしこういった皇太子の発言は、たとえ皇族であっても普通の人間であるということを我々に訴えかけている。それは皇族全体ではなく、皇太子に限ってのことかもしれないが。皇太子は雅子様を皇室に迎えるときに「全力でお守りする」と言い切った。男なら誰でも覚えはあると思うが、男女間の関係で、はじめに言い切ってしまった約束は必ず守らなければならなくなる。想像するに、皇太子もこのギリギリの約束を守らなければならない状況に立たされているのだろう。きっと・・・。そうならば、私としては皇太子の行動や発言に、ものすごく人間味・共感を覚えずにはいられない。私は結婚はしていないが男女間における信頼関係についてはこのような経験がないわけではない。彼は、見えない敵と戦わざるを得ない状況に置かれている。そういう時は、無理にでもこぶしを振り回さなければならない。もちろん、皇太子なりのやり方でだが。この詩は決して、雅子様の考える”教育姿勢”に対する皇太子なりの擁護の言葉としてわざわざ読み上げられたものではないと思う。もちろんそういった意味合いもあるだろうが、私が考えるには別の意味合いが含まれていると思う。それは、皇太子自身の今まで育ってきた皇室という環境に対する意見であり、今、雅子様が置かれている不健全な?(ご病気になられるほどの)皇室内の環境に対してのささやかな抵抗なのではないかと思う。多分、そこには「愛」が不足していると言いたいのではないだろうか?皇太子も雅子様も、愛情の酸欠状態なのではないだろうか。皇太子は、雅子様のため、そしてあいこ様のため、そして何より自分自身のために、声にならない声で叫んでいるように思えてならない。この詩の意味するところが、無垢な少年として育った皇太子の、心からの悲痛な叫びに、私には聞こえてならない。
2005.02.28
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昔、愛は人生での、自分自身が自分として生まれてきて体験できる唯一の価値あるものであると考えていた。人類の歴史は長い。その中で、人間の魂が何度生まれ変わろうと、新たな生で、新たに個人的に体験できる唯一の新鮮な経験というものは「愛」だけだと考えていた。ビジネスで成功したり、勉強がよくできたり、スポーツをしたり、車に乗ったり、悪いことをしてつかまったり、あるいはつかまらなかったり、旅行に行ったり買い物をしたり、別れたりくっついたり、貧乏になったり金持ちになったり、そんなようなことはたいがい多くの過去の人間が経験してきていて、それを現在も繰り返しているようなところがある。だが、その中で本当に大切なのは、人と人とのつながりの中や、苦しいときや嬉しいときに見つけた「愛」だけなのだと思っていた。自分の人生で経験した数々の小さかったり大きかったりする「愛」は、自分の愛であり、他人のどの「愛」にも似ていないはずである。他人の生きた人生のどの「愛」とも違うものであると思う。だからこそ、自分の「愛」は、その人にとって大事なものなのである。センチメンタルな考えだろうか?いや、きっとそうではないはずだ。自分のこの生で経験する「愛」は、誰のものでもない、自分だけの貴重な経験なのである。そしてそれは、来世にも持って行けるその人の財産になるに違いない。
2005.02.19
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「愛」は怒っている愛は「孤独」の裏返しではない愛は「憎しみ」の裏返しである愛と憎しみは隣り合っていて、愛がいつ憎しみに変わるかそれを怖れて女は男を信用できず、男は自分自身を恐れ愛に狂う愛は呪文ではないキリストがみだりに神の名を唱えるのを禁じたように、愛をかたくなに唱えすぎるものは愛の奴隷となる最後には他者をも奴隷にしようとする愛は押し付けではない愛は愛ゆえに、愛を不謹慎に唱え、押し付けるものに怒っている誰も聖人たり得ないそれは聖人が聖人ではなくなってしまうから聖人は約束されて生まれてきた人間を超越した人物で、人間が人間を超えようとすれば、それはただの世間知らずましてや誰も神たりえないなるがままになるしかない、受け入れるしかないしかしそこに「愛」があれば、調和の元に全てが上手くいくハズ愛は憎しみをも凌駕するハズ愛は神、そのものだからだとすればそういった意味では愛を実現したものは皆、神たりえる「愛」は怒っている本当の愛を知らないもの全てに・・・本当の愛を讃えよう憎しみが裏側にない、本当の「愛」を
2005.02.16
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そういえば先日恐喝?未遂?で逮捕されたショーケンが昔こんなことを言っていた。「人間、変わろうと思ってもなかなか変われないもんなんだよ」本人に直接聞いたその言葉をたまたま今思い出した。彼は現場で女性助監督にセクハラをしたという。その他は何があったかは知らないが、彼が言うにはセクハラというものではなく「さっさとやれよ!」「何とろとろしてるんだ!」みたいなことで怒っただけだということらしいが、時代が変わってしまったのに取り残されて気づかないでいる哀れな男の姿がここにあるように思う。確かに現代はあらゆることに神経質になりすぎている。訴訟社会であるアメリカの影響だろうが、だがそれも住みよい環境を作り出そうとすればこそ、皆で作り出した新たなルールなのだ。ショーケンは実際にお会いしたことがあるし、実際魅力的な不良中年だし、若い頃は好きだったが、全てが彼の言ったこの一言に現れているのだろう。もちろん知り合いのヤクザの名前を出しての恐喝など、本人が知っていようがいまいが当然罰せられるべきものである。ただ同じ団塊の世代で(私は違うが)同じような思いをされている方もいるのではないかと思う。なぜ?なぜ俺がこんな目にあう?合わなきゃいけない?時代の感覚のズレは恐ろしい、変わらなければ前に進めない。だが未だにあちらこちらで旧態然とした非常識がまかり通っている。(新しいものがまともだとは決して言わないが)変われない、厳しくデカダンな男の行く末を見たような気がしてならない。
2005.02.11
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あのトルシエの通訳だったフローレンス・ダバディ?がニューズウィークにコラムを書いていたそうだ。そのコラムの内容は「世界一の”温室”にいる日本の若者たち」というものだった。直接読んだわけではないが、彼によると日本の若者は政治的思想、哲学がなさ過ぎるそうだ。それは良く分かる。そして、「個性」も「自立心」(?だったか)もないまま大人社会に出て、彼らが抵抗力もあるわけがなく、自分の考えもないまま情報の海に呑まれてしまうのは必然だという。それも分かる。そしてそのまま自らのアイデンテティも持つこともなく世間に流されてしまうのだ。結果、どうなるかはご存知だと思う。まだ日本全体が温室化している以上、大人社会という荒波に呑まれてしまっても今のうちはまだどうにかなるかもしれない。しかし、これ以上貧富の格差や、経済的行き詰まりが悪化した場合、彼らがもっと更に最悪の状況に陥ってしまうのは時間の問題であるように思う。日本の若者が政治的に童貞であるということは昔から言われていたが。ダバディの言うことはもっともで、外国人が長年かかって日本を見た結果の意見であるからこそ、日本人を納得させるに十分な説得力がある。そこで、日本の若者に欠けているものとは何かというと、「温室」であるからこそ見えない”他人の痛み””他国民の苦しみ””グローバルな視点”なのだ。自分さえ好ければ良いという時代は、もう終わっているのだ。
2005.02.06
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すごい!悪趣味で凄いと言っているのではない。今頃観たの?といわれそうだが、あっという間に終わったので時間がなくてDVDでやっと観た。しかし、エグイだけ、タダひたすら痛い映画、という世の中の感想には反して、私的にはすばらしい映画だった。確かフェリーニの先生のイタリア人映画監督・ロッセリーニだったと思うが、ロッセリーニの描いたキリスト映画に匹敵するくらいすばらしい映画だ。ちなみにロッセリーニは「聖フランチェスコ」も好きな映画だ。もう観ることはなかなか出来ないが・・・。当然、裁判のシーンはあの「ジャンヌ・ダルク」の裁判と酷似している。多分モノクロ映画「裁かるるジャンヌ」の時代からキリストを意識して作ったのだろう。映画は徹底したリアリズムで、ヘブイライ語など当事そのままの言語で描かれている。普通の映画ならいろいろな国の言語が飛び交う国際的な一大叙事詩だ。しかしこのような「人間とは何たるか?」や「世の中を見つめる新たな視点」を与えてくれる映画というものは、あなたのそして私の「人生」に貴重である。この映画を観て、キリストも普通の人間で(もちろんメシアだが)未来は予知できても、それを経験するまでは不安で、未来は未来のことでしかなく、それゆえに、人生の一瞬一瞬を生きるしかなかった私たちと同じ人間だったのだと感じた。もうすでに知っていることだが、ここでも、キリストが真理である真の自由を勝ち取るためには、孤独に甘んじ、裏切りに合い、憎しみを引き受け、多大の血を流すことが必要だった。これはストーリーだ。ヒーロー者の伝説だ。葛藤があり、面白く、悲しくもあり、友情を描き、女がいてプラトニックな愛を描き、敵がいて、冒険をして、何かを捨てることによって別の新しい何か本当に大切なものを手に入れる。これは伝説によくある物語のパターンだ。日本人や、東洋思想、仏教徒たちには宗教としては芝居じみて感じるだろう。しかしそれゆえに人々を強くひきつけ、熱狂的に信じられている。これは何かに似ていないだろうか。血の上に築かれた文化。そう、資本主義と似てはいないだろうか。資本主義も二元論のドラマを作り出している。男と女、金持ちと貧乏人、貸す者と借りる者、売る者と消費する者、それら両極端の二元論の配役によって、ドラマは作られている。そしてドラマによってドラマがまた作り出される。そうやって貧乏人に甘んじている者でさえ、人間って生きてるんだって思っている。でも、それが他人の「血」の上に築かれた財産であったり平和であったり、生の証だったりするのでは?今なぜ?この映画を!メル・ギブソンが自らプロデュースしてまで作らなければならなかったか?!分からないだろうか?ただ痛い映画と思っただけだろうか?人は罪を繰り返しているのだ!あの、キリストが!あれだけの血を流し、痛み苦しみを受けてまで、私たちの罪の身代わりになって死んだのに!だから、今!あのキリストの痛みを思い知れというのだ!思い出せというのだ。人類の、人間が人間であるが故の罪の痛みを思い出して欲しいというのだ。これは何も、キリスト教だけに言える事ではない。中には私は無宗教だという人もいるだろうが(本当だろうか?)仏教徒にも言えることだ。この映画の冒頭でキリストは語っている。「友のために命をささげるということは、最大の愛だ」と。仏教でもこういう話しがある。お釈迦様(仏陀)は、前世でウサギだった。そしてそのウサギは極寒の中、トラが飢えているのを見て「自らを食え」と炎の中に飛び込み、命を差し出したという。最大の愛を与えてもらったことはあるだろうか?キリスト教信者は「イエス」と言えるのである。
2005.02.03
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