MoMo太郎日記

MoMo太郎日記

2024年05月11日
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カテゴリ: フォトグラファー
坂道の突き当りに鳥居があり、ここが金王(こんのう)八幡宮(→→→ こちら

鳥居の横にあったこの金王八幡宮の説明です。
寛治6年(1092年)創建されたとされる神社で、源義家が後三年の役(1083年-1087年)で勝利したことを八幡神に感謝してこの地に勧請しました。
このあたりの領主であった河崎重家は、禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とし、渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれています。

八幡宮の表参道に回って参拝することにしました。
さて、この八幡宮の名称の「金王」とは重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けたそうです。

この金王丸は17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156年)で大功を立て、その名を轟かせました。しかし、源義朝は平治の乱(1159年)に敗れ、尾張国野間の長田忠宗に殺されました。
金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔と伝わっています。


そこで、昌俊は断ることもできず、文治元年(1185年)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。

しかし、昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げたそうです。
そういった金王丸の名声により、当八幡宮を金王八幡宮と称するようになったそうです。

この短い石段を登って行くと、

こちらの神門は、3代将軍徳川家光の将軍決定の御礼として、乳母の春日局と守役青山忠俊が造営された伝わっています。

こちらの社殿も同様に春日局と青山忠俊が造営したもので、江戸時代初期の建築様式を今に伝えています。
守役の青山忠俊はこのあたりに下屋敷を持っており(これが今の青山の地名の由来)、この金王八幡宮を氏神として信仰していた。そして、将軍相続を危ぶまれた徳川家光のため熱心に祈願したそうです。

しかし、青山忠俊は、しばしば家光に諫言を繰り返したため、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、さらにはそれも取り上げられて相模今泉で蟄居となった。
しかし、息子の青山宗俊は家光から許され浜松藩藩主の大名に復帰したそうです。

ところで、こういう神社やお寺に参拝した時、お賽銭を出さない人がいますが、お賽銭は神社やお寺の掃除をしてくれる人へのお礼なので、別にその神様や仏様を信仰していなくても、出した方がいいですね。(MoMo太郎の配偶者のように自称クリスチャンであってもお賽銭は出した方がいいですよ)。

扁額も立派な金文字ですね。



こちらは神楽殿です。

八幡宮を出てしばらく南に行くとこちらにも大きな鳥居がありました。

(渋谷からお散歩のコース)

【つづく】

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渋谷からお散歩(その5) 金王八幡宮





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最終更新日  2024年05月11日 00時10分14秒 コメント(30) | コメントを書く


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