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ユニバーシティーと言う言葉は元々ユニ(一つの)とバーシティー(場所?)と言う言葉を合わせた造語だそうだ。詳しい内容は言語学者に譲るとして、大切な事が一つある。それはユニバーシティーの意図するところとは、大学で教授から生徒に知識を与えるのではなく同じ教室の中で一緒に学ぶ姿を指しているのと言うことである。ごく最近MBAを卒業したロシア人の友人がいる。彼が、こんな話をしてくれた。国際経営学のクラスの中で彼の教授がロシアについて語ったとき、旧ソ連体制の汚職、資本主義の欠如をそのまま講義したような内容でビジネスなど出来るところではないと締め括ったそうだ。まだ崩壊間もない時代ならともかく、今はその後のロシアを始め旧ソ連から出来た国々では多くの資本主義的ビジネスチャンスにあふてれいる。そんな国の講義を若くアントレプレナー精神に燃える学生の前で叩き潰すのが本当のユニバーシティーの在り方だとは僕には思えない。例えば、もしロシア人の学生がクラスに居るのなら、先ずクラスで話す前に彼の意見を聞いて見てはどうだろうか。そしてその彼の意見が確りしているなら、経営学的部分を補足しながら、彼に講義を任せてみるのも面白いだろう。どんな博士号を有した教授でも世の中全てを知っているわけではないのだ。これはむしろある学問の目的を共有するグループのリーダーとしてそのグループの最善をもたらす事を目的にするのは如何だろうか。師が導き、弟が快活に意見する、そんな形が理想のユニバーシティーではないだろうか。元々学問とは師弟ともに一緒に学ぶべき部分があるのではないだろうか。
2005.07.28
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パックスアメリカーナの世界から離れた世界がもう始まっている。まるで夏の蝉しぐれの中で、枯葉が落ち始めているように。終りの始まりとは何時もこのように静かに始まっているのだろう。万物全て「生滅流転」の世界。まるで満月のように左側が満ちた瞬間に右側がかけ始めている。人類数千年の流れの中で繰り返し行なわれた覇権の争いがもしかすると今終局を迎えているのかも知れない。イデオロギー、宗教、文化、民族間の対立から来る戦争ではなく、それらの和解、融合、共存、共生の世界観が広がりだしている。21世紀の社会はきっとそう言う方向で進んで行くのだろうと思っている。ある人が西洋と東洋の文化の波が日本で交わり新しい波が世界に向けて発信していると言っていた。確かに日本の位置付けは面白い。でも、世界にはもっと積極的に融合や共存が進んでいる国もある。そんな国々と手を繋ぐ事が日本からの波を拡張する事になると思う。新世紀のリーダーの一人として是非日本にもマルチナショナルソサエティーに参加して欲しいものだ。
2005.07.27
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僕の話の中に必ず出てくるチャートが幾つかある。今日はその内の一つに付いて話してみたい。名づけて「汚れ曲線」。^100----------|★ --------| ★ ------ | ★ -----| ★ ----50 ★ ---| ★★ --| ★★★ -| ★★★★ - | ★★★★★★★★★★★★ -0---幼少-----学生-----中年-----壮年-----老年------------------------>***上のチャートは点線(-)が理想を示し、星(★)が汚れ度早期進行曲線を示している。***人間が生まれた時はとてもピュアな存在だ。こればかりは新生児の目を見た事のある人なら良くお分かりだろう。実際父親になって子供を育てていく過程で子供に人間性などと言うことを説く気持にはあまりならない。むしろ彼らの言動からそう言った事を教えられているような気にさえなる。それはさて置き、この話をしたある時、学識のある一人の友人が「そうか性善説ですね」っと言ってくれた。確かにそう言う言い方が正しいのかもしれない。孟子始めソクラテス、プラトン、カント等もそう説いているそうだ。勿論その対極には荀子の説く性悪説があるのだろう。何れにせよ、そう言う言い方をするのなら、「ネオ頑固イズムは性善説である」。これは僕の人生経験上の理論であるが、ご存知のようにネオ頑固イズムは進化する。だからもしかすると将来性悪説になる事があるかもしれないが…。さて、話を本題に戻して、Y軸の100は全ての人が生まれたときは100%ピュアな存在である事を示している。その後人生を歩みだす事が汚れていくことなのだ。星(★)型の曲線を歩む場合の例としては「もう小学生くらいで生意気に大人ぶった言動や、現金な行動しかしないような子供」なんかを指している。つまりもう半分(50%)汚れちゃった小学生である。一方点線(-)型は「中年になってもまだ子供の夢のような事を言ったりやったりしている」タイプの人間を指している。実際には多くの人々が、この両曲線の中間を上がったり下がったりしながら人生を歩んでいるのではないだろうか。大人になってつく「悪気の無い嘘」これを汚れと言うのか、成長と言うのか難しいだろう。人間真実だけでは生きていけない。希望や夢は多少のごまかしの中にしか存在しないのかもしれない。さ~て、皆はどの辺りの汚れが心地良いのだろう。僕はあえて言うなら80%くらいの所で何時までも落下せずに粘り続けて居たいと願っているのだが…。
2005.07.26
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「RISK」とは辞書では、「危険」と訳される。所が、元々は「際どい」、「不安定な状態」、「価値観の変わり目」等を指す言葉らしい。或は動詞としての意味の方が分り易いかもしれない。その中には「賭ける」とか「大胆にやってみる」と言う意味があるからだ。だから僕は「RISK」は危険ではなくむしろ「危機」という言葉で訳すときが多い。そして危機と言う言葉の意味を「転換期に大胆にやってみる」こと考えてもらいたいのだ。危機の「危」は勿論危険の危である。一方、危機の「機」は機会の機である。時代が変わる時、物事の価値観が変わる変動期、不確定の時代にこそ機会、つまりチャンスがあるのだ。単位株の減少やミニ株の開始それとオンライントレードの普及で個人で株式投資をする人が増えているが、これは素晴らしい事だ。その深い意味合いはまだ後日語るとして、株式投資ほどリスクを教えてくれる素晴らしい先生はいないからである。リスクとは無闇に取るものではない。株式投資も闇雲にやって当たるのでは意味は無い。リスクの裏返しはリターンである。だからリスクとは、自分のリスクの許容量を知り、リスクの分析をし、リターンに見合うかを計ってから取るものだ。リスクの取り方が分ると人生観が変わる。ある意味では人生そのものがリスクなのだから。リスクを知ることは人生を学ぶ事に等しいのである。逆にいえば、リスクの無いチャンスなどありえないのである。不確定の中にこそチャンスがある。リスキー・オポチュニティー、何となく聞こえの良い言葉に聞こえては来ないだろうか。
2005.07.25
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90年代後半、新進党、社会党首相、平成維新の会、等などの政治改革が埃のように舞い上がり、自民党の連立による現体制に落ち着いた頃僕は新しい政治に以下の事を求めていた。・有能な人材の適正就職への援助・都内高層ビルの託児所フロアーの義務化・杉林の天然雑木林還元化以上の中には今まで触れてきたトピックも在るけど、夫々の詳細はまた何時かフォローしてみましょう。そんな中で、今日は有能な人材の適正就職への援助について少し書きます。昨日の話の中で色んな履歴書を見てきた話をしました。多くは数学や物理の大学院生。有名大学のMBAやAIの博士号なんて人もいた。その中には日本語で博士号を取ってるノンジャパさんや英語の得意なアイビーリーガーの日本人なんてのも多かった。そんな能力のある彼、彼女らが何故この業界に集まりたがるのかは明らかだった。ペイなのです。矢張り若くて有能な人たちは出来るだけ先に行きたがる。今まで数年余計に学業をしていた分、早く高年棒で取り戻したい気持ちもよく分る。そんな中の一人と面接をした。今はもうその履歴書の詳しい内容等は覚えてもいないが、立派な大学で「シティープラニング」の修士課程まで勉強した方だったと覚えている。そのキャンディデートに以下のような話をした。「貴方のような有能な人材こそこの街、この国のシティープラニングを担った方が世の中の為にずーっと有意義だろう。貴方に安い給料で働けとは言えないが、政府が年棒の差額を税金で賄うわけには行かないのかな~?その方がよっぽどましな公共事業になるだろうに」とか何とか。勿論分野違いのこのキャンディデートが僕の部署に就職する事はなかったが、その語学力や優秀な学歴で恐らく他の競合会社のどこかに椅子を見つけたに違いない。聞けば今日(7月23日)東京で震度5の地震が来たとか。高層ビルなど新しい建築物はその準備がむしろ進んでいると言う。しかし東京と言うこの日本の生命線とも言える街のシティープランには耐震政策が反映されているのだろうか。もっともっとマクロの都市計画を全面に出して欲しかった。潰れた銀行に何十兆とつぎ込むよりも次の世紀に残る大改革を失われた時代にこそ行なうべきだったのではないだろうか。危機とは、危険な機会、リスキィー・オポチュニティーなのだ。その辺りはまた後日語ってみたい話だけれど…。
2005.07.22
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最近色んな人と色んな話をしている。例えばMBAを終えた若き大志を抱いた友人が廻りに何人かいる。彼ら、彼女らの起業心には其れなりに学ぶと事があるような気がする。高校四年、大学五年通った僕は、ストレートで四大を卒業した人たちと比べて二年遅れて社会人になった。その分学校では経験できない事を自分の勉学の一部としてきたと自分に言い聞かせ、家庭の事情もあり大学院には縁がない生活を送ってきた。それでも、元々運が強いのか、世界的大企業に15年程勤め、一流大学卒、MBA卒、博士号取得者等に囲まれながら仕事をしてきた。入社三年目には、MBAや博士号を取ったばかりの新卒者に仕事を教える立場となり、その後は彼らの多数の履歴書に目を通し、彼らの何十人かと入社面接をしてきた。学歴社会、大企業病に取り囲まれ、徒弟のようなジュニアなポジションに辿り着く為に高学歴を積んだ彼らの頭脳の性能の良さは感服するばかりである。元々優秀だから世界中の一流大学で学び、その後専門分野で数年も勉学を続けるのだから優秀でないはずがないだろう。だからある意味では学歴社会と言うシステムは、篩にかけるには都合の良い物なのだ。しかし学歴信奉に陥っていたのでは、それはただの大企業病だろう。上には必ず上がいる。だからそれを学歴や成績だけで計るのは難しい。実際何十名といる学歴十分以上のキャンディデートの中から僕が選ぶのはハッキリした意志をもった人たちだ。こんな社会環境で将来に不安を持つ若い青年が学歴、成績に拘るのはしょうがないかもしれない。しかし、本当にMBAに行くべくして行く人は何人居るのだろうか。例えは音楽大学や美術大学、一体どんな人が居るのだろう。恐らくその分野の芸術に見せられたり、タレントがありそれを伸ばそうと思う人たちで溢れているのではないだろうか。経営はある意味では才能以外の何者でもない。非常に難しく遭えてやろうと思う人はそんなに居ない筈だ。ここは経営のセンスのある人、経営にチャレンジしたい人達が挙ってMBAを学んで欲しいと願うのみだ。自分の学んだ学問を身に付け、ハッキリとした意志をもって社会に入って貰いたい。
2005.07.21
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もともと、「一怒一老一笑一少」と言う中国の言葉が先にあったそうです。「老」に対し「若」ではと言う説があるそうですが、これは「イーローイーローイーソーイーソー」と韻を踏んでいて、少が正解だとか。勿論その意味は一つ怒れば一つ年取り、一つ笑えば一つ若返ると言う事。「得と損」でも意味は通じるけど、オリジナルの方が人生の教訓ぽくて良いような気もする。実はこの言葉最近読み出した本に紹介されていた言葉。本の事は読み終えたらご紹介したいけど、中々面白い。それはさて置き、この「一怒一老一笑一少」に同意する人は多いだろう。誰でも怒った後は後味が悪い。「何とか怒らないでいられる方法はなかったか」、「同じ怒るのでももう少し違う表現が出来なかったか」等など、気になる事ばかりだろう。僕はどちらかと言うと怒りやすいタイプ。良くあるパターンがビューロクラシー(官僚主義)。どうも納得の行かない「ノー」とか言われると直ぐにアレルギー反応(怒り)が発生する。だから銀行や電話のヘルプデスクのような人間性を否定する対応には何時も怒ってばかりだ。「どうせそう言うものだ」と割り切って対応すれば良いのだろうが中々上手くできない。一方笑いは良い。これも万国共通で皆そう思うだろう。軽い笑いも良いけれど、お腹を抱えて笑った後の爽快感は格別だ。以前は好きなテレビのコメディーやお笑い番組、落語等でよく笑っていたような気がする。最近はMNSの友達で何人か笑わせてくれる友人が数少ない笑いの泉になっている。「怒縮笑伸」何時も起こってばかりいては命が縮んでしまう。笑いと伴に命を伸ばそう。「怒固笑柔」怒ると固まり、笑うと柔らかくなる。自由な発想、柔軟な思考思考も何故か笑いの中にそのエネルギーがあるように思えてきた。
2005.07.20
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最近、親友と友達に関して話す機会があった。そうして思うと「友」を表す表現として、「友人」、「親友」、「ポン友」、「悪友」、「飲み友達」、「仕事友達」、「つれ」、「顔見知り」、「幼馴染」、「なかよし」、「元かれ」、「元かの」、「ホモだち」、「ダチ」なんて普段使ってると思う。同じ場所や経験を共有する友は、「同級生」、「同期」、「先輩」、「後輩」、「学友」、「旧友」、「級友」、「吟友」、「交友」、「会友」、「校友」、「社友」、「誌友」、「酒友」、「戦友」等がある。他にも「畏友」、「益友」、「損友」、「故友」、「執友」、「師友」、「尚友」、「心友」、「清友」、「善友」、「争友」、「知友」、「同友」、「俳友」、「念友」、「風友」、「朋友」、「亡友」、「盟友」、「面友」、「良友」、「療友」、「類友」、「老友」等の独特の友好関係を表す言葉がある。まぁ辞書を引き続ければもっとあるのだけれど、ここまで来ると日本語程、友達を表現できる言葉が多彩な言語はないのではないだろうかと皆考えるだろう。もう少し突っ込んで考えると、誰でも友達、逆に言えば、本当は友達でもないけど友達と言っていたりする関係がままあるようにも思える。僕の親友と話した事も、実はこの辺りにあるような気がする。つまり、「普段付き合っている友人(遊び友達)は多いのだけれど本当の意味での友人(価値観や目的を共有する友達)はあまりいない」と言うことなのだろうか。二人の会話は、多少人生経験の多い僕が聞き役になって進んでいたように思う。向うからすると僕の方が「本当の意味での友人が多いのでは」と思っていた節もある。結論からすると、人生経験が多い分、多岐に渡る友人はいる。そう言う意味でお互い助け合ったり出来る範囲は広いと思う。しかし、決して本当の友人が多いと言う訳でもないだろう。昔からどちらかと言うと廻りの人と誰でも付き合うタイプではなかった。裏返せば、気の会う人物と付き合う分、長い付き合いが多いかも知れない。しかし、結構長く知り合っている友人とも付き合いが切れる場合もある。いずれにしても本当の友と呼べる数なんて、誰もそんなにいないんじゃないだろうか。だから、良友との関係を大切に育てて行く事が大事だと思っている。以前「邂逅」で書いた出会いを育てる以上に、友情を育て、維持していくのにはエネルギーが要ると思う。このエネルギーの使い方を間違ってしまうと自分が先に燃え尽きてしまったりするのではないだろうか。
2005.07.19
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もう15年程前の事面白い人物と知り合う機会があった。あだ名は「プロフェッサー」。少し古いがマイケルJフォックスの人気映画「バックトゥーザフューチャーのドック」に似た感じの人物である。当時NY勤務に着いたばかりの僕の直ぐ隣の席に彼はいた。彼の不思議なロータス1・2・3のプログラム(MSExcel以前はこれがスプレッドシートの王様でした)を何度も質問しながら使ったりしていた。最後は全て書き直す事になったのだが…。そんな彼の自慢話の一つがアンクル・イシイだった。どう見ても日本人の血が入っているとは思えない彼は不思議な日本語を良く使いたがった。ある日、同じ職場にベスト(Best)と言う名字の新入社員が来た。その彼をいつもサイコ(Psyco=キチガイ)と呼んでいた。その理由は日本語で「ベスト=最高」だから。そんなオヤジギャグは日本人の僕以外誰も判らないのに、可哀想なベスト君は彼から何時もサイコと呼ばれることになってしまった。廻りのみんなは、本当はプロフェッサーこそサイコと思っていたのに…。彼がよく使う日本語にもう一つこう言うのがあった。何か問題が生じたり、彼に文句をつけに来る人が居ると何時も「Monday Night」と言う。みんなポカンと口を開けていると得意げにアンクル・イシイの話になり、『日本語では「Monday Night」とは「No Problem」の事だ』と説明するのだった。つまり、「問題ない」と言う言葉を彼は「Monday Night」と言う発音で覚えていたのである。あたかもアメリカ人が日本語で「おはよう」を覚えるのに「Ohaio」で覚えるが如くである。そんな彼らと当時はよくバーに飲みに行ったものだ。その中で一人が言った言葉を今でもよく思い出す、「Monday Nightに飲んでるのはプロばかりだ」と。分るような、分らないような話だ。続きをそのうち書くとして、さーて今夜「Monday Night」に飲んでる御仁は何方でしょうか?
2005.07.18
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元々寝貯め、食貯めの出来るタイプ。だから時差のある生活や24時間回り続ける仕事にも適しているタイプだろう。先日これまでの疲れか一気に14時間程寝た日があった。その翌日は24時間中20時間程働き詰。自分ながらに結構関心しても居る。さすがにもう二十代の頃のエネルギーでこなすわけには行かないけれど多少は融通が効くようだ。因みに今までの最高は4日間で睡眠6時間(あー、もう絶対ありえないけど…)。現代社会が科学の進化と共に人間に移動の自由を許してくれた話を以前「鯨の回遊」でもした。その時はもう少し長い周期の移動の話だったけど、飛行機を使えば、半日前までNYで仕事した国際ビジネスマンが今東京で会議中なんて事も可能な時代なのだ。最近、こう言う科学の発展による、いわゆる「文明の利器」を使う事を、人間の使える「レベレッジ」だという話を聞いた。元々レベレッジとは梃の原理で持っている力以上を発揮することを意味する。人間なんて元々どんなに頑張っても長距離なら時速20km程で二時間走るのが精一杯だろう。しかし、車に乗れば二時間で240km程移動する事も可能になってしまう。これが12倍のレベレッジだと言う訳。成る程、ならばジェット機を使えば半日で数千キロ移動可能になる。何十倍、何百倍のレベレッジで仕事が出来ると言う訳か。NY-ロンドンのフライトは約八時間。朝ヒースローについてそのまま会議室直行なんてのも良く聞く話。前日の激務から開放される時間が機内数時間でまた次の激務。同じ文明の利器を使うなら、ビデオコンフェレンスと行きたいところだが、それが叶わないのならせめて、オフィスに向かうタクシーを途中で止めてスタバでコーヒーでも飲んでから行く事にしよう。
2005.07.15
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90年代世界のトップを拠出してきた日本のODAの額は、近年テロリスト対策に困窮した某国の急激な拠出金により世界第二位の座に甘んじている。とは言ってもGDP比率ではそれなりの貢献度であり、年間8000億円と言う額は半端なものではない。もともとODAとは「Official Development Assiatance」の略だそうで「Official Dollar Assiatance」ではない。つまり金を出せば良いと言う物ではないらしい。この点、今でも50年程前のマーシャルプランと同じ政策と言うのでは少し寂し過ぎはしないだろうか。一方、日本から最近では中古の工業機械や製品を海外に無償で送ったりもしているそうだ。案外昔の機器のほうがアナログで使いやすいなんて話を聞いたこともある。実際最新のハイテク機器を送られたり、買って貰ったりしても、てもそれらを使いこなす技術がなければ意味がなく、結局それらを教える人材不足になってしますらしい。だからそう言う技術を持った人々はこう言う発展途上国ではとても貴重なのである。ならば技術を持った日本の定年退職者にもっと生きがいのある生活を海外で送って貰っては如何なものか。以前「高齢化社会」で書いた「日本人が増える事こそ良きODA」と言ったはそう言う訳があった。日本人は良くも悪くも「真面目でお人よし」そして先進技術を持っている。そんな日本人に海外に出て貰う事は、絶対に世界平和の為になると思う。高齢化社会になって、65歳で定年してもまだまだ働ける方々がいっぱい居ます。つい先日会った友人のお父さんも某大学の教授を退職されてから中国の大学で日本語を教えているとやら。そんな日本人がもっともっと増えて欲しいものです。ならば日本政府はODAの考えを180度転換して、海外で無闇にお金を使うのではなく、その金を国内問題解消に投じてはどうか。日本人の人口を増やし彼らを世界に送り出す方が、結果としてはもっと良い世界貢献(ODA)になるのではないだろうか。「金出すよりも、人を出せ」である。
2005.07.14
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最近このブログを定期的に見てくれる方が増えてきたのでもうお気付きの方もいるだろう。「何を?」って偶にフットボールの事を書いたりしていると言う事。スポーツは嫌いじゃない。パブで見るフットボールは結構好きなほうだ。でもフットボールフリークかと言うとそんな訳でもない。スポーツは色んな事を教えてくれる。先日「休日」で書いた「個性あっての団体」と言う事を端的に示してくれる。そういう意味でフットボールはネオ頑固イズム的にはとてもわかり易い表現方法の一つだろう。ところで「フットボール」と言うこの言葉一般的には「サッカー」と呼ばれているが「間違い」である。日本サッカー協会の英語名は「Japan Football Association」である。つまり元々の語源は「Football」なのでカタカナ表記もフットボールの方がしっくり来るのである。サッカーという表現は世界的に見ても少数派の表現である。このあたりの背景はまたにするとして、序にもう一つ話すと日本代表監督はジーコ氏である。とても不思議なのがよく代表選手のTVインタビューなどで「ジーコの戦略が…」などと監督を呼び付けしている点である。もし仮に岡田元監督がまた指揮をとる事になったとしたら、選手は彼の戦略を「岡田の戦略が…」とは言わないだろう。おそらく「岡田監督の…」とか「岡田さんの…」とか言った表現が用いられる筈だ。外国人に対して敬称を抜くことはしばしばある。しかし国際社会となった日本の社会で尊敬すべき方に尊敬語を使ったり敬称を使うのは当然の事である。是非ともみんなも今日から「フットボールのジーコさん」と呼んで欲しいものだ。
2005.07.13
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先日「邂逅」を書いた中で思い出す人が何人かいる。その中の一人と先日久しぶりに会って話した。とても面白かった。昨年某有名私立大学の講師を始めたHさんは、実は自分の学校(L校)も持っている。やる気満々の教育者だろう。Hさんと教育の話を始めると楽しい。もう何年も続いているL校を自ら寺子屋と呼んでいる。L校も以前「自和」で書いたフリースクールと合い通じるところがある。その話をしたらとても真剣に聞いてくれた。そのL校と言う学校のホームページを立ち上げると話していた。そこで使うキャラクターの堂々とした猫、一見スタジオジブリの猫の恩返しに出てくる「猫王」に似ているのだが、それもHさんが自分で描いたものだった。とても個性的な人たちが個性的な教育をしている。この人たちに、ネオ頑固イズムの話をすると大体共感してくれる。話の序にこんなこともしゃべった。僕は「山登りに必要な知識は教えることがあっても、決して山登りのガイドはしない」と。山を登るには色々な知識や技術が必要だ。装備をするノウハウもいるだろう。例えその知識があっても、山の天候は時と場合で如何様にも変化する。つまり備えた知識を使いこなす「応用力」が必要なのだ。それ無くしてはどんな知恵も役立たないときがある。その判断何時もガイドに頼っていたのでは、何時まで経っても応用力は身に付かないのだろう。自分で登って見る事が大切なのである。さぁ身に付けた知識を内に秘めて自分で登って見ようではないか。
2005.07.12
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「OXYMORON」と言う言葉がある。あまり聞きなれない言葉だ。もともとの語源はギリシャ語で「pointedly foolish」 (oxys = SHARP, KEEN + moros = FOOLISH)と言う意味である。言い換えれば明らかにバカと言った感じか。日本語の辞書には「矛盾語法」と書いてあるがそれでは何の事か分らないだろう。この言葉の本当の意味は「ありそうでありえないもの」或は「存在自体が矛盾するもの」とでも言ったら分り易いかもしれない。少し例を拾うと「公然の秘密」、「大きい方の半分」、「偏見のない意見」等である。以前「起業家とは? 」の中でアントレプレナーについて書いた。その中でも少し話したのだが、例えば「起業家教室」なんてのは100%「OXYMORON」である。ありえない存在なのだ。起業する人間はそのオリジナリティーが価値の殆どである場合が多く、教室で学べる事ならその存在定義が滅んでしまう。この定義と言う最も大切な事がとてもあやふやにされている。この辺りは「ペーパー資本主義」で書いた資本主義の定義と一脈通じるものを感じてしまう。どうしても日本社会が視界範囲内のスケールの小さな社会に見えてしまう。さぁ、みんなも180°の世界を越えて、360°のダイナミズムの世界へ飛び込んでみよう。
2005.07.11
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休日の過ごし方程、個性が出る事もないのではないだろうか。同じ組織にいる人たち、例えば会社の同僚や、学校の同級生などを考えるとよく分る。普段同じ箱のような建物に閉じ込められ、個性お押し殺しながら暮らしている人たちも休日は自由だ。自分の好きな場所に行き、好きな事をすれば良い。ショッピング、映画、スポーツ、音楽、観光、デート、家族との団欒等など、休暇の過ごし方は個人の自由。十人十色である。そして休日こそ趣味の時間で、趣味の世界こそ個性の発揮どころだろう。以前「日本の夏」で書いたようにサマータイムで自由の時間が増えるなら、皆の個性ももっと発揮できるのではないだろうか。個性的な人が増えれば、集団での活動が活発化する。個性合っての団体。己(自)あっての和なのである。フットボールの日本代表が何故強くなったのかと同じ原理である。さて、今度の休日は何をするか。公園の森の中でサックスを練習する、そんな高尚な趣味も何時かは持ってみたいものだ。
2005.07.10
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11年前の事故で帰らぬ人となったアイルトン・セナを、今なお史上最高のF1ドライバーと推す人も多い。当時はホンダのエンジンと言う事もあって日本のメディアも良く書いていたので、今三十代以上の人なら別にF1のファンじゃなくても彼の名前を聞いた事はあるだろう。事ある毎に「真剣勝負」という言葉を使ってきた。元々は、竹刀ではなく本物の刀で斬り合うと言う意味の武士道の用語だ。転じて、命をかけた勝負、或は背水の陣で臨む戦いなどにも良く使われる言葉だ。ちょっとしたミスで致命的な事故になるF1の世界もまた、まさに真剣勝負の世界だろう。そんなF1のワールドチャンピョンに3度も輝いた、世界的英雄とさえ言えるセナと直接付き合った日本人はそんなに居るものではない。そんなセナの友達の一人と話をする機会があった。このセナの友人も真剣勝負の人生を歩みつづけている一人だ。そして彼と交わした会話は、とても面白く楽しい話ばかりであった。命を掛けて戦うと言う極限の世界まで行った彼の話にはとても説得力がある。その限りなき冒険心と闘争心は何処から湧いてくるのだろうか。生まれつき備わった考え方はあるかもしれない。しかし彼自身自分が天才であるとは思っていない。どの業界でも頂点を極める人たちをメディアは「天才」ともてはやす。近年ではシアトルマリナーズのICHIRO等が良い例だろう。しかし天才のように見える彼らの活躍の裏には目に見えない努力の世界がいっぱいある事をメディアはあまり伝えないのだ。彼はこのことを「アヒルの法則」と言う言葉で表現していた。水面を静かに流れるように泳ぐアヒルは、実は目に見えない水面下で一生懸命足を動かして居るのだと。とても分り易い的を得た説明であった。この冒険心いっぱいの彼のこれからの人生大いに注目して見て行きたいものだ。
2005.07.08
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最近気に入った言葉の一つだ。「邂逅」とは「思いがけない出会やめぐり合い」の事。人生の中の偶然、そんな出会いがとても尊いように思えるから好きだ。ただ、人は皆何時もそんな偶然を経験しながらも何気なくやり過ごしている。僕の人生も、殆どそう言った偶然のめぐり合いをさり気なくやり過ごしてきと思う。どんな偶然でもそれを超えて何かを作り出す為にはそれなりのエネルギーが要る。だからすべからく偶然にエネルギーを注ぐわけには行かない。人は年齢を重ねるに連れ出会いの大切さを感謝するようになる。僕もこの年になると忘れられない邂逅が幾つかある。そんな人たちに守られながら今も生きているとさえ言えるだろう。昔の言葉に「袖触れ合うも他生の縁」と言うのがある。最近こう言った言葉を殆ど耳にしなくなったのは、別に着物を着る人が居なくなったからと言う訳ではないだろう。自和で書いた「和人」の時代に僕達日本人はこう言った邂逅を日々楽しみながら生きていたのだと思う。大きな組織に囲まれその中での必然的出会いも悪くない。しかしもっと大きな社会の中で無限にある出会いの中のふとしたきっかけから生まれる何かに賭けてみたいと思うのは僕だけだろうか。
2005.07.07
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最近は時間と予算逼迫で、ワインバーに行く機会もめっきり減ってしまったけど、誰かとゆっくり話したい時は、矢張りワインバーは大いに使える。だからワインバーで誰かと会うとなると何時も気心の知れた友人である場合が多い。食事をしに行くというよりも、いわゆる二次回以降の使い方が良いだろう。大勢の人が集まるパーティーやレセプション或は大勢の会食会では話せない話がこう言う静かなバーの中だと出来る。先日も久しぶりに会った友人と仕事の相談などを受けながら話した後、「実は最近離婚した」と話を持ちかけられた。概要はその場で分ったが、その後雨の中も気にせず歩いて向かった先がワインバーだった。偶に他のテーブルから聞こえる談笑の声がする以外静かな店内は、話をしても、しなくても意味のある共有時間だ。こんな時のワインはそのボトルの詳細まで覚えているものだ。別に普段からワインコノシュアーではなくてコンシューマーを自認する僕も、忘れ得ないボトルの味が幾つかはある。それはシャトーやビンテージ或は葡萄の種類もあるけど、むしろ相手や自分の気持までがその時の空気に溶け込んでいることを含めた味のような気がする。********続きは後程**********
2005.07.06
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あまり聞きなれない言葉だと思う。直訳すれば「顔(見せ)時間」。良く言えば参加している、悪く言えば参加するだけで何もしない時間。会社に居るだけという意味では、無駄な時間、翻って給料泥棒的意味さえあると思う。先日「日本の夏」のサマータイムで書いた「今時仕事もせずに給料払える企業もそんな言いないだろう」と言う話、もしかするとまだ現存している会社や役所は多いのではないだろうか。一度だけ20人程の職場を受け持った事があるけど、それ以外はあまり人を管理する立場になったことはない。だから大きな組織にあまり当てはまるとも思わないが、仕事は時間の長さではなく内容だと思っている。給料を貰うという事は、会社と労働契約を結んだ立派なプロである。プロである以上結果が第一だろう。それはバイトでも同じだと思う。だから僕の周りの人には結果から求めている。時間を守るのはとても大切なことだ。だけど時間だけで結果の出ないのも契約違反である。別に時間を守るイコール契約を守るではないのだ。経営者側からすれば多少時間的契約違反(時間に遅れても)があっても、結果を出してくれた方が嬉しいものだ。裏返せばフェースタイムだけでは給料泥棒に見えてくるのである。
2005.07.05
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「外交」と言う言葉を使った途端に書く気がなえちゃったので題名変更。日本人の外交ベタは言われて久しいのですが、それは交渉ベタと同意語でしょう。そんな日本にもこんな方がいます。前軍縮会議日本政府代表部特命全権大使、猪口邦子先生。彼女は2002年から2年間スイス・ジュネーブで軍縮の為にご活躍された方。この話のきっかけは彼女のスピーチを聞いた事でした。以前からTV等で良くお見かけしていたので、割とポピュラーな意見の持ち主かと思いきや、彼女の特命大使としての活躍、その交渉力には驚かされました。外交の広い話を端的に纏めて話されたのであまり突っ込んだ意見は聞けなかったけど、彼女のような方には是非とも海外で教鞭を振るって欲しい。日本人の良さをもっと伝えて欲しいと思いました。そんな彼女の言っていた幾つかの面白い話の中に、「イデオロギーの対立はヨーロッパで始まり、アジアで激化する」。言われてみると確かにそうでしょう。例えばベトナム戦争や、朝鮮半島の戦争などが当てはまる。そのことはとても難しい話だと思うが以前はアジア人が余りにもイデオロギーの定義をまともに解釈し過ぎるからではないかと思っていた。ただ今書きながら思うのは、アジアの文化的に成熟してない社会性が一つの要因のような気もしてきた。例えば最近の日本と近隣国との関係。歴史的に色んな軋轢があったけど、そんなのヨーロッパでは生活の一部。なのに其れなりに上手く付き合う大人の関係。何故日本を含むアジアの人々はそれが出来ないのか。何となくイデオロギーの激化と似ているような気がする。西洋人のようにお互いの事を良い意味でも悪い意味でも認め合い、いろんな歴史を踏まえてもっともっとオープンに交流は出来ないものだろうか。日本人が中国人や韓国人を軽いジョークで笑ったり、彼らが日本人のジョークを軽く飛ばせるようになると関係も良くなるだろう。
2005.07.04
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聞いた途端に反応してしまった。とても新鮮に聞こえたからだ。正直言って「問答無用」なんて最近では死語に近いと思っていた。だから、あまり誰も使わなくなったので返って新鮮に聞こえたのだろう。実はこの言葉もう十年程も前のサリン事件について友人が語っていた言葉である。その首謀者達に対する刑罰が極刑が妥当なのかは分らない。個人的には極刑擁護者でもなければむしろ反対論者に近いと思っている。また、最近では東南アジアで行なわれる体罰に対する人道的問題も生じている。ここで言いたいのはこれらの刑罰の良し悪しではなくてそこに至るプロセスの問題である。全てのテロ行為や殺人事件などが極刑に値するとは言っていない。しかしもう十年以上前のサリン事件の首謀者達が、まだ刑が決まらずにいる事には疑問をもっている。その間の司法や刑務所に掛かる費用は全て税金で賄われてる。もしこの国の犯罪率が高くなり何時までも刑が決まらないなら、それだけで国の財政がつぶれると言うことも考えられなくはない。何故そんなに長く掛かるのか。被告の人道的、法的保護はあって然るべきだと思う。しかし、ならば最高裁判官達は何の為に居るのだろう。絵に描いたもちのような気がする。本当に彼らはその地位に相応しい仕事をしているのだろうか。三権分立の一つの頂点に立つ人々が本当に国の為の仕事をしているのだろうか。ビジネスの世界ではエグゼクティブデシジョンと言うのがある。それは事業を滞らせない為に責任者がプロセスを飛び越えて決断する事を意味する。万が一その判断に間違いがあればその執行責任者が全責任を負うことになる。非常に大きな権限と責務だ。最高裁判官達はそれくらいの権限と責務を持って然るべきではないだろうか。選挙のたびに名前も知らぬ彼、彼女らを信認するのに何時も疑問を抱えている。国民投票で信認される人々なのだそれくらいの責務は果たせる人物が勤めるべきだろう。フットボールで言えば「レッドカード」は一発退場。まさに「問答無用」の世界である。非常に分り易いのではないだろうか。
2005.07.03
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日本の少子化の話は何度かした。本当は子供の数をもっと増やせると思っている。それはさて置き、少子化ならおもちゃ屋さんが斜陽業界になるのは必然であろう。最近の経済雑誌によると、バンダイ・ナムコ(売上4579億)に次いでタカラ・トミー(同1790億)の合併だそうである。昨年はセガ・サミー(同5280億)が合併したばかり。日本の子供が減っているなら、この業界の活路は恐らく海外市場。ならばもっと早くから業界の国際化を図るべきであったろう。日本の物作りに対する世界からの信頼は大いにある。自動車、電子機器、コンピューター産業等は国際的ブランドでもある。なのに何故この最も国際化すべきおもちゃ業界が、未だ国際ブランドになり得なかったのだろうか。そんな疑問を記事を読みながらふと考えてみた。日本企業の中でその技術やブランドを持っている企業は少なくない。しかし世界的戦略に基づく経営がされているかと言えば大いに疑問であろう。そんな経営の甘さが玩具業界にもあったように思える。任天堂が唯一別格なのは彼らが世界的戦略を以前から持っているからだろう。この業界のキーワードは「少子化」と「ハイテク化」だそうだ。任天堂のみがその事に気付いていたわけではないだろう。上記経済雑誌には今でも合併により、売上何千億の業界何番の企業が出来るといった報道ばかりが目に付く。此処は合併に活路を見つけるのではなく、その経営方針を考えて欲しいものである。いつか書いた「Jリーグ方式」をこの業界にも採用して欲しいものだ。
2005.07.02
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イギリスの話をした序でに、こんな話を友人がしていた。「イギリス人は歩きながら考え、ドイツ人は考えてから歩く」。もとは誰の言葉か知らないがその国民性を良く表した感じがなんとも良いではないか。日本でいう「石橋を叩いて渡るのがドイツ人で、足で踏みながら渡るのがイギリス人」ってとこか。ヨーロッパの歴史は古い。広大な北米大陸に長く居た僕からすると欧州の小さな土地に多くの文化圏が犇いているのは可也不思議な感じがする。例えばドーバー海峡。人間が泳いで渡れる距離でイギリスとフランスの全く相容れない文化が対峙している。恐らくこの両国の間には1000年程前の100年戦争に始まる数々戦争のしこりがまだあるといっても過言ではないだろう。そう言う意味ではドイツとフランス、イギリスとドイツも似たような間柄である。イギリス人の友人がドイツ人の嫁さんを貰った時にはイギリスの家族から凄い反対を受けたという話をまだ数年前でも言っていた。話向き、まだ日本人と韓国人の結婚の方が楽なようにさえ聞こえた。勿論個人差があるだろうが、第二次世界大戦の記憶のある人たちがいる間はこう言う話は絶えないのだろう。話は大分横にそれたけれども、別に歴史の話じゃなく、「この歩きながら考える」と言う言葉が気に入ってしまった。この件に関しては僕はイギリス人だろう。何事もやってみないと始まらないと思っているからだ。以前も書いた911の頃から特に、短い人生「一寸先は闇」と言う言葉を気にしている。人生の中でやりたい事が多すぎると思う。そんなに石橋ばかり叩く時間は無いと思っている。経験と感覚を研ぎ澄まし渡れる橋かどうかを当てて行きたい。なぜなら本当の冒険はその橋を渡った後にあるのだから。橋を渡ること自体が冒険の内は何も体験など出来ないだろう。だからみんなで歩き出そう。歩きながら何処に行くか考えたって良いじゃないか。別に毎日通いなれた道ばかり歩いているわけじゃないのだから。以前友人から聞いた「道に迷うのも旅の楽しみの一つ」と言う言葉が急に思い出されてならない。
2005.07.01
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