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信ずる心を信仰心、そして宗教と呼ぶのは世の慣わしだろうか。特に宗教にとらわれる事の少ない日本人には「宗教」と言う言葉がどちらかと言うと学術用語的(疎遠な世界)だったり、あまり意識されずに使われ(敬意を失われ)たりしている。いわゆる冠婚葬祭は日本文化の中で行なわれ、宗教として扱われる事はあまりないのが一般的だと思う。例えば「法事があれば寺に行き、正月は神社、結婚式は教会」等はよく言われる話である。そう言う僕自身も今まで宗教を決めて生きていた訳ではない。恐らく将来も一つの宗教に入る事も無いと思う。しかし、信ずる心がないかといわれれば無いとは言えないだろう。実は数年前に厄年を迎え、周りの皆から厄払いを受けた方が良いと言われ続けてきた。そんな中、「普段宗教心を持たぬものが困った時にだけ神にすがる事は出来ない」と言う言葉を聞かされ「もっともだ」と思い神社に出向く事無く暮らしてきた。今にして思えば、その三年間は前、本、後厄と確り厄年を勤めさせて頂いた気にもなる。頑固082の本領をこんな所で発揮してもしょうがないのだろうに(笑)。しかし、それにはそれなりの自分の信じるものがあったから出来た事だと思う。そんな僕も先日ご祈祷のツアーに参加した。今回は別に神頼みで行った訳ではなくむしろそこに行くご縁があった言うべきだろう。このあたりは以前書いた邂逅に通じる話である。何れにしても「信ずるものは救われる」、己の信じる心を大切にする事は良い事だろう。それが宗教なのかは今の僕には分らない。
2005.08.30
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あの古のジパングは何処に。歴史にはあまり強くない僕がこう言う話をするのもなんなんだけどマルコポーロの「東方見聞録」に書かれた頃には日本は黄金の国と言うニックネームで呼ばれていたらしい。そんな話の序でに日本の最初の金山について調べてみるとどうも8世紀頃から東北で見つかったのが始めらしい。この辺りは「気仙風土記」をご参照下さい。そんなロマンを訪ねた訳でもないのだが先日縁があって三陸の金華山にご祈祷の旅をして来た。その観光案内によれば「天平21(749)年創建の金華山黄金神社は、出羽三山、恐山とともに東奥の三大霊場と称され、また日本五大辯財天のひとつが「金華山辯財天」祀られており、毎月の巳の日の「御縁日」には多くの参詣者が訪れる。この島は昔ながらの自然の中、神の使いとして鹿が大切に保護されている。黄金神社周辺をはじめいたる所で桜が咲く春は、鹿とともに桜見物が楽しめるほか、5月の初巳の日から1週間にわたり「初巳大祭」が開催され、勇壮な神輿渡御が行われる。」そうである。何れにせよ元々「火の無い所に煙」と言って全く金が出ないところにこの様な話もないのだろうから、それなりの産金と黄金山神社のご利益が1250年の間に続いてきたのだろう。その歴史の流れの中にジパング伝説が在るとするなら矢張り古のロマンを求めずには居られない。
2005.08.29
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民主主義と資本主義の話をした序でに、世界を代表する民主主義国家について少し話してみたい。最初にはっきりしておきたいのは、民主主義とは社会の政治体制の一つであり、資本主義はその経済体制の一つと言う事である。また、夫々共産主義、社会主義に対峙する思想と考える事も出来るかも知れない。ただ、何れの思想も政治、経済、社会の統制を目指す思想で必ずしも単独で行なえるものでもないのである。ややこしいのでここは簡単に実例で話そう。例えば、北米にある某合衆国を例にとって考えてみよう。ここは民主主義国家で資本主義経済体制を取っていると考える。つまり、その政治の体表である行政の長、大統領を民主主義投票で選んでいる。同じように立法府の代表も民衆主義的に選ばれる。ところがこの国の経済は一般的に言われる平等とはかけ離れていて、むしろ貧富の差は世界一であろう。この社会ではトップの数パーセントにあたる人たちが富の多数を所持している。彼らは所謂ロビーイストと呼ばれる人たちになったり、そう言う人たちを動かしていたりする。勿論、ロビーイストとは、民主主義とは何ら関係ない、投票で選ばれた人たちではない。この、ロビーイストと呼ばれる人たちは、政治の指導者達に直接活力をかける事が出来る。彼らは国内の政策はもとより、外交問題にまでもその影響力をもたらす事が出来る。よく話題になるのが、石油、軍事、拳銃等のロビーイストの話である。石油に既得権を持っている人たちは、その国の外交が産油国の独立を妨げる方向で圧力をかけたりする。また、軍事の既得権を持つ人々は、戦争が世界から無くならないように圧力をかけたりする。同国の拳銃所持が禁止されないのも、そのロビーイスト達の活躍があるお陰である。つまり、民主主義国家と呼ばれる国が、その国で民主主義的に選ばれた人たちにより指導されるのではなく、その国の経済的力のあるロビーイスト達の圧力で動かされているのである。だからこの二大政党制をとる民主主義国家で、何れの党が実権を持ってもその政治の中枢は何ら代わらないのである。その国が世界の民主主義のためといって第三国に先制攻撃を仕掛けたり、進入する事は一般的には侵略と呼ばれるのだが、この国はそれを戦争と呼ぶそうである。もしかするとこのロビーイストとやらは辞書の定義にも影響をもっているのかもしれない。ホント摩訶不思議な人たちである。
2005.08.26
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今まで政治とか教育の話をしてきた。例えば掲題の「民衆主義」と「資本主義」の話はよくする。日本の教育で、つまり数多とある学校法人の授業の中で、一体「民衆主義」と「資本主義」の違いを教えてくれるクラスが幾つあるのだろうか。もしかすると、その定義を誤ったまま教えているのかもしれない。この事はとても大切なことで、しかもそんなに難しい事でもないのである。先ずは下のチャートを見て欲しい。100| ★| ★ | ☆| ★|-----------------------------○---------------------★-------| ★★| ★★| ★★★★★★★★|★★★★★★★★★★★★★★★★★★0-----------------------------50----------------------------100>***上のチャートは点線(-)が民主主義を示し、星(★)が資本主義を示している。***○は民主主義の中間点がそこ(50%)にあり、☆は資本主義の中間点がそこ(97%)にある事を示している。例えば100人乗りの民主主義バスが三叉路に来た。さて右に行くか左に行くか。100人に聞いてみて50人以上が右と言えば右に行くことに決まる。一方資本主義バスは、100人乗っていても夫々の意見はその富に比例している。つまり資本主義富の分配は97%が中間点なので、一番富を持った3人が右と言えば例え97人が左と言っても右に行くことになるのである。少し言い換えれば、ある株式会社が100人の株主を抱えている。その内筆頭株主3人で50%の株を所有している。株主総会の決議はこの3人が右と言えば右になるのである。
2005.08.25
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先日息抜きに海を見に出かけた。夏になると、海は人で賑わい独特の雰囲気がある。そんな海の防波堤を歩いてみた。先端近くまで来ると、浜辺で遊ぶ家族連れや防波堤の中程で網や竿を投げる釣り人からも離れ、何故か遠く離れてところに来たような気分になる。まるで海上の船から海岸を眺めているような、浜辺を沖合いから眺める風景は不思議な景色だった。防波堤を歩いて戻りながら、ふと先日ある人に言われた言葉を思い出した。それは「遊び上手」。別に悪い意味で言ったのではないと思う。恐らく発想の問題だろう。浜辺から沖を眺めるのではなく、沖から浜辺を眺める。夏の海ではなく、冬の海に行く。連休は観光地ではなく、静かな街中で過ごし。平日にオフィス街で働かず、観光地を歩く。こんな自由な発想ばかりしている、いやそう言う事を実行している。だから「遊び上手」なんて言われてしまうのだろう。でも、そんな自由の心を持ち続け、実行する事は容易ではない。そんな心を持つ人達と、上手に遊んで行きたいものだ。
2005.08.23
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久しぶりに都内の公園で寛いだ。木陰で涼む時の快適さは公共の緑地ならではの良さもある。ただ公園を歩くたびに何時も不愉快に思うことが幾つかある。それは都内一と言う立地の土地に蔓延るホームレスと言う名の青テントである。彼らの住処は住民税、固定資産税なしである。最近のそのテントの発展ぶりは、小屋以上である。まるでリゾート地で寛ぐような椅子やテーブル。小屋のとなりには自家農園で野菜栽培までしている。電化製品はもとより、シャワーまで作られていて、下手なキャンプ生活よりもずーっと快適であろう事が一目瞭然なのだ。翻って公園の中央緑地地帯に移動。芝生の上にシートを敷いて寛いだわけだが、そこの芝生はなんと30cm程に伸び放題である。元々都心の緑地は都民の憩いの為にあるはず。なのに都心の住民税も払わないものにその恩恵を与え、税金を納めるものに対する恩恵は無しとはどう言うことであろうか。僕らの税金は公園維持、芝を刈る為に使われているのではないのだろうか。当たり前の事から始める民主主義政治。是非とも「草の根」ならぬ、「草刈り」から始めて欲しいものである。因みに代々木公園の管理事務所の番号は、03-3469-6081だそうです。心有る納税者は是非ご意見を述べてみては如何でしょうか。
2005.08.22
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先月から読んでいる本を一つ読み終えた。元々読書は苦手な方なのであまり本を読みあさると言うことは無い。とは言え最近書いた「一怒一損一笑一得 」や「恕 」は、この本でも取り上げてあるテーマ。「トップの条件」と題されたこの本は、バブル前の83年に出版され(恐らくもう絶判でしょう)、高度成長期に週間朝日の編集長などで知られる扇谷正造氏の著書。表裏の両面にアルベール・デュドネの扮するサイレント映画「ナポレオン」の顔が映し出されている。高度成長期からバブル期へ移行する時代の変動期のリーダー達へのメッセージがいっぱい詰まった本だ。題名からも分る、扇谷氏の歯に衣着せぬご意見番の言葉が今時の人たちには説教地味ていて受け付けられないかも知れないがそれなりに為になる言葉が節々にあった。当時日本の平均所得が1万ドルを越え、世界のトップファイブに踊り出た時代(その後バブル期には一気に世界一に踊り出るわけだが)である。この本の冒頭でもアメリカの経済学者ガルブレイス(「不確実性の時代」等の著者)の次の時代はどうなるかと言う質問を紹介している。そこで彼は「The Age of Uncorrected Obsolescence」と応えている。この言葉の意味は著者の訳では「逆修正のきかないガラクタの時代」と書かれているのだが、僕の訳を書かせていただければ「過去の過ちを引きずっている時代」と言うことになる。その後二十年以上が経ち、バブルや失われた10年やら、テロ、戦争、環境破壊が続く世の中、せめて今世紀全てがその「過去の過ちを引きずっている時代」にならないことを説に望むばかりである。
2005.08.19
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昨夜のWC最終予選日本対イラン戦を終えて、一言。両国WC出場決定済みということで消化試合、観光試合と揶揄されたこのゲーム、しかし両国の一位通かへの意地の掛かった、それなりに締まった試合だったのではないだろうか。個人的にもどうしても譲れない一戦だった。知り合って、もう二年近くになるイラン人の友人から、三月の試合に負けて以来とても肩身の狭い交友関係を強いられて来たからだ。2-1と日本の勝利のお陰で、取り合えず関係正常化と「3パイント」ゲット。次回彼とパブに行く楽しみが増えた。ところで、今回の予選を終えた試合後のコメントがあるのでご紹介しておこう。何時ものジーコ節。僕がジーコ氏のコメントで好きなのは彼の視野の広い考え方だ。今回も彼の哲学がそこここに滲み出る言葉を残している。一国の代表監督、フィロソフィーなしでやる方がおかしいと言えばそうだろう。これは経営者、リーダー、全てに通じる考え方だ。世界第9位の日本。FIFAランキングもトップテンが少しづつ見えて来たのではないだろうか。
2005.08.18
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さて、前日の相対性と絶対性の価値観の持ち方を話したとき、「普段から相対的価値観作りに躍起になっていると、絶対的価値観を理解する思考がまひしてくる」と話した。このことは実は以前話したペーパー資本主義 や「投票権は権利? 」の中のペーパー民主主義に通じることだ。つまりフットボールで言うところの「練習と試合」なのである。フットボールを始めどんなスポーツでも本当にそのスポーツを楽しむためにはルールを勉強するだけではダメなのだ。ルールが分かればすぐ試合が出来ると言うものではない。つまりフットボールなら、ボールのけり方の練習から始まり、チーム年端ポジション間の連携を練習したり、実践では相手と戦う試合勘を養う事が重要になってくる。結局はやってみないと分からない事だらけである。サポーターの場合もルールを知って見れば楽しいと言う訳ではない。テレビで見るより、スポーツバーで見たり、競技場で見る方が遥かに楽しいはずだ。つまり参加すること、やってみる事が大切なのだ。以前から日本社会の特徴をペーパー資本主義、ペーパー民主主義と言った言葉で表してきた。さていよいよ国政選挙の季節。ここは積極的に候補者を知って(練習)、投票所に足を運ぼう(試合)ではないか。
2005.08.16
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昔からよく話の節々で使っている言葉である。相対性の価値観とはあるものを基準としての価値観である。「日本人的価値判断」は殆どこの域に入ってくる。周りの人の判断を待ってから決める。根回し、コンセンサス作り、協調など全てこのために行なわれているといっても良いかも知れない。一方、絶対性の価値観とは、その物(事)自体の価値観であり、誰がなんと言おうと変わらぬ普遍性を意味している。この物(事)に対する判断は人それぞれ、時代によっても異なると思うが、その物(事)自体の価値観は変えようが無いのである。よく投資の世界ではインデックス(指標になる物)に対する相対性でその投資価値(パフォーマンス)を計ろうとする。つまりインデックスが10%下がり、自分がマイナス5%なら良い投資だということになる。護送船団方式で知られる日本の経済界は長い間この相対的価値観で動いてきた。始めてこの事に気付いたのも、バブル時に業界二位の某生命保険会社の運用担当者が運用のパフォーマンスを責められ、応えたのが同業一位の「N社の運用はもっと悪い」と応えて上司が納得したと言う話を聞いた時である。普段から相対的価値観作りに躍起になっていると、絶対的価値観を理解する思考がまひしてくる。自分で決めれる判断力とはそんなに簡単にできるわけではないのだから。
2005.08.15
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聞きなれない言葉を知った。「女の口に心」と書いて「じょ」と読むそうだ。その意味は「思いやること。思いやり。同情。」だそうである。古くは福沢諭吉翁の福翁百話に「己れの欲せざる所を人に施す勿れとは…之を恕の道と云ふ」と書かれている。これと対照的な言葉に「怒」と言う言葉がある。これまた「女の又に心」と書くのが面白い。僕の中では「怒」の方がよっぽど「恕」よりも人気のある言葉である。別に漢字の人気投票というものがあるわけでもないのだろうけれど「怒」を知っている人のほうが「恕」を知っている人よりも遥かに多いと思う。時に触れて書いてきた邪馬台国人の心。恐らくこれは人間の心に通じる話かもしれないが、中国の何時の時代から「恕」と「怒」と言う言葉が用いられてきたのか興味のある話である。もし分る人がいたら是非教えて欲しい。話を戻して、この我々日本文化の中に「恕」と言う思いやりがあるのは確かであるのだが普段の生活で「怒」程使われなくなっている事はつまり僕たちの文化の中に潜在する思いやりが今の時代はあまり全面に押し出されない時代になっていると言うことではないだろうか。「怒」では無く「恕」の蔓延る時代を早く迎えたいものである。その時代はきっと物だけではなく心も豊かな社会を迎えているのではないだろうか。
2005.08.12
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季節はずれのトピックだけど、スギ花粉しょうが言われるようになってもう二十年近いのではないだろうか。なのに日本の山は今でも杉がいっぱいである。以前シティープラニングで話した、三つの政治項目の中の一つに入れてあるのはそれなりに訳がある。矢張り二十年位前だと思う。「何でもやる課」みたいな部署が行政に現れだした。つまりやる事に意義があるのだ。だったらスギ花粉症の元を断ったら皆喜ぶだろうと言う事が一つの理由。難しい政治の話をするよりもみなが同意できる事から先ずは始めようという意味だ。みなが賛成できる事すら出来ないのであれば意見の分かれる政権公約など誰が信じれるのだろうか。政局になり色んな政党が勝って気ままな事を言っている。本当に信じれる事は誰が言っているのだろうか。バブル崩壊後、政治の浄化が叫ばれ、そのリストラが話された選挙も今では誰も語らぬタブーと戻ってしまったようだ。衆議院議員480名は本当に必要なのだろうか。以前自由党が連立参加した条件の議員数減少は、当時の500名から20名、たったの4%減である。同じ時期の経済界のリストラと比べても悲しい限りである。本当にやらなければならない仕事は、緑溢れる、雑木林の再生ではないだろうか。それを杉林の減少すらまともに出来ない政治家に任せていては今世紀中に変わることも無いだろう。
2005.08.09
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最近株について面白い話を良くする。元々個人投資家層の裾野を増やす事が、日本の経済活性化になるという信念を持ってきた。だから株取引推奨派です。この辺りの話はまた後日と言う事にして。限られた一生の中で体験、経験できる事とはそんなに在るわけじゃない。一体一生の内に何カ国旅を出来るのか、何ヶ国語を喋れるのか、幾つ趣味を持てるのか、考え出したらきりが無い。ましてや、職業体験となると、かなり少なくなる。今時終身雇用ということに拘る人も居ないと思うけど、何業種で働きましたかと聞かれて片手に収まらない人の数はそんなに無いだろう。普通一つの職業に就いて3年目位にやっとその業種の仕事が判るようになってくる。つまり一業種を数えるまでに最低3年、「いわゆる石の上にも」である。それより短いのは「業種の経験がある」と言うより「その業種で仕事をさせられた」ような訳で、業種を知っているとまでは言えないと思う。もしこの最低必要年数のペース(3年)で転職を続け、30年勤めた人は、やっと10業種の経験を積んだ事になる。普段転職は、同業種間も多いので、10とはかなりの数だろう。翻って株式市場、日経登録業種だけで?十種類である。最近では仕事の内容が大幅に多面化して登録業種以外の会社も多い。単位株、ミニ株等の規制緩和やオンライントレードの普及などで個人投資家が増えている。だから株式のポートフォリオをもって、個別銘柄10種類持つ事はそんなに難しい事ではなくなってきている。車屋の株、銀行屋の株、薬屋の株、通信屋の株、電車屋の株、電気屋の株…等など幾らでも数や種類を増やしていける。勿論外国株やら為替の体験も容易に出来る時代だ。元々株主になるということは視点を消費者側から経営者側に変える魔法のような力がある。例えばIスーパーの株主になる。今まで消費者としてその店に行き値段を気にしたり、安売りを探していたのが、投資家になった瞬間に、店の混み具合、出店の場所、陳列の仕方等など気になりだす。あたかも従業員かその会社の経営者になったような視点で考えるようになるわけだ。これこそが株式の人生疑似体験。これなら転職10回も大いにありえるのではないだろうか。
2005.08.08
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いやー会議とは疲れるもの。丸い会議テーブルを囲んで向かい合った面々。丁度10名。十人十色とはよくも言ったもんで、よくも皆こんなに意見が違うものかと感心したりもしている。ともあれ、とある会社の将来を決める経営会議、真剣な意見が飛び交っていた。会議の準備をする為、数日前から休みなし、前夜も遅くまでかかり、提出資料を纏めあげたのが開始数時間前。仕事の緊張感が寝不足解消の薬になってる状態。そんなアドレナリン発散状態で、トーンを抑えながらロジカルに会話発言するのも中々の至難な業。この辺りも経験が多少ものを言うのだろうか。何度か会議を重ねるうちに、多少感情を抑えて要点を突くタイミングが身に備わってくる。どうも以前勤めたいわゆるキャピたリストカンパニーで身に付いた「言った者勝ち」的会議進行方法が多少全面に出てしまう帰来がある。その辺りを自重しながら「内容、タイミング、表現方法」を大事に発言するのが、経営者会議でのコツかもしれないと気付きだしている。そこで、説得力のある発言をした後に、回りの反応などが判るようになると其れなりに楽しくもなってくる。そんなしたたかな経営者達が集まった会議の中で、十人十色の意見を纏めるのには最後はチェアマンのリーダーシップが必要だ。そう言うリーダーシップを持つためにも今は努力あるのみなのだろう。
2005.08.05
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「一枚の真っ白な紙」の事である。20年近く前に雇われた時にそう呼ばれて以来忘れない表現である。つまりどんな色にも染まっていない(何も癖の入っていない)真っ白な素材とでも言ったところがその意味である。その後自分が人に教える立場になってこの言葉の意味がまた良く分るようになってきた。今から15年程前の話、それこそMBAの新卒者等を対象に仕事を教える事となった。金融工学やらなんや多少交えながらのオン・ザ・ジョブ・トレーニングで何時も彼ら彼女らが話しの中に持ってくるのが教科書の内容。ひどい奴には「その話の内容はどの本を参照にしたら良いか教えてくれ」と言われた。学問と実務は違う。学問と知識も違う。学問は知識を広めるのに役立ち、知識は実務を補うのに役立つ。但し学問と実務は殆ど重なる事が無いのである。このことが分る学識者は非常に少ない。若い経験の無い人が学問だけ多いと陥り易いの問題がこの事だ。学問があっても知識のない人、自分がブランク・シート・オブ・ペーパーだと早く気付いて欲しい。そうすればもっと早く実務が身に付き、知識が増えるという事を知って欲しいのだ。
2005.08.01
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