2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全13件 (13件中 1-13件目)
1
白洲次郎について色々調べてみた。興味があったのは彼がどのような教育を受けていたかと言うことでる。僕と彼とは丁度還暦年が違う。つまり二世代前、自分のおじいさんに相当する世代の人である。そんな彼がケンブリッジで学んだ事は色々なところで紹介されていた。しかし彼の父文平がハーバードに留学していた話はなかなか紹介されていない。自分のひ祖父さんの世代の人があのハーバードに留学していたのだ。白洲家は元禄時代から儒者として三田藩主九鬼氏に仕えた家柄で次郎の祖父、白洲退蔵は早くから大阪の儒者篠崎小竹につき、のち江戸の古賀謹堂について儒学を学んだそうだ。儒学者の息子が、海外なんて誰も行かない時代にハーバードに行き、そのまた息子がケンブリッジで学んだ。彼はエリート社会の人であり、その選びぬかれた立場を十字架として背負いながら生きて行かねばならぬ運命の人だったのだろう。中学時代傍若無人と言われながら反発したのはそんな十字架から逃れたいと言う彼なりの反抗だったのだろう。その後9年間ケンブリッジで過ごし、帰国した彼にはもう十字架を背負っていく覚悟が出来ていたのだろう。その時代では誰も持ちえなかった卓越した情報網と与えられた情報を処理する判断力を身につけた彼には、同時代の誰も考ええぬ行動を取ることが出来た。ただそれは、彼にしてみれば当たり前のことだったのだろう。彼は戦前1937年殆どを海外で過ごしている。当時外から見た日本を知っている数少ない日本人だったのだ。だから戦争勃発前に終戦後の結果も予測する事もできたのだろう。しかしそこで郊外で農業をして戦後の食料難に備える彼の行動力には大いに感心する。戦後昭和の鞍馬天狗と化して国士となり、国の為に活躍する彼の背中には「与えられた者」としての重責がいつものしかかっていたのだろう。前置きは長くなったが、そんな彼をもう少し研究したくてこの本を読んだ。多くの興味ある内容の中で特に気を惹いたのが、戦後の憲法草案を受け取った日本の代表者の中に彼が居たこと。そして恐らくそのことは日本にとっても幸運な事だったのだろうと思えることである。ホイットニー将軍に宛てた「ジープ・ウェー・レター」は三人称で書かれている。それは彼の卓越した交渉力の一つだろう。三人称で客観的に意見し、図を使い明晰にポイントを突く、白洲次郎の交渉の才は今の外務大臣始め交渉をする立場の人間には学ぶべきことが多い。彼は「離見の見」の持ち主であり、この章の締め括りに使われている吉田茂からの総裁推薦を断るときの彼の言葉「僕は政治家じゃないんだし、そんな責任だけ負わされることはいやだ。」とはまさに「彼が離れた場所から全てを見渡すことで、己の才を発揮できるのだ」と宣言しているようなのだろう。
2005.10.31
コメント(2)
7、8年前から和家具を買うようになった。板の間の洋室の中に並ぶダイニングテーブルセットの脇に同じチェスナット系の水屋箪笥が並んだり、コーヒーテーブルの代わりに関西火鉢を置いたりしていても何も違和感がなくむしろ落ち着いた雰囲気だ。大体昭和初期から大正、精々明治時代のものなので骨董としてそんなに価値があるものでもないだろう。ただ自分の中ではとても大切なものだ。良いものを大切に扱えばいつまでも使える。日本が世界の中でアメリカに次ぐ第二のGDP生産国だと言われて久しい。しかしその中味を見ずに表の数字に踊らされているならば、綺麗な包みの箱をみて素晴らしいプレゼントですと言っているようなものだろう。いつかこう言う会話をしたことがある「日本の国民総生産は大きいがそのうちに秘める破壊の数字も大きい」と。つまりまだ使える家具、電化製品、建物等を捨てたり壊したりする事で次の製品や建物を作り出している。だからヨーロッパのような富の蓄積がないと。話を家具に戻そう。ではいったいアンティークとは何なのか。古ければ古いほどその価値が高いのだろうか。実はそうではない。良いもの本物はその価値が普遍に等しいのである。減価償却で毎年価値が減るものは消費物質でその償却率が高い方とライフサイクルが早い。本物と言われるものは減価償却がゼロに等しいことさえあるだろう。そう言った品々が生産された時代はそれなりの数が市場に出回っている。しかし時と共にそれらは市場から消え、破壊され、残ったものあるいは市場に出てきたものは希少価値でその値段が上がるのである。このことは思想でも同じなのだ。正しい考え、つまり本物はどれだけ時間を経てもその価値が下がることはない。その正しい本物を見つける旅は何も現代や未来の旅だけではない。むしろそんな事を出来る人は本当の思想家なのでは無いだろうか。一般の人が考える思想は数千年の歴史の中に殆ど詰め込まれている。その本物探しの旅が「温故知新」の旅なのだ。古きを訪ねて新しきを知る旅は過去の良きものを捜し求める旅なのだ。骨董屋で良い家具を見つけるように、図書館で良い思想を捜し求めてみたくはならないだろうか。
2005.10.28
コメント(2)
以前からお世話になっている方主催の株式投資講座の講師として参加した。日曜の朝10時からというのに約100名弱の参加者が夕方五時まで殆どと中退場する事無く熱心に話を聞いてくれていた。日曜日は人夫々色んな予定がある大切な日だ。それを終日このセミナーの為に費やして下さるのだから本当にありがたい気持でいっぱいだった。参加者の時間を無駄にしない為にも与えられた時間を一生懸命に話した。セミナーの内容は、株式相場全体、テクニカル分析、オルタナティブ投資、金投資、プライベート・エクイティーとその道のプロが最近の傾向などを語っていた。メインのスピーカーは三度にわたり壇上に立ち来年の推奨銘柄を何故そうなるのか細かく説明しながら語っていた。そのメインスピーカーの話の内容は本当に面白かった。そしてその説明の説得力は強烈な魂の篭ったものだった。そんな彼慧眼は素晴らしく、全くの精神論でもなんでもなく、莫大な情報を分析する洞察力と長年の経験が生み出す芸術的勘に基づいている。そんな中僕の話は「二十一世紀型の投資学」と言う少し外れたトピックとなっていた。話の内容は、金融界全体の流れの中からここに集まっている個人投資家のおかれている位置、そこで培うべき先見性を学ぶ為にはどうしたら良いかと言うことから語り始めた。次に21世紀型の定義について語った。近代からの教育の流れを、寺子屋、明治維新、戦後と分類して以下に二十世紀の金融市場、教育制度が成熟したかを唱えた。その象徴とも言うべきパックスアメリカーナの世界、その終焉のはじまり、次世代の台頭、そして教育を語っていった。全てを語るには余りにも時間が足りなかったがそのさわりの部分は理解してもらえたと思う。この続きはまた少しづつ書いてみたい気になってきた。
2005.10.24
コメント(4)
最近書物の探し物をしていて、ふと図書館に行こうという気になった。考えてみれば日本の図書館の貸し出しカードを作った事なんてもしかすると生まれて始めたかもしれない。使ってみて分った事が色々ある。先ずは雑誌は半年しか取置きしない事。なのでそれ以上古い雑誌はどうするか聞いてみると大きな図書館だとアーカイブされていて数日後でよければ地元の図書館に届けてくれるそうだ。去年のサライを探していたので早速使ってみることにした。しかもインターネット登録すると届いた時にメールで知らせてくれるそうである。それから面白いと思ったのは検索ターミナルがあって色々なカテゴリーで検索をかけられる。正直この検索のデータとのリンクには多少疑問が残ったが使い勝手があることは間違いない。日曜の午後取置きしてあるサライを受け取りに出かけてみた。静かのマガジンセクションで皆夫々の好みの雑誌を手にとって見ていた。082も真似して座って最新号のサライを読んでみた。何故か落ち着ける雰囲気と文化的気分に触れられたのは今日の収穫だったような気がする。明日も図書館に行ってみることにしよう。
2005.10.18
コメント(0)
以前邂逅を書いてからまた少し勉強になったことがある。そんなことをもう少し書き足してみよう。毎日の生活の中には無数の出会いがある。例えば路ですれ違った人も簡単な出会いだ。ただそこから何かの関係が始まる事は皆無に等しい。では出会いの確率をどうしたら高めることが出来るのだろうか。共通の興味があったり、考えが近い人たちの集いに参加したりする手もあるだろう。例えば何かの目的を持ったレセプションに参加してみる。そこでは皆共通の目的、時間を、共有しているので、そこで出会った人と親交が始まることもある。ただ、そんな出会いの場があっても、その親交が長く続くとも限らない。いやむしろ知り合い程度で終わるのが普通だろう。では、何が足りないのか。それは「邂逅」の意味をもう少し理解することが必要だ。邂逅と偶然の出会いには大きな違いがある。偶然の出会いはただ知り合うだけである。邂逅はある意味では磁石のようなものだ。誰かを惹きつける何かを持つS極と、常に何かを求めるN極とが出会ったときに強い力で惹かれ合う。だから人を惹き付ける魅力を高め、常に向上しようと努力する一方、自分の求める魅力を持った人の「気」を感じ取る感性を研ぎ澄ます努力が大切だ。魅力を持つ人、その魅力が分る人、そんな人に自分もなりたい。そういう人たちの中で、お互いの魅力を認め合う人との出会が「邂逅」なのだ。
2005.10.17
コメント(4)
サンフランシスコ条約締結の年白洲は若干49歳で電力事業再編に取り組み東北電力会長に就任する。その八年後に退任するまで、精力的に動き福島県奥只見ダムなどの建設を推進した。東北電力退任後彼は経営者として荒川水力発電会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、ウォーバーグの役員や顧問を歴任した。また、彼は日本ゴルフ界にとっても欠かせない人物だった。不思議と英国留学中はゴルフはしなかったそうだが、始めたの中学の時だそうだ。1976年軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事に就任(82年同倶楽部理事長)。メンバーに対する平等性、ビジターの制限、マナー厳守、「プレイ・ファスト」の徹底等で知られる。その頃のエピソードでは、当時の田中角栄の秘書が総理秘書だからといってプレイしようとすると、クラブの会員になってからプレイするように話す一方で、田中首相が「手ぬぐいを腰に差すのは合理的で良い」と是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。ところで英国時代の親友、ストラトフォード伯ロビン・ビングとは、戦時中は敵対国同士と言う関係上会うこともなかったが1952年、ロンドンで再会を果たしている。その親交は1980年まで続いたそうだ。晩年80歳まで愛車(ポルシェは本年7月7日より、日本橋高島屋にて白洲正子とその世界展中展示)を乗り回し、ゴルフに興じていたと聞くが、1985年プラザ合意の年に、正子夫人との最後の旅路(伊賀・京都)後、体調を崩し、胃潰瘍と内臓疾患で入院、同年11月18日に武相荘には再び帰らぬ人となった。享年84歳と言うことになろうか。妻正子夫人に残した遺言書には余りにも有名な言葉「葬式無用 戒名不要」と記してあった。なんとも彼らしい言葉ではなかろうか。表題として使わせて頂いた。
2005.10.14
コメント(4)
北康利著『白洲次郎 占領を背負った男』には「日本が戦争に負けてから、この男の闘いは始まった」と紹介されている。戦後40年代後半には、「憲法改正問題」を始め、終連次長に就任、経済安定本部次長、商工省・貿易庁の初代長官等の要職を歴任、通商政策の強化、通商産業省設立の中心的指導者として活躍する。その占領下時代「従順ならざる唯一の日本人」と言われたり、GHQホイットニー将軍将軍から「あなたの英語は大変立派な英語ですね」褒められると、「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えたとか。GHQにとって白洲は相当煙たい存在であったはずだ。だが、彼が解任もされず、その憂き目にあわずに済んだのは、彼の主張が正論そのもので、一貫した揺るぎのないものだったのが、GHQに畏敬を抱かせたからではないだろうか。数少ない「NOと言える」日本人でもあった。1950年には、講和問題で、池田勇人蔵相、宮沢喜一蔵相秘書官とともにアメリカに渡り、ジョン・フォスター・ダレスと会談し、平和条約の準備を開始した。その時の写真で機上ジーパン白Tシャツ姿で寛いでいるのが082のプロファイル写真。1951年9月サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。会議に出席したのはあの吉田首相。彼の原稿は演説の二日前まで英文だった。しかし「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」吉田首相に諫言。首相は日本語で演説する。因みに「サンフランシスコ講和条約」は、連合国軍(アメリカ・イギリス他)と日本との平和条約であり、国際法上はこの条約締結まで戦争状態であった。と同時に日米安保条約(二国間)が始まったのもこのときである。
2005.10.13
コメント(0)
戦争中を武相荘で「カントリージェントルマン」として暮らす一方、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走もしていた。「昭和の鞍馬天狗」として本領を発揮するのは戦後間もなく、当時の東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣を務めていた吉田茂の抜擢で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任してからだ。その当時のエピソードにGHQのマッカーサーと対等にやりあった逸話がある(兜町講座より抜粋)。『昭和20年12月、白洲は昭和天皇から託された贈答品をマッカーサーへ届ける。もちろんマッカーサーの部屋は、各方面から届けられたクリスマス・プレゼントで身の置き所もないほどの状態で、マッカーサーは何のためらいもなく床に目をやり「その辺へ置いておけ」という仕草をした。だが、その態度に白洲は激怒し「天皇陛下から預かったプレゼントを床に置くことなどできない。あなたは他国の元首に対する礼儀をわきまえないお方か」と激しく噛み付いた。その言葉の激しさと意味に驚いたマッカーサーは、すぐさま新しいテーブルを用意させたという。 白洲はもとより天皇崇拝者ではない。敗戦を機に天皇の退位を考えていたくらいである。むしろ、彼の生涯を通じての行動規範でもある「相手が誰であれ、理不尽な振る舞いは許さずこれを正す」という立場からだろう。また、彼らにとって白洲は相当煙たい存在であったはずだ。GHQは好ましからざる人物を解任することもできたが、その憂き目にあわずに済んだのは、彼の主張が欧米人にとっても正論そのものであり、その一貫した揺るぎのない立場に畏敬を抱いていたともいえよう。』なんとも素晴らしい気持の晴れる話である。
2005.10.11
コメント(2)

白洲次郎は神戸一中時代、野球部に所属し、手のつけられない「乱暴者」として知られていた。ペイジ・グレンブルックと呼ばれた高級外国車を乗り回し「オイリー・ボーイ(今のカーマニア)」と呼ばれていたらしい。その後、父の先見性のもと、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで西洋中世史、人類学などを学んだ。留学時代には、その後生涯の友となるストラトフォード伯ロビン・ビングとベントレーを駆ってジブラルタルまで、欧州大陸旅行をやり遂げたと言う。当時の道路事情の中でである。今時の留学生でも中々ない行動力の持ち主だ。卒業後は英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」の記者となり、間もなく、友人樺山丑二の妹、正子と知り合い、結婚する。以後、数社の取締役として、海外に赴き、駐イギリス大使であった吉田茂の面識を得、英国大使館を自らの定宿とするまでになる。この吉田茂との出会いが戦後の彼の活躍の原点となる、一方牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとしても活躍したそうだ。白洲次郎には先見性があった。彼には情報を手に入れる術があったのだ。そしてその情報を見極める眼力と実行する決断力・行動力を兼ね備えていたのだ。だから、軍国主義が頂点に達する昭和初期においても彼の先見性はそのまま彼の生活を救う事になる。武相荘の沿革には白洲正子自伝引用がある。「私たちは、〔太平洋戦争開戦の〕二年ほど前から、東京の郊外に田圃と畑のついた農家を探していた。食料は目に見えて少くなっており、戦争がはじまれば食べものを確保しておくのが一番必要なことだと思っていたのである。」つまりこの二人は太平洋戦争が日本に及ぼす結果を開戦前から知っていたのである。これは常識を持った人間がちゃんとした情報に基づき判断すれば当然の事だ。だが、当時の社会事情から言うと並大抵の事ではなかっただろう。
2005.10.10
コメント(0)
さて、その白洲文平に関して、次郎がコメントした言葉が残されている。『文藝春秋』昭和二十六年九月号だ。父(文平)は「建築道楽で、家ばかり建ててゐた。道楽はたくさんあつて、ほかの、あまり言ひたくない道楽もあつたが、そして、いつでも建てる家は日本館にきまつてゐる。ぼくのおやぢは外国育ちの男だ。そこで西洋館は靴を脱がないでもいいから西洋館がいいぢやないかと言つたら、外国ぢや道がとてもきれいだ。だから靴のまま上つたつて汚くない。だけど日本みたいな、こんな汚い道を歩いて来て、そのまま上られたらたまらない、だから日本館がいいと、言ふ。ところが、そのおやぢは靴履いて畳の上を歩くのだ。そして人が汚いぢやないですかと言ふと、俺は別だと言つて澄してゐる。これがほんとの傍若無人といふものだ。僕のおやぢは、子供のときから外国育ちで、ほんとの意味のお洒落だつた。晩年は九州の、大分と熊本の国境に、百姓をして独りで住んでゐた。もつとも女中なんかはゐたけれども、東京に来るときは、木綿の刺子の紺の股引をはいて、上にはツイードの洋服を着て、荷物は全部猟に行くときの網に入れて、それで東京に来て平気で歩いてゐる。さういふ人だつた。」西洋文化を習得した文平が日本建築を好んだのは何も舗装されていない当時の日本の道路事情だけではないだらう。外に出て分る日本文化のよさ。082もこの点は大いに共感している。次郎がサンフランシスコ条約締結後男泣きに泣いたエピソードももしかするとこの辺りの文平の愛国心に繋がるのではないだろうか。次郎は文平と仲が悪かったと言う。しかし彼は文平そっくりだったそうだ。晩年南多摩郡鶴川村の田舎、武相荘で百姓をした生き方も、もちろん次郎のお洒落も文平譲りだったのではないだろうか。
2005.10.07
コメント(0)
この言葉は、故白洲次郎氏の遺言である。明治35年(1902年)2月17日生まれの彼は、いわゆる明治の人だ。082から見てもおじいさんの世代である。彼を初めて知ったのは今年の6月、兜町講座の中だった。「プリンシプルの男」、「昭和の鞍馬天狗」、「吉田茂の懐刀」等など彼を語る言葉は尽きない。それ程能力、個性、先見性にとんだ人物だった。随筆か白洲正子氏は彼の奥方である。彼を語る前にその生い立ちを少し書いてみよう。白洲家は元禄時代から儒者として三田藩主九鬼氏に仕えた家柄で次郎の祖父「白洲退蔵は(『兵庫県大百科事典』)弘化二年(1845)十七歳のとき、勤学科十両を与えられ大阪の儒者篠崎小竹につき、のち江戸の古賀謹堂について儒学を修めた」そうだ。福沢諭吉と親交があり「非常に先見の明のある人物で、維新に際しては、藩主を助けてさまざまの功績を遺した。武士には珍しく経済の面に明るく、県知事をつとめたり、正金銀行の頭取になったりした」と正子さんの『遊鬼』には書かれている。また、彼の父白洲文平は現明治学院大野球部創設時代の主将、早くからクリスチャンとなり、ハーバード留学の後、ドイツのボンでも学んだ。次郎達を海外に留学させたのもそんな環境があったからだろう。実家は芦屋の邸宅で頗る裕福な生活環境で育っている。父の白洲商店の番傘には「二十世紀の商人白洲文平」と大きく書かれており、文平には「白洲将軍」という渾名がつけられていたそうだ。PS:ここで覚えて欲しいのが彼が生まれたのは1902年。まだ二十世紀の始まったばかりの頃。当時「二十世紀」と言う言葉はきっと今の二十一世紀と言う言葉以上の新鮮味があったに違いない。
2005.10.06
コメント(4)
昨日紹介した、兜町講座で取り扱ってるテーマが「先見性」だ。株取引には当然その先見性が重要に習うのだが、では一体その先見性なるものをどうやって培っていったら良いのだろうか。先ずは情報を集めるネットワーク。情報収集力である。ただ情報を集めれば良いと言う訳でもない。つまり集めた情報を整理整頓して使わなければならないからだ。ここで問われるのが情報を処理する能力、つまり「玉石混交」の数多な情報から良いものを拾い出す眼力である。この情報の中には過去のデータが必ず入ってくる。そして古いデータ程多くの情報処理を受けているのである意味で価値が高いのである。いわゆる「温故知新」が説得力があるのはまさにこう言う正しき教えは時間を超えて行きつづけるそしてその希少価値からプレミアが付く、ある意味では骨董品の価値に近い意味合いがあのだ。次に大切なのが弛まぬ努力。つまり普段からの鍛錬。情報を集め、集まった情報を処理する訓練こそ大切なのだ。そして精進。自分で見極めた情報を頼りにやってみる事。それは己が信じる事に全てを掛ける気持が大切なのです。この繰り返しが経験となり、先見性を導くのです。
2005.10.04
コメント(0)
最近おりに触れて使う言葉の一つにこの「人生哲学」がある。言葉としては少し重い感じがするけれど、実際の意味は「いかにして生きて行くか」と言うとても簡単なことである。082が折に触れて語ってきた、今年古希になる友人(古希の友)が最近立ち上げた講座がある。兜町でもう40年以上も日々株の取引を繰り返してきた彼の教えを纏めたのがこのオンライン講座だ。株取引程リスクについて教えてくれる教材はない。だから082の友達にはみな、「株をやりなさい」とよく話す。それはつまり自己責任を学ぶのに一番適しているからだ。「古希の友」もこんな話をしてくれる。今時の政治家は「リスクをとらない」、「言ったり、やったりする事に責任を取らない」と。若き時に政治家を志した彼にしてみれば、本当に歯がゆいのであろう。だから「政治家こそ株取引をすべし」となるのである。そんな彼が長年株式市場で培って来た知恵を纏めた「兜町金融特別講座」は、名前は金融だがむしろ「経営」そして「人生哲学」に関わるとても興味深いことを、数百年、数千年の時を越えた史実を使って教えてくれる。いわゆる「温故知新」の講座なのだ。082もここ数ヶ月講座に参加してみて、教材を何度も何度も読み返してみた。不思議なのが何度読んでも飽きない事だ。「人生哲学」、秋の夜長にたまには考えてみたいものだ。
2005.10.03
コメント(2)
全13件 (13件中 1-13件目)
1