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娘がレンタルしてきた映画を一緒に見た。「手紙」という、昨年上映された映画だ。<あらすじ>武島剛志は、高校3年生の弟である直貴が安心して大学へ行けるような金が欲しくて、家宅侵入・窃盗を行なうが、家の住人に見つかり、結果殺人を犯してしまう。そのために直貴は「強盗殺人犯の弟」という目で見られ続けて世間の壁を感じ、さらにそれが、何をやるにも足かせとなった。ただ、小さな幸せが欲しいだけなのに、そのつかんだ幸せのカケラを本当の幸せに変えようとするとき、「強盗殺人犯の弟」ということがばれてしまうのだった。その度に彼の想いは揺れる。公表、隠蔽、、絶縁、寂寥、哀憐と…。刑務所に入っている兄ととれる唯一のコミュニケーションが手紙だった。それが疎ましくても懐かしくても。「容疑者Xの献身」で直木賞を受賞した、東野圭吾の小説の映画化だ。今、月9のドラマ「ガリレオ」も面白い。本を読んでいなかったので、推理小説だと思ったらちょっと違った。犯罪者の家族に降りかかる差別という重いテーマだ。「強盗殺人犯の弟」と言うことで苦しむ主人公、武藤直貴を山田孝之、弟の為に殺人を犯してしまう兄武藤剛志を玉山鉄二、直貴を一途に思い、かたくなに閉ざされた直貴の心を開いていく同僚に沢尻エリカという配役。やっぱり3人とも若手実力派俳優と言われるだけあって上手いわあ。娘に笑われるぐらい、泣けた。直貴は、原作ではバンドを目指すという設定だったらしいけれど、映画ではお笑い芸人。漫才が上手くて、漫才を聞きながら大笑い。なのに、最後には刑務所で漫才をするところでは、笑いながらも、それを聞きながら涙を流す玉山鉄二の演技も秀逸で、泣けて泣けて・・・この間ぷっつん会見で話題になった沢尻エリカも、若い時と、母親になってからを見事に演じわけ、落ち着いた優しさを感じさせるのはさすが。この人の出演作を見るのは初めてだったけれど、女王様ともてはやされるわけだ。自分は、差別をしない人間だと思っていた。出身や学歴や外見や、そんなもので差別するのは馬鹿らしいものだと思っている。でも、犯罪者だったらどうだろうか。やっぱり、ちょっと怖くて、できたら関わりを持ちたくないんじゃないだろうか。たとえ本人じゃなくて、家族であっても。犯罪を犯すというのは、それぐらい重い十字架を背負うということだろう。そういうことも考えさせられた映画だった。
2007.10.31
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ペ・ヨンジュンの最新作「太王四神記」が、韓国内で放送されているが、日本でももうすぐ見られるという。12月3日(月)22:00~23:00から韓国語版字幕入りでNHKデジタルハイビジョンで放送されるという。来年4月からは、NHKのBS2でも再放送されるが、こちらは吹き替え版。多分、萩原君が、ペ・ヨンジュンの吹き替えをするのだろう。韓国語版を見慣れると、悪いけれど萩原君の吹き替えは全く見る気がしない。最近、ペ・ヨンジュンの情報も少なくなって、あまり興味も無くなってきたなあと思っていたけれど、韓国語版が見られるのなら見たいわあ。と言うことで、今までアナログだったケーブルTV放送を、デジタル放送に替えてもらうことにした。インターネットも電話もケーブル回線で、ケーブルテレビを見出したのも、この地域にケーブルテレビ局ができた約10年前でとっても早かったのに、デジタルになかなかしなかったのには訳がある。それは、デジタル受信にはコピーワンスがかかっていること。4年前にSMAP番組を撮りたくて購入したDVDレコーダーは、ペ・ヨンジュンを知ってから大活躍。韓流ブームが起こってから、有料チャンネルの衛星劇場で過去の出演作品をどんどん放送してくれる。「初恋」の66話を筆頭に、韓国ドラマは異常に長いし、録画してはDVDに焼くことの繰り返し。DVDをあげたら、私以上にはまってしまった母親は、いつでも見られるように自分の分のDVDを焼いて欲しいと言う。と言う訳で、ハードディスクに入れたら、何度でもDVDに焼けるアナログ放送のままにしていたわけ。BSでも韓国ドラマが多いし、コピーワンス制御を取る機械を買おうかな(違法)とか思っているうちに、ペ・ヨンジュンは全く出ない。そのうちに韓国ドラマにも興味が薄れ、まあいいやと思っていた。けれど、2年ぶりのペ・ヨンジュンの出演作は、やっぱり見たい。と言うことで、今回ご契約~。デジタル放送に契約すると、デジタルチューナーと250GBのHDレコーダーが一体になったものを、月800円でレンタルしてくれる。これがWチューナーで、2番組一緒に録画ができてとっても便利。今まで、ドラマを録画したい私と、CSの囲碁チャンネルを見たいダンナと取り合いになってたけれど、それも解消。最新の文字情報も見られるので、番組表を見ながら録画予約ができてとっても便利。10年前の普通のテレビだけれど、デジタルハイビジョンの画面もきれいに写った。そして、コピーができないからと、母親にも契約を勧めたが、ペ・ヨンジュンの番組は見たいのに、毎月費用がかかるとなると、なかなか決断できない。それで、昨日、ケーブルTVの社員が、母のところに説明に来てくれた。その若い男性社員は、2011年になったら地上波デジタルになり、デジタルチューナーが必要とか、専用アンテナが必要とか、ケーブル回線なら今のままのテレビでいいとか、そんな堅苦しいことから話し始めるから、母親はちんぷんかんぷん。よけい訳がわからなくなるからいいですよと言っても、契約を取るには、そこから話をしないといけない決まりがあるらしい。いろいろ説明するよりも、「デジタルにしたら、NHKデジタルハイビジョンのペ・ヨンジュンの新しいドラマが見られますよ。って言う方が、絶対契約をしたいと思う女性多いと思うよ、」と、若い彼におばさんは教えてあげた。そうなったら、母親も、それが見たいから申し込みたいのよと、ドラマの名前や開始日時を得意げに教える。今まで悩んでいたのが嘘みたい。彼は、知らなかったらしく、喜んで、手帳に開始の日時をメモしたけど。工事の日時も決まって、もう終わりと言う時、彼が母親の年齢を聞いた。70才以上(だったと思う)の老人の契約(一人暮らしだけだろうか)は、他にもいろいろ手続きをしないといけないらしい。私が、一緒に話を聞いていたので、代理の手続きと言うことで簡単にできたけど。こんなことで、地上デジタル2011年7月から実施できるのかあ?テレビだけを楽しみにしているお年寄りが多いだろうに、ある日テレビを着けたら見られなくなったと言う人が、続出しそうだ。
2007.10.30
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入院から3か月たって、今日、EさんがM市の病院に転院した。医療法の改正で、入院期間は3か月に決められているそうだが、まだ彼女は一人で車いすに移ることができず、退院しても一人暮らしなので介助がないと生活できない。それで、地元の病院で治療を続けることになった。N医大から、彼女の地元の病院までは車で約3時間。移動で疲れなければ良いのだが。先週の月曜日、12時の診察時間より早めに彼女たちの病室に行くと、SさんもEさんもちょうど車いすに乗せてもらったところだった。昼食後、シーツを替えるので、それまで乗っているという。その時のEさんの車いすに乗る限界は2時間ぐらいだった。いつもは、午前中リハビリの治療があるけれど、ちょうどその日はリハビリの先生が出張でお休み。SさんとEさんを誘って、食堂のモーニングセットを食べに行った。Eさんの車いすは、私が押していった。入院して3か月、いつも病院の給食で、食堂で食べたことがなかったそうでとても喜んでくれた。 入院中は途中までしか聞けず、退院してから診察日の2回、続きを聞いた。彼女の話を聞くと、お寺さんとか、拝むとか言う言葉が多く、何か宗教を信じているのかなと思い聞いたら、小学校の時お寺の住職さんと一緒に京都へ旅行に行った時の印象が強いそうだ。唯一の旅行経験で、その時に聞いた話が、自分の生きる支えになってきたという。それ以降、結婚の時九州の彼の家へ行ったのと、両親と町内の旅行に行ったのだけで、旅行の経験がないという。それを聞いた時、私は少しショックを受けた。長い闘病生活と、家族の介護、私より3才若い彼女の今までの人生の厳しさは、私の想像を超えたものだった。退院したら車いすを積んで、私がどこかへ連れて行ってあげたいと思った。彼女の話を聞いていると、言葉があふれてくるという感じで、今まで他の人に話したかったことがいっぱいあったんだろうなあと思えてくる。私は、彼女の話を、ほとんど彼女が話すままに書いている。最初は、普通の体験談のように気軽に考えていたが、彼女の人生そのまま聞き取って書いていることの責任の重さを感じている。彼女は、私と出会って、もう一度人生をスタートしたいなあという気持ちになったそうだ。両親が亡くなって、もう一人で自由にできる。これからは、もっと今まで出ていなかった世界に出たいなあという気持ちになったそうだ。責任もって、最後まで書かないとなあ。足が良くなったら、M市の病院までとことん追いかけていこうと思っている。
2007.10.29
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14.彼の事故離婚届の用紙に自分の名前を書いて、彼に渡した3日後のこと。その日は、私の全身検査の日で、私は今までの彼がいる病院とは違う病院で検査を受けた。家へ帰ってきてすぐに電話が鳴った。救急隊の人からで、救急車の中で彼が、お宅の電話番号を言ってるので駆けつけてもらうこと出来ますか?と言うことだった。彼は、交通事故にあっていた。飲食店のむすめさんが運転していて、そのお母さんとおばあさんと彼が乗っていた。深夜の2時の事故と新聞には書いてあった。近所の人たちは、私たちのことをまだ夫婦だと思っていたので、新聞に一つの家族と一緒に彼が乗っていたから変に思われた。助手席に乗っていた彼は、右目、右肩、肋骨、内臓と右半身の損傷で、6か月の重傷やった。意識不明で運ばれたけど、自分の勤めていた病院に移る時、電話があった。手術の承諾書に判がいる。私が押していいのかなと迷ったけど、家族は遠いし私しかいてへんかった。一番に電話をするのが私しかおらんから、私が、彼の両親に電話した。事故の相手に、ご家族の方ですか?と言われた。夜間の事故で、こちらの運転していた人にアルコールが入っていて、双方前方不注意と言うことやった。次の日から、朝晩看病に通った。自分のことを知られるのは嫌やから、朝は6時から7時、夜は8時から10時と人目のつかない時間を選んで、病院へ通った。食べ物が食べられへんから、野菜と果物を縛ったジュースを作って朝晩飲ませた。身体を拭いて、着替えさせて、洗濯物を持って帰ってきた。九州のお父さんも出てきてくれて、みんなからバカやと言われたけど、家に泊まってもらった。彼のお兄さんも来てくれて、病院の床に手をついて、弟の命を助けてくれたのは、医者ではなくてあんたや。面倒見てくれと言えた義理ではないけれど頼むと言われた。ただびっくりしたのは、お母さんが来なかった。お母さんは家を空けられないと言ったけど、家を建てた時は、お父さんと一緒に来てくれた。私と会うのが、嫌やったんかなあ。病院の婦長さんも電話をかけてくれたけど、一度も来なかった。2ヶ月間、看病をした。先生が、奇跡やと言うぐらい、普通に歩けるようになって退院した。夜間の裏門のところで待っていて、彼のアパートまで送り届けた。「すまんかった」とは言ったけど。その後、静養するために、九州まで行く時も電車のところまで送っていった。九州から、着いたとは電話があったけど、結局お母さんからは、一言もなかった。お母さんは、離婚について、私の両親と同居していただけに、気にいらんこともあったのかも知れない。九州で1か月静養するって言ってたけど、後で知ったことやけど、1週間で戻ってきて、自分でアパートで生活していたみたい。書類上は、別れているから、それ以降は連絡もしなかった。帰ってたのも知らんかったし、今さら自分から連絡してもあかんかなあと思った。でも、事故の時車に乗っていた4人の中で、元気になって仕事に復帰したのは、彼だけやった。
2007.10.28
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13.お母さんの病気手術しても無理と言われたけれど、他の病院も当たってみた。抗ガン剤を打ったらいいかも知れないと、他の病院を紹介してもらったけれど、12月25日で、もう年末で病院が終わってしまう。1月4日から抗ガン剤を打ちましょうと言うことやった。その年の年末からお正月にかけては、心配で仕方なかった。大量出血したら大変やから、お母さんがトイレに行くたびにどきっとした。時計の音が気になるぐらいに、ピーンと心が張りつめていた。1月4日が待ち遠しかった。1月4日から、抗ガン剤を打ち始めたら、10人中一人と言うぐらいによくきいた。手術は無理と言ってたけれども、手術してもらったら、12箇所とったうちの8箇所に転移していた。私が言えることじゃないけど、私が苦しめたためにお母さんが病気になった。死の淵から帰ってきて、厚かましいけど、お母さんの命をもらおうといつもお願いした。私は、病院の外来に押し掛けていって、私は何をしたらいいか必死で聞いた。お母さんの命を拾いたい、と家に帰って自分で家族のカルテを作った。お父さんも、C型肝炎から肝硬を悪くして入退院をくり返していたけれど、両方の看病は大変なので、一緒の病院に入院してもらった。二人の治療が始まった。
2007.10.27
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せっかくプールのOKが出たのに、一昨日頑張りすぎたら昨日は疲れて講座に行くのが精一杯。今日も朝から大雨で、傘を持って歩く自信も、濡れた道を歩く自信もない。明日のハングルの予習もしないといけないのになあと思いながらも、ゴロゴロしながらテレビを見たりしている。ハングルの教室には、奥さんが教えているアートフラワーの材料をおいている。退院のお祝いでもらったお花が枯れてきたので、先週ちょっとお花を買って、アレンジをしたら面白くて、ちょっとしたマイブーム。生のお花と造花で作ったフラワーアレンジメント。 これを作ったら、母親が欲しいと持って帰ったので、もう一つ。 かごがもう一つ空いたので、これは生花ばかりで、庭の南天の実と、柊南天の黄色い花も加えてみた。 お花一つで、ちょっと気持ちが豊かになった感じ。明日もまた、買おうかな。
2007.10.26
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12.母からの電話何で彼が出ていったのか、何が落ち度なのか、何が悪かったのか、自分でわからなかった。私は、両親と別居してもやり直したかった。お兄さんに、アパートを探して男同士で話してと頼んで行ってもらった。アパートで寒いやろうなと、暖房器具とか手配して、両親からは、あんたは馬鹿やと言われた。お兄さんが、アパートを探して、彼と話をしてきた。彼は、窮屈やったから一人になりたいと言ったそうだ。私は、食事を取れなくなってしまった。彼がいなかったら、身体も思うように動けへんかった。毎日、死にたい、生きててもしやないと思って、死ぬことばっかり考えた。ある日、車に乗って、ガソリンあるだけ乗って最後にどこかに飛び込もうと思った。頭の中は死ぬことばっかり考えて、もうガソリンがなくなってきて、ダムの近くまで行って、後一つカーブを曲がったら、そのまままっすぐ飛び込もう・・・もう、目の前には死の川の波が見えてた。その時、携帯の音が鳴った。受話器を取ると、お母さんの声が聞こえた。小さな、小さな、苦しそうな声で、「あんた、今どこにいるの?出血止まれへん。近くにおるんやったら、帰ってきて・・・病院へ連れて行って・・・」その電話で、私は目が覚めた。買い物に行くと言って家を出たけれど、車でどこかへ飛び込む今年か考えてなかった。でもお母さんの声を聞いて、すぐ家に戻った。お母さんは、あんたが辛そうやから今までよう言わんかったけど、ずっと不正出血があったと言う。すぐ、看護婦をしていた従姉妹に電話して、病院で診てもらったら、子宮頸部癌で末期だと言われた。もう手術をしても無理だという。私が、お母さんを病気に追いやったと思った。
2007.10.26
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11.別れ家を建てるまでも、両親と彼と4人で同居していて、食卓を一つに囲んでいた。彼も、九州から出てきていてそれまで一人で暮らしていて、スタートしたばっかりで新鮮やったんやろうなあ、その頃は。両親は、農家やから畑へ行ってて、私の仕事は家のことが中心やった。私は、お弁当を作る楽しみが出来た。彼は、病院の医学療法士をしていたから、お弁当を他のスタッフの分も4人分ぐらい作っていた。朝晩、私が車で彼を送り迎えして、車の中が二人の時間やった。カセットを付けながら、病院へ着くまで、運転が危ないぐらいしゃべってた。帰りは、電話がかかってきたら迎えに行ってた。田舎やから、両親は夜遅く迎えに行くのが嫌みたいやった。彼は11時過ぎるのが普通で、夜中の1時を過ぎた時、我慢の限界になって、もっと早く帰れんのかと口を切ってしまった。彼は、だんだん口数が少なくなって、家を建てた方がいいかなと思った。最初は、彼もこっちの両親と生活するのが楽しみやと言ってくれて、一緒に住む家を建て替えようと言ってたけど、途中から別棟にすることにした。でも、お父さんが、生活が全部別になって私がいなかったら寂しいと言ったから、お風呂だけは一緒にしていた。私はローンを組みたかったけど、お父さんが、この身体で一緒に住んでくれてありがたいと言って、ローンを組まずに家の費用を出してくれた。そんなこともあかんかったんかなあ。いろんなことをしゃべってしゃべって二人で過ごすのが夢やった。でも、だんだんしゃべらない生活になっていった。私は、家が建ったら変わるかな、いつかは何とかなるやろうと思っていた。でも、だんだん帰りもますます遅くなって、二人で過ごす車の中でも、彼はしゃべらなくなっていった。彼の方が、しんどかったんかな。そんならみんなで話し合いをしようとお父さんが言って、九州から彼の両親も出てきて、話し合いをする場を持った。その時、彼のお父さんから、申し訳なかった。忘れたってくれ、と言われた。そして私には、次の人生を考えてくれと言われた。それから1週間ぐらいの間に、彼はアパートを見つけてきて、荷物を片づけだした。彼の目のことを考えて、彼の衣類とか取り出しやすいように整理していたのに、それもみんな業者を呼んで運んでいった。彼が荷物を運び出す姿を見たら、私はもう歩けなくなってしまった。
2007.10.25
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月曜日は医大の診察日で、先週装具屋さんが型を取ってくれたサポーターが出来てきた。 足首に鋭角に曲がるような力が加わると、骨が出来にくいらしく、足首の前の部分に固い芯が入っている。寝ている時や、平らな部屋の中などでははずしていてもいいが、段差のあるところや斜面、でこぼこのあるところでは付けなくてはならない。頸骨と距骨がきっちり自分の骨で繋がるまで、数ヶ月付けることになるようだ。前回の時は、ギブスを取ってもそのままで、鋭角に曲がる角度が骨が出来にくいなんて一度も聞いたことがなかった。私は、痛みがいつまでも続くのは、足首やふくらはぎの筋肉が落ちたからかも知れないなんて思って、プールで歩く時、つま先歩きなんかしていた。もっと前に教えておいてくれたら良かったのに、と思うけれど、最近になってわかってきたことだろうか。どうして前の時に教えてくれなかったの?と、ちょっと愚痴を言ってみたくなる。でも、今回はすごく慎重に、確実に歩けるように熱心に取り組んでくれてはいるんだけど・・・このサポーターが出来て、足首がしっかりして足の高さもそれほど変わらないので、部屋の中で両手を使って長時間動けるようになった。難点は、履きやすい靴がないこと。月曜日、黒いクロックスを持っていってたけれど、先の方に引っかけてる感じで、これって足首に良くないんじゃないかと思えてくる。昨日は、いろんな靴を履けるか試してみた。ジム用のスニーカーは、今までもサポーターを付けて履いていたので、中敷きを取ったら履くことが出来るが、外履きのスニーカーは、古いものが1足だけ、中敷きを取ってやっと入る。でも、すごく履きにくくて時間がかかり、靴を履くだけで体力を使うってどうよ。昨日、娘と一緒に買い物に行くのに、このスニーカーを履いていったけど、帰りに足が痛くなって脱いだら、今度は全然履けなかった。プールのOKが出たので、今日は2か月ぶりにプールへ行った。30分歩いて、クロールを200m。一応プールの中まで松葉杖を1本持っていったけれど、水の中から出ても痛くない。インストラクターの先生が、声をかけてくれたので、「こんな風に歩けるんです」と松葉杖を抱えてどこも持たずに歩いたら、すごいすごいと喜んでくれた。今日は、その後、買い物もして、クリニックでマッサージのリハビリもしてもらった。でも、履き物は先だけ引っかけたクロックス。リハビリのためには外も歩いた方がいいんだろうし、この際見かけはかっこ悪いけどダンナのサンダルを履こうかなあ。依然、肩こりが治らなくて困っている。プールで泳ぎだしたから、しばらくしたらましになるとは思うんだけど・・・
2007.10.24
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昨日ぐらいから、猛烈な肩こりだ。右の肩甲骨の横当たりのすじが、指で押さえるとびんびん張っている。ストレッチをしたら、右手を挙げたり回したりするのも痛い。肩の下に、固い木で出来たものなどを置いて、寝ころびながらごりごりしているが治らない。昨日、クリニックでマッサージしてもらったのに治まらない。足の方は、快調で、お風呂に入るときなど、シャーレーをはずしても痛みを感じないで立っていられる。サポーターもギブスもなく歩くのは、まだかなり不安定だが、痛みがないのは嬉しいことだ。その上、私は前回の手術の後足をよく動かしていたので、足首の関節がなくなっても他の関節がよく動いているように思う。でも、家の中で杖を使わずに歩いていると、片方だけかかとがついているので、足の長さが少々違う。そんなバランスの悪さも、肩こりや腰痛の原因だろう。肩こり一つで、気分が悪くて、色々することあるのに気が乗らない。ブログも書きたいこといっぱいあるのにな。昨日、ケーブルテレビをデジタル受信に変えたこと。最近の、マイブーム。ちょっと気になっているCMのこと。Eさんの聞き取りも、まだ沢山聞いているのに進まない。明日、病院へ行くので、プリントアウトして持っていきたいのになあ。
2007.10.21
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10.新しい家結婚した時は、もう両足共人工股関節が入っていたけれど、私は足のことを忘れて動き回っていた。半年ほどして、家を建てようということになった。家を建てて私の両親と同居して、彼の両親も九州から呼びたかった。あれもしたい、これもしたいといろんな夢があった。36歳の6月に結婚して、10月頃から家を建てだした。家を建てだしてしばらくしてから、卒業シーズンが近づいてきた。私は、幸せで、今までのまわりのおかげを形にしたかった。助けてくれたお寺さんが、その頃自分の母校の校長先生をしていた。自分の母校でもあるし、卒業生にお花を作ってあげようと、40人弱の卒業生の胸に飾るお花を準備してあげた。普通だったらお礼状をくれるんだろうけど、後輩たちが私に作ってくれたのは中学校の卒業証書だった。私は、中学校の卒業式に出ていない。中学2年の夏休みからずっと病院に入院していたので、日数が足りなかったけれど、学校と親と相談して卒業させようということになったみたいだ。卒業式の後、先生が卒業証書を病室へ持ってきてくれて、読んでくれたらしい。けれど、手術の日で麻酔で寝ていたから、私には記憶がない。そんなことを聞いたのか、子どもたちが卒業証書を作ってくれた。代表の子が、先生と一緒に家まで来てくれて、それを読んでプレゼントしてくれた。私にとって、最高のプレゼントになった。家を建て始めて10か月。やっと完成した時、彼の両親を九州から呼んだ。連絡を取って、切符を手配して、4泊家に泊まってもらった。自分で食事を作って、両親を招待することが夢やった。動けて、食事を作れることが嬉しかった。足の不自由な私と、目の不自由な彼と、お互い二人で一人、という感じやったけど、いい雰囲気になっているなあと思っていた。新築した家には、私の両親も一緒に住んだ。でも、彼にとっては、私の両親と一緒にいることが窮屈になってきていたみたいやった。嬉しいはずに新築やのに、彼も、私の両親も不満を抱えている。両方の不満を聞きながら、少しずつトラブルが出てきていた。
2007.10.19
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ハングルの手紙をくれる友人がいる。元同僚の彼女は、一昨年ぐらいから独学でハングルを勉強している。彼女は、パクヨンハのファンだ。HPに本人からのメッセージがあったりするので勉強を始めたそうだ。ソウルのコンサートに行ったりしているので、ますます勉強するのが楽しいらしい。去年、私がハングルを習っているのを知って手紙をくれるようになった。最初もらった時は、何が書いてあるかわからず焦った。ノートに写して、辞書で必死で調べてハングルの先生にわからないところを聞いた。そして、返事を書いていって、また先生に添削してもらう。くり返しているうちに、ちょっとずつ書いていることもわかるようになってきた。メールが多くなって、手紙やハガキを出すことが少なくなった。先日は、旅行で足の神社へ行ったからとお守りを送ってくれた友人がいたが、何かきっかけがないと手紙って書きにくい。メールのやりとりなら平気だが、手紙のやりとりってちょっと照れくさい。文通とかって子どもっぽく感じてしまうのかな。でも、手紙をもらうのって本当はとても嬉しいことだなあと思う。そんな気恥ずかしさをハングルの文字は隠してくれるのだろうか。ハングルの手紙だけは、何通も行き来している。
2007.10.18
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(9) 結婚私も結婚したことがある。その人とは、35歳の時、障害者の会でめぐりあった理学療法士の人で、目に障害があった。あきらめていたけど、好きな人が出来て、両親に花嫁姿を見せたかった。その人は熊本から出てきている人で、両親は反対やった。お兄さんたちの結婚式の時は、両親が色々していたのに、何も準備してくれず情けなかった。でも、自分たちのことやかっら、自分たちでしたらええねん。と私が押しきって、式場の準備も全部自分でやった。でも、衣装あわせの時だけ母親がついてきてくれた。私は、結婚できるのが嬉しくて、来てくれた人に、自分で作った花をわたそうと思って、そんな話をしていたので衣装は3分ぐらいで決めてしまった。でも、後で聞いたら、私が他のことをしている間に、母親が白無垢や色打ち掛けを決めていた。私はせんと言ったけど、母親がしたかったらしい。この少し前に、父が着物を1枚買ってくれた。私は、その着物をお色直しに着たかった。帯に、自分の作った花も付けたかった。結局、白無垢、色打ち掛け・父に買ってもらった着物、そしてドレスの4回着ることになった。着物の着付けも、友人たちが手伝ってくれた。その時の私は、左足に装具を付けて、杖で歩いていた。21才の時、歩けるようになって退院する少し前に、亜脱臼をしていた右足の股関節も骨切り術をしていた。けれど、H先生と再会して左の股関節に人工関節を入れてから、しばらくたって右足にも入れた方がいいだろうと言うことになり、結婚をする前に人工関節に入れ替えた。着物やから緊張した。みんなも「こけたらあかんで」と言ってくれた。36歳の6月、沢山の人に祝福されて私たちは結婚した。障害者の会の仲間、授産施設の仲間、スタッフも先生もみんな来てくれた。H先生と、M先生にダメもとで手紙を書いたら、「喜んで出席します」と言ってくれて嬉しかった。M先生は有名なお医者さんでいつも忙しく、1患者の結婚式に来る訳がないと言う人もいたけれど、一番にタクシーに乗って来てくれた。早く帰らんとあかんて言ってたけれど、一番最後のドレスを着た時までいてくれて、玄関へ送っていって一緒に写真を撮った。N医大の時にお世話になった看護師さんも、広島へ帰っていたけれど来てくれた。人がいっぱい来てくれて、部屋に入れないくらいだった。時間も2時間延長して、結局4時間披露宴をした。
2007.10.17
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昨日は、退院してから初めての通院日。月曜日は入院する人も多く、いつも駐車場が混む。玄関前の障害者専用駐車場は、いつものように長い列。待っていたら1時間ぐらいかかってしまうので、ちょっと遠目の第2駐車場へ回った。ここも障害者専用なのに、5分くらい歩かないといけない。一般駐車場はもう少し離れていて、そこも月曜日はいつも長い列だ。片方の松葉杖で歩けるのに、両方持って、リュックの中には右足の靴やなにかいろいろ入れているのでぱんぱんだ。靴といってもやっぱりクロックス。誕生日にもらったグレーは履きすぎて底がすり減ってきたので、娘がハワイで買ってきてくれた黒のクロックスをこのところ愛用。クロックスには黄色のちっちゃいお花がアクセサリーでついている。でも、これが左足用で日の目を見ない。荷物が多いので、先にSさんの病室に行くことにした。前日に焼いた、りんごケーキとなしケーキを持っていってあげた。 りんごケーキは、以前takatobaabaさんのところで教えてもらったものを、バターなしにして、砂糖をカロリー0のラカントにしている。今回、皮を剥いたなし(豊水)で作ってみたら、なかなか美味しい。カロリーも1切れ50kcalぐらいだと思う。Sさんたちの部屋のもう一人のおばあちゃんにも好評だった。Eさんには、ブログをプリントアウトして持っていったら、「すごいねえ。」と言って感激してくれて、私の方も、書き甲斐がある。Sさんには、カウンセリングの通信教育についてプリントアウトして持って行った。Eさんはすぐリハビリの時間だし、診察の時間も近いので、荷物だけ降ろして病室を後にした。食堂でモーニングセットを食べてから、レントゲンを撮り、外来のところへ行った。やっぱり混んでいて1時間半待って、やっと診察。骨はかなり出来ているけれど、用心しないといけないから装具を作るという。ギブスを早くはずさないと他の関節の動きは悪くなるし、前回のようにそのままにしておくと固定が遅れると言う反省もあるみたいで、やっぱりこの手術って研究途上で日々変化しているみたい。ギブスを取った足は赤黒くかぱかぱで、手術前にすねの毛剃りをしたのがつんつん生えてきたりして汚すぎて恥ずかしい。足の裏は、固くなってひび割れしてきている。看護師さんが、熱いタオルで拭いてくれたけれど、ごしごししたい気分。装具技師さんが、ラップを巻いて、石膏で固め型を取っていく。変形性足関節症は少ないと思っていたけれど、最近はとても多くなってきているという。装具技師さんは、厚底サンダルを履いていた年代の女性たちは、何度も捻挫をしている人が多いので、何年かしたら足関節の固定術をする人はもっと増えるだろうと言っていた。装具(サポーター)は来週出来るという。それまでの間、ギブスを半分に切った「シャーレー」に、包帯を巻いて過ごす。 結局、靴もいらず、松葉杖も片方で良かった。支払いをした後、再びSさんの部屋に戻った。Sさんの後ろに千羽鶴があって、Eさんが作ったのだろ言う。Eさんはリウマチも患っていて、手も不自由だが、アートフラワーをしているだけあって、とても丁寧に作られている。折り方がいつも私が作っているのとは違うが、雌鶴の折り方だそうだ。車いすはEさんのもの。 部屋には、お昼に入院したばかりの人もいて、話を聞きにくい。しばらくしてから、SさんとEさん、二人とも車いすに座らせてもらって、談話室で話の続きを聞いた。夕食の時間になって、自分もすごくお腹がしていることに気がついた。病院の近くで食事してから、また話を聞きに行こうと思ったけど、足も痛くなってきた。来週も病院に行くことだし、メールをしてそのまま帰ってきた。帰ってきてから、シャーレーをはずして、1か月半ぶりにお風呂の浴槽の中に浸かった。左足を何度もごしごしやって、皮が一枚むけた感じだった。
2007.10.16
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明日は、3週間ぶりに病院の診察日。ギブスを取るのかな?今度は痛みもなくちゃんと歩けるだろうなと思ってみたり、いやいや前もそう思っていたのにガクガクだったし・・・と思ってみたり。用心のために、一番かっちりしたサポーターと両松葉杖を持って行かねば。そうそう、それより左足用の靴を忘れないようにしないと。Eさんのお話は、まだ30代前半までしか聞けていない。明日、行って続きを聞くのを楽しみにしているが、全部聞けるだろうか。Eさんの退院する時期も近づいているようなので、ちょっと焦る。病院では、SさんとEさんと二人で携帯を使ってこのブログを見てくれていて、聞き取りを書いているのを楽しみにしてくれているようだ。私は、明日、今までの分をプリントアウトして持っていくつもりだ。 8.車の免許と展示会その後、お父さんが高血圧で倒れた。従兄弟に自動車教習所に頼んでもらい、すぐ車の免許を取りに行くことにした。教習所では、階段を上手く上がれなくて授業に遅れたりした。私は限定車で、他の人より早く教習時間が取れたりすると、教習所はえこひいきしていると言われたりした。でも、校長先生が「気にせんでええよ。」と一言言ってくださった。教習所には、和式のトイレしかなく、朝から晩までトイレを我慢しないといけなかった。だから朝から晩まで、飲まず食わずで一日を過ごした。ある日、校長先生が「ここから5分くらいのところの喫茶店に洋式トイレあるから、連れてってやるわ。」と言ってくれた。それから、校長先生か他の先生が1回連れて行ってくれることになり、おにぎり2個と自動販売機で飲み物を飲むことが出来るようになった。その頃から、周りの人たちが、かばんを持って階段を上ってくれたり、「ご飯食べたか?」と聞いてくれるようになった。最終試験の時、警察の人が、「別室を用意しましょうか?」と聞いた。でも、一緒に勉強していた主婦の人たちが、「そんなん、一人で受けたら緊張するで。一緒に試験受けよう。」と言ってくれた。結果発表の時は、自分の番号のランプがつくかなあとドキドキしていた。待っていると、私一人だけ名前を呼ばれて、(あかんかったんやろか、私一人だけ落ちたから呼ばれたんかな)と思った。行ったら、「原付免許のことが書いてないけど、裏で一回乗ってみますか?」と聞かれた。「原付は乗られへんからいいけど、どっちですか?」と聞いたら合格していた。嬉しくて嬉しくて泣けてきて、そのまま出ていったら、他に人たちが落ちたと思って心配したらしい。免許は1か月半で取れて、すごく嬉しかった。それで、病院の人や、授産所の人たちなどみんなに電話して知らせた。病院の先生が、「車の免許を今まで取られんですまなんだなあ。でも、短期間でよう頑張ったなあ。」と言ってくれた。その頃の私は、10年かけて習った通信教育でアートフラワーの師範免許が取れて、ブライダルブーケとか作らせてもらっていた。師範免許を取った時に、今までのみんなのふれあいのお礼に「心のフラワー展」と名付けて1回目の展示会をした。車の免許が取れてから、2回目の展示会をすることにした。母親も手芸をしていたので「二人展」と名付けて、作品も自分で運んだ。でも、私は何をするのも一人では出来ない。やったではなくて、やらせてもらってる。作品を作っている時、(ああ、あの人と出会った時の花やなあ)とか思い出すのが嬉しかった。2回目の展示会は、すごく沢山の人が来てくれた。新聞社の人もきて、自叙伝を書いてはどうかとも言われた。だけど、2回目の展示会の時は辛かった。父親の体調が悪くて、入院させるか展示会をするか迷ったけれど、お父さんが展示会をしてくれと言った。お父さんは、肝臓癌やった。
2007.10.14
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今日は、朝から市民病院へ。久しぶりに行ったら、いつもの先生が出張で、代理の先生が診察をされていた。手術の経過を報告して、もし月曜日にギブスをはずした後具合が悪かったら入院できないか聞いてみた。でも、市民病院も手術専門で、リハビリ施設はないから入院は難しいそうだ。リハビリ専門の病院を2箇所教えてくれて、希望する病院のHPをプリントアウトして持って行き、N医大に紹介状を書いてくれるように頼んだらいいと教えてくれた。帰ってきてから、今日は生協の日。ご近所の方たちが、また玄関の中まで荷物を運んでくださった。私は何も出来なくて、立って見ているだけだったけど、久しぶりにご近所さんと話が出来た。午後からは、大学の講座へ。Tさんは、受けたいテストが近づいているので欠席。「セクレタリー&ビジネスマナー」講座は秘書としての資質や適性・能力などの理論をプリントを使って学習。講師の先生は、国会議員の秘書を長年されていた方で、政界の話や時事問題にも詳しく、合間にそんな話もしてくれるのが面白い。先週は3人だった出席者が今日は4名。受講者は5人かな?今日は、今年アメリカで新しく発行された1ドルコイン(ジョージワシントン)(ジョン・アダムス)の肖像が描かれた2枚をくださった。今日はまだ足が大丈夫そうなので、英会話も受講することに。それまでの1時を、近くの喫茶店で本を読みながら過ごす。2か月ぶりの英会話は、個人発表の続き。ひとりは、自分の織物の趣味のことを話し、もう一人は自分の子どもの頃の思い出を黒板に絵をかきながら話した。その人の田舎は小さな村で、小学校の時は小さな分校で、夏休みは神社の部屋でみんなで過ごし、朝は体操をしスタンプを集め、昼は川で泳ぎ、夜はみんなで将棋をして過ごす。発表した人への質問から、その村の出身の有名人の話や歴史のことまで話が広がった。最後に先生が、簡単な文章でわかりやすい。小さい時のこと、その村のこと、歴史もわかって話が広がった。こんな風にコミュニケーションが出来るのが素晴らしい発表だと大絶賛した。講座が始まった5月頃は30人ぐらい受講生がいたが、各自発表するようになってから減ってきている。今日は15人ほどで、何年も通っているおなじみさんばかりという印象だった。おなじみさん同士は仲が良く、教室へ入ってくるたびに「こっちこっち」と呼び合っている。私は、Tさんもいないし入り口付近に座ったら、周りががらがらで、ちょっと落ちこぼれ気分。皆さん質問に盛り上がっているけど、出来ないよ。でも、発表した話の大体の内容や、先生が言ったことが、ちょっとわかったので、面白かったところで一緒に今日は笑えて嬉しかった。帰ってきたらもう6時半。ご飯を作って食べながら内藤と亀田の試合を見た。(普段ボクシング見る趣味ないのに)予想通り内藤が勝ったが、昨日亀田はあんなこと言ってどうするつもりだろう。本当にあの兄弟にちゃんと口の利き方を指導する人がいないんかなあ。その後、金八先生も続けて見た。久々にテレビをよく見てるなあ。先週、講座一つでるのにやっとで、横になってばかりだったけれど、今週は、昨日も孫の所に行ったりと活動的になってきた。今日もこんなに動き回っているのに、あまりしんどくなくなってきた。今日は、その合間に私のした足関節の固定手術のことをいろいろ調べているが、他の病院の固定手術と違い、本当に最先端で、出来るだけ可動域を残すように工夫されたもののようで、骨が繋がれば特にリハビリ病院へ行かなくてもいいのかなあと思えてきた。
2007.10.11
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3連休、横になってばかりという感じだ。両手を離して歩くのはずいぶん出来るようになってきて、ちょっと料理を作ったり、コロコロで床を掃除したりし始めている。でも、5分10分と立っていると、足の付け根が痛くなってきて、ちょっと動いては休み、ギブスの中で足がむくんできたらベッドに横になってしまう。痛みを感じないで歩きながら両手を使えることは、去年の10月に手術してから無かったことなので、今度は大丈夫だろうと思っているが、あと1週間でギブスを取るかもと思うと、だんだん不安になってきた。前回も、ギブスをはずすまでは、自分は順調で、手術をしたら楽に歩けて、職場に復帰できるんだと思っていた。もしかしたら、今度もギブスを取ったら、足がガクガクしているんじゃないだろうか。宮崎のYさんは、前回の手術の後、宮崎へ帰ってから2ヶ月間、地元の整形外科に入院していて、今回も2か月ぐらい入院すると言っていた。プールで出会った去年の暮れに足を骨折した人は、歩けるようになるまで3か月ぐらい入院していたそうで、私はみんなから退院が早すぎたんと違うの?と言われた。N医大は、手術専門でリハビリのための病院を紹介してくれないが、何もしなくて良いのかなあ。来週ギブスを取った後のことを考えて、どこか調子が悪かったら入院させてくれる病院を探しておこうか・・・
2007.10.08
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7.人工関節と足首固定手術 H先生は、N医大からO病院へ転勤していた。N医大を退院してから数年がたって、時々足が痛くなってコルセットかな?と思って、N医大にも来たけど、H先生がいなかった。M市の病院で何度かコルセットを造り直したけれど、いつも合わなかった。H先生と再会してみてもらっても、足の痛いのは、最初どこが原因かわかれへんかった。O病院に入院して、やっぱりコルセットが原因かなと、コルセットを作り替えて退院したけれど、それから6か月で限界やった。やっぱり手術しかない、H先生は、以前手術したN医大に行ってくれと言ったけど、私はH先生を信頼していた。H先生に手術してもらいたかった。それで、29才の時、O病院で股関節の再手術をすることになった。N医大の先生も応援に来てくれることになった。それまでの私は、立つか寝るかの生活しかなかった。私は、座れるようになりたかった。股関節手術は、5人中3人の先生が、今まで通りキャップケースという手術を勧めた。これは、骨切りをして、腱切りををして固定する手術。今までの固定をはずして、し直す手術。でも、これやったら座られへん。二人の先生が、セラミックの人工骨を入れる手術を勧めてくれた。セラミックの人工股関節は、寿命が短くて、若い人には向けへんから、他の先生は反対したけれど、H先生は押し切ってくれた。痛みを取って動けるようにしてやる、座れるようにしてやると言ってくれた。私は、足首の変形も進んでいた。長い間に足首がゆがんできて、足の底が床に着かず、体重を支えられなくなってきていた。股関節に人工関節を入れて、しばらくしてから、やっぱり足首の手術はN医大のT先生に診てもらった方がいいと言うことでN医大の診察を受けた。そしたら、T先生は入院しているO病院に行ってあげると言ってくれた。そして、T先生が0病院に来てくれて、足首の固定手術をしてくれた。この二つの手術をしてから、私は座れる生活が出来るようになった。H先生が押し切ってくれて嬉しかった。動けたし、座れたし・・
2007.10.07
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6.退院後の生活と再会退院してから、身体障害者の会に入らないかと誘いがあって、誘われるままに入っていったら、いろいろなつどいがあった。そんな中からボランティアの人や他の障害者の人などいろいろな繋がりが出来た。そして退院してしばらくしてから、私は授産施設へ行きだした。8時半から4時まで、ミシンの作業やゴムの部品の仕事をした。13歳から学校へ行けなかったので、そこでいろんな人たちと出会えて嬉しかった。「自分より上見てもきりがない、下見てもきりがない」と思った。授産所で脳性麻痺の子と、両手足が不自由な子と仲良くなって、いつも3人で行動した。トイレにも3人で入って、お互いに助け合う。私は、手で拭いたり、下着を下げたりしてあげる。ひとりは、私がトイレをする時、足を持ってくれる。そしてもう一人は、身体を支えてくれる。授産所で、私にも出来ることがあることを知ったし助け合いを学んだ。台所でいろんなものを作ったり、いつも楽しかった。学校へは行かれへんかったけれど、N医大に移った頃から、通信教育でアートフラワーを習いだした。寝たきりだったので4か月で終わる初級コースが半年以上かかったり、すごく時間がかかったけれど、母親がいつも作った課題作品を送ってくれて、初級から中級、そして上級、師範コースと10年以上かかって看板をとるまで習わしてくれた。退院した頃はまだ途中やったけれど、看板をとってからブライダルブーケを頼まれたら作らしてもらってる。授産施設の人の紹介で、教室で教えたこともあった。精神科の文化クラブで1年間教えさせてもらったし、老人ホームや学校へ教えに行ったこともある。自分から何もしてないのに、人から人へ伝えてくれる。ふれあいってすごいなと思った。退院して7年ぐらいたった頃、授産所のリーダーが結婚することになった。さあ結婚という時に、リーダーの友だちが北海道から来るというので、その送迎係の中に私も選ばれて、ホテルに行った。そのホテルに、H先生にそっくりな人を見つけて、顔を見たら、向こうも私を見ている。7年ぶりやった。ドイツからお客さんが来ていて、接待やと言って部屋の番号を教えてくれたけど、他の人たちも一緒やから寄れへんかったら、自宅へ電話をくれていた。母親が、私の足の調子が悪いと言ったら、一度来るようにと病院を教えてくれた。
2007.10.07
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10月8日から公開された「HERO」、水曜日にやっと娘と見てくることが出来た。テレビでは大ヒットと言ってるし、水曜日のレディスデーだし、初めて片松葉杖での外出で、人が多かったら危ないなあと21:20からの最終にして、車で20分ほどのシネコンへ行ってみたら、客席はがら~ん。2箇所のスクリーンでしていて、もう一つが1時間ほど前から始まったのもあるだろうけど、私たちと直前に入ってきた二人連れだけ。おかげで、お行儀が悪いけど、前の座席にギブスの足をずっと乗っけて見ることが出来た。でも、こんな状態だったら採算が合わないだろうからすぐ上映回数を減らすだろうなあ。とりあえず、見に行けて良かったよ。 もう、公開されてからかなり立つから良いかな?<あらすじ>6年前に転勤後、石垣島・北海道・山口を経て、再び東京地検城西支部に久利生公平(木村拓哉)は戻ってきた。再び雨宮(松たか子)は事務官として久利生につく。ある日、久利生は、同僚の芝山検事(阿部寛)が起訴した傷害致死事件の裁判を任される。逮捕された容疑者は、芝山の前では犯行を認めたのですぐ決着が付くと思っていた。ところが公判が始まって、容疑者は犯行を全面否定。小さな傷害事件なのに、付いた弁護士は無罪獲得日本一を誇る蒲生(松本幸四郎)、推定無罪と確実な証拠を求められる。証拠を探す久利生たちを監視する特捜を問いつめると、特捜がずっと捜査している大物代議士花岡(タモリ)の収賄疑惑のアリバイの証人が久利生が担当している事件の容疑者だった。花岡は、久利生が山口で起訴した殺人事件にも関係していた。その時の殺人犯(中井貴一)は獄中で病に伏せっていた。事件が起こった時、容疑者が乗っていた車を探しに、久利生と雨宮は韓国、釜山へ。東京地検は、エリート検事カン・ミンウ(イ・ビョンホン)に協力を要請する。6年前の連続ドラマを見ていた人には、城西支部の面々の軽快なやりとりが久々に楽しめ、職場の仲間たちのダンスシーンや私服姿なども楽しめる。木村君演じる久利生は、去年のドラマの時に比べると、ずっと落ち着いた印象で、前回鼻についたキムタクっぽさも、大画面で見るとあまり気にならなく、やっぱりカッコイイ。裁判の展開も、蒲生とのやりとりには迫力があり、すごく面白かった。出演人も豪華で、釜山でのロケなど、やっぱり映画でしかできないような作品だ。イ・ビョンホンは友情出演と言うことで登場場面は少ないが、部下とのやりとりの電話が何回か流れる。イ・ビョンホンの声ってやっぱり良い声だ。エリート検事ってぴったりのキャスティングで、ペ・ヨンジュンだと似合わないなぁ。キャスティングで言えば、タモリさんの代議士はあまり大物には見えないなあ。秘書の石橋蓮司の方が大物っぽく見える。西田俊行や津川雅彦の方が・・・って勝手なことを言っては失礼か。久利生と雨宮の微妙な空気間が好き。素の木村君と松さんの微妙な仲の良さを感じさせてくれる。結婚する前まで木村ファンだった人は、この微妙さが好きだろうなあと思ってしまう。木村君は、韓国でファンミーティングをしたそうで、日本映画としては初めて大規模な公開になるとか。韓国での木村君の発言「政治に関係なく国と国とが繋がるきっかけになれば・・」てなことをBYJも言ってたなあ、とまた共通点を見つけて、ひとり喜んでいる。
2007.10.06
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5.やっと歩けた1月の末、車でN医大に向かったが、途中で熱が出てきて衰弱が激しくなり、運転手が近所の民家で水をもらってくれたりした。病院に着いてからも、すぐには手術が出来なくて、痛み止めを飲んで身体が回復するのを待った。結局体力が回復するのに1年がかかった。1年後、手術が始まった。一度固定手術したところをはずし、3回手術したが、改善しなかった。私は足が痛いと訴えたが、精神的なものからきているのではないかと言われた。4回目の時、主治医がH先生に変わった。私は、もうすぐ20歳という年になっていた。H先生は、今までの先生と全く違った。それまでは、いつも親を介してで私には説明がなかったけれど、H先生は、私を、一人の人として詳しく説明してくれた。私は、「あぁ、この先生は違う。うそついてへん。」と信頼できた。そして、すんなり「手術を受けます。」と4回目の手術を承諾した。手術後いい兆しがでてきた。リハビリが出来るようになってくると、H先生は装具技師さんと相談して、左足の付け根から足先までの長下肢装具を考えてくれた。なんにんもリハビリの先生も替わったが、やがてそれをはめて立てるようになって、平行棒で歩けるようになってきた。21歳のある日、平行棒で練習して気がついたら、周りに誰もいなくなった。平行棒を離して、周りを探したら、H先生が今までの先生を呼んでいた。私が、9年ぶりに歩いたということをみんなに知らせたかったようだ。私も嬉しくて、お父さんに電話した。H先生の奥さんから、後で、あの晩先生も家で泣いたと聞いた。もう、これやったら退院できるかなあと、22歳の6月22日、退院が決まった。H先生と出会うまでは、誰も信用できれへんかったけれど、もう私は誰も疑えへんかった。みんなが、私のために頑張ってくれているんやと思うと嬉しかった。退院の日、外へ出たら、今までの先生がみんな見送りに来てくれた。外へ出たら、雨が降ってきて、嵐のようになってきたけれど、私には帰りに行きたいところがあった。立てたこと、歩けたことの嬉しさに、買い物がしたかった。スーパーに寄ってもらって、夕ご飯の支度の買い物をするのが夢やった。9年間、外の店に行ったことがなかったので、見るもの見るものみんな新鮮で、野菜、お肉、お魚、麺類、「そんなに買ってどうするの」と言われるくらい衝動買いをした。お皿に、いろいろなものを盛りつけて、ランチ風にしたかった。私が作って出したら、兄たちから「わぁ、Aランチや」と言われて嬉しかった。私は、作った後は体力が無く、少し食べて横になった。みんなのランチを作って、家族みんなで食べること、それが私の夢やったからすごく幸せな気持ちで眠ることが出来た。
2007.10.05
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4.勝浦温泉病院へ6回目の手術が終わってから、私の身体はだんだん曲がっていった。左足は付け根から外へ外転し、上半身は痛みのために左に傾いていった。寝たきりで上を向いているのに、身体がくの字に曲がって固くなってしまっていた。ある日、13歳の1回目の手術の時立ち会った、N医大の先生が来て、「何で、こんなことになったんや」と言った。すると病院の先生が、脇を抱えて話があると言って連れて行き、後で帰ってきた時、「まあ、しょうないなあ。いずれこうなる体質やった。」と言った。いつまでも治らない私を、N医大に移そうということだったが、衰弱が激しく、しばらく勝浦の温泉病院に行って、体力を改善せなあかんという話になった。私は情けなくなって、「私を離れ小島にやるんやろ?私は、先生のモルモット?」と言ってしまった。18歳の11月、勝浦の温泉病院に入院した。身体が曲がっているから温泉につかってまっすぐにならないかということやった。この病院では、機械を使って寝たままお風呂に長い時間入る。午後からは、ベルトで身体を固定されて、リハビリをする。結局、この病院は私にとって拷問に近かった。ただ、この病院で良かったのはK大学病院から来た先生に出会えたこと。私の今までのレントゲンを見て、3枚が紛失しているという。「何かあったんですか?」と聞かれた。私にも知恵が付いてきて、やっぱりミスやったの?と思った。病院の療養生活は辛かったけれど、勝浦の地域の人たちはありがたかった。お正月を病院で過ごすことになったら、おせち料理を作って持ってきてくれた。いつもは厳しいリハビリの先生も、携帯のテレビを持ってきてくれて嬉しかった。1月には私の体力ももう限界で、三重の先生が覗きに来た時、もう帰りたいと言った。その二日後、車で帰ることになった。排出の機能がわからなくなっていたので、一度三重の病院に入院してから、N医大に移ろうということになった。
2007.10.05
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3.度重なる手術結局、9月からもそのまま入院をしていた。10月に、初めて医長さんが動いてきた。「すじがとんだから、元に戻そう」と手術の承諾書を持ってきた。上手く歩けないし、仕方がないからサインをした。12月になって、ギブスをはずしたら、また足が外を向いた。2か月たって、もう一度、そこを手術させてくれ、と言ってきた。手術をして、立つ練習をするけれど立てない。そしたら、また手術の承諾書を持ってくる。結局5回の手術をしたけれど、立てなかった。先生は、「まれに何をやてもうまくいかない患者がいる。この子は、遅かれ早かれこういうことが起こる体質やった。」と言った。あれから3年手術続きでずっとベッドで過ごしていたので、46kgあった体重は30kgになっていた。2か月たって、もう一度、そこを手術させてくれ、と言ってきた。16歳の冬、私は車いすで病院の中を逃げた。もう手術はしたくない、みんなが嘘をついているような気がした。でも逃げられない。ベッドへ戻ると、枕の下に父親からの手紙があった。「これ以上、親としてお前に手術しろとはよう言わん。お前が決めてくれ。でも、手術しか前にはすすめへん。」死ぬことを考えた。食べんかったら死ねるかもしれない。そう思って一日何も食べなかった。でも、次の日お母さんがベッドの横にカステラを置いてくれた。死にたいけれど、カステラが好きやから一口食べた。病院の食事は全く食べへんかった。また、カステラを置いてくれるから一口食べた。そんな日が2週間ぐらい続いた。ある日、昔から知っているお寺のお坊さんが私のところにやってきて、「しんどいなあ、しんどかったら何もせんでもいい。朝起きたら、手合わして、『なむあみだぶつ』と唱えたらいい。」と話してくれた。それをきいている間に、だんだん素直な気持ちになってくるように思った。6回目の手術を受けることになった。でも、うまくいかない。私は全くの寝たきり状態になってしまい、痛みのために身体もだんだんくの字に曲がってくるようになってしまった。
2007.10.05
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大学の後期の授業が始まった。前回「ビジネス文書」の講座を受講したが、後期は「セクレタリー&ビジネスマナー講座」。講座の内容は、「社会人として、また職業人として求められる接遇・言葉遣い・立ち居振る舞い・慶弔など、ビジネスマナー全般について確認していきます」という秘書養成講座。学校という限られた社会の中で長年生きてきた私には、もしかしたら世間の常識は身に付いていないかも・・・ということで、またまた受講することにした。入院中、案内が届いて、前回一緒に参加したTさんが申し込んでくれていた。今日はその1回目。事前知識チェックと言うことで、秘書技能検定試験2級の問題をした。職務知識などで、状況に応じて書かれた文章の中で不適当と思われるものを選んだりするのだが、・預かった印鑑は、押して欲しいと頼まれたもの以外押さない。・メールアドレスなどは、どんな場合も勝手に教えない。・失敗を人のせいにしない。・相手に失礼の無いように。ということを心がけながら、尊敬語や謙譲語を使って受け答えをするのだが、問題が紛らわしくて、難しかった。10月中は理論を中心に、11月は実務を中心に、今回も計8回で5000円。企業に入ったら、新人研修として行われるようなことだろうけれど、私には新鮮だ。本当なら、終わった後1時間休憩をはさんで、英会話の方も今日から後期の講座が開始で参加する予定でいたけれど、2時間の講義を受けるだけで精一杯。腰は痛いし、ギブスを付けた足も無理をしない方がいいみたいで、英会話の方は欠席して帰ってきた。明日は、1か月半ぶりにハングルにも行く予定。ぼちぼち行くことにしよう。退院のお祝いにお花を頂きました。
2007.10.04
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入院中処方されたメジコンが全くきかず、あまりの咳のひどさにどうしようもなくなって、一昨日運転禁止をやぶって、近所のかかりつけのお医者さんのところへ行ってきた。入院中咳が止まっていたのは、麻酔の影響だろうと言う。咳が考えられるのは、風邪以外だと、アレルギー、咳喘息、逆流性食道炎などが考えられるという。とりあえず咳にきくというオメプラールという胃薬と咳止めシロップを出してくれた。咳止めシロップは、軽く麻薬成分を含んでいるそうで、長期には服用できないと言う。一昨日はその薬を飲んで、ひじかた花梨さんのアドバイス通り胸にカイロを当てて、takatobaabaさんのアドバイス通りに、喉から肩を指圧して寝た。結果、夜中に起きることなく爆睡。昨日はダンナが6時前に出勤しないといけなかったが、目覚ましでダンナを起こすには起こしたが、自分は起きられない。いつもの目覚ましが7時になったが、「ああもう出かけたのか」と思ったきりでまた爆睡。結局目が覚めたのは9時を回っていた。でも一日中頭がもやがかかったように重かった。お昼前に母親がきてくれて、ご飯を作ってくれた。午後から、孫たちがきて、相手をしたが、やっぱりしんどく途中から下の孫と一緒にベッドに横になっていた。薬の影響かなと思いながら早く寝た。今日も朝から、ぼ~としていたが、咳の方はかなりまし。いつものお医者さんのお薬が一番効いたよ。こんなことなら早く行っとけば良かった。咳には悩まされたけれど、足の方はすごく調子がいい。どんどん足に力が入るようになってきて、ちょっとぐらいなら杖なしで動ける。杖を使わずに動けるのはすごく楽で、ギブスを付けていることもあって痛みもない。寝ている状態から、痛みを感じないで杖なしで歩けるのは前回の手術以来無かったこと。前回、ギブスをはずしたのは片方松葉杖の状態でだった。ギブスをはずした足首はあまりにもガクガクで、両松葉杖に戻ってしまった。両方松葉杖から片方に、そこからステッキの杖にと変わっていったけれど、ずっと痛みを我慢しながらだった。ギブスをはずすのが早すぎたんだろうな。病院から退院した時は、両方松葉杖の状態だったけれど、松葉杖を使っていては何も出来なかったから、パソコンの椅子に座って家事をした。すごく便利と思ったけれど、足首は歩いて鍛えられていくみたいだ。前回術後2週間で退院したけれど、今回は術後3週間。退院も早すぎたんだろう。2回手術したからこそわかる反省点も多い。って、普通2回は手術しないだろうからお医者さんが指導してくれないとねえ。
2007.10.03
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