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五十嵐きよみさん主宰の「題詠マラソン」には、2003年から参加していて今年が5年目。Upした題詠歌だけでももう446首になっているから、題詠に馴れていないというわけではない。でも、どうしたわけか、今回は「落葉の歌を作ろう」と思ってもそこに行くまでに他のことに気が移ってしまって、アイディアが浮かばない。(これも、齢のせいにしよう。他人にそういわれるとショックだろうけれども、自分で言うにはなかなか便利な言い訳けだ!)いざとなれば、バンクーバー歌会の方は「落葉、または自由」の「または」の方にすればよいのだから無理をすることはないのだけれども、少なくともこういうときに落葉の歌を読むと記憶に残るだろうし、勉強にもなるだろうと思い、宮柊二の落葉の歌を探した。落葉掃く箒の音は妻の母あした露けくなりし芝の上(宮柊二「藤棚の下の小室」)朝、まだ露が乾かない芝の上の落葉を掃く箒の音・・。作者は早く起きて室内でお仕事をされているか、まだ床の中にいて、「あれはきっとおかあさんだなあ」と思いながら箒の音を聞いていられるのか・・・。さわやかな晩秋の朝の空気が歌の中に漂っているような気がする。そういえば、バンクーバーでは、落葉を集めるのはもっぱら熊手で、箒の音はあまり聞かないが、昨年の11月の帰国の際、染井墓地に行ったら、故人と話をしている間中、霜柱の立った土の上の落葉を竹箒で掃いている音が聞えていて、「ああ、日本だなあ」と思ったのを思い出した。さらにそういえば、夫の実家に泊まったとき、朝はやく、庭で竹箒のを掃く音に目が覚め、「ああ、いいものだなあ」と思ったこともあった。今考えると、ヨメである私は、一家の主である宮先生とは立場が違うのだから、そんなときにはちゃんとおきて行って、一緒に庭掃除でもすればよかったのに、気がきかなかったなあ。この歌から触発されて、2-3首はできるかもしれないという気持ちになった。ヨシヨシ。落葉する昼の庭より橙の点(とも)るおのが書斎を暫く眺む(宮柊二「忘瓦帝のうた」)「書斎から庭を見る」のと逆の視線で「庭から書斎を見た」ら何が見えたのだろう。「暫く眺む」の中に、何か感慨があったことが察せられる。昼でも書斎に明りをつけるような、落葉の季節の光の弱さ。その中でたくさんのお仕事をこなされた宮先生の、ほんのちょっとの休憩時間。そういえば・・・以前、落葉の季節に蘆花恒春園に行ったら、蘆花がたくさんの文章を書いたという書斎に、昼なのにあかりが点っていたのを見て、こんなくらい部屋でさぞ目に悪かっただろうと思ったり、人が思索をするにはこの程度暗いのが適当であろうとか思ったりしたことがあった。さらにそういえば、この数年、落葉の季節には日本にいることも多い。昼日中木枯吹けば庭土を埋(うづ)めてゐたる落葉ぞ騒ぐ(宮柊二「緑金の森」)この頃の宮先生は、ご病床にあることが多かったから、歌材にも室内から庭を眺めての感懐が多い。そのままの情景でありながら、そこから敷衍して、読者はそれぞれの心の中にあるものの象徴として読むこともできると思った。たとえば、私の場合、「アメリカの低所得者向け住宅のローンの問題で、ニューヨークの株価が急落すると、あちこちの株式市場は大騒ぎ。そういえば、投資の仕事をしているある友人は、その関連で急遽、上海に出張している。」ことなどを思い出した。このあたりからは、「落葉」の題詠でない歌ができそう。ちなみに、この歌とならんで、「緑金の森」には、落葉とは関係ないけれども除夜の鐘空わたりきぬ涙して六十六歳を送らむとするという歌があり、66歳の年末に詠まれた作品と察せられる。しかも、「除夜の鐘で送る」のだから、この66歳は、満年齢ではなく数え齢である場合も想定され、現在66歳の私としては、今の年齢からすでにご病気がちだった先生と思うと、感慨新ただ。落葉する庭の木群は降る雨に濡れつつ寒し年暮(ねんぼ)近づく(宮柊二「緑金の森」)葉を落としていく庭の木の寒さ、寂しさは、家の中から見ている作者の感情の投影でもあろう。「濡れつつ寒し」は、木群のこととはいえ、みじめだ。ここで覚えたのは、「年暮」を「ねんぼ」と読ませることができるということ。考えてみれば、「年始」はだれでも「ねんし」と読むのだから、「ねんぼ」に不思議はない。これを覚えておくと、字数少なく年末のことを言えるので、この冬には早速便利かもしれない。12月末になると「落葉する木」も寒いが、落とされて雨に濡れている落葉も冷たい。カナダだとこの頃の落葉は凍っていて、熊手を持つ手も、それをゴミ袋に集める手も手袋をはめていても冷たさひとしおで、一度に長くこの作業は続けられない。日は短くて、午後4時になるともう暗くなりはじめるし、この時期まで持ち越すと落葉掃除は少々みじめ。こうなる前に片付けてしまいたいのが本音だ。
August 31, 2007
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さみしさは告ぐべくもなく北風の運びし落葉いちまい拾ふ(大西邦之 コスモス5月号より)8月号のこすもす「この一首」の中で、布浦みづほさんがこの一首を引用して寂しさの具体は表現されていないが、北風の運んだ一枚の落ち葉を拾いしみじみと感じている様子が心を打つと評していられる。その通りだし、その上に、私は第五句の「いちまい」のひらがな表記も効果的だと思う。5月号を読んだときに、どうして見逃していたのかわからないけれども。ところで・・・「今頃5月号の歌を鑑賞して感心しているのも時期はずれ」と思われるかもしれないが、この数日「落葉」を歌った作品があると、すぐ目に入ってくる。というのも、実は、9月10日提出、10月バンクーバー歌会用の詠草は、題詠で「落葉」。互評をする10月の第3金曜日にはちょうどよい季節になるのだろうが、作るのは私の場合、8月末から9月13日までの間ということになるから、ちょっとむずかしい。(逆に、歌を作る季節を尊重すると、若葉の5月に落葉の歌が雑誌に載ることになるし、うまくいかないものだ。)会員の中には、11月に1年分の詠題が発表されると、それを全部頭において、自分の都合のよいときに詠んでいくという人もいるので、そういう人はちゃんと11月あたりに落葉を見ながら落葉の歌を詠まれたと思うが、私は最近「ぎりぎり」派になって、勝手に問題を難しくしている。困ったものだ。(手順が悪くなったのは年齢のせいにしておこう。)一流歌人の方々は、短歌総合雑誌の新年号に載せる新春詠を秋のうちに詠まれるのだとうかがっているし、しかたがないから、ここは私も、ちょっと一流歌人の心意気で、心の季節を進ませて落葉の歌を詠んでいい気分になることとしよう。ああ、落葉、おちば・・・ オチバッ!
August 30, 2007
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角筈が西新宿とかはりたる頃より急に街変貌す(村野次郎)今朝、「奥村晃作短歌ワールド」で読んだばかりの一首。私に新宿が親しいものになったのは、高校に入って以来のことだけれども、新宿は本当に変わった。何時からとは具体的に考えてみたことはなかったが、「角筈が西新宿とかはりたる頃より急に」といわれてみれば、まさにその頃が大きな曲がり角だったのかもしれない。京王デパートも、小田急デパートも、京王プラザホテルも、住友の三角ビルもそろったのはあの頃だったような気がする。そのあと、どんどん新しいものができたし、いまや私にとっての新宿はヨドバシカメラだったりして。この春も、西新宿を都庁の方向に歩いていたら陸橋に「この付近は昔は角筈二丁目であった」というような説明が書いてあり、感動したばかりだ。今だって、「角筈」という地名を、「つのはず」とコンピュータに打ち込んだのだが、「角筈」は既定の変換候補に入っていないところをみてびっくり。いかにこの地名が忘れ去られようとしているかがよくわかる。「角筈」の頃の新宿西口は、浄水場と工学院と精華学園と、あとは、闇市のなごりのXXX横丁と、「大人の世界」があるだけで、とても今日の西新宿のようは発展は想像できなかった。大学生の頃、新宿駅の地下通路を歩いていたら、先輩にばったり出会って「西口にデパートを作る計画があり、その採算性の調査を担当している」という近況を聞かされたときも、まだ「えーっ?西口に~っ? わざわざ買い物に・・・・ねえ・・・」なんて、生意気なことを言ったものだ。(最近、私は京王線を使うせいもあるけれども、「新宿に行く」というと、だいたい西口方面になっているのだから、先見の明のなさが思い知らされる。)当時は新入社員だったあの先輩は、もう70歳くらいになられていると思うが、「今の西新宿に変わる第一歩に、おじいちゃんはおおいに寄与しているんだよ」などと、お孫さんに威張っていらっしゃるのかもしれない。(でも、1950年代の終わりの頃、角筈二丁目の不動産さんの二階に下宿していた方と、昨年の暮れに西新宿を歩いていたら、ヨドバシカメラのすぐ裏側に、取り残されたような不動産やさんがまだあり、「あ、たしかに此処が下宿していた家だ!そうに違いない!覚えがあるもの」と言っていらしたから、変わっていないところが点在はしているらしい。)
August 29, 2007
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満月がとても美しく、宵の口からうっとりと見ていたのだけれども、かと言って歌もできない。満月はあまりに完璧すぎるのかもしれないし、見ていると怖くなってしまうせいかもしれない。英語でいうLUNATICの意味が身にしみる。「何かを見て歌を詠みたいけれども、詠めないという時には、対象をよく見るために絵を描いてみるとよい。描いているうちに観察もできるし、感慨も生れてくる」と、鈴木英夫先生がよくおっしゃっていたのを思い出し、とにかく絵を描いてみることにした。で、短歌が浮かんだかというと・・・・手を動かしていると物を考えるということもあり、断片がいくつも浮かばなかったろいうことはない・・・ので、メモはたくさん残った・・・けれども、しかしまあ、このたびの私の場合は、朝早くから何かとあったせいもあり、浮かんだ断片を短歌にする体力もないうちに、居眠り→お休みなさい→ZZZとなってしまい、テレビで野球を見ていた主人よりも早くから眠ってしまうという、きわめて健康的な一日の終わりとなってしまったのである。ま、この年齢になれば、よい歌ができなくても健康の方がよいかな・・・というわけで、歌はこの絵を見て思い出しながら、後ほど考えることにイタシマス。
August 28, 2007
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夏の夜の空のみどりにけぶりつつはろばろしもよ月ひとつ渡る(窪田空穂)明日が満月だそうで、今日は橙色の大きな丸い月が、まだ暮れきらない灰色がかった薄い青色の中空に出ている。うちのベランダ(11階)から見ると、月の右下には、一年中雪を被っているアメリカ、ワシントン州のマウントベーカーが、月に照らされているのか、太陽の残照に照らされているのか、ぼーっと少しピンクがかった白い姿を空に浮かばせている。月も山も堂々としてゆるぎない姿だ。中秋の名月は次回らしいが、晩夏の満月も十分に神秘的だ。誰も食べてくれる人はいないけれども、明日の満月にはお団子を作ろうかな?蝕過ぐといまその端の金片に光現(い)でつつ月遠きなり(宮柊二)日本では、今夕(ということは、カナダ時間だと明日の早朝)は、お天気がよければ皆既月食が見られるのだそうだが、カナダでも、今夜遅くには、部分蝕が見られるそうだ。うちのベランダは東向きなので、夜遅くなるともう此処からは月は見えない。さて、どこから見たものか・・・・。
August 27, 2007
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ちょっと目を離した隙に三日月はストンと落ちぬ山の裏手に(山野いぶき*) じっと見ているとそうでもないのだけれども、ちょっと目を離すと「ストン」と落ちて見えなくなってしまう。山の上の、三日月が見えなくなった空が寂しい。ほめられて素直によろこぶ六歳児の描く線太く強くのびやか(北岡道子*) 「褒めて育てる」とか「褒めて教える」とか言うけれども、だんだん大人になると褒められたことを素直に喜べなくなり、「褒めると伸びると思って、一生懸命褒めてくださっているな」とか思う。でも、素直に喜んでいるうちは大丈夫。太く強く伸びやかな線を描いて、楽しい気持ちでよい絵を描いていくようになるのだろう。子供はみんな天才!(・・・で、二十歳すぎればただの人)ひと呼吸おけよと夫に諭されて開く窓より桜舞ひ込む(天谷淑子)熱くなっている妻に「ひと呼吸おいてごらん」と言う夫。心を落ち着けて窓をあければ、桜が舞い込んでくるような季節。そんなにむきになることはなかったではないか・・・。よいご夫婦だと思った。体力の落ちたる証ペットボトルの栓さへ取れずジュースを飲めぬ(藤沢 孝)実は私も、飛行機の中で配られた水のペットボトルが開けられなくて、近くの席に団体旅行の男子高校生に「開けていただけますか?」とお願いしたことがある。幸い彼はとても気持ちよく「ハイッ」と体育会系の返事をして、さっと開けてくれたけれども、そばに誰もいなかったら、不便であると同時に情けない。私も、だんだんにそういう場面が増えてくるのかなあ・・。(その後、ペットボトルを難なくあけられる小道具をバンクーバーのダイソーで見つけて早速買い、重宝している。藤沢さんの住所がわかったら送ってあげるのに。)少しずつ狂いて時を刻みおり透析室のあまたの時計(佐々木珠実*)時計が複数あるときに、すべてが同じときを刻んでいるようにしておくのは意外にむずかしい。時計屋さんの店先などでも、幾つもの時計が同じ時刻を示していることはありそうで、なかなかないものだ。普段はそんなに気になることでもないけれども、透析を受けるには、かなりの時間をじっとしているのだろうから、たくさんある時計にも目がいくことになる。時計の状態を述べながら、作者が透析を受けているときの手持ち無沙汰な状態を表現していて巧みだと思う。前に母うしろには父白鳥の雛七羽縦に水滑りゆく(小島順也) 白鳥は地上にいるときは、多少、不恰好・不器用な歩き方をするけれども、水に入ったとたんに滑らかに美しい動きになる。結句の「水すべりゆく」からその優雅な様子が思い浮かび、父母のまんなかを泳いでいく七羽の雛の一生懸命な動きも想像できる。白鳥が七羽の雛を一度に孵すのは、なかなか見られないので、ぜひ歌にして残しておかなくては。(白鳥の雌雄は、離れてみていたのでは区別がつかないのではないだろうか?)力ある限りは動くことにして七十一歳遠慮なく生く(大野義泰)「力ある限りは働くことにして」が頼もしいし、「遠慮なく生く」が面白い。そうですとも、誰に遠慮がいるものですか!Who cares?広巾の直線裁ちの上着着てメキシコ人はのびやかならん(芦原三子)広巾で直線裁ちの上着を着ているのをみて、「メキシコ人はのびやかならん」と詠われた作者の感性がすばらしい。、たしかに、広巾・直線裁ちの上着は原始的な印象はあるけれども、体に拘束がなくて伸びやかな気持ちになると思う。暑いときなど、とても楽なのではないだろうか。和服も考えてみると直線裁ちだけれども、紐類のおかげで、下手に着ると拘束だらけになりそう。炊きたての豆ご飯食む単純な喜びはいつもわたしを救ふ(千田美智子)豆ご飯をたいてお釜の蓋を取る瞬間の香りが、わたしは好きだ。もちろん食べるのも喜びであるけれども。そして第三句からの展開が、ユニークで楽しい。読者としても、なんだかそういうことで救われるような気持ちになるから不思議だ。 擦れ違ふ新幹線の風圧に一瞬逃げし意言葉戻らず(重枝敏夫)新幹線のすれ違うときの風圧には、ちょっと怯む。「ブワーッ」と音ではないよな音がして、窓ガラスがへこむような感じがある。そんなときに話をしていたら、やはりそこで一度途切れることになるのだろうが・・途切れたところで話を再開するのは、まあ、ちょっと難しい。そういうことをすかさず詠えるのは、いつも歌心をもってくらしている作者に違いないと思う。八十五歳もう暫くは生きさうと友に話せば友もさう言ふ(岩永美葉)楽観的なところが、読者をにこりとさせてくれる。高齢になって寂しいことのひとつに、同年輩の友人が減るということがあると思うので、同じように楽しいお友達がいることは貴重だ。七十年働きくれしこのわが手もみぢのやうな頃もありしか(徳永宏子)もみぢのような頃の手のことは、作者は自分では記憶にない。でも、そうなんだろうなあと思う気持ちが結句の「か」になった。私も七十までそんなに長い年月があるわけではないけれども、XX歳の自分の手と三歳の孫の手を見比べたときなど、こういう感慨を持つ。
August 26, 2007
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NHK俳句の録画を見た。講師は正木ゆうこ氏。最後の方で、例をあげての「断定をするかしないか」というお話があった。たとえば我が為に生まれし妻や銀河濃しの場合、我が為に生まれし妻か銀河濃しとして、断定しないほうが、優しさがでる。しかし、天の川氷河と対峙する如くの場合、天の川氷河と対峙したりけりと断定してみると、恰幅がよく落ち着いた一句になる。で、結論は「どちらにしたらよいかの見分け方は、たくさん作って体験してみるとわかるようになるものです。」なるほど、なるほど。短歌でもまったく同じなのだろうと思うし、現に、私が長いこと指導を受けた鈴木英夫先生も「まず作ってみること。作っているうちに道が開けます」と、たびたび言われた。一輪車に乗ることと同じで、「こつ」は教えられるものではないけれども、あるときふっと体得できるものであるとも。所詮、「王道はない」ということだろうけれども、わざわざ講座で取り上げてくださるものだから、もしかして、なにか王道があるのではないだろうかと、わずかな望みを抱いてしまった自分のサモシサが情けない。「か」の疑問形で詠うとわざとらしい感じがするので、思い切って断定した方がよいという言葉もよくきくが、これも結局はcase by case ということになるのだろう。
August 25, 2007
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炎天に樹樹押しのぼるごとくなり(飯田龍太)先月ダラスに行ったら、どこに行っても百日紅が咲いていた。色も赤の濃淡ばかりでなく白・黄色・薄紫と文字通り多彩で、植物園ではさるすべりのトンネルまであった。そしてその花をつけた枝は、空に向ってどんどん伸びているように見え、華やかな上にたくましい。事実、「冬にさしかかる頃に、ひさしの高さまでで枝を切っておいた」と息子が言う庭の百日紅の枝も、7月後半にはすでに、屋根の高さを優に超えている。暑くて水も不足している厳しいダラスだから、その生命力はたいしたものだ。あれ以来1ヶ月。頭の隅には「どういう言葉を使ったらあの生命力を表現できるのだろう・・。」という疑問がずっとあった。そんなときに出会ったのがこの一句。俳句は解らないのだけれども、樹樹のたくましさが、一・二句から実感され、「ああ、これがこの一ヶ月探していた表現だ」と思った。こういう言葉をうまく消化して、自分の歌に織り込めたらいいだろうなあ。。。。
August 23, 2007
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この写真、SCOTIA BANK という銀行の某支店に出ていたサインボードだ。(写真を撮ってはみたものの、ガラスに駐車場の方が写ってしまって、ちょっと読みにくいのが残念ですが)支店所在地は、もちろんカナダの国内。そして、カナダの公用語は英語とフランス語。でも、最近、この地域では広東語を話す人が多い。そ、そ、それにしても・・・このサインボードを見てください、。まず最初に、「英語が通じますよ」と書いてあり、その下には多分同じことが、ウルドウ、タガログ、ヒンディーで書いてある(と思う)のが読み取れますか?これって、たとえば、池袋にある三菱東京UFJ銀行の店頭に「日本語が通じます」と書いてあるようなものではありますまいか。こういう看板がでているとAさんに聞いたときには、Aさんが冗談を言っているのかと思い笑ってしまったのだけれども、行ってみたら、まあ、なんと、実際のことであった。普通の義務教育が英語で行われているはずの地域で、銀行の看板にわざわざ「英語が通じますよ」と看板をだしているなんて、びっくり・・・デス。こんなことでよいのかしらん。事情が複雑すぎて、短歌にはできそうもありません。降参。
August 22, 2007
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合歓の花黝ずむ葉月山附きて真日(まひ)かがやかし道を来にけり(宮柊二「山西省」) きれいに晴れたので、一昨日見た合歓の写真をもう一度とった。コンピュータにおろしてみると、まあきれいに写ってはいるのだけれども、どうも「あえかな」という感じがない。空に向ってたくましく咲いている感じがして、まあ、それも悪くはないのだけれども、風情という面からいくと、雨の日の方が勝っているような・・・冒頭の一首、「山附きて」というのはどういう意味なのか、ちょっと考えこんでいる。
August 21, 2007
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昼間見し合歓(かうか)のあかき花のいろをあこがれの如くよる憶ひをり(宮柊二「群鶏」)合歓咲きぬ若くこの花を好みしは何の故ぞとふとして思ふ(宮柊二「純黄」)今年も合歓の花を見たいと思っていたが、バンクーバーの場合、どこにでもあるというわけではない。植物園は、市の職員のストで閉まっているようだから、さて、どこで見られるだろう・・・と思っていたところ・・・見つけた。私が毎日のように車で通っている道沿いのお宅に咲いているのを、昨日気づいたのだ。「あ、合歓が咲いている!」と思ったときには、すでに数十メートル通り過ぎていたところだし、その通りは駐車禁止なのでとりあえず諦め、今朝、改めて写真をとりに行ってきた。雨模様なので暗い写真になってしまったので、明日でももし晴れたら改めて撮りなおすつもりだけれども、とりあえず。 象潟や雨に西施が合歓の花(松尾芭蕉)という句があるところから考えると、雨模様の日の合歓もまたよしというところか?
August 19, 2007
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しろたへの花のひらかむ一時をまちまちて今日の宵は長しも(月下美人)(吉田正俊)ごく最近まで、月下美人の開花は、話には聞いていたものの実際にみたことはなかったのに、この夏になって2度目の「お花見」をさせていただいた。「近いうちに、咲くかもしれない」というお知らせが「数日中に咲きそう」になり、それが「明日あたり咲きそう」になりそして、「今、開き始めているの。すぐ来る?」となったのが昨夜。もちろんすぐ駆けつけて、見せていただいた。(孫が生まれたときも、こうやって、「もうすぐ」「明日」「いよいよ今日」「今夜」・・と待ったのを思いだして、ちょっとはずかしい。)
August 18, 2007
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「百と万」数にて言へば百貨店の上をゆくかな村の万屋(よろずや)(田中愛子 コスモス7月号)昨日の日記の最後にUPしたうちの一首。一読ふっと笑ってしまうのだけれども、よく考えてみると、昔の村社会で万屋の果たしていた役割というのは、非常に大きかっただろうと思う。なにしろ、村人の普通の生活で必要なものは何でもそこに頼っていたのだから。カナダでも田舎町に行くと、今だにGENERAL STORE(万屋)というのがあり、そこにSIMPSON SEARS(百貨店)のカタログが置いてあって、万屋を通じて百貨店のものを通信販売で買ったりできる。そうなるともう万屋が百貨店をかねているようなもので、あなどれない。インターネットの時代だからオンラインショッピングなどが多くなり、田舎の万屋(コンビ二)さんの重要性が薄れるかというと、そうでもないようだ。・・・過疎地ではインターネット環境が整っていなくて、案外オンラインショッピングがままならなかったりするし。そういえば、数年前、東大を卒業してアメリカの大学で研究を続けていた友人が、休暇でバンクーバーにきて、こんな話をしたことがあった。(「受け」を狙うのが好きな彼の言ったことだから、本当か冗談かちょっとわからないのだけれども)いわく「せっかくがんばって東大を出てきたのに、アメリカでは、東京大学より日本大学を出たやつの方が優秀だと思われてるんだよ~。日本と東京じゃあ、競争にもならないよなあ。ははは」思えば、カナダにはUniversity of Canadaと、国家規模の名前を持つ大学はないようだ。
August 17, 2007
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ディーでなくデーと言ふ時全身に力みなぎる「リポビタンD」田中愛子(コスモス7月号)読んで思わず、笑った。 そうだ、頼もしいのは「ディー」なんていう日本語にはない発音ではなくて、堂々と開き直った「デー」なのだ。すっかり気に入ってしまった私は、まず夫に「ね、ね、聞いて」とこの一首を読んで聞かせた。しかたなさそうに、聞き始めた夫も、噴きだすまでに3秒はかからなかった。そうでしょうとも。以来、日本語がわかって、リポビタンDが何だかわかっているだろうと思われる人に会うたびにこの歌を聞かせて、にこっとしてもらっている。私のところには、まだコスモス9月号は届いていないけれども、情報によれば9月号にはコスモス賞が発表されていて、この作者の田中愛子さんが授賞された由、こういう楽しい歌を自在に詠まれる方が選ばれたのは、とてもうれしい。他に7月号には、「年とって涙もろくなった」と言ふ十六歳のフィギュアの選手「百と万」数にて言へば百貨店の上をゆくかな村の万屋(よろずや)親しげにわが名呼ばれてふりむきてシャッター押すを頼まれにけり両手にて握手をしつつ目は次の有権者追ふ都知事候補者などがあり、いずれもとりすましていないところが好きだ。
August 16, 2007
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今月は、以下のとおり、バンクーバー新報への掲載を依頼した。はつきりと物言ふことの善しや悪しや 炎のやうなゴクラクチョウカ(友)カナダにて見ることのなき猫じやらし日本語放送の画面に揺るる(奈津)独り居の手抜きの料理油断ありはづかしきかな順序さかさま(虹)朝霧の雑木林をわたり来るメゾソプラノの鶯の声(のりこ)ほつこりと大豆が煮ゆる匂ひしてふと遠き日の祖母の声する(ふみ)初夏の風截りつつぶらんこ漕いでみる空が近づく空が遠のく(みき)自販機にころり出てくるおにぎりに四世孫の驚きの顔(みちこ) 小さき花あまた集へる紫陽花は雨降る中を誇らかに咲く(よしこ)頭上より優しき声がふりかかり見知らぬ瞳に順を譲らる(蓮仁) 方言がふと口をつきそののちを続かぬ我に故郷は遠し(茜) 根の領分めぐまれておよそこれだけと辛夷の白き花びらの陣(あき) 皿小鉢食器洗ひに押しこみて頼むとばかりスイッチを押す(粟)ブルーベリーがパーキンソン病に効くといふ記事を手に持ち尼僧来ましぬ(市) ふと立てば父の立ち癖吾に有りよく似るものと妻笑ひゐる(唐)飛行機を乗り継ぎて来しふるさとは香りほのかなリラ冷えの夜(沙羅)一面のタンポポ眺め思ひ出す友の造りたるタンポポ酒を(すみえ)語学力を試されさうな英語劇パズル解くがに二時間座る(希)認知症介護の言葉身に近く互ひに笑へる今を尊ぶ(とみこ)
August 15, 2007
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実生より育て来し枇杷三本の黄金(きん)の実われはみずかありなむ(バンクーバー短歌会8月例会出詠作品より)「われはみずかありなむ」が、難しいという声があったが、きっと作者は難しいことを承知でこの言葉を使ってみたかったのだろうと思った。実生から枇杷が育つのは何年かかるのだろうか。その間、自分がここに住んでいられるかどうか・・・という意味かもしれないし、この枇杷の木は実を結ぶほどには成長しないかもしれないという意味かもしれないが、ともかく、「黄金色の実を私は見ないままになってしまうのではないだろうか」と言っているのだと思うが、作者が欠席だったのでこの解釈が作者の意図とあっているかどうかはわからない。こういう表現は、山中智惠子さんがどこかで使われていたという発言もあり、また作者にあらかじめ質問してきた司会者からは、水原紫苑さんが使われていたという伝言もあったので、どういう風に使われたのか探しているのだけれども、今のところ見つけられないでいる。ただし、その関連で、こういう言い方は、万葉にありそうだと思って探してみたら、「・・・ずかもあらむ」を使った歌に次のようなものが見つかった。0386: この夕柘のさ枝の流れ来ば梁は打たずて取らずかもあらむ1364: 見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きてならずかもあらむ2731: 牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ よい表現をみつけたりすると、いつか使いたいとあたためておくことがよくあるが、この作者にとって、「みずかありなん」はそういう表現の一つだったのだろう。こういう歌が出ているときは、先生からの講評が届くのがひときわ楽しみである。
August 14, 2007
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小島なおさんの第一歌集『乱反射』、もう再版がでることになったと聞いた。第一版が何部あったかわからないので、どのくらいすごいことかその程度はわからないけれども、とにかく、すばらしいことだと思う。あちこちで引用紹介されているので、内容的には馴染みの作品が多いだろうけれども、その配列なども含めて、改めて読むのが楽しみである。次回の帰国のときに買おうと予定しているのだけれども、その時までにまた版を重ねているのだろうか?
August 13, 2007
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長生きをするといふのは知る人がどしどし死んでゆくといふこと(安立スハル)若き日に読みし言葉はむらぎもの心の底にいまもきらめく(安立スハル)たつぷりと時間を持ちて大長編『ドン・キホーテ』を読みし日ありき(安立スハル)学生時代に教えを受けたスペイン文学研究者の荒井正直先生の訃報が届いた。享年92歳。私が教えを受けた頃は、まだ40代で、グレーのベレー帽を被ったおしゃれな大学教授。コーヒーがお好きで、研究室にサイフォンをおき、廊下までコーヒーの香をさせていらしたのも懐かしい。先生は、スペイン語から日本語への文学作品の翻訳もたくさんなさったが、その一方で日本語をとても大事にされていて、神経のゆきとどいた、正しい日本語を話された。一年生の頃、スペイン語初級の授業でアルファベットを教えてくださりながら、「人生のもっと大事なことを考えなければならないきみたちに、A(ああ)、B(べー)、C(せー)などと口を揃えて言わせるなんてことをしていてよいのだろうか」とおっしゃったこととか、「来れる」「見れる」のような「ら」抜き言葉が大嫌いでいらしたことなど、スペイン語以外のことでも印象に残る先生だった。数年前、先生の米寿のお祝いに一泊旅行をしたことがあり、それに参加した私が、近況報告のかわりに歌集をお見せしたら、夜のうちに読んでおいてくださって、朝食のときに、「あのね、もっとエッチなこともうまく取り入れて詠まなくちゃだめよ」と、まじめに忠告してくださったのもよく覚えている。(本当にそうだろうと思う。)過去が、しずかに大過去に移行していった感じがする。謹んでご冥福をお祈りする。
August 12, 2007
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入りつ日の奏づる彩(いろ)のシンフォニー黄金(こがね)が赤へと変はりゆく空(バンクーバー短歌会9月例会出詠作品より)「色」の題詠で出された一首である。なかなか評判はよかったのだが、「入りつ日」について質問がでた。(1)「入りつ日」は、短歌でよく使われる言葉のようだけれども、「つ」はどういう役をしているのだろうか。(2)「入りつ日」より「没りつ日」または「没りつ陽」と書くのが普通ではないか?(1)については、今まで、歌会では普通に使われ、先生もそのまま通していらしたので、私は疑問を持っていなかったのだけれども、そういわれてみると、この「つ」は何なのだろうか私には今のところわからない。完了・強意 の助動詞「つ」とするには、まだ日が沈みきっていないところだからおかしい。どちらかといえば、「今まさに沈まんとして、空をあかく染めている夕陽」が「入りつ日」ではないだろうか?「つ」が入ると字数もあわせやすいし、なんとなくプロっぽい言葉になる印象があるけれども、そんな理由で使うのはよくないだろうし・・・。(2)この歌の作者の場合、「『没りつ日』にしようかと思いましたが、『奏、彩、黄金』と比較的に画数の多い字を使いましたのであえて「入りつ日」としました。」由。幸いこれについては、両方の用例を宮柊二作品から探すことができたので、どちらも使って問題がないと判断した。* 没(いり)つ日(ひ)が支那の障子を染(そ)むるゆゑ孤(ひとり)の思ひを続くるによし (『山西省』)* 入日(いりつひ)の暫く射して沖の島波うちぎはの白く輝く(『獨石馬』)(こちらには、「つ」は振り仮名としては入っていない。念のため。)歌会に出ると、自分では疑問にもなにも思っていなかったことを、他の方がとりあげてくださって、考えるチャンスができるのがありがたいし、面白い。
August 11, 2007
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バンクーバー短歌会 8月例会に出た。今日は、傍聴希望のメールをくださった方があり、出席していただいた。なんでも、一年のうちに何ヶ月かをバンクーバーですごし、残りを日本ですごされている由。「私たちは、ながいこと同じ仲間でやっていますから、お互いの家庭の事情などわかりすぎるのが欠点で、時には、歌には書かれていないことまで、わかったような気になってしまうことがありますから、そういう予備知識のない方で、わからないところを、判らないとおっしゃっていただければ、とてもうれしいのです。」とお伝えしておいたのだが、あとで考えるとこれはとても失礼だったような気がする。というのは、お約束通り、的確な疑問を出してくださるのはもちろん、文語文法にくわしくていらして、私たちの互評がこんがらかってくると、控えめに助け舟を出してくださる。原作を生かして、歌の形を整えるセンスもよくて、うれしかった。「すばらしい方に来ていただけてよかった」と思って、帰りの車の中で伺ったり、またその話をもとにインターネットを検索してみたりしてわかったところによると、宝塚市や鳥取市で「源氏物語講読」の講師をしていらっしゃる、いわば専門家。「週2回の講義で全巻講読までに12年かかりましたが、それで終わりというわけにはいかず、途中から入った方が最初の方を読んでいないので、またはじめからやったりして、なかなか終わりません。」とのことだが、そんなふうに根気のよい勉強をすることができるのは、受講者の方にとって、とても幸せなことだと思いうらやましかった。運転しながらだったけれども、源氏物語が成立したのは、あの時代に紙を入手できる財力があったこと、そしてそれには道長のサポートが非常に大きな力を持っていたことなどにも話が及び、あの長い物語を書いた紫式部に敬意を表していた私も、「紙がなければ書けなかった」という事実に思い及んで、愕然。(当たり前だけれども)しかもそれを、片端から道長が都にもって行って発表したので、紫式部には推敲の時間があまりなかったのだというお話にも感嘆し、さらにその物語を多くの人が書写したから、異本がいろいろあるということも、実感をもって納得した。わかってみれば、歌会の場でいろいろ発言したことが恥ずかしいようなものだが、まあ、これは仕方がない。今回は、9月初めにすぐ日本にお帰りになるそうだが、またいらっしゃるときにはぜひまた短歌会にも来ていただけるようにお願いしてお別れした。あたらしいご縁がひとつできたことは、会にとっても、また私にとってもよい刺激になったことは間違いない。
August 10, 2007
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今年も、ゴルフ場に来た白頭鷲が雛を孵し、最近では大きくなった雛たちが、巣立ちを前に透き通った声で鳴いて騒いでいる。 木の葉にまぎれて見えにくいので、二羽の雛と巣をそれぞれ黄色い○で囲んでみた。(字が小さくなってしまったので、見えるかどうか・・・。真中の○が巣で、左右の○が雛です)お父さん鷲とお母さん鷲は、頭と尻尾が白くてとても見事な姿なのだが、ただ今留守中。雛たちが大きくなって食欲がさかんなので、餌集めに大忙しなのではないだろうか。(・・・推察ですけれども。)
August 9, 2007
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今日は立秋。バンクーバーは肌寒いくらいで、なんと紅葉も始まっている。ちょっと寂しい。もう一度訪れてくれるであろうインディアン・サマーが待たれるところだ。
August 8, 2007
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二等辺三角形の後姿しなやかに見せ黒猫が坐す(高田孝子 コスモス8月号)「二等辺三角形」が面白い。猫って本当にそんな形をしていると思ったばかりだったから、思わずうれしくて笑った。(第3句はどう読ませるのだろうか。「うしろすがた」では字あまりだし、「うしろで」では字足らずだし。 私なら「うしろでを」とするところかもしれない。) ところで、私は、これまで猫と一緒に暮らしたことはなかったのだが、先日、次男夫婦の家にとめてもらって、そこの二匹の黒猫と、はじめてじっくり付き合った。あるとき、横を向いて外を見ながらじっと座っている猫が、本当に猫背だったので、思わず「猫って本当に猫背なのね」と日本語で言ってしまったら、息子は「ははは」と一応笑ってく同意してくれたけれども、その妻がなんとなく面白くない表情をしている。それは失礼!ごもっともです。夫とシュウトメが自分のわからない言葉で何か言って笑っていたら、楽しいヨメがいるはずはない。でも、・・・さて困った。「猫背」って、たしかSTOOPだったけど、どこにも「猫」という字が出てこないし、それでは「猫って本当に猫背ね」と感心するポイントがないし、おかしくもなんともない。そうかといって、「日本語では、こういう慣用句があって・・・」という前置きからはじめると、ながながしくて、おしゃれでない。「ま、いいや。仕事で通訳をしているわけじゃないのだから」と、「猫って後ろから見ると二等辺三角形(an isosceles triangle)なのね」という感想に急遽切り替えて、改めてみんなで笑った。
August 6, 2007
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コスモス8月号掲載の「2007年コスモス第一大会の記」を読んだ。中に、仰木香織氏の講評抜粋の中に「結句の働きが重要。体言止めは余情がそがれることがある。結句で飛躍できると歌がよくなる」という言葉があった。今、30首詠の推敲をしているところなので、この際、その中の体言止めの数をチェックしてみたら、8首もあった。やっぱり、多いだろうなあ・・・。実際のところ、いままで、私の作品が一首でも、誰一人からも「余情がある」といわれたことはないが、そんなところに原因の一つがあるのかもしれない。念のため、月集スバル(選者の方々の欄)の作品をチェックしてみると、160首のうち、体言とめは31首で、2割弱。さすがに、仰木氏の作品にはゼロ。ただし、高野氏の作品には5首中、3首の体言とめがあった。もっとも、これは高野氏の作品の特徴の一つらしく、短歌研究7月号の作品季評で『甘雨』を語って、松坂弘氏が「・・・体言止めの歌も割合多いです。けれども俳句などで多い体言止めとは違って、意味の収斂のためにそれを非常にうまく機能させている。普通、体言止めをやると一首が途切れてしまって中途半端な場合が多いのですけれども、それを非常にうまく使って生かしているんですね。」と発言されている。意味が収斂するということは、成功しなかった場合には、余情を残さないという結果で終ることも多く、高野氏だからこそ成功させることができ、松坂氏のような発言になったのかもしれない。「短歌では使っていけない言葉はない。どんな言葉をつかっても、それが成功していればよし、成功していなければダメ」という鈴木英夫先生がいつも言われていた言葉がよみがえってくる。
August 5, 2007
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TVジャパンで「週刊ブックレビュー」を見た。なかに、『風の影』(Sombre del Viento) があり、その中で紹介されたひとこと、「戦争は忘れさられることを餌にして大きくなる」を聞いて、「これは読みたい」と思った。カルロス・ルイス・サフォン原作、木村裕美翻訳になる一冊。だいたい、小説の類は翻訳すると原作よりも長くなるのが普通だし、地図がついているとはいうものの、普段馴染みのない地名がたくさんでてくるであろうバルセロナが舞台だし、人の名前もカタカナが多いとイメージが湧きにくくて、読み分けていくのが億劫になりがちなのに、いったん読み始めてしまうととまらなくなるそうだから、よほど魅力的な作品であろうと思う。試し読みのサイトがあり、それもよかった。それにしても、これだけページ数の多い本がベストセラーになるとは、まだまだ、世間の活字離れを嘆くほどのことはないのではなかろうか。
August 4, 2007
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ユリノキにあまたなる黄の花咲きて五月の空は水を溜めゆく(松尾祥子 コスモス8月号)ユリノキは、特に珍しい木ではないけれども、そうかといって、どこにもここにもある木ではない(と思う)。「もしかすると、これはあのユリノキでしょうか?」と思わず作者に質問してしまった。結果は、その通り、「あのユリノキです」とのこと。「あの」というのは、5月20日の日記に写真をUPしたのだが、これは、5月末に東京に行ったときに、私が毎日3階の窓から見ていたユリノキの花だ。私が着いたときは、まだ蕾だったのが、だんだんに開き、満開になり、散るまでの二週間、じっくりおつきあいさせてもらった。もちろん、私もたくさんメモは作っていたのだが、短歌にはできなかった美しい花たちだ。その思いで、もう一度この一首をみると、「やっぱりいいなあ」。「ユリノキにあまたなる黄の花咲きて」までは、まあ、私でもなんとか詠めたかと思わないでもない。が、下の句の「五月の空は水を溜めゆく」となると、逆立ちしてもできない。(もっとも逆立ちもできないけれども)この展開ができるようにならないと、やはり歌人にはなれないのだとつくづく思った。しょうがないから、てはじめに逆立ちの練習でもしようかしらん。
August 3, 2007
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「コスモス」7月号その二集より 私の好きな歌乾燥機かけおえしのちそのなかにぬるい宇宙の空間があり(小島なほ *)あ、あれは「ぬるい宇宙の空間」だったのか!こういう展開ができるようになるには、どうも努力だけではだめなような気がする。読者に徹して楽しませていただくことにしよう。熊野古道難儀覚悟の高野山杖を頼りに六根清浄(津谷葉子)ほとんど漢字ばかりで構成されて、中にたった四字のみ。熊野神社や高野山に参詣し、熊野古道を歩く謹厳さに似合う視覚的印象を作っている。古道なる段にとらはれひたすらに登りて仰ぐ那智の滝はも(津谷葉子)本当にたくさんの階段を上って本殿にのぼり、それから少し降りて滝を見たように思ったが・・。「階段の下に、自由に使わせていただける竹杖がおいてあったら、そこは階段が多いand/or 急勾配だから、一つ借りるのが基本」と身にしみて覚えたのがここであった。特攻隊出撃兵士の遺書ありて何れも達筆何れも純なり(山田和子)私もあちこちで見たことがあるが、本当に達筆揃い。書の練習などする時間があったのだろうか。それとも、達筆のものだけ展示するのだろうか・・・それとも、一生の思いを籠めて一生懸命書いたからおのずと良い字になったのか・・・それとも・・・・???内容が純なのは、教育のせいだろうけれども。達筆で純であればあるほど、余計に哀しい。上の娘(こ)は言われる前にもくもくと気付くことから片付けてゆく末の娘(こ)は言われたことをもくもくとゆるりきれいに片付けてゆく(中山眞須美)とてもよくわかる。姉と私にもこんなことがあった。私が自分で気づいて動けるようになったのは、姉と別に暮らすようになってからのような気がする。親指が突き出た様な能登半島指取れぬかと余震に思う(平千宝子)3月の能登半島地震のことを歌った歌はいろいろにあり、天災の怖さを思った。中で、この一首は発想がちょっと変わっていて、平凡にならないところに感心した。「神様の洗濯物が干してある」注連縄指して三歳の瞳(め)は(石原章子)大きな声で素直な印象を言ってくれるので、かわいいやらはずかしいやら。蕾には蕾の悩みあるものを見せぬつもりの娘十七(坪井真理)「つもりの」が意味深い。「ちゃんと見えていますよ」という年長者の声と、「もう大人だから悩みはいえない〉17歳の娘さんの両方の気持ちが読み取れる大事な一語だ。「死ぬときは死ぬがよろしい」良寛の言葉追ひかけ出雲崎巡る(佐藤哲朗)ある言葉に感動したら、ここまでするのが本当かもしれない。点滴の液に楽しき思い出も混ぜてください老い父のため(加藤慶子*)父を思う娘からの切なる望み。そんなことができたらどんなによいことか。大鯨憩うが如くゆるやかに視界に入りてバスは止まりぬ青空を脇から奪いとるように超高層ビルまた一つ建つ(炭本昌哉*)片方では大鯨が大海を泳いでいるかと思うと、都会ではまた青空が狭くなっている。
August 2, 2007
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ちょっと参考にしたいことがあって、草野心平の「春の歌」をインターネットで探した。案の定、数分でいろいろ探せたのだけれども、すべてが同じというわけには行かない。例として、一番多かった2種類の表記を以下に引用する。1)地の文は全部ひらがなで「ケルルン クック」の部分だけカタカナ表記のもの 春の歌 草野心平 かえるは冬の間は土の中にいて春になると地上に出てきます。 その初めての日の歌。ほっ まぶしいな。ほっ うれしいな。 みずはつるつる。かぜは そよそよ。ケルルン クック。ああいいにおいだ。ケルルン クック。ほっ いぬのふぐりがさいている。ほっ おおきなくもがうごいてくる。ケルルン クック。ケルルン クック。2)全部ひらがなのもの「春の歌」ほっ まぶしいな。ほっ うれしいな。みずは つるつる。かぜは そよそよ。けるるん くっく。ああ いいにおいだ。けるるん くっく。ほっ いぬのふぐりがさいている。ほっ おおきなくもがうごいてくる。くっくっく。けるるん くっく。けるるん くっく。(2)のほうには、最後から3行目に「くっくっく。」があるけれども、(1)にはない。(2)の方は、全行同じ間隔で表記されているが、(1)では、4つのグループにわけられ、しかも詞書(?)がついている・・・というわけで、どちらもそれぞれではあるけれども、かなり印象が違うことは確かだ。インターネットの検索は、日本の外に住んでいる私などには、画期的な便利さなのだけれども、こういうこともあるから、すぐに検索結果に飛びつくわけにもいかない。短歌の場合、作者が途中で推敲して、いくつかのバージョンが世の中に残っているということはよくあるのだが、草野心平氏の場合もそういうことだったのだろうか。私の個人的な好みでは(2)の方が好きだが、小学校の教科書に載せたりするには、(1)の方が子供たちに理解しやすいかもしれない。きっと、この疑問なども、もし今、震度5くらいの地震でも来たら、どうでもよくなってしまうのだろうけれども。
August 1, 2007
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