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山形新聞によると、大江町の例の町議は、今度は飲酒運転を否定。酔っていないと判断して運転した、という説明だ。大げさに騒がれて名誉を毀損された、などと弁じているそうだ。辞職を促されるなどの周りの対応に、長年町政に参与してきた自負心から憤懣がつのるのかも知れない。オチョコで何杯か飲んだだけでなぜ騒ぐのか、という気持ちなのだろう。しかし、有権者から託された公人の地位とは、しょせん「はかない」ものだ。いくらご自分で公平無私に町政に寄与したと自負しても、あるいは、仮に政治と全く関係ない私的な事柄で攻められるのが筋違いだとしても、公選職というポジションが、そこに在る人の自己満足のために存在するのではないのだから、仕方がない。有権者からすれば、無条件であなたを信任しているつもりではないのだろうから。よくよく対応を考えるべきだろう。真の公人ならば。辞職勧告決議が出れば法廷でも争う、と語っている。法廷で勝てるはずがない。議会の自律権が尊重されるべきで、また、そもそも勧告は強制的に議席を失わせるものでないから、なおさらだ。刑事罰を科するかどうかという一市民に対する謙抑的たるべき刑事法の運用とは、全く次元が異なるのだから。飲酒運転に該当しないから(あるいは検挙されたのでないから)辞職に値せず、という式の議論ではない。不本意のあまりに主張を繰り返せばそれだけ、一般との意識の乖離を見せつけるだけで、すなわち公職にあるものとして相応しくないと自ら証明するようなものだ。■関連する過去の記事 またも議員飲酒運転か(11月26日) 警部補飲酒運転と山形県議会(08年4月23日) 山形県村山県議の動向(07年12月5日) あの飲酒運転山形県議、お隣さんからも三行半(07年8月10日) 村山県議問題を考える(07年7月11日) 東北 時の人(07年6月27日) 山形県議会議員の飲酒運転問題を考える(07年5月25日)
2011.11.30
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前回の続き。首長選挙で、投票率が低そうなところを調べてみた。まず、都道府県知事。埼玉県は、2011年選挙で24.89%だ。おそらくこれが都道府県知事の全選挙中の最低記録と思われる。最高は昭和28年の77.57のようだ(説明)。この埼玉県選管のサイトには、投票当日の天候も出ている。昭和28年は「晴」で、最低の2011年は「雨時々曇」だ。前回の2007年は「晴」だが、27.67と低かった。2回連続で2割台ということになる。神奈川県は、最近(2011年)45.24で、前回(07年)47.04だ。面白いのは、横浜市、川崎市とも県平均を上回っていること(最近も前回も)。千葉県は、森田健作知事の当選した最近(09年)が45.56で、前回は43.28だ。東京都も一覧がある。想像通り、隣接3県よりはずいぶん高く、最近(2011年)で57.80で、最低でも87年の43.19だ。市区町村長選挙となると、データを完全に把握しきれないが、知事選挙の全データ標本に比べれば、相当分散が大きいだろう(高率から低率までバラツキがある)と思われる。首都圏や近郊の住宅密集地だと、投票率はさがるように思われる。たとえば、東京都の特別区だと、世田谷区長(2011年4月)が41.76で、新宿区長(2010年11月)は26.33だ。新宿の場合、前回26.58で、前々回25.15と低調が続いている。そもそも公職選挙法では、あまりに投票率が低い場合に選挙そのものの有効性を失わしめる「最低投票率」は導入されていない。理論的には、投票に行った者が有権者全体の「きれいな」(偏りのない)抽出代表であるかどうかの数理的な評価ができない以上、どのラインで当該選挙の有効性を線引きするかが導き出せない、という難点があるのだろう。また、かりに導入したとして再選挙で投票率が上がる保障もない、という実質的な観点もありそうだ。現職再選を阻むために投票率を下げさせる棄権キャンペーンが横行するとの懸念もあるようだが、現実的な懸念かどうか疑問はある(逆に投票に行こうキャンペーンもあり得るから、その意味で中立とも)。しかし、よく考えてみよ。さすがに投票率が2割となると、有権者の1割前後の支持でトップとなりうることになる。もちろん、他の9割も不支持と限らないから妥当性はあるかも知れないが、政治的に明確な争点を争った場合で、たとえば変革を選択する候補が当選したときに、本当に変革の実行を許して良いのか、そういう政治制度で良いかどうか、という疑念はある。そのためにこそ、二元代表の(この言葉はおかしいと以前から感じているが)自治体議会が存在するので、民意の健全性(ポピュリズムに走る棄権の緩和)は保たれると、一応は言えるかも知れない。ただ、それも同時選挙の場合などを考えると、どうだろうか。民主主義とは治者と被治者の自同性にほかならず、普通直接選挙が普遍的原理とまで高められたのは、多くの人が投票に向かうことを前提にしている。もちろん、多くの人が投票に向かうような仕組みを考えることが先だとは思うが、それにしても、2割しか投票しない恒常的実態が明らかとなるとすれば(遠い将来ではないかも)、それでもまだましだ(政治的選択としては打算ないし妥協も一つの王道だから)と割り切るか、あるいは、一時代の「普遍的」制度を疑ってかかる必要があるのかも知れない。反語的にいうのだが。■関連する過去の記事 低投票率を考える(2011年11月28日) 首長選挙の投票率を考える(2011年2月21日)
2011.11.29
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大阪市長選挙と大阪府知事選挙(なぜか今回はこの順番だ)についてもいろいろ書きたいことがあるが、今朝の新聞で気になったのは、高知市長選挙の投票率。現職が共産新人に大差で三選したが、盛り上がらなかったようで、投票率は28.05%と低い。前回を12.50ポイントも下回ったという。それでも、過去最低ではなく過去2番目の低さというから、もっと盛り下がった選挙イヤーもあったのだ。ちなみに大阪市長選挙は60.92%で、前回から17.31ポイントの大幅アップ。すごい。高知市の低投票率もすごいと思うが、20%台ともなると、本当に市民の選んだ首長と言えるのかという気もしてくる。■関連する過去の記事 首長選挙の投票率を考える(2011年2月11日)仙台市長選の最低は31.97%だが、さすがに3割を割り込むと、危機意識を強烈に持つべきだろう。
2011.11.28
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昨年春にはじめて出会った沖の石(沖の井)。芭蕉もめでた歌枕としての歴史も誇らしいが、地質学的にもわが仙台周辺では古いクラスに属する岩なのだそうだ。■関連する過去の記事 末の松山・沖の石(2010年4月30日)地学団体研究会仙台支部編『せんだい地学ハイキング 気分は宝さがし!』(宝文堂、1993年、2005年再版)によると、仙台の地盤はおもに新生代の地層だが、利府町や多賀城市の一部には中生代前期の三畳紀の地層(利府層)がわずかにみられる。利府層は2億3500万年ほども前の地層で、浜田の北にある採石場で土木材料として採掘される頁(けつ)岩や砂岩からできていて、アンモナイトなどの化石を含んでいる地層だ。そして、「沖の石」もその利府層の露頭だという。奥津春生『大仙台圏の地盤・地下水』(宝文堂、1977年)を読んでみたら、大仙台圏の表層地質からみた地盤分類として、もっとも固結した状態の固結堆積物からなる表層地層として、頁岩(白沢層)、砂岩(七北田層、綱木層)、砂岩・頁岩互層(旗立層、青麻層)、れき岩・砂岩(茂庭層)と並べて、砂質粘板岩(利府層)が説明されている。------------利府層は、中生代三畳紀の砂質粘板岩で、利府町から多賀城市にかけて分布。新鮮な岩片はかたいが、表層の岩片岩体は細かい節理が多く、風化してるのでややかたい等級に属するものが多い。利府の砂質粘板岩は人家密集のため採掘困難であるが、隣接する浜田地区のものは採石・捨石として採掘されている。利府層からは地元で蛇石とよんでいるアンモナイト(頭足類)のほかダオネラ(二枚貝)の化石を産出する。------------地球表面で平面平板な生活を営んでいると、足の下の地盤や地質などあまり思いも寄らなかった。しかし、そんな地表にも、さまざまな地質層序が顔を出し、わが県土の成り立ちや岩盤、地下水脈の様子などを教えてくれるということなのだろう。地域計画においても、大都市との距離、労働力、交通条件など経済地理的な社会条件を取り上げがちで、自然的条件についても、水運や気候などは気にするが、地盤や地質の特性は顧みられることが意外と少ないと思う。実は、地下水や地質特性は非常に重要な要素として、少し前までは必ず基礎調査に含めていたはずだが、近年は、新規開発ブームが去ったためか、はたまた既存市街地の空洞化や高齢化という対処療法に追われるためか、地質学的成果に目に行くことが少ないような気がするし、日常会話からも、地盤の話題は消えつつあるような気さえしていた。しかし、今次の大震災は、仙台圏の住宅地の崩落や、いびつな形の県内震度分布など、地盤に対する県民の関心を呼び起こし、地質学の累々たる成果である仙台・宮城の地質状況がふたたび注目されるべきではないだろうか。大地のダイナミズムと多様な個性を、みずから顔を出して教えてくれた「沖の石」。かくいう私も仙台圏の地質は不案内なので、勉強してみたい。
2011.11.27
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紀行文学の最高傑作「おくのほそ道」で、芭蕉のフィクションのもっとも大胆な例が、石の巻の条(くだり)だ。曽良の旅日記では、芭蕉が松島を出発したのは5月10日(今の暦の6月26日)で、その夜は石巻、11日に登米、12日一関と三泊を重ねて13日に平泉を訪れている。石巻の歌枕を訪ねることは予定のコースだったと思われるが、芭蕉が小説的にこの章を仕立てるために、まず、瑞巌寺参詣を、塩竈神社の記事と寺社が続くのを避けるために本来の5月9日を11日と記した上で、石巻出発も12日と記した。「つひに道踏みたがへて」「思ひかけずかかる所にも来れるかなと」「心細き長沼に添うて」など、いかにもこの旅があてどない流転の旅であるように見せかけた芭蕉の演出効果である。こうして、道に迷い、宿に苦しみながらはるかみちのくを心細い思いで旅していく演出効果を狙ったのだ。しかし、芭蕉の実際の旅は、しっかりと自分の姿を心に描きながらの旅であり、十分に行き着く地を調べつくして行動している。芭蕉は日和山から、「こがね花咲とよみて奉りたる金華山海上に見わたし」と書いている。これも完全なフィクションで、日和山からは、牡鹿半島の向こうにある金華山は絶対に見えない。芭蕉は涌谷の黄金山神社の伝統を踏まえて、黄金の奥州を思うあまりの心眼で、金華山をみていたのだろう。■石寒太『おくのほそ道 謎解きの旅』リヨン社、2004年 から十二日、平泉と志し、姉歯の松、緒絶えの橋など聞き伝えて、人跡まれに、雉兎蒭蕘の行きかふ道そことも分かず、つひに道踏みたがへて石の巻という港に出づ。こがね花咲くとよみて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。思ひかけずかかる所にも来れるかなと、宿借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原などよそ目に見て、遥かなる堤を行く。心細き長沼に添うて、戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る。その間二十里ほどとおぼゆ。歌枕の名所である石巻を、芭蕉は目ざして旅をしてきた。そして、日和山から望んだ港町の風情。作品中で最上のフィクションを凝らしたほど、感激に浸り、そして文学的意欲をかき立てられた土地だったに違いない。遥かなる思いに焦がれて目ざした石巻の地に立って、芭蕉は最大級の讃辞を、後世の私たちに残してくれた。ことし、日和山からの眺望は変わってしまったが、400年の昔の心の旅でもっとも大切にしてくれたこの石巻を、芭蕉はきっと応援しつづけてくれる、彼にはちょっと先の復興した石巻の姿も見えているはずだと、私は思っている。
2011.11.26
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朝の新聞で、大江町の町議が今月1日に飲酒後に車を運転したことで、町議会が来週に議員辞職を促すことになったとの記事。NHKの報道によると、飲酒運転とは明言せずに、飲酒後に車を移動した、と慎重な表現。町内にある飲食店で開かれた議員懇談会で日本酒をおちょこで2から3杯飲んだあと、町役場の駐車場に止めていた自分の車を、消防団の機材点検の邪魔になっていると考え、150m離れた別の駐車場まで移動させたと本人は語っているそうだ。河北記事では、町内で開かれた大江町と朝日町の両町協議会の懇談会出席後、とされている。山形新聞の報道では、概要次のような内容だ。------------1日午後4時半から6時半まで、町内飲食店で両町議会議員協議会の懇談会に出席、飲酒。終了後、町内の別の飲食店でラーメンを食べる。午後7時半ごろ、町役場駐車場に歩いて移動。自ら車を運転し、役場西側の町道を走行した。当時、役場駐車場では町消防団員が分団の機材の定期点検中。この町議は、消防団の邪魔になると思い、車を約150メートル離れた左沢駅近くの駐車場に移動させ、いったん車内で休憩。その後、役場駐車場に車を戻し、歩いて帰宅した、と説明。懇談会では日本酒をおちょこで2~3杯飲んだが、時間経過したので運転できると思ったと話している。この町議の車が役場駐車場を出て町道を走行する様子は、複数の町民が目撃。町議は点検作業をしていた消防団員の活動を侮辱するような発言をした、また、その際酒のにおいがしたとの証言もある。------------事実関係は明らかにして欲しい。公人なのだから当人が説明すべきだ。また、頭から犯罪者扱いしたり過分なバッシングなどは慎むべきだが、(予断は禁物とはしても...)いったん移動させて役場に戻ったなどの行動も不可解だと思うし、それに、今頃明るみになったことに何らかの事情もあろう。(これも予断になろうが)いくらオチョコで3杯だとしても、堂々と役場から車を出すとは、悪気はないのだろうし、常習性も疑われる。強く非難されるべきだろう。当人も町議会も、よくよく対応を考えた方が良い。そして、イヤハヤまたか、との思いがするのだ。近くの東村山選挙区の県議の事件を思い出して。■関連する過去の記事 警部補飲酒運転と山形県議会(08年4月23日) 山形県村山県議の動向(07年12月5日) あの飲酒運転山形県議、お隣さんからも三行半(07年8月10日) 村山県議問題を考える(07年7月11日) 東北 時の人(07年6月27日) 山形県議会議員の飲酒運転問題を考える(07年5月25日)
2011.11.26
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前にも書いたかも知れないが、思いついたので。小田忠夫さん(東北学院大学の学長をされた)、越智道雄さん(元経企庁長官)などが有名だと思うが、ありうる名前を考えてみた。山田摩耶今井まい中田カナ井田大駒立珠子(こまたてたまこ)前田エマ田池圭太川野わか
2011.11.25
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最近仕事で東京の人には、仙台も朝晩は寒くなりました、などと書き添えている。いよいよ冬を迎える時期にさしかかった。予報では今日当たり仙台も初雪か、と言われていたようだ。現在の山形県のニュースでは、明日にかけて庄内など平野部でも雪になるようだ。仙台の初雪(雪観測の初日)は、30年間の平年値で11月24日。ずばり今日だ。山形市は18日、福島市は26日となっている。我が家は実は昨日、2台の車のタイヤ交換をした。下の子が手伝ってくれて、助かった。手伝ってくれて... というと、イヤ、自分がしたんだ、と言い張っているが。
2011.11.24
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行財政や学校、また多くの企業などでは活動単位としての1年間は4月に始まり3月に終わる「年度」を採用している。もっとも年度は必ずしも4月スタートとは限らず、米穀年度(11月)、酒造年度(7月)などは作物の特性による。企業でも、ビール会社は12月決算だし、ベガルタ仙台はリーグ戦のシーズンに合わせるためだろうが、2月が始期で1月決算。藤崎などの百貨店が2月期決算なのは業務多忙時期を避けるためとされる。仙台国税局が昨日(22日)相続税申告漏れ調査結果を発表。ところで、相続税の事務年度は、7月から6月までの12か月としているようだ。これは実地調査やとりまとめの業務の時期設定によるのだろう(未確認)。国税庁の資料によると、1万3千件以上の実地調査で8割以上に申告漏れ等の非違があり、申告漏れ課税価格は3,994億円、一件あたり2,922万円とのことだ。追徴税額797億円、一件あたり583万円。岩手日報は仙台国税局の発表として、岩手県内の状況を記事にしている。95件中83件で申告漏れ。申告漏れ課税価格は36億円、一件あたり3,789万円で、いずれも前年度を上回る。他県の報道は、ザッと見たところ出ていないようだ。
2011.11.23
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我が家の和室には、畳に座って脚を降ろす掘りごたつがあります。しかし、子どもたちが小さいなどの理由でずっと使っておりませんでした。子ども達には早く出してくれと言われるのですが、たまに畳をめくって、ここにあるんだよと教えるだけで凌いできました。さて、今回は気分転換にもなろうかと、15年ぶりに思い切って設営してみました。和室に掘りごたつ。やっぱり良いですね。テレビも持ってきました。子ども達が小さい頃は家族が川の字ふとんで寝た部屋ですが、最近はフラフープ会場や柔道ワザごっこの場所、或いは雨天時の物乾し場という感じの和室でしたが、こたつを設置すると、雰囲気が締まります。障子を開ければ庭のモミジ、夜は静かな空間です。部屋にはテレビ端子も設けているので、2階のTVも移動しました。ちょっとした小世界が完成。早速下の子は勉強道具もってきてこたつで勉強。私は勉強を教えると称しては、一升瓶を持ち込んでグイグイ。そのうち寝込んでしまいました。こんな晩秋の過ごし方をしております。
2011.11.20
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5 発掘調査東北の古代城柵官衙遺跡における初めての発掘調査は、文部省嘱託の上田三平によって行われた。昭和5年秋田県「払田柵」、翌年山形県「城輪柵」。両遺跡ともに外郭線の材木列が発見されたことから、上田は奥羽地方の古代史に散見する柵は材木を建てて築いた一種の城郭と考え、軍事的施設との見解が考古学的に検証されたと理解した。これにより、蝦夷征討の軍事拠点のイメージが一般に定着したのである。多賀城跡の本格的な発掘調査は昭和30年代から、東北大学教授伊東信雄の指揮により始められた。伊東はそれまでにも利府町春日の大沢瓦窯跡(1936年)、加美町の菜切谷廃寺跡(1955年)、仙台市の陸奥国分寺跡(1955-59年)、涌谷町の天平産金遺跡(1957年)等を次々発掘調査し、考古学的方法によって科学的な実体解明に取り組んでいた。多賀城は奈良時代に陸奥国府及び鎮守府が置かれ、古代国家の東北経営の拠点であり、太宰府と並び称され政治上軍事上の要地として知られていたにもかかわらず、その構造や規模は不明な点が少なくなかった。国史跡に指定されたが広大な面積のため維持管理が困難であると同時に、戦後の農地解放による開墾や人家の増加に伴い、不用意のうちに破壊される実情にあったことから、緊急に学術調査を行って適切な保存方法を講ずる必要が生じてきた。昭和35年、宮城県教育委員会は多賀城町と発掘調査を企画し、河北文化事業団の参加を得て「史跡多賀城跡発掘調査委員会」を組織して、多賀城廃寺跡と多賀城政庁跡(当時「内城跡」と呼ばれていた)の発掘調査に着手。さらに、昭和41年には町が設置した「特別史跡多賀城附属寺院環境整備委員会」による調査。昭和44年からは、宮城県多賀城跡調査研究所による調査が開始され現在まで継続している。6 特別史跡指定昭和35年開始の発掘調査委員会による調査では、まず航空写真測量による地形図を作成し、昭和36年、住宅地に近接し破壊の恐れがある廃寺跡から発掘を始めた。主要伽藍配置が確認され、太宰府観世音寺と酷似することなどが明らかにされた。昭和38年からは多賀城政庁跡に初めて発掘調査が入る。昭和40年までの調査で、正殿、脇殿はじめ政庁地区の主要建物跡が明らかとなり、朝堂院的建物配置をとることなどが解明される成果を挙げた。これにより、昭和41年特別史跡に指定された。指定に伴い、多賀城廃寺跡環境整備事業が昭和41年から3か年事業で行われた。遺跡の補足調査も行われ、主要伽藍の整備が44年3月に完了。これは、史跡環境整備事業としては枚方市の百済寺跡につづく全国2番目の事例。現在も歴史公園として活用されている。7 保存について多賀城跡や廃寺跡は、全国の遺跡でも極めて遺構保存状態が良好。指定地域内には国有地が所在。政庁地区の北西部にはかつて民家がありその南側は耕作され、その様子は近世末の『仙台金石志』にも記録されている。しかし正殿のある場所は「御座の間」と称され耕作されることなく削平をまぬがれたようである。明治9年、佐藤孫四郎は政庁正殿跡付近の土地1反7畝14歩を国に献上した。天皇東北巡幸を機に献納したと言われる。こうして正殿跡を含む政庁地区の7分の1が官有地として保存されることとなった。また多賀城碑付近の土地も官有地として早くから保護されている。さらに、献上した土地について明治31年には地元の佐藤文助と佐藤孫十郎が私費管理を願い出て許可されている。政庁地区の保存をはじめ多賀城跡の保護に中心的役割を果たしたのは、地元の人々であったといえる。8 多賀城神社政庁跡の北西部隣接地に、多賀城神社が建立されている。もともと政庁域内の北東部にあったもので、社殿は国から払い下げを受けた旧海軍工廠の奉安殿を昭和27年地元有志の手で移設したものである。その契機は、昭和8年の明治天皇「聖蹟」指定である。この時代の天皇中心の国家主義的体制の影響を受けて、多賀城跡も南北朝の義良親王(後村上天皇)と結びつけられ、聖蹟の性格を付与され象徴の一つとして利用されることになったものと思われる。昭和9年には、多賀城村史蹟名勝保存会が組織され、翌年同会の手で「後村上天皇御坐之處」碑が正殿跡北西隅に建立され、御霊祭が挙行されて神社創建の機運が一気に高まったのである。この年の宮城県議会には、多賀城神宮創建要望の件という意見書が提案され採択されている。しかし計画は戦争により中止となり、昭和23年にはGHQにより聖蹟の指定解除が行われた。現在の多賀城神社は昭和48年に政庁地区を史跡公園として環境整備するにあたり、現在地に遷したもの。高倉敏明『多賀城跡』(菊池・坂井 企画・監修「日本の遺跡」30)同成社、2008年 から
2011.11.19
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1 序東北の古代史に大きな位置を占める多賀城だが、その認識は戦前戦後を通じて、蝦夷討伐の軍事基地とするのが大方のイメージだった。それが一変したのは、昭和30年代からの発掘調査の成果である。防御施設と見られていた外郭、内郭の区画施設が、政治の場を囲む施設であったことが確認された。また、昭和44年から城外の調査によって町並みの存在が明らかになり、真贋論争のあった多賀城碑は、平成10年に国の重要文化財に指定され、真碑であることが明らかとなった。かくして、多賀城の環境は、それまで考えられていた多賀城跡と付属寺院たる多賀城廃寺跡だけではなく、周辺の「国府域」と捉えられる広い地域に及んでいたことが明らかになったのである。2 近世の認識多賀城跡について最初の文献は、延宝5年(1677)ごろ成立の『仙台領古城書立之覚』であり、この記述は政庁跡の規模に匹敵することから、多賀城跡を政庁地区のみの狭い範囲で捉えていたと理解される。さらに、壷の碑の記載内容と結びつけ、この遺跡を大野東人の居城と位置づけている。佐久間洞巌が享保4年(1719)刊行した『奥羽刊蹟聞老志』では、古瓦と礎石の存在を記載しており、多賀城を古代に限定して碑の記載から大野東人が築いたものと理解した。安永3年(1774)に書かれた「市川村風土記御用書出」では、かなり広い範囲が多賀城碑と認識されており、本丸、二の丸、三の丸と区別され記載されていることから、遺跡の構造を中世以降の城館と同様に捉えていたものと思われる。また、同年の「高崎村風土記御用書出」にある多賀城廃寺跡とみられる「塔の越原」の記述は、すでに多賀城と関連する寺院の跡ととらえていたことを示す。3 近代の研究明治から大正には、絵図や図面が作られる。最初は、「多賀城古趾の図」と題する絵図で、木版により明治22年に刊行された。明治天皇東北巡幸の歳に境界捜索に従事した地元の人の図面に基づき、地形の上に築地や礎石の様子を記すなどわかりやすく紹介し、遺跡研究に大きく貢献した。明治44年には、大槻文彦が「多賀城多賀国府遺蹟」を発表し、スタジア測量法によるかなり正確な実測平面図を掲載。また、大槻は、明治32年に「陸奥多賀国府所在地考」、明治35年に「多賀国府考」を発表して従来の説を批判し、多賀国府が南北朝期まで存続したと主張した。さらに、多賀城跡を積極的に「聖蹟」と位置づけようとする意識がみられ、近世以降「御座の間」と称されている地について義良親王(後村上天皇)と結びつけ、福島県の霊山に対抗して聖蹟としての正統性をも主張している。4 史跡指定大正8年に史蹟名勝天然紀念物保存法が成立すると、多賀城跡も史蹟指定の候補に挙げられる。大正11年10月、史蹟「多賀城跡附寺跡」として指定された。昭和2年刊行の『宮城県史蹟名勝天然紀念物調査報告』に、委員会会長清水東四郎調査として「多賀城址』が掲載されている。これはそれまでの研究の集成で、以降の多賀城研究に大きな役割を果たした。(つづく)高倉敏明『多賀城跡』(菊池・坂井 企画・監修「日本の遺跡」30)同成社、2008年 から
2011.11.18
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昨日最高裁では、裁判員制度を合憲とする大法廷判決があった。憲法理論上たしかに問題点が論議されたことがあったが、今は昔の感がある。海の向こうの米国では、オバマ大統領の医療保険改革が憲法論議になっているそうだ。国民に保険加入を義務づける法律が違憲だという共和党系の州知事等の主張だ。連邦最高裁はこれを受理し来年に判決を出すという。さすがに自由の国というのか、所変われば考えも違うものだ。日本では、皆保険が根付いているから、違憲論などないだろう。むしろ、皆保険を転換する立法案が出ようものなら、生存権保障に反するとの反論がでるかも知れない。このあと、すこし理論的な考察をしようと思っていたが、時間がなくなった。後日。
2011.11.17
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朝晩寒くなりました。泉ヶ岳は初冠雪との報道。仙台市内も、もう初雪が舞ってもおかしくないですね。こんな時に風邪やインフルが流行します。みなさん、ご自愛下さい。我が家は今のところ大丈夫ですが、子ども達の学校では体調を崩した友達が結構多いようです。そう言えば私の仕事の関係でも不調の方がいます。季節のせいか、もともとの激務のせいか。みなさん、ひたむきに頑張るのですから。機を見て、体を休めることがかえって良いのかも知れません。まもなく冬です。タイヤ交換を心配する時期になりました。雪と言えば、あの震災の日、津波の跡の空を雪が舞いました。季節は着実にひとめぐり、ということです。
2011.11.16
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読売新聞地域版に出ていた「高点順得票」が興味深い。激戦の跡が期せずして浮き彫りになっているような気がする。 最高は斎藤氏(無元、石巻牡鹿)16,106票。次いで、渡辺氏(無元、登米)14,153と続く。第12位の熊谷氏(自現、登米)は11,585票を得ながら、落選。最高点の落選者となる。 以下、全81人中で最低点の当選者は、第68位の天下氏(共新、塩釜)で4,920票。同氏より低い人はもちろんすべて落選者だが、同氏より高点を得た候補者の中でも、上記の熊谷氏はじめ、18人が落選している。 理論的に考えてみる。高点ながら落選する条件とは、1 候補者の数が多い2 候補者が票を均等に近く分け合う3 投票率が上がる4 選挙区定数に対して有権者が多い(一票の格差)などの場合だろう。低位ながら当選するの条件は、この逆だ。 概して言えば、高点落選者の出現は、選挙の関心が高く(投票率高い)、選挙戦が盛り上がった場合(票を分け合う)ということになると言える。候補者の数そのものは決定的でなく、票を分け合う有力候補の数が意味を持つだろう。 最高点落選者が出たのは登米選挙区。いずれも保守系の現元3氏が票を取り合った。投票率53.77%は前回から11.53ポイントも落ちてしまったが、定数あたりの有権者が他より多少高いことも背景にあるだろう(分析していない)。トップの渡辺氏は冒頭記載の通り全県でも2位。選挙区2位の只野氏は全県10位で、12位の熊谷氏(落選)とほど近い順位。激戦を物語る。 対して、天下氏の塩釜選挙区の場合、2位当選の同氏と落選した3位、4位の候補者が、3千から4千票で、票を分け合ったことが、低位当選者を生んだと考えられる。トップ当選の佐藤氏(自現)が6,577票。もっと独走すれば、2位当選票数ラインがさらに下がった可能性もある。塩釜選挙区の投票率は43.54%である。前回対比2.09ポイント減は、全県的には良い方だ。 ところで、投票率の前回比でいうと、実は上昇したところもある。亘理が60.30(7.93増)、角田・伊具が65.66(3.63増)。亘理の場合は、落選した新人山本氏も10,125票を獲得し全県高点順位は22位と検討した。角田・伊具は、減員で1つだけのイスをめぐり、現職2人と新人が三つどもえの超激戦だった。 これら以外では、栗原選挙区。落選した熊谷氏(無現)は11,343票で全県第15位。全体でも熊谷氏(登米)に次ぐ、2番目の高点落選だ。栗原も現職と元職の厳しい戦いで、3人が票を分け合った地だ。■関連する過去の記事(2011宮城県議選) 低かった投票率 宮城県議選(2011年11月14日) 県議選の印象(2011年11月14日) 県議選 石巻はどうか(2011年11月11日) 県議選 激戦の仙台市内3区(2011年11月10日) 宮城県議選 激戦区を追う(2011年11月9日)
2011.11.15
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投票率は、予想はしていたが、それにしても随分低調だった。県全体で41.69%で、前回50.45から9ポイントも落ちた。中でも仙台市は34.97%である(前回46.40 前々回47.79)から、前回から11ポイント以上も急落。仙台市の区別内訳は、青葉区35.59(前回46.95)、宮城野区31.24(43.69)、若林区34.65(44.85)、太白区36.76(47.10)、泉区35.69(48.22)である。投票熱の冷めたことが、みんなの党の押し上げにつながらなかったという感じだ。石巻市48.13(前回53.19)、大崎市42.77(51.35)、塩竈市43.54(45.63)、気仙沼市45.13(54.25)なども、情勢分析で伝えられた当落予想の厳しさほどには、投票率は熱していなかった。南三陸町の36.71%(なお前回、前々回とも無投票)という数字は、涙が出そうなほどだ。登米市53.77 栗原市59.25も、かなり低いと言って良いだろう。詳しい分析は時間がないが、震災でそれどころでない、民主政権の迷走に愛想尽かした、というあたりか。■関連する過去の記事 県議選の印象(2011年11月14日) 県議選 石巻はどうか(2011年11月11日) 県議選 激戦の仙台市内3区(2011年11月10日) 宮城県議選 激戦区を追う(2011年11月9日)
2011.11.14
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会津若松市には、「蒲生氏郷公ゆかりネットワーク共同宣言」があって、共同宣言都市は同市のほか三重県松阪市と滋賀県日野町だ。これは蒲生氏郷の前任地と生誕地であり、氏郷については、黒川城を七層の大天守閣として鶴ヶ城と命名し、郭内の町屋敷を郭外に移し新しい町つくりを行った。また、地名を若松に改め、酒・漆器などの殖産政策を行ったと解説している。蒲生氏郷は文武両道、戦国一の優秀な大名だったとの評もある。39歳の若さで死んだが、その優秀さゆえの毒殺説も出たほどである。秀吉に見込まれ政宗の抑えとして会津黒川に置かれた。あのNHK大河では寺泉憲が演じた。井沢元彦「検証 もうひとつの武将列伝」(有楽出版社、2005年)では、秀吉と並び称された優秀な氏郷のことを、その秀吉が評した言葉が紹介されている。------------秀吉が家来の若者に語った言葉。「信長様が率いる5千の兵と氏郷が率いる1万の兵。お前ならどちらと共に戦うか」との問い。若者が答えあぐねていると、秀吉は「私なら信長様につく。蒲生軍の首を1千取った必ず氏郷の首が入っているが、信長軍は4千9百の首を取っても信長様の首は入っていないからだ」と述べたという。氏郷は非常に優秀な大将だが、真っ先に敵陣に切り込んでいく猪突猛進的な一面を備えた人物だと、秀吉は評したのである。------------
2011.11.14
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まずは4議席を得た共産の躍進。若林も僅差の次点。投票率が下がると思ったが、仙台市が34%とは随分低調だった。このためか、みんなの党はさほど伸びなかった。角田・伊具はやはり激戦だったが、市部が勝った感じ。石巻はきれいに1万台づつ差が付いたのは意外。詳細は後ほどに。
2011.11.14
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畑村洋太郎『「想定外」を想定せよ!失敗学からの提言』(NHK出版、2011年8月)に書いてあったことで印象に残った。安全を守るためにセンサや制御技術を駆使して守ろうとする制御安全の思想を過信すると、本質的な安全がおろそかにされる。六本木回転ドアの事例やJR電車ドアのベビーカー引きずり事故などでも言えるように、本来補助的な思想に過ぎず、本質安全を一層高めたり使いやすさを加える役割に過ぎない「制御安全」に依拠しすぎると、例えばセンサの誤作動や、制御安全の設計自体の過誤に対応できない。物の動かし方をゆるめて危険そのものが起きないようにする「本質安全」に優るものはないことを、忘れてはいけない。こういうことだと思う。これは、まさに安全の本質論で、さまざまな場面に言える。コンピュータシステムと情報管理もそうだ。また、社会システムや組織管理論にも言えると思う。例えば、あいつに任せているから安心だ、定期監査しているから大丈夫だ、という「安全のための仕組み」に安心していると、現場の不正を見逃す。現場に足を運ぶことをせずに、本末転倒の安全感覚に安閑としてはいけないということだ。さて、上掲書著書の畑村氏は、東日本大震災から学ぶことにも言及している。「想定外」とは一定の可能性の設定の外側に人為的に仕切られただけのことで、可能性がある以上起きるものは起こるのだから、想定をせずに済むものではない。また、ほんらい防潮堤は津波をうまく逃がしながら人間が逃げる時間を確保する思想であったと思われるのに、防潮堤の存在に絶対的安全を委ねてしまったのでないか(田老の防潮堤の事例)、などが述べられている。安全はハードだけで制御できるものではない。■関連する過去の記事 明治三陸大津波から110年(06年6月16日)
2011.11.13
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姫路のB-1グランプリに、ことしも日本一目指して浪江のご当地グルメなみえ焼そばが出展。NHKニュースに出ていた。現在町外避難状態の同町だが、会場には町の呼びかけで町民も集まったとのこと。全国ニュースで見ると、過去最高の63団体が参加。もちろん、石巻焼きそば、登米・油麩丼(あぶらふどんぶり)なども登場している。姫路市長や兵庫県知事も参加して開幕。大勢の人で賑わっている。頑張れ東北のご当地グルメ。ありがとう姫路、兵庫。イベントのサイトから、東北の出展を拾ってみました。(送り仮名などの表記はそのまま)------------八戸せんべい汁十和田バラ焼き登米・油麩丼久慈まめぶ汁横手やきそば秋田かやきかほく冷たい肉そばあいがけ神代カレー石巻焼きそば男鹿しょっつる焼きそば黒石つゆやきそばなみえ焼そばいわてまち焼きうどん北上コロッケ本荘ハムフライ青森生姜味噌おでん
2011.11.12
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スッキリとした秋晴れ。先ほどまで市内中心街におりました。二番町と中央通りが交差する横断歩道のあたりは、視界に候補者3人の人物や選車が同時に入るくらいで、選挙戦最終日を実感させました。ちなみに私が見た選車2台は、前回記事で記した当落上の大物2人でした。もう1人は新人で、中央通り入口で歩行者に訴える戦術。選挙の街から家に戻ると、静かで別世界のようです。
2011.11.12
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昨日と同様に朝の河北新報記事の情勢分析に基づいて、激戦区の当落を考えたい。■前回の記事 県議選 激戦の仙台市内3区(2011年11月10日) 宮城県議選 激戦区を追う(2011年11月9日)■石巻・牡鹿(定数5) 記事では、いずれも自民系無所属の2氏、元職S氏と現職M氏が優位。共産新人の元市議M氏が続き、その後を4人が追うという分析だ。2議席を争う4人とは、記載順に、自民現職S氏、自民元職I氏、民主現職K氏、民主現職S氏だ。いずれも知名度も実績もある人たちだが、それにしても共産新人が先行したのは私には意外だ。地元に浸透し実績のある人物なのだろうが、仙台や塩竈以外で共産県議誕生は珍しいだろう。反面で民主の苦しさは歴然、ということか。■角田・伊具(定数1)定数が減って現職は必ず落ちる。そこに新人も加えて3人の争い。数字だけでみれば県内最激戦とも言える。記事では、自民現職T氏、自民系無所属現職H氏、民主新人T氏の順に記載している。地理的に放射能問題が争点かとも思われそうだが、記事では触れられず。もっとも、朝日や読売の地域版では、民主新人が放射能対策を掲げて票を集めようとしているように描写していたが。選挙公報では、現職2氏は放射能対応の推進などという一般論で終わり、民主新人は、健康被害調査をやりますと約束している。どれだけ対立軸となっているのか。都市部と違い、これで浮動票が左右されるという地域でないということかも知れない。そのほか、激戦の選挙区も多く、複数区でも単独区でも現職が落ちる可能性がある。黒川は、民主の女性新人に注目していた。かつて国政にも挑んだ人物だが、世が世なら民主人気に後押しされたのだろうが、富谷で無党派と女性票をかき集め急追、という表現にとどまっていた。これも国政の混乱の反映と言えるだろう。総じて、自民現職の議席保持がめだつ。中でも石巻は象徴的だ。前回に続いて現職元職の厳しい生存競争が基本にあるとは言え、それにしても知名度ある民主現職2氏が落選もあり得ないではない異常さだ。国政の迷走だけでなかろう。いくら財務大臣を出した地元とあっても、被災地の肌で感じた投票選好が民主に流れはないということか。今回の県議選を経た勢力図は、従来とかなり様相を異にするものになりそうだ。民主の減衰、みんなの登場、共産の勇躍がキーワードか。いや、ちょっと気が早かった。開票後に、じっくり考えたい。まずは皆さん、棄権せずに投票をお願いします。
2011.11.11
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昨日も県議選について記したが、河北新報の情勢分析が今朝出ていた。もちろん分析の正確さは新聞社にかなわないので、記事を基にして、激戦区について一市民の感じる風(個人の感覚なので偏っているだろうけれど)を記してみたい。■前回の日記 宮城県議選 激戦区を追う(2011年11月9日)■青葉選挙区(定数7)記事によると、青葉区(定数7)は、現職4人が先行。民主系無所属K氏。電力労組をバックにした無所属K氏。この2氏の後を、公明公認のI氏、共産公認E氏が続いて、これで4人。ここまでは「先行」との評。次いで、民主の女性現職Y氏は、失速回避に懸命との説明だが、当選圏内という評だろう。そして、後続は、4人が残るイス2席をめぐり当落線上の激しい争いを最終盤まで演じる、ということだ。順に、6選を狙う自民公認の元議長現職I氏。自民元職のN氏。民主現職の元仙台市議会議長S氏。みんな公認新人K氏。この4人だ。無所属新人I氏は離れた。当落線の4人から2人。確かに激しい戦いのように思う。特徴は、役者のカラーがはっきりしていることでないか、と私は感じる。まず、自民現職I氏はバリバリの保守論客。選挙公報にも県議会を代表する保守政治家の論客と自ら称している。TPPは日本を滅ぼすとして断固反対、郷土愛や愛国心を謳い、民主党政権の反日・左翼政策の阻止などを明記している。自民元職N氏は、水泳連盟会長。国会議員選挙にも出馬した。人脈は広く知名度も高い。ちなみに、前回はI氏が7席目に滑り込み、N氏は408票差で次点だった。民主現職S氏は前回4位だが、今回はどうか。市議会時代からの個人票をどれだけ持っているかわからないが、前回は同じ民主の女性Y氏とともに1万2千票前後を獲得した。だが、今回は民主の逆風で満帆ではないように思われる。国政与党の混乱が足を引っ張らないか。新人K氏は、みんなの党の非増税路線がどれだけ票を集めるかだろう。かなり、おもしろい存在だ。■太白選挙区(定数5)前回得票は、民主現職F氏が2万票を超えてトップ当選、次いで公明現職O氏1万3千票、自民現職K氏1万2千票、自民新人S氏11,324票、共産現職Y氏11,244票、社民現職K氏が11,196票と48票差で落選、という相当な激戦だった。今回はどうか。朝の記事によると、自民K氏と公明O氏の2現職が安泰。中位は大混戦。記事記載の順番に、民主現職F氏、みんな女性新人A氏、共産現職Y氏、自民現職K氏、そして前回苦杯の社民元職K氏が激しく追い上げているとの評。この中位5人のうち2人が落ちる。公明を除く主要5政党の当落が分かれるという意味でも、どの政党が選好されるのか注目の激戦だ。ここでも選挙公報を見てみる。放射能についての各氏の見解をみると、共産Y氏は放射能測定と除染、子どもの健康調査を明記しており、もっとも旗色鮮明。社民K氏は、測定と情報公開強化、という書き方。公明O氏は、全県民に健康調査の実施を要請、と。自民S氏は、安全監視体制の強化と風評被害対策、という書き方。党派によって相当スタンスの幅が広い。太白区でどれだけ有権者がこのイシューを重視するか。■泉選挙区(定数5)今朝の記事では、公明現職I氏、自民系無所属現職副議長O氏の2人が抜け出し、次いで自民現職K氏、みんな新人M氏が当選圏ということか。最後の1議席を争うのが、3人。記載順に、民主現職元教員S氏、自民女性現職T氏、共産新人G氏の3人だ。ここも、混乱の国政与党、放射能対策などがどれだけ重視されるかで分かれるのかも知れない。自民の現職T氏は、選挙公報にTPP反対を明確に唱えているわけではないので、女性票の動向と支援衆院議員の浸透度、また市民の民主政権批判度合い、さらに投票率などの要素で当落が決まるという感じだろうか。------------明日の朝刊には、石巻、角田・丸森、栗原、登米などの激戦区情勢が載るだろう。時間があれば明日も記してみたい。
2011.11.10
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異例中の異例措置で延期された宮城県議選。実のところ、選挙どころではないのだが、政治日程は粛々と進んで、あっという間に次の日曜が投票日だ。激戦区として挙げられるべきは、今回もまずは石巻だろうと思う。新人はなく、現元の6人が争う。 前回平成19年は定数5(石巻3桃生3牡鹿1を石巻5と東松島1に再編して最初の選挙。実質的に減員1)に現職6人全員が出るという究極のサバイバル。今回は定数5に7人が出るが、現職だった1人は女川町長選挙に転じたので、7人のうち現職は4人。そして2人が元職、割って入ろうとする共産の新人1という、やはり激戦レースだ。民主2と自民系3という構図が変わらないとすれば、元職の誰が滑り込むかが焦点。 ほかに注目は、太白区か。定数5に、県内唯一、主要政党の公認候補が出そろっている。読売地域版の記事も踏まえながら記すと、自民は、一枚岩でない民主の弱点を突き、現職2議席死守をめざす。前回2万票を超えた民主現職は逆風にあえぐ。8月の市長選で議席獲得と拍車のかかる「みんなの党」は、増税なき復興路線を掲げて、新人の議席獲得をめざす。公明は被災者支援の実績を強調し、組織戦を強化するだろう。実力者候補を擁しながら前回次点に泣いた社民は、議席奪回をめざし福島党首を投入。前回最下位ギリギリの共産は、相変わらず大企業優遇の村井県政批判。増税やTPPの方向に対する明確なアンチテーゼとして、みんなの党、共産、社民にどれだけ集まるか、という構図でもあるが、この意味での流れは、さほどないように私は感じる。候補者の個人の実績と魅力によって、たとえば社民の議席奪回はあるかも知れない。放射能と健康調査問題が争点となれば票が浮動するかも知れないが、これが明確な争点となっているかどうか、よくわからない。結局、自民2、公明1、民主1、最後を社民、みんな、共産で争うという感じだろうか。結構激しいような気がする。 定数2(減員1)を現職2元職1で争う登米、定数1(減員1)を現職2新人1で争う角田・伊具なども、激戦だ。今回は、こちらも余裕がないのでさほど分析もできない。とにかく候補者には真剣に県政を考えて欲しい。
2011.11.09
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すでに先月22日に読売から戦力外通告の公表がされていたが、今朝の新聞にも育成の自由契約選手として、木村正太の名が出ていた。一軍であれだけ活躍して、ケガに泣きイースタンの登板さえできない状態のようだった。故障を押して野球を続けるというのなら本人に酷だし、転身して新たな才能を開花させることも、実は必要なのかも知れない。体の状態と当の本人の意思は、報道もないので良くわからないが、野球を続けられる状態でいて、本人の意欲もあるのならば、是非イーグルスで活躍の場を与えてあげられないだろうか。素質は実証済みだ。東北出身ということに拘るつもりはないけれど、もともと少ない逸材だから、東北で大事にしてやりたい。地元で暖かく迎えることはできないだろうか。
2011.11.08
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先週のこと、新しい国語辞典が欲しいと小学生の娘が言う。明日学校に持って行くからすぐ買ってくれ、と。家にあるやつで良いじゃないか、言葉なんてそんなに変わらないし、と30年くらい昔の辞書を持たせてやることになった。ただし、今回は納得してもらったが週末に新しい辞書を買う約束になった。地球温暖化が載ってないじゃないか、という娘の鋭い意見が勝ったのだ。 さて土曜日の夜に、駅前の丸善で真新しい国語辞典を買ってやった。どれがいいと聞かれたが、何種類か並べて開いてみて娘自身に選ばせた。念願かなって新品を手にした我が子だが、しかし、明日からは開かずに本棚におさまるだけだろう、そう思うと、また親のケチ根性が湧き上がってくる。今が大事だ。辞書を開かせなければならない。 日曜は私もヒマがあったので、珍しく朝から社会の勉強している娘に向かって、人名はどこまで辞書にあるのかな、徳川家康はあるだろうけど伊達政宗は出ているかい、と水を向けると喜んで辞書を開く。載っていない、でも、独眼竜のところで伊達政宗のことと書いてあったよ、と反応。よしよし、卑弥呼や小野妹子はあるか。娘もどんどん読み始める。夕方にテレビで出てきた意味のわからない単語も、いつもどおり親に聞いて来るので、ヨシ来た、それは辞書を開いてみろ、と。娘さっそく手を伸ばす。その後は、辞書ゲームやるぞ、と我が子が目をつぶって開いた任意のページで指をあてた語句の意味を、親が答えてみる。当然辞書どおりには答えられず、はずれると子は喜ぶのだが、実は言葉の意味を解説しようとする作業は実は難しくもあり、また面白くもあるものだ。そんなことの一片でも伝われば良いのだが。 私は高校生の頃、古語、漢和辞典と英語辞書(LDCE)は自分のものを買った。英和は兄のものを活用したし、国語辞典は家にもなかったと思う。ほかにさほど書物もなかったので、暇に任せて辞書の解説欄を読みふけって文法や歴史や発音を我流で理解したり、似たような言葉を比較したり集めたり、また、たまに誤植を見つけて喜んだりして、そんなことがある程度は言葉の豊かさや歴史文化の悠久さに目を開くことになったのではないかとも感じている。 ことばの世界に我が子はどう向き合っていくのだろうか。自分なりで何でも良いから、おもしろさを見いだして欲しい。親は何をどうやって助けてあげられるのだろうか。 ともかく今は、本屋に払った3千円のモトをとらなければ。一日二日なら真新しい辞書を手元に置くだろうが、明日にも辞書は娘から離れるかも知れない。ああもったいない。明日もまた、ケチ親父の本領発揮だ。
2011.11.07
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三大お家騒動を前に記した。数え方はいろいろだろうが、伊達騒動がカウントされることは間違いないのだろう。■関連する過去の記事 天下の三大お家騒動(2011年11月3日)別な文献で、「江戸時代の御家騒動」として一覧表に6つが紹介されている。江戸っ子の耳目を集めた代表的なものという趣旨だろう。(江戸文化歴史検定協会編『江戸諸国萬案内』小学館、2010年)○ 鍋島騒動 正保2年(1645)落着 佐賀藩○ 黒田騒動 寛永10年(1633)落着 福岡藩○ 伊達騒動 寛文11年(1671)落着 仙台藩○ 松山騒動 寛保元年(1741)落着 松山藩○ 加賀騒動 延享4年(1747)落着 加賀藩○ お由羅騒動 嘉永2年(1849)落着 薩摩藩伊達騒動についての説明はこうだ。------------〔騒動の概要〕万治3年(1660)家老の陰謀によって伊達綱宗が隠居させられ、2歳の亀千代が伊達兵部・田村右京の後見を得て家督を相続。しかし亀千代毒殺未遂事件があり、兵部と右京は配流・閉門の罪となる。〔語り継がれた内容〕歌舞伎「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」の題材。前者は忠義の乳母が自分の子を身代わりに幼君を守り抜くという物語。------------刃傷について触れていないが、歌舞伎演目では乳母政岡の忠義がクローズアップされたためだろうか。江戸庶民に大いに受けたのだろう。
2011.11.06
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地図を眺めていたら、郡山市の阿武隈川沿いに、日和田町八丁目(ひわだまちはっちょうめ)を見つけた。住居表示の何丁目ではなく、字名としての地名のようだ。学生時代に郡山出身の人の実家の住所が、郡山市○○町××字...とあって、市の中に○○町大字小字が続く場合もあるのかと気に留めたことがある(その方は熱海町だった)。市町村の次には、住居表示の町名が続く場合以外には、大字小字番地のパターンしかないと思っていたので、新鮮だった。周辺市町村を大同合併した際に、旧町村名を地名にそのまま残したのだろう。むろん今なら、平成の大合併の際の配慮で、珍しくはないが。なお、正確には「郡山市」の次は、「日和田町」「八丁目」ではなく、「日和田町八丁目」という一つの地域名のようだ。「日和田町高倉」「日和田町梅沢」などが同列の関係にある。これらの次には「字○○何番地」となるようだ。また、この「日和田町八丁目」などと同列の関係にある地名に単なる「日和田町」もある(例えば市行政センター所在地は「郡山市日和田町字広野入5-1」だ)。さて、今日気になったのは、「八丁目」の方だ。仙台にも六丁目(ろくちょうのめ)がある。仙台の場合は、鎌倉時代の中期頃、時宗開祖の一遍上人が諸国を遊行してこの地に来られ、ここで念仏弘通を行われたとき、道ばたの平らな石に六字名号すなわち南無阿弥陀仏の六字を書かれた。この六字の銘がそのまま石に刻んだように浮かび出たのが六字の名号の碑で、地元では「六字の銘」と呼んでいたが、後世訛って六丁目というようになり、そのまま地名になった。また、往昔念仏弘通の行われたところと言えば、六丁目の「六丁」は、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)の音から訛ったものであろうか、「目」は昔の開墾地である名田の略とも見られる。名田とは開墾等によって取得した田地に取得者の名を冠らせた所有地である。(この部分、菊地勝之助『名数みやぎ郷土小事典』宝文堂、1973年、1987年復刻 から)ところで地図に目を戻して、八丁目から阿武隈川を東に渡ってみると、こんどは「西田町三町目」がある。「にしたまちさんちょうめ」だ。郡山市に編入前の西田村の区域だ。(私の地図は「にした」だが郡山市サイトではnishidaのようだ)。田村郡の西端にあることから昭和の合併で西田村と命名されたことに由来するようだが、編入後は、「日和田町八丁目」のように、結合した一つの地域名として扱ったのだろう。気になるのは、西田町の方ではなく、後半の部分の漢字で、三「丁」目ではなく三「町」目だ。例えば市の西田行政センターの所在地は「郡山市西田町三町目字桜内259」となっている。郡山市立三町目小学校(郡山市西田町三町目字竹ノ内129-1)もある。八丁目と三町目。それぞれどんな歴史を反映した地名なのか、大変気になる。また、旧安積郡と旧田村郡だが、阿武隈川を挟んだ関係だから、深いつながりもありそうだ。
2011.11.05
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4日の秋田のニュースで出ている。昼頃、秋田市内でお年寄り男性がバイクで走っていて(秋田さきがけwebではオートバイと表現)、道路脇から飛び出してきた体長1mのクマと衝突したというのだ。男性は転倒して軽いケガ。近くには小学校もあるのだという。その地点だが、男性は市道を秋田市河辺方向から秋田赤十字病院方向へ進行中。市道右側のやぶから飛び出したのだそうだ。上北手小学校まで550mの場所だ。地図を開いてみたが、さほど人里を離れた場所でもなさそうだ。
2011.11.05
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津軽藩祖である英雄津軽為信の意外な一面が見えるという。井沢元彦さんの解説だ。■井沢元彦『検証 もうひとつの武将列伝』(有楽出版社、2005年)から津軽藩とライバル南部藩は仲が悪く、江戸時代には南部侍による津軽藩主暗殺未遂事件(檜山騒動)が起きている。主犯で獄門に処せられた下斗米秀之進(相馬大作)の言い分は、元家臣の津軽が大名として南部と対等のつもりで居るのがケシカラン、というものだった。津軽藩の藩祖は大浦為信。津軽を統一した上で南部の支配から独立しようという野心を抱いた。元亀2年(1571)、22歳の為信は突如南部氏の津軽支配の拠点である石川城を急襲し、城主南部高信を討ち取った。その後、南部氏の執拗な抵抗を払いのけ、17年かかって津軽を統一した。その間中央では、信長が倒れ、関白秀吉が絶頂を極めた。為信は情報戦略にも巧みで、秀吉に使者を送り津軽の支配権を確保(本領安堵)しようと考えた。長く続いた戦国の世では、戦国大名は「切り取り次第」、つまり領土拡張は勝手というのが当たり前で、みなそうして領土を広げた。為信がしたことも主人南部氏に対する反逆だが、それを言えば信長も秀吉も同罪である。だからこそ、北条氏は秀吉の覇権を認めず滅ぼされた。東北の雄伊達政宗も「私闘」を繰り返したことで秀吉に家をつぶされそうになった。秀吉が天下人となることで、それまで当たり前だったことが「私闘」とみなされ、公儀に対する反逆ととらえられるようになった。この変化を日本の北辺にありながらいち早く気が付いたのが、為信である。為信は急ぎ京にのぼる。為信の非凡なところは、五摂家の筆頭近衛家を訪れ、自分たちは近衛家の裔であると認めてもらい、牡丹の紋を授かったことだ。多額の金品を贈ったのであろう。次いで秀吉の寵臣石田三成にも取り入り、ついに秀吉から津軽の領有を認められた。これを機に、姓を津軽と改める。南部ははらわたの煮えくりかえる思いでこの決定を聞く。もし南部が先んじて秀吉に拝謁し、南部の駿馬を添えて、為信は反逆の臣と願い出ていれば、おそらく討伐の許可は簡単に下りただろう。そうなっていたら、為信は南部と秀吉の連合軍を相手に滅亡したことは間違いない。南部にはそういうセンスがなかった。良く言えば朴訥、悪く言えば鈍重である。だからこそ余計に津軽人が憎らしいのである。為信は世渡りがうまかった。関ヶ原は参戦せずに住んだし、大坂冬の陣、夏の陣も徳川に味方した。この時既に為信は世を去っていたが、徳川家に人質に出した三男信枚(のぶひら)を後継ぎに指名した。信枚は家康養女満天姫(まてひめ)を正夫人とし、外様の中で初めて東照宮を城内に建立した。このことは重大な意味があり、この城を攻めることは徳川家に弓を引くことになるわけで、絶好の防衛策である。もちろん、潜在敵国南部に対する押さえに他ならない。ここまでいうと、津軽為信はこすっからくて悪知恵にたけたイヤな奴だと思われるだろう。ところがどうも違うようなのである。為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、館神という守り神の社があった。表向きは稲荷社とされたが実は稲荷様の後に厨子があり、「館神」はその中に安置されていた。だがその厨子は江戸時代遂に一度も開かれず、開かずの宮と呼ばれていた。明治になってその扉が開けられると、その中には、なんと豊臣秀吉の木像が入っていた。為信は津軽家を大名にしてくれた秀吉の恩を忘れないために、幕府による改易の危険をかえりみず城内に秀吉を祀っていたのである。さらに驚くべきことに、信枚の側室で嫡子信義を生んだ女性は、石田三成の遺児だったという伝承すらある。もちろんそんなことがバレていたら、津軽家は徳川によって皆殺しにされていただろう。それを恐れぬ津軽人の情義の深さには驚く他はない。
2011.11.04
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こんな三大名数があるのか。菊地勝之助『名数みやぎ郷土小事典』(宝文堂、1973年、1987年復刻)によると、藩政時代のお家騒動の中で、伊達騒動を含めて3つが、天下の三大お家騒動として広く知られている、とのことだ。------------1 伊達騒動 万治元年(1658)伊達綱宗が家督を相続してから叔父宗勝は綱宗の兄田村宗良と謀って隠居させ、綱宗の世千(ママ)亀千代君(二歳)を嗣がせ、家老原田甲斐とともに宗家横領を企てた。老臣伊達安芸宗重はこの野心を幕府に訴え、裁きの直後宗重は原田甲斐の刃に斃れ甲斐もまた刺されて死に、宗勝は松平佐渡守にお預けになったという事件で、歌舞伎や講談にいろいろと脚色された。2 加賀騒動 加賀前田家のお家騒動で、藩主吉徳の臣大槻伝蔵が吉徳の妾お貞と結託してお貞の子を嗣君とし主家を横領しようとした事件である。3 鍋島騒動 佐賀鍋島家のお家騒動で、後に猫怪談などに付会されて鍋島猫騒動といわれたものである。また講談、戯曲類に脚色され、更に実録本では「佐賀怪猫伝」、講談では「佐賀夜桜」などによって伝えられている。------------カウントの仕方はおそらくさまざまなのだろう。福岡藩黒田騒動を加える見解もあるようだ。
2011.11.03
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山形県の最上川で発見された江戸時代の小判の話。24時間テレビでも川の捜索が行われたので私も知っていた。その経緯を下記の書物を参考に記事にしたい。■八重野充弘『埋蔵金発見!解き明かされた黄金伝説』新人物往来社、2010年------------昭和36年(1961)7月31日、白鷹町の最上川で手製の箱眼鏡で魚取りをしていた12歳の上村義実さんが、川底から金色に輝く楕円形の小判を発見。うわさが町中に広まり、約半月の間に小判23枚、二分金9枚、二朱銀358枚がみつかった。白鷹町の人々の記憶には、西村久左衛門の黄金伝説がよみがえった。米沢藩御用商人の西村久左衛門は、米などの産物を舟で酒田まで運ぶため黒滝の改修を藩に提案。財政難のため断られるが、1万7千両の自己資金を投じて工事を行い、米沢と酒田の間の水運を完全なものとし、藩主上杉氏も久左衛門も巨利を博することができた。その後久左衛門は現在の白鷹町最上川河畔に藩のため蔵屋敷を建て、近くに自宅も新築。そして自宅地下に子孫のため財産を埋蔵したといわれる。屋敷がどこにあったか全くわからないが、川っぷちにあった久左衛門の屋敷が洪水で流され小判が川底に沈んだのではないか、と憶測する住民もいた。しかし、見つかった小判はすべて文政2年(1819)から11年にかけてつくられた文政小判で、二分金と二朱銀も同時代。久左衛門の河川改修は元禄6年(1693)から翌年なので、久左衛門埋蔵金説は否定された。ところが、地元の郷土史家が、寛長公御代要覧という史料から、本庄家用人の小嶋俊親の日記の記述を見つけ出した。「天保元年(1830)7月10日、城下(米沢)の大和屋久左ヱ門から、荒砥の清水屋に80両を運ぶ飛脚が、鮎貝、荒砥間の最上川で溺死した。」1830年は文政小判が流通した頃であるし、発見された金銀貨の総額が72両1分なので、金額にも矛盾がない。また、飛脚が溺死した場所は当時の渡し場の近くで、金銀貨がみつかった場所とも一致する。現金輸送飛脚の落とし金とみて間違いないだろう。ただ、残り7両と3分が未回収となる。2008年夏の日本テレビ「24時間テレビ」で地元の子ども達とタレントが探そうと言うことになったが、生放送の当日は豪雨のために川が増水して中止。後日リベンジを図ったが何も見つけることはできなかった。なお、61年に改修された小判その他は、はじめ25名の発見者がそれぞれ自宅で保管していたが、町が埋蔵文化財に指定して一括保存することとなり、昭和41年にかき集められた。時価総額2千万円といわれるお宝は、今、白鷹町役場の出納室の金庫に厳重に保管されている。------------■白鷹町観光協会のサイトに詳しい解説があります。
2011.11.02
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囚人を収容する場所は現在は刑務所だが、古くは牢屋、獄屋、監獄、明治12年頃から暫くの間は集治監と呼ばれていた。我が国で最初に集治監を設置したのは、東京と仙台の2か所である。仙台は明治12年(1879)9月のことである。設立当時は宮城集治監と称し、仙台区郊外の古城址に建設された。東京集治監とともに我が国における刑務所の嚆矢であった。宮城集治監は、中央に見張りの六角五層の塔が高く聳え、六棟の獄舎が放射状に配置されていて、中央棟からの監視が行き届くように設計されたもので、当時の人々はこれを「雪形六出の構え」と形容した。囚人三千人を収容することの出来る設備があった。かの西南の役における国事犯人が囚人としてここに送られたという。宮城刑務所房舎(旧宮城集治監)は、西南戦争の国事犯を収容するためにつくられたもので、明治12年(1879)落成。請負は大成建設の前身である大倉組。中央にルネッサンス風の六角塔を置き、放射状に木造2階建ての6棟の雑居房と独房を配したもので、今は3棟が切り取られている。中央の棟は4階建て、1、2、3階は看守の見張り所となっている。この看守所は組み立て梁を用いた洋風構造である。房舎の内部においては日本在来の牢建築の手法を用いている。獄舎建築としては画期的なもので、香港、シンガポールの獄舎を通じて英国に範を求めたとも言われている。堂々たる大建築で、俗に六角大学の異称で呼ばれた。■菊地勝之助編『名数みやぎ郷土小事典』(宝文堂、1973年、1987年復刻)から■関連する過去の記事 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年8月12日) きょう宮城刑務所から出てきました(2010年11月6日)
2011.11.01
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