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名取市の県農業高校は海岸に近いことから津波で大きな被害を受けていたが、9月から市内丘陵部の仮設校舎に移っている。農業県宮城を支える県立高校の伝統は明治18年に起源するが、その前身の宮城農学校は明治に我が国の三農学校として讃えられた名門である。以下は、菊地勝之助編『名数みやぎ郷土小事典』(宝文堂、1973年、1987年復刻)から「日本の三農学校」の項目を下に引用する。------------我が国の農学校で創設の歴史が古く、また施設に特色があり名門校として校風が高かったのは、札幌、東京駒場、そして宮城の三農学校であった。札幌農学校はクラーク博士などの協力により明治10年に創立。札幌農大(ママ:おだずま注)の前身で、新渡戸稲造、志賀重昂、内村鑑三など多くの異才を出した。駒場農学校も明治10年代の開校で東京大学農学部の前身。横井時敬、佐藤寛治、山崎延吉などの人物が出ている。宮城農学校は、明治14年に設置した県立農事講習所を前身とし、同18年7月に改組して宮城農学校と称し、農学の研究と農事指導において全国的に重きをなしてきた。本校出身の人物に貴族院議員佐藤亀八郎、仙台市会議長佐藤長成、日本専売局勅任技師神田孝一等がある。近年農業高等学校に改組とともに宮城県農業短大を設置するなど地方農業の本山となっている。-----------札幌や駒場は、それぞれ大学農学部として受け継がれたと思われる。宮城は、高校として日本で最も伝統ある農業高校と言えるようだ。念のため、宮城県教委の公立高校ガイドブックの各校の紹介を覗いてみると、宮城農 創立明治18年小牛田農林 明治21年仙台一 明治25年宮城水産 明治29年仙台工 明治29年宮城一 明治30年古川 明治30年亘理 明治31年仙台二 明治33年加美農 明治34年黒川 明治34年佐沼 明治35年仙台二華 明治37年柴田農林 明治41年県工業 大正2年石巻 大正12年(なお、白石、角田、築館、気仙沼、塩釜などは、統合のため平成年代の近年が創立と表記されている。)明治初年に殖産興業の中心はやはり農業だったはずで、創立が早い。ちなみに、東北各県で最も伝統ありそうな農業高校をみてみると(各校サイト)...三本木農業 明治31年盛岡農業 明治12年大曲農業 明治26年村山農業 明治28年福島明成(旧福島農蚕)明治29年会津農林 明治40年人材育成をめざしていち早く設立された学校への期待は大きかっただろう。宮城県農業高校の伝統はすばらしい。がんばれ宮農、がんばれ東北。
2011.10.31
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昨日(10月29日)午後、東北大学の平川新先生の講演を聞いた(広瀬文化センターにて。同センター20周年記念)。震災で被害を受けた古文書の保存に努めておられ、お話の中でも説明があり、またホールでパネル展示もあった。講演で注目されるのは、慶長の津波とそれを受けて復興に邁進した先人の歴史が浮き彫りにされつつあることだ。よく引用される貞観津波は、貞観11年(869)だが、慶長16年(1611)の12月2日(西暦)に大津波があり、仙台藩領死者1783人、盛岡藩弘前藩の死者3千人余。ちょうど400年前だ。例えば若林区の萱場家では、寛永検地帳(土地台帳)が何点かみつかり、「大沼ふち」と記した新田開発が記録されている。古いもので1644年という。ほかにも、新井村の藤田新田、飯田村の三本塚、蒲生などで、1620年代以降の入植の記録が明らかになっている。三本塚では、郷六村から移住した佐藤家が、慶長年中に人馬多数溺死し田畑も荒廃、元和の頃(1610年代)御上より望む者には荒所開発をさせるとのお触れがあり、これにより三本塚に移って田畑15町歩余を開発したとの記録がある。三本塚の寛永検地帳(1642年)には、「汐入悪地」との記載があり、30年経ってまだ津波の塩が抜けていないことが知られる。2千年の伝統をもつ東北の米作りの実力を背景に、津波を乗り越えて新田開発により震災復興を果たした不屈の歴史が、今よみがえる。努力と知恵で再興した先人に学び、自信をもって復興を成し遂げよう。これが平川先生の伝えたい点だったと思う。■参考 慶長津波と震災復興(東北大学による震災6か月後報告会の資料)
2011.10.30
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先週末、思い立って久々に近鉄のDVDを観た。今回は念入りに。北川の代打ホームラン、球団最終試合中村のフルスイング、そして10.19では第2試合問題の2塁タッチアウト、などなど夜更けに見入ってしまったが、中でもコマ送りや逆送りしながらじっくり見たのが「平野執念のバックホーム」だ。昭和54年のリーグ前期優勝をかけた阪急戦。引き分けでも優勝を決められるが、同点8回裏で阪急のチャンス。走者2塁で打者はベテラン阪本。村田辰美のボールはセンター前に抜ける。普通なら2送が生還して阪急勝ち越し、のはずだ。画像を戻して何度みても、その構図だ。しかし、敢然とダッシュするセンター平野が渾身のバックホームを見せる。ビデオを停めてみると、(古い映像と我が家のビデオの性能のためだろうが)本当に送球が白い矢となって突き進む。キャッチャー梨田は、ブロックのためホームから随分三塁寄りに出ているが、おそらくセーフになる覚悟で進路を塞ぎミットを構えている。そして、何とそのミットに白い矢が見事につきささる。それがランナーが梨田めがけて突進するそのタイミングにピッタリ間に合っている。ちょっとでも球筋がそれていれば、もう梨田はタッチできない。奇跡のタッチアウト成功だ。良く言われることだが、平野は前日母を亡くし一睡もせずに臨んだ試合だった。すべてを懸けて挑んだ魂の返球が、運命をひっくり返して相手勝越し点を阻止し、そして秋には球団初のリーグ優勝をもたらしたのだ。私は、昭和63年の10.19第一試合の鈴木貴久の生還シーンとも比較してみた。引退を決めている梨田の執念が生んだヒットを受け、激送する鈴木がロッテ捕手袴田のタッチをかいくぐって追加点をあげる。タイミングは本当に微妙だが、鈴木の走りがまさった。引き分けでも潰える優勝の可能性。何としても欲しい勝越し点を見事にもぎ取った気迫のプレーだった。そして二塁上の梨田は、最初で最後のガッツポーズを見せる。いまの言い方でいえば、野球の底力を存分に示してくれる素晴らしいシーンだ。
2011.10.29
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澱橋は元禄7年四代綱村の代に架けられ、澱町が割り出された。旧澱町の西が角五郎一丁目だ。昔観音渕附近に川内亀岡に渡る舟場があって、角五郎という人気のあった渡守がおったので、角五郎舟場と称し、町名になったと言われる。享保17年(1732)製作の「仙臺城下絵図」には角五郎御木場と記載されており、木場(材木貯蔵所)が置かれていた。幕末には河原に調兵所がおかれ、明治からは陸軍の講武所錬兵場となった。■木村孝文『青葉の散歩手帖』宝文堂、2002年 から名取川の南岸中田は、江戸時代は宿場町で昭和16年までは名取郡中田村だった。中田村は、柳生、前田、袋原、四郎丸の4村が合併して成立。四郎丸は袋原の南東にあって、田んぼを隔てて東は名取市閖上、南は名取市下余田である。名取川と広瀬川が落ち合う地点、四郎丸字落合に観音堂がある。やや上流の袋原にあったのを寛永3年(1626)藩祖政宗が落合に移し堂宇を立て、無畏山落合寺と名付けた。昭和26年名取川堤防工事のため、やや南の現在地に移転。落合観音堂から南1kmに善徳寺があり、その一帯は中世に四郎丸館があったところである。館は、善徳寺を中心に東西300m南北400mの平城で、水濠と土塁に囲まれた要害であったというが、遺構はみられない。館は、藤原秀衡の家臣、名取四郎の居城だったので、四郎丸(丸は城郭の意)が地名になったといわれる。室町末期に、伊達家家臣で名取四郎の子孫と伝える菅井和泉守実国が四郎丸四十町を知行して住んだという。天文元年菅井常国が名取四郎を討伐した功で、四郎丸に所領を与えられたともいう。■木村孝文『青葉の散歩手帖』宝文堂、2002年 からところで、仙台に住んだ頃は、角五郎は読めなかったし、四郎丸はなにやら歴史くさい地名の印象とバスの終点のイメージ。いずれも楽しい人名地名だ。こんどは人名地名を集めてみたい。■関連する過去の記事 仙台の数字が揃いました(2011年1月17日) 仙台と数字を考える(2011年1月12日)
2011.10.28
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観光パンフに出ていた。もう過ぎてしまったのだが、9月30日から10月2日まであったようだ。行ってみたかった。報道によると、のべ7万人。120分の行列待ちもあるなど、空前の人出で賑わったとのこと。UDONEXPOのURLをみると、結構楽しい。全国のうどんが集結したうどん大通り、ほろ酔い祭り、オリジナルうどん、など。稲庭うどんの里、湯沢が発信する強烈な力だ。がんばれ湯沢、がんばろう東北。
2011.10.27
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昨日(25日)最高裁第三小法廷の判決があった。■関連する過去の記事 混合診療の禁止と判決を考える(10月17日)報道によると、保険医療の安全性や有効性の確保と財源面から制限はやむを得ない、としたもの。健康保険法は混合診療を原則禁止していると解釈できる。また、混合診療を原則禁止しているとしても、患者の治療選択の自由を不当に侵害しているとは言えず憲法違反ではないと判断した。結論は妥当だと思う。また、個別意見を示した裁判官が、明解な法規定を求めたように、わかりやすい規定を設けるべきである。ちょっと気になったのは、「患者の治療選択の自由」に関する憲法判断をしたとのこと。先進医療を受ける機会を全く閉ざしたわけではないし、医療保険制度が医療の安全性に関連し、また国家財政と密接に関わるものであることから、(憲法判断をしたのだとすれば)正しい判断だと思うが、治療選択の自由なる基本的人権は、憲法のどの条項に位置づけているのだろうか。最高裁のサイトで判決文を読んでみたが、上告理由の中で憲法14条1項、13条及び25条違反が論じられ、最高裁判断では、2つの大法廷判決を引用している。これらは、昭和39年待命処分無効判決(14条の解釈)と、昭和57年堀木訴訟判決のようだ。判決は「不合理な差別を来すものとも、患者の治療選択の自由を不当に侵害するものともいえず、また、社会保障制度の一環として立法された健康保険制度の保険給付の在り方として著しく合理性を欠くものということもできない」としており、法の下の平等に配慮していることは明確だが、治療選択の自由はどの規定に根拠があるのか、そもそも憲法上の人権と見ているのかどうかハッキリしないのではないだろうか。社会保障制度と立法政策論(著しく合理性を欠くのでなければ立法裁量)については、生存権に対する配慮なのだろう。ところで、患者団体の受け止めもさまざまのようで、今回の判決を残念だとする見解もある一方で、自由診療に道を開く混合診療の解禁には反対を表明するとの意見も出ている。これは、前回記事に記したように、自由診療問題の複雑性を反映している、と思う。
2011.10.26
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天平21年(749)の春、奈良東大寺の大仏鋳造は完成に近づいていました。しかし銅造の仏体を鍍金する肝心の金が足らず聖武天皇をはじめ関係者の憂慮が深かったのです。このような時、陸奥守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が小田郡(遠田郡東部)の黄金山(現在の黄金山神社一帯の山)から産出した黄金を献上しました。このことは国内で最初の産金事件として祝福され、天皇は宣命を発し、年号を天平感宝と改め、大赦や税の免除、叙位などを矢継ぎ早に行いました。(中略)大仏様の鍍金には約60kgの金が必要で、百済王敬福が献上した最初の金の900両(約13kg)は4分の1弱に過ぎません。そこで政府は、天正勝宝4年(752)春、陸奥国多賀郡から北の諸郡の成年男子に黄金を納めさせることにして金の調達をはかりました。これにより黄金山はゴールドラッシュの到来で、谷(沢)という谷(沢)が、流水を利用して砂金を洗い取る大勢の人々で涌(湧)きかえりました。涌谷の地名のおこりでありましょう。■涌谷町観光ガイド(平成23年10月1日発行)より
2011.10.25
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名取郡生出村は、明治22年(1889)町村制実施の際に、茂庭と坪沼の両村を合併し、霊峰生出森の名をとって命名された。明治34年(1901)、宮城県の調査により、生出村は静岡県稲取村(現東伊豆町稲取)、千葉県湊村(現富津市上総湊)とともに、日本の三模範自治村に選ばれ政府から表彰された。町村制施行で生出村が成立したとき、初代町長長尾四郎右衛門は、植林をすすめ林業振興に力を入れるとともに、養蚕を副業に奨励し、村内3か所に養蚕伝習所を設置した。養蚕農家の師弟を村費で農学校に入学させ指導者を育て、農家に養蚕資金を貸し出し、また明治31年には最新式の機械を導入して製糸工場を経営するなど、村ぐるみの大事業を行った。養蚕業生産戸数は明治22年に10戸だったのが10年後には280戸になったという。表彰された生出村には、村おこし、地方改良運動の手本として多くの見学者が訪れたという。その功績に藍綬褒章を授与された村尾は、明治44年9月勤務中に58歳で没した。ところで、生出村の名のもととなった生出森は、太白山のことである。名取富士、摺鉢山とも。アイヌ語のオード(神の宿る山)から、烏兎ヶ森(おどがもり)と称されたという。これが生出(うと)となり、後にオイデとよぶようになったという。佐久間洞巌の「奥羽観蹟聞老志」(享保4年)巻之五には、太白星(金星)が落ちて山となり、山名はそれに由来すると記されている。また、孝霊天皇の御代に富士山と時を同じくして一夜のうちに出現したという。さらに、山頂に住む巨人の話もある。大昔当山に独活(烏兎)(うど)の大木があって枝葉が茂り三里四方の作物が実らぬため、村人が切り倒そうとしたが効き目がない、そこで、大同2年(807)京都から貴船明神を勧請し三昼夜の祈願の末その害を免れたという。■木村孝文『太白の散歩手帖』宝文堂、2001年 から■関連する過去の記事 仙台自慢の太白山(2010年10月9日)
2011.10.24
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現在の表示で北根、鷺ヶ森、藤松、双葉ヶ丘、北根黒松あたりは、藩政時代の北根村であった。古街道は上谷刈から朴沢を通って宮床に抜けていたのを、政宗が元和9年(1623)芭蕉の辻から、鹿島崎、堤町、北根を通って七北田宿、富谷宿への奥州街道(七北田街道)を開通させた。安永3年の風土記御用書出には、七北田村の肝入が北根村肝入も兼ね、住居は一軒もなく耕地は足軽の持分ならびに七北田村の入作地であった。北根村は明治10年代になってようやく戸数7、人口22人となった寒村であった。その後七北田村に編入され、昭和6年4月仙台市に併合された。■関連する過去の記事 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2010年10月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について)
2011.10.24
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律令国家は全国平定のため行政区として五畿七道を設け、都より国府に至る幹線道路を整備した。東北の蝦夷平定のための東山道は、陸奥東山道と出羽東山道が北上する。陸奥東山道は7世紀後半には郡山(仙台市)に朝廷の地方役所が構築され、8世紀半ばには蝦夷平定の拠点として国府多賀城が置かれた。802年には坂上田村麻呂により胆沢城が竣工、アテルイが降伏した。その後東山道は志波城まで延びている。全国の官道には30里(16km)ごとに一駅が設けられ馬が配備された。宮城県及び岩手県分では(カッコ内は比定地)、篤借(あつかし)(越河、斎川)、柴田(大河原)、小野(川崎)、玉前(たまさき)(岩沼)、名取(仙台市郡山)、栖屋(すねや)(利府)、黒川(吉岡)、色麻、玉造(岩出山)、栗原(鶯沢)、磐井(西磐井)、白鳥(前沢)、胆沢(水沢)、磐基(いわき)(花巻)である。■関連する過去の記事 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日)利府を経由して吉岡に至るのは、現在の国道4号の感覚とは離れているが、多賀城の存在を考えなければならない。そして、黒川の東山道ルートについては、利府から、小鶴沢、太田、幕柳、鳥屋、北目、大崎、舞野村に出て、奥田を経由して色麻、玉造に向かったとされる。また、黒川が現在の吉岡でないことは、元禄13年(1700年)の黒川郡駒場村山林絵図に、古海道が記載されていることから明らかである。吉岡は政宗の三男宗清が下草から元和2年(1616)に居館を移して宿駅が成立し、新しい奥州街道を造成した。吉岡宿の北端から水田を横切って善川をわたり、昌源寺門前に出て、昌源寺坂(奥田坂とも)を上り、駒場村で県道に出て三本木に至る。古海道とは、この新奥州街道に対比しての呼称と見られる。舞野観音から須岐神社に至る古海道の沿道は東北自動車道が通っている。■関連する過去の記事 セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)いま、現代の交通路を含めて並べてみると、国道4号は吉岡市街北辺を迂回してから大衡丘陵地の西裾を廻って三本木に至る。奥州街道は吉岡の街中から水田を突っ切って奥田の山中(今ではセントラル自動車)に向かい、駒場地区(須岐神社)へ。古代の推定東山道は、奥州街道とは交わらず、舞野地区から北上し現在の東北自動車道と絡み合うように北に延び、大衡ICの東側を併走し再び自動車道西側に出て(というより自動車道が一度西に振れているとも言えるが)、駒場須岐神社で藩政時代の街道と交わるという関係。次に仙台以北の街道ルートについて。天保4年(1833)の御城下町割絵図には、北山輪王寺脇の道に古海道と書き込まれており、城下に新しい奥州街道が造成されたので古海道と呼ぶようになったのであろう。また、中山古海道(古街道)、中山通とも呼ばれ、輪王寺脇から荒巻小学校を右にみて神明社のところで梅田川を渡る。段丘崖の外縁にそって進むと水の森公園。公園入口の叢塚の前を過ぎると、地域の方々が命名した秀衡街道という標識に出会う。上谷刈村風土記には御城下ならびに黒川郡への道とあり、江戸時代の交通路でもあった。公園の東縁を通り抜けると高柳川が流れており、橋のたもとに8基の石碑が立っている。目の前には陸橋加茂大橋。古街道は橋の東に続き、住宅裏に道の痕跡が残っている。街道は北環状線道を越えて七北田川に沿って進み、道路神社(道六神社、沼遺跡付近)がある。ここで七北田川を渡ると、本七北田。嚢塵埃捨録にいう昔の巣鎌(現菅間)の宿であろう。本七北田の名称は、政宗により北根を経由して新たに造成された奥州街道の七北田宿に住民が移されたためである。■高倉淳『仙台領の街道』無明舎出版、2006年 などから■参考サイト 七北田のルーツ(泉区サイト内)なお、七北田・富谷ルート以前に、根白石が奥州街道の宿場だったとの見方がある。■関連する過去の記事 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)
2011.10.23
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皆さんは仙台から車で気仙沼に行く場合、どの道を行きますか。三陸自動車道を使って現時点の最北である登米東和ICまで走って、米谷の町の交差点のスーパーで缶コーヒーでも買って、R346を米川、本吉経由で行くのが考えられる。■ 気仙沼誘導ルートの話(10年7月29日)しかし、仙台市中心部をはじめ多くの方は、宮城や泉など東北道ICから、東北道を用いて行くのではないかと思います。その場合、一関ICからR284に出て一路気仙沼を目指し東進するか、若柳金成ICから旧花泉町を抜けてR284に出るか、のいずれになるでしょう。寄らば大樹の陰でなるべく分かりやすい太い道を選ぶのなら、一関ICを選ぶことになりますが、一関市中心部を西から時計回りに迂回する新しい道を使い、東大橋、磐井病院、東工業団地を経て真滝でR284に合流するので、走行距離は長くなります。時間的にもおそらく花泉ルートが早いでしょう。そこで、若柳金成ICで降りる人が多いと思うのですが、ICから先、R284に出るまでのルートが、人によってバラバラだと思います。ある人は一度R4に出て北進、金成延年閣の北から県道を花泉に向かい往時の金沢宿の街村を通る、これも寄らば大樹派。多数派はICから東進、セブンイレブン角までは共通でしょうが、ここからが分かれます。Aさんはそのまま東へ行き若柳市街地北で岩手県に入り、本線沿いに花泉に向かい、Bさんは有賀小学校を経由して北進し、金成と花泉を結ぶ県道に出て金沢宿街村を通る、また、事情通のCさんなら、セブンイレブンから北進しますがBさんのように有賀小学校ではなく、林間の道路を抜けて花泉高校付近から本線の踏切に出てR342に出るようです。いずれにしても、花泉中心部からは植立峠を経由する山道の県道を使って川崎に出てR284に合流、北上大橋を渡った「道の駅かわさき」で休息する、という具合です。ところで私の持っている道路地図には、一関市地主町から千歳橋に出て、北上川左岸沿いに川崎(薄衣)に出るというルートに「気仙沼街道」という名が付けられています。一関から気仙沼に向かう場合の街道だったのでしょう。さて仙台から気仙沼に向かうルートに戻りますが、上記の若柳金成IC派が花泉から川崎(薄衣)に出るのは、かつての金沢宿から薄衣、千厩、下折壁の各宿を経由する気仙沼街道に近いことになります。この場合の気仙沼街道は、一関街道(石巻と一関を結ぶ。現在のR45とR342にほぼ重なり、金沢の北デイリーヤマザキから山道に入り、飯倉、五合田、細田を経て関が丘団地方面へ出たと思われる。)の金沢宿を起点とするが、起点は一関とする説もある。金沢宿から薄衣に出る街道ルートは、現在の県道(48号)よりは東の山道です。往時の金沢宿街村の東端にR342があるのですが、気仙沼街道はその東端から国道を分かれて山道に入る。昭和50年には道路改修に伴い、田の中から「右ハいしのまき左ハうすきぬ」の道標が発見された。この旧街道を進むと、県道とほぼ並行して3kmほど丘陵の尾根伝いに旧観を残して県道に合流する。付近に馬骨(うまのほね)清水がある。秀衡のお茶水を汲む人が水を運ぶのを苦にして馬の骨を入れたという。旧道はふたたび現県道をそれてやや北側をR284弥栄方面に向かうが、一里塚や湯殿山碑があるという。現在の北上大橋のやや上流に谷起(やぎ)渡船場があり、ここで対岸の薄衣宿に入った。■高倉淳『仙台領の街道』無明舎出版、2006年 を参考にいたしました。
2011.10.22
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イーグルス今季の最終戦は塩見の完投による勝利に終わった。10月19日のこと。相手はロッテだった。つまり、1988年と同じと言いたいのだ。近鉄バファローズの熱い一日だった。そして、近鉄の消滅はわが東北に新生イーグルスを誕生させてくれた。深い縁を感じてしまう。イーグルスのリーグ戦最終試合が10月になったのは、最近では2年前2009年で10月11日(対ソフトバンク)。初めてCSにも進出した。その前08年は雨天振替試合がまとめて組まれて、10月7日Kスタが最終戦(対ソフトバンク)。07年は10月5日の千葉マリンで振替試合。06年は10月1日のフルスタで、千葉ロッテとの振替試合。こうしてみると、互いに本拠地がドームでないロッテと最終試合を行うのは多くなると言えるのかも知れない。それにしても、10月19日はやはり遅い日程だ。今年は、5-2で快勝。ルーキー塩見の9勝目に、若手野手の活躍も光った。来季の勇躍を予感させる最終戦と言えた。23年前のあの長い一日を思うと、趣の大きく異なるエンディングだ。頑張れイーグルス。がんばろう東北。
2011.10.21
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青葉区の高松の名は、向小田原の高台に萬寿山がありその前に松の大木があったので、附近を高松と呼んだ。明治以後萬寿寺は荒廃し、大正末年には伽藍の跡は草地になったという。寺から東500mから登ったところに伊達家側室たちの墓所祥麟山がある。この墓所の前に寛政4年建立の庚申塔があり、その前方は庚申前といった。萬寿寺は、四代綱村が元禄9年、月畊道稔を開祖に建てた黄檗宗の寺。新しい寺を建てることは幕府から禁じられていたので、加美郡黒沢の廃寺安養寺を仙台に移して改名する形をとった。明治以後壊廃したが、平成3年本堂を新築し、ついで立派な山門も建てられた。この萬寿寺から100m南下して西に曲がり、150m進んで北上すると50mほどで、常盤台霊園に出る。終戦まで陸軍墓地と呼ばれ、戦没した将兵を祀るためもと向山鹿落に設けられていたものが、明治25年改葬移転された。以後は合葬碑となり、日清日露449柱、満州事変1137柱、太平洋戦争13744柱が合祀。高松の西、東照宮の北一帯の地名は住居表示で小松島とした。昭和50年までは、原町小田原字南光沢、字井戸沢と呼ばれていた。小松島公園にある小松島沼は昔、海老沼、海老堤といわれ、かつては灌漑用水として用いられた。この沼の島に松のある風景から、小松島と名付けられたという。沼の西にある東北高校と東北薬科大学は南光沢に建てられたので南光学園と言われ、小松島の北部に隣接する団地も南光沢にちなんで、南光台と名付けられた。薬科大学の南に天満宮の小社。もとは長命荘といわれた住宅地の中に鎮座する。文永元年に天神社が創建され、慶長16年に現在の東照宮に移転、寛文7年には東照宮創建のため再び榴ヶ岡に移転した。従って、現在小松島三丁目のこの地は、元天神と呼ばれていた。■木村孝文『青葉の散歩手帳』宝文堂、2002年 からところで、仙台で高校生時代を過ごしていない私は、友人たちが東北高校のことをナンコウと呼ぶのが不思議だった。彼らも言っていながらよく理由はわからないようで、あるとき、その人は南光台のそばだからナンコウなのスか、と漏らしていた。南光台のナンコウでもルーツは同じということになるが、南光学園に由来するのが正しい理由だろう。東北中学校が昭和4年にこの地に移転し、翌5年に設置者を財団法人南光学園と改称(昭和26年学校法人に)。帽章に南光の文字があったことから(昭和37年に東北に改める)、ナンコウで定着したのではないかと思われる。■関連する過去の記事 南光台と南光学園(東北高校)を考える(09年10月12日)
2011.10.20
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青森のNHKニュースで、大平洋金属の防災訓練の話題が出ている。八戸の会社で、今回の震災で操業ができなくなる被害に見舞われたのだそうだ。今後に備え、従業員と企業を守り、地域経済を支えようとする努力に敬服したい。ところで、大平洋金属はステンレス原料合金の生産が日本一なのだそうだ。実は、このニュースが目に留まったのも、太平洋の間違いじゃないのかと思ったのが発端だった。いや、オオヒラ・ヒロシさんか、などとも思ったが、タイヘイヨウと読むようだ。英文表記も PACIFIC METALS である。
2011.10.19
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塩竈市役所発行の住民票などの市名表記はすべて「塩竈」である。常用漢字の「なべ、かま」の意の「釜」ではなく、旧漢字の「竈」(かまど)である。市内をみると、国鉄の市内4駅はすべて「釜」、塩釜警察署、塩釜保健所、塩釜郵便局、塩釜電報電話局など。市役所の電話帳表記も、塩釜市役所だ。市は昭和57年異例の市名表記アンケートを行った。分かりやすい「釜」に統一すべきだという論と、由緒ある「竈」を残すべきとする派とが、相半ばし、これまで通りの併用で落ち着くという結果となった。ただし、市民1500人を対象にしたのだが、回答は42%どまりで、必ずしも議論は弾まなかった。変更派は若者や転入組、擁護派は中高年という色分けが辛うじて出来たくらいで、暮らしへの影響は「不便を感じない」とするものが「感じる」を大きく上回った。市は、現状で支障なしとし、従来通り公文書は「塩竈市」、ただし塩釜と表記した文書も受理する併用として、市名変更は行わなかった。ところで、いつから「塩竈」なのか。市の資料では、昭和16年市制施行時に内務省令で正式に採用された。直前の町時代は「鹽釜」で、明治初年の村当時は「鹽竈」だった、とされている。わずか1世紀の間に表記だけがクルクル変わった。実はここに塩釜の歴史的な「いわく」が隠されている。市史は、塩釜の地名発祥は製塩の故事により、その起源は多賀城創建以降のこと、とする。つまり、朝廷が住民の順撫策として殖産事業の製塩をこの地に指導普及させるため、御釜神社を創建したという。御釜神社はいま塩釜神社の末社に加えられるが、創建当時はまったく関係のない独立神社だった。ここを中心に集落全体に製塩業が広まり、各家庭から塩を焼くかまどの煙が立ちこめるようになった。創建当時は国府津と呼ばれた集落も、この風情から塩竈と呼ばれるようになった。ここでいう塩は、結晶塩のことだ。従って正式には、(1)皿に盛った結晶塩(□の中に※の部分)に(2)所有者を明らかにした旗(ケの字のような部分)を立てて(3)兵士(臣)が守る、という成り立ちの「鹽」と、かまどの多い場所を示す「竈」をあわせた「鹽竈」なのである。塩釜神社はこの文字を踏襲し、正式社名としている。市制施行時の市名表記もこの故事にならったとされるが、ただ「鹽」は塩の旧字体だから、「塩竈」となった。また57年の釜竈論争も、結果的にこの伝統を尊重し、常用漢字にはない「竈」を市の象徴として存続することになった。■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から■塩竈市ホームページの解説(この説明によるとアンケートは昭和56年7月とされています。)■関連する過去の記事(塩竈市の市名表記) 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日) 塩竃の花火大会(08年7月21日)(市名表記と神社名)
2011.10.18
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興味深い論点について最高裁の姿勢が報じられた。報道によると、混合診療禁止を不当として保険適用の確認を求める訴訟の上告審で、第三小法廷は、弁論を開かずに判決期日を25日に指定した。これにより原告側敗訴とした二審の判断が維持される見通しとなった。原告は藤沢市のがん患者男性で、腎臓がんを患い保険適用のインターフェロン治療を受け、その後に保険適用外療法も併用したため、治療費全額を自己負担とされたもの。(日経、毎日など15日の報道) 訴訟の最大の争点は、混合診療について現行法上は禁止規定がなく、国が法解釈で禁じていることの妥当性である(日経)。07年11月の一審東京地裁判決は、混合診療を保険適用から排除する規定がなく、国の法解釈は誤り、として混合診療禁止は違法とする初の判断を行って注目された。これに対して09年9月の二審東京高裁判決は、一定条件で保険外併用療養費制度があることから、同制度以外は保険給付を受けられないと解釈すべきで、混合診療は原則禁止と解するのが適当として、原告逆転敗訴とした。 混合診療の禁止とは、保険適用診療と適用外診療(自由診療)を併用した場合に、自由診療分だけでなく本来の保険適用診療分も含めてすべてが保険適用外となるルールのことだ。裁判は法の発見であり、法解釈論だから、まずは実定法規定をみよう。健康保険法には混合診療に保険適用を禁じる旨の明確な規定は、ない。(そして、このことが一審の判断の根拠でもある。) 他方で、保険医療機関及び保健医療担当規則(形式は厚生労働省令)第2章(保険医の診療方針等)に位置づけられる第18条には、「保険医は、特殊な療法又は新しい療法等については、厚生労働大臣の定めるもののほか行つてはならない。」とあり、二審判決はこれを混合診療禁止の根拠と解釈した。 そもそも、混合診療を原則禁止するという考え方を支える医療上のあるいは社会的な合理性とは何だろうか。実は、そこが難しい。肯定派(医師会が代表だろう)は、所得格差により受けられる医療に差が出ることは良くないという思想が根幹にあると思われる。解禁派(経済界か)は、保険対象の裾野を広げれば受療機会も広がるという考えが根本で、規制緩和の立場からは、新しい治療法や薬剤にいちいち国が個別に関与して適否をチェックする関与のあり方自体を忌避するのだろう。医療ツーリズムやTPPなど規制緩和の論議でも、日本医師会は混合診療の全面解禁には反対の姿勢だ。経済界サイドから保険外併用療養を届け出制にしてチェックを緩める方向の議論がなされたが、医師会側は、保険収載を前提とする従来の制度の拡大にとどめるべきとしている。 実はあまりかみ合っていない議論なのだが、これに、総医療費抑制の是非や、最近クローズアップされてきた高額療養費のあり方論議も絡むので、複雑だ。さらに、自由診療の通常分娩費の場合には、国の出産一時金支給制度と絡み合って、保険適用とすべきかどうかの論議もなされている。実証的に政策代替案の効果を研究している人もいるのかも知れないが、それ単独では保険対象の医療が何故に混合されると対象分も含めて対象外とすべきかの論拠は、かなり難しいだろう。 一患者の立場として、最新の療法をちょっと受けただけで全体がひっくり返るのは納得がいかない、という気持ちはわかる。病院から十分な説明はあっただろうが、社会的に異を唱えて議論することは、一つの意義があるとは思う。しかし、考えるべきことは、裁判所がどこまで医療政策に踏み込むべきなのかという視点だ。この点が興味深いと冒頭言ったことだ。裁判所は国家予算運営に責任を持てる立場にはないから、迂闊に判断すべきではないのだ。加えて、保険適用とするか否かには、治療や薬剤の安全性を評価するという専門的視点も含まれているのだろう。とすれば、なおさらである。現行制度に、相当程度以上の害悪性がなければ、やはり判断をするのは踏み込みすぎだ。(もっとも、反対派からすれば、個別に保険適用の適否を裁判所が判断しようというのではなく、混合診療を一律にまるごと保険適用外とする乱暴な制度を廃止すべしと言う論議であって、医療費政策や医療安全の視点から個別の療養行為や薬剤について保険適用の可否を判断することは行政裁量で構わないのだ、という再反論があるかも知れない。ただ、それにしても論拠は難しい。)願わくは、政策論としての混合診療禁止の根拠と、かりに解禁した場合の影響などを国民が納得できるようにオープンに論議してもらいたいものだ。もちろん裁判とは別の場で、だが。実定法規の明文規定の有無で疑義があるのなら、内閣と国会が責任を持って立法上解決すべきことだろう。ただ、おそらくもともと優れて政策的で裁量的な扱いだったのだろう。厚生労働省の得意(というより特異)な手法で、法による行政の視点や経済合理的思考などよりは、政治圧力の間で物事を決めてきたツケかも知れない。 ところで、生存権侵害として合憲性も争われており初の憲法判断が示される見通しというが(毎日新聞15日記事)、これは本当だろうか。下級審の判決文を詳細に読んでいないから論じられないが(時間があれば検討したい)、わざわざ憲法論議をする必要がないと思われ、判断することはないと思うし、するべきでない。がんの治療に関わることだから命に関わることとは言えよう。しかし、だからといって最高法規を持ち出して立法の誤りを指摘するのは、ほかに手のない場合とすべきだ。保険適用外でも治療の道が閉ざされたわけではない。古くは堀木訴訟で併給禁止規定が合憲とされたが(基本的には裁量論)、今回の件は、基本的に健康保険法の解釈の問題で済む。加えて、堀木訴訟のような平等権侵害の点の配慮も関係がないから、憲法判断をするまでもない、と思うのだが、上告受理した以上は判断が示されるということなのだろうか。
2011.10.17
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(前回(その2)から続く)■関連する記事シリーズ船岡と海軍火薬廠の歴史(その1)(2011年10月13日)船岡と海軍火薬廠の歴史(その2)(2011年10月14日)■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から(なお、同書の船岡海軍火薬廠は、昭和60年に新聞に連載したとのことです。従って、下記記事中の人物の年齢や肩書きは当時のものです。)9 新しい需要昭和22年の第1回統一地方選で史上最年少25歳で県会議員となり連続8期、昭和53年から柴田町長の平野博さんは、20年9月末23歳で郷里船岡に復員し、米兵の柔道教師を務めるようになる。そして、一目置かれた平野さんは、米軍労務担当将校から、米兵の規律維持のためにも、キャンプの日本人従業員組合を組織するよう頼まれる。米軍は占領政策として労組結成や育成に熱心だったのだ。21年3月船岡進駐軍要員労働組合が700人の組合員で誕生、待遇改善に一役買おうという気持ちから、また、身内の規制に協力を求める米軍の率直さに打たれて、平野さんが委員長になる。しかしキャンプ内外で一部の米兵の無法ぶりは静まらなかった。町も荒廃し、火薬廠閉鎖で行き場を失った人があふれ、盗みなどに加わった。米兵相手の特飲街も現れ、船岡はいつしか東北の上海と呼ばれた。それでも、米軍進駐は火薬廠閉鎖による地域の衰退に歯止めをかけた。基地作業員は、炊事洗濯から土木工事まで一時は1500人近くに膨らんだ。こうした需要が周辺にあふれた旧火薬廠の従業員や復員軍人、引き揚げ者などに生活の道を開いた。進駐軍の規模は縮小し、船岡でも23年頃から激減、24年には100人を割って、キャンプの要員需要も急速に落ち込んだ。他方で25年6月朝鮮動乱が持ち上がると警察予備隊が創設され、空き家となった船岡米軍隊舎跡に、26年10月警察予備隊の東京の工兵1個大隊が入営。半年で普通科大隊と入れ替わり、その後も自衛隊と改称されてからも交代が続いた。火薬廠時代の建物を流用するだけで住み心地も悪かったので特定部隊の根拠地にするには無理があった。跡地は33年6月正式に米軍から全面返還されたが、最後に駐屯した自衛隊補給支援部隊も2か月後に仙台に撤収し、広大な敷地は無人地帯にかえっていた。10 自衛隊誘致敗戦以来、米軍と自衛隊でそこそこ食いつないでいた地元船岡の人々はあわてた。しかも31年に槻木町と合併し柴田町として発展を目指す矢先のことだった。町当局や町議会は、角田出身の元海軍中将、戦後は地元選出代議士として活躍中の保科善四郎(94)(前出のとおり火薬廠の船岡立地を工作した。)を前面に建てて政府に自衛隊再配備を働きかけた。この時期陸自は全国6管区を5方面隊に組み替える機構改革を進めていた。そのタイミングに働きかけたのが奏功し、全国でただ1群しかなかった豊川市の第一建設群の3つの構成部隊のうち第103建設大隊約800人の35年度内移駐が認められ、その駐屯用地として米軍からの返還時519haあった火薬廠跡地のうち65haが大蔵省から防衛庁に移管され、36年8月同大隊を中核として、東北方面隊の工作部門を受け持つ総監部直属部隊、第二施設団がここを本拠に編成された。さらに37年には82haの用地を加えて東北地区補給処の船岡弾薬支処も旧爆薬庫地帯に配置が決まった。本隊が到着した35年3月15日、家々は日の丸を掲げ大アーチを建てた国鉄駅で花火を打ち上げ一行を迎えた。中学校庭の歓迎式で熱っぽく演説をぶったのは社会党県議団長の平野博さんだった。船岡に駐屯する第二施設団、その中核の旧第103建設大隊は昔の工兵隊で、土木建設工作が任務の専門部隊。船岡移駐に先立ち、蔵王エコーラインの先触れ工事でも力を発揮した。11 産業復興米軍は跡地全体を接収したものの、実際に使ったのはほんの一部だった。手つかずで放置された工場や倉庫などは荒廃が進んだ。24年秋になると、工業用地として活用し地域の振興を図ろうとの声が高まり、副知事、仙台通産局などによる県賠償施設委員会が発足、保科善四郎元海軍中将を会長に工場誘致連盟も組織、活発に動いた。最初に誘致話が進んだシリコン樹脂製造工場はご破算に。しかし、殺虫剤BHC製造工場進出計画が保科氏のもとに持ち込まれて実った。こうして25年1月東北共同化学工業会社が設立された。資本金3百万円のほとんどは船岡火薬廠建設工事を手掛けた大木建設の創業者大木貞助氏が肩代わりし、社長には海軍元技術大佐、会長には保科氏が就任した。県工場誘致条例の適用第一号でもあった。殺虫剤BHCは、DDTをしのぐ効力と安さのため、家庭用に爆発的に売れ、続く農薬用も大成功だった。28年には総合研究所も設立。やがてドイツから技術導入した水銀系薬剤の製造も手掛けたが、協力者の東北大教授から水俣病などの中毒情報がもたらされ、非水銀系の開発研究に力を入れ、全国に先駆けて38年イモチ病防除剤の開発に成功、内外特許をとって売り出しを図った。ところが、水銀系に固執する大手製薬会社と農民に阻まれて需要は伸び悩んだ。BHCも人体残留成分の影響から使用禁止となり、経営は窮地に。結局、北興化学と業務提携に踏み切り製品販売権を譲って危機を脱した。35年頃からは原料供給を受ける三井化学工業との提携を強化、接収を解かれた火薬廠跡地内に共同出資の新農薬工場を設立した。運営会社は、三東化学工業と命名、37年10月から操業を始めた。互いに隣接し、共同化学は粉剤、三東化学は粒剤中心で競合を避けた。跡地民活のパイオニア東北共同化学工業は、現在資本金2千2百万円、38人が北興化学ブランド中心に農薬生産にあたっている。総合研究所は48年に閉鎖され、敷地の一部はガソリンスタンドや自動車整備工場となった。保科氏のおいの保科慶美さん(68)が4代目社長として経営を引き継いでいる。船岡火薬廠の建設以来、ステンレス加工を手掛ける品川区の大江工業が作業に加わり、やがて0年5月には白鳥神社わきの水田に東北工場を構えた。終戦後も特殊技術で業績を伸ばした。40年8月には東北大江工業として独立、周囲が住宅地となったため47年1月に現在地(火薬廠時代の爆薬仕上げ工場跡地)12haを県土地開発公社から購入して移転した。いまは資本金1億5千万円、札幌にも工場を持つ中堅機械メーカーに成長し、受注先も原子力発電や宇宙ロケッット実験装置まで広がっている。12 病院のその後船岡海軍共済組合病院を引き継いだ船岡鉄道病院は41年3月閉院。建物を使って翌年4月、船岡養護学校が開校した。肢体不自由児のための独立教育施設は県内初だった。43年には秋保町拓桃園の地元小中学校分教室と公立刈田病院のベッドスクールを移転させた不忘学園の2施設が、船岡養護学校の分校となる。13 大学誘致38年3月、旧火薬廠船岡門周辺の建物を流用していた陸自第二施設団は、大沼門近くに本部隊舎を完成させた。そのため船岡門周辺の跡地7.6haが不要となった。平間新午郎町長がこれに目を付け、付属高校を全国に広げていた日大に誘致を打診した。古田重良会頭は、金を貸すから地元が学校を建てて3年間は自力で経営し軌道に乗ったら引き取って付属高校にする、と条件を出した。町長は応じようとしたが、県のある課長が、高校はいずれ県が建てる、大学はどうか、と学校法人朴沢松操学園が四年制大学用地を探している話を紹介。町はこれに乗り換えた。跡地管理の大蔵省と文部省が互いに相手が先と言い張って無駄に時間が過ぎたが、大物政治家の調整で開学予定直前の41年2月に認可内示。最初は学生応募が少なく、職員給料も出ない時もあったが、50年代から志望者が急速に延びている。14 角田とロケット技術開発我が国航空技術開発は、37年スタートの第2次五か年計画でロケット技術を重点目標に加え、新たな施設用地を秘かに検討していた。角田市議会議長だった笹森賢蔵さん(82)は、横須賀で航空機開発に従事した専門家だ。かつて東大工学部航空学科で机を並べた松浦航空技術研究所次席(のち所長)との縁で、40年7月、ロケット研究のメッカとして角田市君萱地区の旧火薬廠跡約91haを敷地に、航空宇宙技術研究所角田支所が誕生した。また、角田支所と道路を挟んだ神次郎の火薬廠跡地約81haには、53年10月、宇宙開発事業団角田ロケット開発室が開所(55年開発センターと改称)。これで、600ha近い火薬廠跡地の未利用地は、細切れの断片を除いて姿を消した。(完)
2011.10.16
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涌谷伊達氏が開いた城下町涌谷は、遠田郡の中心であり、仙北の交通や水運の要衝として繁栄した。これを支えた涌谷商人の歴史を点描してみたい。■参考 ・『涌谷町史上巻』(昭和40年) ・『涌谷町史下巻』(昭和43年) ・河北新報社編集局編『仙台藩ものがたり』河北新報出版センター、2002年 ・朝日新聞宮城支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年■関連する過去の記事(涌谷商人関係) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) (日本鉄道出資者として、砂金三十郎、横山萬五郎の名がある。) 伊達家臣団の家格と一門のプロフィール(06年3月7日)1 涌谷城下の成立伊達稙宗の第12子で外祖亘理宗隆(母の父)の嗣子となっていた亘理元宗は、気宇凝重で智勇群を抜き伊達三傑の一と称され、天正19年(1591)の仙北一揆平定に嫡子重宗とともに功績があった。同年政宗の岩出山移転に伴い、遠田郡に村替えとなる。はじめ大沢村の百々城(田尻駅東南の丘陵にあり岩出山城の南の押さえとして要地)を与えられるが、間もなく19年冬に涌谷城(大崎氏家来涌谷正右衛門居住と伝えられる)に移る。軍事上の要地のみならず、未開発の平地が開け江合川を控えて経済交通の中心となりうる地点であることから、元宗の嫡子重宗がそのすぐれた立地条件に着眼したものである。(17代当主の正彦さんは旧涌谷村の村長を務めた町政の功労者。県議を6期、公安委員長の要職も歴任された。亡父の16代胤正さんは重宗公胸像のモデルとされた。)元宗は文禄3年(1595)6月死去、城下町づくりは重宗が始め本格的な建設は慶長9年に嗣いだ三代定宗(1606年伊達姓を許される)に引き継がれた。四代宗重(1671年伊達騒動で落命)になると新田開発などで2万2千6百石の大身になり、仙台街道に延びる新町や江合川に通じる川原町が整備された。また、石巻から江戸へ運ぶ江戸廻米(かいまい)盛りのころであり、江合川沿いに蔵が建ち船着き場が栄えた。涌谷大橋からやや下流の岸(城とは反対側の駅のある方の岸)に船着き場があった。2 涌谷商人の興隆江合川舟運で栄えた涌谷商人は、維新後いっそう財力を蓄えていく。多くの分家を抱えた久惣(ひさそう)一族は、それぞれが呉服、米穀、雑貨、文房具、書籍、荒物、煙草、酒造などで繁昌した。また、明治14年創立の日本鉄道会社の出資者には、砂、横山などの涌谷商人の名が見える。分家の久保(ひさやす)は明治20年代に旅館業を始めた。だが、東北線から外れ舟運も廃れる中、涌谷は昭和中期以降衰退していく。3 久惣(ひさそう)商店屋号を久惣。初代は久道(我妻)惣五郎。18世紀の人で味噌醤油醸造に始まり、太物、呉服へと商いを広げた。久惣は御用商人であり、町政を司る検断でもあった。今風に言えば、商事会社社長かつ区長。本家であることから分家の久保より更に羽振りが良かった。また本町通り南端にある紫雲山光明院(元宗移封に伴い亘理から移った)の山門には天明飢饉の供養碑が3基あるが、うち2基の功徳主は三代目惣五郎の名。のちの天保の飢饉でも久惣と久保は粥を施した。本町通に偉容を誇った久惣の大店も今はない。涌谷町史下巻には、明治の久惣当主の文章が紹介されている。曰く、曾祖父の久道惣五郎(代々襲名のよう)は味噌醤油の商いで天保年間などに涌谷を支えた。また祖父の惣五郎は仙台大町の高甚小間物店で見習い奉公し、維新前後に今の店舗で商売を始めた、などと。4 久保(ひさやす)久道保兵衛(魯因)は1797年涌谷本町に生まれ、1855年58歳で没。久保の初代。本町通りの北端に明治期に開かれた久保旅館があったが、2001年3月で暖簾を降ろした。魯因はここで、米問屋あるいは呉服屋を営んだとされている。天保の飢饉の際(1836年)には十三代義基の命を受け庄内藩に米の買い付けに走った豪商である。また光明院山門に句碑があるが、1千5句を収めた著書「四季句集」がある。天保年間でも家業を使用人に任せる余裕があったと見られる。「樅の木は残った」の著者山本周五郎は、久保旅館の昭和29年6月20日の宿泊人名簿に載っている。「横浜市...著述業山本周五郎51」、また、文芸評論家で当時山本担当編集者の「会社員木村久邇典31」とあるそうだ。山本は新聞連載に先立ち、29年6月18日から22日にかけて、船岡、青根、涌谷などを取材し紀行文「雨のみちのく」を書いた。涌谷はどこよりも城下らしい規模を遺していた、ひさやす旅館の主人が親切で旧伊達の家従の住宅を見る機会をつくってくれた、と記している。6代目の保衛さんは昨年(おだずま注:上掲の宮城風土記に掲載された昭和58年頃)涌谷高校を定年退職された。山本宿泊当時の主人久道新治郎さんは亡くなられたが(おだずま注:昭和55年頃か)、大正時代からの日記が最近みつかり、山本さんに町内を案内したことなどが記されていた。5 桜井屋本町通り光明院近くには桜井屋がある。桜井屋も供養碑に名を残す御用商人で、1800年頃当主が城下龍淵寺の総代長を務めた。京都から招いた和尚が桜井屋に伝えたのが豆腐作りで、今や涌谷の名産となった「おぼろとうふ」の始まりである。
2011.10.15
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(前回(その1)から続く)■関連する記事シリーズ船岡と海軍火薬廠の歴史(その1)(2011年10月13日)船岡と海軍火薬廠の歴史(その3)(2011年10月16日)■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から(なお、同書の船岡海軍火薬廠は、昭和60年に新聞に連載したとのことです。従って、下記記事中の人物の年齢や肩書きは当時のものです。)5 学徒動員火薬廠の生産拡張に伴い、学生や若い未婚女性が投入された。県立角田中(旧制)は、5年生を平塚の航空機メーカーに、3、4年生は船岡の火薬廠に、1、2年生は近くの山に炭焼きに出すことに決めた。学生達にはケガが絶えず、機械に挟まれて死亡する者もいた。19年夏には、仙台二高、東北薬専、白石、角田の中学校と女学校、岩沼、鹿又実科女学校、大船渡や黒沢尻女学校などから送り込まれた。20年3月には閣議で4月から国民学校初等科以外の授業停止が決められた。文科系は既に戦地に駆り出され、火薬廠では二高生や薬専生に日常作業指揮を任せた職場もあったが、高校生の中には将校に反発し公然と敗戦を予告する風もあった。8月15日正午の玉音放送は学徒には聞きづらかったが、午後の作業は打ち切られ、作業が徒労に終わった喪失感が漂った。二高生や東北薬専生が放心の中学生や女学生を励ました。6 財産の帰趨16日午前5時半には廠長ら高級幹部がひそかに御真影を焼き捨て、施設内の一切の備品や資材の持ち出しを禁ずることとした。施設面積536.4ha、建物総数1,075棟、受電設備、水道設備、引込み鉄道専用線10.27km、電話400回線など。6年間に生産した火薬類総量は無煙火薬5,355t、爆薬25,083tで、この期間に我が国で生産された海軍用火薬類のうち、それぞれ15%、25%を占める。3つあった海軍火薬廠のうち無煙火薬と爆薬の双方を手掛けたのは船岡だけであった。占領軍に提出するため同廠が作成した在庫品目録によると、20種近い化学物質7、8百トンが挙げられ、かなりの規模の民間工場を設立できるほどの在庫量だった。また鋼材などの資材も豊富であり、これらは間もなく軍や県を通じて多くの民間企業や団体に、無償か超安値で払い下げられて復興の一翼を担った。ただし、純粋な民生向けの製品をつくる工場はとっくに機械ごと召し上げられていたため、譲渡先のほとんどが、それまでの軍需関連産業であった。専門知識を持つ技術将校や技術職員が再就職できたのに対して、製造現場しか知らない一般従業員の中には生活のメドがつかない者も多く、不公平感が残った。残余財産を収奪する不心得が横行し、大河原署員やMPがパトロールを行った。11月21日夜には、アルコールを盗みに侵入した男達と警備陣の乱闘が起き、MPの機関銃で犯人グループ3人が死亡し、52人が逮捕された。グループの中心は、戦時中連行されて戦後は放置されていた朝鮮人だった。廠内には火薬438tと爆薬582tが貯蔵されており、グレン中佐の米軍本隊が進駐した翌日から構内で焼却が始まった。火の回りが早い火薬は順調だったが、強い衝撃を要する爆薬ははかどらない。米軍は火薬庫ごと爆破したいと言い出し、同廠幹部は危険を指摘したが、結局司令部の方針として強行された。堅固な半地下式爆薬庫のTNT爆薬56tを建物ごと一気に処分しようとした。廠側の忠告で、周辺住民を全員白石川対岸に避難させた上で行ったが、破片は2km近くも飛び、北郷村神次郎地区で電報配達中の男性の頭を直撃して死亡させたほか、役場、学校かなりの民家の窓ガラスを割った。7 仙南最大の総合病院15年7月半ばに、船岡海軍共済組合病院が構内の一角に誕生した。100人を超す職員と最新設備をもち仙南最大の総合病院といわれた。一般にも開放したため住民の喜びも大きかった。柴田町の大泉二郎さん(74)(船岡町議、柴田町議を連続7期)は同廠総務部から志願して18年7月に病院職員に転じた。戦局悪化に伴い、入院患者の食料確保のため、構内の空き地を耕してイモや野菜類を植えた。空襲に備え20床の地下病院もつくった。軽症患者を医師看護婦付きで青根温泉に疎開させ、それでも足りず小原温泉に病院ごと移す準備のさ中、敗戦を迎えた。敗戦後も船岡共済病院として、患者のため自主営業を続けた。患者のため環境整備に力を入れていたことから、住み心地よさそうな施設が米軍に接収でもされたら患者はどうなるかと思い、大泉さんは、乗り込んで見て回ろうとする米兵を押しとどめ、消毒剤を振りまいて、伝染病患者がいるからといって退散させたという。病院は仙台の施設を空襲で失った国鉄に職員ごと62万人で身売りし、20年11月から仙台鉄道病院となる。仙台の鉄道病院が再建された23年11月には船岡分院となり、26年6月には結核専門の単科施設となり船岡鉄道病院と改称された。結核患者減少に伴い、41年3月31日を限りに仙台鉄道病院に統合され、船岡の医療活動は幕を閉じた。8 従業員のその後火薬廠の総務部長だった塚本寿雄さん(84)が敗戦でまっ先に考えたのは、1万人を越える従業員の再就職問題だ。一時占領軍管理下におかれてもいずれ何らかの工場として活用されるだろう、その工場に従業員たちの採用を頼む際に活用するため、従業員名簿が必要だ。塚本さんは、平塚時代から工夫を重ねて、個人別カードと50音順名簿をつくっていた。そのため、残務整理にあたった総務部の部下に保存を頼んでおいたのだが、残務整理が終わって引渡を求めると、うっかり焼却したと返答された。ところが、ウソが発覚する。32年に起きた旅役者が船岡の小学校庭で他殺体で見つかった事件で、町内に住むこの元部下が塚本さんに刑事を案内してやって来た。火薬廠時代にも多くの芸能人が慰安に訪れたことから、被害者も顔を出したのではないかということで尋ねて来たのだが、元部下が引き揚げた後で刑事が元部下宅で従業員名簿を見せてもらったことを話した。塚本さんは直ちに元部下を訪ね名簿の引渡しを求め、何とか借り出して4か月がかりで写した。数年前に、大泉さん(前出)は、火薬廠勤務時代の友人の遺族から、故人の遺志として山ほどの書類を託された。なんとその中には、塚本さんが苦労してつくった名簿類が含まれていた。その後2つの原本は厚生省援護局に渡り、厚生年金を戦前の分まで受給する際の証明資料として活用された。(次回その3に続きます。)
2011.10.14
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近代日本を牽引した重化学工業や軍需産業の厚みの少ない宮城県だが、船岡は違った。何といっても東洋一の火薬工場を抱えていた。巨大軍需施設の迎えた戦後と新しい産業の息吹など、船岡の昭和の歴史を記したい。(3回に分けています。)■関連する記事シリーズ船岡と海軍火薬廠の歴史(その2)(2011年10月14日)船岡と海軍火薬廠の歴史(その3)(2011年10月16日)■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から(なお、同書の船岡海軍火薬廠は、昭和60年に新聞に連載したとのことです。従って、下記記事中の人物の年齢や肩書きは当時のものです。)1 建設の決定昭和7年の上海事変のころから海軍内部で平塚の火薬廠以外に火薬工場を新設する話が出た。角田出身の元海軍中将保科善四郎さん(94)(終戦間際には軍務局長としてポツダム宣言受諾御前会議にも列席。戦後代議士4期。日本国防協会会長として軍需産業界のロビイスト活動を続ける。)は、当時軍務局課長の立場だったことから実家に近い船岡の丘陵地を推した。上司の軍務局長の主張する大分県なども候補に検討されたが、水の確保が容易で丘陵群が隠れ蓑になること、また冷水害に苦しむ農村の働き口という配慮もあり、12年秋に船岡に決定。柴田郡船岡村と伊具郡北郷村(現角田市)の丘陵595haに昭和14年8月海軍火薬本廠船岡支廠として開庁し、爆薬製造を始める。施設を拡充し本格的な生産体制が整った16年4月、第一海軍火薬廠と改名され敗戦まで操業した。東洋最大規模の火薬工場として戦争末期には毎日1万人近くが働き、明治以降さびれた城下町だった船岡村周辺は仙南で最も活気があるといわれた。2 軟弱地盤船岡海軍火薬廠の活動状況を示す公的記録は処分されたため残っていない。柴田町の塚本寿雄さん(84)は船岡工場の製造部長、海軍大佐で終戦を迎えたが、当時について細かく記録しておられた。船岡に開設が本決まりになったのが12年12月。翌年正月から地元と相場の5割高で水田や山地の用地取得交渉を始める。14年8月開廠すると、軟弱地盤に悩まされた。陸自船岡駐屯地の正門を入ると左手に渡河訓練場大池があり、20mほど離れた古い渡河器材倉庫の建物が、コンクリートの土台ごと池の方に傾いているのが見えるが、これは火薬廠時代の建物(従業員の更衣洗身場)。正門は火薬廠当時は大沼門と呼ばれたように、かつて沼地だった。明治の干拓事業で水田に変わったが、大沼の外、赤沼、内沼、鍋沼、小金沢沼などもかつて存在し、火薬廠が進出した頃でも池やヨシ原が敷地内に残っていた。塚本回顧録によると、整地のための土石が一晩で泥に沈む、コンクリート製倉庫が1mも沈む、など軟弱地盤によるトラブルが多かった。塚本さんは、戦後出身の兵庫県姫路郊外に帰るつもりだったが、郷里の田畑は農地解放で人手に渡り、やむなく建設や危険物解体などの会社を転々としながら家族を養ってきた。元職業軍人に対する異郷の目は温かいものばかりではなく、跡地の米軍接収が解け工場誘致議論がさかんになったとき、塚本さんが危険を解いてまわったにもかかわらず忠告が無視され、進出企業のいくつかは軟弱地盤のトラブルを追体験する羽目になった。また、有害廃液処分のため、白石川を渡り槻木地区を横切り岩沼市街地を抜けて貞山堀をまたぎ二の倉海岸で太平洋に注ぐ延長16kmの排水路(乙排水路)は、完工検査で通水しない。軟弱地盤のため埋設された管が折れたり外れたりしたのだ。工事責任者はノイローゼで自殺、一度も使われないまま、阿武隈川に放流する甲排水路だけでやりくりした。引き込み線は船岡駅からではなく大河原駅から引かれたが、線路敷設後の試運転で機関車は丘の間の切り通しを過ぎて埋め立て地に踏み込んだ途端、ガクンと傾き動かなくなったという。13年秋に工員実習生を募ったとき、地元が初めて建設中の施設は火薬工場と知り、近隣農村からも多数の若者が殺到した。試験の結果400人から50人が選ばれ、舞鶴の爆薬部で半年余りの実習を行い、14年5月に船岡に戻り、8月1日の開庁式を迎えた。3 船岡駅の変遷昭和10年の船岡村は604世帯、3705人が水害常襲地の田を耕す小農村に過ぎなかった。それが開廠1年後の15年には559世帯4745人、16年11月には町に昇格。生産がピークに達した19年には8475人(補正後実数約1万人)と倍増した。火薬廠近くの従業員は徒歩や自転車で通い、他県出身者には官舎や寮が用意されたが、近隣町から列車やバスで通う人たちの足の確保に、廠当局が最も悩まされた。通勤に最も使われた船岡駅は昭和4年地元の請願で設けられ、火薬廠から1km足らずだが、線路の反対側ホームの一方に小駅舎があるだけだった。ただ、開設当時の村長が周囲の反対を押し切って造った駅前の道路だけは幅が8間(15m)もあったが、火薬廠ができて千人を超す人が出退庁時間に集中し、線路に飛び降りて反対側に渡る状態になってしまった。16年春平塚から着任し、総務部で労務も担当した塚本中佐(前出)が仙台鉄道局に出かけ、駅舎やトイレの拡張、ホーム横断地下道の架設を何度も掛け合ったが、地下道の要求には抵抗された。仙台駅にさえ跨線橋しかないというのだ。それでも、事故が起きたら責任を取ってくれとはったりをかけて、結局跨線橋を造ってもらうことで妥協した。4 戦火を免れた工場火薬廠では、御真影や通信設備を移すための防空トンネルを本務事務所脇の杉山に、人力とツルハシで建設していた。また、海軍横須賀鎮守府は、空襲防備のため砲台建設を計画、船岡の上野山、亘理の三門山、角田の四方山を適地とした。上野山と三門山の頂上に口径12cmの高角砲を2門づつ据え付けたが、四方山砲台は整地作業半ばで終戦となった。火災や爆発時の被害抑止体制として、火薬庫や工場の建物は周囲に土塁を築き、周りは植樹による何層もの防火帯で囲んだ。本土空襲は19年6月から再開され、軍事施設や工場はB29の猛爆下にさらされた。20年3月10日の東京大空襲の夜は仙南地方上空にもB29が飛来、不忘山腹に3機が激突炎上した。20年秋には本土上陸も計画されていたというから、その前に都市や軍事施設は徹底的に破壊するつもりだっただろう。東洋一の船岡工場が無傷で生き残れたのは、KOパンチを浴びる寸前の命拾いだった可能性が濃厚だ。仙台大空襲のあった7月10日未明、海岸線を北上する敵機大編隊が通過し終えると思えたとき、突然沈黙していた三門山の砲台が火を噴いた。群れの中の一機が抜け出してきて爆弾を投下、やや仙台よりの民家が炎上したという。地元の人は、なんて余計なことをするんだ、といって顔を見合わせたという。(次回(その2)に続きます。)
2011.10.13
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慶長7年(1602)の仙台開府以来、明治元年(1868)まで266年間に焼失戸数350戸以上の大火が13回を数え、そのうち焼失戸数1000戸以上の大火が6回起こっている。○正保4年4月12日(1647年陽暦5月16日 2代忠宗)火元川内、焼失1549戸○宝永4年2月20日(1707年陽暦3月23日 5代吉村)火元支倉通北三番丁角 焼失1558戸○宝永5年壬正月24日(1708陽暦3月16日 5代吉村)火元竜宝寺門前石切町 焼失2364戸○享保12年3月16日(1727陽暦5月6日 5代吉村)火元北二番丁 焼失1525戸○宝暦2年2月6日(1752陽暦3月21日 6代宗村)火元北一番丁 焼失1527○安永5年4月17日(1776陽暦6月5日 7代重村)火元川内 焼失1553宝永5年の大火は芭蕉辻付近から西風に変わり、火炎は大町5丁目から、新伝馬町、名掛丁、二十人町、鉄砲町、南は新寺小路、さらに原ノ町を焼土と化した。昭和20年7月の戦災を除いて、仙台開府以来最大の大火であった。他の5回は、型の如く東南に燃え続け、南小泉の畑地で自然鎮火した。こうした大火を繰り返した根源は、仙台城下が広瀬川の流線に沿って展開するため、いわば宿命であった。仙台を通過する季節風は広瀬川の流線と並行するため、城下は風道(かざみち。季節風の通過方向)の直下にさらされる結果となり、発火点が北西の風土に寄るほど災害を大きくした。大正8年3月2日、電話横丁(現在の青葉通西部)から出火して707戸を焼失した南町の大火もこの例外ではなかった。仙台の城下町が季節風を横切る方向に展開するか、または政宗の希望通り榴ヶ岡に築城したなら、市街は城を中心に環状式形態をとっていたであろうから、よほど災害を軽減し得たであろう。戦後仙台の復興計画にあたり、わたし(おだずま注:下記出典筆者の三原さん)も委員を仰せつかり、この時提出した開府以来の大火の詳細な資料を参考として出来たのが青葉通、広瀬通の防火帯である。仙台城下の発展は4代綱村の元禄時代をもって頂点に達したが、それから間もない宝永4年、5年と続いた空前の大火で城下経済の中心は全滅し、これを境に、後年の宝暦、天明、天保の3回にわたる冷害による大飢饉と相まって衰退をたどったのであった。城下町の中心芭蕉の辻は、正保4年以来文政10年1月の肴町の大火まで、前後8回全焼を繰り返している。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年
2011.10.12
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■三原良吉『仙臺郷土史夜話』宝文堂、1971年 所収(昭和32.8.28河北新報夕刊)仙台城に抜け穴があったという話は、猟奇的なだけに今も時々話題に出る。それが山形に抜けていたなどと言い、慶長7年4月16日片平丁茂庭石見屋敷の堀不振に起こった小人騒動もこれに関係があると言い伝えている。それは、工事場に寝ていた小人の一人を屋敷割奉行金森内膳がしばったところ、仲間が隙を見てナワを解き、見とがめた内膳の子勘平を殺して、130余人一同に当時向山下にあった覚範寺にかけこみ、討手のため一人残らず殺された事件で、その時、古墳を利用して首を埋めたコビト塚が今もある根岸のカブト塚である。この小人たちは仙台城の抜穴工事の使役に出たもので、機密保持のため反乱を理由に始末したのだというのである。似たような話は宇都宮釣天井の俗説でも工事に従った大工を殺したと言い、姫路城では埋門工事の大工が殺されたとある。あちらの話では日露開戦の直前、旅順要塞の東鶏冠山北砲台の使役とした苦力を、司令官コンドラチェンコの命令で下の谷間に連れ出し機銃で全部始末した話があって、それこそ築城に派つき物の口碑である。とまれ小人騒動は本丸の築城が完成に近い頃の事件であり、上司を殺害して反乱を起こしたとあっては子孫断絶にも処すべき重科であるにもかかわらず全部に跡目相続を許し、扶持方も安堵されたなどの点から抜け穴に関係があると見たのであろう。大正9年8月中旬のことである。師団司令部の西南約一丁ばかりの二之丸裏山が、長雨で一部土砂が崩れ落ちてポッカリ穴が開きう、トンネルになっているのが発見された。入口に達磨仏が刻んであって、うす気味わるく誰も中へ入る者がなかったということが、旧藩主伊達邦宗編著「伊達家史叢談」巻五にあって「仙台城近くニ隧道アリ。万一ニ備ヘシモノニシテ郷六ニ通ジ居レリトノ口碑アリ。今度発見セル隧道ハ即チ口碑ニ伝ハレルモノナルカ後考ヲ待ツ」と記されている。郷六は亀岡の西、広瀬川上流の右岸で、元禄年中四代綱村公が隠し曲輪として構築した郷六御殿があった。本丸落城の際は、埋門から脱出して立退口(タツノクチ)沢を郷六へ落ちのびる意図だったという。豊後の岡城の抜穴は長さ五里というのは少し大げさだが、鹿児島城の抜け穴は磯の海岸まで十八丁、高知城のは長さ十二丁とあって、仙台城二之丸の奥から郷六までなら直線にして十五、六丁程度だから、昔の技術でもトンネル工事は可能であったろう。これも大正ごろ、キノコ取りに行って司令部南側の密林に迷い込み、フタ石のあるタテ穴を見つけ、小石を投げるとカチンと音がして、のぞいて見るに底は横穴に続いていたと本人の直話だったが、前とは別口らしい。二の丸は明治以後勤政庁、東北鎮台、仙台鎮台、第二師団司令部から米軍キャンプとなり厳重な立入禁止区域で、菊重郎(邦宗)さんの期待した後考も空しかったが、今度返還ともなれば剣つき鉄砲の番兵や白い鉄甲は姿を消し、慶長以来356年、初めて自由に踏査ができるご時世が到来したのを機に、二之丸跡総合調査などはいかがであろう。■関連する過去の記事 郷六御殿(2011年10月10日) 東北大学植物園と最上古街道跡(08年5月4日) 仙台城と最上古街道(07年11月14日)(古街道は近世以前ですが) 城砦システムとしての仙台城(07年5月29日) 大梅寺(07年5月21日) 仙台城秘密の抜け道の話(07年5月20日) 青葉城の概要と略史(06年7月1日) 仙台城を考える(06年6月28日)
2011.10.11
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蕃山の東麓にある臨済宗の大梅寺は、初め祥岩寺と称し、松島瑞巌寺中興の雲居禅師が慶安3年(1650)隠居寺として創建した寺で、それから6年後の明暦2年に根白石の奥、福岡の照岡に永安寺を開基した。大梅寺には近年まで甘泉露という有名な清水があった。永安寺の泉は今も絶えない。この二寺は、仙台城、辰之沢口、大梅寺、芋沢川、永安寺を結ぶ戦略構想の下に雲居禅師が開いたという。大梅寺の背後に東蕃山(365メートル)、永安寺の後に坐禅堂山(370メートル)の展望台と水源を持つのはそのためとある。4代藩主綱村は若いころ大梅寺に行って、ここが仙台城にとり重要な搦め手である形勢を、つくづくと観察した結果、貞享4年(1687)に大梅寺門前の東北方、郷六村の広瀬川べりに別荘を営構し、人呼んで郷六御殿と称した。総面積2町歩、高い土居でかこみ、北は広瀬川にのぞみ、三方に濠をめぐらし南に門を開いた。邸内には、楽寿園と号した屋敷、馬場や蔵など。庭には梅を集植し、田も一反歩あった。仙台城からは山越しにお裏林を経て道が付いていた。表向きは綱村の別荘であったが、寛文事件の忠臣伊東一族の嫡孫で家格着座600万石を領し、小姓頭から綱村の麻布隠邸の家老を勤めた伊東宮内祐栄の手記「節翁古談」には「肯山様郷六御屋敷御取立成られ候儀は只山川静かなる景を御ろうずるばかりの事では御座りませぬ。取立てさっした場所は仙台川(広瀬川)外に廻り、御裏林より直に御城へ山伝い往来も余所より気も付かず、最上街道は愛子口にて郷六の方は見えず、依って何ぞの時、人数かくし置くにも余所より気も付かず、つまるところ隠し郭の忍所の御心と相見え候」とある。それと仙台城の有事最悪の場合に備え、辰之口沢から郷六へ、さらに芋沢川をさかのぼり永安寺に活路を開くという想定もあり、梅も兵食のためという。六代藩主宗村もよくここに遊び、春秋には城中からお姫さんが多数の御殿女中をお供にワラビ狩りや栗拾い、キノコ取りに来た。十三代藩主楽山公慶邦の夫人八代(やよ)姫は、御三家水戸宰相徳川斉昭の姫で十五代将軍慶喜の妹であったが、慶応2年秋、向小田原松林の登米伊達家の別荘天遊館に遊び、大変気に入ったというので、楽山公から登米伊達家に所望して郷六御殿と交換、以後登米伊達家の下家敷となり、戊辰役に大手門前の登米邸の宝物を郷六屋敷に疎開したこともある。斬り込み戦術で官軍をノイローゼにした細谷十太夫のカラス組は明治元年9月旗巻峠に背水の陣を布き、官軍にひと泡吹かせようとしたが仙台藩の無条件降伏となり、郷六御殿は細谷十太夫に率いられたカラス組の一時収容所となった。維新後、郷六御殿は郷六村に払い下げられ村民17人で一人あたり一反歩余に分割し、その跡は田畑と化して井戸が一つ残っているだけ。葛岡墓地の広瀬川対岸である。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年■関連する過去の記事 東北大学植物園と最上古街道跡(08年5月4日) 仙台城と最上古街道(07年11月14日)(古街道は近世以前ですが) 城砦システムとしての仙台城(07年5月29日) 大梅寺(07年5月21日) 仙台城秘密の抜け道の話(07年5月20日)
2011.10.10
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最後はヒヤヒヤ。同点は覚悟した場面でしたが、ラズナー抑えて勝利。秋晴れの下、家族4人の観戦でした。序盤はランナーを出しながら要所を抑えていた長谷部。打線が応えます。初回の高須二塁打、4階には聖沢の二塁打と、二死からの見事な内村の三塁セーフティバント。3点リードをもらった長谷部は、5階を三人で終えて立ち直ったかに見えましたが、6回二死ついに四球を与えると、清田に二塁打を喫してしまう。3-1となって、すぐさまベンチはスパイアーに交替。ここは四球から崩れる長谷部にまだ信頼がないのだろう。しかし、ズルズルとなる前に、今季初勝利投手の権利をもって降板。その後、小山、片山、青山、ラズナー。今日はたくさん投手がみられると子どもに語っていたとおり、豪華なリレーを楽しめました。さて、試合は4-2で迎えた9回表。ラズナーが2者連続安打を喫した後に、代打塀内で送りバントの処理をエラーして、4-3なおも走者一三塁。これが冒頭に記した、同点は覚悟の場面です。代打大松は二ゴロで内村が本塁転送から三走挟殺。一死一二塁。九番根元は二ゴロで、二死二三塁に変わります。最後のバッターのルーキー伊志嶺は内野ゴロ。ショート松井がいったん前に落としてギリギリのプレーでしたが、一塁アウト。白い風船が舞い飛びました。その他にも、内村の内野安打、ライト牧田のファインプレーなども見られて良かったです。開始前には、平原綾香さんの歌と国歌斉唱も。(画像は子の食べた山崎弁当と平原さんの映像。とても見えませんが。)
2011.10.09
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わたし(おだずま注:後掲出典の著者三原さん)が中学生の頃の台ノ原は軍隊の射撃場があっただけで、家はほとんど無く、春にはスズラン秋には鈴虫が多かった。ことに秋の台ノ原は良かった。こどもたちは石油ランプのホヤを持って鈴虫を捕りに行き、一本松の根方に腰を下ろして展望を楽しんだ。その頃までは樗牛瞑想の松などといわず、台ノ原の一本松で親しまれた。北仙台の近く北山丘陵東端の鹿島ヶ崎から東照宮の在る玉田ヶ崎をかけ榴ヶ岡までを一線とした原野は古歌に知られた玉田横野で、台ノ原と向小田原をむすぶ丘陵は仙台平野一帯の低地にのぞみ、この連丘から北が延暦4年に建置された階上(しなのえ)郡であった。シナは高原を意味する。このシナの南の縁りは天平の昔、陸奥国分寺創建の時、瓦焼きの工人によって良質の陶土が発見され、地形も窯を構築するに打ってつけの好条件の上、国分寺にも近いという便利があった。後に二代藩主忠宗の時、藩窯杉山焼が台ノ原に起こったのも偶然ではなかった。平泉時代、この辺一帯は佐藤基治の所領であったといい伝え、基治は基衡の時代に一本松の近くに天満宮を建てたという。慶長6年に政宗が仙台城を築城したとき、この天満宮の社地から建築資材として百本のケヤキを伐採したという。公は仙台城完成後、その奉斎のため基治創建以来の天満宮を今の東照宮の地、玉田ヶ崎に移して新たに社殿を造営した。玉田ヶ崎は、仙台七崎の一つで玉手崎とも称したので、これを玉手崎天神と呼んだ。慶安2年、忠宗が玉田ヶ崎に東照宮を造営するに先立って、これを東林に遷宮し、さらに伊達騒動最中の寛文7年、当時品川邸に隠居中の三代綱宗が。かつてこの天神に所願の事があって、亀千代に命じ三度び遷座したのが、榴ヶ岡天満宮である。一本松の近くに今も元天神という地名が残っているのは基治の建てた当初の天満宮の地であろう。忠宗も綱村も造林に力を入れた。平泉毛越寺の杉並木は忠宗、中尊寺の表坂の杉並木は綱村の植林で、今はない塩釜街道や奥州街道の松並木も綱村時代のものであった。台ノ原丘陵は仙台城下にとって左翼の防御地帯で、忠宗、綱村相次いで杉を造林したので、後には鬱蒼たる杉の大森林となり、杉山台という地名が生まれた。ただ堤町に隣接する今の警察学校のあるあたりは藩窯があり、綱村がタカ狩りに行くために杉はその奥の方だけであった。文化元年12月レザノフが皇帝アレキサンドル一世の命を受け、仙台藩の水主(かこ)寒風沢の津太夫ら4名の漂流船員を長崎に送還し通商を申し入れたが、長崎奉行に拒絶されたのでカムチャッカに引き返し、フォストフ中尉に命じて幕府を威嚇するためエトロフ、クナシリを荒らしたとき、松平越中守定信から仙台藩の国老中村日向成義に出兵命令が下った。文化4年11月のことである。12月には千島に500名、箱館に700名出動を告げ、なお幕府から大銃を携行すべしという命令があって杉山台で演習を開始した。連日寒風の中で猛特訓を行った。この場所が明治になってからそのまま陸軍射撃場となり、現在警察学校が建っている。幕末には迫撃砲の演練をかね、藩主が臨場して打ち上げ花火がここで行われていた。幕末から明治にかけて杉山台の杉は年とともに伐採され、杉山台は名実ともになくなり、そこで杉の字を除いてタダの台ノ原と呼ぶようになった。堤焼の初期に杉山焼と称したのは杉山台の杉山であり、仙台の北に、上杉山通、中杉山通、杉山通の町名があるのは、そのいずれも北は杉山台に通ずる町であるところから生まれた町名で、かつて台ノ原は鬱蒼たる杉の密林地帯であったことを仙台市民に教えてくれる町名である。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年
2011.10.08
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寛永16年(1639)鎖国令を発した三代家光は、西国諸大名に命じて外国船の見張所を設置させた。7年後の正保3年にはこれを拡大して全国諸大名の領内に外国船見張りの番所(ばんどころ)を置かせ、合わせて海岸防備を命じた。仙台藩は二代忠宗の時で、同年、北は気仙郡唐丹から南は宇多郡今神浜まで全長50里(200キロ)の海岸に5か所の黒船監視所を新設するとともに、各番所に近い重臣の采地から軍勢をくり出し防備につくよう有事即応の態勢を完了した。従来の国境を監視する境目番所や、北上川の上下船舶を監視する川番所などに対しこれを新御番所と称したが、後に目的をはっきりさせるため唐船(とうせん)番所と称した。その5か所とは、気仙郡八ヶ森唐船番所(三陸町綾里字石浜)本吉郡泊浜唐船番所(歌津町泊崎)牡鹿郡鮎川唐船番所(牡鹿町鮎川)桃生郡大浜唐船番所(鳴瀬町宮戸)亘理郡磯浜唐船番所(山元町磯浜)5か所とも海岸段丘または岬角の最高所に方3メートルほどの土壇を築き監視所とし、そのふもとに方2間(約3.6メートル)の建物があって見張り要員の詰所とした。この監視所のあった場所を番ヶ森、ご番所山という地名を今に伝えているところが多い。要員は見張りに当たる者5名。これは直参足軽で2人一組となって監視を担当した。監視は士分1名、たいてい米の密輸を取り締まる脱穀改め役人の兼務で、その下に組士1名がいた。監視員は5日交代で中には1か月交代の所もあった。食事は所在村方の請け負いである。見張所には遠眼鏡を備え付けているところもあり、幕末には大砲を備えたところもあった。桃生郡大浜番所は宮戸島の嵯峨渓海岸にのぞむ萱野崎の最高所にあって標高76.60メートル、晴れた日には仙台城本丸からも望見しうるほど仙台城下に至近の場所であるだけに、遠眼鏡を備え付けてあった。代官、備頭(そなえがしら)への黒船発見の連絡通報は、昼間は発煙信号、夜間は火光信号とし、早船、早馬で急報する一方、村の半鐘、寺の梵鐘、太鼓をもてリレーすることに定められていた。かくして唐船番所が設けられてからほぼ1世紀近く、93年後の元文4年(1739)5月23日、まぎれもない三隻の黒船が三陸沖を南下するのが目撃され、一隻はボートを降ろして鮎川対岸の網地島に上陸して大騒ぎとなった。ロシアのベーリング探検隊のスペンベヤー司令官の率いるルチアナ号以下三隻であった。五代吉村の時で、臨検に行った小積浜の藩の役人2人はスペンベヤー司令官室で、「何やら油の如き焼酎のにおいこれある」ブランデーの馳走になり腰が抜けた。それ以外明治元年に至る222年の間見張りの足軽達は毎日青い海とにらめっこするだけだった。明治2年1月唐船番所は関所とともに全国すべて停廃となった。それから幾日もたたない1月13日、桃生郡大浜番所の役人で30歳になる大坂民記は番ヶ森の絶壁から嵯峨渓の海に身を投げて死んだ。大浜の番所はこのような悲劇をもって終止符を打った。墓は大浜海岸の松林にあって、遠閣要道清信士と刻まれている。宮城県内4か所の番所跡には最近各記念碑が建てられた。■三原良吉『仙臺郷土史夜話』宝文堂、1971年
2011.10.07
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つい二、三十年前までは(おだずま注:後掲するこの出典は昭和57年発行)狼のクボエ(仙台方言で遠吠えのこと)を実際に聞いたという年寄りが少なくなかった。医学部構内のもとの新坂通りに狼坂があり、木ノ下国分寺の西裏にオーカメ(狼)横丁の地名が残っているから昔は市内にも出没していたことがわかる。仙台周辺で狼の生息地として知られていたのは、中山ニュータウンのある中山峠、最近自然保護で問題になっている仙台城背後のお裏林であった。中山は藩政時代の伊達家猟場の一つだった所で、享保から安永まで、5代吉村、6代宗村、7代重村の3代60年間に17回巻狩りが行われ、獲物の最多記録は享保19年12月9日の、鹿134頭、猪50頭。狼は獲物として足しにならないが、タマには「内に狼アリ」としるした記録もある。中山が狼の生息地になったのは近くに七北田刑場というエサ場があったからであろう。昔は月に数回死刑囚をためておいて処刑したので、夜間狼は群れをなして刑場に取り捨てた死体を食いに現れたことは、刑場の北側片カケ山のふもと七北田川右岸に狼河原の地名を、陸測図5万分の1の地図に残したことでもわかる。また、仙台の北山町から中山峠を越えて根白石に通じる中山街道は狼の出没する名所であった。根白石の実沢、朴沢、福岡から炭薪を仙台市中に売りに来る行商人の駄んこ馬は毎日何十頭という数で、それらの人々は狼の襲来を警戒して、夕方北山の定宿に集まり、人馬一団となって村へ帰るならわしであったが、月急(がっき)坂を過ぎると、「もうそろそろござッぞ」と言ったという。狼は利口で一行をやり過ごして最後の馬を襲う習性があるため、しんがりの者は地面にモトチ(荷縄)を引きずって行くことになっていた。狼はナガムシ(蛇)が嫌いだからだと言われる。根白石では荷ナワのことを、一名狼除けと称した。も一つ狼が嫌いなのは赤ベコだといい、牛飼いが野宿するときは赤ベコを側に置くと絶対安全と言われた。昔の中山峠は夜になると、そっちからもこっちからも狼のクボエが聞こえてものすごかったという。狼は人を襲う前に何度か人間の頭上を飛び越えると言い伝えられるが、明治の初め頃、実沢の永沢善吉という人が中山街道で提灯の火が消えたので灯そうとしたトタンに頭上をサッとはね越えたものがある。見ると狼で三度まで飛び越えたが事なきを得たという。昔実沢では嫁が夜間実家に逃げ出すときは幾つかこっそり握り飯を用意しておき、道で狼が間近く吠えると、握り飯を投げ急いで通過したという。昭和20年に実沢の旧家永沢家の75歳の老母の話を聞いたが、18歳で嫁に来た頃は夜間よくクボエを聞いたし、岩崖などに毛が混じった狼のカエシ(糞)をよく見かけたと言っていた。明治35、6年頃まで台所のヨゴミをあさりに来ることもあったが、いつということなく自然と絶えたと言うが、全国的に日本狼が絶滅した時期と合っている。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年■関連する過去の記事 中山道と狼石(2011年1月13日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)
2011.10.06
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前谷地の駅から北の方に2キロばかり平野を隔てて和淵山が横たわる。平凡な一山丘だが山上の展望はこれはとおどろくほどすばらしい。標高は173.9メートルで、旭山の173.8メートルと僅差で、位置も旭山より北に寄っているのに、奥羽山脈と太平洋に対する展望は和淵山に軍配があがりそうに思われる。特に斜め右に松島湾が視界に入り、松島最大の宮戸島の全体が盆石のように眺められるのは和淵山だけではないだろうか。太古、経津主(ふつぬし)命が常陸浦から八重の潮路を分けて和淵山のふもと舩沢に舟をつないで、山上の樹零峠に宮柱太しく建てて鎮座したといい伝え、これが延喜式内社の香取伊豆乃御子神社であった。延喜式神名帳にこれを牡鹿十座の一としてあるのは、宝亀2年、桃生郡の建置以前、和淵は牡鹿郡だったからであろう。これを中世、葛西氏の五代清宗が現在和淵の町の北の山上に移したという。元来ここは大同2年に坂上田村麻呂が京都鞍馬から分霊勧請した貴舩明神の社地であった。祭神は晴雨を司る竜神クラオカの神で河上神とも称し、京都では加茂川の上流にまつられているように川の上流に祀る習わしであるから、ここは北上川の支流、迫川と江合川が集まるところだけに格好の位置であった。むかしから12月晦日、塩カツオと鮭のハラコを神前に供え、3月の18日28日の両日氏子が社家に集会してこの供え物を相饗し、4月と6月の満月の日を祭礼としていた。迫、江合の二川は社の下で対岸の神取山の崖下に突き当たって渦を巻いていたので、これを明神巻と称し、水が輪を描いていたところから、むかしは輪淵といったという。和淵はその門前町で、東浜街道の宿場町でもあり、家格召出1600石の武田氏の采地であった。西隣の前谷地は家格一族570石の西大條氏の采地で、もと和淵山のふもと山根に屋敷を構え武田氏の廟所耕徳院もここにある。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年
2011.10.05
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仙台から日本橋まで江戸道中69次の振り出しの宿場長町が出来たのは、慶長17年(1612)12月とある(石母田文書)。仙台開府から10年後のことで城下町割りに当たった金森隠岐が政宗公の命令で計画し、国老石田豊前の監督で完成した。翌月の慶長18年1月には中田と増田の宿場が同時に出来た。これは奈良時代から名取平野の山際を通過する東(あずま)街道のバイパスであったが、もともと竹駒神社の門前聚落岩沼以北に道が開けていたと見え、慶長5年7月、関ヶ原の前哨戦に政宗公が白石城作戦のとき、北目城を前進基地として21日主力を率いて同夜岩沼に宿営しているから、大縦隊が通過するほどの道路はあったと思う。城下の人馬継ぎ立て所の北目町から長町へ1里4丁、長町と中田間は34丁とある。宿場は前田村のうちで、中田は宿場名であったが、後に前田と中田は別々の字名となり、北から、長町、中田、前田、増田の道順となった。これを昔の人は、長町と前田の真ん中だから中田、中田の前田から前田、その先の方に田を増やしたから増田(よみはマシダが正しい)、その余りが上余田、下余田だ、などと説明した。寛永2年忠宗が初めて国入りの時、政宗公の命令で重臣一同は中田まで出迎えたが、以後歴代藩主が江戸参勤から帰国の際には中田に出迎える慣例となった。仙台藩主江戸参勤の道中儀衛は3500人、三百諸侯第一の豪勢さであった。仙台城出立は七ツ立ち(午前4時)で、先頭の一隊が中田の宿場に着到すると、命令がなくとも行列は先頭から次々に停止し、沿道の民家に入って朝飯をしたためる。この時、藩主の位置は長町川(広瀬川)左岸、街道に面する赤壁楼と称する茶屋で、藩主以下一門国老の面々はここで朝飯をとる。沿道の家はみな三角形のツマを表街路に向け、その下に小前(こまえ)と称するひさしをかけて柱で支えた。土間を吹き放しとして、小前下ともコマヤとも言った。土間の正面はレンジ格子、右に並んで表がシトミ戸、内が障子の戸の口を開き座敷へ通る。ここから奥へ中間、台所、勝手、納屋、閑所とつづき、座敷が街道に面するところから、お供の侍、足軽はわらじをぬげば、すぐ座敷に上がれるようになっていた。昔は仙台市中の商家も店ガマチのそとは、このように吹き放し土間の小前下になっていたもので、さしずめアーケードの元祖みたいなものであるが、中田の表通りにはこういう民家がまだまれに残っていて、見るからに昔のゆったりしたおおようさをしのばせている。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年
2011.10.04
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名取駅長オススメの小さな旅行として(パンフ)、全国に2つしかないと言われる蟹を祀る寺である「蟹王山智福院」を組み込んだプランがある。秋の味覚の松茸ごはんや、実方中将の墓、熊野三社めぐりと熊野神社の神楽鑑賞、できたての笹かま、などなど歴史と味わいの旅でなかなか興味深い。いい企画です。10月9日の日曜日で、私は仕事で行けないだろうが、とりあえずパンフで楽しもう。ところで、「蟹を祀る寺」はたしかに珍しい。プランでは法話や昔話も聞けるそうだから、参加するのが一番だが、とりあえずネットでみてみると蟹の恩返しの伝説のようだ。
2011.10.03
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イーグルスは連勝だったようだ。仕事から帰ってPCで見たら、銀次は6番で先発。ご存じ岩手のスラッガーだ。おかわり中村、T-岡田、中田翔のような、次を担う若手の主軸が出てきて欲しいイーグルス。銀次がレギュラーに定着するようになると頼もしい。さて、今日の7回表第4打席。ヒットこそ出なかったものの、平野相手に16球を投げさせた。つまり、3つのボールの外は12球ファウルで粘って、最後の16球目で左飛に倒れた。一球速報のデータだけしか見ていないので雰囲気はわからないが、平野のストレート外角球をことごとくカットしたのだとすれば、なかなかの技術じゃないか。たしか去年は初の一軍でヒット1本。今年はもう5本くらい打っているだろう。多少慣れてくれば、もっと本領を発揮してくるはずだ。楽しみだ。さて、ところで一打席のファウル最多記録は何個なのだろうか。子供の頃、ファウルは36個目でアウトという話も聞いたが...ネットで見ると、最多記録は1974年の安井(近鉄)の14本だそうだ。ちなみに、一打席で一番長く粘った(最も多く投手に投げさせた)のは、1947年太陽の松井で、19球だという。ファウルが13、ストライク2、ボール4で、最後はフォアボールだったことになる。それにしても銀次の16球(うちファウル12)は、一流の片鱗を見せた粘りと評して良いのではないだろうか。
2011.10.02
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秋田の実家にいる曾祖母が100歳になったと、ある人から聞いた。元気かくしゃくだそうで、すばらしいことだ。100歳高齢者は東北全体で、どのくらいおられるのだろうか。老人の日にちなんで厚生労働省が公表した資料がある。住民基本台帳による都道府県の報告に基づくようだ。(ちなみに国民の祝日「敬老の日」は2003年から月曜日に固定したので日付が毎年移動するが、伝統ある9月15日は「老人の日」として残っており、2001年以降は老人福祉法第5条第2項でしっかり決められているのだそうだ。知らなかった。)本年度中に100歳に到達する高齢者(明治44年4月から明治45年3月生まれ)は、9月1日現在で全国に24,952人で、前年より1,683人増加。過去最高。内訳は、男性3,728人、女性21,224人。東日本大震災の影響は特段ないとのことで、被災3県のうち宮城を除く2県では増えているという。東北各県の数は次のとおり。青森 222(うち青森市 43)岩手 338(うち盛岡市 64)宮城 326(うち仙台市 113)秋田 237(うち秋田市 51)山形 280福島 406(うち郡山市 44 いわき市 49)震災の影響については、可能な範囲で計上したというので、若干は把握できていない方もいるかも知れない。100歳以上の高齢者数では、47,756人。前年より3,307人増加。このうち、女性が41,594人で87.1%を占める。100歳以上高齢者は年々増加しており、年次推移を見ると、■昭和38年 153人(48年前、老人福祉法制定)■昭和46年 339人(40年前)■昭和56年 1,072人(30年前)■平成03年 3,625人(20年前)■平成13年 15,475人(10年前)■平成18年 28,395人(5年前)■平成19年 32,295人■平成20年 36,276人■平成21年 40,399人■平成22年 44,449人■平成23年 47,756人となっている。平均寿命の伸びやコーホート総数の増加があるのだろうが、それにしても驚異的な伸びだ。都道府県別では、東京4,176人、大阪2,479人が多く、鳥取344人が最少。人口10万人あたりの100歳以上高齢者の数では、島根が昨年に続き最も多い(75.70)。高知(67.58)、沖縄(66.04)が続く。最少は埼玉(21.13)。東北各県は次のとおり。青森 402(全国順位44位) 人口10万人あたり29.28(40位)岩手 539(35) 40.50(28)宮城 691(26) 29.43(39)秋田 479(41) 44.11(25)山形 495(39) 42.34(27)福島 780(22) 38.44(30)やっぱり(?)秋田県が人口あたりの高齢者が多い。もっとも、若者が少ないから、とも。国内最高齢は明治29年11月生まれ114歳(佐賀県)の女性で、男性最高齢は明治30年4月生まれ114歳(京都府)。ところで、この厚生労働省プレスリリースには、「地域で話題の高齢者」という情報が出ている。東北では4人の方。奥州市、遠野市、川俣町、郡山市のいずれも100歳の方で、みな元気に過ごしておられるとのこと。今でも店番をしたり、研究活動を続けたり、という方も。祖父母は他界した。母にはぜひあと30年健康でいて、100歳高齢者の仲間入りをして欲しい。私は何年かすると、2分の1成人式ならぬ、2分の1百歳。そこまでは生きているだろう。たぶん。
2011.10.01
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