仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.01.25
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カテゴリ: 宮城
宮城の大地主と言えば、桃生郡前谷地村(現在は石巻市)の斎藤善右衛門家。酒田の本間家と並び立つ日本の大地主だ。現在では、ホテル仙台プラザ隣接の斎藤報恩会(自然史博物館)としても知られている。

明治23年(1890年)に遠田郡小牛田町の会社の資産を買い受けて、一躍1120町歩の巨大地主になった。斎藤家の特徴は、旧来の人格的上下秩序に依拠する小作関係ではなく、近代的な対等の契約に基づく小作経営関係を先取りしていたことである。

明治25年(1892年)の斎藤家の「地所管理心得書」には、家族的な親愛と尊敬の関係は昔の大名と百姓の関係と同視する時代遅れの考えであること、小作人の土地使用は権利だからその収穫は当然に小作人のものであり、小作に利益なければ地所を返付する自由もあること、などが記されている。逆に、小作人が契約を守らない場合には取り上げ、また争議化すれば裁判に訴えるのが、斎藤家のやり方だった。家族的関係や力関係ではなく、契約に依拠したのである。

ところで、明治後期の凶作続きで小作人の夜逃げが続発した。しかし農民も逃げてばかりではない。小作騒動も頻発した。日本で最も小作騒動の多い県が、宮城県だったという。宮城県の特徴は、小作人同盟会という組織があったこと。小作人が合同で地主に対抗し、小作料引き下げを認めさせた。

地主も地主会を組織して対抗したので、組織と組織の対抗となり、各地で争議が起きた。最大のものは、明治41年(1908年)の桃生牡鹿10カ村による「桃生牡鹿連合小作人同盟」闘争である。斎藤善右衛門の支配下にあったものだが、面白いのは、同盟会のリーダーとなった安倍(須江村)、菅原(鷹来村)、加賀(広渕村)などは小作人ではなく小地主で、村長や県会議員を経験し、小作人の窮状を理解して村民とともに村の発展に尽くそうとした特徴があったこと。小作層だけでなく村ぐるみで地主に対抗した運動だった。

明治41年の2月に始まったこの闘争は、地主会と小作人同盟会の決裂を受けて、斎藤家が「現今の小作人は、言葉巧みに生活難を針小棒大に、新聞を利用して世の同情を求めるもの」と非難するなど、大事件に発展した。

しかし、やがて地主側の統一がくずれはじめ、最後は斎藤家も小作の要求を認める。もっとも、小作人同盟会の組織は長続きしなかった。村の有力者を中心とした村ぐるみの運動という特徴は徐々に崩れ、村内部の対立も反映して、近代的な階級闘争に変わっていく。

■参考 我孫子麟『宮城県の百年 県民百年史4』山川出版社、1999年





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最終更新日  2007.01.25 00:59:16
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