仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.10.12
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カテゴリ: 仙台
天正18年(1590年)の会津黒川城での政宗毒殺未遂事件については様々の説明がある。母の保春院が毒を盛ったとみる従来の通説に対して、江宮隆之氏も異論を抱き、毒殺説を採っていない。

事実は保春院は真に出陣を祝うつもりだったが、苦い野草のおひたしを政宗が飲み下す際に毒と勘違いしたのではないか。

保春院が政宗を廃して弟小次郎を立てるという陰謀は現実的でない。ただ、政宗は保春院がそう考えたと思いこんだのだ。また、小次郎と摺上原の合戦を共にした成実に対してまで、疑心暗鬼を抱いたのではないか。そして、謀反の火の元の小次郎を成敗せざるを得ないと考え、自ら首を刎ねた。

保春院は実家の最上義光のもとに逃げたとされてきたが、最近の発見による虎哉禅師の書状では、保春院が最上の本拠山形城に向かったのは、かなり後の文禄3年(1594年)11月とされる。それまでは政宗と共に黒川城におり、さらに政宗の転封に伴い岩出山城にも移住した。

ただ政宗自身が小次郎を斬り殺したのは確かだから、小次郎側に斬り殺されるに仕方ない事情があったとすれば、保春院が黒川城に留まっていても不思議はないのだ。事件後の政宗と伊達軍団、さらには重臣達の行動にちぐはぐな点があることを考え合わせれば、小次郎の謀反は事実あったのかも知れない。背後に、小田原参陣に批判的だった成実の影もちらつく。

■江宮隆之『伊達政宗』学習研究社(学研M文庫)、2007年

あとがきで著者の江宮氏は、朝鮮出兵の政宗から母に宛てた手紙を読む限り、毒殺は疑う、とする。また、出羽三山に願をかけてもうけた我が子を簡単に毒殺できないだろう、と。こう考えて、毒殺説を採らなかった。

また、政宗を「遅れてきた武将」と見るだけでなく、「最後の戦国武将」と評している。家康や二代秀忠が薨去した後に、政宗が決起しなかったからこそ、戦国時代が終息した、すなわち戦国に終止符を打った武将、と評価すべきはないか、というのだ。

これは心に残る表現だ。


政宗毒殺未遂事件を考える (07年6月28日)





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最終更新日  2007.10.12 01:00:48
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