仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.12.17
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カテゴリ: 東北
岩手と青森の両県にまたがって、一戸から九戸までの地名が残り、古来から謎とされてきた。諸説を分けると、鎌倉時代の牧場制によるとする説と、平安時代の征夷事業の柵戸(きのへ)に由来するとの説に分けられる。

前者の説は1508(永正5年)の八条近江守房繁の「九箇部馬焼印図」を典拠とする。糠部(ぬかのぶ)(中世の南部地方の俗称)は一の部(いちのべ)から九の部(くのべ)に分けられ、これに7か村が分属して牧場が開設され、さらに東西南北の4門(かど)に分けられたというもの。いわゆる「九ケ部四門」であり、これを確立したのが甲斐国の牧監(もっかん)であった南部氏だとする。つまり、戸の地名は南部氏の牧場経営と密接な関わりを有するものだという。

後者の説は、南部氏がこの時期に整然とした行政区域を定めたことに疑義を呈し、南部氏統治以前に既に糠部には、戸が存在したことなどを挙げながら鎌倉時代以前の社会政治上の強い衝撃に着目する。それは、弘仁年間(810-824)の文屋綿麻呂の征討事業であり、このとき爾薩体(にさたい)・都母(つも)とよばれた岩手県北部から青森県東部にかけての地域には討夷の前進基地である柵が築造され、辺境の防備と開拓が行われた。この柵に置かれた柵戸から、戸の地名が発生したとみる。征討軍の進攻に応じ南から北へ戸が順次配置され、しかもおのおのの戸が等間隔に置かれていることは、その傍証であるとする。

その後、戸の議論では、その所見を文治6年(1190年)の戸立馬(へだちうま)に求めたり、建置を延久2年(1070年)以後の鎮守将軍清原真衡の治世に置く見解などが提示されている。

しかし、いずれにしても戸の地名の由来について確かな根本史料は存在せず、推論の域を脱していない。今後厳密な史料解釈と議論の深化により新たな解明が期待される。

出典:青森県高等学校地方史研究会編『青森県の歴史散歩』山川出版社、2007年
978-4-634-24602-7

私も小学校の頃、先生には一から九まで右回りに地名があるが、どの番号だけは無い、と教えられたように思う。それは「四戸」だろう。でも、青森県三戸郡五戸町にある志戸岸という地名が、かつてあった四戸の変化したものだ、という。四戸もあったのだ。

そして改めて地図で見ると、きれいな円環状に配列されてはいない。かなり南北に長く、八と九だけが逆行した形である。牧場制か柵戸制か、いずれにしても歴史の大きな動きに従って名付けられたのだろう。





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最終更新日  2007.12.17 22:18:59
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