仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.12.19
XML
カテゴリ: 東北
関ヶ原で日和見的立場をとった佐竹義宣は、家康によって常陸から出羽国のうち秋田・仙北の6郡に転封され、水戸城を明け渡した。新領地はこれまでの3分の1であり、55万石から20万石に。家臣団のうち軽輩は常陸で帰農させ、秋田に向かったのは一門譜代あわせても93騎、総数2千人にも満たなかったという。

この6郡(秋田、河辺、山本、雄勝、平鹿、檜山)は、小大名の支配地が錯綜し税制や統治方法が地域によって異なっていたため、新領の統治は困難をきわめ、入封直後から各地で旧大名遺臣による先亡一揆が頻発した。しかし義宣はこれを根気強く鎮圧し、その上で大々的な藩政改革に乗り出していく。

まず 人事の刷新 。新参の浪人で30歳の 渋江内膳政光 を家老に抜擢した。政光は財政に明るく最新の検地技術を有していた。また義宣は、新参で近習をしていた梅津憲忠、 梅津政景 の兄弟を登用した。これらの人事には家中から猛烈な反発があり、代々家老の川井忠遠は渋江政光の暗殺も企図した。しかし企てを知った義宣は、機敏に手を打つ。川井を偽って呼び出し梅津政景に刺殺させ、さらに共謀した小野玄蕃、野上刑部左衛門、大久保長助ら門閥守旧派を処罰した。

領地が3分の1になったから家臣の給地も縮小したが、義宣は 指紙制度 で対応した。これは、家臣に指紙(さしがみ)なる開拓許可状を与え、開墾した田畑は自己の知行地に組み入れを許した。これにより家臣は原野を開拓し、20年後には1万5千石の土地が新田に生まれ変わった。

入封当時の秋田藩の石高は約20万石。その7割を家臣の給地にあてたため、藩直轄分は6万石だけで、これで藩財政を賄うのは不可能であった。さらに新田開発は家臣の土地としたから、藩財政を救うには田畑の税収以外に活路を見いだすしかない。まず、中世以来良材とされた 秋田杉

さらに、義宣は 鉱山開発 に力を入れた。中でも1606年に鉱脈が発見された 院内銀山 は、梅津政景が山奉行となり、一日に銀千枚を産したという。出身地や身分を問わず自由に鉱山労働者を受け入れた。

これらによって、義宣は藩政改革を見事に成功させた。

出典:河合敦『改革の日本史』学習研究社、2002年
4-05-401813-0

■関連する過去の日記(藩政改革関係)
仙台藩の経済と財政を考える(1 藩札) (06年7月25日)
上杉鷹山の知恵袋 竹俣当綱 (07年1月17日)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007.12.19 22:52:41
コメントを書く
[東北] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

コメント新着

おだずまジャーナル @ Re[1]:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14) 荒巻昭和人さんへ コメントありがとうご…
荒巻昭和人@ Re:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14) 団地名なつかしいですね。広告に使われて…

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: