仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2008.07.12
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カテゴリ: 国政・経済・法律
来る17日に仙台で内閣と経済界が主催する道州制シンポジウムが開催される( 案内 )。道州制に関しては論者がさまざまな意見があるだろう。かつての国会移転論議のように単なるムードだろうと見る人も相当多いと思うし、ある程度趣旨は共鳴するとしても霞ヶ関が許すはずがないと現実面で諦めている人もいよう。国会議員の本気度も相当怪しい。

私は、国のかたちの論議だと大上段に構えることは、議論の歴史的意義を指摘し改革を進める動機付けとしては良いと思うが、それだけで進めることはできないし、すべきでもないと思う。今回の道州制議論は、あくまで基本は国と地方を通じた行政改革であり、財政やサービス水準といった国民住民に切実な問題の改革というのが本義だと思うからである。かくあらねばならない方式で理想を説くだけでは各論反対の嵐を抑えきることができない。現在の苦況を脱するにはこれしかない、こう進むべきなのだ、という必要論こそが肝心なのだ。あったらいいな的なオリンピック誘致論とは全く異なるのだ。必要に迫られているのだ。

いま私は「今回の道州制論議」と限定修飾した。つまり、道州制とは何か史的唯物論的に到達すべき理想目標として推進するものではない。道州制の姿かたちも、それを必要とする事情も、古今東西様々なはずである。だから、道州制とは何か式の決めつけ的定義から出発するのではなく、むしろ現在の日本は地域も産業も外交も財政もおかしくなっている、これをただすための方策として、極論すれば道具として道州制を必要とする、という議論の方式があるべきだ。道州制の内容も様々であり得る。必要な改革を推し進めると、その姿に a kind of 道州制 が浮かび上がるのだ。

前置きが長くなった。私が考える道州制の本来の意義を整理するために、ある都道府県知事の道州制に冷淡な主張を引用しながら、議論を展開したい。

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西川一誠氏(福井県知事)の見解


(1-1) 道州の競争で経済が活性化する → 前提を無視した抽象論
(2-2) 官僚制の弊害の除去 → 権限を道州に移譲できる単純な期待論
(3-3) 行政改革 → 規模の経済が働くという算術的効率論
(4-4) 地方分権 → 導入を機に道州の条例制定権や課税樹主権が抜本的に見直される「べき」論
 事態が複雑な時ほど万能薬が期待されて登場するが、これは日本人の根本病というべきで、近年では首都移転論、リゾート構想、選挙制度改革などに共通する。
 このイデオロギー的道州制論の背景には、冷戦終結と社会主義思想衰退に伴い、我が国ではラジカリズムの行き場として、二大政党制や中央と地方などの擬似的対立や普遍的観念論が選ばれ、根本癖を伴う抽象論に向かうのだ。

2 道州制の唯一の根拠らしき現状認識として、生活圏が拡大し都道府県域が狭くなったとされるが、東京圏の実相に基づく大都市バイアスに過ぎない。この大都市中心の見方は、都市問題について圏域を拡張すれば解決するといつも誤解している。政治的無関心、犯罪発生、災害対策などの都市問題が区域拡張主義で克服できるはずがない。九州の福岡集中が緩やかなのに対して北海道は札幌に集中していることからわかるが、道州制はブロック内に新たなミニ東京集中を招く。今の道州制は大都市中心のミニ東京集中と周辺過疎を招くだけだ。めざすところは州都狙いの国盗り物語というのが本質だ。

3 国政や地方自治に最も大切な民主主義の視点が見落とされている。広大な道州になれば結局は縦割りの部局と地域ごとの出先機関を置くから、国の縦割の弊害が再生産され、また住民にとって身近でなく国と同様の政体だ。さらに、地域の政治代表の喪失につながるとともに、地域の住民自治の力を弱め、中央主権につながる。

4 イデオロギーとして見ても、依拠する歴史観や国家観は曖昧だ。経済界は連邦型道州制を主張するが、経済発展や地域活性化のために連邦制を導入した例は世界にない。むしろ国内分裂を回避するために連邦制を導入したのだ。また、EU各国になぞらえて道州制を積極評価する考えもあるが、欧州統合は世界に対抗するための国家間の統合運動であり、統一国家を分ける道州制とは異なるものであり、民族的文化的同一性の高い我が国で、経済発展のためと称して方向違いの目標と手段で中途半端に国家を分割するのは愚考である。
 我が国が目指すべきは東アジアの経済統合から国益を引き出すことだ。道州のような分立国家体制を導入すれば交渉力はさらに弱まり、産業通商政策を果たすべき国家の役割を見過ごした空想だ。

5 道州制を導入すれば政府の効率が上がり経済が活性化し地方分権も進む、とは論者が生み出した幻想に過ぎない。地方分権の正しい方向のためにも冷静たるべきだ。
 イデオロギー的道州制論は、全面的に国家をあげて実現すべきものと主張するだろう。しかし歴史を遡ると、道州制論は地方分権や自治とは全く無関係なものだ。田中義一内閣で州庁設置案(6州に官選長官)、戦後も効率的行政運営から官選知事による道州制が主張された。道州制論は、小さな政府と個人の自助自立の新自由主義に関連するから、府県の区域拡大と行革以外には関心が及ばず、だからこそ連邦制でも地域主導でも自在に提案しこだわりがない。
 これは道州制議論が国民生活や社会の実態を離れた観念的な枠組みの議論だからである。論者によって、地方分権の到達する先とされたり、逆に地方分権実現の前提とされることからもわかる。世論調査では国民の道州制支持も後退した。福井県が三大都市圏で行った独自調査(07年)でも賛成は2割に過ぎない。自分の生活に分別のある国民は、その空虚さを見抜いているのではないか。道路特定財源の混乱は政治的な観念論と官庁的な実利論に振り回され、国民生活の現実を離れたが、道州制論も同じ欠陥を持っており、これに多くの国民は気づいている。経済合理性一辺倒の観念論をもてあそぶより、政治の本質に戻り国民とともに大都市問題や地方の生活の実態に正面から取り組み、目前のなすべき課題に道筋をつける努力をすべきだ。

(「幻想としての道州制」中央公論08年7月号(1491号)からおだずまジャーナル要約)
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私は、観念論で道州制を語るべきでないとの主張には全く同感だ。しかし、現下の地方財政の苦しみと国の統治機構のムダを直視し改善に導くため、国家統治機構の解体と地域主導の統治力の向上の見地から、新たな拡大地方政府を構想することは自然と思うのに、何故に氏は道州制が中央集権と断定するのか。かえって道州制論を新自由主義的な効率主義的中央主権志向論議、と決めつけた硬直な議論だ。
現在の道州制論議の弱点や曖昧さの指摘は重要だが、もっと重要なのは統治体制と財政の改革をいかに具体的に進めるか、の視点だ。国の出先機関や外郭団体に象徴されるムダをなくして地域固有の視点で自己決定をベースに統治するという、現在の道州制論議の差し迫った必要性について、少しは配慮と関心を持って欲しい。

民主主義を脅かすものでもなく、同質的な日本社会をあえて分断しようとするものでもない。そのような議論に引きずり込んで、本当の本質を意識的にか無意識的にか回避せんとするものだ。氏の論議は、少々失礼な言い方だが、道州制になったら国体や甲子園に出る代表数が減って淋しい、ぐらいのレベルの低い議論なのだ。
(少数代表を低レベルと軽視する意図ではない。道州と政治代表制度のデザインは一応別であるし、道州制実現後も国体は47代表でやるべきとするならそうデザインすればいい。そのような議論をあえて回避して道州制を観念論と決めつける姿勢を、私は疑問に思う。政治代表法という極めて重要な事項を持ち出す場ではないのに、ことさら持ち出す姿勢を、私は甲子園論議に引き寄せて敢えて低レベルと称したい。)
州都狙いの国盗り合戦と喝破しておられるが、そんな近視眼ではなくて、むしろ政治リーダーに必要なのは今の窮状をどう救うのかプランと意気込みを示すことだ。

さて、私の主張だが、西川氏の主張と私の上記批判を踏まえ、記事を改めて整理することとする。





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最終更新日  2008.07.12 22:41:27
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